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聖典引用 板
1
:
トキ
:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
上記に関連するテーマなら、広く受け付けます。また、教団、本流復活派、中立派など
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、たとえ違う立場の意見でも、お互いに尊重する寛大さ
をお願いします。
この掲示板は、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。
スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。
1703
:
さくら
:2012/12/01(土) 10:29:12 ID:e8ieIrPA
『秘められたる藭示』 谷口雅春 先生
萬教包容の藭示
キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると云ひ、大本教では丹波の綾部が世界の中心であると云ひ、天理教では大和の丹波市が世界の中心であると云ひ、天行居では周防の岩城山が世界の中心であると云ふ。世界の中心争ひも久しいものである。
併しわれは言ふ、それらは悉く皆世界の中心であると。一定の場所が世界の中心だと思つてゐるものは憐れなるかな。生命の實相の教へが最も鮮かに顕れたところが形の世界の中心であるのである。そこは最も世を照らす光が多いからである。
基督教でもイエスの教へがエルサレムに最もよく輝いてゐた時代はエルサレムが世界の中心であつたのである。天理教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は大和の丹波市が世界の中心であつたし、大本教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は丹波の綾部が中心であつたのである。わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。
誰にてもあれ生命の實相を此世に最も多く輝かせた處に吾は行きてとどまり其處が世界の中心となるのである。十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。『+』もヒノモトと讀み、卍もヒノモトと讀む。いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相を形どつたものであるからヒノモトと讀むのである。
古藭道ひとすぢで行く、基督教ひとすぢで行く、阿彌陀ひとすぢで行くと云ふやうな人があり、そのひとすぢの所に誠があらはれてゐて喜ばしいが、大抵は自教の外に他教を認め、他と混りたくない意味で云ふのであるから、自分で自分の崇める藭なり佛なりを小さく貶してゐるのが氣の毒である。
本當の藭は一つであり、他の藭と對立するやうな小さな存在ではない。
本當の古藭道は自餘の一切の教を包括するものであり、本當の基督教は自餘の一切の教へを包括するものであり、本當の佛教は自餘の一切の教へを包括するである。そして如何なる教にてもあれ一切の教へを包括する本當の實相に到達したとき『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。それは天爾の『家』であり『巣』であり『統』であつて教ではない。その家の中にあつて色々の教が生きているのである。
本當の古藭道は『生長の家』の内にあり、本當の基督教は『生長の家』のうちにあり、本當の佛教は『生長の家』の内にあり、生命の實相の顕現する所、説かるる所、讀まるる所、その悉くが世界の中心である。
(昭和七年七月七日朝藭示)」
1704
:
「訊け」管理人
:2012/12/01(土) 10:50:49 ID:???
『幸福を招く365章』60頁より謹写――
◆悪に対して悪を以てしてはならぬ
あらゆる物は神の創造であるから、すべてその実相(ほんとのすがた)は善である。若しそこに善があらわれていないならば、それは其の物から吾々自身が善を呼出さないからである。若し吾々がすべての物から善を呼び出すことに成功するならば、すべての物は「善」に姿をかえてしまうのである。善を呼出す秘密の法は、「あなたは善である。あなたは神の子であるから、悪である筈はない。悪に見えるのは私が心の中に悪を描いて見るからで、誠に申訳ございません」と、人に対してでも、物に対してでも、心の中で強く呼びかけることである。悪に対して、暴力や言葉や威嚇で対抗したり、徒(いたず)らに嘆いて見ても何にもならない。
◆悪に抗するなかれ
今のことを有り難く受けよ。今の事を素直に受けよ。この世の中に無駄な事は何一つないのである。悪しく見える事は、過去の悪しき想念の力が形にあらわれて消えて行きつつあるのである。「悪に抗する心」を起すとき、吾々は「悪」を実在として身構えするのである。「悪」を実在として観る心を起すとき、「悪」の外見的存在は、それを実在と観る心の力に支えられて、却って消えない事になるのである。相手の「悪」を見ないで、その悪と見える仮相の奥に存在する「善」を見よ。「悪」を見て瞞(だま)されないよりも瞞(だま)されても尚相手の善を信ずる者は幸福である。
1705
:
神の子さん
:2012/12/01(土) 19:08:35 ID:???
>>1700
iPhoneから打つと毎日IDが変わるんですけど、さくらさんのiPhoneはずっと同じですね
1706
:
ハマナス
:2012/12/01(土) 21:23:16 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
肉体も本来仏の現成 (『新版 生活の智慧365章』P.302)
「肉体は無い」「物質は無い」と云うことは、換言すれば、吾々は五官の感覚のよって一切の
存在を翻訳して、それを便宜上「物質」と見、「肉体」と見ているけれども、それは日常生活の
便宜上の翻訳であり、寧ろ誤訳であると云うことができると云うのである。翻訳せずに、その
実相を把握すれば、物質と見えているものは物質ではなく「山川草木国土悉皆、仏の現成(げん
じょう)」だと云うことを意味する。肉体と見えているものもそれを誤訳しなかったら、それは
肉体ではなく神の生命そのものの示現なる霊的実在であると云うことを意味する。
こうして「物質と見えているもの」が実は物質ではなく、仏の現成であり、「肉体と見えて
いるもの」が実は肉体でなく「霊体」であるとするならば、さて、何処にも物質はなく、肉体は
なく、それを物質と見、肉体と見るのは、迷妄であり、幻想であり、誤訳であると言うことが
できるのである。「物質は無い」「肉体は無い」と云う意味はこのような意味なのである。
感謝合掌
1707
:
ハマナス
:2012/12/01(土) 21:52:11 ID:x2zmnlqw
『生命の實相』第38巻 幸福篇下 P.158より謹写
もっともっと気高く生きよう、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。
他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば、
愛が自分に還って来る。
悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。
汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥って地獄へと墜落せん。
感謝合掌
1708
:
ハマナス
:2012/12/01(土) 22:29:22 ID:x2zmnlqw
光明法語〈道の巻」谷口雅春先生著作集 第1巻
十二月一日の法語 去私すなわち神
「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を誤りなく聴くことが出来ますように。あなたの
み心が私の心となって顕れてまいりますように。我(が)をなくならしめ給え。わたしの
行いがあなたの行いでありますように」。これが私の祈りである。我がなくなったとき、
其処に神が顕れる。神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。悪しき
ものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。私心を去ったとき唯円満完全
のみがあらわれる。あまり自分でたくまぬが好い。
感謝合掌
1709
:
さくら
:2012/12/01(土) 23:01:14 ID:e8ieIrPA
到彼岸の藭示
谷口雅春先生
『いのちのゆには』の藭示
見眞道場(いのちのゆには)とは眞(まこと)を見はす齊めの場である。『眞(まこと)』とは『生命の實相(せいめいのまことのすがた)』のことである。齋めるとは迷ひを除くことである。人は藭の子であるから、その實相を見はせば病なく、悩みなく、死なく、一切の不幸は無い。人の世は、藭の子と藭の子とが相寄つて造つてゐる世界であるから、その眞實の相があらはれれば、人と人、階級と階級、國と國との争ひも戦ひも自然に消える。
實相をさとつた人が少ないために皆が苦しむのである。假相を實相だと思ひ誤り、皆が苦しんでゐるのが可哀相であるから、さきには智慧の光で迷を照破するために、聖典『生命の實相』を造らせたのである。これを讀むだけで救はれる人は餘程藭縁の深い人達である。此の藭縁をおろそかにせずに人に傳へて尚々多くの兄弟を救ふやう協力せよ。人はすべて藭に於て兄弟である。人を救ひ道を傳へようと思へば、それが愛即ち藭心であるから、その人に藭は偕にありて藭の言葉を其の人に話さすのであるから、自分はまだ人に話すだけの力がないなどと思はず、其の時に『生長の家』について思出したことを話せば、それが種子となつて相手が救はれる。人は種子を播きさへすれば好い。教への種子は藭が人の心の中へ吹き込むから、思い出すままに語ればそれで相手が救はれる。人ひとりでも救ふのは藭の前に大いなる仕事である。
此の事はだいじである。本だけ讀んで悟れる程の境に達してゐない人のためと、人を救ふために尚一層深く知りたい人のために、智慧の光に、愛の温かさを加へて色々世話をやくやうに智と愛との十字で曼陀羅を織らせるのが見眞道場(いのちのゆには)である。これから人を救ふための天使の靈の宿つてゐる善き人たちが諸方から此の道場へ集まつ来て、奇蹟(てほん)を此の道場(ゆには)で見せる。愛の心で来るものは藭徳を受けて歸るが、審判く心や素見し心で来るものは藭と心の波長が合わぬから其の心が直らぬうちは藭徳は受けられぬ。
(昭和七年三月十四日藭示)
1710
:
さくら
:2012/12/01(土) 23:16:00 ID:e8ieIrPA
『生活と人間の再建』 谷口雅春先生
「 光に對して眼をひらけ
人は罪を犯したが故にとて、藭に跪いてその赦しを求めるのであるが、罪とは果して何であるか。罪とは實相に對して目をつぶつてゐることであつて、それは眼をつぶつた目に光の存在しないと云ふことにすぎないのである。
それは罪といふ實物が存在するのではなくして、光に對して目をとぢてゐることだけの消極的状態にすぎないのである。吾々は唯目を開けば好いのである。ただ赦せばよいのである。餘りに赦す心なく、心のレンズを絞るから光が入らないのである。自分自身の心を小さく絞ることをやめよ。」
拝
1711
:
a hope
:2012/12/02(日) 10:24:14 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう
♦愉快な生々(いきいき)した人になれ
何よりも吾々は人らしい人になることが必要なのです。
神の子の生活と云うのは別に人を離れて神の子の生活があるのではございません。
それでは人らしい生活と云うのはどういう生活であるかと云うと、お釈迦さんは、
「笑うべき時に笑わず、悦ぶべき時に歓ばず、慈心(なさけごころ)を起すべき時に慈心を起さず、
悪を作(な)して恥じず、善を聞いて意(こころ)に著(つ)けない人は確かに人らしくない人である。」そして又こう云われた。
「笑うべき時に笑い、歓ぶべき時に歓び、悪を作(な)して恥じ、善を聞いてそれを意(こころ)に感銘する者は確かに人らしい人である。」
愉快に楽しく生々していることは、確かに人間にとっての美徳であるのである。
美徳と云うのは美しい徳だと云うことである。
徳と云う字は「直心(じきしん)を彳(ぎょう)ず」と云うことを文字に組み合わせたものである。
直心と云うのは、素直にそのままの心を出すことである。
即ち笑うべき時に笑うことである。歓ぶべきときに歓ぶことである。
なさけの心を起すべきときに、素直に可哀そうだと思って救(たす)けてやることである。
歓びと云うものは、身体(からだ)の血のめぐりをよくし、勉強や仕事をする力を増し、
悲観したり気が鬱(ふさ)いだリしている人にはとても及ばない良い考えを起させてくれるものである。
日本人は、古くから、「喜怒(きど)、色に現さず」と云って歓びがあっても喜ばない、怒りの念が起こっても
其(そ)の怒りを顔にあらわさないことを美徳としてきましたが、これは大変な間違いだったのです。
多くの病気は、心の中に持っているよろこびや悲しみを形にあらわさないために起こるのです。
怒(おこ)ることは感心しませんが、素直な気持で、何でも心に思っていることを出すようにしていますと、
心にものがたまって腐ることがありませんから、怒(いか)ることも自然になくなるのです。
何でも心を自由にしている人間の実相は愉快なのが本当ですから、愉快に楽しくなるほかはないのです。
常にニコニコ微笑している者は身体(からだ)も達者であります。微笑とは「ほほえみ」です。
「頬」に何となく嬉しさの笑(わらい)が浮かんでいることです。
「ニコニコ健康法」を機会ある毎におやんなさい。人間は愉快な時にも笑いますが、笑っていると愉快になるのです。
マドリッドには「ラーフ・キュアー」(ニコニコ治療)の病院がありました。
そこでは普通の医療で治らない人たちが、入院して毎日鏡を見て笑う稽古をするのです。
どうしても笑わないヒステリーの患者などは、唇と歯の間に燐寸(マッチ)の軸木(じくぎ)をバネのように突込んで、
その形が可笑しいと云って笑わせたりします。わらっているとズンズン健康になってくるのです。
(つづく)
1712
:
神の子さん
:2012/12/02(日) 13:44:08 ID:jBAYE4o2
>>1705
iPhoneの設定もいじれない情弱乙
1713
:
「訊け」管理人
:2012/12/02(日) 17:57:26 ID:???
>>1712
は、『生命の實相』(和解例外篇)よりの謹写?
