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Last Album

1 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 21:14:58 ID:jDTTQVVk0
収録作品

1.墓碑銘(Prelude)
 2014年08月作 01KB

2.涙を流す日
 2011年10月作 83KB

3.午前五時(Interlude 1)
 2013年04月作 03KB

4.雷鳴
 2012年09月作 28KB
 
5.ちぎれた手紙のハレーション
 2014年08月作 31KB

6.聖夜の恵みを(Interlude 2)
 2011年11月作 03KB

7.明日の朝には断頭台
 2014年09月作 28KB

8.壁
 2012年07月作 27KB

9.ジジイ、突撃死
 2014年09月作 26KB

10.ノスタルジック・シュルレアリスム(Interlude 3)
 2014年08月作 03KB

11.葬送
 2012年03月作 78KB

12.最初の小説(Interlude 4)
 2013年04月作 03KB

13.どうせ、生きてる
 2014年09月作 31KB

投下スケジュール
#1〜#2  09月28日夜
#3〜#4  09月30日夜
#5     10月01日夜
#6〜#7  10月03日夜
#8     10月04日夜
#9     10月06日夜
#10〜#11 10月08日夜
#12〜#13 10月10日夜

202名も無きAAのようです:2014/10/05(日) 21:13:38 ID:GL/IGr6.0
三話分一気に読んだ。おつです
サンタの話はフィクションらしくて特に好きだなー

203 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 21:50:51 ID:ecWgD/1k0
8.壁 20120727KB


※ ※ ※

 貴方や貴方で無い誰かがこの文章の全てを否定してくれることを願って。

※ ※ ※

204 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 21:53:13 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーは口下手な奴でもう本当にどうしようもなかった。
おまけに天の邪鬼ときたものだから、彼はそもそも人と接触することを極端に嫌っていた。

例えば誰かが「調子はどう?」とお伺いを立てるとする。
そんな時のヒッキーの答えは大体こんな具合だ。

(-_-)「普通じゃないと思う。元気じゃないと言えばうそになるだけど、本人にそのつもりはないよ」

つまり面倒な奴なんだ。
 
しかしそんなヒッキーにも幾人かの友人がいた。
どんな世界にもヒッキーのように口下手で天の邪鬼な奴は一定以上蔓延っているものだし、
その手合いに限って群れたがったりもする。ヒッキーに近寄ってくるのも大抵そんな連中だった。

ヒッキーは、表面上そんな友人たちを煙たがっていたものの実際のところは随分と喜んでいたらしかった。
幸いにも小学校から大学まで学びを共にする友人もでき、
彼は不幸な孤独を感じないままに学生生活を終えることができた。
 
学生という身分を失う少し前、周りが就職活動とかいう訳の分からないゴマすりに必死になっていた頃。
ヒッキーは何もしていなかった。強いて言えばそれまでと同じ生活を続けていた。
だから彼は当然のごとく就職先を見つけることができず、結果卒業後は部屋へ引き籠るようになった。

ヒッキーと同じく口下手で天の邪鬼な奴らは労働の義務を果たすべく次々と働き口を見つけていった。
ある者は銀行員に、ある者はパチンコ屋の店員に、そしてある者はシステムエンジニアに。
自らの就職先を探し当てて余裕を得た者たちはヒッキーのことをやたら心配するようになった。

しかしそのたびにヒッキーはこう応じた。

(-_-)「問題ないよ。どうせ僕は人生に向いていないんだ」

それは、本心と虚栄の入り混じった、複雑な心境の吐露だった。

205 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 21:56:49 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーの両親は一人っ子の彼に醜いほど甘く接していた。だから彼はのびのびと引き籠り生活を謳歌できた。
家にいれば毎日きちんと三食を得られたし、必要最低限のプレッシャーすらも与えられなかった。

ところがヒッキーは天の邪鬼なものだから、
そんなぬるま湯の環境に人生の浪費とも言うべき強迫観念を感じてしまい、
本来ネガティブに出来ていた性根がますます暗くなってしまっていった。
 
鍵付きの彼の私室は不自由にも似た自由さがあった。
白っぽい壁に囲まれた部屋にはパソコンやベッド、
本棚など外界と遮断されるために必要な装備が十分に用意されていた。

生活力がないヒッキーが、たった一つ得意にしていたのが掃除であるものだから、
無闇に室内を侵犯されることもなかった。不自由と自由で混み合っている部屋の中で、
やがて彼は壁紙に油性マジックで適当な言葉を書き殴り始めた。

それは憂鬱なヒッキーにとって憂さ晴らしにもなったし、
日々増えていく言葉が彼に奇妙な達成感を与えるのだった。彼が書く言葉は、こんな具合だ――。

『人生が! 環状線のようにぐるぐると回り続けて! 
 周りの風景だけが我々を置いて日々変わっていくようなものであれば! 
 そして人生を終えてようやくどこの駅でもない線路の途上で立ち止まることが出来るのならば!』

206 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 21:59:44 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーの書きつける言葉にはいつも結論が欠落していた。
彼は先々のことを考えるのがとても苦手で、
だから自分の思いついた発想でさえも上手く終着点まで持っていくことが出来ずにいるのだ。

彼も時々は将来について考えを及ばせることがある。
しかしその度に上手く立ち行かないのだ。それは絶望でも諦観でもなく、ただただ漠然とした混乱だった。
 
ヒッキーの友人達は時々彼を気遣って休日に飲みに誘ったりしてくれる。
どうせするべきことなんて何も無いからヒッキーはその全てを承諾している。
実際に会ってみたところで状況が好転する要素は何一つ見つからない。

ただ互いの愚痴を投げつけ合い、愚痴の無いヒッキーは安っぽい酒で精神を濡らすばかり。
そしてそれから数週間経ってまた誘いが来る。承諾する、濡らす……
繰り返しであることには部屋の内側も外側も変わらない。

しかし時々、この誘いを全部断って友人との連絡を完全に遮ってしまうことを妄想する。
そうすると、何とも言えず背徳的な快楽を感じられるのだ。
ヒッキーは、友人達が何故未だに自分に優しくしているのか分からない。

もっとも、飲みに誘われること自体優しさであるともあまり思えてはいない。
しかし状況証拠だけ並べ立てればきっと彼らは情けをかけてくれているのだろう。
頭で理解するのは簡単だが心情としてはそんな全員を裏切ってしまうこともやぶさかでは無いと考えている。

全ての優しさを撥ねのけてしまったとき、何かが変わる気がするのだ。
友人も、両親さえも遮断してしまえばヒッキーは何にも依拠できなくなる。
そうすれば、人生は半強制的にヒッキーへ社会と向き合うよう脅かしてくるのでは無いだろうか。

誰かにその考えを披露したと仮定した際に、返ってくる言葉の種類は分かりきっている。

(´・_ゝ・`)「何も変わらない。むしろ悪くなるばかりだ」

大体こんな具合だろう。当然の忠告だ。
だからヒッキーは実行に移さず現状に甘んじている。

207 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:02:31 ID:ecWgD/1k0
『誰も俺の頭をのぞいてはいないだろうね? 
 でも人間なんて大抵分かりやすい生き物だから、俺のことだってわかられてはいるんだよ? 
 ただ指摘するのが面倒なだけでさ?』
 
舐めたら泥の味がしそうな粘っこい雨が窓外を濡らしていたある日、ヒッキーは壁紙にこう主張した。

『爆撃の後には雨が降ると言ったのは誰だったか? 哀しい戦争の話! 
 それが真実であるならば、何故世界は延々と雨で濡れそぼっていないのだ? 
 
 今日だってどこかのベランダで誰かがロープを首に巻き付けているんだ、
 それが戦争でないというなら、何故彼らは死なねばならない?』

ヒッキーは一度だけ、自らも死んでしまおうと剃刀を手にしたことがある。
それで手首を切りつけてしばらく待ってみた。どす赤い静脈血が目一杯溢れたが、やがて止まってしまった。
ヒッキーはいつまでも意識をまともに残したままだった。その時ヒッキーはほんの少しだけ涙を流した。

大泣きできるほどに、彼は死というものに対して本気では無かったのだ。
彼は積極的に生きようとも思っていなかったが衝動的に死ねるほどの消極さも持ち合わせていなかった。

208 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:05:32 ID:ecWgD/1k0
こんなヒッキーにも一度だけ恋人が出来たことがある。
それは高校時代の話で、名前をミセリという女の子だった。
彼女もヒッキーに負けないぐらい捻くれた性格の女の子だったが、容姿だけは奇跡的に抜群だった。

そんな彼女が最初の異性体験にヒッキーを選んだ動機は今もって分からない。
しかし何れ明らかなのは、ミセリがヒッキーに告白をして、
ヒッキーもその時ばかりは正直に彼女の熱意を受け入れたという事実である。
 
純情に充ち満ちた日々は凡そ半年程度継続した。
ミセリは映画、特に古典とも呼ぶべき昔の洋画が大好きだった。
その話をしているときの彼女の目は純朴としか言えないほどに輝いていた。

ところがヒッキーには彼女の話の半分も理解することができなかった。
彼女に話を合わせてみようとモノクロ映画に数度挑戦したがいずれも挫折する。
こんなものの何が面白いのかが分からない……ヒッキーは欠伸混じりにそう考えるだけだった。

そのような違いが二人の関係に即効を示すわけでは無かった。
ある時ヒッキーはいつも通り皮肉っぽく、白黒映画が根本的に理解出来ないのだとミセリに告白したことがある。
その際の彼女の返答はこんな具合だった。

ミセ*゚ー゚)リ「別に貴方にそんなの求めてないわ。
      それに、そういう考え方に相違があるのって、逆に素敵なことだと思わない」

ヒッキーはまるで救済されたかのような心持ちだった。
はにかんだように笑う彼女を真実愛おしいと考えた。
ヒッキーは、もう少しで自分の悪癖を完全に治癒することが出来ただろう。

209 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:08:39 ID:ecWgD/1k0
しかし最早その機会は永遠に訪れるまい。半年間の蜜月の後にミセリはヒッキーに別れを切り出した。

ミセ*゚ー゚)リ「他に好きな人が出来たの」

(-_-)「何だよそれ、どんな奴?」

その質問に意味は全く無かった。
口調からも視線からも、ミセリが離別を決意しているのはヒッキーにさえ明らかだったのだ。

それでも訊かざるを得なかった。すると彼女は近所に住んでいる大学生なのだと答えた。
その人とは幼なじみのような関係で、大学では映画研究部に所属しているのだと。
その男とはどんな映画を話題にしても通じ合えるし、その時間が何よりも素晴らしいのだと。

貴男と話しているときよりも数倍充実した時間を過ごせるのだと。だから私は貴男より彼を選びたいのだと。

ミセリの滔々とした告白をヒッキーはただ無心に聴いていた。声が脳みその直上を掠めていくような具合だった。

(-_-)「そうなんだ」

ミセ*゚ー゚)リ「そうなの、ごめんね」

それはヒッキーが彼女から聞いた、最初で最後の謝罪だった。

210 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:12:06 ID:ecWgD/1k0
そして二人は別れることになり、ミセリは少し年上の大学生と付き合い始めることとなった。
それが今でも継続しているのか、或いはありがちな形で崩壊してしまっているのかは分からない。
今やヒッキーの心に時々ミセリが浮上するのは、自らの人間不信がいつ頃始まったのかを考えたときだけだ。

彼女と別れてしまったという事実自体は然程尾を引く痛みでは無い。
ただヒッキーを苦しめているのは、彼女が自分に対してくれた救済の返答をいとも容易く覆してしまったことにある。
いや、彼女をして当初から嘘をつくつもりでミセリにそのような言葉をかけたわけではないだろう。

きっとその際には本心であったに違いない。
しかしどのような形かで幼なじみの大学生という存在が現出し、
その趣味嗜好が自らに合致するのだと悟った瞬間、彼女は心変わりを起こしてしまったのだ。

それは彼女にとっても驚愕の出来事であっただろう。

些細な芸術の端緒にも赤い糸が結びつけられている場合があるというだけの話だ。
誰が悪いわけでもない、誰にも罪はないのだ。
だからヒッキーの、この遣り場のない居たたまれなさも未だ脳内に滞留して時々姿を現せてしまう。

一連の経験がヒッキーをますます口下手に、ますます天の邪鬼にしてしまったのはまず間違いない。
しかし、だからといってヒッキー自身が現在、人生を擲ってしまっていることを他人のせいには出来ないだろう。
一生の中には大きな起伏を孕んでいる部分がある。それを学ぶべき良い機会だったのだ。

しかしヒッキーはいまいち自分の体験を消化できなかった。人生に向いていない……
その言葉が示す一端がそこにある。

過去に囚われて現在を浪費してもどうしようもないことが分かってしまっているから、
彼は今日も油性マジックで壁紙に、端数のような言葉を書き殴るのだ。

『人生は歩んでいくたびに自分がマトリョーシカであることに気付かされる! 
 年を取る度に殻を剥がされて、だんだん自分の存在が小さくなっていく! 
 だんだんだんだん、小さくなっていく! 

 それでも消えられない! 
 羽虫のように小さい何かが残り続けている!』

211 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:14:20 ID:ecWgD/1k0
何時の日か、ヒッキーはこの壁面を埋め尽くしつつある言葉を使って小説を著わそうと思ったりもしている。
しかしそれが不可能であることも同時に悟っているのだ。

言ってみればここに記されているのは縫合も困難な傷口のようなもので、
どうしたって繋ぎ合わせられるものでは無い。

あまつさえ、どこにも結論が無いのだから物語を描いたところで如何様な結末も与えられない。
それでもいいのではないか、とヒッキーは考えてしまうのだが終わらない物語の苦痛について、
何日も何ヶ月も遂には数年近くも引き籠り続けているヒッキーはよく理解しているつもりだ。

死の苦しみを知った上で誰かを惨殺するほどには、彼は発狂できていない。
壊れてしまうにしてもそれはきっと内部の話で、外部に発散することは出来ないだろう。
そのような殺伐とした心情を表す言葉をヒッキーは知っている。

そしてその言葉は、壁のあらゆる所に鏤められているのだ。

『どうでもいい』

『どうでもいい』

時には迫真の態度で、時には消え入るような調子でそれは書かれている。
そして日々を越えるごとにその自暴自棄は深みを増しているような気がしている。

212 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:18:02 ID:ecWgD/1k0
数年も経つと、自分を取り囲む壁の殆どが文字で埋め尽くされ、
最近では書き付けるスペースを見つけることさえ難しくなってきた。

そうなると、壁は違った側面を見せ始める。
そもそも、ヒッキーは壁に書き殴った言葉について、いちいちその時の記憶を保持しているわけではない。
だからそこに存在しているのは、自分の言葉でありながら自分の言葉で無いのだ。

数年前か、或いは数ヶ月前に書いた言葉は、しかし今の自分の思想と違えている部分はあまりない。
自分が進歩していないおかげで、壁はただ一方的に言葉を叩きつけられる存在から、
自らも言葉を投げ返す劣等なコミュニケーションの手段と化したのだった。
 
例えばヒッキーはその日、こんな言葉を書こうとした。

『無意味に人生が進められていく、今どの辺だ? 
 どこかにあるロープがそれを教えてくれるのかも知れない! 
 腐敗した頭を文字で書き表すのはもうたくさんなんだ!』

しかしそれに似た言葉はすでに用意されていた。

『どうせ死ぬ勇気も無い、死せるだけの手段もない! 
 それならば結局生きていくのだ!
 無様に、無恥に、遺書の風体を装った文字を完成させることも出来ずに書き殴ってばかりで!』
 
