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1α編集部:2014/03/27(木) 10:53:07
詩 散 策 3 2008-2010
              詩 散 策 3

                2008−2010





松籟について 2008/1/3

松籟:しょうらい(籟はひびきの意)
松の梢に吹く風。松韻(しょういん)
 *太平記-三九・諸大名「石鼎(せきてい)に茶の湯を立て置きり、松籟声譲りて芳甘春
  濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし」
 *黄葉夕陽邨舎詩−宿生田「客窓一夜聴松籟、月黒楠公墓畔村
 *朱熹−越亭詩「松籟韻宮商、鴛鴦勢翔遡」



またまた松籟について 2008/1/11

 沼南ボーイさん、長岡生さん「松籟」について色々と教えていただいて有り難うござい
ます。宮尾登美子の「松風の家」は太平記-三九・諸大名「石鼎(せきてい)に茶の湯を
立て置きり、松籟声譲りて芳甘春濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし」を参考にした
のではないでしょうか。
 また、長岡さんの曹洞禅の「証道歌」中の次の句で

??    江月照らし 松風吹く 永夜の清宵 何の所為ぞ

 もまた私の知らない文献でした。

    *黄葉夕陽邨舎詩−宿生田「客窓一夜聴松籟、月黒楠公墓畔村
    *朱熹−越亭詩「松籟韻宮商、鴛鴦勢翔遡」

 などの漢詩にあるように、中国から渡来したもので、日本では「松籟」ではなくやさし
く大和言葉の趣で「松風」と訳されて使用されたのではないでしょうか。
たとえば、『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の「小督」にも取り上
げられている悲恋を、「想夫恋」の箏曲を爪弾く小督局、「黒田節」の2番の歌詞の中にも
も出てくる歌詞に託され、

        峰の嵐か 松風か
        訪ぬる人の 琴の音か
        駒ひきとめて 聞くほどに
        爪音(つまおと)頻き(しるき)想夫恋(そうふれん)

 私はどうもこれらの注記かなにかで読んだのかも知れません。しかし今までの私の「こ
のような難しい言葉を何時、どのような文献で読み覚えたのか」という疑問には何一つ答
えが見つかりませんでした。また、ここに書いたことがらは全くの憶測に過ぎません。い
つかきっとその真相が科される時がくるでしょう。





「ひとりぼっちのセキセイインコ」感想番外編  2008/6/21
http://betty.jp/birdbrain/alllist/15-6.html??(同人α15号)

いま山荘の窓からシトシトと降り続く雨を眺めながら「ひとりぽっちのセキセイインコ」
の遅すぎた感想番外編を書いている。二年前に本郷の公園の見えるバルコニーの鉢植えか
ら持って来たラビット・ラズベリーがやっと土地になじんだと見えて、今年はかごいっぱ
いの赤い実が採取できた。朝食に添えて恐る恐る食べてみると、野趣豊かな野いちごの甘
い味と香りがした。これはいける、このイチゴは生命力も強く冬にも葉を落とさないから、
冬枯れの敷地に緑のさわやかさをつくってくれるカバープラントとしては最適だと思えた。
いつか見た四谷から市ヶ谷へ向かうお堀に面した黒松林の中に群生していたラビット
・ラズベリーのように・・・。
 さてこの詩は、カオちゃんやおばあさんへの惜別の情が特に強いわけでもない。まるで
パステルカラーの淡い色で描かれた夢見るようなマリー・ローランサンの少女像のよう
な、透明で明るい光で包まれ、時間の止まった二次元の空間を思い出させる。そして、エ
リック・サティのジムノペディの音楽のような静かな諦観に満ちている。そこには鳥かご
を出て力強く羽ばたき積極的に生きる自由な姿は見られない。そこが好き勝手に生きてき
た私にとって、優しさと美しさに感じ入る一方で少々不満でもある。




ロバート・ブラウニングの詩2008/7/9

朝7時、本を読みながらロバート・ブラウニングの詩を細君が口ずさんでいた。それは窓
の外の公園が、カラスのがらがら声と猫の鳴き声、ホームレスの無遠慮な独り言等に、朝
の静けさを壊されたからである。

  The year's at the spring,
  And day's at the morn;
  Morning's at seven;
  The hill-side's dew-pearl'd;
  The lark's on the wing;
  The snail's on the thorn;
  God's in His heaven--
  All's right with the world!

  時は春、/日は朝、
  朝は七時、片岡に露みちて、
  揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、
  神、そらに知ろしめす。/なべて世は事も無し。
        *上田敏訳『海潮音』所収。





「揺らぎ」による、会話詩を読んで2008/10/3
http://2style.in/alpha/16-6.html (同人α16号)

 臼井さんの作品は今日までと思って悠長に構えていたが合評御礼が出て、さてどう繕う
かと戸惑ってしまった。
皆さんも言われているように詩の解釈は実に難しい。俳句や短歌のように作者が言わんと
することが判りやすいのと違い、理屈なしにただ感じればいいといってもメタファーを多
く含む現代詩の鑑賞は実に厄介なものがある。
 海とか波とかの響きや字面も人によってそのイメージは違ってくる。だから作者が言葉
を発した瞬間からそれは一人歩きし、一生懸命読者に理解されるようにと意図された散文
と違い読む人の解釈次第で変化していく。
美しい海や岸に寄せ来る絶え間ない波の動きもある時は、私にとって単に心地よい響きと
開放されたさわやかさだけではなく、海の底知れない広がりと深みは恐れを抱かせるし、
無限の運動は私に逃れられない束縛と映り息苦しさを覚えさせる。
 そして、この詩が最後の「?? だけど、潮に引き戻されていく・・・。」という一節によっ
て、その意味するところを私は解釈出来ないでいる。





テーマー「間柄」による、会話詩
2008/12/8
http://2style.in/alpha/17-2.html (同人α17号)

この詩はメタファーを読み取るといういつもの癖で作業が許されるものなのか、またその
ようなものを作者が意図していないのか、私には判らない。それほどこれは自然体の無垢
の心で読み取る詩なのだろう。

たぶん作者は私を取り巻く人達のような悔しさや惨めさなどの不条理の世界で生きること
から開放された人生に違いない。私も戦後の貧しさのなかで屋外にしつらえられた仮設の
五右衛門風呂に入りながら、秋の空の雲を動物や乗り物になぞらえた記憶がよみがえった
ものの、いまの自分は随分遠くまできたものだという感慨をもった次第である。
そして、とてもこれは作品の評としてはほど遠いとものと自覚しているのであります。





「碇さんの作品の合評」 2009/2/13

 「世界沈没の恐れについて」にいみじくも碇さんの書かれているように、天敵のない人
間の一人勝ちの今、人類の将来は危うくなっていくように私も感じます。
 産業革命以来人口が増え続けました。それにともない人々や産業が大都市に集中しまし
た。いまやいろいろな面で効率の良い社会を作くりあげた「集積利益」が、留まるところ
を知らない欲望でもはや「集積不利益」に転じています。人口集中による交通の渋滞、空
気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、偏狭な民族主義や拝金
主義や利己的な人々の心の荒廃などであります。
 過去にはコレラやペスト、インフルエンザなどの病気の猛威によって、また絶え間ない
大きな戦争のなどで人口が減る事もありました。これは天の配剤だったかも知れません。
地球はそんなことで壊れることはなく、もっとはるかに強かでタフですが、この地球上の
人口が100億になったらますます過密になり食料やエネルギーの奪い合いになり、人類自
らの歴史を閉じる恐れもあります。碇さんの報告を見てそう思いました。
 俳句では 観月やひとりくらしのひとり酒  が私は一番すきです。昔井上靖の「あす
なろ物語」に 寒月が掛かれば 君を偲ぶかな 愛鷹山の麓に住もう という詩を思い出
しました。碇さんの句はそこに居ない人への思いが深く心の奥底に沈んでいるように思え
ました。





星菫派(せいきんは)について 2009/2/16

Wikipediaより
 星菫派(せいきんは)は、星やすみれに託して、恋愛や甘い感傷を詩歌にうたった浪漫
主義文学者のこと(あるいは一般的に、そのような感傷的作品しか作れない詩人を揶揄す
る際にも用いられる)。明治30年代、与謝野鉄幹・晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』に
よって活躍した人たちを指す。
 第二次世界大戦のあと、戦時中の若手文学者に対して、加藤周一は「新しき星菫派につ
いて」(中村真一郎・福永武彦との共著『1946・文学的考察』に収録)という文章を書い
て批判したために、論争が起きた。





「テーマ「色」による、会話詩」  2009/2/26 2009/2/26http://2style.in/alpha/18-1.html??(同人α18号)

「臼井さんの詩はどうして子供の目で書けるのだろう」とO−chanと話していて、ウ
ィリアム・ワーズワースの詩「虹」の話になりました。

My Heart Leaps Up -William Wordsworth       虹
  My heart leaps up when I behold  ??  空にかかった虹を見ると
  A rainbow in the sky.       ??????私の心は高鳴るのだ
  So was it when my life began;   ??  少年の頃もそうだった
  So is it now I am a man;      ????大人となったいまもそうだ
  So be it when I grow old,    ????  年老いてもそうありたい
  Or let me die!           ???? でなければ死をたまえ!
  The Child is father of the Man;      少年が長じて大人となる
  And I could wish my days to be      だから私は少年の頃の
  Bound each to each by natural piety. ??敬虔な気持を持ち続けたい

 私はまさにその回答が見つかったみたいで小躍りした次第であります。私はそのような
目を持ちたいと思っても、もう随分世俗にまみれ不思議なものが見えなくなったようです。
臼井さんのように自然の中からたくさんの色を見つけ、それを黒や白に収斂して土に返す、
そして春がくると再び色々の生命が芽吹き出す。「黒」と「白」はすべての源であると言
っているようです。もう私にはそのような視点が湧き出てこないのではないか。そう思う
と作者は特別な才能に恵まれているのでしょう。
 またまたいつもの天の邪鬼の考えがうごめきだしました。ここで全く違う趣向の作者の
詩を読んでみたい気がするのですが、欲張りでしょうか。




紫陽花の花 2009/6/11

紫陽花
 いよいよ関東も梅雨に入った。じめじめしていて鬱しいようだが、この雨のお蔭で日本
列島は緑の島を保っている。世界の中には水に恵まれずに植物が育たない国が沢山あるこ
とを思えば、この季節もまた有難い気がする。もともと私はあまり外に出て運動するより
は、室内で楽しむことの好きな性格だから、一向に苦にならない。
 さて、この時期に咲く花で一番印象的なのは紫陽花だろう。事務所へ通う道筋にひとき
わ鮮やかで大振りなガクアジサイがある。私は毎朝路地裏に入っていってその花の色の変
化を愛でるのが楽しみである。咲き始めのころはかすかに緑がかった白で清楚な感じを受
ける。そのうち中紅(なかべに)色に変化して華やかになり、そのうち赤紅(あかべに)
色に、最後は深い瑠璃色(るりいろ)となる。しかも一株の木にその色の花が混在すると
ころが面白い。まるで美しい囲い者の朝な夕なの表情のような趣である。紫陽花の花言葉
が「移り気」「冷淡」なのはそのへんによるものらしい。しかし私は薄幸の女性が、縁を
受け入れて静かに生きているような気がしてならない。
 2002年「落書き帳」というホームページを作ってまもなく次のような書き込みをして
いるのを見つけた。

窓辺にて−あじさいの詩 投稿者:Tea Pot  投稿日: 5月24日(金)11時28分39秒
もうすぐ梅雨。今まで通ったことのない路地を好んで歩く癖は、永い彷徨の結果染みつい
た私の趣向であり、今日も真砂図書館までの未踏の路地裏を探した。
そこには蛇苺やあじさいの花がさく路地であった。そしてその時あじさいの花の詩を思い
したがそれは記憶違いであった。それはあじさいそのもを詠った詩ではなかった。
 こころ
こころをばなににたとへん
こころはあぢさいの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひでばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかいなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

      萩原朔太郎 「純情小曲集」より

 また、インターネットで紫陽花の詩を探しているとき、さだまさしと吉田政美のデュオ
“グレープ”のアルバム「わすれもの」に収録された曲
が見つかった。
 蛍茶屋から 鳴滝までは 中川抜けてく川端柳
 他人の心を 胡麻化す様に 七つおたくさ あじさい花は
おらんださんの 置き忘れ
思案橋から眼鏡橋 今日は寺町 廻ってゆこうか
それとも中通りを抜けてゆこうか
雨が降るから久し振り 賑橋からのぞいてみようか
この詩はまさに私が路面電車の終点の「蛍茶屋」の古い屋敷の二階に間借りしていた頃の
情景そのもので懐かしい。
 また、 アジサイは毒性があり、ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状
は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。
釈迦の誕生を祝う行事の花祭り(4月8日)に飲む甘茶(あまちゃ)は、ユキノシタ科の落
葉低木ガクアジサイの変種であるアマチャ(学名:Hydrangea macrophylla var.thunbergii)。
また、その若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。およびそれを煎じて作った飲料、だが
全く紫陽花の葉とそっくりであるから用心しなければならない。





「テーマ「空」による、会話詩」を読んで 2009/7/20
http://2style.in/alpha/19-9.html (同人α19号)

 この詩を読みながら、O−chanの魂胆をハタと理解した。こんなことを今頃になっ
て悟るとはなんと私も鈍くなったことか。この「言の輪」の画面が19号のテーマ「空」
に合わせた「空色」であったとを一月ばかりも気づかなかったことである。人の何気なく
放った些細な言葉に傷つくことがあるかと思えば、このような秘められた思いを読み取る
ことも出来ない自分が見えてきた。これでもかこれでもかと諭されても真意を理解できな
いこともあるというのに、ましてや簡潔な言葉に凝縮された思いの作者の詩においてはな
おさらだ。
 そしてこの実に優しい詩のなかに込められた意図は、くだくだ述べられた解説よりも強
烈に私の心に響いた。
「自然は終わらせるために人を産んだのかもしれない」、最後のこのセンテンスに込めら
れたメッセージは、人間はいままで何をしてきたか、そしてどこへ行くのかという、生命
の根源的な意味合いを問うという重い詩であったことに気づいた。




《言葉集め星創り五拾番》 神秘相撲について  2009/9/1
http://2style.in/alpha/19-12.html (同人α19号)

 書かないでもいいよと神野佐嘉江氏は合評を辞退したけれど、やはり投稿をお願いする
立場の私としたは、いやそれだけではなく詩というべきか散文というべきか、この難解な
読み物にいつも魅了されているからである。
 ある時は短歌でありある時散文詩であり、まさにミクロ量子の世界とマクロ宇宙のとっ
くみあいの様な、まるで神秘相撲そのものの狭間で私の脳は攪拌され、ブラウン運動のよ
うなランダムな混沌の世界を彷徨ようだ。
 一つの単語に全く意味の違う形容詞がくっつき、分節となり文章へと変化する。そして
不思議にそのはちゃめちゃな言葉に正当な意味があるかのごとく私に迫りくる。
本当のところ、用語をあげてその変化を検証しようと思ったが、相当の時間を必要とする
ことなので、今回は勘弁してもらいましょう。
それにしても神野佐嘉江氏の独自性は群を抜いていますね。




「会話詩」の感想 2009/10/4
http://2style.in/alpha/20-10.html?? (同人α20号)

 確かに人間は黙って過ごす時間を失ってしまった。居間にあるつけっ放しのテレビの音
を遠くで聞いていると、間断のない早口のしゃべり声と声高な笑いに満ちている。
 人はあまりの情報の多さに、一人の人が情感を込めた言葉を言っても、ありきたりの意
味で済ますようになった。人によってその情感は少しずつ違うのにね。だから本当の気持
ちを伝えるために多くの言葉が必要になったということでしょう。なんだか逆説のようで
すが・





「テーマ「カオス」による 会話詩」をよんで   2009/12/14
 http://2style.in/alpha/21-4.html??(同人α21号)

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感
じた。





ミルテの花(銀梅花) 2010/5/17

ゲーテの「ミニヨンの歌」に出てくるミュルテとは?
ちなみに、ロルベールは月桂樹のこと、ミルテの原産地は地中海沿岸。常緑の低木で6,
7月に白い花をつける。ギリシア神話のメガもアフロディテに捧げられ、花嫁が持つブー
ケにも使われることから祝いの木とも呼ばれる。
シューマンの30歳時の歌曲に「ミルテとばらの花をもって」(リーダークライス作品24)
がある。詩はハイネ。大意は「ミルテとばら、糸杉と金箔でこの木を柩のように飾り、僕
の歌を葬ろう。熱かった歌も死んだ。だが愛が戻ると歌は甦り、貴女に囁くだろう」。
ミルテとばらは純潔、糸杉は死を表す。クララへの愛が堰き止められていたシューマンの
苦悩が反映しているようだ。その悩みは間もなく解消。歌曲集「ミルテの花」を結婚前日、
クララに贈っている。                (白石裕史)






「同人α第24号編集後記」  2010/8/8

この暑い夏、独居隻語の癖(へき)あり。
鳥は飛べるものと当然思っていたが、ふと飛べない鳥のことが気に掛かり調べてみた。
すると飛べる、飛べないという区分けが正しくない事がわった。本当は飛ぶことが有利に
生きれることでそれを選んだ鳥と、飛ぶことを放棄してもより有利な条件で生きられるも
のとに別れるのだ。飛ばない鳥の方が珍しいのでそれ等を列記すると、アフリカのダチョ
ウ、オーストラリアのエミュー、ニュージーランドのモア、南極のペンギン等々。総じて
天敵の脅威が少な い地域で生きる事ができたからであろう。飛びたいかどうかは、長い
年月を経て選ばれた本人の意思次第。下世話な世界で揺蕩(たゆとう)う生き方もまたいい
だろう。しかしここへ集う五人衆は高く遠く宇宙の果てまで真理を求めて飛翔することを
好むようである。ここにそのことを見事にうたいあげた詩がある。サムエル・ウルマンの
詩である。
   青 春
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、豊かな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただだけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。

歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

六十歳であろうと十六歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の勇気におおわれ、
悲嘆の氷にとざされるとき、
二十歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと人は青春にして已む。





「同人α第25号 「風」−表紙と前書き」 2010/9/20

まず始めに表紙のデザインに用いた「颯颯」という文字は、山鬼:楚辞・九歌にあるもの
を借りた。

雷填填兮雨冥冥   雷填填として雨冥冥たり
猿啾啾兮又夜鳴   猿啾啾として又夜鳴く
風颯颯兮木蕭蕭   風颯颯として木蕭蕭たり
思公子兮徒離憂   公子を思へば徒らに憂ひに離(かか)るのみ
雷が鳴り響き雨が暗く、サルは悲しげに夜も泣いています。風は颯颯と吹き渡り、木は蕭
蕭たる音を立てています、あなたを思うと私の心はいらずらに憂いに沈むのです

大富豪で泥棒を趣味とするスティーブ・マックイーンと保険調査員のフェイ・ダナウエイ
の二人が、全く違う立場で丁々発止とやり合う「華麗なる賭け」という映画があった。悪
と正義のせめぎ合いなかで何とも言えない二人のもどかしい関係を表現したミシェル・ル
グランの「風のささやき」という名曲がある。
http://www.youtube.com/watch?v=tg-XaYrbX-o
またマンディー・バーネットの ウィスパーリング風という歌もある。
http://www.youtube.com/watch?v=FcfPumlZFiY

  風のささやき
風は独り窓辺に佇む私の心に
微かなささやきを残して走り去り
彼の姿を見せることはしない

仮眠の五感をそっと刺激して
覚醒しようとする私をからかうように
過去の思い出のなかに漂わせ
仮の夢に想いをふくらまさせ
荷担した報いとして孤独な憂をあたえる

あるときは花の香りを運んで
あるときは竹林をさざ波のように
あるときは松林をゴーゴーとふるわせ
あるときは首筋に冷たい空気を置いて行く
あるときは私にはな歌を唱わせる

風は私の想念への誘い
風は私の心へのささやき
風は私への宇宙の啓示




窓辺にて−パウル・クレー 2010/10/5

本屋に寄ってパウル・クレーの絵に谷川俊太郎の詩を添えた「響きあう絵とことばのおく
りもの」と言う題の絵本が気に入った。細君は誕生祝いに費用を出すという。1500円
パウル・クレーについての私の知識は、近代建築の四大巨匠ル・コルビュジエ、フランク
・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてヴァルター・アードルフ・ゲ
オルク・グロピウス、そのグロピウスが創立したドイツの芸術と建築の学校「バウハウス」
で、クレーは関わっていたことから始まった。
建築においては造形や構造は言うまでもなく、色彩や配色およびテクスチャーのことまで
学ぶものである。私はクレーの写実的な描写や遠近感をあえて押さえた作品の二次元の世
界に封じ込めたフォルムや色彩のシュールさが好きだ。油絵の生々しい情念ではなく一種
の観念として凝縮させた静かな思想。そういえばクレーの日本画の蒐集は数十冊に及んで
いたという。やはりその影響で平面のなかに観念を封じ込めたのであろう。音楽家でいえ
ばブラームスのような抑制された表現を感じるのは私だけであろうか。





「宇宙からの風が悪戯をする時」を読んで 201012/7

◆副題は場面場面にふく風を現していておもしろい。もうすこし飛んだ言葉がいい。例え
ばアースシーから吹く風に・・・。などの全く違う世界のイメージとの合体。詩の命はメ
タファだと思っています。という私のそよ風の詩は全く力不足、直裁的過ぎてイメージが
宇宙に飛び出せないものでしたが・・・。

◆風がテーマですから
疾風、旋風、烈風。そよ風、薫風、寒風、春風、熱風、山風、緑風などの風づくしを副題
に当て、意地悪な旋風さん、すべてを破壊してよ木枯らしさやさしい母の香りのそよ風さ
んなどの言葉を各節の詩の最後にリフレインの言葉で締めくくるとか・・・。

 [お菓子が飛んだ]
遠足は楽しい頭の中はお弁当とお菓子でいっぱいさ
それとちょっと好きな健ちゃんとシーソーに乗った
昼の会食はお花満開、健ちゃん満開お菓子も大満開
どこから来のか風がチョコおせんべいあめ玉たちを
遠い記憶を思い出させる甘いそよ風よ
 [家がうなる]
台風とともに家族じゅうがわくわくウキウキ状態
父親は男らしさを見せるだろう母親は食料調達鬼
肩を寄せ合い固唾をのんでお客様を待つ最高気分
がたついた雨戸がガタガタ瓦がカラーンコローン
いっそすべてを破壊しつくせ疾風よ
 [自転車に乗って1]
高校に遅刻しないようにとペダルを思いっきりこぐ
そんな時に限っていきなりの向かい風が思いっきり
プリーツスカートが全面に風を飲み込み顔に被さる
前方視界ゼロ状態で今日の下着は何色だっだかなと
紳士面した悪戯好きなつむじ風よ
 [ビルの谷間で]
前に進もうと屈んで力を込めて一歩一歩全力投球だ
西新宿高層ビル街脇は台風でもないのに大嵐になる
軽いあの子はスカートを両手で必死で抑えているが
一瞬体がふわりと宙に浮き思わず手を離してしまい
私に戦いをいどむか身の程知らずのビル風よ



2α編集部:2014/03/29(土) 10:06:26
誕生日
..
              誕生日

              2007−2010




    一見ハードボイルドを決め込む人にも、ソフトボイルドの顔がある。
    作品の中にも、投稿記事の中でも、夫、父の顔はほとんど見せない。
    そんな中、チラリと見せるのが誕生日の記事だ。
    唯一この日だけは鉄の壁を少しだけ開くようである。
    扉の中の数少ない映像だ。有名作家でもないのでチラリ家族の画像
    を載せても問題は生じないだろう。思い上がりの肖像権を叫ぶ人達
    でもなさそうだし、何と言っても、みないい顔をしていて恥じるこ
    とないから…。




2007年

細君の誕生日
2007/1/30

今日は細君の誕生日。何歳になったかにわかに思い出せない。数えるには7人分の指が必
要のようだ、ただし亡くなった高柳マスオ君のではちょと足りないけどね。
昨日は三越で誕生祝いにピンクの財布を買った。沢山万札が入ればいいね。(さっき信用
金庫の定期の満了によるお金が十数万入ったようだ)
さて息子が細君の誕生日を覚えているかな、昼休みにでもこっそり電話してみよう。毎年
なにやかやと贈り物をしているようだが今年はどうだか疑わしい。近くに住んでいるのに
最近1月ばかり家に近寄らないのは何か意図があるのだろうか。

今朝の朝日新聞の鶴見俊介さんと語るで相方のアーサー・ビナード39歳
米国出身、東京在住 日本語詩集「釣り上げては」で中原中也賞

アーサー・ビナード
  ・「国益」は一部の人の利益のためにみんなをこき使うための口実
  ・コンピューターが意味のある言葉を発することができないのは、生活していないか
   らだと思う。コンピューターは猫をだいたことがないし、豆乳も牛乳も飲まないか
   らね。
 ・・・こういう言い回しや表現を私は好きだ。

夜7時半に三越のライオン前で息子と落ち合い、スペイン料理で会食した。食い物には目
がないから快く細君の誕生祝いに来てくれた。3,800円のコース料理。
息子の年収が520万とか、26歳では上出来だろう。そうこうするうちたちまち私の年収
を超すにちがいない。
自分の学費のためにマンションを売ったり、都落ちしたりと親が苦労したと思っているの
か、けなげにも河口湖の家のローンの面倒はみるからねと手抄なことを言ってくれている。
細君にとっては私が居なくなっても一安心だと思っただろう。





2008年

細君の誕生祝い
2008/2/3

◆細君の誕生日を銀座のイタリア料理店ILPINORO(イルピノーロ)で息子を呼び
 出し、3人で祝う。3,200円のコース。味は結構いけるし、サービスもよい。
 評価☆☆☆☆
◆その後三越のスワロフスキーでペンダントを買って贈る。
 私は1万円、息子は5千円計1万5千円也。





息子の誕生日・結婚記念日を祝う
2008/3/25

 息子の誕生日と我々の結婚記念日の祝いを纏めて、23日(日曜日)に銀座の十字屋ビル
4階の「江島」で蟹料理を食って祝う。
◆息子は誰に似たのやら熊襲の末裔かと思えるほど胸毛やヒゲが濃い。背は私より心持ち
 低く中肉中背の28歳になる青年だ。私のような田舎出の癖の強い、いきあたりばった
 りの性格と違い、いつも冷静で的確に物事を判断して行動し、決して激することはない。
 その辺が親としては感心するが、一方熱中する何かを持っているかどうか判らないのが
 不満でもある。
 はたして付き合っている女性はいるのだろうか。近くに住んでいるが同居していないの
 で、その辺のことが全く判らない。直接その話題になっても、適当に惚けられてはっき
 りした情報を提供してくれないので一向に埒が明かない。服装もシャツと綿パンとスニ
 ーカーで、その格好のまま会社で仕事をするという。NTT関連の会社のネットワーク
 事業部の事業企画部でコンピュータを駆使して、システムを開発する仕事だからそんな
 服装を許されているのかもしれない。我々が想像する昔の大企業の執務風景と随分違う
 ようだ。服装に金を掛けているようでもなく、夜な夜な赤いネオン街に出没している風
 でもなく、休みの日は秋葉原の路地裏をメカの探索をしているようだから、金を使う暇
 も無かろう。親が頼りないから結婚資金でもせっせと貯めようという魂胆か。
◆細君と結婚して42年になる。
 「こうかい」という言葉で今朝話題になった。夫はいままで遠くにあるだろうと期待し
 た楽園を目指して、荒波のなか手漕ぎ舟(零細自営業)で航海してきたと、努力と成果に
 少なからず満足して、その感慨に耽っている。一方女房殿は「そりゃー後悔の連続」で
 あったと思って不満だらけであったかも知れない。おなじ「こうかい」でも実は二人は
 同床異夢であったという話。それはともかく我々は未だに理想の島の見えない波の上で
 「こうかい」を続けているのである。





一寸早いがクリスマス
2008/12/22

久し振りに家で親子3人夕ご飯を食べた。息子の都合でちょっと早いがクリスマスの祝い
をしようということになった訳だ。
チーズの盛り合わせ、さらしクジラ(妹が長崎から送ってきた)、生ハム、小カブのスー
プ、ローストビーフ(ホースラディシュを添えて)、赤ワイン(医者に止められているが
今日ぐらい醸造酒もいいだろう)、フォカッチャ(イタリアのパン)、ブッシュドノエル。
贈り物 私 :キーホールダー+靴下(ラルフローレン) 4,000円
    細君:ホットカーラー ¥2,000円(来月誕生日のお祝いでちゃん
       としたものを贈ろう)
    息子:靴下(ラルフローレン) ¥5,000円
以上贈り物も今年は控えめに・・・。
この暮れは大合唱になる大苦  とい朝日川柳に載っていた。





2009年

細君の誕生日を祝う
2009/1/30

 細君と息子と3人で細君の誕生日を祝った。年齢はどうも大台に乗ったらしいが聞かな
かったことにして、「十歳若いと詐称してもかまわない」というお墨付きを与える。
 場所は上野広小路にある、看板の字を鶴岡鶴太郎が書いた「とらふぐ亭」で五千円のコ
ース料理。息子の驕りだという。いくらか親の苦労を承知しているらしく、時々は「動け
なくなったら面倒みるから心配するな」などと殊勝なことを言って細君を喜ばしている。
両親に対してとってきた私の態度とは大違いだ。
 有楽町の「大雅」や築地の「天竹」」以来何十年振りだろう。前菜のふぐ皮湯引きから
始まって、 てっさ、唐揚げ、てっちり、雑炊、デザートのコースで十分堪能した。しか
し細君にとっての一番満足は息子がすすんで祝ってくれたことだろう。





記念日を祝う
2009/3/20

 息子の誕生日および我々の結婚日の祝いを纏めて、銀座・季楽にて昼食をする。季楽は
JA佐賀の経営する佐賀牛を食べさせる店だとか、並木通りに面する新しいビルの中にあ
る。夜は高価でとても我々庶民が出入りする所ではない。息子はもうすぐ29歳、ガール
フレンドがいるのかいないのか、さっぱり判らない。かたや我々は数限りない転居や事務
所経営の不安定さのなか、貧乏やそれに伴う行き違いなどいろいろあったが、ともかくも
44年の間連れ添った訳だ。

         





麦わら帽子
2009/8/3

 誕生日の贈り物を買いに細君とアメヤ横町に行った。時々覗く、5坪くらいの小さな帽
子専門店だ。銀座に出かけた時はトラヤ帽子店のショーウインドウをよく覗くが、残念な
がら日曜日は閉まっている。それに紳士用としてかしこまった帽子が多く、麦わら帽子の
ようなくだけたものはあまりない。
 今度買ったものは麦わら帽子と言っているが、どうも麦わらではなくてパナマ草を使っ
ているようだ。麦わらよりも粘りがあり破れにくいようである。形もテンガロンハットに
似ていて気に入った。つばの廻りにワイヤーが入れてあって形を自由に変えられるのがい
い。誕生日の贈り物としてその麦わら帽子と、ユニクロで2千円弱の白いチノパン2本を
買ってくれた。安価ではあったが少し良い気分になった。





誕生日のお祝い
2009/9/19

 息子のカメラで撮した写真のメール送信を待っていたら一ヶ月半も経ってしまった。細
君と息子と私のスリーショットは八月の上旬、銀座の「季楽(きら)」で私の誕生日の祝
いをしてくれた時のものである。写真が嫌いと言って何時も撮されることを拒否している
彼は、珍しくこの日は素直に応じてくれた。
 料理は鉄板焼きのランチで和牛450グラムを3人で食した。大きな玉葱ほどもあるばり
ばりに炒めたニンニクのスライスは大いに気に入った。勿論牛も美味で、シェフが目の前
で料理するパフォーマンスは、20年近く前に3人で楽しんだシアトルの「紅花」を思い
出す。彼はまだ小学の5年生くらいだったろうか。
 長男も長じて二十代の後半になったが、お母さんの話は「理屈が通らない」、お父さん
は「人の言うことを聞いていない」、だから中に立って交通整理する僕の苦労は並大抵で
はない、などと聞いた風なことをのたまう。知らぬ顔をしているくせに、ちゃんと人の動
向を分析して揶揄するところはなかなか大人になったものだと感心すると共に、言い得て
妙だと三人で笑った。

         





2010年

窓辺にて−パウル・クレー
2010/8/8

明日が私の誕生日だが、本屋に寄ってパウル・クレーの絵に谷川俊太郎の詩を添えた「響
きあう絵とことばのおくりもの」と言う題の絵本が気に入った。細君は誕生祝いに費用を
出すという。1500円
パウル・クレーについての私の知識は、近代建築の四大巨匠ル・コルビュジエ、フランク
・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてヴァルター・アードルフ・ゲ
オルク・グロピウス、そのグロピウスが創立したドイツの芸術と建築の学校「バウハウス」
で、クレーは関わっていたことから始まった。
建築においては造形や構造は言うまでもなく、色彩や配色およびテクスチャーのことまで
学ぶものである。私はクレーの写実的な描写や遠近感をあえて押さえた作品の二次元の世
界に封じ込めたフォルムや色彩のシュールさが好きだ。油絵の生々しい情念ではなく一種
の観念として凝縮させた静かな思想。そういえばクレーの日本画の蒐集は数十冊に及んで
いたという。やはりその影響で平面のなかに観念を封じ込めたのであろう。音楽家でいえ
ばブラームスのような抑制された表現を感じるのは私だけであろうか





誕生日
2010/8/10

今日は私の誕生日・69歳
8月8日銀座に行く。明日が私の69歳の誕生日だが、本屋に寄ってパウル・クレーの絵に谷
川俊太郎の詩を添えた「響きあう絵とことばのおくりもの」と言う題の絵本が気に入った。
細君は誕生祝いに費用を出すという。1500円
パウル・クレーについての私の知識は、近代建築の四大巨匠ル・コルビュジエ、フランク
・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてヴァルター・アードルフ・ゲ
オルク・グロピウス、そのグロピウスが創立したドイツの芸術と建築の学校「バウハウス」
で、クレーは関わっていたことから始まった。
建築においては造形や構造は言うまでもなく、色彩や配色およびテクスチャーのことまで
学ぶものである。私はクレーの写実的な描写や遠近感をあえて押さえた作品の二次元の世
界に封じ込めたフォルムや色彩のシュールさが好きだ。油絵の生々しい情念ではなく一種
の観念として凝縮させた静かな思想。そういえばクレーの日本画の蒐集は数十冊に及んで
いたという。やはりその影響で平面のなかに観念を封じ込めたのであろう。音楽家でいえ
ばブラームスのような抑制された表現を感じるのは私だけであろうか。

昨日が本当の誕生日。8月9日。たいした関係はないが、長崎原爆記念日。
お茶の水に一月ぶりに散髪に行く。途中で近藤に会う。3メートルの至近距離で面と向か
ってもわからないで楽器屋に入っていった。私が濃いサングラスをしていたためか、5キ
ロやせたので面変わりをしたためか。それともあまりあたりを注意しないためなのか。ま
えから上の空の性格だったことは確かだ。楽器店のなかまで追っかけていった。ギターの
ピックを探しているらしい。肩をたたくとびっくりして「やせたなあ」といった。確かに
体重は減ったが、標準的な体重だと私は思っている。お茶でものむ暇があるかと問うたけ
れど、その時間がないということであったからすぐ別れた。
散髪のあと三省堂を覗く。岩波書店の月刊誌「思想」1800円と、今話題の「ハーバード白
熱教室」とおびに書いてあった、マイケル・サンデルの「Justice」という本を購
入。2300円。これはNHKの教育テレビで放送されていたものだ。これは自由主義と共和
主義の論争なのだ。



3α編集部:2014/03/30(日) 08:27:11
エイプリル・フール
.

     エイプリル・フール  




      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。




2009 年

エイプリル・フール

 今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアの
ある罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。

 Wikipediaで調べると
エイプリルフールは、日本語では「四月馬鹿(四月バカ)」、漢語的表現では「万愚節」
または「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)と
呼ばれる。なお、日本では4月1日は、「日ごろの不義理を詫びる日」だった。イスラム
教においてはこの習慣はコーランに著しく反しているため、強く禁止されている
エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの
習慣が始まったかはわかっていない。有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確
証が無いことから仮説の域を出ていない。

* その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していた
 が1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反
 発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。
 しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝ってい
 た人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だ
 った少女までもが含まれていた。
 フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事
 件を忘れない為に、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようにな
 っていった。これがエイプリルフールの始まりである。
 そして13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、1564年から13年ご
 とに「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするとい
 う風習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなった
 が、「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった。

* インドで悟りの修行は、春分から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じること
 から、4月1日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある。

* 日本で、エイプリルフールが広まったのは「パチンコの負けをごまかすためにこの日に
 スリにあったと嘘をついた者がいた」ためとする説があるが、パチンコのない時代から
 この日に嘘をつく風習が記録されており、これ自体がエイプリルフールの可能性がある。
 さて、いままで私の嘘を思い返すと、仕事に行き詰まったから暫くの間姿を隠す、探さ
ないでくれと言ったFAXを友人に送り旅行に出たことがあった。人に大して迷惑を掛
 けないようなこのての嘘をいくつかついたが、結果的にはその嘘が誠となったことであ
 る。だから今年は「二億円の宝くじに当たった」、「絵の公募展で特選になった」、「屋
 敷から金の鉱脈が見つかった」、「芥川賞にノミネートされた」、「いままで知らなかっ
 た叔父さんから遺産相続の話が湧いてきた」とか、いろいろ現実にはあり得そうもない、
 しかし真実になってくれと願う妄想を考えつくのだが、さてそれを信じる友人がいそう
 もないのである。信じてくれなければこの遊びもまったく面白くない。やはり世相にあ
 った暗い話題が真実味があって、信じてもらえるのだろうか。その様な嘘がまた真実に
 なると困るから、今年は嘘をつかないことに決めた。

????????????




2011年

エイプリルフールに語る真実

  ◆宇宙語を解読できた。
  ◆今日最後の乳歯が抜けた。
  ◆今年は嘘をつかないことにした。
  ◆29回目の転居を目論んでいる。
  ◆人生の意味がやっと判った。
  ◆今日は一度も呼吸をしなかった。




2012年

エイプリルフールに語る真実

◆今日から太陽は西から昇る。
◆今日から逆さ時計を採用する。
◆今日から嘘をフィクションと呼ぶことにする。
◆今日から饒舌をやめ沈黙に徹しよう。
◆今日からひけらかしと自慢で紙面を満たそう。
◆今日から天国への階段を組み立てよう。




2013年

えいぷりるふーる

◆アメリカ国防省から急遽、青森県三沢空軍基地、神奈川県横浜海軍基地、沖縄の米軍基
 地防衛のための最終兵器「リターンパス」の設置依頼が、「無限回廊」物集班に寄せら
 れた。しかしこれは武器輸出三原則に抵触するのではないかと迷っている。

◆甲子園を沸かしている高校野球の決勝戦に覆面の豪腕投手が投げるという噂がある。
 時速200kmを出すというが、アンドロイドではないかとか、スーパー・サイボーグで
 はないかと疑われている。しかし改造人間であるとすれば、その肉体的な能力の補強は
 どこまで許されるのか。インプラントによる歯の矯正は?強力レンズ眼鏡による視力ア
 ップは?催眠によるマインドコントロールは?

◆遺伝子操作による新種の大根が発明された。それによると大木の枝にぶら下がって成り、
 秋になり木枯らし一番が吹くと適宜に乾燥し、そのまま漬け物樽に漬けることができる
 という。

◆本郷冷熱の地下ラボでは、早春になると大陸から黄砂やPM2.5などの有害物質が日本
 の空に偏西風に乗ってやってくるから、地球を反対回りにする研究を進めている。もう
 すでに完成まで79%に達しているから、近日中に太陽が西から上がる、すなわち偏東
 風が吹き有害物質はヨーロッパに向かうことになるだろう。

◆今国会で健康被害による喫煙をなくし医療行政の圧縮を試みるために、「禁煙した人に
 は」月額1万円の禁煙手当を支給するという法律を作った。しかし今まで吸っていなか
 った国民が続々と喫煙を始めたので大騒ぎになっている。



4α編集部:2014/03/30(日) 19:14:41
猫道 (1)
.

          猫道(ねこどう) (1) 2002-2009 




   氏の作品の中に猫が時々でてくることに気が付いたのはいつのことだ
   ろう。愛玩動物ではない。あくまでも観察対象としてである。
   告白だろうか、「我が儘でマイペースを押し通し、おまけに相手構わ
   ず毒舌を吐いては不興を買う」とあった。
   無口で神経質、だからこそ群れることを嫌い独り(一匹)を選び我が
   道を行く…。 自分の姿を猫に見たのだろう。
   猫道散歩ならぬ、「ねこどう」を貫き通す生き方をしてきたようにも
   見える。




窓辺にて−遠い昔の話 2002/4/25

    少年のころの話である。
    いつも側に一匹の犬と数匹の猫そして時には兎がいた
    飼っているようで、そうでないようで
    なんとも悠長な関係であった
    猫や兎の名前はそのときどきで変わったが
    犬の名は代々「ベル」であった
    「ベル」が死んだり、行方不明になると
    どこからともなく野良犬が住みつき
    「ベル」という名を引き継いだ
    不思議なことに彼らのほとんどが
    雑種のおとなしい性格の赤犬であった
    近所の子供にも親しまれ
    友人の妹に私のことを「ベルのようにやさしかね−」と
    形容詞として使われるほどであった
    大人になった私は家をでていったので
    「ベル」がその後何代続いたかは知らないままである




窓辺にて−吉行理恵詩集  2002/7/6

公園の向こうのビルディングの夏蔦はすっかり茶褐色の無惨な姿に
なってしまった。あのまま根を絶たれなければ勢いよく壁面を覆い
尽くして、涼しげな装いで人々の目を楽しませてくれただろうに。

「吉行理恵詩集」を三省堂で求めてきた。
本を手にとってみると、「立原道造」について傾倒していることを
知った。これもこの本を買う気になった理由でもある。
立原道造は建築を学び、パステル画をよくし、また詩人でもあった。
しかし二十六歳の若さで夭折したのが惜しまれる。
数ヶ月前東大の周りを散歩中、偶然弥生町に瀟洒な三階建ての
「立原道造記念館」をみつけた。絵や小さな建物のスケッチや詩集
を眺めながら、東大に学んだ彼のために隣接したその地に記念館建
てられたということは、よほど愛され、早世を惜しまれたにちがい
ない。

         流れ星

    猫は
    明るい星
    窓枠に 肘をつき
    部屋のなかを 見守っている

    日の中で
    綾取りを繰り返す 姉妹

    縁者たちにかこまれて
    お婆さんはうわごとを言う
    「うたたねしながら 死にたいわ」

    その瞬間 星が流れた

              吉行理恵詩集より




この暑いのに 2002/7/10

いつも事務所に出勤する近所の道筋にサッチーにそっくりのペルシャ猫がいます。
このクソ暑い中、目がどこについているのか、口はどの辺なのかも判らないほど深い毛皮を着
込んでいます。口のまわりはそのため、飲み物や食べ物をくっつけフェルト化しているのを見
ると気の毒になります。いっそのこと毛皮を脱いで、きりっと糊のきいた浴衣でもきて氷菓子
でもつつきながら夕涼みしたらどんなによろしいか、見るたびに可愛そうになります。




写真投稿の件 2003/1/19

写真をイメージスキャナーでとってJPG形式なおすと書きましたが、デジタルカメラで撮り
ますと自動的にJPG形式のファイルなります。

「うちの猫の高笑い」とか「どじな犬の失敗」とか、「1年遅れの還暦祝い」等、珍しい楽し
い身近の情報を管理者あてにE−mailでfileをどんどん送って下さい。(メッセージ
をつけて)

管理者のメールアドレスは画面の一番下にあります。




本郷界隈 2003/2/16

本郷は不思議な坂の街である。
 日頃は気づかぬのに、休日の朝や勤め帰りの夕方人通りがなくなると突然違う町並みに見え
てくる。嗚呼この道は坂だったかと初めて気付くのである。どのような路地も決して平坦では
ない。
なにげなく感じてはいるのだが、その勾配が微妙なだけに毎日通っていてもはっきりと意識す
ることがない。

 また坂道であれば当然下りが続くと思っているが、本郷の路地裏の坂道だけはすこし日頃の
思いこみと違う様相を見せている。一度下って必ずまた登っているのである。なぜ錯覚するの
か、どの場所が一番高い所か思い巡らしたことがある。

 私の観察によると、どうも本郷通りと壱岐坂の交差点あたりが一番高いような気がする。し
かしそれも確たる自信はなく今いる場所が一番高いような気がする。自分が立っている目の高
さだけこちらの方が坂の上と感じる。しかし少し進んで振り返るとこちらの方が坂上に見え今
来た道に向かって下っているように見えるのが不思議である。だから通りごとにこっちが高か
ったり坂下だったり感じてしまうのである。

 そしてしんと静まりかえった通りの常日頃と違った様相は新鮮で未知の場所に迷い込んだ趣
がある。私はそのような路地裏(猫道)を野良猫のように散策することが好きである。




写真を投稿してやってください 2003/8/27

実際の各氏は人格高潔、高邁、円満で決してそうではないのだが、いかにもこれから「飲み」
「打つ」「買う」に出かけそうな不良老年にみえるこの写真はいささか見飽きたと公園の野良
猫が
言ってました。どなたかこの暑さを忘れるような清々しい写真を管理者に投稿してやってくだ
さいませんか。                  管理者の代理人より




窓辺にて−猫道散歩 2003/9/8

 文京区は坂道の多いところである。夏目漱石の「三四郎」にでてくる「団子坂」、石川啄木
が通った「切通坂」「真砂坂」、樋口一葉の住んでいた「菊坂」など、ちょっと歩けばたちまち
明治大正の文学の世界に入り込む。

 今日は「鼠坂」(ねずみさか)のあたりを探検にでかけた。左に椿山荘を右にお茶の水女子
大を望む高台に挟まれた谷間を護国寺に向かって通る「音羽通り」の近くである。地図で今宮
神社を目標に定めたのだが、 大きな「音羽通り」よりももう一本右を走る高台の細い通りの
「鷺坂」(さぎさか)を選んだ。いつもの猫道愛好家としては当然の帰結である。

 「鷺坂」を北に向かってしばらく進むと八幡坂の手摺りの附いた階段へと続く。登りきった
ところに何やら由緒ある大きな古い洋館が木々の間に見え隠れした。住んでいるのか居ないの
か人影もない。猫がゆったりと道を横切る。

 私は以前にも車一台やっと通れるようなこの細いに迷った経験を思い出した。小石川植物園
の裏手の住宅街で行き止まりで苦労したことや、西片の辺もこのような路地が続いていたと思
う。高層ビルも見えず車の騒音もまったくない静まりかえった様子は「これでも東京のど真ん
中か」と驚くほかは無い。だから私は後ろから近づいてくる車に気を使うことなく散策できる
猫道が好きだ。

 今宮神社に着くだろうと考えていたのだが、どうも間違ったらしく一向にそれらしきものは
ない。どうせそれほど拘るほどの目的がある訳でもなく、そのまま歩いているとその路地の突
き当たりに地図を描いた看板が立ててあった。よく眺めているとあの古色蒼然とした屋敷の洋
館が音羽御殿といわれる鳩山会館であったことを迂闊にもその時気づいた訳である。左手に向
かって急な階段になっている鼠坂(ねずみ)に片足をかけて思案していると、まるで一昔前の
文筆を生業とするような和服姿の男が現れた。おまけにまだ残暑の厳しいなかコートまで羽織
っている。五十年前の時代を飛び越して現れたようすでひげの青々とした散切り頭が胡散臭げ
に私を見て通った。

 そう言えばはっきりと思い出せないがここ小日向や音羽近辺に有名な小説家が住んでいたと
聞く。この辺りには今でも時代が交差したような空気が漂っていて私を小説の世界へ引き込む
ようで、今宮神社の祭礼の太鼓の音が遠く高台の下から聞こえてきて、明治か大正の時代に紛
れ込んだような心地がになった。




努力をしてますが・・・。 2003/12/21

ギャラリーの写真、一週間に2・3度は取り替えるつもりですが、なにせソースが集まってき
ません。出かけるときはいつもデジタルカメラを携帯するのですが、たいてい食指の動く景色
に行き当たらず、また美しいなと思うような夜景なども当方の写す技術が不足していてうまく
行きません。旅行の時のすばらしい思い出の景色・庭の美しい花々の姿・ドジな犬・洟垂れ猫
などのほほえましい写真を募集します。掲載欄を管理者一人でまかなうのはちょっとしんどい
ので皆さんのご協力をお願いします。




アクセス20000ゲット 2003/12/25

遂に20000番目のアクセスに成功。朝から狙っていたかいがありました。
楠葉さん、骨折したとはお気の毒に。徒然草第八九段の「猫また」に襲われての災難ではあり
ませんか。吉田兼好は現代に立派に通用する実に合理的な考えの持ち主のだと小生は思いまし
た。




ポケットパークの晩秋 2004/12/10

ギャラリーの写真は都会の中のポケットパークのケヤキの紅葉です。暦の上では冬の走りです
が木々の葉はいまだ晩秋の面影をとどめていて、これからははらはらと舞う落ち葉が楽しめる
ことでしょう。

この公園はヒチコックの「裏窓」に出てくる中庭を思いださせます。この時間の写真はうらぶ
れて寂しげな様子ですが早朝はホームレスがやってきて白い野良猫に餌をあげ、昼は若いサラ
リーマンが弁当を広げ、午後は小さな子供達が遊びにやって来ます。眺めていると色々人生の
縮図を眺めているようで飽きることがありません。




猫道散歩 2007/9/22

今日は神田明神まで行って、男坂を下り湯島天神まで回り道をする。最近は路地裏の「猫道」
をよく歩く。そして野良猫の生態を観察すると結構面白い。
野良猫は人間にたいして不信感があり警戒心がつよく、なかなか近づけない。つねに車の下や
狭い塀の間の逃げ込む場を意識しながら行動している。いくら近所の人が餌を与えている様子
でも野生の性質が抜けなくて、人が近づくと物陰に走り込む。
仕官先の庇護のもとに安定した暮らしと愛情をうけている飼い猫はその点、人間を敵と見なさ
ないので、近づいて触れてもすぐに逃げ出すことはない。写真は家の中から余所の猫を見てい
る5匹の飼い猫達。

      




里親募集中 2007/9/25
(抜粋)

◆ 早朝の散歩の時に電話代を振り込むために近所のセブンイレブンに立ち寄る。店
を出ると、とあるビルの壁面に「里親募集中」という子猫の写真のビラが貼ってあっ
た。血統書付きの高価な猫ではないようだが、将来下町の看板娘になりそうな可愛い
子猫である。
◆ 我が家のベランダから見るポケットパークの白の野良猫は、日がな一日空調の室
外機の上に寝そべり見事に怠けて何もしない。自転車でどこからかやってくる年取っ
たホームレスから食べ物を貰うときだけは、滑り台の上にお出ましになるのだが、夜
は餌を探すとか、縄張りを見回るとか真面目に仕事らしいことをしているのだろうか。
メールの返事を書くとか、部屋の掃除をするとか、忙しい私にその「猫の手」を貸し
てくれないだろうか。
◆ 動物が飼える環境であれば、犬もいいが私は猫を飼いたい。犬が飼い主に愛嬌を
振りまき忠誠を誓う姿をみるとどうも惨めに見えてきて、己の内にもそのような媚び
やへつらいが潜んでいるように思えて閉口する。
その点猫は実に自己中心的で、死んでも嫌なことはしない、出来ない、といった風情
が孤高の精神を保っているようにみえる。 打算と妥協の渦巻く今の世の中でその姿
を私は羨望のまなざしで見ている。

      




湯島天神辺りを散歩 2007/10/4
(抜粋)

◆ 久しぶりに晴れる。家の前のポケットパークに見慣れない虎模様の子猫がいた。
帰りにペコチャンの飴をやったら、美味そうに食べていた。
◆ この不二家の懐かしの飴は朝食前の散歩に必要な医者から勧められた「血糖値」
不足を補うためのもので、常に携帯しているものである。「血糖値」をさげる糖尿病
の薬を服用しながら、下がりすぎたらチョコレートや飴を舐めるようにという医者の
指導だが、じつに治療方法としては原始的だとあきれる。まるでマッチで火をつけて、
燃え広がるとポンプで消すようなものだ。

◆ 野良の世界も子猫が自分で餌を探して生き延び、やがておとなに成長するには至
難の業であろう。真っ白とか真っ黒とかあるいは器量が抜群によいとかの特徴があれ
ば、拾われて安泰の生活を約束されるだろうが、どうもぱっとしない様子の猫は目も
見えないうちに捨てられるのが落ちだ。捨てられた猫をみるとたいてい野良猫特有の
模様のが多いような気がする。どのような模様の猫が野良猫になりやすいかいつか統
計でもとってみるか。




探偵家業 2007/10/5

◆ 犬は人に付き、猫は家に付くといわれる。そして猫は一寸した環境の変化でよく
家出するという。例えば家の模様替えをしたとか、奥さんの香水の種類を変えたとか、
ご主人が突然変な音楽に凝りだすとか、日向ぼっこの場所を横取りされるとか、日頃
人間には許容できる範囲の我慢も原始本能の強い猫にとっては許し難いことに違いな
い。
◆ さて、もう一つの職業を選ぶとすれば、私はフィリップ・マーローやエラリー・
クインのような探偵家業をやってみたい。時には変装し、時にはカーチェイスをし、
クライアントに依頼された捜索や謎ときをはたしてなにがしかの金を手にするのだ。
暴力的ではあっても「女性には優しく、男にはつれなく」なければいけない。
◆ 探偵の業務は、「調査」と「工作」に大別される。
素行調査 ・浮気調査・家出人探し・債務者探し・裁判の証拠収集・ストーカー対策
・過去調査・特殊工作・別れさせ工作・リストラ工作・統合失調症工作・痴漢冤罪工
作などである。そしてその経費はどれくらい掛かるだろうか。
素行調査・・・10万〜500万・浮気調査・・・50万・家出人探し・・・50万〜500万・
・・裁判の証拠収集・・・50万 ・ストーカー対策・・・40万・別れさせ工作・・・
200万・リストラ工作・・・150万
◆ 探偵が常に携帯している7つ道具とは、テープレコーダー・小型懐中電灯・折り
たたみ傘・日よけの帽子・メガネ・単眼鏡・ビニール袋・現金と運転免許証・ピンホ
ールビデオカメラ・CCDカメラ・暗視スコープ・盗聴器・盗撮カメラ発見キット・盗
聴プリケイ等など。
◆ ただ年を取ると例えば医者や弁護士のような、病気や恨みや怒りや情のもつれな
どの、人生の負の部分に立ち入る職業は結構時間も体力も気力においても強靱さを要
求され、その覚悟は半端ではない。世の中重労働に比例して報酬も高くなるのだから、
安くても適当にお茶を濁せる楽な仕事と天秤にかけると、結構人生のトータルのバラ
ンスはとれているように思えてくる。
◆ そして今更そのような難関の資格も取れないのと、もはや人々の人生の負を正し
て上げようという正義感も高揚感も湧いてこないので、猫や犬などの迷ったり家出し
たペット達を探す探偵がよかろう。それは村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる猫
探しを生業とする少し頭の変な老人がモデルだ。急がず騒がずマイペースでまるで猫
になったような気分で気ままに生きるように。だとすれば先に挙げた探偵の七つ道具
の他に、鰹節とかマタタビ・猫じゃらし・潜望鏡とか、猫の鳴き声も練習する必要が
ある。猫の集まる場所の地図も追々作らなければならない。
・・・などと考えながら茂みのなかに子猫を見付けて朝の散歩を終えた。

      




漱石山房 2007/10/8
(抜粋)

◆ 今日は昨日歩かなかった分を取り戻すべく、少し遠くまで散歩した。本郷通りを
東大農学部を通り越した先の角を右に曲がり、根津神社へと坂を下る。途中日本医科
大学の横道に入って「漱石山房」を覗く。「我が輩は猫である」の苦沙弥先生がうる
さがった野球をしている生徒達の運動場が今の日本医科大学の場所であったと思われ
る。「漱石山房」の実物は名古屋の犬山にある明治村に移設されていて、ここには近
代的なガラス張りの記念館になっている。しかし嬉しいことに、小唄の師匠だったか
失念したが、そこに飼われている「白」へまさに今逢いに行くところであろうか、我
が輩(猫)の彫像が塀の上を歩いていた。




「日記」について 2007/11/12
(抜粋)

◆ 備忘緑として
  診察予定日、人にあう日にち、時間、場所、電話番号などを忘れないために書き
  留めておく。
◆ 資料として
  日々の散歩などで得られる「変な看板」とか野良猫の生態とか、人間の表情とか
  服装や髪型などをカメラで記録して、いつの日か創作の為に資料として蒐集して
  おく。




診察日 2008/8/28
(抜粋)

検査の結果、血糖値及び高脂血症が見られるがこの数値も良い方向にむかっていると
のこと。もう少し歩かなければいけないと思った。また面白い看板や野良猫探しでも
始めるか。




山荘便り 2008/8/12
(抜粋)
◆今朝は早起きして山荘の木造の階段を防腐用の塗装を塗る。一番上のステップにい
た野良の子猫と目があった。この辺にも住み着いているらしい。




「黒猫と青春」*の感想 2009/9/8  *(同人α20号)

 先日、リチャード・ギア主演のハリウッド映画「HACHI 約束の犬」を銀座マリオン
で見た。「忠犬ハチ公」のリメークで、筋としては実に単純で判りやすい。しかし何
年も戻ってこない主人を待っている犬はじつにバカだなぁと思う一方、我ながらつい
ホロリとしてしまった。照れ隠しというつもりはないが、それが何故なのかと考えて
みた。

 それはこの犬が主人に寄せる絶対の愛・無償の愛だからではないか。
乳飲み子と親の関係に通ずるものだが、児童虐待、尊属殺人などの社会現象をみてい
ると、もはやこの無償の愛は人間関係に求めることは難しく、動物と人間の間にしか
認められない時代になってしまったのではないか。無償の愛は実は強者と弱者の間で
しか成り立たないのではないか。
 弱者は庇護されなければ生きて行けないし、強者はその弱肉強食だけの生き方のみ
では殺伐としていて心が満たされず、弱者の放つ癒しのオーラ・生体エネルギーを必
要とするのではないか。だからこの世の中は強者ばかり、或いは弱者ばかりでは人間
社会が衰退に向かうのではないだろうか・・・と考えた。

 私の少年の頃は、犬、猫、兎などの動物との暮らしは身近にあった。屋敷が広かっ
たせいか、迷い猫、迷い犬、迷う兎などが常にいた。今までのそれらの動物がいなく
なると次の野良が入り込んで来て、いつものように馴染んで住み着いた。猫の名前は
だいたい安直に「白」とか「黒」とか名付けられていたが、犬は柴犬などの雑種で赤
犬がほとんどで代々「ベル」という名前で呼ばれていた。猫も犬も顔中ひねくり回し
たり、髭を切ったり、目がねを書いたりといった悪戯をされたにも係わらず、よくな
ついていた。だから、もの言わない動物から癒される経験した私にとって、子供が動
物に接する環境を与えてやれなかったことが今悔やまれるのである。彼に弱いものに
対する考え方が育ったかどうかが気になるところではある。

 動物を擬人化した書き方が色々あって面白い。夏目漱石の猫は人間の行動や思考を
鋭く観察している。気むずかしい苦沙弥先生が雪隠で謡曲を呻ったり、隣接する学校
の生徒達がうるさいと大人げなく本気で怒ったり、寒月君の結婚に纏わる虚栄や功名
心などの俗世間の風潮を見聞きして「人間はなんと滑稽な生きものであるか」などと
と揶揄している。
 この黒猫と青春はそんな揶揄や苦笑の目線ではなく、実に素直で暖かい目で描かれ
ているから気持ちいい。きっとみどりさんの廻りには無償の愛が溢れているんだと思
った。




猫について 2009/9/23

 私も猫や犬は好きだけど、これだけ猫の魅力を綴られると、へそ曲がりとしてはい
ささか茶化したくなるのである。犬の愛想良さと違い、どちらかといえば−---本当
に猫が一般に言われているような性格そあるかは判らないが---私も猫みたいに我が
儘でマイペースを押し通し、お負けに相手構わず毒舌を吐いては不興を買うのである。
 最近茂木健一郎の「化粧する脳」という本の中に「八方美人は知性の証」と書いて
あった。他人の表情や考えを読み取り、うまく話を合わせてコミュニケーションを円
滑にするという意味なのだろう。その点私には「八方美人の知性」は育たなかったと
言える。最終的な決断の決め手は「好きか嫌いか」なのだから。
 ところで、私がペットに接する態度は、皆さんのように慈しみ可愛がることはしな
い。ペットの気持ちになって物事を見たり考えたりはしないし、また出来もしない。
そうかといってなつかれなかったという訳でもない。ごく自然に一緒に暮らしたとい
うことで、改めてそのような個人的な事象を説明しようという意欲は湧かないだけの
話である。だから夏目漱石の「我が輩は猫である」の描く猫が普遍的な人間の性や社
会問題を抉り出したところがやはり面白く読み継がれる所以であろう。




「沈み行く家−最終回」
合評ブログ用コメントより 2009/10/5 *(同人α20号)
(抜粋)

私は体を動かす事が余り好きではない。病気になって医者から運動を奨励されて来た
が、それでも多少数値がよくなると、なるべく忙しいだの時間がないだのと言い訳を
作っては、サボタージュしているのである。何故そうなのか、ここで私は私なりに運
動嫌いの勝手な理屈を告白する必要があるだろう。
 もともと生き物はよほどの必要に迫られない限り、なるべく静かに暮らした方が理
にかなっている、と勝手に思っているのである。原始時代は食糧確保に苦労をしただ
ろうが、一度大きな獲物にありつくと、それを食い尽くすまで寝て暮らしたに違いな
い。それが自然な人間の姿ではなかったろうか。
 ましてや健康の為には運動が必要だという風評を信じて、過酷なまでに肉体を虐め
る根性は特に嫌いである。 また「健全な肉体に狂気は宿る」を見せつけられると
「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのもちといかがわしい。 プロの運動選手の
七十歳前後で壊れてゆく姿を見ていると、読者はかなりこの運動不要論になるほどど
賛同されるであろう。
 また、自然の中に立つあの見事な大木を見よ、樹木は条件さえよければ寒かろうが
熱かろうがじっと同じ場所で数百年も生きているではないか。人間は何を求めて走り
回っているのか、必要以上の欲望に支配されているのではないか。いままで感心のな
かったおばちゃんおじちゃん達が、ある日突然目覚めて走り回るのを見ると、多くの
大衆はアルコールやパチンコ依存症のように、依存する対象を探し回っているという、
精神が壊れ始めているのではないか。
 とまあ、自分の怠けの理屈をこね回したのでありますが、ポケットパークを根城に
して一日13時間は寝ているいて仕事をしない野良猫が、私の理想であります。




「猫様々」*を読んで  2009/10/16 *(同人α20号)

 先ず題名の「猫様々」の読み方が気になった。「ねこサマザマ」と読むのか「ねこ
サマサマ」と読むのだろうか。読み進む内に亮子さんは大和の国の出身だから、多分
その両方の意味を込めたものの様な気がしてきた。このことは亮子さんの説明を待た
ねばならない。
 K君から借りた丸山圭三郎・著の「言葉とは何か」という本の中に、興味あること
が書いてあった。「外国語で話している理解できない言葉は単なる騒音としか聞こえ
ないし何の感情も生じない。そのように言葉はそれを話す共通の社会、共通の生活体
験といった文化の中でしか理解されないのである。例え同じ動物や同じ事物を語って
も、国や言語が違えば違った概念が生まれる」とあった。ここまでは私が何をいいた
いのか、皆さんには全く判らないだろう。早い話が、日本人の「猫」にたいする概念
と、フランス人のそれは違っているのではないかと思ったからだ。
 Rさんの参考資料のなかにイギリスやフランスの「猫」に纏わることわざがあった
が、Sさんの書かれたこの号の前書きをみると、猫だまし、猫撫で声、猫っ被り、
猫背、猫の額、猫づら、猫舌、猫脚、猫ババ、猫跨、猫股、猫間、猫火鉢、猫鮫、猫
の目のよう、猫目石、等々ことわざ、たとえは圧倒的に日本の方が多いと思う。
そこで私は日本の猫好きの人達は、「猫」をとても人間に近いものとして擬人化し、
いやむしろ家族や同胞のように考えている節がある。一方イギリスやフランスの人は
「猫」を人間と同列ではなくもっと野生の動物という認識がつよいのではないか。
「仕事猫」などの言葉があるくらいだから、ギブ・アンド・テイクの言葉が意味する
ものを考えると私はそう思った。



5α編集部:2014/04/02(水) 17:27:26
大川組
..

             大川組

              2007−2010




2007年


2007/2/5

「同人α」第9号一冊を野口日出男君に送る。
先日の新年会の写真をCDの焼き付け土屋雄助君に送る。

さて、色々病に苦しむ友人・知人の噂を聞いた。

★ 野口君は昨年肺ガンで片方の肺を切り落としたと先日の会で言っていた。苦しくない
  かいと問うたらいまのところそうでもないといっていた。しかし「今度の会」に誘っ
  てくれてうれしかったと何度も感謝していた。大病を患ったのでこれからは出来るだ
  け友に会うようにと彼は努力しているように思えた。
★ 昔仕事でお世話になった奥田さんも心臓の手術を三回もして意識が戻らず、もう駄目
  だろう時間の問題だと飯田氏が報告してきた。
★ 大川組の木原君も白血球が急に減って力が出なくなって精密検査をしにいったと
  の知らせがあった。
★ 昨年の夏頃江川君に電話をしたときはまだ会社にいて、ちょっと声
  が出しにくいようだったが10月ころ食道ガンで亡くなっていた。
  少しづつ病に倒れる友人・知人が多くなり、寂しいことだ。



2008年

     大川組会案内 2008/2/12

     27日の懇親会のメンバ-は、金子・高木・古賀・香月・田
     村・熊井の6人になります。武藤君はおそらく駄目でしょう。
     集合は、いつものニュ−新橋ビルのエントランスに、5時半
     としましょう。
     金子さん!予約のほう、よろしくお願いします。
     




山荘便り
2008/8/12

◆今朝は早起きして山荘の木造の階段を防腐用の塗装を塗る。一番上のステップにいた野
 良の子猫と目があった。この辺にも住み着いているらしい。
 木材保護着色用塗料(日本エンバイロケミカルズ株式会社)
 キシラデコール  屋外木部用保護着色塗料
 木部に浸透し、内部から防腐・防カビ・防虫効果を発揮。色持ちの良い優れた耐候性。
 木目を生かした自然の仕上り。木の通気性を保つ浸透タイプ。塗りやすく、抜群の作業
 性。
◆8月26日(火) 熊野古道ウォ−キングと暑気払いを兼ねて集まりましょう。時間は
 午後五時半、いつもの所で。参加できる人だけでやりましょう。今のところ参加確定者
 は、金子・古賀・香月熊井の4人です。 時間が早いですから、予約無しでどこかにし
 けこみましょう。





     大川組忘年会  2008/12/1
     皆様
     12月3日(水)17時の待ち合わせ場所は、浜松町の店が
     予約取れなかったので、新橋のいつもの待ち合わせ場所(ニ
     ュー新橋ビル1階)にします。
     お店は、新橋駅前ビルB1の「魚がし日本一 新橋店」電話
     3573−2307 に予約しました。

     熊井様
     勝手ながら上記の通り変更しましたので、悪しからずご了承
     願います。            金子



2009年


     大川組旅行−熊井君より」 2009/3/16

     アウトラインを下記の通り決めました。皆さんの合意が得ら
     れ次第、JTBで予約する予定です。
     期 日     5月21日(木)〜5月22日(金)
     スケジュ−ル
     21日   9時頃 新幹線で東京発
          12時頃 山形着   (昼食)
          13時  レンタカ-で蔵王へ
     当日は蔵王温泉泊(蔵王国際ホテル)
     *ちょっと寒いかもしれないので、重ね着の出来るものを持
     参のこと
     22日   8時半ごろホテル発 途中天童の国体競技場
           (公園)に寄って山寺へ
           12時頃 山寺を下山して風雅の国で昼食
           天童市内を案内(人間将棋他)
           山形へ帰ってレンタカ-返却
           16時頃の新幹線で19時頃東京着
     予算    一人当たり  新幹線・旅館泊(2食付き)
            ¥26700
            レンタカ- (ガソリン代含む)  ¥3300
     *2回の昼食代は各人別負担として、ひとり¥30000の予で
     確認
     1.期日に付いて 香月君OKですか? 場合に寄っては1日
      づらす必要あり?
     2.旅館泊    5人部屋の予算ですが以上の通りとしま
             した。ご都合をご返事ください。





山形旅行記・一日目
2009/5/22

 5月20日より1泊2日の山形旅行に出掛けた。O−chan、熊井君、香月君、金子
君と私の5人衆、通称「大川組」のメンバーである。決して強面の連中の結社ではない。
それは昔、福岡県の大川から佐高に越境して来た同期の集まりだったのだが、知り合いだ
ったO-chanや香月君や私達部外者がなんとなく勝手に飲み会に参加したような訳だ。
この外正当なメンバーは高木君、武藤君、木原君がいた。残念ながら木原君は熊野古道旅
行を企画途中亡くなってしまった。武藤君は今四国八十八カ所の巡礼の旅の途中である。
この連中は実に穏やかで、自己主張やひけらかしや声高に騒ぐこともない。だれも強引に
意見を纏めて何所かへ引っ張って行こうとしないのがいい。
 その5人は9時18分発の東北新幹線に乗って山形へ。田植の終わったばかりの水田の
関東平野を通り抜け、新緑に満ちた東北道をひた走る。なだらかにうねる丘陵の連なりは
ヨ−ロッパの景色のように優しく、懐かしく見ていて気持ちが良い。リンゴの花がまだ咲
いているだろうかと切望するがどうであろう。皆が言うにはもう終わっていて小さな実を
付けている頃だと相手にしてくれない。ジャンクションの福島で仙台方面と山形方面に別
れる。すぐに山に挟まれた谷間に入りかなり走ると平野にでた。米沢、山形と盆地がひろ
がる。
 レンタカーを借りて蔵王連山のひとつ熊野岳(1,841m)へのぼりお釜を覗く。下に見
えるカルデラ湖は白濁した緑色で、日の当たり具合や雲による陰りで、微妙に色が変わる
のが不思議だ。この高さになると灌木一本もなく微かに苔や這い松だけが、山を駆け上る
強風に耐えている。上着を持ってきてよかった。
 この蔵王は大学生の体育の授業としてスキーを習いにきたことがある。もう45年以上
も前だ。三日間の練習の最後に地蔵山の頂上までロープウエーで登り降りてくるという無
茶な命令があった。整備されたゲレンデしか経験しない初心者にとって、山スキーなど遭
難しろとでも言うのかと思った。案の定の転んでは数メートル積もった新雪に埋もれ、起
きあがれなかったり、突然の吹雪で目の前が全く見えなくなってうずくまったり、その強
烈な吹雪が右の耳の鼓膜を破ったり、兎に角「白銀は招くよ!」のトニー・ザイラーが4
分で滑り降りたという、コースを樹氷を鑑賞する余裕などなく、這々の体で一時間以上も
掛けて降りてきた。今ならきっと指導者は責任を問われるに違いない。

       





山形旅行記・二日目
2009/5/23

 起きがけに朝風呂に入る。かすかに硫黄の臭いがした。あまりそのてのことに興味ない
ので、蔵王温泉の湯がどのような効用をもつのか判らない。しかし現に肌がつるつると滑
らかになるのは確かだ。湯上がりにデッキに出て微風に体をさらすと気持ちがいい。
 ここの浴室の造りはなかな洒落ていて、通り一遍ではない。和風で小梁や野地板の見え
る小屋組を見せ、高い天井の吹き抜けが気持ちよい。壁、床、建具などもすべて木製で、
英国産のワトコオイルにすこし黒の顔料を入れたのだろう、落ちついた深みのある仕上が
りになっている。私の山荘とはからずも材料や塗料は同じで気に入った。しかし一般の人
には暗く感じるかも知れないほど照明が控えめになっている。
 朝食の前に散歩にでかける。広大なゲレンデはよく手入れされていて歩きやすく、新緑
も種々の木によって違う色をしている。初心者用のスキー場と思われるが、15度くらい
の傾斜だろうか、転ばないように体型
を保つのに結構力がいる。
上から眺めると、村の中央に小さな教会の尖塔が見えればまさに南ドイツかチロル地方を
想い出させる景色である。
 通称「山寺」、すなわち宝珠山立石寺(りっしゃくじ)という天台宗のお寺に参った。
かなり急な石段が綴れに折れて上に続く。仲間の誰かが800段とか云っていたが、あとで
調べても段数については記述されているものを見つけることは出来なかった。
山は今しゃがの花が盛りである。
芭蕉が1689年「奥の細道」をたどってきたこの寺で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句
を詠んだという句碑があった。その影響か皆がいろいろと句を作る気分になって、いくつ
かできた。丁度春蝉が鳴いているのを読むのだが、しっくりしない。最初から名句を作ろ
うとしてももだめだよ、井原西鶴のように一晩で一万もつくるという矢数俳句のなかから
一つ二つと見つけ出すくらいでないと、とても無理だ。しかしその矢数ほどの句がとても
我々の頭では生まれるはずはないじゃないか、などとみんな大笑いしながら奥の院までの
ぼり切った。
 石段に心躓く立石寺
我が一句は季語がないし、解説がないと何が何だか判らない代物である。
 その後、K・K君がかつて赴任した土地である天童市へ向かった。舞鶴山の天童城城址
の人間将棋の場所や、天童木工を見学して回る。新幹線では山形牛弁当を食べかつビール
飲んで良い気持ちになった。午後7時に東京で解散した。りんごの花は遂に見ることがで
きなかったのが残念である。

       

       






     木原君の墓参り 2009/6/4
     大川組の皆様
     皆様のご希望を集約して、来る7月2日(木)とし、午前に
     したいと思います。
     集合日時・場所は7月2日(木)午前11時西高島平駅改札
     口(出口は1ケ所:進行方向の後部のもよう)とします。
     よろしくお願いいたします。
     さて、去る6月2日浜町にある木原事務所を昼休みにちょっ
     と寄りました。
     長女、御厨氏(木原君の後輩)、パートの女性3人で運営し
     ています。
     環境厳しいですが、明るく頑張っていますヨ。


     大川組忘年会  2009/11/10
     熊井君からのメール
     そこで日程は12月の16日(水)とさせていただきます。
     いつもの通り17時 いつものところに集合ということにし
     ておきます。
     どなたからか新提案があれば、変更させていただきます。


     熊井君より 2009/12/2
     もう師走ですねぇ! 一年が、年々記録更新するかのよう
     に早くなります。
     春夏秋冬・樹木や花の盛衰も、こんなにすばやく移ろうもの
     でしたかねぇ?
     これじゃ-大川組忘年会も、あと何回顔を合わせることがで
     きるか? 既にカウントダウンに入ったとみた方がよろしい
     でしょう。
      ところで今回の忘年会は、先日連絡した通り、16日(水)
     17時・新橋集合でいつもの通り行き当たりばったりで店に
     入ることになります。
     ですが田村さん! 今月中旬からフランスに出かけるとか?
     日程はダブっていませんか? MB会オ−プン戦は無しです
     ね?



2010年


     旅行の件      2010/5/31
     香月尹則
     高木君提案の大川会旅行会に時間が許せば君にも是非参加して
     貰いたいと思ってメールした次第です。例の件の真偽は小生に
     は判らないがその件を乗り越えて今後とも皆と付き合って往き
     たいと念じています。

     熊井浩二
     先日X氏がこういうメ−ルをくれました。
     「アルファ-問題では古賀さんと別れることになったけど、彼
     が悪い人で無いのは分かっているので、その他の件では付き合
     いを避けるつもりはありません」。彼女はこういう姿勢ですか
     ら、君もそういう気になってくれることを期待しています。大
     川組としては今後とも集まりの案内は二人に出すつもりです。
     貴方もその気になったらまた顔を出してください。近々旅行の
     件で集まる予定です。



     大川組の飲み会      2010/6/11
     皆様   金子征彦
     6月17日(木)のミーティングのお店を次のとおり
     予約しましたのでお知らせします。
     個室・安曇野庵・新橋レンガ通店
     熊井様  上記の通り予約しました。





大川組の皆様
2010/7/30

写真無事に届いたようでなによりです。
ほかの生物と人間の進化の違いは、キリンや馬や象などのように自分の肉体を進化させて
環境に合わせようとしてきた。人間は自分の平凡な肉体を進化させるのではなく、道具を
作ることで対応してきた。とベルグソンは定義している。わたしも衰える記憶力を補うべ
くカメラにたよるこうになりました。いま旅行の写真と東北の地図をみながら、おそまき
ながら自分がどこへ行ったか、八幡平がどの位置で十和田湖への道はどのようにたどった
かを復習しています。なんともとぼけた話ですね。一粒で二度おいしいという何かの宣伝
文句みたいです。まあとにかく皆心臓麻痺や転倒骨折もなく無事戻ってきたことを喜びま
しょう。娑婆は猛暑と雑用で、人生の難儀をいっぱい抱え込みそうです。なにも反省する
ことはありませんが、飲むいいわけのための反省会を楽しみにしています。

       






大川組飲み会
2010/9/16

出席者 高木、金子、熊井、香月、私の5人
X氏が欠席したので、しっかりと同人αのいきさつを語った。詳細はわからないと言いな
がら概略の経緯は理解してくれたようだ。しかしこれは私サイドだけの情報であって、次
回は私が欠席した場所でX氏の意見を聞いたらと冗談をいう。50周年記念のため佐賀に
帰省する前にもう一度会おうということになったが、日程は未定。





去りゆくもの三つ
2010/9/20

このところ色々の事が終わってゆくのを見るのは一寸寂しい。
一つ目はフロイト全集を頼んでいる近所の本屋が店を閉めると言ってきた。しかしどうも
腑に落ちないのは、その後に10月から別の本屋がそこに入るということだ。この文永堂書
店はこの土地で随分長く続いた店だと思うが、店仕舞いの理由が判らない。

二つ目は、東大の弥生門を出て目の前にあった「立原道造記念館」が休館するという新聞
記事を読んだ。詩人で建築家の立原道造は24歳で夭折している。同じ職業という感慨も
あって、東大構内を抜け根津や谷中への散歩の途中、その小さな記念館を何度か訪れた事
があった。彼の詩や設計された住宅は私の感覚に近いもので親近感を抱いたものだ。
それに加えて、まんざら縁も縁もないわけではない。大川組の高木君から、彼の奥さんの
姉がそこの館長をしているということを聞いた。一度なにか話しかけた記憶があるが、あ
の人だったのだろうか。歩くハイマーの会でいつか私が本郷界隈の担当として企画する時
には是非立ち寄るつもりでいたのだが残念なことである。

三つ目は、久しぶりに息子と三人で会食をするために電話をして、どこにしようかと問う
たら「天丸」が今月末に店を閉めるというから、最後の食事をそこでしようという事にな
った。「天丸」は永谷園の直営店で銀座6丁目の角のビルの地下にある店で、天ぷら屋と
しては旨くて安い店であった。どうもパイロット店として永谷園が宣伝のために安く提供
していたようだ。私達は銀座では天ぷらはここ、パスタ、寿司はこことリーゾナブルな店
を決めていたが、その一つが無くなることは寂しい。これ等の店は一見さんには見つけに
くい地下にあり、長い間営業するにはなじみの客を大事にするために安くて旨い店でない
と成り立たないということだ。





     大川組飲み会  熊井浩二  2010/10/19

     日取りは 11月4日(木)に決定します。
     金子君は暫く謹慎のようですが、当日の様子を見て、出来た
     ら顔を出してください。17時、いつもの新橋のビルで待ち
     合わせ。その上でどこかにしけこみましょう。どなたか 良
     い店を探しておいてください。



6α編集部:2014/04/03(木) 15:12:59
河口湖通い(最後の年)
.


           河口湖通い(最後の年) 2011




     この年もまた山荘便りが激減しました。前年末に同人グループ間の覚書がやっ
     と取り交わせたものの、年明けから○○を削除してくださいとの依頼が入った
     りと、まだやっかいなことを引きずっていたからでしょうか。
     いや、世間の喧騒、人間(グループ)関係の煩わしさに嫌気がさしたのではな
     く、新たな場所で生活したいという転居癖がムクムクでてきたのでしょう。
     大自然に囲まれた山荘にいよいよ住処を移す算段にとりかかり始めたようで
     す。




1月


「2011年頭にあたって」2011/1/1

       

昨年は初日の出を撮そうと思って河口湖畔に早起きして出かけましたが、日の出を待たず
にカメラの電池切れで、寒さのため朝日を拝むことなく山荘にもどりました。なんとも惚
けた話で、そのような思いの届かない一年でした。
しかし今年は電池の充電も満タンにし、天気も快晴で待つこと15分、東の山の端から顔を
出した太陽を撮すことが出来ました。そのスケールの大きい景色は私の広角レンズでも納
めることが出来ず、合成となりました。

地球のエネルギーの80%は太陽の恩恵とか、人間にとってその偉大な神のごとき姿と、
日本人のアイデンティティの象徴たる富士山のツーショットは、無信仰の私でさえ神々し
いものに感じました。今年は春から縁起がよさそうであります。

河口湖から眺める富士山は裾野が広く、まるで鳳が羽を広げたように見えます。私には頂
上から宇宙に飛び出すロケットの噴射装置に見えます。
今年もまた「無限回廊」「人の像をした美しい青い地球」など宇宙をテーマにイメージを
広げ、些細なことに煩わされることなく大きな心を持って過ごしたいと思います。
まずは、地方局駐在員(認識番号11)より河口湖の現場からの報告でした。

註:2011語呂合わせ   ふとくいいとし  ふれふれいいとし
2011は素数でした





8月


「澤田君へ」  2011/8/10

澤田 洋次郎様
北島正之氏の消息ありがとう。早速修正終わりました。
著者校正の件で疑問
校正して提出するのは、二段組の方だと書いてありますが、元原稿とずいぶん違うので戸
惑っています。例えばルビを入れたつもりの言葉にゲラ刷ではほとんど欠落しているのは、
何かそちら側にそうする方針があるのでしょうか、それとも単なる編集ミスなのでしょう
か?その件でご返答ください。

小生、8月10日より17日まで夏期休暇を山荘で過ごしますのでよろしく。なお、連絡はメ
ールか携帯電話 090-xxxx-xxxx までお願いします。近くまで来られることがありまし
たらご一報ください。そのときは富士を眺めながら涼をとりましょう。ちなみに山荘は冷
房なしで過ごせる気温だとちょっと自慢しましょう。
ではごきげんよう!!





「北君へ」  2011/8/11

北君 こちらは窓を開けて眠て今朝起きてみたら、しっかり体の左半分が凍りついていま
した。ははは〜。
昨日河口湖の側のガソリンスタンドの旦那に「いつもこんなに暑いの」と聞いたら「今日
は流石に参りました」と言っていました。そのとき駅前の温度計は33.5度を示していま
したが、山荘は28度で快適です。

さて、「ニューロン・カフェ」面白いでしょう。他のホームページが井戸端会議的な話題
で賑わっていますが、こちらは着実に「オキシモーラン的言葉遊び」で大いに楽しんでい
ます。
小生は、エクセルで機械的に合体させた意味不明の言葉を創り、有りそうな無さそうな妙
な理屈を付加して一人楽しんでいます。そしてこの前はgoogleの翻訳機能を茶化して、ま
ず創った日本文を英語に翻訳、それからそれを中国語に翻訳、それをもう一度日本語に翻
訳してみたところ傑作が出来上がることを発見しました。
万理さんの色やデザインの遊びもなかなかのもの、他のホームページでは試みる者もいな
い現状です。貴君もこれからも時々「ニューロン・カフェ」を開けてみてください。
                          では又





9月

「転居30回達成作戦シナリオ」 2011/9/3

主旨:下記の三つの問題解決のための行動策定理由。
一つ目は今の収入では賃貸住宅の家賃分の不足を解消のため。
二つ目はパートナーとの貸借関係の未解決のため、これ以上同じ経営を続けることの基本
である、お互いの信頼関係に疑問を生じたこと。
三つ目はリタイアのための準備のため。

さて、そのためにとるべき問題解決方法は二つある。
一つ目はハードランディング
二つ目はソフトランディング

ハードランディングとしては、今の事務所と住宅を引き払い、パートナーとの全ての関係
を清算して山荘に引っ越しする。山荘のローン完済(後五年)まで、収入の道を新たに探
さなければならない。

ソフトランディングとしては、住居を引き払い山荘に居を移すが、いまの事務所へ週に数
回通い、パートナーとの関係を保つ。収入およびコピィー機その他の機器使用はいままで
の通り保証される。

いずれにしても、仕事上および同人誌発行上、山荘にはA3で出力できるプリンターを購
入する必要がある。その調査結果は下記の通りである。

機種:EPSON LP-S5000 カラー/モノクロ混在ドキュメント高速印刷
外形:499.5mm×537mm×407mm(42?)
用紙:A3〜A5、ハガキ、不定形紙
耐久性:60万ページ
印刷速度:    カラー 8枚/分、   モノクロ 35/分
ランニングコスト:カラー 15.5円/枚、 モノクロ 3円/枚
価格:      LP-S5000  59,980円
両面印刷ユニット:LPA3CRU4 25,000円

さて、30回の転居作戦においては、多少技巧を要する。すなわち現在28回の転居であるか
ら、山荘に移る前に住民票を事務所か息子の住所に一度寄り道する事が必要と考えられる。
これで大団円。
いまのところソフトランディングの行動が濃厚である。仕事の量が増えれば状況は違って
くるし、急に決断する訳でもない。





11月

「牟田元明君へ」  2011/11/27

前略
今月の中頃、小生の河口湖の山荘にある80年ほど経つ楓の大木の紅葉を期待して出かけま
したが、残念ながらまだ青々としていました。今年は一月ほど遅いと回りの人は言ってい
ます。そのように近年その木の見事な色を見ることが出来ずに、いかにも自然のタイミン
グに合わせる難しさを嘆いています。しかし来年の春頃、いよいよそこに転居することを
決めましたので毎日その木の色具合の変化を観察できるでしょう。あの「斜光」に書いた
「転々流々」のあと、もう一度詳しく数えてみたら一回抜けていましたので、遂に転居回
数30回を達成しそうであります。。。



7α編集部:2014/04/03(木) 17:39:55
山荘住まい2012
,

           山荘住まい 2012



     この年の4月から生活の本拠地がいよいよ富士山麓へと移ります。
     たとえこれまでほぼ月一で通った土地であるとは言え、定住となると
     新しい発見や出会いがあるものと思われます。山荘便りから伝わって
     くる嬉々とした様子は、[引っ越し魔の正体ここにあり]、と思わず
     納得してしまうのであります。




「窓辺にて―そして、それから」より  (同人α31号作品)
2012.4月

◆いまとむかし
 今回終の棲家(ついのすみか)と覚悟して本郷という東京の中心から河口湖の山荘に転居
した訳だが、十数年前に両親の里である九州の杵島山(きしまやま)の麓(ふもと)へ都会の
生活をすべて精算して帰った時と、田舎暮らしにおいては同じ心境という訳ではない。先
の時はバブル崩壊の煽(あお)りを食って、蓄えも尽き果て食費や子供の学費、住宅ローン
代にも事欠き、遂には全てを売却しなければならないという、それまでの暮らしの中で最
も辛い一年を過ごした結果、いわゆる尾羽(おは)打ち枯らした状態での帰郷だったのだ。
 しかし今回は、あとに残された生命の長さを思い、都会の煩わしい世事を離れ自然に帰
ろうというもので、自らの意思による行動を起こすだけの余裕があり、生活の切迫(せつ
ぱく)の度合いは格段の違いがあったと言えよう。
 幸いにして最近の仕事事情もまた随分進化していて、この山の中でも充分要求に対応で
きるから、なにも都会にへばり付いている必要はないのである。勿論その仕事をこなすだ
けの設備と知識とクライアントへの説明、意識改革、理解が必要であることは言うまでも
ない。だから私はこの山荘を計画する時から五年掛けて、インターネットの技術の進歩を
眺めつつ準備を進めてきたのである。
そのことを可能にするための方法は、
 ●建築の設計図面をCAD(computer aided design)というコンピュータ支援ツールで
???? 作図すること。
 ●インターネットを利用してメールで図面を遠隔地へ送ること。
  (今では役所の審査を仰ぐ建築の確認申請も、受け付け先はまだ一部の民間審査機
  関に限定されるが、この方法で提出し、一度も役所へ足を運ぶことなしに許可を受け
  ることができるようになった)。
 ●その設計図面を遠隔地のコピー機に電送して直接印刷すること。
  の三つである。

 山荘で作図した図面をメールに添付(てんぷ)して送り、本郷の事務所のコピー機に直接
印刷することができることは数年前から実験済みだった。これだと早朝でも夜中でも仕事
をしたいときにして送れば、24時間の自分の時間配分を勝手気ままにする自由さが保障
される訳だ。しかも事務所の機器類は自由に遠隔操作できるから、山道の積雪が凍結して
車で里へ降りることができず本郷の事務所に通えなくなっても、せっせと雪深き山荘で仕
事に精を出し、その結果をメールで事務所のコピー機に送り印刷すれば、糊口(ここう)の
道は断たれることはないのである。
 思えばこれまで悪道、極道、非道、間道、鬼道、魔道、権道、邪道はなるべく避けたつ
もりだが、迷い道、寄り道、回り道、坂道、行き止まり道、苦行の道等の方は、長い道の
りを歩いてきたものだと感慨深いものがある。かくして富士山を拝み、花々を愛で、鳥の
声を聞きながら好きな時間を過ごせる山賤(やまがつ)の生活が今始まったばかりである。
しかし最近富士山の回りには大噴火や大地震などの危険が一杯という噂が世間を賑わして
いるようだが、何百年に一回起こるかどうか判らないことに一喜一憂するより、いまの姿
の美しさや多様な自然を形成している環境を楽しむ方がよかろうと思っている。






転居30回達成!! 2012/ 4/20

小生ついに今日、転居30回の大台を達成することができました。そして大都会から富
士山を望む田舎に転居して山賎になるつもりであります。この30回の転居は、ギャンブ
ル狂いやアルコール中毒や浪費癖による多重債務や女狂いによる刃傷沙汰等からの夜逃げ
では決してありません。また首都圏直下型大地震に対する恐怖によるものでもありません。
なぜならこの地は富士川河口活断層があり、M8クラスの地震が想定されていますし、富
士山も密かに噴火の機会を目論んでいるようですから。小生としましては、残された寿命
のなかでその大イベントを目の当たりにし、鴨長明よろしくその現状をつぶさにレポート
したいような気もします。
 而して小生の消息が途絶えたときは、山賎として薪や粗朶を求めて深山に分け入り、あ
るいは猪や猿や鹿を友として駆け巡っていると思しめください。ではこれから気分が向け
ば時々山荘便りを認めたいと思いますのでよろしく・・・。




山荘便り/転居30回目の山荘での最初の便り 2012/4/21

実は私はこの大都会の人の多さにうんざりしていた。桜の頃の上野、週末の渋谷、銀座の
雑踏、うまいもの店の行列などマスコミにすり込まれた情報にマインド・コントロールさ
れたような、何か不吉な出来事に遭遇してパニックに襲われた群衆に、飲まれ込まれるよ
うな恐怖を感じて立ちすくむのである。

アンドレ・ジイドは「僕は一つの型に嵌るくらいなら成功しない方がましだと思っている。
自分が光栄に導かれる事が判っていても、予め出来上がった定まった道は歩く気にはなら
ない。僕は賭が面白いのだ。未知なるものに興味があるのだ。冒険が楽しいのだ。他人が
いるところに自分がいないのが面白いのだ。これは、自分が勝手な処にいたいがためでも
あるし、他人に邪魔されずにいたいためでもある。なにより自由に考えるということが大
切なのだ」といっている。私は今まさにそんな気分なのだ。




山荘便り 2012/4/23

実は今回の小生に関する数はすべて素数であると言えましょう。年齢は71歳だし、前世
からこの世に転居したと解釈すれば31回となります。たぶんこの世からおさらばすると
きは83、87、89歳あたりがよろしいようで・・・。
さすれば「同人α」第101号を手にすることもあり得るわけです。
また葛飾北斎の93回には及びませんが、あと数度の転居もあり得る訳です。




山荘便り 2012/ 4/26

こちらに越してきてから天気はあまりぱっとしない。「あした天気になあーれ」の心境
である。しかしあまりにも風光明媚、天気晴朗の恵まれた環境があたりまえになって無感
動になるよりは、薄ら寒く小雨がちでこれでも春かと思うほど鈍色の景色から始まった方
が良いように思えた。まだ春まだきのようなこの気温、木々を抜ける風の音を聞いたとき、
熱い紅茶にプチット・マドレーヌを浸して食べた時に追憶する「失われた時を求めて」の
主人公のように、私も少年のころ父と目白を捕獲するために茂みに身を潜めた郷里の山々
など、既に他界した父への懐かしさや悲哀とともに思い出した。
そして部屋は持ち込んだ衣類や本のはいったダンボール箱がいっぱいで、当分屋内の整理
の仕事で忙殺されそうである。幸い庭の植物もまだ完全に目覚めていないから、手を加え
る必要に迫られていないので助かっている。






ブラックベリー/「肥と筑を読んで」より 2012/7/2

山荘に引き籠もったからといって自由気ままに過ごす時間が豊富にあるわけでもない。当
人はそのつもりで転居したのだが、まもなく思いもかけないことが起こった。連帯保証と
いう世間によくあるトラブルに巻きこまれて、簡易裁判所からの召喚状が突然飛び込んで
きたのである。霞を食って生きようと思って来たこのような深山幽谷の世界にも、そのよ
うな些事が追いかけてくるのである。しかし連帯保証をしてくれと依頼した本人と債権者
の間で和解の話になっているから、まあ一安心で、転んでもただでは起きない当人だから、
この顛末もいずれ創作の材料として書く心算である。

下世話な話はさておいて、いままではなかなか休暇でやってくる時と、花が咲く時期が合
わずいままで盛りの花を見ることができなかったが、やっとツル薔薇の花の咲き乱れる我
が家へのアプローチに出会えた写真だ。Blackberry Cottageという名
称の看板を掛けているが、手入れがわるかったのか、たわわな実りを願っているブラック
ベリーはまだ実をけていない。そのかわり山荘の周りにはいろいろの苺がみのり、毎朝散
歩の途中で採取しては食している。
黄色いのはもみじ苺、赤いのはラビットラズベリーの実である。それぞれ味はちがうが実
に美味である。

????




