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近世日本史スレ

116とはずがたり:2008/10/12(日) 19:56:16

“篤姫日記”見つかる 薩摩藩士つづった嫁入り道中
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008092790134814.html?ref=rank
2008年9月27日 13時50分

 NHK大河ドラマ「篤姫」で話題を集める天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が徳川十三代将軍家定の正室となるために薩摩から江戸に向かった道中や、薩摩藩の姫たちの動静を詳細に記述した藩士の日記などが見つかった。

 江戸の薩摩藩邸にあった日記類は、幕末の焼き打ち事件でほとんどが焼失しており、記録として極めて貴重。当時は女性についての記録も少なく、幕末史と女性史の空白を埋める重要な史料といえる。読解が進めば、篤姫の実像に迫ることができそうだ。

 群馬県高崎市の古書店「名雲書店」の名雲純一さんが今年、東京都内で入手。山本博文東大史料編纂(へんさん)所教授が鑑定した。

 日記を残したのは、薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の側(そば)役として、篤姫らの護衛や世話などをしていたとみられる仙波市左衛門(せんばいちざえもん)。妹は斉彬の指示で篤姫の女中として仕え、娘も女中となった。

 発見されたのは、一八五〇(嘉永三)−六二(文久二)年の断続的な日記六冊と、仙波家の由緒、市左衛門の業績書類の計八冊。それぞれ縦約十五センチ、横約二十センチの和紙に毛筆で書かれ、計約二千ページあった。

 「浦の藻屑」と題された日記や薩摩と江戸との間の道中記には、篤姫が、生家の今和泉家から薩摩の鶴丸城に入り、江戸に出立した時期や様子、神社など立ち寄り先、日々の天気まで詳細に記されていた。さらに供物とみられる「鮮鯛」といった文言や、贈答品らしい「西洋肌着」などの記載もあった。

 山本教授は「藩政よりも、篤姫ら女性について書かれているのは幕末の文書としては珍しい。従来の史料と対照することで、さまざまなことが分かると思う。幕末の薩摩藩士から見た藩主の家族の歴史が新たに浮かび上がるだろう」と評価している。

 <天璋院篤姫(てんしょういん・あつひめ、1836−83年)> 薩摩の島津家の分家に生まれ、島津斉彬、後に島津家と関係の深い近衛家の養女となり、徳川13代将軍家定の正室となった。だが婚礼からわずか1年半で家定が病没。その後、天璋院と称し14代将軍家茂の後見役を務めながら、江戸城大奥の女性たちをまとめた。後に江戸城無血開城にも大きな役割を果たしたとされる。生年については35年説もある。

(東京新聞)


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