壁そのものの存在自体、自分以外の人間にはどうでも良い程度のものであることぐらいは何となく理解出来ている。
そこにへばりついている言葉も含めて、他人にとっては空虚な面にしか映らないだろう。
ヒッキーにはそんな無意味さが、人生の全体に適用されている気がしてならない。

213 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:21:37 ID:ecWgD/1k0
時々優しき友人が忠告と説教を綯い交ぜにした言葉をヒッキーにくれるのだ。
鬱病の人間に頑張れと応援してはならないなどと言う屁理屈で人生を浪費するつもりは無い。
しかしそれらの有り難いお言葉は結局ヒッキーの中で何にも干渉できず通過して言ってしまうのだ。

仮に干渉できたとして、ヒッキーは上手く消化できるだろうか。そんな筈がない。身が燃えるだけだ。
皮膚が徐々に焼け爛れていって積極的に死を死んでいくのを徒に早めるだけの結果を生む。
それは恐らく誰にとっても本意では無いのだ。

壁面の言葉がいくら数を増しても小説にならないのと同じように、
言葉が並べ立てられることには根本的に意味を持てない欠陥があるのだ。
それは本当の意味では人間を救わないだろうし、本当の意味で人間を変えられないだろう。

『だが本当の意味ってのは一体何なんだ? 
 それはどこかには実在しているものなのか? 
 俺たちが頭の中だけで勝手に考えているだけじゃ無いのか?』

その答えは、幾ら剃刀を腕にあてても出てこない。

『どうでもいい』

214 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:24:22 ID:ecWgD/1k0
だからヒッキーは自らの頭がおかしくなったとも思わずに壁と会話することが出来るのだ。
無意味な人間と無意味な壁が、無駄に互いの許容し合える部分を探してぎこちない会話を繰り広げている……
それは、まるで世間そのもののように思える。何れ人間というものは、誰だって虚ろな壁に囲まれて生きているのだ。

それは存在と不在を繰り返し点滅させながら、都合良く自分たちを覆い隠してくれたりもする。
ただし、そのせいで他の誰をも信用に足らない。
誰の壁にもその内側は言葉に似た感情的な表現で埋め尽くされているだろう。

それらを少しでも解き明かそうとすれば果てしない徒労を必要とするだろうが、
わざわざそのような苦難を選ばずとも人生を進めることは出来る。
外側からその壁を見ても、結局は何も分からない。

だから過剰なまでに言葉を交わして互いを理解するよう務めなければならない。
それが人間という生き物のシステムであるし、利点でも欠点でもあるのだろう。
進化の過程に文句をつけたところでどうしようもない。

『頭では分かっているんだ、コンドームをつけてセックスをするなんて、きっと無駄以外の何者でもないだろう! 
 けれどそのチャンスがあったら飛びつくんだよ、きっと!』

だからヒッキーは人生に向いていないのだと断言できる。
無駄な思考が思考停止でしかないことを知っていながらなお思考を続け、
遂には空虚であるべき壁を具現化してしまったのだから。

215 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:28:16 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーは、壁の前だけでは饒舌になる。話が合うと分かりきっているからだ。

(-_-)「結局誰もが知っている筈なんだ。誰が好きこのんで人身事故を起こしていると思う?
     彼らの身体が散らばっていくのを、目撃はしなくても想像ぐらいは出来るだろう。
     彼らだって本当は死にたく無かったはずだ。けれど死なざるを得なかった。

     そこには色んなプレッシャーや、責任感や罪悪感が渦を作っていて……
     それで、結局どうしようもなくなってある日唐突に自殺を思い浮かべるわけだよ。
     それを誰だって知っているだろう。この世の病だって分かっているんだろう? 

     その片鱗は、誰しもの内側に少しずつ書き込まれている筈なんだ。なのにどうしてこうなる?
     なのにどうしてこうなってしまう?」

『臆病者ほど主張者でありたがろうとする、だが哀しいかな、そいつは臆病者にしか見えないんだ!』

(-_-)「僕にだって変わることの出来る機会はあったんだろうね。
     今頃社会の一員としてバリバリと働いていた未来があったのかもしれない。

     ミセリ……。畢竟、僕は何を怖れているのだろうか?
     取り返しが付かないほどに、未来を亡失してしまっていることに今更絶望しているんだろうか? 
     それすらも分からない。僕はどうして自分がこんな気分になっているのかさえ理解出来ないんだ」

『ここに書かれる言葉の数々は全て無意識からふいと湧出したものであると宣誓する! 
 何を書いてしまっても自分は責任を持てないし、また書いたときの思考も全て忘却してしまうことを約束する! 
 だからどうか安心して欲しい!』

(-_-)「安心って、一体誰を安心させるんだ?」

『どうでもいい』

(-_-)「どうでもいいよな」

『どうでもいい』

216 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:33:34 ID:ecWgD/1k0
自分のことなんて幾ら話しても話し足りない。
そしてその内容も、棺に入って燃やされるまで完結させられないのだ。
だから社会は空気を読んで一定の区切りをつけて口を噤む。そして相手の話を傾聴することも必要だ。

それは恩返しにも似た事前行為なのである。しかし壁の内側は常にそれ以上の言葉で溢れかえっている。
それが氾濫したとき、言葉は涙や声にならない叫びといったような抽象的な逃避手段に姿を変える。

壁面はほんの少しだけ整理されるが、まだ足りない。まだまだ足りない。
きっといつまでも、自分たちは自分たちの話に飽きることを知れずに一生を終えてしまう。
もしも魂が別の器に移されて新たな人生が始まるのだとしても、やることは前と変わらない。

或いは、言葉にする前に死ぬかも知れないが、いずれ満ち足りはしない。

(-_-)「どこかの国じゃ今こうしている間にも飢餓で苦しんでいる子どもが死んでいるそうだ」

『どうでもいい』

(-_-)「原発が事故ったら大変なことになるんだって。だから出来ればあれは使わない方がいいみたい」

『どうでもいい』

(-_-)「……そうなんだよ、結局何もかもどうでもよくなってしまうんだ。
     手に負えない問題を取り扱うのって、結構骨が折れるんだよな。
     自分一人が考え続けたところで何も変わらない。

     それでいて、問題は相変わらず脳内に居座っているんだ。
     ちょっとどいてくれと言ってもなかなか難しい。

     思想なんて言うのは一種のファッションでさ、それをやってる間はちょっとハイな気分でいられるんだ。
     浮き足立つとでも言えばいいんだろうか。自分自身の壁に、ちょっとした主張と言う名の糊塗が出来る。
     よく見ればこの壁面にも……随分と社会的なことが書かれているじゃ無いか。

     そいつらと会話したことは無いけれど、きっと正面から向き合ったらかなり気恥ずかしいんだろうな。
     社会に出たことも無いものだから」

『うるさい! うるさい! やかましい! ちょっと自分の人生で忙しいんだ! 放っておいてくれ!』

(-_-)「奇遇だね、僕もなんだよ」

217 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:36:28 ID:ecWgD/1k0
やがて自分はこの壁をも撥ね付けてしまう日が来るのだろうか、とヒッキーは些か恐怖している。
壁と話しているなんて事実は傍目からすれば決して格好のいい話では無い。

だからこの奇行を誰かに知られてしまったら、
その知った相手は確実にヒッキーを精神病院へ搬送しようとするだろう。

とは言え、そのような最悪の形でヒッキーが壁と離ればなれになってしまったとしても、
結局壁は暇無く彼を包んでいるのだから何も心配することは無いのかも知れない。

真実怖ろしいのは、壁と話が合わなくなってしまう瞬間だ。
内なる壁とのコミュニケーションが良好で無くなってしまったら、ヒッキーには最早何も残らない。

物語としての完成を見ないことが分かっている自らの言葉の横暴を赦せているのは、
そうやって紡ぎ出された言葉が少なくとも自分自身にとって意味を持っているからだ。
誰にとっても意味を失った言葉に一体どれほどの意味があるだろう?

『どうでもいい』

ちっとも、どうでもよくないのだ。壁が自ずからヒッキーを拒絶することはまず有り得ないだろう。
しかしヒッキーの心情によっては壁を撥ね付けることも壁に撥ね付けられることも十分にあり得る。
そしてその心情とやらがどんな風にして移ろってしまうのか、自分自身でも分かっていないのだ。

218 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:40:04 ID:ecWgD/1k0
(-_-)「ミセリのことを憶えているかな。僕の人生が一番人生らしかった時間のことだよ。
     彼女は今幸せなんだろうか。それとも相変わらず捻くれてしまっているのかな。
     彼女にも……こんな壁があるのかな。

     それにしても、僕はどうして今更彼女のことについて喋っているんだろうね。
     本当は自分のことなんて、そんなに語れるものじゃないのかもしれない。

     いや、怖がっているんだ……誰だって、人間関係の大半を放棄した僕でさえ、
     個人的な秘密を口にするのはどうしても躊躇われる……
     秘密なんてものが僕にあるのかは分からないけれど。

     それでも、怖くて怖くてたまらないんだ。本当に必要で本当に大切なことは、
     どうやったって言葉にはなりきれないんだろうか……」

『どうでもいい』

(-_-)「本当に?」

『どうでもいいと思えないなら喜ぶべきだろう! 
 生きる価値があると思えているんだから! 錯覚! 錯覚! 錯覚? 錯覚!』
 
再び剃刀を手にしたときも、やはりヒッキーは何も考えていなかった。
そして手首の血管に目がけて傷痕を残し、再び死ねないと悟ったその直後、
ヒッキーは号泣に近いほど声を上げて涙を流した。何かが限界まで膨らんではちきれそうだったのだ。

どれだけ泣き叫んでも彼の私室は無敵だった。誰も訪れなかった。
数時間かけて泣き尽くしたあと、ヒッキーはもう一度剃刀を手に取ったが、
今度は死への恐怖で腕に沿わせることすら出来なかった。

状況も心境も何も変わっていないはずが、行動だけ奇妙に変貌している。
それが喜ぶべき状態なのかヒッキーには判然としなかったが、彼は再び壁との会話を続けることとなった。

219 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:43:18 ID:ecWgD/1k0
(-_-)「今度、また友達と飲みに行くんだ……
     いや、まだ僕に彼らを友達と呼ぶ権利があるのかは分からないけれど……
     そこでまた、この前の飲み会と同じような会話が繰り返されるんだよ。

     そろそろあいつらも責任のある仕事をするようになってるから、ますますストレスは増えているだろうし、
     溜め込んだ愚痴も爆発しかけてるんじゃないかな。

     でも最終的に一番気遣われるのはやっぱりこの僕なんだろう。
     そろそろ進退窮まっているからねえ。

     だから死のうとしているというのはすごく真っ当な理由に聞こえるんだけど、
     でも、実際はそういうわけでも無い気がする。
     緩慢に自殺したいわけじゃ無く、衝動的に唾棄されたいんだろう。

     でも、誰にもその違いなんて分からない。
     僕にも分からないよ、結論が出ないんだから。
 
     子どもの頃、死ぬことがすごく怖かった。
     死んでしまったら暗くて寂しい場所に独りぼっちで放り出されるんじゃ無いかと考えてて、
     夜中になるとそれを思って泣いたりもしたよ。

     今だって、泣きはしないけど死ぬのは怖い。けれどああいう時ってどうしようもないんだね。
     多分これからも繰り返されるんだと思う。そしてその度にきっと死ねないんだろう」
 
そしてヒッキーは壁の返答を探した。
出来れば『どうでもいい』以外の返事がよかった。
その時に見つけた、最も相応しいと思われる言葉はこうだった――。

『人生は途中で止められる! 
 環状線を一直線のように錯覚も出来るんだ! 
 しかしそれに気付いたときには、もうすでに人生を何周かしている!』

220 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:48:23 ID:ecWgD/1k0
とある作家の言葉を思い出した。
『人生にご用心』……その通り、人生とはまるで麻薬のようなものだ。
その舞台上に立っているだけで何だか自分も延々と踊り続けられるような気がする。

しかしよくよく考えてみれば、人生と言う名のプランターで大麻を栽培しているのは他ならぬ自分自身なのだ。
絶望も、希望も、喜悦も、落胆も、結局のところマッチポンプの躁鬱に過ぎない。

時々薬が切れて気分が沈んだりもする。
ヒッキーはいつ頃からかそのような具合で、最早新しい大麻を栽培する気力さえ無い。
壁の言葉も結局は、薬が創り出した譫言に過ぎないのかも知れないのだ。

『だが全てを悟った風にしてどうする? 
 悟ることは本当に正しいことなのか? 
 悟ってしまった限り、もう二度と考えを変えられない、それでもかまわないのだろうか?』
 
ヒッキーは自分が死に向かって一直線に進行できるとは思っていない。
きっと漸近線を描くように、いつまでも死には辿り着けないのだ。
ありふれた若い妄想……しかしこの部屋で壁と対話している限りはそんな気がする。

老いてゆく自分の姿が想像できない。
脳の衰退と共に楽観的な気分で死を受け入れられるようになる自分が未来の何処かに存在しているとは思えない。

『ああ、また新しい朝が来ている……』

止め処ない思考はいつも次の一日へ漂着する。時間はヒッキーに後れを取ることも置き去ることもしない。
規則正しい工場の製造ラインのごとく、コンベアは一定の速度で彼を運び続けている。
そして人生にあらゆる部品を取り付けたりもするのだ。

ただしヒッキーを載せているラインは指令系統にバグが生じているらしく、
内部からの瓦解に対して適切なパッチが与えられていない。

『いや、そもそも最初からバグっていたんだ! 
 頭なんて持たなければ良かった!』

首の無い人間が街を歩いていたら、或いは誰かが慈しんでくれるかも知れない……。

221 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:51:33 ID:ecWgD/1k0
誰かが自分を責め立てているような被害妄想が、常にヒッキーを襲い続けている。
それは自らの身分が責められても仕方ないほどに愚かなものであると自覚しているからであろうが、
だからといってその妄想に心を捩らせずに済むかというとそういうわけではないのだ。

人生に起きる大抵のことは、納得出来なくは無い。しかしそれとは関係無しに、精神が悖るのだ。
発狂しそうにすらなる。そうまでしても、まだ生きていようとするのだから人間というものは質が悪い。

だが、そういうものなのだ。
誰もがそのような妄想がそのうち払拭されることを知っている。
或いは払拭してくれる人の存在を心待ちにしている。

本気で絶望するというのは、案外体力が要るものだ。
ヒッキーを攻撃している何者かも、気が済んだら消え失せてくれるのかも知れない。

しかし、そうならなかった場合はどうするのか。きっと本気で絶望する以外の方策を探し求めるのだ。
ヒッキーは所詮脆弱な人間だから、その際には部屋を出て誰かに縋り付くこともやぶさかではない。

自分は結局のところ寂しさを拭い去ってくれる何かを求めているのだろうか? 
ある時期にミセリがそうであったように、もしくは今でも少数の友人がそうであるように、
今腕を濡らしている僅かな静脈血のように、一瞬でも寂しさを忘れられる何かを欲して止まないのだろうか。

それが結論なのだとしたら随分と滑稽な道筋を歩んできてしまったものだ。
面倒な遠回りばかりしてきてしまった。

222 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:54:58 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーが所望しているのは抽象的な哲学への解答では無く、
リアリティに溢れた愛情でしかないのかもしれないのだ。それこそ、ラブストーリーで事足りるような……。

それはきっと、ヒッキーの人生を鮮やかにしたことだろう。
落涙する。今まで自分は何をやってきたのだろうかという、後悔よりも深い嘲笑。

だが、ヒッキーは今なお童貞のままだ。
世間的に見ればきっと彼は寂しさを払拭しようにも成し得られないように映るのだろう。

それは最早正しい。ホスピスは決して生への執着を推奨しようとはしないものだ。
錆び付いたコンベアの上で、ちょっと長く留まり続けてしまっていた。
人生は加速も逆行も出来ない不可逆性を持っているからこそ、諦めをつけられるのだ。