狐の手袋/「人生詩を読んで」より 2012/7/17

今この山荘の周りは狐の手袋(ジキタリス)が薄紫の花を咲かせている。自然は不思議な
もので春が来て緑で覆われると、そこにどのような野草が生えているのか俄には分からな
い。
丁度深い緑の山のなかに咲き誇る花を見て、初めてそこに桜の木があったことに気づくよ
うなものだ。春に越してきてまず山吹の花一色になった山を見た。それが終わると空木の
花があちらこちらに静かに咲いていた。それからしばらくは花らしいものが絶えた時、大
まむし草が盛んに目に付くようになる。それからこの季節になると狐の手袋や紫陽花の花
が咲き出した。




山荘便り 2012/ 8/4

早朝の散歩の途中の見晴らしのきく場所で、いつも立ち止まって眺める富士山はまだ噴火
していない。マスコミが騒ぎ立てていたずらに煽るにも拘わらずいたって平穏で、伸び伸
びとした稜線を従えてそびえ立つ勿忘草色の孤高の姿を見せている。

都会に住んでいた頃には、洪水のように流される実に個人的なゴシップや政局や噂話、ど
うでもいい評論家のコメントなどの報道に溢れていたが、この自然のなかではそんな知識
などほとんど取るに足らないもののように見える。ひんやりとした空気、陰影のくっきり
とした木の間から差し込む踊るような光り、ハイドンのチェロ協奏曲などを聴きながら食
べる朝食は、老いによる衰えを忘れさせてくれるようだ。

昔オーディオに凝った時期があり、ラックスマンなどの高価な機器に囲まれていたことが
あったが、この頃再びそのような音を聞きたいという感情が湧いてきた。これもメカ好き
の性癖、飯の種にならないことにばかり手をだす「遊び人」とばかりに、またまたカラマ
ツ・ジローのごとく、細君のマシンガンの標的になりそうである。




山荘便り 2012/8/7

机に向かっていると窓の外でいろいろな鳥の鳴き声が聞こえてくる。数年前から朝早く
美しくしかも長くさえずる鳥の声をベッドのなかで聴いてきたが、未だにその鳥の名前が
分からない。野鳥の鳴き声というサイトで調べるのだがもう一つはっきりしない。
日本三鳴鳥はウグイスとコマドリそしてオオルリと言われている。しかしウグイスでもな
いコマドリでもない、そうすると残りのオオルリか。そのうち追々録音でもして識者に判
定してもらうほうがいいだろう。

さて、今日は十?近くの林のなかからウグイスの鳴き声が聞こえてきた。この鳥は山梨県
の県鳥でもあり、体長16?、体は所謂ウグイス色である。私はむしろ目白という鳥の若
竹色(わかたけいろ)の鮮やかさをウグイス色としてイメージしていた嫌いがあるが、声
の良さに反して実に地味な鳥だ。
「ホーホケキョ」と、まるで熱心な信者のように法華経を唱えているようなこの鳴き声は、
正式には囀り(さえずり)というらしい。これもWebで調べて見ると,

 さえずり:「ホーホケキョ」
 縄張り宣言や雌を呼ぶために、繁殖期の雄が発する鳴き声。「ホーホケキョ」
      の後に「ケキョケキョ」と激しく鳴くのは,縄張りへ侵入してきた鳥への警
      告を意味しているという。
 地鳴き :「チャッチャッ」
  さえずり以外の鳴き声。主に繁殖期以外での鳴き声を言う。

私は手のひらにのる程の大きさのこの鳥が、谷に響き渡るようなその囀りの声の大きさに
驚く。カラスの鳴き方を観察してみると、口を精一杯大きく開け、反動をつけて体ぜんた
いを揺らしながら鳴くのである。まさに全エネルギーを一点にぶつけるような力仕事に見
える。そうしてみるとウグイスも我々が楽しんで鳴いているだろうという想像とは大違い
で、そこには生きるための必死の形相が見えてくる。

さて、いつもの癖で人間の大きさだと一体どんな状態になるだろうかと試算してみた。体
高で換算すると、人間の1?60?÷16?=10倍 ウグイスの鳴き声の通る範囲を2?
と仮定すれば、2km×10倍=20?。まさかそんなに遠くまで聞こえるとは思えない。
しかし、高速で走る新幹線の鐵橋の下くらいの音の大きさ以上であろう。こんな試算は意
味をなささい単なる遊びに過ぎないだろうが、それにしてもあの美しい囀り(さえずり)
に違った様相が見えてくるのが面白い。






      富士山を望む山奥に住む同人  キメラ17号 投稿日:2012年 9月 2日

       書評二つが入っていた。自称『山賎(やまがつ)』とアイルランド文学やフランスが舞台
      となる「ブラックベリー・ワイン」に何か共通点でもあるのかと思ったりもする。
      「ブルックリン」の評を最後まで読んでみると人間の心の襞に深く入り込んだ上での感想
      のようで、荒々しい山賎のイメージとはかけ離れたものだった。
      「ブラックベリー」は、“うまく最後まで読ませる”ものの、警句や比喩やアフォリズム
      が村上春樹の手法と似ていて通俗的である、と述べるあたりはなかなかの射撃手でもある
      ようだ。
       自然のめぐみ、いとなみは青い地球誕生からずっとからいっしょ。山賎も自然と対峙す
      るからには、荒々しそうな反面人一倍繊細なはずだとも思う。国、人種、職業、時を越え
      た所に、あるいは心(精神)の深い根っこに、共通した人間の「生きる」があるのだろう。
      その中で評者なりに選んできた「生き方」が伺える。


              『山賎のおとがひ閉づる葎かな』  芭蕉

       『野ざらし紀行』の帰途、甲州谷村への道筋での放浪の人、芭蕉の一句。詠んだ場所は
      山梨県内“都留”であるという説もあるらしい。 山荘の名前と同じく不思議なご縁なのか
      もしれない。
       無口で無愛想な山賎も、たまにはこうして斧を「ペン」に変え、ニューロン・カフェの
      ドアを開いて、[おとがひ]を開いて、山の話、本の話を聞かせて欲しいと思った。
      ここは数年前、山賎本人が徹夜で設計し建てた、釘を使わない木組みのカフェでもあるの
      だ。静かで風通しもいい。




山荘便り   2012/ 9/7

造次顚沛という難題に向かう前の一休み、今日は雨の中300メートルほど坂を下った所に
新聞を取りに行く。ここは亀甲台という別荘地の入り口だ。なぜ家から離れたここに新聞
受けを置いているかというと、家までの真冬の雪で凍った坂道を車で登れないから住宅の
ポストまで配達できないということである。単に新聞を取っている家がほとんどないから
そこまでサービス出来ないという理由か、それとも本当に凍ったとき配達できないからク
レームが来るのを厭うためか、しかしそれがどれくらい難儀するのかは本当のところ私に
は判らない。

赤松林の道路には、いつもは拳の半分くらいの松毬しか落ちていないのだが、今朝はその
雨に濡れた道路の真ん中に何かの塊が見えた。突然細君が素っ頓狂な声を出した。なにか
と思えば20?近くもある大きなガマガエル−正式な名はニホンヒキガエル−が私達に向
かって平伏した形で鎮座している。人間が近づいても動こうとしない。そのイボイボのあ
る体の色といい、なんともいえないギョッとする異形さだ。しかしその一方では滑稽な姿
でもある。私は長靴の先でちょっと押してちょっかいを出してみた。するとのそのそと動
きだして、10メートルほど歩き去って振り返って見ると、そのガマガエルは谷側の茂み
にはいって行くところだった。車の往来が少ないからいいようなものの、あまりにものん
びりしていると本郷の町で見かけた、白い腹を見せて万歳した姿で死んでいた個体と同じ
運命をたどるぞと余計な心配をしたくなるというものだ。
ヤマカガシという天敵がいるこんなところで生きて行けるほど食べ物があるのだろうか。
またヤマカガシはこの気味の悪い巨体を一飲みにするそうだ。いかにも不味そうに思える
のだが、まあ双方ともあまり気持ちいい姿ではないと言えるだろう。




山荘便り/秋の収穫  2012/10/5

今日午後より河口湖畔に冬の餌として栗鼠にあたえるオニグルミを探しに行った。収穫の
量や採取の時期についていい時だと確信があった訳ではないが、思ったよりうまく大量に
採取出来た。おまけとして更に少々小ぶりではあったが野生の栗も籠一杯になるほど拾え
たのは望外だった。

自然のなかで果物や山菜を採取するには二つの課題がある。一つは目的の物が存在する場
所。二つ目は充分に熟れた果実の採取時期である。しかし初めて求めるにあたってそれら
のものが、この広い河口湖畔のどこにあるのか見当もつかなかった。蕨やアケビなどの探
索はこれからの課題とするが、オニグルミや栗の木の等の多数の樹形は小さい頃山で遊ん
でいたのでよく知っている。そこで車を走らせながら木の姿を見つけ、そこに車を止めて
近づいてみた。幸いなことにオニグルミと山栗が同じ場所にあったし、しかも栗の実もオ
ニグルミの実も地面に落ちていて、難なく採取出来たのである。もしまだ木になっている
青い実だったら、とても手が届かなかっただろう。
採取したオニグルミの実はまだ果肉が付いていて、それを剥がすために地中に埋めておく
という話を聞いたことがあるが、今は水を張ったバケツに入れて果肉を腐らせてみようと
思っている。山栗は小さいが肥えていて虫食いもなく、早速蒸かして食したら美味だった。

この己の行動を見ていると、山里で暮らした両親が春になると喜々として蕨とりに山に出
かけていたことを思い出す。私も捕獲して食べる訳でもないのだが、小さい頃より川へ出
かけ、フナやウグイ、アブラハヤ、アユ、ナマズ、テナガエビなどを毎日追いかけていた
ことを思い出す。
このような収穫するという精神の高揚は原始的な根源的な生への本能的な衝動として、採
取した獲物を眺めて豊かさを感じるということに起因するのだろうか。
そしていま私がその喜びを強く感じるのは、どうも両親から受け継いだもののようで、い
よいよ私も山賤としての生きる技術と体力を磨かねばならないようだ。
さて、来年の収穫のために今日の日と場所をここに記録して置こうと思う。




      人生の収穫  y.コバルト 2012/10/5

      山荘便り−20121005 を読んで、著者はいい時間を過ごしているのだなと思う。
      あくせくした、ノルマと騒音と汚れた空気から離れて自然の中の現実の人間に戻る。
      再度の転居の可能性は感じるがそれがまた都会なのか、もっと山の中の小屋になるのかわ
      からなくなってくる。

      玄関の扉の外側に年中風鈴を吊る下げているが、先日その横に朝顔に変えて、造花の紅葉
      といが栗の飾り物を置いた。仕事中毒であった頃はこんなことはしなかった。
      山荘に移り住んだ人はほんもののオニグルミや栗を味わっているようだ。
      造花であれ本物であれ、それだけ時を過ごしてきたからやること、やれることなのだろう。

      自然の中に入れば寝ている時の夢はあまり見なくなるのかもしれない。自然は人の夢を包
      含しているからだ。自分といえば、相変わらず夢ばかり見ている。






山荘便り 2012/12/4

晩秋も過ぎ、もはや初冬の山々は紅葉も終わりに近づいている。最後に残った黄色のクヌ
ギや木楢の葉が一斉に散り始めた。そして葉が茂り暗い木陰の濃い夏より、むしろ地表に
太陽が差し込み山全体が明るくなったようだ。

紅葉と言っても様々な色合いがある。そして楓の赤い色ばかり思い浮かぶが、じつは山全
体から言えば黄色に変化する木々がほとんどなのだ。楓さえも全て紅になるものばかりで
はない。もっと深い赤に染まるものや、銀杏のように見事に黄色一色になるものもあり様
々なのだ。

赤に染まる木は楓をはじめ、ハゼノキ、ナナカマド、南京ハゼ、ニシキギ、ハナミズキ、
ブルーベリー、ドウダンツツジ等。
黄色に染まる木は銀杏、クロモジ、カラマツ、コナラ、クヌギ、カツラ、ホオノキ、ヒメ
シャラ、ムクロジ等である。

私の山荘の回りのこれらの木々は、それぞれの時期を違えながら11月の半ばから12月の
半ばまで私の目を楽しませてくれる。敷地の南西角にある、恐らく百年近い時を経たと思
われる楓の大木は大量の落ち葉を降らした。越してきて初めて過ごす今年の山荘で私は、
これほどまでに夏の間葉緑素豊かな葉を茂らせて光合成に精をだし、己の生命を維持して
いるという現実を想像もしていなかった。まさしく自然の営みは思いもつかないことばか
りだ。




山荘便り   2012/12/7

 初めての山荘での冬ごもりなので今回は経験不足のため、冬支度がうまくいかなかった
ようだ。それはストーブで焚く薪の一ヶ月分の量が判らず、ストックの計画が狂ってしま
ったからである。
 まず11月分として1束10?/350円の薪50束を山梨の社会福祉法人障害福祉サービス
事業所から格安で購入して山荘の床下に積み上げていた。しかしそれを使い切る数週間前
に再度注文したところ、原木を買い付け薪として加工するのに一ヶ月ほどかかるという。
配送できるのは12月17日ということで、今日から二週間ばかりの薪が足りなくなった。
最低気温も零下、最高気温も一桁になっているここで暖がなければ寒さに凍え暮らさなけ
ればならない、さてどうするか困ってしまった。

 薪の種類は何でもいいという訳ではないことを、薪ストーブを購入するときに知らされ
た。この山荘の回りは赤松林であるから、松の枝はたくさん見つかるのだが、この木は油
分が多くて煤が出るし火力も強いから鋳物製のストーブ本体を傷めるとのことである。一
方杉や桜などは火付きも良いが、材が柔らかくてすぐ燃え尽きてしまう。やはり木楢や椚
のように油分が少なく材が硬くて火持ちがいいのがベストだという。

 それから焚きつけ用としては乾燥した杉の葉が一番良いと判った。新聞紙は毎日の配達
で自然に貯まるが、くしゃくしゃに揉んでも紙と紙の間が密着しすぎて燃えが悪いし、燃
えた後の灰が新鮮な空気の流れを阻止してしまう。その点、杉の葉は一つの枝に十数本の
小枝が生え、更にその小さな枝についた針状の葉がクッションとなって、適当な空気の通
り道を作っているから、甚だ火付きがいい。
 この前、生々しい緑の杉の葉が混じっていたので試しに燃してみると、良い匂いと共に
パチパチと爆ぜて勢いよく燃えた。どうも油分をふくんでいるらしい。これは檜や杉板な
どから発する殺菌性と人に癒しを与えるフィトンチッドといわれる芳香性の化学物質では
ないかと思った。

 12月、1月とだんだん寒さが厳しくなるともっと薪の数が必要になる。それらの月の薪
の消費量と費用のデータも記録する必要がある。また焚きつけ用の粗朶や杉の葉の準備も
必要だ。近くの山の中に行けばたくさん落ちているので、時間がある限り山に入らなけれ
ばならない。しかも湿った薪では使い物にならないから、天気が二日以上続かなければ意
味がない。
そこで来年は紙ふうせんの歌ではあるまいが、「冬が来る前に」といった悠長な考えは通
用しないと判ったので、春先に一冬分の薪を購入してストックしなければ安心して冬が迎
えられないことを悟った。さて今日も杉林の中を徘徊するか。

wikipediaによる
 フィトンチッド (phytoncide) とは、微生物の活動を抑制する作用をもつ、樹木などが
発散する化学物質。植物が傷つけられた際に放出し、殺菌力を持つ揮発性物質のことを指
す。
 森林浴はこれに接して健康を維持する方法だが、健康だけでなく癒しや安らぎを与える
効果もある。フィトンチッドはその殺菌性や森林の香りの成分であるということから良い
イメージがあり、森林浴の効能を紹介する際に良く用いられている。




クリスマス/「肥と筑を読んで」より 2012/12/25

クリスマス・イブは最後にブッシュ・ド・ノエルを食し、その後恒例の「ホワイト・ク
リス マス」のDVDを見た。時代は、アメリカの一番良い時代を迎えようとしている1950
年半ばの話である。高校生の私達はこのアメリカの豊かさへの憧れに溺れそうであった時
代だった。そしてこの山荘も夜半には雪が積もりホワイト・クリスマスになった。



8α編集部:2014/04/04(金) 03:31:49
オキシモーラン4 2012-2013
.

      オキシモーラン4 2012-2003

            
「オキシモーラン言葉遊び」の師匠


   何と著者ポートレートとコメントにオキシモーラン遊びを取り入れています。
   それを除けば、言葉並べ遊びは一休みのようです。その代わりに絵画や作品、
   出来事の中にオキシモーラン的要素を見つけ出します。




2012年

絵を見る 2012/2/4

昨日長岡さんの末っ子K・Kさんの卒業・終了作品展を東京芸大まで見に行った。
家を出て散歩がてらに通った不忍の池回りの景色があまりにも素晴らしかったので写
真を一枚パチリ。人になれた5・6匹の野良猫をからかいながら上野公園をゆっくり
歩いた。
噴水公園の全部、東京都美術館などの回り、どこもここも大々的な整地工事のための
仮塀で囲われてい たが、完成すればどのように成るのだろう。いつものホームレス
の青テント村も撤去されていて、綺麗になっている。彼等も将来にわたってここらか
ら閉め出されるのだろうか。帰りにそこを通るとき多くのホームレスが屯していて、
遠くの同じ方向を見ていた。最初はなにが起きているのか判らなかったが、まもなく
赤十字のテントの場所で炊きだしが行われるのを待っていたのだ。

 さてK・Kさんの作品は「阿吽(あうん)」という題名である。Wikipediaによると、
阿吽(あうん、Skt:A - hum)とは仏教の呪文の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿
は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞ
れ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。
神社の狛犬は左が狛犬阿形、右が狛犬吽形となっている。
この絵を見ると左の人間の顔(岩石)は「阿」で、左は「吽」である。回りの小ぶり
な作品が多いなか、際だって大きな作品なので相当迫力がある。近づいてみるとまた
蚤のような大きさの人物があちこちに物語風に描かれている。なかには戦国時代のま
さにこれから敵と戦 闘に入る前の陣屋の中に、武将達が床几(しょうぎ)に整然と
座り、殿様を囲んでいる。
K・Kさんの作品は硬くて大きくて動かない、すなわち永遠を意味していると解釈で
きるものと、常に動き回り変化する小さな生き物の対比を感じる。神秘、哀愁、シュ
ール、アイロニーの作風は、我々の目指すオキシモーラン的表現(無限回廊)と同じ
方向だと思いました。

    




「造次顚沛―32号テーマに寄せてを読んで」 より 2012/10/26

 著者名の鳳凰 珍氏とは一体なにものか。鳳凰は中国神話の霊鳥で、平等院鳳凰堂
の屋根の上に留まっている鳥、一万円札の裏にも描いてあるあの鳥である。著者は嘴
は鶏、頷は燕、頸は蛇、背は亀、尾は魚で、色は黒・白・赤・青・黄の五色で、高さ
は六尺の珍しい姿をしているのか。造次顚沛に出現し、また消え去るという、実存す
るが人間の目には見えない、そして無限回廊を永遠に駆け巡っている希有なキメラに
違いない。そういえば真実を嘘で、嘘を真実と して装う、オキシモーランなどとい
う奇天烈な文学運動に染まっているハンドルネーム・キメラ17号は鳳凰 珍氏の異
名に違いない。

本郷に住む老人二人の小話、さては無限回廊第八回にでてくる本郷淳吾にまつわる
場面のことか、それにしても三国志に出てくる劉備玄徳の末裔といったり、漢の高祖
劉邦のそれと言ったり、熊さん八ッさんの迷回答に困惑しそうである。これもオキシ
モーランのマインドコントロールなのか。それにしても最後の七言絶句の出典を調べ
たが皆目判らない。もし鳳凰 珍氏の作とすれば感嘆絶句、とても素晴らしい!!




2013年

*「人生詩 を読んで」より  *(同人α33号作品)
2013/1/22

主人公の時代を経た同じ日の出来事を並列してみると、その時代時代の出会う人々、出来
事、思想などの変遷が比較できておもしろい。
作者の人物の描写は実に生き生きしていて、私もその情景に参加しているように思えて、
率直に首肯したくなるのは不思議だ。これは作者の対象にたいする観察力と並外れた感覚
の表現力によるものだろう。このバラバラの情景でも一つの作品になることは、これも作
者が長年創ってきた「言葉集め星創り」の作品とおなじく、何の脈絡もない一つ一つの言
葉から意味を持つセンテンスへの課程は、シニフィアンとシニフィエの関係に当たるだろ
う。
かつて作者が1995年発行の「同人・斜行 創刊0号」に投稿した、無機質のような言葉
を意味もなくランダムにくっつけて、新しい感覚の表現や意味を創り出す、いわゆるオキ
シモーランの作品には驚いた。ほとんどの人がその意図や作品の意味も判らず、難解とい
うレッテルを張ってしまった。しかしそこには使い古された言葉や概念をもう一度考え直
し、新しい可能性を探し出すという作者なりの挑戦があったのだろう。いくつかの作品を
読んで私も次第にその作品に魅せられていった。
とにかく作者の文は、人間や社会への恨み辛み嫉妬など、また金や地位や名誉などといっ
た世俗の欲望などを託つ(かこつ)言葉が一つもないのが清々しくていいなぁ・・・。

ちなみにWikipediaによると
シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)は、フェルディナン・ド・ソシュール
によってはじめて定義された言語学用語。
シニフィアンはフランス語の動詞 signifier(意味する)の現在分詞で「意味しているもの」
「表しているもの」を指す。たとえば、「海」という文字や、「うみ」という音声。
シニフィエは同じ動詞の過去分詞で「意味されているもの」「表されているもの」を指す。
日本語ではシニフィアンを「記号表現」「能記」など、シニフィエを「記号内容」「所記」
などと訳すこともある。たとえば、海のイメージや、海という概念、ないしその意味内容。




「シリ―ズ・歪んだ風景―鐵橋 第三回 ポートレートとコメント」より
2013/3/25

<オキシモーラン的ポートレートとコメント−解離性同一性障害多重人格)の悩み>

変装前(結界内):善意無過失、無毒無臭、誠心誠意、青天白日、正当防衛、精力絶倫、
精励恪勤、清廉潔白、是々非々、切磋琢磨、千思万考、全力投球
人様から後ろ指を指されないように謹厳実直に世間を渡り、常に和を重んじ体裁を繕う。

変装後(結界外):青息吐息、悪衣悪食、悪逆無道、悪戦苦闘、阿修羅道、悪漢無頼、悪
口雑言、阿鼻叫喚、阿附迎合、阿諛追従、阿諛便佞、暗送秋波
善意の底に沈殿する悪意に敏感故、露悪趣味に徹して世間を笑う姿は、まだ髪と髭は黒々
としていた四十五歳頃の私で、まるで数十回も別荘を出たり入ったりするどうしようもな
いラッキー・ルチアーノみたい悪党面だ。当時このような姿でクライアントと設計の仕事
の打ち合わせをしていたかと思うと冷や汗ものである。

     変装前          変装後

    




「無限回廊 十一回を読んで」より 2013/4/28

この無限回廊という物語は最初から最後までつきまとう問題を抱えている。全くの空
想小説と割り切れは簡単だが、少なくともFS(サイエンス・フィクション)とすれ
ば科学的にあ り得ない問題を平気で書くわけにもいくまい。さてそこで、西暦11
万年から過去の21世紀に戻れるタイムマシーンという装置がはたしてあるのかない
のか。

スティーヴン・ホーキング博士の否定説や、リチャード・ゴットの二つ利用すると可
能という仮説もある。肥満と関節の痛みの薬「ロコフィットGL」鶴瓶のCMのよう
にいったいどっちなんやー、どっちもー・・・といえそうで確実な論はない。しかし
このタイムマシーンは時間移動だけではなく空間移動も詳しく設定できないと酷い目
に遭うことになるだろう。時間旅行者はブラックホールの底や太陽の核融合反応のま
っただ中に出現したりするのだから。

この「無限回廊」第十一回の作者エヴァは、それまでの著者達が避けてきた重大なそ
して悩ましい問題を出してきた。それは有名な「親殺しのパラドックス」である。
「ある人が時間を遡って、血の繋がった祖父が祖母に出会う前に殺してしまったらど
うなるか」というものである。その場合、その時間旅行者の両親のどちらかが生まれ
てこないことになり、結果として本人も生まれてこないことになる。
過去の世界では自由意志の存在が疑われ、人間に自由意志があるというのは幻想だと
されたり、少なくとも限度があるとされる。これでは人間の行動についての制限を誰
かが管理していることになる。人間の自由意志はだれにも犯すことはできない。この
ような逆説に抗して越智十三は21世紀で結婚して「宙(そら)」や「陽十三(ひと
み)」という子供まで作ったのだ。
しかしいままでの著者達が書いた作品を考えて見ても、時間の矢に逆らったり光より
も早いタイムマシンや10桁の暗号の情報を運ぶことがもともとあり得ないし、太陽
系の崩壊、そのまえに起こるであろうハルマゲドンを阻止するための「物集班(もず
めはん)」に課せられたミッションそのものが「親殺しのパラドックス」に抵触しな
いか。嗚呼今私のシナプスは混線状態でこの問題にたいして理解不能である。しかし
最終章での解決方法の姿はぼんやり浮かんでいることも付け加えなければならない。

それにしてもこの「無限回廊 第十一回」の著者はオキシモーランの申し子らしく、
アナグラムや人物描写、そして読者が内容の面白さについて行けないくらいの才気煥
発さを発揮していて、作者自身が物語を創ることにこの上ない喜びを感じて、遊びま
くっているというのが、私の感想だ。




取り合わせ  2013/12/14

最近言葉の伝達についてオキシモーラン的妙な取り合わせに驚いている。

◆南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の公式追悼式において、各国首脳らのス
ピーチを手話で通訳していた男性が、手話の出来ない「偽物」だったという疑惑が広
がっており、調査が続いているという。

◆吉田戦車の「伝染(うつ)るんです。」に出てくる「傷」と呼ばれる、 頭に包帯を
巻いて学生服を着た、心身ともに深い傷を負った少年が出てくる。いつも人を不安に
陥れるような不思議な一言を言い放つ。アベックを嫌悪している。時折新しい文字を
発明している。その文字は普通の人にはどう読むのか、何を意味しているのか判読出
来ない言葉だ。

◆最近購入した小川洋子の「ことり」に出てくる主人公である少年の兄の話。
親や他人とは会話ができないけれど、小鳥のさえずりはよく理解する兄、そして彼の
言葉をただ一人世の中でわかるのは弟だけだ。 小鳥たちは兄弟の前で、競って歌を
披露し、息継ぎを惜しむくらいに、一所懸命歌った。

彼等の言葉は私達の住んでいる世界と違う世界、例えば異星人、例えば「手話の男」
は言葉を乱数に変え宇宙の彼方に発信しているのかも知れない。
「傷」と呼ばれる少年は生物の発生当時からの言葉にならないDNAに込められた情
報を示しているのかも知れない。
ことりに出てくる主人公の「兄」は小鳥のさえずりを137億光年の彼方から届く様々
な宇宙から来る光のスペクトル波長と振動数に呼応させているかも知れない。

これらの人達は世間ではすべて精神疾患というレッテルを張って安心するが、はたし
てそうであろうか、何か私達の文字や語りの文化・文明では判断出来ない言葉の世界
があるかもしれないのだ。



9α編集部:2014/04/04(金) 06:32:48
古賀 vs.長岡
.?????????????????????????? 古賀 vs.長岡




編集、印刷全般に渡り出版の要であった古賀氏のもとに、理科系男子が同人として参加し
てきました。古賀氏に質問をしながら状況を確認し、校正に始まり発行まで、労力だけで
なく、アイデアを提供していく様子がうかがえます。
二人のやりとりの中からさらにアイデアが登場しました。細かな作業の積み重ねと大胆な
アイデアが、現在の冊子および電子版に繋がっていったと言えます。  (編集者)




2007年


「同人α」小宮・山内さんへ宅配より 2007/5/23

同人誌は年齢や地域に拘り無く広がっていって居ます。こんど一人の仲間が増えました。
13期生・長岡曉生(ペンネーム)さんで高校の時の物理の小柳先生のご子息だそうです。




「新同人歓迎会」 2007/6/16

◆ 「同人α」新しい同人歓迎会
  出席者:小柳・田村・武藤・北島・熊井・東内夫婦・古賀
  小柳(ペンネーム長岡暁生)氏は太陽熱関係の研究では第一人者とのこと。しかし理学
  者という理論の世界に棲みながら、易に興味を持っているとのこと。そのギヤップは
  なぜなのか、追々分かるであろう。




間違いの指摘  2007/6/18

小柳理生さんから「同人α」第11号の間違いを指摘して貰った。
原本を早速直すことにしよう。

古賀様、
いつも編集と印刷に時間をかけて頂いているようで、ありがとうございます。
先日の歓迎会の席で、伝えるのを忘れましたが、私が気がついた範囲では、所有している
分のα11号について、以下の不具合(?)が有ります。
もし大増刷されるようなことが有れば、参考にして下さい。
すでに訂正されているならば、読み捨てて下さい。

【目次中のページのずれ】
武藤さんの分以降、1ページずつずれています。

【誤変換・衍字】
恐らく作者の修正見落としと思われる部分です。

p13 4行目
 誤変換・衍字では無く、このような場合の処理がどう決められているかは知りませんが、
碇さん本人から、6月11日朝の掲示板に以下のような書き換えの要望が、出ました。
 ???? 4行全体 → 3.   三椏の花妻のテストは選ぶべし

p26 1行目(本人に確認する必要は有ります)
 玉の腰 → 玉の輿

p29 最下行(本人に確認する必要は有りますが、鷲の紋が正解です)
 鷹の紋 → 鷲の紋

p30 3行(本人に確認する必要は有ります)
 戴して → 対して

p45 19行(明らかに衍字でしょう)
 時間のを → 時間を
p45 下から3行目
 右の街角の右が、この「冬」の場合だけ色つきなのは、意図された結果でしょうか。

以上、余計なお節介ですが。


◆ 小柳さんのご指摘有り難うございました。今回は時間もなくあわてて発行しましたの
  で色々問題があることを予想していました。なんとか経費節減のために B5版を作る
  のにB4版で印刷したほうが半分で済むという考えの基に始めたのですが、編集にお
  いて労力と文の配置の難しさで、会得するまでにはもう少し時間が掛かるようです。
  その分校正に時間と人手をかけられればよろしいのですが。なにせ編集に携わる連中
  は名うてのオーマンな性格の持ち主ですので、この辺でひとつポアロのような灰色の
  頭脳をお持ちの小柳さんの協力を仰ぎたいと思っています。
◆ 早速ご指摘の誤字、衍字は原本を訂正いたします。それからP45の「右」は色及び
????フォントも春、夏、秋とは意識的に変えています。色、匂い、形それに時間を加えた
????詩的イメージを作りたく、またいつも「左」の角を曲がって帰る男の姿が最後の冬の
  場面では「右」に曲がって消えていくところに、今までの関係が変化したことを表現
  したかったのです。
◆ それからバックナンバーが欲しいとのことだったので、今小柳さんの手元にある「同
  人α」をお知らせください。それ以前のものが少々ございますのでお送りしたいと思
  います。
????                               長岡




同人α第12号校正会 2007/8/14

◆ 「同人α」第12号の校正会を河口湖の山荘で開催。
  安芸・樋口・小柳・武藤・田村・細君・私の7人。





「同人αの出版」 2007/11/17

◆ 同人α第13号「楽」を当事務所にて発行。
樋口氏、小柳氏、田村さん姉妹と私の5人で70冊製作。以前のようにB5をB4に力づ
くで貼り付けていたが、「一太郎の最新版」を小柳氏より貰って冊子印刷が格段に楽に、
またミスも少なくなった。製本の作業も随分慣れたせいか丁寧で早く仕上がり、欠陥品も
少なくなり、製品の歩留まりも善くなった。後は校正の時間がもう少し欲しいところだ。




2008年

「小柳さんより」 2008/3/22

 窓辺にて−赤松次郎の日記の分量が164ページになり、綴じるのにホッチキスが使えな
いから、日記用のバインダファイルを探されたとのことですがある程度の部数を刷るのな
ら、市販の製本機を考慮されてはいかがでしょうか。ホットメルト製本テープ使用の糊付
け製本機で、200頁程度までは装丁できるものが各社から色々と出されており、綴じる
厚さにもよりますが数千円から1万円程度で手にはいるようです。消耗品としては、製本
テープと専用の裏表表紙を購入する必要がありますが一冊当たり200〜300円で上が
るようです。また、1冊当たりの製本時間は、どれも1分以内で済むようです。
上の情報は、[ホットメルト製本機]をキーワードにしてネット検索すれば得られます。





「小柳 さんへの手紙」 2008/9/7

熊野古道から無事帰って来ましたので、いく前に頂いていたご質問にたいして、あくまで
も私個人の見解としてお答えします。

1.佐高11期ホームページの名称募集に関してはご指摘の通り9月3日まではブログに書
 き込まれてはいませんでした。この齟齬は、実質的にパスワードをもって操作する田村
 さんと私の職務の分担をはっきり決めていないために生じたもので、当分は譲り合った
 り強請したりの逃走・闘争を繰り返すことになりそうです。なにせ二人しか管理者メニ
 ューの中に入って操作出来る人、操作したいと思う人がいないのですから・・・。我々
 は出しゃばりといいますか、野次馬といいますか、困った性格です。

2.ホームページ名称募集の決定方法が不明確とのご指摘については、多数決にするか数
 に拘わらず運営委員の協議で決定するかはまだ決まっていません。その方法をどうする
 かはこれからの話し合いで決めると思われます。例えば、紙面の場で多数決によるよら
 ず、委員会の協議の上で決定されたとしても、皆さんがその名称を変えようという提案
 がなされれば、またそれはそれで名称を変えても良いという考えもあります。

3.運営委員のメンバー表や規約についてのご質問にたいしては、私も最初はきちんとし
 た管理規約の試案をつくり、決定されればブログに常時掲載して、佐高 11期のホーム
 ページの主旨や決まり事をいつでも誰でもが確認できるようにすべきだと提案しました
 が、営利上の問題や権利関係の取引でもなく、単なる友好のための会だからそこまでは
 するまいという事になりました。問題が生じたときはきっと私の作った管理規約を蔵の
 中から探し出す日が来ると確信しています。その日がこないことが望ましいのですが。
 運営委員のリストもまた会そのものが希望次第で参加・脱退が自由ですので融通無碍が
 すきな人達を尊重して載せないことにしています。

 運営委員の決定においては民主主義は実に効率の悪いしろもので、私個人としてはもど
 かしいことも多々ありますが、いまのとろ一番いいシステムと認めています。
 以上個人の見解を述べましたがご理解いただけたでしょうか。




「文字色変更の件」 2008/12/17

◆小柳さんより作品集の校正が早速送って来た。概略の仕事は早いがどうも精密さがなく
 て困る。その点小柳さんはきっちりと齟齬を指摘してくれるし、また対応が早いので助
 かる。




2009年

「小柳さんからのメール」 2009/5/13

 古賀さんも、目が疲れて居られるのでしょうね。
製本が月末になるのは、未提出の皆さんには好都合かも知れませんね。
 ところで私の方は、自分の原稿が終わった今、わりと暇な状態です。それで、行やペー
ジの整形に手間取っておられるようだったらご遠慮なくお申し付け下さい。字数や、行数
を決定してもらえれば、粗粗の整形は分担できますので。
 何せ、古賀さんが倒れられたら、アルファの作品集は、印刷でもブログでも立ち往生し
てしまいますから。なにとぞ、御身大事を専一にして下さい。
 お気遣い有り難うございます。小さい活字が老眼鏡をかけても全く見えません。度の強
いルーペを左手から離せなくなり、困ったものです。この前の診察で、次の眼底検査の結
果を見て、手術するかどうかを判断しましょうと 言ってくれました。
 編集にあたっての貴君の申し出ありがとうございます。なるべく作業を分担する方法を
見つけ出したいと思いますが、ワープロや写真処理やホームページ作成等のソフトがまち
まちで、なかなか美味く行かないのが現状です。
 今回は、田村さんも私もいろいろの催しが重なっているため、20日前後の出版が出来
ないと判断しました。思い切って月末まで延ばしましたので、なんとかできそうです。20
号からは、目を新品に取り替えるという訳にはいきませんが、せめて9号の大きさの文字
が読める位まで再生出来ではいいなとも期待しています。結論として今回の19号はなん
とか努力してみたいと思います。




「α第19号の編集・校正」  2009/5/26

先日小柳氏よりゲラ刷りの校正表を受けとった。今日北島氏より校正ゲラ刷りを受け取っ
た。O−chanのゲラ刷りは明日シネマ・デ・ジョイで受け取る予定。
それから総合的に全文の訂正をし、せめて29日(金曜)までは70部刷り上がってなければ
ならない。
 今回は目の悪い人のために(かく言う本人が一番悪い。倍率の高いルーペがないと何も
見えない、それと以前から三浦さんの希望もあったし)、字を大きくした。
 ◆ 字の大きさ:9号から11号へ
 ◆ 一行の文字数:40字から30字へ
 ◆ 行数は変わらず40行
 ◆ 普通の濃さの明朝をbold type(強調文字)にした。
1.そのため色々の問題が生じた。まずはエラさんの英文で、一行の端部 の英単語が別れ
 てしまうこと。

2.小柳さんのサブタイトルの強調文字が他の文と同じになり、めだたな いこと。サブタ
 イトルの文字を大きくするか、またはゴシック体に 変更するか、あらためて小柳さん
 と協議する必要がある。




「小柳さんからの業務連絡」 2009/8/15

 16日は、田村さんが京都行きと言うことを言の輪で読み、これを書いています。
今までの予定では、19日までにゲラ刷りを作っておくべきでしょうが
確かその日は、古賀さんの手術の日に当たり、たとえ前日に原稿を送付しても古賀事務所
で印刷するのは無理だと思われます。
 そこで提案ですが、ゲラ刷りはとりあえずA4版とするのはいかがでしょうか。これな
ら、我が家のレーザプリンタで文章を両面印刷で打ち出し、校正現場に私が持参すること
が出来ます。(残念ながらB5版の両面印刷はできません。)両面印刷の速度は、業務用
には及びませんが、1分間に22枚とかなり早いので88ページ程度までなら4分で印刷
できます。
 また、ゲラ刷りは、とりあえず手持ちのWクリップで綴じることが出来ます
もし、そうすることになった場合、ゲラは何部用意しておけば良いでしょうか。必要部数
を、お知らせ下さい。
ところで、今までに用意できていないものは、次の4項目です。
αの表紙絵(清水さん担当)
 これは、ゲラ校正時には、必要有りませんが 表紙絵だけは、先に印刷をお願い出来ま
すか。古賀さん、田村さん、私の原稿  私自身書くのが遅れて、申し訳ないです。
以上の件について、できれば15日中にご返事頂ければ幸いです。
なお小柳の休暇は、24日の月曜日までの一気通貫で取っています。




「小柳さんより」 2009/8/25

 遅くなりましたが、標記ファイルを送ります。筒井さん以降は、北島さんの校正された
分が行方不明になってしまったので後で見つけて、もう一度やり直します。田之頭さんの
本文も入れるのを忘れ、抜けています。取り敢えず、ここ々までを印刷して田村さんに見
てもらえますか。長岡分は、1行30字に整形するため、かなり手直ししました。




「長岡さんより」 2009/12/13

万理さん
このメール、今気がつきました。
作者紹介の写真と文の保存作業、有り難うございます。
★アルファのデータの保存
 アルファの掲示板への投稿文は、ごく短い一時期を除けば、残り全部が古賀さんのHD
 に収まっているはずです。もちろん作品集については、全データが保存されています。
 これらは貴重なデータなので、複数のバックアップを取っておくことも必要であろうと
 考えています。
★作者紹介
 ブログ上の作者紹介については、私の入会時においては、未だ様式も不定で、紹介文も
 他者が作る場合もありましたがデータは全て、古賀さんが保存されているんでしょうね。
★作品集との相互リンク
 今回、万理さんにお願いしているブログ上の作者紹介集は将来的には、作品集とリンク
 させて行ければ、面白いなと思っています。ただし、画像が増え過ぎるとブログの容量
 制限に弾かれる恐れは有ります。
★作品ごとの合評とそのリンク
 ついでに、掲示板上の合評のやりとりも各回の作品ごとに纏めて後で読めるようにして
 おくと便利ですね。これは、私の作品と他のいくつかの作品については、すでに試行的
 に作っていますが、投稿文中に合評と無関係な文とが混じる場合があってその切り分け
 に意外と時間がかかります。この合評集についても、将来的には作品集とリンクを張り
 たいですね。
★CD−ROM化
 あと、適当な時期たとえば10回ごとに、作品・作者紹介・合評応答を全て含んだ
 CD−ROMを作って見たいと言うことも、古賀さんと話し合ったことが有りますが
 時間を要することなので、なかなか実現に至りません。
★各作品を一元管理する識別標記
 私の場合、各作品は各回の作品集の番号(二桁の数)+作品の番号(二桁の数)+作者
 名と書き分けています。例えば、今回の場合は
     2101北島
     2102古賀由子
     2103赤坂
     2104臼井
 などと標記します。
 リンクを張るときは、この4桁の数字をキーにすれば、作品を一元管理できて作品の紛
 れを防ぐことが出来ると考えています。以上、思いつくままに   長岡曉生




「小柳さんより」 2009/12/25

 古賀さん
大変な作業をして戴き、有り難うございます。取り敢えず、新作品集について気づいたこ
とを、細かい点は除いて記します。 万理さんも、一緒に見て下さい。
●従来の作品集
・第11号の「事故」(田村さん)のリンク先が
 亮子さんの俳句へと、ずれた場所に繋がっています。
・古賀さんの2作品(岐路と沈み行く家第四回)で、作品にはいる
 とBGMが聞こえる仕掛けを見つけました。
 万理さんは、すでに気づいて居ましたか。
●著者別作品集
・3列表示される著者名の2・3列の間が、少し狭くなっています。
・著者名一覧と、個別著者名の2箇所に存在する「東内一明」は、正しくは「イマジン」
 とすべきです。
・大西さんの個別著者名は、他と同様に少し左に寄せないと
 直ぐに2行表示に成ってしまいます。
・良久子さんと亮子さんの姓は、冊子の表記に合わせてカタカナと した方が良いと思い
 ます。
・武藤さんと亮子さんの個人集で
 第21号の後だけ空白が大きくなっています。
・古賀さんの個別集で試みられている「前の画面に戻る」ボタンは 元の場所を記憶して
 いません。寧ろ、「作品集に戻る」と「作者一覧に戻る」との二つに分けて表示した方
 が解りやす いかも知れません。
・将来の課題として個人作品を一括して読み込み、その中を自由に検索できると合評の時
 に都合が良いと思います。
 (一太郎では、その気になれば出来ますが。)

●共通の問題
・緑色ゴチックの名称部分と
 その下の「このページでは過去に作成した・・・」の部分が 表示枠が縮まると、縦方
 向に極端に細長くなりますが その下の、表題欄または著者名欄と同じ幅の固定枠にし
 た方が 読者にとっては、見やすいと思います。以上です。   

10α編集部:2014/04/06(日) 13:30:50
本のある暮らし6
.
          本のある暮らし6??2011






「天声人語−箸使いについて」
 2011/1/8

2011.1.8の天声人語に箸使いについての興味ある記事が載っていた。
その中に、「喪の日記」を書いたロラン・バルトの日本文化にたいする記述である。
記事によれば「日本の箸の文化に欧米人は神秘をみるらしい。フランスの思想家ロラン・バルトは『箸をあやつる動作のなかに、配慮の行き渡った抑制がある』と言った。バルトはまた箸には母性や、鳥のくちばしの動作も見た」とある。
何気なくそのなかで生きている私達の文化も、外から見ると違った見え方があるから面白い。





銀座散歩
2011/3/6

朝9:30銀座マリオンにて「ツーリスト」という映画をみる。小さなバケツほどのポップ
コーンを食べながら。懐かしのヴェネチアが舞台。それなりにおもしろかった。ミステリ
ー仕立てだが、無限回廊などの筋を考えることに慣れると、自ずと映画の結末が判ってく
るような気がした。それがいいことなのか、興味が半減するのか今のところ自分にも判ら
ない。
映画の後教文館に立ち寄り、ヴィルヘルム・ゲナツィーノ著「そんな日の雨傘に」を購入。
¥2,000円。ついでにこの前読んでおもしろかったアイランド・ストーリーズの著者ウィ
リアム・トレヴァーのほかの本を調べてもらった。
  アフター・レイン         採流社     ¥2,800
  密会               新潮社     ¥1,900
  聖母の贈り物           国書刊行会   ¥2,400
  フェリシアの旅          角川書店    ¥ 705
  フールズ・オブ・フォーチュン   論創社     ¥1,942
  リッツホテルの天使達       ほおずき書籍 ??¥1,500
  同窓               オリオン社    ¥1,200




検診日
2011/4/21

糖代内科及び眼科の検診日
8:30〜14:00という長丁場だった。糖代内科はスムーズに済ませたが、眼科は患者
でごった返していた。

◆糖代内科の主治医である鈴木 亮医師の論文
糖尿病とインスリンの脳におけるコレステロール代謝への影響
2011年1月11日
鈴木 亮・C. Ronald Kahn
(米国Harvard Medical School,Joslin Diabetes Center)
email:鈴木 亮
Diabetes and insulin in regulation of brain cholesterol metabolism.
Ryo Suzuki, Kevin Lee, Enxuan Jing, Sudha B. Biddinger, Jeffrey G. McDonald, Tho
mas J. Montine, Suzanne Craft, C. Ronald Kahn
Cell Metabolism, 12, 567-579 (2010)

要 約
 脳は全身でもっともコレステロールの豊富な臓器であり,脳のコレステロールの大部分
は脳によって合成されている.筆者らは,インスリンの欠乏をともなう糖尿病マウスの視
床下部および大脳皮質において,コレステロールの合成を制御する転写因子SREBP2とその
下流遺伝子の発現が低下し,その結果,脳におけるコレステロール合成とシナプトソーム
膜のコレステロール含量が低下することを明らかにした.この変化にはニューロンとグリ
ア細胞の両者におけるインスリンの直接作用が寄与し,インスリンを糖尿病マウスの脳室
に投与すると視床下部におけるコレステロール合成経路の抑制が正常化した.初代培養ニ
ューロンにおいてSREBP2の発現を抑制するとシナプス形成のマーカーが減少し,マウスの
視床下部でSREBP2の発現を抑制すると摂食量と体重が増加した.以上の結果は,インスリ
ンおよび糖尿病が脳におけるコレステロールの代謝に影響することを示しており,糖尿病
やほかの疾患でみられる神経学的な機能不全や代謝異常の発症機序に関与している可能性
が考えられた.




「天国も死後の世界もない」
2011/5/18

面白い記事があった。   毎日新聞 2011.05.18
世界の雑記帳:「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言5月16日、
「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、
英紙ガーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない。天国とは闇を恐れる人
のおとぎ話にすぎない」とし、死後の世界があるとの考えを否定した。

人間の生が精神と肉体の両方で成り立っている以上、どちらが欠けても人間として自立し
て生きてはいけない。死は疑いのない肉体の死滅である以上精神や魂だけが生き続けるこ
とはない。だから天国や来世があるということは物理的に無理な考えだ。
ただ子孫に引き継がれた遺伝子の連綿とした情報があるかぎり、一度生を受けた人の痕跡
は残り、それを来世と言えないこともない。
また、アメリカの女優シャーリー・マクレーンは南米の霊的な経験をもとに「アウト・オ
ン・ア・リム」という本を書いた。その中に「たとえ肉体は死んでも、原子は死滅せずこ
の世界に残る。それがふたたび植物や動物に取り込まれて生命を造ることになる」という
輪廻転生の意味づけをしている。なるほどそういう理屈もあるのかと思った。




「アラン」を読んで
2011/5/31

アラン全集を読んでいたら、フランスの社会学者、哲学者、数学者で、「実証哲学講義」
などの著作があるオーギュスト・コントの人格についての考察を書いていた。コントの考
察そのものを私はまだ読んではいないが、それを併せて論じたアランの説明によると、気
質は生物学的であり、個性は社会学的であり、人格は道徳的なものである。
そこで、各項の順序が威厳の増大と照応していることに注意しながら、我々の系列につい
て考えてみよう。
気質は、性格のなかに形をとらなければ、動物的なものに過ぎない。そして、ほんのがん
ぜない子供では、ほとんど気質だけがあるにすぎない。性格とは考えられた気質であり、
気質以上のものである。自分自身について、現在あるいは未来のあるときに嫉妬深く、執
念深く、憂うつあるいは臆病であったり、あるいはそうなるに違いないと考えることは、
相当な努力を要するからだ。しかし人は個性にうちかち、性格にうちかって、それを克服
して人格まで高めなければなければならない。

この文が目にとまったのは、最近自分の言動を自分の心の中の「良心」に照らし合わせる
という行為について考えていたからだ。巷ではめっきり耳にしなくなったこの「良心」と
いう言葉は、「良心に恥じる」とか「良心に従う」などといった使い方をするのだがもう
一つはっきりしないところがあった。
ある説明によると、良心とは、自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らし
て、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのことである。
しかしどうもキリスト教の基本的な神との約束として十戒や、仏教にも在家信者が守るべ
き五戒といったもののように明確なものでなく、個人の育った環境や、生き様や、資質な
どが長い年月を通して得た規範というもので、それぞれの個人的差があるようでもある。
しかし確かに自己を表現する場合には、その言動を自分の「良心」に照らし合わせてみる
ものだ。私は自分の行動において、嫉妬や妬みや執念深さや臆病さなどといった負の感情
を抱いたとき、良心に照らし合わせて良心に恥じないような言動をすることに努力してい
る。

参照:モーゼの十戒
    わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
    自分のために、偶像をつくってはならない。
    主の御名をみだりに唱えてはならない。
    安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
    父と母を敬え。
    殺してはならない。
    姦淫してはならない。
    盗んではならない。
    隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
    隣人の家のものを欲しがってはならない。

   在家の五戒
    不殺生戒: 生き物を殺してはいけない。
    不偸盗戒: 他人のものを盗んではいけない。
    不邪淫戒: 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
    不妄語戒: うそをついてはいけない。
    不飲酒戒: 酒を飲んではいけない。




『反物質』の閉じ込め成功
2011/6/6

東京新聞 2011/6/6 に面白い記事が載っていた。
【ジュネーブ共同】欧州合同原子核研究所(CERN、ジュネーブ)は5日、宇宙や自然
界にほとんど存在せず、物質と出合うと消滅する「反物質」の一種を、実験装置の中に1
6分余りとなる千秒間閉じ込めることに成功したと発表した。
物質と反物質は宇宙誕生の大爆発ビッグバン直後は同じ量存在していたと仮定されている。
長時間の反物質閉じ込めによって、より精度の高い観察、実験が可能となり、なぜ宇
宙が物質だけでできているのかなど、宇宙の進化の謎解明に道が開かれたといえる。

この「反物資」をテーマにした小説が 、ダン・ブラウン著のサスペンス小説『天使と悪
魔』(ANGELS & DEMONS)である。これは『ダ・ヴィンチ・コード』とおなじく2009年ア
メリカ映画が公開された。欧州合同原子核研究所(CERN、ジュネーブ)もその映画を
見て、実際に存在することを知ったのである。
ともかく、宇宙には「暗黒物質(dark matter)」や「反物質(antimatter)」という、興
味を刺激する謎が一杯存在していて、飽きることがない。




遊びについて
2011/6/21

キメラ2号氏がヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』について書いてくれましたの
でもう少し話を進めてみましょう。 フランスの社会学者・哲学者・文芸評論家である
ロジェ・カイヨワはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて『遊びと人
間』を執筆しました。私もずっと昔買って読んで見ました。そこには遊びの形態を細かく
分析し、
〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉
〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉
〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉
〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉
の4種類に分類して考察しています。
しかしその中には言葉遊びは見えない。むしろ子供が体を使って遊ぶ運動に限られている
ようです。そこで言葉に纏わる遊びを調べて見ると
  ぎなた読み、ことわざパロディー、しりとり、たほいや、つみあげうた、倒語、
  どちらにしようかな、なぞかけ、もじり句、アナグラム、アンビグラム、ダズンズ
  ハナモゲラ、パングラム、マジカルバナナ、回文、たいこめ、空耳、見立て、
  語呂合わせ、山号寺号、折句、あいうえお作文、縦読み、早口言葉、駄洒落、
  地口入れ詞、無理問答、ルー語、ピッグ・ラテン、英語の言葉遊び
などがあり、どんなものか見当もつかない物もあります。(時間がある人は調べて見てく
ださい、ほとんどが解説されています)

ぎなた読み    :べんけいがな、ぎなたをもってさ、しころした。
          かねおくれた、のむ
ことわざパロディー:猿も筆の謝り。弘法も木から落ちる
倒語 :ミュージシャンが言葉を逆さにして使う一種の隠語

まあ、いろいろの遊び方がありますが、私達は日常知らず知らずのうちにいくらかは使っ
ているようです。
私は特にアナグラムや数字の語呂合わせが好きです。私のペンネーム「オール・ド・エレ
ガンス」もアナグラムの一種だし、電話番号の1210−7080も「人に言うなよ、○
○は七転八倒」などと数字をみればなんとが語呂を合わせたい誘惑に駆られます。
オキシモーラン言葉遊びは言葉の音や意味の曖昧さを逆手にとったもので、上記の遊びよ
りちょっと複雑なものが出来て、人様々な解釈を楽しめたらいいなと思います。




「文芸時評」
2011/9/28

朝日新聞 2011.09.28 「文芸時評」 斉藤美奈子
「夢まぼろし 大家の弛緩芸」
今月はベテランないし長老と呼ばれるであろう作家たちの弛緩ぶりが目立った。という扇
状的な書き出しで始まっている。その歯に衣を着せぬ批評はよほど書く人がその世界(文
芸界)に毒されていないか、真偽に厳しい見解を持つ人か、打たれ強い性格なのであろう。
その遡上に上がっている作家と作品は
筒井康隆 「小説に関する夢十一夜」
川崎徹  「最後の誉めるもの」
丸谷才一 「持ち重りする薔薇の花」
などである。私はまだそれらを読んでいないが、斉藤氏の掻い摘んだ筋や情景を読んで、
安直なやっつけ仕事みたいな感じ、閨房内の事細かな描写はしょせん男同士の猥談のレベ
ル、主要な筋を脱線してしまい収まりがつかない等々。大家にとってはそれなりの面白さ
を書くことは実に手慣れたものだろう。それもまた才能や芸の内なのであろうが、私はそ
んな小説にただ面白みを感じて満足しすることは避けたいという思いを持っている。もの
を創ることは過去の価値や思想を疑ってかかり、破壊しようとするエネルギーがなければ
新しいものを創り出せない、そういう意志・志向が大事であると思っている。概して功成
り名遂げた人は自分のスタイルを壊すことを怖がり、守りに入るようだ。
またそのスタイルでものを創れば、遊びの作品でも一応大家としての面目は立つのであろ
う。世間もまた好意的に見てくれるに違いない。だが本当の大家は何時までも新しい試み
をし、失う物を恐れないような気がする。斉藤美奈子の刺激的な文芸批評を読んでそう思
った。




「アラン−宿命(アラン著作集2)」
2011/10/1

「学ばざりしこそ口惜しき」これは怠け者の言いわけである。それなら勉強するがいい。
もう勉強しなくなれば、かつて勉強したことがあっても、それをたいしたことだと思わな
い。過去に期待をかけるのは、過去を嘆くこととまったく同様、愚かなことだ。できてし
まったことは、それを出発点することができればこれほど好都合なことはないし、それに
囚われるならば、これほどけしからぬことはない。




本探し
2011/10/23

神保町の本屋二軒ほど探し回ったが見つからなかったので、トーマス・トランストロンメ
ル『悲しみのゴンドラ』の本を「思潮社」にインターネット予約をした。重版するのでい
つ手にはいるかわからない。 定価2,520円、新装版・菊判上製・112頁
本郷から水道橋を通り神保町へ。途中昼食に桂庵でかつどんを食べた。書泉、三省堂に立
ち寄り、お茶の水橋を渡って帰る。約6千歩。




「無題」
2011/10/24

古賀 和彦 さま
 ご注文いただき、ありがとうございます。
 申し訳ございません。
 『悲しみのゴンドラ』只今、重版中でございます。
 11月上旬の出来上がり予定です。
 重版が出来次第、改めて発送の案内をさせていただきます。
 尚、発送前日までキャンセルはお受けできます。
          思潮社  営業部



「悲しみのゴンドラ」
2011/11/8

今日T.トランストロンメルの「悲しみのゴンドラ」が届いた。青い表紙の帯には「ノー
ベル文学賞受賞!」
詩にとらえられた言の葉は、まるで消えゆく緑のようだ。脳卒中で言葉を奪われたのち、
詩人は前後の深い沈黙をたたえる新しい色を染め上げた。そしてなによりもすならしい黒。
「ゴンドラは命を重く積み運ぶ、簡素で黒いそのかたち。」スエーデンから届いた贈り物
である。−−−−−堀江敏幸(朝日新聞1999.5.9)



11α編集部:2014/04/06(日) 15:05:01
詩 散 策 4 2011
.
             詩 散 策 4

               ?? ??2011






「人の像をした美しい青い地球を読んで」 2011/1/10

前編の〔皮膚が乾き〕〔氷嚢は甲斐なく〕〔臓器岩石〕〔地球爆発〕はすべてのものの破壊
を表しているようです。
中編の〔焼け跡から小さな青い塊が〕〔青い塊は弱い子かもしれない〕〔光の好きな連中〕
〔プリズム〕〔夜の女神ラートリ〕〔薮の中へ蛍〕〔裸だろう曇るだろう〕〔人参は胃の腑
でマグマと〕〔消化には〕は破壊された混沌の世界を表しているようです。
後編の〔糞は鉱物片〕〔きらめき汚物〕は混沌の中からの新しい芽生えを表しているよう
です。
すなわち、既成の概念や価値観を全部破壊し尽くした後、新しい思想、秩序が生まれそれ
を繰り返すという「ツァラトゥストラは語りき」「この人を見よ」のニーチェの永劫回帰
の思想をこの詩のなかに見ました。




「西脇順三郎−オキシモーランの会」
2011/6/3

朝日新聞 2011.6.3 に「詩を変えた西脇順三郎」という記事があった。言葉をつむいだ
のは現代詩の創始者とされる西脇順三郎のその生涯と作品がテレビ番組にまとめられた。
「エッジスペシャル 新しき美を求めて、詩人・西脇順三郎」というCS放送、18日夜9
時45分に再放送されるらしい。残念ながら私のTVではCSが映らない。
西脇順三郎の詩は読者にとって、その意味もつながりも情景すら定かに浮かばない、メタ
ファーの世界である。例えば「旅人かへらず」の詩は

旅人は侍てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考へよ人生の旅人/汝もまた岩間か
らしみ出た/水霊にすぎない/この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時にひからび
る/ああかけすが鳴いてやかましい/時々この水の中から/花をかざした幻影の人が出る
/永遠の生命を求めるは夢/流れ去る生命のせせらぎに/思ひを捨て遂に/永劫の断崖よ
り落ちて/消え失せんと望むはうつつ/さう言ふはこの幻影の河童/村や町へ水から出て
遊ぴに来る/浮雲の影に水草ののぴる頃

私はこの新聞記事を読んで「オキシモーランの会」の活動を再び活動する意欲が湧いてき
た。2007/11/26日の日記には「もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」
を作ろうと提案してきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合
によって新しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もい
くつか試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A列
は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列それぞれ
に乱数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番号をそれぞれ若
い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、「民主主義における
無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」などと判じ物のようなものが出来上が
った。」と書いてあった。

これが詩なのかどうか、その価値があるか判らないが言葉遊びとしては結構面白い。また
システマチックなことの好きな私としてはエクセルという感情抜きの乱数配列のなかに、
人間的な情感の言葉を紡ぐという遊びもまた魅力を感じている。「オキシモーラン」の運
動、果たして新しい遊びになるかどうかは、好奇心の豊かな人の数と情熱の度合いに頼る
ばかりだ。




「詩学」をよんで−1
2011/11/24

先日、北君から借りた西脇順三郎の「詩学」を今読んでいる。西脇といえば日本に於ける、
我々が目指す「オキシモーラン」のメタファの先達だと認識している。

西脇は「詩学は自然科学や社会人文科学とは根本的にその性質が違う。『詩』というもの
は科学の対象になるものとその性質が違うということである。
『詩』は純粋に想像された世界である。だから詩学というものもみな想像されたものであ
る。想像された超科学的なものを科学として解明が出来ない。それ自体矛盾である。」と
書いてある。
そしてさらに「『詩』という言葉にはそれ自体二つの違った意義が含まれている。内面的
な意味と外面的な意味に分けることが出来る。それで内面的な意味の時は、私は『ポエジ
ー』という名称を付けたい。それは詩の精神とか詩作を読んだときに感じた意識としての
情念である。
外面的な意味のときは私は『詩作』(詩の作品)という言葉を用いることにする。それは
一定の韻やリズムなどの形式の作品をいう。『詩学』という意味に私はポエジーというも
のは何であるかを学ぶという意味である。」とまずその本の序に書いている。




「詩学」をよんで−2
2011/11/25

さて、西脇順三郎の「詩学」の要点を表題ごとに纏めてみようと思う。そうすればきっと
私の頭の中でその課題に対する分析と理解が増すであろう。私はいままで感銘を受けた本、
たとえば最近ではマイケル・マンデルの「JUSTICE」やアラン全集などを自分なり
に纏めてみたことがある。その結果、一回の読書では半分も理解しないで読み飛ばしてい
ることがほとんどであることが判った。世で言う速読や、一月に50冊読んだという自慢
げな多読者に比して、私の読書は遅々としてはかが行かないので、そんなに知識量は期待
できない。その代わり一つのことを反芻して行くうちに、いままで難しかった学説や理論
や用語の意味が突然実感として理解出来る時がある。まさに理論が情念と一致する「悟り」
となるのである。






「詩学」をよんで−3
2011/12/9

3−偶然
「偶然」ということは神学とか宗教家の間で言う神の世界、絶対の世界、永遠の世界に対
立して有限の世界、自然の世界、人間の宿命の世界を「偶然」という。
ポエジーはボードレール的に考えれば、精神と肉体との対立の上に立っている。この見地
からすればポエジーは無限と有限との結合の上に立っている。精神を認めると同時に肉体
も認めなければならない。ポエジーは非常に肉体的でなければならないと同時に非常に精
神的でなければならない。ポエジーは「アイロニー」であり、矛盾である。

そういえば止揚という哲学用語があった。wikipediaによると、
ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二
様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した。つまり、古いも
のが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古い
ものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論
が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考
の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。
国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方と
は異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

ポエジーは「アイロニー」という意味は、現実の世界と絶対世界の対立、矛盾の狭間で苦
悩しながら遂には最も価値あるものに昇華されると言うことか。




「詩学」をよんで−4
2011/12/15

4−想像
ポエジイはいつも新しい関係を創作することによって人間の自然法則と現実をより深く感
じさせるという価値を持っている。すべての存在は関係的である。物質の原子でさえもプ
ラスとマイナスという方向の違った二つのエネルギーの結合から出来ている。

ピカソは「芸術というものは自然と違ったものだから、同じものになり得ない。芸術によ
ってわれわれは自然でないものの観念を表現するのだ」、また「私の場合は一つの作品は
破壊の合計である」ともいっている。
もちろん破壊されたことだけでも一つの新しい関係を結ぶことになるが、それだけではす
ぐれたポエジイではないだろう。その新しい関係が、なにかしら永遠という神秘的な意識
を象徴し、なにかしら哀愁を人間に感じさせなければ、それはすぐれたポエジイではない
と思う。
ポエジイが創作する思考は非現実(イレエール)ではあるが、そうした方法でなければ「永
遠」といったような神秘的意識やあの分析の出来ない哀愁という現実にふれることは出来
ない。ポエジイは感じることであって、理解するものではない。
詩作の目的は超自然または超現実の世界を創作することによってポエジイを人間に感じさ
せることである。

私の場合はこの超現実的創作に従えば、単に自然を写実するだけの具象画に興味を見いだ
せない自分がある。すなわち現代日本画や細密の写実画などの見られる、ただ物体の再現
を目指すもののなかに「アイロニー」や「シュール」さや「現実でない神秘的意識」「哀
愁」といったポエジイを表現していないとみえるからだ。
われわれが目指すオキシモーランの目的は、「現実の世界」と「想念の世界」の鬩ぎ合い
のなかで、理性では感じられない情感を表現することにあると思った。




「網膜症(糖尿病黄斑症)回復手術入院」
2011/12/26

網膜症(糖尿病黄斑症)回復手術入院    2011.12.19〜12.26
第1日−−−*
第2日−−−* (*割愛 編集部)
第3日〜第6日
後は静かに寝ているだけの生活で、「詩学」と「悲しみのゴンドラ」と「アラン全集」を
読み、ちょっと仕事をして事務所に図面を送る。入院中の仕事のために息子よりラップト
ップパソコンのMacBook Airを貰う。無線ランは借りる。
“グレープ”のアルバム「わすれもの」に収録された曲が見つかった。

   蛍茶屋から 鳴滝までは 中川抜けてく川端柳
   他人の心を 胡麻化す様に 七つおたくさ あじさい花は
   おらんださんの 置き忘れ
   思案橋から眼鏡橋 今日は寺町 廻ってゆこうか
   それとも中通りを抜けてゆこうか
   雨が降るから久し振り 賑橋からのぞいてみようか

 この詩はまさに私が路面電車の終点の「蛍茶屋」の古い屋敷の二階に間借りしてい
た頃の情景そのもので懐かしい。
 また、 アジサイは毒性があり、ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状
は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。
釈迦の誕生を祝う行事の花祭り(4月8日)に飲む甘茶(あまちゃ)は、ユキノシタ科の落
葉低木ガクアジサイの変種であるアマチャ(学名:Hydrangea macrophyllavar.thunbergii)。
また、その若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。およびそれを煎じて作った飲料、だが
全く紫陽花の葉とそっくりであるから用心しなければならない。



12α編集部:2014/04/06(日) 16:59:32
オキシモーラン1 2002-2008
.
       オキシモーラン1 2002-2008





 「Oxymoron」オキシモーラン(オキシモロン)はあまり聞き慣れない言葉だ。
英和辞書には「撞着語法」と短く書いてある。
撞着、矛盾だから、矛盾した言葉を結合させる語法のようだ。
「語法」とあるからには、この矛盾したものどうしの結合から新たな世界を創るとい
うひとつの試み、方法なのだろう。
 オキシモーラン活動を地道にしてきた神野氏の作品を思い浮かべる、その神野氏を
師と仰ぐ赤松氏の作品を思い浮かべる、確かにどこかその匂いがする。極めて論理的
な人が、矛盾する言葉を並べて遊ぼう、試そうとするところがまた興味深い。

 二人が直接的にこの言葉を説明したに記事はないかと探してみたところ、神野氏が
ほんの少しだけ触れていた。
 ……………………………………………………………………………………………………
 『言葉集め星造り』も着想は二十代です。これは、言葉が、単語から句、文、
??話へ大きくなるのを、宇宙の膨張になぞらえたものです。こちらでは、れいの
「オキシモーラン 0xymoron」、言い換えると、俳句用語で言う「取り合わせ」
??や「二者合体」を楽しみつつ、言葉の全相に迫ろうと試みたものです。
 ……………………………………………………………………………………………………
とある。なるほど、なるほど。         (編集部)





パラドックス 2002/11/12??落書き帳

戦争について考えるに、人はなぜ平和を得るため武器を持って戦うのでしょうか?
武器のない争いのない平穏な生活を望むために、人を脅かす戦争という手段を用いることに矛
盾を感じないのでしょうか?これは平和のために戦争をというパラドックスの罠には填ってい
ます。

また、人はすべて他の生き物を殺し、食すことでしか生命の維持が出来ないことは実に罪深い
ことではないでしょうか。これはまたパラドックスの極地であり、宗教でいう「原罪」はここ
に行き着く想いではないでしょうか?

このような矛盾の中でしか生存できない私達生き物であるならば、それでも「生きる」という
名分を見つけなければならないのですが、私にはまだ解答が得られないのです。




暇と金の関係  2003/2/9  落書き帳

暇があれば金がない、または金はあるが使う暇がないと世間ではいいますが、そりゃー両方あ
るにこしたことはありません。しかしこの世情では片方でもあればめっけものと考えて楽しん
だが得でしょう。

私なんざー、自慢じゃないが今も昔も両方とも縁がない人生でごさいます。
最近やっと疫病神と貧乏神に三下り半をしたためて、引導を渡そうかと密かに目論んでいる次
第。その前に力つきてくたばるやも知れませんが・・・。




速さがとりえ ??2003/2/4??落書き帳

blackmail:恐喝する,ゆする
blackout:停電,記憶[意識,視覚]喪失

「計三個の問題です」とありますが、もうひとつは何でしょう。
作者がとつぜんblackout(記憶喪失)したか?質問の意味を解さない私がblackout(停電)
したか?

あとで読み返してみたら、「ランゲルハンス島の住人」が「ランゲルハウス」になっていた。
やはり、私の脳のほうに問題があることを発見した。




I氏へ   2003/2/4

ずっと昔、読書家のI氏から最先端科学の「複雑系」の話を聞いた覚えがありました。そのと
きはたいした興味を覚えなかったが、最近「量子力学」・「超ひも理論」などをへて「複雑系」
の本を読みました。

ところで、「nさんへ」の投稿をみると堅物ばっかりと思っていたI氏もそのようなユーモア
の持ち主であることが判って嬉しいですね。

小生も自分ではよく出来たと思うのですが、そのようなダジャレを息子から「親父ギャグ」と
白い目で一笑にふされ続けています。しかし、「親父ギャグ」は江戸時代よりつづくダジャレ
を継承していて言葉遊びの一つの文化でしょう。同音異義や何かに見立てる掛詞などを瞬時に
組み立てて表現することは並の業ではありません。

話はかわって、異風者氏は「読書会」ば自分と違う傾向の本をテーマにしているとこのHPに
書いておられたが、それは違います。参加した人が次の本を決める訳ですから、漫画・エロ・
科学・哲学・神学等、そのジャンルは問いません。

そう言うわけで、是非「読書会」に参加されて、私共を「構造改革とロジステック方程式」や
「零式艦上戦闘機」の迷宮へ誘って欲しいと思います。




さすが教授! 2003/12/19?? 落書き帳

さすが教授、比較文化はいよいよ佳境にはいりましたね。なかなか面白い。
「古事記」上巻神武天皇の巻に「大便之溝涼下」あるように、古来の日本は厠といって川の上
につくり、そのままポトンと流していたそうな。雷(いかずち)の神の母親は厠で糞闘中、川
を流れ下って来たさる男性の神様にレイプされて妊娠し、雷(いかずち)の神を生むときその
熱さに「御陰(みほと)焼かえて失せにけり」だったとか。比較文化これからも楽しみにして
います。




アクセス20000?? 2003/12/25?? 落書き帳

遂に20000番目のアクセスに成功。朝から狙っていたかいがありました。
楠葉さん、骨折したとはお気の毒に。徒然草第八九段の「猫また」に襲われての災難ではあり
ませんか。吉田兼好は現代に立派に通用する実に合理的な考えの持ち主のだと小生は思いまし
た。




K・Mさん導管です
2004/6/3  落書き帳

K・M生さんの「黄泉売」批判に同感します。哄笑六百漫部という毒者数日本一を驕りにした死体
砲台の厚意は、えがわ・くわた嚇匿の暗躍問題に始まって、殺束でひっぱたいて一竜選手を収拾
し、業界のルールを蹂躙した罪はおおきい。

同じく、国連決議も虫視し耐儀もないまま、駄々子のようにイラクに剣禍を噴きかけたアメリカの
凋落をそのとき核心しましたね。マケドニアやローマ、スペイン、大英帝国といいそんなに繁栄は
未来永劫と続かなかったように・・・。




解読に閉口しましたか? 2003/6/4??????落書き帳

当て字について叱られてしまった・・・ハハハー。
(ここは好きだった枝雀の照れ笑いを思い出してください)

たまにはジェームス・ジョイスの「フィネガンス・ウエイク」の筆法もよかろうと考えました
が、底が浅かったようで・・・ハハハ。




応援ありがと 2004/6/5?? 落書き帳

当て字文をK・M生さんから賛同をえて安心しました。時の権力者に対する批判や社会の風潮
に対する風刺やあざけりの意をふくんだ匿名の文書を人目に触れやすい場所に落とし人に拾わ
せたり、相手の家の門壁などにはりつけたものがあり、平安時代からみられたもので詩歌形式
のものを落首(らくしゅ)といいました。この落書き帳も少なからず、見事な言い換えや掛詞
などで庶民の気持ちを代弁する精神を受け継いだものだと私は勝手に解釈しています。そうい
う訳でおおいに世相を風刺し、笑いとばしましょう。

昔こういう文をつくりましたが残念ながらホームページではルビが使えず、解読に難しさがみ
られます。
あえて( )書きのふりがなを付ければいささか間が抜けていてしまりがないのが残念です。

重苦念男起(じゅくねんおとこたち)のバードウオッテイング泡酷暑(ほうこくしょ)

                         壱千九百九拾九.?.弐拾七
                         ランゲルハンス島の住人 記


K.M君、M.O君、M・K君そしてしんがりに控えし将星(しょうせい)、もっと精強(せ
いきょう)かと奇態(きたい)したのだが、たった4人の盗見会(とりみかい)でありました。
“霧理(ぎり)と刃傷(にんじょう)を大拙(たいせつ)に”をモットーとして夜渡(よわた
り)りしていると思しき者のみ討ち揃い、暗き孔より除見(のぞきみ)たる爺蔦(やちょう)
の数々。革兎(かわう)、白詐欺(しらさぎ)、阿保詐偽(あおさぎ)、大蛮(おおばん)、
怪粒梨(かいつぶり)、さて最期に磯市議(いそしぎ)の搭乗(とうじよう)。はたと思いう
かべしは、襟座辺数(えりざべす)・手柄裸(てーらー)と痢茶℃(りちゃーど)・罵豚(ば
ーとん)、稚野留守(ちゃーるす)・風呂運損(ぶろんそん)のお撒けつき、吸什然(すうじ
ゅうねん)まえの死値馬(しねま)の輪題(わだい)に観劇(かんげき)し輪飲(わいん)
2罠(ふたびん)をたいらげて迷亭し、絵殿(えでんの)の乾菓子(ひがし)の沙里茄子(さ
りなす)か磯市議(いそしぎ)の門テレ(もんてれー)を彷徨したれば夢心地の壱日ではあり
ました。

ベルギー在住の方には難しかったかな・・・それともくだらなかったか。
正確な日本語を思い出そうという努力を台無しにしたかも・・・。




開けられたパンドラの箱 2004/6/9??????落書き帳

ダグウッド・ブッシュに「パンドラの箱」を与えたのは誰だ?勿論アメリカ国民の過半数によ
ってね。

彼は禁断のその箱を皆が「止せ」という忠告も聞かず開けてしまった。ゼウスによって封じこ
まれたこの世のすべての悪と災難がいま世界に充満しようとしている。貪欲・中傷・虚栄・疑
心暗鬼・飢餓・破壊・・・。

いまはブロンディにダグウッドの乱暴を止めるよう頼むほかないか・・・この空想と現実がご
ちゃ混ぜになってしまった悪夢もそのせいか?

混沌の世の中、それでもなお「パンドラの箱」の底に最後に残った「希望」が人類を救うこと
を願いたい。




光電盤も賑やかになりました 2004/ 6/10????落書き帳

この光電盤も海外からそして兎小屋の屋根裏書斎からと、いろいろの職歴、いろいろの思想の
持った人方々が自由に自分の意見を発信し、実に多彩で賑やかになりました。二年前には想像
もつかない発展ぶりです。そのうちいっぱい飲みながら覆面懇談会でも開催しませんか?

K・M生さん ランゲルハンス島には全ての人の細胞もすでに住んでいることを報告します。
なお私は下記のごとく人間の腑臓の中枢に住む天邪鬼であります。

すいぞう(‥ザウ)【膵臓】・【ランゲルハンス島】
胃の後下部に位置し、消化腺と内分泌腺とが合一した臓器。人では長さ一五センチメートルぐ
らいの細長い木の葉状をなす。消化酵素を含む膵液を膵管によって十二指腸に分泌する。
内分泌機能としてはランゲルハンス島から血液中にインシュリン・グリカゴンなどを分泌する。
ランゲルハンス島の名はランゲルハンス(Langerhans)という ドイツの病理学者の名から
とってつけられた器官であります。




やめてえー候。  2004/11/3????????落書き帳
笑声も輪大の「客死剣・オニの瓜」を奇態して診る心算でありますが、かっちゃん!!
あまり商才な回折は困りまする。最期の愉しみに撮って奥いた叛忍を細書に夢夜矢離報された
ようで京見が半間致すは必定・・・。
憎まれ愚痴のついでに、この欄の投降も十行くらいに納めるという諦闇を死体がいかが?
磯がしい時は投降文があまりの永さだと半分も詠まない人も大飯ともおもうよ・・・。









*「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」 2007/11/26 旧α掲示板 *同人α13号

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案し
 てきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新
 しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつ
 か試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A
 列は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列
 それぞれに乱数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番
 号をそれぞれ若い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、
 「民主主義における無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」など と判
 じ物のようなものが出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろ
 う。そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎ
 にぎしく騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり
 始める。傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じな
 がら想像も付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉
 同志のミスマッチによるおもしろさをかみしめる。
◆ それにしても現在はアバンギャルドというかアナーキーな前衛芸術というか、す
 っかり影を潜めてしまっている。これは既成概念に支配されて満足しているだけの
 活力のない社会になってしまったようで、学園にもイデオロギーに被れた若い学生
 達咆哮もなく、北島君の担当した「同人α」第3号の表題である「狂気」をも持ち
 得ない人達ばかりになってしまったのか。などと世間にたいして斜に構えながら肉
 体的には衰えても精神的には老成したくはないそとばかりに勇みこんでいる。
 しかし、だから、そして、これでは「パラレル宇宙」の評になってはいないな。
 北君ごめんなさい。




*「シリーズ・歪んだ風景−異星人」の合評のお礼 2007/12/9??旧α掲示板 *同人α13号

私への合評のお礼が北島氏論のまっただ中に割り込むという間の悪い行為で申し訳あ
りません。私の行動はいつも人の歩調に合わない・合わせない「ずれずれくさ」のて
いたらくであります。

◆ 「知の論理」という本の中で<欲すること>と<知ること>のあいだのある決定
 的な断絶について論じた文がありました。その中に吉田戦車の「伝染るんです」と
 いうマンガについて「圧倒的なナンセンスの氾濫のなかでも、ほとんど傑作とよび
 たいくらいのぷっつんぶりで、そのユニークさや不気味さを気味悪いくらい鮮やか
 にさししめしている」とあります。その四コマ漫画に出てくる少年は、事故かなに
 かで脳を傷つけたらしいと思わせるような、頭に血が滲んでいる包帯を巻いていて、
 彼の発する言葉は話し相手にはどうしても理解できないもので、そのずれは分裂症
 の患者の発する言語に似ているようです。私はそのような不思議な論理でコンタク
 トをとろうとする思考の根拠と言葉による意思の疎通の可能と不可能についてこれ
 からも知りたいと思っています。
◆ 慣れない人にとっては苦痛を伴うような読みづらい「異星人」の合評ありがとう
 ございました。私はこれまでなんとか美しい言葉での表現や理論的な整合性を大切
 にして自分の思いを伝えたいと努力し、いかに表現すれば共感を得られるか、ああ
 でもないこうでもないと試行錯誤しながら必死で探し求めてきました。しかし今は
 自分と読者が同じ感覚での理解と共感を100%一致させることは、本質的にあり得
 ないことだと悟りました。同じような環境、同じような経験と思われる中でも、そ
 の人その人の過去の経験や考え方で少しずつずれを生じた解釈をしているに違いあ
 りません。すくなからず一般的な付き合い程度の事柄は、いわゆる同床異夢である
 ことを感じない程度の深さの付き合いにおいてはたいした破綻を来さないで過ごし
 ているのが殆どのことでありましょう。どうせ100%の共感がなくても世の中はな
 んの支障もなく回っているのであるならば、さてそこで、だから、そのことを踏ま
 えて、一度言葉のシステムといいますか、何となくなれ合っている表現や字面や意
 味をめちゃめちゃにした、一種のルール無視を敢えてすればなにが破壊され、何が
 新しい価値を持って生まれてくるだろうかと思った次第です。これはまさしく手法
 は違っていても、神野佐嘉江氏と同じ世界をめざしているよう私には感じます。今
 回の試みで、80%程度の理解は期待できなくても、10%の共感をえられたであり
 ましょうか、

◆ そう言うわけで記号化した言葉の異質な組み合わせの妙を楽しむために、神野佐
 嘉江氏による造語「オキシモーラン」の運動を発展させて言葉による遊びのシステ
 ムを創ろうと思っています。そして一つの方法を完成させるべくいま思考中であり
 ますので、ご期待ください。




「オキシモーラン」言葉遊び1  2007/12/12 旧α掲示板

まず何を創るか、なにから始めるか、どのように進めるか。どのように発展するか、
どのような効果が期待できるかはいまのところ全く未知である。それは詰まらぬもの
か、予想外に面白いものかやってみないと判らない。
今の考えでは俳句や和歌の形式とし、文節に分解し記号化したものをエクセルの列と
して集め、A列に名詞を、B列に形容詞や副詞をC列に動詞や述語をといった方法で
記録する。
最後に仕上げとしてそれぞれの列で乱数を発生させてそれをソートし、若い数の順に
並び替える。全く関連性のない各文節で出来上がった句なり和歌の新しい文が表現す
る面白味、諧謔、隠喩、比喩等の新しい解釈が出来ることを期待しよう。

(案)
◆ 賛同者を募り表現方法、活動方針などを検討する
◆ エクセルの列に言葉を集める。
 1.名詞
   a.イデオロギー
    b.場所
    c.人物
    d.本の名前
 2.形容詞
 3.副詞
 4.動詞





「オキシモーラン言葉遊び」2 2007/12/22  旧α掲示板

先日より「オキシモーラン言葉遊び」のEXCELを利用したシステムを作る算段で、
いろいろと長岡氏の知恵を借りた。関数についての何回かのやりとりで一応使えるシ
ステムが立ち上がる目途がたった。

◆ 長岡 様
 なかなか忙しくご無沙汰しています。
 ところで、オキシモーラン言葉遊びのソフトを作るためにエクセルの関数を使用し
 ていますが、もしご存じでしたらご教示ください。
 添付したエクセルのA、C、E、G、I列の数値を乱数を発生させる関数を使って
 いますが、若い数字順にソートするために、その数字を固定しなければなりません。
 そのためにはRAND()*1000のあとにCtrl+F9を押す必要がありますが、
 連続で固定する方法が分かりません。もしご存じであれば教えてください。
 それから、O−chanが23日の忘年会への出欠の回答が無いと悩んでいました
 が、いかがでしょう。返事して上げてください。今年最後の会合を楽しみにしてい
 ます。
 その前に「肥と筑」の合評という難関をクリアーしなければなりませんが。
◆ EXCEL RAND() をキーワードにして
 グーグルのオプション検索で得た結果を添付します。この方法を応用すれば、多分、
 問題は解決できると思います。但し、50個/列の5列全てに関数を入れて行くの
 はそれなりに大変だとは思いますが。
◆ 毎回、各列の単語それぞれの順位(例えば、1位〜50位)が、必要なのでしょ
 うもしそうではなく、各列の50個の中から一つ選ぶだけで良いのならば、例えば
 RANDBETWEEN(1,50)を各列で求めてやれば、ずっと簡単に、求める回答が得
 られると思うのですが。
◆ 例題に対して、RANK関数を応用したEXCEL解とその毎回変わる結果を、TAB
 区切りのTEXTとして固定したものを添付します。どうやら、この方法を使うこ
 とが出来そうですね。
◆ 私が、ずっと誤解をしていたようです。要するにある時点で、[f 9]キーを押
 した乱数生成の結果を保持しA, C, E, G, I 列の数値ごとに、2列ずつソートす
 るわけですね。
 次の手順が使えます。(例:test-2.xls)
   1)乱数生成で得られたEXCEL表の第一行(題名行)を削除する。
     (題名行があると、手順4)のソートの際に文句を言ってきます。)
   2)TEXTファイル(TAB区切り)として書き込む。
     (この時、関数機能は削除されるのでデータは全て固定されます。)
   3)今書き込んだTEXTファイルを、EXCELで読み出す。
   4)A, C, E, G, I 列の数値に基づき、2列ずつソートする。
     これは、データ(D)の並べ替え(S)で可能です。
◆ 貴方より頂いたRANK(A2,$A$2:$A$100) 関数は使えますね。
  A列にRAND()*1000で3桁の乱数を発生させ
  B列にRANK(A2,$A$2:$A$100)で序列化をし
  C列に「形式を選択をして貼り付ける」を開き「値」にチェックを入れて、B列
  の「値」をC列に貼り付けると固定された数値がコピーできました。
  ctr+F9を押すという考えに固執していましたが、よく考えると実に単純でした。
  いろいろお騒がせしましたが、これでシステムの目途がつきました。ありがとう
  ございます。しかしもっといいアイデアがあるかも知れませんので、これからも
  よろしく・・・。




「ナンセンス文学」 2008/1/3  窓辺にて

◆「人体の態度、姿態、運動は、この人体が、一つの単なるメカニックであると我々
 に思わせることに性格に比例して滑稽である」−ベルグゾン
◆自然とメカニックなるものとの対立を発見して、これを意識的に己に、或は文学上
 に再現することは、明らかに人間高度の理智の機能である。感傷の国日本に「ナン
 センス文学」の貧弱な所以も個々にある−小林秀雄全集第一巻P160
◆「オキシモーラン言葉遊び」は言葉をメカニックに分解・再生するナンセンス文学
 に成り得るか?




「北君へメール」  2008/4/28

今日から北君の合評期間になる由を伝える。それに伴いブログ用の写真をみつくろっ
て郵送してくれるように依頼した。そのときの話で
◆北君が独自のブログを開設して、いままでの作品集をつくり同人αのホームページ
 とリンクすれば、皆さんに読んでもらえるのではないかと提案した。
◆北君より二冊の本について紹介された。
 * バロ−著:無限のはなし
 * 文藝春秋今月号:茂木健一郎の「オキシモーラン」について



13α編集部:2014/04/06(日) 17:38:15
原発 3.11以前
.
            原発 3.11以前

               ??   2007-2009





プルサーマルのCM
2007/3/3

経済産業省始原エネルギー庁の、「もったいないの母国だからこそ、『プルサーマル』で
リサイクル。という新聞広告が載っていた。
  ・日本のエネルギー自給率は、わずか4%。
  ・電力の1/3をまかなう原子力発電の燃料・ウランも輸入資源です。
  ・プルサーマルで、限りあるウランの有効活用が図られます。
  ・プルサーマルは、海外で40年以上の実績があります。
  ・国内の実証試験でも、良好な結果が確認されました。
  ・国が厳正な審査・チェックを行います。
などと、地球温暖化や自給率などの危機感を煽って、原子力発電を止むなく選択せざるを
得ないような論調である。
他国はプルトニュームを使用する原発を減らしていく傾向にあることも論じていないし、
十分審査・チェックするから安心といっているが、これだけ事故を起こししかもそれを隠
蔽している現実をみれば、単純に認めるわけにはいかない。

「日本の天然林を救う全国連呼びかけ人」のC・W・ニコル氏の「伐採をやめ環境省に移
換を」という記事が載っていた。
林野庁は無駄な天然林伐採をやめ、管理を環境省に移管せよとの主張である。




プルサーマルの問題
2009/10/1

 随分昔、日本へ原発が導入された頃、私は本で「メルトダウン」とか「チャイナ・シン
ドローム」という言葉に興味を抱いたきっかけは、アメリカのスリーマイル島の原発事故
からであった。その事故が起きる前は、日本の原発は安全基準がしっかりしているから全
く心配ないと説明されていたがその後続々と事故を起こし、その厳しいと言われた基準そ
のものが曖昧なものだったことが判明した。
 今回のプルサーマルの原発はプルトニウムを多く含むもので、その化合物は人体にとっ
て非常に有害である。プルトニウムはアルファ線を放出するため、体内に蓄積されると強
い発癌性を持つといわれている。またいちどメルトダウンや水蒸気爆発をおこした場合は、
広大な範囲に飛び散り住環境に多大な影響を及ぼしかねない。ましてやプルトニウムの半
減期は約2万4000年であり、無害になるためにはとてつもない時間を必要とする。
昨年の洞爺湖サミットで地球温暖化ガスを減らすためには、原発も必要だという共同声明
が出たのには驚いた。
 いずれにしても人類に多大な影響を与えかねないものに対しては、例え暮らしの便利さ
が停滞したとしても、十分新調でなければならないと思った。だから私は明日の 佐賀で
プルサーマル使用に反対している牟田さん達グループが今回民主党に再検討を訴えるため
の参議院会議室へ出向こうと思う。




STOP プルサーマル運動
2009/10/3

 九州電力玄海原発3号機(佐賀県玄海町)で始まるプルサーマルをめぐり、ウランとプ
ルトニウムの混合酸化物(MOX)燃料を原子炉に装てんする作業を3日から行うと唐突
に発表した(9月30日)ことを問題とした質疑の会議に出席した。同期では佐賀から牟
田さん、東京から北島君、田村さんと私三人が参議院会館の会議室にはせ参じた。
 話の内容は既存の原発を廃止しろという極端な話ではない。人体にとって非常に危険な
プルトニュームを多く含むMOXという燃料を使用した発電をすすめるプルサーマという
政策の実施は時期尚早であるから、慎重に検討すべきだという住民の意向である。
しかし、出席した小難しい二つの担当部署役所の官僚とのやり取りのなかで見えてきたも
のがある。
 一つはこのプルサーマルを進めるためのタイムテーブルが、国策という名のももとに真
剣な検証もなされていない。検証がなされたかも知れないが、詳しいデータはないの一点
張りで僅か三枚の書類しかないような、まさしく机上のプランだったことが判明した本当
のところ詳しい資料が地下の倉庫に隠してあるかも知れないのだが・・・。
 二つ目はその燃料を再生するための高速増殖炉もんじゅが、ナトリウム漏洩火災事故の
後まだ再稼動のめどが立たず、そのタイムテーブルから大幅におくれているということ、
またMOXの廃棄物の処理方法や廃棄場所も確定していないということ。それでもプルサ
ーマルの発電のみを推し進める政府の意向が異常であるように思えた。
 三つ目は官僚の体質が国民のためと言うよりも、一度策定された者に対しては何が何で
も守ろうとする体質で、そこには世論が代わろうとも決して国民の側を向いていないこと
である。それは丁度八ッ場ダムや川辺ダムと同じことである。五〇年近くも成就しない政
策は、そこにどうしても進めなければならないという強い理由がもともとなかったからだ。

 以上の見聞により、はなはだ個人的な意見であるが、これまでの「能吏」といわれた官
僚の体質の変革を求めるとともに、地下の倉庫に忘れ去られた詳しい資料も太陽の下に晒
すという情報公開を民主党には徹底的に推し進めてもらいたい。そうすれば官僚の体質も
「公僕」という理念を思い出すだろう。



14α編集部:2014/04/06(日) 19:12:04
原発 原発 3.11以降
.

