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近世日本史スレ
114
:
とはずがたり
:2008/07/29(火) 21:08:24
2年程前の記事だが。
古文書:遠野は10番目の領地 「拾戸」示す−−遠野城下町資料館で公開 /岩手
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060729-00000102-mailo-l03
◇遠野南部家が模写本を寄贈
盛岡藩祖の南部利直(三戸)が1627(寛永4)年、八戸から遠野への所替えを命じた根城南部22代直義に交付した遠野領地の集落別穀物生産高目録の模写本が、遠野南部家から遠野市に寄贈された。「拾戸(とおのへ)遠野村」との記載があり、南部利直が遠野を10番目の「戸」(領地)と見ていたことなど興味深い事実がうかがわれる。同市立遠野城下町資料館(同市中央通り)が28日から公開を始めた。
東京都府中市の東郷寺住職で、遠野南部家37代当主、南部光徹さんが「遠野市と宮守村の合併を記念して」と寄贈した。元東京大史料編纂(へんさん)所技官の宮本尚彦さんが手作業で和紙に本物そっくりに模写した。
模写本は縦約35センチ、横約183センチ。「拾戸遠野村付之目録」と題し、遠野領内51集落と佐比内(紫波)など飛び地領11集落の米や雑穀の生産高を記している。領内で最も多いのが綾織村の1082石4合で、領内外で計1万2497石8升8合としている。
「拾戸」については言われとしてあったが、文書で確認されたのは初めて。遠野の名称は室町時代までさかのぼれるため、南部利直はあえて「拾戸」と当て字することで10番目の領地を強調したかったと思われる。
同博物館学芸員の前川さおりさん(36)は「直義が遠野に入った5日後に交付されており、家臣団の禄の配分用に使われたのではないか。遠野南部家統治の始まりを告げる貴重な史料だ」と注目している。【鬼山親芳】
(2006年)7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日13時4分更新
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