ヒッキーはもう一度同じ言葉を書いた。

『どうでもいい』

人生と、ミセリと、思考と、自分自身への正答だ。
とうの昔に判然としていた現実……容易い人間の容易い人生に対する、素っ気ない六文字……。

223 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 22:57:58 ID:ecWgD/1k0
この部屋がサイコロの展開図のように切り開かれたら、と想像する。
壁が倒れて夕陽の酷い眩しさが自分の全てを覆ったときのことを考える。

それぐらい詩的な事態が発生すれば、自分に何らかの変異が生じるだろうか。
光は自分を成長させてくれるだろうか。いや、もうどうでもいい。
友人達がいずれヒッキーを見捨てても、ミセリが幸せに満ちた生活を送っても、何一つ自分に損害は無い。

実際にそうなってみないと分からない、という反論もあろうが、そもそも人生には決定的に実感が欠落している。
ミセリが別れを切り出したとき、自分はもう少し醜く恋慕を引き摺ってもよかったのかもしれない。

しかしそんな気分にはなれなかった。
テレビが映し出す圧倒的な不幸や孤独に対して衝動的に発憤してもよかったのかもしれない。
しかしそんな気分にはなれなかった。
 
だからもしも壁が開かれてこの姿が露わになったとしても、自分自身は然程慌てたりしないだろう。
望むなら剃刀を片手に顰蹙を買ってやってもいい。
その自暴自棄の具合ときたら、たぶんアダルトビデオに出演する乙女のようなものだ。

代わりに、自分自身も観察者として世の中を見渡せることだろう。
西日に差されて晒される社会とやらが、自分にはどう見えることか。
壁を失った世界がどれほど醜悪になることか。

そう考えると、ほんの少し楽しみだ。
しかし実際にそのようなことは起きないのだからやはりどうでもいい話なのである。

だから心配しないで欲しい。誰もが壁に守られているし、誰も互いの内側を覗き見ることは出来ない。
たとえ人生が、眩しすぎる太陽に照らされているのだとしても、その下で眺められる表面上の言葉は、大抵

『どうでもいい』

なのだから。

224 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 23:02:23 ID:ecWgD/1k0
浮き上がって見える言葉に大した効力など無い。
死人の切断面すら、既に何かを塗布されている。生きている間も死んだ後も、何を思う必要も無い。
終着駅を探す自信が無いのなら、コンベアの上でただじっとしていればいい。

何れそれは最期の地点にまで連れて行ってくれることだろう。
意味など見出せないこの人生をいうものは、一見不治の病のように見えてその実麻疹のようなものでしかないのだ。

だから心配しないで欲しい。どうでもいいのだ。

『どうでもいい』

本当に、それしか言うべきことがない。





225 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/05(日) 23:04:42 ID:ecWgD/1k0
次は10月6日の夜に投下します。

では。

226名も無きAAのようです:2014/10/05(日) 23:24:22 ID:TVbcndFw0
おつ
本当によくここまで掘り下げれるなと思うわ

227名も無きAAのようです:2014/10/06(月) 10:00:44 ID:/hKAQ54w0
おつ
次のタイトルが目次の時から気になってたから楽しみ

228名も無きAAのようです:2014/10/06(月) 12:06:48 ID:wFG2Ymgo0
たまにこういうこと考えたりもしたけど言葉には出来ないな、まして誰かに見せられるほどなんて
おつ

229 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:19:17 ID:ok723CeU0
9.ジジイ、突撃死 20140926KB

※ ※ ※

……畢竟、我らは規範と理性に縛られている限り、真に人を想うことなど出来ないのかも知れない。
だが、決してそれらから解き放たれようとしないことだ。
人を想うことは、人に尽くすことと同義では無いのだから……。

※ ※ ※

230 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:22:25 ID:ok723CeU0
……此処はいったい何処であろう。居宅の中であることは確かだ。
何しろ、今の私に独りで外出する気力体力などあるわけが無いのだから。
 
然し、だからといって今、私のいる場所が居宅のどこに位置しているのか、
一階なのか二階なのか、或いは庭先に転げ落ちてしまっているのか、さっぱり分からぬ。

無論、この家を購ったのは紛れもなくこの私だ。
確か四十年と幾年か昔あたりに、当時新妻だった婆さんに見栄を張るため、無理をしてローンを組んだのだった。
それから数度改築をし、何度かの天災を経ながらも、この家は今日まで立派に耐えている。

そんな我が居宅は私自身の矜持そのものでさえあった。
仕事から帰り着くたび、また退職して近所を買い物がてら散歩して帰ってくるとき、
ここへ頑然と構えている家の眺めに、何だか誇らしくなることもたびたびであった。

当然我が息子もこの家で育ち、孫さえもよく遊びにやってきてくれていた。
 
そんな人生の大部分を占める我が家について、今の私はもはや、その間取りすらも判然としないのだ……。

231 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:25:29 ID:ok723CeU0
視界はもう、とうの昔からボヤボヤとしている。
間近なところを多数の羽虫が飛び交っているような具合だ。

聴覚は水底不覚に沈みこんでしまっているように音が籠っていて、
近所から聞こえてくる生活の音がわけのわからぬ言語のようにさえ聞こえてくる。

唯一、触覚だけが背中の方から伝わってくる淋しい冷たさを全身に伝えている。
だが、それでさえフローリングの冷たさなのか、
はたまた私の身体が新しい不調を訴えているのか、見当もつかない。
 
だがどうせ……いつものことだろう。

私はまた、どこから湧き上がったかも知れぬ力で己のベッドから転がり落ち、
意思なき意思によって行動を決意し、誰の視線を恥じらうことも無く、
死に損なった百足よりも無様にのたうち、もがき、這いずり回っているのだろう。

いや実際、今の私が死に損なっているのは間違いないし、あまつさえ百足なぞよりも遥かに有害でさえあるのだ。
そして何よりも絶望的なのは、そんな自分を悔いたり、羞恥を覚えたり、
反省するなどという気持ちが僅かでさえも首をもたげぬことなのだ。

/ ,' 3「……!」
 
私は何らかの声をあげた……それは、
ウウ、とかアア、とか、言葉では形容できぬ耳障りな呻き声であったに違いない。

それは本心からの叫びではなく、どこからともなく現れる、
私の感覚器を支配した何者かによる意図のない怒声なのだった。
こんな光景をいつだったかテレビのドキュメンタリー番組で視たような憶えがある……いや、或いは幻想であろうか。
 
……どっちだっていい。どうせ正確な過去など思い出せるわけもないし、
誰かが私の言葉を擁護してくれるわけでもないのだ。

この期に及んだ私に最早一人として信頼なぞ寄せてくれるわけもなかろうし、
あまつさえ我が息子でさえ乳飲み子のように私を弄ぶだけなのだ。
 
……否、そうか。そう言えば、息子は昨日か数日か前に、私に愛想をつかせて出て行ったのだった……。

232 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:28:21 ID:ok723CeU0
現在の私はどのような姿をしているのだろう。

しっかりと認識していた頃から既に禿げかけていたこの頭には僅かな白髪が乱雑に散らばっていて、
弛みきった皮膚には無数の皺が刻まれている筈だ。

そして下半身……嗚呼、そのことなど寸分たりとも思い出したくない。
考えてみれば息子に下の世話を任せるようになってから、私は余計短気になり、癇癪を爆ぜるようになったのだ。
私の感覚がマトモであったなら、きっと堪え難い汚物の臭いが鼻腔を貫いていることだろう。

然しその不愉快さを私は微塵と知覚せぬ。
もしか、これは真実、天国のような心持ちであるのかも知れぬ。
一切の事物から解放され、脳味噌の底の底だけが微かに労働しているこの状態こそ……。

233 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:31:26 ID:ok723CeU0
(´・_ゝ・`)『すまないけれど、僕にだって仕事や家庭や、人生というものがあるんだ。
      人間なら誰しも体力と精神力に限界値というものがあってね……。
      どうも、今の僕や、僕の奥さんには、父さんの面倒を見るだけの容量が足りてないみたいなんだ。

      たぶん……いや、キット父さんにはなんにも分かっていないんだろうけどね、
      だからこれ以上敢えて何も言わないよ。もし、父さんが僕の言葉を正確に聞き取っているなら、
      僕はきっと思いつくだけ罵詈雑言を浴びせつけるだろうね。

      けれど、今の父さんに何を言っても無駄だ。
      それがわかってしまう、これを虚無感と言うのかもしれないね。

      小学生の頃、頭ごなしに怒鳴りつけられていた時とおんなじような気分だよ。
      どちらが正しいかなんて関係なくってね。むしろ、今の僕は、どうしようもない親不孝者なんだろう。
      でも、それでもなお、この道を選ぶしかない僕のことを、どうか許しておくれよ……』

234 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:34:23 ID:ok723CeU0
息子が残した別れの言葉が脳裏を反復する。
あの時、表面上の私は何と返事をしたのだろう。どうせまた、宇宙語で不快感をぶつけたに違いない……。

嗚呼、然し決して息子を責めてはならぬのだ。
ありふれた言葉で表すならば、物事には優先順位というものが付き物なのだから。
息子の嫁や、孫のことを差し置いて、私の世話をする義務など何処にあろう。

彼にとって肝要なのは彼自身を大黒柱とする唯一無二の家庭なのであり、
そしてそれを出来る限り存続させてゆくための人生なのだ。
出来ることなら私のような、重度の痴呆老人のために時間を割くべきではない。
 
だが、そんな主張を、私は思い通りに表現できぬままであった。
徐々に記憶力や、その他諸々の所謂『自我』が失われてゆく間、
私は幾度も幾度も彼らとの、誠実な意思疎通を試みた。

然し一切は無意味であった。無論、それが認知症の病理なのだから当然の話だ。
やがては全ての感覚器が麻痺し脳髄が退行してゆき、遂には試みることさえ不可能になってしまっていた。

私は、誰のものとも分からぬ意識を誰彼構わずにぶちまけて、そのくせ何の責任も取らなくなってしまっていた。
昔馴染みの友人知人も認知出来なくなってゆき、終いには息子のことさえ分からなかった。
 
……だが、この脳の奥底で、それらの記憶と、紐付けされた意識は確かに存在している。
寝たきりになり、己の生理現象にさえ対応できなくなってもなお、この脳味噌は思考をし、動作し続けている。

外部に向けて発信出来ぬが故、誰にも知覚されることはなかったが、
内部では今でもなお私は私の儘であり、私として生き続けている。
 
その事実は私にとっては僥倖であったが、その他殆どの人々を不幸に陥れてしまった。
私は息子の精神をいったいどれ程に蝕んでしまったろう。息子の嫁をいったいどれ程苛んでしまったろう。
外側の出来事が分からないから、私は彼らの真意を汲み取ることはおろか、予想することも出来ぬままだ。

人生の終端、アルツハイマーの果ての果てにこんな苦労が待ち受けていると、誰が分かっていただろう。
どこかの老人ホームに収容されている死んだ眼の老人に、
判然とした思考能力が備えられていると、誰が予測できただろう。

235 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:37:23 ID:ok723CeU0
……そう、明らかなことは二つだけだ。

一つは、私が未だ殺されてもいなければ、孤独死にも至っていないということ。
そして二つ目は、私の身体がどこかのホスピスに送り込まれることなく、
自宅の何処かに居座ったきりであるということ……。
 
一つ目については火を見るよりも明らかだ。私は熱心な宗教家ではないが、
天国や地獄の概念ぐらいは持ち合わせている。此処は、私の知識にある限りの死後の世界ではない。
かといって私の精神は暗黒に葬り去られたわけでもなく、未だ現世を漂い続けている。

それが証拠に、私は息子の離別の言葉をしっかりと憶えているのだ……
それがどれぐらい前のことだったかは、よく分からないが……。
 
二つ目について……正直、何故私自身が確信しているのか分からない。
皮膚感覚さえ明らかでない今、私が私の居場所を知ることなどどだい無理な話だ。

しかし……何らかの、安っぽいノスタルジーだろうか……
私は今なお、見知った街の見知った我が家の中で独り死を待ち受けているという認識を捨てられずにいる。
ただ、私の頑迷な意識からして、息子らが何処かの施設へ連れていくのを容易に許容するとは思えない。

236 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:40:28 ID:ok723CeU0
そうだ。昔から難儀な性格であった。
代々受け継がれてきた遺伝子のためでもあろう、
男とはこう在らねばならぬという教育や社会環境の賜物でもあるだろう。

とにかく私は如何にも旧世代の人間らしい生き方をしてきたし、
周りにもそういう振る舞いをしていた。ややこしく考えたくはないものだが、
そうしなければ人生における地位や身分を確立させられなかった場面もあるだろう。

時として理論を感情で押し潰し、商売のために客を騙したりもした。
そうして稼いだ金と嫁に貰った婆さんだ。誰だって多かれ少なかれ私と同じぐらい悪いことをしてきただろうし、
また同じぐらい悪い目に遭ってきたのだろう。

だから私は、この末期が決して刑罰であるとは思っていない。
これは遍く人々全てに訪れるかも知れぬ一種の不運であり、最後の籤引きであるというわけだ。
 
私は己の人生の一切に後悔を思わない。
この期に及んでの後悔など、所詮は罪責の丸投げに過ぎないのだから。
 
故に、こうやって息子に愛想をつかされ、居宅の何処かで、
たった独りになった野垂れ死ぬことに関して、私は己の生き様からして、
更に言えばこの世に生まれたその瞬間から決められていた運命であるとさえも感じている。

遡ることの出来ぬ人生に第二の道など存在し得ない。
私の歩んだ揺り籠から墓場までの道程は、予め結論づけられていたものなのだ。
今更ああすれば良かったと、こうすれば良かったと、省みて虚妄を抱くことにいったい如何程の意味があろう。

いずれ、どうしようもない理屈の解答へ導かれただけなのだから。

237 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:43:24 ID:ok723CeU0
(*゚ー゚)『ねえお爺さん、今度補聴器を買おうと思うのだけれど、どうかしら。
     ……いえ、ねえ、もう最近はめっきり、耳も悪くなってきたものだから、
     よくお爺さんの声が聞き取れなかったり、ドラマの音を大きくしすぎて怒らせてしまうでしょう。

     だからと思って、ほら……昨日広告が入っていたんですよ。
     このカタログなんですけれどね……何でも、自分の耳の形に合わせて、調整してくださるんですって。
     
     色々と、専門の方がお手伝いしてくれるみたいだし。
     費用は、二十万円ぐらいするから、高価なお買い物になってしまうんだけれど……どうかしら。

     え……? 
     いやねえ、まだまだ生きていきますよ……そのために、ほら、お医者さんにもかかっていますし、
     色んな健康食品を試してみたりもしているんですからね。

     ……ええ、だってお爺さんの方が三つも歳が上じゃないですか。
     だからね、少なくとも私は、お爺さんよりも長生きしますよ……。
     はい、はい。丈夫ですよ。

     え? 
     ……はい、すいませんねえ。ええ、わかりました、早速電話してみます。
     ……ねえ、愉しみですよ、ね……』

238 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:46:47 ID:ok723CeU0
私の頭を漂流する記憶に、最早整然とした順序など存在していない。
全ての場面が、パノラマ状の壁に貼り出されているような具合だ。
だから、時々ひょいと思考の中へ飛び込んでくる言葉や光景が、いったい何時のものであったか、判然としない。