           原発 3.11以降

                  2011-2012



[東日本大震災:2011年(平成23年) 3月11日(金)14時46分18.1秒発生]

◆何と言っても不思議なのが、地震が起きる数時間前に、著者が「原発のクリーンさ大い
に疑問」という題の投稿を入れたことだ。予感でもあったのだろうか。
◆丁度この一年前、同人α内で大きな分裂騒ぎがあった。2010.3.11朝、αの推進力の一
人だった著者が「オブジェクション最終回」を出した。続いて対立するもう一人の創立に
関わった人から「ホームページは自分のものだ」という書き込みがあったのだ。地震一年
前の騒動は地震の予兆だったのだろうかなどとつい考えたくなる。
◆奇しくもこの日は、高校同期の「横須賀軍港巡り」が催された日でもあった。
◆地震の時は、同人α27号の合評中であったが、これに続く同人が選んだテーマは「こ
んとん」「震災列島」「兆」である。 冊子にも大きく影響したようだ。
震災や原発に触れた評も多く見られた。  (編集部)




戯評−原発のクリーンさ大いに疑問
2011/3/11(金)10時05分53秒

朝日新聞の投書欄に「原発のクリーンさ大いに疑問」という題で、原発をクリーンエネ
ルギーと位置づける昨今の風潮には違和感を覚えるという投稿があった。たしかにテレビ
で電気事業連合会による「原子力発電は、世界中で約50年前から行われている発電方式で
す。その特徴は、発電段階においてCO2を全く排出せずに大量の電力を安定して供給する
ことができること、また、使い終わった燃料を再処理することにより再利用できることか
ら、エネルギー資源小国・日本における発電方法として重要視されています。
反面、放射線の慎重な管理が必要で、そのための対策が何重にもなされています。」など
と言ったことをTVで宣伝していますが、必ずしもそういいことばかりだけとは言えない。

 ウランを燃料化する過程でCO2を排出するし、燃料として使用するプルトニウムの毒性
は既知の毒物の中でも最悪レベルで「角砂糖5個分で日本が全滅」するという指摘がある。
そしてまたその廃棄物を深い海の底や、地底に封じ込めるにしても、その毒性の強いプル
トニウム240の半減期は6564年である。 その間にどのような地殻変動が起きて、生物に
影響を与える状態になるか予測できないのである。
 確かに石炭や石油といった化石燃料を今まで燃やしてCO2を排出してきた結果、地球的
環境変化の問題が生じ現在至っている歴史があるにしても、 核燃料による危険や負担を
これ以上未来に先送りすることは許されない。しかもその核燃料の廃棄物処理にようする
とてつもない費用は、今の電気事業の経費には含まれていないのである。

 私は核利用そのた諸々の純粋な科学的な研究のすべてに反対するものではない。しかし
「原子力発電はCO2を排出しないクリーンエネルギー」といった、一方的な報じ方にたい
して「はたして良いことばかりか」と問い直す必要があるといいたい。 これに反対する
意見も含めて、すべからくすべての情報は信じる前にもう一度検証した方がいいと感じた。




平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震
2011/3/13
       

横須賀軍港巡りのクルージングの参加で出かけてきたが、15:30出発の船に乗る寸前に
「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」M9.0の巨大地震が発生した。その遊覧船
は前の客を降ろすまもなく沖に逃げ去っていったので、このイベントは中止になった。
私は我が家に変えるべく皆と別れて京急の「横須賀中央」駅へ行った。しかし運行停止。
この寒空に小一時間ばかり待っても電車は走らない。さあどうしたものか・・・。

同じ釜の飯を食べたみなさん。確かにそれが美味かったかつらかったかは人それぞれのも
のでしたでしょうが、一晃さんの言のようにまさしく貴重な体験に違いありません。そし
て今回私にとってはいくつか得るところがありました。
一つは何十時間も歩いて帰ることがはたして理にかなったものであるか、闇雲にか判断す
ることなく熟慮してじっと動かないでエネルギーの消耗を押さえよい機会を待つのがこが
得策なのではなかということ。
二つ目は、次の日電車で品川まではスムーズに着きましたが、その先は電車が全く動いて
いません。そのとき老いも若きも感情的にならずに長時間静かに耐えている姿を見て、ま
だ日本は捨てたものではない、秩序を保てるこの国の将来はまだ大丈夫と感じました。
被災者はこれから大変でしょうが、古来よりこのようなことは幾度も経験してきて、その
たびに不死鳥のごとく克服、再生してきたからの現在の繁栄でありますから、きっと近い
うちに立ち直ると信じています。

最後に寒い「横須賀中央」駅で不安のなかで待っている私を捜しに来てくれた友情に感謝
します。また最終的にはヶ恵義君とも再会できて、なんだか運命共同体のような気がして
きました。
       





最近のニュースで気になること
2011/3/15

1.福島原発で露呈したもの
これだけ最先端の科学と技術の粋を集めた施設なのに、その運転・制御に関して幾重に
 もいたる安全装置が、かくも次々と不具合を起こすとは信じがたい。この施設の精密さ
 と雑さの落差は何であろうか。企画者はその程度の想像力しか無かったのだろうか。こ
 のような稚拙な思想を見せつけられると、今までの隠されただろう数々の不具合を思い、
 原発の国家プロジェクトとしてそう単純には肯定できなくなる。

2.首都圏での食料品、水、ガソリン等の買い占め
昨日買い物にいったスーパーには米、パン、牛乳、飲料水も無くなっていた。それは被
 災地に優先的に回されたから品薄になったのだと思っていた。
そういえばカートに山盛りにつんで買っていく人がいたのをたくさん見た。私達はいつ
 も考えが甘く、石油ショックのときもトイレット・ペーパーや洗剤なども買いそびれて
 しまったことがある。今回も被災地でもないのでそこまで考えが及ばなかったが、それ
 にしても変に目端が利くというか、はしこい人がいて自分さえよければというセコイ考
 えの故だろう。もちろん自己防衛的な本能だからある程度はやむを得ないこともあると
 思うが、必要以上の量を自分だけ確保するという、互助精神に欠けた根性がさもしいか
 ぎりである。日本のほとんどの地方や人たちが災害にあった訳ではないから、その人達
 はもっと冷静に行動すべきであると思った。数日前に冷静に電車を待つ人々に困難に立
 ち向かう冷静さを見て心強く感じた後だけに残念である。




イカロスの羽根
2011/3/18

今度の原発事故を見るとギリシャ神話のイカロスを思う。
ダイダロスとイカロスの親子はミーノース王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉さ
れてしまう。彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、イカロス
は父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

とにかくこのシステムはなかなか閉じることをしない危険さを含んでいる。核廃棄物は活
動を停止するまで数千年、数万年のあいだ暴発しないように冷却しながら30年、その後数
万年の間地中深く保管を必要とするという。しかし今回は反応を続け放熱を止めない使用
済み燃料を制御するための保管プールの水が涸れ、高温爆発したことによる事故である。
これからもまたこのような災害や人的ミス、機能停止などの正常な管理がされない状態に
陥ればいつでもこのような事故が起きることになる。
水力発電や火力発電のように不慮の時に中止をしようとすれば、その後の危険は何もない
状態にすべてのシステムが停止できるが、原発だけは何十年も危険を出し続けるという閉
じないシステムであることを心すべきだ。

人類は今、一昔前には自然の行為でなかった、神の領域であるかもしれない遺伝子操作や
臓器移植、人工授精、脳死問題などの社会的問題が生じるのと同じく、核融合や核分裂、
核兵器などの禁断の実に手を出し、自然のバランスを壊し人類の未来を終焉に向かわせよ
うとしているように思えて仕方がない。




寄せ集め記事
2011/3/25

今頃掲示板に後出しじゃんけんの本舗による反体制側権威筋の走狗をみかける。
寄せ集め記事の変酋長。テーブル叩きの名手。
もうすでにその辺のことは私でも言っている。X氏はオリジナルな感覚が全くなく、人が
説明していることでないと気づかない。だからどの文章を読んでも、
亜流であるから、借り物の言葉だから人を感動させない。ちっともおもしろくない。




原発について
2011/5/26

朝日新聞・論壇時評  2001.05.26
非正規の思考という副題のついたコラムで、原発について二人の見解が面白かった。
関曠野氏は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているものとする。それは、
日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるので
ある、と言っている。

中沢新一氏は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」
のまま持ち込んだ原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系
を破壊する、と言っている。
福島原発の事故で、今までいろいろのコメントの投稿を見てきたが、経済的、効率的、有
害性、での有用性などの卑近な問題解決に始終しているようで、関氏や中沢氏のようにも
っと大きな観点からの有用論、不要論の論を見なかったのが残念だ。

私は少し前に書いているように、問題が起きたときに即座に停止えないシステムは、人間
の生命を脅かすのではないか。他の自然エネルギーによる発電システムは停止したときに
全てが終了する。しかし原発だけは停止したあとの数十年数百年数千年もの長きにわたっ
て制御されなければならない代物なのだ。一世代で解決し得ないシステムの事故をどのよ
うに解決し、誰がその責任をとるのか。そう考えれば自ずと原発の人類に及ぼす益よりも
害の方が格段に大きいことがわかるだろう。




2011年 7月18日の某掲示板投稿記事を読んで
2011/7/19

いつものように本当の問題点が判らないH氏だ。
要するに、燃料価格に課せられる国税を低くして地方自治体(原発を抱える自治体)への
課税率を上げるということではないか。
ここでも原発による税金「核燃料税条例」が地方自治体によって定められ、かつその自治
体だけの収入として許されているということが問題ではないだろうか。そして一地方自治
体だけが潤沢な税を徴収できる仕組みは事態がおかしいのではないか。
原発の立地への見返りとして、反対意見の懐柔としての甘い餌ではないか。
福島原発の事故をみても、いったんことが起これば近隣の自治体は勿論、放射能汚染は国
民全体に及ぶにもかかわらず、投下される潤沢な資金、税を一自治体の了解だけで決定し
ていいものか。いったん事故が日本全体に広がったとき、その原発のために潤った自治体
は電力会社や国の責任にして済ましていられるか。
などを考えると「核燃料税条例」なるものの胡散臭さが見えてくる。H氏はこのような重
大なシステムの問題が見えないままに、数値への疑問だけに頭が回っていない。やはりネ
ジが数本足りないと言わざるを得ない。




「人の像をした美しい青い地球」の感想−1
2011/7/31

 作者は次号の同人α第28号の「震災列島」という表題を決めるに当たって、東日本大
地震に思うこと」というコメントを書いている。それはまさに政治や行政不備や世の中の
不条理をかこつこというよりも先ず、真っ正面からその事態に向き合い率直に恐れ戦いて
いるのが印象的である。
 それは現実的な問題の欠点を洗い出したり、その対処方法を論じたりする人もいるだろ
う。むしろそういう人の方がほとんどだと見受けられた。たとえば原発などの可否を論ず
るにおいても、想定外のことだからやむを得ないとか、もっと二重三重の安全システムを
作るべきだとか、原価計算にごまかしがあるなどといった現実的なことから反対を説き起
こす論が多かった。しかしもっと基本的なこと、すなわちずっと以前から識者の間で警鐘
を鳴らしてきたことだが、理論的に危険な物質を扱う制御システムが困難な原発が、これ
から未来にむかって人類の存続に責任持がてるだけの制御能力があるかどうかを考えるこ
とから初めなければいけないと思う。私はこの物質を無毒化するために何十年も何万年も
の間暴れ出さないようにただ静かに管理しなければならないことを思えば、未来の人類に
その付けを残す原発に手を染めることは問題が多いように思える。

 「僕は福島原発が恐ろしかった。爆発したら何十万人もの人々がその被害に苦しむ。事
態は悪化の一途をたどっていた。この時期僕は自分が「心弱く」なっていることを知った。
誰かの側に寄り添いたい。誰か側にいて欲しい。ぎゅっと引き寄せたい。そして談笑して
過ごしたい。こんな経験はこれまであったかなかったのか。また、被災者の中には地震、
津波が恐ろしくて、思い出しては震え泣きわめく人も出てくるという。この時人間は「心」
であるように見える。当方は、心に領されている人間というものを今回初めて思い描いた」
と作者は告白している。





             非日常 投稿者 万理久利 2011/8/6
        




非日常
2011/8/7

無謀にも絵の解読を試みました。緑の大きな矩形は福島第一原発の破壊された第1号機か
ら4号機を表し、青丸はセシューム、赤丸はプルトニューム、黒丸はヨウ素、白丸は原子
力安全保安院と東京電力の白々しい言い訳、黄丸は根拠の薄い風評と思いました。




「選ぶべき道は脱原発ではありません」
2011/10/21

朝日新聞2011.10.21
選ぶべき道は脱原発ではありません  国家基本問題研究所 理事長 櫻井よしこ
という意見広告が載っていた。
主旨は
「原発事故で大きな岐路に立つ日本。事故は二つのことを教えてくれました。事故が原発
管理の杜撰さによる人災だったこと、震源地により近かった東北電力女川原発が生き残っ
たように、日本の原発技術は優秀だったこと、この二点です。いま日本がなすべき事は、
事故を招いた構造的原因を徹底的に究明し、より安全性を向上させた上で原発を維持する
ことです。選ぶべき道は脱原発ではありません。」とある。

もともと櫻井よしこ氏は保守主義の論客と思って見ていたが、これは彼女だけの執筆では
ないかも知れないが、このようなすり替えと乱暴さに疑問を感じないほど雑な論理展開を
する人だとは思っていなかった。これは有利な事実だけをとりあげて、不利なものを無視
してでも論破するぞという、手段を選ばない強引さを感じた。いろいろのレトリックや詭
弁を臆面もなく使いそうだから話半分に聞いた方がよさそうだ。

さてその主旨書を読んで三つほどの疑問があった。
一つは必ずしも震源地に近いから被害が大きいという思い込み。どの程度の検証がなされ
たのか。今話題の長周期地震動などは震源地から相当遠いところでも大きな被害をもたら
すもので、この現象の学術的検証は始まったばかりなのである。だから原発の建築の形態
や立地地盤や環境による条件が違えば一概に断定する事は出来ないのではないだろうか。

二つ目は日本の原発技術は優秀だったことど断じているが、スリーマイルやチェリノブイ
リなどと比較しても大きい災害、しかもそれらの数十年後に起きた事故ということをみて
も、とても優秀であると断定はできないはずだ。

三つ目は「事故を招いた構造的原因を徹底的に究明し、より安全性を向上させた上で原発
を維持することです。」という意見を言う一方で、調査や原因究明をする前に二つの断定
をしていることは大いに矛盾する論理ではないのか。

どうもこの手の保守主義者の観点があまりにも国益に偏っていて、人類の存続といった大
きな観点が欠けているように感じられる。国益を守れても地球上に人間が一人も住めなく
なったら結局元も子もなくなるだろうにと思ったことだった。




原発について
2012/6/22

碇さんや被災住民さんの原子力発電に関しての見解に私も基本的に同感である。
私は東日本大震災のすぐあとで下記のようなコメントをここで書いたことを思い出した。
<イカロスの羽根 2011/03/18>
今度の原発事故を見るとギリシャ神話のイカロスを思う。
ダイダロスとイカロスの親子はミーノース王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉さ
れてしまう。彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、イカロス
は父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

 とにかくこのシステムはなかなか閉じることをしない危険さを含んでいる。核廃棄物は
活動を停止するまで数千年数万年。暴発しないように冷却しながら30年、その後数万年
の間地中深く保管を必要とするという。しかし今回、反応を続け放熱を止めない使用済み
燃料を制御するための保管プールの水が涸れ、高温爆発したことによる事故である。これ
からもまたこのような災害や人的ミス、機能停止などの正常な管理がされない状態に陥れ
ばいつでもこのような事故が起きることになる。
 水力発電や火力発電のように不慮の時に中止をしようとすれば、その後の危険は何もな
い状態にすべてのシステムが停止できるが、原発だけは何十年も危険を出し続けるという
閉じな いシステムであることを心すべきだ。

 人類は今、一昔前には自然の行為でなかった、神の領域であるかもしれない遺伝子操作
や臓器移植、人工授精、脳死問題などの社会的問題が生じるのと同じく、核融合や核分裂、
核兵器などの禁断の実に手を出し、自然のバランスを壊し人類の未来を終焉に向かわせよ
うとしているように思えて仕方がない。

<朝日新聞・論壇時評  2011.05.26>
非正規の思考という副題のついたコラムで、原発について二人の見解が面白かった。
関曠野氏は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているものとする。それは、
日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるので
ある、と言っている。

中沢新一氏は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」
のまま持ち込んだ原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系
を破壊する、と言っている。
福島原発の事故で、今までいろいろのコメントの投稿を見てきたが、経済的、効率的、有
害性、での有用性などの卑近な問題解決に始終しているようで、関氏や中沢氏のようにも
っと大きな観点からの有用論、不要論の論を見なかったのが残念だ。

私は以上の人達が示したような、原発または石油・石炭・自然再生エネルギーなどの経済
的な効率の比較やメリットの論議で、反対・賛成を論ずることでなくもっと根源的な観点
で、原発がはたして人類の未来にとって許されるものかどうかというところから考え直さ
なければならないと思う。

最後に、東電は想定外の津波による災害だと断じているが、冷却水の二次電源が設置され
ていなかったという欠陥以前に、私はあの強烈な地震の揺れによる縦横に走る繊細な配管
類が破壊された可能性があったのではないか。原発の基本的な部分は地震に耐えるように
設計されていても、それを支えるものが破壊されればシステムは動かなくなり、早晩今回
の事故は起こるであろう。東電はこのことを話題にされたくないであろう。なぜなら、地
震による破壊は絶体にないと安全宣言して原発を作ってきたからである。

また、いくら安全の精度を上げてシステムを守っても、人間の操作ミス、意図的な作為に
よる機能破壊はまったくゼロにはできない。それを考えると人類の未来に持ち越すような
災害をなくすためにも、機能停止が即座に満足に出来るようなシステムを確立してエネル
ギーを得るしかない。限りなく安全に考慮するとか、これからエネルギーの不足で経済活
動に支障がある等と言った議論でことを納めるのではなく、全廃にすべきだということが
私の反対の基本的な考えである。



15α編集部:2014/04/08(火) 07:49:13
本のある暮らし8 2012
.
          本のある暮らし8 2012




「無限回廊 第六回」を読んで
2012/1/3

 今回は私的な問題で、評を書く時間を持つことが出来なかった。だから万理さんの懇切
丁寧な分析と評に相乗りして、重複を避けるために詳細は語らないでおこうと思う。
これはまさに犬と雷が嫌いだったジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の
小説の神髄ではないか。現と夢、現在と神話、偶然と必然、地球と宇宙の世界を、時系列
的記述ではなく、意識の流れのように縦横無尽に自由に飛び交う想念の物語ではないか。
またこの小説の古代中国、ヘレニズム、ヘブライズムの古今東西に渡る膨大な知識はまさ
に圧巻である。
ちなみに「フィネガンズ・ウェイク」に込められた言葉は神話的世界と現代を取り込んだ、
駄洒落や比喩やゴロ合わせなどの言葉遊びに満ち満ちている。また日本語への翻訳は柳瀬
尚紀というとてつもない訳者を得て、その物語の異界さを充分感じさせられるものである。
 「フィネガンズ・ウェイク」にあってはハンフリー、イエス・キリスト、トリストラム
卿、トリスタンの恋人イゾルデ、アダム、イヴ等々であり、「無限回廊」にあっては、神
農炎帝、季炎、赤松子、ヘルメース、アフロディーテ、アイネイアース、壽夢、七娘、季
礼、孫悟空、ザインなど、その飛び方は並ではない。
 また一見博覧強記でとりつく島もないほど理屈っぽく、頑固で妥協を知らない「異風者
(いひゅーもん)」の典型みたいな作者が、とてつもなく洒脱で「剽げ者(ひょうげもん)」
でユーモア、ウイット、諧謔、隠喩に富むセンスの持ち主であることを、親しく付き合わ
ない人達には想像もつかないであろう。とにかく「無限回廊」に登場するバード・ブレイ
ン、グレイ・ブレイン、エヴァー、カミノの物語はこれからも、それぞれの個性のもとで
回し書き物として面白いものになるとあらためて確信した次第である。

参考:Wikipediaより
 原題 Finnegans Wake はアイルランドの伝説の大工ティム・フィネガンの物語にちなむ。
ティムは屋根から転げ落ちて死んだが、その通夜に生き返ったという。Wake はゲール語
で「通夜」を意味すると同時に英語で「覚醒」を意味する。また英語の Wake は航跡、
すなわちフィネガンの人生の行程を意味する。ここでタイトルにアポストロフィがないこ
とに注目したい。『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンは一人のフィネガンではなく、
複数のフィネガン、つまりは人類全体を暗示する。この作品の主題は、だれか特定の人物
の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なの
である。
 はからずも、このテーマはまさに「無限回廊」と同じくするものである。
英語による小説ではあるが、各所に世界中のあらゆる言語(日本語を含む)が散りばめら
れ、「ジョイス語」と言われる独特の言語表現が見られる。
なお、物理学における基本粒子クォークは、この作品の中の鳥がquarkと3回鳴いたとい
うところから、3種類の性質を持つクォーク理論の提唱者であるマレー・ゲルマン自身に
よって命名された。




「窓辺にて―そして、それから」より  (同人α31号作品)
2012.4月

◆読書のこと
『月とかがり火』
 最近チェーザレ・パヴェーゼ著の「月とかがり火」という本を読んだ。この本が仕事場
のサイド・テーブルに積まれた十冊ほどのなかにいつ紛れ込んだのか記憶がなかった。た
ぶん唯一の女性同人・M女史が数ヶ月前に置いていった四・五冊の本の中に混じっていた
ものであろう。発行年月日は1992年10月20日、出版社は白水社とあった。
 私は時々銀座の教文館に出向き、西洋小説のシリーズものを出版している白水社のUブ
ックスを探訪することを楽しみにしていた。そして三十年前まで、日に40本吸っていた
煙草の脂(やに)で褐色に変色した我が家の「チボー家の人々」や「モンテーニュの随想録」
「アラン全集」「シェイクスピア全集」などのお気に入りの本も白水社のもので、質のい
い本を企画している出版社だという思い込みが私にはあった。
 そういう先入観で「月とかがり火」を読み始めた訳だが、案に違(たが)わず主人公の生
き様を描いた深い内容の本だった。ファシスト、パルチザン、ドイツ軍などといった、違
った主張や価値観が複雑に混在する第二次大戦下の閉ざされた北部イタリアの田舎を舞台
に過ごす主人公。その後その村を出てアメリカに渡り、転々と職を変え遂には裕福になっ
てジェノヴァに住む。しかし出自の判らない私生児として生まれ、ジェノヴァが故郷とい
える係累(けいるい)もなく喪失感を覚える彼は、少年から青年にいたるまで過ごしたその
村を故郷として位置付けようとしてそこを再び訪れた。昔の想い出とともに語られる自然
の美しさ、そこに住む人々の人生を静かに懐かしく優しい目で語る文章には、作者の奇(き)
を衒(てら)わない性格と故郷にたいする深い愛情が感じられて、いい物語を読んだという
感慨が残った。
 私は最後にこの「月とかがり火」という題名が何を象徴しているかと考えた時、「田舎
の故郷と文明の都会」「脱出と帰郷」などの内容から、月はまだ見ぬ憧(あこが)れの「外
の世界」、かがりびは祭りなどで灯される村の生活を象徴する「内の世界」を表している
のではないかと解釈した。
 作者は、1950年6月に長篇「美しい夏」(「丘の上の悪魔」「孤独な女たち」併録)によ
ってストレーガ賞を受賞。続く新作「月と篝火(かがりび)」も注目を集めていた1950年8
月、トリノ駅前のホテルの一室で服毒自殺する。享年42歳であった。
作者の詩のなかに「ランゲは不滅だ」とある、ランゲの作曲「花の歌」は、次のURLで
そのピアノ演奏が聴ける。
http://www.youtube.com/watch?v=k4enxSzqJvg&feature=fvwre

『日本語が亡びるとき』
 山荘に越してきて荷物の整理やインターネットの環境設定など、住み付くための仕事で
疲れた夜、早寝のベッドの中で読むページ数は少ない。ほっとしていざ本を読み始めると、
三ページもしないうちに眠りに落ち込んでしまう。しかし一眠りした後の夜中、目が冴(さ)
えたときにも読むから合計すると結構捗(はか)が行くものである。既にナイトテーブルの
上にはたまに来るとき再度順繰りに読み返していた小林秀雄全集やアラン全集のうちの一
冊が載っているのだが、今回購入して読まないまま友人に貸していた水村美苗(みずむら
みなえ)著の「日本語が亡びるとき−英語の世紀のなかで」をやっと思い立って読んでい
る。
 水村美苗(みずむらみなえ)の紹介文には「エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を戦後日本
を舞台に書き換えた『本格小説』で2003年読売文学賞を受賞。2009年には『日本語が亡
びるとき』で小林秀雄賞を受賞している。また夏目漱石の未完の小説「明暗」の続きを書
いて「續明暗」で1990年芸術選奨新人賞を受賞する」とあり、いろいろの点に目をつけ
て問題提起するという、単なる物語作家というよりも意欲的な作家のようである。
 この本は「現地語」「母語」「国語」「普遍語」「話言葉」「読み言葉」等、独自の術語を
用いて国語について述べている。
水村によれば、話し言葉は発せられたとたんに、その場の空中であとかたもなく消えてし
まう。書き言葉は残る。何度も何度も繰り返し読むことができると言っている。
 確かにローマ時代カエサルのガリア戦記にあるガリー人(ケルト人)は知識レベルは高
かったというが、知識階級である僧侶たちが学問を独占していた。それは記録に残すこと
ではなく、暗記することで伝えられ、文字での記録を残すことを許さなかったという。そ
の一握りの特権階級の知識人達は文学、法律、天文学、医学を学び終えるまで二十年以上
も掛けて暗記したと言われている。だから彼等ガリー人はほとんどの文化を後世に残すこ
とはできなかった。
 明治維新のころ文部大臣の森有礼(もりありのり)は英語の国語化を提唱し、前島密(ま
えしまひそか)が漢字廃止論を、梅棹忠夫は日本語ローマ字化論を唱えている。
 さらに著者は言う。質と量において、日本文学は世界の最も主要な文学であるといって
いる。その国の長い歴史の中で育てられた文化はその国の言葉でしか表現できないものが
ある。だから表意文字「漢字」と表音文字「かな、カタカナ」交じりの複雑で表現豊かな
文字で書かれた日本文学は、普遍語(英語など)で書くことは不可能であると言っている。
 小林秀雄全集は昭和43年度版にも関わらず、旧漢字、旧仮名遣いを使っている。「文
体→文體」「文学→文學」「解釈→解釋」「想い→想ひ」など、作者が戦前書いた原稿のま
ま復刻してある。もし国語が漢字の廃止や仮名文字またはローマ字化されたら、日本文学
の古典は読めなくなるだろう。
 私は懐古趣味(かいこしゆみ)ではないが、群青色(ぐんじよういろ)や亜麻色(あまいろ)、
浅黄色(あさぎいろ)、鈍色(にびいろ)など日本古来の色彩の名称や旧漢字の表記に興味が
あり、忘れ去られた言葉などに郷愁(きようしゆう)を覚える方だ。話し言葉でしゃべるよ
うに書かれた文、漢字変換のミスや間違った記述などの修正もされずに捨て置かれる文な
どは、何の感銘も受けないし、肝心(かんじん)の書き手もその間違いを恥じて修正すると
いう処理をしないところをみると、二度と自分の文を読み返さないのだろう。要するにそ
の程度の安易な記述であり、読者もまた人の書くものに対しては真剣に読むことをしない
のだろう。
そう、話し言葉と同じように発せられたとたんに、その場の空中であとかたもなく消えて
しまう程度の内容なのだから、目くじらを立てて憤慨(ふんがい)するのも余計なことで、
カラスの勝手でしょうと開き直られるのが落ちであろう。
 水村が言っているように、普遍語(英語等)を全国民が血眼になって学習する必要はな
い。単に普遍語で日常のことを会話できるというだけで高邁(こうまい)な思想を語れる人
がどれだけいるのか。母国語できちんと思想や歴史や文化を習得していなくて、何を共通
語で語れるというのか。
 この本を読んで私は、「斜光」第17号に投稿した「人は死して何を残すのか」という、
我ながら恐ろし気な命題を掲げた一文と相通じるものを今更ながら感じている次第である。




色について」
2012/5/26

 神野佐嘉江氏の万理さんへという投稿をみて、色の表現がこんなにもたくさんあるのか
と驚いた。ずっと以前、神野氏が第二版の『日本国語大辞典』へ買い換えるときに、それ
まで使用していた第一版を無償で譲ってくれたことがあった。それがいま山荘の書棚に鎮
座している。私は今朝ひんやりした空気のテラスでコーヒーを飲みながら、その第二巻の
「いろ」の項目を調べて見た。あるはあるは、色という字の頭に付く表現がおそらく250
〜300もあるのである。このことを見ても日本語の豊かさは行き着く所のない奥深さだ。

ちなみに神野氏の挙げた言葉のなかで目に付いたものを調べて見ると、
色大将:遊興、情事などに最も巧みな者
色奉公:妾や遊女として勤めること
色風:なまめかしい風。色っぽい風
それだけこの世が生々しい生の世界であることを感じる。色即是空の悟りはどこへやらで
ある。

参考:『日本国語大辞典』 小学館
   第一版 20巻21冊、1972年出版
   第二版 14巻15冊、2000年出版




「表現の技術」
2012/7/1

 朝日新聞2012.07.01に高橋卓馬著の「表現の技術」−副題:スキルを身につけるには−
という本の紹介があった。そのなかで「起承転結を壊す」「物語を説明しない」という面
白いテーマが説明してあった。
例えば緊張の表現として、どちらにより説得力があるか。
 A:「くそう、緊張してきた」と言う。
 B:無言で煙草に火をつける。その灰皿はすでに火のついた煙草がある。
 それはBということが分かるが、なぜか、と問われると、答えに窮してしまう。これは
鍛錬することで身につくことだと言っている。
 ではどうやって鍛錬すればいいのか。それは「起承転結を壊す」「物語を説明しない」
というナナメからのアプローチ法や外の面白い物語の構造を応用することだという。
◆「起承転結を壊す」
 物語を作るに於いて「起承転結」という方法は確かに文を書く人にとっては一つの指針
 になることではあるが、初心者からだんだん修練を積んで自分なりの言葉の表現とか物
 語性とかの個性を見つけると、「起承転結」といった固定した法則は必要なくなるであ
 ろう。またそうでないとその人独特の匂いというか、味わいというか、それを表現する
 作品に行き着かないのではないか。
◆「物語を説明しない」
 TVのミステリー・ドラマでうんざりするのは、犯人捜しの物語の終わりの15分間、犯
 人がどこかの断崖絶壁の寒い風の吹くなかで、何人もの刑事や被害者の関係者を取り巻
 きにして犯罪の経緯を延々と説明する場面である。これなどは物語を作る側の策のなさ
 を示しているに過ぎない。見る側はそのような状況はとっくの昔承知しているのだ。そ
 れに、なかには二重三重の理屈に合わないどんでん返しを得意とする作家がいるようで
 ある。「物語を説明しない」はまた、作者の解説や裏話の暴露といった、まったく「花
 伝書」も真っ青な代物になることへの警句だと言えよう。
面白い記事があった。
世界の雑記帳:「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言5月16日、
 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、
 英紙ガーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない。天国とは闇を恐れる
 人のおとぎ話にすぎない」とし、死後の世界があるとの考えを否定した。
 (毎日新聞 2011.05.18)

人間の生が精神と肉体の両方で成り立っている以上、どちらが欠けても人間として自立し
て生きてはいけない。死は疑いのない肉体の死滅である以上精神や魂だけが生き続けるこ
とはない。だから天国や来世があるということは物理的に無理な考えだ。
ただ子孫に引き継がれた遺伝子の連綿とした情報があるかぎり、一度生を受けた人の痕跡
は残り、それを来世と言えないこともない。
また、アメリカの女優シャーリー・マクレーンは南米の霊的な経験をもとに「アウト・オ
ン・ア・リム」という本を書いた。その中に「たとえ肉体は死んでも、原子は死滅せずこ
の世界に残る。それがふたたび植物や動物に取り込まれて生命を造ることになる」という
輪廻転生の意味づけをしている。なるほどそういう理屈もあるのかと思った。




「続生活の探求」を読む
2012/7/27

 数年前島木健作の「生活の探求」「続生活の探求」という絶版になった本を、日本の古
書データベースから探し出して、富山だったか−兎に角思いもよらない地方の書店にある
昭和16年発行、壱円八拾壱銭、弐円弐拾銭の二冊を求めた。太平洋戦争に突入した年に出
版されたこの本は、時代を反映する倹約の証のような凹凸のある荒いザラ紙の上に薄いイ
ンクで印刷されたもので、目の悪い私に読破することに数年苦労を強いたものだ。いま神
田の古本屋にも滅多になく、遠い地方の本屋にひっそりと残っていたと言うことは、小林
秀雄も実に好意的な論評を書いているのだが、地方ではなおさらのことこのようないい本
を読む人も少なかったのではないかと思われた。
 杉野駿介という大学生が都会の生活に疑問を抱き、学校をやめて故郷の農家を継ぎ、い
ろいろの苦労をしながら自分の生きる道を探すという物語である。
「すべての政治的組織運動には、権謀術策を伴うよ。嘘をつくこと、偽ること、欺くこと、
裏切ること、陥れること、憎み合うこと、非人情を敢えてすること」と友人の志村に言わ
せている。また「彼の言っている言葉に、彼自身の言葉は一句だってなかった。彼のしゃ
べった言葉は、みな彼の周囲の誰彼から聞かされたものばかりだ」と、駿介は二年ぶり上
京して本郷の大学で一緒だった友人の、生まれのいい秀才顔の後輩である三井の議論を聞
いて、そう思った。
 世の中の不条理や不満を言葉多く、声高に、政治的に託つのではなく、真面目にそして
真摯に身の回りの貧しい農民の生活のために努力する杉野駿介の生き方もまたあっていい
と思った。またもっとこの本は読まれてもいいとも思った。




「ブラックベリー・ワイン」
2012/8/31

 最近、ジョアン・ハリス著の「ブラックベリー・ワイン」を読んだ。
ベストセラーで映画にもなった「ショコラ」と同じフランスの片田舎が舞台。少年のころ
の追憶と、大人になった現在の物語を交互に語るという方法で書かれた、ちょっとミステ
リー調の物語である。
 この本を読んで不思議な巡り合わせを私は感じた。今回α32号へ私が投稿した「歪ん
だ風景−鐵橋」を書いた山荘が通称ブラックベリー・コテージであり、また「結界を張る」
についても二つの物語の要素を同じくしているからだ。たまたま読んでいる内にそれらの
言葉の符丁に驚いたものだ。
 この物語の語りは確かにうまく最後まで読ませるが、表現される警句や比喩やアフォリ
ズムは村上春樹が時々放つそれに似て、私の感覚に刺激を与える程でもなく通俗的であま
り好きではない。またロンドンを脱出して田舎暮らしを試みたのも、ピーター・メイル著
の「南仏プロヴァンスの12か月」も多少意識しているようだ。
 ところで、我が通称ブラックベリー・コッテージにはブラックベリーが有るのかと問わ
れそうだが、有ります。この山荘を建てた時からその山荘の名に恥じないようにといくつ
もの苗を植えたのだが、五年間一粒も実らなかった。しかし今年は十粒くらいが実り、今
青から赤に染まり始めた。もうしばらくすると漆黒のつややかなブラックベリーになり、
朝食に添えられるであろう。




「ブルックリン」
2012/9/1

コルム・トビーン著の「ブルックリン」を読んだ。
 アイルランドの若い娘が、故郷では職がえられないためアメリカへ渡る。ブルックリン
に住んで、あるデパートの売り子として働きながら、夜は簿記の学校に通う。

訳者あとがききに「家族間に結ばれる暗黙の義務感、運命を受け入れる静かな諦念。ジェ
ームズ・ジョイス、ジョン・マクバガン、ウイリアム・トレヴァーといった書き手たちが
切り開いたアイルランド人の内面世界を、新たに掘り下げてみせる」とある。
ここで ウイリアム・トレヴァーが出てきたのでなるほどと思った。以前彼の著書「アイ
ルランド・ストーリーズ」を読んだときも運命にあらがえない女性の静かな姿を鮮やかに
描いていたからだ。
 「ブルックリン」の主人公アイリーシュが姉の突然の死にあい、婚約者の元を離れてア
イルランドに帰郷した。そこで会った顔見知りの青年との二週間足らずの付き合いに、ブ
ルックリンに残してきた婚約者の影が薄れ、いま現に目の前にいる青年に心が移る予感を
持った。若さ故の迷いもあることではあると、読者である私もそう納得してしまいそうで
あった。だとすれば単なる若い主人公の生き様を画いただけの単純な小説だと思った。し
かし最後に主人公はブルックリンに戻る決心をして故郷を旅立つ。そこには感情のままに
故郷に残って青年と一緒になるということが、婚約者を裏切ることへの罪の意識のなかで、
情と理の狭間で揺れ動く心の葛藤を画いたもので、最後の決断は彼女の生きる上でのしっ
かりとした彼女自身規範を示したものである。
 この結末はその苦い味を表現した秀作だと私は思った。自分の心に正直であれという自
由奔放な生き方をした終わりであれば、通俗的な物足りない物語になっただろう。そして
これからも主人公は感情のままに後ろめたい行動に迷わされることなく、理を通して前を
向いて生きていくことだろうと私は感じた。




「語り」と「ことば」
2012/9/25

「語り」と「ことば」・ハイデガー「存在と時間」
 「語り」と「ことば」の両者の関係は、「語り」が外に向かって発言されたときとば」
になる。このとき「語り」は共同存在として属しているところの世界・内・物わかりを「意
義をあたえながら」分かつことである。聴く人は承諾したり、勧告し拒絶したり、警告し
たりしながら、言葉を受け取り、話合う。
 こうして語りは世界・内・存在の開示性を世界・内・存在を構成する。伝達は共として
の了解力を「分かつ」ことになる。しかし語りは、ことばの表現だけに限定い。音の抑揚、
転調、話のテンポ、「話っぷり」のあらわれである。したがって語現は、詩的(演技的)
な要素も要求され、全体的なパフォーマンスとして存在するこれらが了解に達するには、
それを語ることと並んで、「聞くこと」がある。語と聞くことは、了解にとっては一つの
セットである。語ることと同じく、聞くことても構成される。またその中には「黙ること」
も同じ意味を持っている。逆に、長ゃべることは了解の保証にはならない。「沈黙は金な
り」という言葉もあります。
とは、沈黙の方が意味が大きいことを意味する。
 しかしここでいう語りは単なる「おしゃべり」とはちがう。おしゃべりは、
「根無という性格を持っている。おしゃべりは相手が開示したことを了解することとは限
らそれを覆ってしまう。受け売り、自慢、吹きまくりといったおしゃべりは、根無しへ間
断なく流れてゆく。(荒木 清著「一冊で哲学の名著を読む」のなかの解説文)




北大路魯山人の「昆布とろ」
2012/11/3

 久しぶりに青空文庫を開いてみた。北大路魯山人の「昆布とろ」というエッセイが電子
図書に復刻されていた。夏の朝、食事の進まないようなとき、あるいはなにを食っても口
が不味いとき、日ごろの三杯飯は、知らず知らず五杯飯になること請合いである、と書い
てある。今時ご飯を三倍食べる人は珍しいだろうが、どうも美味そうである。
また東京人の舌は杜撰で荒っぽい、例えば、くどい味、油っ濃い味、粗野な味、手っ取り
早い味、落着かないせかせかした味、甘ったるい味というところに嗜好が動く、と続く。
 そういえば私が上京した半世紀前の東京の掛け蕎麦やうどんの汁は真っ黒くて、しょっ
ぱいだけの、ギョッとするような色と味だったことを思い出した。いまではどうも関西系
の味が流行っているらしく、すこし清まし風になり昔の江戸の味も変化しているらしい。
高田郁著の「澪つくし料理帖」にも、肉体労働者の多い江戸は濃い味を好むとあった。
ちなみに、澪とは船の通行に適する水路
澪(みお・水緒)とは舟の通った後に出来る軌跡
     澪つくし(澪標)とは航路を示す標識
 昔、息子の寝床で読んでやったユリ・シュルヴィッツの絵本「よあけ」のなかに出てく
る、まだ日も上がらない薄暗い山間の湖、澪を引くボートの印象的絵を思い出す。最近で
は「きみに読む物語」という映画で、これもまた朝まだきか夕暮れか失念したが、薄暗い
湖をレガッタで澪を引いて漕いでいるの最後のシーンが印象的だった。
 それにしても昆布とろとは美味そうだ。晩秋の鄙びた里の仕舞た屋で魯山人の料理を一
度食してみたいと思った。




「澪標ふたたび」
2012/11/8

??????????大阪市章

??????????


 テレビを見ていたら見覚えのあるマークが出てきた。たしかにあれは澪標(みおつくし)
だと直感した。先日北大路魯山人の昆布とろの感想を書いたとき、高田郁著の「澪つくし
料理帖」まで思いを広げ、澪標の意味を調べたがこの本にはいろいろの意味を含められた
のが判るような気がした。
 澪標の描かれた旗は大阪市の市章であった。すなわち「大阪の繁栄は昔から水運と出船
入船に負うところが多く、人々に親しまれ、 港にもゆかりの深いみおつくしが、明治27
年4月、大阪市の市章となった」と言うわけだ。
 「澪つくし料理帖」の二重の意味とは、 主人公の澪(みお)は大阪生まれであるとい
うことと、 澪標によって舟が安全に進むことにように澪の料理の修行を記述しているの
ではないかと私は思った。それにしても、日頃は何気なくやり過ごすこともこのように一
つのことが重ねて目に写るのは、身の回りの騒音や義理の付き合いや無駄な情報が少なく
なった環境に心が浄化されたゆえなのか。そうだといいが。



16α編集部:2014/04/09(水) 15:41:26
電子書籍考
.
          ?????????? 電子書籍考??2011-2012



     同人αでは、創刊号出版に続き、同人が集う場所として掲示板を立ち上げると、
     すぐに作品の電子化にとりかかった。その推進役古賀氏は7年後、さらに氏が
     「ものを書く」ことのきっかけともなった同窓記念誌「青春のあの日」(県立
     佐賀高等学校11期)の電子化に着手する。
     当時、電子化における諸問題について検討していた様子や対応に苦心していた
     様子が伝わってくる。





窓辺にて−「息子の誕生祝い」より   2011/4/10

今日は朝、息子から電話があった。(中略)
電車の中で彼はiPadで電子書籍から専門の原書を購入してを読んでいた。どいう本だと聞
いたらコンピュ−タプログラムのようなものだと言って、詳しくはおしえてくれなかった。
時代はどんどん変わっていく。




電子書籍考察 2011/7/1

インターネットでダウンロードして購入する電子新聞や電子書籍と、今までのような紙の
上に印刷された新聞や書籍などの出版物について、どのようなメリットとデメリットがあ
るかを考えてみた。ちなみに電子書籍とはインターネットにつながったパソコンや専用の
小型端末機を通してデ−タをダウンロードし、購入する本のことを言う。

●2011年2月4日朝日新聞「on reading 本を開けば」というコラムにノンフィクション作
 家の佐野真一氏が、本の哲学こそ進化させるときという一文を投稿している。
 「古典的な活字中毒の私からいわせれば、電子書籍はとても付き合いきれる代物ではな
 い。本が電子化されれば、そこから音楽も映像もでるようになるという。でも、それっ
 て本当に本の進歩なの。活字と対話する孤独な作業の中からしか、自分だけの音楽も映
 像も生まれてこない。これこそが想像力を鍛錬する醍醐味ではないか。」と言っている。


●2011年5月17日朝日新聞「異議あり」というコラムに載った、編集者の山田 順氏の「電
 子書籍が出版文化を滅ぼす」という副題の文で、その内容は電子化のために社会に流通
 する情報の質が大きく低下する危惧があると警告している。
 「出版を含むマスメディアは、信頼性が高く価値ある情報を選別し、世の中に流通させ
 る役割を担っていました。電子図書では、出版社を通さず素人が自分で本を出せる。
 一方、電子書籍や電子新聞の価格が下がることで、出版社や新聞社のビジネスモデルは
 成立しなくなり、作家や編集者、記者の多くが失業する。質の高い作品や情報をつくり、
 流通させるという社会の重要な機能が失われ、残るのは不特定多数の人々による、信頼
 性も質も保証されない大量発信だけ」と言っている。

●2011年6月10日 朝日新聞 「ひと」
 著作家の富田倫生氏が世話人になっている電子図書館「青空文庫」の登録数が一万冊に
 なったという記事があった。著者の没後50年を経て日本国内において著作権が消滅した
 作品、外国語作品の翻訳や著者自身により無償閲覧の認められた現代の作品などが納め
 られていて、青空に置かれた本はインターネットでダウンロードして、だれでも自由に
 読めるという便利なシステムだ。

 さて、電子書籍についての三人の記事を示した訳だが、佐野氏は作家として昔流の本の
 イメージを大切にしているし、山田氏は編集者としての書籍運営や管理からの意見を、
 富田氏は読者の利便性を考えたシステムを作り上げたもので、それぞれの立場や論点の
 違いでその評価は分かれるようである。

 では実際に電子書籍について考えられる問題点を次に挙げると
◆電子書籍のメリット
 1.ネットに接続する環境にあれば、いつでもどこででも買える。
 2.大量の電子書籍を端末で簡単に持ち運ぶことができる。
 3.棚が必要なくなる
 4.検索しやすい。
 5.例文として使いやすい(コピペ)。
 6.買った瞬間に読める。
 7.絶版がなくなる(再版などの手間がいらない)。
 8.誰でも情報の発信者になれる。個人の作品の発表の機会が増える。個人で出版・販
  売ができる。
 9.目が見えない人もほとんどタイムラグなく、また他の人の手を煩わせることなく本
  の内容を知る事が出来る。文字の拡大が出来るので弱視の人も読める。
10.紙の使用が少なくなる。その文森林伐採が減る。
11.紙の製造から発するCO2が減る。環境にやさしい。
12.配送コスト、在庫管理の手間が減少し安価になる。(店舗を構える必要がない)
13.言語の切り替えや読み上げ、動画の埋め込みなど多様な表現が可能になる。

◆電子書籍のデメリット
 1.書き込みや気に入った箇所に印(マーク)が出来ない。
 2.作品に偏りがある。圧倒的に数が少ない。
 3.記憶されている機械に故障がおきた場合、停電、そのたの障害の時は読めない。
 4.電子書籍の出版社によるデバイスやアプリケーションごとに操作性が異なる。
 5.記録媒体を消去する危険(目の前に常にもの(本)がないため)。
 6.そもそも電子書籍端末がないと本が読めない。
 7.複数の本を同時に開くことができない。
 8.海賊版が作りやすい。
 9. データ管理が面倒。
10.現状でも文庫本などは十分安い。
11.思わぬ発見がない。

さて、要点を列記してみると、本と電子図書との善し悪しを簡単に判断することはできな
いという考えに至った。
手にとって読む本のよさは、内容もさることながらそれに付随する装丁、文字の形、編集
様式などが作り出す雰囲気も重要な要素であり、喉が渇いたからお茶を飲むといった単純
な動機の他に、時間や景色や人と人との会話なども加味された行為として茶道などができ
あがったように、総合的な感性で楽しみたいという人向きであろう。

かたや電子書籍はどのような辺鄙な場所からでも、日本には置いてない洋書なども即座に
簡単に手に入り、内容だけを早く把握したり、作品の中の文字やシラブルの検索などには
非常に便利である。要するに読者がそのときの気分や要求によってうまく使い分けるのが
良いようである。電子図書化が爆発的に進むと、今までの出版社や編集者や書店が無くな
っては困るが、全部が全部そうなるとは思わない。しかし今までのような紙による書籍は
手間暇の量と販売量の減少で高価なものになるかも知れず、好事家だけを対象としたもの
になるかも知れない。ちなみに遅読家で机の上に何冊もつんどくのが好きな私は、どちら
かというと本の手触りを尊ぶ方であり、紙の本がまったく無くなってしまうのは困るので
ある。




続・電子書籍考察 2011/7/2

一つ言い忘れたことがある。これは科学的な論証ではないが、すべからくテレビや映画や
演劇などのヴィジュアルなものは、いろいろの付加的なものを投入させることができる総
合的な情報手段である。しかし一方その中に含む情報、例えば俳優だったりBGMに選ば
れた音楽だったり、映像の内容よりも制作者・演出家の好みや意図に影響されることが大
いにある。なかにはヤラセや偏った情報のみを集めて制作された情報すら見かけるのであ
る。しかし視聴者は努力をせずに受け身的にその内容に浸ることができるし、多くがその
ような見方で満足している。
一方、本のように単純な活字だけで知らされる情報のように、理解するためにはかなりの
思考という努力が必要になる。まさにアリストテレスがアレキサンダー大王の家庭教師と
して赴任したとき「学問に王道なし」と言ったといわれるように、努力や遠回りや疑問な
しに安易に知恵は得ることはできないということだ。
そういう意味での本という情報はやはり余計な情報や便利さや手軽さなどを付加していな
い、今のままの本のように出来るだけ単純そのままの方がいいと思っている。もちろん、
ハウツーものや娯楽のためのものや読み流しでいい本もあるだろう。それはそれで別の話
である。
印刷技術のない時代は、作品は高価で稀少であったため、個人が持ち主から借りて写して
いたもので、正本(原本)に対して写本といった。人はその行為の中で読みかつ書き写し、
その内容を理解しようとしたであろう。だから写本は時には表現を変えたり写し間違えた
りもしたものもあった。源氏物語では藤原定家自筆本、明融本、大島本、三条西家本など
の数多くの写本がある。
以上私の結論としては、読書はいろいろの楽しみ方があり人様々ではあるが、概してビジ
ュアル系の情報に対しての受け手は、受動的にならざるを得ないことを忘れてはならない。
そのなかで目的によって紙の本か電子図書かを選ぶことで、どれでなくてはいけない等と
言った断定は控えようと思う。




ルビについて 2011/9/14

まだ一日の活動を開始する前、朝刊が来るまでのちょっとした退屈な時間、青空文庫を開
いて泉鏡太郎の「廓そだち」と芥川龍之介の「葱」を拾い読みした。そこで気づいたこと
だが、すこぶる読みにくい。本のなかのルビは漢字の上部に小さい号数の文字で遠慮深く
振ってあり、漢字の読みが判らないときだけ意識して目に写るが、それ以外は内容を追う
頭脳の邪魔を一向にしない。しかしこの青空文庫の文章ではルビが漢字の後に同じ大きさ
の文字で括弧書きになっていて、すこぶる邪魔だ。これは自分の文章、例えば「同人α」
第13号の「シリーズ・歪んだ風景−異星人」を電子書籍「作品集」に載せるためにHTM
Lに直すと、漢字の上のルビが括弧付きのルビに変換されるのである。
一太郎で書いた文章をワードの文章に変換するときも同じ現象が起きるのだが、読み手の
リズムや流れの感覚を邪魔しない処理の仕方はないものか、なんとかならないものかとい
う思いが強く残った。




「MM君への手紙」より 2011/11/27

(前略)
 「同人α」の日々の活動や作品の電子図書は冊子の裏表紙にあるアドレスの「ニューロ
ン・カフェ」というホームページで行っていますので、どうぞご覧になってください。
リンク先には「同人α」の規約や編集会議の議事録を、著者のポートレートとコメントに
は、その時々の作品の著者の紹介を、作品集には今までの作品を電子図書として掲載、そ
こでは自分たちの作品の感想や批評も行っています。また最近は先日電話でお願いしまし
たように、皆さんの若かりし頃を偲んで卒業30周年記念誌も復刻して電子図書に載せ始
めました。




おしらせ(BBS万華鏡掲載)より ??2011/12/1

 このたび佐高11期生卒業30周年記念誌をもう一度読みたいという希望があり、
私達有志はそれを復刻して「青春、そしてそれから」という電子図書を作りました。
書庫の片隅に埋もれていて目に触れなかったり、なくしてしまった人にとっては有意義で
はないでしょうか。この懐かしい時代とその回想録は記録にとどめたいと いう思いもあ
りました。そこでその主旨を理解して、掲載を承諾をくださった方達から順次掲載するつ
もりです。

 まずはその「青春、そしてそれから」のサイトを覗いてみてください。
この万華鏡の画面の上部のリンクの「同人α【ニューロン・カフェ】」はこちらをクリッ
クしたら、ニューロン・カフェの画面になります。下の方のリンク集のなかに赤い文字で
書いてある「青春、そしてそれから」をクリックしてください。もしお気づきの点があり
ましたらどうぞ遠慮なく下記のメールまでお寄せください。




「A君への手紙」より 2011/12/1

(前略)
実はこの電子図書を企画に及んで、著作権の問題など、プライバシーなどの問題が生じな
いかを考えました。また30周年記念号を発行した管理者、責任者の見解について佐賀の同
期会事務局長の田代君に相談しました。
(中略)
私どもの結論としては、
1.その当時発行に当たった幹事の人達も解散していて、「青春のあの日」という 記念誌
 を引き続き管理しているという組織はない。
2.同じような冊子を増版すると言うことでなくて、全くの媒体の違った電子図書 である。
 しかも営利的販売行為もない。
3.彼等三人だけの判断であって同窓会全体の総意ではない。
と考えました。しかしこちらの違論を通すことよりも、何らかの形でみなさんのためにな
るという本意を考えれば、ソフトランディングをして、彼等の意を汲んで、題名の「青春
のあの日」を「青春、そしてそれから」とし、掲載は本人の承諾を得た人だけとしました。
以上のような経緯ですが、いろいろ些細なことを言い出す人もいるかも知れません。しか
し皆さんのためになることですから、めげずに進めたいと思います。またもっと発展的に
考えれば、「斜光」も電子図書化してもよいと思っています。そのうち「斜光」編集部へ
提案するつもりです。   ではまた




 [青春、そしてそれから]のこと(BBS万華鏡掲載)より  2012/3/7

One of 11期生さんへ
投稿内容について、一体何を主張されているのかまたったく判りかねます。

「いずれにしろ私にはどうでもいいことですが、ただ作成者に誤解のないようにしてもら
いたいのは、こうした私のコメントは決して作成しているグループへ批判しているわけで
はありません。「ご苦労様」と言わなかった弁解というか、率直な感想や想いなのです」

と書かれてはいますが、私は全体の内容からはこの企画や運営方法に対して、しっかりと
嫌みや批判を読み取りました。そこで今回の企画についての私の考えを補足したいと思い
ます。
◆まず最初にこの企画を思い立った理由は三つ有ります。
 1.この記念誌を読んだ同期でない人達、または全く時代も場所も違う環境で育った読者
 が、私達11期の個性あるパワーに感動したこと。
 2.この記念誌によってその後の「斜光」「同人α」「同人言の輪」などの冊子が生ま
 れた原点であったこと。
 3.この記念誌を、誰でも読める未来に開かれた記録として残したいと考えたこと。
◆たった一人同期でない方のこの記念誌に感動されたことは大変うれしいことです。
 また同期生あるいは記念誌に載せた人達の投稿がほとんどないからといって、読んでお
 られない、感動されていないとは一概に言えません。この「万華鏡」に投稿される人だ
 けがすべての意見を代表しているとは思いません。むしろ黙って読んでおられる人の方
 が圧倒的に多いと思います。
◆この記念誌を当時同期の全員が購入した訳でもありません。しかも私のように無くした
 人もいるでしょう。そのためにも電子化した方がよいと思いました。
◆かつて佐高11期のホームページである「万華鏡」にリンクするのが筋だと投稿された人
 もいましたが、この「万華鏡」が佐高11期のホームページであるということを完全にオ
 ーソライズされているとは考えていません。そしてこの企画はまだまだ未完成でこれか
 らの追加、変更、訂正などの作業がありますから、私達のホームページ上で扱っている
 のです。
◆グループ批判をしているのではないといわれていますが、どうしてここでグループの話
 題を出すのですか。私はこの記念誌によって我が11期のすばらしさをもう一度知って貰
 いたいために企画したまでで、些細なことで本当に意義ある企画を途中で放棄するわけ
 にはいきません。現に記念誌の同窓生寄稿の内、故人分を含めると電子化に同意された
 方の割合はすでに89%近くに及んでいます。
◆最後に人に対してある意見を述べるときに、どうして「One of 11期生」などという、
 ことさら分かりにくい名前を使って、多数派を装おうとするのですか。このような場合、
 本名か、せめてこの掲示板で良く知られたハンドルネームを用いるのが「筋」だと思い
 ます。




 「恩師への手紙」より 2012/4/12

(前略)
今回は佐高卒業30周年記念大会(平成2年)において発行した記念誌「青春のあの日」
を、先輩、後輩、同期生、子供さん、お孫さん達に読んで貰いたいと思い、電子図書とし
て再現・記録することを企画した次第です。
電子図書においては著作権やプライバシーなどの権利を主張される人もいますので、原則
として掲載の了解を得た人、および亡くなった人のみと限定して掲載しました。
 幸いほとんどの方々から了承して頂き、すでに掲載しており、下記のホームページから
「青春、そしてそれから」を見ることができます。(その当時の幹事の一部から「青春の
あの日」という語句を使ってくれるなというクレームがあり「青春、そしてそれから」と
表題を変えています)



17α編集部:2014/04/09(水) 17:03:44
同人α編集後記集
.
??????????????????????同人α編集後記集
????????????????????????2010年5月(23号)〜2013(38号)






23号『蝶の夢』  2010/5

 今年の始めから言葉の持つ重要さに関しての問題で始終し、その認識の違いでもどかし
い思いをさせられたことである。言葉と行動は一致しなければ何人も人の信頼を勝ち得る
事はできないと私は思うのだが、そのように考えない人も結構いるらしい。
 ちょうどこの事に関して、ずっと昔「斜光」という同人誌に初めて書いたフィクション
で「三つの願い」というものを投稿したことがある。たまたま今回万理久利さんが気に入
ってくれて復刻してくれたので、言葉や約束の重さや深さについてSF風の寓話として考
えるにはちょうどいいと思い、投稿してみた次第である。
 それから同人αの同志の多数が退会していったが、今回の百ページを越える作品集にな
ったことは、残った私達の創作意欲は全く衰えることのないことを証明したわけである。
これからは決して人数の多さだけにこだわらず、少数精鋭をめざして着実に活動したいと
思う。そのうち新しい有能な新人の同志も徐々に参加されるであろうことを期待する。





24号 『夢碍无(むげん)』   2010/8

 この暑い夏、独居隻語の癖(へき)あり。
鳥は飛べるものと当然思っていたが、ふと飛べない鳥のことが気に掛かり調べてみた。す
ると飛べる、飛べないという区分けが正しくない事がわかった。本当は飛ぶことが有利に
生きれることでそれを選んだ鳥と、飛ぶことを放棄してもより有利な条件で生きられるも
のとに別れるのだ。
 飛ばない鳥の方が珍しいのでそれ等を列記すると、アフリカのダチョウ、オーストラリ
アのエミュー、ニュージーランドのモア、南極のペンギン等々。総じて天敵の脅威が少な
い地域で生きる事ができたからであろう。飛びたいかどうかは、長い年月を経て選ばれた
本人の意思次第。下世話な世界で揺蕩(たゆとう)う生き方もまたいいだろう。しかしここ
へ集う者は高く遠く宇宙の果てまで真理を求めて飛翔することを好むようである。ここに
そのことを見事にうたいあげた詩がある。
サムエル・ウルマンの詩である。

    青 春

  青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。
  薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
  たくましい意志、豊かな想像力、炎える情熱をさす。
  青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
  ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
  年を重ねただだけで人は老いない。
  理想を失うとき初めて老いる。

  歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
  苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

  六十歳であろうと十六歳であろうと人の胸には、
  驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
  人生への興味の歓喜がある。
  君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
  人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
  霊感を受ける限り君は若い。

  霊感が絶え、精神が皮肉の勇気におおわれ、
  悲嘆の氷にとざされるとき、
  二十歳であろうと人は老いる。
  頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
  八十歳であろうと人は青春にして已む。




25号 『颯』   2010/11

 「文芸評論家の伊藤氏貴によると「商業誌」と「同人誌」の作風の違いは、 「商業誌」
は徹頭徹尾リアリズムで通すという作品は減っていて、マジックリアリズムだったり、漫
画キャラ化だったりと、日常的には理解しがたい要素がふんだんに入り込んでいる。
「同人誌」は未だに圧倒的にリアリズムであり、舞台は日常である。かつて「身辺雑記」
と揶揄された私小説作品が多く、そのなかでもとりわけ多い話題の一つは、幼少期の思い
出話である」。 と評している。
 しかし「同人誌」である「同人α」の最近の傾向は、私小説的なものももちろんあるが、
水村早苗が目指す本格小説はエミリー・ブロンテの「嵐が丘」のようなもの、すなわち全
くの「フィクション」だが、我々もそれを目指す傾向にあり、その結果その飛び具合もこ
れからの見物である。
 今回は検索を容易にするためにページヘッダー左部分にページと作品名を記した。また
各作品の最後のページの空白に同人の描いた挿絵を入れることを試みた。このように少し
でも読みやすく美しくするための冊子を目指したいと思う。




26号 『仮面』   2011/2

 古希を前に、昨年のグループ抗争や仕事の不況、視力低下などの三重苦という鬱陶(う
つとう)しい事柄をすべて払拭(ふつしよく)できたと思うから、今年は何かと展望の開け
る年にしたい。斃(くたば)る前にもう一度不死鳥のように甦(よみがえ)って見事な最後
の花を咲かせてみたい。花ならマンセル値 3RP 5/14という色の大輪の牡丹に限る。




27号 『こんとん』   2011/5

 この頃は身の回りのものが神隠しに遭うことが多く、しょっちゅうそれらを探し回って
いる自分にはうんざりする。時々PCの中のファイルや不要と思った品々を思い切って整
理することがあるが、必ず必要なものを捨てたことに後で気づいて悔やむのである。
 また何かの用で隣の部屋に行ったものの、自分が何をしに来たのかわからず呆然とたた
ずむことがある。しかもまとめてやればいっぺんに済む作業も、覚束かなくて一つずつ済
まさなければ捗がいかない。やはり私は確実に非在に向かって歩いているようで、考えて
みれば後十回くらいしか春を迎えられないということに気づいた。だからつまらぬことに
くよくよ思い悩まないで生きようと思った。




28号 『震災列島』   2011/8

 唐の詩人杜甫の詩に「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」に由来する古稀
まで、ついに私も生きた訳だ。若い頃はなぜか六十八歳でこの世に「おさらば」するもの
と心に決めていた。その数字になにか意味があったかどうかはっきりと理由付けしたわけ
ではないが、何となくそんな気がして周りの人たちに言いふらしていたことを思い出す。
将来への不安が昂じて、そのくらいでよかろうと自分で考えていたのだろうか。だから、
ここまで生き延びたことを嬉しいという感慨はないまま、その時の予想と言おうか、希望
と言おうか、それをいま二歳も越えてしまっている。
 若い頃よりいろいろの「?」という疑問符をたくさんポケットにしまい込んでいたのだ
が、この歳になってそれらの少しは解決したであろうか。宇宙の真理、生命の由来、生き
ること、自由、平等、正義、公正等々、私の中で明確な答えの見つからないまま、むしろ
その「?」は増えていくような気がする。ただそのような情況のなかで救いなのは、(棺
桶にはいるまで何も解決していないかも知れないが)自分はいまでもそれらの答えを求め
る気持ちだけは持ち続けてたいと思っていることである。




29号 『兆』   2011/11

時々に己の作品リストを見るに付け、拙(つた)ない文章であったが今まで随分たくさん書
いてきたなという感慨を覚える。
 物事を表現するということは他人の五感を通して、作者の姿なり考えなり生い立ちなり
をつぶさに観察されることを意味すると言える。だが自らその表現を望んでいるとしても、
その反面作者は気づかないうちに裸にされた己に恥ずかしさや戸惑いを覚え、誤解・嫌悪
などの負の印象を与えているかも知れないなどと恐れ、その間で鬩(せめ)ぎ合いをするの
である。
 しかし、作品のテーマに関わらず全体的に滲み出る、作者のロマン的とか現実的とか古
風だとか現代風とかいった匂い、印象は個々の作者にはあるもので、そしてそれが感じら
れない作品はワサビの効かない刺身を食べているようである。夏目漱石だって、森鴎外、
三島由紀夫、太宰治、宮沢賢治の大家はなおさらだ。私にも私なりの個性、匂いがあるの
だろうか、いつか誰かに尋ねてみたい気がする。




30号 『沈黙』   2012/1

 自己と他者などといった認識は、高等な頭脳を持たなければ成り立たないと思っていた
が、哲学的命題以前のもっと単純な生命体のなかでも行われている。それは生命の維持活
動において最も大事なシステムの一つであるらしい。
 免疫系をインターネットで検索してみると
免疫のシステムは生体内で病原体やがん細胞を認識して殺滅することにより生体を病気か
ら保護する多数の機構が集積した一大機構である。この機構はウイルスから寄生虫まで広
い範囲の病原体を感知し、作用が正しく行われるために、生体自身の健常細胞や組織と区
別しなければならない。この認識機構は、病原体は宿主にうまく感染できるように適応し
新たな進化も遂げているので、複雑である。この困難な課題を克服して生き延びるために、
病原体を認識して中和する機構が一つならず進化した。
 即ち自己の細胞と病原体とを認識して的確に排除するという機能に於いて、自己と他者
を識別しているのである。そうなると頭脳明晰で哲学的命題の解答を見つけ出す人も、そ
んなこと一度も考えたことがなく暢気に生き長らえている俗人も、おなじ恩恵に浴してい
ることであり、特別脳を鍛えなくても生きて行けそうだ。
 しかし困ったことに好奇心という奴が心の中に住み着くと、 黙狂の矢場徹吾よろしく
「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」などといった難題の数々?
??に溺れそうな私である。そのうちつかまることのできる一片の藁が流れてきてくれる
であろうか。




31号 『遊び』   2012/5

さて、放浪の旅を終えいよいよ終の棲家(ついのすみか)に収ろうという算段ではあるが、
世の中まだまだ何が起こるか想像も付かない。私は天を指すような富士の高嶺を見る度に
ロケットの噴射台を想像する。天災列島に起こる大地震、大津波、大火災、或いは第三次
世界大戦が勃発して核戦争になって、富士山の火口をカタパルトと見なし、光子ロケット
に乗り宇宙に向かって飛び出す夢を見た。




32号 『造次顚沛』   2012/8

大都会から脱出して山に籠もった訳だが、世間から取り残されるかと思いきや、そうでは
なく肝心な物事の本質は毫も変わらないことが判った。ある程度の批判はしていたにもか
かわらず、いかにくだらない情報が毎日身の回りに飛び交い、それに影響を受けて行動し
ていたかを思い知った。テレビや新聞、週刊誌、人間関係等々。目を患って以来活字をう
まく追えなくなったいま、私はマスコミの情報を避け、むしろ五感のなかの音の世界をも
う一度日々の生活に取り戻そうと思っている。十数年前に田舎に引っ込んだとき、プリメ
インアンプ、CDプレイヤ−、スピーカーなどの高価なセットを、田舎の甥に譲ったまま
上京してきので、オ―ディオのセットの購入を今目論んでいるところだ。求めるべきか否
か、兎に角カタログを眺めているる時が一番楽しいような気持ちになっている。ないよ。)




33号 『無常』   2012/11

 α32号の出版のとき、神野氏より古東哲明著の「ハイデガー=存在神秘の哲学」という
本をもらったので、難解な理論を毎日数ページづつ辛抱して読んだ。古東氏の本で、これ
もまた神野氏からもらった本だが、「あることの不思議」という本はハイデガーの解説書
として初めて読んだためか、より一層難解に感じたものだ。その点後で読んだものは下地
ができているので理解しやすく感じられる。何せ世界内存在、きづかい、非本来的自己、
刻一刻性、ゲシュテルなどの哲学用語は一度解説書を読まない限り、いつまでも理解出来
ない判じ物の看板のようである。
 最近これらの本を読んでいるとニーチェの「ニヒリズム」、ハイデガーの「存在の奇妙
さ、希有さ、不思議さ」、サルトルの「存在と無」などの思想が繋がっていることを感じ
た。
 しかしこんなことに一所懸命考えても、一向に貧乏神は我が家を出て行く気配がない。
困ったものだ。




34号 『息吹』   2013/2
 つらつら自分の作品の傾向を考えて見るに、街や場所、その時代の出来事、特定の人物
像などにおいて、具体的な情景や名称を意図的に描かない物語が多いことに気づく。
「三つの願い」にいたってはバ―ド・ブレイン、グレイ・ブレイン、エヴァ・マリ―・ゼノン
などといった、国籍不明の名前を使ったりしているのは、なんらかの無意識の願望が働く
のだろう。
 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のジョバンニ、カムパネルラ、「グスコ―ブドリの伝記」
のグスコ―ブドリ、「ポラ―ノの広場」キュ―ストなどを意図的に参考にしたわけではな
いが、どうも私が現実的(リアリズム)描写を厭うのは、世間的な既定の印象を与えるな
どの現実に限定された解釈を避けたいという気持ちが強いのだろう。
 これは「鐵橋」に描かれているように、何物にも囚われたくないという少年の頃の私の
性癖がなせる業なのかも知れないし、今現在生きている場所や時代を超えた異国・異界へ
の憧れなのだろう。




35号 『ラビリンス(迷宮)』   2013/5

 先日、梁山泊の仲間の一人が亡くなった。写真の十二人のうち四人が鬼籍に入ったこと
になる。美人薄命、憎まれっ子世に憚るなどという言葉を聞くと、長生きもいい加減にし
なくてはと思うこともある。セピア色の写真に写った前途洋々の少年少女の時代が懐かし
く郷愁も覚えるが、何も嘆くことはない。短命であろうと長生きであろうと皆、自分の人
生を一所懸命生きて来たのだから。しかし幼なじみが一人二人といなくなるのは少々堪え
るなあ。

??????????




36号 『言葉』   2013/8

 この頃は縦書きの編集、奇数ページ左上のヘッダー設定などに馴れて、手間を取らない
ようになった。また校正においては、長岡さんと万理さん、神野さんの三人で原稿を校正、
その後ゲラ刷原稿を私がつくり、最後にもう一度三人に最終チェックをしてもらう。これ
で完璧。印刷においては、回を重ねる毎に速度の問題も工夫をしたお陰で随分早くなり、
ミスも減った。付属品類においては、コピー用紙、製本テープ、印刷インクなどもネット
ショップで安く購入できるし、特にインクはコピー機メーカーの純正ではなく、リサイク
ル品を使うと純正の半額で求められるから、随分経済的になり助かる。
 そして義理で買わされる人、あるいは真面目に読まない人には無理に買って貰わない
ようにしているので、その結果発行部数や購読者あるいは同人の数も増えず、地味な活動
になっている。まあ敢えて増やす必要もないし、少数精鋭で充実していれば自ずといい作
品の冊子になると確信している。
 それにしても年四回、三カ月に一度、作品を作り冊子を発行するという行為を、足かけ
十年もよく続けたものだと我ながら感心することである。




37号 『古典』   2013/11
 この山荘に移り住んで既に一年半になる。引っ越して来る前に、地元の人達から「ここ
は冬になると零下二十度になるぞ」とばかりにさんざん脅されてきたが、一回冬を過ごし
てみると低い温度であるにも拘わらず、本郷の冬の寒さとさして違わないように思えた。
これも馴れたせいかなのかも知れない。
 そして大工さん、電気屋さん、設備屋さん、植木屋さん、本の編集者、設計者など付き
合いが少しずつ増えてきて、それなりに交流が始まってきた。しかもそれらの人達が折に
触れて椚・楢・アカシヤ・杉・唐松・白樺などの薪材や家の解体材など、薪ストーブ用の
木材をたくさん持って来てくれる。これで厳寒の冬は凍えることなく部屋を暖かくして過
ごせるぞ、という安心感はまことに得がたいものである。ストーブの炎を見ながらうとう
ととうたた寝することは、スヌーピーの問う「幸せとはなにか」の答えの一つなのかも知
れないと思ったりしている。




38号 『心情風景』   2013/11

 山の中での暮らしは退屈で仕方ないだろうと思われるかも知れない。ここに来るまでは
交通量の多さ、様々な機器類から発生する低騒音、ビルの林立で空が小さい、人の多さ等
々、私が大都会の真ん中で忙しい暮らしをしていたことを知っていた人には、そう思われ
ているかも知れない。
 しかしこの山の中に住んでよく観察してみると、様々な不思議がいっぱいそこら中に転
がっている。
 雪の積もった朝の散歩では、数種類の野生動物の足跡を見つけて、その一つ一つに動物
の姿を当てはめて推理するのも又楽しい。この前は杉の木によっての葉の形が違うのを見
つけた。「オモテスギ」と「ウラスギ」である。「オモテスギ」は 太平洋側の雪が降らな
い地方に生えている。「ウラズギ」は北陸や東北と言った日本海側の豪雪地帯に生える。
一口で言えば雪害に強いのが「ウラスギ」、雪害に弱いのが「オモテスギ」ということに
なる。
 そのように自然の不思議な生態を見つけては楽しむのだから、全く退屈な時間などあり
はしないと私は思っている。皆さん、猫には人間のような突き出た頤(おとがい)がないの
に気づいていましたか?



18α編集部:2014/04/09(水) 22:04:33
シネマの話3
.
              シネマの話3 2010-2013





「銀座散歩」より 2011/3/6

朝9:30銀座マリオンにて「ツーリスト」という映画をみる。小さなバケツほどのポップ
コーンを食べながら。懐かしのヴェネチアが舞台。それなりにおもしろかった。ミステリ
ー仕立てだが、無限回廊などの筋を考えることに慣れると、自ずと映画の結末が判ってく
るような気がした。それがいいことなのか、興味が半減するのか今のところ自分にも判ら
ない。




「『反物質』の閉じ込め成功」より  2011/6/6

この「反物資」をテーマにした小説が 、ダン・ブラウン著のサスペンス小説『天使と悪
魔』(ANGELS & DEMONS)である。これは『ダ・ヴィンチ・コード』とおなじく2009年ア
メリカ映画が公開された。欧州合同原子核研究所(CERN、ジュネーブ)もその映画を
見て、実際に存在することを知ったのである。
ともかく、宇宙には「暗黒物質(dark matter)」や「反物質(antimatter)」という、興
味を刺激する謎が一杯存在していて、飽きることがない。




「映画鑑賞−ジュリエットからの手紙」  2011/6/14

原題は「Letters to Juliet 」であるから、日本語の題の命名は「ジ
ュリエットからの手紙」とあり、全く逆の意味になる。シェイクスピアの書いた「ロミオ
とジュリエット」に纏わる物語である。イタリアの古都ヴェローナのジュリエットの住ん
だ家の中庭で、五十年前の満たされない恋文を壁に貼った主人公。その返事を代筆する善
意の人達が書いた手紙を貰った主人公が、昔の恋人探しに訪れたことからこの物語は始ま
るのである。まあの映画の内容からすれば両方の解釈があっても間違いではないが・・・。
映画の題名は原題と違ったものがありよくある。用心しないと日本の題は意訳が多いから
間違った印象を持つことになるので、額面通りに信じてはいけない。

この映画の原題と日本名という二つの題名から受ける印象は、図らずも日本的な文化と西
洋的な文化の違いのように私は思えた。受動的な行動パターンの日本的文化と、やはり主
体的な自我の行動性を旨とする西洋的文化的の対比と見た。ジュリエットからの手紙(f
rom)か、ジュリエットへの手紙(to)の問題が面白いなと思った。やはり受動的な
意訳の方が日本人の感情に無理なく訴えるのかも知れない。


数年前イタリア旅行の時尋ねたところであり、美しい古都である。ジュリエッタの家のあ
るパティオも覗いたが、あまりにも人が多くてゆっくり思いをはせることは出来なかった。
この映画のストーリーはハッピー・エンドで終わるアメリカ映画の定番なのだが、
しかし老いた主人公を演じたヴァネッサ・レッドグレーヴがなかなかいい。てらいのない
落ち着いた風格はさすがで、あのように老いたいと思うほどである。おまけに、マカロニ
・ウェスタンでならしたフランコ・ネロもまたいい。ついでに実際にヴァネッサ・レッド
グレーヴはフランコ・ネロの四つ上の姉さん女房である。




ギンレイホールについて 2011/7/27

11期ファーンさんおよびひまじんさんの間で「銀鈴」か「銀嶺」かの問題が話題になっ
ていますが、その端緒は「ドキュメンタリー映画際 投稿者:吟遊視人 投稿日:2011年 7
月25日の『「シネマの会」という毎週一回、『銀鈴シネマ』で話題作を見る同好会があり
ます』の投稿にあります。

この映画鑑賞の会を作った者として、その経緯から解き明かしてみましょう。それは今か
ら9年前、2002年の6月の日記にたまたま散歩していたときの記録があり、そのときの印象
が映画鑑賞会を発足するきっかけになりました。なおその会の正式名称は「シネマ・デ・
ジョイ」(シネマで楽しもう。死ぬまで人生を楽しもうという意味をこめて)と皆で決め
ました。
代表は私、副代表はM.Tさん、H.Mさん、会計はT.Mさん。年会費:1,000円。会員24
名で発足、なお現在私は退会して会員ではありません。

飯田橋の神楽坂をもう一本後楽園に寄ったところに軽子坂(かるこさか)という路地があ
りました。その坂の由来は知りませんが、横町を曲がったすぐの所に一軒の映画館をみつ
けました。約200席のいわゆる懐かしの名画をみせるという場末の小さなもので、そこ
は貧乏学生時代のノスタルジーを彷彿させるに十分な面影を残した、狭さと昔を懐かしむ
ような老年の人たちや若い学生といった客筋で満ちていました。よき時代の雰囲気が廃れ
ていない時空が未だ存在するんだなと嬉しくなりました。もちろん入場料はシルバー料金
の1,000円ぽっきり。この値段で5時間近く楽しめる娯楽はそうめったには見つから
ないと思います。

往年のアン・マーグレットを思わせる美貌の女優と、アラン・ドロンに似た男優の演ずる
「ムーラン・ルージュ」のファンタスチックな物語を主に鑑賞するつもりでしたが、もう
一本の方「ぼくの神様」が思いもよらず秀逸でした。第2次大戦のポーランドが舞台。ナ
チスのユダヤ人狩りから逃れるため親元を離れ一人疎開させられた児童の物語でした。美
しい田園風景の中で起きる大人の戦争という不条理の世界に、子供までが巻き込まれ厳し
い現実に直面する話でした。

このような素晴らしい映画は大作でないだけに、あまり宣伝されず埋もれてゆくのかと思
うと残念です。そのような訳でたまには誇大に宣伝された大作だけではなく、こまめに優
れた小品を探しだして映画鑑賞を楽しんではいかがでしょうか。

さて本題の名称について
銀鈴会館というビルは確かにそこに存在します。またギンレイホーという映画館もそのビ
ルの一角にあります。銀鈴会館はその中に雀荘、酒場、くらら劇場(アダルト映画)、不
動産会社などの入っている総合ビルで、その名称であって「ギンレイホール」はそのなか
の一つです。
念のために銀嶺ホールと私が思い込んでいた名称をWikipediaで調べてみました。この映
画館に関する投稿は「ギンレイホール」か「銀嶺ホール」で数件見つけました。
◆青木塾ブログ:名画座、銀嶺ホール
◆飯田橋ぎんれいホール | 人生、色々、男も色々・・・
◆dietcoker_diaryのブログ : 銀嶺ホール (第9地区)と後楽園遊園地 ...
◆青山808 (4) 飯田橋銀嶺ホール:青山808:So-netブログ

そこで正確を期すために「ギンレイホール」の支配人に直接その名称について尋ねました。
その結果1974年から「ギンレイホール」と称していて、それ以前の記録が見つからないと
いう返事をいただきました。いずれにしてもWikipediaにも「銀鈴ホール」では記載され
ていません、ましてや「銀鈴シネマ」という名称もありませんことを報告します。




「無限回廊 第五回を読んで」より 2011/10/23

「久しぶりの日本で、日本の大手広告会社、アジア支局に勤めるエヴァはすっかりくつろ
いでいた。ほぼ一ケ月の休暇をとれたからだ。金曜の朝もビールを片手に長椅子に横たわ
り読書をしていた。」とあるように、エヴァはどうも酒が好きらしい。
物語の中でもいくつか出てくるが、ここで小説や映画のなかで描かれた有名な場面を調べ
て見た。

◆ダイキリ
 ヘミングウェイが愛飲したフローズン・ダイキリは、ラム酒をダブルにし、グレープフ
 ルーツ・ジュースを入れ、砂糖を抜いたもので、これをパパ・ダイキリと呼ぶ。
  * ラム - 45ml
  * ライム・ジュース - 15ml
  * 砂糖 - 1tsp
◆ギムレット
 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説『長いお別れ』中の代表的な台詞
 "I s uppose IT's a bit too early for a gimlet," he said.
(ギムレットには早すぎる)
  * ジン - (全量の)3/4
  * ライム・ジュース - (全量の)1/4
◆マム
 映画「カサブランカ」の名セリフ “ 君の瞳に乾杯 ”Here's,lookin'AT you,kid とい
 う名セリフと共に飲んだシャンパンが「マム」。フランスのシャンパーニュ地方特産の
 発泡ワインである。
◆ペリエ・ジュエ
 「危険な情事」の中で、サムが、浮気相手のアレックスと飲んでいるのが「ペリエ・ジュ
 エ」これもシャンパン。
■ジャックダニエル
 1978年製作「殺人遊戯」のポスターで、松田優作が持っている酒は、テネシー・ウイス
 キーの「ジャックダニエル」。トウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などを麦芽で糖化、
 さらに酵母を加えてアルコール発酵させる。

若い時は浴びるほど飲んでも平気だった私だが、そのときは酒の味などよく判らなかった。
しかし今、医者から控えろと言われてみると無性に飲みたくなる。昌平坂探偵事務所のフ
ィリップ・マーローを気取って、新宿の高層ビル51階のとあるバーで、きら星のごとく瞬
く様々な色の町の灯りを眺めながら、ギムレットを賞味してみたいと思った。




「北大路魯山人の昆布とろ」より  2012/11/3

昔、息子の寝床で読んでやったユリ・シュルヴィッツの絵本「よあけ」のなかに出てくる、
まだ日も上がらない薄暗い山間の湖、澪を引くボートの印象的絵を思い出す。最近では「き
みに読む物語」という映画で、これもまた朝まだきか夕暮れか失念したが、薄暗い湖をレ
ガッタで澪を引いて漕いでいるの最後のシーンが印象的だった。




「37号「人生詩」を読んで」より 2013/12/19

 神野氏が私の作品に対する評の傾向をみると、情感や情景描写の素直さを指摘すること
が多い。例えば「三つの願い」や今回の「シリーズ・歪んだ風景−鐵橋 第六回」において
は論証的で説明的で理屈をこねたり、理に勝ることを諫めているようだ。
 小津映画の特徴として「説明的な要素を極限まで削ぎ落としたセリフと、端正な構図が
挙げられます。“家族や人生”をテーマに人間心理をついた一言は、多くを語らない分、
作品には観客が想像する“余白”が残されており、自分の境遇に照らして寄り添える魅力
がある」という評価がある。
(中略)
さて、私の説明的作品と違って神野氏の文章は、「言葉集め星創り」「始原へ遡ろう」「パ
ラレル宇宙」「人の像をした美しい青い地球」、 およびこの「人生詩」にしても、全くの
文学的な作品であるから難解極まりないのであるが、そこには知識の披露ではなく、己の
率直な感動の記録だから、小津映画と共通する素直さや清新さが人の情感に触れる作品を
描くことが出来るのであろう。



19α編集部:2014/04/10(木) 22:37:10
著者写真とコメント集/讃集2
.
          著者写真とコメント集/讃集 2
?????????????????????????????? 2010/23号-2011/28号




    23号から、古賀氏自らが立ち上げた著者のポートレート専用のブログ
    に、画像とコメントを掲載・保管することになった。 自画像の中には
    化身と思われるものがいくつか見られるが、どれが化身でどれが本体か
    区別がつきにくいものもあるようだ。





『鈍色の空−その3(最終回)』 23号
??2010/6/14


          

半世紀前の「真昼の決闘」・「友情ある説得」のゲイリー・クーパーや、「駅馬車」・
「静かなる男」のジョン・ウェインのように、まだ男が男らしく、女が女らしかった時代
が懐かしい。

これは単なる懐古趣味だけの感傷からではなく、この時代の映画の中の主人公は物事にた
いして心の内になにが正しいかを的確に判断する目を持っているように思えた。その人達
はそれに裏打ちされたゆるぎないプライドや自負が、何とも言えない品格を創り出してい
た。詭弁や策略といった小細工で下らぬ意地や面子を守るためにだけ行動したりせず、理
にかなった主張のもとに攻めるべき時は果敢に攻め、引くべき時は清く引くという、じつ
に清々しい堂々とした生き方をしていたものだ。

残念なことに昨今は、自分の言葉と行動が一致しなくても良心が疼くこともなく、プラ
イドを投げ捨てても何の痛痒も感じない人達がいる時代になってしまった。 感情でなく
「理正(りせい)」で「万理(ばんり)」の本質を突き詰めて「神野(かみの)」領域に
あるかもしれない、「よりよきもの」を志向するという、心のうちなる良心の鏡を持って
いるように見えるゲイリー・クーパーやジョン・ウェイン達は、いつの世になろうとも
「赤松次郎」の憧れの人物像であった。

などと数十年前にスキーで訪れた蔵王の山頂でのカーボーイの格好をした我が写真を見な
がらそういう妄想に駆られたのであります。






『無限回廊 第一回』 24号
??2010/9/11


          

これは近未来の物語、ありそうでなさそうな話である。どうせこの世の現象すべてを正確
に論証することが不可能なら、いっそのこととんでもない世界を作りたいと思った。しか
も作者は一人ではなく、いろいろの専門的な知識に精通した人がそれぞれの章を書き進め
るため、どこへ行き着くかも皆目わからない。だからいままで見たこともない世界を我々
に覗かせてくれるだろう。まずは序章をバード・ブレインが担当した次第だ。さあ皆さん
ファンタジックの世界、異常な世界、倒錯の世界など何が体験できるか好奇心を持って一
緒に出かけましょう。

写真は2月21日第22号出版の後の会議で同人α分裂の兆しを予感して分かれた後の記念
すべき写真。結果として同人αに残り、引き続き活動したのは次の四人であった。

左からグレイ・ブレイン(認識番号13):長岡曉生
真ん中がバード・ブレイン(認識番号11):古賀和彦
右にエヴァ・マリー・ゼノン(認識番号17):万理久利
サカエ・ル・カミノ:神野佐嘉江は後の登場となりますので、しばらくお待ちくください。
  バード・ブレイン記






『趣味と道楽の狭間で(狭間シリーズ1)』 24号
??2010/10/9


          

僕の周りには帽子の好きな友人が何人かいる。僕もその一人である。帽子の効用は夏の太
陽から暑さを避けることや、薄くなった頭を隠すこと、風から髪の乱れを守ること、頭部
保護、防寒などの実用的理由から、またファッションといったものまでいろいろある。

僕が被っているのはジョン・ウェイン主演の映画「アメリカ合衆国の特殊部隊・グリーン
ベレー」の帽子である。だからといって特別僕が軍国主義的な思想が好きというわけでも
ない。長い間自由業を営んできたのでラフな格好でも勤まったものだが、僕は自分の生活
が自堕落にならないように時々はネクタイなど締め、正装をして事務所に出かけたものだ。
その意味では、あるていどの規律的生活を厭うものではない。
実用的でなくても帽子を被る人達は、己の姿を別の人格に見せたいという無意識の願望
があるのではないかという私の考えは、また別の機会にじっくり思索してみたいと思って
いる。

僕は数年前友人のS君と誘いあわせて御徒町のアメヤ横町のガード下にある中田商店に繰
り出した。あるわあるわ、世界中の軍服や勲章や階級章など、戦前の軍国主義の時代に迷
い込んだような妙な気分になった。いくら何でもこのアナクロニズム的雰囲気にはついて
行けない。その後S君はハンチング帽ばかりで、その時僕はグリーンを、彼は黒を一緒に
求めたのだが、この黒いベレー帽を被った姿をいままで見たことがない。さてはあのアメ
ヤ横町への同道は僕のために多少無理をしたのかもしれないと今は思っている。

今回の「趣味と道楽の狭間で」は十数年前に同人誌「斜光」に投稿したもので、狭間シリ
ーズの走りという記念すべきものであった。しかし僕はこの帽子をいろいろ欲しがるとい
う行為は道楽とは言えず、趣味ともいえる実にささやかなものなのだと思っている。

==============================

この写真を見た感想は、確かに「人格が変わっている」ということ に尽きた。いや、と
言うよりも「飛んでいる」という感じを受けた。
しかも、以前にどこかで見た顔なのだ。それは、どこで見た顔だろうと考えている内に、
思い出した。
以前勤務していた研究所の公式テニス部のNo1の顔である。 長期に渡ってTOPの座を
保ち続けた強靱さと自信が形作った顔が この写真の中にそっくり再現されている。
これが、帽子が持つ魔力という物であろうか。
長岡 曉生

==============================

帽子はおしゃれの意外なポイントにもなるが、その他、人格を少し変えてみる、他人を戸
惑わす、そんな力をもつ有力な小道具だ。
筆者はおしゃれというより、後者の理由で帽子に惹かれているのかと思う。
私の母は帽子が好きで春夏秋冬お気に入りの帽子をかぶっていた。彼女の目的はただ一つ
「おしゃれ」。
そんな彼女の子供は全員帽子は苦手でほとんどかぶらない。それでも母の手編みの帽子一
つはみななぜか取っており、冬になるとかぶっている。
母の帽子と買って貰った帽子が手元にある。遅ればせながら「おしゃれ」で時々かぶって
いる。いや人格を変える目的かもしれない。あるいは顔隠し。
ベレー帽姿の筆者は確かにすごみがある。ベレー帽が彼の人格を変えたのだろう。
万理 久利






『明日天気になーれ 第一回』 25号
??2010/11/19

???????????????????? 戦いに赴く赤松タロウ 認識番号11(早川篤史作)
          

古賀和彦さん 賛
このむつりだんまり遊び人がついに鎧をつけた。ただしこれは戦闘用らしい。
「無限回廊」のバードブレインか、「明日天気になーれ」のカラマツの象徴なのだろうか。
筆は重く、また姿を見ることもめったにない。探偵事務所に入りびったっているのだろう。
実にミステリアスな人間だ。天気予報サイトを立ち上げるそうだが、事務所には温度計・
湿度計・風向風速計・気圧計・雨量計・積雪計・蒸発計・日射計・日照計は一切ない。
朴歯の下駄だけが置いてある。 カラマツ ジローが怒ると敵地に台風を呼び込むそうだ。
こいついったい何者だ。目を細めてニコニコ笑っているジローの顔は仮面に違いない。
 竹内真理矢こと万理久利

= = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = == = = = = = = = = = = =

万理久利さんの「賛」、ありがとう。「酸」「散」「惨」でなくてよかった。
奇数日は「ゆりかごから墓場まで」に関わる病院、学校、ウサギ小屋、葬儀場などすべて
の建物を設計、ただし天国への階段を試みたのだが、途中でどう設計ミスをしたのか無限
回廊に迷いこんでしまった。だから当分引退して悠々自適の生活を送れそうにもないので
ある。
偶数日は湯島聖堂斜向かいの昌平坂探偵事務所で、浮気、家出人、行方人探し、素行調査、
迷子の猫探しと隠れた職業をこなしている。
今回は赤松次郎でもなく、バード・ブレインでもなく、そんじょそこらに掃いて捨てるほ
どいる気の小さいぼやきマンを主人公にした。カラマツ・ジローの姿は、有毒ガス・酸性
雨に満ちた外気から身を守るためブロンズの ヘルメット潜水帽、油くさい炎をはき出し、
ガチャガチャと金属音を発して悪さをするドラゴンのような、ブロンズのオーバーコート
を装備して、BMW ROCKET?Touring ('08)star 2300cc を駆使して移動するバード・
ブレインと違い、せいぜい人荷兼用600CCのジムニー愛用なのだ。
  古賀和彦






『晴れと褻の狭間で(狭間シリーズ2)』 25号
??2010/12/19


          

三十年近くも前の写真である。息子が二・三歳になったばかりで、着ているものから判断
すると、端午の節句に着る着物のようだ。写真をフォロー・パンすると右側のチェストの
上には武者人形が飾ってあるはずである。
この後、このマンションには二十年もの永きに住んだ。年齢と今までの引っ越し回数で除
すると2.3年に一度の転居、引っ越し魔のこの私が・・・である。
すでに「晴(はれ)と褻(け)の狭間で」の鬱に悩まされた時期を過ぎていて、家族のために
「さあがんばらなくちゃ」というという気分が感じられる。
しかしその後バブル崩壊に遭遇し、「沈みゆく家」のモデルでもあるこの家を処分せざる
を得ないという永い不況に悩まされたのである。もう一度この時代に戻してあげると神様
が言ってくれても、また苦労をするかと思うとそれもちょっとしんどいようで、丁重に遠
慮申し上げるであろう。






『あした天気になーれ』 26号
??2011/2/27


          

3年前、何かの記念日に銀座並木通りにある「季楽(きら)」での食事の時の写真である。
息子とは「美味いもの」と「コンピュータ」の話題であれば会話が成り立つので、近くに
住んでいてもなかなか寄りつかない彼を呼び出すチャンスでもある。だからできるだけ季
節季節の節目には電話で声をかけて、美味いものを食い歩いたり秋葉原の電気街を散策し
たりする餌をまくようにしている。
細君との関係は、「あした天気になあーれ」の斜に構えた気弱な恐妻家のジローのように、
日頃あのような辛辣な言葉や皮肉の投げ合いが現実にあるかどうかは秘密である。一緒に
なって40数年も経れば、あのような場面が無かろうはずはないと憶測するのは読者の勝
手と言っておきましょう。






『夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で』 26号
??2011/3/21


          

今まさに「斜光」第16号に投稿するための転居についての文「転々流々」を書き終わっ
たところであります。そしてそれは「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」の時代を含む
ものだから、前書きだけでもここで予告しておきましょう。

いままで私はずいぶんあちこちと転居してきた。それが趣味でもなければ、マニアックな
記録に挑戦した訳でもない。風の吹くまま気の向くまま、結果として人より多かったまで
である。それは長じてからはその原因が様々な仕事にやむなく就かざるを得なかったから
ではなく、単に住居を点々としただけで一度も職業を変えたことはない。ましてや孟母三
遷などといったよい環境と未来のためにといった高邁な目的があった訳でもさらさらない。

さて、写真の銅製の作品はcoppers早川(早川 篤史・克己(親子))氏の作品で、作品
名を「ステッキ」−F091といいます。彼等の個展を覗いた日の日記には次のように書
き残していました。
昨日の早川篤史氏の作品がどうしても気になり、夕方もう一度銀座松屋の7階の展示場へ
見に行きました。そして小さい像を思い切って購入しました。今まで30回近く転居した
己の姿を見つけたからです。つばのついた帽子、野暮なコート、右手にステッキ、左手に
大きな鞄、今の環境にちょっと飽きたのでどこかへ出かけるか・・・。
机に飾ったその作品に、未だ「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」の時代の心模様を引
きずっている己の姿を投影して、「ステッキ」という題名から「彷徨える次郎」と名付け
ました。そのうちまた見知らぬ街でこの姿を見かけるかも知れません。






『あした天気になーれ・第三回』 27号
??2011/2/27


          

あした天気になあーれのコメント              赤松 三毛次郎

我が輩は猫になりたい。
猫は人間の体重の約15分の1。猫は一日16〜20時間眠る。猫の摂取カロリーは人間の
2400/15=160kcal。14時間動き回る人間と比べれば一日100kcal以下でも十分である。
鶏ささみ100g(105kcal)。牛乳100cc(65kcal)。だから2・3日食べなくても生きて行け
る。人間の跳躍力はせいぜい50cm。猫は体高の5倍すなわち1.5m。人間ならさしづ
め8m跳べることになる。ちなみに、蚤は体高の100倍。人間にすると150m、まるでウ
ルトラマンみたいだ。

猫と人間の採食、運動能力の効率の差は歴然としている。そしてなんて人間は無駄なこと
をたくさん欲しがるのだろう。飛行機だってコンピュータだって携帯電話だって原子力発
電なんて猫には必要ない。現にそんなものの恩恵に浴さなくとも平気で生きている。我が
輩も来世は猫となってあるがままに生きよう、「樽のディオゲネス」のごとくに。
そして、今度の「あした天気になあーれ」は我が輩の横に写っているオスの三毛猫が主人
公である。どうぞよろしくと言っていますニャー。
http://www.youtube.com/watch?v=pOEXFJ9qHvc&feature=player_detailpage






『無限回廊 第四回』 27号
??2011/7/18


          

この写真はいつの頃のものかはっきりとは思い出せない。先日ポートレート用の写真を山
荘で探していたら、セルリアンブルーに真っ白の襟のついたポロシャツを着たライン下り
の船のデッキの上に立っている自分の写真を見つけた。そのシャツはなかなかシャープで
鮮やかな青が際立ったすてきなものだった。しかし私はついぞそんな物を持っていたとい
う記憶さえないのであるが、今ここにほしいと思ったくらいいい色だった。そのようにこ
の写真もいつのものか時も定かではない、遠い昔の髭を生やした気恥ずかしい写真の一つ
である。

さて今回の無限回廊は前回の作者が残してくれた難しいプロットに戸惑い・狂喜しながら、
なんとかうまく立ち回って結論らしきものを先送りした形で次の作者にバトンタッチ出来
たと悦にいっている。そしてちょっと意地悪な思いにニヤニヤするとともに、次号の担当
である万理さんがどのような物語をつくるかが楽しみである。







『あした天気になーれ 第四回』 28号
??2011/9/12


          

私は旅行中、毎晩寝る前に各ホテルのレターペーパーに必ず日記を付けることにしている。
それは絵を描く人が各所の景色や人物や文化をスケッチするのと同じく、ものを書くとい
う趣味を覚えてからの習慣になっている。見たものを正確に分析し整理することで、自分
なりに理由付けし、頭の中の引き出しに納めておく方法としては、実に有用である。

ここは、二千数百年の歴史を刻んだ「まさに近代国家の基本的なシステムを構築した」偉
大な時代の遺跡である。紀元前500年から紀元後500年、一千年間という長きに渡り繁栄
したまれな文明で、その国家を支えた政治思想は下記のようなものであろう。
1.ローマ法を基本とした法治国家であったこと。
2.民主主義であったこと。
3.人種融合政策をとったこと。
4.社会資本の整備が充実していたこと。
 交通路、上下水道、度量衡、幣制などの整備・統一が行われたこと。

フォロ・ロマーノを背に「あした天気になあーれ」のカラマツ・ジローの報告でした。
雄の三毛猫、下駄探しはチキン・ジョージにまかせて・・・。


****************************

古賀さん讃                         長岡 曉生

写真で見る通り、銀髪で長身、そしてにこやかな、そして音楽を愛する紳士です。
とはいえ、その中味はなかなかに複雑かつ新規性に満ちています。
その特徴を幾つか挙げて見ましょう。
 A群
  イタリア旅行が好みである。
  音楽を好む、それにラテン系の踊りも。
 B群
  建築一般に関心がある。
  新規かつ独創的な思考法を持っている。例えば素数好み・無限回廊の提唱など
  工夫好きであり、新しい問題の解決に熱中する。
 C群
  狭間・歪んだ風景・鈍色などが好みである。つまり難解である。
  四季の移り変わりと草木の風景が好みである。
  国語力豊かで単語の知識に卓越している。

上記の全貌は、長い時間を掛けてようやく解ってきました。
だって、鈍色で難解なんだもの。

 とはいえ、私が同人αに入会した平成19年春にも上記の片鱗は見えていました。
1)春号原稿締切りの4月末を跨いでイタリア旅行をなさっておいででした。
  ⇔ イタリア旅行好き と 狭間好み
2)この時の春号への投稿題名が、シリーズ・「歪んだ風景−岐路」でした。
  ⇔ 「イアリア建築」に住む「鈍色」女性の「四季の移り変わり」
  なお、この作品で初めてモノクロ原稿中にカラーの四季の花の写真が導入され
  後になって電子化されたα作品集の当作品に対し初めてBGMが導入されました。
  カラー導入・作品集電子化・BGM導入のいずれも
  古賀さんの工夫によるものです。

 そういえば、この時のαの号数が11号でしたが、11号は素数。
11は、5番目の素数ですが、5がこれまた素数という御念の入った組み合わせ。
それだけじゃあ無い。
11号の原稿が集まったあと、私の初顔合わせ会合でお会いしたαのメンバーが
みな11回生で、私は13回生である、と全てが素数に因む会合でありました。
お互いに、「えにし」だったなあ。

 えーと、もう一つ大事なことを忘れていたぞ。
 写真の背景に見えるのは、古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノで、西暦前6世紀頃から
3世紀末頃までローマの政治・経済の中心地として栄えた場所でした。
ここは、非常に重要な遺跡なのに、通常の観光ツァーには含まれないため、個人的に訪れ
た時に撮ったものだそうです。
 因みに、どうして著者がローマに惹かれ、この遺跡を訪れるのかを考えてみました。
銀髪でローマを愛し、そして建築物に興味を持つとなると
ははあ、当然あの人物の生まれ変わりでしょうね。
 詳細は、α29号の無限回廊でお知らせしましょう。
今、明かされる古賀和彦の前世 なんてね。お楽しみに。に。。みにに。に。??



20α編集部:2014/04/11(金) 13:05:21
著者写真とコメント集/讃集3
.
            著者写真とコメント集/讃集 3
??????????????????????????????   2011/29号-2013/35号




     喧騒の一年を過ぎ、余裕がでてきたのか、古いアルバムからセピアカラーの
     写真もちらほら。著者が言うように「カマキリ」のような姿は、今からはと
     ても想像できない。
     一方、背景に手を加え想像の世界を漂う著者もでてきた。





『あした天気になーれ第五回』 29号
 2011/12/5

  ????????????????????   ニコライ堂
          

この写真は神田駿河台にあるギリシャ正教の「東京復活大聖堂」愛称「ニコライ堂」の南
門の前で、散歩の途中に立ち寄った時のものだ。数本の蝋燭が灯され、立てかけられた聖
像画は東ローマ帝国で用いられたビザンチンモザイク様式のようで、永い歴史を私に感じ
させたものだ。

しかしカラマツ・ジローやチキン・ジョージが、雄の三毛猫、朴歯の下駄、卜占、タロッ
トカード、占星術、はたまた雨男・雨女に頼るとしても、今回私は森の石松よろしく賽銭、
蝋燭代、弁当を用意してもらい、カラマツ・ジローの代参として、天気予報の確率を上げ
るために神様にお願いに来たのではないのである。

さてさて、細君との確執はますます抜き差しならぬ様子を呈してきたことに、辟易してい
ると聞くカラマツ・ジローはどこへ行ったか。チキン・ジョージと例のガード下の薄汚れ
た屋台で、昼間っからモツ煮込みを肴に芋焼酎でも引っ掛けて憂さを晴らしているのだろ
うか、 聖ニコライは知る由もない。






『あした天気になーれ 第6回(最終回)』 30号
 2012/2/11


          

引っ越しばかりしていたので、随分写真も無くしてしまったが、なんとか押し入れの中か
ら昔の写真を探し出した。これは私が高校生の頃我が家の庭の一角で撮った写真である。
年の離れた従兄弟とスピッツらしき白い親犬、犬小屋には一匹の子犬までがちゃんと写っ
ている。
このころより私は朴歯の下駄を愛用していたが、この下駄はどうも違うらしい。黒い鼻緒
の桐の下駄で親父のものではないだろうか。
帽子は白い二本の白線に二羽の鵲をあしらった金色の記章、いかにも間寛一のかぶる高等
学校の帽子そっくりである。セータはやはり鈍色のアラン模様のフィッシャーマンセータ
ーである。どうもこのころから「あした天気になあーれ」や「無限回廊」などという空想
癖の兆しがみられるようである。






『無限回廊 第七回』 30号
 2012/4/15


          

写真コメント            ?? バード・ブレインこと赤松次郎こと古賀和彦
このころは日記も付けていなかったので何時の写真か判然としない。髭をたくわえている
からおおまかな時代は判りそうなものだが、髭にも口髭、顎髭、頬髭などのバリエーショ
ンがあって、それぞれその時その時気分次第で試みてきたから、その時期を特定すること
は非常に難しい。30歳初めからサラリーマンを辞めて、自由業みたいな生業だったから、
比較的やりたいことを気兼ねなく出来たということだ。48歳のころの高校卒業30周年記
念大会では髭面ではなかったから、たぶん40歳の半ばではないだろうか。

さて、今回の無限回廊は前の著者達のとんでもないプロットをいかに収拾をつけ、全体の
方向に軌道修正するかが技の見せ所だと思った。しかし書いてみると自分もまたとんでも
ないストーリーに魅せられて飛びまくった感じがある。まさに時間や空間や理屈を超え自
由自在に遊ぶことのできる合作の面白さを堪能してたものだ。






『窓辺にてーそして、それから』 31号
 2012/6/7


          

光と影の狭間で
たぶん大学二年生のころ夏休みに帰省した折、田辺(森)君と二人で九州一周の貧乏旅行
をしたときの写真だと思われる。大人になるまで偏食、好き嫌いが多く、腺病質、神経質
でカマキリのように痩せた姿が見受けられる。ここは霧島温泉の近くの丸太造りの山小屋
のようだ。たぶん韓国岳に登る前か後かの写真で、窓枠に座った足には草鞋みたいなもの
を履いている。未来は渾沌としていて不安に押しつぶされそうな思いに、いつも不機嫌な
顔をしていたようだ。






『シリーズ・歪んだ風景−鐵橋 第一回』 32号
 2012/10/9


            好奇心いっぱいの孤高の人
          

赤松次郎(古賀和彦) 讃
上の絵は2年前に書いた作品のイメージ画の一部です。脚本中 配役「11」です。
どんな似顔絵を描こうかと考えていたのですが、どうしてもこれに行き着きました。
遠い親戚らしいのですが、ほとんど会ったことも話したことも無い人です。同人誌を通じ
て、掲示板を通じて、赤松次郎がどんな人物かを想像している次第です。
人一倍の好奇心、これは他者及び自分自身、猫のジャンプ力から宇宙の謎にまで向けられ
ているように思えます。知りたがり屋は社会と接触しつつも、いつも孤独、一人。そんな
イメージがあります。
普通のおっさんかもしれませんが、そんなそぶりを決して見せない人でもあります。
                                  万理久利






『3304 シリーズ・歪んだ風景―鐵橋 第二回』 33号
 2012/12/24


          

結界
 二つの川とそこに架かった二つの鐵橋は、その街に住んでいる人が皆感じていたかど
うかは判らないが、空間的にも心理的にも私にとって結界であった。

 結界とはwikipediaによると、自然崇拝である古神道の影響を受けた仏教、密教であ
る山岳信仰でも用いられ、修業の障害となるものが入ることを許されない場所や土地に対
しても用いられる。
??この他、生活や作法上注意すべきなんらかの境界を示す事物が、結界と呼称される場合
もある。作法・礼儀・知識のない者は境界を越えたり領域内に迷いこむことができてしま
い、領域や動作を冒す侵入者として扱われ、無作法または無作法者と呼ばれる。
また、日本建築に見られる襖、障子、衝立、縁側などの仕掛けも、同様の意味で広義の「結
界」である。商家においては、帳場と客を仕切るために置く帳場格子を結界と呼ぶ。

 結界の内に守られた少年時代から結界の外へ飛び出していく私にとって、なにか想像
も出来ない危険に遭遇するか、それとも幸運のもとに己の人生が開けるのか、大いなる不
安とそれ以上の希望が同居する冒険と言っても良かった。
 再び結界の内側に戻ったとき、そこには知己の面影を見て同胞としての安心感を覚え、
一方屈辱、劣等感、苦しみに苛まれた過去の自己嫌悪もまた同時に思い出し、過去と現在、
異境と故郷、夢想と実感、静と動、継続と断絶、饒舌と緘黙、絶望と希望、永遠と一瞬、
安住と放浪等々、様々な「意識の流れ」に押し流されそうだった。






『 無限回廊 第十回』 33号
 2013/1/23


             宇宙戦艦大和艦長
          

バード・ブレインの初夢
super sybogのバード・ブレインはあるとき、太陽系第三惑星の消滅する前に14万8千
光年の彼方のイスカンダルへ放射能除去装置コスモクリーナーDを求めて宇宙戦艦大和
の艦長となって旅立つ夢を見た。パワー・イーターの完成が間に合わなかっこと、最終兵
器であるリターン・パスの全世界の国々への設置に遅れが生じたこともあって、一部の国
の争いで核爆弾によりガイアの人々に放射能汚染の危険が迫ったためだ。これらの預言は
既にモノリスに記録されたものである。






『シリ―ズ・歪んだ風景―鐵橋 第三回』 34号
 2013/3/26

           変装前        変装後

          

変幻自在
オキシモーラン的ポートレートとコメント−解離性同一性障害(多重人格)の悩み

変装前(結界内):
善意無過失、無毒無臭、誠心誠意、青天白日、正当防衛、精力絶倫、
精励恪勤、清廉潔白、是々非々、切磋琢磨、千思万考、全力投球
人様から後ろ指を指されないように謹厳実直に世間を渡り、常に和を重んじ体裁を繕う。

変装後(結界外):
青息吐息、悪衣悪食、悪逆無道、悪戦苦闘、阿修羅道、悪漢無頼、
悪口雑言、阿鼻叫喚、阿附迎合、阿諛追従、阿諛便佞、暗送秋波
善意の底に沈殿する悪意に敏感故、露悪趣味に徹して世間を笑う姿は、
まだ髪と髭は黒々としていた四十五歳頃の私で、まるで数十回も別荘
を出たり入ったりするどうしようもないラッキー・ルチアーノみたいな
悪党面だ。当時このような姿でクライアントと設計の仕事の打ち合わ
せをしていたかと思うと冷や汗ものである。






『シリーズ・歪んだ風景―鐵橋 第四回』 35号
 2013/6/9


          

笑顔が一番
 XとY川に挟まれた結界の中で暮らした小さい頃の写真を探したが、引っ越しの度に少
しずつ無くしてしまい、今ではほとんどそれらしいものは見当たらない。
 これは竹ひごと木の胴体と和紙を使って作るゴム動力で飛ばす模型飛行機である。当時
私はこの遊びに嵌っていて、放課後は道一つ隔てた大学のグラウンドで近所の仲間達と暗
くなるまで興じていた。今の時代と違ってみんな質素な暮らしの子供ばかりであったが、
じつに楽しそうである。
                古賀和彦(赤松次郎、バード・ブレイン、本郷淳吾)



21α編集部:2014/04/12(土) 04:19:24
「詩学」/西脇順三郎
.
            「詩学」/西脇順三郎??2011






詩学をよんで−1

先日、北君から借りた西脇順三郎の「詩学」を今読んでいる。西脇といえば日本に於ける、
我々が目指す「オキシモーラン」のメタファの先達だと認識している。

西脇は「詩学は自然科学や社会人文科学とは根本的にその性質が違う。『詩』というもの
は科学の対象になるものとその性質が違うということである。
『詩』は純粋に想像された世界である。だから詩学というものもみな想像されたものであ
る。想像された超科学的なものを科学として解明が出来ない。それ自体矛盾である。」と
書いてある。
そしてさらに「『詩』という言葉にはそれ自体二つの違った意義が含まれている。内面的
な意味と外面的な意味に分けることが出来る。それで内面的な意味の時は、私は『ポエジ
ー』という名称を付けたい。それは詩の精神とか詩作を読んだときに感じた意識としての
情念である。
外面的な意味のときは私は『詩作』(詩の作品)という言葉を用いることにする。それは
一定の韻やリズムなどの形式の作品をいう。『詩学』という意味に私はポエジーというも
のは何であるかを学ぶという意味である。」とまずその本の序に書いている。
2011/11/24





詩学を読んで−2

さて、西脇順三郎の「詩学」の要点を表題ごとに纏めてみようと思う。そうすればきっと
私の頭の中でその課題に対する分析と理解が増すであろう。私はいままで感銘を受けた本、
たとえば最近ではマイケル・マンデルの「JUSTICE」やアラン全集などを自分なり
に纏めてみたことがある。その結果、一回の読書では半分も理解しないで読み飛ばしてい
ることがほとんどであることが判った。世で言う速読や、一月に50冊読んだという自慢
げな多読者に比して、私の読書は遅々としてはかが行かないので、そんなに知識量は期待
できない。その代わり一つのことを反芻して行くうちに、いままで難しかった学説や理論
や用語の意味が突然実感として理解出来る時がある。まさに理論が情念と一致する「悟り」
となるのである。
2011/11/25





詩学を読んで−3

3−偶然
「偶然」ということは神学とか宗教家の間で言う神の世界、絶対の世界、永遠の世界に対
立して有限の世界、自然の世界、人間の宿命の世界を「偶然」という。
ポエジーはボードレール的に考えれば、精神と肉体との対立の上に立っている。この見地
からすればポエジーは無限と有限との結合の上に立っている。精神を認めると同時に肉体
も認めなければならない。ポエジーは非常に肉体的でなければならないと同時に非常に精
神的でなければならない。ポエジーは「アイロニー」であり、矛盾である。

そういえば止揚という哲学用語があった。wikipediaによると、
ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二
様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した。つまり、古いも
のが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古い
ものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論
が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考
の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。
国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方と
は異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

ポエジーは「アイロニー」という意味は、現実の世界と絶対世界の対立、矛盾の狭間で苦
悩しながら遂には最も価値あるものに昇華されると言うことか。
2011/12/9





詩学を読んで−4

4−想像
ポエジイはいつも新しい関係を創作することによって人間の自然法則と現実をより深く感
じさせるという価値を持っている。すべての存在は関係的である。物質の原子でさえもプ
ラスとマイナスという方向の違った二つのエネルギーの結合から出来ている。

ピカソは「芸術というものは自然と違ったものだから、同じものになり得ない。芸術によ
ってわれわれは自然でないものの観念を表現するのだ」、また「私の場合は一つの作品は
破壊の合計である」ともいっている。
もちろん破壊されたことだけでも一つの新しい関係を結ぶことになるが、それだけではす
ぐれたポエジイではないだろう。その新しい関係が、なにかしら永遠という神秘的な意識
を象徴し、なにかしら哀愁を人間に感じさせなければ、それはすぐれたポエジイではない
と思う。
ポエジイが創作する思考は非現実(イレエール)ではあるが、そうした方法でなければ「永
遠」といったような神秘的意識やあの分析の出来ない哀愁という現実にふれることは出来
ない。ポエジイは感じることであって、理解するものではない。
詩作の目的は超自然または超現実の世界を創作することによってポエジイを人間に感じさ
せることである。

私の場合はこの超現実的創作に従えば、単に自然を写実するだけの具象画に興味を見いだ
せない自分がある。すなわち現代日本画や細密の写実画などの見られる、ただ物体の再現
を目指すもののなかに「アイロニー」や「シュール」さや「現実でない神秘的意識」「哀
愁」といったポエジイを表現していないとみえるからだ。
われわれが目指すオキシモーランの目的は、「現実の世界」と「想念の世界」の鬩ぎ合い
のなかで、理性では感じられない情感を表現することにあると思った。
2011/12/15



22α編集部:2014/04/13(日) 20:25:18
男と女
.