二日の経言――
心の独立を得る言葉
自分は神の子であるから、今自己の生活を、意識的に自分自身で支配するのである。自分は今より自分の考えようと思う事物をのみ考える。自分は自分の生活に何事が湧いて来ようとも自己の心を支配することによってそれを支配することが出来るのである。吾等は自己の思想を日に日に一層よきものたらしめ、創造を司る宇宙霊が、吾等に一層幸福なる状態に此の世界を創造して呉れることを信ずる。吾等は至上の智慧に導かれんがために、真理についてのみ考えるのである。吾等は、あらゆる智能に優った神的平和を獲(う)るために信仰の事についてのみ考えるのである。
吾れは今愛の霊に充たされている。吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。吾れは今心を開いて至上なるものの感情を胸に受けているのである。吾れは今意識的に愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。吾れは今神の御側(みそば)にはべって、神が吾が力を新たならしめたまうのを待っている。吾が心は今神の上にのみ注がれている。それ故に、吾れはすべての人々に対して、又自分自身に対しても平和なのである。如何なる禍も自分の上には降り濺(そそ)がない。愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。吾れはいま吾がいのちが神の子であることを知るが故に、無限なる者の力をうけて歩むのである。吾らは神の子として生きて決して奴隷の如くには屈従しない。われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかすのである。今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ている事を感ずる。吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。吾れは強し。吾れは今生命を愛とを吾が裡に感ずる。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1714
:
ハマナス
:2012/12/02(日) 22:57:55 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
「肉体」とは「霊的実在の誤訳 (『新版 生活の智慧365章』P.303)
霊的実在のみが“本当に在る”のである。それを物質と見るのは誤訳に過ぎない。誤訳の文章は
あるかのように見えても、“本当のもの”を表わしていないから、それが表わす意味のものは
「本来無い」ものを「ある」かの如く表現しているに過ぎないのである。「物質はない」「肉体は
ない」と言うのは。そういう意味なのである。
誤訳には何等本当の実質はあり得ない。それと同じく、物質には何ら本当の実質はあり得ないので
ある。従って肉体、そのものもただ誤訳者たる “心”の表現であるほかの何ものでもないのである。
訳者が異なれば誤訳の程度が変わって来て、多少「原文」の意味をあらわして来るように、“心”が
多少真理を理解すれば、多少「実相」の本当の姿がわかって来て、肉体にも、より多く実相の完全な
有様を表現することになるのである。それが即ち、『生命の實相』を読んで真理をさとれば肉体の
健康度が改善される所以である。
感謝合掌
1715
:
a hope
:2012/12/03(月) 07:52:02 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう
♦人の欠点を見るな
常に愉快でいるためには人の欠点を見てはなりません。
人間に有りがちな最も悪い癖は、人の欠点(よくないところ)を見る癖です。アラサガシの癖です。
人生を不愉快にする一番悪い癖は、このアラサガシであります。
家(うち)の中に一人、此のアラサガシの癖を持った人がいますと、その家庭が面白く愉快になりません。
団体の中に一人、仲間のアラサガシをする人があると其の団体はバラバラに仲間われがしてしまいます。
人間は、その人の欠点を見つけて、いくらその欠点をあばき立てたからと云って、
それによって其人(そのひと)の欠点がなくなる訳ではありません。
何でもみとめれば認めるほどハッキリあらわれるのが心の法則ですから、
欠点をみつければ見つけるほど、その欠点は一層大きくあらわれてまいります。
美点(よいところ)をみとめればみとめるほど美点があらわれてまいります。
ヤミだ、ヤミだとみとめていると、いくらでもヤミが出て来ます。
ヤミなんかみとめないで、ヤミと云う言葉さえもなくすればヤミが出て来なくなるのです。
これが心の法則です。
「悪いもの」や「善くないもの」があると云うことをみとめることは、
その悪いもの善くないものにこちらから力を添えてやるようなものです。
欠点をなくするには欠点をみとめないで、美点のみをみとめて行けばよいのです。
善いもの、美しいもの――調和、平和――こんなもののみが本当はあるのです。
悪いもの、醜いもの、貧弱なもの、不調和なもの、争いや、いさかいなどは神がつくらないから本当は「無い」のです。
その無いものがどうして現れるかと云うと、それは「みとめる」心の力で現れて来るのです。
たとえば、「あいつと自分との間には争いがある」と認めてばかりいますと、屹度(きっと)争いが現れてまいります。
今まで世界に起った戦争はみな、この「争い」を認めた為に、争いが益々大きくなり、ついに戦争になったのであります。
家庭の仲でも面白くない事が起こったり、家族同士仲が悪くなったりするのは、互いにその欠点を見つけて、
悪いことを「ある」としてそれを言葉に現すからなのです。
(つづく)
1716
:
「訊け」管理人
:2012/12/03(月) 11:34:12 ID:???
三日の経言――
観音妙智観
吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力の表現であると観ずる。み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもりたまう瞳である。梢に鳴る風の音(ね)、小川の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。自然界の凡ゆる力は吾れを生かそう生かそうとしている力の顕れである。吾が住む世界は最早未知の世界ではないのである。吾れは此の世界を理解し、此(この)世界は吾れを理解している。
されば吾れは今より恐るるところはないのである。吾れはいま宇宙に偏在し給う隠れたる力の泉を汲む。吾れはいま宇宙の凡ての力と調和している。吾れはいま真(しん)に『愛』そのもの『智慧』そのものに導かれて平和の道を歩んでいるのである。観音経には、
『或(あるい)は怨賊(おんぞく)の繞(かこ)みて、各々刀を執(と)りて害を加うるに値(あ)わんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、ことごとく即ち慈心を起さん。呪詛(じゅそ)諸々(もろもろ)の毒薬もて身を害せんと欲する者あらんにも、彼(か)の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて本人に著(つ)きなん。若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利(と)き牙爪(げそう)の怖るべきあらんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、疾(すみや)かに無辺の彼方に走り去らん。』
と書かれているのである。観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、宇宙を育みたまう大慈悲である。吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、吾れに抗(さから)う力は何処にもないのである。観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、吾れを導きたまい、吾れに新しき生命を与えたまう。観世音の妙智力は全てのものに宿り給う。それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。吾れ観世音菩薩に感謝し奉る。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1717
:
さくら
:2012/12/03(月) 14:58:55 ID:KZaB1vfg
「静思集」
谷口雅春先生
「寂静にして鳴るなり」このことを悟らざる人の多きを悲しむ。
『智慧の言葉』に「縛られて自由自在」とあるのはこのことである。普通は、縛られていたら自由自在ではないと思う。人生の苦悩は其処から生れる。人生は本来「自由」なる生命が「縛り」(時空の制約)の世界にあらわれたのである。縛られて自由自在「一即多」を悟った境地である。そこに坐りながら、自分の生命が全世界に動いているのである。
「寂静にして鳴るなり」とはそのことである。現象を眼の前に見ながら「現象無し」と知るのも、その境地である。病を眼の前に見ながら「病なし」と知るのも、其の境地である。「寂静にして鳴るなり」「寂静にして病むなり」畢竟病なきなり。風のことに非ず、鈴のことに非ず、われらの生命のことである。
「生死にあり」と観るは、風鈴を鳴るとするのである。如何にも風鈴は鳴るのである。しかも風も鈴もともに寂静なのである。
寂静にして鳴る。
生死なくして生死す。
一点にして無限大。
寂静にして鳴るなり。」
拝
1718
:
ハマナス
:2012/12/03(月) 23:35:23 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
さくら様、a hope様、訊け様
いつも、素晴らしいご文章の謹写をありがとうございます。感謝しています。
永遠に生き通しの生命 (『新版 生活の智慧365章』P.303)
聖経『甘露の法雨』には人間は肉体に非ず、物質に非ず、脳髄細胞に非ず。神経細胞に非ず、
血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず、それらすべてを組み合わせたるものにも非ず」と
示されているのである。解剖学は人間を分解して、これらの諸部分に分解して考えるであろう
けれども、それではこれらの諸部分をつなぎ合わせたら「人間」が出来るかと言うと、決して
「人間」にはならないのである。
「人間」は物質なる部分品をいくらつなぎ合わしても出来ない。肉体は「人間」ではなく
「人間」の産物であり、蛇がぬいだ脱皮の如く、一旦は生命によってつくられたものであるが、
霊的生命が其処を去ると、単なる脱け殻になってしまうものである。「人間」そのものは、
蛇が皮を脱いでも、蛇そのものは生きているように、肉体の皮を脱いでも、永遠に行き通すと
琴の霊的実在なのである。
感謝合掌
1719
:
a hope
:2012/12/04(火) 06:48:41 ID:ueIDSztA
ハマナスさま
優しいお言葉をありがとうございます。
感謝 合掌
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう
♦心に不平を思ってはならぬ
工場で働くにも愉快な人たちは失敗がなく故障がなく、よい仕事が出来、仕事の能率(はか)があがります。
日本が戦争に負けた理由には色々ありますが、其のなかには工場の職工が月給が少ないと云って
ブツブツ不平を思いながら製品をつくったことです。
そう云う不平な心でつくった飛行機は、たいてい、現地まで行くとガタガタになっていました。
また、せっかく空中高く上がったと思うと空中分解(そらのうえでくだける)して、
乗っている兵たいもろとも海中につっこんだりしました。
日本が平和国家として立派に立直るためには生産がふるわなければなりません。
生産とは、働いて物を産み出すことです。
さかんに働いてよい品物をたくさん産み出してこそ、日本は見返り物資の輸出も出来、
外国から食料や必要な原料物資を輸入してもらえるのです。
働かないで、ものを造り出さず、ストライキをして月給だけ沢山貰うようにすれば大変利益のようでありますが、
働かないとものが少なくなり、ものが少なくなって、買う力の給料ばかりがふえますと、ものの値段は益々たかくなるばかりで、
あげて貰った給料よりもまだまだ物の値段が上がりますから、給料を上げてもらって、
前の安い給料の時ほどには沢山ものが買えなくなり、折角ストライクしても、
給料が上がりながら、その給料でも却(かえ)って前ほど物が買えぬことになるばかりであります。
月給は上がらなくとも、物が沢山つくられて物が安く買えるようになりますと、月給が上がったと同じことになります。
だから、ものを作らないでストライキをして月給を上げて貰う運動ほど愚かなものはありません。
国を興(おこ)すには、出来るだけ沢山働いて、出来るだけ沢山ものを造り出すことであります。
(つづく)
1720
:
「訊け」管理人
:2012/12/04(火) 09:52:54 ID:???
四日の経言――
無限力を発揮するための言葉
吾れは今心の眼を開いて、わが魂の神的なる性質を意識する。吾れはいま神にして吾等凡てのものの父なる者とのまつたき結合を意識するのである。神は総ての上に、また凡てに行(ゆき)亙(わた)りて、そして自分の中の凡(あら)ゆるところに内在して坐(ま)しますのである。此の高き自覚を得たのであるから、吾れは敢(あえ)て一切のもののうちの最も善き物を要求することが出来るのである。吾れはいま徒(いたづ)らに他(た)に力を求めない。何となれば神こそ渾(すべ)ての渾てなる力であることを知るからである。
吾れは吾がうちに絶大なる力が宿っていることを敢て確認する。現在吾が中(うち)に蔵(かく)されたる力が悉くは発(ひら)かれてはいないとは云え、吾れは其の力を所有することを自覚する。吾れは吾れに内在する神の力の全部を次第に発揮しつつあるのである。吾れは無限の生命と一体である。吾れは無限の智慧と一体である。吾れは無限の愛と一体である。
『祖神(みおやがみ)』の所有し給う一切を吾れも亦所有するのである。吾れは何者にも吾が魂の束縛せられないことを誇りとする。しかも吾れは『祖神(みおやがみ)』と吾れとが完き結合に於いて一体であることを知るが故に平和である。『祖神(みおやがみ)』と吾れとの結合を破るような感情が若しあらば、吾れは今それを永遠に放下(ほうか)するのである。吾れは善その物と一体である。吾れは吾が御親(みおや)、吾が神と一体である。吾れ今吾が魂にこの感じを得せしめ給いしことを感謝し奉る。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1721
:
ハマナス
:2012/12/04(火) 12:43:50 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。
「心」は実相の翻訳係 (『新版 生活の智慧365章』P.304)
「人間」は肉体ではなく、“神の子”であり、“霊的実在”ではあるが、五官の感覚には
“霊的実在”は見えないのであるから、五官面にそれが感覚せられるようにあらわすため
には、「実相」を「現象」にまで翻訳し出す翻訳係りが必要なのである。その翻訳係りが
“心”である。
“心”が「実相」の霊的状態を本当に理会して翻訳すれば、無限次元の実相の荘厳且つ
完全な姿が、縦横厚みの三次元の空間に縮約して翻訳されるのだから、霊的実在としての
人間の荘厳さはあらわれないにしても、三次元は、三次元なりに完全な姿があらわれて来る
ことになるのである。
感謝合掌
1722
:
SAKURA
:2012/12/04(火) 19:14:20 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。
時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。
時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。
せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。 (谷口雅春著)
==========================================
■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??
【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。
■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??
再合掌
1723
:
a hope
:2012/12/05(水) 07:08:49 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう
♦社長又は上役の不機嫌は心の影である
或る会社の社員で後に大成功者になった人はこういっています。
「私は或る朝、自分の仕事を愉快に始めようと決心したのです。
どれほど明るい思想が事業の進展(のびひろがる)の上に
効果(ききめ)があるものかと云うことを試して見ようと決心したのです。
私は本来、憂鬱な陰気の性質の男だったのです。
私は歩行している最中に、
『私は幸福なのだ。世間の人々は皆自分に好意(しんせつな心)を持っているのだ。私はズンズン出世して世間に認められるのだ』
と一所懸命思いつづけるようにつとめながら行きました。
すると私は歩いている足取りも軽くなり、わたしはまるで空中歩行をしているような素晴らしい好い気持になったものです。
やがて私は事務室へ入って行きました。私の側(かたわら)にいる人に気持よく通りがかりの挨拶を致しました。
それは私は今まで出来なかったことだったのです。
私はそれまで気軽に人に物云える性質ではなかったのです。
私の雇われていた会社の社長と云うのは多忙であり、気むつかしやであり、
社長が私にものを云いかけると、又叱られるのではないかとゾッとするような私でした。
しかし、今日は私は気が朗らかになっているので、今日は社長も御機嫌が頗(すこぶ)るよさそうに見えて気持がよい。
結局、社長が御機嫌が悪いと見えたのは、社長自身が御機嫌が悪いのではなくて、
自分の機嫌の悪いのが相手に映っていたのに過ぎなかったのだと気がついた……。」
こう云う風に周囲の人たちは社長さんでも、上役でも、父でも、母でも、
誰でも自分の心の持方で、やさしい親切な好い人になってくれるのです。
だから皆さん、吾々は、どんな時にも、いつもニコニコして周囲に愉快な気持を投げかけようではありませんか。
それは一文もいらない慈善であり、愛であり、サービスであります。
(つづく)
1724
:
「訊け」管理人
:2012/12/05(水) 07:21:42 ID:???
『生命の實相』第38巻(幸福篇下)162頁より謹写――
<12月5日>
ただ真理のみを語れ。多言なるべからず。多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。
ただ優しき言葉のみを語れ。烈しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、憎悪をもって語るる言葉なりと誤解せらるることあり。心のうちにでも、言葉に現わしても、行ないにあらわしても、人を傷つけてはならない。誠実であれ、虚偽であってはならない。素直に、直截に、かまえることなく、そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。
値(あた)いなしに受けようとしてはならぬ。肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、いずれにせよ何らかの値(あた)いを払って受けよ。値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。自己の生活が気尚(けだか)き基礎に立つかどうか顧みよ。
なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。怒りと憎みとは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。
常に朗らかであれ。不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。忘れ上手が光明生活の第一歩である。
恩を忘れてはならない。恩を忘れる者は根と培わない樹木の枝のごとく、一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうであろう。人に深切をつくすのが、最善の宗教である。ただ教えの説教師になってはならないのである。
一日に1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、純粋に他(ひと)のために尽くせ。純粋で無我でつくすことはそのこと自体が神に通ずる祈りである。無我の愛でささげたる奉仕は神に献(ささ)げたことになるのである。
自分の収入の二分ないし一割で、自分の救われた教えを弘めるために真理の小冊子を買って無代進呈することじゃ神に対する恩返しとなる。与えただけが与え返されるのである。
<了>
1725
:
「訊け」管理人
:2012/12/05(水) 07:26:57 ID:???