件の婆さんの言葉とて、もうどれぐらい前のことであったか。
彼女はどこまでも健康的な人間で、此れと言った大病を患うこともなかった。
けれども耳だけは老いて早々に衰え始め、私を苛立たせることも度々であった。

何しろ私の声質は低くくぐもっていたため、それが理由で会社員の頃、上司によく叱責されたのだ。
その当時のトラウマがどうしても蘇ってならなかったのだ。
 
婆さんもそのことは重々承知していた。
然し、どうも日常的に機械を自身の身体に装着することには並々ならぬ抵抗感があったらしい。
無論、逆の立場となれば私だって拒絶していただろう。

その婆さんが自ら私に、補聴器の購入を言い出したのだから、彼女の中で余程の決心があったのは確かだ。
二十万というのは結構な大金であったが、私はすぐさま承知した筈だ。
 
それから一ヶ月程してオーダーメイドの補聴器が届けられた時、
耳につけた婆さんは、それはもう大層な喜びようであった。口には出さずとも、
矢張り普段から随分と鬱憤を溜めていたらしく、それが一遍に吹き飛んでいったような具合だった。

それを見た私は……表面上は、年甲斐もなくはしゃぐ婆さんを鼻で笑っていたようにも思う。
けれども本心では、そんな婆さんが微笑ましくて仕方がなかった。そして、どこかしら安堵のような感情もあった。

婆さんが耳を悪くしたのは、仕方のないことではある。
だがそれは婆さんの、引いては我ら夫婦の老いをまざまざと見せつけられるものであった。

機械に介助されているとはいえ、彼女の聴力が昔に戻ったことは、
何よりも、我々がこれから先もまだ、やっていけるという重大な展望を示唆してくれるものだったのだ。

昔ながらの精神論だけで言うのではない。
そうした日々の所作の一つ一つが、我らの生き延びてゆくことに肝要であるのだと、
改めて気付かされた瞬間であった。
 
そして皮肉にも、その体験は婆さんの死によって訪れた絶望の深さを更に拡げる結果となってしまったのだ……。

239 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:49:20 ID:ok723CeU0
('、`*川『ねえあなた、本当に大丈夫かしら……私、怖いわ』

(´・_ゝ・`)『そりゃあ、僕だって怖いさ……けれど、他にどうすることも出来ないじゃないか。
      もう、一刻も我慢できないんだろう?』

('、`*川『ええ……。
     世間からは、不義理な嫁だって嘲られるのかもしれないけれど、
     私なんか、人より心根が弱いから、これ以上はたまらないの……』

(´・_ゝ・`)『うん、うん。その気持ちは、僕にだって当然、理解できるさ』

('、`*川『このままだったら、私、お義父さんを殺してしまう』

(´・_ゝ・`)『大丈夫だよ。僕たちが此処を出て行ったって、
      週に一度はデイケアーの方が寄ってくれることになってるんだから。
      そこまで惨たらしいことにはならないんじゃないかな……』

('、`*川『でもね、私たち、何らかの罪に問われるんじゃないかしら……』

(´・_ゝ・`)『さあ、分からないな。
      けれどね、これ以上憔悴していく君を僕は見たくないんだ。君だって、そうなんだろう?』

('、`*川『ええ。殺してしまう……殺してしまうわ、あなた……』

(´・_ゝ・`)『わかっている、わかっているよ。だからもう、何も言わなくていい』

240 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:52:25 ID:ok723CeU0
息子は鉄鋼会社に勤めながら妻と、二人の息子を養っている。今もそうしている筈だ。

その生活は決して楽なものではない。
まだ私が『正常』であった頃、彼が世間の景気や給料の額に愚痴を零しているのを聞いたことも数度ではなかった。

それに対して私は気丈に、時には喝破するようにして彼を説諭したものだった。
それぐらいの苦労は誰だって抱えている。無論、嘗ての私も多くの辛酸を舐めてきた。
辛抱に辛抱を重ねて、ようやっと見えてくる道もあるのだ、云々。

息子は黙り込んで、特段表情を変化させることもなく聴いていた。
ただただ聴き入っていたのか、それとも疲弊のあまり言葉が素通りしてしまっていたのか、
今となっては知る由もない。
 
……仮に、私が彼を援助していればどうなっただろう。

と言って、私の資産に然程の余裕があったというわけではない。
何とか定年まで働き続け、食い扶持に困るような事態には陥らなかったものの、
老後の余暇を満喫するほどには貯蓄できなかったのが現実だ。

そのせいで義理の娘が私の面倒を忙しなく看なければならなかった。
介護施設の入所待ちは途方もないと云うし、デイケアーにしても週に一度、依頼するのが精一杯だったのだろう。
 
だが、もしもあの当時、購う自宅をもう少し狭いものにしていれば。
もう少し駅から遠い場所にしておけば。もう少し庭の造作に拘りを持たなければ……。

もしかしたら、人生のあらゆる部分を切り詰めていけば、
私は息子夫婦の精神を、斯様なまでに追いつめずに済んでいたのかも知れない。

私は適切な病院で適切な終末医療を受け、安穏とした最期を迎えていたのかもしれない。
そうすれば我が子の看病は面会ということになり、精神的負担も軽減できたろう。
或いはまた、我が子の苦境に、資金という形で多少なりとも助けの手を伸ばせたかも知れぬのだ。

241 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:55:26 ID:ok723CeU0
然し、家を建てた当時の私は、居宅に最大限の身銭を切ることが人間の矜持であると確信していたし、
それが男としてのステータス、アピールポイントとなると疑わなかった。

現実、完成した我が家を一目見た妻は驚きを通り越してやや萎縮している風でもあった。
あの時に覚えた充足感は、他で味わえるものではない。
 
それからの生活において、私はローンに苛まれながらも、
決して惨めったらしさが露出せぬよう最大限の努力を払ってきた。

宵越しの銭は持たない、とまでは言えないが服装にせよ、飲み食いにせよ、
他人との見えない競争意識の中で負けないために大いなる無駄遣いを繰り返したのだった。

それは、時として家計を圧迫していたに違いない。
けれども婆さんは金銭的な不平不満を一度たりとも漏らしたことがなかった。
年老いて、彼方へ逝ってしまうまで一度たりとも。

それが私の、紛うことなき生き様であった。後悔は自己欺瞞である。
小川のせせらぎに転がる石も、いずれ定められし道を通うのだ。

一本、筋の通った私の人生が、その形を変えることなど有り得ない。
また、有り得たとしても我らの目に見える筈もないのだ。

242 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 21:58:18 ID:ok723CeU0
確かに、私は身の丈に合わぬ装飾品に手を出していたのかもしれない。
しかしそのおかげで、客との商談が円滑に進んだことだって少なくはなかろう。
馬鹿らしく古風な礼儀に倣っていただけとはいえ、相手に好印象を抱かせる要因になっていたと信じたい。

そうやって積み重ねた経験や体験が、己の惨めったらしさ一つで脆くも瓦解してしまっていたかもしれない。
あまつさえ、何処かで道を踏み外し、一家で路頭を迷うことになったやも知れぬのだ。

そうしてみれば、我が人生の何と『マシ』であったことか。
外見を整え、見栄を張り、心身ともに表面上を取り繕って生き抜いたこの人生は、何と人間らしくあっただろうか。
 
……何と言っても、あれ程頑固者だった私が不景気に喘ぐ息子に金を手渡すなど、如何にも滑稽ではないか。
そんな好々爺然としていられるような人格であったなら、
きっとどこかで野垂れ死んでしまっていたに違いない……。

もっとも、野垂れるという意味においては、現状もさして変わりはしないが。

243 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:01:15 ID:ok723CeU0
(*゚ー゚)『ねえ、お爺さん。お爺さんの下着がどこにしまっているか、知ってます……? 
     昔に、集めていた腕時計は……風邪薬……ああ、はい、はい。全部ご存知なんですね。

     ええ、何だか少し心配になってしまって……よかった。
     私はほんの少しの間だけ入院してしまうことになってしまいましたけど、
     色々なことが、分からなかったら困りますからね……。

      ええ、そうですね、お爺さんのおうちですものね。
      余計なお世話でした……はい……え、珈琲……? 

      それでしたら、食器棚の右側の引き出しに……。
      いえいえ、淹れ方だなんて、そんな大層なものではありませんよ。
      あれは、インスタントのものですから……。

      はい、何ですか……私の、淹れたものを? 

      はい、はい、分かりましたとも。
      では、お爺さんの朝の珈琲のために、なるべく早く帰ってきますからね……。
      ええ、大丈夫、大丈夫ですとも、お爺さん』

244 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:04:38 ID:ok723CeU0
身体の自由が利かなくなって……現実を認識することさえ喪われた私は……
ただただ空虚な時間にものを考えるばかりだ。

こうやって、星空のように鏤められている記憶を眺めながら……それぞれを、飽きることなく咀嚼しながら……。
まったく、記憶に映るのは死人の影ばかりだ。婆さんも、知人友人も、ドラマで活躍していた大俳優でさえ……。
一抹の寂しさを覚えるとともに、自分自身の末期というものがより確かな形となって去来する……。
 
健康体である筈だった婆さんが、殆ど世話にならなかった病院に入院して、
そのまま他界してしまったのはあまりにも唐突な出来事であった。

確か、当初は軽い検査入院のようなものだった筈だ。
それが瞬く間に……と言って、仔細な期間を憶えているわけでもないが……
彼女は、痴呆症を患う暇もなく旅立ってしまった。

その辺りの詳しい記憶についてはもう両手で足りぬほど模索したのだが、まったく見当たらない。
どうやら、その頃に私は憶えることを放棄してしまったらしい。
然し乍ら、婆さんが死んでしまったという事実だけは、一番の巨星となって輝いているのだった。
 
婆さんの死は、我ら夫婦の死と同義であった。
おそらく私はこの頃から徐々に精神の均衡を喪失してゆき、現在にまで至ってしまったというわけだ。

何がそこまで私を現実から遠ざけてしまったのかは分からない。
けれども、私の人生に婆さんという存在が必要不可欠だったのは最早自明なのだ。
居丈高に振る舞っていた私の人間性は、婆さんを喪うことで易々と折れて廃れてしまったのだった。
 
時間も空間もなく物事ばかりを考えていると……妙な表現だが、思考回路がやや柔軟になっていくような気がする。
怒濤の如く押し寄せてくる現実を受け止める必要も、満身創痍の肉体に気を病む必要もなくなった今、
私はただ只管に過去を顧みて反芻するばかりだ。

思えば我が人生において、
時間の流れを差し置いてまで立ち止まって考える機会など訪れてはいなかったのではないだろうか。

245 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:07:16 ID:ok723CeU0
茫洋たる心象風景。何かのテレビ番組で視た憶えがある。
いくら父親が痴呆に罹って横暴を繰り返しても、その死を放置してしまえば保護責任者……
息子に、刑事的な責任が発生する可能性があるかも知れないと。

詳しいことはよく分からない。我らのような市井の人間に、
その詳細を知る者がいったいどれほど存在するというのだろう。
我らはただその情報の断片を拾っては、常に最悪の事態を考えて怯え続けねばならぬのだ。

だから息子も、義理の娘も、終いには殺意さえ抱いてすら私の世話を続けていたのだ。
彼らにも世間体があるし、家庭が存在する。

現実のことなどもう何にも分からなくなってしまった父親のせいで、
彼らの先行きが大きく変貌してしまうやも知れぬのだ。
 
……そして、彼らはその未来を放棄してまで私を放置することを決断した。
それが、フワフワとした矜持や衆目やストレスによって弾き出された最終的な結末だったのだ。
 
それを哀しいと言わずして何とする。けれども、誰かを責められるものではないのだ。

246 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:11:21 ID:ok723CeU0
嘗て、私の父親が亡くなった時のことを思い出す。
父は若き頃より肺を患っていたため、勤め人でありながらも病床に臥せっていることが多かった。
無論、それでも子どもを厳しく躾けることには違いなかったが。
 
そんな父は退職後、間もなくして持病を悪化させ、亡くなった。父もまた、認知症に罹る暇などなかったのだ。
 
それに比して、母の方は割合に長生きをしていた。
晩年にはやや痴呆じみた症状に冒されていたような憶えもある。
けれども私には頼れる兄と姉がいたし、何よりもまず、家族自体の規模が大きかった。

母は様々な親族に取って代わって看取られて、
そして終わりには多くの家族に見守られながら心穏やかに彼方へ逝った。
それは間違いなく、人類史上で見ても上から数えた方が早い幸福な最期であったろう。
 
私には息子が一人しかいない。
兄も姉も……生前には既に縁遠くなってしまっていたのだが……既に亡くなってしまっている。
今更誰彼を頼りにする権利もなかろうが、頼ろうにも身近な者がいるわけでもない。

そう考えてみれば、私はもう少し将来を見据えた生き方、やり方をするべきだったのかもしれない。
然し、我が人生は常にその時点での指針を慮ることで精一杯だった。
いったいどうして、終の生活にまで頭を巡らせることが出来たろう。
 
そうだ、今だって脳裏を行き交う逡巡は、所詮心身の退行によって生じた偶発的な思いに過ぎぬ。
生きている間に……『正常』として生きている間に、その思いを形にする術など見当もつかない。
そしてそれは、人間である限り詮方の無い懊悩なのであろう。

247 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:14:37 ID:ok723CeU0
結局我らはその場凌ぎの方法で食いつなぐより他に道はないわけであり、
それらを積み重ねた具合によって出来上がった結論が人生の末期あたりに押し寄せてくるという算段なのだ。

我らの死に様は生き様を鏡映しにしたものに過ぎない。
その善し悪しは度外視してでも、我らはその幕引きを許容せねばならぬだ。
 
私は見栄っ張りの人生を送ってきた。

婆さんには大層な迷惑をかけ、時には取り引き相手となった顔形さえ定かでない人々を陥れることもあった。
逆も然りだ。旧知の友人とは再会を果たしたり、喧嘩別れをしてしまう場合もあった。
努力は実ったり、実らなかったりもした。幸運と不運も、足し合わせればおおよそ零には違いない。

それら一切合切の人生の要素が混濁し、雑然とした塊となって我が元へ訪れたという具合だ。
何も不思議なことはない。何を気迷うことでもない。
幸福か不幸か以前に、眼前に広がるのは私が過去に働いた所業の景色なのである。

何せ平均寿命前後まで生き延びたジジイなのだ。
青年期に抱くような一時の儚さに左右されるものであってなるものか。

248 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:17:17 ID:ok723CeU0
この期に及んで、私にはもう現世に対して何の恨み辛みも遺っていない。
肉体的な苦痛からは解放され、遅まきながら精神的な苦痛から私以外の人間を解放し、また解放された。

方法に難あれど、それ以外に生きる筋はなかったのだ。これでよかった。
せめて、最期にはそう声を張り上げねばなるまい。
後は最早、我が精神も肉体も、ただあの世に向かって全力で進むのみだ。
 
願わくは、婆さんと同じ場所に連れて行っていただきたい。婆さん……否、しぃよ、しぃ。
何が婆さんなどであるものか。歳を重ねど周りが変われど、私にとってお前はいつだってしぃであった。
それをそう呼ばせなかったのは世間の眼差しであり、私自身の羞恥心に他ならなかった。

それら一切を脱ぎ捨てた今、ようやく私は、決して届きはせぬ声でしぃよ、しぃと叫ぶことができるのだ。
 
嗚呼、しぃよ。最も身近だったお前にさえ、私はどうしようもない頑迷な堅物に映っていただろう。
碌に笑うこともなく、怒る時ばかり饒舌になり、決して愉快ではない気苦労を掛けさせてしまっていたに違いない。

