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近世日本史スレ
61
:
とはずがたり
:2005/03/21(月) 02:46:44
何となく淋しいですねぇ>宗門の民主化
「お東紛争」最終決着 大谷光道氏、3月末に門首邸退去
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050320-00000005-kyt-l26
真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の故大谷光暢前門首の四男光道氏(60)が、長年にわたって使用していた境内の門首邸(内事部)を今月末、退去する。400年前の東本願寺の創建以来、同派の頂点に立ってきた大谷家の唯一の遺産相続者が本山を去ることで、大谷家と宗派側が対立してきた「お東紛争」は最終の節目を迎える。宗派は「6年後の親鸞聖人の750回御遠忌前に解決してよかった」と静かに受け止めるが、僧侶や門信徒からは「紛争が残したものは何だったのか」と問い直す声も聞かれる。
東本願寺境内西側に、「内事部」と呼ばれる建物がある。大正期の建築で、広さは延べ約4000平方メートル、部屋数は50を超す。光暢前門首の三男暢顕現門首(74)の公邸として一部を使うほかは、大半を光道氏が使用。独自の寺務所を構え、法事などを営んできた。
宗派と大谷家が対立した「お東紛争」で、光暢前門首の秘書役だった光道氏は1982年に門首継承権のある「連枝(れんし)」を解かれた。さらに光暢前門首が93年に死亡し、宗派側は2000年、「光道氏は宗派と無関係」として内事部と、聖護院別邸(左京区)の明け渡しを求めて提訴した。
昨年7月、大阪高裁で▽光道氏は3月末までに内事部を、5月末までに聖護院別邸を明け渡す▽大谷派は解決金2000万円を支払う−の条件で両者の和解が成立した。
■「言葉にしがたい」
光道氏は、今夏にも右京区に購入した土地に寺務所を移転する計画だ。寺宝のうち最高裁で大谷家の帰属が認められた蓮如上人の御影(肖像画)など300点以上は、きょうだいが相続放棄しているため、光道氏が所有しており、今月末の内事部の明け渡しに伴い、本山から運び出される。
光道氏は退去を前に、「言葉にしがたい感慨がある」と話し、宗派側は今後の内事部の使用について「長い間、立ち入れなかったので、まずは掃除と修繕をして、後は未定」という。
自ら「大谷家25代当主」を名乗り、遺産相続者でもある光道氏が東本願寺を去ることは、複雑にからみあう形で争いが繰り返された「お東紛争」の一つの決着点でもある。同派の僧侶や門信徒はどう受け止めているのか。
■もう遠い昔の話
境内で参拝者に聞くと「紛争は遠い昔の話。特に感慨はない」という声が大半だったが、甲賀市の男性(71)は「大谷家を『生き仏』とあがめるゆがんだ信仰の形はなくなったが、長い争いで得たものがそれだけだとしたら悲しい」と話した。
紛争の背景には、宗祖親鸞の血脈を引き、「宗門天皇」と呼ばれて君臨した光暢前門首(当時法主)ら大谷家と、宗政の民主化を目指す内局との間で激しい対立があった。曲折の末、宗憲(宗派の憲法)が改正され、96年に暢顕氏が象徴的な「門首」に就き、ひとまず紛争は終息した。
「紛争中は教団への不信をぬぐい去るため、積極的な布教の取り組みも目立ったが、そんな情熱は薄れている」と50代の宗会議員は話す。あるベテラン職員は「紛争最中の宗務総長が『宗門に危機感が失われたときに本当の危機はやってくる』と言ったが、その言葉を今こそかみしめたい」と話した。
■お東紛争
真宗大谷派で約20年にわたり続いた。1969年、大谷光暢前門首(当時法主、故人)が宗務行政を担う内局に無断で管長職を長男光紹氏(故人)に譲ると宣言したのを発端に、内局と大谷家が対立。国の名称・枳殼(きこく)邸の所有権移転や大谷家の手形乱発をめぐり、訴訟合戦になった。80年、光暢氏らの7億円超の借財を内局が肩代わりし、光暢氏が代表権を返上することを条件に和解。96年には本願寺維持財団の運営をめぐり、光暢前門首二男の暢順・財団理事長らが宗派を離脱した。
(京都新聞) - 3月20日8時52分更新
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