????????????????        男と女




    作品の中にも掲示板の中にも、男と女のドロドロ、かけひき、情愛、
    といったものはほとんど出てこない。鈍色の世界、狭間、この範疇
    にも該当しないようだ。著者にとっては男女のことは秘密の小箱入
    りのようである。記事の中からやっと拾い出した。





男女の差違について

面白い話題なので、以前「斜光」にこの問題について書いた拙文を載せます。
男と女の生物学的差異については多田富雄著「生命の意味論」によれば、女の染色体はX
X、男の染色体はXYであるが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、人間
はもともと女になるべく設計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝子で、
血液凝固・色覚・免疫細胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に男をつ
くるためだけの遺伝子らしく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫で長持
ちするようにできているのである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男でも女
でもない状態であり、基本型がきまってから「夏目漱石曰く『でも・しか』すなわち男に
でもなるか、男にしかなれない」などといった程度のもので、Y遺伝子のためにむりやり
女の体を加工して男にさせられた結果だという。だからアダムの肋骨からイブが作られた
のではなくイブ(女)からアダム(男))が作られたということである。
だから今でもかみさんに頭があがらないのであります。
2007/12/20(木霊)






「性についての雑考 の感想」より

 私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
 エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
 「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
  (1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
  (2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。

2009/4/7(旧α掲示板)





「色模様 を読んで」より

◆ブログの写真を見て
 O−chanは不思議な人である。まるで剣客塚原卜伝の「無手勝流」の使い手のよう
 に、一見隙だらけのように思えて観客をハラハラさせるが、結局は己のなすがままにち
 ゃっかり勝利を手にしているという希な人である。
 その姿もクレオパトラか楊貴妃か藤原紀香のように傾城の美女という訳ではないが、男
 の心を惑わすような妙な魅力が備わっていて見飽きない。女優でいえば「足ながおじさ
 ん」に出たレスリー・キャロンか、「アパートの鍵貸します」のシャーリー・マクレー
 ンあたりだろうか、好き嫌いは別として・・・。

◆さて本題の「色模様」の感想を書くが、一言でいえば信子の「心模様」を見事に書きき
 ったもので、いよいよ私好みの「純文学」の世界へ入ってきた作品と言えよう。何が「娯
 楽小説」でなにが「純文学」かは人によって解釈が違うようだ。だからこの問題は微妙
 で一筋縄ではないようだから、こうであると今私が断じることはなるべく避けたい。参
 考として先日朝日新聞2009/3/25の「文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子」はこう
 言っている。
 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいかに
描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定義を
思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前でト
ンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
◆そこで「色模様」については、足を絡ませたり。耳を噛んだり、指を絡ませる等の肉体
 の接触で男女の関係を表しているが、この辺は通俗小説じみている。しかし「私が首に
 なって路頭に迷ったらあなた面倒見てくれる?」の会話における男と女の心理が面白い。
 男は自分の立場上不可能なことだと必死で説明し自分を守ろうとする。女は無理だと判
 りながら「安心しなさい、ずっと面倒見てあげるよ」という言葉だけでも言ってもらう
 ことでふっと湧いた不安が癒されるのである。そのへんの機微が男には判らない。私も
 細君にそのような問い掛けをされたとき、真剣に理屈をくどくど説いて、答えを出そう
 ともがくのであるが、「女の気持ちがちっとも分かっていない」「言葉は只、慰めを言
 わない手はない」などと叱られるのである。世間を見ると「歯の浮くような」言葉をよ
 くする男の方が、女性を幸せにするのかもしれない。だが私みたいな朴念仁にはなかな
 か出来ない辛い仕事である。

 男と女の繋がりは、一緒に側に居たい、それが心地よいと思うかどうかの問題で、不倫
だろうとなかろうと当事者以外が問題にするようなものではないと私は思う。男も女も今
の相手と違った魅力の人々が一杯いるわけだから、それぞれの人を好きになってはいけな
いという倫理感は、他人に押しつけるべきではない。そういう面での信子の生き方には、
決まり切った世間の通念に囚われない心の自由を感じる。だから今の彼との間に何らかの
束縛感を覚えたとき、信子はすんなり別れてしまいそうな気がする。
この小説は、そのような結論の出ない、たゆたいのなかの信子の暮らし振りが非常によく
書けていると私は思う。また筋の纏まりもよく一人称で語られているので人間関係も判り
やすい、よくできた作品と私は思う。

2009/4/20?? (旧α掲示板)





「*沈みゆく家 第六回 合評のお礼その4」より??*同人α19号
http://2style.in/alpha/19-10.html

1.「少女特有の希望といわれない不安」という一文が思わず大きな話題になりました。む
 しろ私の考えを早めにお答えするよりは、皆さんの侃々諤々の討論のままにした方がよ
 かったのではないか今は思っています。
 性差の違いは空間把握能力や言語認識能力などで違うといわれていますが、私は基本的
 な思考力や感覚においては、大きな性差はないと思っています。確かに子供が産める、
 産めないといった肉体的な差異や、社会的な環境において男の生き方、女の生き方とい
 った、長い年月をかけた刷り込みがあったのは確かで、そういう傾向をまだ引きずって
 はいるのだから男と女の違いの考えがあるかのごとき言葉を使ったことを反省している
 訳です。
 もし、性差による大きな思想や感覚の違いがあるとすれば、その謎は実に魅力的で、イ
 マジンさんの言われる「女性の神聖」は解き明かしたい衝動にかられます。実は私も少
 年のころにはそう思っていたふしがあります。お隣のホームページ「木霊」で企画され
 た「七夕様へのお願い事」に「二度生まれ変わりたい、一度は女性に、もう一度はその
 結果をみてどちらかに生まれ変わりたい」と欲張ったお願いをしました。でも今は同じ
 人間としての基本は変わらないと思っています。

4.柴田翔の「されどわれらが日々」の優子のセリフが少女特有の心理を表現しているのか、
 いつか読んで考えて見ましょう。

2009/8/6 (旧α掲示板)





*◇評者 ◆著者

「*鈍色の空 合評のお礼−1」より *同人α23号?? http://2style.in/alpha/23-3.html
万理さんへ
懇切丁寧に読み込んでくださって有り難う。以下設問に応じて・・・というより何がなに
やらとりとめもなく勝手に話を進めさせていただきます。

◇1から遡って読んでみると、様々な女性が出てくることに改めて気づかされた。のこと
について

◆今まで女性との関係を詳細に記述することがありませんでしたが、今回はそのことを意
 識して描きました。私はとにかく若いときからいままで女性にたいする定見を持ち得な
 かったので、むしろ性別を超えた独りの人間として接しようとしてきたと思っています。
 若いときは女性をすべて自分を超えた存在として、憧れの目で見ていたようです。想念
 の世界でアリサやレナール夫人に思いをはせても、現実の世界ではそのような純粋な思
 いが持続するとは思えませんが、人は未だにそれを求め、文学や演劇や映画の世界に浸
 るのでしょう。実際はほとんどの人生においては、逃れられない些末な雑事がほとんど
 の時間を支配していて、夢見るような幸せな恋心だけでは生きては行けないことはとっ
 くに判ってしまいました。

2010/6/25



「鈍色の空 合評のお礼−2」より

神野佐嘉江さんへ
◇「著者のポートレートとコメント集」を見たよ。近影かと思ったら数十年前 のだとい
 う。驚いたね。古賀君は昔も今もちっとも変わっていない。ただ、 ジーンズの前の辺
 りの紺が濡れ色だね。するとこれはおもらしか。それなら 近影と思えなくもない(笑)。

◆「ゆき」の中の「ゆきこ」との道「ゆき」は唯一次郎の女性にたいする微妙 な心の動
 きを詩情として感じていただき非常にうれしかった。その1から最 終回までを通じて
 これが書きたかったといってもいいでしょう。「じろうさん、じれったい」といみじく
 も長岡さんが書いたように、遠くばかり見ている次郎の女性にたいする晩成の性格を表
 し、内省としての記述はしませんでしたが揺れ動く若い次郎の心情が表現出来ればいい
 と思いました。

2010/6/26



「鈍色の空 合評のお礼−3」より

長岡曉生さんへ
◇これら全てが鈍色である。とは言え、この尾形の肺炎が、後段の主人公とゆきことの間
 の、かそけき思い出を作る一つのきっかけに成って居るのが、また作者らしい巧みな話
 の進め方と言える。

◆高揚感と現実のままならない憂さとの対比は長岡さんのいうように出来るだけ前後して
 際立たせました。人は何かのきっかけを作っては心の中の澱を希薄しようと試みます。
 私は酒を飲んで憂さを晴らすというと思ったことは一度もありませんでしたが・・・。

◇敢えて交情と書いたが、作者は常に露骨な表現を避け、対象とは距離を置いて淡々と描 写している。これは、作者が持つ想念世界への憧れとそれがもたらす一種の潔癖性なの か。それとも、そのような作中文体に表現を限ろうとする、意図的試みなのだろうか。

◆お礼その2で書いたように私はロマン主義的な傾向があり、「誰かがそれを」のなかに
 出てくる「入れ歯」とか「生理」とか、あまりにも直接的な露骨な表現を避けるきらい
 があります。事実ではあるがあまり余韻のないものを、いかに別の言葉に置き換えて表
 すかはいつも推敲するところで、直截的な言葉や一般に多く使われているものに対して、
 安易に使用して済ますことを厭うからです。これは個人的な趣味の問題かもしれません。

2010/6/27



23α編集部:2014/04/14(月) 17:04:28
小さな交流
.
             小さな交流





??????????????????  ??????????ゆるりん


ゆるりん朗読会  2010/11/8

土曜日S君と朗読会に行った。音楽をバックグランドにちょっと怖い話ばかり4話聞いた。
会場のクライン ブルーというパブ&ギャラリーは一度誰かの個展を見に来た覚えがあっ
たが、知り合いの誰のだったか失念した。
日時:11月6日(土) pm18:30〜20:00
場所:KLEIN BLUE(クライン ブルー)
   東京都千代田区神田神保町1-7
◆ゆるりんリーディングナイトとは、ナレーターやラジオのDJとして活動している西原
 さおりさんと吉田美穂さんが結成した朗読ユニットであるとパンフレットには紹介して
 ある。http://yururin.com
??これは活動は澤田君も関係している、神田神保町のボランティアグループ「神保町応援
 隊」の活動の一環だと聞いた。
◆朗読の題:川端康成 心中
      阿刀田高   迷路
高橋克彦 母の死んだ家
星新一 ボッコちゃん
◆店の名前クライン・ブルーのいわれはイヴ・クラインという画家の好んで用いた色だという。

     クライン・ブルー

wikipediaによると
ヴ・クライン(Yves Klein, 1928年4月28日 - 1962年6月6日)は、単色の作品を制作する
モノクロニズムを代表するフランスの画家。アーティストとしての活動は晩年のごく数年
である。特に「青」を宇宙の神秘的なエネルギーに通じる最も非物質的で抽象的な色だと
して重用し、自ら理想的な染料を開発した。1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナ
ショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色
(右の画像は近似色)の特許を取得し、ミラノで『イヴ・クライン−モノクロームの提案、
ブルーの時代』のタイトルで行われた個展で、この染料をキャンバス一面に塗布した青色
の絵画の作品群を発表した。また海綿で作ったレリーフや彫刻にIKBを染みこませ青色に
した作品も発表している。




ゆるりん 西原さん より 2010/11/9

 古賀和彦様
こんばんは。お返事が遅くなってしまいました。「ニューロン・カフェ」拝見しました!
ゆるりんのこと紹介くださってありがとうございます。厚かましくお返事してしまいまし
た。古賀さんの作品、読んでます。すてきです。たくさんの物語があって、わくわくしま
すね。ニューロン・カフェ。わたしも書いてみたいです。なんて。さて、音楽ですが、一
部わからないところがあるので当日音響を手伝ってくれたスタッフさんに問い合わせてい
ます。リストが届いたらまたメールいたします。それではおやすみなさい。




西原さん朗読  2010/11/9

西原さん朗読の「夢十夜」を YouTube で私も聞いた。
子供や大人の声の使い分けが流石にうまい。朗読の速度がゆったりとしていて、じっくり
と話の内容に引き込まれるのである。
読書で感じるものと朗読でのものとの違いは確かにあり、読書では理が、朗読では感情に
強く響くようなな気がする。
もともと文で書かれたものにひとの声で語ることが感情というものを新たな要素として加
えるためか。確かにwikipediaでは「朗読とは、声を出しながら文章を読むこと。「音読」
ともいうが、「朗読」には感情をこめて読み上げるという意味あいも含まれる」とある。
これはたしかに別の芸術の誕生のようでもある。たとえば絵に触発されて小説になるとか、
小説を題材に絵をかくとか。あるいは全く違う思想が芸術運動を生むとか。確かに斎藤隆
の「声に出して読みたい日本語」の中で広沢虎三の「石松三十石船」や「白波五人男」の
一節を朗々とうなる心地よさは確かに否定できない。
また、歴史を通じて、文学の享受のされ方は、黙読よりも朗読が中心であったとされてい
る。識字率の低い社会では特に読み聞かせが重要となるが、19世紀のイギリス中流階級の
ような教養のある家庭でも、小説や詩の朗読は家庭内での娯楽の一環として確固たる位置
を占めていた。 wikipediaより
以上これを契機に色々と勉強した。そして、余計なことかもしれないが、西原さおりさん
に詩や文を書いて自分の作品を朗読されることを期待したい。




BGMリス  2010/11/10

 古賀和彦 様
こんばんは。大変お待たせしました。「Mystery」のBGMリストができましたので添付いた
します。「迷路」に使用させてもらっているアルバムはリュート・ギター奏者の菊地雅樹
さんのオリジナルです。一緒に舞台を経験させてもらったこともあるすばらしい音楽家で
す。菊地さんのリュートもヨーヨー・マさんのチェロも音色がもの悲しいので、今回の作
品にはぴったりはまったのでは!?なんて思っているのですが・・・いかがだったでしょ
うか。ではではおやすみなさい。   ゆるりん 西原

ゆるりんリーディングナイトVol.2「Mystery」BGM リスト
“心中”(効果音集から使いました)
“迷路”シャコンヌ/菊地 雅樹リュートによるシャコンヌ集
1.Chaconne in G minor
2.Passacaglia in D
3.Suite in A ?.Allemande
14.Chaconne in D minor BWV1004
“ボッコちゃん”
 ベスト・オブ・ベスト/クラシック・ピアノ
 DICK 1
15.ジムノペディ 第1 番 サティ
3.泉のほとりで リスト
 “母の死んだ家”
  THE BEST OF YO-YO Ma
 6.ヴォカリーズ(プレヴィン) Vocalise for Soprano, Cello and Piano (1995)
 2.「ボヘミアの森から」op.68~森の静けさ(ドヴォルザーク)
ベスト・オブ・ベスト/クラシック・ピアノ
 DICK 4
 4.シチリアーノ(J.S.バッハ,ガルストン編)
 5.トッカータ(ホ短調)(J.S.バッハ).
6.ヴォカリーズ(プレヴィン) Vocalise for Soprano, Cello and Piano (1995)
《最初と同じ曲》



ゆるりん 西原さんへ  2010/11/10

私の作品を読んでいただいてとてもうれしいです。私たちは無名の素人集団ですが、自分
の存在の目的、価値などの疑問に対して常に興味を抱いて、解明しようと努力しています。
だから自分の頭の中で思考して、そして文字に表現して確かめ合っています。
私達の年齢になると社会のシステムから身を引いて、静かな生活を営まれている人達が多
いと思いますます。そして第一戦で活躍した人も今は自分を評価してくれる場がなく寂し
い思いをしている人を見受けます。だから私は50歳を過ぎたころに、我々がそういう立
場に立ったときの表現の場を作らなければならないと思いました。
もうお気づきかもしれませんが、15年前に作った「斜光」という同人誌は私の出身高校の
同期を主体として作りました。しかしそれが同窓会誌的になってきたところで、創作を主
体とした本当の意味での同人誌を作りたくて、そこを脱会しました。そして同人αという
新しい同人誌を作りました。会員20数名になったところで、またまた考え方の違いで脱
会して行く人があり、今は7名で運営しています。ブログの規約を読んでいただければ明
記していますが、出自、年齢、人種、思想、信念は一切問いません。
ちょっと宣伝になりましたが、最後に私の詩を紹介させてください。作品集の第11号「選
択」のなかの「「シリーズ・歪んだ風景−岐路(きろ)」です。この詩のなかには春夏秋冬と
いう時間の移り変わり、その季節季節の花と香りと音楽を取り入れたという盛りだくさん
の欲張りなものです。舞台はロミオとジュリエットの舞台となったイタリアのベローナと
いったところでしょうか。最後は男と女の別れを示唆しています。
それからBGMを挿入していますが、本当は場面に流れる音楽がセットできればよかったの
ですが、残念ながら技術的にできませんでした。西原さんの評価は如何?
お忙しいようでしたら返事は不要としてください。とにかく「ゆるりん リーディングナ
イト」のBGMの資料ありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。






??????????????????????      西澤老人


西澤さんからの手紙  2012/3/6

 今日山荘に引っ越すために書類棚の整理をしていたら懐かしい手紙が出てきた。差しだ
し人は碁敵(ごがたき)の元R大使だった西澤老人だ。なんとも先輩としての、い
や子供への心配りのようなその書面に私は今更ながらほろりとした。父の回想録を進呈し
て「大したお父さんだ」という感想をもらったり、東京を離れるときは自分の創った漢詩
を書いた色紙を持たせてくれたりしたものだ。あの寡黙で気むずかしい風体の老人と親し
くしていたのは私だけだったかも知れない。しかし今、その当時は届いたこの手紙を読ん
だという記憶はまったくなくて、今更ながらこういうやり取りをしていたとは少々驚きだ。
 ちなみに西澤老人は私より20歳は年長の人で、その当時は普通の囲碁仲間として付き
合っていたが、実は偉い人だったのだ。

西澤氏:大正一桁生まれ. R大使. N大使(1980年代)従三位叙位 (平成)
 その手紙の内容によると、12年前都落ちして寄食していた母の住む田舎から出した手紙
と、「都市と田舎の狭間で」を書いた「斜光」第5号を送った時の返事らしい。



拝啓
 お手紙とエッセイ拝見しました。少なからず敗北主義的な匂いがあるので心配です。兎
にも角にも佐賀は貴方が少年時代を過ごした故郷でしょう。当時に較べれば簡易でも水洗
便所ができ、電気冷蔵庫も洗濯機も、カラーテレビもある現在は格段に改善されています。
ムカデや蜘蛛やはいるかもしれませんが、昔に較べれば格段に減っている筈です。これか
らも家の内外の状況が改善されれば益々減少するでしょう。幸いに貴方は建築設計の知識
と技術があります。少しばかりの工夫と日曜大工の労力を惜しまなければ、収納場所も増
え、便利で使い具合のいい、皆に喜ばれる改良も困難ではないでしょう。
 アメリカの私の娘夫婦の家も築百年の寄木造り(柱のないツーバイフォー?)の建物で、
前の所有者は共有者が互いに喧嘩していた由で、大きくはあるが手入れはまったくされず、
穢くて荒れ放題でどうなることかと心配していましたが(それだから安く入手したので
す)。婿殿は十五年の日曜大工の結果、見違えるように綺麗で使い安くなりました。保険
屋によれば評価額は三倍位になったそうです。
 ガラクタ類も棄てないで工夫すれば厚生利用も可能でしょう。また使い道のある人に進
呈すれば喜ばれて交際も楽になるでしょう。近所の人のお節介やきは貴方に対する関心の
現れです。魑魅魍魎の音に聞こえるのは、蟲や鳥獣の鳴き声で、暴走族のバイクの音に較
べれば何程のこともありません。馴れてきまます。ネオンの光はなくても、満天の星を仰
げるでしょう。
 私の記憶では、和泉式部は逞しい女性であったような気がしますが、いずれにせよ、水
洗便所も洗濯機も風呂もシャンプーもなかった平安時代の女性は、貴族でも不潔で臭くて、
物の怪や呪術に恐れ脅えてあれな人達であったのです。それに較べれば現代の人達は格段
に恵まれています。また更に良くなる展望をもっています。
 兎に角、敗北主義は禁物です。斗いを避けてはいけません。当面は居直って何事も前進
的に考えて下さい。必ず道が開けるでしょう。東京へ逃げて返ってはいけません。それで
は東京へ帰っても何も良くならないでしょう。心配です。田舎でも充分暮らして行ける自
信をつけてからの上京なら、それなりに再起可能でしょう。頑張ってください。
 老婆心からついお節介な忠告で失礼しました。お容赦ください。

8月31日
古賀和彦 様                    



24α編集部:2014/04/16(水) 18:10:53
斜光のこと
.

            ??斜光のこと αのこと





「斜光」編集会議報告 ??2002/6/29??(BBS 落書き帳)

みなさんへ
このフォーラムもおおくの仲間が開いてくれています。
同人誌斜光への関心も一層深まってきております。そこで斜光編集の様子もお報せしてはどう
かとの意見も出始めましたのでここに編集会議内容を掲載することにします。なお編集に関し
てご意見ご要望があればこのフォーラムへ書き込んでください。

1. 開催日時;平成14年6月22日(土)
2. 出席者;編集委員10名
3. 主な打ち合わせ内容
・ これまでの投稿者…31名
・ 投稿を予定はしているが、現時点での未投稿者…13名
 →6月末期限で投稿をお願いする
・ 「編集後記」、「色眼鏡」、「風の便り」、「作品に一言」等の原稿にはそれぞれのタイト
  ルを明記のこと
・ 「斜光ホームページ」のPR。ホームページアドレス<URL>を裏表紙下部に掲載する
・ 「ふうけもん会」「読書会」「鳥見会」等のサークル活動を風の便りで紹介する
・ 10月19日の<佐賀;同窓会>に間に合わせるために、今後次の予定で進める
(1) 8月10日(土)校正会議→校正チェック完原稿の返却期限<8月末>
(2) 9月初原稿の最終チェック
(3) 9月中までに印刷渡し
(4) 9月末までに印刷完了
(5) 10月初からの発送





新しい投稿者歓迎!! 2002/10/6 (旧同人α掲示板)

「斜光」第7号もすでに手元に届いている方もあると思います。そこで紹介されました「斜光」
ホームページへようこそ!!

「斜光」の誌は年に一回のおつきあいですが、ここでは毎日の意見交換の場で、すでに一年の
試運転期間にこのようなたくさんの楽しい付き合いをしてきました。はじめて「落書き帳」を
開いてくださった皆様も大いに落書きをしてください。一番下の欄の管理者をクリックすれば
自分の原稿の修正・削除が可能ですので、恐れることなく書き込んで下さい。まずは勇気をだ
してなにげない日々の感想から・・・。





「斜光」パイロット版について 2004/ 9/27 (旧同人α掲示板)

「斜光」パイロット版について私にも言わせて
その当時400部も発行する同人誌にするという大それた考えはなかった。ただ仲間同士で手作
りで何かを創ることに喜びを味わいたかった。私は日本中の同人誌について図書館で調べあげ、
2・30の候補の題名を書き出し、われわれの目指す誌にふさわしい名前を4人で検討した。北君
の武満徹の作品からと思えるノヴェンバー・ステップス (November Steps, 1967年)以外の
提案はなく、その2・30の中から選ぶことになった。

そして残ったのが「斜行」と「斜光」の2つであった。昭和35年卒業と佐高を掛け、加えて「サ」
を「シャ」と発音する郷里の訛りで味付けし「シャコウ」としたわけである。
O−chanの書いた通り、「斜光」を推していた私がトイレに発った瞬間に3人の推す「斜行」
に決定した。まだ討議の途中と考えていた私の思惑は甘く、冷徹な民主主義の数の論理に押し
切られたしまった。

散々回り道の人生を歩んできた私はこれからの行く手にせめて「光」を望んだわけだが、0号
を手にした人から「私はまっすぐな道を歩んできたのに」 という意見もあって創刊号では
「斜光」に戻したいきさつがあった。

しかし、今考えると「光」はなんだかカルトの宗教の匂いがするようで、もっと率直に自分の
生き様を表した「斜行」でもよかったような気がする。





「自己流を貫く」 2007/2/13

「天声人語」2月13日
フランス歌謡界の長老 シャルル・アズナブール(82歳)が「最後の銘打った日本公
演を続けている。歌手でも役者でも、流れの速い芸能界で長く一線にとどまるには二
つの道がある。軽やかに時流に乗るか、頑固に時流を貫くか。シャンソンの名手には
後者が少くない。

私も「斜光」との和解で、皆さんの説得や取りなしがあって、「もう仲良くしてもい
いか」と思ってしまいそうになるが、やはり当初「個人の自由」を認めなかったとい
う経緯と彼らの考え方には妥協すべきではないと思う。
それが頑固といわれようと・・・。





「X氏のポートレート及び賛」より 2008/1/8 (旧同人αブログ)

◆X氏が、限りなき同窓会誌に近い同人誌である「斜光」を見放すように決別したの
は、決してイデオロギーの対立があったからではない。それはほとんどの世の重大事
が取るに足らないように見えるものから端を発するように、じつに卑近な諍いから始
まり、最後は同人αという別の冊子を立ち上げるエネルギーにまで大きくなったので
ある。
 よそから見れば些細な行き違いのようだが、食い物の恨みは末代まで残るというで
はないか。その当時は私も、たとえそう思っていたとしても決して口には出さなかっ
たであろうことを、有力な編集委員であるB君により、実にあっけらかんと「Xさん
の料理はありゃ何だ味も飾り付けも最低だ」と酒の勢いで宣ったものだ。それ以来華
麗なる馬込村の社交場から彼等一族は抹殺されて今にいたっている。





「いひゅうもん」より  2008/7/21

◆同人誌「斜光」については碇さんの説明の通りでありますが、少し詳しく説明しますと、
高校卒業周年記念に作った「青春のあの時」という冊子を執行部が編集しました。それが
とても面白かったので、あるとき飲み会で田村さん、田辺君そして私の3人が「あのよう
な冊子が一回きりではもったいない」といことになって、我々だけでも同人誌を作ろうで
はないかということになった訳です。
 「斜光(しゃこう)」という命名の経緯は全国の同人誌の名前を200ばかり集めて、
最終的には碇さんの説明にある「佐高」「昭和35年卒業の35」を佐賀弁のなまりを加
味して「しゃこう」と呼び、なおかつ一生を一日と考えれば、50代を午後3時ころの斜
めに射す太陽の光に照らされた時間、「斜光」とした訳です。
 実は創刊号は「斜行」でした。人生はあちこちと迷いながら生きると自覚しての名称と
して田村さんが推し、「斜光」を推た私が敗れました。それはちょうど、このホームペー
ジの名称である「言の輪」と「ニューロン・カフェ」の攻防と同じものでした。
 しかし斜光第10号に至って、今回の(*落書き帳)「掲載拒否」の雰囲気が流れ始め、
例のごとく個人の自由を制限するようなことには我慢ならない田村さんと私は「斜光」と
袂を分かつことになり、今は「同人α」を立ち上げてそれを主体に活動をしています。

◆それにしても「言の輪」に投稿する人達のエネルギッシュなことには驚かされます。
「村のはずれの船頭さんは ことし六十のおじいさん」などと歌っていた幼少の頃は本当
に六十歳と言えばおじいさんに見えたものですが、皆さんは前期高齢者と言われようと難
しい問題に挑戦して真理を探求することを厭わないという、なかなかの強者揃いでありま
す。




同人α19号合評より  2008/9/27 (旧同人α掲示板)

 遠藤周作の「沈黙」という本がある。病気や迫害などで苦しむ信者がキリストに救
いを求めるが、神は奇跡をおこして民衆の直接の苦痛を解決してはくれなかった。た
だ苦しむ人達の話を最後まで静かに聞いてくれたいう内容である。それはとりもなお
さず肉体的な苦痛よりも精神的な苦痛に真剣に向き合ってくれたということである。
遠藤周作はキリスト・神の行為について深くて重い思索をしている。
 じつは私達数人が「斜光」や「同人α」をつくった原点が、現役から離れた時社会
への参加の機会が減ってくる寂しさをどのように克服するかということだった。それ
は少なくとも仲間うちで絵や音楽や創作という自己表現を通して認め合うということ
で、人間としての存在感を確信する所にあるのではなかろうかと考えたのである。そ
れが「斜光」や「同人α」というものだった。
夕子もこれから社会のなかで自己表現できる場所と、一人の人間としての存在を認め
られる何かを見つけられればいい。





「ペンネーム考その2」より  2009/12/6

同人誌「斜光」を立ち上げてからまもなく、ペンネームは是か非かという一大論争に
なった。私はペンネームOKの論を張り、もう一人は駄目という。そこには「斜光」
が同窓生を主体とする同窓会誌であるという認識があったらしい。だから本名で書か
ないと作者が誰か判らず、読む気がしないという。私は資金的にも公の同窓会に寄る
ところもなく、自立しているから完全な同人誌である、読むか読まないかは作者を知
っているどうかではなく、内容が面白いかどうかの問題である、と主張した覚えがあ
った。たとえ彼の言うことに百歩譲ったとしても、個人名を「和彦をかずひこ」とか
いても「シズエをしずえ」と書いても、それは戸籍に載っている通りの名前と違うと
いう言い分に至っては、パラノイア的な極端さを私は感じた。そう言う人は同じ思想
や出身や年代の集団に固執し、多様な価値観を認める開放性に乏しい人だと言わざる
を得ない。
結局は編集委員会の結論として、ペンネームを禁止はしないが、出来るだけ本名で書
くようにしようという、玉虫色の結論で決着したのである。
その時私が主張したのは、人はその時々で自分の気分に合った着物を着て楽しむよう
に、人間の複雑な心模様のもとに創作する文の作者名も、本名と別な思い入れのもと
にあっても良かろうという論法であった。確かに私達が創作ものを主体に本を作ろう
としたことにたいして、 同期生の動向を主体にする「情報誌」として考えるという
目的の違いがあったのだが、 最終的に「斜光」は同窓生の情報誌に近くなり、私は
「斜光」と別れて「同人α」という純粋な同人誌に移行した。





「オブジェクション−1」より 2010/2/27 (旧同人α掲示板)

古賀さんと私は北島さんが言ってくれた様に、「斜光」の固定した組織、投稿資格他
の規則、「落書き帳」の検閲、更には暗黙の内での貢献度比例の発言の重さ等に閉塞
感を感じ、もっと自由にやりたいと思って抜けたのに、何故彼が今再び「斜光」と同
じ様な事を言い出して来たのか、理解に苦しみます」 (X氏)

私は「斜光」の組織や規則が嫌だったわけではありません。「斜光」以外の個人的な活動
を束縛されたから辞めたのです。規約や細則には24時間「斜光」に奉仕しなければなら
ないとは規定してなかった。また規定してあったからといって個人の自由な時間の行
動を拘束するようなものであったら、初めから参加しなかったでしょう。





「決別の賦」より 2010/3/21

◆15年前設立した「斜光」と同じように、5年前に設立した「同人α」を掲示板封鎖
という形で以前の仲間の元から去らねばならなくなった。そこに相容れぬ志の違いが
あったが、私は両方の同人誌に私のできる精一杯の役割を果たしてきたつもりである。
しかし志半ばにして別れなければならない悔しさは、長くない私の人生に消すことの
できない悔いを残すであろう。石もて追はるるごとくと唱った啄木の詩「ふるさとを
出でしかなしみ 消ゆる時なし」や、理想主義は敗退しダブリンを石もて追われたシ
ェリーのように・・・。





「同人α問題」より  2010/4/1

Xさん
これはあくまでも私と貴女の個人的な繋がりと、忌憚ない見解を示すもので、北島氏
や東内氏にはこの文は送りません。

一時は長く同じ道を歩んできた貴女だったので、不満を残しながらも惻隠の情でもっ
て上手く納まると良いなと思いました。しかし亮子さんや貴女の最後のメールを受け
取って、私の考えも変わりました。まるで我々が横車を押して同人αを不法占拠して
いるかのごとく、早く精算して出て行けと言わんばかりの認識しかないことがわかり
ました。こちらは貴女が行動を起こした事について悪いとは決していってはいません。
しかしその原因を忖度するにおいて感情的な好悪を持ち出されると、やはり解決は困
難になります。

これはもう一度どのような問題だったのか総括してからでないと前に進めないと思
い、過去のログを読み直してみました。
「言の輪」上での私のオブジェクションその1からその8の最終回までと、貴女達の
投稿を読み直すと、これからの同人αをどうするかという議論の段階から、突然の3
月9日からおよそ15日までの間の一方的な貴女の行動により、同人αのこれからの路
線の議論から、同人αの存続や帰属の正当性の議論へと対処すべき問題点が全く変わ
りました。

蒸し返すのは嫌だと貴女に言われそうですが、過去ログをみて判断すると、貴女達は
新しい活動を目指して同人αを出て行ったとしか思えません。それは実に潔い行動だ
と思います。私もまた5年前10年間いた「斜光」を考え方の違いで出て行きました。
その時私がプロバイダとの契約者であった「斜光」のホームページも、そしてその外
の全てを残して来ましたが、潔く身を引いたことは今でも自分の行動に恥じるところ
はありません。それは残った人達が良いの悪いのといったことや、自分の立場の見栄
や勝負に負けたとか勝ったということを問題に出しませんでした(個人的には悔しか
った)。しかし自分の志をしっかり自覚して貫くことが自分の好きなことを実現でき
ると確信したからです。

Tさん、いろいろ述べてきましたが、過去ログから私なりに判断して、貴女はすでに
同人αのメンバーではないと考えました。しかし貴女のとった行動を私が非難して居
るわけではありません。ですが、そのように認識している貴女が未だに同人αのメン
バーであるごとく多数派工作までして、自分達の立場を守ろうとしていることが不思
議でなりません。もし貴女が同人αを出て行ったとすれば、同人αに対するその後の
意見は内政干渉であり、一方まだ同人αに在籍しているという認識であれば、同人の
発表の場であった「言の輪」を個人の物として持ち去り、同じ考えの人しか投稿させ
ないという行為は、他の同人や一般の投稿者にたいしてどのような釈明をされるのか、
明確な考えを伺いたい。

貴女ももはや一人ではなく同じ考えの人達がいて身軽に舵を切ることができないよう
に、私も同じ考えの人達が居ます。私もメンバーのなかには好きな人と嫌いな人がい
ますが、それを表明することがいかに不届きなことかを知っています。だからどうし
ても我慢が出来なければ、排斥するよりむしろ私が出て行くことを選ぶでしょう。立
場や名誉や見栄は関係ありません。貴女の行為の発端が好き嫌いの感情でもたらされ
た行為であれば、いつまで経っても現実的な解決は覚束ないでしょう。お互いに知ら
ないうちに不快な言葉で応酬していたかも知れませんが、事実を直視してどちらに理
があるか判断してください。

どうも厳しいことしか書けませんでしたが、これからも度々顔を合わせるでしょうか
ら、感情的に憎しみ合うことだけは避けたいと思っています。
余計なことですが、この文の根拠になった貴殿による投稿文を添付します。

離婚宣言  2010年 3月 9日(火)01時41分
北島さんは「一緒にやりたいならそう言って下さい」と元の莢に収まる可能性を匂わ
せて書いたけれど、私は「そう言って下さっても」もう一緒にやりたくありません。

お世話になりました    2010年 3月 9日(火)17時42分
私達と別れた後、まずは3人で同人誌を始められたらどうですか。こじんまりも嬉し
い物です。αという名称は、欲しいと言うのであれば差し上げますが、掲示板は娘に
聞いた所では、アドレスやパスワード他が全部私と娘になっているので、譲るのは無
理だろうと言って来ました。

新同人募集  2010年 3月10日(水)19時09分
先日離婚宣言した後は、将来の方向も徐々に決まり、楽しくなってきました。無残に
切り倒されたアルファの木の株から、小さな枝と春の若芽が出てきているのを見つけ
た嬉しさです。北島さんと私で、新しい同人を編成します。アルファ同人との仕切り
直しでなく、全く新しい同人になります。古賀さん、小柳さん、万理さんを除き、こ
の新しいグループに参加する方は北島さんか私に、その意図だけをお知らせ下さい。
方法は公の掲示板でも個人のメールでも構いません。

付記  2010年 3月10日(水)19時30分
「言の輪」とブログは今は私個人の物という認識で、ブログから3人のお名前は外し、
約束事は暫定的と入れました。合評は明日から一週間田之頭さん等、新しい体制が決
まる迄、当分今迄を踏襲します。

赤松さんへ   2010年 3月11日(木)09時18分
今後古賀さん、小柳さん、真理さんは暫く投稿をお控え下さい。
私は3月9日に同人αと離婚しました。辞めたのです。決してどなたも追い出したり
辞めさせたりしていません。私が出て行ったのです。「α」や「言の輪」の名称にも
未練はありません。3人の方々はどうぞ別に掲示板を立ち上げて、残った同人達と一
緒に頑張って続けて下さい。娘の手を借りないと何も出来ないPC 音痴の私と違って、
3人共それこそ十数分で出来る作業ではないですか。

今後   2010年 3月11日(木)22時50分
今日は映画の後、このためにわざわざ上京してくれた武藤さんも一緒に、今後の新同
人の進め方について、打ち合わせをしました。その中で古賀さんと小柳さんの投稿に
ついてどうするか聞いてみた所、ちゃんと警告してあるのだから、さっさと削除しろ
という意見から、いや彼らの言い分に反論したいからしばらく待ってくれという意見
があり,それも面白いからしばらく待つ事にしました。

今後   2010年 3月13日(土)18時06分
今日古賀さんからの別件の電話で、23号の発刊も含めαは別に掲示板を立ち上げて
続けて行きたいという話を聞き、私達は創刊号から始める事を自らに再確認した所で
す。脱会しておきながらいつまでもαの名を掲示板やブログに残して置くのは申し訳
ないので、取りあえず新しい同人名が決まる迄、仮称βとしました。





「言の輪」 2011/10/25 (戯評)

小学校の同窓会  投稿者:X 投稿日:2011年10月24日(月)23時45分17秒
それからしばらくして「斜光」を作り、それを皆に衆知させる為に、せっせと同窓会
で顔を売り、その後「言の輪」発行もあり、知らない方にまで気軽に話しかける事が
すっかり習性になってしまい、今に至っています。2つの冊子作成がなければ、今程
色々な人達とおつきあいする事にはならなかったでしょう。


◆おいおい、「同人α」をまず作ってその後「言の輪」を作って別れていったこと、
その同人αは未だに引き続き存在していることはすっかり無視してしまっている。
「斜光」を創った自分、今の「言の輪」の存在をことさらに強調するこの文は、いか
にも意図的・恣意的誹りを免れないだろう。
この人は生きるためにはプライドも矜持も良心も公正さも、精神的なものは全部肥だ
めに捨て去り、その中に落ちたハンバーグでも拾って食べて生きそうな動物的激しい
本能を持っているように思える。



25α編集部:2014/04/19(土) 13:56:44
異風者
.


????????????????        異風者





異風物さんへ 2002/11/7

異風物というペンネームは郷里で言う「いひゅうもん」のことでしょうか?
辞書には「異風」とは・・・普通とは違った風体、姿、やり方、風習、風俗。また連歌の付句
の形のひとつとあり、また「斜光」第二号の田辺氏の明解国語辞典には「いひゅうか」を気難
しいと解説してありますが、私の感覚ではちょっとニアンスが違います。
「人と違ったものの感じ方・考えをする人」と、或るいはそのように敢えて考えようとする人
を個性派・変わり者とする意味の方が「気難しい」より本質を衝いているのではないでしょう
か。そのような個人主義の人が共同体の中ではなかなか迎合しないので「箸にも棒にもかから
ない」とか、「ぎゃすぎゃすどんく」・「天の邪鬼」などと揶揄されるのでしょう。

しかし、「全会一致は無効」とするユダヤ法の意味でもそのように異論を唱える御仁は貴重で
あります。あるアメリカ映画で全員ですばらしい結論を承認する時一人だけ反対する老人がい
ました。なぜか?彼は主張した「全員賛成では民主主義が成り立たない」!

ところで、先の同期会の箱根旅行で私に「俺は異風をモットーとする」といった、NHKドラ
マ:山本周五郎:春がきた)にでているひげ面の主人公にそっくりの貴君がこの「異風物」で
すか?そして貴君の論は私の意見に近いということは、私もまた「異風者」でしょうか。





異風者氏へ 2003/12/4

ずっと昔、読書家の異風者氏から最先端科学の「複雑系」の話を聞いた覚えがありました。
そのときはたいした興味を覚えなかったが、最近「量子力学」・「超ひも理論」などをへて
「複雑系」の本を読みました。

ところで、「noriさんへ」の投稿をみると堅物ばっかりと思っていた異風者氏もそのよう
なユーモアの持ち主であることが判って嬉しいですね。

小生も自分ではよく出来たと思うのですが、そのようなダジャレを息子から「親父ギャグ」と
白い目で一笑にふされ続けています。しかし、「親父ギャグ」は江戸時代よりつづくダジャレ
を継承していて言葉遊びの一つの文化でしょう。同音異義や何かに見立てる掛詞などを瞬時に
組み立てて表現することは並の業ではありません。

話はかわって、異風者氏は「読書会」ば自分と違う傾向の本をテーマにしているとこのHPに
書いておられたが、それは違います。参加した人が次の本を決める訳ですから、漫画・エロ・
科学・哲学・神学等、そのジャンルは問いません。

そう言うわけで、是非「読書会」に参加されて、私共を「構造改革とロジステック方程式」や
「零式艦上戦闘機」の迷宮へ誘って欲しいと思います。





「肥と筑」第5回感想 より 2008/7/19

◆「知の巨人」についての長岡曉生さんのクレームがありましたが、けっしておちょ
くってニヤニヤしているわけではなく、心底私はそう思っているものです。それに比
べて、さしずめO−chanが「痴の巨人」なら私は「稚の巨人」といったところで
すか。

◆製鉄の話で小さい頃のことを想い出しました。
私の父は戦後小さな鋳物工場を経営していました。そのためそのことについて私は色
々のことを見聞きしていました。樋口さんの「付文」に出てくる銀色の無臭で硬いコ
ークスが珍重されていることも知っていました。コールタール、ピッチなどの不純物
が混入している石炭では高温を得ることができません。だから高価なコークスを使用
して、解体された軍艦などの鉄くずとを混ぜて溶鉱炉に入れて燃やして銑鉄をつくり
ます。どろどろに溶けて太陽のようにまぶしく輝き、線香花火のような火花を散らす
鉄を、上半身裸の男達が鉄の柄杓で受て、鋳型に流し込みます。車の部品やら、橋桁
の受け材やら、鍋などに成型されます。九州の夏の夜などは普通でも寝苦しいのに、
溶鉱炉を使った日などは、工場と壁一つ隔てた同じ建物の住居では地獄のような暑さ
で、まともに寝られたものではなかったことを記憶しています。

◆私は「いひゅもん(異風者)」に憧れます。ここにその「いひゅうもん」についての
天野 勇吉の「あんころじいの方言放言」というエッセイがあります。少々長いが載
せてみま しょう。
早稲田大学をつくった大隈重信とか、日本赤十字社の生みの親といっていい島義勇と
か、いずれも幕末から明治初期にかけて大きな仕事をした人たちですが、そのなかで
ぼくがいちばん好きなのは、江藤新平ですね。この人はすごい。ダントツにすごい。
なにがすごいって、こんなラジカルな理論派は、めったにいるもんじゃありません。
しかもその理論のスジを通すための熱狂的なエネルギーを持ち合わせている。幕末に
佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加、明治維新後は新政府の司法卿(法務大臣)と
なって近代日本の司法制度をつくりあげると同時に、徹底した能力主義と人権主義を
確立するなど、たいへんなことをやってのけた人です。「私の友人の友人にアルカイ
ダがいる」なんてノーテンキなことを言っている法務大臣とはワケも違うし、デキも
違うすごい人ですが、数年後に政府内の意見の対立から下野して佐賀に帰り、佐賀の
乱にまきこまれてしまう。で、最後は自分が作った刑法で処刑されるという、数奇な
運命をたどった人でもあります。
これが「佐賀人」というものじゃないか、と、ぼくは思っているんですね。
で、「こういう人を佐賀の方言ではなんというんですか」と、ぼくを呼んでくれた人
に聞いたら、すぐに答えが返ってきました。
「いひゅうもん」
そうです、いひゅうもん。佐賀人の気質をひとことであらわすのはこれっきゃない。
標準語では「奇人」とか「変人」とかいうことになるんでしょうが、それともちょっ
とニュアンスが違う。「佐賀もんが通ったあとには草も生えない」という言葉がある
そうですが、そこでいう「佐賀もん」は、たんに「ケチ」とか「よくばり」という意
味だけでなく、「キョーレツな個性派」というイメージもあるんじゃないでしょうか。
たぶん、いひゅうもんのモトは「異風者」でしょうね。威風堂々ではなく、江藤新平
のように「異風堂々」。ぼくのイメージのなかに住む佐賀人の、それが原型です。

◆ところで「肥と筑」の評はどうなったとお叱りを受けそうですが、私はこの膨大な
小説 が終わってから総評をしようと心に決めています。だから、「彼奴はまた敵前
逃亡を図ったな」といわれそうですが、そうではなく興味の尽きない作者の風貌を解
析して見たいという誘惑に駆られました。
「赤信号皆んなで渡れば 恐くない」的な護衛船団方式の中では、この「いひゅうも
ん」ははなはだ厄介な存在です。無視するにはあまりにも穿った理を唱え、受け入れ
るには安逸をむさぼっている者も艱難辛苦の努力を覚悟しなければなりません。もの
ごとを理に照らして判断し、間尺に合わないことには豪も妥協せず、自分の考えを頑
なに押し通す「いひゅうもん」は、表面だけの付き合いや対面だけの仲良しクラブに
とってはまるで喉に刺さった魚の骨か、理由の分からない肋間神経痛のような忘れ去
ることの出 来ない不快感を発生させるものでありましょう。
だが、並の人間が理解できないような深遠な考えと信念を持った「いひゅうもん」に
私 は「肥と筑」の作者を重ね合わせました。このような作品は彼しか出来ないもの、
その意味に於いては強烈な個性の持ち主だと考えます。私はいつも自分にしか出来な
いものを見いだし、いかに実践するかを見つけたいと思うと同時に、いつの日かあい
つは「いひゅうもん」と呼称されることを夢見ています。





「今年最後の「同人α」の編集会議および忘年会」より 2010/12/23

今日は新しい会員になった「異風者(いひゅうもん)」氏達と今年最後の編集会議を
本郷三丁目の駅のそばにある「駒忠」で開催しました。出席者は異風者、長岡曉生、
万理久利の各氏と私の4人。神野、旗名涯(はたなはてし)氏の二人は多忙、碇氏は
遠くて参加出来ずに誠に残念でした。
とにかく、普段は寡黙で人見知りする事においては人後に劣らぬシャイな異風者氏の、
酒が入ると目を見張らせるような冗舌になり、一同そのエネルギーには驚嘆した次第
であります。





「いひゅうもん」より 2008/7/21

◆私が「いひゅうもん」にたいして確たるお答えはできませんが、調べたところによ
れば 確かに「異諷者」を「いひゅうもん」と記述してある資料をみつけました。
*異風者(いひゅうもん) (単行本) 小嵐 九八郎 (著)
* 映画『人間の翼』の監督は岡本明久さん(58)。古本屋で『消えた春』を見つけ
「石丸進一の人柄にほれて」映画化を思い立ったという。原作の牛島さんに話を持っ
て行ったところ「ぜひ映画化してほしいです」という答えが返ってきた。
佐賀の言葉で「いひゅうもん」という言葉があるのだが、岡本さんは石丸進一の「い
ひゅうもん」ぶりにひかれたという。「いひゅうもん」とは漢字で書けば「異風者」。
牛島さんの記述によると《へそ曲がりで、極端なテレ屋なるが故に、己の感情を率直
に表さず、しかも偽善者ではなく、偽悪家……といったところだ》。
郷里では多数派の人が「あの人は『いひゅうか』」という言い方の中に、人の意見に
いつも反対する御しがたい変わり者という「負」のイメージを感じていまいましたが、
今よく吟味してみると、やはり単なる気まぐれなへそ曲がりの変わり者というより、
天野勇吉のいうように、理に厳しく、通説や世間の風評に付和雷同しないで考えを貫
く人という「プラス」のイメージとした解釈したい。





「異風人さんの再登場」 2008/9/18

 久し振りに異風人さんの登場楽しみです。投稿文を見るに、まだその独特な観点と
論理の冴えは見えませんが徐々に気力も回復して、その異風振りがもどることを期待
します。
 貴君が言われるように「あえて言わせてもらえれば万華鏡、つまらないものをあた
かも本当にあるかのように美しい虚像を見せる密閉された空間ということ」と喝破さ
れていますが、茂木健一郎に言わせれば「全てが己の想念を通して認識されているゆ
え、この世の出来事はみな仮想である」ということ。だから難しい相対性理論も恋愛
も「万華鏡」の中身と似たようなものでしょう。
 ところで私はこのホームページにふさわしいと願った名称は「ニューロン・カフェ」
でした。人間の脳の中で情報を一手に引き受けているニューロンたちが井戸端会議よ
ろしく三々五々とカフェ集まって、あることないことの情報を交換して楽しむという
意味を込めての提案でしたが・・・。





「M君への手紙」より 2011/9/19

拝啓 悠々自適の貴君が羨ましく思います。 小生、今まで遊び惚けてきた報いで、
「たつき」のために一生現役を貫かねばならないようです。

もともとも小さい頃から物を創ることに興味があり、職業も建築という創造の世界に
進みました。一度は就職しましたが会社勤めにおける責任のなすりあいや虚勢などの
人間的な確執が下らなくて、33歳の時に会社を辞めたという、サラリーマン失格の小
生でした。また貴君がかつて建築構造の技術者について喝破された通り、一匹狼、ロ
マンチスト、芸術家肌、ウソが許せなくて情に厚いこと等々はまさに自分もそうかな
と思うことがあります。またそのような志向を持っていることも確かです。そして今
の仲間達もまた世間で言えば奇人・変人・異端(佐賀では異風者)の形容詞が付きそ
うな面白い連中で、同じ空気や匂いのなかで付き合うことは甚だ愉快なことです。

追記:異風者について広告時評の天野祐吉が面白いエッセイを書いています。 佐賀
の異風者の典型は江藤新平である。異風者とは単に変わり者、頑固、鼻つまみ者とい
うことではなく、理のあるところ説を曲げず、世相に迎合せず貫き通す人を言うので
はないかと書いています。まあそのような人は漱石の「草枕」の冒頭の文章のような、
世俗には疎まれ生きにくい生き様が想像できます。





「無限回廊 第六回を読んで」より 2012/1/3

 「フィネガンズ・ウェイク」にあってはハンフリー、イエス・キリスト、トリスト
ラム卿、トリスタンの恋人イゾルデ、アダム、イヴ等々であり、「無限回廊」にあっ
ては、神農炎帝、季炎、赤松子、ヘルメース、アフロディーテ、アイネイアース、壽
夢、七娘、季礼、孫悟空、ザインなど、その飛び方は並ではない。
 また一見博覧強記でとりつく島もないほど理屈っぽく、頑固で妥協を知らない「異
風者(いひゅーもん)」の典型みたいな作者が、とてつもなく洒脱で「剽げ者(ひょ
うげもん)」でユーモア、ウイット、諧謔、隠喩に富むセンスの持ち主であることを、
親しく付き合わない人達には想像もつかないであろう。とにかく「無限回廊」に登場
するバード・ブレイン、グレイ・ブレイン、エヴァー、カミノの物語はこれからも、
それぞれの個性のもとで回し書き物として面白いものになるとあらためて確信した次
第である。



26α編集部:2014/04/20(日) 11:15:32
夢もろもろ
.

            ???????? 夢もろもろ 1
               ????????  2007-2009




     フロイト全集に挑戦するくらいだから、夢について触れた文章が増えるのも当
     然であろう。想念の世界を描くことが多いことから言っても、フロイトの夢の
     世界に興味をもつのも当然であろう。
     現実を生きる表向きの世界、信じて裏切られるとか、騙される、といったこと
     がまかり通る世界に対して、嘘のない、嘘がつけない、洗いざらしの想念(心)
     の世界に惹かれるのだろう。   (編集者)





「今日から日記に挑戦!!」 より  2007/1/13

フロイトの「不気味なるもの」・・・フロイト全集第17巻P30
同じ事態の反復がある一定の条件のもと、一定の状況と結びつくと、うたがいの余地なく
不気味な感情を引き起こす。この感情はいくつかの夢の状態が示す寄る辺なさを思い出さ
せる。
例えば ・不案内の街の路地を歩いても何度も同じ街角に出る。
    ・身の回りのナンバー例えば六十二という数字が同じ一日のうちに何の関連も
     なく係わってくる。




フロイト全集17 ??2007/3/11

■ 戦争神経症者の電気治療についての所見
  自分の生命に対する不安、他人を殺せという指示にたいする反抗、我が身を情け容赦
  なく押さえ込む情感に対する拒否感といったところが、戦争逃亡的性向を養う最重要
  の情動源泉であった。
  その苦しみの故に病気へと逃亡した患者を、健康な状態すなわち軍務遂行可能状態へ
  戻すために電気治療を施された。それは病気を治療されるほうが、健康な状態より苦
  痛で過酷であるということにより悲惨な電気ショック療法がとられた。

■ 夢学説の補遺
  夢には「欲望夢」「不安夢」「懲罰夢」の三つがある。

■ 女性同性愛者の一事例の心的成因について




「所得税支払い」より  2007/3/12

フロイト全集4及び戦後短編小説再発見4を購入。
今度のフロイトは夢解釈?で面白そう。前2巻も早く読破しなければ。




「母の日記」より????2007/3/17

先日から風邪気味で体調は最悪。最後は声もつぶれ、夜中じゅう悪夢にうなされた。昨年
の正月といい、今回といいなぜか私の帰省は望まれていないような気がする。悪魔祓いが
狐を追い出す煙と鞭が必要か。




フロイト全集4「夢解釈?」  2007/3/30

フロイト全集4  20P、39P
■ 夢の内容は常に、本人の人格、年齢、性別、地位、教養の程度、馴染んだ習慣、これ
  までの人生全体で経験した出来事などに、多かれ少なかれ規定される。
■ 夢源泉を完全に列挙してみれば、結局四つの種類が数えられる。それらはまた、夢そ
  れ自体の分類にも応用されている。第一は、外的な(客観的な)感覚興奮、第二は、
  内的な(主観的な)感覚興奮、第三は、内的な(器質的な)身体刺激、第四は、純粋
  に心的な刺激源泉である。
■ 心臓病患者の夢は概して大変短く、驚愕を伴う覚醒で終わる。その夢の中では、ほと
  んどいつも、陰鬱な条件下での死という状況が役割を演じている。
■ 肺疾患の患者は、窒息、雑踏、逃走などの夢を見、目立って多くの人が、悪夢に襲わ
  れる。
■ 消化器疾患では、夢は、食物を摂ったり吐き気を催したりすることに関連した表象を
  含む。




「フロイト全集4」  2007/4/20

夢問題の学問的文献(H) P124
精神病という現象と夢という現象にはかなり広い範囲の一致がある。
■ ショーペンハウアーは「夢は短い精神病で、精神病は長い夢である」
夢解釈の方法 P134
■ 象徴的解釈
  夢内容を全体として視野にいれ、夢とは別の、了解しやすい、そして何らかの観点か
  ら見て類同的な内容で、一挙に代替させることである。
  閃きや直感にかかわるところが大きい。
■ 暗号方式
  夢を一種の暗号文のように扱って、個々の印を決まった鍵に従って既知の意味の印へ
  と翻訳することである。




「夢の歪曲」  2007/5/28

フロイト全集大4巻−P206
夢のほとんどは欲望成就である。一見そのように見えない「半欲望」のような不幸な夢で
も、分析すると歪曲された欲望成就が隠されていている。




奇妙な夢  2008/3/31

 今朝妙な夢を見た。やっとの思いでローンを組んで建てた自分の家についてであった。
それは現実にある山荘とまったく違った建物で、屋根裏に雨水が30センチばかり貯まっ
ていて、なんで水を抜かないかと細君を叱っていた。だが、屋根裏がプールみたいになる
ことも、細君に向かってそのようなありもしない責任を詰って暴言をはくことも現実には
全くあり得ないことである。しかしフロイトも言っているように、倫理的・道徳的・科学
的・物理的などのおよそ現実の世界では当然制約されている状態でも、夢の中ではそれら
の束縛から解放され、空を飛んだり、人を平気で抹殺したり理屈に合わない要求をしたり
するのである。
 私は仕方なく一カ所の軒先の鼻隠しに5センチばかりの穴を開けて天井裏の水を流して
いたが、埒が明かないので家の北側に回り壁を押していたら我が家が南側にひっくりがえ
ってしまった。細君は庭の向こうでお隣さんと楽しそうにだべっていて知らぬ顔である。
私はあわてて南側に戻って家をエイコラショともとに戻したのである。天井裏の水といい、
家を人間の力で倒したり起こしたりといった不思議な現象は夢のなかだからのことであろ
うが、なんとも奇妙奇天烈な出来事であった。
 それにつけてもそんなに簡単に建物がひっくり返ることは考えられなかったので、基礎
を調べたら、アンカーボルトが基礎の中に埋め込んでないことが判った。それから建物の
内部も非常に粗悪で自分の意図したものではなく、大工の赤池さんを自分は信用していた
のにと、その裏切に憤慨していた。まだ家のローンも半分以上も残っているし、建て替え
るには2重の負担を背負わなければならないと悩んでいた夢だ。
 フロイトに言わせると夢は現実の代償行為だといっているが、私の夢は何を暗示してい
るのであろうか。現実の山荘は腕の良い大工の赤池さんによる製作で、構造的にも空間的
にも、テクスチャーにおいても私のイメージ通りの出来映えであるというのに。




夢についてその1  2008/4/4

 またまた変な夢を見た。海外旅行へ行く日のことである。細君ととある成田空港の近く
と思われる駅に隣接する広場に集合するため来たのだが、添乗員が見つからなくて戸惑っ
ている。その広場には高校野球の開催式典のために数十校がプラカードの後ろに整列して
いる甲子園の状況とそっくりで、それぞれのツアーの添乗員のもとに点呼も終わっていた。
 私達夫婦は遅れた不満をお互いに詰りあっていたが、旅行する間くらいは機嫌良く過ご
そうではないかなどと気を取り直しながら駆け込んだわけだ。だが我々の荷物も届いてい
なくて、添乗員も見つからないので少々慌てた。飛行機に搭乗する11:00まであと一時間
しかない。 細君は添乗員を、私は荷物を探すことを手分けして、人混みのなかに入って
いったのだが、そのうち細君も見失った。携帯電話で居場所を突き止めようと思ってそれ
を取り出してみたら、今まで使っていたものではなく操作もわからない。液晶の画面も出
ないので何回も何回もキーを押し直している夢だった。
 この夢の示唆するものは、日頃と違った環境に立ち入った不安の表れと思われる。ちな
みに現実は今回は細君のみイギリスへ行く予定で、私は8日の間仕事を開けることが出来
ないのでやむなく中止した。しかしイギリスやアイルランドの小説や詩の足跡をいずれ訪
れたいという希望は捨てていない。
 それはともかく、この夢に登場する鄙びた田舎の殺風景な駅の広場はいかにもありそう
なものだが、今まで行ったことのない場所である。夢は逢ったこともない人物や見たこと
もない場所などを創造することができるのであろうか。それとも意識しないながらも現実
に一度どこかで経験しているのであろうか。そのような無意識のものを組み合わせて物語
りを造っているのであろうか。北君の言うように怖いこと、気になっていること、こうあ
って欲しいと思うこと、楽しい思い出などが起因となって夢見るのであろう。朝起きて覚
えている夢は20分前に見たもので、それ以上経たものは忘れてしまうそうである。




夢についてその2  2008/4/5

◆「同人α」第3号に載せた「シリーズ・歪んだ風景−影」に書いたように私の夢には色
 彩はあるものもあるが影がない。そして私の夢には会話がない、小鳥の囀りや小川のせ
 せらぎなどの音がない。
◆ところが行ったこともない場所や逢ったこともないのない人達が登場することが不思議
 でならない。その様な状況を勝手に夢の中で作り出すことができる能力が私の脳にある
 のか。それとも、いつかどこかで知らないうちに経験したそれらの一つ一つのことを、
 脳の暗い襞の片隅に記憶していて、それらの事実の記憶の断片を紡いで形を洞察すると
 いう表象能力の顕われなのか。
◆表象能力といえば、二次元のさいころの絵から経験によって蓄積された見えない向こう
 側を想像して立体に見立てる能力である。建築を学んだ時に、この表象能力がなければ
 二次元で表す設計図は描けないし、そういう人はこの仕事に向いていないと教わった。
 就職して先輩から、問題のある図面を描いた人がいたということを聞いたことがある。
 例えば周り階段と構造の梁の関係。梁がそこにあることを立体的に思い及ばない人は、
 階段の途中に梁が出てきて、潜るか跨ぐかしなければ通れないといったことである。
◆実際に私が経験したものは、随分昔の建物で未だに使用されている日比谷公会堂の階段
 がそうだ。階と階の中間にある踊り場の真ん中を上の階の梁が横切っている。もうちょ
 っとで頭がぶつかるような低さで、背が高くなった若者はかなり危険な代物である。そ
 れともその建物が建立された時代の人達の背がそれほど低く、あまり支障が無かったの
 かは判らない。いまでは、あの建物の用途と空間の規模から判断してもバランスを欠い
 たもので、設計ミスと言われても仕方ないであろう。
Wikipediaで夢について調べてみた
◆夢とは睡眠中に起こる、知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する現象を
 さす。
◆ 夢は人間に限られた現象ではなく、ほとんどの温血動物が見るとされる(ただしハリ
 ネズミの一種に例外がいる[要出典])。人間同様に睡眠中に、覚醒活動状態の脳波を示
 したり、反射運動である尻尾をふる、鳴き声をあげる発現などが確認されている。
◆ メカニズムについては不明確な部分が多く、研究対象となっている。例えば、浅い眠
 りに陥るレム睡眠中に見るとされ、ノンレム睡眠時は発現されないと考えられていた。
 しかし、最近ではノンレム睡眠時にも夢を見ることが確認されている。たとえば、フラ
 ッシュバック性の悪夢はノンレム睡眠時に起こることで知られる。だが、夢が現出して
 くるルートが比較的解っているのは、レム睡眠時で、PGO波という鋸波状の脳波が、
 視床下部にある端網様体や、後頭葉にかけて現れる。この PGOが海馬などを刺激して
 記憶を引き出し、大脳皮質に夢を映し出すと考えられている。
◆夢を見る理由については現在のところ不明である。 夢の存在意義を定めようとする説
 はさまざまあるが主に
  * 無意味な情報を捨て去る際に知覚される現象
  * 必要な情報を忘れないようにする活動の際に知覚される現象
   の二つが有力である。
◆ 夢には時間軸が存在せず主観時間でのみ知覚しているとも考えられている。これは、
 目が醒めた時点で記憶されている夢の多くは覚醒前20分以内に見た物とされているが、
 夢の中では実際の睡眠時間よりも長い、数時間〜数日に感じたというケースが多いこと
 による。
◆文学作品
 * 「夢十夜」(夏目漱石)
 * 「ドグラ・マグラ」(夢野久作)
 * 「パプリカ」(筒井康隆)
 * 「冥途」(内田百?)
 * 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(フィリップ・K・ディック)
 * 「豊饒の海」(三島由紀夫)




「詩的真実」  2008/5/20

脳と仮想」  茂木健一郎
◆詩的真実  (Wikipedia)
 ゲーテ: p.154 「藝術の真実」「詩的真実」 ただし、この場合の藝術とは、狭い意味
 での藝術作品に限定されない。)
 〈確かに夢の中の出来事は妙に生々しく、仮想の世界の方が現実よりもより真に迫って
 感じられる。だから現実が必ずしも真の姿をとらえているのかどうかは言い切れない〉

◆意識の流れ (Wikipedia)
 米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に最初に用いた心理学の概念で、
 人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念
 が流れるように連なったものであるとする考え方のことである。
 アンリ・ベルグソンも時間と意識についての考察の中で、ジェイムズと同時期に同じよ
 うな着想を得て、「持続」という概念を提唱している(ベルグソンとジェイムズの間に
 は交流があったが、着想は互いに独自のものとされることが多い)。
 [編集] 文学上の手法としての「意識の流れ」
 この概念は後に文学の世界に転用され、文学上の一手法を現す言葉として使われるよう
 にもなる。すなわち「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、
 特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」を表す文学用語として「意識の
 流れ」という言葉が用いられるようになる。この用法を最初に使ったのはイギリスの女
 性小説家、メイ・シンクレアだとされる。
 人間の思考を秩序立てたものではなく絶え間ない流れとして描こうとする試みは「意識
 の流れ」という語の成立以前からあり、 最も早い例としてはローレンス・スターンの
 『紳 士トリストラム・シャンディの生涯と意見』などがあるが、特に近現代の意識の
 流れを用いた小説には心理学の発達、殊にジークムント・フロイトの影響が見逃せない。
 意識の流れ手法を用いた代表的なイギリスの小説家としては、ジェイムズ・ジョイス、
 ヴァージニア・ウルフ、キャサリン・マンスフィールド、ドロシー・リチャードソンな
 ど。この手法を用いた作品として挙げられる例にはジョイスの『ユリシーズ』、ウルフ
 の『灯台へ』、フォークナーの『響きと怒り』などがある。
 また、内的独白や無意志的記憶という用語で表されることもある。
 〈日本の作家では古井由吉あたりか〉




「沈み行く家 第3回の合評のお礼」 より  2008/9/15

 誠に丁寧に評していただき有り難うございます。かつて親兄弟、親友そのた私に関わり
のある人達からこれほど真剣に感心を寄せていただいたことがあるだろうか。虐めや無関
心による引きこもりの子供達や、老人の孤独死などの人間の繋がりの希薄なこの世の中で、
このような絆を持つ私は実に果報者であります。たとえ批判的な感想であってもそれを評
するには少なくとも4、5回は読み直さねばなりません。その努力は学生時代のテスト勉強
のような忍耐と努力が必要と思われます。 この歳でまだあの偏微分の解き方がまったく
わからないと焦っているテスト前の恐怖の夢を見るというトラウマをかかえていますから
そのへんの辛さは身に浸みています。




金縛り  2008/10/30

◆金縛り
 医学的には睡眠麻痺と呼ばれる睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。
 不規則な生活、寝不足、過労、時差ぼけやストレスなどから起こるとされる。脳がしっ
 かり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入って
 いるのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。
 これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっ
 ている。ただし金縛りの起きる状態がほとんど就寝中であることから学者の説明は睡眠
 との関係についてである。覚醒状態においての「金縛り」というものについては科学的
 にはほぼ未解明であり、精神的なものに起因するとされることも多い。




「沈み行く家の合評へのお礼−その1」より   2009/1/10

 私は村上春樹の「スプートニクの恋人」は読んでいませんが、「東京奇譚集」などを読
みますと、偶然の重なりが何かに導かれたことのように感じられて不思議に思われること
が度々あります。
 ◆ドッペルゲンガー現象について
  私の中に幾度となく妙な現象を体験したことはあります。それがドッペルゲンー現象
  であったか、単に夢の中の出来事を現実と間違えて思い込んでいるのか判然としませ
  ん。
 ◆不気味なりものについてはフロイトが言う「不気味なるもの」という定義の中に同じ
  事態の反復がある一定の条件のもと、一定の状況と結びつくと、うたがいの余地なく
  不気味な感情を引き起こす。この感情はいくつかの夢の状態が示す寄る辺なさを思い
  出させる。
  例えば ・不案内の街の路地を歩いても何度も同じ街角に出る。
      ・身の回りのナンバー例えば六十二という数字が同じ一日のうちに何の関連
       もなく係わってくる。
 ◆赤松次郎は己の姿のなかに父の面影を見て一種の「不気味なるもの」ととらえた。
  また、村上春樹の小説に出てくるもので、私が彼の小説に接する以前に書いた「三つ
  の願い」やその他の場面の記述のなかで、妙に一致する記述を見つけた時もそうだっ
  た。村上春樹の場合は「ねじまき鳥クロニクル」では「井戸の中」、私の作品では深
  い縦穴、そして「不気味なる」情景の記述に「ジョルジョ・デ・キリコ」の表題は失
  念したが「車輪を回す少女」の絵を取り上げている。 これは彼の「生と死」、「この
  世とあの世」、「聖なるものと邪悪なも」などといった、 漠然とした「心の中に住み
  着いている暗闇」を好んで描くといった趣 向が私の描きたいものと一致しているよ
  うな気がするのであります。神秘主義というほど確たる自覚はありませんが。




変な夢   2009/3/8

 懸賞設計に応募する作品を徹夜で仕上げるも、締め切り日や提出先を書いた募集要項が
みあたらない。自信作の先品を提出しようとしたが、今日の日曜日までだったか、明日の
月曜日までだったか、提出先はどこだったかと慌てている場面だ。

悶々とする夢現の中で、頭に浮かぶ作品の横書きの説明書の文章がうまく編集できない。
改行をすると文章が消えたり、前の文につながらなかったり、そのうち脈絡のない文字だ
けのものが頭に残る。うまくいかない行動に堂々巡りをしていて悩ましいかぎりだ。
 仰向けになってその文章を考えているのが苦しくなって、そこで横向きに体を変えた。
そうするとその文章も水平ではなく、己の左右の目の方向に横書きの文字が並ぶ。これは
どうしたわけであろうか。頭に浮かぶ想念は、絶対的と思われるの現実の水平、垂直の概
念は脆くも崩れ去った。今まで頭の中に浮かものの位置関係を深く考えたこともなかった
のだが、目をつぶって見るものはちゃんと頭の方向に合わせて横向きに映るという、新し
い現象の発見をした。
 まさに、現実と虚構(想念)の違いであり、もし目を覚まして見ている原稿と頭の中の
文が同じ方向であったらもっとおかしいことになるだろうと思った。ものごとの知覚は現
実そのものでなく、脳を通して認知することで、必ずしも見えたもののそのままでという
ことか。自分に自分を瞞したり、瞞されたりしているようでもある、不思議なことである。




「逆さまの世界」より  2009/3/30

3.夢の中の世界
 変な夢をみた。仰向けに寝て横書きの文章を見ていたが、苦しくなって横向きに体を変
 えた。そうするとその文章も水平ではなく、己の左右の目の方向に横書きの文字が並ぶ。
 これはどうしたわけであろうか。頭のなかでは上下左右の補正を自動的にしているらし
 い。絶対的と思われるの現実の水平、垂直の概念は脆くも崩れ去った。今まで頭の中に
 浮かぶものの位置関係を深く考えたこともなかったのだが、目をつぶって見るものはち
 ゃんと頭の方向に合わせて横向きに映るという、新しい現象の発見をした。
 まさに、現実と虚構(想念)の違いであり、もし目を覚まして見ている原稿と頭の中の
 文が同じ方向であったらもっとおかしいことになるだろうと思った。ものごとの知覚は
 現実そのものでなく、脳を通して認知することで、必ずしも見えたもののそのままでは
 ないということか。知覚の上で自分が自分を瞞したり、瞞されたりしているようでもあ
 る、不思議なことである。



27α編集部:2014/04/23(水) 22:19:32
猫「道」 (2)
.

     ?? 猫道(ねこどう)(2) 2011-2013




   2010年の記録をひっくりかえしても、猫一匹登場しなかった。
   この年は寅年だったから猫も忙しかったのだろうか。 それとも
   筆者の方が忙しかったのか。
   2011年6月にやっとその姿を現す。大地震による余波だろう
   か、「猫になりたい」とある。
   2012年4月に30回目の引っ越しをし、一匹の猫と出会った。






「あした天気になあーれ・第三回」の評1 投稿者:万理久利  2011/6/30

【構成力】

作者は毎回季節の情景から入る。鳥や植物に煌めきを与え、この作品が立つ季節を教えて
くれるのだ。そこでいつも通るビルに囲まれたポケットパーク、そこに猫を登場させ、結
びもこのポケットパークの猫で終わる。(中略)
そしていよいよ、目玉人物、チキンジョージの登場となる。三毛猫探しから帰ってきた、
段取りまでつけて。そんな彼を呆れながらも麻雀のプロとして尊敬する主人公。
次に、もう一つの目玉女房だ。ジョージとのからみは凄みを否が応でも想像させる。

最後はポケットパークにいる猫たち。(中略)
それにしてもこの作品は笑いと、涙の世界だ。 迫力がある。

浅田次郎 プリズンホテルを思わせる猫たちの動画をどうぞ。配役が決まっています。
http://www.youtube.com/watch?v=O3h348uGtNg




凄すぎる顔ぶれ 2011/6/30

「浅田次郎 プリズンホテルを思わせる猫たちの動画をどうぞ。配役が決まっています。」
の裏社会を構成する猫たちの顔は凄すぎる。「三つの願い」にでてくる「カポネ」もこうい
う顔だろうか?とにかくこの社会は顔が命、片目がふさがったり、顔が捻れていたりとその
バランスの崩れ加減は、過酷な闘争の歴史を物語るものだろう。悪顔猫のシリーズの面白い
小説が一つ出来そうだ。






「あした天気になあーれのコメント」 2011/6/18

      

我が輩は猫になりたい。
猫は人間の体重の約15分の1。猫は一日16〜20時間眠る。猫の摂取カロリーは人間の2400
/15=160kcal。14時間動き回る人間と比べれば一日100kcal以下でも十分である。鶏ささ
み100g(105kcal)。牛乳100cc(65kcal)。だから2・3日食べなくても生きて行ける。人
間の跳躍力はせいぜい50cm。猫は体高の5倍すなわち1.5m。人間ならさしづめ8m跳べ
ることになる。ちなみに、蚤は体高の100倍。人間にすると150m、まるでウルトラマンみ
たいだ。

猫と人間の採食、運動能力の効率の差は歴然としている。そしてなんて人間は無駄なこと
をたくさん欲しがるのだろう。飛行機だってコンピュータだって携帯電話だって原子力発
電なんて猫には必要ない。現にそんなものの恩恵に浴さなくとも平気で生きている。我が
輩も来世は猫となったあるがままに生きよう、「樽のディオゲネス」のごとくに。
そして、今度の「あした天気になあーれ」は我が輩の横に写っているオスの三毛猫が主人
公である。どうぞよろしくと言っていますニャー。
http://www.youtube.com/watch?v=pOEXFJ9qHvc&feature=player_detailpage





「あした天気になあーれ−評のお礼」より 2011/7/9

*◆評者 ★作者
◆猫って笑う動物なんだろうか。これが男優だとして、また猫が笑うとして、この写真は
一体晴れには猫の笑い顔、雨には猫の怒った顔を使うのかな。とすれば、雨用に適した写
真を別途用意する必要が有りますね。
★笑った猫の撮影では「またたび」のご褒美をたっぷり与えました。また、猫は水にぬれ
ることが嫌いですから、捲土重来を期して雨に日はもっぱら寝て過ごさせます。そのキャ
ラクターは下記の写真をご覧ください。

      





◎◎子さんへの手紙より  2012/6/7

拝啓
 このところこの山荘付近は花が咲かない時期に入りました。もう少しするとたくさん蕾
(つぼみ)を付けた薔薇(ばら)達が一斉に咲き出すでしょう。栗鼠(りす)には鬼胡桃(おに
くるみ)を二粒づつ、野良猫にはペットフードを毎日テラスに置き、手懐(てなず)けてい
る最中です。朝は栗鼠(りす)が、午後からは下の部落に住んでいるらしい白い猫がやって
きます。この猫はどうもペルシャ猫かシャム猫か、西洋の猫の雑種のようであり、かすか
に黄色がかった胴体の白と、頭と尻尾の一部に日本猫でないような模様をしています。
今朝は散歩の途中で鼬鼠(いたち)の仲間の貂(てん)を見ました。新緑だけではなく、引っ
越して来た当時の黄色の花で一面の山吹の群衆のような色彩が欲しいこの頃です。
(以下略)





「絵を見に行く」より 2012/2/4

 昨日長岡さんの末っ子小柳景義さんの卒業・終了作品展を東京芸大まで見に行った。家
を出て散歩がてらに通った不忍の池回りの景色があまりにも素晴らしかったので写真を一
枚パチリ。人になれた5・6匹の野良猫をからかいながら上野公園をゆっくり歩いた。噴
水公園の全部、東京都美術館などの回り、どこもここも大々的な整地工事のための仮塀で
囲われていたが、完成すればどのように成るのだろう。いつものホームレスの青テント村
も撤去されていて、綺麗になっている。彼等も将来にわたってここらから閉め出されるの
だろうか。帰りにそこを通るとき多くのホームレスが屯していて、遠くの同じ方向を見て
いた。最初はなにが起きているのか判らなかったが、まもなく赤十字のテントの場所で炊
きだしが行われるのを待っていたのだ。(以下略)





山荘便り 2013/3/1

一週間程前に迷い猫が台所の窓を見上げていた。ちょうど数年前に貂が覗いていた様子の
ことを思い出させるシーンだった。そしてまた昨年の春、そっくりの白ろ猫が数回訪れた
ことがあったが、その猫は遂に居着かなかった。近所の人に聞くと親猫は車にひかれて死
んだという。そう言えば山の下の集落で親子をよく見かけていたが、今の迷い猫はあの子
猫かと思った。

毛並みは全体的に白っぽいが、野良猫生活で薄汚れたのだろう、真っ白とは言い難い。
額と足と尾に微かな灰色の虎模様が入っているので、猫図鑑で調べて見たがどうも混血ら
しく判然としない。それでもトンキニーズという種類に雰囲気が似ている。まだ人に馴れ
ていないので、捕まえて詳しく調べることができない。だから年齢も子供なのか大人なの
か、雄か雌かの性別さえも判らない。しかし目の色はすこぶる美しい。 アクアマリンの
宝石のような魅惑的で上品でエキゾチックな異国の薫りが漂う。

細君は「モロ」という名前を勝手につけて餌をやっている。その名前のいわれを問いただ
すと、ミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロ(1452〜1508年)から取った名前「moro」
であるという。私に相談することもなく、またそのよりどころも説明することもなかった
が、しつこく聞くと今読んでいるマキャヴェッリに関する本に出てくる人物の名前を頂戴
したという。ミラノ公と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチが仕えた主人であり、ミラノ公の
愛妾チェチリア・ガッレラーニをモデルに描いた「白貂を抱く女性」が有名である。

この「moro」はこのところ家の外の零下10度を耐えて生きているのだから結構タフ
にちがいない。餌をやったり寝床を提供したりしているが、家の中では飼わない主義であ
る。また都会のペットのように着物を着せたり、抱いたりはしないつもりだ。だからこの
家が居心地が良ければ居着くだろうし、自由な野良の生活が望ましければ、また山の下の
民家が恋しければいつの日か自らここを出て行くだろう。私はだから「moro」の好き
なようにさせようと思っている。





山荘便り 2013/6/7

梅雨というのに一向に雨が降らない。だから太陽の光は十分満ち足りているにもかかわら
ず、朝夕はセーターとジャンパーが手放せない程肌寒い。標高1000メートル近い高さの
せいだろうか。春先山吹がこの辺りを黄色で一斉に染めたが、山荘の蔓薔薇や紫陽花やブ
ラックベリーなど、蕾はあるもののその後なんの花も咲かず、ちょっと寂しい。

最近もう一匹の野良猫が時々庭に訪れるようになった。三食昼寝付きという暮らしを保証
され仕官した我が家の猫、モロが羨ましいのかも知れない。細君はその新参の猫をカトー
と名付けた。あのローマ時代の 吝(しわい)な大カトーの名前である。どのような意味
でそのような仇名を細君が付けたのか、私はまだ問うていない。それにしてもモロに顔や
毛並みがそっくりで、兄弟ではないかと思っている。なぜなら体は大きいがモロと喧嘩す
るでもなく二匹とも三メートルばかり離れて黙って座っていることが多い。

私は朝八時を過ぎると屋敷の上の道に出て散歩に出かける。最近は下のテラスか藪の中に
いるモロを上から呼び、しばらく待っていると黒く防腐塗装を施した木製の階段をおずお
ずと登ってくる。私がゆっくり歩き出すと三メートルばかり距離を置いて付いてくるよう
になった。前に飛び出したり、藪や他所の屋敷に入り込んだり見え隠れしするのは私をか
らかったり試したりなどの遊びの積もりだろうか。散歩に小一時間ほど付いてくるという
ことはモロにとってどのような感情があるのだろうか。人の顔を見分けたり、自分の志向
した自由な意志、記憶などを観察するに、まんざら知能が無いわけではなさそうだ。兎に
角、私と迷い猫とがこのようになるまで三ヶ月ほどの時間が必要だった。しかしまだ私の
膝に乗るまでには至っていない。





シリーズ・歪んだ風景−鐵橋 第五回 著者前書きより
2013/9/13

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赤松次郎の代理として
小生の諱は「moro(モロ)」と症します。今回は主人・垢待二浪(あかまつじろう)
が生業のため多忙で、寝子の手も借りたいと常々申しておりましたので、勿論小生の餌代
を稼いで貰わなければという重いもあって、主人に代わってボードレールとゴメンネを書
いている私大であります。

小生と主人の係わりは「斜光第18号−迷い猫」に詳しく哨戒されていますが、「moro」
とは、ミラノ公ルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ通称イル・モロからとった名前で、
主人の細君が強引に名付けたものであります。そのかわりもう一つの渾名である「サルト
ル佐助」については実存主義に傾倒している主人がつけたものであります。


        

さて、昌平坂探偵事務所の分室、中町探偵事務所の万理久利女史が小生の出生の秘密を探
りあてましたので、この際その貴重な報告を記録として留めることにしました。
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「moro」またの名を「サルトル佐助」
投稿者:キメラ17号(万理久利) 投稿日:2013年 9月 7日(土)16時52分11秒
甲斐の国は富士山麓に住む鈍色太夫という郷士の飼い猫で、本名はモロ助である。
青木ヶ原樹海の中で猿と遊んでいるところを鈍色太夫に見出され。その飼い弟子となった。
古雄賀流の忍者猫の血統だか修行した経験はない。生まれつきの極度のロンパリだったた
め、忍者にはとてもなれないだろうと考えた親猫によって青木ヶ原にそっと置き去られた
捨て猫だったのだ。太夫に拾われた後、 じっくりと鈍色流実存主義を叩き込まれた。
[サルトル佐助]は太夫がつけた芸名である。

鈍色太夫に鍛えられたサルトル佐助は、後に十一期十勇士の1匹として知られる。 同じ
十勇士で伊賀くり忍者猫の糊塗更道蔵は、ライバルでもあった。
本郷春の陣で[またたび護憲派]に敗れた後、太夫の住む富士山麓に落ちのびたという。
鈍色家の家訓「自由であることは、自由であるべく呪われていることである。」は代々受
け継がれ、今でも富士山麓に行くと太夫とサルトル佐助の子孫が仲良く暮らしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、よく考えてみると「シリーズ・歪んだ風景−鐵橋」の紹介とは難の姦計もなく自慢
話に雄割ったことをお詫び致します。    「サルトル佐助」 2013.9.12



28α編集部:2014/04/28(月) 14:29:30
長岡さんはどこにいるか
.

       長岡さんはどこにいるか




         『肥と筑 第七回』 17号 前書添付写真

        


「長岡さんはどこにいるか」 2008/12/24

 私立探偵家業にあこがれる赤松次郎としては、単に感覚で捉えることなく手元にある
2008年2月2日高級料亭「日本橋さくら水産」での同人αの新年宴会の写真をもとに、
長岡さんの若き時代の顔を推理してしてみた。まずそれらの提供された資料をA3に拡大
印刷してルーペで見ると、その範囲は簡単に絞ることができた。前列左から1番目と2番
目が絶対怪しい。しかしどちらが正しいかは赤松次郎には俄に判じることができない。顔
の作りは二人とも非常に似通っていてハンサムで、まるで兄弟のようだ。表情に至っては
同一人物の晴(は)れの日と褻(け)の日の顔の違いくらいにしか見えないのである。
そこで次郎は、判断できないでは探偵として話にならないから、次の三つでえいやっとば
かりに結論を下した。
 1. 所持品で見分ける方法
   一番目の人はナップザックを持っている。長岡さんがこのようなものを好むかどう
   か、またはいままで会うときに持って来きたかは覚えていない。
   二番目の人は本を持っている。これは長岡さんの多読・多知識を憶測するに、非常
   に有力な根拠である。
 2 姿勢から見分ける方法
   ブログと新年宴会の3枚の写真のいずれも、向かって左側(当人の右側)の顔が前に
   出ていている。これは長岡さんが人に見せる顔の方向がいつもそうであるという癖
   なのだろう。
 3. 人と違った意見を言いたがる赤松次郎の習性による。
 よって、赤松次郎探偵による結論は、前列の左から二番目が目的の人物と断定した。




後日談1

「窓辺にて−山荘便り」より 2008/12/28

◆長岡さんよりクイズの正解者の吟遊視人氏と私の二人に何か商品をくださるという。私
 達に共通するものという示唆がありましたので、左翼的な思考を矯正するための毒薬か
 水責め、スペインの蜘蛛、猫鞭、鉄の処女、ユダのゆりかご、火頂、石抱き、皮鞭、ラ
 ック、猫の爪、リッサの鉄棺、ガロット、貞操帯、などの拷問の道具かもしれない。い
 ずれにしろ楽しみに待っています。




「当て物の賞品」  2008/12/30

 長岡さんの説明の通り「下町のナポレオン」と「黒霧島」の2本でした。
私としましては昌平校の長岡教授の「私立探偵の独立免状」をいただけるだけで大満足、
これで迷子の猫だけではなく人間共の浮気調査、思想調査、身元調査に精を出せるという
訳です。




  「長岡さんの説明」より 2008/12/30

   いや、今回の当て物、私が皆さんにどう見られているかが良く解って
  私としては結構楽しませて戴きました。というわけですから、ご心配は、ご無用に願
  います。お二方に共通する物としては、度々の酒の席で確認していた物、そう、焼酎
  です。特に昌平坂探偵所の所長様は、醸造酒がお飲みになれない事を、考慮致しまし
  た。奥方向きのチョコとかも、考えない事も無かったのですがそうすると私と同病の
  所長様には、大ハンデになりそうなので避けることにしたのです。
   もう一つ、薔薇の花も候補として考えました。と言うのも、三男の小・中学校の同
  級生の女の子の家と今でも親しくしているのですがこの家と言うのが、薔薇の品評会
  で総理大臣賞を貰ったことのある薔薇農園なのです。ですから、我が家からのお祝い
  に、薔薇の花束を贈ることは良くあります。
  (薔薇は茨城の県花ですし、我が家のそばには薔薇中心のフラワーパークが有ります。)
   でも、つれあいに相談した結果、殿方にはやっぱりアルコールということに成りま
  した。若しこれから先、木の花咲哉姫様にお祝いの品を送る必要が有れば迷わずに、
  特大の深紅の薔薇の花束を送ることに致しましょう。




後日談2


  2608 無限回廊 第三回 2011/4/14

            

  長岡曉生さん・賛   認識No.17 エヴァ マリー ゼノン

  紅顔の美青年、**中年なのか。これは同人α17号、拘りの作品「肥と筑」の7回
  に提出のもの。な かなかの男前です。ピントの合わないカメラの具合にすぎないの
  でしょうか。
  17号の時私はいなかったけれど、「α」の歴史探索でお目にかかった。あの難しい
  肥と筑を書く人はどなたかとわくわくしたものです。今とどう繋がるか、目と鼻でし
  ょう。あの探る目と嗅ぎつけようとする鼻、手元の本は(書類)は検証資料にちがい
  ありません。春画、春本の可能性もあります。もちろん研究、検証資料としてです。
  知的好奇心のまま、論理にもとずく解き明かし、そしてホロスコープの世界までにど
  んどん進んでいきます。今のお姿はそれなりに歴史を重ねなかなかのものになってい
  るのでしょう。
  今回の作品無限回廊第三回ではまた別な一面、可能性を感じました。やはりあの「目」
  は、もっと先を見ていたのかもしれません。

  ※今回の震災被害地にお住まいのようです。大地震の揺れでつい目の玉をうっかり落
  としたとか、以来揺れる度に目が落ちそうになり、写真の手配もつかないということ
  で不詳エヴァが書かせていただきました。
  ※17は縁の深い数字です。たまたま思い起こした写真にたどりつきましたら17号
  でした。これでキマリでした。作品キャラはNo.13「頭脳監察官」です。これもまた
  なかなかの姿です。冊子にその姿が紹介されています。




無限回廊 第三回 感想の前に 2011/4/19

まずはブログに掲載されている著者のポートレートについて・・・。
「この写真は、数年前(???)に中学校の関東同窓会を東京で開いた時の写真です」と
い う長岡さんの「肥と筑 第7回」の著者のコメントおよびポートレートに提示された
ものの なかの一部をトリミングしたものでしょう。当時その写真をみて、長岡さんはど
こにいるか というクイズを著者自らだされたことがありました。それにたいして私の答
えを下記のような推理のもとに出した結果、見事に当って焼酎一本ゲットしたことでした。



  無限回廊 第三回 評のお礼 投稿者:長岡曉生 投稿日:2011年 4月21日(木)23時17分

  ◆赤松さん
  ★著者のポートレートについて
  そう、いきさつは御指摘の通りです。
  この時の正解は二人だけでした。中でも論理的な推理の下に的中させたのは、昌平坂
  探偵所の所長ただ一人でした。流石です。



29α編集部:2014/04/29(火) 10:07:50
激甘辛作品評1
.
             激甘辛 作品評1
??????????????????????????????9号2007-12号2008



???? 「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。




  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIを
   クリックすると当該作品を読むことができます。



同人α9号


親と子???????? 2007/1/23

 これは難解な推理小説のようで、「何んかいな」といいたくなる「名作」か、はたまた
「迷作」なのか。たった四ページの中に、由美、おば様、ママ、ポポ、父、孫、娘、祖母、
昭子の人物が登場する。それぞれの記述、独白が誰を指しているか私には断定できないの
である。理解しようと鉛筆をなめなめ相関図を完成させようと試みるが、決定的な証拠が
なく犯人はするりとフィッリプ・マーロウの目の前をすり抜けて行く怪人二十面相のよう
につかみ所がない。

 しかし一見幸せそうな家族や満たされていて何の不安もないような家庭にも底流には隠
された辛い物語があるものだ。誰の回想や独白か判らずともこの物語にはペーソスがあり
普遍性があり繊細な女性しか書けない世界である。

 英語の先生が突然日本文学に目覚めて、源氏物語のように主語抜きの小説を試みたのか。
それとも理解できない私はもはや認知症の世界に片足を踏み入れてしまったのか。ここは
一つO氏自らその相関図を完成して私の疑問を晴らしてください。





同人α11号


選択五題 碇民治 著   2007/6/18
http://2style.in/alpha/11-4.html

◆ 鉄仮面氏のように物語りを膨らまし、想像の翼の羽ばたくままに語られた物語は誠に
  楽しく、その創造力には脱帽するが、私は評としてはそこまで仮定に基づく憶測や想
  像をすることが、作者にとって果たして望んでいることだろうかといつも評や感想を
  述べる時悩むのである。
◆ またO氏のいうように作者の意図をどう理解したらいいか分からない句もある。
  これは、句に携わる人達の決まり事や用語に対しての私の不勉強のせいかも知れない。
  その一方、説明しなければ素人には分からないものをつくる意味はなんであろうか。
  私は共感の得られる情景や思いを、この短い語句の中にいかに盛り込むかが一番難し
  い作業であろう。その点私はその世界に閉じこめられることをいつも拒否している自
  分がある。
◆ 「選択五題」は確かに作者の生活の中で生ずる「岐路」でどちらの道を選択してきた
  か、またその選択した道ではない別の生き方に思いを馳せるとともに、そのときの決
  断に悔恨めいた感情も微かに感じられるのである。それはまた私の迷いや思いの残照
  と確実に共鳴した。





肥と筑 第一回 長岡曉生著 2007/7/12
http://2style.in/alpha/11-9.html

◆ことばへのこだわり
  この一家はことばやものごとなどを世間的なありきたりの解釈に飽きたらず、自ら調
  べ挙げ解明しようという旺盛な好奇心とそれを楽しむ性格が描かれているようだ。私
  もまた色々の出来事に使い古された意味や解釈に反発し、疑いの目を持ち、自らの解
  釈を作り上げようと足掻くのではあるが、それはまるで「こんなものが効くのか」と
  いう旦那にたいして、藤原紀香が「あんたのその疑い深そうな目が好きや」と応ずる
  殺虫剤のコマーシャルが気に入っていてまさに言い得て妙である。
  ついでに、これは私がいままでに評価するコマーシャルの名作の3つ目に付け加えよ
  うと思う。一番目は松平健が西洋人のバックダンサーと踊っている「コナカ」のCM。
  なんとも事大主義的で臆面もなく無意味なことをやっているところ。
  もう一つは「メガネスーパー」のCM。桃太郎と犬・猿・キジの家来達、そして赤鬼
  ・青鬼達が行進するアニメだが、一人として歩調を合わせないところが見る者の脳み
  そを攪乱して、真も善も美も糞ったれというはちゃめちゃさがいい。よくこれで製作
  費を貰えたね。
◆ 問題提起
  ある本で「学問的業績を評価された人は、必ずしも答えを見つけ「真理」に到達した
  人ではなく、より豊かな実践を拓いていく新たな丁番を創り出した人。何かある問題
  に答えた人よりも、むしろ問題を創り出した人である。」というのがありました。そ
  の点同人αの連中は常にピントはずれのような、一笑に付すような提案や計画や思い
  つきを真面目に言い出す人が多い。それが同人αの資格審査の条件であったかと思え
  る節がある。とにかく人と違ったもの、人には無いものを尊ぶ風潮を私は好きだ。
◆ 家庭団欒
  まずは知的で、そうかといって各々が個人主義の固まりでなく、和気合い合いの後藤
  家のような家族は今の日本では希であると思う。その意味では理想的な親子関係で、
  作者の家庭がそうであるとすればうらやましい限りである。我が息子などは、学費を
  貰う間はそれなりに付き合ってくれたが、卒業して就職してしまうと歩いてこれる所
  に住んでいながら、催促されて渋々月に1度位しか顔を見せない。美味いものが好き
  だから、神楽坂の志満金で鰻を食おうとか、銀座のて天丸でてんぷらを等と言って連
  れ出すのだが、最近医者より「1日1,800kcalに押さえないと恐ろしいことになりま
  すよ」とどこかのテレビの番組みたいに脅されたので、息子を連れ出すのに新しい手
  だてを見つけ出さねばならなくなった。「お父さんはもう長くはないぞ」という脅迫
  めいた科白に効果を期待するか。
◆ 「肥と筑」はこれからが楽しみ
  司馬遼太郎の小説は実に面白く読ませるが、語ることが膨大すぎて最後に残る「こと
  ば」がつかめない、というようにならないことを、vacuum headを代表して最後に
  一言申し添えます。





選択、その後??  2007/7/22

彼の独特に社会の不条理にたいする憤りとそれに伴う運動の体験は、青年の頃にノンポリ
であった私にとっては貴重な知識を与えてくれるものであり、また私が既に忘れ去ってし
まった正義感を失わず持ち続ける氏の生き方は貴重である。
その一方、物語として見るとき私は多少の小言を言いたくなるのである。それはまだ創作
を始めて日が浅い故であるかもしれないが、語りの中に共感するような心理的な葛藤やあ
るいは自然の色彩や光による微妙な移り変わりの描写などの表現が足りないような、ただ
ひたすらに情況の説明と筋を追うだけのものに見えてくるのである。

◆ P39-8行目:その山あいで自分があたかも主人公になったような気分で気ままに生き
  ている。の意味がわからない、この物語の「私」は常に主人公ではないか。それでは
  この山あいでの主人公は何であるのか?
◆ P39-34行目:離婚の理由は妻が私を嫌いになったのではなかった。今の自堕落な生
  活からむかしの行動的な「私」をもう一度取り戻して欲しいとの願いから、私を発憤
  させるために離婚を突きつけたとある。例え妻も自分自身をあらたに出発させようと
  いう意図があったとしても、それだけで離婚という選択をするであろうか。そこには
  もっと相手に対する嫌悪や憎しみや軽蔑などといった内面の激しい葛藤があるはずで
  ある。その辺の記述が欠けているから読者の深い共感は得られないのではなかろうか。
◆ P40-31行目:繰り返すことになるがの文はいかにも説明的で無駄だと思う。
◆ P41-23行目:(何度も使ってきたが・・・)も同じく不用。
  最後にこの物語があまりにも藤本敏夫・加藤登紀子の生き様と重なり合っているのが
  気に掛かる。
  随分言いたいことを書いたが、才能のある方だから嵐の夜に訪れた「佐久間茜」によ
  って生じる、これからの目の覚めるような新しい世界への展開を期待しよう。





同人α12号


稲作今昔物語り(1) 碇民治著  2007/8/31
http://2style.in/alpha/12-1.html

◆ いまの世の中はこの食べ物は「美味い」の「不味い」のと言いながらその苦労も考え
  ずに能天気に批評する風潮に染まっています。たしかに私もいつからでしょうか「食」
  を自ら生産することや自ら採取するための知恵も、そしてその原始的な生き方の大切
  さも忘れ去っていることに気づきました。
◆ 「鉄腕、ダッシュ」という、ある東北地方と思われる里山を舞台に、稲や果物や野菜
  を作る過程をさるアイドルグループに体験させる日本テレビの番組があります。これ
  をみると、実に農作業おける先陣から受け継がれたもの作りの知恵なくしては作物は
  満足に育たないことが判ります。
◆ 農機具商を営む父のもとで育った私ですが、今回碇さんの文によりそんなに農作業が
  進歩した機械により「樂」になったのかと、恥ずかしながら40数年前しか知らない
  私には驚きでした。冷房の効いた、GPS付きのすぐれものですか。
◆ くりかえし早苗をつかみ挿しにけり
  昔は梅雨の雨に濡れながら横一線にならんで人力で植えたものです。毎年親類の家に
  手伝いに行っていた頃はまだトラクターもなかった。それは大した仕事もしない子供
  にも辛い作業で、それ以来土をいじる仕事を敬遠した思いがありました。いまは胡瓜
  やなすさえ作れません。いまさらながらその時々に農業の知恵を教わっておけばよか
  ったと思います。





肥若葉は萌えて  三浦和子著 2007/9/26
http://2style.in/alpha/12-5.html

◆ 作者が俳句や和歌だけでなく今回新たに小説という創作の世界に挑戦されたことを高
  く評価します。自分には出来ないと思っていても書いている内になんとか書けてくる
  もので、是非これからも続けて自分の才能とその楽しみを見付けてください。
◆ 私も長岡さんと同じく、先ず「肥若葉」という言葉について興味を覚えました。歳時
  記や季語をいろいろと調べましたが結局判りませんでした。もし既製の言葉であれば
  その出所を、もし作者自身の造語であればどのような若葉を表現したものか詳しくご
  教示ください。
◆ 主人公は定年を迎えて自分の居所を探しに出掛けることから始まる物語は、失われた
  社会との繋がりの部分をどう満たすかを模索するという共通の問題でありましょう。
  その点で多くの人達と共感出来るテーマだと思います。
◆ いよいよ箱根の思い出をきっかけに内証の世界へ入っていく。新しい創作を通して、
  作者が表現する人間や自然にたいする考え方、人と違った個性を見付けることを私は
  楽しみにしよう。





定年後の日々パート4  2007/10/12

下世話に「残り物に福がある」という諺はよほどの運が必要のようで、このところ論ずべ
き良いところは既に賢明な皆さんの筆になってしまっている。いきおい遅れてきた者の話
題に乗れない悲哀やら、冷や飯食いの居心地の悪さを感じているのだが、それでもなお何
か人と違った見方の評を探してみようと努力するという、私がいつも陥るていたらくのパ
ターンである。だからどうしても負の面を探すということで、刺激的な効果を狙って作者
の自尊心にダメージを与えることを承知の上でアルカロイドを仕込むことになる。

◆ 構成としては、村上春樹の「羊をめぐる冒険」・「世界の終わりとハードボイルド・
  ワンダーランド」・「海辺のカフカ」などに出てくる山深い僻地にあるこの世とあの
  世の世界へ主人公は迷い込むみ、再び戻ってくるという自分探しの旅の物語のように
  思えた。しかしこの小説はこのまま終わるとすれば行ったきりで、この世とあの世の
  間の三途の川の手前で、六文銭を何処かで落として渡れずに立ちすくんでいるだけの
  主人公になってしまう。読む方もなんだか大好物の食べ物を途中で取り上げられたよ
  うな、血湧き肉躍る映画をこれから本番という時に停電するような割り切れない思い
  になった。
◆ 私は会社に8年間しか勤めず、若いときに自ら会社を去ったので、定年退職者をとり
  まく人々の間でこのような複雑な思いが交差するという記述を非常に面白く読んだ。
  しかし廻りの人たちの思惑を主人公が説明しているような書き方や時系列から逸脱し
  ない、すなわち時間的に過去・現在・未来を行き来したり、空間的な別の場所を舞台
  にした物語の一部を挿入したり、人物だけでなく天然現象や動物や植物などの記述も
  織り交ぜて、立体的に物語を作っていく手法でないように思える。この物語の記述は
  平べったい一次元と一方にしか進まない時間による記述で物語りに深みがない。川の
  流れに瀬や淵や曲がりくねりがあるように四次元のふくらみを表現して欲ししい。そ
  れから「赤目四十八瀧心中未遂」を書いた車谷長吉は、小説とはいかに登場する人物
  を生き生きと表現できるかであると言っている。また博覧強記的な知識も、一度作者
  の頭の中で疑問と共に分解され、再度組み立てられたようなものではなく、通説など
  の匂いがして、どこかで聞いたようなことが多く、作者の個性や人格から発せられた
  ような独特の言い回しや言葉の表現が観じられないのは「観光立国日本」の時もそう
  だった。
◆ とまあ、散々なことを書いてしまった。ここまでくるとさすがの作者も皆さんのよう
  にしっかりとした検証もしないで言いたい放題、批評にもならないものを読まされ、
  怒り心頭に発したでしょう。「大きなことを言っておまえはどうなのか」とブログの
  写真の姿で詰め寄られると、私は二の句も告げられず許しを請うのみにて。
  *◎◎さんごめんなさい。     友達を無くすなあー俺は!!