けれどもお前は最期の最期まで付いてきてくれていた。それ以上に何を望もうか。それこそが至福であったのだ。
私が今、どうすることも出来ない廃人になってなお心安らかでいられるのは、
しぃ、お前のおかげであるとしか思いつかない。

249 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:20:15 ID:ok723CeU0
(*゚ー゚)『ねえ、あなた』

/ ,' 3『ん……』

(*゚ー゚)『私たち、どちらが先に死んでしまうかしらね』

/ ,' 3『……何を突然、縁起でもないことを』

(*゚ー゚)『男性より女性のほうが長生きするって言いますね。
     でしたら私の方が……ああ、でもそれって、とても寂しいことですよ』

/ ,' 3『……』

(*゚ー゚)『イッソのこと、二人で一遍に死んでしまったら幸せかも知れないわ』

250 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:24:40 ID:ok723CeU0
要らぬことを考えるなと叱った私の側で、お前は緩やかな笑いを笑っていた。
あれは何時頃のことであったろうか……まだ両方が若かった時分だった筈だ。

あれは……思えば、お前にとって最大限の愛情表現だったのやも知れぬ。
互いに奥手だったことだし、むしろあの頃の我らはそれが常套であると信じて止まなかった。
そういう二人だったからこそ気も合い、会話に乏しくともいつまでもやってこれたのだろう。
 
お前が最期に私へ遺したのは、弱々しい『いってらっしゃいね、あなた……』というものだったな。
考えてみればおかしな具合だ。逝ってしまったのはお前の方だったのに。

けれどもあの時あの瞬間、お前は間違いなく、私が未だ働いていた頃の習慣を想起していたのだろうな。
そう呟いた表情は、当時私を見送っていた時の顔によく似ていたようにさえ感ぜられる……。
あの瞬間、お前がある種の喜びを感じて私にその言葉を託してくれていたのであれば、それだけでもう十分だ。
 
しぃよ、お前には生きている間に言いたいことの半分も伝えられはしなかった。
きっとお前だってそうだったのだろう。そういう生き様だったのだ。

想ったことを全て吐き出すような人間性ではなかったな。
長年連れ添った夫婦ではあったが、私はお前のことをいったい幾らほど理解出来ていたのだろう。
もしもそっちで逢うことがあれば、是非とも教えてほしいものだ。

251名も無きAAのようです:2014/10/06(月) 22:25:40 ID:q6/8rG6c0
しえん

252 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:27:17 ID:ok723CeU0
我ら人間というものは実に厄介に出来ているな。
生きゆくためには規範や理性に従わねばならず、そのために曝け出す言葉も選り抜かなければならない。
そのせいで伝えられなかった言葉が、どうしようもない肉体になってから初めて溢れ出してしまうのだ。

こうして独りっきりで惨めに横たわってようやくお前に、そして自分自身に本音を吐けるのだ。
そうでもしなければきっと我らは、何一つ馴染めずに終わってしまっていただろう。

生活と言うのは実に苦心惨憺たるものだ。
その隣に常に居続けてくれたのが、お前であったということに私は本当に感謝しているんだよ。
 
しぃよ。私はもう、後はそちらへ行くだけだ。
此れまでの人生のように右往左往と迷うことなく、ただ真っ直ぐに、この精神を其方に向かって奔らせる。
その勢いたるや、猪突猛進をも凌駕しよう。

しぃ、どうかその様を見守っていてほしい。

これは私にとって最初で最後の突撃だ。
何を振り返ることもなく、誰の目を気にすることもなく、ただ己の本能とお前に向かう心持ちだけで突き進む。
これこそが私の振る舞いだ。
 
しぃよ、ようやくもう一度逢える機会がやってきた。
しぃよ、数十年、この現世で共に歩み続けてくれたことだけは、私は絶対に忘失しない。
 
さあ、もうすぐ、もう一度追いつくからな。





253 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/06(月) 22:28:18 ID:ok723CeU0
次は10月8日の夜に投下します。

では。

254名も無きAAのようです:2014/10/06(月) 22:47:24 ID:2B9cHGZk0
乙!

255名も無きAAのようです:2014/10/07(火) 10:09:18 ID:qnlLw1rY0
寂しくないのはなんでだろう、読了感が一辺倒でないというか
おつです!

256名も無きAAのようです:2014/10/07(火) 19:09:50 ID:olmDdg.I0
全部じゃないけど内省内省内省な辺り、いかにもアルバムだな

257 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:24:06 ID:cxCxhwjA0
10.ノスタルジック・シュルレアリスム(interlude 3) 20140803KB

とにかく暑くて仕方がなかったので、
コンビニに立ち寄ってペットボトルの飲み物を買うことにした。

どうも最近疲労気味だ。仕事のせいもあろうが、やはり一番の原因は家庭問題だろう。
一昨日、妻の浮気と娘の妊娠が判明して大げんかをしたばかりだ。
まったく、世の中の出来事とは鼻持ちならないことばかり……。

店内の一番奥、種々のペットボトルが冷蔵庫の中に並んでいる。

精力をつけるためにも、私はゴールデンレトリバーのペットボトルを購うことにした。

( ∵)「ハハァ、お疲れですなァ」

レジ打ちの禿げた店員が下卑た笑いを笑った。

( ・∀・)「矢張り疲労回復には大型犬のペットボトルが最も効きますからナ……。
      ええ、百五十円ですね」

(´・_ゝ・`)「いっつもはチワワやハムスターのやつを好むんだがねェ、
      今日はチョット、不気味な気分なんだよ……。
      モシカこれは、俗に言う離脱症状なのかも知れないネ……」

258 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:27:12 ID:cxCxhwjA0
( ∵)「なら、ご一緒に栄養ドリンクは如何で……。
    丁度、良いのが入ってんです、エェ……・」

店員はそう言って、店の裏から金色のパッケージを持ってきた。

( ∵)「こいつは、三丁目のギコってぇやつのもんで……。
    表じゃ土方の堅物を気取ってたんですが、どうにも性欲の強いお方でね。
    方々の老婆を姦淫して回っていた碌でなしなんですわ……。

    そいつの皮膚やら睾丸やらをふんだんに配合しておるんで、効能は抜群ですよ……。
    値段もね、二千円とお手頃ですヨ……」

私は大いに笑って首を振った。

(´・_ゝ・`)「止しておくよ。つい最近も、娘を孕ませたバッカリなんだ……。
      これ以上性欲を滾らせたら、間違えて妻なんぞを犯しかねない……」

( ∵)「ヘェ……確かにそいつは一大事ですナ」

(´・_ゝ・`)「……ん、ああいや、そうだった。妻は一昨日に燃えるゴミに出したばっかりだった。アハハ……」

( ∵)「ヒッヒッ……」

259 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:30:36 ID:cxCxhwjA0
そうして私は、ゴールデンレトリバーのペットボトルだけを買って店を出た。
そして、乾いた喉にその中身を一気に放り込んだ……。

毛と、耳の襞が絡みついてやや飲みづらかったが、味はなかなかのものだ。
きっと裕福な家庭で育った、血統書付きのうやつに違いない。

そこで携帯が鳴った。娘からだった。

(*゚ー゚)「ネェ、パパ。私の子供ったら、近親相姦のせいかダウン症の者みたいよ」

(´・_ゝ・`)「そうかい。そいつは何よりだ。
      きっと立派な、睡眠薬の材料になるんだろうネ……」

(*゚ー゚)「エェ。何でも、帝王切開が一番良いみたい」

(´・_ゝ・`)「そりゃあそうだ、是非そうしてもらいなさい……。
      アッ、麻酔を受けてはイケナイよ、質が落ちるからネェ」

(*゚ー゚)「勿論、そのつもり。ああ、帰りにネオンテトラのペットボトルを買ってきて」

(´・_ゝ・`)「お前は熱帯魚のペットボトルが大好きだねェ……分かったとも。買って帰るよ」

(*゚ー゚)「ありがとうパパ、大好き! ……フフフ、ジャアネェ」

(´・_ゝ・`)「うん、シッカリ養生するんだよォ……可愛い娘よォ……」

260 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:33:24 ID:cxCxhwjA0
10.葬送 20120378KB

一切が間違っているように思います。
私には今、現実の風景と記憶の中の風景が混ざり合って見えています。

私達の頭が認識できる風景は二つまでです。実際の風景と、頭の中のイメージ……
どちらも主観の中においては一つずつしかなく、容易に区分できるものです。
しかし今となってはどちらが何なのか分からない。

悪夢は、好んで人に見られているわけではないと思うのです。
人がそれを必要とするとき、或いはそれにさえ縋りたくなった時にのみ、
悪夢は私達の頭の中で自らを曝け出すのではないでしょうか。
 
今まさに、そう思うのです。何故なら私は今、確かに悪夢を求めて、そして望み通りにそれを見ているのですから。
 
しかし本当は目の前の壁をカリカリと引っ掻いています。悶えているのです。藻掻いているのです。
後書きとは、斯くも辛いものなのでしょうか。
 
何を言っているのか分からないかも知れません。しかし、これは私のささやかな自虐的反逆なのです。
実際の所私は未だ現在の自分に降りかかっている状況を真実として見定められてはいないのです。

そう、一切が間違っているのです。
狂気よりも静謐を纏った不条理に覆われてなお、
どうして私だけが合理的な言葉を吐く義務を背負わなければならないのでしょうか……。

※ ※ ※

261 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:36:16 ID:cxCxhwjA0
母から連絡があったのは昨日の午前でした。

私は親許を離れて大学近くのアパートに下宿しており、
常からの放任主義もあって電話など滅多に掛かってくることがなかったものですから、
受話口の向こうから母の声が聞こえてきた瞬間には些か驚いてしまいました。
 
社交辞令的な挨拶を交換し合ったあと、母は私にこう言いました。

J( 'ー`)し「今日お通夜で、明日お葬式やから、帰ってきなさい」
 
赤の他人に話すように一オクターブ跳ね上がった母の言葉に、私は何故か、
いよいよ父が死んでしまったのだという確信を持ったのです。

思い返してみれば、母はその時、具体的な死者の素性を明かしていなかったように思います。
しかし、前回の長期休暇に帰省した際、父は確かに市内の総合病院に入院していました。

病名などを聞いた憶えはなく、その時の父は病室のベッドに横臥しているということ以外は普段と何一つ変わらず、
むしろ血色の良い笑顔を浮かべていたはずです。

それでも、私のせっかちな記憶構造は葬式という言葉に最も身近な死に近しい思い出……
父の姿を結びつけてしまったのでしょう。
 
とは言え、死者が父であると誤認してしまった上でも、私は大仰な悲嘆に暮れることも無く、
電話越しに首肯していました。今にして思えば何もかもが少しずつおかしかったのです。

262 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:39:04 ID:cxCxhwjA0
そもそも父が死んだとしたならば、電話の向こうの母が、どうして私と同じように落ち着いていられたのでしょうか。
あまつさえ、通夜の当日になって私を急に呼び出すという杜撰さも些か引っかかります。
私と父との関係は決して良好ではありませんでしたが、だからといって冷え切ってもいませんでした。

私達は親子としての特有の色味を持ち合わせていたでしょうし、
父の葬式に涙を流すことも難しくはなかったはずです。
だから、私は電話においても、父の死について母ともっと語らってもよかったはずなのです。

そして何よりも異様なのは、仮に父が本当に亡くなったのであれば、
最低でも危篤の段階で私のところに一報が届くであろうという点です。
この点に関しては、確たる疑いとして払拭に至る情状も証左も得られないものでしょう。
 
しかし、物事はあまりにも滞りなく過ぎました。私達はどちらからともなく電話を切りました。
双方に相手を引き留める意思がなく、事務的な会話に終始しただけでした。
そして私は、至極冷静に出立の準備を始めていたのです。

263 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:42:26 ID:cxCxhwjA0
葬儀に参列するのは五年ほど昔に父方の祖父が亡くなった時以来です。
祖父は死の数年前に脳梗塞を起こし、その際に左半身を巧く操ることが出来なくなっていました。

そのせいか末期には精神面にも異常を来しており、最期を迎えた場所は山間にある病院の、
あまりにも分厚い鉄扉に阻まれた隔離病棟の中でした。

元々交流の薄かった生前の祖父に関して私が記憶しているのは、
せいぜいロッキング・チェアに身を預けた半身不随の彼が、
叔母の飼い犬であるポメラニアンを杖で楽しげに殴打していた場面ぐらいです。
 
その葬儀で、祖母が祖父の死顔を泣きながらもみくちゃに歪ませていたことをよく憶えています。
死んだ祖父は遺影の中の彼自身とはまるで別人物でした。特段窶れていたわけでもなく、
物理的には然程違いのない相貌であったでしょう。

しかしその違和感は……不気味の谷底に落ちたような違和感は、
如何様にしても拭い去れるものではありませんでした。その意味で、私は魂の存在を信じているのかも知れません。

二十一グラムの剥落が印象に大きな変容を及ぼしているとするならば、
そのロマンチシズムは今の私にさえ大きな安堵を催させます。

264 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:46:07 ID:cxCxhwjA0
そうやって五年前の感傷を想起したところで、現在にとって最も重要な、
即ち葬儀の仕来りや手順については何一つ思い出せませんでした。

その時点ではまだ亡くなったのが父であると思い込んでいたわけですから、
これまでの葬儀よりも私自身の立ち位置がより重責を担う側に寄るのだと考えました。

しかし、それに関しても応用の利きそうな物種は捉えられませんでした。
とは言え、服装については思い当たる節がありましたから、
私はクローゼットから就職活動のために備えておいた背広を取り、身を包みました。

一層の底冷えに苛まれる近頃、意識的な友人などは既に就職活動に身を入れて取り組んでいるようです。
私もそれなりに動いているつもりではありますが、今のところ大した実感は得られていません。
私は就活を、楽観も悲観もしていません。ただ漫然と受け入れ、それが流れていくのを待つつもりでいました。

私は自分自身を、過大にも過小にも評価していないと思います。
それなりの職業について、中庸かつ凡庸に暮らしていければ幸いでしょう。
私は現在を、人生の転換点という決まり文句で表せるような深刻さでは受容していないようです。
 
上下を着替え終え、持参する鞄の種類などに頭を捻らせていたところでようやく、
午後に恋人と会う約束をしていたのを思い出しました。
二時頃に駅前のショッピングモールで落ち合い、適当に時間を潰してから夕食後に解散するという既定路線です。

私は慌てて約束の反故と謝罪の旨をメールに認めることにしました。

入力しながら、そう言えば今日の逢瀬が一ヶ月半ぶりであったことに気付いて、
ますます居たたまれなくなったのですが、父の死はその後ろめたさに勝る効力を有していると確信していたので、
謝罪文もそれに沿った幾分おざなりな仕上がりとなってしまいました。

265 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:49:09 ID:cxCxhwjA0
恋人は二年前に知り合った他大学の同い年です。
出会いの契機は趣味の合致にあり、今日まで大した綻びも見せず順当に歩んでくることが出来ました。

しかしここのところは互いにゼミでの発表や就職活動で忙しく、
彼女に至っては公務員試験の勉強も並行しなければならないので、
去年のクリスマスを最後に会う機会を逸したままです。

会えない口寂しさはそれ自体心地よい精神の負担を生じさせ、愛情の再認にも役立つのですが、
それもどこかで発散しなければなりません。
その貴重なタイミングを一度でも逃してしまえば内面の予定が狂ってしまいます。

しかしそのような悩みは自由を持て余す学生ならではの発想であり、
人間である以上どうしようもないハプニングなのです。
 
諸々の整理を終えて家を出たのが正午過ぎでした。

現在の住処から実家までは、電車を乗り継いで二時間程度かかります。
母からの電話に具体的な日時の指定は含まれていなかったものの、
遅くとも四時に到着すれば良いだろうと心得ていたので、私は多少余裕を持って歩を進めることにしました。

