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近世日本史スレ
77
:
とはずがたり(2/2)
:2006/02/06(月) 23:44:16
>>76-77
堂島の1日は、まず帳合米取引が午前8時に始まる。午前10時時点の帳合米の値を参考に、正米の寄付値段が決定し取引が始まる。正米取引は正午に終了するが、帳合米取引は継続し、午後2時に終わる。終了時刻がずれているのは、正米では処理しきれなかった情報を帳合米で調整していたためと考えられる。
また、帳合米取引が終了する午後2時に三寸ほどの火縄に火をつけ、燃え尽きる間に取引が行われなければその日の取引はすべてなかったことにする「立用(るいよう)」という制度があった。天災などなんらかの理由で市場が混乱した場合、取引はなかなか成立しない。特殊な状況下のプライスをご破算にすることで公平性を保持し、マーケットの決済システムとヘッジ機能を担保していたようだ。
広島まで40分――旗振りで米価伝達
日本最大の米市場である堂島の米価は全国に速報されていた。和歌山までは3分、京都で4分、岡山は15分、広島に至っては40分で伝わったという。江戸までは8時間かかったが、箱根の山越えには飛脚を使っていたためだ。当時としては驚くべき速度である。
これほど速く情報が伝わったのは、旗振りで伝達されていたからだ。目で見て伝えるのだから、飛脚より断然速い。中継地点は約1㎞ごとに設置され、蜘蛛の巣(ウェブ)のようにネットワークを張りめぐらせていた。
のちに望遠鏡などで覗いて「ノミ行為」をする輩も出現したため、旗振りも暗号化されていたとの記録が残っている。
個々に対応したリスク&リターン
堂島の米価については、正米は毎日の終値、帳合米は寄付値(始値)と桶伏し値(終値)の記録が現存する。当時の金銀通貨の交換比率も明らかで、これらを用いてクリオメトリックスを実践すると思いがけない事実が判明した。現代のマーケットは政治や社会の変動と無関係ではいられないが、当時はそうではなかったのだ。ペリーが来航した1853(嘉永6)年の夏相場でさえ、米価は大きく変わらなかった。一方、台風や洪水、飢饉などの天災はかなりの影響があったことがわかった。
残された堂島の取引価格データを利用してその当時の社会情勢と市場の動きを日次単位で比べる。堂島でヘッジは本当に行われていたのか、行われていたのならどのように市場を安定させていたのか、そこには最適なヘッジ比率というものがあったのか否か――。それは現代にも通じる理論となる可能性がある。
先物と現物では性質はかなり異なるが、基本的に先物は現物の将来価格だ。相関性は非常に強い。現物を持っている人が先物を買っても、同じものを買っているだけなのでリスクは下がらない。けれども先物を売れば、現物の価格が上がったとき、下がったとき、それぞれ逆の動きをする。先物をポートフォリオに入れるということは、そういう意味でのリスクヘッジとなるのだ。商品を増やせば現物と先物のポートフォリオのパターンが増える。それによって、個々人のリスクとリターンの要望をかなえることが可能となる。
ファイナンスは、突き詰めていえばリスクとリターンの関係だ。これまではリターンにのみ目が向きがちだったが、リスクのグローバル化さえ進む現代では、リスクを回避するヘッジ機能が従来以上に大切である。今後も堂島帳合米市場をさらに詳細に調べ、マーケットによってヘッジ機能がいかに担保されるか追究していく。
小暮 厚之 Atsuyuki Kogure
こぐれ・あつゆき 慶應義塾大学総合政策学部教授。1977年東北大学経済学部卒。86年イエール大学統計学部Ph.D.取得。千葉大学などを経て現職。日本銀行金融研究所国内客員研究員を兼職。
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