パロディ2題(出合いと別れ)  2007/10/27

◆ 安倍さんの「坊ちゃん宰相」振りはなかなかよく書けていて、首相になって職務を放
  棄するまでの離散劇は毎日のニュースで私もつぶさに見て知っていました。だから欲
  を言えば私の知らない事情についてのパロディを今度書いてください。
◆ 例えば、山本なにがしの気狂いじみた安倍政権擁立への情熱は何故かとか、平沢 某
  の主君への恋々とした忠誠心はどこから来たのか、等々安倍さんを持ち上げた人々の
  滑稽な三文芝居・狂想曲の顛末はまだ「総括」と「落ち」は着いていないと思われる。
  そして性事と政治の世界では言葉はいらないとばかりに、ついに我々国民の理解でき
  る言語では語られることはなく、永田町の闇の奈落で廻り舞台をどうまわすかを画策
  する影のシナリオライターの暗躍を炙り出してもらいたい。
◆ 安倍さんが自民党の代議士先生達を魅了したのは何だったのでしょうね。
  毛並みの良さが、田舎代議士の卑しい身分にも関わらず貴族の真似事をするというあ
  の「スノッブ」感覚をくすぐったのでしょうか、それとも金の匂いや猟官の思惑から
  か。急がないと与党の天下も危うくなったし、毛並みと見てくれが売りのあの程度の
  人物を担ぎ出した自民党員の見識や感覚がもはや格段に低下しているという思いにい
  たる。実は自民党員は影武者であり、数臆年も連々と我々の中に住み続ける「遺伝子」
  のような「官僚」が本当の支配者なのかも知れない。だから見かけの日本の代表が誰
  であろうと一向に体制が揺るぐことはない、これはもしや一流国の最良の最終の理想
  的な姿かもしれない。





同人α13号


性の波紋(その3) 2007/12/11

◆ この手の克明な性描写は、それに対する意識が開放されている現代の若者と違い、
  まだ昔の規範を引きずっている私にとって趣味ではないから言及しないでおきましょ
  う。
◆ 「据え膳食わぬは男のなんとか」について、夏目漱石の「三四郎」のなかに次のよう
????な筋の文があります。三四郎が上京する汽車の中で知り合った女性とよんどころなく
  同衾することになった。彼は一つの布団の真ん中に手ぬぐいを丸めて棒状にして結界
  をつくってその女と寝た。しかしなにも起こらなかった。朝起きるとその女は三四郎
  に「いくじがないのね」と言った。女が交情を望んでいたのか、それともそうなって
  も仕方がないと覚悟の上だったか三四郎にも分からない。女心の分からない三四郎の
  逡巡は美弥子に「strey sheep」と言わしめたようにこの小説全体のテー
  マでもある。sheepは気の弱いという意味もあり、なんとなく煮え切らない男の
  心情を象徴しているようでもある。そう言えば「性の波紋」の主人公も既成秩序への
  全面否定、前世代への全面不振、権威あるものへの全面敵対などにたいして果敢に挑
  む反面、桐子や茜に対しては常に受け身であり、茜との関係にたいしても離婚した桐
  子への後ろめたさを感じる。
◆ 「来週の土曜日には桐子がやってくる。その三日後には合評会があり、いやおうなく
  茜と再会する。私はどのような言葉と表情で彼女らと接すればいいのだろうか」など
  と自戒し、自らの意志による結果としての意識や覚悟がなく、六十歳にもなって自立
  した大人としての人格がいまだに育っていない感じを受けた。
◆ 表現としてはP101行目「前号で述べたように」とか、同16行目「さて茜のことに
  戻ろう」という文は前号でも述べたように、報告書や論文のようで文学的表現ではな
  いと思う。この感覚は私だけのものであろうか意見を問います。





肥と筑 第二回 長岡曉生著 2007/12/21
http://2style.in/alpha/12-6.html

bird・brainの私が「肥と筑」をものにする巨像のような作者の頭脳に対峙するのに、どの
ようなスタンスを取るべきかいまだに決まった見解を持ち合わせていないのである。そこ
で連載の途中だからといって物事の結論を先延ばしにするという私の得意の奥の手を使い
たいのだが、皆さんの努力を見るに付けそうもいきません。逃げることも問題を処理する
方法として一つの文化であるという社会も世界には存在するという本(危機のモラル マ
レクラ島のフィールドから 船曳建夫著)を読んだことがあるが、ここで放棄することは
編集に携わる者として許されるものではないと思った。そこで旅人−Mさんや、長岡さん
の手法に習って、正面からでなく搦め手から迫ろうという魂胆であります。
◆ さて文学とはどのような芸術の範疇に入るかと調べてみると、次のように分けること
  が出来る。
  1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術
    の総称。すなわち、音楽、文芸など。
  2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられ
    て、人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なも
    のに建築、彫刻が含まれる。
  3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調
    和した形式で表出される芸術。すなわち、舞踏・演劇や映画など。
◆ そこで「肥と筑」が論文か小説かということが話題になっているが、小説とはなんぞ
  や?
  小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随想や批評、
  伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。なお、英
  語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり、
  もともとラテン語で「新しい話」を意味する。
◆ 小説は次のように分類される。
  長さ・発表形式による分類
   短編小説・ショートショート・中編小説・長編小説・連載小説
  内容による分類
   私小説・恋愛小説・青春小説・冒険小説・歴史冒険小説・秘境探検小説・海洋冒険
   小説・推理小説(ミステリー、ミステリとも)・サイエンス・フィクション(SF)・
   ハードSF・スペースオペラ・サイバーパンク・スチームパンク・ファンタジー(幻
   想小説)・ライトノベル・ホラー小説(怪奇小説)・怪談・歴史小説・時代小説・伝
   奇小説・武侠小説・児童文学・童話・絵本・官能小説(劇画系,美少女系,耽美系
   などに分かれる。)・教養小説・鍵小説・企業小説・経済小説・政治小説・ゴシッ
   ク小説・スパイ小説・大河小説・心理小説・芸術家小説
◆ ついでに純文学と大衆文学の区別は
  小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
  が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
  芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
  小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
  うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
  分けて考え るのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

さて結論として「肥と筑」は歴史的資料を扱っているが純然たる論文ではなく、登場人物
に語らせるという散文で作成された虚構の連載物語でもあるが史書でもある。だからから
小説が伝記、史書と対立するものであるという定義があるゆえに複雑だ。それは私の書い
た「歪んだ風景−異星人」のように言葉遊びに徹すればそこに描かれている内容はぼやけ
てくるし、内容を重視すれば言葉遊びは余計なものだというジレンマは常に作者に付きま
とうわけだ。一方読者の好きなように解釈すればいいとばかりに開き直ることも出来るの
だが、「肥と筑」の作者は物語と史実のどちらに重きをおくのか、それとも両方をと意図
しているのであろうか。両立出来るものを見事になしたとき長岡氏の頭脳は一層輝きを増
すだろう。





浅野川のほとりで   2008/1/2

◆金沢は私も一度訪れたことがある。しかしここに描かれている浅野川や卯辰山などの場
 所はほとんど縁がなかった。ただ室生犀星の「性に目覚める頃」を読み、犀川のほとり
 にあるという犀星の育った不遇のころの雨宝院を探したことがある。また犀星の詩のな
 かに「青き魚」などといった青色の言葉が多いのに気がついた。そして彼が特別この色
 に惹かれた理由でもあるのか疑問に思い、私が文学を専攻していたら卒論のテーマに選
 んだかもしれないとその時思ったこともあった。
◆「浅野川のほとりで」に描かれている若い頃の忙しくも生き甲斐のある生活は、高度な
 文化と歴史を持つ地方都市の生活がいかに心に残るものであったか、作者は水を得た青
 き魚のように活き活きと描写して居られる。主人公を引き立たせる舞台はまず川がある
 こと、きれいな水が流れていること、人口が多すぎないこと。40〜50万人くらいの
 都市が一番暮らしいいといわれている。私も長崎に4年ほど住んだが、高度な文化と歴
 史と人口の条件は満たしているが、残念ながら滔々と流れる清流は揃わなかった。
◆ 最後にこのような疑問を投げかけるのは良くないといつも気をつけていた。本来なら
 悪い話を先にして、最後にいい話で締めくくるべきであろうのにと悔やまれるのだが、
 もし気に障るようでしたら、もう一度前にもどって読み直しし、この文の前で閉じてい
 ただきたい。さて、

 疑問その1
  P26 上段から10行目あたりの「辞令が出た以上は赴任して頑張るしかない。くよ
  くよする性格ではないので、気持ちを切り替え新天地に望みを掛け、おおくの友人に
  見送られて梅田の駅を後にした」という心境は夫の心境と思われるので、作者が言い
  切るのはおかしいのではないか。・・・夫はそういう思いであったろうと憶測する書
  き方でなくては、作者の考えになってしまうのでは。
 疑問その2
  全体的に言い切りの形が多い。例えばP26 1行目「昭和45年3月。大阪万国博覧
  会が開かれた都市。」とか 中段の「泉鏡花・室生犀星・徳田秋声の三大文豪等の生
  地といことでその文学碑が人目を惹く。」等々
  江戸っ子の歯切れの良い言葉使いのように、判りやすい反面いささか蓮っ葉な感じを
  与え、しっとりとした情感が記述出来ないのではないだろうか。「そして」とか「そ
  れから」などの接続詞などの多用も猥雑になることもあるが、適宜に使えばいかにも
  高度な文化の中での暮らしぶりが清い水が流れるような情感をもって伝えられると思
  うのだが。






樹木との付き合い・波乱   あき もとすけ著  2008/1/5
http://2style.in/alpha/13-8.html

◆同人αの合評をしているので評論というものを知りたくて、このところ家にある新潮社
 版の小林秀雄全集十四巻を拾い読みしている。小林は部分的な表現や齟齬を指摘するの
 ではなく、全体的な印象や考え方の評論が多い。それらは本丸に突き進んで結論めいた
 業物を「さあどうだ」とばかりに広げるわけでもなく、搦め手から知らん振りしてじわ
 りと攻めてくるから、なかなか一筋縄ではいかないのである。だからよく読まないと本
 意がどこにあるか、それを見つけるまでに難儀をすること請け合いだ。私もそのうち何
 とかその神髄を会得して合評の質を高めたいと思っている。
◆大木への憧憬
 私も樹木には関心がある。特にイイギリは郷里の九州ではあまり見かけた事がなかっ
 たので、横浜から六本木の会社まで通う東横線の祐天寺駅の手前にあった赤い実をつ
 けた大木は何だろうと思ったのが最初だ。平吉の訪れた国立自然教育園にも沢山ある
 のも知っていたし、立川の昭和記念公園の入り口付近にも大木があった。イイギリは
 冬がいい、真っ白な雪の中であればもっと印象的であろう。廻りの落葉樹の葉が落ち
 てしまった中に大手を広げて仁王立ちした大木が、真っ赤な房状の赤い実をぶら下げ
 て一人自己主張をしている様は擬人的でさえある。
◆さて本文についての感想を書こう。自然のなかの木々の描写や少年の頃の田舎の思い
 出も的確に描かれていて読者を納得させるものである。また株の世界、その売買シス
 テムなど経験のない私にとっては目新しく、ああこういうものかと情況はわかった。
 しかし、次の二点で納得いかないと思った。
 1.プロットにおいては「鶴の恩返し」や「浦島太郎」が見え隠れしている。
 2.人物の性格においては大木に心を寄せる人物と投機に走る人物がどうも性格上しっく
  りしない。世の中にはそういう人もいるとことは否定しないが、この場の平吉の自然
  に対する精神的な清さと、生き馬の目も抜くような非常な世界の人間に違和感がある。
やはりこれは「○○の恩返し」というプロットを意識した設定で、らくさんが言及してい
るように別々の物語にした方がいいのではないかと思った。





楽しみ  2008/1/14

 これは作者が将来本格小説を書くために試みた習作、すなわち人物描写・スケッチとみ
た。だから私はここで評という評は書けそうにもないし、また書くほどの材料も見あたら
ないので、今はメモ的なものを書きとどめて置くことにしよう。
 この「楽しみ」の人物は、馬込村の魔女の一家のことだと私は「惚けて(とぼけて)」
認識しよう。そして先に話題になった「惚」の下記の意味付けを下敷きに解釈すると、
◆「ほれる」:ある異性がたまらなく好きになる。…に恋をする。
◆「ぼける」:知覚がにぶってぼんやりする
◆「ほうける」:夢中になって…する、とことんまで…するの意を表す。
◆「とぼける」:知っていながら、知らない、というふりをする。しらばくれる
 一家は実に「ほれる」・「ぼける」・「とぼける」ほどの破壊的な打ち込みかたもなく、
ごく庶民的な欲望というか、楽しみをお持ちで、一人を除いてそれほどほどの執着をされ
ていない。しかしよく観察するに、血は水より濃いことを図らずも証明している。それは
只一人の血族以外の先夫「弘」だけが家庭を顧みないほど、魔女以外の女に「惚れ(ほれ)」
そして「惚け(ほうけ)」たという事実だ。作者はこの真実に気付き書き分けていたのだ
ろうか。いや気付かなくても書き分けることのできる才能をこの魔女はもっているようだ。






定年後の日々について 2008/1/23

 天衣無縫というか融通無碍と言おうか、著者の豊かな発想のこの小説をじっくり読まな
ければならないのですが、いずれこの物語が大団円にいたった時に纏めて評しましょう。
と言うわけでいつものように走り回っていますので気が付いた部分の質問だけで勘弁して
ください。
◆主人公の廻りの人々が首尾良く昇天しないで今なお冥界と現世の狭間で徘徊している様
 子が書いてあるが、その人達が意図しないであの世に行ってしまったから現世への未練
 があるからなのか、冥界でも食えないで現世で稼がなければならないからか、それとも
 他に隠された重大な目的を担っているのか、いまだ謎である。
◆ 奴隷については社会制度としての奴隷と、個人的な体験としての奴隷感がごちゃ混ぜ
 になっている。前者はそこから抜け出すことは許されないがサラリーマンが奴隷である
 と思う状態は、自らの意思で自由になれる。だから、どんなに奴隷であると主張しても、
 方やその状態にうま味を享受しているかぎり、笑止千万なことである。殆どの自営業者
 が零細で、忙しく一生働かざるをえないか考えると、それもまたサラリーマンと同じ奴
 隷の状態と言えなくもない。その中で一つの救いは、従事する人がその仕事を好きであ
 るということだろう。
◆いつも著者の小説に出てくる主人公は深い悲しみや、喜び、悔しさ、憎しみと言った感
 情が書かれていないようで残念である。そのうち読者の紅涙を絞るような感動的な作品
 を期待する。以上、自ら自覚した訳でもないのに、公的呼称の高齢者の仲間にはいらさ
 れて憤慨しているさる自営業者の呟きであります。






居酒屋「清月」  2008/1/31

◆筋は特別珍しい、刺激的な、謎めいたものではなく、誰にでも何所にでもあるようなも
 のだが、テーマが最後まで一貫していて判りやすい。そして色々の人物を登場させると、
 一般に猥雑になり易く何を言いたいのか、だれがどのように係わっているのか、判じ物
 みたいな物語になるのだが、一人一人の人物の特徴や考え方まで想像できるような描き
 方はみごとである。
◆この物語を貫くテーマは、主人公が弱者に対するやさしさを十分持ちながら、勇気を持
 って救い出すという行動に移せなかったという自分の意気地無さや、欲情に負ける自分
 のいやらしさにたいして痛恨の念を抱いている。それはまた青年の頃の過ぎ去った卑し
 さと思っていたのだが、大人になった今でも「清月」での市役所の役人の醜態と自分も
 あまり変わりはしないのだという思いに苛まれるのである。この辺の描き方はすごいね。
 私も「シリーズ・歪んだ風景」で描きたいと常日頃思っている、隠れた人間の心の襞を
 見事に描き切った小説であると思った。
◆最後にブログの写真のなんとこの小説の圭一の、ハッシュや酒に溺れ、放蕩三昧の満た
 されない日々の生活が見え隠れする、そのようなすさんだ青年の姿を彷彿とさせる、名
 画の一こまのようだ。



30α編集部:2014/04/29(火) 16:37:05
激甘辛 作品評2
.
        ??????   激甘辛 作品評2
????????????????????????????????200814−16号



??????「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。



  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α14号


ウエストポート  ルービン・良久子著 2008/3/1
http://2style.in/alpha/14-2.html

 「ウエストポート」は情景描写のみごとさ、プロットの面白さはいつも関心させられる。
 それは常日頃陶器や絵や写真に興味を持ち鑑賞したり製作したりといった生き方をした
 人でないとなかなかああいう自然の色や時間による変化の描写は出来ないと思う。
 しかし、大勢の人が右へいくならば自分は左へと行くような天の邪鬼を自認するものに
 とって、何か人の言わないことを無理に探し出すことに自己表現を試みるという悪い癖
 で敢えて評すれば、筋の破綻はなく納得出来るもので、しっかりと納まっているが筋の
 進みが重点に置かれていて、心理の描写「意識のながれ」が少ないのが不満である。




肥と筑 第四回 長岡曉生著  2008/3/11
http://2style.in/alpha/14-3.html

◆またまた秋の風鈴なみの無粋な季節はずれの感想を書きます。早い時期に書けば楽なの
 に皆さんの素晴らしい意見の出た後で、気の利いた、大向こうを呻らす、人と違った観
 点のものを書くことは非常に難しい技でありまして、怠けた罰と諦めましょう。 この
 「肥と筑」のような壮大な読み物は真剣に評するとなれば、四書五経は勿論のこと亀甲
 文字や金文字などの資料集を読破しなければならないから、異常プリオン蛋白による
 牛海綿状脳症のような私のプヨプヨの脳ではとても無理なことであります。だから個々
 のことに対する質問や疑問ではなく、別な観点から眺めて見ましょう。

◆論文か小説か?という命題が前々回あたりから話題になっていましたが、論文とすれば
 取り上げられた資料が果たして真であるか、事実にはない想像のものか、または風説に
 よる単なる噂に域を出ない物かなどの判断をいわゆる専門家の集中砲火を浴びてボコボ
 コにされる運命が待っているでしょう。ところがそれを小説というスタイルにすれば資
 料と資料の膨大な時間と空間を繋ぐ大胆な推論という便利なものも許されるに違いあり
 ません。そういう風に見ると作者の意図を十分発揮させるためには小説というスタイル
 を選んだことは正しいと言えましょう。登場人物の性格描写が不十分だの、皆が等価に
 扱われていて統一感がないということでしっかりとしたイメージを読者が作り上げるこ
 とが出来ないので戸惑う、などということはまた別の問題でありましょう。

◆初期値のごくわずかなずれが、将来の結果に甚大な差を生み出す(バタフライ効果)の
 「カオス理論」や、ものの予測のできない空間的、時間的変化や動きを表す「1/Fゆ
 らぎ理論」などのように、歴史上の資料という小石を池に投げ込んで出来る波状が大き
 な波となって拡大するように、初期値の選択で違った結論に到達することだってあり得
 る事でありましょう。色々の説、色々の論が生じても何が真実で何が間違っているかの
 判断は俄につきがたい問題も多く、それがかえって推論の面白さでもあります。

◆世の中には、鉄の箱である飛行機が空を飛ぶのは信じられないと思う人は多いと思いま
 す。ベルヌーイの定理などの流体力学を使ってその浮力を証明しているが、どうもそれ
 だけでは解明できない部分があるという。しかし現実に飛行機は空を飛ぶわけですから、
 鐸木康孝著による「物理学の理論はすべて近似である。ケプラー法則に従って運行刷る
 惑星は一つもないし、ニュートンの法則に従って運動する質点とか剛体というものはひ
 とつもない。正しいか、正しくないか、ということは、物理学では問題にならない。問
 題になるのは精度である。誤差の極めて大きな理論に対して、これは誤りであるという
 判定がおこなわれることはある。この理論は正しいという判定をこなわれてことは一度
 もない」などや、とにかこの世界の出来事は「 99・9%は仮説」という竹内 薫著のよ
 うに、この世の中でまだ解明されてないものがほとんどであるという。

◆だから私は「肥と筑」を小説として書き上げたというふうに、作者の意図をくみ取った
 つもりだ。はたしてその真偽はいかに。 そして、今回もまたまた「カオス理論」や
 「1/Fゆらぎ理論」などといった奇っ怪なものでお茶を濁してごめんなさい。




愛13題??碇民治著 ????2008/3/17
http://2style.in/alpha/14-4.html

 俳句に関しては全くの門外漢なの碇さんの「愛13題」の句の善し悪しを評することは
出来ませんが、盲蛇に怖じずにて自己流の感覚的なことを書きますと、現代俳句において
2、3の疑問点があります。これは天の邪鬼たる私の偏った意見かもしれないので、もし
的外れであれば遠慮無くご指摘ください。
◆俳句の約束事 :碇さんが示してくれた数多くの約束事を見て、このような約束事を造
 ることは、句の本当の意図からだんだん離れているのではないかと感じました。俳諧の
 初めの頃はもっと自由闊達で、野太く、直裁的ではなかったのではないでしょうか。
◆漢字:漢字やカタカナやひらがなから受ける視覚的な印象もまた大事で、その配分やバ
 ランスも読者に与える感じは違ったものになるでしょう。視覚的にみますと今回の碇さ
 んの句の印象は漢字の部分が多く目に付きます。難しい言葉が必ずしも鬱陶しいといく
 ことではなくて、ひらがなの間に配置された少ない漢字の大いなる効果もまた考慮され
 ていいかも知れません。
◆字足らず字余り:
 拝むや・・・・おろがむや(5文字)
 雪解川・・・・ゆきげがわ(5文字)
 菊美しき・・・きくはしき(5文字)
 碧きかり・・・あおきかり(5文字)
 などの字足らずや字余りの処理の仕方もあまりにも5・7・5に当てはめるという約束事
 に囚われて、不自然で姑息に見えてしまうのは私だけでしょうかね。以上言いたい放題
 失礼しました。



プラトニック・ラブ  2008/3/20

◆ プラトニック・ラブという題をみて、九鬼周造の『「いき」の構造』に出てくる江戸
 っ子の思いを遂げられない恋、諦められた恋をまず思い浮かべた。それから肉体的に結
 ばれることなく、遠くから思いを寄せるだけの貴婦人に対する精神的な中世の騎士の愛
 を思い浮かべた。そのような現象はそこら中にいつも溢れるように存在していると言う
 のに、こんどもまた「言葉」の定義からはいるという私のいつもの悪い癖が出てしまっ
 た。
 とにかく、プラトニック・ラブという用語はどこから来たのかを納得しないとどうも先
 へ進めないというから始末に負えない。
◆そこで安直にWikipediaで調べてみると、プラトニック・ラブ (Platonic love) とは、肉
 体的な欲求を離れた、精神的な愛のことである。プラトンも実は男色者であったが、そ
 の著書の『饗宴』の中で、男色者として肉体(外見)に惹かれる愛よりも精神に惹かれ
 る愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)
 よりも、美のイデアを愛することであると説いた。
◆また、九鬼周造の『「いき」の構造』のなかで語られる、身分の違いや人妻などの女性
 に心を寄せるものの決して成就しない忍ぶ恋であり、諦める恋である。そこに江戸っ子
 の意気地、やせ我慢の美学が感ぜられ、それが究極的な「粋」だと言っている。そのよ
 うなものを私は勝手に「プラトニック・ラブ」と呼ぶような気がする。
◆さて、著者の小説のなかで語られるものをみると、そのような二人の関係がはたして「プ
 ラトニック・ラブ」なのかどうか疑問に思われる。肉体的に結ばれないからそうだとは
 単純に言えないような気がする。肉体を離れた関係がはたして男女間で成立するのかと
 いう命題も、小説のなかでも運命の同じ船に乗り合わせたという同志的な関係、親子・
 兄弟関係に生ずる愛に似たものなどといった考察もあり、なるほどと思うが結論は出て
 いない。
◆あなたはこの物語の主人公の立場になったらどうするか?と問い投げかけられているよ
 うで、安易に答えをだしたら見透かされそうで躊躇する。そしてこの問題を見事に解決
 する解答を今の私は見付ける事が出来ない。たぶん自分がそのような立場になったとき
 は七転八倒・周章狼狽するであろうと思うだけである。常日頃観念ではこうしようと想
 定していてもその時はたして建て前通りに自分が行動するか自信がない。
 夫婦の関係を断ち切るか否かは、夫が妻にたいして人格的に「存在」にたりえると切に
 思っているかによるだろう。ただ便利なだけか、それともアイリーンに無いものを妻に
 認めているかどうかに掛かっているのではないだろうか。それでもなおそう簡単に割り
 切ることはこの世の中では難しい。個人個人の性格にもよるだろう。その許容の範囲が
 100%から0%の間のある割合以上で我慢できるか、或いはできないかの数値は個人差
 によるところでから、この命題は個々の読者の性格に委ねられて、一向に正確な結論は
 出ないわけだ。
◆今まで著者の作品が語ってきたものを見ると、恨みや悔恨や怒りの情などの激しい人間
 の負の部分が語られないという傾向がある。これは作者が意識的に軽妙、洒脱なスタイ
 ルをとっているのか、それともそのような作者の性格に根ざす無意識の表現の結果なの
 か、どうであろう。
◆最後に「プラトニック・ラブ」の対極にあると思われる男女の関係を書いた中上健次著
 の「赫髪」(あかがみ)を紹介しよう。
 これは並のポルノ小説よりすごい性交の描写で全体が綴られている。しかし決してポル
 ノ小説のような卑猥さはない。むしろ人間の精神と真反対の肉体のすごさを表現してい
 て、中頭健次の才のすごさでもある。こういう人間の営みもあるのかと私の知らない世
 界があった。ポルノ小説を一度書いてみたいといって「性の波紋」をものにされたK
 氏にも一読を勧めます。



定年退職後の日々第三回…日曜日 午後の喫茶店 2008/4/12

◆久しぶりに時間が出来たので「定年退職後の日々」を初回から通して読み 直した。は
 たして主人公の山本さんは自分の死を認識しているのだろうか。そのへんが 曖昧だっ
 たので先日「ぼてじゅう」をつつききかつ飲みながら、作者に問うてみた。「自分でも
 判りません、これからどういうふうに山本さんが動くか想定していません」という答え
 が返ってきた。これはまるで原子のブラウン運動のごときランダムで混沌、やはり並の
 人間の考えが及ばない著者独特の「融通無碍」の世界なのだ。
◆私であれば、送別会の帰りに感慨にふけってしまった山本さんが、駅の階段を踏み外し
 て転んだ折り運悪く頭を打って敢えなく逝ってしまったとか、通り掛かりの十七歳の少
 年に理由もなくいきなり刺されて死んでしまったとか、読者というより自分を納得させ
 るためにくだくだ理屈をこねるだろうと思った。そのへんのところが私と著者との趣向
 や気質の違いなのだろう。
◆この小説があの世とこの世を行き来していることについて考えたことがある。私がこれ
 まで読んだ本の中にもそれを扱ったものがあった。村上春樹の「羊をめぐる冒険」「世
 界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「 海辺のカフカ」、田口ランディの「コ
 ンセント」それから埴谷雄高の「死霊」などがある。自分の中では「あの世とこの世」
 を「無限と有限」、「想念と現実」と読み替えてみた。その辺のところを同人α第2号
 の前書きで書いている。
◆同人α第2号の名をの「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなけれ
 ばなりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?
 はたして無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まさ
 れて来ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの
 難題に決着をつけなければならないと考えました。いま現在我々が生きている世界は有
 限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取って確かめることができます。し
 かし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、各の頭の中には神や虚数や妄
 想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の果てと思われている130
 億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
 そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受
 けるとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび
 音楽や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその
 世界へ積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕た
 ちは人生を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自
 己表現に努めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」と
 した次第であります。
◆さて、ブラウン運動の原子のように融通無碍・混沌・渾沌の「山本さん」にどんな結末
 が待っているか楽しみである。
◆ブログに掲載の著者の両親の写真はお二人の波瀾万丈の人生を読み取りたくなるような
 誘惑に駆られます。父上は上海や大連や満州当たりで暗躍する諜報機関を取り仕切るの
 謎の人物のように、一寸危ない感じがして不思議な魅力がありますね。




次元から次元へ 第一 神野佐嘉江著2008/5/1
http://2style.in/alpha/14-11.htmll

 斉藤孝の「声に出して読みたい日本語」という本がある。そこには有名な詩や文章が紹
介されているが、名文を浪々と朗読してみると、言うに言われぬ心地よさがある。
 6万年前人類の祖先がアフリカで誕生したとき、まだ文字はなかった。己の感情や同胞
への危険の警告の音は発していたにちがいない。だからこの詩を音にもどして、雪隠で謡
曲を呻る苦沙弥先生のように、野天の風呂で月を見ながら広沢虎造の十八番である「清水
次郎長」を歌う熊さんのように、我々もひとつ丹田に力をいれて姿勢を正し思い切り喉を
開き、思わせぶりな身振り手振りで感情を吹き込み「一ぅあきあがる、わきあがる、うき
きあがる、しゃば、しゅば、さばえなす」と叫んでみようではないか。 世俗にまみれた
「言葉」が声に出すことによって次元を逆戻りして原始の息吹に帰っていくに違いない。
 作者曰く「皆に苦労ばかり掛けていると思うし、僕も皆のをまめに合評をやっているわ
けではないので、今回この作品の合評はパスと宣言して、皆の負担を軽くしてください」
と依頼されたが、敢えて私はその作品の鑑賞に挑戦した。そして私は難解だと言われる神
野佐嘉江氏の言葉の意味を探るのではなく、もう一度音にもどしてやればそこから新しい
何かが感じ取れるような気がした。



同人α15号


西郷札と江藤新平をかくまった人小倉処平  2008/7/4
http://2style.in/alpha/15-9.html

 江藤新平の率いる佐賀の乱は大久保利通等の陰謀によりでっち上げられた理由によると
いう研究書を読んだことがある。もともと江藤新平は乱を起こそうとする不平士族を説得
するために下野したと言われているが、その間に公金横領の疑いありということで反乱軍
として追討令が出されたという資料を読んだことがある。征韓論そのものにおいても佐賀
出身者のなかでも江藤新平・副島種臣達と大隈重信・大木喬任達とはもともと意見が違っ
ていて、一枚岩ではなかったのだから藩としての反乱を起こすほどの江藤新平の考えはな
かったのではないだろうか。碇さんが読まれたものと同じものだったかもしれないが、友
人から貰ったその資料を誰かに貸してあげたような気がして、今は手元にない。
 とにかく江藤新平について私が強烈な印象をもったのは、近代化のために富国強兵と中
央集権を目指して突き進む国家権力のシステムのなかに、民衆の権利を意識した「行政訴
訟法」を制定した民権論者であったことである。あの時代このような権利を認めたという
ことだけでも偉大なる人物であったと私は評価する。
法による秩序を信じ近代国家を目指した人が、権謀術数の権力闘争のなかで抗弁もゆるさ
れない裁判で晒し首の刑に処せられたことは、「士族を廃めさせたうえ梟首という強引さ
は、法も司法もあったものではなかった」と司馬遼太郎はその著書『歳月』において語っ
ている。



肥と筑」第五回長岡曉生著 2008/7/19
http://2style.in/alpha/15-15.html

◆「知の巨人」についての長岡曉生さんのクレームがありましたが、けっしておちょくっ
 てニヤニヤしているわけではなく、心底私はそう思っているものです。それに比べて、
 さしずめO氏が「痴の巨人」なら私は「稚の巨人」といったところですか。
◆製鉄の話で小さい頃のことを想い出しました。
 私の父は戦後小さな鋳物工場を経営していました。そのためそのことについて私は色々
 のことを見聞きしていました。樋口さんの「付文」に出てくる銀色の無臭で硬いコーク
 スが珍重されていることも知っていました。コールタール、ピッチなどの不純物が混入
 している石炭では高温を得ることができません。だから高価なコークスを使用して、解
 体された軍艦などの鉄くずとを混ぜて溶鉱炉に入れて燃やして銑鉄をつくります。どろ
 どろに溶けて太陽のようにまぶしく輝き、線香花火のような火花を散らす鉄を、上半身
 裸の男達が鉄の柄杓で受て、鋳型に流し込みます。車の部品やら、橋桁の受け材やら、
 鍋などに成型されます。九州の夏の夜などは普通でも寝苦しいのに、溶鉱炉を使った日
 などは、工場と壁一つ隔てた同じ建物の住居では地獄のような暑さで、まともに寝られ
 たものではなかったことを記憶しています。
(中略)
◆ところで「肥と筑」の評はどうなったとお叱りを受けそうですが、私はこの膨大な小説
 が終わってから総評をしようと心に決めています。だから、「彼奴はまた敵前逃亡を図
 ったな」といわれそうですが、そうではなく興味の尽きない作者の風貌を解析して見た
 いという誘惑に駆られました。
 「赤信号 皆んなで渡れば 恐くない」的な護衛船団方式の中では、この「いひゅうも
 ん」ははなはだ厄介な存在です。無視するにはあまりにも穿った理を唱え、受け入れる
 には安逸をむさぼっている者も艱難辛苦の努力を覚悟しなければなりません。ものごと
 を理に照らして判断し、間尺に合わないことには豪も妥協せず、自分の考えを頑なに押
 し通す「いひゅうもん」は、表面だけの付き合いや対面だけの仲良しクラブにとっては
 まるで喉に刺さった魚の骨か、理由の分からない肋間神経痛のような忘れ去ることの出
 来ない不快感を発生させるものでありましょう。
 だが、並の人間が理解できないような深遠な考えと信念を持った「いひゅうもん」に私
 は「肥と筑」の作者を重ね合わせました。このような作品は彼しか出来ないもの、その
 意味に於いては強烈な個性の持ち主だと考えます。私はいつも自分にしか出来ないもの
 を見いだし、いかに実践するかを見つけたいと思うと同時に、いつの日かあいつは「い
 ひゅうもん」と呼称されることを夢見ています。



鎮魂歌  2008/7/23

 物語としては構成も最期の物語の締めくくりとしての情景も見事に決まっていて、よく
纏まっていると思います。今回の創作で旅行記だけをみて判断していた私の先入観が見事
に破られました。そういえば、同人α第10号「美」の作者が描いた少女像も並々ならぬ
技量を認めていた訳ですから早く気づくべきでした。
さて、例によって天の邪鬼の本領を発揮していくつかの疑問を呈して見ます。
 人を殺したり、陵辱した時のおぞましさ、罪悪感へのおののきは詳しく語られず、ただ
やむを得ない過ぎさっていくだけの情景としてのみ語られ、泰之の心に深く残る傷として
の様子は表現されていない。「人間の条件」の梶は体制のなかでの非人間的なことに抗い
ながら、それでも無力な己に思い悩む主人公が描かれている。
 シェークスピアの「マクベス」のように、荒野で3人の魔女に出会い、「万歳、コーダ
ーの領主」、いずれ王になるお方」と呼びかけられる。そしてマクベスとマクベス夫人は
共謀して王を殺害する。しかしマクベスはバンクォーの幽霊を見ておののき、マクベス夫
人は殺害の時汚した手の「血が落ちない」とつぶやき発狂する。己の欲望に負けて犯した
人間の罪の意識を激しく持つ二人はいつまでもいやされることはない、といった人間の業
の深さを表現している。
 泰之は逃れられない過酷な境遇をただ耐えるだけで、その非人間的な不条理を心のうち
で抗うことをしていないのが不満である。だから珠枝から誘われるままに交情するのだが、
女性にたいする好悪や性欲への渇望は示されず、ただ成り行きに従うという主体性のなさ
が目に付き、当然の行為が唐突な感じを受けるのは否めない。また珠枝の心情も心の内を
語られていないので、最後の墓参りのシーンで憶測するほかはない。
 こういう作風もあるのも分かるが、なにごとにもことを荒立てるという性格は私だけで
あろうか。このところ「落書き帳」の事件で問題点を指摘したにも拘わらず十分な説明や
反論もなく、いわゆる無視された腹いせに「鎮魂歌」をやりだまにしている訳ではない。
心豊かな作者と「斜に構えた」私の性格の違いであろうか。この辺のところの作者の反論
を期待する。



昔、革命的だったお父さんの挽歌・・・その4 安曇野便り 2008/7/29

 長い長い題を読む。実は編集の時にみた彼の題は違っていた。原題は「安曇野便り(そ
の4、ひとり芝居『天(あま)の魚(いを)』」だった。しかし「昔、革命的だったお父さん
の挽歌」シリーズの一部だからということで、現在の題になったものだ。ところでいつも
長い題を好む北島氏の傾向はどうしてであろうか。そこのところの考えを一度追及し真意
を吐露させてみたい気がする。
◆茜との予期せぬ交情を、離婚した妻・桐子の幻影におびえる主人公が不思議でならない。
 そこには不倫でもなく、なんら思い悩む道徳的な負い目はないと自分に言い聞かせなが
 ら、桐子の前で取り繕う心情は何故であろうか。
◆「同人安曇野15号」の合評会での茜の明るい様子をみて、茜の心の内はどのようなも
 のであるか推し量り兼ねる主人公の戸惑いはよく書けている。
◆「苦海浄土」の話は「同人安曇野」に投稿したという情況を描くことで、自然にうまく
 挿入されている。しかし、ここまで詳しく長い解説は別の話になってしまい、「安曇野
 便り」の小説としてのバランスを欠いているように私には思える。
◆P462段目の4行 「地元の人との付き合いは(目的がない限りは)」の 括弧書きは
いかにも説明的で、以前にも「再び言うが」とか「前にも言ったように」な どの説明的
な文が散見されるたが、文学としての態をなさないと思うのだがいかがです か。



同人α16号

「而今」と「前立腺がん」  2008/9/16

◆いつもお逢いする時はブログの写真のように、にこやかで屈託のなさそうに私には見え
 ていたタノさんですから、こんなシリアスな経験をされたことなど考えてもいませんで
 した。私もサラリーマンを辞めてから35年以上なりますが、その間一度も健康診断な
 るものを受けずに、病気で通院するなどとは夢にも思っていませんでした。しかし2年
 ほど前から両足がひどく痺れ、やむなく病院に診察に行くことになりました。やはり病
 気と対峙する覚悟を決めるまでは、これからの自分の生き方に戸惑い悩みを克服しなけ
 ればなりませんでした。
◆「而今」とはなかなか良い言葉ですね。私も最近タノさんと同じ心境になりました。過
 去も未来も幻想に過ぎない、今の一瞬のみが現実に実在する。だから過去に引きずられ
 たり、不確定な未来に一喜一憂するよりは、今をしっかり生きようということだと思い
 ます。そこで頭に浮かんだのはキルケゴールを初めニーチェ・ハイデッガー・ヤスパー
 ス・サルトル等が提唱した人間の実存を中心におく実存主義という思想です。またまた
 コピー・アンド・貼り付けの安直な方法をとりますが、以下はWikipediaより
 実存 (Existenz) の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して
「実存」とした。語源はex-sistere (続けて外に立つの意) 。
 実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越
 を主張する思想である、とされる (「実存は本質に先立つ」) 。時間の流れの中で、今
 ここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質
 を否定された自由な実存として、予め生の意味を与えられることなく、不条理な現実の
 うちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わ
 ることの出来ない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることは出来ない
 [要出典]のだ、とする。生を一旦このように捉えた上で、このような生を、絶望に陥る
 ことなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ともされる。
◆作品の評としてはなっていませんが、私が一月に一度の通院も専門医の判断まかせで、
 頼り切っている私と違い、このような正確なデータと状況の克明な描写には驚きました。
 下世話に一病息災といわれるように、私の病気を性もない仲間と覚悟してこれからも一
 生付き合っていく覚悟でいますから、これからもタノさんの元気を分けてください。



定年後の日々・・巴の妊娠  2008/9/17

 私も同人αの「樂」第13号に「シリーズ・歪んだ風景−異星人」という奇妙奇天烈な
文を書きましたが、ただワープロ変換や翻訳システムの不備を揶揄たもので、基本的には
我々の現在住んでいる地球の理屈から決して逸脱することはありませんでした。
◆女性の場合は男性と違って、20代や30代は年齢とともに微笑派が増加していくもの
 の、40代でピークとなって、それからは、やや下降線をたどる。女性は、どうも赤ち
 ゃんに対するする興味は40代が最高のようである。
◆木村先生の説に依れば「不老長寿者は、最も利己的な、異端の動物なのです。
◆そこで男性は、子孫が増えることが、自分の生存を危なくするという潜在意識の警告に
 従って、老人の顔になる人が多いのです
◆しかし、子供が欲しい女性だって、不老長寿者はほとんどが独身であり、夫婦生活をし
 ている者はほとんどいない。何故だろうか?
 「それが、不老長寿者の無限増殖を抑制する唯一の仕組みなのです。子供を産もうと思
 って愛情生活をすると、その二人は、離婚したり、相手が不慮の事故等で死亡すると一
 年以内に、再び相手を見つけないと老化して死んでしまいます。急激に老化しますから、
 相手はなかなか見つかりません。などなど、著者の小説は私達が長年苦労して築きあげ
た定説と思われる知識を、あざ笑うかのように無造作に、まるで洗濯機の中で引っかき回
し、挙げ句の果ては真っ白な脳に洗い清めようと意図する宇宙人の陰謀ではないかと思わ
れる。いちいち内容や用語の考察をすることが全く的外れで、ピエロになりそうな恐れが
あるから私は評する努力を躊躇した。きっと著者は、20世紀の最大の巨匠ジェームズ・ジ
ョイスの「フィネガンズ・ウエイク」や「ユリシーズ」などと肩を並べる奇書をものにし
ているのかもしれない。



「揺らぎ」による、会話詩 2008/10/3

詩の解釈は実に難しい。俳句や短歌のように作者が言わんとすることが判りやすいのと違
い、理屈なしにただ感じればいいといってもメタファーを多く含む現代詩の鑑賞は実に厄
介なものがある。
 海とか波とかの響きや字面も人によってそのイメージは違ってくる。だから作者が言葉
を発した瞬間からそれは一人歩きし、一生懸命読者に理解されるようにと意図された散文
と違い読む人の解釈次第で変化していく。
美しい海や岸に寄せ来る絶え間ない波の動きもある時は、私にとって単に心地よい響きと
開放されたさわやかさだけではなく、海の底知れない広がりと深みは恐れを抱かせるし、
無限の運動は私に逃れられない束縛と映り息苦しさを覚えさせる。
 そして、この詩が最後の「?? だけど、潮に引き戻されていく・・・。」という一節によっ
て、その意味するところを私は解釈出来ないでいる。




女であること 2008/10/8

 まず作者が「女であること」と表題をつけたことについて、その意図するところを私は
明確に捉えることが出来なかったことを白状しなければならない。
 それはともかく、人間の誕生について多田富雄の「生命の意味論」ではつぎのように書
いてある。男と女の生物学的差異については、女の染色体はXX、男の染色体はXYであ
るが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、人間はもともと女になるべく設
計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝子で、血液凝固・色覚・免疫細
胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に男をつくるためだけの遺伝子ら
しく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫で長持ちするようにできている
のである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男でも女でもない状態であり、基
本型がきまってから男にでもするか程度のもので、Y遺伝子のためにむりやり女の体を加
工して男にさせられた結果だという。
 生き物のなかにはある時はオス、廻りの環境がかわるとメスになるものがあるらしい。
だからシーザーが大いに悩んだほどのルビコン川のような隔たりは、男と女の間のには無
いのかも知れない。私達も男性の心の中にも女性的な部分もあるし、女性もまた男子的な
性格の人もいる。その境界は曖昧で、男らしくとか女らしくといった生き方はそれほど明
確に有るわけでなく、生来というよりはむしろ社会的な規範の中で作り上げられた結果の
差異のようだ。そして同性愛者が常にある一定のパーセンテージを閉めていることを見る
と、昔は異端の烙印を押されたものだが、現象的にみると民族の違い程度に認識する必要
が有るのかもしれない。しかし私はひげ面の男同士が抱き合ってキスしているのを見ると
「どうして」と思うのであるが・・・。
 作者が描きたかった同性愛についてのテーマを自分なりに考えてみたので、前置きが長
くなった。本題の合評としては、指の感触や思い入れは個人差があるもので、そんなもん
かとか、そうだそうだと自分の体験に照らし合わせるような個人的な感覚なので評はしな
い。そのかわり、作者の物語の描き方については2、3 の疑問がある。
 作者は敢えて現在の満足な環境の中に、ある種の物足りなさをもつ女性を描きたかった
のだろうが、読者には保坂和志がいう「体験のもつ一種問答無用の強さ」が感じられない。
「そして万一自分が同性愛者である事を悟ったとしても、これまで築いて来た全てを捨て
る事は出来ない。綾子には2度と会うまいと思った」など、今までの創作においても同じ
く深く悩むとか悔やむとかの心理の葛藤を敢えて書かないで、淡々と描いているようにも
思える。読者としてはこの終わり方に物足りなさを覚えるとともに、これからがこの物語
の始まりだと思うのだが。
 最後に参考資料として国際医学会やWHO(世界保健機関)の見解を載せてあるが、ど
うもこの創作の内容を補完するための言い訳じみていてどうかと思う。創作は創作として
その物語のなかに読者を引き込むだけでよいのでは。研究書やレポートではないのだから、
楽屋裏は見せない方がよいと思うのだが




明治維新前後の佐賀偉人百人 碇民治著 2008/10/16
http://2style.in/alpha/16-8.html

 18歳以来佐賀という郷里をはなれて半世紀にもなるので、碇さんの書かれた佐賀の偉
人達の足跡は初めて知ることも多く、今更ながら私にとって非常に興味深く読んでいる。
佐賀で暮らしていた頃はいつも身近なものより遠い都の方ばかりに目がむいていて、機会
があれば郷里を飛び出す算段ばかりしていた。だからその頃は己が育った足下の街の歴史
や偉人については興味も示さず冷淡だったと今は思う。その後もあまり帰属意識のなさと、
過去を振り向かない主義が禍して、郷里への思いも喚起されることもなくこのまま忘れ去
っていくところであった。過去に裏切られた故郷での人間関係や価値観の違いに基づく心
の底に沈殿している暗い思いがそうさせたのかも知れない。
 幸い碇さんが無意識に拒んでいる頑なな私に郷里への思いを再び向かわせてくれたよう
だ。これからも後九十数人の偉人についての記述を楽しみにしている。





「肥と筑」第六回 2008/11/2
http://2style.in/alpha/16-12.html

 海運業であった我が先祖の生業を知っている私にとって、今回の船の話には特に興味が
沸いてきた。
 渡来人の船は右舷漕ぎであっただろうと書いてあるが、それがどのような構造であるの
か、推進するに当たってどのような直進する力になり得るのか、その漕ぎ方が外の方法よ
りも有利であったという理由が知りたい。
 私は父の回想録を編集するに当たって、祖父と伯父と十八歳の父の三人が二本マストの
二百トンくらいの帆船で塩田港から有明海を抜け、風待ちしながら二週間かけて韓国の釜
山まで有田焼を積んで貿易していたという船について、船籍・洋船か和船かをお台場の船
の博物館で調べたことがある。父の従兄弟の人に聞いたところでは、真っ黒な船体で船尾
が丸い形をしたものだったから、おそらく洋船であったろうという曖昧な記憶しか聞けな
かった。
 徐福一行が最初にたどり着いたのは杵島の竜王崎(佐賀県杵島郡白石町)だったが、こ
こに上陸するには困難な場所と判断されたという。そのことを有明町の海童神社にある石
碑にはそのことが書かれているそうである。その海童神社の近くで船乗り家業をしていた
遠い祖先が除福伝説に関わりを持っていたなどという夢を持ってみたような気がしてきた。
 複合構造について、文字や刀の考察も面白かった。切る刀と突く剣の違いもいろいろの
民族の嗜好性や必要性についての考察も読んでみたい。
 この小説はものごとの出所を探し当て、その後各民族が変化させていったことを究明す
る、とてつもない比較文化論であることを遅まきながらいま悟った次第である。これで一
回分の購読料が200円は安すぎる気がしてきた。だからこの物語が完結した暁には一冊の
本として我が工房で作ることをお薦めしたい。



31α編集部:2014/04/30(水) 13:45:52
激甘辛 作品評3
.
        ????    激甘辛 作品評3
?????????????????????????????? 17−18号2008-2009



??????「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α17号

 そこで、一寸した疑問が湧いてきた。アメリカやフランスでは日本の文字に魅される人
が多くなったとか。若いアメリか人の腕の入れ墨に「台所」と彫ってあったのには噴飯も
のだが、日本のTシャツに書いてある英語にもいい加減なものもあるから、おあいこであ
ろう。確かに異国的なものへの憧れはあるだろうが、書を芸術とするのは中国や日本のよ
うな漢字を使う国だけであろうか。ローマ字やその他の国々の文字を芸術の対象とする考
えを持つ文化が外にあるかが知りたい。



テーマー「間柄」による、会話詩 2008/12/8

この詩はメタファーを読み取るといういつもの癖で作業が許されるものなのか、またその
ようなものを作者が意図していないのか、私には判らない。それほどこれは自然体の無垢
の心で読み取る詩なのだろう。

たぶん作者は私を取り巻く人達のような悔しさや惨めさなどの不条理の世界で生きること
から開放された人生に違いない。私も戦後の貧しさのなかで屋外にしつらえられた仮設の
五右衛門風呂に入りながら、秋の空の雲を動物や乗り物になぞらえた記憶がよみがえった
ものの、いまの自分は随分遠くまできたものだという感慨をもった次第である。
そして、とてもこれは作品の評としてはほど遠いとものと自覚しているのであります。



昔、革命的だったお父さんの挽歌…その5安曇野から 2008/12/14

 前半の時間の考察はなかなか面白い。しかし、「今の瞬間だけをそのつど生きている生
き物には、時間は生起してこない。時「間」の成立には「これまで」と「これから」の「間」
が生きられることが不可欠なのである。」にたいして、ちょっと意地悪に時間の定義を知
りたくなった。
 私が以前読んだ橋本淳一郎の「時間はどこでうまれるのか」という本の中に、哲学者マ
クタガートの時間系列があった。それは時間のA系列、B系列、C系列という考え方であ
る。
   ★A系列の時間とは、常に「現在」という視点に依存する時間のことを言う。生き
    ている自分にとって、時間はいつも「今現在」である。いわゆる主観的な時間で、
    われわれが日常的に感じているのは、このような時間しかないわけだから、人間
    的時間と見なして良いだろう。
   ★B系列の時間は、物理学的時間に対応しているが、それは物理学的時間の一部で
    ある。具体的にいうと、デカルトやニュートンが考えたような客観的時間のこと
    で、相対論や量子論が明らかにした時間は単純に座標軸に刻むことができないの
    で、B'系列、B''系列などの分類しなければならない。
   ★C系列は、もはや時間とはよべない。それはただの配列の事である。簡単な例で
    述べれば、1−秋田さん、2−石川さん、3−岡山産・・・などの、単なる名簿
    であって、それらの数字の間に、時間的な順序関係は何もない。このような時間
    とはかんけいのないたんなる配列を、C系列と呼ぶ。
 しかし、マクタガートの結論は、A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。C系
列は時間とよべるものではないから、結局「時間は実在しない」と述べている。
 後半の食料やエネルギーそれを取り巻く世界の環境問題などが主人公の口から論じられ
ているが、データが生々しく解説風で、フィクションという小説形式のに取り入れて論ず
るにはそぐわないような気がした。もう一度主人公の頭の中で醸造されたエキスとして上
手く語れないのだろうか。
 最後に「 そして、このことが茜と本来の人間的な関係を築くことができそうな気がす
る。「本来の人間的な関係」とはどういうことかと問われそうだが、それは肉体的な関係
よりも彼女の全体を知りたいという知的好奇心から情的連帯感を求めたいことだ。
私が生きるうえで茜の存在が一つの価値観としてあるような期待感が備わることだ。
それほど彼女には不可思議な魅力があるということかもしれない。」という件で締めてあ
るが、本来の人間的な関係を築こうとする意図と、現実の世界の問題の解析との天秤がど
ちらに傾くか、気が気ではない。



さくらそう 2008/12/19

◆学生時代、知人が話す大阪弁にその当時はあまり良い印象を持たなかった。なんとも複
 雑な感情をともなうもののようであったり、別の解釈ができそうな不思議なニュアンス
 を感じたりして、総じて曰くありげで不真面目に聞こえたものだ。それは少年の頃育っ
 た郷里や東京での生活で交わされる直裁的な言葉とは確かに違っていた。東京弁を野球
 に例えて直球だと見なせば、大阪弁は掴み所のない変化球、魔球のような感じがしたの
 だった。愚直に可否をはっきり表現していて潔いような感じを与える東京弁と反対に、
 大阪弁はその中に色々の感情が詰め込まれているようで、肯定しているかと思えばやん
 わり拒否しているようでもあり、一筋縄ではいかないぞという思いを私に抱かせた。さ
 てそこで大阪弁とはどのようなものなのかの概略を改めて調べてみた。
  * 文末の省略 (例)これが大阪城でおま。 あんじょうさせてもろてま。
  * 連音・促音 (例)プラッチック(←プラスチック) やーもっさん(←山本さ
   ん)
  * 「だす」 共通語の「です」を大阪城だす。
  * 「おます」 (例)これが大阪城でおます。
  * 否定形の表現 (例)膝は笑えへんやろ。 そんな奴おれへんやろ。
  * 「もうかりまっか」
 大阪は商人の町として発展したために曖昧で互いに角を立てない表現が発達した。文末
の省略はその象徴的なもので、一見すると肯定しているのか否定しているのかはっきりし
ないことがある。と書いてあった。     (Wikipedia)
◆しかしこのところ筒井さんの作品を読んでいるうちに、なかなか大阪弁のやわらかさや
 断定しない言葉の情緒を、これまたいいもんだと迂闊にも感じ始めている自分があった。
 いまでも男性の話す大阪弁にはいささか違和感を感じるのだが、女性のそれは強い性格
 の女性に痛めつけられた私にはこの上なく癒しの響きがあって惹かれるものである。
 しかしこれもまた十把一絡げにすることも乱暴なことで、たぶん個人差の問題でもある
 だろう。中には私の手に余る女性もいるのかもしれない。
 だが、一方灰汁の強い大阪弁を最近は噸と耳にしなくなったような気がするのは私の錯
 覚だろうか。だんだん地方色が薄れてきて標準語に引きずられてきているのかもしれな
 い。そう言えば東京生まれの息子の「鼻濁音」も聞いたことない気がしてきた。そのよ
 うに独特の地方色がなくなってしまうことは残念なことである。
◆とまあ、作品の評の前にずいぶんと頓馬なことで紙面を費やしてしまった。これで終わ
 りにするのも間尺が合わないから努力してみよう。
 この作品は皆さんの評されるように、シリアスな物語を流れる水のごとくなめらかに語
 られている。しかし敢えて評すれば、点と点を結ぶ「線」、主人公と関係を持つ人人々
 の「面」の記述で、高さや深さや時間の交差といった多次元の構造になっていないのが
 物足りない気がした。もう少し流れの中に障害物や、瀬や淵や曲がりくねった複雑さが
 欲しい。最後に一番知りたかったのは夫がどうして主人公から離れていったかの記述で
 ある。しかしまたこのような淡々とした作風もあっていいようにも思えた。



《言葉集め星創り五拾番》より 弐拾六番
 元旦を生む 神野佐嘉江著?? 2009/1/14
http://2style.in/alpha/17-8.html

 〇一つは、文字が会話をなしえない単なる記号として、まるで筑豊炭坑の捨石(ボタ)
山のようにゴロと裸のまま転がっているようだ。
 それらが〇〇では二つの言葉がくっつき合って、なんだか常人の頭には存在しない判じ
物のような言葉が生まれ出でる。 「へその梅」、「干柿浣腸」、「炭のような卵子」、
「歳神の超音波写真」「性別正月」そして・・・。
 〇〇〇ではそれに動詞や形容詞などの述語がくっついてきた。すこし意味をなしてきた
が、なお身近な科学法則には当てはまらないことばかりだ。この広大な宇宙に未だに存在
の証明されていない、でもあるとしなければビッグバンの仮説に影響してくるダーク・マ
ター(暗黒物質)の侮れない力のように、間尺に合わなくても真実を含んでいるのかもしれ
ないと思う。
 さて正月のめでたさと生命の誕生を祝って書かれたものだが、物質から生命が発生する
ときはこのようにオドロドロの奇々怪々な、きれい事では済まされない経過をへて、かわ
いい赤ん坊の誕生となるのだ。
おめでとうひっひっふー 子孫繁栄ひっひっふー (福笑いひっひっふー 万歳ひっひっ
ふー からっ風ひっひっふー。
まずはめでたしめでたし。



・「蛍」・・・道しるべ 2009/1/20

◆ なんとも心地よい物語なので、点字の仕組みの説明のところで船を漕いでポトリと冊
 子を落としてしまった。クラシックの演奏を聞いていて途中から気持ちよく眠るのは、
 いい演奏の証拠であると某文化人が言っていた。「歪んだ風景」の中に住む者にとって
 も皆さんの評の通り、意味の取り違いによるあざ笑いや、冷たい目を背中に感じること
 もなく、優しさや思いやりのいっぱい詰まった世界がとても心地よかったからでしょう。
◆目が覚めてからすぐにシステムや算法(アルゴリズム)に反応したのは、点字の決まり事
 に興味を持ったからだ。六個のポイントで「かな」を表せるという単純なものだから、
 コンピュータ上でそのまま本を読むように「かな」を打てる「点字ソフト」を作るのは
 簡単ではないかと思った。そのようなソフトがすでに市販されているのかどうかかは私
 にはわからないが。
◆私は作者のように人に優しく、ボランティアなどの奉仕精神もなく、ただ自分のことだ
 けにめいっぱいで過ごしていることを時に恥じる者であるが、綺麗すぎるものごとの中
 に潜む負の部分を見過ごす訳にはいかず、すぐに水を差して白けさせるという困った性
 格だ。一度でもいいから、作者のような純愛の物語を作って見たい。しかし無理でしょ
 うね。


フランス便り 秋 2009/1/22

 先の「沈みゆく家」の評に対して、作者たる私自身がくだくだと言い訳を一杯書いてし
まったことを、てらいや自己顕示欲やひけらかしに思えてきて、今は実に後悔している。
作者は書くだけでいいのに、あとは解釈をそれぞれの読者の感覚に任せればいいのに、と
いう常日頃思っていたにも拘わらず理屈をこねて自分の考えを押しつけたことに滅入って
いるのである。
 さて、それはともかくフランス便りを楽しく読まして貰った。行ったことはないが、そ
のような長閑な街の雰囲気を映し出した作者の素直な記述に、遠くに居ながらにしてそこ
ら中を作者ご夫妻達と一緒に散策しているようないい気分になった。
◆墓の話
 先日この「言の輪」に、この歳になると体のどこそこが悪い等と言った 病気の話で持
ちきりになるという記事があった。そのうち我々も前期高齢者のまっ ただ中に突入する
からきっと墓の話で盛り上がるだろうよなどと思ったものだ。
 11月だから日本の秋分の頃よりは2月ほどずれるが、墓前に備える菊の花だとか、火
 葬だとか、家族揃って墓参りするという習慣が日本とフランスはそっくりであることに
 少なからず驚いた。
 ところで、泉岳寺にある赤穂浪士の墓は有名だが、東京でも名のある故人の墓を訪れる
 ことが趣味だという人も多くなっているという。この前「歩くハイマーの会」で吉祥寺
 から玉川上水を歩く中で、太宰治や森鴎外などの墓も回ったが、いつも新しい花で華や
 いでいるという。私はそのような人の墓には何の興味も湧かないので、そう言う人はど
 のような意図で探索するのであるか不思議である。
◆キノコの話
 種類も多く四季を通して実る野いちごには毒はない。毒々しい真っ赤な蛇イチゴはいか
 にも腹痛を起こしそうだが、不味いというだけで無害であるという。
 しかしキノコは毒があるのも多く、素人では判定が難しく手を出さない方がよいようだ。
 新聞でキノコ狩りに出掛けた家族が、山を下りてくる途中で通りがかりの人に貰ったも
 のを食べて中毒したというニュースがあった。人にあげる人も、またそれを何の疑いも
 なく素直に食する人も、どっちもどっちである。その後その家族が死に至ったかどうか
 は判らない。
◆写真
 このエッセーを一段と魅力あるものにする手だてとして、場面場面の写真を添えては如
 何と亮子さんに提案したい。



あなたと私 2009/1/31

 いつものように取っ掛かりがないときは言葉の意味をあちこちと調べ回っていると、な
にやら問題点が浮かんでくるものだ。 今回はこの詩のキーワードである「縁」「絆」
「間柄」を片手では持てないくらい重くて厚い「字通」で調べてみた。
 それらの意味を私の独断と偏見で捏ね回すと、「縁」とは他生からつながる結びつきで、
生まれたときから定まっていて、自らの意志で変えられない運命である。「絆」とは生ま
れた後で自ら築き上げる人と人の繋がりである。「間柄」とは自分を取り巻くそのような
人たちとの空間的、時間的距離関係であるとしてみたが、その解釈にあまり自信はない。
 「あなたと私」という詩は作者が相手との関係を密にしたり、疎にしたり、肯定したり、
否定しながら考察を進める、自分探しの詩であると思う。
  一度産まれたら 切るに切れない・・・の「絆」
  神々の計り知れない叡智か・・・・・・の「縁」
思い違いの冷たい風が握り合った手の間を、よせては引く波のように繰り返す心もとなさ、
えにしに絡め取られた男と女・・・のベクトルの彷徨う「間柄」掴んだと思ったらするり
と手のひらの間から抜け落ちるもどかしさ、作者は未来永劫その危うい関係から逃れられ
ないだろう。肯定と否定の対句による流れの快さ、彷徨う心の惑いがよく表現されていて
良い出来と思いました。しかし時間に迫られた習作、あらがきのような印象をもち、欲を
言えばリズムにのるように言葉の長さを整えて、使い古されたものではなく詩的な言葉の
隠喩を使ってイメージを広げるようにしたらと勝手に思いました。



オールド・マン −父去る日− 2009/2/14
 ブログの写真について昌平坂探偵所の赤松次郎としてはこの写真もまた3人のうち当人
はどの人かという推理を、長岡さんの時のように分析したくなりました。しかしよく眺め
るとそんなに思案することもなく判りました。右の人はムスリムのベールを被っている。
真ん中の女性はまだ若い子供のようだ。たとえ清水さんのこの旅行が十数年前の写真とし
ても、やはりその女性よりも幼くはなかっただろうから、左の女性が作者に間違いないと
決定した・・・とまあ余計な遊びをしてしまった。
 今まで共に生きてきた父を回想する作者は、敬い、慈しむ父への感情を直接表現するこ
とではなく、抑制された目で静かに、生きるとは、老いとは、死とは何かという普遍的な
真理を求め探っている。そして最後の6行で初めて作者の父の死に直面している。それま
でのメタファーは実に効果的で見事にこの詩に清廉と深さとを与えている。ちなみにメタ
ファーはアリストテレスの「詩学」のなかで、「通常の言葉は既に知っていることしか伝
えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」と述べている。



同人α18号


マグマ 2009/3/8

 人知れず内に潜む心の情を熱いマグマにたとえて歌った詩。だれも己の秘めたるものの
大きさや重さや激しさを知らないという。それは日々の暮らしの中でかいま見た、人間関
係における愛情・嫉妬・羨望・失望などの喜怒哀楽に翻弄される己を深く内証した詩であ
ると思います。「誰も触れてはならぬ、如何なるものかを、誰も尋ねることはならぬ」の
部分はまさに深く関わればそれだけ己が傷つくことを言っているのでしょう。
 しかし疑問点が無いわけではありません。「砂を噛むほどの寂しさ」とは作者独特の感
覚であると思うが、どういうものか私にははっきりしたイメージが沸かず、不可解な言葉
として残りました。
 それから、「人も山も」は先に人を火山に例えているから、「人も」は不要に思え、重
複した感じを受けます。同じくその他の節も「人間は」ではなく「山は」とし擬人化した

「山」を主語として通したほうがいいのではと思いました。
 そして最後の言葉である「赤い命を燃やす「山」を最初の主語である「人(または人間)」
に戻した方がいいのではと思いましたが如何でしょうか。



「マグマの評について」 2009/3/9

 長岡さんから話を振られたので白状します。花粉症で目と鼻をクシャクシャにして参っ
ている脳を駆使してこの詩をよんだ時に、まず最初に浮かんだのは主語がいろいろ変化し
ていること。それにより視点が定まらないのが気になりました。表現しようとする目的・
内容・意図は充分評価できますが、もう少し構成上の推敲に努力されたらもっと素晴らし
いものになったと勝手に思っています。長岡さんも人が悪いなあー、赤松次郎からいわず
もがなの言を引き出すなんて・・・。



肥と筑 第八回 長岡曉生著 2009/3/15
http://2style.in/alpha/18-7.html

 どうも作品の内容について質問を探すことに四苦八苦しているのが実情であります。裏
を返せば、まさにそれは長岡さんの論にたいして確たる反論を見いだせないという我が不
勉強を如実に表わしているのであります。しかしへそ曲がりの赤松次郎らしく、大海に浮
かぶ、ちっぽけな史実という島々を結ぶ線に、飛躍や食違いや強引な接合という弱点がき
っとどこかにある、と目を皿のようにして探すのだですが、皆目見当もつきません。それ
は作者の知識が私の思い及ばぬほど宇宙的な壮大さ、深淵さでとてつもなくすごいものだ
からでしょう。 せめてロッキ−ド事件の榎本三恵子が証言した「蜂の一刺し」のように
「まいった」と一本とりるような意地悪な質問をしてみたいものです。
◆骨相学
 海人族などの渡来人が日本の各地に拡散するとき、先住民である縄文人・弥生人との関
係、どのようにして融合していったか。
 有史初期、古事記や日本書記のころにも帰化人が貴族の三割くらいを占めていたと読ん
だことがありましたが、大阪の人達の骨相を調べたら、朝鮮の人達に極めて近いひとが多
いと聞いたことがあります。 縄文人・弥生人・北方騎馬民族・南方海人族の骨相的特徴
は?
◆出雲のズーズー弁
 松本清張の「砂の器」のなかに東北地方ばかりでなく山陰地方でにも存在することに言
及されて、それが犯人を追いつめていく筋だったと記憶していましたが、あまりに昔読ん
だので定かではありません。
◆曼荼羅を描いた本は私も持っていますが、人間の奥深く探求した思想を視覚的・象徴的
 に表したもの。個々の真理探究をする西洋の思想にはないものであり、その統合された
思想の世界は精緻さと深さに満ちていて驚くべきものですね。今読んでいるアーヴィン・
カリヴァン著の「CosMos」がまさにこの宇宙の統一理論の基礎のなっているような
気がしています。
◆法曼荼羅と深層意識のアーラヤ識について、以前なにかの哲学者の本のなかで読んだこ
 とがありましたが、長岡さんの紹介された【認識と超越<唯識>仏教の思想4(角川書
店)】を購入しましたので、もう一度読んでみたいと思っています。
次号の表題「空」を解説するなんざぁ、長岡さんも策士だなあ。



『桃源郷』に行った男 2009/3/26

 「不老不死の実」を食べるのを止めた方がいいというガイドの言葉の理由が書いてない。
これは村の人々が経験上それを食べてしまった人の将来の不幸を予感しているためなの
か。とば口でそのことを詳しく記述しなかったし、明子と別れる事情も説明しないのもま
た謎を残したまま筋を進めるという作者の企みなのか。そうだとすれば、なかなかの策士
であります。
 ところで、作者のこれまでの主人公を調べてみると、私はある共通点があることを見つ
けた。この小説の安夫、「鎮魂歌」の武田泰之、「牡 丹」の翔、「蛍」の朝比奈美代子な
どの主人公達は、深刻にじっと耐えている風でもなく、成り行きに任せて飄々と生きてい
るようだ。困ることがあっても自ら足掻いてでも問題を解決するという生臭い性格ではな
さそうである。清いと言えば清いし、善良だと言えば誠に善良である。問題の前で立ちす
くむ子供のような、無垢さを感じる。
妻を愛する夫であれば、「不老不死の実」を食べて自分だけ不老不死になるのではなく、
「アピトーユ渓谷」に出かけて行って、明子のために実を取ってくるだろうと思った。そ
う言う発想にならないところに、主人公の異質な感覚がある。
 私も以前「不老不死」のテーマで「三つの願い」という中編のSFものの寓話を書いた
ことがあるが、主人公は実に惨めな人生を過ごさなければならないといった結論であった。
なにせ人間や動物やそのたの生き物がすべて滅亡した、殺伐とした世界を一人生き続けな
ければならないからだ。話し相手もいないので言葉も失し、頭脳も退化した姿は、まさに
肉体は生きていても人間としての尊厳は精神活動の停止で保たれず、まさに死んでいるの
と同じといえよう。一体不老不死とは・・・安夫の結末はいかに? それにしても作者の
いつもの見事な構想には脱帽します。



性についての雑考 2009/4/7

 私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
 エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
 「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
  (1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
  (2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。



色模様 2009/4/20

◆ブログの写真を見て
 作者は不思議な人である。まるで剣客塚原卜伝の「無手勝流」の使い手のよう に、一
 見隙だらけのように思えて観客をハラハラさせるが、結局は己のなすがままにち ゃっ
 かり勝利を手にしているという希な人である。
 その姿もクレオパトラか楊貴妃か藤原紀香のように傾城の美女という訳ではないが、男
 の心を惑わすような妙な魅力が備わっていて見飽きない。女優でいえば「足ながおじさ
 ん」に出たレスリー・キャロンか、「アパートの鍵貸します」のシャーリー・マクレー
 ンあたりだろうか、好き嫌いは別として・・・。

◆さて本題の「色模様」の感想を書くが、一言でいえば信子の「心模様」を見事に書きき
 ったもので、いよいよ私好みの「純文学」の世界へ入ってきた作品と言えよう。 何が
 「娯楽小説」でなにが「純文学」かは人によって解釈が違うようだ。 だからこの問題
 は微妙で一筋縄ではないようだから、こうであると今私が断じることはなるべく避けた
 い。参考として先日朝日新聞2009/3/25の「文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子」
 はこう言っている。
 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
 ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいか
 に描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定
 義を思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
 壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前で
 トンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
 わり、あとに引きずるものがない。
◆そこで「色模様」については、足を絡ませたり。耳を噛んだり、指を絡ませる等の肉体
 の接触で男女の関係を表しているが、この辺は通俗小説じみている。しかし「私が首に
 なって路頭に迷ったらあなた面倒見てくれる?」の会話における男と女の心理が面白い。
 男は自分の立場上不可能なことだと必死で説明し自分を守ろうとする。女は無理だと判
 りながら「安心しなさい、ずっと面倒見てあげるよ」という言葉だけでも言ってもらう
 ことでふっと湧いた不安が癒されるのである。そのへんの機微が男には判らない。私も
 細君にそのような問い掛けをされたとき、真剣に理屈をくどくど説いて、答えを出そう
 ともがくのであるが、「女の気持ちがちっとも分かっていない」「言葉は只、慰めを言
 わない手はない」などと叱られるのである。世間を見ると「歯の浮くような」言葉をよ
 くする男の方が、女性を幸せにするのかもしれない。だが私みたいな朴念仁にはなかな
 か出来ない辛い仕事である。

 男と女の繋がりは、一緒に側に居たい、それが心地よいと思うかどうかの問題で、不倫
 だろうとなかろうと当事者以外が問題にするようなものではないと私は思う。男も女も
 今の相手と違った魅力の人々が一杯いるわけだから、それぞれの人を好きになってはい
 けないという倫理感は、他人に押しつけるべきではない。そういう面での信子の生き方
 には、決まり切った世間の通念に囚われない心の自由を感じる。だから今の彼との間に
 何らかの束縛感を覚えたとき、信子はすんなり別れてしまいそうな気がする。
 この小説は、そのような結論の出ない、たゆたいのなかの信子の暮らし振りが非常によ
 く書けていると私は思う。また筋の纏まりもよく一人称で語られているので人間関係も
 判りやすい、よくできた作品里私は思う。




自然染色のぬくもり〜シルクのトンネル〜 2009/4/27

◆先日聴きに行ったウィリアム・モリスの講座と相まって、私にいろいろと考えさせるも
 のを提供してくれた。
 モリスについては学生時代に建築学科の教養として「アーツ・アンド・クラフト運動」
 という芸術運動の提唱者であったという知識は微かに持っていた。しかし今回の講座自
 体は、かつてモリスのデザインした壁紙などを継承して製作販売している会社の主催す
 るものであったので、レジメもなくスライドだけの説明で、内容も私の知っている知識
 を超えるものでもなかった。それはともかく、1800年代イギリスの産業革命の時代
 にそのクラフト(手作り)の良さを見直すという運動は、そのまま現代の問題として生
 きているのである。そこで安価に大量に製産される工業製品と、自然のものを使った手
 作りのものの違いをいつもの癖で考えてみたいと思う。
◆それらの違いはどこにあるか。
 たとえば、絹や麻や木綿などの天然繊維と化学繊維
 天然繊維は湿度や温度などの自然現象にうまく対応した長い人間の暮らしに沿て使いこ
 なされた暖かみがある。一方工業製品は強く、かつある種の特性には秀でているが天然
 繊維のもつ多様な特性がない。
 たとえば、草や木や動物による天然染料と合成染料
 天然の染料は様々な色を含むやわらかな中間色が多いような気がするが、合成染料との
 違いは私にも判からない。
 たとえば、土や木や紙や石などの天然建材と新建材といわれる工業製品
??建材においても同じく、天然の建材は自然の移りかわりに微妙に対処する能力があるが、
 新建材は別の要素を併用して補わなければいけない。
 たとえば、レコードなどのアナログとCDなどのデジタル音楽
 デジタルで情報を記録するCDが出るまで私達は、レコードというアナログの記録を再
 生して音楽を聴いていた。それは針とレコードをトレースする雑音も一緒に含めて鑑賞
 していた訳だ。だからCDの音が雑音を含まず、純粋な音の再現だと頭では思えてもな
 んだか薄っぺらで深みのない感じを受けたものだ。私はヴァイオリンやクラリネットや
 笙のように、位相の違う波形の音がいくつも重なって創り出す音に感動する。だから今
 でもラックスマンの管球アンプ、ナガオカのレコード針を使い、思い出の名演奏のレコ
 ードをタンノイのスピーカーで聞いているマニアの想いも判らないでもない。
 結論として、いくつもの要素を含む天然のものは総じて、色や音やテクスチャーに深み
 をもつ複雑系のもので、使えば使うほど、時間が経てば経つほど味わいを増すようであ
 ることは確かである。ただし安価で大量に供給される工業生産品と違い、希少な材料と
 手間と時間とを要する手工芸品が高価なものになり、庶民の手から遠ざかり金満家のた
 めのものになるところは、すでに150年前のモリスの時代からのジレンマになってい
 る。・・とまあ、作者のエッセイを読んで、こういうとりとめもない感想を抱いた次第
 である。




パイオニア十号 2009/5/4

 なりたい職業の最初は忍者、それから新聞記者の特派員としてアメリカに行き、カウボ
ーイになりたかった。やむを得ず学業成績を問わない公務員になった。作者のこの辺の見
解も常人とは違い、読者にとっては非常に隠喩的で刺激的である。
 また、東欧で昔の領主の館を買い、小さなホテルを経営したいと思う一方、ビルマの山
奥で少数民族とともに仕事がしたいと思うが、「私はこれまで常に、自分の希望する世界
を生きてこなかった」と嘆く。
 作者はその名の通り、実は我々が生きている現実の世界ではなく、イマジネーションの
世界でいまも暮らしていると私は確信する。神が動物を創造した際に、余った半端物を用
いて獏というキメラを創ったそうであるが、貪欲に夢を食べ続けている獏のようではあり
ませんか。
そして、宇宙船パイオニアのように宇宙空間で孤独な旅を続けながら、時折我々の住む現
実の世界へ接近してきて、知的刺激を与えてくれる特異な人である。
◆Wikipediaより
 獏(ばく)は、人の夢を喰って生きると言われる中国から日本へ伝わった伝説の生物。
 この場合の夢は将来の希望の意味ではなくレム睡眠中にみる夢である。悪夢を見た後に
 「(この夢を)獏にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見ずにすむという。
 体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎にそれぞれ似ているとされる。。




The Color of the Morning Glories 2009/5/5

 まじめに自分で訳して感想をと思い努力したが、長文の箇所でお手上げになったので馬
込の先生の手を借りた。ところが作品の題であるMorning Gloriesが「朝顔の花」とは
つゆ知らず、「朝の荘厳な光の色」などと、とんでもない迷訳となっていたのである。三日
ほど掛けて訳したのだが、いまさら時間のなさと辞書のせいにはしたくはなく、やはり素人
の出る幕ではないらしい。
それはともかく、この短編はある一時(いっとき)の場面の中にこれほどの密度の高い想
念を作り上げられたもので、作者の並々ならぬ力量と才能を見た。
 この先品は18号のテーマである「色」について、red、green、blue、 bright blue、deep
blue、yellow、pale yellowなど七種類の記述もさることながら、私が注目したのは種々の
情景の記述の中に「二項対立」の関係で成り立っているのを見つけたからだ。
たとえば少年(男)とおばあさん(女)、低い(少年)と高い(おばあさん)の視点、過
去と現在の情景、動と静、静寂と激しい音、平安と5.11という大事件等々。これほど
一幕ものの短編のなかに深い想念を重奏の音楽のように奏でたことは実に見事であると私
は思った。



「エラさんの作品から感じたもの」 2009/5/8

 G氏の評「作者は何を言いたかったのか」を読んで、私は「二項対立」の構文に目が
眩み、それを書くのを忘れていた。
情景描写に徹して感情を記述しない表現から感じるものは、単に平和への希求、再生への
希望を訴えたかったばかりではない、もっと深い宇宙や生き物の持つ根源的な宿命、人類
の愚かさについて述べられているように思う。「猿の惑星」の最後の場面のように、遠い
星間を長い間旅をして着いた未知の惑星が、朽ち果てた自由の女神像を見たとき、地球だ
ったことが判ったシーンのように、人類が今まで営んできた歴史はなんであったかと問い
直さなければならない。そのことを深く静かに表現されているように思えてならない。



32α編集部:2014/04/30(水) 17:15:45
激甘辛評4
.
              激甘辛 作品評4
                  19号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。



  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α19号


昔、革命的であったおとうさんの晩夏・・・その6「同人安曇野」便り 2009/6/9

◆この作者の作品を読むときこれまでも、それが創作ものとして感想を述べればいいか、
 思想としての評価を対象とすべきか迷うことが多い。
 そこには主人公の「私」、「前にも言ったように」とか「再び言おう」とか「私の認識
 は以下のようなものだ」などの語句からは作家の影の姿を想起させるものであり、小説
 としての仮想の世界へ突然現実の生身の作家が現れるようで、違和感があると言える。
◆「同人安曇野」に投稿した農業問題をそこで滔滔と述べることも、合評会でその作品の
 評価において芸術的評価はさておいて、司会者・茜が次のようにまとめた。

 「農業再生についてのプログラム、政府の財政的な保障、などこの作品にかんしての趣
 意はほとんど皆さんの賛同を得ていると思います。問題は政府ならずとも、財源をどこ
 に求めるかでしょう。筆者がここまで明確に試案を提出されたわけだから、その財源に
 ついてもきっとその出所を検討されたことと考えます。次回後半部分の合評会の初めに
 時間をとって、筆者にその説明をしてもらおうかと思っています」

 という、農業問題の解決にかんする討議で始終するところは、何だか「同人誌」として
 の成り立ち、主旨と違うような感じを受けた。
 或いはその様な主旨の同人誌であって、私の間違った思いこみであるのかもしれない。
◆そしてまた、この小説に出てくる主人公の考えはいかにも概論的であり、私が以前読ん
 だ小説「生活の探求」の都会のインテリの生き方に疑問を持った杉野駿介が故郷に戻っ
 て農業を嗣ぎ、体験を通して農業問題に目覚める姿の方によりリアリィティを感じるの
 である。
 とまあ、勝手なことを書いたが、もしこれが論文やエッセイの形をとり、作者が自分の
 考えを直接語るのであればなんら問題はない。実は舞台裏を明かせば、先日19号のゲ
 ラ刷りを目の前に作者とO氏と私の三人が論じ合ったのがこの部分なのだ。しかし作者
 はこの方法で作品を創る意義を強く示した。だからこの難しい創作方法の成功を祈りた
 い。



「作者の反論について」 2009/6/13

 作者の「安曇野便り」の合評において、農業問題についてあの様な長文の理論を数ペー
ジに渡って展開するのは、小説という想像の世界を創り出す行為においてそぐわないので
はなかろうか、と私もO氏と同じ感じを抱いた。
 どのような物を書こうが一向にかまわないが、合評という場でなされた議論にたいして、
自分の真意と違うことを強制するなとばかりに「一切受容しません」と言い切るのは、合
評という主旨にたいしての理解がなされていないように思う。
 彼の反論を見ていても、「為にする」議論ばかりで、冷静にお互いの言い分を理解しよ
うという努力が感じられない。なにも人の意見に全て従えと言っているのではない。相手
の意見と自分の意見の相違を真摯に討議していくという度量、柔軟性が欲しい。一を言う
と十の「為にする」論をしてくる。
 作者の作品にたいする私の微妙な感覚は、今回の反論を見ていると理解し合えない、い
くら言ってもその真意が伝わらないような思いがした。
為にする議論(タメにするギロン)
議論において、その結果としての結論を出すことを目的とせず、まず結論があって、議論
をしたという体裁を整えるために行うもの。



「作者の合評のお礼について」 2009/6/14

手法について
 確かに私は氏が目指している手法を繰り返し問題にして批評してきたと思います。だか
ら氏はそのしつこさに「何回もその意図するところを説明しているのに、ちっとも理解し
てくれない」というもどかしさに、思わず感情的な(これは私の感じたもので、他の人は
そうでもないかも知れない)言葉の吐露があったと判断しました。
 氏が何か新しい挑戦を試みることには吝かではありますが、私はまだその手法に違和感
を感じ続けていることは確かです。このシリーズの第15号「ひとり芝居『天の魚(いを)』」
や第17号の「農業問題」、今度の「農業悶題」がこの手法でありますが、このような長大
な解説は論文か講演のものと私は感じていて、小説のなか登場人物の情景描写や筋とこの
主張との関係で、どちらに主体があるかという判断に戸惑ったからです。それは現に第16
号では「地球温暖化について」という問題を独立したエッセイの形で纏められていて、私
にとってはこの方がずっと判りやすい手法で、氏が日頃から社会問題に通暁されている主
張が素直に読みとれるからです。しかし氏が引き続きこの手法で創作されても、私はもは
やこの件についての問題提起をしないことにしましょう。願わくば新しい挑戦には反発や
異論がつきものですので、それを肥やしにして進むくらいの柔軟な姿勢を私は望みます。





浪速の空から 2009/6/12

◆表題の「空」はそれこそ哲学的な難しい概念である。丁度いま私は長岡氏の紹介で求め
 た、仏教の思想集「唯識論」のところを読んでいる。
 それによると、心の中の表象があるのみで、外界の存在物は無いという思想であり、
 「色即是空」、色すなわち目の前の現実と見える物は全て心の現象であって存在しない
 ということでしょう。これは茂木健一郎の言う、思想や科学や宗教は人間の頭の中で考
 えた、すなわち想念の産物であるということにつながるのではないか。今目の前に見え
 ている物の存在ははたして真実か、見えない場所に移動してもその物が存在していると
 いう確信がもてるか、私には確信が持てない。とすればやはり外界の現象は実在しない
 という意味だと私は考えた。
◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?



「浪速びとさんへ」 2009/6/17

 「案の定,古賀さんに[バカ]と[アホ]で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってし
  まうと言われて,実は僕は[やっぱり・・・]とうなだれたのであります」

とありますが、決して否定的に受け取らないでくだい。これは「自己流捻千家(じこりゅ
うひねせんけ)」を自称するへそ曲がりたる小生の、その筆力に対する違った表現の賞賛
の評であります。
題名は失念しましたが河野多惠子のエッセイに、ある何でもない平凡な一つの言葉につい
てアアでもないコウでもない、表、横、裏、上、下と色々の観点から見た考察を、数ペー
ジに渡って述べてものを読んだ事があります。作家とはものごとをよく観察して、様々な
例証を示し同じテーマを違った言い方で繰り返して読者に印象づけるという、さすが言葉
で勝負する職業だなと大いに感心したものであります。
 だから、面白いエピソード一杯の文章は、読んでいるときは笑ったり、悲しんだり、驚
いたり、その文と内容に上手だなと感心しますが、本を閉じた途端にその感動も雲散霧消、
何を述べられ何を言いたかったのかをすっかり忘れてしまいます。だから「バカ」と「ア
ホ」のように一貫したテーマで色々の変化球を駆使して読者に投げかけるものは実に印象
に残ります。もともと、人間は一回こっきりで物事を理解出来るとは小生思っていません。
繰り返し繰り返し、飽きるほど囁かないと読者は頭の中の引出しの隅にしまってくれない
と思います。・・・などと、かなりしつこく独断と偏見に満ちた考えを述べました。ごめ
んなさい。





葛藤 2009/6/23

 葛藤という言葉については、真剣な皆さんの論争に充分言い尽くされたと判断して、こ
れ以上私の見解を述べずに横目で見て通り過ぎましょう。
確かに語り手が現在の私と過去の私を「ゆめ子」として、客観的に描くという手法は見事
に成功しています。しかし「私」と「ゆめ子」と他に人との関係が判るまでは、最後まで
読まなくてははっきりしません。頭脳明晰な人であれば一度で理解できるでしょうが、ぼ
んくらには何回も何回も繰り返して読み込まなければ判らないのであります。葛藤や生き
方などを語る小説の内容を云々するよりも、まずそのような人間関係の把握という些末な
努力を読者に要求るのはあまり得策とは言えないのではないでしょうか。
 もちろん小生のような単細胞でない人を対象にしたならば、こういうぼやきはないでし
ょうが。普通の読者がその関係を曖昧のまま読み終わって、再度検証しなければ理解出来
ないならば、そのまま読み捨ててしまうだろうと思いました。その意味でも早い内に人間
関係が判るような表現を挿入して判りやすくして、本題である主人公の葛藤の具体的な要
因や、それに伴う真理描写に力を注いで欲しいと思いました。ここではさらりと触れられ
ていて、読者の想像に任せてるに留まっているようです。私は主人公の「空」に至るまで
のぐしゃぐしゃした葛藤に苦しむリアリズムを書いて欲しいと思った。
 作者が小説に新しい構成を求めた意図は理解できました。そしてその内容もまた「人は
色々の問題を抱えながら生きることの難しさを味わっている」ということを充分に表現で
きていると思いました。





肥と筑 第九回 2009/6/29
http://2style.in/alpha/19-4.html

 さて、難物の作品「肥と筑」の合評の締め切り日は、容赦なく私に襲い掛かって来る。
それは昔に受けた怠け者の期末試験のトラウマの再現だ。あのころは部活動や麻雀、音楽
や読書、旅行などの目先の興味にばかり酔いしれて、隙あらば本分たる学問から目をそら
すことばかり考えているという、道草人生の始まりである。そのため、この作品の奥深い
知識には今更ながら驚くばかりである。加えて、その輝きに目が眩んだ訳ではないが、こ
のところ視力の悪化で活字が追えなくなるとい苦渋を味わっている。・・・などと言い訳
を使って今回の合評をパスさせて貰おうかと思案していた。
 とここまで書いたが、皆さんの合評が面白く一寸口を出してみたくなった。長岡さんが
北島君との「基本線」が同じだという認識にはO−chanと同様、私もちょっと違うの
ではないかと思う。
 北島君の基本線についてはもう言うまいと思っていたが、要するにフィクションの形を
とるとすれば、作者の生の声を感じさせたら興ざめだろうと言うことです。長岡さんのは
それぞれの登場人物に語らせるという形をとっているから創作物としては納得がいくとい
うことです。いずれにしろ土俵や物差しがそれぞれ違う者の同士が意見を言うのだから、
100%の理解が得られるとは考えていない。そのことは承知の上出来る限り自分の考えを
力説することはいいことだ。
 旅人ーMさんの評はブラックユーモア的なところがある。人のために何もしていないと
いうを負い目を感じている露悪的な私と違い、旅人ーMさんはボランティア活動もよく行
い、実に誠実で真摯な人柄と思える。しかし時として実につれない言葉の礫を投げかける
ことがある。
お客に一体「何を売りたい」のだろうか
 (1)「知識・説明」を売りたいのだろうか?