266 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:52:06 ID:cxCxhwjA0
最寄駅までの道のりで、私はどのような思索をしていたでしょう……。

確か、単位のことを考えていました。大学の定期試験が終わったばかりでしたので、
その出来栄えを経験則と照らし合わせていたように思います。
つまり、その時点での私にとっての関心事は父の死よりも単位であったということです。

無論それは母からの無感情な電話、及び確認の取れた問題ではないという、
いかにも現実離れした状況がそうさせたと判断しても構わないでしょう。

しかし自分自身、父の死が直接悲嘆に繋がるものではないと思っていた気がしてなりません。
先にも述べたように、私と父の関係はこの季節ほどには冷え切っておらず、多少の諍いを抱えながらも、
普遍的な親子関係を体現していました。

当然ながら、父の死を体験するのはこれが初めてです。

ですから、死を耳にした途端に全身の力が抜けきって崩れ落ちてしまうだとか、
裏付けを取るために全力を賭けるだとか、
そういうドラマツルギーに則った行動ができないのも仕方がないといえばその通りです。

それなのに、心の奥底に寒々しい何かがありました。
真実父が亡くなっていたとして、私は果たしてその死顔と対面する場面で落涙に至れたでしょうか。
精神的にも金銭的にも、あらゆる面で支えてきてくれた父に、それに見合うだけの感謝や罪悪を想えたでしょうか。

更に踏み込んでしまえば、そもそもこのような常識的な疑問を持つことさえ、
強迫観念めいた感情の取り繕いにしか感じられなくもあるのです。

267 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:55:20 ID:cxCxhwjA0
辿り着いた駅で乗り込んだ列車は、平日の午後としては考えられないほど混み合っていました。
まるで人々が一斉に街を逃げ出ようとしているような有様で、席に着くのは到底不可能、
何とか吊り革を手に入れて立ち竦んだものの、今度は必要最低限の床を確保するにも苦労する始末……。

いわゆる通勤ラッシュにも馴染みのない私は、ただただ人の波に翻弄されるばかりでした。
 
この混雑の原因を探ろうと頭を巡らせ始めたとき、私は人込みの向こうにK君と思しき人物の顔を発見しました。
ぞんざいに洗われる芋であった私がその顔に相応しい反応を示す前に、
K君らしき人物は人海の中へ埋没し、それきり見えなくなってしまいました。

しかしよくよく思い返せば、こんなところに彼がいるはずもないのです。

268 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 21:58:54 ID:cxCxhwjA0
K君は中学時代の友人であり、その当時私はまだ地元にいました。
彼の父はコンピュータ関係の小さい会社を経営しており、私の家よりも比較的裕福な暮らしをしているようでした。
常から居丈高に振る舞う性格のK君でしたが、それに伴っているらしい慈愛も持ち合わせていました。

中学校からの帰りによくコンビニのジャンクフードを奢ってくれたのを憶えています。

(,,゚Д゚)「お前はしょうがない奴やな」

と言うのが彼の口癖でした。

当時のK君には惚れ込んでいる女優Aがいました。
私たちよりも二歳年上のAが出演する映画の話を、彼は事あるごとにしていました。そして、

(,,゚Д゚)「俺は、中学卒業したらA(彼はその女優を、親しげに名前で呼んでいました)に会うために劇団に入って、
     東京に行くんや」

という決意を仄めかしたのです。私には考えられない人生設計でした。
中学を卒業すれば次は高校、その次は大学、そして就職……
それが、私が確信していた常識的で唯一の選択肢だったのです。

そしてそのコースから外れてしまうことを、今でもなお怖れています。
だからその時のK君の雄弁を、私はただ大口を叩いているだけのことだと信じ切っていましたし、
現実には彼も高校に進学して生きていくものだと疑わなかったのです。

269 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:02:00 ID:cxCxhwjA0
そのため、高校入学後にK君に再会した際、彼が本当に地元の劇団に入ったと聞かされた時には酷く驚きました。
当時の彼はアルバイトと劇団の二足の草鞋で行動していました。

彼はAに会う夢を捨てておらず、

(,,゚Д゚)「今度、初めて舞台に立つことになってん」

(,,゚Д゚)「バイトしんどいけどな、いっぱい金入るで」

など、輝きを伴った眼で語っていました。
そして私に、昔と同じようにコンビニのジャンクフードを奢ってくれたのです。

当時の私は未だ学生という身分であり、相変わらず試験と学習塾に追われる日々でした。
平凡から逃げ出したい年頃だったこともあって、自らがデザインした人生を順調に歩んでいるK君が、
私には羨ましく見えてなりませんでした。

そしてK君もまた、そんな私であるからこそ威張り続けることが出来ていたのでした。

270 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:05:15 ID:cxCxhwjA0
それからしばらく、K君に会う機会はありませんでした。
次に遭遇したのが、前回から一年後ぐらいのことだったと思います。
何かの用事で、普段は行かない駅前のコンビニに入ったとき、そこにK君がいました。客ではなく、店員として。

私は特に何も考えず、K君に気軽な挨拶を向けました。
するとK君は一旦私に視線を寄越したのですが、そのままふいと目を外したのです。
 
その時の彼の眼を表現するなら……深く死んでいた、とでも言うべきでしょうか。
今でもたまにその眼の色を思い浮かべるのですが、それは仕事に従順な者の眼ではない、
どす黒い嘆きや寂しさに塗れたものなのです。

私はそれ以上K君に近づくことが憚られ、そのまま黙ってコンビニを出ました。
彼の父親が経営する会社が倒産し、そのせいで演劇活動する余裕がなくなったため、
止む無く劇団を退いてアルバイトに専念しているという話を人づてに聞いたのは、それから数か月後のことでした。

271 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:08:10 ID:cxCxhwjA0
……そんな、地元の友人であったK君と遠く離れたこの地の電車で乗り合わせるなど考えられないので、
きっと私の見間違いだったのでしょう。もし当の本人だったとしても、彼のほうが私に会いたくないに違いありません。

私はK君を友人だと認識しています。しかし彼は最早そう思ってはいないでしょう。
女優Aや劇団での活動などと同じ、忌むべき歴史として片隅に追いやられているはずです
(余談ですが、活躍のニュースをまるで聞かなかった女優Aは、最近ヌード写真集を出版したそうです)。

しかし、だからと言って私はK君を勝手な男だとは思えません。
少なくとも彼は、烏合の衆から抜きんでるために一度は人生の荒波に立ち向かおうとしたのです。

例えるならそれは、このごった返す電車の中で座席の争奪戦に馳せ参じるようなものであり、
しかも彼は一度、席を獲得しかかったのですから。この点について、私は今でもK君を尊敬出来ますし、
そうすべきだと思っています。私は未だ、争いの加わるための門を叩いてすらいないのです。

これだけ人間だらけの車内でも、座れている人の顔は随分拝みやすいものです。K君の顔も一瞬は見えました。
今やそれは沈んでしまい、あまつさえ二度と浮上してこないかもしれません。
それでも、彼の顔を忘れることはないでしょう。他方、私にはいつまでも顔がありません。

……いずれ、馬鹿馬鹿しい比喩表現です。現状を的確に表現することに、
いったいどれほどの意味があるというのでしょう。そこからの発展など一切望めないというのに。

272 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:11:07 ID:cxCxhwjA0
満員電車の滑り込んだ終着駅から別の路線に乗り換えました。
先ほどよりは混雑していないもののやはり座席にはありつけず、私はまた、じっと扉の近くに突っ立っていました。
K君の回顧に頭を使ったせいか、ちょっとした疲労と頭痛が溜まっていました。

それは電車が地元に近づくにつれて次第に増幅し、遂には看過しようのない痛みへ変貌したのです。
そのせいで、私はこの段階でも葬儀のことや父のことに考えを及ばせずにいました。

景色が揺らいで見えてきましたが、眼を閉じるとそのまま崩れ落ちてしまいそうでした。
そのため、何とか地を踏みしめながら虚ろな眼で徐々に空いていく風景を眺めていました。

醜態を晒さぬようにと必死で装う私は、周囲から一層奇異に映ったことでしょう。
衆目を気に掛けているからこその行動を取っているはずの私自身に、衆目を気にする余裕はなかったのです。

目的地に到着したのは三時頃のことだったと思います。しかし時計を確認するという発想はありませんでした。
脳みそが内側から鉄塊に変わっていくかのような重みと痛みに、私は徒歩で実家に赴くことを早々に諦め、
降り立った足でそのままタクシー乗り場に向かいました。

運良く一台だけ停まっていた車に乗り込み、私は、恐らくははっきりと実家の住所を告げました。

タクシーが発車し、頭をシートに預けると、途端に意識が朦朧とし始めました。
熱っぽさはなく、むしろひたすら冷えているようでした。

これまでに感じたことのない痛みと、強制的に活動をシャットダウンさせようとしているかのような微睡み……
振り返ってみると、それはトラウマを心の奥底に閉じ込めておこうとする、
無意識の武力的な抵抗だったのかもしれません。

273 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:14:25 ID:cxCxhwjA0
しかしその時の私にそんなことが分かるはずもなく、
ただただ通夜、或いは葬儀の場でだらしない態度を見せてしまうのを怖れて自分を奮い立たせていました。

私の脳みそは休むわけでも活動するわけでもなく、
そのためにより悪い方向へ思考を追いやってしまっていたように思えてなりません。

タクシーを使えば自宅まで二十分とかからないはずでしたが、今となっては定かでありません。
ただ一つ確かなのは、途中で母校の小学校の門前を通り、
そこから通学路を遡る形で家へとひた走っていたことです。

私の地元は大学付近に比べれば幾らか閑散としていますが、
私がまさにその通学路を使って登校していた時に比べれば随分発展したものです。

もう十五年ほども昔になる当時、ベッドタウンであったこの街にはまだ多くの田畑が残されており、
道路も今ほど整備されていませんでした。小学校からの帰り道、辺りにあったのは家と、空き地ぐらい。

側溝に、ニシキヘビが蜷局を巻いたまま死んでいたこともありました。
どこからともなく現れた野良犬に追いかけられ、死に物狂いで逃げたこともありました。

現在の自分の目に映る光景にそういった幼少期の体験を当て嵌めるのは少し難しくなっています。
空き地にはコンビニやドラッグストアが建ち、家々も新築のものに置き換えられました。

変わらないのは小学校に程近かった市営の団地群ぐらいで、昔はなかった、
駅と小学校を結ぶ殆ど一直線の道路も整備されています。

274 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:17:10 ID:cxCxhwjA0
そうやって様変わりにしていく街は、しかしどことない地元の匂いを醸し続けているようです。
それは祖父の死顔に直面したときとは真逆の感情であり、
つまり変わり続けていくことに生気が感じ取れるからなのでしょう。

K君はまだこの街に留まっているのでしょうか。街を出た私は、しかし未だ何も変われていません。
勿論、変わることを主観的に認識するのは大変に困難ですが、それにしたって自分の、
のっぺらぼうのような顔面に何かが書き加えられた痕跡が見当たらないのです。

この街に大切なものを置き去ってしまったなどと、形式張った物言いをするつもりはありません。
そして、そもそも自分には何もなかったと自嘲する気もないのです。

万人と同様に私も持っているはずの何かは、不合理なほどに進歩しなかった……
とは言え、この感情だって畢竟陳腐な共通認識に過ぎません。私が覚える倦怠感は、
モラトリアム特有の、そしてモラトリアムにいる誰もが患う麻疹なのだと、その時は結論づけました。

気付けば思考の彷徨に嵌まり込んでしまっているために、頭痛は一向に快復しませんでした。
その痛みは、自覚する度に強くなり、いよいよ頭蓋を突き破りそうでした。
私はバックミラーを気にしながら平静を装っていましたが、いよいよそれも限界に迫っていたようです。

275 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:20:17 ID:cxCxhwjA0
一瞬、ふと意識がクリアになりました。

視覚も聴覚も普段の何倍も研ぎ澄まされたかのような感覚で、私は思わず左右を見回しました。
タクシーは通学路の中程を走っていました。右手に、まだ新しい住宅がありました。
小学校時代には無かったものです。

過去、そこに何があったかを、その時点ではまだ思い出せませんでした。
ただはっきり憶えているのは、そこを通過するときに何か奇怪な音……
金属の摩擦音か、赤ん坊のヒステリックな泣き声……が聞こえてきたことです。

体調を鑑みれば幻聴で間違いないでしょう。
ともかく、私はその断続的な音を聴きながら、唐突に小学校時代の回想を始めていました。

276 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:23:21 ID:cxCxhwjA0
その頃仲の良かった人の中に、N君という男の子がいました。
いつも緊張しているかのようなハスキーな声で喋り、感情表現がやたらに激しく、
勉強がからきし駄目であったN君は、考えてみると軽度の発達障害を抱えていたのかも知れません。

同級生には、彼をからかい虐めていた連中も多くいました。
彼は虐められる度に癇癪を起こして激怒するのですが、それがまたいじめっ子達に快感を与えていたのです。

実際、N君は力比べをして勝てるほどの体格では無く、
癇癪を起こしてもせいぜい校庭の砂を掴んで撒き散らす程度のパフォーマンスしか出来ませんでした。
それはさぞかし、上等な見世物だったのでしょう。

そんなN君と、私は分け隔てなく付き合い、よく二人で遊んでいました。
誤解の無いように申し添えておきますが、それは何も義勇や同情による行動ではありません。

私をして、今と変わらず隅の方で一人遊びをすることに喜悦を覚える性格であり、
学級内をいじめる側といじめられる側に大別すれば常にいじめられる側に属しているような子供でしたから、
友達選びに悩むような身分ではなかったというだけの話です。

しかしN君にしてみれば私は数少ない友達です。きっと私の話を彼は自分の母親にしたのでしょう。
ある日N君の家に遊びに行ったとき、その母親が大げさなまでに私をもてなしてくれたことを憶えています。
差し出された過剰なまでの感謝に、私は大いに戸惑ったものでした。

そこでは一緒にスーパーファミコンで遊びました。そして帰りにN君の母親は私に、
カルピスの原液が入った瓶を一本、持たせてくれました。持ち帰ったそれを母に見せたとき、
彼女は些か怒っていたようでした。

早速N君の家に電話をかけ、数分間お辞儀を繰り返しながら会話の後にお咎め無しとなった私は、
その代わりにこれからもN君と仲良くすることを母と約束したはずです。
それからは、N君の家と、家族ぐるみでの付き合いが始まりました。

277 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:26:15 ID:cxCxhwjA0
しかし、その日々はさほど長く続きませんでした。N君の母親が急逝したのです。
原因については詳しくは教えられませんでしたが、当時彼女はN君の弟を妊娠していたらしく、
その出産に際して何らかの問題が生じてしまったらしいのです。

赤ん坊は無事生まれたのですが、母親は命を保ちきれなかったのだと、後に聞かされました。
その知らせは学校の連絡網を通じて伝わりました。……そう、今思い出しました。
確かその時、私はN君の母親の葬儀に参列したのです。それが私にとって初めての葬儀体験でした。

今や正確なことは何も憶えていません。
唯一印象的だったのは、親族席に座っていたN君が、普段のような感情的振る舞いを見せずに、
うっすらと涙を浮べてじっと座っていたことです。
 
それから、N君とは次第に疎遠になっていきました。
学年が変わってクラス替えがあり、N君と離れてからは言葉を交わす機会すら殆どなくなってしまったのです。
そしていつからか、学校でN君の姿を全く見なくなってしまいました。

