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近世日本史スレ

52とはずがたり(1/2):2005/02/12(土) 16:32:23
瀬戸内海の歴史
http://www.uminet.jp/movearound/history.html
(1)海運を中心に展開される瀬戸内海の歴史

 瀬戸内海は古来より、交通の大動脈となっていました。
 縄文時代以来7世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていました。その後、律令国家は陸上交通を基本にした七道の行政単位を定め、駅家などの整備を進めました。しかし、8世紀になると、物流はまた輸送力で勝る海上交通に移行し、瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなったのです。それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土軸を構成してきました。
 具体的には、古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
 そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。

 天平年間(729〜748)には、行基により、ほぼ一日航程の間隔で、室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の5泊が開かれ、古代瀬戸内海航路の基盤となりました。
 律令制においては、貢納物の積み出しは国津に限られていましたが、平安時代になり荘園制が発達するとともに、瀬戸内海航路は公租の運搬や荘園年貢の輸送の動脈として、また、大陸との交易の主要ルートとしてなお一層の繁栄を見ましたが、それに伴って海賊も横行しました。このころの主要な港は、室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、牛窓、児島、敷名、長井浦、風早、熟田津などです。
 平安時代末期になると、平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築くなど、瀬戸内海航路を整備しました。清盛はその他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備や音戸の瀬戸の開削も行ったと伝えられています。
 また、室町幕府は応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓に配され、遣明船として用いられていたと記されています。
 これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。


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