五日の経言――
善と融合する言葉
吾れは今、『善』そのものと融合して一体であることを感ずる。吾れは最早、『善』そのものと疎隔の感じをいだかない。吾れは『神』の家に住む神の子としての権利を自覚して悦びに満たされているのである。吾れは悪夢より目覚めて『神』の御許に往くのである。いま吾れは吾れに内在する神の生命(いのち)と愛と智慧とを明らかに知るのである。吾れは吾が境遇と運命とが自己自身の想念の反映に過ぎないことをさとったのである。それ故に吾れは最も善きものを、最も潔(きよ)きものを、最も眞なるものをのみ思うのである。吾れは凡てのもののうちに、吾が求むる善きものを見出すことが出来るのである。
吾れは今、神の智慧と力とで満ち溢れている。吾れは、今宇宙生命(せいめい)と一体なることを感じて歓びに満たされているのである。それ故に吾が求むる一切は必ず成就するのである。
吾れ此のことを感謝し奉る。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1726
:
神の子さん
:2012/12/05(水) 09:01:20 ID:???
聖典謹写は著作権違反になりませんか?
1727
:
さくら
:2012/12/05(水) 09:24:13 ID:dXSek0Nw
ハマナスさま
先日はお言葉をありがとうございました。
こちらこそいつもありがとうございます。
お言葉に励まされ、聖典板には謹写させて頂きたいと思います。
こちらで、またご迷惑おかけすることあったら、申し訳ありません。
感謝合掌。
1728
:
さくら
:2012/12/05(水) 09:25:45 ID:dXSek0Nw
『新版 叡智の断片』谷口雅春先生
「静寂の生活
道は絶対である。絶対には対立がない。道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。
一切対立がなくなることである。一切対立がなくなるから一切に和解し、一切を尊び、一切が清まり、一切が寂である。
これが茶道の静寂であり、そのまま清まる日本の道である。
対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。
道は「寂」であり、動くものなくして動いており、その動くや必ず万物を生かすのである。
対立なき動きは全機であり、無にして 一切であり、○であるから一切と調和するのである。それを大和の道と言う。構える心がないから事を構えず、事を構えないから事が起こらないのである。構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから善きことのみが現れる。
「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。全機である。全即一であり、一即全である。
本当に明るいというのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる明るさでなければならない。
真の明るさは構えた明るさではない。そのまま天地の明るさがあらわれたとき、真に明るくなり、立ち対うところが悉く明るくなる。」
1729
:
goro
:2012/12/05(水) 10:43:08 ID:3Dk63Vjg
トキ管理人殿
聖典等の転載について、著作権に抵触する問題が発生する可能性がありますが
トキ掲示板ではどのようにお考えでしょうか?
青空文庫などのように著作権が消滅している著作物の転載は問題無いと思いますが、
公正を期するために、掲示板などでの転載について、法的な問題を確認したほうがいいと思います。
1730
:
goro
:2012/12/05(水) 10:44:16 ID:3Dk63Vjg
追加
部分参照などについても調べたほうがいいと思います。
1731
:
「訊け」管理人
:2012/12/05(水) 10:48:56 ID:???
◆「人類光明化のパテントは諸君に譲られた!」(谷口雅春先生:「生長の家五十年史」より)
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65704980.html
拝
1732
:
トキ
:2012/12/05(水) 13:43:28 ID:/N.xbRE.
>>1729
goro 様
ご投稿、ありがとうございます。
著作権上の「引用」については、以下のWikpediaの文章が参考になると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
引用
日本では、一定の条件を満たした「引用」は、権利者に無許可で行うことができる(32条)。これは著作権侵害にならない。
(中略)
ア 既に公表されている著作物であること
イ 「公正な慣行」に合致すること
ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
カ 引用を行う「必然性」があること
キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)
などの要件が必要とされています。
インターネットのサイト上では、書籍からの「抜き書き」が広く一般的に行われているのも事実であり、特に、この件
で裁判になったという話は、ないようです。(私が知らないだけで、もし、あった場合は、ご教示下さい。)。私も、他の
「宗教」掲示板をいくつか拝見しましたが、その点が問題になった掲示板はありませんでした。
この点は、法律に詳しい人に尋ねると、形式的には法律の条文に抵触する場合でも、実質的には問題がない場合は、「一般
条項」(例えば、民法1条や90条)を使って、不問に付するケースが多いみたいです。
しかし、聖典の文章だけを抜き書きする事は、厳密に言えば、「引用」という点では、好ましくないようです。
ですから、出来れば、聖典を引用する場合は、引用すると共に、投稿者様の感想やご意見なども一緒に書き込んで下さる
ほうが、法律の「引用」の趣旨に合致すると思われます。今後、投稿者様におかれましては、その点、ご協力をお願いでき
れば幸いです。
その他、出典の本、著者、ページなどは明記する事、内容に改編を加えない事、あまり長文にならない事などは、絶対に
投稿者様にお願いをしたいと思います。幸い、現在のところ、この掲示板では、以上の点は皆様が守って下さるので、問題
はないかと思っています。
他の掲示板ですが、本を1冊、まるまる読めるようにしたものがありました。
これは、さすがに気になります。ただ、現時点では、、これは問題にはなっていないみたいです。(この掲示板では、それは
ご遠慮願いたいと思います。)
これらの点も、皆様のご意見を頂戴できれば幸いです。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
1733
:
SAKURA
:2012/12/05(水) 14:36:01 ID:P5ICfcqA
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
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>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1722
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。
時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。
時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。
せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。 (谷口雅春著)
==========================================
■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??
【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。
■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
再合掌
PS: 「トキ様」 へ
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??この点は、
どの様なお考えでしょうかしら〜〜〜ン?
1734
:
goro
:2012/12/05(水) 14:49:10 ID:3Dk63Vjg
トキ管理人殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/
←ウィキペディアへようこそ・・・???
↓著作権侵害について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9%E4%BE%B5%E5%AE%B3
電子掲示板
裁判において、匿名BBS(電子掲示板)での書き込みが著作物であると判断され、多額の賠償金の支払いが命じられた事例も存在する。
管理人の責任において調査しておいたほうがいいと思います。
1735
:
goro
:2012/12/05(水) 14:55:33 ID:3Dk63Vjg
トキ管理人殿
聖典を転写してくださることで、電子ブックとして場所を選ばず拝読できることは
誠に有難いのですが、法に抵触する場合もありますので要注意です。
尊師を呼び捨てにする人の掲示板などは、ほとんどの文章が著作権に抵触している可能性があると思っています。
1737
:
トキ
:2012/12/05(水) 15:44:31 ID:/N.xbRE.
>>1734
goro様
ご投稿、ありがとうございました。
ご指摘の部分を拝見しました。言及されていた裁判は、「ホテル・ジャンキーズ」事件だと思われます。
事件の内容は以下の通りです。
「この裁判(東京地裁 平成13年(ワ)第22066号著作権侵害差止等請求事件)は、複数の投稿者がホテル情報に関するWebサイト「ホテル・ジャンキーズ」の掲示板に書き込んだ内容を、サイトの運営者らが出版した文庫本「世界極上ホテル術」(光文社刊)に無断で転載されたとして、掲示板の投稿者が著者と出版社を相手取って損害賠償と当該書籍の出版差止を、東京地裁に請求したもの。」
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20020416/1/
です。簡単に言うと、BBSの投稿を関係のない人が勝手に抜き書きをして、本を1冊作って、売り出したという
話です。これは、どうみても酷い話です。つまり、抜き書きが本1冊という多量であり、目的が営利目的であり、多数の方の
投稿を無許可で引用し、しかも、出典を明記しなかったケースです。裁判になっても、仕方がないケースだと
個人的には感じます。
上記の事件は、BBSの書き込みを紙媒体の管理人である著者が、著作権侵害をしたケースですが、逆の場合も当然、あり得る
と思います。ですから、管理人としても、今後も気をつけたいと考えています。ただ、今の時点では、問題になる
ようなケースは、この掲示板の投稿に関しては、なかったと考えています。
が、聖典をめぐる、最高裁判所の判決がまもなく出ますから、気をつけたいとは思います。
goro様におかれましては、丁寧なご教示とご指摘を下さった事に深く感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
1738
:
トキ
:2012/12/05(水) 15:45:23 ID:/N.xbRE.
訂正です。
X BBSの投稿を関係のない人が勝手に抜き書きをして
○ BBSの投稿を管理人が勝手に抜き書きをして
お詫びして、訂正させていただきます。
1739
:
goro
:2012/12/05(水) 16:18:43 ID:3Dk63Vjg
トキ管理人殿
では今までどおり、書籍などを転載していいのですね?
1740
:
トキ
:2012/12/05(水) 16:23:15 ID:/N.xbRE.
>>1739
goro様
ご投稿、ありがとうございました。
私が調べた範囲では、現時点では問題はないと思います。
ただ、聖典については、投稿者様が、ご自分の感想や意見なども同時に投稿をして
下されば、法律の趣旨にあうと思います。また、出典を明記して下さる事や、内容に
は変更を加えない事、あまり長文にならないように工夫をして下さり、現在、出版さ
れている聖典や出版物については、原本の購入も呼びかけて下さるなら、さらに安心
できると思います。
以上、もし間違いや気がついた点がありましたら、ご教示下さい。
今後とも、ご指導、ご鞭撻のほど、お願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
1741
:
goro
:2012/12/05(水) 17:21:50 ID:3Dk63Vjg
更に確認です。
長期間にわたって聖典一冊を転載することもいいのですね?
1742
:
トキ
:2012/12/05(水) 18:12:56 ID:/N.xbRE.
>>1741
goro様
ご投稿、ありがとうございました。
うーん、このあたりは微妙ですね。管理人としては、投稿は歓迎しますが、もし、原本の著作権者から
削除要請が来た場合は、対応せずるを得ない場合もあります。
聖典の紹介は、投稿者様は信仰的には伝道の意図がありますし、閲覧者様にも読んで励まされ、信仰の
深化がはかられる点で、良い事が多いです。投稿者様の動機は純粋で、ご多忙の中、貴重な時間を提供
して下さるのですから、本当に頭が下がります。反面、著作権法という法律の制限がある以上、この
制限を無視する訳にはいかないのも事実です。1冊の本の転載となると、「引用」とは言えない部分も
あり、簡単には返答ができない部分があります。
例えば、谷口雅春先生は、「365章」シリーズを何冊か発行されておられます。光明法語などもそうです。
こういう本を、1日1章ずつ、365日継続すると、まるまる1冊の本を掲示板で紹介する事になります。
この場合だと、純粋な法律論だけではなくて、著作権の管理者が、どう感じたか、という点も考慮にいれ
る必要はあります。絶版になった本や神誌などは、紹介に必要性が高いでしょうが、現在も発行されている
本をその形式で紹介するのは、不正競争になりえます。一番良いのは、著作権者の了解を得る事でしょうが、
難しい場合もあります。逆に、吉田國太郎先生のご著書などは、吉田先生は亡くなられてから50年以上は経過
しており、法律上の著作権自体は消滅していますが、現在も日本教文社から著書が発行されているので、まるまる一冊
の紹介は、道義的に見て、問題があるかもしれません。
つまり、ケースバイケースになるので、もし、1冊の本の全体を紹介したい、という場合は、お手数ですが、事前
にその旨を投稿していただき、皆様で議論をしてから、管理人が決定するというのが好ましい対応かと思い
ます。
この点については、その方面に造詣の深い方のご意見も募集したいと思います。また、goro様におかれましては、
いつも貴重なご意見を頂戴し、深く感謝申し上げます。
では、今後とも、宜しくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
1743
:
NANCY
:2012/12/05(水) 19:39:14 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
■本日12月5日に於きましての下記…討論
今回は
>>1734
>>1735
>>1737
>>1739
>>1740
>>1741
>>1742
に関しまして…閲覧しておりますと
「聖典…又!雅春先生著書の数々…」の【著作権…】云々…と言います事は、最終的には、個人的
見解ですが…ここ❤〜【2チャンネル…聖典引用すべて不可】とある面では、捉えてしまう事も、
可能でしょうか?
ましてや!!【WEB誌友会での参考文献】これもすべて「雅春先生著…」ですから、悪く考
えますと、如何なものでしょうか??(一部抜粋文章…云々…とおっしゃいますから?)
ここでは【生長の家…雅春先生の著書の数々の中】から、投稿者のお一人お一人の抜粋を投稿
されていますモノ…更にそこでの“感想”をのべる事が…此処の投稿者の一部の人からの
【ブ−イング】かと??思える“フシ”もありますでしょうか?
尚【学生時代…】教科書の文章の感想を討論するのは当たり前でありますから…それを???
【ア〜ダ!コ~ダ!】おっしゃいます事…この事自体が?理解しがたいものであり、その人自身
の“捉え方?”・“考え方?”をのべて…次なる事が始まるのではないのでしょうか???
■“捉え方”・“感想”その事を拒否?すべきという事は、ある面では?【思考…する事は無用】
という事でしょうか?❤【考える人…】これは返上でしょうか???
しかしながら…書籍を拝読しましての個人個人の感想は、当然のことながら【個性…】となり、
ましてや、冷静に思いますに第三者的には【この様な考えがあるの〜〜〜ですネ】と、逆に、
■【アピ−ル】にもなりますし【分派…投稿者様】の考え方を、伝えます手立てとなります
でしょうかと??思う所存です…。
■■最後に…【SAKURA】 の投稿して頂きました「雅春先生…言葉」私一個人としては、当に!!
■【時 間 の 重 要】を、認識して頂く上でも素晴らしい事と思います。それで再度…
【SAKURA】さんにお願い致したく思います。
再合掌
1744
:
SAKURA
:2012/12/05(水) 19:45:25 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。
時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。
時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。
せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。 (谷口雅春著)
==========================================
■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??
【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。
■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
再合掌
PS: 「トキ様」 へ
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??この点は、
どの様なお考えでしょうかしら〜〜〜ン?