 (2)出てきた品と説明で、顧客の判断で値打ち物を選んで買って欲しいのだろうか?
・・・は実に強烈だなあ。いくら皮肉屋の私でもここまでは書けないなあ、恐れ入りまし
た。
 ところで私は「肥と筑」は私達日本人の成り立ち、すなわちルートを解明するという私
の好奇心を満たす創作だと思いますので、肝心なところはブラックユーモアで語るのでな
く、長岡さんの血と涙と汗の作品をもう少し真面目に読んであげたらと思った次第であり
ます。





りらの空 2009/7/8

 りらの空という題もちょっと変わっていますね。そこにはどうもこの詩の深い意味が潜
んでいそうな気がしました。
 私はかつて同人α第8号「シリーズ・歪んだ風景−記憶」のなかで、亡き両親やまだ郷
里で暮らす兄の姿や表情を正確に再現出来ない自分の記憶の曖昧さを書いたことがある。
鮮明に記憶する術としては、流動する行為の中のある瞬間を抜き取って、絵や写真や脳の
ある部分に焼き付けるといった固定する作業しか方法はないのではないかと思った。
 泳ぎ好きのかえるさんが「一枚の絵が描かれていくところを想像しながら読みました」
といみじくも言われるように、まさに幸せな家族の薄れゆく運命である記憶を永遠に自分
の頭のなかに留めようとする。両親の印象や花の色や位置、空との関係などを丹念に記憶
するための描写に心を注いでいる詩人・画家・写真家である作者の姿がある。
私は作者が「言の輪」に投稿している文においては、余りにも例えや言い換えや専門的な
表現が多くて、内容の重点が判らず明確なイメージを作れない事がある。しかしこのよう
な詩の世界では見事に作者の芸術的才能を認めるところとなる。
 ◆童話のように小さく老いた父と母
 ◆この空と花の位置をどうしよう
 ◆ 花は大地に似合いすぎて迎えられているのはいつも人間
などの言葉は確かに作者独自のものである。散々使い古された言葉、誰かからの借り物、
愛とか恋とか友情んどといった安直な美しい言葉ではなく、その人しか表現出来ないよう
な言葉で表現することが優れた詩人だと私は考える。





「絵空事」を読んで−その1 2009/7/13

ブログの写真とコメントを見て
ダンテの「神曲」を「新曲」と書いているところなどは、いかにもO−chanらしく天
衣無縫、些細なことには囚われない、まさに「地獄門」の前に立つ永遠の淑女ベアトリー
チェといったところでしょうか?
ダンテがフィレンツェを追放された後、ヴェローナで「神曲」を書いた。その家を見た、
二年前のイタリア旅行が懐かしく想い出されました。

さて本題、いつものように作者の作品は実に滑らかでよどみがなく、上手い情景と心理描
写に満ちた文章に感心するが、いくつかの疑問が残った。いつもの作者の主張を信ずると、
褒められることも大好き、反面けなされることもまた一寸好きという複雑な性格の作者だ
から、密の味は人に譲って私は苦みや辛みのスパイスを効かした評を書こうと努力しよう。
でもそれは「苦み」であって、決して「嫌み」ではない。

1.表題の「絵空事」とはこの小説でなにを表しているか。読み終えてもそれが判らない。
むなしさを覚えたとき、幸せな今までの生活が本当に自分が望んだものでなく、別にもっ
と充実した生き方が有ったのではないかと悩むことなのか。 絵空事という言葉は確かに
「実際の物とは違って誇張され美化されて描かれた絵」を言う。P33の上から2段落目に
「ついあれこれ「もし」を思ってしまうという記述はあるが、主人公がその世界に思いを
馳せるという具体的なシーンは書いてない。もっと現実とかけ離れた空想に浸る主人公を
読んでみたいと思った。

一遍に書くと勿体ないから、まだまだその2、その3と評は続きますよ・・・。



「絵空事」を読んで−その2 2009/7/14
2.人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや
観念が流れるように連なったものであるとする考え方がベルグゾンの提唱しているもので、
意識の流れという文学的な手法がある。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、ヴァー
ジニア・ウルフの『灯台へ』などである。 しかし私も物知り顔に得々と自慢できるわけ
ではなく、二つの小説は読みかけの本棚に何年も置き去りにされて、時たま続きを精々数
ページ捲られるといった有様であるのだ。
それはともかく、この「絵空事」という小説は主人公の意識の流れを全編にわたって告白
したものだが、記述された出来事に主人公の切羽詰まった緊張感が感じられない。 その
内証に厚みが感じられないのはどうしてだろう。作者は意図的にそうした書き方をしたの
だろうか。



「絵空事」を読んで−その3 2009/7/15

3.作者の今までの傾向を見ると、どうも主人公の意識から解放される自然描写や他の人
の行動や様子を描くという手法は用いられていないようだ。 それは作者の視点の欠如か
或いは感銘を受けても全く記述する意味を認めないのか判らない。延々と続く意識の流れ
に小石を投げて違った変化に驚くような、或いは寿司に添えてあるガリのような箸休めと
いいた読者の意識のリフレッシュの効果、あるいは音楽や絵や花や月に託する心の描写で
暗に主人公の思いを複合的に表現することだって可能だし、自然描写と心理描写がちょう
どいいバランスで表現される文章を期待するのだが。これもまた作風と言って済ませてい
いものか、私には判断出来ない。作者から「自分の心深く追求探索し、悶々とするのでし
ょうね。赤松さんの思考の傾向か好みか。自問してみて下さい」と鋭く切り替えされて、
自問してみました。やはり持論からちっとも外に出れない己の姿が見えてきました。



「絵空事」を読んで−その4 2009/7/16

4.合評の賑やかさにつられて、思わずもう一度「絵空事」を読んでみた。
このまま沈黙していると、皆さんが遙か高みの世界へ行ってしまい、
私は人気のない田舎の道端に一人置き去りになりそうな気がしたからだ。そこで私が最終
的な結論を出したのは、主人公の性格や生き方にたいする疑問や注文ではなく、書き方に
あると思った。

作者が流れのままに幸せに生きてきた麻子だから、そんなに深く思い悩んだことは今まで
なかった。だから自主性も深みもないと作者は解説している。たしかに読者が呆れるほど
馬鹿な人物や、嫌みな輩の物語を創作することもあろう。悔しがったり、イライラしたり、
「ばかたれ」とか「このあほが・・・」と読みながら歯ぎしりする物語もある。そこであ
りきたりの麻子の生き様に異論を感じることも承知で、いやむしろ計算ずくの意図が見え
隠れしていると思うほど、平凡で退屈な受け身の生き方をする主人公を書きたかったのだ
ろう。その意味では読者に異論を抱かせるとい効果は達成できたのではないだろうか。

そういう意味で私は一連の作品からそのような主人公を作者が描こうとした意図は理解で
きる。しかし初めから終わりまで時系列に述べられる内証は、やはり工夫をしないと読者
に緊張感を持続させることは難しい。夢想や回想などの時系列を断ち切る方法で書く工夫
があっても良かろうと感じたことである。この暑さでトチ狂った輩の、外れの深読みとお
笑いください。





テーマ「空」による、会話詩 2009/7/20

この詩を読みながら、O氏の魂胆をハタと理解した。こんなことを今頃になって悟るとは
なんと私も鈍くなったことか。 この「言の輪」の画面が19号のテーマ「空」に合わせた
「空色」であったとを一月ばかりも気づかなかったことである。人の何気なく放った些細
な言葉に傷つくことがあるかと思えば、このような秘められた思いを読み取ることも出来
ない自分が見えてきた。これでもかこれでもかと諭されても真意を理解できないこともあ
るというのに、ましてや簡潔な言葉に凝縮された思いの作者の詩においてはなおさらだ。

そしてこの実に優しい詩のなかに込められた意図は、くだくだ述べられた解説よりも強烈
に私の心に響いた。
「自然は終わらせるために人を産んだのかもしれない」、最後のこのセンテンスに込めら
れたメッセージは、人間はいままで何をしてきたか、そしてどこへ行くのかという、生命
の根源的な意味合いを問うという重い詩であったことに気づいた。





江戸五街道・踏破記(2) 2009/7/27

「一体どういう意図でこのような目標を決めて実行しようと思うのかという所です」とい
みじくもO氏が言っているように、私もその点を一番知りたいといつも思っていることで
ある。それが判らなければ私には、作者の行動を評価する資格がないと思っている。単に
普通の人がしないから或いはしようと思わないから、そして出来ないからと言うことだけ
で安易に偉大なことだという判断はしたくない。ユングの定義した「すべての本能のエネ
ルギーの本体であるリビドー」、作者を動かしたその正体がなんであるかが一番興味があ
るところなのだ。

◆P47の「旅行記、紀行文などというものは、面白くないと思うこともあります。 今回
のような、「街道踏破」を目的とした旅の場合のように、ポイントになる観光名所、観光
スポットを訪れたとしても、そこに深い知識・興味もなかったり、旅で出会った人もない、
ということであれば、尚更です。??旅に関する、心の変化や感情の高ぶりなどがなければ、
何も書くことなど思い浮かばないものなのです。今回の「甲州街道・踏破」は、そんな
心境に近いものでした」
◆P48の「「日光東照宮」がゴールだとすると、距離は、約・150km。1週間足らず
の 行程である。「早いとこ、片付けずちゃえ!」。そんな雰囲気である」
◆P49の「何か目標を立て、それに立ち向かう時、目標を追い込み・自分自身を追い込み
ます」

などの文章を見ていると、この艱難辛苦の行動の意図や目的が何なのか判らなくなる。私
みたいに身の回りの不思議さを頭の中でこね回し、宇宙の果てまで往復したり、生命の謎
に悩まされたり、意識や無意識、善、悪、などの難しい問題の廻りを堂々巡りするの疲れ
て、旅人−Mさんのような冒険をやり遂げる気力も体力も「リビドー」もない。有り体に
言えば私は単なる怠け者に過ぎないということかもしれないとも思った。さて、いろいろ
変なことを書いたが、自分に出来ないことを旅人−Mさんがちょっと羨ましかったのかも
知れない。最後に是非その行動の源がなんであるか、目的を達成した時の満足感・達成感
あるいは別の感慨などの心理を書いて欲しいと思った。





kyline 2009/8/30

ガスが見るのを避けて来た島では何があったのか。いまの孤独や喪失感の原因はなにによ
るものなのか。遠い昔は子供のいる幸せそうな家族を連想させるが、それらの疑問にはな
にも答えていない。

向日葵は首を垂れ、夏うりは摘み取られないまま腐っている、盛りを過ぎてうち捨てられ
た描写はガスの姿と重ねあわされている。
緑色のベンチの廻りから水辺へ、そして水平線に浮かぶ島へとの視点の動き、またじっと
ベンチに座って過去を振り返る思索という静寂から、何かを決心して立ち上がり歩き出し、
船をこぎ出して行く、そのとき一斉にコオロギが声高に鳴き出しという動への変化が見事
に表現されている。

私も主人公の人物や生い立ちや心情を情景描写で表現できることを常に目指している。
一度「歪んだ風景−記憶」で試みたが、どれくらい成功したかは判らない。
しかし、このエラさんのSkylineは主人公ガスが何一つその謎を解明してみせなくても、
読者に強い印象を与える。最後のシーンの「海へと漕ぎ出した」は、もう一度心のよりど
ころを見つけるために、水辺線に浮かぶ島をめざしたのか。それとも絶望のあまりに自ら
の命を絶つために彷徨い出たのか、読者の解釈にゆだねられているように思える。

最後に、本当は二週間くらい時間を掛けて自分の力で訳をしたいのだが、それも叶わず、
O氏の見事な訳があったればこそ、間違わずにこの素晴らしい作品を鑑賞できたと感謝し
ている。





《言葉集め星創り五拾番》 神秘相撲 神野佐嘉江著 2009/9/1
http://2style.in/alpha/19-12.html

書かないでもいいよと神野佐嘉江氏は合評を辞退したけれど、やはり投稿をお願いする立
場の私としたは、いやそれだけではなく詩というべきか散文というべきか、この難解な読
み物にいつも魅了されているからである。

ある時は短歌でありある時散文詩であり、まさにミクロ量子の世界とマクロ宇宙のとっく
みあいの様な、まるで神秘相撲そのものの狭間で私の脳は攪拌され、ブラウン運動のよう
なランダムな混沌の世界を彷徨ようだ。

一つの単語に全く意味の違う形容詞がくっつき、分節となり文章へと変化する。そして不
思議にそのはちゃめちゃな言葉に正当な意味があるかのごとく私に迫りくる。
本当のところ、用語をあげてその変化を検証しようと思ったが、相当の時間を必要とする
ことなので、今回は勘弁してもらいましょう。
それにしても神野佐嘉江氏の独自性は群を抜いていますね。



33α編集部:2014/05/01(木) 09:20:05
激甘辛 作品評5
.
              激甘辛 作品評5
                  20号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α20号


黒猫と青春の歌謡曲????2009/ 9/8

 先日、リチャード・ギア主演のハリウッド映画「HACHI 約束の犬」を銀座マリオンで
見た。「忠犬ハチ公」のリメークで、筋としては実に単純で判りやすい。しかし何年も戻
ってこない主人を待っている犬はじつにバカだなぁと思う一方、我ながらついホロリとし
てしまった。照れ隠しというつもりはないが、それが何故なのかと考えてみた。
 それはこの犬が主人に寄せる絶対の愛・無償の愛だからではないか。
乳飲み子と親の関係に通ずるものだが、児童虐待、尊属殺人などの社会現象をみていると、
もはやこの無償の愛は人間関係に求めることは難しく、動物と人間の間にしか認められな
い時代になってしまったのではないか。無償の愛は実は強者と弱者の間でしか成り立たな
いのではないか。
弱者は庇護されなければ生きて行けないし、強者はその弱肉強食だけの生き方のみでは殺
伐としていて心が満たされず、弱者の放つ癒しのオーラ・生体エネルギーを必要とするの
ではないか。だからこの世の中は強者ばかり、或いは弱者ばかりでは人間社会が衰退に向
かうのではないだろうか・・・と考えた。

 私の少年の頃は、犬、猫、兎などの動物との暮らしは身近にあった。屋敷が広かったせ
いか、迷い猫、迷い犬、迷う兎などが常にいた。今までのそれらの動物がいなくなると次
の野良が入り込んで来て、いつものように馴染んで住み着いた。猫の名前はだいたい安直
に「白」とか「黒」とか名付けられていたが、犬は柴犬などの雑種で赤犬がほとんどで代
々「ベル」という名前で呼ばれていた。猫も犬も顔中ひねくり回したり、髭を切ったり、
目がねを書いたりといった悪戯をされたにも係わらず、よくなついていた。だから、もの
言わない動物から癒される経験した私にとって、子供が動物に接する環境を与えてやれな
かったことが今悔やまれるのである。彼に弱いものに対する考え方が育ったかどうかが気
になるところではある。

 動物を擬人化した書き方が色々あって面白い。夏目漱石の猫は人間の行動や思考を鋭く
観察している。気むずかしい苦沙弥先生が雪隠で謡曲を呻ったり、隣接する学校の生徒達
がうるさいと大人げなく本気で怒ったり、寒月君の結婚に纏わる虚栄や功名心などの俗世
間の風潮を見聞きして「人間はなんと滑稽な生きものであるか」などとと揶揄している。
 この黒猫と青春はそんな揶揄や苦笑の目線ではなく、実に素直で暖かい目で描かれてい
るから気持ちいい。きっと作者の廻りには無償の愛が溢れているんだと思った。





日本列島徒歩縦断・旅日記?? 2009/ 9/14

先ずは気になるところから書きましょう。
P20の前半は「である」調ですが、後半から「ですます」調で書かれています。その後も
この調子の混乱が見られるのですが、どちらかに統一した方がいいと思いますが。
次にこの旅日記を読んで考えさせられたことは、いかに寝る場所と食事の確保に苦労する
かということが判りました。現代の満たされた時代と違い、人間がもっと素朴な昔の時代
はこうであったのだろうと思われます。便利さを享受することに慣れた私達は、文明の利
器が壊滅した時には、作者のようなタフな人以外は生き延びれないでしょう。
最後に、数ヶ月前にK君の一周忌に墓参りした時、いろいろの文字を刻まれた墓を見て回
りました。その中に「完歩」というMさんの先手を取った碑文を見つけて、二人で苦笑し
ましたね。その後貴君の墓にふさわしい碑文を考えだしましたか。




吉の冒険を読んで?? 2009/ 9/14

私はイマジンさんの文章を読んで、いつもその奇想天外なイマジネ−ションに驚き、感動
する。この天衣無縫さに勝てる人は居ないだろうし、鑑賞する方はそのほころびようが実
に楽しい。

◆女房は、「ゆう吉」と書く。娘は「優吉」で私は「勇吉」と書き、娘と女房は、決して
自説を曲げないとあるが、実は作者だって二人以上に相当意固地ではある。

◆作者は猫の「勇吉」を人間並みの人格を持った者として、真剣に張り合っているのが滑
稽である。これは大事な者を求めて熾烈な戦いに明けくれる男同士の姿に見える。

◆祖父母と孫の間に通う無償の愛は、希求するにあたわず作者と「勇吉」の間では成立し
ないようだ。

◆触れたり抱いたりするのと大差ない事なのに、病気やアレルギ−の感染を心配して、猫
と一緒に寝てはならぬという論法もいささか妙である。

◆作者が懐かしむ三世代・四世代が同居する大家族制は、確かに良いところもあったに違
いないが、家族で支え合わなければならなかった社会制度の未熟さに過ぎなかっただけの
話と思う。

◆メスの避妊手術はいいが、オスの去勢はまかり成らぬという主張は、女性の天皇を認め
ないという論法に何だか似ているようだ。女帝の後継者だと長い歴史を通して連綿と続い
た皇室からX染色体が引き継がれないからだめだというさる学者や政治家と同じ論法のよ
うな気がする。

以上の論点を疑問として書き連ねたが、決して私がそれらに対して苦々しく思ってはいな
い。むしろ反対に理論武装する我々とちがい、無防備な断定をなさるところが実にイマジ
ンさんらしく個性的で可愛い所であると私は考えるのであります。




(無題) ????2009/ 9/18
◆著者の合評の中で書いた私の「綻び説」を、「私は天衣無縫でもなければ、支離滅裂で
もないのであります」と反論されたところによると少々機嫌を損ねられたのではと、気に
掛かっています。


◆宮刑について
著者が「宮刑」を受けた司馬遷について書いていましたが、まさに司馬遷はその屈辱をバ
ネにしてあの膨大な史記を書いたと言われています。しかしその刑罰は男性ばかりでなく
女性にもありました。だから著者のいう男性ばかりが迷惑を被っているという不平等感は
ちょっと・・・。
話は変わって、司馬遷がその「宮刑」を受けなければならなかった原因は、匈奴との戦い
で敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を、宮廷の中で彼が唯一弁護したため武帝の逆鱗に触
れたためでした。
そしてその李陵を題材として書かかれた秀作があります。中島敦著の「李陵」という短編
です。一度読んでみては如何ですか。

◆作品集を掲載しても何の反応もないので、その意義に少々疑問をもちいささか滅入って
しまいました。内輪で散々愚痴をいって拗ねていましたが、先日Gさんのねぎらいの言葉
と、親戚の葬儀に参加した時一回り若い女性のはとこに「実は作品の全部を読んでいる、
そのうち意見を言っても良いか」という言葉を聞いて、まんざら無駄ではなかったのだと、
実に安直に機嫌を直した次第であります。

◆民主党の無血革命ははたして首尾よく達せられるか興味深い。たとえ満足な結果となら
なくても、強者や既得権者に一矢を報い、淀みきった今の社会に新鮮な空気を入れて浄化
しようという目論みには、大いに賛同したいと思う。一方自分達が何を目指しているのか、
何が足りなかったのかの総括も出来ない今だ旧態依然の自民党の姿をみるに、再び新しい
活力を見いだせるかは疑問に思える。むしろ解体して新しい党を組み立てた方が早道だと
思うが・・・。



著者へ最後のコメント?? 2009/ 9/19
著者の犬猫に対する危惧はよく理解できました。たしかに人間どもが自分たちの都合で生
態系に手を下すことはおこがましいことに思えます。田舎では狐や狸や鼬といった野生の
外敵に襲われるなどして、自然にその数は一定のバランスを保っています。だから放って
置いても野良猫が増えて困るということは聞いたことはありませんでした。
もし、これが本人の意志も問わずに、犬猫のように人間に処置を施したら殺人と同じでし
ょう。我々も心して「宮刑」を受けないように用心しましょう。とはいうものの、もはや
この年齢では生物的な機能は終焉を迎えていますが。

著者の獲得したゴルフの賞品(高級料理屋・きら))についての私の情報に誤りが二つあり
ましたので訂正します。
一つ目は店の名前を「喜樂」と言いましたが、「季樂」が正しい。
二つ目はソニープラザの角を右にと言いましたが、数寄屋橋交差点から銀座四丁目に向か
って次の信号を右へ曲がった3・4軒目です。すなわち、ソニービルの横道からもう一本
四丁目に寄った通りです。
以上いつもの私のオーマンな性格によるいい加減な情報を訂正します。




蛍・その静かな乱舞(北限にて) 2009/ 9/20

よけいな物を排除された暗闇のなかで、研ぎ澄まされた光、色、音だけが読者に迫ってく
る、見事な文である。理屈をこねるでもなく、意図的に作られたのではない文だから、実
に自然に作者の「蛍」に託する思いを私は新鮮に感じた。
作者のこの文体に込めた意図は判らないが、敢えて一つの提案をすれば、一行の文をいく
つかに分けて行替えすると、もっとリズムと心の動きが生き生き響き、完全な詩情あふれ
るものなるだろう。私はこの「蛍」は初手から詩文として読みました。




初心者の俳句??あき もとすけ著??2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-7.html

安芸さんが休養を終え再び登場されたことを喜びます。そうです、おっしゃる通り「参加
することに意義あり」です、「田作の歯ぎしり」「引かれ者の小唄」「犬の遠吠え」と思わ
れようともいいんです。何かを発信すればそれに必ず答えてくれる物好きがきっといて、
その主張に対して共感してくれることでしょう。
安芸さんは偉いなあと思いました。それは私にとって俳句や短歌はよほど時間と心の余裕
がないと目が向かないような気がして、私にとってまだ手が出ないものだからです。神野
佐嘉江氏が歳時記集や俳句・短歌の解説の本を何冊も貸してくれているにも関わらず。
延々と言葉を尽くして語る散文と違い、俳句や短歌は身を削るように言葉を極限まで濃縮
して表現するものだと考えるからです。それは西洋画が人の生き様をこれでもかこれでも
かと生々しく表現することにたいして、日本画のように観念を様式化したものの様な違い
でしょう。
そのようなものに初めて挑戦しようとされたことにたいして感心したのであります。
今回の安芸さんの句に私は空間的・時間的な情景描写に目がとまりました。
空間的描写は
 東京へ 希望の空に 春立てり→故郷から東京への空間移動
 満月に 映して人を 偲びおり→意識が満月に触発されて反射し
                て人へ向かう縁(えにし)の空間ベクトル
時間的な描写は
.恋文を 待ちて冬日の 長かり   →ひたすらに返事をまつもどかしい時間
.ねぶの花 芭蕉気取りで 見ておりぬ→古の大家に成り変わるとというタタイムスリッ
??プ
.初雪に 耐える小枝を 応援す   →文句も言わずじっと耐えている時間
.吾の如し 踏まれて生きる 草の花 →不条理を克服して生きる生命の
とまぁ−、内容を深く吟味するというよりは、全く別の観点からのものであり、本筋では
なかったようですので悪しからず。安芸さんこれからもどんどん新しい創作に挑戦してく
ださい。




肥と筑 第十回?? 長岡曉生著??2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-8.html

少し時間の余裕が出来ましたので、「肥と筑」という大作の感想に挑戦したいと思います。
私は長岡さんとは二年半という長い付き合いですので、お互いに微妙な表現も冷静に理解
してもらえるもので、たとえ見当違いや主旨の誤解や気に障る表現があっても許されると
思いこんで居ます。二年半は短いと考える人もあるでしょうが、同人αの校正や編集・出
版その後の反省会などと、実に密な関係でありますから、私は敢えて長い付き合いと思い
たいのであります。それに事があれば二時間掛けて馳せ参じてくれる彼の手にはいつも美
味しいおやつがあり、それも感謝の対象になっていることは間違いありません。

この大作においてはもちろん日本人のルーツ探しという基本的なテーマのもとに、色々の
民族の渡来人の記述が主ではあります。その文献の調査・裏付、それにより蓄積された知
識、この文の並々ならぬ構成力には驚嘆するばかりで、その真偽を判断するということに
おいて私の手に負えるものではありません。
しかし敢えて一つ問題を挙げるとすれば、狂言まわしの役割を担った語り部達であります。
作品の中でも彼等の性格や体格や気質を述べてありましたし、今度の評の解説でも後藤英
夫は加藤剛、芳賀信行は堺雅人、山南文子は夏目雅子という俳優をもってその人達の具体
的な姿を表現したいという作者の意図が見えます。

一方読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろうし、私もNHKの大河ドラマは
殆ど見ていないから、堺雅人や山本耕史についても判りません。一歩譲って知っている俳
優を擬したとしても、それだけではまだ私には登場人物のはっきりしたイメージを描けな
いのであります。それは一体何故なのか、私の表象能力に欠陥があるからでしょうか。
その原因はいくつか考えられると思います。

一つは、この物語を進める語り部達がいつも一緒に同じ舞台に立っているからだと思われ
ます。二つ目は、語り部達のその舞台から離れた時間・空間での個人としての生活、生き
様が描かれていないからではないでしょうか。勿論作者が意図することは日本人のルーツ
を記述することにありますが、切角個性的な登場人物達でありますから、歴史上の真にた
いして人間の不可解さを虚と対比させて書き込んだら、もっと面白い読み物になると思い
ますがいかがですか。・・・とまあ、毎回毎回「ぎゃすぎゃすどんく」の振りをして問題
点ばかり探すのもいい加減にしたらと自戒しています。



再び長岡さんへ?? 2009/10/2

◆語られる内容が余りにも専門的なもので、なかなか読み物としては構成が難しいとも察
します。しかし読者としては切角教養のある魅力的な人達が出現したのですから、もっと
深く関わりたいと思い、それを売り込まなければいかにももったいないなあと思ったもの
ですから。しかしもともと私みたいな純文崩れの「意識の流れ」などにはまりこんでいる
輩の求めるものとそうでないもの、すなわち物語の種類が違うのかもしれませんが。

◆「読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろう」の部分で、私の言わんとした
ことは、読者にその人物のイメ−ジが可能な長岡さん自身の観察による詳しい記述を望ん
でいるのであります。

◆「歴史上の真、人間の虚」とは過去に記録されたものは固定されていて何ものにも代え
難い。それに対して生きている人間共は虚栄や妬みや嘘で化粧されなかなかその姿を捕ま
えられない。その静と動、裏と表、真と虚・・なんだか自分が何を言わんとしているのか
判らなくなってきました。

◆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味は、はなはなだいい加減な記憶に基づく言葉と意味で、
恐らく両親の里のものではないかと思っています。これもまたうろ覚えですが、「どんく」
とはガマガエル、「ぎゃすぎゃす」とはその鳴き方を模したもの、総じて「人と反対のこ
とを唱える・言い張る」という意味だと思っています。もし解釈が間違いでしたら、その
言葉の使われている地方と正確な意味をご存じの方は教えてください。

◆「赤松さん古賀事務所で照明器の製作を宜しくお願いいたします」と言われても、生憎
光を発するおつむを所有する人は同人αの中には居ないようで、材料の供給がなく製作出
来ません。話は変わって、物書きの趣味やそれを生業としている人、たとえば筑紫哲也や
田原総一朗、鳥越 俊太郎、嶌信彦その他、髪がふさふさなのは何故だろう。



   赤松さん????2009/10/2

   ☆「意識の流れ」などにはまりこんでいる純文学系:
   成る程、赤松さんは、意識も含んだ人の動態に興味があるんですね。私も一応興味
   は有るのですが、何せ経験が浅いので、取り敢えずは人の意識構造、つまり静態の
   描写中心で行く他は有りません。

   ☆作者自身の観察による登場人物の詳しい記述を望んでいる:
   ご趣旨は、了解しました。でも今から急に容姿・性格の記述などを始めたら、読者
   一人一人の懐く像を壊してしまいそうだなあ。

   ☆静と動、裏と表、真と虚:
   裏と表、真と虚などについては、世界中の政治家達の像を嫌になるほど見ています。
   これ以上身の回りから探し出して書くのは、もう澤山だと言うのが本音です。せめ
   て自分が描く世界ぐらいは、世間の夾雑物抜きで静と動を記述して見たいと思って
   居ます。

   ☆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味:
   ご教示、有り難うございます。これは、佐賀市内の言葉では無いと思って居りまし
   た。

   ☆物書きを趣味や生業としている人は、髪がふさふさなのはなぜ:
   きっと、頭の中に色んな考えが一杯詰まってはち切れそうになっているので、文章
   や講演として出し切れなかった分が髪の毛になって噴出して来るんですよ。
   その真偽のほどは、慎重に確かめる必要が有りますが。
   長岡曉生




わが街   2009/10/3

私は大阪をあまりよく知らない。それでもまだ会社勤めの三十歳のころ、泉佐野の広大な
公有水面埋め立て地に、製糖工場を設計・監理した時期に、数回立売堀にあった大阪支店
の近辺をうろうろしたことがある。それから数十年経て、姫路で開催された高校の同窓会
に出席する前に、東京の幹事達数人と大阪・奈良・京都を物見遊山した覚えがある。その
時あいりん地区のドヤ街を歩き、もう売春防止法が施行されて数十年も経つというのに飛
田遊郭のやり手婆が赤い膝掛けをして玄関に鎮座し、客を呼び込んでいる様子を見て私の
知らない別の時代の別の世界を覗いたような気がした。そして人間の業のようなものを感
じたとき、梁石日(ヤン・ソギル)の小説「血と骨」を、またこの作品に描いてある路地
裏の飲み屋街は、車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」を思い出した。

それでもなお私の大阪に対するイメージになにか足りないを感じていた。そうだこれはま
さに「じゃりンこチエ」の世界だ。この漫画に出てくるチエは小学五年生というのに、ば
くち好きで喧嘩ばかりしているしょもない父親のテツに代わってホルモン屋「テッちゃん」
を切り盛りしている。チエを取り巻く人達は実にバイタリティに富む、一癖も二癖もある
個性的な人間どもだ。チエはチエで大人に囲まれているせいか実に冷静で、時々ギョッと
するような真実を投げつける。ギャンブルも親爺のテツに比べものにならないくらいに強
い。またに額にある三日月状の傷がトレードマークの寡黙で凄みのあるやくざのような野
良猫の小鉄がいる。

とまあ、作者の意図から外れてしまったかも知れないが、「わが街」から私が強く受け取
った印象である。美味すぎる流れるような情景描写と敢えて言いましょう。最後の「ふり
返るとそこは灰色の街」以降は妙にペーソスがあって実にいい。参りました。




会話詩…テーマ「夏草・青春・猫の恋」より?? 2009/10/4

確かに人間は黙って過ごす時間を失ってしまった。
居間にあるつけっ放しのテレビの音を遠くで聞いていると、間断のない早口のしゃべり声
と声高な笑いに満ちている。

人はあまりの情報の多さに、一人の人が情感を込めた言葉を言っても、ありきたりの意味
で済ますようになった。人によってその情感は少しずつ違うのにね。だから本当の気持ち
を伝えるために多くの言葉が必要になったということでしょう。なんだか逆説のようです
が 。




猫の風景 2009/10/15

小説かそれともエッセーかの話題で賑わっているが、私は漠然と判っているつもりでいた
のだが、明確にその違いは判らなかった。たしか数十年前に求めた白水社のモンテーニュ
随想録の題名が「エッセー」だったことを思い出した。そこでwikipedia で調べると、ミ
シェル・ド・モンテーニュの『エセー』(1580年)がこのジャンルの嚆矢であり、欧米に
おいては綿密な思索を基にした論文的なスタイルを念頭に置いてこの語を用いることが多
いが、日本においては後述する江戸時代後期の日記的随筆のイメージもあって、もうすこ
し気楽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることが多い。 日本における随筆の起源は
10世紀末に清少納言によって書かれた『枕草子』であるとされる。とあった。

だからこの「猫の風景」をどちらだという論を口角泡を飛ばして展開するという気力はな
いが、欧米においては論文的なスタイルとあり、方や日本においては日記的随筆の気楽な
漫筆・漫文のスタイルとあるので、幅広く解釈して作者がそのように意図するのであれば
そうであって、好みの問題である。だがそこで敢えて言わして貰えば、小説は「私」とい
う人称を使っても読者は作家自身を指さないという暗黙の了解があるように思うし、エッ
セーはまさに作者自身が語ることを読者は認識するというものではないかと思った。だか
らその題材にはあまり関係がないと言える。

さて本題の作品の合評に入りましょう。
先ず最初から三段落目までは「夜の蝶」の生態についての、観察と想像を交えながら実に
見事に表現してある。ここまでは小説風で、語り手が作者でなくて、「私」でも「大江匡」
でも「信如」でも一向にかまわない。しかしそれ以降は作者の顔になっていると思うので
ある。
その違和感はともかく、情景描写は実に丁寧で臨場感があり、虐げられたものにたいする
作者の優しい視線が、なかなかいい。いずれにしてもいろいろと試みたという、全般は秀
作、和歌は迷作、全体は習作と評しました。




猫様々?? 2009/10/16

先ず題名の「猫様々」の読み方が気になった。「ねこサマザマ」と読むのか「ねこサマサ
マ」と読むのだろうか。読み進む内にRさんは大和の国の出身だから、多分その両方の
意味を込めたものの様な気がしてきた。このことはRさんの説明を待たねばならない。

K君から借りた丸山圭三郎・著の「言葉とは何か」という本の中に、興味あることが書い
てあった。「外国語で話している理解できない言葉は単なる騒音としか聞こえないし何の
感情も生じない。そのように言葉はそれを話す共通の社会、共通の生活体験といった文化
の中でしか理解されないのである。例え同じ動物や同じ事物を語っても、国や言語が違え
ば違った概念が生まれる」とあった。ここまでは私が何をいいたいのか、皆さんには全く
判らないだろう。早い話が、日本人の「猫」にたいする概念と、フランス人のそれは違っ
ているのではないかと思ったからだ。

著者の参考資料のなかにイギリスやフランスの「猫」に纏わることわざがあったが、Sさ
んの書かれたこの号の前書きをみると、猫だまし、猫撫で声、猫っ被り、猫背、猫の額
猫づら、猫舌、猫脚、猫ババ、猫跨、猫股、猫間、猫火鉢、猫鮫、猫の目のよう、猫目石
等々ことわざ、たとえは圧倒的に日本の方が多いと思う。
そこで私は日本の猫好きの人達は、「猫」をとても人間に近いものとして擬人化し、いや
むしろ家族や同胞のように考えている節がある。一方イギリスやフランスの人は「猫」を
人間と同列ではなくもっと野生の動物という認識がつよいのではないか。「仕事猫」など
の言葉があるくらいだから、ギブ・アンド・テイクの言葉が意味するものを考えると私は
そう思った。




吾輩だって猫である 2009/10/25

前向上はなかなか洒落ていて要領がよく描けている。「つむじ」とは面白い名を付けて貰
ったものだ。ところで「つむじ」という言葉だけで「どこかへそまがりのニュアンスがあ
るみたいだ」というのは、ちょっと飛躍過ぎるような気がする。ところで「左巻き」とか
いって、人を揶揄する言葉があるから、その「つむじ」について興味が湧いた。いつもの
ように安直にWikipediaによるコピー・ペ−ストでお茶を濁すのだが、  つむじの向き
右利きの人の95%以上のつむじが右巻き(時計回り)で、両利きや左利きの人は右巻きと
左巻きが半々だという。この考え方を使うと右利きを断定することは出来ないものの、少
なくとも左巻きの人は両利きか左利きの可能性が高いということがわかる ...

さてこの「つむじ」君はどちら巻きであろうか。この小説のなかでの「つむじ」君の独白
を読むと、頭の回転が早そうだから「左巻き」ではなさそうだ。私は吟遊視人氏の常日頃
主張する論に共鳴することが多いので、彼の分身らしき「つむじ」君の説く所には異存は
殆どないと言える。だからその点についての論評はしないが、この小説の構成について感
じたことを書こう。

我々読者は猫の「つむじ」君の独白とみなして読み進むのだが、ただ独白が続くと次第に
著者の姿がそこにちらついてくる。だから語っているのは猫の「つむじ」であることを時
々思い出させるような仕掛けが欲しい。漱石の猫は、苦沙弥先生や世間の滑稽な様子と常
時対比させることによって、最後まで主人公が猫であると我々は読むのである。
もう一捻りするとすれば旅人−M氏が行っているように、時々「つむじ」君の飼い主たる
著者と違った意見もあればなお面白いものになりそうだと思いますが。




当世グランマ気質  ルービン・良久子著 2009/10/26
http://2style.in/alpha/20-18.html

この作品を読んで、「当世グランマ気質」とはどういうことを意味しているのか、私には
確たるものがつかめませんが、それはともかく良久子さんの創り出す情景描写は、私にア
メリカ映画のシーンを思いださせるものでした。 そして書かれている地名を見るに付け
またアメリカを放浪したいという心を掻き立たせました。

ベルヴュー市の良久子さんのお宅を訪れたのはもう25年前になりました。シアトルから
湖の浮き橋を渡った美しい街でした。庭にあるリンゴの老木が印象に残っています。

モンタナ は訪れたことはありませんが、長距離バスのグレイハウンドでソートレイクか
らシアトルに行く途中で、近くを通ったような記憶があります。またリバー・ランズ・ス
ルー・イッツの舞台だったことを思い出しました。模範的な長男とブラッド・ピットの演
ずる破滅的な性格の次男を描いた、とてもいい映画でした。

ヴァーモントはホワイト・クリスマスという映画の舞台。
クリスマス・イブの日はいつもこの映画を私は見ます。アメリカの一番良い時代、そして
その豊かな暮らしや風景は私の青春時代の憧れの的でした。

兎に角この作品はまだ若かりし頃の私の夢を思い出させました。 有り難うございます。
そしてこのシーンのような時間、私にとっては親しい友人と昼食と一杯のビールを飲みな
がら過ごす時間が一番幸せな時間だと最近は思えるようになりました。さて、これから目
の修繕に行って来ます。




Jetsam and the Bees   2009/10/29

jetsamを辞書で引くと難船の船体軽減のための投げ荷とある。詳しくは判らないが、嵐に
あって漂流・難破している船が生き延びるために、よけいな荷物を海に投げ捨てて、船体
を軽くして助かろうとする行為のことだろうか。

遠い昔、私の父達が乗った帆船も漂流・難破した時、そのような行動を取ったのだろうか。
聞いた話では、ニ本のマストは折れ、伝馬船は流され、操舵室は強風の為に吹き飛んだと
いう。そのように投げ捨てられた、或いは落下した漂流物をjetsamと言うのだろうか。
どこから来て何所へ流れていくのか判らない猫の物語を象徴した名前であることに読み終
わって気づいた。最初から最後まで物語の行くすえを暗示する意味深な言葉である。

著者の作品はThe Color of the Morning やSkyline にしても短編ではあるが、実によく吟味
された食材を最高の職人によって作られた、色や味や匂いの見事なバランスの会席料理の
ように隙のない、緩みのない、大すぎるわけでもなく、また不足してもいないという見事
な作品である。私は日本では動物や植物を擬人化して慈しむといつか書いたが、この短編
を読むと、作者はある意味でJetsamを人格があるような、同じ生きているものとしての
慈しみと尊厳の目で見ていることが感じられた。それは猫かわいがりといった人間側の満
足ではなく、猫の本姓を尊重した接し方をしているということであろう。
最後に三つの作品とも、事象に対して決して作者の意図や思い入れを書き込まないことが、
かえって深みと謎めいた感じを読者に与えるのだろう。

さて、本日私は目の再生工場から無事帰還しました。全盲の同室の人との交流・手術の一
部始終のことについて、たくさん観察してきました。
そして結果は、今までいかにモノトーンの世界をすごしていたかが判りました。この世の
中はこんなに白・黒のはっきりした形と艶やかな色彩に満ちていたのかと驚きました。今
までは自分の見ていた世界がそんなに灰色で歪んでいたのかと思いました。間違った視野
で何でも見ていたのかと疑い、本当はもっと単純明快な世界ではなかったのかと思ってい
ます。

それから、Jetsam and the BeesのO氏による翻訳を作品の後に掲載しましたので、参考に
してください。



34α編集部:2014/05/01(木) 13:56:53
激甘辛 作品評6
.
              激甘辛 作品評6
                  21号2009-2010


   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α21号


昔、革命的であった男の挽歌(その7、安曇野便り)????2009/11/24

作者は以前「茜色」に特別な思いがあると告白した。茜色に染まった神秘的な山際の夕日
に魅せられたのか、それともそんな名前の女(ひと)に叶わぬ恋心を抱いた過去があった
のか、私はそれ以上詳しくは問わなかった。作者はそんな思いもあって今、「茜」という
女性を登場させたのだろうか、私には知る由もない。

私も日本の伝統色の色彩とその呼び名に魅されるのである。 「淺緑(あさきみどり)」
「臙脂色(えんじいろ)」「褐色(かちいろ)」「群青色(ぐんじょういろ)」「深紫
(こきむらさき)」「朱鷺色(ときいろ)」「中紅なかくれない」「木賊色(とくさいろ)
「鈍色(にびいろ)」「利休鼠(りきゅうねずみ)」などなど。

また「杣道(そまみち)」とか「小体(こてい)な家」「出来(しったい)」などといった
懐かしい日本語もはや廃れようとしている。時々辞書を引きながら、響きのいい言葉や姿
の美しい文字に出会ったとき、その言葉をつかって文を作りたくなるときがある。そのよ
うに作者は「茜」という文字に魅了されて、いつかその思いを遂げたくなったのだろう。

さて、本題の感想を述べよう。
1.これは私の好みの問題であることだが、P1上部の文で「そんなとき隣人(といって
も300メートルは離れている家だが)の鶴見さん」とあるが、ト書きや( )書きはあ
まり文学的ではないと私は思う。たとえば「300メートルは離れている隣人の鶴見さん」
と書いても良いのではと思うのである。

2.前半の自然の描写や内証は実に素晴らしい。私好みの世界を見事に作っている。これ
は作者の別の資質が発見された喜ばしい作品だと私は思った。

3.しかし「同人安曇野」に投稿された農業再生、財政問題について、滔々と述べられる
後半には一つの疑問を私は感じた。それはこの「同人安曇野」の主旨が依然として明確で
ないのだ。これは文学的な作品を載せるものなのか、そして合評はどんな観点で評価され
るのかが不明である。それとも生活に根ざす様々な問題点を政治的に解決するための研究
や提言を扱う同人誌なのかである。その辺が明確になれば読者の読み方も違ってくるだろ
う。それともそれを含んだトータルナ文学作品として作者は描こうと努力しているのか。
またまた厳しい意見でごめんなさい。


昔、革命的であった男の挽歌という表題について???? 2009/11/25

今流行の血も涙もない必殺仕訳人の仕業ではないが、作者にとって予想もしていないよう
な問題を指摘され断罪されることは辛いことであろう。しかしこれも泣いて馬謖(ばしょ
く)を斬るのたとえで、これからの創作に生かして貰いたいと思う故である。

万理久利さんの表題の変遷の調査をみて、そういえば私も各号の編集時に作者の表題につ
いて違和感を微かに感じてはいたが、作者の意図を尊重するという逃げ口上ですまし、私
もこのことについて余り深く考えてはいなかった。このところ皆さんの評論を読んで、そ
の表題がこのシリーズの最初の頃の意図と少しずつずれてきていることを感じたのである。

先ず、挽歌とはなにか。挽歌とは「葬送のとき、柩(ひつぎ)を載せた車をひく人たちがう
たう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌。哀悼歌」とある。この意味とすれば沼南ボーイ
さんの言われるように、昔革命的であった男の挫折や屈辱や悲しみの賦でなければならな
い。しかしその後の作品をみれば、その男はやおら蘇生して棺のなかから出でて、安曇野
あたりで現世の不条理を説いている。まさに挽歌とは言えなくなっていることは確かであ
る。この意味でこの表題のままであるとすれば、読者に間違ったサインを送っていること
になりはしないだろうか。

そう言う意味では表題はなかなか難しい。作者がつける表題は物語の概要を示すようなも
のが多く、それが会社の定款のような具体的なものだと、小説の内容を限定し狭めてしま
う恐れがある。そうかといってあまりにも抽象的すぎても、各小説の内容を示唆すること
がないのでイメージが乏しくなる。

さてこの問題を作者はどう解くだろうか、眠れない夜を送りつけたような気がするし、余
りのあら探しに私も眠れそうもない。


いろいろの尺度???? 2009/11/29

 長岡さん、決してジャブやパンチの応酬が、実りのないことだとは決して思いません。
白けているのではなくむしろ大いに歓迎するところであります。

 さて、皆さんの合評を読んで感じたことは、論点のかみ合っていないものが多いなあと
感じました。長岡曉生さんがいみじくも書かれた「一定のデータを対象に、一定の論理の
下に解析して、一定の結果を得ることを目標とする」には私も同感しますが、残念ながら
そのような土俵が作られていないように思います。
 たとえば小説の手法や構成上のバランスや完成度を論じているときに、書き込まれた内
容の芸術性をを問題にするなどなど、かみ合わないのです。表題に含まれる「挽歌」に対
する説明や、「安曇野」のなかで取り上げられる「農業問題」などの政治性をどう位置づ
けするかについては明確な回答はない。それを重要な問題とみなすか、本意には影響がな
い小さなことだと考えるかの違いのようです。
 これはお互いに自分の中に持っている尺度、物差しの単位の違いによると思われます。
人の考えを計るのに尺貫法の物差しを使う人が、インチやヤードの物差しを持っている人
を納得させることは難しいことです。だから同じ物差しを用意しておいて、お互いに論ず
るとことが理想的ですが、それがまた本当に難しいことであると感じます。
 私はしかし物差しの違う論争が全くつまらないと言うわけではありません。それぞれの
尺度で測った行き違いの問題点が、沢山出てくることはいいことであります。また、論者
が今どのような物差しを使っているかが判るだけでも面白いと思う訳です。だから各読者
には全く間違ったと思われる、筋違いのはちゃめちゃなものも大いに歓迎するという訳で
す。その中から異質で私の想像もつかないような価値が生まれるかもしれないのですから。




テーマ「カオス」による 会話詩をよんで ????2009/12/14

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感じた。



たんぽぽ(1)・・・敏夫の場合??2009/12/18

◆周りは倉庫や町工場やスナックなどの混在したところらしい。数十年前はこんな広場も
あったんですね。もう子供が入り込んで勝手に遊び場にできる広場もなくなったようです。
そしてその言葉さえあまり聞かなくなった。そうだ空き地とも言っていたなぁー。
 持ち主もわからない雑草や砂地の場所で、土管などの建材が積んであって、よくの漫画
に出てくるドラえもん、のび太(福田)やジャイアン(小沢)やスネ夫(麻生)などがいじめた
り、いじめられたりしていた場所。

◆街路樹の葉はすでに散っているところから判断して、ブラウニングの詩風にいえば「時
は冬、日は昼、昼は12時半、曇り空の昼食後」というところでしょうか。

◆登場人物11人のうち男性3人、女性7人、背の高い人物はどちらかわからない。どん
な職場だったのだろう、この写真の登場人物からは残念ながら名探偵でも想像できない。
キャッチャーはなんだか気が入っていないし、後ろの背広の男性は筒井さんにつられてバ
ットスイングのまねをしている。皆の視線がバットに向いているから空振りかと見えるけ
れど、キャッチャーのミットには納まっていないという、球の存在が見あたらない不思議
な場面である。背広の男性の右手に二つの球が見えるのがそれだろうか。

などと枕が長いのは本題の精彩に欠けると自覚しているようなもの、どうも真打ちにはと
うていなれそうもない。
私は細部まで検証することが苦手です。建物を設計するにも人それぞれの癖があります。
一つは細部から詳細に検討して要素を積み上げていくタイプ。もう一つは大まかな全体の
機能や配置や動線を考えることから始めるタイプ。私はいつも後の方で、細部の納まりや
びっくりするような匠の技は持ち合わせていない。
そこで大掴みの二点だけ感想を述べたい。

◆一つは、カーチャンがぼくを嫌いな訳は「ぼく」だからなのか。それとも男の子だから
だけなのか。嫌う訳は単に可愛くないとか、カーチャンの言うことを聞かないというよう
な単純なものでなく、もっと深い理由が隠されているような気がしてならない。たとえば、
「ぼく」はカーチャンの前の男の子供で、連れ子たから今のトーチャンに気兼ねして邪険
にした。妹は今のトーチャンの本当の子であるから可愛がる、などが考えられる。それと
もカーチャンは父親に子供の頃虐待されたから男が嫌いになった。しかしそれではトーチ
ャンと仲良くなったということについて理屈が合わなくなる。結局、終わりまでカーチャ
ンのぼくを嫌う心情の解析はしていないから、最後までなぜなのか読者にはわからない。
何かのトラウマとすれば、迷い苦しむカーチャンのそのへんの心情を私は知りたいと思っ
た。

◆二つ目はこの物語は「ぼく」の淡々とした語りで始終しているから、最初はあまり衝撃
を与えなかったが、よく考えるとまさに犯罪に近い物語である。
この敢えて淡々とした「ぼく」の語り口は作者が意図したものだろうか。
「その後ぼくがどうなったかは,とてもぼくの口からは話せない。トーチャンやカーチャ
ンに聞いてよ。 ぼくもトーチャンやカーチャンがどういうか聞きたいよ・・・」で終わ
っている。悲惨な最期を暗示しているが、Tさんのコメントではその2も主人公は敏夫だ
とある。私にはそれがどんな物語になるか謎である。余計なことかも知りませんが、もし
この物語が読み切りで、その2が新しい情況の物語だったら、主人公の名前は変えた方が
いいような気がします。




四国八十八ヶ所遍路みち・旅日記  2009/12/28

両親は生きている時に四国や篠栗霊場巡りをしていた。その篠栗霊場とは、本場の四国霊
場八十八ヶ所とは別に「篠栗四国」「小豆島四国」「知多四国」という「日本三大四国」
の一つで、福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八ヶ所の札所があると、インターネ
ットで調べたらあった。しかし両親がどのような心境であちこち苦労して巡っていたかは
聞いたことがない。私みたいな理屈をこねないから、ごく自然に天命を感謝して巡ったと
想像されるのである。一方私は未だにそんな心境に至らず、今のところ一年発起してその
天命に感謝したり、或いは何かの業(カルマ)を払い清めるために、または作者のように
単にスポーツと割り切って巡礼する気持ちは全くない。たとえ強い信念で思い立ってもそ
の苦労に耐えられないだろうし、すぐに色々の疑問にさいなまれて挫折するに違いない。

再三私は作者に、冒険にたいする意味合いを知りたいというおねだりをしているのだが、
未だにその無理難題に着手してはくれないようだ。ジョージ・マロリーは「なぜ、あなた
はエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」
と答えたという逸話がある。だがそれだけでは無いはず、志向するには理由があるはずと
ある哲学者は言っていた。
すべて解決できないことは神に委ね安心立命を得るか、それともちっぽけな脳みそをかき
回してでも自分で回答をみいだす苦労を背負うかは個人の自由である。私は後者であるか
らこのような偏屈な合評とも言えない感想を書いて、顰蹙を買うことになると覚悟してい
る。Mさんごめんね―。




雄猫勇吉の冒険 (2)??2009/12/31

年が明けてからこの作品の感想を書こうかと思っていたが、次の三つの理由で今日この年
の終わりに書くことにした。
? 大晦の紙面の寂しさを吹き払うために万理久利さんの努力に頼るだけでは申し訳ない
?? から。
? 年始となれば自ずと新年の挨拶やら、抱負で自然と賑わうだろうから。
? イマジン氏のエッセイにいたく感動したから。

さて、今回の作品「雄猫勇吉の冒険 (2)」は実にすばらしいできである。以前のような、
本人はまじめにそう思っているのだが、どうも屁理屈に思える考えを書かれて、それはそ
れなりに面白い見方ではありましたが、今回は堂々と真っ正面から勇吉の立場を詳細に観
察し、己の少年のころの環境と重ね合わせて検証しているところが、じつに深い洞察と無
駄のない表現を伴っていて、名文と私は思った。

最後にあえて一つ注文を付けるとすれば、「勇吉の恋」は次号に回した方がよかった。な
ぜならば、いじめや権力闘争などの社会的な問題について深く論じてきたわけだから、そ
こにまた別のエピソードが加えられると、せっかく見事な問題意識が持続されなくてもっ
たいない。あれもこれもという奉仕精神は得てして最後に何の印象も残さないから不利で
ある。激しく反論していても、最後に謝ったり慰撫したりするいつものO−chanの喧
嘩を見ているごとく、読み手としては結論はなんだったのかと不満が残る。喧嘩するなら
するで、最後まで論調を変えて貰っては困るのである。とまあ、フランスで遊びほうけて
いるO−chanまでまな板に載せてごめんなさい。しかし最後の節で私も同じ過ちを犯
したようだ。
イマジンさんの今回の「雄猫勇吉の冒険 (2)」は名作であった。




5年生存率??2010/1/24

◆専門用語
 私はこの表題の言葉を全く知らなかった。親族や知人のなかにこのような病気で多く亡
 くなっているにも拘わらずである。世の中にはそのような専門用語が沢山あり、その職
 業の間では当然のような言葉でも一般の人には符丁のようなもので、何を意味するのか
 まったく思いもつかない言葉なのである。
 しかしよく考えてみると、このての用語は後期高齢者などの呼称と同じく、なんとも人
 情味の感じられないものが多い。管理する側が便利上ラベルを張って置くようなもので、
 我々はそれを全面的に信じすぎてもいけないのではないか。
 後期高齢者といわれても、肉体的にも精神的にも個人差はあり、また5年生存率といっ
 てもあくまでも数字上の確率の問題で、個人に当てはめて判断することにおいては決定
 的なものはない。例外は常にあり全てがそうだと思わされる必要はない、自分は例外な
 のだ思っていたほうがいいと思った。だからこんな言葉が一般化されて、みんなが恐怖
 におののいたり、落胆したりするのであるなら、専門家の間だけのものとして置いて欲
 しいような気がする。
◆エッセイ「5年生存率」を読んで
 作者が病を得てからいろいろの悩みや不安などの苦悩を通して人生観が変わったと述べ
 られている。友人の死や自分の生命の限りを認識するなかで、失うものも多いがむしろ
 得ることの方が多いようだと、己の人生を肯定的に受け入れる精神的な強さと人にたい
 する優しさが作者のすばらしい人格を表している。
 人は悪い状態になってももっと悪い状態のことを考えて、まだ自分はいいほうだと考え
 て踏みとどまる強さがある。私が目の手術をしたとき、二人部屋の隣のベッドの人とよ
 く話をした。最初はその屈託のない人柄に、その人が非常にシリアスな状態であるとは
 思えなかった。しかしそのうち彼は「私は全盲なのです。光はかすかに感じるので視野
 は明るいが、物の形態は判りません」と告白された。では何故再び手術を受けられたの
 かという私の問いにたいして、「このまま放置すれば光も感知できなくなり、暗闇の世
 界になってしまいます。だから光を感知できる機能が残ってよかったと喜んでいます。」
 という言葉があった。
 私は幸い白濁の灰色の世界から鮮やかな色彩の世界へ、そして視力も確実に戻ることが
 出来たが、遂にその辺のことを隣の人に詳しく報告することを躊躇して、ただ以前より
 少しましになりました、といって同じ日に退院して別れた。私はそのとき自分よりもっ
 と難しい情況を耐えている人がいるのだという事がわかり、このエッセイの作者の心境
 も理解出来るような気がした。




肥と筑 第十一回??長岡曉生著  2010/1/25
http://2style.in/alpha/21-16.html

いつもは知らないことばかりで、すでにその巨大な知識への感嘆の言葉ばかり書き尽くし
ていたから、前回までなにを評し質問したらいいのか戸惑っていたが、この度は動物の話
題で私でも取り付きやすかったので助かった。
◆白き牝鹿
 高校時代に副担任だった花山院親忠先生が、春日大社の宮司になられて一冊の本を書か
 れた。市ヶ谷で行われた出版記念の会に出席して求めた本が「春日の神は鹿にのって」
 である。その本の中に今の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の神が鹿に乗って春日大社にや
 って来たという内容だったと思う。
 今回の作品を読み始めて、インターネットで調べてみたら『常陸国風土記』では、神代
 の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いな
 がら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源であると
 書いてあり、しかも現在では鹿島港を中心とした鉄鋼企業を主とした鹿島臨海工業地帯
 を形成していることは、古代のタタラ製鉄をよくした種族と関係がありそうだと思われ
 た。しかしこの作品を読み進むと、驪戎のトーテムが鹿だったことをまさにしっかりと
 書いてあったのには参った。
◆馬
 作品のなかに「元寇の時に、騎馬隊で成るモンゴル軍を運んだのは、操船に慣れた旧南
 宋の漢族と半島の朝鮮族が操る船だったんだ。」と書いてあるのを見たとき、どうして
 蒙古軍が日本を攻めきれなかったかが判ったような気がした。ちょうど朝鮮では高麗王
 国のなかに蒙古の支配に対する反対勢力が生じていた。その勢力が朝鮮の南部及び済州
 島にあって、元と高麗の軍の補給を邪魔をしていた。このことが獰猛な蒙古軍による日
 本攻撃を鈍らせたということである。勿論神風という天然現象の幸運もあったろうが、
 占領するに足るだけの騎馬を用意できなかったことが敗因になったのではないだろうか。
◆熊
 幼時期は足柄山で山姥に育てられ熊と相撲を取ったといい、長じては坂田金時と名乗り、
 源頼光の四天王の一人になったという、まさにその金太郎の生誕地、小さな滝で産湯を
 使い、自然石の上で遊び、熊と相撲をとったという山深い足柄の山の中に、記念館を建
 てるという競技設計に参加したことがある。足繁く現地を訪れる内にその記念館のサブ
 のコンセプトを頭に描いたのを思い出した。それは今では希になっているキビ、ヒエ、
 アワ、ソバを栽培し、古来からの食習慣やその味覚を伝承するというものであった。し
 かし残念ながら第一席になることはなく採用はされなかった。
 ちなみに参考としてWikkipediaの記述によると「日本ではアワ・ヒエ等の主要穀類以外
 の穀類は雑穀類として一括して分類されることが示すように,食品・作物として極めて
 低く位置づけられてきた.しかし,雑穀類の中でアワ・ヒエ・キビ等は日本で古くから
 主食として利用されてきた歴史があり,これら作物が利用されなくなったのは高々ここ
 数十年のことである。」とある。
◆混沌
 荘子のいう混沌については作者がいろいろと考察されているのに首肯するが、私として
 の理屈は簡単なもので目、鼻、耳、口の七孔、すなわち五感を与えられたとき、規律が
 生じもはや混沌ではなくなった、すなわち混沌が死んだと解釈した。ギリシア神話に登
 場する原初神カオスは原初神としては、むしろ空隙(空いた場所)が原義である。だか
 ら中国神話や荘子、道教の有の世界の混沌とギリシア神話の空爆という無の世界のカオ
 スとは少々違うような感じがしたが、長岡さん如何ですか?



「万理久利さんの「肥と筑」十一回の評を読んで」2010/1/23

たとえ書かれているものに対しての知識がなくても、これほど理路整然と批評出来る人は
なかなかいないのではと私は感心した。惚けている万理久利さんしか目に入らない人は、
彼女の真の姿を知らないで慌てて危険きわまりないおじゃま虫だというレッテルを張って
安心しているに過ぎない。もっと危険なものが彼女の冷徹なほどの目であることを無意識
に感じながら、異質なものという言葉で納得しているに過ぎない。この投稿で本当の万理
久利さんの真価が分かっただろう。それともそれもまだ判らない鈍感さを露呈する人もい
るにちがいない。
中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。 ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。そこには相
手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほど
はっきりと言い放つのである。日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に相手
の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の各人
の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんでも開
放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。




原点  2010/2/2

この作品は「養女に貰われて始めて歩いて来たあの道に、喜びも悲しみも無い虚ろな目を
して、しっかりと両手を下げ、爪が食い入る程拳を握りしめ、一人立っている自分を見た」
の言葉に全ての鍵が隠されていると思った。
京子がもし本当の両親のもとで育ったとすれば、天真爛漫に甘えそして自我思い切り表現
したかもしれない。しかし現実に養女として貰われた京子は、もはや五歳の子供でなく五
歳の大人となろうとしたのではないか。それが自分の置かれた環境の安定した場所の条件
と子供心に思った。しかしその子供の厳しい覚悟を耐えるために白昼夢という反対の世界
を創らざるを得なかったのではないか。
だが、京子は小さい頃に誓った、自我を殺すという誓いに無意識に反発を感じるようにな
った。「優しい」「人が良い」「思いやりがある」などと言った心地よい言葉も、自分の
本当の気持ちではない「嘘」や「おもねり」を含んでいるように見え、その欺瞞性で成り
立っている世間に気づいたのではないか。そのように私はこの作品を読んだ。
この作品を読む前に、亮子さんの生い立ちに関する田村さんの投稿があった。私は以前も
書いたが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。し
かし私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想など
は知らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは手
品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不思
議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内を
明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑賞
を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。




恋情の海 1  2010/2/4

古い規範がまだ頭の隅にしっかり隠れているのか判らないが、この手の話は元来私は苦手
であるから、出来れば見て見ぬふりしてそっと通り過ぎたいと思うのだが、いくつかの疑
問点が見つかったので書いてみた。
先ず人に対する恋情なるものが、例えばプラトニックな愛とか、単なる欲情だとかのいろ
いろな形態を列記してあるが、自分なりの一定の見解もなくただ思いつくまま書いてある
に過ぎないように思える。
主人公は娘にたいしてある時から恋情を抱くのだが、作者はそれが既成の事実とし済まし
ているようであるが、なぜどの部分にどのような人格にといった詳しい記述が私は描いて
欲しい、またそれがこの小説の重要なテーマとして一番面白い部分と思うのだが。それと
も主人公がいろいろの形の愛があることを認識するという意図の小説なのか。それとも主
人公が古い規範のなかで、自分の情念の不道徳さに悩み、異常な愛の少数派の苦悩や苦痛
に共感し理解出来るようになったことが主なテーマだろうか。とにかくいろいろのもりだ
くさんの恋情が描いてあって、主人公はその混沌の世界で溺れそうに見える。
とまあ、憎まれ口を沢山叩きましたが、このようなジャンルのものを書けない私の「曳か
れ者の小唄」「減らず口」「田作の歯ぎしり」と思ってください。あしからず・・・。



恋情の海 2  2010/2/5

これが小説としてみたとき、研究書や報告書やエッセイならともかく、近親相姦や同性愛
や片思いやプラトニック・ラブや変態などの様々な愛のあり方において一般論を語られて
もあまりおもしろいとは思いませんでした。
私は小説においては人物がいかに表現されているかが見所だと思いますから、登場人物の
内面の歴史や育った環境やそれによって作り上げられた感覚や考え方を知りたいと思いま
した。ましてや読者とちょっと違う、異常な環境の場合はなおさらであります。それは読
者が必ずしも同意するということではなくても、そういうこともあるだろうと納得するよ
うに詳細に描写してもらいたいということを言いたかったのです。だから主人公が自分の
娘のどこに惹かれ、どうして彼女でなくてはいけなかったか、どうして妻や他の人ではい
けなかったかを延々と追求してもらいたいと思ったのです。
そういうわけで、私のこの小説のテーマはその辺ではないかと私は思ったものだが、人様
々であることを考えれば全くの独善に過ぎなかったようですね。



恋情の海 3  2010/2/7

私の解釈と違い、作者は悩める初老の男の周章狼狽のみをテーマにしたかったことは解説
で判った。それもまた作者の自由であるから、これ以上そのことにたいして言うことはな
い。しかし「人を愛するという事はどういう事なんだろう。相手に惹かれると心を通い合
わせたいだけでなく、体も結ばれたいと思う。それが自然な成り行きなら、抱き合わない
と愛は成就しないんだろう」といっているが、子供に対する愛や動物に対する愛、人類に
対する愛などのいろいろの形の愛がある中で、男女の愛だけに絞られていて、愛欲と結び
つけられている。だから最初「愛」という書き出しからして、私はそんなに愛を十把一絡
げに語っていいものかという疑問をもった。
だから娘に対する愛が突然愛欲に変化したのか、それとも子供に対する愛情と愛欲が同時
に混在しているのか、その辺の分析もなく描かれているところは、いかにも安易過ぎない
のではないか。ただ悩んでいる姿だけを記述して済ましていて良いのか。私はそのへんの
問題に対してもう少し深く主人公の内省として分析を試み記述して欲しかった。
それゆえ「まさに今回のタイトルである「カオス」(混沌)状態の男の観念の世界を描い
ただけ」であって、主人公は「自分の気持ちを書き出し、分析し、記録したいと」告白し
ているその書き出しの宣言を、十分満たしたものではないと私は考える。




BUTTERFLY  EFFECT  2010/2/13

私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では結果;
効果; 影響 感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後まで読
んでも表題とは結びつかなかった。
そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開された
アメリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小さ
な波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないような
大きな波になるということを言うらしい。

しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。
私はここに描かれた池の情景を表現するようなイメージの絵を求めていろいろ探し回った。
Rさんはアンリ・ルソーの絵のようだと言われるが、たしかに「夢」や「熱帯風景、オレ
ンジの森の猿たち」などの森の絵はいろいろの動物や植物が生息するに違いないと思わせ
る不思議な絵である。
片や私は、作者や絵の題名も失念したが、植物や昆虫達を鮮やかな色と繊細なタッチで描
写した、日本画の「草木花虫の細密画」のようだと思った。それはまるで池の周りの多様
多種な生物の営みを一瞬時を止めてたような絵、それとも目には見えない動き・ストップ
モーションのような不思議な静かさに見えた。しかしその絵はついに見つけることは出来
なかった。私が抱いたイメージだから、はたして私が言うようにこの作品に即したものか
どうかは実は確信できないでいる。

都会に住んでいた私がある時一時田舎で暮らしたことがある。人間で溢れた都会で生きて
いる動物、植物の数も種類もなんと貧弱なことか。それに反し田舎の自然では様々な植物、
動物、昆虫の生命が、数そして活力において人間を遥かに凌いでいるのを目の当たりに見
てきた。そこでは蟻や蜂、ぶよ、はえ、むかで、ゴキブリ、蜘蛛、蛇などが主役で、いかに
人間どもは主人面をしていても脇役なのだ。都会の人間はそのことを忘れて生きている。
この作品の語り手は不思議な視点でこの池の様子を見ていると思った。人間側でもなく昆
虫や小動物の側でもない。もっと中立的な、敢えて言えば善悪を超越した人・神の目で事
象を見ているように私には思えた。このことは作者の作品に共通して言えることで、私の
ように自分の世俗的な出来事を並べ立てて、自分で答えを出すというあまりにも人間的な
卑近な作風とは違い、もっと深い真理につながる何かを表現することが出来る、誠に羨ま
しい才能を持ち合わせていると感じた。だから表現された作品が透明感や清涼感それとこ
の世界の全ての事象の奥に潜む不思議さを読者に与えるのではないだろうか。

さて私の評の終りとして最初に抱いた疑問であるBUTTERFLY  EFFECT」の「蝶」が何であ
ったかを究明しなければならない。
銀やんまや蛙や昆虫・蝉・蛇等の目には見えないものが、その池の周りに微かな変化を起
こしていった。そのあるものの正体はなんであったか。
あるとき私は、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質「暗黒物質」(dark matter)につ
いて書いてある記事をみた。宇宙の九割はこの「暗黒物質」で満たされているという。あ
る解説書には「宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないが、光を反射しないために
光学的には観測できないとされる仮説的物質のこと」とある。その物質の候補としてニュ
ートリノ、 ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマターなどがあるというが、 ニュー
トリノ以外はまだ存在を確認されていない。
宇宙の質量の総量が計算上成り立つには目に見えないこれらの「暗黒物質」が理論上存在
しなければなりたたないという訳だ。実際それらは強力な重力を持ち、「重力レンズ効果」
という現象で星間に影響を与えているという。

この世の中は目に見えるもの以上に、目に見えないものの方が多い。ある場所での蝶の羽
ばたきが、そこから離れた場所の未来の天候に影響を及ぼすということが、複雑なカオス
の中で何かに触発されてそれは起こり、そしてそれは予測不可能なのだ。そしてこの世を
実は支配していると思われる「蝶」とは無秩序の世界・カオスを含む森羅万象に君臨する
宇宙の法則がその正体だ。
あなたの頬に微かな風を感じたら目に見えない「蝶」が側に潜んでいるのかも知れない。
そしてたとえ自分の意思だと思っていても、実は遥かに遠く隔てた135億光年の星の瞬き
が、あなたの志向に影響を与えているかも知れない。

私は作者の作品の意図の回答を言い当てることを諦め、自分に納得する解答をのみ求めた。
だから全くこの作品の合評問題の答案としては不合格であろう。しかし作者の文学が与え
てくれる「この世界の営みは人知を越えた不思議さで満たされている」という、善悪を超
越したものの見方を教わったように思える。



35資料管理請負人:2014/05/01(木) 16:42:28
激甘辛 作品評6
.
              激甘辛 作品評6
                  21号2009-2010


   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



昔、革命的であった男の挽歌(その7、安曇野便り)????2009/11/24

作者は以前「茜色」に特別な思いがあると告白した。茜色に染まった神秘的な山際の夕日
に魅せられたのか、それともそんな名前の女(ひと)に叶わぬ恋心を抱いた過去があった
のか、私はそれ以上詳しくは問わなかった。作者はそんな思いもあって今、「茜」という
女性を登場させたのだろうか、私には知る由もない。

私も日本の伝統色の色彩とその呼び名に魅されるのである。 「淺緑(あさきみどり)」
「臙脂色(えんじいろ)」「褐色(かちいろ)」「群青色(ぐんじょういろ)」「深紫
(こきむらさき)」「朱鷺色(ときいろ)」「中紅なかくれない」「木賊色(とくさいろ)
「鈍色(にびいろ)」「利休鼠(りきゅうねずみ)」などなど。

また「杣道(そまみち)」とか「小体(こてい)な家」「出来(しったい)」などといった
懐かしい日本語もはや廃れようとしている。時々辞書を引きながら、響きのいい言葉や姿
の美しい文字に出会ったとき、その言葉をつかって文を作りたくなるときがある。そのよ
うに作者は「茜」という文字に魅了されて、いつかその思いを遂げたくなったのだろう。

さて、本題の感想を述べよう。
1.これは私の好みの問題であることだが、P1上部の文で「そんなとき隣人(といって
も300メートルは離れている家だが)の鶴見さん」とあるが、ト書きや( )書きはあ
まり文学的ではないと私は思う。たとえば「300メートルは離れている隣人の鶴見さん」
と書いても良いのではと思うのである。

2.前半の自然の描写や内証は実に素晴らしい。私好みの世界を見事に作っている。これ
は作者の別の資質が発見された喜ばしい作品だと私は思った。

3.しかし「同人安曇野」に投稿された農業再生、財政問題について、滔々と述べられる
後半には一つの疑問を私は感じた。それはこの「同人安曇野」の主旨が依然として明確で
ないのだ。これは文学的な作品を載せるものなのか、そして合評はどんな観点で評価され
るのかが不明である。それとも生活に根ざす様々な問題点を政治的に解決するための研究
や提言を扱う同人誌なのかである。その辺が明確になれば読者の読み方も違ってくるだろ
う。それともそれを含んだトータルナ文学作品として作者は描こうと努力しているのか。
またまた厳しい意見でごめんなさい。


昔、革命的であった男の挽歌という表題について???? 2009/11/25

今流行の血も涙もない必殺仕訳人の仕業ではないが、作者にとって予想もしていないよう
な問題を指摘され断罪されることは辛いことであろう。しかしこれも泣いて馬謖(ばしょ
く)を斬るのたとえで、これからの創作に生かして貰いたいと思う故である。

万理久利さんの表題の変遷の調査をみて、そういえば私も各号の編集時に作者の表題につ
いて違和感を微かに感じてはいたが、作者の意図を尊重するという逃げ口上ですまし、私
もこのことについて余り深く考えてはいなかった。このところ皆さんの評論を読んで、そ
の表題がこのシリーズの最初の頃の意図と少しずつずれてきていることを感じたのである。

先ず、挽歌とはなにか。挽歌とは「葬送のとき、柩(ひつぎ)を載せた車をひく人たちがう
たう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌。哀悼歌」とある。この意味とすれば沼南ボーイ
さんの言われるように、昔革命的であった男の挫折や屈辱や悲しみの賦でなければならな
い。しかしその後の作品をみれば、その男はやおら蘇生して棺のなかから出でて、安曇野
あたりで現世の不条理を説いている。まさに挽歌とは言えなくなっていることは確かであ
る。この意味でこの表題のままであるとすれば、読者に間違ったサインを送っていること
になりはしないだろうか。

そう言う意味では表題はなかなか難しい。作者がつける表題は物語の概要を示すようなも
のが多く、それが会社の定款のような具体的なものだと、小説の内容を限定し狭めてしま
う恐れがある。そうかといってあまりにも抽象的すぎても、各小説の内容を示唆すること
がないのでイメージが乏しくなる。

さてこの問題を作者はどう解くだろうか、眠れない夜を送りつけたような気がするし、余
りのあら探しに私も眠れそうもない。


いろいろの尺度???? 2009/11/29

 長岡さん、決してジャブやパンチの応酬が、実りのないことだとは決して思いません。
白けているのではなくむしろ大いに歓迎するところであります。

 さて、皆さんの合評を読んで感じたことは、論点のかみ合っていないものが多いなあと
感じました。長岡曉生さんがいみじくも書かれた「一定のデータを対象に、一定の論理の
下に解析して、一定の結果を得ることを目標とする」には私も同感しますが、残念ながら
そのような土俵が作られていないように思います。
 たとえば小説の手法や構成上のバランスや完成度を論じているときに、書き込まれた内
容の芸術性をを問題にするなどなど、かみ合わないのです。表題に含まれる「挽歌」に対
する説明や、「安曇野」のなかで取り上げられる「農業問題」などの政治性をどう位置づ
けするかについては明確な回答はない。それを重要な問題とみなすか、本意には影響がな
い小さなことだと考えるかの違いのようです。
 これはお互いに自分の中に持っている尺度、物差しの単位の違いによると思われます。
人の考えを計るのに尺貫法の物差しを使う人が、インチやヤードの物差しを持っている人
を納得させることは難しいことです。だから同じ物差しを用意しておいて、お互いに論ず
るとことが理想的ですが、それがまた本当に難しいことであると感じます。
 私はしかし物差しの違う論争が全くつまらないと言うわけではありません。それぞれの
尺度で測った行き違いの問題点が、沢山出てくることはいいことであります。また、論者
が今どのような物差しを使っているかが判るだけでも面白いと思う訳です。だから各読者
には全く間違ったと思われる、筋違いのはちゃめちゃなものも大いに歓迎するという訳で
す。その中から異質で私の想像もつかないような価値が生まれるかもしれないのですから。



テーマ「カオス」による 会話詩をよんで ????2009/12/14

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感じた。


たんぽぽ(1)・・・敏夫の場合??2009/12/18

◆周りは倉庫や町工場やスナックなどの混在したところらしい。数十年前はこんな広場も
あったんですね。もう子供が入り込んで勝手に遊び場にできる広場もなくなったようです。
そしてその言葉さえあまり聞かなくなった。そうだ空き地とも言っていたなぁー。
 持ち主もわからない雑草や砂地の場所で、土管などの建材が積んであって、よくの漫画
に出てくるドラえもん、のび太(福田)やジャイアン(小沢)やスネ夫(麻生)などがいじめた
り、いじめられたりしていた場所。

◆街路樹の葉はすでに散っているところから判断して、ブラウニングの詩風にいえば「時
は冬、日は昼、昼は12時半、曇り空の昼食後」というところでしょうか。

◆登場人物11人のうち男性3人、女性7人、背の高い人物はどちらかわからない。どん
な職場だったのだろう、この写真の登場人物からは残念ながら名探偵でも想像できない。
キャッチャーはなんだか気が入っていないし、後ろの背広の男性は筒井さんにつられてバ
ットスイングのまねをしている。皆の視線がバットに向いているから空振りかと見えるけ
れど、キャッチャーのミットには納まっていないという、球の存在が見あたらない不思議
な場面である。背広の男性の右手に二つの球が見えるのがそれだろうか。

などと枕が長いのは本題の精彩に欠けると自覚しているようなもの、どうも真打ちにはと
うていなれそうもない。
私は細部まで検証することが苦手です。建物を設計するにも人それぞれの癖があります。
一つは細部から詳細に検討して要素を積み上げていくタイプ。もう一つは大まかな全体の
機能や配置や動線を考えることから始めるタイプ。私はいつも後の方で、細部の納まりや
びっくりするような匠の技は持ち合わせていない。
そこで大掴みの二点だけ感想を述べたい。

◆一つは、カーチャンがぼくを嫌いな訳は「ぼく」だからなのか。それとも男の子だから
だけなのか。嫌う訳は単に可愛くないとか、カーチャンの言うことを聞かないというよう
な単純なものでなく、もっと深い理由が隠されているような気がしてならない。たとえば、
「ぼく」はカーチャンの前の男の子供で、連れ子たから今のトーチャンに気兼ねして邪険
にした。妹は今のトーチャンの本当の子であるから可愛がる、などが考えられる。それと
もカーチャンは父親に子供の頃虐待されたから男が嫌いになった。しかしそれではトーチ
ャンと仲良くなったということについて理屈が合わなくなる。結局、終わりまでカーチャ
ンのぼくを嫌う心情の解析はしていないから、最後までなぜなのか読者にはわからない。
何かのトラウマとすれば、迷い苦しむカーチャンのそのへんの心情を私は知りたいと思っ
た。

◆二つ目はこの物語は「ぼく」の淡々とした語りで始終しているから、最初はあまり衝撃
を与えなかったが、よく考えるとまさに犯罪に近い物語である。
この敢えて淡々とした「ぼく」の語り口は作者が意図したものだろうか。
「その後ぼくがどうなったかは,とてもぼくの口からは話せない。トーチャンやカーチャ
ンに聞いてよ。 ぼくもトーチャンやカーチャンがどういうか聞きたいよ・・・」で終わ
っている。悲惨な最期を暗示しているが、Tさんのコメントではその2も主人公は敏夫だ
とある。私にはそれがどんな物語になるか謎である。余計なことかも知りませんが、もし
この物語が読み切りで、その2が新しい情況の物語だったら、主人公の名前は変えた方が
いいような気がします。



四国八十八ヶ所遍路みち・旅日記  2009/12/28

両親は生きている時に四国や篠栗霊場巡りをしていた。その篠栗霊場とは、本場の四国霊
場八十八ヶ所とは別に「篠栗四国」「小豆島四国」「知多四国」という「日本三大四国」
の一つで、福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八ヶ所の札所があると、インターネ
ットで調べたらあった。しかし両親がどのような心境であちこち苦労して巡っていたかは
聞いたことがない。私みたいな理屈をこねないから、ごく自然に天命を感謝して巡ったと
想像されるのである。一方私は未だにそんな心境に至らず、今のところ一年発起してその
天命に感謝したり、或いは何かの業(カルマ)を払い清めるために、または作者のように
単にスポーツと割り切って巡礼する気持ちは全くない。たとえ強い信念で思い立ってもそ
の苦労に耐えられないだろうし、すぐに色々の疑問にさいなまれて挫折するに違いない。

再三私は作者に、冒険にたいする意味合いを知りたいというおねだりをしているのだが、
未だにその無理難題に着手してはくれないようだ。ジョージ・マロリーは「なぜ、あなた
はエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」
と答えたという逸話がある。だがそれだけでは無いはず、志向するには理由があるはずと
ある哲学者は言っていた。
すべて解決できないことは神に委ね安心立命を得るか、それともちっぽけな脳みそをかき
回してでも自分で回答をみいだす苦労を背負うかは個人の自由である。私は後者であるか
らこのような偏屈な合評とも言えない感想を書いて、顰蹙を買うことになると覚悟してい
る。Mさんごめんね―。


雄猫勇吉の冒険 (2)??2009/12/31

年が明けてからこの作品の感想を書こうかと思っていたが、次の三つの理由で今日この年
の終わりに書くことにした。
? 大晦の紙面の寂しさを吹き払うために万理久利さんの努力に頼るだけでは申し訳ない
?? から。
? 年始となれば自ずと新年の挨拶やら、抱負で自然と賑わうだろうから。
? イマジン氏のエッセイにいたく感動したから。

さて、今回の作品「雄猫勇吉の冒険 (2)」は実にすばらしいできである。以前のような、
本人はまじめにそう思っているのだが、どうも屁理屈に思える考えを書かれて、それはそ
れなりに面白い見方ではありましたが、今回は堂々と真っ正面から勇吉の立場を詳細に観
察し、己の少年のころの環境と重ね合わせて検証しているところが、じつに深い洞察と無
駄のない表現を伴っていて、名文と私は思った。

最後にあえて一つ注文を付けるとすれば、「勇吉の恋」は次号に回した方がよかった。な
ぜならば、いじめや権力闘争などの社会的な問題について深く論じてきたわけだから、そ
こにまた別のエピソードが加えられると、せっかく見事な問題意識が持続されなくてもっ
たいない。あれもこれもという奉仕精神は得てして最後に何の印象も残さないから不利で
ある。激しく反論していても、最後に謝ったり慰撫したりするいつものO−chanの喧
嘩を見ているごとく、読み手としては結論はなんだったのかと不満が残る。喧嘩するなら
するで、最後まで論調を変えて貰っては困るのである。とまあ、フランスで遊びほうけて
いるOさんまでまな板に載せてごめんなさい。しかし最後の節で私も同じ過ちを犯
したようだ。
イマジンさんの今回の「雄猫勇吉の冒険 (2)」は名作であった。


5年生存率??2010/1/24

◆専門用語
 私はこの表題の言葉を全く知らなかった。親族や知人のなかにこのような病気で多く亡
 くなっているにも拘わらずである。世の中にはそのような専門用語が沢山あり、その職
 業の間では当然のような言葉でも一般の人には符丁のようなもので、何を意味するのか
 まったく思いもつかない言葉なのである。
 しかしよく考えてみると、このての用語は後期高齢者などの呼称と同じく、なんとも人
 情味の感じられないものが多い。管理する側が便利上ラベルを張って置くようなもので、
 我々はそれを全面的に信じすぎてもいけないのではないか。
 後期高齢者といわれても、肉体的にも精神的にも個人差はあり、また5年生存率といっ
 てもあくまでも数字上の確率の問題で、個人に当てはめて判断することにおいては決定
 的なものはない。例外は常にあり全てがそうだと思わされる必要はない、自分は例外な
 のだ思っていたほうがいいと思った。だからこんな言葉が一般化されて、みんなが恐怖
 におののいたり、落胆したりするのであるなら、専門家の間だけのものとして置いて欲
 しいような気がする。
◆エッセイ「5年生存率」を読んで
 作者が病を得てからいろいろの悩みや不安などの苦悩を通して人生観が変わったと述べ
 られている。友人の死や自分の生命の限りを認識するなかで、失うものも多いがむしろ
 得ることの方が多いようだと、己の人生を肯定的に受け入れる精神的な強さと人にたい
 する優しさが作者のすばらしい人格を表している。
 人は悪い状態になってももっと悪い状態のことを考えて、まだ自分はいいほうだと考え
 て踏みとどまる強さがある。私が目の手術をしたとき、二人部屋の隣のベッドの人とよ
 く話をした。最初はその屈託のない人柄に、その人が非常にシリアスな状態であるとは
 思えなかった。しかしそのうち彼は「私は全盲なのです。光はかすかに感じるので視野
 は明るいが、物の形態は判りません」と告白された。では何故再び手術を受けられたの
 かという私の問いにたいして、「このまま放置すれば光も感知できなくなり、暗闇の世
 界になってしまいます。だから光を感知できる機能が残ってよかったと喜んでいます。」
 という言葉があった。
 私は幸い白濁の灰色の世界から鮮やかな色彩の世界へ、そして視力も確実に戻ることが
 出来たが、遂にその辺のことを隣の人に詳しく報告することを躊躇して、ただ以前より
 少しましになりました、といって同じ日に退院して別れた。私はそのとき自分よりもっ
 と難しい情況を耐えている人がいるのだという事がわかり、このエッセイの作者の心境
 も理解出来るような気がした。


肥と筑 第十一回??長岡曉生著  2010/1/25
http://2style.in/alpha/21-16.html

いつもは知らないことばかりで、すでにその巨大な知識への感嘆の言葉ばかり書き尽くし
ていたから、前回までなにを評し質問したらいいのか戸惑っていたが、この度は動物の話
題で私でも取り付きやすかったので助かった。
◆白き牝鹿
 高校時代に副担任だった花山院親忠先生が、春日大社の宮司になられて一冊の本を書か
 れた。市ヶ谷で行われた出版記念の会に出席して求めた本が「春日の神は鹿にのって」
 である。その本の中に今の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の神が鹿に乗って春日大社にや
 って来たという内容だったと思う。
 今回の作品を読み始めて、インターネットで調べてみたら『常陸国風土記』では、神代
 の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いな
 がら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源であると
 書いてあり、しかも現在では鹿島港を中心とした鉄鋼企業を主とした鹿島臨海工業地帯
 を形成していることは、古代のタタラ製鉄をよくした種族と関係がありそうだと思われ
 た。しかしこの作品を読み進むと、驪戎のトーテムが鹿だったことをまさにしっかりと
 書いてあったのには参った。
◆馬
 作品のなかに「元寇の時に、騎馬隊で成るモンゴル軍を運んだのは、操船に慣れた旧南
 宋の漢族と半島の朝鮮族が操る船だったんだ。」と書いてあるのを見たとき、どうして
 蒙古軍が日本を攻めきれなかったかが判ったような気がした。ちょうど朝鮮では高麗王
 国のなかに蒙古の支配に対する反対勢力が生じていた。その勢力が朝鮮の南部及び済州
 島にあって、元と高麗の軍の補給を邪魔をしていた。このことが獰猛な蒙古軍による日
 本攻撃を鈍らせたということである。勿論神風という天然現象の幸運もあったろうが、
 占領するに足るだけの騎馬を用意できなかったことが敗因になったのではないだろうか。
◆熊
 幼時期は足柄山で山姥に育てられ熊と相撲を取ったといい、長じては坂田金時と名乗り、
 源頼光の四天王の一人になったという、まさにその金太郎の生誕地、小さな滝で産湯を
 使い、自然石の上で遊び、熊と相撲をとったという山深い足柄の山の中に、記念館を建
 てるという競技設計に参加したことがある。足繁く現地を訪れる内にその記念館のサブ
 のコンセプトを頭に描いたのを思い出した。それは今では希になっているキビ、ヒエ、
 アワ、ソバを栽培し、古来からの食習慣やその味覚を伝承するというものであった。し
 かし残念ながら第一席になることはなく採用はされなかった。
 ちなみに参考としてWikkipediaの記述によると「日本ではアワ・ヒエ等の主要穀類以外
 の穀類は雑穀類として一括して分類されることが示すように,食品・作物として極めて
 低く位置づけられてきた.しかし,雑穀類の中でアワ・ヒエ・キビ等は日本で古くから
 主食として利用されてきた歴史があり,これら作物が利用されなくなったのは高々ここ
 数十年のことである。」とある。
◆混沌
 荘子のいう混沌については作者がいろいろと考察されているのに首肯するが、私として
 の理屈は簡単なもので目、鼻、耳、口の七孔、すなわち五感を与えられたとき、規律が
 生じもはや混沌ではなくなった、すなわち混沌が死んだと解釈した。ギリシア神話に登
 場する原初神カオスは原初神としては、むしろ空隙(空いた場所)が原義である。だか
 ら中国神話や荘子、道教の有の世界の混沌とギリシア神話の空爆という無の世界のカオ
 スとは少々違うような感じがしたが、長岡さん如何ですか?


「万理久利さんの「肥と筑」十一回の評を読んで」2010/1/23

たとえ書かれているものに対しての知識がなくても、これほど理路整然と批評出来る人は
なかなかいないのではと私は感心した。惚けている万理久利さんしか目に入らない人は、
彼女の真の姿を知らないで慌てて危険きわまりないおじゃま虫だというレッテルを張って
安心しているに過ぎない。もっと危険なものが彼女の冷徹なほどの目であることを無意識
に感じながら、異質なものという言葉で納得しているに過ぎない。この投稿で本当の万理
久利さんの真価が分かっただろう。それともそれもまだ判らない鈍感さを露呈する人もい
るにちがいない。
中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。 ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。そこには相
手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほど
はっきりと言い放つのである。日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に相手
の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の各人
の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんでも開
放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。


原点  2010/2/2

この作品は「養女に貰われて始めて歩いて来たあの道に、喜びも悲しみも無い虚ろな目を
して、しっかりと両手を下げ、爪が食い入る程拳を握りしめ、一人立っている自分を見た」
の言葉に全ての鍵が隠されていると思った。
京子がもし本当の両親のもとで育ったとすれば、天真爛漫に甘えそして自我思い切り表現
したかもしれない。しかし現実に養女として貰われた京子は、もはや五歳の子供でなく五
歳の大人となろうとしたのではないか。それが自分の置かれた環境の安定した場所の条件
と子供心に思った。しかしその子供の厳しい覚悟を耐えるために白昼夢という反対の世界
を創らざるを得なかったのではないか。
だが、京子は小さい頃に誓った、自我を殺すという誓いに無意識に反発を感じるようにな
った。「優しい」「人が良い」「思いやりがある」などと言った心地よい言葉も、自分の
本当の気持ちではない「嘘」や「おもねり」を含んでいるように見え、その欺瞞性で成り
立っている世間に気づいたのではないか。そのように私はこの作品を読んだ。
この作品を読む前に、亮子さんの生い立ちに関する田村さんの投稿があった。私は以前も
書いたが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。し
かし私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想など
は知らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは手
品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不思
議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内を
明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑賞
を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。


恋情の海 1  2010/2/4

古い規範がまだ頭の隅にしっかり隠れているのか判らないが、この手の話は元来私は苦手
であるから、出来れば見て見ぬふりしてそっと通り過ぎたいと思うのだが、いくつかの疑
問点が見つかったので書いてみた。
先ず人に対する恋情なるものが、例えばプラトニックな愛とか、単なる欲情だとかのいろ
いろな形態を列記してあるが、自分なりの一定の見解もなくただ思いつくまま書いてある
に過ぎないように思える。
主人公は娘にたいしてある時から恋情を抱くのだが、作者はそれが既成の事実とし済まし
ているようであるが、なぜどの部分にどのような人格にといった詳しい記述が私は描いて
欲しい、またそれがこの小説の重要なテーマとして一番面白い部分と思うのだが。それと
も主人公がいろいろの形の愛があることを認識するという意図の小説なのか。それとも主
人公が古い規範のなかで、自分の情念の不道徳さに悩み、異常な愛の少数派の苦悩や苦痛
に共感し理解出来るようになったことが主なテーマだろうか。とにかくいろいろのもりだ
くさんの恋情が描いてあって、主人公はその混沌の世界で溺れそうに見える。
とまあ、憎まれ口を沢山叩きましたが、このようなジャンルのものを書けない私の「曳か
れ者の小唄」「減らず口」「田作の歯ぎしり」と思ってください。あしからず・・・。


恋情の海 2  2010/2/5

これが小説としてみたとき、研究書や報告書やエッセイならともかく、近親相姦や同性愛
や片思いやプラトニック・ラブや変態などの様々な愛のあり方において一般論を語られて
もあまりおもしろいとは思いませんでした。
私は小説においては人物がいかに表現されているかが見所だと思いますから、登場人物の
内面の歴史や育った環境やそれによって作り上げられた感覚や考え方を知りたいと思いま
した。ましてや読者とちょっと違う、異常な環境の場合はなおさらであります。それは読
者が必ずしも同意するということではなくても、そういうこともあるだろうと納得するよ
うに詳細に描写してもらいたいということを言いたかったのです。だから主人公が自分の
娘のどこに惹かれ、どうして彼女でなくてはいけなかったか、どうして妻や他の人ではい
けなかったかを延々と追求してもらいたいと思ったのです。
そういうわけで、私のこの小説のテーマはその辺ではないかと私は思ったものだが、人様
々であることを考えれば全くの独善に過ぎなかったようですね。


恋情の海 3  2010/2/7

私の解釈と違い、作者は悩める初老の男の周章狼狽のみをテーマにしたかったことは解説
で判った。それもまた作者の自由であるから、これ以上そのことにたいして言うことはな
い。しかし「人を愛するという事はどういう事なんだろう。相手に惹かれると心を通い合
わせたいだけでなく、体も結ばれたいと思う。それが自然な成り行きなら、抱き合わない
と愛は成就しないんだろう」といっているが、子供に対する愛や動物に対する愛、人類に
対する愛などのいろいろの形の愛がある中で、男女の愛だけに絞られていて、愛欲と結び
つけられている。だから最初「愛」という書き出しからして、私はそんなに愛を十把一絡
げに語っていいものかという疑問をもった。
だから娘に対する愛が突然愛欲に変化したのか、それとも子供に対する愛情と愛欲が同時
に混在しているのか、その辺の分析もなく描かれているところは、いかにも安易過ぎない
のではないか。ただ悩んでいる姿だけを記述して済ましていて良いのか。私はそのへんの
問題に対してもう少し深く主人公の内省として分析を試み記述して欲しかった。
それゆえ「まさに今回のタイトルである「カオス」(混沌)状態の男の観念の世界を描い
ただけ」であって、主人公は「自分の気持ちを書き出し、分析し、記録したいと」告白し
ているその書き出しの宣言を、十分満たしたものではないと私は考える。



BUTTERFLY  EFFECT  2010/2/13

私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では結果;
効果; 影響 感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後まで読
んでも表題とは結びつかなかった。
そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開された
アメリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小さ
な波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないような
大きな波になるということを言うらしい。

しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。
私はここに描かれた池の情景を表現するようなイメージの絵を求めていろいろ探し回った。
Rさんはアンリ・ルソーの絵のようだと言われるが、たしかに「夢」や「熱帯風景、オレ
ンジの森の猿たち」などの森の絵はいろいろの動物や植物が生息するに違いないと思わせ
る不思議な絵である。
片や私は、作者や絵の題名も失念したが、植物や昆虫達を鮮やかな色と繊細なタッチで描
写した、日本画の「草木花虫の細密画」のようだと思った。それはまるで池の周りの多様
多種な生物の営みを一瞬時を止めてたような絵、それとも目には見えない動き・ストップ
モーションのような不思議な静かさに見えた。しかしその絵はついに見つけることは出来
なかった。私が抱いたイメージだから、はたして私が言うようにこの作品に即したものか
どうかは実は確信できないでいる。

都会に住んでいた私がある時一時田舎で暮らしたことがある。人間で溢れた都会で生きて
いる動物、植物の数も種類もなんと貧弱なことか。それに反し田舎の自然では様々な植物、
動物、昆虫の生命が、数そして活力において人間を遥かに凌いでいるのを目の当たりに見
てきた。そこでは蟻や蜂、ぶよ、はえ、むかで、ゴキブリ、蜘蛛、蛇などが主役で、いかに
人間どもは主人面をしていても脇役なのだ。都会の人間はそのことを忘れて生きている。
この作品の語り手は不思議な視点でこの池の様子を見ていると思った。人間側でもなく昆
虫や小動物の側でもない。もっと中立的な、敢えて言えば善悪を超越した人・神の目で事
象を見ているように私には思えた。このことは作者の作品に共通して言えることで、私の
ように自分の世俗的な出来事を並べ立てて、自分で答えを出すというあまりにも人間的な
卑近な作風とは違い、もっと深い真理につながる何かを表現することが出来る、誠に羨ま
しい才能を持ち合わせていると感じた。だから表現された作品が透明感や清涼感それとこ
の世界の全ての事象の奥に潜む不思議さを読者に与えるのではないだろうか。

さて私の評の終りとして最初に抱いた疑問であるBUTTERFLY  EFFECT」の「蝶」が何であ
ったかを究明しなければならない。
銀やんまや蛙や昆虫・蝉・蛇等の目には見えないものが、その池の周りに微かな変化を起
こしていった。そのあるものの正体はなんであったか。
あるとき私は、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質「暗黒物質」(dark matter)につ
いて書いてある記事をみた。宇宙の九割はこの「暗黒物質」で満たされているという。あ
る解説書には「宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないが、光を反射しないために
光学的には観測できないとされる仮説的物質のこと」とある。その物質の候補としてニュ
ートリノ、 ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマターなどがあるというが、 ニュー
トリノ以外はまだ存在を確認されていない。
宇宙の質量の総量が計算上成り立つには目に見えないこれらの「暗黒物質」が理論上存在
しなければなりたたないという訳だ。実際それらは強力な重力を持ち、「重力レンズ効果」
という現象で星間に影響を与えているという。

この世の中は目に見えるもの以上に、目に見えないものの方が多い。ある場所での蝶の羽
ばたきが、そこから離れた場所の未来の天候に影響を及ぼすということが、複雑なカオス
の中で何かに触発されてそれは起こり、そしてそれは予測不可能なのだ。そしてこの世を
実は支配していると思われる「蝶」とは無秩序の世界・カオスを含む森羅万象に君臨する
宇宙の法則がその正体だ。
あなたの頬に微かな風を感じたら目に見えない「蝶」が側に潜んでいるのかも知れない。
そしてたとえ自分の意思だと思っていても、実は遥かに遠く隔てた135億光年の星の瞬き
が、あなたの志向に影響を与えているかも知れない。

私は作者の作品の意図の回答を言い当てることを諦め、自分に納得する解答をのみ求めた。
だから全くこの作品の合評問題の答案としては不合格であろう。しかし作者の文学が与え
てくれる「この世界の営みは人知を越えた不思議さで満たされている」という、善悪を超
越したものの見方を教わったように思える。



『言葉集め星創り五拾番』密と罪の花   2010/2/23
http://2style.in/alpha/21-13.html

神野 佐嘉江氏の混沌の世界で遊ぶ者は、ネジが一本外れたか又は配置を換えした、おめで
たい脳みその持ち主、万理久利さんと私の二人だけなのか。作者の文のなかで目についた言
葉をはじめからトレースしたら、ほとんど万理さんと同じで、重複するからここでは書かな
い。先日言葉とはなにか 丸山圭三郎著を読んでいて次のようなものが目にとまった。机の
冬は、病み上がりの色できしみつづけ:失語症患者の文妙なる屍は、新たなる酒を飲むで
あろう:シュルレアリストの実験詩神野氏の提唱するオキシモーランの会員の一人として、私も不
可解な言葉の文章を作って見たくなった。そこで作ったのが次の十の文章である。意味は各
読者の連想に委ねるという無責任極まりないもので、混沌のプールの中で自由に泳いで、溺
れてくだされ。
汚れた空気 大好評自民党終演 一発合格適正検査 シネマの町 万能細胞主君の理不尽 悪玉論鮮やか
振り込め詐欺 独自の理念を求め  正直者将来夢膨らむ カラダに良品 悪銭が蔓延り要求  無料見積
蕪村門下の 仲南海ここは退屈な星 出馬へ大関名寄岩 小細工なしの真っ向勝負 サントリー名門が いいと思います 機械工業社会に 生徒が発表無謬論 発信しては投資した 武芸一筋破壊的 DL引き出し学芸賞 学力をはぐぐむ ゼロから始め 爆破予告電話入 自分のお墓を整えた 鍵握る男世界的 金融不安を迎え  解放する受賞



36資料管理請負人:2014/05/02(金) 08:42:40
α19号奮闘記
.
              α19号奮闘記




      どうやらこのあたりから目の具合が一層悪くなってきたらしい。
      印刷前の最終編集を迎えてさぞや目の具合が鬱陶しかっただろう。
      こんな時の仲間のフォローはありがたいものだ。(編集部)





「α第19号の表題決定」 2009/2/20

今日、筒井さんよりα第19号の表題が送られてきました。
「空」だそうです。たまたま今、仏教思想の「認識と超越」の本を購入しましたが、仏教
の教えになんだかタイミングが妙に一致したようなのが不思議に感じました。筒井さんが
この言葉を選ばれた経緯はブログに書いてありますので、どうぞ開いてみてください。





「北君から」より  2009/5/1

北君へ
 α第19号の原稿確かに受け取りました。ありがとう。
今日病院に行ってかすみ目をなんとかしてよといったら、やはり網膜症が進まないかもう
一度様子をみて、手術を考えましょうと医者は言いました。その結論は 6月末になると
思います。今日診察にいって視力検査の表を見たら結構見えるが不思議でした。左が0.7
右が0.3らしいのですから、世の中にはもっともっとめの不自由な人も沢山いるようで、
医者の対応をみていると私はまだ良い方なのかなと思いました。もう少し我慢してみるつ
もりです。
それから明日5月2日から山荘にこもり、帰ってくるのは7日になります。暇ができたら
電話してみてください。





大波止の連絡船についての調査依頼 2009/5/8

同人α第19号の為の資料を長崎市立図書館レファレンス係の矢口さんに電話して、下記
の件の資料調査を願う。
   長崎市立図書館 :095-829-4946

◆大波止から旭町の間にあった連絡船(渡し船)
  船の大きさ、乗客定員、航行距離、運行時間
  乗車賃、人、自転車、いつから始まっていつ廃止されたか





「小柳さんからのメール」 2009/5/13

 古賀さんも、目が疲れて居られるのでしょうね。
製本が月末になるのは、未提出の皆さんには好都合かも知れませんね。
 ところで私の方は、自分の原稿が終わった今、わりと暇な状態です。それで、行やペー
ジの整形に手間取っておられるようだったらご遠慮なくお申し付け下さい。字数や、行数
を決定してもらえれば、粗粗の整形は分担できますので。
 何せ、古賀さんが倒れられたら、アルファの作品集は、印刷でもブログでも立ち往生し
てしまいますから。なにとぞ、御身大事を専一にして下さい。


小柳さんへ
 お気遣い有り難うございます。小さい活字が老眼鏡をかけても全く見えません。度の強
いルーペを左手から離せなくなり、困ったものです。この前の診察で、次の眼底検査の結
果を見て、手術するかどうかを判断しましょうと 言ってくれました。
 編集にあたっての貴君の申し出ありがとうございます。なるべく作業を分担する方法を
見つけ出したいと思いますが、ワープロや写真処理やホームページ作成等のソフトがまち
まちで、なかなか美味く行かないのが現状です。
 今回は、O氏も私もいろいろの催しが重なっているため、20日前後の出版が出来ない
と判断しました。思い切って月末まで延ばしましたので、なんとかできそうです。20号
からは、目を新品に取り替えるという訳にはいきませんが、せめて9号の大きさの文字が
読める位まで再生出来たらと期待しています。
結論として今回の19号はなんとか努力してみたいと思います。





α第19号の編集・校正 2009/5/26

 先日小柳氏よりゲラ刷りの校正表を受けとった。今日K氏より校正ゲラ刷りを受け取っ
た。O氏のゲラ刷りは明日シネマ・デ・ジョイで受け取る予定。
それから総合的に全文の訂正をし、せめて29日(金曜)までは70部刷り上がってなければ
ならない。
 今回は目の悪い人のために(かく言う本人が一番悪い。倍率の高いルーペがないと何も
見えない、それと以前から三浦さんの希望もあったし)、字を大きくした。
 ◆ 字の大きさ:9号から11号へ
 ◆ 一行の文字数:40字から30字へ
 ◆ 行数は変わらず40行
 ◆ 普通の濃さの明朝をbold type(強調文字)にした。
1.そのため色々の問題が生じた。まずはEさんの英文で、一行の端部の英単語が別れてし
 まうこと。
2.小柳さんのサブタイトルの強調文字が他の文と同じになり、めだたな いこと。サブタ
 イトルの文字を大きくするか、またはゴシック体に 変更するか、あらためて小柳さん

 と協議する必要がある。






「Tさんと会食」 2009/5/28

 Tさんがα19号製本のために大阪から上京。午後7時に銀座三越前で会った。K君は
用事で欠席、O氏と私の三人で「スペイン料理びいどろ銀座店」へ行く。一日中雨が降っ
ている。時間があったので教文館で白水社の「エクスリブリス・シリーズ」の新しい本を
探す。目が悪いのでこれ以上読みかけの本を増やしたくなかったので購入するのを止めた。
外にでたら、いかにも田舎から出てきた芋兄ちゃんが、H&Mの店((Hennes & Mauritz
が展開するファッションブランド)の場所を聞いてきた。あの年頃はやはりその手の情報
に敏感だなと思った。数ヶ月前マスコミで話題にしていたので、どんな店か様子を見に行
ったことがある。開店当初は数百メートルも並んでいたが、センスも値段も品数もあまり
感心することもなかった。
 料理はパエリア、シャンピニオンの油いため、イカの墨煮、チキンのソテー、チーズと
オリーブの前菜、店で焼いたバケット、赤のハウスワインをグラス一杯ずつ、筒井さんは
全くの下戸であった。兎に角量も味も値段も三人とも十分満足した。一人3,100円也。





α第19号発行にあたって 2009/6/1

 予定より10日遅れの「同人α」第19号「空」を皆さんの協力で無事発行出来てよかっ
たと、ほっとしています。創刊号の頃からすると、作業にも慣れて、今回は不良品が一冊
も出ませんでした。・・・実は皆さんが来る前に一等最初に作った試作品は信じられない
ような間違いの代物でした。表紙と本文が逆さに、左綴じを右綴じに、いくら目が悪いと
言い訳してもイエローカードもので、こっそり処分したしだいです。

◆Eさん
 私のThe Color of the Morning Gloriesの誤訳「朝の荘厳な光の色」を「ものごとをも
 っと深く考える契機になりました」と言って頂いてありがとう。私は神野佐嘉江氏の書
 いた、何の文脈もまだ無い言葉だけの羅列を見て、今まで作り上げ た概念から抜け出
 して、改めてその言葉の響きや成り立ちを考えるとき、新しい自分なりの感覚を発見を
 します。だから通り一遍の概念に慣れすぎる自分を戒め、いつもへそ曲がりな思考をよ
 しとしています。九州・佐賀の私の郷里ではこのような人を「異風者 (いひゅうもん)」
 と呼んで変わり者・頑固者・協調性にない者といって煙たがります。
 打ち上げ会では、貴女の格調ある作品の元になる、人間や自然の観察の方法論について、
 私なりにいくらかの質問を用意していました。しかし北極と南極のように遠く離れた席
 でしたのでそれも叶わず、今度また会う機会にその話は楽しみとして取って置きましょ
 う。
◆Tさん
 わざわざ浪速から来ていただきありがとう。「変な人の集まりはいいなと思いました。
 平凡な私にはとても刺激的です」とおっしゃっていますが、変な人は大抵自分は平凡だ
 といいますから、Tさんもすでに仲間だと思いますよ。食い倒れ文化に鍛えられたTさ
 んと前の晩に食べたスペイン料理が気に入ってもらってよかった。東京も安くて 美味
 い店は探せば沢山ありますから、そちらの楽しみも上京の理由の一つに加えてくだ さ
 い。
◆Sさん
 次の20号の担当を引き受けていただいてありがとう。貴女の踊りや歌舞伎や芸術に関
 する知識は私の知らない世界のものですから、聞いていた楽しいものです。極度に抽象
 化・形式化された歌舞伎や日本画には私なりの異論がありますが、そのうち侃々諤々論
 じましょう。ともかく今度の表紙や題を大いに期待します。
◆Hさん
 久しぶりに「さすらいのビン・ボーニン」の面目躍如たる一刀両断の 論を拝聴しまし
 た。それにしてもSさんとの対決は、まるでお互いに別々の土俵から勝負をしているよ
 うでした。そのかみ合わない論争のずれ具合がなんとも妙で、未来永劫かみ合うこと
 のない、エントロピーが最大のブラウン運動の世界をみるようでした。
◆長岡さん
 この前新聞で奈良のさる古墳が「卑弥呼」のものではないかと考えられるとありました。
 そうなると長岡さんの「邪馬台国九州説」はいささか不利の感がありますがどうしまし
 ょう。それから空海が薦めた寺院の尖塔趣向は性的なものと宇宙的なものの 思想であ
 るとありました。古い塔は下方に丸い饅頭のような台座を付けたと書いてありました。
 これれはすなわちヒンドゥー教のリンガムヨニの形でしょう。・・・とまあ色々と聞き
 囓りの疑問をぶつけて、努力しないでちゃっかり長岡さんの詳しい知識を失敬する心算、
 それと、私の視力がこのままで戻らないとすると編集が難しいので、次回の20号を誰
 か技術的に詳しく、正確に、やる気のある人に依頼したいと思っています。いずれこの
 件につき皆で検討して決めたいと思いますが、私見としては、長岡さんの右に出る人は
 いないなと思っていますが、如何ですか?
◆Oさん・Kさん
 この前のKさんの文の構成でOさんとのあいだで論争になりました。私はまだその 文
 を読んでいなかったので、隣で半分面白がって傍聴していました。これはまるでHさん
 とSさんのバトルと同じではありませんか。二人は時々そのような論争をしますが、感
 覚の問題 性差の問題、知識の問題、趣味の問題か、いずれにしても私は高みの見物に
 徹した方がよろしいようで。
 今日「同人α」第19号-「春号」をクロネコヤマトのメール便で送りますのでよろしく
 お納めください。また作品集への掲載は合評の始まる前、今週末までは作業を終わりた
 いと思っています。本誌の届かない海外のかたは、作品集を開いて読んでください。





同人α第19号(春号)発行のお知らせ 2009/6/1

 5月30日に「同人α」第19号(春号)を、諸般の都合で10日ほど予定日かから遅れま
したが、無事出版することが出来ました。
   小説・・・・・7偏 (1編は英語の作品)
   エッセイ・・・1偏
   詩・・・・・・2編
   紀行文・・・・1編
   オキシモーラン的作品・・・1編  の12編です。
 会員には今週半ばにはお手元に届く予定です。また作品集も今週末までには掲載するよ
うに努力しますので、海外の方及びこの本をお持ちでない方は、作品集を紐解いて来週か
ら始まる合評にどんどんご参加してください。お待ちしています。
なお、同人誌を欲しい方は下記までご連絡下さい。
一冊200+送料80円(3冊までは同じ送料です)