最後に見たN君は、相変わらずいじめっ子相手に癇癪を起こして喚き散らしていました。
私はそれを遠くから見ていました。それきりでした。今N君がどこで何をしているのか、知る由もありません。
 
……苛烈な頭痛に襲われているその瞬間に、何故N君のことを思い出したのでしょう。

278 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:29:09 ID:cxCxhwjA0
それまで記憶の片隅にも滞留していなかったはずのN君はおもむろに意識内へと染み出してきて、
私の頭を一度だけかき回しました。それが一体どうしてなのか……
考えているうちに鋭敏だった感覚はなりを潜め、再び耐えがたい頭痛が響いてきました。

そう、私はある場所に思いを馳せていたのです。その場所には今新しい戸建の住宅が建っていて……
過去、その場所は……母親の葬儀の直後、N君と話す機会があった際、
私は母親の死に関して随分と不躾な質問をしたはずです。その全てに対して、N君はこう答えました。

(●●●)「分からん、何も分からんねん」

……彼女からメールの返信が無い、という気づきが不意に混ざり込みました。
そして私は、しばし意識を失ったらしいのです。

私はその間死んでいたようでした。次に目覚めたとき、私には覚醒の感覚がありませんでした。
私にとって、断絶した時間は瞬き程度のものにしか感じられなかったのです。
にも関わらず、窓外は既に暗くなっていました。携帯を見ると、間もなく六時といった頃合いでした。

しかし、そんなことは有り得ないのです。何故なら、私は三時前後にタクシーへ乗り込んだはずで、
実家までどれだけ遠回りしても一時間と掛かりません。メーターを見ても想定の範囲内に留まっていますから、
私が意識不明になったのをいいことに運転手が無茶な針路を取ったとも考えられません。

あまりにも不条理なハプニングでした。

しかし、私はそれ自体をさほど問題視していませんでした。
むしろ、予定より遙かに遅れてしまったことで、
通夜に遅刻してしまうことに対する恐怖が汗となって全身に噴き出したのです。

不義理なことに、その時初めて、
私はこの通夜が父を弔う儀式であると言うことを切迫した現実として認識したのです。

279 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:32:12 ID:cxCxhwjA0
身を乗り出して運転手に何か言おうとしましたが、
走っている道が実家付近であることに気付いて思い留まりました。
そしてタクシーが実家前に横付けされるや否や、車外へ飛び出し玄関へと走りました。

扉を開けた(鍵が掛かっていたかどうかは記憶していません)直後に、家の中が無人であることを理解しました。
皆、もう斎場へ向かっているのでしょう。すぐさま駆けつけようと踵を返しかけたところで、
私は今宵の真なる目的地が何処であるか把握していないという事実に直面したのです。

身体が自分を抱え込むような姿勢で脱力しました。
三和土に膝をついて、しゃくり上げるような激しい呼吸を繰り返しました。
頭痛は概ね治まっていましたが疲労の方は去っていなかったようなのです。

満身創痍の脳髄は直近の問題処理を拒否していました。私は頭を上げて漫然と辺りを見渡しました。
宵闇の中でぼうっと佇む靴箱、観葉植物、トイレへの扉……何れも記憶に合致する代物です。
いや、もしかしたら記憶の方が目の前の事物に媚を売っていたのか……。

280 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:35:31 ID:cxCxhwjA0
私がいなくなったこの一軒家には、父と母、父方の祖母の三人が生活しています。
母方の祖父母もこの近くに住んでおり、私だけが領域外に飛び出したというような案配です。

父方の祖母は祖父が亡くなるまではここより遙か遠くの辺境にある、
ささやかながらも鯉の泳ぐ池があるような割合に良い家で暮らしていたのですが、
祖父が亡くなり、住居を管理するのも容易でなくなったためその家を引き払い、数年前にこの家に移り住みました。

母と諍いを起こすような場面もなく、関係は極めて良好でした。
昼下がりに二人揃って再放送の刑事ドラマを観ることが日々の楽しみであったようです。

私の部屋は二階にありました。
今もまだ、私の残していった漫画本や古いゲーム機がそのまま放置されていることでしょう。
部屋は私が一人で使うには十分な広さで、昔はよく友人たちを招いて遊んでいたものです。

……よく考えてみれば、部屋は些か広すぎたようにも思えます。
少年であるが故の身体事情のせいなのか、過去に誇大妄想を塗布しているのか……
つまり、子ども二人でも優に使えるほどのスペースだったのです。

281 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:38:14 ID:cxCxhwjA0
その時、私は絶叫していました。

叫んだ瞬間の記憶は無く、刹那の後に自分の叫び声に吃驚していました。
それは何に対しての叫びだったのでしょう……。

例えば、思い出したくもない忌々しい過去が奥底から次々に競り上がってくるとき、
思わず声を上げて拒絶したくなります。自作の拙い漫画や、詩歌のことなど……
しかしその時、私は何一つ思い出していなかったのです。それはまったく、虚無から発せられた叫びでした。

ただ、それは私にとって別に珍しいことではありません。
時々、身に迫る巨大な不幸の予兆に対してどうしようもなく緊迫した気持ちになることがあります。

その時も、過去が噴出する時と同様の叫喚を口にしたくなるのですが、よく考えると何のことはない、
その不幸には実態も、そもそも予兆さえ実在していなかったのです。

何かに対して怖ろしい、怖ろしい、逃げたい、いっそ消えてしまいたいと考える感情は、
実のところ一切が妄想であったりするのです。

だから今回もその類だと考えていました。でも、もしそれが何らかの意味を持つ叫びだったとすればどうでしょう。
今になってはその仮定にも若干ながら説得力を持たせることができます。

そう、例えばK君のこと……役者の夢を絶たれたK君に、心のどこかで優越感を抱いている、
馬鹿にしていること……。或いはN君のこと……発達障害を抱えているかのようなN君と縁を切って以降、
私自身が虐められることは殆どなくなりました。私自身、N君の同類であると見做されなくなったためでしょう。

そのため、N君と疎遠になれた結果に諸手をあげて喜んでいること……。
そういった過去の罪悪感に対して、私は人知れず叫んでいたのかもしれません。

しかし昨日、その場で叫び声がもたらした効果は、私に現状を認識させることでした。
揺らいでいた思考回路が観測を経た量子のように固定化し、次の一手を要求してきました。

282 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:41:20 ID:cxCxhwjA0
私は立ち上がり、ともかく母の携帯に連絡を入れてみようと思い立ったのです、
しかしもし既に通夜が始まっているとすれば、電話をしても迷惑なだけだと考え直し、
やはりどうしようもなくなって佇んでしまいました。

それもきっと、都合よく他人に理由を求めた逃避行動に過ぎなかったのです。
 
闇の中でどれだけかの時間が経ちました。
その無為な時間、私は初めて父について本格的に考え始めていました。

とはいえ、父に関して目立った思い出はありません。
幼少期から父は単身赴任で遠い地へ赴いており、顔を合わせる時が殆どなかったのです。
まだ赤ん坊であった私は、覗き込んできた父を見て泣き叫んだのだそうです。

時には映画館に連れて行ってもらったりもしたのですが、そんな時も私はどこか他人行儀であったように思います。
最近では出張も少なくなり、大体は実家にいるらしいのですが、今度は私のほうがいなくなってしまいました。

そんな父が亡くなるということがどういうことなのか……。
考えが袋小路に陥ってしまったとき、不意に背後の扉がガタリと開きました。
私は驚愕のあまり反射的に身体を前屈みに丸めました。

腹部に引き攣った痛みを覚えながら振り返ると、そこに母が立っていました。
母のほうはまるで驚いておらず、無様な格好の私を緘黙の如き表情で見詰めていました。

その時に感じた恐怖に似た心持ち……
まるで、私の見ていない時の母がプログラムとして動作しているのではないかという疑い……

上手く説明できる自信がありません。
ただ、私はその人物が母親であると認識してなお、暴漢と対峙するような警戒心を解けずにいたのです。
 
しかし母は、数度の瞬きの後にはいつもの母に戻っていました。

283 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:44:10 ID:cxCxhwjA0
J( 'ー`)し「ああ、帰ってたんやね」

と彼女は言い、私が応じる前に

J( 'ー`)し「はよ行こ、もうすぐ始まるんやから」

と促してきました。
そして、連れられるままに私は家を出て、母が呼んだらしい、さっきとは別のタクシーに乗り込みました。

(???)「もうみんな、行ってるん」

と私は尋ねました。もっと別に訊くべきことがあったでしょう。しかしその時は最良の質問だと思ったのです。
母は黙って頷きました。

(???)「何で母さんだけ戻ってきたん」

と続けると、

J( 'ー`)し「鍵閉めたか、不安になって」

と返ってきました。

(???)「それだけ」

J( 'ー`)し「そやよ」

母がそんなに用心深い性格だった覚えがないものですから、少々不審がったのですが、
母がそういう以上それを否定する必要もありません。

284 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:47:13 ID:cxCxhwjA0
車は順調に夜を滑っていきます。昔はなかった道路から国道に入り、駅とは逆の方向へ進んでいきます。
流れていく灯りをぼんやりと眺めていると、今度は母のほうから話しかけてきました。

J( 'ー`)し「あんた、大学はどうなん」

(???)「別に、何も変わりあれへんけど」

J( 'ー`)し「試験は」

(???)「もう終わったよ」

J( 'ー`)し「ほな、帰ってきたらええのに」

(???)「色々あるんや、サークルのこととか……それに、就活もせなあかんし」
 
就活、という言葉に母はやや大仰にも見える反応を示しました。
昨今のニュースで散々騒がれているため仕方ないことかもしれませんが、
それにしたってあまりにも深い溜息を吐いたのです。

J( 'ー`)し「そうか、就活な」

母は言いました。

J( 'ー`)し「ああ、ああ。あんたももう社会人なんやね」

言葉を探しながら、思考を垂れ流しているような具合。

285 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:50:14 ID:cxCxhwjA0
J( 'ー`)し「ふん、ふん。そうやな、もうそんなんも考えていかなあかんもんな」

私はちょっと笑って

(???)「何が言いたいんな」

と言いました。

(???)「心配してるんやったら、大丈夫やで。たぶんな」
 
母は不安のような色に染まった声で更に続けました。

J( 'ー`)し「せやな……あんた、今まで殆ど親に心配かけたことなかったもんな」

(???)「そんなことないよ」

J( 'ー`)し「そやよ、浪人もせんかったし、成績も、まあええ方やった。一人暮らしも、ちゃんとやってるみたいやしな」

そこでちょっと区切りを入れてから、母は白い息と共に呟きました。

J( 'ー`)し「ほんま、阿呆な親から生まれたとは考えられへんわ」
 
母とは……絶対的な肯定者なのかもしれません。
確かに、私は周りが敷設したレールから外れたことは殆どありませんでした。
しかしそのことが今や、自分に罪悪感をももたらしているのです。

周囲が見るほど、私は中身を伴った人物ではありません。
それなのに頂ける賞賛が、どうにも哀しく感じられます。人間とはいずれそのようなものなのでしょう。
それに対する私の飽き足らなさは、所詮幼い自意識過剰によるものなのです。

286 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:54:34 ID:cxCxhwjA0
……と、ここまでは私も普段通り、自己保身じみたペシミズムで母の言葉を聞いていられました。
疑わしさを覚えたのはここからです。母はふと、

J( 'ー`)し「あんた、昔のこと憶えてるか」

と言いました。

(???)「昔って、どれぐらい」

J( 'ー`)し「小学校の、三年生ぐらいかな」

(???)「あんまり憶えてないけど、どうして」

幾らかの沈黙があって、母は答えました。

J( 'ー`)し「N君っておったやろ」

私は驚きを隠せずにいました。
他人の口から再度N君の言葉が出てくるなどという事態を想定していなかったのです。

(???)「憶えてる、憶えてるよ……N君が、どうしたん」

J( 'ー`)し「亡くなったんやって」

287 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 22:57:13 ID:cxCxhwjA0
私は思わず眉を顰めました。それは父の訃報を確信した時よりも遥かに現実離れした感覚で、
私はただ餌を待つ鯉のような面持ちで母親の次の言葉を待ちました。その間、何も考えられずにいたのです。

J( 'ー`)し「交通事故に遭ったみたいでな、近所の人に聞いたんやけど……。
      何かの拍子に車道へ飛び出したところを、トラックに轢かれたんやて」

(???)「……そうなんや」

J( 'ー`)し「一応事故、言うことになってるけど、もしかしたら自殺かもしれへんねんて」
 
その時、私は妙な解放感を覚えたのです。
それはこれ以上N君に関して考える意味を失った故のものだったのでしょう。

しかし、通夜に向かうタクシーの中で何故母がその話を持ち出したのか、理解に苦しむところです。
母の語り口は終いになったらしく、私の反応が待たれていました。
適切な言葉も見つからないまま、私は

(???)「そう」

と頷きました。

(???)「そうなんや……まだ若いのにな」

288 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:00:14 ID:cxCxhwjA0
すると母は言いました。

J( 'ー`)し「そやよ、あんたより一つ年下やのに」

(???)「ええ、違うよ。同い年や」

私が否定すると、母は声高に反論するのではなく、むしろきょとんとした顔つきで声を潜めました。

J( 'ー`)し「何言うてんの、あんた。N君は、あんたより後に生まれた子やないの」
 
しかし私の方も常識に自信がありましたので、笑い飛ばす形で

(???)「違うよ、同い年やよ。ほんま、ボケてるんとちゃうの」

と言いました。その時の母の表情はうかがい知れません。
丁度街灯のない道に入って、母の顔はポッカリと空いた黒い穴のように見えました。
やがて穴の中から「そうか」という声が聞こえました。

J( 'ー`)し「そうか、そやったな。確かに、同い年や」

289 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:03:36 ID:cxCxhwjA0
その時には気にならなかったのですが、その声色には気圧されたために仕方なく、
といった色合いが含まれていたのかもしれません。でもその時は

(???)「そうやて、そうやないと、友達になることもあらへんかったやろうし」

と勝利宣言のような言葉を吐いたのでした。
 
車は十数分で目的地に着きました。
そこは極めて典型的な葬儀場であるらしく、喪服に身を包んだ何人かが足繁く出入りしていました。
私は母に数珠を受け取り、タクシーを下りるとやや急ぎ足で中に入りました。

J( 'ー`)し「こっちやから」

という母の案内に従い、ロビーを横切って真っ直ぐ進み、やがて見えたホールに入りました。
入り口に受付として立っていたのは中年の男性で、見覚えがあるような気もしましたが、
誰なのかまでは思い出せませんでした。

その人がこちらに向かい、微笑んでお辞儀をしたので、私も慌てて頭を下げました。

290 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:07:52 ID:cxCxhwjA0
ホールはさほど大きくなく、既に二、三十人程が着席していました。
どこに座ればいいのかも分からず、いつの間にかいなくなっていた母の姿を探し求めました。
すると祭壇のすぐ近く……恐らくは親族席と呼ばれる場所に、父が座っていたのです。

ああ、父がいる、と思いました。
それからようやく驚きました。例えでは無く、風景がぐにゃりと歪んだような気がしました。
その時の衝撃は、常識の崩壊と言っても差し支えないでしょう。

父は沈痛な面持ち、つまりは通夜に参列する遺族として当然の表情でパイプ椅子に座っていました。
医者に糖尿病を指摘された肥満体も白髪の交じり具合も、父以外の何者でもありませんでした。
 
しかしその問題に理論的な説明をつける前に、更なる衝撃が私を襲ったのです。
父の存在に落ち着きを失った私の眼は滑稽なほどに泳ぎました。彷徨った視線は一瞬祭壇に固定されました。
種々の、名前も分からぬ花々と焼香用具、そして一番高い場所に遺影のための額縁がありました。