1745
:
復興G
:2012/12/05(水) 19:59:00 ID:vWpLkCzM
goro様
トキ様
皆々さま
合掌 ありがとうございます。
他の著作物からの引用は、
>>1732
:トキ様の
http://ja.wikipedia.org/wiki/
引用の
< エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること>
――上記の意味は、自分の文章が「主」で、引用文は「従」であるべきだということ。つまり、自分の意見を述べるために他の文章を引用するという範囲でなければならない。引用文が主であってはならない、という意味だと思われます。
だとすれば、たとえば、私もweb誌友会のテキストとして『生命の實相』を1章ずつ謹写アップロードするようなことをしてきましたが、これは著作権侵害になる可能性が大であろうかと思われます。
それで、第9回web誌友会からは、テキストの原文アップは控えさせて頂こうと思います。
ありがとうございます。合掌
1746
:
神の子さん
:2012/12/05(水) 19:59:31 ID:???
著三権については、教文社にこのサイトを見てもらうのが一番早いかもしれませんね。
何らかの方法でお伝えすることにします。
1747
:
神の子さん
:2012/12/05(水) 20:00:31 ID:???
×著三権
〇著作権
1748
:
復興G
:2012/12/05(水) 20:04:16 ID:vWpLkCzM
上記の意味は、この聖典引用板に1章まるごとアップすることを控えるという意味で、
web誌友会板で自分の感じたことや意見を述べるために部分的に引用することは、全然差し支えないと思います。
ありがとうございます。
1749
:
goro
:2012/12/05(水) 20:12:24 ID:3Dk63Vjg
>>【ア〜ダ!コ~ダ!】おっしゃいます事…<<の問題ではなく
単純に著作権という法律の問題です。
全ては自己責任ですから、言い掛かりをつけるのはみっともないですよ。
1750
:
トキ
:2012/12/05(水) 20:34:12 ID:/N.xbRE.
聖典、特に生命の実相の著作権については、今裁判中ですから、最高裁判所の判決が出てから、許諾の件を話し合う必要があると
思われます。素人考えですが、聖典板だけを見たら、確かに生命の実相の転載は、「引用」には当たりませんが、広く掲示板全体
を見ると、生命の実相の転載は、「引用」に該当するような気がします。この辺りは、少し、調べてみますので、お時間を下さい。
1751
:
蜻蛉
:2012/12/05(水) 20:50:43 ID:M7ribEwU
某ウェブサイトの使用上の注意事項で
聖典から引用する場合は、現在の時点で市場に流通している
(日本教文社及び世界聖典普及協会で購入できる)聖典・・・
で、『生命の實相』や『甘露の法雨』等は???
1752
:
トキ
:2012/12/05(水) 21:04:59 ID:/N.xbRE.
結論が出るまでは、web誌友会でも、聖典板で独立して生命の実相を転載するのは避けて、講師や参加者が
聖典を転載した後に、同じ投稿で、注釈なり意見なりを述べる対応なら、問題はないと思います。
皆様のご意見をお願いします。
1753
:
NANCY
:2012/12/05(水) 21:34:17 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1743
の投稿の続きです。…が???
■今回
>>1752
の投稿も閲覧させて頂きまして… 考えてみますと???
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■>聖典から引用する場合は、現在の時点で市場に流通している
(日本教文社及び世界聖典普及協会で購入できる)聖典…で、
『生命の實相』や『甘露の法雨』等は??? (抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■この件は、理解しがたいモノでしょうか〜〜〜〜??
【聖典…】この言葉…“捉え方”は、多々ありますでしょうが??意味が、理解しがたいもの
なのですかと〜?尚!【日本教文社…公式サイト】を、閲覧させて頂きましたが〜〜〜?
最後に思いますには【著作権…云々…】この事に関しましての【討論…】事態が?最初の方の
意見投稿?は、個人的に思いますが?疑問点でしたら【別のボ−ド】にて討論投稿すべきモノ
では?なかったのでしょうかと、思う次第です。…が??その様に思いますが??
再合掌
PS:「トキ様」 へ
尚!私自身も此処の【ボ−ド板】に記載しておりますので矛盾しております。…が?
1754
:
トキ
:2012/12/05(水) 22:09:44 ID:/N.xbRE.
この件について、「現役地方講師」の方から、メールを頂戴しました。現役なので、掲示板に投稿をした事が
露見すると、問題になるので、管理人経由で意見を述べる、という事です。文面はトキが書き直しましたが、
意味は変更していません。
-----------------------------------------------------------------------------------------
聖典の引用は、確かに著作権が問題になります。しかし、著作権者から異議申立が出たなら削除を含めた措置を
考える必要がありますが、第三者からの申し出の場合、それほど神経質になる必要はないと思います。聖典の著作
の権利者は、生長の家教団か、生長の家社会事業団のどちらかですが、両者とも聖典の頒布の増進と真理の伝道を
目的にしています。だとすれば、聖典等の紹介は、歓迎されるべきで、どちらの立場にしても、文句を言うはずが
ないです。これが、例えば、著作権を理由に使用の対価を払え、というのなら、これは社会通念上、相当な対価な
ら問題はないが、引用や転載の禁止は、その目的に反する事になります。ですから、今の方針が、法律上、問題が
あるとは思いません。実際、過去、数年に渡り、この掲示板を含めて、複数の掲示板で聖典が転載されているの
ですが、問題になった事はなかったはずです。
ただ、谷口雅春先生は、聖典を読んだ場合、ただ読んだだけでは駄目で、自分がそれを拝読して、どう感じたか
を言わなければ指導されていました。その観点から言えば、今回のgoro様のご意見は、谷口雅春先生のご指導に
そうものだとも思います。ですから、今後は、この掲示板でも、聖典の投稿をした後、投稿者がご自分の感想
や意見を述べてみてはどうでしょうか?
1755
:
通りすがり
:2012/12/05(水) 23:30:32 ID:qL/UdddQ
著作権法に違反しないから大丈夫などという考えはおかしくないですか?
生長の家は相手の立場になって考えるところだと思っています。
法律よりも出版社の立場になって考えたいものです。
本の内容を全て書いてしまっては、本を購入する人が少なくなります。
1756
:
ハマナス
:2012/12/05(水) 23:50:32 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
先ず「心」の診断を (『新版 生活の智慧365章』P.305)
“想念”(感情を含む)は動力である。ホルモンの分泌に直接関係をもち、細胞の配列や、
栄養成分の分解、消火、吸収、同化等を支配する力をもっているのである。良人が自分の
ほかに愛人をこしらえていたと云うことを知っただけで、その感情のショックによって急激に
衰弱して病床に横たわるようになった婦人もある。このように“心”と云うものは肉体を左右
する力があるのに、人が病気に罹ったら“心”の診断を求めることなしに、医師にただ物質
的な処置のみを求めるのは不合理だと言わなければならないのである。
“心”の不調和が病気の原因であり、肉体にあらわれた病気は結果であるに過ぎない
のである。原因を修正変化しようとしないで、結果たる肉体の症状だけに医療を加えよう
とするのは、源流を汚濁したままで放置して、下流の水だけを浄めようとするようなもので
ある。物質的医療が適確な永続的効果を挙げ得ず、一時或る病気を治したように見えても、
又再発するか、他に病気が発生して来るのは、源流にあたるところの“心”の状態を修正
して置かないからである。
感謝合掌
1757
:
「訊け」管理人
:2012/12/06(木) 09:13:00 ID:???
六日の経言――
人生に主となる言葉
吾れは今、吾が本性が神とまったく同体であることを覚(さと)ったのである。吾れは神が渾(すべ)てであり、従って神以外に何者も此の世に存在しないことを知ったのである。神は渾ての渾てである。だから吾れが苟(いやしく)も存在する限り神と吾れとは一体なのである。吾れは存在する、それ故に吾れは神と一体なのである。神と一体なるが故に、吾れは神の本性(ほんせい)よりその善きもの一切を賦(わか)ち与えられているのである。神の有(も)ち給う総ての物を吾れも亦有つのである。此の深き悦びに吾が心はわなないているのである。
吾が心は深き聖悦に満たされているのである。神は全能である。それ故に吾れも亦全能なのである。吾れは凡てを知る智慧によって導かれているが故に、吾れも亦全智なのである。神は疲れたまうことなく、倦み給うことなきが故に、吾れは決して失敗を拾うもないのである。吾れは神が必ず吾が力を新たならしめ給う事を信ずる。吾れは神に吾自身をうちまかす。それ故に金剛圍山(こんごういさん)の動かざるが如く、吾が心も不動である。吾れはいま他(た)の人たちの偏見や非難や時代の伝統から全然自由である。吾れはいま自分自身の判断と自分自身の標準とを持つのである。吾れは人間である。人間は神の子である。されば吾れは人生の主である。吾れは他の人々に人間は斯くあるべきとは言葉では語らない。吾れは吾が生活を以って人間は斯くあると行じ示すのである。
吾れはいま、自分の全意識の解放を得て歓喜勇躍の感に堪えない。自己が神の属性を賦(わか)ちもつと云うことが歓びでなくて何であろうぞ!吾れは永遠である。吾れは本性に於て神とは分ちがたきものである。吾れは生命である。吾れは智慧である。吾が実相は完全であり、神は完全である。それ故に吾れは此の完全さを日毎々々に発揮するのである。吾れは生ける神の子である。吾れ今此の真理に目覚めしめ給いしことを感謝し奉るのである。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1758
:
トキ
:2012/12/06(木) 09:50:29 ID:VekO0piE
>>1755
ご投稿、ありがとうございました。
http://jbbs.livedoor.jp/study/11788/
生長の家傍流掲示板/別板
掲示板・運営/方針 板
にご返答をかかさせていただきました。
宜しくお願いします。
合掌 ありがとうございます
の
1759
:
さくら
:2012/12/06(木) 10:47:19 ID:e8ieIrPA
『信念にて自己内在の無限力を実現せよ』
世界光明思想全集 第三期
谷口雅春先生
谷口清超先生 共著
「第二十二篇
エマーソンの自己信頼論
(自分が自分の主人公である)
自己信頼の一面は世間の世俗に迎合しない孤高の尊厳を維持することである。
エマーソンは其くの如き人であった。
彼はかう云っている。
孤独は真の社会に先行しなければならない。私はいかなる説教よりも説教の始まる前の沈黙に包まれた教会が好きである。いかに深遠にいかに冷静に、如何に清楚に、人々は見え、各人は一つ一つの区域、一つ一つの聖所にとりまかれている事であらう。
つきる所に吾々は常に坐っていたい。吾々の友人、妻、父、子が吾々の炉辺に坐っている。同じ血を分けたものだと言ふ理由で何故吾々は彼らの欠点を気に病まねばならないであろうか。全ての人間は私の血を分けもってをるし、私は全ての人々の血をもっている。
それだからと言って私は彼らの短気や愚かさをことさらり立てて、それを恥しいものと思ったりはしないのである。
けれどもあなたの取る孤立は機械的の孤立であってはならない、それは霊的なものでなくてはならないのである。即ち高揚された孤立でなければならないのである。
時々全世界はあなたに非常につまらぬことを共謀してせがむ機にも思われる。友人、弁護依頼人、子供、病気、怖れ、欠乏、慈善等が全てただちに折角閉ざした部屋の戸をたたき『さあ、吾々のところにおいでなさい』と言う。されど諸君は諸君の魂をこんな誘惑で転落させてはならないのである。全てを落としてはならない。
汝の常態を保て。
汝自身の天国なる家にとどまりなさい。一瞬たりとも彼らの事件に巻き込まれ、騒々しいあらそひの威声に巻き込まれてはならないのである。
彼らの混乱の上に汝の法則の光をもって照らせ、と。
中々面白いではないか。
これを本編の序曲とする。」
(旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めました。)
1760
:
SAKURA
:2012/12/06(木) 12:03:34 ID:n9yjoO0g
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1722
>>投稿の続きです。…が
今回は、昨日に於きまして“投稿…”いたした内容ですが、モノの1時間にて“奥澱…”…云々
でしたので【再・再投稿…】の形式を取らせて頂きます。今月の【師走…】という事に“ピッタリ”
感が致しますかと。当に【時間管理…】でしょう〜〜か?先生の“言葉”改めて“心”に響きます。
❤ ❤ ❤【 再・再投稿文 】❤ ❤ ❤
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。
時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。
時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。
せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。 (谷口雅春著)
==========================================
■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??
【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。
■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
再合掌
PS: 「トキ様」 へ
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??この点は、
どの様なお考えでしょうかしら〜〜〜ン?
1761
:
神の子さん
:2012/12/06(木) 14:39:39 ID:???
>>1759
現代仮名遣いに改めないでください
1763
:
神の子さん
:2012/12/06(木) 17:06:25 ID:???
怒りを抑えているさくらさん 笑い
1765
:
SAKURA
:2012/12/06(木) 20:32:47 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
===【抜粋文】===================================
伸びることを忘れた時に凋落が始まる。樹木を見て、その真理を悟れ。
(谷口雅春著)
===========================================
■まさに“当たっている事”と、思います。FUKに帰郷してからの私は、年々”戦う姿勢”が
おかしくなっていくような不安感? 気がつきますと、一体?何故?このような事が〜〜〜><
毎日!毎日!このような事態になるのかしら〜〜〜ン!と自問自答の日々なのです。
毎日が正直申しますと【出口のない堂々巡り…】でしたかと。延々と〜〜〜><
【心の窓…出口のない戦い!!】でした。…が?初めの時は、まだ多少“気力”というモノ
があり、更に!こちらも“身構える姿勢”がありましたが?段々!構えるだけで、一向に
前!前!にすすむ事が出来なくなって行きました。
■そ〜〜〜〜〜う!【生きる気力…】が、失っていたのでしょうか???
あの頃しかも教区の元元元W3期「白鳩会長」が“お金”の持ち出し〜〜〜!!しかも、
その【処罰…】には、当時の教化部長の処置は個人的には、“甘い”ような感なのです。…が?
更に!その事自体を、知っていますのは、ごく少数であり、噂では【分派…】に〜〜〜と聞
いております。この事は、一たび“教区外“では、知る人がいませんから、以前の【肩書…】
を使い、【分派…への勧誘】そして【吸血鬼・ゾンビとの関連?】が〜〜〜と???ある所から、
遂に“噂…”を耳に致す事となりました。…が??こうなりますと其方に【心の窓…焦点】が?
当然のことながら、本来の【目標達成…】への焦点を合わせる事が“先延ばし”でしたかと?
自問自答です。そうなのです〜〜〜ョネ!
❤〜【伸びる事…】を、何処かに忘れていた事に、フト!!気づきました。
■■その時!やはり【 真理・哲学 】は、他人を“救う!”と思います。
私は、ドクタ−モルツ博士のサイコサイバネティクスを【ダイレクト出版】との出会いで
“心に響く言葉…”を頂きまして、ズシ〜〜〜ト!心に響き、それからは、毎日のように、
まず【ダイレクト出版でコメント】をさせて頂きました。その後【此処2チャンネル…】で、
今!今!【雅春先生の言葉…】からもまた【真理の生活に密着した…当に生きた言葉】が、
浮かび、そこから、当に、今の私は、息を吹き返したと申しても過言ではないのです。そう!