同人αの増版 2009/6/2

同人α第19号を20部作成
牟田さんに10部
HUさんに6部  メール便で送る。





作品集収録のおしらせ 2009/6/3

◆同人α第19号の作品を作品集に収録しましたので、まだ冊子の届かない海外の同人の
 方、このホームページをご愛顧していただいている読者の方、どうぞ作品集を紐解いて
 お読みください。そして自由に合評にご参加ください。
◆Eさん
 「人間や自然の観察の方法論について」などと小難しいことを書きましたが、Eさんの
作品に出てくる情景や真理描写が見事であったので、日頃の観察のたまものだと思いまし
た。そこで私の質問は「人の表情や花や山や気候などの事象の変化をノート等に記録して
いるのですか?」というものでした。
◆長岡さん
 邪馬台国の場所については、決定的な証拠もなくまだまだ推理する楽しみが残ってい
 ますね。あと五十年くらいは謎のままであって欲しいような気がします。
 リンガムヨニは座禅を組む手や忍者が印を結ぶ形もそうだと読んだことがあります。
 知らないで行っていることが、数千年昔の遠い国の思想の影響を受けているものですね。
 それから、編集については私が全てを投げ出すという事ではなく、印刷や製本は勿論
 今まで通り私の所でやりましょう。ただ少し役割を分担して貰えばと拗ねてみただけで
 あります。





視力について 2009/6/8

 昨年の秋頃から急に白内障が進んだ。それまでは左目が0.7右目が0.4だから、その視
力の違いの違和感で、私はよく物が見えないのだと思っていた。しかし病院で視力検査を
してみたが、半年前のと今と比較してもその視力の数値はあまり変わらない。しかし現実
には見えにくくなったことは確かだ。
 まず、霧が掛かったような、スリ硝子を通したような、薄い和紙を目にかぶせたような
見え方である。また明るい横断歩道の白線や白い建物や明るいテレビ画面を見ると、写真
で強い光の当たった部分の周りが白くぼやけるのと同じ、ハレーション現象を起こして見
えなくなるのである。2,3メートル先の人の顔さえ見分けが付かない。
 目のどの機能が悪いかは私にはよく分からないが、どうも明暗が曖昧になっているため
らしい。前に目の機能を調べたときに、物を立体的に認識するためには「形は明暗のしま
模様で認識する」とあったから、きっと明暗の識別が出来ないくらいハレーションをおこ
して、平面の像しか造れないのだと思った。
 三次元の世界を私は二次元の像しか作れない世界にはまりこんでしまった。だから、外
界からの情報の80%は目から得られるというのだから、本も読めなくなった私は、平面
の上をただ本能のまま這い蹲ってうろうろしている、アメーバのような単細胞生物になっ
てしまったような気分だ。



37α編集部:2014/05/02(金) 22:31:46
α20号奮闘記
.
              α20号奮闘記



   「結論として今回の19号はなんとか努力してみたいと思います」と、
   割り付け後の目を酷使する細かな調整作業を買って出た同人仲間に言ったものの、
   その3月後の20号出版ではますます目の調子が悪くなり大分てこずったようだ。
   20号寄せ書は、同窓誌「斜光」や文芸誌「α」の名称のいきさつ等が書かれて
   いて、なかなか興味深い。記念すべき20号、一号から出版に力を入れてきた人
   らしい熱の入れ具合が伝わってくる。この頃から編集/印刷といった作業がこれ
   までのようにできないことを実感し、今後の出版体制作りに取りかかり始めたこ
   とが行間に読み取れる。(編集部)





「Iさんからのメール」より 2009/8/1

古賀 様
今日は仕事中で思うに任せず、失礼しました。寄せ書きの件、趣旨がはっきりして助かり
ました。なんとか書けるよう努力してみます。なにしろ雑事が多すぎて・・・、親類縁者
が多いこと、それぞれにトシをとったことも大いに関係します(^−^)
 ところでお願いがあります。同期生のあいうえお順の名簿を送信して頂けますか。
45周年の時から住所などだいぶ変わっていると思います。クラス別のは45周年時の緑
の冊子に変更を書いていますが、50音順の方が探しやすいので、ほしいのです。

Iさんへ
 同好会や同窓会でお会いする機会もなく、随分ご無沙汰して居ります。
まだ現役でご活躍の様子、元気そうで何よりです。当方は医者知らずだけが取り柄だった
のですが、最近はすっかり医者に目を付けられ、なかなか解放してくれません。考えてみ
れば「村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん」の歳を遙かに超えていますので、さも
ありなんという所でしょう。
 「同人α20号出版記念の寄せ書きの件、なんとか書けるよう努力してみます」という
貴女の返事を頂き喜んでいます。
内容は何でも結構です。私はいつも決められた表題と擦れたことを書くことを好み、また
一向に気にしません。
 私が今書こうと思っている途中の文章を例にとると「私が文を書く理由はいくつかある。
一つはもの覚えが悪いと自覚しているから、時々の思い出を忘れないため。もう一つは自
分の考えを書き留め発表することは動物のマーキングと同じく人の反論や同意や評価を得
て、己の存在を確認するためである。会話だと音楽と同じようにその時限りで過ぎ去って
いき、どんなに素晴らしくとも再現は不可能である。自分の存在を人の脳の片隅にちゃっ
かり刷り込ませるには、会話の上ではよほどのインパクトを与えなければならないだろう。
それにはいささか私の力に自信がない。しかし文章であれば常に目の前に自分の主張を再
現出来る有利さがある。私があの世に行ってしまった後でも、あんな妙な友人、親爺、祖
父、親族がいたのだなあと少しは想い出してくれればいいのではないかと思っているので
ある。言ってみれば存在の悪足掻きの記録みたいなものだ」
 名簿の件早速お送りします。ただし完全な物ではありません。 その訳は2008年までは
データの修正は完了していますが、いまだ今年の同窓会のデータは幹事より修正依頼があ
りません。私の名簿の必要性がないと考えるのもまた幹事の意志でしょうから、もともと
私的に名簿の管理を行っているのですから、私からお節介に申し出ることはしないつもり
であります。そういうわけで完璧でないことをご承知のうえ受け取ってください。





「同人α20号出版記念によせて」 20号寄せ書きより  2009/8/8

同人α20号出版記念によせて−100号に向けて出発
 同人αを出した時にはそんな長くは続かないだろうと考えた人も多いことだろう。とも
かくここまでよく続けられたものだいう感慨を覚える。
 年四回の出版はかなりハードである。先ず出来不出来はともかく自分の原稿を書かなけ
ればならない。それから編集・校正・印刷と続き、作品集をホームページに掲載しなけれ
ばならない。普通はそこでホッと一服させてくれるのだが、そうは問屋が卸さない。まも
なく「合評」が始まり、各作品を数回読んで批評をしなければならない。それが次号の編
集作業の近くまで続くのである。まったく休む暇はない。「合評」という制度を誰が作っ
たかと恨みたくもなるのだが、その反面麻薬みたいなものでこれがないと物足りないとい
う禁断症状を起こすまでに至った。だからその俎上に載せる作品を書かないことは「おい
てけぼり」にされそうな気がして、ついつい毎回投稿する羽目になってしまう。
 私が文を書く理由はいくつかある。一つはもの覚えが悪いと自覚しているから、時々の
思い出を忘れないため。より価値あることを思考するために、安心して雑事を消し去り頭
の中を空にできるメリットがあること。もう一つは自分の考えを書き留め発表することは
動物のマーキングと同じく人の同意や評価を得て、己の存在を確認するためでもある。
会話だと音楽と同じようにその時限りで過ぎ去っていき、どんなに素晴らしくとも再現は
不可能である。 自分の存在を人の脳の片隅にちゃかっかり刷り込ませるには、よほどの
インパクトをあたえなければならない。 話上手ではないからその自信は全くない。書く
行為は私にしてみれば存在を確認するための悪あがきみたいなものだ。
 それからもう一つ、ものを書く趣味はなんといっても金がかからない。真に鑑賞するこ
とを忘れて、いやその眼力もないのに、オモチャやマンガ、高価な絵画、骨董品などの偽
物蒐集や、キャバクラ通いなどの道楽よりもはるかに、身の回りにスペースも、また金銭
的な迷惑を掛けて親族の不興を買うこともない。
資料を購入しても精々本代くらいなものだ。また五分も歩けば図書館があり、無料で借り
る事ができるし、自分で目的の資料を見つけられなければ司書に調査を依頼すればよい。
一週間か二週間もすれば区立の図書館や国会図書館から資料を提供してくれる。
 昭和20年の終戦一週間ほど前にB29の爆撃で障害を負った友人がいた。彼の追悼文
を書くために空襲の日付や被害状況を郷里の図書館で調べてもらったことがある。また辻
邦生の小説「夏の砦」のなかに出てくる「スエーデン王のグスタフ侯のタピスリ」が現存
するのかどうかという疑問を抱いた。「実はあれは本当に空想でありまして、私の知識を
寄せ集めてつくったもので」と辻邦生自信が「辻邦生作品全6巻−6」月報?の「異国の
街で」の開高健との対談で暴露している。ということを真砂図書館で調べてもらったこと
もある。

   君よ知るや南の国
   レモンの花咲き
   緑濃き葉陰には、こがねのオレンジたわわに実り
   青き空より、やわらかき南の風
   ミュルテは静かに、ロルベ−ルは高くそびえる。
   君よ知るや、かの南の国。
   かなたへ、君とともにゆかまし。愛しきひとよ。

 ゲーテの「ミニヨンの歌」が森 鴎外・堀内敬三・会津八一・大久保健治などではなく
本田 清訳であることも知った。
また今回の「連絡船」についての資料を長崎の図書館に提供してもらったが、それらの資
料は数回の電話のやりとりと数百円のコピー代で済ますことが出来た。
 私の両親は名も無き衆生ではあったが、父は回想録を母は四〇冊の日記を残して逝った。
その遺伝子を多少は引き継いでいるのか、書くことを厭わない。それに慣れてくるとそれ
が最上かどうかはわからないが、その方法が見つかった。ひとつのテーマさえ浮かべば、
後は時間の問題だ。
 まず「20090730読書について」などという題を付けて、2009年のフォルダにしまい込む。
書きたいことを項目として列記しておくだけで、この時点で一気に書き終わろうとしては
いけない。いたずらに気が焦るだけである。資料等など時間を掛けてこまめに集め、書き
たい気になったら少しづつ書き加えて行けば、それなりに何とか体裁も整ってくるわけだ。
そのような表題だけのファイルや書き掛けのものがいくつも仕舞ってあり、いつの日か出
番が来るのを待っている状態である。

 「同人α」という名称については、なにか曰くがありそうに思えるが、本当のところ実
に頓馬な話しでかない。15年前に作った同人誌「斜光」では全国の同人誌200冊の名前を
調べ上げて、ああでもない、こうでもないと「ゴロ合わせ」や「同人誌の主旨」などを象徴
しようと苦労して決めたものだ。しかし「同人 α」はいよいよ立ち上げようとした電話の
中で、
「名称なんてどうでもよかやんねー」とOさん。
「だめだよ、長年連れ添った夫婦のあいだなら、「あれ」「それ」で判るだろうが、会員
を募集するならとにかく「α」とか「β」とか、なんでもいいから付けなくちゃ」と私。
「じゃあ、名称は「α」に決めましょう」とOさん。そう言うわけで思い入れも情緒もへ
ったくれもない有様で、名よりも実という誠にドライなものだった。
 さてこれから100号を目指して進むわけだが、一年に4冊、20年で100号に達するこ
とになる。我々も九十歳前後になるが、全く不可能ではないであろう。 数字を気にして
「しゃかりき」になる必要はないが、それはともかく色々の個性豊かな人達と交わること
が最大の喜び。これからもまだまだ続くだろう。





小柳さんからの業務連絡 2009/8/15

 16日は、Oさんが京都行きと言うことを言の輪で読み、これを書いています。
今までの予定では、 19日までにゲラ刷りを作っておくべきでしょうが確かその日は、
古賀さんの手術の日に当たり、たとえ前日に原稿を送付しても古賀事務所で印刷するのは
無理だと思われます。
 そこで提案ですが、ゲラ刷りはとりあえずA4版とするのはいかがでしょうか。これな
ら、我が家のレーザプリンタで文章を両面印刷で打ち出し、校正現場に私が持参すること
が出来ます。(残念ながらB5版の両面印刷はできません。) 両面印刷の速度は、業務用
には及びませんが、1分間に22枚とかなり早いので88ページ程度までなら4分で印刷
できます。
 また、ゲラ刷りは、とりあえず手持ちのWクリップで綴じることが出来ます。
もし、そうすることになった場合、ゲラは何部用意しておけば良いでしょうか。必要部数
を、お知らせ下さい。
ところで、今までに用意できていないものは、次の4項目です。
αの表紙絵(Sさん担当)
 これは、ゲラ校正時には、必要有りませんが 表紙絵だけは、先に印刷をお願い出来ま
すか。古賀さん、Oさん、私の原稿  私自身書くのが遅れて、申し訳ないです。
以上の件について、できれば15日中にご返事頂ければ幸いです。
なお小柳の休暇は、24日の月曜日までの一気通貫で取っています。





ホチキスについて 2009/8/20

同人α第20号は150ページ近くになるので、事前にホチキスの調査をした。
銀座伊東屋 3階 TEL 03-3561-8311 開店10:30
MAX HD-12N13  75枚 7,685円
MAX HD-3000FR 110枚 7,140円
MAX HD-3000M  100枚 4,000円





目の治療 2009/8/24

 8月19日糖尿病による網膜症の治療をしてもらった。いつもの眼科の重枝先生ではなく、
専門外来という部門で治療するらしい。どうも重枝先生はこの病院の専属であるが、専門
外来の先生は外の病院からの出向のように思えた。 なぜかというと、治療の説明書には
毎回同じ担当の先生ではないと断ってあるからだ。
名前は失念したが、女性の先生が治療について一通りの説明があり、何か質問があります
かと問われた。
1.私の目はどの程度のシリアスさか?
 先生の説明によると、良性と悪性の二つのタイプがあり、良性は進行しないが、悪性は
 放っておくとどんどん悪くなるという。私のは悪性の初期であるから、血液の循環が悪
 くなった部部の浮腫をレーザーで潰さなければならないとのことであった。もう少し網
 膜症と白内障が進行していたら治療の方法も無くなるということで、危うく間に合った
 かと胸をなで下ろした次第である。
2.小さい活字が見えないのは網膜症のせいか、それとも白内障のせいか
 網膜症を治療しても視力には関係なく、白内障を治さなければよく見えないとの説明が
 あった、10月後半の白内障の手術まで後2ヶ月はこのまま我慢しなければならないのか
 と思うと憂鬱になってくる。
 レーザー治療は先ず左目にコンタクトレンズをはめて瞳を広げ固定する。コンタクトレ
 ンズと言っても普通の薄いレンズを眼球に直接はり付けるのではない。丁度時計屋さん
 が時計を修理するときに片目にはめる接眼レンズみたいな物である。
 瞳をまばたくことなく開いていると、サイコロの目のようなオレンジ色の四角が縦横に
 三列づつ並んだものがあちこち移動して、太陽を直接見るときのような強くて白い光が
 発射される。異様な熱と圧力とチクチクした痛みが感じられる。我慢できない程の痛み
 ではないが、何かが壊れそうな不安な衝撃である。それでも15分ほどで終わった。
 視力はやはり変わらない。網膜症という目の障害がどのような機能低下を及ぼしている
 のか自覚症状がないので判らない。だからこの治療でどこが改善されたかが私には判ら
 ない。とにかく視力が戻るといわれる10月の白内障の手術を期待しよう。





小柳さんより 2009/8/25

 遅くなりましたが、標記ファイルを送ります。Tさん以降は、Kさんの校正された分が
行方不明になってしまったので後で見つけて、もう一度やり直します。田之頭さんの本文
も入れるのを忘れ、抜けています。取り敢えず、ここ々までを印刷してOさんに見てもら
えますか。長岡分は、1行30字に整形するため、かなり手直ししました。





Nさんさんへ 2009/8/26

 私めの目にたいしてのお気遣い、ありがとうございます。小生頭脳や運動能力はともか
く、体だけは丈夫だとばかり過信していましたが、いまでは蛇ににらまれたカエルのごと
くすっかり医者に見込まれて、深情けを掛けられています。
 今回の網膜症のレーザー治療で視力が回復した訳ではありませんので、10月の白内障
の手術までは大きな天眼鏡が依然として必要です。だからいまのところ見え過ぎて世の中
の真実に目の前が真っ暗になることはありません。
 それにしても今回の20号は盛りだくさんで、「知の巨人」である長岡さんには編集を担
当してもらい、随分お世話になりました。だから目が治っても、まだ見えないといって次
号以降もお願いしょうかと内心悪巧みの最中です。
 兎に角仕事を分散して、皆さんにもその楽しさを分けてあげたい・・・などと安直な慈
善家や道徳家みたいな言で煙に巻こうという算段です。





同人α第20号(夏号)出版のおしらせ 2009/8/31

 8月30日同人α第20号(夏号)および記念寄せ書きを出版しました。
外国を除いて国内の会員および購読者の方々には、火曜日(9月1日)頃までには届くと思
いますのでお待ち下さい。
 今回は同人21名中20名、小説−8、エッセイ−7、詩−3、俳句−1、和歌−1の投稿が
あり、しかも愛読者からの20号記念としての寄せ書きを頂き、150ページにちかい分厚
いものとなりました。なにごとも時を経る毎に薄く寂しくなるよりも、沢山の原稿で賑わ
う方がよいようで、まさに多々益々弁ずであります。
 また、一週間に二作品を合評することで、次の号までの日程でこなせるという奇策を考
え出しました。いろいろな難問も皆で鳩首すれば名案が浮かび、時間のない中創作に苦労
したり、編集や校正や印刷でてんてこ舞いしてもなかなか楽しいものです。皆さんも参加
しませんか。そして
 この内容、この厚さで一冊200円、どうぞ秋の夜を楽しんでください。





同人α第20号を作品集に掲載 2009/9/12

 碇さんから要望がありながら、大変遅くなって申し訳ありませんでした。今日やっと同
人α第20号を作品集に掲載しましたのでごらんください。まだ冊子が届いていない方、
そしてこのホームページの訪問者で興味のある方は、この作品集を読んで合評に参加して
みませんか。
 何せ得意のやっつけ仕事ですので、バグが沢山隠れていると思われます。どうぞ間違い
探しのゲームと思って「虫」探しを楽しんでください。そして見つかりましたら当方まで
お知らせください。お願いします。



38α編集部:2014/05/04(日) 08:28:07
すきま風 1
.
すきま風 1  2007-2009





間尺の合わない理不尽さ

 この世の中はじつに不都合なことが多い。例えば法律、加害者のためではないかと思わ
れるような人権に関するもの。例えば証拠不十分なため詐欺罪が成り立たないとか、昨今
の法の盲点をつく某大臣などなど。また、子供に知らない人は皆暴漢かも知れない教えな
ければならない社会は悲しいことだ。

 役所の窓口は実に不親切です。判らないからこそ教えを請うているのに「こんことも知
らないのか」というような不遜な態度をする。担当者の名前を聞いて「上司を出せ」と言
えば多少態度は改まるのだが、そこまでさせられる不快さは自己嫌悪を伴うこともあり、
後々まで嫌な思いが残ってしまう。そういう態度の担当者だって社会の全てを知っている
訳ではなく、時には違う立場に立ったとき自分の無能さを恥じることだってあるはずだ。

 そのような面倒なことを勉強したいという好奇心が強い人や金や暇を惜しまない人はそ
れもいいだろうが、職能と言われる人達を身近な友達として持っていることは、たとえ電
話のなかのアドバイスだけでも、精神的にも助けになることが多い。例えば医者・弁護士
・会計士・建築士・司法書士など。しかしもしそのような人が身近にいない場合でも、困
った時は費用がかかってもそれらの職能に頼んだ方が効率もよく安心できるので極力そう
するようにしている。

 このごろはあれは納めたのかなとか、もうそろそろ納税の時期だがその納付書が来ない
のはおかしいなどと気を病むことはしなくなった。彼らは絶対に請求を忘れて取りはぐれ
することはないと信じるから。しかし一度十数万円の還付金があるという書類が来た。私
はその件で還付される覚えはなく、事務所の経理を依頼している経理士に調べてくれるよ
うに頼んだが、決算や確定申告をした当人も還付の理由が分からないといってきた。もし
向こうが間違っていたとしたら、絶対に言ってくるからという結論にいたった。その後、
郵便局にも税務署の書類もあって照合したから間違いはなく、まあともかく十数万円は懐
に入ったのである。しかしいまでもその還付の理由が判らないし、今でも戻せと言ってこ
ないのであるからそれは正当なものであったのだろう。

 それはいいとして、予定納税という制度があり、前年の税額に見合った金額を一年分前
払いしろというものだ。そこまではともかくしょうがないが、一寸でも遅れると延滞金が
付いてくる。そんな馬鹿な事があるか、前払いする金に金利を付けるとは、前払いする金
から金利を引いて安くしてやるというのが理屈ではないかと怒りたくなる。

 人生知れば知る程悲しみを増すように、長生きすることはそのようなたくさんの間尺の
合わない理不尽さを背負い込まなければならないことか。一つ一つ解決していく根気も少
しずつ衰えて来ることが老いなのか。
]
「後見人始末記・その1−感想」より  2007/5/26





突然の辞任

◆ 安倍首相の突然の辞任劇には子供じみたものを感じたのは私だけではないだろう。同
  情する部分もあるが、最高権力者としてはいささかどうかと思う。きっと官僚や自民
  党の反対勢力によるイジメに屈したのだろう。それにしても辞め方が美しくない。
◆ 「美しい国日本」を創ろうと提唱した張本人が一番「美的感覚」から遠いところに居
  たのではないかと感じられる。囲碁でも大敗する時は「投げ場」をつくるといって、
  確かに負けましたという状態をつくり石を置き、それ以上勝負をしない、所謂「投げ
  出す」のである。それは相手の勝ちを認め、自分の負けを宣言するという一種の美学
  である。
  結局は確固たる理念も、ことを勧めるために必要な果敢な決断力も持ち合わせなかっ
  たということで、首相としての器ではなかったと言えるのではないか。

「独・偏・戯評」-安倍首相辞任について」より 2007/9/12





「国家安全保障」論

 攻め入られた場合はどうするかとか、国の主権を侵さたらどうするか、とかが現実的な
問題かどうかは仮定の話だから想定の仕方では「核には核を」とか、いや非武装中立が理
想だという、いろいろの考え方があるが出来るわけです。しかし私個人の日本を取り巻く
現状認識では北島氏の論におおむね賛同します。その理由は
◆自国内の不協和音から眼をそらさせるため、外に敵をつくり必要以上に脅威を煽るのが
 為政者・権力者の常套手段だから。北朝鮮の瀬戸際外交、アメリカのテロの脅威などを
 主張して無謀な戦争に駆り立てたことが良い例である。それに軍拡を望む人々、それに
 より利益を享受する政治家、財界の一部がいる。
◆国民の生命や国家の主権を守るためなどといった大儀名分を掲げて、庶民の善意や素直
 さを良いことに、その悪巧みを覆い隠して主張する。
◆これ以上軍備を拡張しても効果は少ない。現に飛び抜けた軍事力をもっているアメリカ
 でさえアフガニスタンやイラクを制圧できないのだから。
◆国境の近辺の小競り合いや、力の誇示や挑発は想定出来るが、強力な軍備を持ったから
 といって、相手の国に攻め入って完全に打ち負かす外はそのような問題を完全に解決す
 ることはできないだろう。
◆人々の平和や命を守るために人殺しの武器を携えて戦争する(他国の人々を殺す)という
 こと自体が自己矛盾である。そこに気がつけば、即現実的な問題の解決が望めなくても、
 それを目指して進むという精神を失ってはならないと思う。
◆きれい事をいう者とか勇ましい奴の尻馬に単純に乗ってはいけない。それは為政者・権
 力者側の走狗かもしれないのである。

 「国家安全保障」論の根拠とされる、いわゆる脅威論について 感想より 2008/4/4




地球温暖化

 地球温暖化に対する解決方法はまだ世界の国々の十分な理解と実行において足並みは揃
っていない。また北海道サミットにおける「途上国への原子力導入のための基盤整備」が
必要であるという途上国向けの決議は、CO2の排出は減少するかも知れないが、いささ
か毒をもって毒を制するような違和感を覚えた。核兵器ばかりではなく核廃絶運動の意味
のなかには、原子力発電も含めたものと考える私には、別の深い思惑(原子力発電のノウ
ハウを持つ国の商業的な思惑)が潜んでいるのではないかと疑いたくなるのである。
 排出権取引というシステムにもまた、何だか「地球温暖化を防ぐ」という高い理想を「売
買という現実的な損得勘定」に置き換えなければ進まないという、人間の弱点を利用した
システムのようでスッキリはしない。
 政府は排出ガスを減らすために個人個人の努力を奨励するが、まだ使える物を破棄して
省エネの家電製品の買い替えることがはたしてそんなに効果が期待出来るのか。新しい省
エネ製品もまたエネルギーを使い、ガスを排出しながら作られるからだ。それはちょうど
贈答品の派手なやり取りで景気が良くなると勘違いするのと同じで、田舎の蔵の中は使わ
れもしないキッチュな贈り物で満たされ、なんら人の暮らしを豊にしない、見せかけだけ
の繁栄と同じように見える。
 我々は今、産業革命以来の大量生産大量消費の時代が豊かさの証であるという思想を見
直さなければならない。エネルギーの無駄遣いを止めなければならない。ということを北
島氏の文から私は受け取った。

「地球温暖化について」の感想 より2008/10/21





カザ空爆

 ますます紛争は拡大して地上戦に移りそうです。これは吟遊視人さんのいう通り全く理
不尽なことです。このようなことを許している欧米の正義とやらは突き詰めれば国益が最
優先のものでしかないということが判ります。
今日に至ったイスラエルの問題は二つあると思います。
 一つは、紀元前721年「北王国イスラエル」が、アッシリア帝国に滅ぼされてアッシリ
アに捕囚され、紀元前586年には「南王国ユダ」も新バビロニアに滅ぼされユダ王国の民
は「バビロン」に捕囚される。それ以来亡国の民となって世界中に散らばっていく。しか
し国々での土地の所有を許されない根無し草の生活は、勢い金融や学問や音楽などの芸術
に向かっていった。その土地の者はよく考えてみれば、土地を耕したり物を生産したりす
る自分たちよりもユダヤ人が経済や学問や芸術の世界を支配して上流の生活に収まってい
るのに気づいた。そこからユダヤ人への差別と排斥の感情が生じた。ユダヤ教という戒律
の厳しい宗教で結ばれた排他的な人たちではあったが。決してユダヤ人がその国の法を犯
すような人たちではなかった。
 二つ目は、第2次大戦のあと欧米の国々は、国内で行われていた差別や排斥などの罪の
意識と、経済や学問や芸術の面での隠然たる支配にたいする恐怖もあって、一種の厄介払
いの思惑もあって、数千年も前のユダヤ人の国家であったイスラエルに再び建国させたの
である。そこにはパレスチナ人がすでに長い年月住み着いていたにもかかわらずである。
当然ユダヤ人とパレスチナ人の人口や経済的な力関係のバランスが崩れるのも意に介さな
いで・・・。だからイラクやソマリアやルワンダやケニヤの紛争の責任はすべて帝国主義
を標榜して世界を蹂躙した大国のエゴによるものである。しかしそれにしても今のイスラ
エルはアメリカという老虎の威を借りた狐のようではありませんか。
 とまあ、このように吟遊視人さんが心配されるまでもなく、アンチ体制、アンチ常識、
アンチ仲良し主義の臭いは捨てた訳ではありませんので。

 「イスラエルのカザ地区への空爆のこと」 2009/1/4





イスラエル戦争犯罪特別法廷設置

 イスラエル戦争犯罪特別法廷設置を求める署名を今日しました。被害状況の写真の中に
衝撃的なものがありました。崩れた建物の間から多分もう死んでいると思われる、頭だけ
出ている子供の写真。
 ハマスが打ち込むロケット砲によるイスラエルの被害者数十人と、イスラエルの正規軍
による攻撃で死亡したパレスチナ人の1300人に及ぶ被害と比較しても、その犯罪性は
歴然としていると思いましたので署名しました。

「イスラエル戦争犯罪特別法廷設置を求める署名」より 2009/1/25





イスラエル戦争犯罪特別法廷 2

 M氏の「まともな感性」は吾にありと言っておられますが、そうでしょうか?1700年
前のことはともかく、一度現代のイスラエル国家の成り立ちを調べてみてください。パレ
スチナ人の住んでいる今の土地にかなり強引に入植した経緯が分かります。パレスチナ人
は[軒先を貸して母屋をとられる]という表現がぴったりするようなもので、イスラエル
の建国はかなり強引で無礼な行為に感じられます。
 その当時イギリスが植民地として今の土地を統治していましたが、イスラエル人の入植
を制限したイギリスに対して、イスラエル人はテロ行為を行ってその権利を獲得したので
す。だから今のハマスのテロ行為と同じことをやってきたといえます。しかしパレスチナ
人のそのテロ行為はイスラエルの国家成立・その後の差別・蹂躙の被害者であったわけで
イギリスにたいするイスラエル人のそれとは全く反対の意味があります。
 中東戦争に関わった国益や面子に偏った西洋の大国やアラブ側などの仲介による話し合
いなど、根本的な解決にはあまり期待できない。だから「イスラエル戦争犯罪特別法廷」
を設けて、イスラエル建国以来の史実を検証した上での戦争責任を、世界の「まともな感
性」での判断に訴えることは意義があると考えます。ただ現実に行われるかどうかは判り
ません。しかし例え現実的でなくても、そのような考えの人々が少なくない事が判れば無
視はできないでしょう。関係各国もそのうち軌道修正して中立的な考えに至るかもしれな
い。その意味でも現実的な妥協点を見つけることばかりでなく、基本的な理念は必要です。

2009/1/26





イスラエル問題  2009/2/9

 望遠鏡氏が書かれた影の権力者−5 は良く調べられたもので、私のように多忙な者に
とっては非常にありがたいと感謝します。ただ私の投稿文だと思われるものにたいするコ
メントがあり、少々言わんとするところを十分説明、その意を汲んでもらってないような
感じを持ちましたので少し釈明したいと思います。
 1.「第2次大戦のあと欧米の国々は・・・数千年も前のユダヤ人の国家であったイス
  ラエルに再び建国させたではありません」にたいし:私は欧米諸国がユダヤ人に正式
  に建国を奨励し承認したとは書いていません。ユダヤ人の違法な移住を制限すること
  が出来なくなって黙認したという意味で書いたわけです。
 2.「イスラエル人の入植を制限したイギリスに対して、イスラエル人はテロ行為をし
  ててその権利を獲得でもなく」:これもまた彼等が入植する正当な権利を獲得したと
  いうことを言ったわけではありません。ただユダヤ人が、パレスチナ人のロケット砲
  攻撃や自爆テロなどの行為にたいして、いかにも己の側に理があると一方的に非難す
  ることは出来ない。自分達もかつてイギリスにたいして行ったテロ行為があったにも
  関わらず、敵前から五十歩逃げ出した者がはたして百歩逃げ出した者を蔑むことがお
  かしいと言いたかった訳であります

 以上点が私の言わんとすることでありました。望遠鏡氏が言われるように、亡国の民が
長い間自分の国を持つことを希求した経緯は私にもわかります。しかし私の今回の問題の
一番重要なことは、イスラエル国家の建国に当たって、何百万という不法なイスラエル移
民が先住のパレスチナ人を差別・虐待した歴史であります。
 飛躍した例を許してもらうとすれば、歴史以前に南方や中国や朝鮮などから渡來して来
て、混血によって生まれた日本人とその領土に、昔の祖先のルーツを頼って大量の不法流
民が進入して来て力を持ち、現に住んでいる国民を北海道などの辺境の土地に閉じこめた
想像してみてください。イスラエル建国では、古代や中世ならともかく近代になって起き
たのことを私は憤っているのです。
 最後に、望遠鏡氏の「ユダヤ人は驚嘆すべきことをやり遂げた民族です」と書かれてい
るのを見ると、ユダヤ人のその行為を賛美しているように聞こえてきますが、私だけでし
ょうか。それとも少々の皮肉を込められているのでしょうか。
そして、詳細な資料による考察を提示と、「皆さんの漠然とした案を補正出来れば」とい
う考えには納得できますが、最終的にこの資料に基づいて己がどのように判断したかを期
待する私は、いつも肩すかしを食らっているような思いがしています。

「偏西風−イスラエル問題」 *重複掲載   2009/2/9





就任演説

 いささか話題が去ってしまって、一周遅れの最終ランナーのような気持ちですがオバマ
大統領の就任演説を聞いて感じることがありました。
 大統領は国民に向けて所信を発し、首相は党の方を向いて行う。
アメリカのように直接国民が投票して決める大統領制と、日本のように「内閣総理大臣は、
国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」という議院内閣制では首相は直接国民
から選挙で選ばれた訳ではないがら、いろいろ違いが出てくる。またそれから生じる大統
領制と首相制の権力の違いでもある。大統領は議会の決定に必ずしも拘束されないが、首
相は国会の多数決でものごとを決めなければならないから、勢い与党の議員の顔色と野党
の牽制で始終する。だからオバマ大統領の演説のように、「苦労は多くても一緒に仕事を
しようではないか」といって国民に直接語りかけている。
 それに反して麻生首相は常に廻りの味方や敵を意識していて、国民に目を向けた所信表
明が身近には感じられない。オバマ大統領の就任における素晴らしい言葉による演説を聞
いて感銘する反面、麻生首相の所信表明が我々国民へ語りかける力や意志が感じられない。
オバマ大統領が掲げた大きな目標は、現実にはたくさんの障害物に出くわすだろうが、そ
れをものとせず果敢に挑戦しようという意気込みはアメリカ国民に勇気を与えるもので、
今の日本の首相や政治家や官僚の体たらくをみるにつけつくずく羨ましいと思った。

2009/1/27





名ばかりの管理職 2009/2/2

 私が大学一年生の時受けた教養講座の法学教授が、開口一番に投げかけたのが「悪法も
また法である」というソクラテスの命題だった。まだ入学したばかりのバキューム・ヘッ
ドにはじつに悩ましいジレンマ問題だったことを記憶している。もし「悪法であるなら守
らなくていい」となれば法治国家としての体をなさないし、「悪法も法であるから遵守し
なければならない」となれば自然法に背くこともあるというわけだ。
 マクドナルド判決文を読んだ時に二つの問題があると私には思われた。
一つは「管理職」という定義の問題
二つ目は実情の問題
I氏は「管理職」の定義が明確でないから、マクドナルの店長が「管理職」ではないと断
定して判決を下したのは違法であると言っている。たしかに労働基準法における「管理職」
の定義は曖昧で明確にしてからでないと有罪か無罪を判定することはできないという主張
は「悪法も法である」という明確な法実証主義の系譜であり、二つ目に実情問題と相対す
るものである。「管理者」(ここでは会社側のいう管理者としての店長)と一般の従業員
との仕事の質の違いは何だろうか。一般の従業員が客に対するサービスにたいして、店長
は人事考課の実施・アルバイトの雇用など労務管理だとすれば、単純で判りやすい。
 しかし実際の店長の仕事は管理業務だけでなく、客が居る間は一般の従業員の仕事をし、
店を閉めてから管理業務をするという過酷な労働を強いられていることを見れば、残業手
当も休日手当も支給されない、手取りの金額も一般従業員と同じとなれば、経営者は法の
盲点を突いた狡いやり方だと思う。
 この判決に対するI氏の違法判断は「悪法も法である」のようにも私には思える。私は、
会社からノルマや利潤追求を科せられて、賃金や労働時間といった過酷な労働を飲まざる
をえない実態をみるにつけ、店長の言い分に同情するものであります。その一方で「管理
職」の定義を一日も早く確定し、合法的に「悪法も法である」を「良法」に返る努力をす
べきでしょう。

「「名ばかりの管理職」とは何か−感想」より 2009/2/2





電磁波

リニアに「反対」市民団体が発足
 朝日新聞朝刊に「リニアに「反対」市民団体が発足」という記事が載っていました。
「JR東海のリニア中央新幹線計画に反対する市民団体「リニア問題を考えるネットワー
ク」が2009年2月7日、発足した」
 全国自然保護連合代表の川村晃生・境内教授らが呼びかけ、東京、神奈川、山梨、長野
などの沿線都県の市民や地方議員ら20人余りが山梨県内で集会を開き、結成を決めた。
反対する理由として、建設による自然破壊に加え、電磁波による健康被害、中間駅の建設
費負担が自治体税制を圧迫する可能性を揚げている。
 では、電磁波とはいったいなんで、私達にどういう影響があるのかということに関して
調べてみました。
●電磁波の発生源は、発電所、変電所、送電線、家電製品のテレビやラジオの電波、温熱
 効果でおなじみの遠赤外線や、紫外線、医療や材料検査等で利用されているガンマ線、
 X線などであります。
●電磁波が人体に与える影響は、ピリピリとする刺激作用、生物の免疫低下、脳内ホルモ
 ンへの悪影響、遺伝子の損傷があると指摘されています。
●電磁波過敏症とは室内の家庭用電気製品の他、屋外にある電線や街灯など電気の流れて
 いるところに近づくと、激しい頭痛や胸苦しさ、吐き気、めまいなどの症状が現れ、電
 気製品から離れると症状が消えてしまう人のことです。
 最初に目、皮膚、神経に症状が現れ、そして次に呼吸困難や動悸、めまいや吐き気など
 の症状が現れてきます。さらに悪化すると、疲労感やうつを伴う頭痛や短期的な記憶喪
 失、手足のしびれやまひが起こってくる場合もあります。
 リニア中央新幹線計画ではそれらの健康被害や自然環境に及ぼす悪影響の公正で正確な
 客観的評価がなされているのだろうか、そうでないとすれば問題であります。
 資料は探偵・興信所/総合探偵社アーストの環境調査のホームページより

 「電磁波のこと」  2009/2/11



39α編集部:2014/05/04(日) 13:37:48
すきま風 2
.
すきま風 2  2009-2011





世界沈没

 「世界沈没の恐れについて」にいみじくも碇さんの書かれているように、天敵のない人
間の一人勝ちの今、人類の将来は危うくなっていくように私も感じます。
 産業革命以来人口が増え続けました。それにともない人々や産業が大都市に集中しまし
た。いまやいろいろな面で効率の良い社会を作くりあげた「集積利益」が、留まるところ
を知らない欲望でもはや「集積不利益」に転じています。人口集中による交通の渋滞、空
気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、偏狭な民族主義や拝金
主義や利己的な人々の心の荒廃などであります。
 過去にはコレラやペスト、インフルエンザなどの病気の猛威によって、また絶え間ない
大きな戦争のなどで人口が減る事もありました。これは天の配剤だったかも知れません。
地球はそんなことで壊れることはなく、もっとはるかに強かでタフですが、この地球上の
人口が100億になったらますます過密になり食料やエネルギーの奪い合いになり、人類自
らの歴史を閉じる恐れもあります。碇さんの報告を見てそう思いました。
 俳句では 観月やひとりくらしのひとり酒  が私は一番すきです。昔井上靖の「あす
なろ物語」に 寒月が掛かれば 君を偲ぶかな 愛鷹山の麓に住もう という詩を思い出
しました。碇さんの句はそこに居ない人への思いが深く心の奥底に沈んでいるように思え
ました。

「碇さんの作品の合評」より??2009/2/13





定額給付金

 これでも選良の考え出した政策かと疑うほどの、なんともお粗末な定額給付金がいよい
よ支給されることが決まった。もはや選良と呼べる議員はほとんどみあたらぬが・・・。
さてそれを受け取る、あるいは拒否する、矜持を保つ者、そうでない者の思いやいかに?
●与党議員は呟く:これで選挙が戦える、票が買えた。
●野党議員は呟く:これで新たな社会の狂想曲が始まる。そのうち化けの皮が剥げる。
●詐欺師の親分は:いまが千載一遇の時、腕の見せどころ、全国をくまなく歩き騙し取れ。
●麻生総理は訴える「詐欺師に告ぐ!! 罪一等を減ずるから瞞した金を即刻使ってくれ。

「ついに定額給付金の支給が決まった」  2009/3/6





違法献金

 今朝の朝日新聞のコラムに「検察には説明責任がある」という、ジェラルド・カーティ
ス米コロンビア大教授の意見が載っていた。「今回の東京地検特捜部による小沢一郎・民
主党代表の公設第一秘書の逮捕と事態の展には、解せないものがある。逮捕から1週間あ
まりたつのに、検察当局は強制捜査に踏み切った理由については説明をしていない。これ
はどうしたことか。
 この事件は普通の政治スキャンダルとは質的に違う。数ヶ月以内には総選挙がおこなわ
れ、政権交代が取りざたされている、この微妙な時期に「政治資金規正法」という形式犯
で、次期首相になる可能性がある人物の公設秘書をいきなり逮捕するとは、きわめて異例
である」。という記事である。
 まさに体制が変わることを好しとしない力が働いていると勘ぐりたくもなろう。与党、
野党を問わずたいていの議員は「政治資金規正法」の塀の上で活動していることを国民は
感じている。だからといって疑惑を晴らすなといっているのではない、そのことよりもも
っと重要なことは、長く続いて管理能力を失って制度疲労をおこしている与党の続投を認
めるか、アメリカのように行き詰まった社会を刷新するために政権交代を求めるかである。
よくいまの民主党は政権能力がないという意見があるが、やらせてみなければわからない。
政権が変わらなければ錆付いた欠陥だらけの組織は新しく生まれ変わらないと思う。マス
コミは政治家がやる気をだすと不倫などの個人的なことで本人の足を掬ったり、ささいな
スキャンダルで面白くおかしく騒ぎたてたりするが、我々はそれに目を奪われることなく、
いまの日本の政治に求められている本当に重要なこと何なのかを見極めなければならない
と思う。

「違法献金事件」より 2009/3/12





WBC

 O氏の美容院での会話のレポート面白く読みました。
しかしその店員の 「これはそんなに騒ぐ程の事じゃないですよ。その理由は出場国でプ
ロの球団があるのはアメリカ、日本、韓国だけで、後は素人相手だし、アメリカは一線級
をあまり出していない」には多少の異論があります。
そこでいろいろの観点から野球というスポーツを考えてみましょう。
1.プロの球団がある国について
  上記の国だけではなく、台湾、中国、フィリピン、カナダ、メキシコ、 ドミニカ共和
?? 国、プエルトリコ、ニカラグア、イタリア、イスラエルなど 思ったより多いと思いま
?? した。
2.アメリカは一線級の選手を出していないについて
?? アメリカのダイリーガーの約70%は外国人であるといわれています。
  だからすごい一線級の選手はそれぞれの母国から出場しているわけですか ら、アメ
?? リカの選手がすべて超一流の選手ばかりとは言えないでしょう。
3.日本と韓国のチームが勝ち残った勝因は
?? 体格や運動能力にたよった他の国々の力任せの戦いと違い、その不利を補うために技
  術の緻密な研究と鍛錬による頭脳的な戦いにあったと思われます。

4.サッカーやラグビーなどの運動と野球の違い
?? 野球は攻撃する時間と守備する時間がはっきりと分かれていますが、他のスポーツは
  一瞬にして攻守が変わります。だから投手とバッターによる勝負がほとんどの野球と
?? 違い、その他のスポーツは全ての選手が攻守に関わってくるからスピート感に満ちて
?? いて常に緊張しています。攻撃の側のチームは打者以外はなにもしないで見ているだ
?? けでしょう。

  体の筋肉の使い方もまた全く違います。 その他のスポーツは走ることが主であるため
?? 体全体の筋肉をバランスよく使うが、 野球は球を投げるにしてもバットをもって球を
?? 打つにしても片方の筋肉だけ使い偏った運動で出来上がっています。 攻守が厳密に別
?? れているルールのゲームといい、 肉体のバランス上からいっても選手の筋肉の使い方
?? に偏りが??あると思います。
  といろいろ考えてみると野球というゲームは、 他のゲ−ムとはやはり異質なものと見
?? えます。 現代はスピードの時代、野球は勝負を決するのに他のゲームより時間がかか
?? るし、攻守の瞬時の交代がないために緊張する時間がとぎれます。 一時間前後で勝敗
?? が決まる??他のスポーツに人気が集まるのも判るような気がします。 さて、野球もう
?? かうかしてお??られません、もう一度その時代遅れを取り戻すために一層の改善が必
?? 要と思われます。

「WBCの話」 2009/3/24





追加の小言

◆ 東京オリンピック招致について、私も今更という感じを持ちます。虚勢の強いシンチ
 ャンですから、死ぬ前に歴史に名を残したいのでしょう。むしろ未だに開催されたこと
 のないアフリカや南アメリカに譲るという度量がないのでしょうかね。メダリスト達も
 体躯協会などに属しなければ活動出来ないという足枷をはめられているのでしょうから
??可哀想なものです。
◆定額給付金については、将来を見据えた政策とはとても言い難い代物と思います。やは
 り選挙目当ての撒き餌でしょう。どこに隠していたのか、それとも二年後に国民からし
 っかり徴収するのか、もっとミーハーに受けそうな大盤振る舞いの追加予算を出してき
 ました。責任を感じなければ国民の金を使うのは楽しそうですね。政治屋さん公僕さん!!
 私はその餌に釣られたふりして使いましょう。もとは私が納めた税金ですから。
◆大型連休は人混みと渋滞がいやですから、家に籠もってテビのニュースで皆さんの忙し
 く動き回る狂想曲を見て楽しみましょう。金もETCも搭載していない、単なる「引か
 れ者の小唄」に過ぎないだけの話です。
◆タレントの政界進出は、能力が備わっていれば拒む理由はありませんが、能力がありそ
 うな振りにだまされないように。もともと受け狙いが職業だから、人の心に響く心地よ
 い言葉を見つけ民衆をそそのかすことには長けているでしょう。東京のシンチャンや大
 阪の泣き虫君や宮崎のサイヤ人(ドラゴン・ボール)など多士済々。声の大きいだけの胡
 散臭い熱血漢を千葉県民はよく選んだもので、民度が伺いしれるようですね。そのうち
 選良と言われる職業はテレビ経験者で満たされそうだと危惧します。マンガ好きの金持
 ちスネオ君の政治手法でマンガやアニメが教科書になるかもしれませんよ・・・今に。
 国民みんなコスプレを着せられ外国の旅行者を迎える観光立国にしたら将来千年これで
 食えるかも知れません。
◆民主党の辞めないジャイアンについては,私は別の見方を持っています。彼がやって来
 た政治資金の処理は厳密にみれば、かなりきわどいですが違法ではないと思います。ほ
 とんどの議員がやっていることで、それは法の不備によることでしょう。私は政権を交
 代して数十年におよぶ自民党の悪政、管理能力不足によってガタガタになった国の機能
 を立て直すには、ジャイアンの豪腕しかないと考えます。その既得権を失いそうな人達
 の危機感が今回の秘書逮捕になったと思います。ここはぐっとがまんして政権交代の可
 能性のあるジャイアンに賭けたいのです。汚いの潔いよくないのと言った感情論で後退
 するような信念のない政治家はいりません。だから民衆が政権交代という変革より小さ
 なスキャンダルに惑わされて、政党支持の態度をコロコロと変える安易さが判りません。

「小言幸兵衛さんの小言によせて」 より 2009/4/23



森田健作氏を告発する会

 別のホームページでも書きましたが、吟遊視人さんの話題について私も感心があります。
タレントの政界進出は、能力が備わっていれば拒む理由はありませんが、能力がありそう
な振りにだまされないように。もともと受け狙いが職業だから、人の心に響く心地よい言
葉を見つけ民衆をそそのかすことには長けているでしょう。東京のシンチャンや大阪の泣
き虫君や宮崎のサイヤ人(ドラゴン・ボール)など多士済々。声の大きいだけの胡散臭い熱
血漢を千葉県民はよく選んだもので、民度が伺いしれるようですね。そのうち選良と言わ
れる職業はテレビ経験者で満たされそうだと危惧します。マンガ好きの金持ちスネオ君の
政治手法でマンガやアニメが教科書になるかもしれませんよ・・・今に。
 しかし1000円払って「森田健作氏を告発する会」に参加するのは止めておきましょ
う。意見はおおいいいますが、これは千葉県民の問題ですから彼らに任せて、高みの見物
とすることにしましょう。

「森田健作氏を告発する会」について より2009/5/12





靖国神社参拝

 F氏6月4日投稿について、私なりの異論を述べます。「日本の代表たる首相が靖国神社
を参拝しないのは、中国や韓国やその他の国の非難に負けて、日本の伝統や文化や歴史の
独自性を全うしないという行為は、情けないことである」と主張されています。 しかし
これは視野が広くリベラルな風鈴さんとは思えない一方的な乱暴な解釈と私には思えまし
た。問題点は3つあると思います。一つは靖国神社、二つ目はA級戦犯、三つ目は参拝の
問題
◆靖国神社
 戊辰戦争以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉死した日本の軍人、軍属等を祭
 神とする、東京招魂社という一介の神社から、国威発揚のために戦前は内務省が人事を、
 陸軍・海軍が祭事を統括するものとなった。戦後は、東京都知事認証の単立神社(単立
 宗教法人)となり神社本庁との包括関係には属していない、と一応政教分離の形をとっ
 てはいるが、いまだに政府機関のなかに繋がりを持った部署もあるという。そして、も
 っぱら天皇のために戦死した軍人などをまつる靖国神社は刑死・獄死したA級戦犯を七
 八年に合祀(ごうし)し、侵略戦争を“正義の戦争”とする立場を鮮明にしている。小
 泉首相の靖国神社への参拝強行は、同神社の侵略戦争肯定の立場を共有するものです。
◆A級戦犯
 A級戦犯とは戦争犯罪人の処罰を定めたポツダム宣言にもとづき、極東国際軍事裁判
(東京裁判)で処罰された人達である。
 サンフランシスコ平和条約で、日本は東京裁判などの軍事裁判の結果を受け入れること
 が規定されており、法的には日本は国家として判決を受け入れている。それより私は日
 本国民が自ら戦争責任を追求することのなかったということである。ドイツはいまだに
 第二次世界大戦の戦争犯罪裁判をしているという。近隣諸国や日本国民に多大な犠牲を
 払わせた指導者が、やむを得なかった、成り行きだったということで責任を回避
 することは許されないことだと思う。
◆参拝の問題
 中国や韓国は戦犯者が一般の戦没者と合祀されていることを問題にしているのであっ
 て、国のためになくなった戦犯以外の人たちを祭り参拝することに反対してはいない。
 個人的に今の靖国神社にお参りすることは信教の自由であるから一向に問題はないが、
 公的立場で国を代表する人たちが参拝することは政教分離からいってもおかしいと思う

 アメリカのアーリントン国立墓地のような、あらゆる宗教の戦没者を祀ることのできる
 無宗教の施設を早く作るべきである。
 風鈴さんは、日本国の象徴及び日本国民統合の象徴である今の天皇が靖国神社の参拝を
 拒否していることをご存じであろうか。

F氏の「靖国神社参拝について」より 2009/6/6





脳死問題

 真夜中の二時頃にふっと目覚めた。そして隣で熟睡している細君の規則正しく呼吸する
寝息を聞いていると、ふと「脳死ははたして本当に人間の死として正当性があるのか」と
いう以前から抱いていた疑問が再び湧いてきた。
熟睡しているときは脳は働いてはいない。しかし「自律神経系」により循環、呼吸、消化、
発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝のような機能は脳が休んでいる時で
も律儀に働いているわけである。だとすれば、脳が死んでも生命体としての機能は生き続
けていると言わねばならない。逆に考えると、心臓や肺などの自律神経系が壊れたら、す
なわち脳だって生き続ける訳にはいかないということだ。
 だから、脳死が死と法律で定めることには違和感がある。脳死であれば当然食をとった
り動いたり意志を伝えたりはできないから、いずれ死に至るのは必定ではあるが、だから
といってまだ生体が生きているのに死の宣告をする行為は許されるのか。そこまで社会の
便宜に呼応して良いものだろうかと思った。

「再び脳死問題」より 2009/8/5





2009年衆議院議員選挙

 このたびの衆議院選挙においはて色々の見方があるが、私はしがらみや情実ではなく個
人個人が自分の頭で考えて決断をくだすようにやっとなったかという感慨を持たせるもの
だった。たとえマスコミなどの面白おかしく書きたてる情報に影響されたとしても、沢山
の情報を取り込み自分の頭で考えた訳だから、戦後持ち込まれた民主主義がやっといま市
民のものになりつつあり、それが自分たちの生活は自分たちで決めるという地方自治への
思いが少しづつ根付いて来たように思えた。
 一方、自民党の大物達の敗北の弁を聞いていると、麻生首相のせいだとか民主党の甘い
ばらまき政策のせいだとばかりに言っているが、長年党に居座った人達の能天気ぶりに呆
れてしまった。国民は50年以上の一党支配で、政・官・財の構造というハード面でも、
公務員の奉仕精神や企業のモラルというソフト面もガタガタになってしまっている現状に
幻滅したからである。そして、民主党がはたして既得権や利権構造などをぶち壊して、新
しいパラダイムを構築できるかは未知ではあるにもかかわらず、自民党の自浄能力のなさ
に見切りをつけたからであると私は思っている。
 この選挙結果において自民党は壊滅的打撃を予想され、それでもまだ再生する可能性は
残っていた。しかし小選挙区制と比例代表制の欠陥というべきか、森 喜朗のような古い
手法の派閥の領袖達が小選挙区で落ちながら、比例代表でソンビのごとく生き返ったこと
である。新しい改革の力を秘めた若い人達が押しのけられて、党内調整に長けた古株が依
然として跋扈する自民党にはもはや未来はないと思った。世の中の変化を感じることも出
来ない古株は、火鉢のまわりで現状を嘆き昔の手柄話に慰めをもとめる姿がふさわしかろ
う。だから渡辺嘉美のように心ある若手は離党して新しい党に結集したほうがよいと私は
思った。

「戦い済んで日が暮れて」より  2009/9/2




大学入試不正事件

?? 皆さんの投稿を見ているといつも問題点の分析をしないで、十把一絡げの偏った意見
が多いように思える。この事件を論ずるにはまずいろいろの観点があることをどうして区
分けしないのか。そうすれば、簡単ではないにしても少なくともそれぞれの問題解決の方
法が見えてくると思うのだが。
まず
1. 学生の倫理観の問題
??大学合格の必死の願いがあったのは理解できるが、己の心のなかの良心に照らし合わせ
て見たのか。そんなにしてまでそのことに賭ける意味があったのか。
たとえ不正が見つかることなく合格したとしても、一生その負い目は自分の心に付き纏う
ことはないのだろうか。
??私も二度そのような誘いがあった。それが不正と言えるかどうかは単純に判断はできな
いが、一度目はさる代議士の秘書から大学の裏口入学への斡旋の話があった。もう一度は
大学を出て就職するときにまたその秘書から、大企業への斡旋の申し出があった。これら
はこちらから話を持ちかけたことはなかったが、その当時は代議士の秘書達は票を集める
ためにという当然の仕事だったようで、知り合いの子息には声をかけていたようだ。しか
し私は一生自分の力以外の方法で得たものにたいして負い目を見ることを厭ったので、そ
の二つの申し出を即座に断った。希望大学や選考の学部選択も、そしてこのような斡旋も
また両親には相談したことはなかったので全く親は知らなかったであろう。結果として希
望の大学や大企業には入れなかったが、そのとき私の心に宿った正義や倫理感そして独立
自尊の精神が今の自分を作っていると思っている。結果が良い悪いはべつとして・・・。

2. 手段の問題、防止の問題
??最先端の技術を使った不正の方法が判って、そのメカニズムが悪いという論はいただけ
ない。古代中国の科挙の試験でさえそのようなカンニングがあったようだから、これから
もそう簡単にこのようなことは一掃できないだろう。いろいろな方法が出現するだろうが、
一つ一つ対処する他はなさそうである。

3. 刑罰の問題(偽計業務妨害容疑)
??どんな法律で取りしまるかということは専門家でないから判らないが、その一方その条
文がないから罰を与えられないという考えもまたおかしい。この程度のことでそこまで懲
罰を求めたり、大げさに騒ぐこともあるまいという意見もあるが、それもまたおかしい。
真面目な受験生にとっては、同じ条件の下に選抜されることを前提とするならば、このよ
うな公正を損なうことになる不正を見逃すべき問題ではないと思うだろう。たとえ不正が
ばれることなく受験に成功した場合は、当然成功した生徒の中には彼の代わりに落とされ
た人もいるだろう。それを考えると、間違ったことをしたのだから、軽重はともかくそれ
なりに懲罰を受ける必要があると思う。

4. 社会的影響
??そんな不正の行為者の代わりに落ちた学生は、知らないうちにその人の進路を狂わされ
たというべきで、罪悪感も感じない不正な人が増えることは社会的公正さを保証されない
社会になるだろう。やり得の思想がはびこらないのか、正直な生き方が馬鹿を見る社会が
いい社会なのか。
??高度成長時代、バブル景気の時代、二年前のリーマン・ショックの嵐に晒されたアメリ
カの自由至上主義による拝金主義の歪みは反省されなければならない。
??生活者と関係のないところでなされる、儲けるためだけの石油や食料の投機はマネーゲ
ームを呼び、強者・弱者、富者・貧者の格差を生じ、このような社会的公正を欠くことは
結果的に不安定な社会を生むことになる。だからこの問題は些細なことではなく、これか
ら未来に向かっての大事な心の問題、価値観の問題、生き方の問題なのだと思う。

戯評−大学入試不正事件について?? 2011/3/4



40α編集部:2014/05/13(火) 09:14:49
夢 2
.

                 夢 2 2010-2012





   2010年、『てふの夢』 第23号 『夢碍无(むげん)』 第24号と立て
   続けに「夢」が入るテーマが続いた。もともと夢に対して関心がある赤松氏は
   この年より「無限回廊」という題の、まるで夢の世界をかけめぐるかのような
   作品を旗揚げする(現在も続いている)。科学的な考察と、夢と想念の世界を
   文学的に表現していくこと、両輪で迫っているようにも思える。





「同人α前書き−てふの夢」*より 2010/5/31???? *同人α23号

◆ いまちょうど老子を読んでいる。窓を開けると暗闇の向こうから気になるほどの大き
 さで間断なく聞こえる沢の音も、窓を閉めると闇と無音の世界である。そんな時山荘の
 本棚で寝る前に睡眠薬代わりに読むものを探しているとき、たまたまこの本が目につい
 たという訳だ。期せずして神野佐嘉江氏の表題と一致したのも何かの縁なのだろう。
 まえがきにある老荘の思想は原始の世界、闇や無音や空や混沌の世界へ誘ってくれる。

◆「てふの夢」は「胡蝶の夢」という言葉で前から知っていたが荘子だとは思わなかった。
 老荘思想は老子、荘子(そうじ)、烈子、淮南子(えなんじ)と継承されていくが、道
 教という宗教になるといささかその思想と違うもののような気がする。なぜなら老荘思
 想は死後の世界は描かれてはいないので仏教やキリスト教などの現世と来世という基本
 的な構造とはちがうからだ。

◆また儒教と道教の違いは、いかに社会秩序を確立するかの問題をあつかって支配者の立
 場から見た儒教にたいして、老荘思想は個人の生き方、思想に目を向け無為自然を基本
 としたもので、何ら腹がふくれるものでもなく、なにかに役立つものでもない。

◆夢にちなんでは「てうの夢」の他に「邯鄲の夢」(または「粟粒一炊の夢」)というも
 のがある。
 「てうの夢」が今生きている世界がはたして現実であるか、それとも夢の世界であるの
 か、何が真実であるか確信が持てない。
 「邯鄲の夢は」は唐の時代に盧生(ろせい)という貧しい若者が、うたた寝を始めた時
 に、旅館の主人が蒸していた黄梁(こうりょう)がまだ蒸されていないほんの一瞬の間
 に自分の一生の夢を見てしまった。そこで人の一生というのは、このように短く、はか
 ないものだという故事である。





「しんき郎とかげ郎を読んで−2」より?? 2010/6/14

◆ファンタジーの文法「物語創作入門」と銘打ったイタリアの詩人で童話作家 のジャン
ニ・ロダーリ著の本をずっと昔、神野氏から頂いたことががあった。
童話を書くつもりではなかったが、SF小説や一般の物語に挿入する夢の話に??不思議な
雰囲気の気分を表現したい思っていたからだ。

童話の世界も夢の世界に通じる自由性がある。現実の「因果関係」「時間」「空間」「モラル」
「約束事」などの拘束から解放されて、空を飛んだり、人や動物に成り変わったり、過去
や未来に飛んで行けることができるから愉快だ。
そういう意味では童話という手法はうってつけであり、子供の自由な発想の奇妙奇天烈な
物語のなかに入り込み楽しむ事が出来るのである。たまたま集まった今の同人達はおしな
べてイメージを縦横無尽に飛ばす能力に恵まれていると思われる。現に宇宙や夢や仮想の
世界を描いた作品が多いと言えるのではないか。





「鈍色の空 合評のお礼−1」より?? 2010/6/25
*注)◇評者 ◆作者

◇1から遡って読んでみると、様々な女性が出てくることに改めて気づかされた。:

◆今まで女性との関係を詳細に記述することがありませんでしたが、今回はそのことを意
識して描きました。私はとにかく若いときからいままで女性にたいする定見を持ち得なか
ったので、むしろ性別を超えた独りの人間として接しようとしてきたと思っています。
若いときは女性をすべて自分を超えた存在として、憧れの目で見ていたようです。想念の
世界でアリサやレナール夫人に思いをはせても、現実の世界ではそのような純粋な思いが
持続するとは思えませんが、人は未だにそれを求め、文学や演劇や映画の世界に浸るので
しょう。実際はほとんどの人生においては、逃れられない些末な雑事がほとんどの時間を
支配していて、夢見るような幸せな恋心だけでは生きては行けないことはとっくに判って
しまいました。

◇たまたま作者から紹介された本が二ヶ月かけて先週図書館から通知がきた。タイミング
であろうか。一気に読み終えた。自然の描写、人間の描写等、読み比べる限り、作者の方
が工夫、ぬめり気、彩り、空気が一枚上手かと思った。
物事を客観視するところも似ているが、作者の方がもっと冷たく見ている。 その本とは
赤松次郎が汗をかき三省堂まで行き購入してきた本であった。本人より私の方が先に読ん
でしまった。:

◆佐伯一麦著の「木の一族」を読んでから、私小説の書き手として私は昔から彼に一目お
いていました。このたびの「誰かがそれを」のなかの「ケンポナシ」はこの木の話だけで
28ページにわたって書き、「誰かがそれを」では夜中に聞こえてくる訳のわからない気
障りな音について38ページを費やしている。これが純文学の世界なのであろう。
今回は以前の評価と違って私にはちょっと批判的な印象が残った。 それは個人の好みの
問題だろうが、この物語のリアリズムは想念の世界の夢や美や謎などの知的な好奇心をく
すぐるものがないのが不満に思えた。
と言うことは私はエキゾチスム・神秘主義・夢などといったものや、抑圧されてきた個人
の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩などを記述しようとするロマン主義的な傾向をもつとい
うことだろうか。





24号課題「むげん」の考察?? 2010/7/2

それにしても「無限」とは恐ろしい怪物を持ち出してきましたね。いま野矢茂樹著の「無
限論の教室」という本を本棚から見つけ出して見ていますが、およそ数理的なことに興味
のある人にとってはおそろしく難解で厄介なものと思います。この本の最初に「無限とい
うのは大小の概念とは別物、数や量ではない」と書いてあります。だから私は「むげん」
という言葉は夢限・夢現・夢幻・夢玄・夢源・無源・霧言・霧幻・霧眼程度にしておこう
かと思います。しかし、だから、皆さんの「無限」という怪物をどう料理するか密かに期
待している次第です。





「「蝶の夢、人の夢」を読んで−1」より 2010/7/9

私は人の深層心理に興味を抱いていたので、岩波書店のフロイト全集22巻をいま毎月購入
している。しかしなかなか読む暇がない。フロイトによると現実には達せられない願望の
表出であり、まずい行動の自己弁護であり、いろいろの加工を加えられているため、その
願望が何であるか、その屈折した状態の夢は解析するのに熟練を要するという。フロイト
の夢判断は少々性的な解釈に偏っていると思う。現実の暮らしの中では現れない人間の隠
された深層心理が夢の中では自然の法則や倫理観や因果関係や時間、空間の束縛から解放
されて現れてくるので面白い。

夏目漱石の「夢十夜」や石川淳や内田百や吉田健一の短編に出てくる、何とも不思議な情
景、そこはかとなくただようよるべなさ、面妖さの世界は私を惹き付ける。アリスの姉は
「私はあなたのように自由に夢、冒険ができないの。あなたが羨ましいわ。私はいつでも
待っているから、あなたはいつでも自由に冒険をしなさい。でも『アリス』であることを
忘れないようにね」という言葉はいろいろの問題を含んでいる。
私からの万理さんへの宿題
 1)「アリス」であることを忘れるとはどういうことか。
 2)冒険が出来る人と出来ない人の違いはなんであろうか。





「無限回廊のプロット」より  2011/1/2

◆ ある夢
 食べたものの遺伝子を取り込む人間の夢
 牛肉を食べて牛になったり、スイカを食べて種なしスイカになった。





「『あした天気になーれ・第四回』*感想のお礼」より  2011/9/21?? *同人α28号

◆夢の話
たまたま最近フロイトについて書いた本を読んでいたら、夢判断のとっかかりはフロイト
自身の見た夢を解析したことから始まったとあった。彼自身にエディプスコンプレックス
の葛藤があったという。しかし学説を確立するために自分の体験を克明にデータにをとり、
ギリシャの悲劇を故事を例にとって追求するという、体系を確立する人の情熱と執念は並
ではないといえよう。

そして我々が見る夢についての解釈はそう単純ではない。フロイトによると、夢は自分の
行為の慰め、正当化、願望がそのままの形で現れる場合と、潜在的な願望が形を変え歪曲
されて現れる場合があるという。このような夢の変装を見破り隠された願望を探り出すた
めには、四つの夢の性質「不安」「退行」「抑圧」「検閲」について知っておく必要があ
ると言っている。
今回のカラマツ・ジローの夢は何だったのか、仮面の多い輩の夢をおいそれとが判断する
ことは間違った解釈を導き出す事になるかも知れず、正しい答えを導き出すには素人では
手に負えなくなってしまう。

万理さんは「この夢の節が今回の作品の中でどんな役割を占めるのかがよくわかりません
でした。次章(五回)以降のお預けでしょうか」と書いているが、その説明が次会にある
かどうかはカラマツ・ジローの心模様次第で、その夢の解釈もまた読者のみなさんの想像
を自由に勝手に飛ばしてもらって結構であります。





「天使ごっこ・悪魔ごっこ(7)九月を読んで」より  2012/1/4 ?? *同人α29号

最初のころの号の不思議な浮遊感、どこまで夢かどこまで現(うつつ)かわからない表現
に作者独特の個性を見つけ感心していたから、この号ではじめて悪魔「晶」と天使君「秀」
が明確に表明さたころがちょっと違和感を覚えた。いや実はもう少し前「晶」が学生生活
を終え、社会に出てどんどん物語が現実味を帯びてきたころからの思いだったのかもしれ
ない。しかしこれは私の趣向という一方的な期待感であったから、なんら作者に強い注文
をつけてベクトルの方向を変えさせようというつもりはさらさらなかった。だが今回、最
初の読み始め印象とはちがい、またあの夢か現(うつつ)の間に浮遊する「晶」と「秀」
の関係が見事に表現されていて、これはなかなかいいぞと思った。

◆詩について
  詩といえば昨年の大晦日に駿河台下の三省堂へ行き、現代思想の特集「ニュートリノ/
 相対性理論」と「詩をどう読むか」・テリー・イーグルトン(岩波書店)の二冊を買っ
 て、正月休みに具えた。その詩の本によると「詩における言葉はいつも使うありきたり
 の言葉でなく、言葉への特別の自意識をもつようなものを選ばなければならない。
 言葉にはそれぞれに固有の響き、高低、密度があり、詩には他の言語芸術よりもそれら
 をたっぷり利用しなければならない」とある。

  今回の詩<朝流れる光の粒>を読むと、情景は不思議な浮遊感と隠喩に富むが、もう
 一つ統一されたイメージ、韻律、リズム感は少ないようだし、文語、口語の混在に違和
 感があるような気がする。韻文と散文のちがいは勿論韻やリズムなどの有無の違いもあ
 るが、作者が自由におこなう「行の切り替え」も大きな要素と成る。改行によって意識
 の変化・飛躍をさせることももあるし、その一瞬の沈黙の間に緊張感や強調感をもたら
 すのではないだろうか。その点でみると行の長さも不揃いだしリズム、同じテーマによ
 るリフレインもなくどこに焦点があるか判らない。・・・ちょっと厳しい評でしたか。
 だが作者は独特の鋭い言葉、想念、象徴、隠喩、シュール、ウイット、アイロニーなど
 を豊かに持ち合わせていると思いから、これから創作を重ねるうちにきっと素晴らしい
 ものが出来ると確信している。





「あした天気になーれ 第6回(最終回)*評のお礼」より????2012/3/10????*同人α30号

「赤目四十八瀧心中未遂」を書いた車谷長吉の言ではないが、「小説はいかに人物を描く
か」。はたしてカラマツ・ジロー、細君、チキン・ジョージの三すくみ掛け合いや人物像
がうまく描けているかどうか気になるところです。ご愛読ありがとうございました。
私の一番書きたかったのは第4回の夢の話。女性がカラマツ・ジローの左腕にすがり寄り
「あなたは今までずっと私を受け止めて呉れなかった」と言ってジローの目をのぞき込む
ようにじっと見つめた。男と女は常に細い糸の引き具合、夢見て恋して諦める。
そんなだばだばだの世界・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=SlFWzNfC6Yk&feature=related





山荘便り?? 2013/3/10

??先日ポール・ハーディング著「ティンカーズ」(小竹由美子訳 白水社)という本を読
み終えた。ちなみに題名の「ティンカー」とはどういう意味か。辞書によると「いかけ屋」、
「へたな職人」とある。
 物語は時計修理人の主人公ジョージ・クロスビーが死ぬまでの八日間に、父親のハワー
ドや家族との思い出とともに、様々な幻覚をみるという筋である。その父親は森のなかの
人々の要求を叶えるために、ティンカー、ティンカー、ティン、ティンとバケツやナベな
どの金物のぶつかる音をさせながら、荷馬車で色々な生活雑貨を積んで売り歩く暮らしを
していた。時には鋳掛け屋、鍋細工師としての仕事もしたが、たいていはブラシやモップ
の行商人だった。

 主人公ジョージの死の床での思考はすでに朦朧としていて、白昼夢にちかく時系列に従
わないもので、読者の私にとっては筋を追うことに難儀をした作品だ。とはいえ、私の読
書傾向は推理小説や冒険小説や時代小説のように筋を追う物語よりは、意識の流れを描く
ものが多いようで、いつも苦労している。しかし好みとはやっかいなもので、謎解きや事
件の進行など喜楽に読める作品でも、好みでないものはすぐに途中で投げ出してしまうの
だ。それに名前と場所と環境を変えただけで同じプロットで繰り返されるシリーズものの
小説等、その作り手の安易さ、読者の興味を刺激することばかりに気を配った作品、最後
にどんでん返しを得意とする技巧をこらした作品にはうんざりだ。



41α編集部:2014/05/19(月) 13:49:50
建築家らしい投稿集
.
??????????      建築家らしい投稿集?? 2007-2009







「独・偏・戯評」 -都市の景観 より  2007/7/19

◆ 日本の建築基準法では第1条に「この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に
  関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もって公共の
   福祉の増進に資することを目的とする」

◆ フランスの建築法規は「建築は文化の表現である。建築の創造、建築の質、これらを
  環境に調和させること、自然環境や都市景観あるいは文化遺産の尊重、これらは公益
  である」と定めてある。

◆ 日本の建築法規は単に構造や設備や用途等を規定しているのみで、フランスの自然環
  境や都市景観、歴史的観点等の理念が欠けているのがわかる。

◆ 現代都市の庶民の住み方においても、その理念による違いが顕著である。





「美」について   2007/7/19

◆ AM5:00起床。6:00より散歩。無縁坂を下り、東大を左に見て弥生町へ。弥生美術館、
  立原道造記念館をへて言問い通りを左へ回り、本郷通りを正門、赤門を経て帰る。

◆ 楳図かずおの建設中の家が話題になっている。外壁を赤と白の横ストライプで仕上げ
  る計画とか。それにたいして隣と向かいの住人から反対が出て建設を中止しろという
  ことである。テレビのインタビューでその人の「私の心の中を赤と白のペンキでぐち
  ゃぐちゃにするつもりか」と実に感情的なコメントがあった。あの感情は一種のファ
  ッショを生む根源を見たような気がした。自分の美的規範に反するものには理屈抜き
  で力ずくで断固反対するという激しさだ。

◆ 以前にもその様な環境破壊論が出た建物が会った。横浜の高級住宅地にピンク色のマ
  ンションが出来たときも、やはり「美」・「醜」の見解の相違で反対運動があったし
  千代田区九段に建つイタリア文化会館も、皇居の側であるから「赤」の外観がそぐわ
  ないという反対が起きた。その2例を見た者としての私見を言えば、あの程度のこと
  で環境問題として大げさに反対するほどのものか、もっと広範に改めるべき生活上の
  悪癖にたいしてその人達は運動を起こすべきだと思う。例えば、歩道に立看板や置看
  板、自転車や自動車の駐車、私物を放置しないこと。「美観」上「歩行上」も大いに
  問題である。建物の問題は私有地の中のこと、後者は公的な空間を使用に使うという
  根本的な違反であることに違いである。

◆ 話題になっている「美」については、非常に個人的なことで「あれがいい」「これが
  良い」と単純に割り切れるものではないだけに決定的な解決法がないのでやっかいだ。
  十分話し合ってコンセンサスを作り上げるように努力することしかないようである。

◆ ちなみに日本の建築基準法は建物の構造や避難や安全の規定が主で、都市の歴史や美
  観にかんする言及はない。それに反し、フランスのそれは「建築は文化の表現である。
  建築の創造、建築の質、これらを環境に調和させること、自然環境や都市空間あるい
  は文化遺産の尊重、これらは公益である」と定められている。





「観光立国ニッポン」*の感想 より  2007/8/7 ??*同人α11号

◆  さて、毎度遅刻常習犯である私の「観光立国ニッポン」についての感想を書きまし
  ょう。本来ならば最終回ですので、第一巻から膨大な物語を通読すべきでしょうが、
  糊口を凌ぐのに精一杯で、趣味のための時間を不思議な国のアリスに出てくる大きな
  時計をもった白うさぎから買いたいくらいであります。「急げ急げ」と白ウサギにせ
  かされながら、私が抱いた疑問点を簡単に二点に絞って書いてみました。

◆ 第一の疑問
  「観光立国ニッポン」という表題から、私は今までの日本の「重厚長大」の産業構造
  を脱しキャピタルゲインのように不労所得で生きていくためのシステムを見事に描い
  てくれる物語であると、私は早合点してしまったようです。イタリアやスイスやフラ
  ンスなどの歴史的遺産や文化的なものを目玉に観光で潤っている国のように、日本も
  政策によって可能ではないかという論を待っていました。しかし物語が終わってみる
  とこの表題は羊頭狗肉の看板に思え、快刀乱麻の結論を期待した私は朝三暮四の心境
  でもあります。もしEさんが最初に私が考えた物語と違うことを目指したのなら、こ
  の「観光立国ニッポン」とい表題は似つかわしくないと思います。それとも思い違い
  したのは私だけかな。

◆ あれだけの優秀な高級官僚が集まって苦労しながら出した結論、「観光立国ニッポン」
  に対する回答としてなんの実態もなく、また政策にもならずうやむやにされたことへ
  の私の驚き。E氏が描きたかったのはこの情景に違いない。霞ヶ関に蠢く選ばれた先
  鋭達が国政レベルで考えることの中には、問題解決において実態に合わない実に下ら

  ないシステムを考え出すように思われる。
◆ 私の携わる建築の世界でも、排煙施設とか天空率とか日影規制などの基準が定められ
  ているのだが、小難しい数式による算定がはたして実態にあっているのか疑わしい。
  例えば排煙施設というのは火事の時、非難支障になる煙を室外に出すための設備であ
  るが、それが現実に役に立っているのか実際効果が有った等と言った噂も聞かず、は
  たして有効に機能している設備なのか疑問である。道路斜線や北側斜線などの規制も
  建物の形態をいびつにし、材料や機能の有効利用を疎外している。また「姉歯疑惑」
  以来、構造や安全にたいする手続きの膨大な書類提出で何が変わったのか。確認申請
  で役所に出せと義務づけられた図書ははたしてそれらの建築物における支障の根本的
  な問題解決になっているのか。私は規制や提出書類の膨大な量にもかかわらず、不正
  は決して無くならないであろうと思う。なぜなら建設中の建物がそれらの図書に合致
  しているかどうかを検査するシステムが十分なままでは、いくら法律や提出された資
  料を机上で確認してもだめである。この一点が何時までものこる問題点で、役所がせ
  っせとつくる猥雑な手続きや小難しい数式の規制では解決しないこと必定である。こ
  のことは現在地球が負っている温暖化や資源の枯渇といった危機を回避しなければな
  らない行為にはんしているということだ。それらの煩雑な手続きはユーザーを守ると
  いうことではなく、行政の不備の責任を逃れるために言い訳をせっせと作っているに
  過ぎない。

◆ とまあ色々のことを考えさせてくれる小説ではあった。余り膨大すぎて私には当分こ
  のての長編小説は書けないと思った。たとえ欠陥が有ったとしても、Eさんはその名
  のごとく、私が創作するにあたって一番大事だと考えている、「イマジネーション」
  の才能を有り余る程持っておられる方だから、これからが楽しみである。またこの手
  の庶民には判らない魑魅魍魎の世界を描いて欲しい。





木造3階建の家  2007/9/23

散歩途中、本郷5丁目あたりの路地裏で木造3階建てのアパートを見付けた。多分戦前に
建てられて、戦火を免れた強者であろう。もはや現在の建築基準法の構造や防火規定に抵
触することは確実で、このような物は再び現れて来ないだろう。新しく立て直すとすれば
コンクリート造や鉄骨造などの確実に違った形態の物を要求されるだろう。
しかし、五十年以上も生き延びた建物には懐かしさがこもり、尾崎 一雄の文学を目指す
若い青年とその恋人との貧乏長屋に暮らす芳兵衛物語を彷彿させるものだ。
久し振りに息子が尋ねてきたので、細君と私の三人で秋葉原に山荘に取り付ける照明器具
を探しに行く。天井が高いのでペンダントでないと新聞も読めない。しかしこの頃の秋葉
原には照明器具を専門に扱っている店がめっきり減った。山田照明も山際リビナ館も閉鎖
になっていて、ゲームソフトやオーディオやコンピュータ関連の物ばかりになっているよ
うだ。そう言えば照明器具なんて新築の時一度購入すれば何十年も持つから、そんなに需
要が無いのだろうし、デパートから家具が消えたのと同じ理屈なのだろう。
(東京散策 (1) にも同時掲載 写真付き)





柔軟な思考の崩壊    2008/1/2

◆沼南ボーイ氏の「未来責任」について次のような投稿があった。
 道路公団民営化推進委員会や、最近の年金記録検討委員会などの委員などを経験した川
 本裕子早稲田大学教授が論じている、「問題解決の先送り」の風潮があると指摘してい
 る。
 兎に角社会保険庁や厚生労働省の薬害問題などをみると、よくもあそこまで杜撰である
 ことに平気だったものだと変に感心する。
 建築の構造疑惑・姉歯問題においても、公的審査期間にも同じようなの精神構造が見受
 けられた。

◆一方、我々建築の仕事に携わる者からすると、今回の不正防止を目論んだ建築基準法の
 改正もむしろ改悪としか写らない。早い話が、問題の本質は別な所にあるのだが、審査
 さえ厳しければ不正は無くなるだろうと単純に思っている節がある。
 だから、我々から見ると役所が「このように綿密に真剣に審査しています」とばかりに
 本質でない部分を事細かに規定して審査を厳しくするのは「ユーザーへのいい訳作り」
 としか思えない。「体面さえ整えば実質がなくても」責任は逃れるという、常套の考え
 方だ。
 それが如実に露呈したのが阪神神戸の大震災である。すべて倒壊した建築や土木の構造
 や工事監理をした役所が何一つ責任を取らない体勢になっている。それなら確認申請を
 役所に提出して許可を受ける必要はないではないか。権限だけあって責任はないという
 不思議な制度で、役人を食わすための制度でしかないのではと勘ぐるのは私だけではな
 いであろう。

◆改悪建築基準法の実例としては普通の3階建ての個人の住宅に、以前は3週間で確認申
 請がおりていたのに、改正後は3カ月以上もかかるし、その記載内容も微細に渡り以前
 の3倍も手間が掛かるのである。
 また、建材の防火や耐力や効果の認定資料の提出においても、以前は国土交通省の認定
 を受けた建材においては、認定番号を記するだけでよかったのが、改正後は認定証書と
 その納め方の資料を添付しなければならない。家一軒に200種類以上の建材を使う訳
 だから、その資料は一抱えもあるほどの量を提出しなければならない。これは二つの問
 題点があるのである。一つは公の機関が認定したものをなぜ認定番号で由としないのか。
 問題が起きれば建材を提供するものが責任を負うことを前提に認定した訳であるから工
 法や材質についての詳細を重複するかたちで提出させる意味がどこにあるのか。二つめ
 は世界の趨勢がエコや省エネや人的な労力の無駄を省くという問題を真剣に取り組んで
 いるのに、時代に逆行した政策であることである。マスコミも経済的停滞のみを追求す
 るのでなく、一番の問題点は世界的環境危機につながるこのことに気づくべきであろう。

◆無責任な国民や為政者の「未来責任」先送りの風潮とどう関わりがあるのかわからない
 が、今度の建築基準改正の取り扱いについて顕著になった事例として、柔軟な許容の考
 え方がここ近年変化していることに気づいた。





建築の安全について  2008/2/7

 建築の安全についてという記事が朝日新聞2008/2/7に載っていた。
私がいつも言うように書類審査を厳しくするだけでは不正な、あるいは施工ミスのない建
物は無くならない。改正基準法においても書類さえチェックしていればよしとするいつも
の役所の姿勢から一歩出ていないから、肝心の点で効果がないのである。それ以上に枝葉
末節まで書類に書き込まなければならなくなったお蔭で、建築士の作業が5倍も10倍にも
なり、重要な点に時間や意識がとれなくなってマイナス面がたくさん出てきた。
それから、提出する資料も格段に増えエコの面からも社会問題を含むと思われる。
国土交通省の認可を受けた建材もその納まりや材料の詳細を添付することを要求されるが
認定番号と認定書1枚の添付で済ますべきだ。責任ある省庁が認可したという権威はなん
なのか、信用できないのか。確認申請において役所が判断ミスを犯した建築物にたいして
役所は決して責任をとらない。阪神神戸大震災のとき倒壊した建築の審査をしたにも拘わ
らず、役所の責任に対しては一切言及していない。その程度の申請精度自体がなんの意味
と権威があるのか判らなくなる。





「フランス便りー春」* 評 より  2008/5/24 ??????*同人α15号

◆先ずR子さんの質問にお答えします。建築の敷地について、細分化されると通風や日照
 や植栽などの環境が阻害されるので、都市近郊の良質のベッドタウンではある一定規模
 の広さの敷地が要求されます。例えば横浜市のように敷地面積の最低限度として、
 第1種低層住居専用地域 165?
 第2種低層住居専用地域 125?
 以上の敷地の広さがないと建築できないなどの規制をしている自治体があります。フラ
 ンスの5000?からすると比べものにならないくらいのもので、お城とウサギ小屋の差が
 ありますけどね。そちらでは都市と地方の、或いは一般のサラリーマンと農業に従事し
 ている人々との問題はどうか知りませんが、日本ではどのような地域においても家屋敷
 の広さは概して狭いものです。都市部では15坪未満の敷地に3階建ての家を建てる場合
 もあり、設計に携わる身からするとその空間の貧弱さ、テクスチャーや住み方のセンス
 のなさには悲しくなります。日本は国土の70%が山岳で占められ建物を建てるのに適し
 た平地がないためか、それとも人口が多い故か、どこに行っても小さな家がひしめいて
 います。





「フランス便り―夏」*  評より   2008/8/31  *同人α16号

◆住まいにおけるヨーロッパと日本の比較を面白く読みました。
 たしかに石造りの建物は重い壁を支えなければならないために、構造上大きくな巾の窓
 がとれないから部屋の中は暗い。しかしその反面暑さ寒さの外気の遮断には有利です。
 一方日本の建築は木材が豊富に産したから「まぐさ式」と言われる柱と梁の構造で壁を
 作らなくてもいいから、大きな開口が可能である。しかし外気の影響をもろに受ける。
 私は、住まいはその土地に産する建材を使い、長い年月鍛えられた伝統的な工法の建物
 が一番合理的だと信じています。石造りは重厚で外の自然現象を制御出来るが、レンガ
 なども含めて「組積造」といわれる物は地震に弱い。最近中国で起きた四川大地震では
 数万人の死者を出した地域の家も「組積造」の建物が多かったようです。その点地震国
 日本にはその工法は向かないようです。

◆陰翳について
 日本でも昔は日差しを避けるために深い庇を設けました。その辺のことを谷崎潤一郎は
 「陰翳禮讚」を1934年に書いています。もうすでにそのころでも谷崎が嘆くような薄っ
 ぺらな深みのない西洋的な建物が横行していたのだろうと想像します。今の日本の殆ど
 の家が深い庇を持たず、明るい部屋だけが価値あるがごとく明るければいいとばかりに
 ガラス窓だらけの家になってしまったようです。晴天の夏の日差しの紫外線をもろに浴
 びる部を、人体に影響を及ぼす害や落ち着かない居場所の喪失を文化的、近代的、洗練
 された生活と思い込むのはいかがなものかと憂うこの頃であります。

◆シエスタについて
 私も職場と家が歩いて五分と掛からない近さにありますから12時から2時まで家に帰り
 ます。食事をして30分ほどシエスタを取ります。期せずして私はラテン系の習慣を享受
 しています。また珍しい異国の文化を紹介してください。楽しみに待っています。





モリモト倒産    2008/11/29

 東証2部上場のマンション分譲のモリモトが東京地裁に民事再生法の適用を申請した。
思えばバブル崩壊の1994年ころ、地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災が起こった時期に
モリモトの仕事をした。 永代橋の自分の設計事務所を止めて日本橋の熊本さんの曉設計
事務所に入った年である。
 川崎市の溝の口や大田区の糀谷そして世田谷の上祖師谷に建つマンションの設計をした。
モリモトの事務所はまだ自由が丘駅の近くのプレハブの事務所ではあったが、十年近くの
うちに中堅のマンション業者となったようだ。我々はしかし上記の物件の後は取引がなか
った。この業界は土地を持ちこんで企画しなければ設計を貰えないのである。だから不動
産屋から土地の情報をもらい、その土地にマンションを計画した物をディベロッパーに持ち込
んで、採算が合えはゴーとなるわけで、それこそ限りなく基本計画をしてもなかなか実施
までには至らなかった。今思えばこの前後は苦労の多い十年だった。





不動産の所有権について    2009/7/3

 「シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家」の最終回で取り上げる、不動産の所有権につい
て何度も専門家であるE氏に問い合わせたが回答をよこしてくれない。私の件は重要度が
低いのか、金にならないから無視されたのか、それとも単に物忘れが非道いためなのか。
とにかくいくら待っても返事がなく、全く当てに出来ないことが判った。そこで現役の不
動産会社を経営している安芸さんに電話で頼んでみた。快くOKしてくれたので、質問事
項を前もってメールで送ることにした。
 これは一戸建ての家とマンションなどの区分所有法に関わるものとの違いがあるのかど
うか判らない。あるいは共通の単純な個人の所有権の問題なのか。ともかくも舞台がマン
ションの中の問題なので、それについての権利や規制を定めた法律を知りたい。

1.住宅ローンの残る住民が所有権をもったまま、その負債を完済しないで行方不明にな
  ったっ場合。債権者はその所有権を自分に移すことができるか。もしあるとすればど
  のような手続きが必要か。

2.負債のない住民が行方不明になった場合。その権利は永久にどこにも移換されないか。

3.もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を、都市再生をはかる公的機関が
  整理できるか。もし出来るとすればどのような法律のもとに執行するか。

4.もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を公的に再生することが出来ない
  物件を「闇の力」によって不正に統合する場合はどのような詐欺手段が考えられるか。




Eさんからのメール   2009/7/5

 念願の「シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家」の最終回用の資料がEさんから届いた。
依頼して半年ぶりで非常に助かった。判らない点、外のバリエーションがが存在するかあ
るかどうか詳しく資料を読んで、あれば再度教えて貰うつもりだ。

Q1住宅ローンの残る住民が所有権をもったまま、その負債を完済しないで行方不明にな
  った場合。債権者はその所有権を自分に移すことができるか。もしあるとすればどの
  ような手続きが必要か。
A 債権者には様々な種類があり、どのような債権者かということがまず問題ですが、答
  えを単純化するために、ローン債権者(一般的には銀行)と管理組合(管理費にかか
  る債権)の二つに限定します。
  この二つであれば、答えは単純になります。
  結論的には、所有権を移すことは極めて困難ですし、むしろ不可能というべきでしょ
  う。金銭債権は、訴訟提起をし、判決を得て当該判決を根拠に土地家屋を競売し、満
  足を得る、ということになります。金銭債権としてはそれで十分だからです。
  その過程で自ら競売で落とすということが可能ですが、それは偶然の産物というべき
  でしょう。
  行方不明者を相手に訴訟を起こすときは、債務者を履行遅滞にするために公示催告し
  ます。行方不明者ですから、応じないでしょう。そこで民事訴訟を起こします。民事
  訴訟も相手方に訴訟を起こしたことを通告する必要があり、これは、行方不明者の場
  合は訴状の公示送達をします。
  前述の公示催告も公示送達も裁判所の前の掲示板に掲示することによって行われてい
  ます。
  行方不明者ですから、期日に裁判所に出頭して反論するということはあり得ないので
  ただちに結審ということになり、勝訴判決が直ちに出ます。
  こんなことになるのは、民事訴訟は当事者主義が貫かれていて、反論しなければその
  主張が正しいとして判決が行われるからです。

Q2負債のない住民が行方不明になった場合。その権利は永久にどこにも移換されないか。
A その通りです。所有権の絶対性と説明されています。本人の意思以外で所有権が移転
  することは有り得ません。

Q3もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を、都市再生をはかる公的機関が
  整理できるか。もし出来るとすればどのような法律のもとに執行するか。
A 行方不明者という理由で特別に扱う制度は我が国には有り得ません。強制的に土地等
  を使用する方法は、道路等の公共的な施設を設置するために、公権力による強制収用
  の方法があります。これは成田空港用地を国が取得するためにやった方法です。都市
  再生のような理由で強制収用を行っていいかどうか、かなり議論を呼ぶでしょう。
  ただし、マンションの場合は、その建て替え等では、集団の多数意見が尊重される仕
  組みとなっています。
  その場合、意見の申出等で前述の公示催告等の方法を使用して、実質的に本人の意思
  を無視して実行していく方法があるように思います。しかし、これには、これから更
  なる勉強をしないと俄かには困難なものがあります。
  具体的に崩落しようとしているマンションをどのようにしたいのか、おっしゃってい
  ただくとその方法が見つかるかもしれません。

Q4もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を公的に再生することが出来ない
  物件を「闇の力」によって不正に統合する場合はどのような詐欺手段が考えられるか。
A 一つは、単純に偽の売買契約です。
  もう一つは、本人の同意があったという文書の偽造です。
  いずれも行方不明ですから、短期的には問題になりえません、本人が気づいても後の
  祭りということになるでしょう。
  私はこの文書偽造の方法をお勧めします。一番単純で一番簡単だからです。
  法的には刑法に触れる方法ですので犯罪ですが、そこは闇の力ということになります。
  尚、マンションの場合は、闇の力に頼ることなく、誰かが偽造して後は誰もが知らん
  顔をする、というのが一番ではないでしょうか。これは古来から日本の伝統です。ど
  この村でも、この掟を村八分で守っているではありませんか。





分譲マンション管理費問題  2010/1/27

今朝2010/01/27の朝日新聞に「分譲マンション管理費-住まぬ人に増税額適法」という記事があ
りました。私はずいぶん前に管理組合の仕事から離れていましたのでこの問題が話題にの
ぼっていることを知りませんでした。当時から賃貸の部屋が増えると管理や環境に支障が
でることは身をもって承知していました。
「部屋をもちながら自らはすんでいない「不在所有者」には「居住所有者」より額を上乗
せしていいかどうかを争われた訴訟の上告審判決では26日「上乗せは許される」との判断
を示した。これは管理組合の活動が「居住所有者」に負担をかけ、不在所有者との不公平
感を和らげる手段として認められたものだ」と書いてあり、さもありなんと思いました。
万理さんのマンションでは早速この件に対して検討に入ったということは、管理組合が健全で
ある証拠でしょう。
私の「沈み行く家」はいかに管理組合の弱体によって、共同体が滅びてゆくかもテーマの
一つでした。区分所有の生活形態は様々な問題を抱えていることを、みなさんも知っても
貰いたいと思ったことでした。
「らぶれたー」の 「寡守(かす)」と「未時去(みぢこ)」はこれからどうなるでしょうね。
あわや落花狼藉かんらからから。
チリ人はご推察の人、しかし夜間飛行の前任の老パイロットとパチパチの頭脳明晰・矢理
久利上手・一寸異端女性ピエロのパイロットに摩り替わったことはご存知ないみたいです
ね。この世はだましだまされの世界、簡単に信じてはいけない。と中島義道はいっていた?



42α編集部:2014/05/25(日) 20:35:07
ユーモア/パロディあれやこれや
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         ユーモア/パロディあれやこれや
                  2007-2012




  その作品を読むと、ひたすら暗くてしっとりした純文学を追っている人のように思え
  た。 しかし、氏が書き残したたくさんのエッセイを読むと、どっこいそのあくなき
  探求心は、人や生き物や事象を思いもよらぬ視点からえぐりだし、観察しまくったり
  笑い飛ばすこともやってのけているのだ。 暗くてしっとりし過ぎる作品の中にも、
  どこか突き抜けたところにたどりつき、時に笑いさえ顔をだしてくることがある。
  笑いの中にもの悲しさを、暗くて悲しくてせつない中にユーモアも。
  散歩の最中でも、執筆中でも、それが激しく入り交じる。(編集部)





「傑作な看板」より 2007/7/18

◆ AM5: 00起床。 一時間仕事をする。6:00、今日は竜岡門から東大校内に入り、
三四郎池を廻って正門から出る。 本郷三丁目の角の三原堂は今立て替えの工事をしてい
るが、工事用シートに大きく「立てかえ最中」の文字が目に付いた。おやっ、名物の大学
最中(だいがくもなか)」のほかに「たてかえもなか」を発売したのかと一瞬思った。
普通たてかえの工事中であれば「立て替え中」とかいて「最中」とは書かないだろう。
これは三原堂の受けねらいのユーモアなのか。きっとそうに違いない。





「合評について」より  2007/8/10

◆ 合評についての方法論は長岡さんが実に明確に分析し提示してくれました。私も前面
  的にそれに賛成いたします。
◆ だが、今回の問題は実はそれ以前のマナーの問題だと思います。何を書いてもよろし
  いという建前は確かにそうですが、何度も検証し分析して苦労しながら合評するとい
  う責任を負った真面目な投稿と、楽しい会話やホラ話やユーモアや艶な話や披露とい
  ったお遊びの投稿とを区別しないところに有るのではないでしょうか。





「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」  2007/11/26

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案してき
  た。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新しい世
  界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつか試みた
  ものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A列は名詞を
  B列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列それぞれに乱
  数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番号をそれぞれ若
  い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、「民主主義にお
  ける無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」などと判じ物のようなものが
 ??出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろう。
  そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎにぎし
  く騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり始める。
?? 傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じながら想像も
  付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉同志のミスマ
  ッチによるおもしろさをかみしめる。





「シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家 第一回」の合評のお礼 より 2008/5/12

◆実は今悩んでいる文章のスタイルについてO氏のの鋭い指摘を受けました。
 「古賀さんは心象風景に徹するか、パロデイの話の展開を真面目くさってユーモアたっ
 ぷりにやるかどちらかに徹した方がよいと思う」と。たしかに今回私が描きたいテーマ
 はシリアスなことでありますが、「歪んだ風景−疑惑」に登場した5人衆が出てきてか
 ら急にパロディの様相を帯びてきたことで戸惑っているのは確かです。イマジンさんの
 「主人公がどのような動きをとるか解りません、考えていません」という創作状況まで、
 まだ私は達観していないのであります。





「沈みゆく家−合評」お答えより 2008/6/1

◆Nさんの「パロディとは,どんなもんを言うのか」については同人α第6号の「疑惑」
という「姉歯構造疑惑事件」を取り扱った作品に登場する5人衆の描き方に依っています。
但し正確にはパロディとは「既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見し
てわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように
作り変えた文学作品」とあり、「疑惑」は本歌取りをしていないので厳密にはパロディと
いう言葉は適当でないかもしれませんが。
シリアスな問題を抱えた人物を敢えて諧謔的にとらえたもので、奇想天外な物語の展開は
パロディでないと描けないと思ったからです。悲惨なものごとも鳥瞰的に見ると、観察者
はその悲惨さから逃れて妙に冷静に達観的に諧謔的にとらえることをするような気がしま
す。姉歯事件もある面では悲劇的な問題も含みますが、一方では色や金といった欲望に振
り回される人間の弱さ、ころりとだまされる検査機関などの風刺する要素は五万と見つか
ります。その五人衆が再び登場した訳ですから、そのまま滑稽な人物とするか、一転して
シリアスに描くか迷うという訳です。
 また「戦争の傷跡の中で,戦争で障害を負った友人のエピソードに力が注がれているよ
うに思いますが,なにか唐突というか,違和感を感じながら読みました」とありますが、
赤松次郎の育った環境や、心の中の襞に引っかかっている心情などを理解してもらうため
の記述と思ってください。





「K氏・M氏の投稿について」より 2008/6/23

 K氏がM氏の文に頭に来たと聞いて、私も考え直してみた。まだ良く分析は出来ていな
いが、M氏の人の良さそうなスタイルやユーモアらしきものの中に、妙に人を突き放すよ
うな皮肉な部分を感じた。これはF氏と同じ匂いを感じるもので、私がよく言う皮肉とも
どうもちょっと違うような気がする。私のは相手を尊重する心は失っていないつもりだが、
彼等のは吐き捨てるような侮蔑と揶揄が含まれているようで、感覚的に肌が違うと感じて
いる。





「エイプリル・フール」 2009/4/1

今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアのあ
る罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。





「浪速の空からの感想」より 2009/6/12

◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?