遺影に写っているのは誰でもありませんでした。
無論、N君でもありません。それどころか、それはまったくの白紙だったのです。

291 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:10:43 ID:cxCxhwjA0
私はただただ呆然と佇みました(それが正常な反応のはずです)。
何かの手違いかとも思いましたが、こんなにも分かりやすいミスを放置しておくわけがありません。
事実として、そこにあるのは空白の遺影で在り、写っているべき故人が存在していなかったのです。
 
……いっそ、その時私は大声で糾弾すべきだったのでしょう。
そうすればそこで不条理の鎖が断ち切られたのかも知れません。それに近いことをしようとはしました。
先ほど存在を確認したばかりの父に、この、あってはならない間違いを報告しようとしたのです。

しかし私が親族席に足を向けようとした直後に葬儀場の職員らしい司会者が通夜の始まりを告げました。
 
たったそれだけで私の正義感は挫けました。
私は慌てて着席しようとし、出来るだけ目立たぬよう右側の最後列に腰を下ろしました。
そして独り、心の中で呟き続けたのです。おかしい、何かがおかしいと。

それを告発するわけでもなく、ただただ自分の内部で処理しようと必死だったのです。
もしかしたら、そうやって自身の内側に溜め込んでいったのが良くなかったのかも知れません。
 
僧侶が入場し、読経が始まりました。
その場にいる全員が、何の疑問も持たずに現状を受け入れているようでした。
そんな周囲に何とか溶け込もうとし、まるでそれを疑いの捌け口にするかのように数珠を強く握りしめました。

何度見直しても遺影は空白のままでした。
祭壇の前にはシンプルな棺が置かれていましたが、もしそこに何かが納められているとして、
その存在とは何者だったのでしょう。私以外の参列者達は、一体何者の死を弔っていたのでしょうか。

292 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:13:22 ID:cxCxhwjA0
やがて司会者の指示で焼香が始まりました。
先ず父が席を立ったため、今回の葬儀の喪主が父であると言うことが分かりました。
そのため、父方の祖母が亡くなった可能性を探ったのですが、よく見渡せば最前列に祖母は座っていました。

このときようやく、自分が座っているのが親族側の席だと悟って安堵したのですが、
そのような落ち着きは些少なものに過ぎません。
私の親戚であるらしい人々が次々と立って焼香を済ませていきます。

その顔を順々に見比べてみても、一体誰が誰なのかまるで分かりませんでした。
そもそも私の家族は親戚付き合いの薄い方であり、母方には親族自体が殆どおらず父方の親族には、
母曰く父が不精者であるがために数年に一度の年末年始に、帰郷するぐらいの交わりでした。

そのため、今目の前にいる親族は恐らく父方の誰かなのでしょうが、一人として認識できないのです。
それがどうにも恥ずかしく感じられ、私はじっと俯くことにしました。
 
それでもその内私も焼香しなければなりません。前列の人が席を立ち始めたのを見計らい、私は顔を上げました。
ちょうど、私と同い年ぐらいの若い男性が手を合わせているところでした。
彼は幾分長めに拝んでから振り返り、こちらへ戻ってきました。

中肉中背のその男性は、私を見つけると足を止めました。そして、少し首を傾げてこちらを見つめてきたのです。
喜怒哀楽のいずれにも彩られていない、木乃伊のような表情。
特徴的な三白眼には憶えがあるような気もしましたが、やはり思い出せませんでした。

時間にすれば数秒にも満たなかったでしょう、男性は頻りに首を捻らせながら席に戻りました。

293 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:16:37 ID:cxCxhwjA0
私が立ち上がると同時、左側の……友人、知人が座ると思しき席の先頭にいた男性も立ち上がったので、
私は小走りをしながら「すいません」と小さく言い、その人の前に割り込みました。
儀礼的に焼香を上げ、合掌……しかし、一体何を想えば良かったのでしょう。

目の前の死者は見ず知らずの他人であるどころか、そもそも存在すら怪しい者だったのです。
そう言えば、司会者でさえ故人の名前を一度として口にしていませんでした。
踵を返す際、ちらと父を見ると、彼はすっと私から視線を外しました。

それまでずっと、私を眺めていたようなのです。その態度は癪に障ると言うよりも甚だ不気味でした。
一体父が何を考えていたのか、いや、参列者全員が何を考えていたのか……。
 
その後も滞りなく焼香が進み、それが済むとやがて読経も終わりました。
司会者が前に立ち、弔問客への感謝の言葉を述べていました。
そしてその後、喪主である父から挨拶があるというような旨を口にしたのです。
 
私はここで何らかの情報が得られるのを期待しました。父はきっと故人に対する思いを述べるでしょうし、
その際亡くなった人が誰であるか、そして何故遺影が空白であるのかなどを解明できるはずでした。

そしてそこで一切が解決されてしまえば、
最早私は少しの疎外感も抱かずにこの葬儀に加わることが出来たのです。
 
しかし、父は私の望みを当たり前のようにして裏切りました。
記憶している限り、父の挨拶は司会者が行ったような弔問客への感謝に終始し、
この後に通夜振る舞いがあるので参列者の皆様はそちらの方にもご参加下さい、というような案内をしただけでした。

294 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:19:33 ID:cxCxhwjA0
そして通夜は終了しました。何一つ疑問が解消されないまま、
しかしそれらを疑問に感じていたのは自分だけだったのでしょう、参列者は次々にホールを退出していきました。

流石に我慢の限界だった私は、司会者の男性と何か話し込んでいる父の傍に寄りました。
隣に立って見ても、父は父のままでした。父は死者でなく、生者なのでした。
そんな当たり前の事でさえ、その時十分に理解出来ていた気がしません。
 
話を終えて振り向いた父は、私の姿に少々面食らっていたようです。
そして父の癖である、好意とも嫌悪とも取れない苦笑を浮べました。

しかしそんな父の反応を気にしている暇は無く、私は「ねえ、父さん」と、祭壇と父を見比べながら言葉を探しました。
そしてようやくまとまりのついたところで、父に

( ´∀`)「お前、そのネクタイどないしたんや」

と言われてしまったのです。

295 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:22:13 ID:cxCxhwjA0
その時初めて私は、自分の締めているネクタイが葬儀の席には相応しくない色味を帯びていることに気付きました。
就活用に買いそろえたものですから当然の話です。
それでも、他人に指摘されると必要以上に屈辱的であるように感じました。

私が黙り込むと父は皮肉っぽく笑い、

( ´∀`)「しっかりせえよ、お前ももうすぐ社会人やねんから」

と言いました。完全に出鼻を挫かれた私が小さく頷くと、
父は近くに待機していた参列者と話すためにさっさと離れていきました。
 
手持ち無沙汰になった私は再び遺影を見遣りました。
相変わらずの空白……しかしこの時、私はある程度合理的な理由をもって説明してみようと試みていました。
即ち、故人が自分の写真を一枚も所持していなかった可能性が考えられたのです。

そんなことが実際にあり得るのかどうかはともかく、またそんな状態で額縁だけを飾る不自然さも関係なしに、
私にとってはそれが説明できる事態であると判ぜられたのが大きな救いでした。

その説明を誰かにするわけでもありませんから合理性など二の次で構わず、
自らのざわついた心境に平静を取り戻すことが最優先だったのです。
そして一旦そう考えてしまえば全てに納得出来た気分になれました。

その時、私は祭壇前の棺には当然、
一度も写真を撮らなかった同情すべき誰かしらの遺体が納められていると信じて疑わなかったのです。

296 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:25:09 ID:cxCxhwjA0
真相を手に入れた思いの私は躁病的な気分を味わいながら、
ホールを出て通夜振る舞いが行われるという和室に向かいました。

そこにはすでに十数人が集まっており、それぞれがやがやと世間話に花を咲かせていました。
ホールでの粛々とした雰囲気からは打って変わって賑々しい空気です。

それだけで私は何だか嬉しくなれたのですが、
その場には私の知り合いが一人もいないことに気付いてほんの少し落ち込みました。

しかしその落胆も、テーブルに並べられた簡素な食事を見て今朝から何も食べていない空腹を思い出すと、
すっかり雲散霧消したのです。
 
そこかしこの会話の邪魔にならぬよう、私は出来るだけ隅に座りました。
何人かが私に視線を向けましたが、大して気にされずそれぞれの話題に戻っていきました。

やがて父が入ってきて、改めて感謝の言葉と歓談の合図が出ると、
ようやく私は目の前の食事にありつけたのでした。
 
この時が、直近の最も幸福な時間であったことは紛れもない事実です。
喧噪から乖離した独りの空間でひたすらに食欲を満たすことが、
これほどまでに愉悦であるとは思っていませんでした。

私自身、精神的に昂揚していたせいもあるのでしょう、
何を食べても美味いと思える体験はもう二度と訪れないはずです。

297 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:28:14 ID:cxCxhwjA0
しかし、私の喜びは潰されて然るべきであるようなのです。
そうやって食べ進め、充足感に浸っているとき、不意に真横で気配を感じました。
何の気なしに首を向けると、件の三白眼の男がこちらをじっと見ていたのです。

私はぎょっとして手を止めました。
周りの賑わいがぼやけて遠のき、その男だけが妙に浮き出てくっきりと見えました。
男はしばらく、相変わらず恍けたような双眸で私と相対していました。

ただそうしているだけで、噎せ返るような息苦しさを覚え私は我慢できずに自ら話しかけることにしました。
まず「何」と言い、そこで内臓から込み上げてきた塊のようなものを嚥下させて、
「僕に何か用ですか」と独りごちるように言ったのです。

すると男は言いました。

( ∵)「分からん」

首を傾げ、だらしない口元、声変わりに失敗したかのようなノイズじみた声……。

( ∵)「何も分からんねん」

それを聞いて私が漏らした吐息は、まるで刑の宣告を受けた囚人のようでした。
しかし合致する鍵を見つけた記憶の引き出しを完全に開ききる前に、
男は矢継ぎ早に奇妙な台詞を送り込んできました。

298 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:31:20 ID:cxCxhwjA0
( ∵)「久しぶりやな……ロックマン、またしよな。そやけど、ごめんな。もう僕ら友達やないよな。
    あんなことして……あのな、確かに僕、あの時は頭がおかしかってん。
    始終色んなところが痒かって……昔おったやろ、ありんこ。あれ、よう二人で虫眼鏡使て焼き殺してたよな。

    動かへんように、手足をもいでからな……。
    多分な、あの時殺したアリが幽霊なって頭の中這い回ってたんと思うんや。

    弟には悪いことしたなあ、けど、あの時君も止めへんかったやろ。
    そやから僕、苦しがってるのに遠慮もせず……でも、違う。僕は君に責任を押しつけに来たわけやない。
 
    けどな、しんどうて……分からん、何も分からんねん。
    今日また会えて嬉しいよ。もうでも、会うことも無いんやろうな……」
 
ガタン、と激しい衝突音が頭の中で響きました。記憶の引き出しを無理矢理押し戻した音です。
目の前の男が苦しげに告白する過去を、そして男そのものを受容するにはあらゆるものが足りていませんでした。
正直なところ、その時点で私は彼を狂人だと断じていたのです。話している間も男は無表情のままでした。

そして語り終えると立ち上がり、そそくさと部屋を出て行ってしまったのです。

299 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:34:06 ID:cxCxhwjA0
私には追いかける気力もなく、ただ呆けていました。
男の声は幾度も頭蓋の壁にぶつかって反響していましたが、いくら経っても全く飲み込めませんでした。
引き出しがカタカタと震えているのを押さえながら、私は思考を空白にする作業に追われていました。

それは逼迫した自己承認のようなもので、
つまり男の言葉を全て妄言として片付けるための消極的手段だったのです。
 
眼球が自ずから動き、その視界に母の姿を捉えました。母はいつの間にか私の傍に正座していたのです。
私は皮肉っぽい笑いを浮べながらその表情に視線を固定しました。
言うまでもなく、私は母が加勢してくれるものだと信じていました。

だから最初、母の沈痛の極みに至ったような面持ちに気付かなくても仕方なかったはずです。

J( 'ー`)し「気にせんでええんやからね」

噛みしめるように、自分に言い聞かせるようにして母は言ったのです。

J( 'ー`)し「気にせんでええんよ、あんたは、何も悪くないんやから」

しかしそれは、私の私自身に対する疑いをより加速させました。

300 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:37:18 ID:cxCxhwjA0
信頼とは、相互的に結ばれるものです。
それを得るには勿論相手の振る舞いに真実味や説得力があらねばならないのですが、それともう一つ、
信頼の糸の片方を握る自分自身にも真実性が求められるのではないでしょうか。

そして自身の真実性というものは、殊の外容易に崩落するものであるらしいのです。

例えば相手側が予想外に巨大な存在であったとき、
或いは自分の存在があまりにも矮小であると認識させられたときに、
自らを律している常識や習慣は途端にその実態を失います。

そしてそれは、結果的に信頼関係の瓦解を生み出してしまうのです。
 
私自身の真実味は、その両方によって形をなくしました。
男の語った台詞は決して彼一人の説得力を構築しているわけではなく、それを凌駕する存在……
現実、というような抽象的な観念の足場にさえ影響を及ぼしているのです。

そしてそれと相対する私は、
何者にも擁護されないただただ脆弱な小動物的常識を持ち合わせているだけに過ぎませんでした。
 
そうすると、先ほどとは真逆の心情変化が起こります。
私は状況を合理化して認識しようとするのではなく、むしろ率先して事態を不合理的に理解しようとしました。
三白眼の男がN君であるという可能性……しかしN君は母の言に因れば既に亡くなっています。

そして彼が示唆した私の「弟」という存在。私は今日まで一人っ子であると確信して生きてきました。
しかし不合理的に解釈すれば、私には弟がいたということになります。
あまつさえ、その弟はN君によって何らかの暴虐を受けたらしいのです。

301 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/08(水) 23:40:11 ID:cxCxhwjA0
躁から鬱への揺り戻しが思いの外早く訪れていたのかも知れません。

その時の私は今でさえ考えられないほど気が滅入っていました。
その証拠に、私は顔を上げてその場に弟がいないか探し求めたのです。
当然、それらしき人物は見当たりませんでした。

しかし私の思考はどうしようもなく不合理化していたわけで、
ですから現在の私がこんな事になってしまっているんですけれども、
ともかく信頼を築いてきた現実の失踪がこれほど悲壮であるとは思いませんでした。

何せ、私の周りには現実以外何もなかったのですから。
そしてそれに依拠していた私自身の真実味も、次第にネガティヴな妄想に上書きされて影を潜めていったのです。

虚妄は時として事実さえ殺してしまいます。
私が私以外の何者でもない以上、即ち私が自分自身の精神と共に歩んでいる限り、
それはどうしようもない運命なのです。

あれほど旺盛だった食欲は一片も残らず喪失し、食べ物を見ることにすら生理的嫌悪を催しました。
気付けば、私の傍に居たはずの母がいなくなっていました。
そう言えば、母は通夜の間どこにいたのでしょうか。父の傍にも、弔問客の中にも居なかったはずです。

考えるよりも先に嘔吐の衝動が全身に染み渡りました。
周りが自分に注目していないか確認するために眼だけキョトキョトと動かしながら立ち上がりトイレに向かいました。

そして便器に跪いて上半身を蠕動させても、出てくるのは恨み言のような呻きと唾液ばかり。
どうやら吐瀉物など存在しないらしく、吐き気のみが私の臓腑を蹂躙しているようでした。
全部吐いてしまい、楽になることも私には許されないらしいのです。


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