少しずつ“息…”を吹き返しています。そして、昨日申しましたが、本当に【時間は大切…】!
改めて“自覚の認識の薄さ”が、今の私であったと思う次第なのです。
■何時か?何故遠回りしたのか?その原因を、何時か【自分のブログ】に投稿しますが??
きっと、次世代をになう“若い方達”が、【人生の舵取り…】失敗しない事を、少し参考になる
のならと〜〜〜要約、その気持ちになりましたが、まず!今の私の考えは……
❤〜【生かす事は、自分を生かす事でしょうか〜〜〜?】毎日!毎日!“心の種”を植えて、
“芽…”が出てきます様に……そして“心の水”をかけて行こうと思います。そうです!!
その“水…”は、無くてはならない【 真理=哲学 】と、思える私の解釈なのです。
最高の“心の水”……【雅春先生の書籍の数々からの真理の言葉……】でしょうかと!!
再合掌
1766
:
NANCY
:2012/12/06(木) 22:04:58 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 ヘ 「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>の投稿の続きです。
■■『 生長の家 』の観相学 ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…
―― 人間の幽体は想念感情の座として、心の通りの形になる ――
■>霊体が第二念(本体からの「直接の心の思い」でなく、霊体だけで独立して、次の念を起こ
したのを第二念といいます)を起こしますと、その念(こころ)の波がまたひろがりまして、
ある一定の「体」を形造ります。これを「幽体」ともうします。「幽体」も肉眼には見えませんが、
これは第二念でありますから、濁った部分があるのであります。これは肉体とはちがって、霊妙
な霊的原素でできておりますから、念の通りの形にすぐなるのであります。<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
そうです〜〜〜ョネ!以前“投稿”させて頂きました“続き投稿内容…”なのですが?
「雅春先生…」の池の中へ小石をほり込んだように波のひろがり〜〜〜この解説から、正直に申し
ますと“理解力…”が、プラスにかと。実は、私事ですが【SAKURA】さんの「亡きお母様」の
“霊様の写真”を見ましてからは、「雅春先生」のおっしゃいます肉眼では見えない世界が…
確かにあると!確信ができるようになりました次第です。❤〜【肉体…エ−テル体…幽体…霊体…】
更に次の「雅春先生の言葉」当にそうなのです〜〜〜ョネ!〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■>たとえば、腹が立ちますと、幽体は凝り固まって図の点線のような形に固く凝り、ふくれ上が
ります。(「怒る」という語源は、「玉の緒が凝る」ということであります)すると、内部の幽体が
ふくれ上がりますから、その外側になる肉体は、それと同じ形にふくれ上がって、腫物となったり
癌となったりすることがあります。顔に皺ができたり、いろいろの斑点ができたりするのも、下部
の幽体が、感情想念の座として、その心の通りの形となり、それがその外側の肉体にあらわれて
くるのであります。だから、念(こころ)を変化すれば人相がかわるとうことになるのであります。
(抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
そうなのです。感情が“ネガティブ感情”例えば…相手への悪感情と申しますか〜〜〜?
【 恨み?妬み?怒り?憎しみ?不安感?…云々…】その時の“顔…”を、鏡にて見ますと…
確かに「雅春先生」のおっしゃいます「皺…」が額に??とか〜〜〜>< 顔全体の“筋肉”
も?変に動かす事で…最終的には「皺…」の要因になりますのでしょうか〜〜〜?
また「斑点…」これは“シミ”という事でしょうか??思い浮かべますと、感情が不安定?
その様な時でしょうか?自分自身の体験?と一致しますモノがありますかと。ある日突然…
「シミ=斑点…」になるのでしょう…。更に、当然ですが〜〜〜?
この事に、現代社会では、「オゾン層の破壊…環境問題」は、関連しますでしょうと、思います。
この事は、人類の【モノへの執着心…我欲】が原因でしょうか??
■【想念感情…】つまり心の通りが形としてあらわれることなのでしょうか? 納得です。
そうしますと【想念感情…】は、何時も?何処でも?“ポジティブ感”でしょうかと思います。
あくまでもその【 ポジティブ感は…心から 】かと…そこには素敵な出来事が〜〜〜?
勿論!肉体面でも形として…現われますのでしょう。❤〜【何時も!若々しい〜〜〜い!姿】…
再合掌
1767
:
ハマナス
:2012/12/06(木) 23:48:18 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
現代医療の盲点 (『新版 生活の智慧365章』P.306)
あらゆる病気は“心”の産物である。肉体そのものが “心”で翻訳し出したところの一種の
翻訳文であるからである。だから精神指導によって治る病気は、単に機能的疾患だけではなく
器質的な疾患も同様に治るのであり、現に癌のような疾患も心の変化で治る実例を幾つも私たちは
出しているのである。“心”が健全細胞を癌細胞に変化するのである。
このことは子宮癌や乳癌の患者が、医者自身から出した統計によってでも、家庭的愛情に不満足
であった婦人――結婚して子供がなかった夫人、二号さんを良人がつくったために精神的に悩んで
いた婦人、早くから良人に死別した婦人などと云う兎も角も愛情の不満足又は愛情のもつれのあった
婦人に多いことで示されているのである。しかも医者はその方面のことを指導することを忘れて、
原因はほっておいて、物質的な切除やラジウムの照射や、ザルコマイシンの注射などで、単なる
結果に過ぎないところの症状を抑えようとするのである。
感謝合掌
1768
:
a hope
:2012/12/07(金) 07:42:30 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう
♦光明の雰囲気を出す人(p93〜)
世界の人々は忙しいのでありますから、皆さんの能力を一々テストしている暇はないのであります。
紙に書いた答案よりも、その人から放射される信念や感情の感じられ方で、
相手の人は、この人は立派だから、重要な職につけてやろうと考えるのです。
そして其の与えられたどんな重要な仕事でも実際にやりとげることが出来る能力もその信念から湧いてまいります。
自信ある人は、其の顔の色、語調(はなすちょうし)、態度(ようす)、悉(ことごとく・みんな)勝利に充ちたものとなります。
そう云う人が保険を勧めにくれば入らずにはいられなくなりますし、商品を売りに来れば買わずにはいられなくなりますし、
雇ってくれと云われれば雇わずにはいられなくなるものです。
こう云う人は何をしても成功します。
それは光明の雰囲気(きぶん)を放射する人になったからです。
愉快に楽しく自信に満ちた生活を送りましょう。
(つづく)
出典 「新版 生活読本」日本教文社 平成八年一月十五日 新版初版発行
(a hopeの所感)
この、「生活読本」は「人生読本」同様、谷口雅春先生が「生命の實相」の難しい真理を子供やお年寄りにも理解できるようにと、
できるだけ優しい言葉で書いて下さった雅春先生の御愛念のつまった素晴らしい聖典です。
具体的な例がやさしく書かれているのでとても解りやすく、私は、拝読すると必ず元気になり、やる気が出ます。
皆さまにも、お薦めします。
1769
:
「訊け」管理人
:2012/12/07(金) 09:34:08 ID:???
七日の経言――
感情を正しくする言葉
吾れは今神 ―― 常に吾が求めを聴いて応え給う親様 ―― に感謝します。吾が求むるに先だちて吾が語らざる言葉をききて応え給う親様に感謝します。私は今わが住む世界が吾が気分と想念との反映である事を知らして頂きました。此れを自覚するが故に、私は今よりつとめて美しきもの、善なるもの、真理なるもののみを考え、語り、そして聞く事に致します。私は神なる貴方に、『吾と神とは一体なり』と云う真理の理由(ことわり)を知らしめ給うことを感謝します。そして此の真理を常に心に把持してあなたに愈々近づかせて頂きます。・・・神との一体感によって、私の想念が正しくなり、私の感情が正しくなり、従って私の想念と感情との反映なる吾が住む世界が正しくなりつつあることを私は信じます。
私はいま、此上(このうえ)なき歓びと平和とに満たされています。天に於ても地に於ても、私は総ての力を与えられていますが故に、私はいま創造の喜びを感じています。―― 神の国の永遠の構図に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じています。私はいまあなたに、生命と永遠の愛とを与え給いしことを感謝致します。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1770
:
とおりすがり
:2012/12/07(金) 12:07:43 ID:???
八日の経言――
境遇と運命をと支配する言葉
吾れはいま吾が境遇と運命とを自己の思考によって支配し得ることを知ったのである。
吾が心情が善きものであるならば吾が想う所は善であり、
吾が想いが善であれば吾が言葉は善であり、
吾が言葉が善であれば、吾が住む世界も善なる理想世界なることを知ったのである。
其れ故、吾れは今後吾が唇に封印して敢て悪をば語らない。
吾れは吾が思想と言葉とにいちいち気をつけるのである。
吾れは今より悪のことを考えない。
吾れは禍のことを語らない。
吾れは禍のことを決して耳にしないと決意したのである。
人を審判(さば)こうとする吾が性癖は今まったく自分から離れたのである。
悪を見出す吾が習慣はもう消滅して無くなったのである。
吾れは最早自分を、そして自分の友達を、それから自分の職業を、
悲観的な言葉をもっては評さない。
吾れは楽観そのものである。
希望そのものである。
吾れは深き歓びに満ち溢れている。
吾れは万人に幸福を与え、万物を祝福する。
吾れは凡ての者に勇気を与える。
吾が言葉は肉となりて形相(かたち)の世界に姿をあらわすのである。
『日々読誦三十章経』より謹写――
吾れは今実現せんとする事物に対して『此の事は実現する』と
確信に充ちた言葉を発するのである。
此の言葉は創造作用ある言葉である。
従って欲する事物はやがて必ず自己の周囲に集まり来たらざるを得ないのである。
吾れは此の確信を与えたまいしことを神に感謝致します。
1771
:
ハマナス
:2012/12/08(土) 00:00:32 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
心のレンズ (『新版 生活の智慧365章』P.307)
その人の肉体と環境との状態は、その人の“心”が如何に「実相」(霊的実在)を翻訳して、
縦横厚みの空間に、それを映し出したかの成績をあらわしているのである。その人の “心”
がその肉体から去れば、その人の環境というものも、その人の肉体と云うのも、共に消えて
しまうのである。それは映写機のレンズが無くなれば、映画の画面に映っていた光景が消え
てしまうようなものである。だから“心”をレンズにたとえて“心のレンズ”と称すること
もある。
“心のレンズ”が変に収縮して波形になっておればスクリーンに映る映像も波形に歪んで
うつるのである。“心のレンズ”が実相に対して完全に焦点距離を合わすことが出来な
ければ、実相が如何に完全であっても、その完全な姿がハッキリとあらわれずボケてあら
われるのである。そして如何に映像が歪んであらわれようとも、如何に映像がボケて現わ
れようとも、実在の景色はハッキリとして美しいのと同じうように、私たちの肉体や環境が
どんなに不完全にあらわれようとも、それは私たち自身の“心のレンズ”の収縮、歪み、
曇りなどが原因で、そのようにあらわれるのであって、“実相の世界”及び“実相の自分”
は完全なのである。
感謝合掌
1772
:
「訊け」管理人
:2012/12/08(土) 17:32:58 ID:???
『常楽への道』(吉田國太郎著)296頁より謹写――
根底に於いて悪を見、困却の相を見たところからの心の動きは、その心自身が、如何に尊げな姿に於いて現れ、如何に深度の状態に於いて現れ、宇宙的な迄の高度な状態の如くに現れても、いずれも全てよしなく空しいことである。それは神の心にもとり、実在の相を忘失し、業の輪廻を深めたに過ぎない。業と云い無明と云うは神の去脱状態であり、人の生命の仮死的窒息状態である。神の国、実在の国にあっては悪と困却とは本来無いのであり、悪と困却とをみていることが無明であり、業障の根なのである。
困却のない生命を観なければなければならない。悪に禍いされていない生命を観なければならない。それを、かくの如くに静的な相(すがた)に於いて観ると同時に、又即時に、動的な相に於いて観なければならない。動的な相、即ちまことに端的に鳴り渡る真理の音をききえなければならない。
<了>
1773
:
「訊け」管理人
:2012/12/08(土) 17:33:59 ID:???
九日の経言――
自己を偉大にする言葉
吾れは吾が心のうちに広大無辺なる宇宙を蔵する。星をみつめて佇む吾れは見詰めらるる星よりもなお広大なのである。吾れは吾れのうちに星を理解する類なき能力のある事を見出すのである。吾れは空の星以上のものである。何故なら吾れは彼等を理解すると同時に、自分をも理解するからである。吾れは天に在(ましま)す神々の如くに造られたのである。吾れは星の軌道を闊歩する偉大なるものなのだ。吾れは主の如く永遠の道を歩む者なのだ。吾れ心を有するが故に、吾れは世界の王者である。いま吾れは吾が仕事の上に王者としての第一歩を踏むのである。
吾れは星よりも大なるが故に此の宇宙を造れる力と同じものなのである。然り、吾れは宇宙を造れる力と一体なのである。いま吾れは凡ゆる種類の恐怖と弱小と卑陋(ひろう)とを超越して生活する。吾れは空の星に比肩せらるべきものである。吾れは、大地をつくり、天空を支えたまう神が、吾れを安固(あんこ)に保護したまうことを信ずるのである。それ故に吾はこころ安らかである。地の造り主、天の造り主と吾れは眞(まこと)に一体である。御親神様に感謝いたします
『日々読誦三十章経』より謹写――
1774
:
とおりすがり
:2012/12/08(土) 20:24:51 ID:???
