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近世日本史スレ

1■とはずがたり:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。

76とはずがたり(1/2):2006/02/06(月) 23:43:36
堂島帳合米(江戸期先物)市場分析の
  金融工学アプローチ
http://www.sfc.keio.ac.jp/sfc-forum/forumnews/news68/forumnews68-2.html

小暮 厚之
慶應義塾大学総合政策学部教授

世界で初めて「先物市場」を構築した国――それは日本だった。今を遡ること300年、江戸期の大坂堂島米会所では、米の現物と先物が自由に売買されていたのだ。ここには、高度に発達した情報伝達手段と組織化された決済手段があった。今日に残された日次のデータをもとに、金融工学的なアプローチによってこの帳合米市場(先物取引市場)を解き明かそうという研究が進められている。

世界で最初の先物マーケット

昨年来、巨大な地震や津波が相次いで発生し、未曾有の被害をもたらしたが、天災や有事の際、リスクが複雑かつ巨大化した現代社会は、例えば通貨危機などのようなシステミック・リスクにもさらされている。伝統的な保険リスクの数理解析、いわゆる保険数理学では十分にカバーできなくなっている。人間の生存に対する脅威(リスク)を取り除くために、保険と保証の分析による新しい研究方法および分析手法の構築が求められている。
我々は、大江守之教授をリーダーとするSFC21世紀COEプログラム「日本・アジアにおける総合政策学先導拠点―ヒューマン・セキュリティの基盤研究を通して」の「金融工学による保険・保証の分析」グループとして、いくつかの研究プロジェクトを実施しているが、本日はその一つである「堂島帳合米の実証研究―大江戸金融工学」の研究成果と今後の見通しを紹介したい。
「帳簿上で合う」を語源とする「帳合米」とは、先物の米のことだ。日本ではあまり知られていないが、300年前の江戸期、大坂の堂島には世界で最初の先物取引市場が成立していた。しかも、今の市場に遜色ない伝達手段と決済手段を持ち、幕府の統制下に置かれることなく自主運用していたのだ。この米会所が残した1834年から1864年までのデータを分析することで、当時の経済現象を細部まで理解しようというクリオメトリックス(計量経済史)を実践できると考えた。。
先物マーケットは、現物の価格変動リスクを回避(ヘッジ)することを主な目的として成り立っているが、そのヘッジ機能が本当に働いていたのかを江戸期のデータを用いて解明するのがこの研究の主な目的である。

デイトレードだった江戸期の先物

大坂の堂島米会所は、1730(享保15)年、8代将軍・吉宗のときに公認された。現物(正米)市場と先物(帳合米)市場があり、両市場間で非常に活発に取引されていたようだ。。
当時は、余った年貢米をお金に換えようと各藩が米を大坂に運んできた。蔵屋敷に運びこまれた米は、入札によって買い手が決まっていく。小売に回る米以外は、現物ではなく購入した証拠として「米切手」を渡された。つまり米という商品。
一方、これとは別に「建物米」という指標銘柄を指定し、これを対象とした先物取引も行われていた。 堂島には当時およそ1000人の先物トレーダーがいたとされている。各々が顧客を仮に10人ずつ抱えていたら1万人が取引していたことになる。しかも、毎日決済するデイトレードだったので、一夜にして大儲けしたり大損したりと、さぞや熱気があっただろう。。
帳合米市場には、投資家として町人のような一般人も参加していたが、米の売り手である藩は参加しなかった。藩は米切手を発行することで実際の米の入荷を待たずに銀を入手することができた。「現物を保持する諸藩がリスクをヘッジするために堂島の帳合米市場が生まれた」との従来の説は誤りのようである。
年間取引日は250日。相場は春、夏、秋と3回開かれ、満期も3回設定されていた。現代ならば「乗り換え(ロールオーバー)」が可能だが、当時はすべて清算しなければならなかった。信用リスクを考慮したゆえの制度だろう。

77とはずがたり(2/2):2006/02/06(月) 23:44:16
>>76-77

堂島の1日は、まず帳合米取引が午前8時に始まる。午前10時時点の帳合米の値を参考に、正米の寄付値段が決定し取引が始まる。正米取引は正午に終了するが、帳合米取引は継続し、午後2時に終わる。終了時刻がずれているのは、正米では処理しきれなかった情報を帳合米で調整していたためと考えられる。
また、帳合米取引が終了する午後2時に三寸ほどの火縄に火をつけ、燃え尽きる間に取引が行われなければその日の取引はすべてなかったことにする「立用(るいよう)」という制度があった。天災などなんらかの理由で市場が混乱した場合、取引はなかなか成立しない。特殊な状況下のプライスをご破算にすることで公平性を保持し、マーケットの決済システムとヘッジ機能を担保していたようだ。

広島まで40分――旗振りで米価伝達

日本最大の米市場である堂島の米価は全国に速報されていた。和歌山までは3分、京都で4分、岡山は15分、広島に至っては40分で伝わったという。江戸までは8時間かかったが、箱根の山越えには飛脚を使っていたためだ。当時としては驚くべき速度である。
これほど速く情報が伝わったのは、旗振りで伝達されていたからだ。目で見て伝えるのだから、飛脚より断然速い。中継地点は約1㎞ごとに設置され、蜘蛛の巣(ウェブ)のようにネットワークを張りめぐらせていた。
のちに望遠鏡などで覗いて「ノミ行為」をする輩も出現したため、旗振りも暗号化されていたとの記録が残っている。

個々に対応したリスク&リターン

堂島の米価については、正米は毎日の終値、帳合米は寄付値(始値)と桶伏し値(終値)の記録が現存する。当時の金銀通貨の交換比率も明らかで、これらを用いてクリオメトリックスを実践すると思いがけない事実が判明した。現代のマーケットは政治や社会の変動と無関係ではいられないが、当時はそうではなかったのだ。ペリーが来航した1853(嘉永6)年の夏相場でさえ、米価は大きく変わらなかった。一方、台風や洪水、飢饉などの天災はかなりの影響があったことがわかった。
残された堂島の取引価格データを利用してその当時の社会情勢と市場の動きを日次単位で比べる。堂島でヘッジは本当に行われていたのか、行われていたのならどのように市場を安定させていたのか、そこには最適なヘッジ比率というものがあったのか否か――。それは現代にも通じる理論となる可能性がある。
先物と現物では性質はかなり異なるが、基本的に先物は現物の将来価格だ。相関性は非常に強い。現物を持っている人が先物を買っても、同じものを買っているだけなのでリスクは下がらない。けれども先物を売れば、現物の価格が上がったとき、下がったとき、それぞれ逆の動きをする。先物をポートフォリオに入れるということは、そういう意味でのリスクヘッジとなるのだ。商品を増やせば現物と先物のポートフォリオのパターンが増える。それによって、個々人のリスクとリターンの要望をかなえることが可能となる。
ファイナンスは、突き詰めていえばリスクとリターンの関係だ。これまではリターンにのみ目が向きがちだったが、リスクのグローバル化さえ進む現代では、リスクを回避するヘッジ機能が従来以上に大切である。今後も堂島帳合米市場をさらに詳細に調べ、マーケットによってヘッジ機能がいかに担保されるか追究していく。

小暮 厚之 Atsuyuki Kogure
こぐれ・あつゆき 慶應義塾大学総合政策学部教授。1977年東北大学経済学部卒。86年イエール大学統計学部Ph.D.取得。千葉大学などを経て現職。日本銀行金融研究所国内客員研究員を兼職。


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