十日の経言――
完全健康の言葉
吾が生きている生命(せいめい)は無限の生命(せいめい)である。
それ故に吾は完全に健康である。
吾がいだいている愛は無限の愛である、
それ故に吾れは完全に幸福である。
吾が心に宿る智慧は無限の智慧である、
それ故に吾れは平和であり調和である。
今われは平和と、安心と、及び漲る力の感じとに満たされているのである。
吾れは神の無限の生命(せいめい)の内に生きているのである。
無限の愛の内に生きているのである。
無限の智慧の内に生きているのである。
無限の智慧、無限の愛、無限の生命(せいめい)なる
吾が親(みおや)なる神に感謝いたします。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1775
:
さくら
:2012/12/08(土) 22:52:38 ID:e8ieIrPA
『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』 谷口 雅春先生
「◎◎◎――――仏に遭っては仏を殺し
「仏に遭って仏を殺し、祖に会っては祖を殺す」と禅語にあるのは宗教の祖に遭ったら宗教の師を殺す、そして祖先や父母に会ったら祖先や父母を亡きものにするなどと云う意味じゃないのであります。
師恩は大切でありますが、本当の師は弟子に何を教えようとしたかと言うと「真理」を教えようとしたのであって、決して恩や愛着を売りつけようとしたのではありません。
それなのに「あの先生がやめたら、私もこの教えを止める」などと云う弟子があるが、これは「愛着」を受けとって「真理」を受け取っていないのであります。
この「愛着」を断ち切って真理に直参するのが、「仏に遭っては仏を殺し、祖に会っては祖を殺す」であります。
家庭においても、本当に父母を愛しようと思ったら父母を殺さんといかぬのであります。
こう言っても刀なんかで突いて殺すのではありません。ほんとうの父母を父母たらしめることが出来ないのであります。
僕でも父母を殺しているのです。僕は世間的に謂えば、大変親不孝です。九十幾歳の老母を神戸に放ったらかしておるのです。
あれは恩愛の執着を殺しておるのです。恩愛の情を殺して置かぬと父母が父母として本当に生きることが出来ない。
若し私が「最高理想の生活はこう云う理想の生活だから、お父さんお母さんこう云う具合になさい」と言って連れて来て、そしてその通りにしなさいと言ったらお父さんお母さんは窮屈でとても堪え切れないで、キットお困りになるだろうと思うのであります。
一燈園などでは「棄恩入無為」と言っています。恩愛の情を一度棄て切って、「無為」即ち、「そのまま」の実相があらわれるのであります。」
1776
:
さくら
:2012/12/08(土) 22:57:26 ID:e8ieIrPA
ほんとうの父母を父母たらしめることが出来ないのであります。
↓
訂正:本当に父母を父母たらしめようと思ったならば、父母に対する愛着を殺さぬと
父母を父母たらしめることが出来ないのであります。
1777
:
ハマナス
:2012/12/08(土) 23:56:13 ID:mR2szZkc
人類意識の大波を超出すべし
(『新版生活の智慧365章』p.308)
「病気は無い」と“心”で念じたら病気が消えるならば、「肉体は無い」と“心"で念じたら肉体が消える筈だが、そんなに念じても肉体は消えないではないかと云う質問があるが、それは“心”と云うものが幾層にも重なっていて、一個人の単なる表層の現在意識で念ずるだけでは、人類全体の意識や、個人の意識にしても深層にある潜在意識面にある観念は容易に消えないと云う理由によるのである。
一個人一個人の意識内容は集団して一個人の人類意識と云う巨大な波動となって、個人個人の意識をその上に浮動させているのである。だから人類意識が「此の毒薬を幾グラム服(の)んだら死ぬ」と知っている毒薬を飲むならば、その人個人は、それが毒薬だと知らなくとも服用すれば、人類意識の“唯識の所現”としてその人は毒薬に当てられて死ぬことになるのである。だから其の人が人類意識の大波を超出するのだけの大信念を起し得るよう、熱心に神想観をして実相の完全さを揺るぎなく瞶(みつ)めない限りは、人類意識の大波のまにまに打ち上げられて破壊されることになるのである。
個人が「肉体がない」と心の表層で念じても肉体が早速には消えないのは、個人自身の潜在意識の中に「肉体がある」と云う観念の惰力が残っているのと、人類意識の中に「人類は肉体をもつ」と云う観念があり、その波から超出出来ないからである。
感謝合掌
1778
:
NANCY
:2012/12/09(日) 01:06:41 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
の投稿の続きです。
■ ■ 祈るたび毎に あなたの魂は浄められる 谷口雅春著「人生をみつめて」より
なによりもまず祈ることにいたしましょう。
祈りというものは、そのとき神と交通して、神の持ちたまえる、色々の素晴らしい御徳が
自分の方へ流れこむことによって、自分の霊が浄められ、高められんがするものなのです。
常に祈るということが大切です。祈るたび毎にあなたの魂が浄められるのです。
(一部抜粋…)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
今年も残り少ない日時となりましたかと…思います。此処昨今は“暗い出来事”と申しますか、
更にここ【生長の家…お家騒動】も含めまして、人間関係の複雑さと、申しますか…?更に!
本当に「生長の家の信者」なのかと?疑いたくなるような言動には、それ以前の事ですが……
【分派…の方々との思考の相違】…そこからの“悪態”・“中傷”…etc…“暗い出来事”が…><
これは、どの様に考えるべきなのでしょうか?はたまた受け止めるべきなのでしょうか?
❤【感情論…】が先行していますかと、思う次第です。その根底には、やはり【我欲…欲望】が、
あるのではないでしょうか??改めて“言葉…”から伺えますかと?思う次第です。
真の【人 へ の 救 済】??
こういう時こそ【祈り…】すべて神に全托でしょうか?必ず!神の御心に叶うものは【実現…】
そうです〜〜〜ョネ!
この地上…『現実世界に、時間・空間を経て…叶いますでしょう』かと……。
■【 正 し い 祈 り … 現 実 化 !】でしょう。
再合掌
1779
:
SAKURA
:2012/12/09(日) 02:15:40 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>投稿の続きです… が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」
を〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃ
いました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
■第二章 無我自在の「生命の本性」を発揮せよ
❤心を肉体に引っかからせるな その①
=====【生命の実相 2巻から抜粋 】=======================
病気にかかるとすぐ医者のところへ駆けつけて、胃が悪くないか、心臓はよわっていないか、
肺臓にラッセルでも聞こえていやしないかいろいろと詳しい説明をききたがる人がありますが、
…云々…「人類的恐怖がありますかので、その恐怖を「肉体なる影」に映し出していよいよ本
当に肺臓の組織まで悪くしてしまうのであります。心が肉体の生理作用に及ぼす影響は実に恐
ろしいものがあります。〜〜〜たとえば我々が肩に力が入れれば肩がこります。肩が凝るとい
うのは血液が肩に滞って新しい血液と入れ換わらないことをいうのであります。……云々……
つづく
1780
:
SAKURA
:2012/12/09(日) 02:19:29 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>投稿の続きです… が
❤心を肉体に引っかからせるな その②
>>1779
投稿の続きです…。
…云々…
心が上の方に集注しているから肩におのずから力が入るのであって、決して「筋肉」という物質
が、物質自身の作用でそこに力を入れるというわけではないのであります、心が持とうと思わな
い限り、どうしても鉛筆一本でも持てないでありましょう。で、われわれが肩に力を入れたとい
うのは「心が」肩に力を入れたことであります。「心」が肩に力をいれたとき何が起こるかといい
ますと、「心」の影として最も最初に鋭敏に「心」のとおりに動き出すものは血液なのであります。血は生命の根源ではなく、「心」の作用に最も感じやすい「心の影」なのであります。完全に
血があっても心が死ねば、その人が死ぬ実例は前章にたくさんあげておきました。ただ血は影の
形に添うがごとく心の行くところに添うので、血は古来から霊性があるように思われて、
日本の古書には「霊」のことをチと読ませたところがあります。 (谷口雅春著)
===========================================
■そうです〜〜〜ョネ!!心に暗示をかける事でしょうか?そう【アラジンのランプ…」で〜
♫〜ごまひらけ〜♫〜と…心に入れ込む事ですョネ???さらに決めつける「心」からは、何も
生まれないようにも思えます。たとえば”悪口”ばかりいいます人は、寄ってきます人も、
それ好みの方が仲間にでしょうかと???【類の法則…」も、単に”モノ”だけではなく、そう
【心の法則の類の仲間】同士にも、云えます事ではと思えます。当に……!!
❤〜【すべてが”こころ”で決まる】事なんでしょう〜〜〜ネ!!今回、ここでも”固定観念”
で決めつける方が、いらっしゃいます様に思えます。この人は〜〜〜と>< 自分の狭い心で
相手を服従させるような表現が多いです〜〜〜ョネ!そのような時の私の心は、確かに、一瞬!
萎縮して構えます。…が?
■ここが“ミソ”で、まずは、何も自分は変わらないのだから、つかむ事もない!!!と…
”心…”で思いますと、まるで〜まるで〜澄みきった気持ちに、なりますかと。
更に!どうしても落ち着かない場合は、そう〜〜【神想観…」が一番”ピッタリ”でしょうか?
余談ですが?最近!過去を振り向いている自分がいます。そのような時【心は反省】ばかり><
更に、このような人間に出会ったおかげで”私は聴力喪失になった事”…許しがたい!この考え
は、本来の私自身は”楽観主義的思考”なのですが、現在の私に取りまして…あまりにも執拗な
相手の尾行…これも今まで考えなかった事ですから、【心が過去に…タイムマシ−ン】です。
■振り向きますと”過去”にとどまり”前進…”は、ないのです〜〜〜ョネ!!でも少しは、
その過去の【業…】に対しての清算カモ??そうしますと必要な事カモ??と、今の私は、
【強い信念…】で、過去の資料を調べているところです〜〜〜が???
今回頂きました【テキスト該当部分の冒頭から…】
当に【全て…”こころ”で決まる人生とは?全て自分自身の”こころ”で決る。決断!】かと…
あらためまして、思いました。…が???■■【 心の法則 】なのですネ! 再合掌
1781
:
神の子さん
:2012/12/09(日) 09:22:05 ID:pic01rm6
いいえ、日本製ですよ
1782
:
「訊け」管理人
:2012/12/09(日) 12:33:07 ID:???
◇「悪」を分析しても「善」は顕れて来ない
「現象悪」を実在すると観て、それを観察し、分析し、「悪」の要素を排撃しようとして「悪」と戦う心を称して「智慧の樹の果」を食べた心と称するのです。併し「悪」と戦う心を起こしても、決して「悪」は減じないのです。それは「水爆」と戦う心を起こせば起すほど、水爆の実験の回数はふえ、地球を取巻く空気は愈々益々ストルンチューム90の放射能で汚染せられる度合が増加するようなものです。若し各国が、相互の相手国の「悪」を見ず、ただ「善」と「愛」とのみを見て親愛の情を深めて行きさえするならば、水爆という〝悪〟は自然に消えて、其処には唯、「原子力の平和利用」と言う〝善〟のみが実現する世界が出て来るのであります。
『眞理』實相篇384頁――
◇暗黒の中に失望してはならない
暗黒は光明の来るしるしである。あなたは暗黒をおそれないのである。夜明け前には丑満時が来るのである。現象界は暗黒と光明との交錯によってあらわれる映画である。陰極は必ず陽転するのである。暗黒の後に新しい日は生まれる。
新しい日は光明と自信とに満たされているのである。自信は如何なる暗黒の中にも光明を見て突き進む。既に光明は〝ある〟のである。努力と精進とによって、この暗黒の岩屋を突き破って光明の彼方に出ることができるのである。あなたは神の子であるから、無限の力が宿っており、無限の力は努力によって噴出するのである。信念と努力――これが万事を成就するのである。
その努力と精進の力も神から来るのである。努力する勇気が湧いてこない時には、「神よ、私に善き事に対して努力する勇気を与えたまえ」と祈るがよい。
『眞理』實相篇128頁――
1783
:
SAKURA
:2012/12/09(日) 13:34:48 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>
投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
■第二章 無我自在の「生命の本性」を発揮せよ
❤ 血の滞りは心の滞り
======生命の実相 2巻から抜粋=========================
ともかく「心が」しじゅう滞る場所には血液が滞るのでありまして、「心」が肩に、滞る人
は血が肩に滞って肩が凝り、「心」が首にとどこおって脳充血や脳溢血や不眠症などを起こす
のであります。こういう傾向のある人はとどこおっている箇所を按摩してもらうと一時その
滞っている血を散らすことになって非常によい気持ちでありますが、それは一時的であって、
「心」を滞らせている限り、そこにまた間もなく鬱血して来てそこが凝るのであります。
(谷口雅春著…)
===========================================
■以前は〜〜〜私も“肩コリ”…本当に“コリ〜コリ〜”なのです。特に、この寒さが増し
ます処の冬場は…いつも“首を回して”いましたかと。ですが?此処最近は、少々“肩コリ”
もありますが、以前のようには“肩コリ”飛んで行け〜〜〜♫〜〜〜なのです。
アラ〜〜〜?如何してかしらンと、思ってみますと、以前よりそうなのです。小さい物事に
【執着…】しなくなったのです〜〜〜ョネ!!
そして、今年母がなくなりましたが、此処3年間分からない事実が〜〜〜><
❤〜【亡き母の霊界通信…】で、何と「亡き母」からの【直感…】でしょうか???見え
ない事が?理解しがたい事が?今では、物事が良く見えるよな【透視…】が、多少とも
出来出しまして、それからなのでしょうか…??“肩コリ”の材料が、幾分以前より薄れ
てきまして、最近では、前以上に“物事”が見え、それが良し悪しに付けましても、こう
いう時こそ前に進む言動力の傾向にと……!!言えますでしょうかしら〜〜〜ン
■さて“心が滞る事”は、やはりこれも【執着…】からでしょうか???以前の私は、
ある面【執着のかたまり】でしたでしょうか??“コリ〜コリ〜執着?”
今では【放す事…を!すべて神様におまかせ…全托していたら?】という感じでの“行動・
スタイル“なのです!!そうなのです。モ〜〜〜ウ!何の不安もなく、まず!前進!前進!
前に進む事が【人間の使命…】でしょうかと???
それでも“血液の流れ”は滞る事もあり、この時はまだ【執着心…】が?あるのではと、今
頂きました“復興G様のテキスト該当部分”にて改めて思えます。…が?まだまだ足りない
のでしょうか?【心の執着…を放す、そして、おまかせ心になる事が〜〜〜】でしょうかと。
❤〜【私の“肩コリ”は、心の狭さから器量でしょう〜〜〜ネ!!!また、一つですが?
“心の進歩”に、私の“心のエッセンス”です〜〜〜ネ!!】
この素晴らしい〜〜〜【真理…】を勉強させて頂きます機会に感謝です。
再合掌
1784
:
さくら
:2012/12/09(日) 20:53:38 ID:e8ieIrPA
『藭ひとに語り給ふ』
谷口 雅春 先生
「 萬教歸一の藭示
われに姿かたちあるやうに言ふものあれどわれは姿なきものである。われは道(ことば)である、われは靈性である、智恵である、愛である、生命である。われは如来である、われは一つにして多である。信仰深き諸方のわが藭姿を示したることあれども、そはわが眞の姿に非ず、見えたる藭姿は靈覚者の心識の所現に非ず。そは、われ藭通力によつて、疑う者の蒙を啓かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の藭姿を示して、藭の客観的存在を實証したにすぎない。
されど、本来われに一定の藭姿はない。如何なる姿も欲ひのままに現ずることが自由である。されば、嘗てわれ汝に告げたのである『吾に藭殿は不要である』と。われは藭殿がないとて身の入れ場所に困るやうな藭ではない。供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲がうものは『生長の家』を讀め。われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が藭殿である。この雑誌をひろがるのこそわが藭殿の大きくなることである。われにすがた形はない。われは靈の海である。大海原である。すべての宗教流れ来たりて吾に入らん。吾は完成する者である。われは『七つの燈臺』に燈を点ずる者である。古道も、佛教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教我に流れ入りて生命を得ん。
われは大いなるものなるかな。すべての教を呑吐して、これに生命を與へ、すべての相争ふ教をその眞髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を與へ、すべてに栄養を與へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹らず批たず、常に讃事と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその眞髄に燈を点ずる。あらゆる宗教がその眞髄を禮拝して手をつなぐやうにならねば此の現實世界の改造は完成せぬ。精藭界が先で現實界はその影である、元亂れて影完からず、宗教家よ、宗派争いをしてゐる時ではない。
(昭和六年四月五日藭示)」
1785
:
うのはな
:2012/12/09(日) 23:14:26 ID:RjJT/itc
『いつまでも楽しくすこやかに』内田久子 先生著
発刊のことば 総本山知恩院執事長 おてつぎ運動本部長 寺本哲栄
近年、多くの日本人のあいだで「健康」についての関心が高まってきました。
医療の進歩によって日本人の平均寿命が延び、長生きできる時代になりましたのはまことに
結構なことであり、みなさんがいつまでも元気で長生きしたいという願望をお持ちになるのは
当然でございます。
若い方々は、ややもすれば度を過したり、誤った考えにより健康を損なったりしていますが、
私は、日本の将来のため憂うべきことだと思っています。ところで健康というのは、もともと「健康康心」
から来たことばですから、体が健やかで心が安らかな状態を指すのでありましょう。
また西洋の諺にも「健全な精神は、健全な肉体に宿る」とあります。
慥かに、体が元気ですと気分も壮快になり、病苦に苛まされますと気分も滅入ったりいたします。
また、精神的なストレスにより、体に悪い影響を及ぼすことがあります。
正しい宗教心をお持ちの方が、とく病を克服されたということもお聞きします。
私はかねてより、人間の心と体について、宗教心を持たれた医師の方からお話を承りたいと思っていました。
さいわい、長年、病弱な体を克服し、その体験をふまえながら患者の治療にあたってこられた内田久子先生に
講演をお願いすることができました。そのお話の内容がたいへん参考になりますので、おてつぎ講演集の一冊として
とりまとめ刊行することにしたゆえんでございます。
読者の方々は、その行間に滲み出ている内田先生の宗教心を見過ごされることなく、
心と体の健康について再考されますよう念願し、発刊のことばといたします。、
おてつぎ運動本部
1786
:
うのはな
:2012/12/09(日) 23:29:08 ID:9TO4H8Ho
はじめに 内田久子 先生
私は内科医師として、日々病院勤務で診療しておりましたが、この度、このような
素晴らしい知恩院様にご縁をいただくということを伺いまいた時、一時はびっくりいたしましたが、
折角のお申し越しでございますので、喜んでお受けさせていただいたのでございます。
「いつまでも楽しくすこやかに」という今日のテーマと同じ言葉を、拙著『生命医療を求めて』に署名
させていただいております。
現代社会では、文明や科学が進み、病院も立派になりたくさん医療施設ができて、いろいろ研究され病院も
解明されてきているにも拘らず、病院に行けばどこも満員ですね。これほど医学が発達すれば、病院は閑古鳥が
鳴いてもいいはずなのに、現実はこれに正比例して満員なのは何故でしょうか。
私たちはみな、健康だけでなく、人生を楽しく生きがいをもって生きたいという願いをもっています。
この題の中の「いつまでも」というのは、今だけでなく、死にぎわも元気で、あの世へ行っても、来世もずっと
楽しくすこやかに、という意味です。
1787
:
「訊け」管理人
:2012/12/10(月) 09:27:58 ID:???
十日の経言――
完全健康の言葉
吾が生きている生命は無限の生命である。それ故に吾は完全に健康である。吾がいだいている愛は無限の愛である、それ故に吾れは完全に幸福である。吾が心に宿る智慧は無限の智慧である、それ故に吾れは平和であり調和である。今われは平和と、安心と、及び漲る力の感じとに満たされているのである。
吾れは神の無限の生命の内に生きているのである。無限の愛の内に生きているのである。無限の智慧の内に生きているのである。無限の智慧、無限の愛、無限の生命なる吾が親(みおや)なる神に感謝いたします。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1788
:
「訊け」管理人
:2012/12/10(月) 12:47:54 ID:???
『真理入門25章』248頁より謹写――
◆ 〝神洲日本〟そして〝神洲清潔の民〟
日本人は人間のいのちが〝神の子〟のいのちであることを知っていたのと同時に、日本の国も、神が建てた国で、神から頂いた国だという信念を持っていました。それで日本を〝神洲〟といったのであります。支那から漢字が伝わって来ましたら、我が国の名前(国号といいます)を「日本」と漢字で書いて、「やまと」とか「ひのもと」とか読むようにしました。それは『古事記』に伝えられたところによりますと、日本の国は人間が計画して建てた国でなくして、天照大御神という御名前の“宇宙を照らしたもう神”が、「豊葦原の瑞穂国は世々わが子孫の王たるべき地なり」と、国の根本的設計を示されまして、その設計にしたがって神武天皇さまが天皇中心の国をお建てになったのが国の始めであります。だから日本国は〝神洲〟すなわち〝神国〟なのであります。
そして、日本人は、この日本国を「日本神国」「日本神国」と呼んでいたのであります。「神国」に〝神の子〟たる日本人が天照大御神の子孫である天皇さまを中心にして住んでいる清らかな国が日本国ほんらいの姿だったのであります。それで日本人のことを「神洲清潔の民」といいました。それなのに西洋の科学文明が入って来て〝国〟というのは、鉱物で出来ている土の塊だくらいに考えて、何も尊いことも何もないと考えはじめました。
◆ 善の代りの語に〝清明心〟といった
日本人は〝神洲清潔の民〟でありますから、日本人ほど清潔を尊ぶ民族は他にないのであります。『古事記』にある神話の中には天照大御神さまと、須佐之男命さ(スサノオ)さまとが、「受霊」といって、互いの霊を取り交わして、どちらが善かその善悪を定める場面が描かれておりますが、その時に、「心が善い」という言葉の代りに天照大御神は「汝の心の清明(あか)きことはどうしたらわかるか」と仰せられ、須佐之男命は「わが心が清明き故にわたしの魂から、やさしい女の子が生まれた」といっていられます。善とか悪とかいう言葉を使わないで、心が清く明らかで陰気に曇らないのを古代の日本民族は〝善〟であるとしたのでありまして、近代人の考えているような、「こうするのが、悪である」とか「こんな行いが善である」とかいって、事こまかく一々の行ないを定めるのではなく、清く明らかな〝清明心〟をもった者を〝善〟であるとしたのが日本人だったのであります。
いちいち〝これは善、これは悪〟と分類して、こまかく分けて研究するのは科学的精神でありますが、〝科〟という字は「枝」という意味の字で、科学をこまかく枝を分けて分析的に分析して研究する、「科(えだ)の学」であります。日本人は〝善悪〟といわずに〝清明心〟といったところに、まことに一つにまとめる日本人の心があらわれているのであります。
<了>
1789
:
とおりすがり
:2012/12/10(月) 15:03:43 ID:???
>>1784
『藭ひとに語り給ふ』は、光明掲示板でコスモス様がすでに謹写しておられます。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=819
1790
:
とおりすがり
:2012/12/10(月) 15:06:19 ID:???
十一日の経言(のりごと)――
【善と健康とを実現する言葉】
吾れは善事を求める。善事をのみ求めるのである。
吾れは万物のうちに、そして万人のうちに神の『善』の宿るのを見る。
神は『善』である。
そして吾が求むるもの、吾が思うものを、何よりも先ず与え給う。
吾れは神を吾が『愛深き父』『優しき救い主』だと認める。
吾れは凡てのうちに宿る神の調和と、宇宙にみなぎる愛と心とを感ずる。
神は凡ての者の父であり給う。
それ故に吾れは万人を吾が友、吾が兄弟であると観ずる。
誰も此の世界に吾れに敵対する者もなければ、
吾れも亦此の世界の誰に対しても敵対しないのである。
全人類は吾が親戚であり、吾れは全人類の友である。
吾れはいま万物、万人および宇宙を司どる法則が
吾が心を反映するものであることを知るのである。
―― それ故に、吾れは高き善き想念のみを心に描きつつあるのである。
吾れはいま最も輝かしき信仰と、朗らかな情緒とで満ちあふれているのである。
吾れは、『悪』に与えた力を取り返すのである。
即ち『悪』が実在すると云う思想を撤回する。
それ故に『悪』は今本来の『無』に帰したのである。
吾れはいま円満完全なる神の子である。
吾れは完全なるものと調和せるもののみを思考する。
吾れはいま健全と調和とのみを宇宙より受けるのである。
宇宙の心は吾が想念に全く相応ずる事物を造って呉れつつあるのである。
吾が想念は完全円満である。
吾が信仰は確固不壊である。
吾れは自己が完全に健康であることを思考する。
いま、吾れは既に癒されたのである。
つねに吾が求めを聴き給う神に感謝致します。
いまより吾れは神と偕(とも)に語り、神と偕に歩む。
それ故に吾れは吾れを信じ、総てのものを信ずるのである。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1791
:
さくら
:2012/12/10(月) 17:25:22 ID:Ox.iz1Zc
>>1789
通りすがり様
教えて頂いてありがとうございます。
『神ひとに語り給ふ』のすべての神示を拝読でき、コスモス様の素晴らしい愛行ですね!
わたしもこの度、自分の学びのために謹写させて頂いて、この神示の内容の深さに打たれています。
追放されてしまいました掲示板ですが(笑)、
同じ生長の家の真理に触れて学ばせて頂けるとは、
…なんて素晴らしいんだろうと、感激しています。
どうぞまた、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
拝
1792
:
SAKURA
:2012/12/10(月) 20:01:27 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
❤ 生理的状態は暗示によって感染する その①
======生命の実相 2巻から抜粋=========================
精神的感染によって、あくびという生理作用が感染ったり、人の涙を見てこちらも涙が出た
り人の食べるのを見て唾液が出たりする事実は、誰でも知っているところであります。これを
見ればわれわれの心の状態がどんなに生理作用に影響を及ぼすかは考えてみてもわかるのであ
ります〜〜云々〜〜ラジオ・ドクタ−が衛生のことや健康法のことについて説くことは参考に
なります。けれども、黴菌の恐るべきことや、人間が少しでも不注意であれば病気に冒される
ことなどを説いて、恐怖心をそそることは感心しないのであります。それは人々を病気の想念
の中におくことになりますし、病気の想念により喚起された恐怖心によって、生理作用が攪乱
され、病気に対する抵抗力が鈍ってしまいかえって病気になってしまうのであります。予防医
学は社会政策的立場において必要でありますけれども、すでに病気になっている人が、通俗医
学の書を読んだりラジオ・ドクターの病気恐怖の話をきくのは必要でないばかりか、恐怖心を
そそられて病気に対する抵抗力を薄弱ならしめますから、なるべく避ける方が結構であります。
(谷口雅春著)
==========================================
■“病気になる事”は、以前の“心の種をまいた結果”でしょうか???たとえばですが?
父親が【癌に侵されて病気】になりまして、悲しいかな?死亡…そうしますと、人間の潜在
意識の中に【自分もいつか〜〜〜“癌…”になって、同じような死を迎える】という
“恐怖心の種”が、無意識に植えつけられて、いつか月日が立ち【時間・空間】でしょうか?
忘れた時に“恐怖の病気の芽”があらわれるのです〜〜〜ョネ!!
つづく
1793
:
SAKURA
:2012/12/10(月) 20:03:27 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
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>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>投稿の続きです。…が
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
>>1792
投稿の続きです…。
❤ 生理的状態は暗示によって感染する その②
これは【三界の唯心所現】として現れる!「生長の家の人」ならば、必ず知っています言葉!
■私も“5歳の頃交通事故…”に遭い、その時、空中に跳ね跳ばされて運よく“木の枝”が
クッションになり、一命を取り留める結果となりました。…が?ですから“顔のホホ”に、
傷が出来ておりまして“4センチ”くらい縫合しております。当時の医療では難しいのです
が、私の記憶では、車に乗せられて横になって運ばれていく光景を、今でも覚えています。
その後、手術が無事にすみ、目が覚めて“顔のホホを中心に包帯…”更に、腕も骨折です。
ですから、三角巾??みたいな固定していた感じ?当時の包帯をした“姿…”が、この頃よ
く浮かんできます私です。その時、当然の事ながら頭部を打っていますから「体の後遺症」
がと?当時の“両親の恐怖心”は???多大なものであった事でしょう。
ある時…小2の頃でしょうか?「担任先生」が“左の聴力”が、以前より聞こえがオカシイ
のではないのかと言われて、“病院…”へ、その時の病院の担当医の先生は、頭部を打ってい
ますから、今回は、運よく“無事”に乗り切れましたが、今度、なにか事故で…例えば、
頭部を叩かれたり?打ったり?このように“頭部”に何らかの力で、損傷しますと神経系が、
侵かされる事になると…つまり■【聴力喪失…】を言ってた事を「亡き母」は、良く言って
いましたから、私は“潜在意識”で、常に“交通事故…”を、再度!起こさなければいいと
思い、そうしますと、潜在意識に【 “大丈夫!”事故が起きなければいい!! 】と…、
いつかその自覚を、忘れてしまい、そうこうしています内に【21歳の夏の頃…の出来事】…
これが「タタキ男」に叩かれ“出血…”です。
その後、忘れもしませんが“22歳の3月10日の朝”に目が覚めても“音〜♫〜”が全く><
前日の【音のある世界…から…音のない世界】に、当に【暗闇の世界…】に引きずり落とされ
この日が【聴力喪失…日時】に、なりました。
■逆に今思いますと【 心 の 法 則 】 つまり“両親の言葉の念?”で、この様な
“悪い男…タタキ男”に、想念感情から結ぶ事となつたのでしょう〜〜〜。
「種をまく!」のも、やはり“いい種”を巻く事が、その後!結果として“大輪の花”が、
咲くのではと思います。…が?この【タタキ男の執着…】は、今日でも“腹”が立ちます
が、それを「雅春先生の言葉」から…【こころで縛りますと、また同じ繰り返し〜】になり
【四次元の世界…】に入っていくようなモノです〜〜〜ョネ!!この様に、毎日!毎日!
“決めつける事=思い込み事”は、必ずその時は、一時的にごまかしても、必ずや!
化けの皮が、出てくるのですから、そう断言して思うこの頃です。【円環…】
■あの「ヒットラ−の時代」も“永遠”には続かなかった事でしたでしょ〜〜〜う!!
これにならって【必ず!今は善くないけれど…必ず!良くなる事を信じて進む事】に、心を
振り向け…そして【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】と思う次第です。
最終的に、相手に“恐怖心”を与える言葉を使用するよりも“希望の言葉”が一番!!
しかも【 正しい希望実現の言葉…】でしょうかと。?
1794
:
ハマナス
:2012/12/10(月) 23:45:21 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
野生の鳥は風邪を引かない (『新版 生活の智慧365章』P.309)
野生の馬は決して風邪を引かないけれども、人間がそれを捕えて家畜とし、厩に入れて
風邪を引かぬように夜は毛布を掛けてやるようにすれば、毛布を忘れたときは風邪を引く
ようになるものである。野鳥はどんなに寒風に晒(さら)されても風邪もひかず霜焼にも
ならないものであるが、これを捕えて暖かい部屋に入れ、風邪を引きはしないかと人間が
心配してやれば風邪を引くようになるものである。これは人類意識と飼主の病的意識に
巻き込まれてその影響を蒙(こうむ)るからである。謂わば、動物に対して人間が「知恵
の樹の果(み)」を食べさせて病的精神に教育した結果なのである。
病理学 の本を読み、栄養学の本を読み、薬剤の広告をラジオで聴かされ、テレビで視聴
させられて人間は必ず「病むべきもの」と云う印象を潜在意識にたたき込まれれば、集団
インフルエンザで学童が集団欠席を必要とするような事態を生ずるのである。このような
マスコミの力で「言葉の力による病的観念」を吹き込まれておれば人類は益々不健康になり、
医者と薬が唯一の頼りとなり、医者が集団休診すれば、どうなるかと恐怖しなければなら
なくなるのである。併し、本当に病気を治してくれるものは、自己の生命力そのものだと
知らなければならないのである。
感謝合掌
1795
:
a hope
:2012/12/11(火) 08:27:19 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう
♦愉快でいることを義務と思え(P94〜)
人間は愉快でいることを義務だと思うようにならなければなりません。
自分の顔は自分の勝手だから、どんなにふくれ面していても、ほって置いてくれたら好いと考える人があるかも知れませんが、それは大変な間違いであります。
自分ひとりが不愉快な顔をしているために、その周囲(まわり)の人たちがどんなに不愉快になるかも知れません。
不愉快な顔をしているだけで、その人は周囲の人たちに大変な害を与えているのです。
家庭で誰かが膨れ面(ふくれつら)をしていて面白くない気分に皆がなったために、その日仕事へいって怪我をしたなどと云うことはよくある例であります。
不調和は不調和を呼び、調和は調和を招くのであります。
明るい心のものは繁栄を引寄せます。
誰でも明るい世界を好むものです。
赤ん坊を寝かせて置いても明るい方へ顔を向けます。
誰でも愉快な楽しい顔を見ることを喜ぶものです。
吾々は本能的(うまれつき)に暗い顔や、ふさいだ顔を見るのを好みません。
日本人はとかく、あまりにも鹿爪(しかつめ)らしく、苦が虫がおおいようです。
そうして暗い不愉快なところには善い仕事は出来ません。
仕事が激しければ激しいほど、心に光をさしこますことが必要なのです。
心に光がさしこまないで激しい仕事に長く堪えることは出来ません。
野球の試合や、ラグビーの試合は、激しい仕事ですけれども、心が愉快で明るい気持でやっているから決して疲れないのであります。
愉快な楽しい顔をしている店員はお客様を沢山ひきよせます。
不愉快な顔をしている店員が店にいては、その品物は上等でも売行はよくありません。
だから普通店番には愉快な愛嬌(あいきょう)のよい娘などを置くのです。
これは別に娘を売物にすると云う訳ではないのです。
人間は他の人々に好感(よいかんじ)を与えるようでないと、他から協力(ちからをあわす)されるものではありません。
よい感じをあたえることそのことが、サービスであり、世のためになることなのです。
(つづく)
1796
:
SAKURA
:2012/12/11(火) 20:33:40 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
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>>1599
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>>1607
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>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
❤ 病気の真の感染原因
======生命の実相 2巻から抜粋========================
病気は物質的感染によっても起こる場合もありますが、その根本原因は、物質的感染を
容易ならしめる薄弱な抵抗力と、その病気の忌まわしい症状を心に描く連想作用とが、病
気感染の有力なる精神的土台を作るのであります。 食中毒を起こして下痢をして赤痢に
なったというがごときは、赤痢菌の感染による場合もありますが、その食事の時「これは
変だ」と思わしめるのがあったか「あまり水を飲みすぎてお腹がじゃぶじゃぶする」とか、
「お腹が冷えた」とかいう感じが病気を連想せしめて、 胃腸の消化作用を弱め、腸内消
毒作用をもつ胆汁の分泌などを少なくし、ついに病菌に打ち勝った抵抗力をなくして病気
を起こすのであります。 (谷口雅春著)
==========================================
■病気になりますと、必ず!【原因・結果の法則】があるようにも思えます。ので、病気の
原因をつきとめていきますと、必ず!心からの“精神作用”が多大でしょうかと??まれに
【外部要因…】で起こる事も、本当にありますモノ! 私の経験ですが、今!思いますと、
当にそのような事が、度々起きたのです。…が?
■此処で、当時「千葉の行徳在中の頃」の出来事です。そこの“賃貸住居…”で、やはり?
今振り返りますと【水…】に、何か?異物が混入された感じの経験があります。…が?
その時は、知らずに【水…】を使用していましたら“パ−トナ−”は胸にしこり、そして、
私も“出血”が頻繁に起きるようになり、当時の私の潜在意識には【病気はない!!】と
固く〜固く〜信じていました時に〜〜〜エッ!【パ−トナ−のガンの早期発見】でした。
その時、自分の病気の事に“心を振り向ける”よりも、ひたすら“パ−トナ−のガン”に
集中!!の私でした。…が?当時は、まず【祈り…】そして【治る…】これのみを“集中”
していましたら【検査の結果…】2週間後に“ガンが消えて”いましたが、この時、私も
気がつきますと【自分自身の出血も収まり】当に【祈り…】で、全て治ったのです。ややも
しますと“病気”は不安ですが、此処で【 一念集中して祈り…】に徹し、心を振り向ける
のですから、この時こそ【チ ャ ン ス 到 来】なんでしょうかと思います。それは当に!
今!今しか出来ない事を、神様が私に“振り向かせる事”その気づき…頂いたものと!
本当に【心 の 法 則 の 訓 練】なんです〜〜〜ョネ!!
「唯物論的…原因」??その前に、全ては【心の精神作用での病気】言い換えますと、すべて
【自分の心の影…迷い】ですから、必ず“治る事”を信じることが、そしてこの事への
【持続精神作用…】が必要かと思えます。
【病気こそ正しい道徳観念の気づきをもつ“チャンス到来”】と解釈しても良いかと思えます。
■■“言葉の力”で……プラス思考の暗示を続けましょう。そうしますと、必ず!
【無限の宝庫…】があらわれる〜〜〜〜そう!「なんでも出来る!無限力」
最後に、今の私は、この時の“心境”を思い出し【獅子奮迅にて前に進む事!!】でしょうか?
「病気本来無し…」これこそ【無の境地…】でしょうか〜〜〜?
1797
:
ハマナス
:2012/12/11(火) 23:48:11 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
薬剤に服従する勿れ(『新版 生活の智慧365章』P.310)
栄養学に執(とら)われて、幼児に毎食、食膳にビタミン錠剤を与える習慣は、多くの
場合に於いてその子供に物質殊に薬剤に頼らねば健康が保持できないと云う観念を与える
ことになるのであり、従って幼児に病気が絶えないようになりがちである。かく言えばとて、
ビタミンBや必須アミノ酸が子供の発育促進に必要でないと私は言うのではないのである。
ビタミンB群や必須アミノ酸は発育促進に欠くべからざる栄養素であるけれども、それは、
幼児に“薬を与える”と云うような形式で与えないで、唯、自然の食物を与えているような
形で与える方がよいと云うことである。
幼い時に潜在意識に「人間が薬剤に屈従する」と云う観念を植えつけると、成人してから
も長く「人間は病むべきもの」と云う観念から脱却するのになかなか手数がかかるものである。
幼いときから子供に対して、「人間は神の子よ。病気なんかには罹(かか)らないものよ」と
常々言ってきかせて置くことは、子供を常に無病にして置く秘訣である。
感謝合掌
1798
:
a hope
:2012/12/12(水) 07:03:49 ID:w2ws6uag
みなさま おはようございます。
わたし専用のパソコンの調子が悪いので(今朝は起動すらしません・汗)、
今朝は聖典謹写をおやすみさせていただきます。
感謝 合掌
1799
:
「訊け」管理人
:2012/12/12(水) 07:32:16 ID:???
十二日の経言――
愛と繁栄とを実現する言葉
いま吾が生活を支配する法則は、愛と信仰と繁栄と、そして真理とである。吾れは何の間違もなく吾が未来を透見し得る ―― 何故なら吾れは今日(こんにち)未来の刈入れのために善き種子(たね)を蒔きつつあるからである。
われは善き収穫を預期する。それ故、吾れは平和と信仰とのうちに晏然(あんぜん)としているのである。吾れは神の御手に吾れを委(ゆだ)ねる。神の法則は愛である。愛なる神に感謝致します。
『日々読誦三十章経』より謹写――
1800
:
さくら
:2012/12/12(水) 08:33:45 ID:e8ieIrPA
『新版 叡智の断片』
谷口雅春先生
「意識的世界に高く向上するためには、無意識の世界に深く没することが必要である。
大寂の世界から浮かび上がって来た生命のみが常に清新である。」
1801
:
SAKURA
:2012/12/12(水) 19:52:49 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
❤ 人類意識と個人の潜在意識との問題
======生命の実相 2巻から抜粋========================
病気の知識のない子どもには、病気に対する恐怖心などというものはないのであろうに、
病気にかかることがあるのは、病気が決して心の作用によるのではなく、じっさいに物質
的原因で起こる証拠ではないか――という人があるかもしれませんけれども、それは赤ん
坊の「意識」といえども「人類全体の潜在意識の大海原」の中に動いている「一波」なので
あります。したがって無邪気な赤ん坊の意識は「人類全体の病気を信ずる心」の波動に常に
乗せられて動いているのでありますから、親が病気を思わないでも、本人が思わないで赤ん
坊は病気にかかるのであります。そしてまた「こうしたら病気が治る」ということをすれば
病気がなおるのであります。 (谷口雅春著)
==========================================
■前回!記しました様に、本当にそうなのです〜〜〜ョネ!と、改めて思います、
【念の波動…】を、知らずに受け入れる!これは「無意識な状態」での事でしょうか???
「雅春先生」のおっしゃる言葉から❤〜【 「人類全体の潜在意識の大海原」 】これが
【念の波動】なんです〜〜〜ョネ!!そうしますと【 密教 】も、それに当たります。
…が?
【 密教 】とは???実際に“行”じています「黒幕デザイナ−」・「吸血鬼」・「ゾンビ」が、
更に「元々元W会長」達…もでしょうか【密教の対象…】にしています「人?」もしくは
「赤ん坊のような素直な心の人?」へ…… 知らず知らずの内に…【潜在意識…】に入れ込む
【念の波動…】が、あるのです〜〜〜ョネ!!
これを知らずに受けた方は??その人の心の中に【悪感情…ネガティブ感情】がありますと
この念波と同調し“アクシデント”が起きる事となりますでしょうか?? 逆に申しますと
この【悪念波…密教】を受けた方が、これを知って“捕まえない心境”そうなのです〜〜ョネ!
■【放つ心…捕まえない心】が、一番の対処法でしょうか?
「生長の家…現象なし!物質は無い!心も無い!……」従いまして…「無い…の世界」かと。
そして、心が【正しい心境・境地】に入っていきますと、この様な
「人類全体の潜在意識の悪波動」を、つまり受けつけない事になるはずなのです。
そうしますとこのような【環境は心の影という事!!】になります〜〜〜ョネ!!今の私は、
彼等の仕業に、更に!彼らの“心の貧しさ?=低級霊”に、引っかからない様にと…
【無我の心境】として…
【人間としての大きな使命観】をもちまして、前に進む事と・・・でしょうか??
再合掌
1802
:
ハマナス
:2012/12/12(水) 23:24:10 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。
医者と薬をアクセサリーとする勿れ (『新版 生活の智慧365章』P.311)
一寸とした病気にも医者にかかることを、裕福な経済力ある家庭の名誉の如く考えてはならないのである。
なかには医者に罹っていないと、何だか頼りないような気になる婦人もあると云うことである。そうなれば
病膏肓(やまいこうこう)に入ったわけで、医者に罹ることや、薬剤をたしなむことが、一種の生活の装飾
となり、アクセサリーとなるので、それがなければ淋しくなり、淋しくなった時分に病気にかかり、医者に
罹って薬を飲んでそのアクセサリー欲を満足すると、その病気が恢復するのである。
若し人がこのような状態に陥るならば、それは正に“知恵の樹の実”をたべたアダムとイヴとになって
しまうのである。これらの人はインテリではあるけれども、自分の食った知恵に縛られて自由を失った状態
になっているのである。即ち「エホバ神アダムを召(よ)びて之に言いたまいけるは汝は何処におるや」と
言うようになるのである。最早かれの心は「神の国」にはいないで、迷いの国にいるのである。「エホバ神
彼をエデンの園よりいだし其の取りて造られたるところの土を耕さしめたまえり」(「創世記)、第三章」
と云う楽園追放の状態になるのである。「土」とは物質の象徴であり、唯物論的人生観を耕して、乏しき
世界に悪戦苦闘をしなければならなくなるという意味である。
感謝合掌
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