「ユーモアについて」 2010/8/28

X氏がユーモアやパロディー記事をいつもと異なるペンネームまで駆使して投稿している
記事を読むと、X氏の日頃の文章表現と言動を考えるに、氏のユーモアや笑話を投稿する
姿には違和感がある。そこでどうしてだろうと考えてみた。
 ・X氏は一度も破顔一笑したことがない。
 ・X氏は一度もユーモアや笑い話を会話でしゃべったことはない。
 ・X氏は一度も人の機知に富んだ話に乗ったことがない
などを知ると、氏がユーモアや笑い話を投稿することにそぐわないと感じるのは、私だけ
であろうか。
アリストテレスは「道徳的な美徳は習慣の結果として生まれる」といっている。また「我
々は正しい行動をすることで正しくなり、節度ある行動をすることで節度を身につけ、勇
敢な行動をすることで勇敢になる」ともいっている」。
それから結論を導くとすれば、X氏は彼の書く社会の不条理にたいする文をはじめ、ユー
モアや笑い話においても自ら生活の中で実践されていないものだから、自らが頭の中で深
く考察することなく他からの情報を単に書き写しているにすぎないのではないか。だから
私の心に全く響かないのだと考えた





「Sさんのお願い記事を読んで」 より 2010/9/14

◆ よそのサイトのことながら何が問題点かを野次馬たる私が分析してみよう。著作権と
 いう社会的な大きな問題はマッド・アマノ事件(昭和47 年)で有名であるが、あの作
 品が著作権に触れるとなるとパロディや本歌取りといった芸術の表現が規制されて、広
 い意味での表現の自由が奪われかねない。人の作品を加工することによってしか表現で
 きない作品をすべて否定すると世の中は進歩が無くなる。パロディや本歌取りは元の作
 品の価値を超えたオリジナルなものを作者が表現できるかどうかにかかっている。これ
 は単に他人の作品・学説などを自分のものとして発表する剽窃とは違うと私は思う。
  さて今回のような大々的な著作権の問題ではなく、身近かな問題をクリアーするには
 どうすればいいかは、Sさんの問題提起を分析することから始めなくてはならない。





「あした天気になーれ 合評のお礼」より 2010/12/5

随分遅くなりました。今回は佐高卒業50周年記念大会という大きなきなイベントに参加
したため、ニューロン・カフェを留守にしました。長岡マスターと万理とママには仕事を
押しつけて長期休暇をいただき、しかもお土産も持たず手ぶらで帰ってきて申し訳ない。
もう少し待っていただければ写真と噂話という情報を持参して、ナツヅタもすっかり散っ
た初冬のニューロン・カフェを訪れましょう。『ダ・ヴィンチ・コード』のロバート・ラ
ングドン教授のようにハリスツイードの上着と黒のとっくりセーターとハンチングの出で
たちで・・・。
◆長岡さん
 『佐賀の天気は、今日は晴れのち曇りだったようですが、予報では、明日の天気は生憎
 と、曇りのち雨になりそうですね。同窓会の小旅行の間だけでも、晴れ間が出れば良い
 のですが。赤松さん、どっちが出ても表になる下駄を履いて行ったかな』
◇ご推察の通り朝は本降りの雨でしたが、午後からはすっかり晴れました。雨男 のK君
 が一緒でなかったことも幸いして。
 さて本題、シリーズ物ですので物語の展開が読めないので、全体を眺めながら分析する
 ことを得意とする長岡さんにはちょっと評しにくかったのではないだろうか。評論する
 のも難しいというより、様子見の段階と断じられたのでしょう。まだまだ本題はさきで
 すから、ゆっくり吟味してからの評を期待します。
◆『一貫して描かれて来た、妻または同僚と一緒の時の主人公の不安感や不満、安定しな
 い生活に比較して、いかにも豊かで余裕たっぷりの様にみえ、その間に可なりの乖離が
 垣間見える』
◇さすが鋭い指摘です。突然の舞台が世俗的ではない雰囲気に変わり、一瞬の戸惑いを与
 えることは、私も思わなくもありませんでした。その辺の言い訳は次号で旨く書きまし
 ょう。
 それから表紙の青はKLINE BLUE(クライン ブルー)のつもりでした。一太
 郎のフォントの色で一番上の右から二番目の青を選択、濃度はたぶん85%にしたと思
 います。詳しくはwikipediaのヴ・クライン(Yves Klein)の項目を調べるとその青が
 ありますので、どうぞ調べてみてください。私の選んだ表紙の青と少し違うと思います。
◇万理さん
 25号の表題「颯」を気に言ってくれたありがとう。ミシェル・ルグランの「風のささ
 やき」、またマンディ・バーネットのウイスパーリング風もまたいい曲でしょう。私の
 詩は推敲していないので直接的でメタファーに欠けています。そのうちもっといいもの
 に仕上げたいと思っています。
◆『ポエムでは風を敏感に感じ取る繊細さが読み取れる。作者はいつも右目で千年先、臆
 年先を見、宇宙を感じている。感覚の世界。そして左目で日常の中観察しまくり、次々
 と新しい本を読んで、嬉嬉として遊ぶ、実験する』は万理さん、ほめすぎですよ。
◇私はウィット、ユーモア、シニカル、アイロニカル、ロマン、笑いは何も人を笑わせよ
 うと意図的に創作しないところにあるのではないかと思っている。なんだかくそまじめ
 な人生のどこかに一瞬垣間見る悲しくも滑稽な姿こそ本当のユーモアだと思っている。
 努力しても努力しても人並みに旨くいかない、それでも必死でなにかを成し遂げようと
 する行為。だから普通の人は絶対しないであろう、「タロウ」のように何かを信じて鎧
 を纏い、ヘルメットを被りガチャガチャいわせながら行動する姿の中にそれを感じる。
 人はそれを異端と呼ぶだろう。カラマツ・ジローもその細君もチキン・ジョージもその
 辺に転がっているようで、どこか変だ。通常の生活の中の異常さ。とにかく人の書かな
 いことを書きたいという気持ちで今はいっぱいで次々に実験したいと思っています。





「パロディについて」 2012/3/10

 私は、パロディは平安時代から江戸時代にかけて行われた落首のようなもので、自分の
手の届かない「権力者」や「支配層」にたいして、その手段でしか批判し得ない表現方法
として使われるものと思っていた。しかしご三方は同じ同窓生を揶揄や風刺や批判のため
にその手法をとられて楽しんでおられる。これは私が「権力者」や「支配者」並の存在と
勘違いされたのか、それとも同列の人間をこき下ろすことで自らの優位性を保ち、かつ心
の安らぎをえられたのかどうか私には判りません。
もし私がパロディの作品を創るとすれば、「権力者」や「支配者」を的にするか、また
は自らの性格や嗜好を対象に風刺するかで、少なくとも友人や縁者を対象にするときはそ
れを許される関係をもつ人に限ることを心がけている。しかし私がいつも渋面をつくりな
がら小難しい硬いことばかり発言していて、ウイットやユーモアを解さないという訳では
ない。しかし今回のように論敵を揶揄や風刺で誤魔化す手法はいくらうまくできていて面
白くても趣味が悪すぎる。そういう人は己の人格を自ら貶めているとは思わないだろうか。
きっとそういう風に感じる人もいると思う。
こう書くとまたまた反論のための言葉尻をとらえられて、延々と饒舌の集中砲火を浴びこ
のホームページが炎上しそうで、しばらくは沈黙を守ろうと思う。





「[人生詩]を読んで」 2012/7/17

 今この山荘の周りは狐の手袋(ジキタリス)が薄紫の花を咲かせている。自然は不思議
なもので春が来て緑で覆われると、そこにどのような野草が生えているのか俄には分から
ない。丁度深い緑の山のなかに咲き誇る花を見て、初めてそこに桜の木があったことに気
づくようなものだ。
 春に越してきてまず山吹の花一色になった山を見た。それが終わると空木の花があちら
こちらに静かに咲いていた。それからしばらくは花らしいものが絶えた時、大まむし草が
盛んに目に付くようになる。それからこの季節になると狐の手袋や紫陽花の花が咲き出し
た。
さて本題
 十代、四十代、六十代のときの同じ日の日記によるものとして書いてあるところは、時
代による考え方や生きる姿が比較できて面白い。これは同人α第29号、題30号の「冥
界から覗く人の像をした美しい青い地球」において、自分自身を冥界と現世界を同時に覗
くという、二重の視点から描く面白さと同じだ。
十代は小説を読んだり批判したり、疑問だらけの現実に回答を得ようともがいているよう
だ。
 四十代は社会のなかにどっぷり浸かった現実的な活動が主だ。
六十代は「無限」「時間」「空間」などの悩ましい問題などに目を向けている。
 それにしても高校の同窓会の描写には笑ってしまった。作者と同じような環境を共有し
ている者にとっては、創造された情景と現実を重ね合わせて、ジグソーパズルのゲームを
する楽しさがあり非常に面白かった。これは作者がユーモア、エスプリ、ウイット、悪戯
心を豊富に持ち合わせていることを証明していのである。読者に阿る出もなくまことに淡
々と画いた情景の文の中にそれが良く感じられて、思わずニヤリとしたことであった。

  



43α編集部:2014/06/05(木) 20:53:30
山荘住まい 2013  前編
,

          山荘住まい 2013 前編



     著者は2012年4月に移住したから、この年の一月から三月までは
     初めての定住生活で迎える一番寒い期間となったはずだ。月に一度訪
     れるかどうかの時とは、例え慣れているとは言え勝手が違うだろう。
     のんびりと自然を味わっているか読書三昧の日々のように読めるのだ
     が、冬を無事に越すことができたのだろうか。(編集部)




  冬



「新しい年」 2013/1/1
暮れより紳一郎が来る。いままで乗っていたジムニーがあまりにも古く、みっともないか
ら買い換たらという息子の提案で車のディラーに見に行き、彼が資金を出すといって即座
に三菱パジェロ・ミニを購入した。本来ならお年玉をあげなきゃならないのに、息子から
のでかいお年玉だ。




山荘便り/新雪 2013/ 1/9

??最低気温も−10°の日にもなる季節になった。 ところが本郷に住んでいた時と比べて
随分寒いだろうと思われるのだが、下着ととっくりセーターと薄手のダウンジャケットの
三枚のままで過ごしているのである。「ここら辺は−20°になるよ」とばかりに山荘を建
てるときの職人さん達にさんざん脅かされていたので、当然零下の世界が相当に過酷なも
のだとばかり想像していた。しかしこれも慣れなのか、現に民家もあるわけだからいざ住
んでみると死ぬほどのこともないことが判った。

??雪の日は朝早く起きて山道を散策する。誰もいない、新雪を踏みしめるキュッキュッと
いう自分の足音以外は無音の林の中の時間を独り占め出来るのは幸せだ。
そしてそこにはいろいろの動物の足跡を見つけ、これは何だろう、猪かウサギ、鹿、猿、
栗鼠、モモンガ、貂かと思いを巡らせて推し量るのは実に楽しいことである。しかし足跡
の大きさ、形態、歩幅の間隔を見て、自分の中で想像している動物の足跡と一致しない故
に、それらの実態はまだ解明出来ていないのである。このまえ台所の地窓に両手を着け、
中をのぞき込んでいた黄色の毛をした貂の姿は愛嬌があって可愛く、もう一度その姿を見
たいと思った。




「雪が降る」2013/2/19

 息子がやって来て、雪のなかの自分の車−パジェロ・ミニを初めてみる。

    

    





     寡黙な人からの山荘便り 投稿者:同人α総務??投稿日:2013/1/9

     投稿が少ない文芸「同人α」は無口な人が集まったようだ。
     αの掲示板「ニューロン・カフェ」を「沈黙のウェブサイト」と表現した
     同人もいた。

     無口の象徴でもある、山暮らしを始めた「死霊」に出てくる緘黙の矢場徹
     吾のような人が、時を置きポツリと山の様子を書いてくる。静かな掲示板
     にふさわしい、静かな山の暮らしをポツリと書く。
     少ない投稿の中でもめったに登場しないシリーズだからかつい眼を懲らし
     て読んでしまう自分がいる。写真がなくとも、ないからこそ?山の暮らし、
     風景が十分(勝手に)想像でき、伝わるシリーズだ。
     ああこの同人は元気に生きているのだなと少し安心したりもする。

     引っ越し能力・願望は判らないが、貂(テン)は狐や狸を上回る化身能力
     を持つ生き物だ。じっと考え事をしている人間に興味をもち、部屋の中を
     覗いていたのだろう。
     次に現れたとき、矢場徹吾、いや赤松次郎はこの貂と黙って化かし合いを
     するのかもしれない。

     総務としては緘黙の掲示板が気になることが多々あったが、だからこそ丁
     寧に書く、丁寧に読む、そんな場所なのかもしれないと思い始めている。




山荘便り/素数 2013/ 2/12

 東京新聞2013/02/07に「これまでで最大の素数」を発見というニュースを報じていた。
素数好きとしては見逃せない記事で、それについていろいろと調べて見た。
「1742万5170桁という、 現時点で最大の素数を、 米国の素数探索団体がプロジェクト
「GIMPS」の参加者が発見したという。 素数の中でも特に珍しい「メルセンヌ素数」の
48番目になる。」という。素数とは 「1と自分自身以外に約数を持たない数」 のこと。
ただし1は素数に含まないという。
 どうして大きな素数を見つけようと血眼になるのか、そしてまたいま現在では円周率π
の小数点以下の計算は2011年現在では10兆桁まで計算されているというが、それらの値
を再現もなく追求することにどのような意義があるのだろうか。しかし単なる好奇心と
も言えない。そのひとつとして
◆素数の効用
 それは第三者に通信内容を知られないように行う特殊な通信(秘匿通信)方法のうち
 通信文を見ても特別な知識なしでは読めないように変換する表記法(変換アルゴリズ
 ム)のことである。通信だけでなく保管する文書等の内容を秘匿する方法としても用
 いることができる。その鍵として、十分大きな素数を二つ選び掛け合わせて公開鍵暗
 号を作る等、現実に行われている手法である。

◆自然界の素数
 自然界に現れる素数の一例として、素数ゼミと呼ばれるセミの一種がいる。アメリカ
 合衆国に分布するこのセミの成虫は、ある周期ごとに、13年ないしは17年間の周期で
 大量発生する。成虫になった後は、数週間だけを地上で成虫として過ごし交配と産卵
 を行う。
 このセミが素数周期で発生する理由として、寄生虫や捕食者に対抗するための進化で
 あるという説や近縁種との交雑を避けるためであるという説がある。つまり、もしこ
 のセミが12年の発生周期を持っていた場合、 12の約数である2,3,4,6年の寿命を持つ
 捕食者と同時に発生してしまうことになり、捕食対象にされやすくなる。また、地理
??的に近い場所で12年周期と15年周期のセミが存在した場合、 60年ごとに2種は同時に
 発生し、交雑してしまう可能性がある。すると、雑種は発生周期がズレてしまい同種
 のセミとの交尾の機会が失われる。 素数の周期を持つものは交雑が起こりにくく、
 淘汰されにくいと考えられる。
    以上Wikipediaによる。

兎に角、数字は面白い。さらに素数好きは奇人変人が多いのかも知れないし、絶滅危惧
種ではないかという疑いがありそうだ。




山荘便り/ルーティンワーク 2013/ 2/16

 アランの幸福論にあるように、人は身の回りの悩みや漠然とした恐れや不安などによっ
てもたらせれた滅入る気持ちに陥った時、その原因を一心不乱に探したり、反省や自責や
悔いることで,ますます頑なになっていく。体の筋肉は硬く緊張し、肺は新鮮な空気を取
り入れる力はなく、血液はうまく循環することはできず滞り、腸は働きを止め活動が鈍く
なってくる。
 そんな時は思考を停止して、体を動かし筋肉を和らげ、深呼吸等をして精神の安定を取
り戻す方がよい。背伸びをしたり、屈伸運動をしたり、顔や手を洗ったり、お茶などを飲
み、音楽を聴き、散歩したりする。
 私はある作業や仕事や創作に倦いたときは、それらの達成のために必要な義務感や意志
の力に強いられることなく、すぐさま別のことをすることにしている。たとえばコンピュ
ータの前で設計図を作成したり、物語の構想を練ったり、難しい本を読んだりすることに
飽きると、家を出て林に分け入り薪ストーブを焚きつけるに最適の杉の枯れ葉を集めたり
近所の大工さんから貰った白樺や唐松の丸太を小さく切ったり割ったりして薪にする。ま
た少し疲れたり腰が痛くなると山荘の周りの山道を小一時間ばかり散策し、赤松や唐松、
杉、木楢、椚などの姿や葉の色を観察したり、動物の足跡を探したりする。
 この歳になり多少の余暇の時間が多くなってみると、諸々のルーティンワークも考えよ
うによっては効能があるのではないかと思えるようになった。
 まず、朝起きて窓のカーテンをすべて開け、薪ストーブに火を付ける。コーヒーを飲ん
だ後二摘みのピーナッツを小さく砕き、小鳥の餌台に載せる。ヤマガラやコガラがその餌
を啄むのを眺める。掃除とか洗濯、食事の用意、ゴミ捨て、薪拾い等の生産性のない毎日
繰り返される些細な仕事を、嫌だと思ってしまえばこれほど面白くなく不毛な行為だと思
え、苦渋を感じることもあるだろう。しかしまったく自堕落な生活でも可能な者にとって
も、そのルーティンワークは一日の生活の一定のリズムを作る効果、また仕事や趣味に倦
いたときのリフレッシュという効能を考えると、精神的にも肉体的にもあながち悪ことば
かりとは言えないのではないだろうか。
 しかし、この文章を我が細君に見つかると、「だったら毎日の三度の食事作り、洗濯、
風呂の掃除などなどのルーティンワークをすべてやってよ」とこれ幸いに反撃をしてくる
にいまっている。  あぶないあぶない。




山荘便り/ヤマガラ 2013/ 2/19

 この山荘に移って来てからまもなく、小鳥の餌を毎朝与えている。蛇や鼬鼠や貂などの
鳥の天敵がよじ登れないようにと考えて、ハンガーからチェーンで中空に吊った、コール
タール焼き付けの小さな鉄製の餌台だ。
 今のところ集まってくるヤマガラやコガラは、店で買った小鳥用の麻の実などよりも、
ピーナッツを2ミリほどに砕いたものが好きなようである。正確に数えたわけではないが
特にヤマガラは10数匹が四方の林から入れ替わり立ち替わり飛んできて、朝早くからま
だ何も入っていない餌台をまだかまだかと催促しているように揺らしている。

 この前はいつも通らない山道に踏み行った時、大きな罠を見つけた。
この近くの害獣の指定された猿や鹿、猪、熊等を捕獲するためのもので、太い鉄筋を竪格
子状に組んで作られた幅1メートル、奥行き2メートル、高さ1.5メートルの、すこぶ
るゴツイ代物である。奥に吊してある餌(鶏だろうか?)をくわえると入り口の扉がスト
ンと落ちるようになっている。まだ実際に罠にはまった動物は見たことがないが、ある日
山道の入り口に、お揃いの柿色のシューティングベストを着た猟友会のメンバーが忙しく
出入りしていた。犬が吠えていたのでたぶんなにかが罠にかかったのだろう。
 人が餌付けしている訳ではないが、最近人里へ頻繁にそれらの野生動物が出没する。
どうもゴミ置き場の餌になるものを漁るらしい。

 そういうことを考えると、小鳥に餌を与える方がいいのか、与えてはいけないのではな
いかと考える。 野生動物に対して餌付けが行われるのは、大きくは二つの目的がある。
給餌による保護を目的とする場合と、観察を容易にするためである。
 絶滅危惧種ならともかくそうでもない動物たちに、安易に餌を与えるとその種だけが繁
殖したりしないか。野生としての餌を探したりする能力、飢えに耐える能力が失われるの
ではないか。人間に対する警戒をゆるめさせるのではないか。特にある種の物だけが増殖
してその環境が変化して、自然のバランスが崩れないかという懸念だ。

 ヤマガラは神社のお祭りで「おみくじ芸」をするほど、人になれやすく学習能力も高い
ので、たぶんそのうち私の手の上のピーナッツを啄むようになるだろう。だがそこまで馴
らしてみようとは私は思っていない。家の外に出ると餌をせがんでいるかのようにチチッ
チチッとうるさく鳴くようで、最近は餌台に通うヤマガラ達は少々肥満になったように見
えるのだが、思い過ごしだろうか。




  春


山荘便り/訪問者「モロ」2013/ 3/1

 一週間程前に迷い猫が台所の窓を見上げていた。ちょうど数年前に貂が覗いていた様子
のことを思い出させるシーンだった。そしてまた昨年の春、そっくりの白ろ猫が数回訪れ
たことがあったが、その猫は遂に居着かなかった。近所の人に聞くと親猫は車にひかれて
死んだという。そう言えば山の下の集落で親子をよく見かけていたが、今の迷い猫はあの
子猫か思った。

 毛並みは全体的に白っぽいが、野良猫生活で薄汚れたのだろう、真っ白とは言い難い。
額と足と尾に微かな灰色の虎模様が入っているので、猫図鑑で調べて見たがどうも混血ら
しく判然としない。それでもトンキーズという種類に雰囲気が似ている。まだ人に馴れて
いないので、捕まえて詳しく調べることができない。だから年齢も子供なのか大人なのか
雄か雌かの性別さえも判らない。しかし目の色はすこぶる美しい。アクアマリンの宝石の
ような魅惑的で上品でエキゾチックな異国の薫りが漂う。

 細君は「モロ」という名前を勝手につけて餌をやっている。その名前のいわれを問いた
だすと、ミラノ公 ルドヴィコ・イル・モーロ(1452〜1508年)から取った名前「moro」
であるという。私に相談することもなく、またそのよりどころも説明することもなかった
が、しつこく聞くと今読んでいるマキャヴェッリに関する本に出てくる人物の名前を頂戴
したという。ミラノ公と言えばレオナルド=ダ=ヴィンチが仕えた主人であり、ミラノ公の
愛妾チェチリア・ガッレラーニをモデルに描いた「白貂を抱く女性」が有名である。

 この「moro」はこのところ家の外の零下10度を耐えて生きているのだから結構タフ
にちがいない。餌をやったり寝床を提供したりしているが、家の中では飼わない主義であ
る。また都会のペットのように着物を着せたり、抱いたりはしないつもりだ。だからこの
家が居心地が良ければ居着くだろうし、自由な野良の生活が望ましければ、また山の下の
民家が恋しければいつの日か自らここを出て行くだろう。私はだから「moro」の好き
なようにさせようと思っている。

    




山荘便り/へたな職人 2013/3/10

??先日ポール・ハーディング著「ティンカーズ」(小竹由美子訳 白水社)という本を読
み終えた。ちなみに題名の「ティンカー」とはどういう意味か。辞書によると「いかけ屋」
「へたな職人」とある。
 物語は時計修理人の主人公ジョージ・クロスビーが死ぬまでの八日間に、父親のハワ
ードや家族との思い出とともに、様々な幻覚をみるという筋である。その父親は森のなか
の人々の要求を叶えるために、ティンカー、ティンカー、ティン、ティンとバケツやナベ
などの金物のぶつかる音をさせながら、荷馬車で色々な生活雑貨を積んで売り歩く暮らし
をしていた。時には鋳掛け屋、鍋細工師としての仕事もしたが、たいていはブラシやモッ
プの行商人だった。

 主人公ジョージの死の床での思考はすでに朦朧としていて、白昼夢にちかく時系列に従
わないもので、読者の私にとっては筋を追うことに難儀をした作品だ。とはいえ、私の読
書傾向は推理小説や冒険小説や時代小説のように筋を追う物語よりは、意識の流れを描く
ものが多いようで、いつも苦労している。しかし好みとはやっかいなもので、謎解きや事
件の進行など喜楽に読める作品でも、好みでないものはすぐに途中で投げ出してしまうの
だ。それに名前と場所と環境を変えただけで同じプロットで繰り返されるシリーズものの
小説等、その作り手の安易さ、読者の興味を刺激することばかりに気を配った作品、最後
にどんでん返しを得意とする技巧をこらした作品にはうんざりだ。

 作者ポール・ハーディングの創作方法が私の日頃のそれによく似ているので驚きである。
作者は教職の空き時間に、ノート型パソコンや手近の紙に、時系列は関係なく思いついた
シーンから文章を紡ぎだしては記録していった。プロットを構築するのではなく言葉やイ
メージを追いかけた手法はハーディングに合っていた。そして最後に彼は書いたものをす
べてパソコンに打ち込んでプリントアウトし、床に並べ、絵画で言うコラージュのように
切り貼りして構成を整えるという。
 しかし今時、パソコンやワープロを使わないで、完結するまで原稿用紙に手書きで書き
進める人は、私にとっては驚くべき才能に思われる。小さな訂正や添削はあっても、全体
の流れや筋を頭に入れながら入り口から出口まで完璧に作り上げるのは私にはとても出来
そうもないのである。




山荘便り/春一番の花 2013/3/26

??春の山で一番早い花
ここは藪椿など冬に咲く花木がないために、杉や檜、樅の木以外は枯れ葉色一色の山肌に
なる。そして一番早く花を着かせるのはキブシとサンシュの花である。
 コブシは蕾は膨らんではいるがまだ咲かない。キブシは夏、房状になる青い実を見て、
植物図鑑を探したが何の木か判らなかった。今日その花を見たので再び調べた結果それだ
と判明した。気になっていたことが解けてちょっと頭が軽くなった。
 サンシュは夏の樹形はまったく覚えがないが、春の先駆けに黄色い花が咲くのを覚えて
いた。どちらの木の花も控えめに咲くので、あまり華やかさはない。人工的に栽培した色
鮮やかな花々で満ちている都会と違い、色のない山肌にささやかな生気のある芽生えが私
の気持ちを前に進ませる。その稀少さが他の派手な花々より効果が大きいといわねばなら
ない。

キブシ(木五倍子) Wikipediaより
樹高は3m、ときに7mに達するものもある。 3-5月の葉が伸びる前に淡黄色の花を総状花序
につける。長さ3-10cmになる花茎は前年枝の葉腋から出て垂れ下がり、それに一面に花が
つくので、まだ花の少ない時期だけによく目立つ。

サンシュユ??「ハルコガネバナ」
内部にある種子を取り除き乾燥させた果肉(正確には偽果)は生薬に利用され、 山茱萸
(やまぐみ)という生薬として日本薬局方に収録されており、強精薬、止血、解熱作用が
ある。果肉は長さ1.4 cm程の楕円形。牛車腎気丸、八味地黄丸等の漢方方剤にも使われる。




山荘便り/僕の嫌いな人達 2013/3/31

??私の嫌いな10人の人びとを読んで
変人、奇人である哲学者・中島義道の本「私の嫌いな10人の人びと」が、貸していたとこ
ろから数年ぶりに帰ってきた。不思議なことに私の本だということがよく分かったものだ。
その人は本棚の整理をするとき、小難しい、しかもひねたことが書いてある書物を読むの
は、私しか思いつかなかったからだと私は憶測した次第である。 それほど世間の常識に
楯突くことを書き連ねていて、 一般には受け入れられている行為を糾弾しているようで
常識人は不快になるのだろう。

 1 笑顔の絶えない人
  ・笑顔の絶えない顔は気持ち悪い
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
  ・感謝の気持ちを他人に要求する人
  ・日本的商人道徳への違和感
 3 みんなの喜ぶ顔が見たい人
  ・家族至上主義
 4 いつも前向きに生きている人
  ・考えない人
  ・厭なことはみんな忘れてしまう人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
  ・対立を嫌う人々
 9 「おれ、バカだから」と言う人
10 「わが人生に悔いはない」と思っている人
  ・さっさと満足して死になさい

 中島義道の言わんとするところは、常識的な心地よい言葉ですましていることへの不信
である。その言葉の底の底まで考え抜くということをしないで、美辞麗句を使っていれば
すべてうまくいくという割り切り方、安易さが嫌なのだと思う。本の帯にも「いい人」の
鈍感さが我慢できないと書いてあった。
 たとえばボランティアなどを進んで行う人には敬意を払うが、自発的で無償な行為であ
るはずのことを人に言いふらすのは、何かの見返りを求めているようで見苦しい。そこに
はしてあげる」という意識が有りはしないかなどの解釈が成り立つだろう。
 しかし吉田兼好も言っているように「何もしない批評よりも偽善でも行動を」第85段は
大して何もしない私にはぐさりと胸に突き刺さる言葉である。

 ちなみに変人・奇人の作家はドストエフスキー、カポーティ、シラー、ジェイムス・ジ
ョイス、夏目漱石、江戸川乱歩、夢野久作、太宰治、吉田健一、久生十蘭、内田百間、
泉鏡花、坂口安吾等々。



44α編集部:2014/06/17(火) 14:27:33
山荘住まい 2013 後編
                                  ,

          山荘住まい 2013 後編



     山の定住生活も2回目の夏と冬。著者は猫と出会うため、そして本を
     読みふけるために移住したに違いない。そう思える。(編集部)




  夏


山荘便り 2013/ 6/7

梅雨というのに一向に雨が降らない。だから太陽の光は十分満ち足りているにもかかわら
ず、朝夕はセーターとジャンパーが手放せない程肌寒い。標高1000メートル近い高さのせ
いだろうか。 春先山吹がこの辺りを黄色で一斉に染めたが、山荘の蔓薔薇や紫陽花や
ブラックベリーなど、蕾はあるもののその後なんの花も咲かず、ちょっと寂しい。

 最近もう一匹の野良猫が時々庭に訪れるようになった。三食昼寝付きという暮らしを保
証され仕官した我が家の猫、モロが羨ましいのかも知れない。細君はその新参の猫をカト
ーと名付けた。 あのローマ時代の 吝(しわい)な大カトーの名前である。どのような意
味でそのような仇名を細君が付けたのか、私はまだ問うていない。それにしてもモロに顔
や毛並みがそっくりで、兄弟ではないかと思っている。なぜなら体は大きいがモロと喧嘩
するでもなく二匹とも三メートルばかり離れて黙って座っていることが多い。

 私は朝八時を過ぎると屋敷の上の道に出て散歩に出かける。最近は下のテラスか藪の中
にいるモロを上から呼び、 しばらく待っていると黒く防腐塗装を施した木 製の階段をお
ずおずと登ってくる。私がゆっくり歩き出すと三メートルばかり距離を置いて付いてくる
ようになった。前に飛び出したり、藪や他所の屋敷に入り込んだり見え隠れしするのは私
をからかったり試したりなどの遊びの積もりだろうか。散歩に小一時間ほど付いてくると
いうことはモロにとってどのような感情があるのだろうか。人の顔を見分けたり、自分の
志向した自由な意志、記憶などを観察するに、まんざら知能が無いわけではなさそうだ。
兎に角、私と迷い猫とがこのようになるまで三ヶ月ほどの時間が必要だった。しかしまだ
私の膝に乗るまでには至っていない。

(*「猫道」同時掲載)




山荘便り/ウィリアム・トレヴァー 2013/ 6/9

つい先日友人二人から山荘への引っ越し祝いとして高額な図書カードをもらった。
ここ一年間、仕事が思うように受注ができず、本を買ったり旅行に出かける気分に なら
ず参っていたところで、ことのほか有り難かった。
 早速、念願のウィリアム・トレヴァの本を出来るだけ求めて読もうと思った。日本で出
版されているものは八冊で、そのうちアイランド・ストーリーズは昔既に読んでいたので、
後の七冊を本屋に注文した。 ところが「アフター・レイン」「密会」「聖母の贈り物」の
三冊は求めることができたが、後の三冊は絶版でこれから全国の古本屋を探さなければな
らないだろう。

 ウィリアム・トレヴァー(William Trevor, 1928年5月24日 - )はアイルランドのコ
ーク州出身の作家。現在は、イギリスのデヴォン州に在住し、英語で創作活動を行ってい
る。人物の造形にすぐれ、長篇、短篇ともに名手として高く評価されている。イギリスと
アイルランドの双方を舞台に、カトリックとプロテスタントに属する人々の対立や葛藤を
しばしば描く。

Wikipediaによる
ウィリアム・トレヴァは主人公の身の回りに起きる事件を扱うのだが、大げさに描くこと
はしない、日常の誰にでもありそうな出来事を静かに綴っている。特に女性の心の動きや
感覚の記述に長けていて、読後に何かいい知れない問題を読者に与え考えさせるのである。
さっそくアフター・レインという短編集のなかの最初の一遍 「ピアノ調律師の妻たち」
を読んだ。書き出しは「ピアノ調律師がバイオレットと結婚したのは、まだ若いときだっ
た。そして、ベルと結婚したのは年老いてからだ った」というセンテンスから始まった。
ピアノ調律師が盲目であることによる二人の妻たちの複雑な思いの物語が始まる。後妻の
ベルはダフネ・デュ・モーリアの小 説「レベッカ」ほど気味悪い感覚ではないが、ピア
ノ調律師の考えや感覚に先妻バイオレットの影を感じた。それはピアノ調律師が話す訪問
先の様子や遠くの山や景色の色が、今ベルの感じていることと少し違うことだった。たと
えばピアノの調律に訪れた家の印象を調律師は「あんなに陰気な部屋を君は見たことがあ
るかい?
あれは聖画のせいかな?」。それにたいしてベルの印象は微妙に違っていた。突然、ベル
は自信を深めて人がなんと思おうと気にすまいと思った。裏庭の花壇から先妻が植えたバ
イオレットの植物を根こそぎ引き抜き、花壇全部を芝で覆ったのだった。

 この物語はいろいろの問題を含んでいると思った。身の回りの環境や人々の姿形におい
て、盲目のピアノ調律師の認識が若い頃はバイオレットの目や感覚を通して与えられたと
いうこと。前妻の意図した何かがあったのか、それとも彼女の持ち前の率直な感性なのか
判らない。しかし後妻のベルとは違ったもので、彼女はそれがピアノ調律師にもたらされ
た情報が正しいかどうかは別として、自分の目で見たものを語ろうと決心したのだった。
それはまたこの世界にたいする認識が果たして全く正しいものかどうかという重い問題を
この小説は私に突きつけたように思えた。




山荘便り/ランプの下で  2013/ 6/25

今朝早く目が覚めた。四時半だった。久しぶりに青空文庫を開いて新しい作品掲載を覗
いてみた。堀辰雄の「ランプの下で」という随筆があった。

 「山にやつて來てから、もう隨分長いこと書かない。去年はほんたうに何も書きたくな
かつたので、あつさりと何も書かなかつたが、今年はそんな氣持はかなぐり棄てて、ひと
つうんと書いて見るつもりだ。」という書き出しである。
どこの山の中であるか断定出来ないが、たぶん「風立ちぬ」の舞台、サナトリウムのある
信州だと思うが、ランプや狐の手袋や焚火などといった山荘のイメージは、私の住む環境
によく似ていてすぐに共感が出来た。「狐の手袋」にいたってはこの春、なんの草花だろ
と思い名前を調べたことで もある。正式名称はジキタリス(英語名フォックスグローブ)
といい毒性があるが、一方強心剤でもある。

 それから「これは、こちらの四季社から出す筈の、僕の譯詩集につけてゐ る假題。
コクトオがゲエテとハイネとニイチェの三人のことを書いた詩に「アイン,ツワイ,ドライ」
といふ洒落れた題をつけてゐるのを眞似たの である。」とある「一二三」という随筆も
なかなかいい。そして最後に散 文詩か添えてあった。

    冬

 まだすこしもスポオツの流行らなかつた昔の冬の方が私は好きだ。
 人は冬をすこし怖がつてゐた、それほど冬は猛烈で手きびしかつた。
 人は我が家に歸るために、いささか勇氣を奮つて、
 ベツレヘムの博士のやうに、眞白にきらきらしながら、冬を冒して行つたものだ。
 そして私達の冬の慰めとなつてゐた、すばらしい焚火は、
 力づよく活氣のある焚火、本當の焚火だつた。
 人は書きわづらつた、すつかり指がかじかんでしまつたので。
 けれども、夢を見たり、失せやすい思ひ出の
 助力者を支持して、少しでもそれを引き止めたりすることの、何といふよろこび……
 思ひ出はすぐ傍にやつて來て、夏よりも
 ずつとよくそれが見られたものだ。……人はそれに彩色までした。
 かうして室内ではすべてが繪のやうだつた。
 それにひきかへ戸外ではすべてが版畫の趣になつてゐた。
 そして樹々は、自分等の家で、ランプをつけて仕事をしてゐた……。

「ランプの下で」のランプが今では電灯に変わっているが、零下二十度近くになる真冬の
山荘で、薪ストーブのチロチロと燃える炎とともに夜を過ごすし、このように青空文庫を
読むのが私にとってなんともいえない癒しの時間でもある。




山荘便り/少子高齢化問題の問題 2013/ 7/3

毎日新聞 2013年06月30日 東京朝刊に面白い記事を読んだ
時代の風:少子高齢化社会=元世界銀行副総裁・西水美恵子の「小国」悲観論を笑うとい
う文である。

 「人口減少が問題だと捉えられているようだ。 減ってなぜ悪いのだろうと、長年気に
  なっている。特に「経済小国になるから困る」と言う人が多いのには驚く。
  日本より国民平均所得が高い国は二十数カ国あるが、そのうち人口がわが国を上回る
  のは米国のみ。資本と生産性が伸び、生活水準が下がらない限り、困る理由などある
  のだろうか。
  社会保障負担を案じる若い世代からは「高齢化で生産性が上がるはずがない」という
  意見をよく聞く。いつも「高齢者をばかにしないで!」と、笑ってしまう。
  企業のトップには、人口が減ると生産人口も減ると単純に思い込む方が多く、頻繁に
  相談を受ける。今ある生産人口の大半を無駄にしながら何を言うとあきれるが「女性
  をお忘れなく!」と笑って、我慢している。

私も常日頃人口減少が日本の経済を疲弊させるという論法が大勢を占めていることに違
和感があった。どうして優秀な経済学者が、人口が減っても高い水準の生活が可能である
という理論を策定しないのかと疑問に思った。世界中が人口増加でないと経済発展が望め
ないとすれば、まもなく地球上の資源を食い尽くすだろう100億を超える人口になった
とき、果たして快適な生活を保ち続けることが出来るだろうか。
 そんなことを思うとはやく人口増加に頼らない新しい理論をだれか創出して欲しいと願
うものである。




山荘便り/ネットで身辺報告 2013/ 7/17

今朝の天声人語にネット社会に関して、面白いことが書いてあった。

  「ネットは民主主義に革命を起こす。伊藤穣一(じょういち)さんの信念に揺るぎは
  ない。知の最先端、米マサチューセッツ工科大のメディアラボ所長だ。メディアラボ
  の活動指針として3つのキーワード「ユニーク、インパクト、マジック」を提示。
  「誰もやっていないことをやる、真似はしない(ユニーク)」
  「やるなら社会にインパクトを与える活動を目指す(インパクト)」
  「そしてそれは驚きや感動を与えるものであるべきだ(マジック)」
  という意味が込められている。
  しかし「初めてのネット選挙となった参院選で、候補者の9割以上がフェイスブック
  やツイッターを使う。昨年の衆院選に比べ大幅に増えた。発信の中身が乏しくないか。
  昼に何を食べたとかの身辺報告が目につく。」と評してあった。

たしかに、誰でも日頃暮らしの中で普通に経験している全く個人的などうでもいい話題を
延々と続ける最近の掲示板には失望している。携帯メール依存症のように身辺雑記のやり
とりでしか社会と繋がっているという存在確認ができないのだろうか。そんなことを山の
中で考えた。




山荘便り/短編小説の不都合 2013/ 8/16

 このところ本の帯に「英語圏最高の短編作家と称される」と書いてある、ウイリアム・
トレ ヴァーの小説を三冊購入して重点的に読んでいる。 今は二冊を読み終え、三冊目の
半ばにかかっている。情緒豊かな短編ばかり十二編、一つの物語が二十ページばかりの長
さで、手軽に読み始めることができるが、しかし最近短編小説を読むことに問題が見つか
った。
 長編小説であれば読み終えるまでかなり時間的な余裕と興味を持続させる等の忍耐が要
求されるが、登場する主人公は一定であり頭の中がこんがらかることあまりない。一方短
編小説は、もちろん私の記憶力の減退に問題は大いにあるが、十二編の物語の筋や主人公
がそれぞれ違い、覚えきれないのである。それもそうだが、一日に一時間ほどの読書では
一つの物語さえ切れ切れになり、昨日読んだ筋や人物の名前さえ覚束ない。だから短編小
説では一度で読み終えないと、その内容の全体が見えてこないという問題だ。
 わくわくするような血涌き肉躍る小説であれば、日を置かずに一気呵成に読み終えるの
だが、残念ながら私の趣向の範疇ではなく小難しい本を敢えて好むのだから、これからも
記憶と競い合いながら読むしかないのかもしれない。




  冬


山荘便り/別の言葉の世界 2013/12/14

最近言葉の伝達についてオキシモーラン的妙な取り合わせに驚いている。

◆南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の公式追悼式において、各国首脳らのスピー
 チを手話で通訳していた男性が、手話の出来ない「偽物」だったという疑惑が広がって
 おり、調査が続いているという。

◆吉田戦車の「伝染(うつ)るんです。」に出てくる「傷」と呼ばれる、頭に包帯を巻い
 て学生服を着た、心身ともに深い傷を負った少年が出てくる。いつも人を不安に陥れる
 ような不思議な一言を言い放つ。アベックを嫌悪している。時折新しい文字を発明して
 いる。その文字は普通の人にはどう読むのか、何を意味しているのか判読出来ない言葉
 だ。

◆最近購入した小川洋子の「ことり」に出てくる主人公である少年の兄の話。
親や他人とは会話ができないけれど、小鳥のさえずりはよく理解する兄、そして彼の言
 葉をただ一人世の中でわかるのは弟だけだ。小鳥たちは兄弟の前で、競って歌を披露し
 息継ぎを惜しむくらいに、一所懸命歌った。

 彼等の言葉は私達の住んでいる世界と違う世界、例えば異星人、例えば「手話の男」は
言葉を乱数に変え宇宙の彼方に発信しているのかも知れない。
 「傷」と呼ばれる少年は生物の発生当時からの言葉にならないDNAに込められた情報
を示しているのかも知れない。
 ことりに出てくる主人公の「兄」は小鳥のさえずりを137億光年の彼方から届く様々
 な宇宙から来る光のスペクトル波長と振動数に呼応させているかも知れない。

これらの人達は世間ではすべて精神疾患というレッテルを張って安心するが、はたしてそ
うであろうか、何か私達の文字や語りの文化・文明では判断出来ない言葉の世界があるか
もしれないのだ。



45α編集部:2014/08/12(火) 11:45:14
エイプリル・フール2
.

     エイプリル・フール  




      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。




2009 年

エイプリル・フール

 今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアの
ある罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。

 Wikipediaで調べると
エイプリルフールは、日本語では「四月馬鹿(四月バカ)」、漢語的表現では「万愚節」
または「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)
と呼ばれる。なお、日本では4月1日は、「日ごろの不義理を詫びる日」だった。
イスラム教においてはこの習慣はコーランに著しく反しているため、強く禁止されている
エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの
習慣が始まったかはわかっていない。有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確
証が無いことから仮説の域を出ていない。

* その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが
 1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した
 人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。
 しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝ってい
 た人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だっ
 た少女までもが含まれていた。
 フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事
 件を忘れない為に、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっ
 ていった。これがエイプリルフールの始まりである。
 そして13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、1564年から13年ごとに
 「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするという風
 習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなったが、
 「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった。

* インドで悟りの修行は、春分から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じること
 から、4月1日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある。

* 日本で、エイプリルフールが広まったのは「パチンコの負けをごまかすためにこの日に
 スリにあったと嘘をついた者がいた」ためとする説があるが、パチンコのない時代から
 この日に嘘をつく風習が記録されており、これ自体がエイプリルフールの可能性がある。
 さて、いままで私の嘘を思い返すと、仕事に行き詰まったから暫くの間姿を隠す、探さ
 ないでくれと言ったFAXを友人に送り旅行に出たことがあった。人に大して迷惑を掛
 けないようなこのての嘘をいくつかついたが、結果的にはその嘘が誠となったことであ
 る。 だから今年は「二億円の宝くじに当たった」、「絵の公募展で特選になった」、
 「屋敷から金の鉱脈が見つかった」、「芥川賞にノミネートされた」、「いままで知ら
 なかった叔父さんから遺産相続の話が湧いてきた」とか、いろいろ現実にはあり得そう
 もない、しかし真実になってくれと願う妄想を考えつくのだが、さてそれを信じる友人
 がいそうもないのである。信じてくれなければこの遊びもまったく面白くない。やはり
 世相にあった暗い話題が真実味があって、信じてもらえるのだろうか。その様な嘘がま
 た真実になると困るから、今年は嘘をつかないことに決めた。

????????????




2011年

エイプリルフールに語る真実

  ◆宇宙語を解読できた。
  ◆今日最後の乳歯が抜けた。
  ◆今年は嘘をつかないことにした。
  ◆29回目の転居を目論んでいる。
  ◆人生の意味がやっと判った。
  ◆今日は一度も呼吸をしなかった。




2012年

エイプリルフールに語る真実

◆今日から太陽は西から昇る。
◆今日から逆さ時計を採用する。
◆今日から嘘をフィクションと呼ぶことにする。
◆今日から饒舌をやめ沈黙に徹しよう。
◆今日からひけらかしと自慢で紙面を満たそう。
◆今日から天国への階段を組み立てよう。




2013年

えいぷりるふーる

◆アメリカ国防省から急遽、青森県三沢空軍基地、神奈川県横浜海軍基地、沖縄の米軍基
 地防衛のための最終兵器「リターンパス」の設置依頼が、「無限回廊」物集班に寄せら
 れた。しかしこれは武器輸出三原則に抵触するのではないかと迷っている。

◆甲子園を沸かしている高校野球の決勝戦に覆面の豪腕投手が投げるという噂がある。
 時速200kmを出すというが、アンドロイドではないかとか、スーパー・サイボーグで
 はないかと疑われている。しかし改造人間であるとすれば、その肉体的な能力の補強は
 どこまで許されるのか。インプラントによる歯の矯正は?強力レンズ眼鏡による視力ア
 ップは?催眠によるマインドコントロールは?

◆遺伝子操作による新種の大根が発明された。それによると大木の枝にぶら下がって成り、
 秋になり木枯らし一番が吹くと適宜に乾燥し、そのまま漬け物樽に漬けることができる
 という。

◆本郷冷熱の地下ラボでは、早春になると大陸から黄砂やPM2.5などの有害物質が日本
 の空に偏西風に乗ってやってくるから、地球を反対回りにする研究を進めている。もう
 すでに完成まで79%に達しているから、近日中に太陽が西から上がる、すなわち偏東
 風が吹き有害物質はヨーロッパに向かうことになるだろう。

◆今国会で健康被害による喫煙をなくし医療行政の圧縮を試みるために、「禁煙した人に
 は」月額1万円の禁煙手当を支給するという法律を作った。しかし今まで吸っていなか
 った国民が続々と喫煙を始めたので大騒ぎになっている。




2014年

オキシモーラン的エイプリルフール−その1

◆STEP裁縫
 作成に当たっては機械を用いる場合と手仕事の二つがある。今までない物質と模様を合
成させて、あらゆる形態に変化できる画期的な発明だ。 これをSTEP裁縫と呼び、ちなみ
にSplender Time of Ending  Peace の頭文字をとってSTEPという。意味は複雑すぎ
て一般の人に分かるように説明することは困難だという。科学誌ネ−チャンに掲載される
も、世界中で三人しか理解出来なかったといういわく付きの論文だ。
 遠都大学(とうとだいがく)の滝沢馬券(たきざわばけん)教授のコメントによると、
世界の三大発明の一つという歴史に残る素晴らしいものだが、私には難解すぎて皆目判ら
なかったことを告白しなければならないと語った。


オキシモーラン的エイプリルフール−その2

◆フジノミヤ独立
 我々不二山に隣接する市町村のフジノミヤ最高議会は住民投票の結果、99%の賛成票を
得て、オソロシヤ憲法第8章に基づきここにフジノミヤ独立を宣言する。ただし公海に面
していないので、外交および防衛問題についてはオソロシヤの憲法のもとになされる政権
の意思決定を遵守する。

主旨
  不二山は古来より国土の中心に位置し、かつ周りに山々を従えない独立峰で、国では
 一番の高さをもつひときわ美しい姿をしていて、まさにオソロシヤの象徴としてふさわ
 しく、また全国民の心の故郷である。
  しかし近年心無い観光客による霊峰不二山へのゴミ投棄や山菜盗伐など、またオソロ
 シヤ軍隊による山肌への砲弾の撃ち込みなどの不敬行為が目に余るようになった。而し
 て世界遺産に登録されたこともあって、その霊峰不二の自然と威厳を守るために住民の
 悲願として、ここにフジノミヤを国として成立させた。

行政上の基本事項
 1.国名 :フジノミヤ国
 2.宗主 :木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)
 3.公用語:仮名まじり漢字 準公用語:宇宙語
 4.通貨 :モロ (7,11,13,17,19進法のうちどれか未定)
 5.入国に関しての規制:入国交通料、霊峰参拝券そのた環境維持のための費用
  (これに違反したものは10倍かえしの反則金を徴収)
 6.その他:食料、飲料水、酒等の持ち込み禁止
       観光案内はフジノミヤ国の資格を得たフジノミヤ在住の案内人を雇うこと
       入国時には霊峰不二山に向かって必ず二礼二拍手一礼すること

参考:オソロシヤ憲法第8章(地方自治について)
 地方自治の本旨は以下の2点からなる。
 住民自治-住民自らが地域のことを考え、自らの手で治めること
 団体自治-地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けるこ
 となく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていくこと。




       事情説明 投稿者:鳩園潤子 投稿日:2014年 4月 1日(火)19時11分


            「オキシモーラン的エイプリルフール」 事情説明

                          平静一念 四月一日
                          医療法人「都一会」看護師長 鳩園潤子*

       前略

        赤松次郎こと本郷冷熱 本郷淳吾社長*は、前回富士山麓「都一メンタルクリニック」
       を追い出されて以来、途方もない妄想にとりつかれていました。一時期ネヴァーマリッ
       ジ教入団を希望していましたが、たとえ実の姿が、偉大なるショウ惑星環境大臣とは言
       え、妻子持ちであること、そして何よりひとかけらの嘘や虚飾も許さないという頑強ぶ
       りで教団の統一が危うくなる恐れを理由に丁重に断わられたのを最後に、行方がわから
       なくなったと聞いておりました。姿を消していたと思いきや、フジノミヤ国独立を図っ
       ていたとは、驚嘆のいたりです。

        古くは缶詰「ニチロ」日本海戦、八方領土乗っ取りに始まり、最近では冬期ピクニッ
       クで、フジノミヤはオソロシアへの不信が高まっている地域でありました。未来人本郷
       の知恵をもってすればフジノミア独立はへのかっぱであったはずです。
       フジノミア一帯の猫集団を統括したおかげで猫の手は無尽蔵であり、住民投票にもこの
       猫の手が大活躍したと思われます。猫の一票それでも一票、これが民主主義とやらです。

        思い起こせば、本郷氏は入院中、沈黙の中淡々とタペストリー制作をしていました。
       外見からは想像出来ないほど、手先は器用でした。
       縦糸と横糸が変化し、見る人を次々と新しい世界へと引き込む壮麗重厚な作品、その名
       も「木花咲耶姫」は今でも院内ホール中央に飾られています。
        もうひとつ報告があります。本郷氏が入院中に広め、流通が始まった通貨「モロ」は
       院内の食堂、売店、入院費の精算にも通常の通貨、カードと同様に使用されています。
       通貨計算における11進法適用は、入院患者のメンタル改善に驚く程の効果をもたらし
       ています。 (これは科学誌ネイチャンにも発表されました)

        フジノミヤ自治区の運営に早く飽きて、本郷氏がまた未来のショウ惑星に無事帰還さ
       れることを、院内より秘かに祈っております。
           草々


       *註)鳩園潤子、及び本郷淳吾は、同人誌掲載の『無限回廊』の登場人物である。
          本郷がメンタルクリニックに強制入院させられた話は第十三回に詳しい。
??????????????   (編集部)



46α編集部:2014/09/26(金) 08:32:53
純文学と大衆文学
.
??????????      純文学と大衆文学?? 2007-2010



「肥と筑」の感想

bird・brainの私が「肥と筑」をものにする巨像のような作者の頭脳に対峙するのに、どの
ようなスタンスを取るべきかいまだに決まった見解を持ち合わせていないのである。そこ
で連載の途中だからといって物事の結論を先延ばしにするという私の得意の奥の手を使い
たいのだが、皆さんの努力を見るに付けそうもいきません。逃げることも問題を処理する
方法として一つの文化であるという社会も世界には存在するという本(危機のモラル マ
レクラ島のフィールドから 船曳建夫著)を読んだことがあるが、ここで放棄することは
編集に携わる者として許されるものではないと思った。そこでMさんや、長岡さんの手法
に習って、正面からでなく搦め手から迫ろうという魂胆であります。

◆ さて文学とはどのような芸術の範疇に入るかと調べてみると、次のように分けること
  が出来る。
  1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術
    の総称。すなわち、音楽、文芸など。
  2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられ
    て、人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なも
    のに建築、彫刻が含まれる。
  3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調
    和した形式で表出される芸術。すなわち、舞踏・演劇や映画など。

◆ そこで「肥と筑」が論文か小説かということが話題になっているが、小説とはなんぞや?
  小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随想や批評、
  伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。なお、英
  語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり
  もともとラテン語で「新しい話」を意味する。

◆ 小説は次のように分類される。
  <長さ・発表形式による分類>
   短編小説・ショートショート・中編小説・長編小説・連載小説
  <内容による分類>
   私小説・恋愛小説・青春小説・冒険小説・歴史冒険小説・秘境探検小説・海洋冒険
   小説・推理小説(ミステリー、ミステリとも)・サイエンス・フィクション(SF)・
   ハードSF・スペースオペラ・サイバーパンク・スチームパンク・ファンタジー(幻
   想小説)・ライトノベル・ホラー小説(怪奇小説)・怪談・歴史小説・時代小説・伝
   奇小説・武侠小説・児童文学・童話・絵本・官能小説(劇画系,美少女系,耽美系
   などに分かれる。)・教養小説・鍵小説・企業小説・経済小説・政治小説・ゴシッ
   ク小説・スパイ小説・大河小説・心理小説・芸術家小説

◆ ついでに純文学と大衆文学の区別は
  小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
  が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
  芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
  小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
  うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
  分けて考え るのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

さて結論として「肥と筑」は歴史的資料を扱っているが純然たる論文ではなく、登場人物
に語らせるという散文で作成された虚構の連載物語でもあるが史書でもある。だからから
小説が伝記、史書と対立するものであるという定義があるゆえに複雑だ。それは私の書い
た「歪んだ風景−異星人」のように言葉遊びに徹すればそこに描かれている内容はぼやけ
てくるし、内容を重視すれば言葉遊びは余計なものだというジレンマは常に作者に付きま
とうわけだ。一方読者の好きなように解釈すればいいとばかりに開き直ることも出来るの
だが、「肥と筑」の作者は物語と史実のどちらに重きをおくのか、それとも両方をと意図
しているのであろうか。両立出来るものを見事になしたとき長岡氏の頭脳は一層輝きを増
すだろう。
2007/12/21 (旧α掲示板)




小林秀雄全集第四巻 P226

 今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬ。
2008/4/12??(窓辺にて)




「白暗淵(しろわだ)」を読む

◆古井由吉の「白暗淵(しろわだ)」を読み終えた。「東京大空襲」の記憶を縦糸に「音]
??を横糸にしてつづられた短編集で、表紙には次のような言葉が書いてある。
 静寂、
 沈黙の先にあらわれる、白き喧噪。
 さざめき、沸き立つ意識は、
 時空を往還し
 生と死のあいだに浮かぶ
 世界の実相を撮す。
 言葉が用をなすその究極へ−。

◆今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬと小林秀雄がいみじくも言
 っているように、純文はそれしか残されていないのではないかと私には思われる。その
 ような作家は古井由吉を含めた少数しかいないのではないか。
2008/4/25  (窓辺にて)




純文学と大衆文学

◆Kさんの「大衆」の定義をして何を主張したいのかその問題提起の意味がよくわかりま
 せん。「純文学」と「大衆文学」の違いを論じるに、純文学が優れていて大衆文学が劣
 っているようなニュアンスに反発して、純文学を読む人も大衆の中の一人じゃないかと
 いう意味の主旨かと思われます。もし私の解釈が間違っていたらそのへんのところを詳
 しく示して下さい。
 私は「純文学」と「大衆文学」の優劣は、総合的に評価出来る同じ土俵は作れないと思
 っています。面白いものが一番いいという人達、いや難解でも何か考えさせるものがい
 いという人達もいるでしょう。どの観点で評価するかは人様々で、どちらが優れている
 という問題ではなさそうです。

◆「私も結構悪食だったので、昔はいろいろの本を手当たり次第に読みました。その結果
 私の中では優劣はともかく「純文学」と「大衆文学」の区分けらしきものは持っていま
 す。大衆小説と言われている読み物、たとえば内田康夫のミステリー・シリーズなどは
 読んでいる最中は実に面白く時間を忘れるほどです。しかし最後のページが終わるとそ
 の興味は尽き、数日すると最早その内容さえ全く忘れ去っています。場所・人物・状況
 などを単に替えただけのパターン化されたものが引き続きシリーズとなって出されてい
 ますが、そのパターンに気づくと途端に興味がなくなりそれらを二度と読むことはあり
 ません。反対に純文学と言われるものは、なかには美しい表現や情景の物語もあるが、
 没頭するほど面白いものではない。いわゆる苦痛・忍耐を伴うものもなかにはあります。
 しかし、私が「純文学」と思うものには読んだ後でも長い間忘れずに頭に中に残ってい
 ます。夏目漱石の「それから」の代助と三千代が万難を排して「一緒になろう」と誓っ
 た部屋の中に漂う百合の強い香りとか、父や兄に寄宿していた代助が三千代のために独
 り立ちしようと決心して、職を探しに街へ飛び出した時の真っ赤にそまった心象のラス
 トシーンなどなど。

◆最後に、物事の解釈や表現を単に新聞や週刊誌などからの切り売りではなくて、私が考
 えもしていないような解釈や表現や新しい考え方を持つ人には憧れます。私にはもうあ
 まり残された時間もないことだし、その人にしかないをちらりと見せてくれる選ばれた
 作家・書物に出会えることを願いたい。
2008/7/26????(旧α掲示板)




文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子

 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいかに
描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定義を
思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前でト
ンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
2009/3/25?? (窓辺にて)




北 君

仕事に忙しい中、感想有り難う。このような長い読後感を書いてくれる所を見ると、時間
的にも少し余裕が出来たようですね。
君の言う通り村上春樹はストーリーテラーとしては第一級の作家と思われます。確かに自
分探しと謎の解明という筋の展開の巧さで最後まで読ませますが、読者の生き様に対して
の意味合い・インパクトがないと僕も読んだときにそう思いました。これは今まで読んだ
村上春樹の小説全般に言えると思います。純文学と通俗小説との間の微妙な位置にあるよ
うな気がして、文学少年・少女に受けるのは判るような気がします。
2010/2/14 (窓辺にて)




佐伯一麦

◆佐伯一麦著の「木の一族」を読んでから、私小説の書き手として私は昔から彼に一目
 おいていました。このたびの「誰かがそれを」のなかの「ケンポナシ」はこの木の話
 だけで28ページにわたって書き、「誰かがそれを」では夜中に聞こえてくる訳のわか
 らない気障りな音について38ページを費やしている。これが純文学の世界なのであろ
 う。今回は以前の評価と違って私にはちょっと批判的な印象が残った。それは個人の
 好みの問題だろうが、この物語のリアリズムは想念の世界の夢や美や謎などの知的な
 好奇心をくすぐるものがないのが不満に思えました。
 と言うことは私はエキゾチスム・神秘主義・夢などといったものや、抑圧されてきた
 個人の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩などを記述しようとするロマン主義的な傾向を
 もつということでしょうか。
2010/6/25



47α編集部:2015/03/31(火) 19:18:04
標本箱2 春夏秋冬
*戯評の投稿記事です
*題は編集部作成
*一部名前を変えています

主要キャスト 棘 シニン ベルギリスふりん  海馬海馬女(白痴) 万歩計




【五月蠅い奴ら】
◆おーまん:「あるわがまま」出しっぱなし、そのうちあるがままの姿で街を闊歩するぞ
◆万歩計 :作品の分析をしまくるが、みるべき解釈や真意の組み立てはできない
◆イモジン:ヴァイオリン、カントリーダンス、TOEICはどうした
◆パクチー:奉仕活動のためなら何でも、どこへでも顔を出す
◆寒痺痲 :食い物の話、通俗小説の話、毒にも薬にもならんことをよくしゃべるよ
◆冬の風鈴:「日本の負債−120」などのコピペに生き甲斐を見出すほかはない孤独な爺々
◆シニン :中央アルプス、ボボワールなどと間違ったことを平気で言放つ育ちの悪さ

こう並べてみると、みなさん言いたい放題、結果は期待できない連中ばかり。
「じこちゅう」
中毒症状最終段階。要強制排除、要強制入院。





【夏のお化け大会のおしらせ】
おとげ、シニン、万歩計、トド、シャフラー、フェイク、げてげて、うそたんと豊富なキ
ャラクターが揃いましたので、恒例のお化け大会を7月17日馬込宿で開催します。怖い
もの見たさの貴方に是非参加いただき、その醜悪さをご鑑賞ください。なお先着10名さ
ままでは無料です。





【漫画のお邪魔虫たち】
鳥干、万歩計、風凜、シニン等のお邪魔虫がよく揃ったな。
ほとんど共感を得ない文章ばかりだ。これにトド、トド女
珍封痔が加わったら、俺発狂しそうだ・・・。とくにシニン、
トド、珍封痔の三人は爬虫類のようで、生理的な嫌悪感を覚え
しかたがない。


【流行もの「漫画狂」】
ここではずっと前から住民説明会での電力会社のヤラセメールのようなことがたくさんみ
うけられた。自分の投稿文を別名でよいしょすることなど朝飯前の輩が、このホームペー
ジを牛耳っているのが現状だ。
今回のブログの投稿に五つも拍手を送るのは、このヤラセをやっているメンバーに他なら
ない。これは低脳漫画、茶番劇だね全く。よく物事の本質を考える人は、そんなこと一発
で見抜くだろう。シニン、万歩計、パクチー、イモ、疹風痔、これで拍手五つ・・・。





【怪物糊塗ランド忘年会】
怪物ランドへようこそ!! フェイクな珍獣ばかり出演させています。
◆おとげ:その場その場の感覚が一番大事とする主観主義の女王。観衆の前では素っ裸を
 も辞さない露出狂。
◆シニン:自説を正当化するためには、人を貶め嘘も吐き通す育ちの悪さ。
◆万歩計:ボランティアなどに参加して、優しさを演出しているが、内に凶暴な闘争心、
 猜疑心を内包する。
◆辛封痔:文も絵も音楽もフェイク人間。真実が何かは問うたことがない。
◆何やびと:不利な事実は知らぬが仏の役人根性に満ちた人生。
◆げてげて:怪物ランドの太鼓持ち。
◆イモジン:どうしょうもない、気色悪い爬虫類の出来損ない。
◆ヒモジン:イモジンの性悪さにも気づかないバキューム・ヘッド。
◆くそたん:どうもよくわからん、首も出し切らん無害すっぽんもどき亀。げてげて太鼓
 持ちの助手。
*2011



48α編集部:2015/04/01(水) 21:33:54
エイプリル・フール2 2015〜
                                             .
     エイプリル・フール2015〜



      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。



2015年

エイプリルフール



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、
オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
 ??「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行
  う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、世界的
  な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎えさせる最終
  兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイター」等、世界
  の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決してきたことから鑑
  みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取らない立派な会社であ
  ると言える」と述べている。
   ??参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい
商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、
「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいて
いの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると
病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしてい
て、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。
刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認する
ヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
????第 1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で
???????????? ある。
????第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的・
???????????? 経済水域はウスライナ人が所有権を有す。
????第14条 :土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権
       は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ
       とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰
属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一
国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の
運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人
になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地
球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たさ
れているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識
や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念で
ある。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。
それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと
思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の
「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を
兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能
力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。
オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産
することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。

  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
????2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
????3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
????4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)
の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星人とし
て認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服
すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデア
を募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」
「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に
備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道に
もとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の
被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の
地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート
・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純
である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、
即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通
りである。

  1.住民はリラックスして睡眠状態になる
  2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね
   て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
  3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと
   ができる
  4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール
   弾」の影響下に置く
  5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたらした。

虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年
  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の
  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チュ
  ネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事がみ
  られたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用としてインド
????に売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優秀な紛争
????終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩せやしない
????だろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収めることはま
????ことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む思
????いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガード
????下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・ボール
  弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争には必ず購
  入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に煽っていた。
????という記事を暴露した。

??  参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/27-7.html



49α編集部:2015/11/11(水) 05:55:22
岩を抱く木々、寄り添う木々
.

      岩を抱く木々、寄り添う木々 2014-2015



山林の形態その1
2014.6.26
◆岩を抱く木々
 山の斜面に生えている大木を下の道から見上げると、岩を抱いた木々があることに気が
ついた。初めは何故だろうと不思議だったが、よく考えるとある理屈でそのような情況が
生まれたのだと推測した。この辺りの山は大きな岩や小さな点石で成り立っていて、その
周りを長い間の落ち葉が積もり腐葉土をなしている。まだ発酵していない湿った木の葉に
足を踏み入れると、踝(くるぶし)まで沈む位ふわふわと層をなしている。木々にとって
は栄養豊富な山土だといえる。

 その石は明らかに富士の裾野に点在する溶岩とは違い、色は灰色で密な硬い石である。
二つの石の違いが気になって、町の教育委員会に質問してみたら、富士山の石はマグマが
直接地表で固まった火成岩で、私の山荘のある山は海底や川底に堆積した水成岩で、地殻
変動で隆起して山になったということであった。
 更に詳しく調べると水成岩の一種である粘板岩ということが判明した。粘板岩は英語で
スレートと言うくらいだから、当然日本の杮葺(こけらぶき)のように屋根葺き材として
西洋で使用する。また山梨県南巨摩郡の富士川沿いでは雨畑硯(あまはたすずり)という
硯が製造されていることからも、富士山の噴火によるのでなく富士川の堆積により形成さ
れて隆起したという、この山荘の山の成り立ちが分かって成る程と納得した。

 ところで石を抱く木々の謎はどういうことなのか。それは秋になって赤松や椚や木楢や
楓の実が落ち、斜面を転げ落ちてきて留まれるところが石と土の窪みということであろう。
そこで発芽したそれらの木々が数十年と育つうちに石の周りを根で覆い、遂には石を抱い
た形が出来たという訳だろうと推測した。そしてもっと時が経つと石木の力で砕石にひび
を生じさせ、水の凍結によって砕け散る結果の形態が認められるのである。
            続く


山林の形態その2
2014.6.28
◆寄り添う木々
 山の木はある一定間隔でしか成長しないだろうと思い込むが、実際は5メートル以上離
れて育っている木もあれば、狭い範囲に犇(ひし)めいている木々もあり、人工植林でな
い限りその間隔はランダムと言ってよい。岩を抱く木々の話には面白いもう一つ話がある。
 石と土の窪みに山から転がり落ちてきて定着する実が必ずしも一種類とは限らず、同時
に数種類の木々のものが同じ場所で発芽することになる。しかし大きく育つには数々の厳
しい条件をクリアーしなければならない。それに打ち勝った赤松、木楢、楓、橅、杉など
の二種類の木の組み合わせで育った大木が、まるで同根のように寄り添って育っているの
をよく見るのである。

 だがよく観察するとその組み合わせがどんな種類でもいいかと言えば決してそうではな
いらしい。赤松と木楢、楓、橅、杉の組み合わせは多い。しかし樅の木とのペアーは見た
ことがない。どうも樅の木と他の木とは相性が悪いらしい。セイタカアワダチソウやサル
ビアのように地下根から特殊な物を分泌してほかの植物の種子から芽の出るのを抑えた
り、根の成長を妨げたりしするといわれるように、樅の木もまた他の木々をそのような手
段で駆逐するのだろうか。
 その理由として一つ思い当たることがある。赤松をはじめ木楢や楓や椚は総じて太陽
の光を独り占めしてしまうほどの葉張りと密度において、茂らないと言える。だからお
互いにその太陽の光を譲り合いながら育つことができるのではないか。

 その一方で樅の木は樹形が黒く見えるほど密に葉を茂らせ広がり、しかも冬でも葉を落
とすことなく成長するから、太陽の光を分けてもらえない他の木々は寄り添うように育つ
ことが出来ないという理由ではないか。
 そのような樅の木は他者を寄せ付けない強さで、山の中で一人勝ちしているように見え
る。しかし、木の肌や色や葉型の違った異種の木々が寄り添って大木に成長しているのを
見ると、長い年月を苦労しながら添い遂げているような人々の生き様に見えて、ほほえま
しいく思えてくるのである。


      岩を抱く木々/寄り添う木々を読んで 2014.6.29 万理久利
      同人誌に寄稿する作品は人の心の微細な動きを追ったり、つかみ所の無い人
      間の心を描いたり、自然をさらりと歌いあげたりと純文的な匂いがプンプンす
      るものが多いのですが、時として猫の目の大きさを取り上げ顔に対する比率を
      出してみたり、そのジャンプ力を人間のそれと比較して数値で表したりと、科
      学少年らしい実験と分析をこの著者は猛然とやり始めるのです。そして今回は
      住まいの回りの木々をじっと眺めて分析を開始したようです。

       読んでいてふと寺田寅彦の作品が思い浮かびました。昔学校の図書館で宇宙
      旅行ものと並んで借りまくった本です。身の回りのものを科学者らしい目でや
      さしく、短く解き明かしていくのが何よりも面白かった。懐かしくなって青空
      文庫で久々に寅彦の作品を数点読みふけりました。「化け物の進化」「科学と文
      学」「数学と言語」どれもなんとなく相対する言葉が並ぶタイトルですが、相
      違点と同時に共通点も取り上げています。昔はただひたすら科学的な解き明か
      しが、爽快な気分を引き出したのですが、今寺田の作品を読むと、彼がただひ
      たすら、科学万能主義で生きてきたのではないということに気づかされます。
      そして彼の語る世界は本人が意図したかどうかは別として、古今東西共通の人
      間世界のことでもあることも。

       岩を砕く木々も寄り添う木々もこれまた自然界のこと、そして自然の一部で
      ある人間世界のことでもあるわけです。身近なところにたくさんの不思議不思
      議が転がっています。
      不思議を自分の頭で解き明かそうとすることと、言葉を使って何か/作品を
      創造していこうとすることとは、共通の要素があるあるようにも思えます。
      世の中不思議だらけですが、私にとって一番不思議なのは人間かな?
      一番身近であるはずの自分自身かな?


山荘便り
2015.10.31
 「寄り添う木々」という題をつけて山荘便りを書き始めた。山の中を散策していると普
通では思いもつかない現象を目にすることがある。一般的に考えると数十メートルにおよ
ぶ木々が全く近接して生えるとは想像もしない。都市部での造園家による公園の大木の植
栽はほとんど三メートルから五メートルの間隔を空けているようだ。しかし自然界にはそ
のような常識では考えられない植生がしばしば見られるものである。最初に気づいたのは
山荘から五十メートルばかり西に歩いた道路脇に、同じ根元から赤松の大木とブナの大木
が寄り添って生えている。ぼんやりと歩いているとその奇妙さには気がつかないのである
が、株立ちしている二本の木の肌や葉の形状に違和感を覚えて注意して観察した結果判っ
たものである。
 だが待てよ、異種の木々が抱き合うように生えているのは、以前に書いた「岩を抱く木」
と同じ理由であるということに思い当り、その文を探してみた。2014年の6月26に「山
林の形態その1」で「岩を抱いた木々」をその二日後に「寄り添う木々」というそっくり
な文を既に書いているではないか。私もいよいよシナプスやニューロンの働きに陰りが見
えてきたようである。
 同人α44号の竹内氏の作品である「生命」にでてくる、シュレーディンガーの「生物
は負のエントロピーを食べている」という言葉に、言い得て妙だと思った。この世界の物
質は放っておくと確実にエントロピーの増大、即ち無秩序の世界に向かうという。
だから生物は生きるために常に秩序を保つように努力しなければならない。
 山荘便りに書いたように日々のルーチンワークも毎日の規則的な精神や肉体のリズムを
つり、エントロピーの増大に抵抗しているといえる。またそれが生きているということで
あろう。「負のエントロピー」を食べれなくなったとき死に至るということだ。
 だから毎日を高齢だということで、後は残りの人生、余りの人生とばかりに時間つぶし
に無気力に自堕落に生きることは「負のエントロピーを食べれなくなった」ということで、
そろそろこの世におさらばするときが間近いのではないか。

 最近「寄り添う木々」についての追体験をしたことだが青木ヶ原の鳴沢氷穴の近くの国
道139号線沿いの歩道の真ん中に、「やどりぎ」という表札のついた珍しい木が柵に囲ま
れたなかに立っている。そのため歩く人はその囲いを迂回して通らねばならない。
 樹齢300年といわれる「みずなら」の親木に、五葉松、こめつが、ひのき、あせび等が
寄生していて、六種の木々が同棲している。しかしこの木々は「やどりぎ」のように親木
から栄養分を奪う、いわゆる寄生樹ではなくそれぞれの木々は自力で光合成して生きてい
るのである。だから「やどりぎ」という言葉は当てはまらないので、家族以外の人達が同
じ屋根の下に暮らしているのを「同居人」というごとく「同居木」と言うべきだろう。そ
れにしても樹木はなんと「負のエントロピーを食べる」術に長けているのだろうかと驚く
ばかりである。だからといって数千年も生きるのはちょっとしんどいことである。



50α編集部:2016/04/05(火) 18:05:09
エイプリルフール2015
     エイプリル・フール2015〜



      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。



2016年

オキシモーラン的エイプリルフール−その1

?? オキシモーラン社による新商品のご案内
◆ニャン眠剤発売
 さるNPO法人がまじめに統計をとったデータによると、先進国では97%の人が不眠
に悩んで いるという。その原因が配偶者・恋人、病気、リストラ、職場の人間関係、近
隣関係、社会体制にたいする不平・不満、憤りなどのルサンチマン的憎悪などがあげら
れる。途上国においては明 日のコメにも事欠くあり様の生活を強いられている序民は、
一日中重労働にあるため横になれば即ち爆睡し、不眠の悩みどころではない。

 我が家の猫、ミラノ公ドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ(通称イル・モーロ)は
私がソ ファに寝そべっていると、どこに寝ていても私の所へやってきて、体の上でぐう
ぐう眠るのがい つものパターンである。猫がよく眠るという事実は昔から知られていの
だが、それにしてもモロ の睡眠時間は並ではない。
 Yahoo(ヤッホー)の『知屁袋』によれば、経典などをネズミから守る為に奈良
時代頃に中国から輸入され、古くは「禰古末(ネコマ)」と呼ばれていたことから、江
戸時代の学者達は この語源について、いろいろ考証をしていたようである。
 ●「鼠子(ねこ=ネズミ)待ち」の略
 ●睡獣(ねむりけもの)=よく寝る動物の意
 ●ネエネエと鳴くけもの=鳴き声に由来する説。昔の人は、猫の鳴き声を「ネエネエ」
  と表現していたらしい。「こ」は小さいもの、身近なものという意味の解釈。
 ●「ねけもの」が転じて「ねこま」=これは、あの有名な滝沢馬琴が主張した語源ら
  しい。
 ●寝小魔(ねこま)=よく寝る小さな動物の意。魔は神でも人でもない有情生物を意
  味する原語で、動物の総称にも使われていた。

 ところで猫の睡眠時間はだいたい12〜16時間らしい。しかし我が家の猫は測定したと
ころ23時間17分13秒11の睡眠時間で、覚醒している時間はなんと一日わずか47分46秒49
なのであった。
そこでオキシモーラン社の富士五湖駐在員の私としてはその特性を世のため人のために
なる商品開発を思いたった。
 猫の縄張りを示すためのマーキングは尿スプレーと言われ、通常の排尿と違い少量の
尿を垂直な物に立ったまま後方に向かって噴射する行為で、強烈で独特な臭いがする。
そのスプレー液を集め、神聖な富士山の湧き水、キツネノカミソリから抽出したアルカ
ロイドを少々、72時間煮沸攪拌凝縮常温冷却抽出形成方によって純度の高いエキスを睡
眠剤として販売することである。
ヒルティの『眠られぬ夜のために』に書かれている人生、人間、神、死、愛などの深い
思想による安心立命を得ての安眠ではないけれど、アーラヤ識のなかに潜在的に蓄積さ
れた「眠りたい」という己のプラティカルな欲望を誘発させて眠りにいたらしめる薬で
ある。まずは「睡眠障害で一ヶ月の療養が必要」との医師の診断書をもらい、表から姿
を消した辛利氏にさし上げたい。
 人体への薬の治験はどうなされたかと問われれば、富士五湖駐在員の家族が半年間の
実験の知見のうえ、スマホ、パチンコ、アルコール・ニコチンなどの依存症、腎臓、肝
臓、骨髄などの器官の機能を障害するような副作用も全くない新薬であることをここに
証明するものである。
 「深川いなせ大学」の滝沢馬券教授(滝沢馬琴より十五代目)によると、使用後の目
覚めは大穴を当てたときの至福感と、野に自由に遊ぶ仔猫のほどよい疲労感を覚えたす
ばらしい睡眠薬だというコメントを残している。
 関係者からのお詫び、このたび滝沢馬券教授はニャン眠剤を少し多めに使用したため、
それ以来一度も目覚めることなく、笑気ガスを吸引した時のような、幸せそうなアルカ
イックスマイルを口元にたたえて安眠中であります。この後のコメントについては滝沢
馬券氏の長男であり、現在「中山競馬大学」の滝沢馬糞准教授に依頼しています。
  ●価格:小瓶  2,980円(ニャンキュッパ)
      大瓶 11,131.719円(いいおとこ いさみ いなせ いき)まるで
         九鬼周造の『「粋」の構造』の神髄のような値段と評判である。
  ●電話:0120-373-2374(おおいにわだい みなさん ふみんなし)まで、いまか
    ら30分以内に電話を、テレフォンオペレーターを増員してお待ちしています。



オキシモーラン的エイプリルフール−その2

オキシモーラン社による新商品のご案内
◆『明解宇宙語大辞典』の出版
 ところで皆さんは『亞書』というタイトルの本を知っているだろうか。それはギリシ
ャ文字がただランダムに並べられているだけで何の意味も持たない文章が書かれている
本のことを指していて、著者はアレクサンドル・ミャスコフスキーという人物になって
いる。
 そこで少しwikipediaで調べてみると、「亞書刊行會」という会社から出されていて、
Amazonでしか販売されておらず、64,800円という高額で売りだされている。96巻まで売
りだされているが、全て1点ずつしか売り出されていないという。そして国会図書館に登
録されているという。正式名称は『Книга "?"』なのだそうだ。Книга は書
物という意味で、?はヘブライ語で「アレフ」だ。『アレフの書』と訳すことが出来る。
この本は2つの出版社が登録されている。出版社はユダ書院。ユダ書院からは各言語に翻
訳された聖書が出ている。もうひとつの出版社は、りすの書房である。

 さてこの『亞書』には2・3の疑問が生じている。
 ●一つは、書物と言えるかどうかという疑問である。全く意味をなさない表音文字を
  ランダムに並べることに意味があるのか、むしろ構図や記号や模様や装丁など、絵
  としての芸術としての価値があると考えるのか。
 ●二つ目は、国会図書館法第十一章その他の者による出版物の納入の第二十五条に規
  定してあるからその義務をはたしたのか。
 ●三つ目は、一冊64,800円という価格が妥当かと言うことである。
  ギリシャ文字の一字をランダムに単純に並べているだけで、誤字・脱字等の校正作
  業である初校・再校・三校・著者校などの手間がまったく必要ない。また世の中に
  は好事家が百人くらいはいるから一巻発行すると64,800×100=648,000円となり十
  分ペイ出来るのである。ましてや96巻まであるから62億2千80万円にもなるから驚き
  である。

 しかし国立国会図書館は、発売元から聴取を行い検討した結果、郵送された『亞書』
各巻1冊は、頒布部数が少なく、また、国立国会図書館法に列挙された出版物に該当せず、
国立国会図書館への納入義務の対象には当たらないものと判断したため、『亞書』を発
売元に返却するとともに、発売元に支払い済の納入出版物代償金の返金を求めることと
した。
 国会図書館法の「納本制度」とは、図書等の出版物をその国の責任ある公的機関に納
入することを発行者等に義務づける制度のことで、わが国では、国立国会図書館法(昭
和23年法律第5号)により、国内で発行されたすべての出版物を、国立国会図書館に納入
することが義務づけられている。
 納本された出版物は、現在と未来の読者のために、国民共有の文化的資産として永く
保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されるのである。
 そして今回の『亞書』の問題は、「国会図書館に納品して"代償金"(通常、小売価格の
5割に相当する金額 ndl.go.jp/jp/aboutus/dep… )ゲットする詐欺的行為では?」とい
う憶測がなされた結果であるという噂もある。

??いままでの記述は落語における枕にあたる。さてこれから『明解宇宙語大辞典』編纂
の歴史を紐解くとしよう。
三年前に、生まれた三ヶ月ばかりの仔猫が山の下の里村からはるばる登ってきて我が山
荘に居着いた。名をミラノ公ドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ(通称イル・モーロ)
にちなんでその諱を「モロ」とした。 山の奥にひっそりとたたずむ湖水の色のような、
わずかに鈍色の含まれるアクアマリンの色の瞳を向けながら、朝な夕なに話しかけてき
た宇宙語を私は手を抜かず全て収録した。そして母星から送られてくる指令の暗号を解
読することの役目をになったチーフのサカエ・ル・カミノをはじめ「物集班」の力でそ
してそのデータを基に、宇宙語を解読し辞書として編纂に至ったわけである。
  下記は母星から送られてくる「ミッション」の暗号文の一例
  5405401791 9477587214 6324863264 4983412604 8640409293
  1481967000 8996483727 2621990112 1910706012 6312782576
  0210369991 8366476103 5213752153 3872301503 7539398181

 私たちの『明解宇宙語大辞典』は『亞書』の場合と全く違い、無償で下記の図書館に
寄贈することにした。
  国名      名称        (現在の蔵書数+新しく加わる1冊)
日本    :国会図書館             (24,988,176+1冊)
バチカン  :バチカン図書館            (1,100,000+1冊)
アイルランド:トリニティ・カレッジ図書館 ?????? (5,000,000+1冊)
フランス  :ビブリオテーク・ナショナル ?????? (10,000,000+1冊)

 この『明解宇宙語大辞典』を目にした「中山競馬大学」の滝沢馬糞准教授は、宇宙語
は皆目分からないが「今世紀の大穴を当てたようで、とてもすばらしい」と、意味不明
の評を書いて絶賛していたと聞く。

参照:「物集班」のメンバーは下記の小説『無限回廊』のなかの第一回の登場人物のな
   かでで紹介されている。
  ??http://2style.in/alpha/0-0.html

????






2015年

エイプリルフール



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、
オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
 ??「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行
  う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、世界的
  な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎えさせる最終
  兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイター」等、世界
  の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決してきたことから鑑
  みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取らない立派な会社であ
  ると言える」と述べている。
   ??参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい
商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、
「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいて
いの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると
病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしてい
て、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。
刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認する
ヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
????第 1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で
???????????? ある。
????第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的・
???????????? 経済水域はウスライナ人が所有権を有す。
????第14条 :土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権
       は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ
       とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰
属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一
国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の
運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人
になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地
球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たさ
れているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識
や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念で
ある。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。
それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと
思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の
「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を
兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能
力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。
オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産
することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。

  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
????2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
????3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
????4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)
の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星人とし
て認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服
すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデア
を募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」
「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に
備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道に
もとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の
被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の
地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート
・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純
である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、
即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通
りである。

  1.住民はリラックスして睡眠状態になる
  2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね
   て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
  3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと
   ができる
  4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール
   弾」の影響下に置く
  5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたらした。

虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年
  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の
  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チュ
  ネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事がみ
  られたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用としてインド
????に売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優秀な紛争
????終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩せやしない
????だろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収めることはま
????ことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む思
????いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガード
????下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・ボール
  弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争には必ず購
  入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に煽っていた。
????という記事を暴露した。

??  参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/27-7.html









原文


2015年

オキシモーラン的エイプリルフール−



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
 ??「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで
????行う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、
  世界的な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎
  えさせる最終兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイ
  ター」等、世界の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決し  てきたことから鑑みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取ら  ない立派な会社であると言える」と述べている。
   ??参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
       http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいていの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしていて、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。 刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認するヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
????第1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で???????????? ある。
????第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的経???????????? 済水域はウクライナ人が所有権を有す。
????第14条??:土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権???????????? は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ???????????? とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たされているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念である。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。
  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
????2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
????3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
????4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
  「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星   人として認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデアを募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」、「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道にもとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通りである。
????1.住民はリラックスして睡眠状態になる
????2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
????3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと ができる
????4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール弾」の影響下に置く
????5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたら した。

 虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チ  ュネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事  がみられたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用として  インドに売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優  秀な紛争終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩  せやしないだろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収  めることはまことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む  思いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガ  ード下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・  ボール弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争に  は必ず購入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に  煽っていた。という記事を暴露した。

  参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
      http://2style.in/alpha/27-7.html



51teacup.運営:2014/01/01(水) 18:58:28
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52α編集部:2014/02/20(木) 11:01:38
住まいの話
.
            ????????  住まいの話?? 2003年 落書き帳より




(1)−住まいとは?  1.13
住まいの定義は人が住んだり、仕事をしたり、また、動物や物をおさめたりするために、木材、金属、石
材などでつくったもの、建造物、建築物とあり、英語ではa (family) house, a residence, a homeと書い
てある。

私の考えでは仕事をしたり、動物や物をおさめたりするというよりは、英語の定義の方がより象徴的にそ
の機能を表しているようである。人が外での生産的な仕事を終えた後、住まいに帰り団欒し身体を休め次
の日の労働に備えるためのエネルギーを蓄える場所と私は考える。すなわち外は生産の場所、家は消費の
場所となる。

また、建造物、建築物とあるが、世界の中には洞穴などをそのまま住まいにしている場所もある。日本の
建築基準法での建築物の定義では、壁または柱、及び屋根で構成された構造物とある。



(2)−建築の芸術性について 1.19
さて今回はゲイ術ではなく建築の芸術性について話そう。そもそも芸術とはなにか?
辞書には「鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術」とあるが、なにをさすやら判然としない。
まるで隔靴掻痒(かっかそうよう)の感があるが、早い話が絵や文学や演劇のことを指すのである。
また、あらゆる芸術をあるファクターで分類すると次の3の種類に分けられる。
1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術の総称。
    すなわち、音楽、文芸など。
2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられて、人間の感覚
    覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なものに建築、彫刻が含まれる。
3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調和した形式で表
    出される芸術。演劇や映画等。時間のファクターを加えれば建築も含まれる。

このように建築は芸術の栄誉を与えられているが、はたして現在の我々の「ウサギ小屋」には芸術性があ
るのかどうか疑わしく、むしろ猥雑性ということばがあてはまるのでは……。もっとも小説や絵や演劇が
すべて芸術性が高い作品ばかりとはかぎらないのであるから、庶民の住まいなどは対象外かも知れない。

  次回は戦前の住まいと戦後の住まいの違いを書くつもりであります。

※前回の文の訂正とお詫び:住まいを団欒の場所、次の仕事へのエネルギーを蓄える場所としましたが、
闘争の場所、不毛の時間、エネルギー消耗の空間等の帰宅拒否という負のイメージを抱く人も見受けられ
ますので、一方的に安心立命の幸福に浸れる場所と定義しましたことをお詫びします。
しかし、それは住まいの定義より広く、工場も事務所も倉庫などあらゆる構造物が含んでいるのである。
そこで、住まいとは人が生活する建物とするのが妥当であろう。ゆえに寺院やアリーナや国会議事堂は建
物でも住まいとは言わないのである。

さて話は硬くなったが、「住まい」を建造物として捉えるだけでなく暮らしを通して「収納について」とか
「色彩の調和」などその住み方や生活の仕方からはじまって都市の景観、環境などのグローバルな問題に
いたるまで、思い付くまま気ままに印象を書くコーナーとしたい。



(3)−戦前と戦後の違い 1.28
すべて昔がよかったと老人じみた懐古趣味に凝り固まっているわけではないが、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」
にあるように、住まいにおいては奥ゆかしさや快適さや健康的な環境は、やはり昔のほうがまさっている
とわたしは考える。これは日本の風土のなかで永い年月を経て作り出された住まいの形であるからであろ
う。

戦後といっても終戦直後の十年くらいはまだ戦前の窮乏を引きずっていて以前とたいした違いはないのだ
が、昭和三十年を過ぎたころから高度成長期に入り住まいを構成する材料や工法そして住まいにたいする
考え方も一変した。

それより以前の住まいは木、竹、葦、土、藁、紙、瓦などの天然素材が主で自然のサイクルに組み込まれ
ていて最期は無害な土にかえって行き、次の世代の植物の栄養となって再びよみがえるのである。
それに反し、現代の住まいは、コンクリートと鉄と塩化ビニールやプラスチックなどの化学製品が主で、
不要になって捨てられても分解されて自然に戻るということはない。

化学製品は鮮やかで美しいものと感じられるが、創られた最初が最高の輝きを表し、時を経るにしたがっ
て衰えて行くのは、天然素材の使い馴染むほど味が出てくるのと対象的である。

しかし、自然の素材でできた住まいがすべて優れているとばかりはいえない。耐久性に欠けていて、怠る
ことなく常に手を入れて管理しなければならないのと、火事に弱いことがあげられる。
それ以上に問題なのは、そのような天然素材で創ることが現在ではかえって高価な工事費を伴い、金持ち
の道楽でしか建てられなくなった感がある。

大量生産、大量消費の時代は曲がり角に来ていて、今までのように新しい物を追いかけるのではなく、以
前のようにもっと身近な物を大切に慈しむ時代にもどりつつあるような気がする。


(4)−景観その1   2.13
現代でも犬の糞の臭いを除けばヨーロッパの町並の美しさに感嘆するのは私ばかりではないと思う。
例えばパリなどの大都市やローテンブルク・ハイデルベルクなどといった都市国家のなごりの小さな街に
いたるまで、特別緑が多いといえるものではないがなんとなく整然としていて心地よく、現代の日本の町
並みよりすっきりしているように感じられるのはなにゆえか?緑や公園や広い道路がなくても、たとえ古
くなって色がくすぶっていても美しく感じるのはなぜか?
緑や公園の数にいたっては日本もそれらの都市に決して劣っているわけではない。むしろ塀で囲われた坪
庭などの緑を勘定にいれるとすればむしろ日本のほうが多いのではないかと思われる。しかしそれにもか
かわらず現代の日本の都市や街はまったく美しく感ぜられないのは私だけだろうか。じつは日本の町々も
戦前まではしっとりとした情緒を感じさせる町並みを保っていたのである。また今でも京都や金沢などを
代表する、昔ながらの伝統を守っている都市においてはその景観をかろうじて残しているものの、残念な
がらほとんどの町がそのよさをすでに失ってしまった。

都市の美しい景観を構成するおおよそ次の要素が考えられる。
 1.色彩:壁や屋根を構成する材料の質感と色彩
 2.形態:建物や道路やランドスケープの構成する形及び空間
 3.文化:そこを利用する人たちの住まい方
さて次回は都市の色彩のことについて考えて見よう。



(5)−景観その2  2.18
1.色彩について

 ヨーロッパの建物を構成する建材は石やれんがや土カベ、瓦、スレートなどであるが、その都市その地
方によって特徴のあるものがつかわれている。そしてそれぞれの街々の建物ははほとんど同じ材料をで出
来上がっている。

 たとえばシエナやブレシヤやそのたのイタリヤの都市のようにサンド色の石の壁と赤い瓦で葺かた屋根
が町の色となっている。また一方フランスの都市コルマールやドイツのクヴュトリンブルグは木造の梁と
柱と漆喰壁で構成されていて、それぞれの街の個性あるイメージつくっている。

また、現代の必要以上に精緻に規格化された建材のもつ冷たさや、表面的で表情のなさに反し、焼き過ぎ
レンガや石や瓦の色の違いによるグラデーションによる変化や、規格の不統一による型の面白さに深みと
趣を感じるのである。

 かたや、現代の日本の色とテクスチャーの氾濫による猥雑さはどうであろうか。屋根や壁の色、材料は
好き勝手に、袖看板、広告塔はあくまでもけばけばしく、自由の国であるから何を表現してもよいとばか
りに我が物顔に氾濫し、あらゆる欲望を肥大化させる都市としてのエネルギーはあるけれど成熟した文化
を享受するにはまだ未熟である。

 最近、石原慎太郎都知事の音頭で「都市景観」について考えることを提案された。これは、ほど良くセ
ーブされた色彩で装われた都市、洗練されその景観をもとにイメージされた、西洋の都市の美しさを念頭
に置いたものであるとみる。
 なお、江戸時代の街並みは銀色の屋根と白い漆喰や板壁などのモノトーンの色で成り立ち、塵ひとつな
い清潔で美しい街であったことを忘れてはならない。



(6)−景観その3 3.26
1. 形
建物の形を決めるものには構造的な要因とその建物の所在する自然の要因が大きく作用するものである。

■石造りの家は構造的に横に広い開口部は不利であるから、巾が狭い窓で構成されていて外部から みる
と壁面のしめる面積が広く重厚な外観となる。しかし防寒にすぐれているが、外部の明かりをと入り入れ
るには十分とはいえない。

■木造の家は梁と柱からなり、構造体から壁面は解放されていてどこにでも窓や出入り口を設けることが
出来る。日本の木造建築のように四方を開口とすることも可能で、瀟洒で優雅な外観となる。しかし冬の
寒さや火事にたいして弱点をもっている。

■雪の多い地方は傾斜のきつい屋根となり、そうでない地方では緩やかな屋根となる。

このように一地方の自然とそこで産する建材がほとんどの建物の形態を決めてきた。和辻哲郎の書「風土」
の論のように、文明はそれを取り巻く自然に左右されて決まると論じられてきたが、現代では自然の厳し
さも技術的な面で克服出来るようになった。人も住めないネバダ州の不毛の土地に、水や電気を作りだし
冷暖房から昼夜を問わず真昼のごとき照明で一大歓楽街を築いたラスベガスはその顕著な例である。これ
は現在の強引な手法を用いているアメリカの大統領ブッシュの他の文明にたいする傲慢な行為と同じに見
える。しかしそのような力ずくの文明の成果も、一度事故やエネルギーの枯渇に至るとすれば、自然の驚
異に晒されて人間の住めない都市に変貌する危険を孕んでいる。

このように立地する場所の自然に影響されることなく建築の工法や設備が可能になったおかげで、都市の
景観があらゆる工法、あらゆるテクスチャー、あらゆる色彩の氾濫を招き、まるでパンドラの箱をひっく
り返したみたいな様相を呈する結果となった。特に我が国の大都市の周辺はそれが顕著であり、落ち着い
たまとまりのある景観がなくなってしまい、馬籠宿や奈良井宿や白川郷といった地方地方の特色をもった
町並みはもはや風前の灯火である。



(7)−住まい方  6.10
都市の景観の美しいさまは今まで述べてきたように、統一された色と形状が重要な要素だが、それだけで
は十分ではない。ヨーロッパ及び日本のある一部の美しい街に共通するものは、実に単純なことである。
それは公共の空間に私物を置かない、平気でそういうところに物を捨てないことである。

醜悪で猥雑な街を観察して見れば、紙屑、ゴミ袋、食堂や飲み屋の置き看板、放置自転車、トロ箱の植栽
などが我がもの顔に置かれていて、美観を損なうとともに通行の妨げになること甚だしい。それは災害時
の消防車や救急車の運行の妨げになり人命にかかわることにつながらないともかぎらない。

ヨーロッパの都市国家の狭い城壁の中ではたくさんの市民が居住しなければならず、高層の住居と狭い道
で成り立っていた。それゆ道路や広場を私物でふさぐことは犯罪行為に等しかったに違いない。 または
公共の空間にある私物はもはや私物でなく落とし物とみなされ、発見者の物として持ち去らされる運命で
あったかもしれない。

いまでは考えられないが江戸の町並みはゴミ一つなく実に清潔で整然としていた。だから日本人がそうい
う美意識がはじめから無かったということではなく、効率や経済に重きをおく考え方が主流になってから
失われたものと考えられる。とにかくこの私物を公共の空間に放置しない住まい方を会得しなければ、百
年たっても美しい町並みは戻ってこない。

「公共の空間の私物放置厳禁」とか「捨てた物とみなし拾ったひとのものとする・たとえ車や高価な品物
でも」とかの法律を作れば解決するやもしれないのだが・・・。



(8)−リフォームについて 2.9
 最近のテレビで盛んに住宅のリフォームをとりあげている。エステの使用前・使用後の手法を模し、み
すぼらしい・狭い・使い勝手の悪い・収納場所が無い家が改造によって、いかにすばらしい居住空間に生
まれ変わったかを得意げにうたいあげるである。

 しかしこれも、冷静に見るといくつかの問題点があるようである。それは狙い通りの効果を果たした物
が本当の価値の評価に耐えられるか、提示されたすべてのものが真実を伝えているか、クライアントがそ
の後はたして快適に暮らしていて何の問題も感じていないのかという疑問が残り、どうしても一方的な高
い評価がマスコミの視聴率獲得競争のやらせぎりぎりの報道と見えてくる。

 たとえば、工事費が果たして報告されている金額で出来るのか?実は設備工事は別途であるとか、照明
器具は計算外とか、植栽や特殊基礎や諸々の諸経費を勘定に入れないで安さを強調していないか。

 たとえば、使い勝手が非常によくなったとか見栄えが格段にシャレタ雰囲気を作り出しているなどと自
画自賛しているが、はたしてその出来映えが真実であるか?調度品や庭園やでゴージャスサを演出したり、
本当にクライアントの生活に馴染んでいるのか。小賢しい・見てくれだけの・小手先だけと思われる仕掛
けや造作は、ただ設計者の自己満足にすぎないような気がする。

 たとえば、改造するに用いたコンセプトがはたして快適な住空間に必要な要素か?光がさんさんと降り
注ぐ部屋がはたして常に理想的なものか。真夏の紫外線や光と翳の強烈なコントラストによる健康上・精
神上の悪影響は考えられないか。大きな吹き抜けの空間を多用しているのを見かけるが、はたして冬場の
暖房に答えられるか?などの疑問がわいたのだが、裏に隠された計算違いや失敗こそが実は私たち知りた
い有益な情報なのではあるのだが。



(9)−収納について 12.20
家財が多すぎて、或いは収納場所が少なくて部屋が片づかないと嘆いている人がたくさんいると聞く。だ
から家を建て替えるときにまず収納する部屋や天井裏や床下といった空間をすべてそのために確保しよう
と特別に必死で努力する人がいる。本来は高価な土地や家の空間であるのだから住人の快適さが先にある
べきことなのに、人間の空間を物に奪われている現状である。ところが、いかに自分は工夫を凝らしそれ
を解決したかを誇るといった本末転倒の思いこみをしている人がいる。

では、家の中がすっきりと片づくということはどういうことかをまず考えてみると。
1. すぐに必要とされない物が部屋の中に見当たらないこと。
2. 足下周りに物が置いてなく動くに支障を来さないこと。
3. 絵や陶器などの飾りが多すぎないこと。
4. 家具などの高さや色や質感が程よくまとまり統一感があること。

しかし、収納場所の問題は住居の条件により自ずと制約があり、それ以上増やすことができない場合が多
い。そうであれば、それを解決する次の一手は溜まりにたまった物を減らす算段をするしかない。その家
を埋め尽くし、人の住空間を圧迫する物とはなにか。
1. 戦前の貧しい時代では考えられなかったのだが、高度成長を経て物の使い捨て時代が到来してから不
  急不要の物まで手当たり次第購入するようになった。
2. 不要になった物を抱え込み新しい物を購入しても使わない物をいつかは必要になるだろうと考え処分
  できないこと。

そこで不要不急の物はなるべく買わないこと。収納している物で半年も目にしないものは再び使用するこ
とはまれだから思い切って処分すること。要するに考え方を一変し「シンプルライフ」を目指すことであ
る。

この年になるとあまりたくさんの食べ物も必要としないし、数多くの種類の身を飾る衣装や宝石などその
他、欲望を肥大化させるものからきっぱりオサラバし「量より質の時代」なのだと考え直してはいかが。

53α編集部:2014/02/20(木) 12:30:30
時言語録
.
                時言語録?? 2003-2004 落書き帳より




住宅の夢??  2003.5.28

 テレビや新聞の広告にたくさんのハウスメーカーが競い合った、広い庭を持ついかにも上品
そうな住宅が毎日のように掲載され、読者はあのような家に住めればなんと幸せな暮らしが保
証されるであろうと思い込む。たとえ、夫婦仲に問題が潜んでいても、子供の対話に悩んでい
たとしても、あらゆる種々雑多な解決すべき厄介な事柄も、新しい住居の中での暮らしではそ
のよういやなことはすぐでも雲散霧消して幾久しく平和を保てると考える。そして多くの人が
現実にすべくその夢にむかって思いを膨らますだが、現実はそう単純で甘くは無い。

 住宅展示場に行ったことがある人は、その家がほとんどのクライアントの現実にそぐわない
ことに気付くであろうか。その展示場の空間は日本の都市の庶民の住居(ウサギ小屋)をはる
かに越えている。たとえば普通の住宅が三十坪前後を標準とすればその展示場の住宅は六十〜
八十坪という広大さである。冷静な人であればその修飾された品物が標準ではないことを正確
に判断出来るであろうが、夢のなかに漂っている人はすっかりそれに酔ってしまいかねない。
そのほか、仕上げ材や設備なども最高の水準のものを使用されていて、いざ我が家をというと
きにもてる予算の範囲ではちいさな空間とありきたりの設備や仕上げの家に落ち着き、展示場
のあの豪華な家はどこに行ったのだろうかと悩み、ついには現実を受け入れざるをえないだろ
う。ゆめゆめ見てくればかりに惑わされることなく物事を判断しなければと想うのである。



TV異論????????2003.5.29

 「そりゃー嘘だ」・「やらせが見え見え」・「いつまで馬鹿やってんだ」・「そんなうまくい
くもんか」などとテレビに向かって話すようになるとあなたも年、老人の域に踏み込んだ証拠で
あること間違いない。

 それにしても、最近のテレビは詰まらない番組ばかりでついつい憤慨したくもなる。
ゴールデンタイムを「ダウンタウン」・「うっちゃんなんちゃん」・「とんねるず」などという
大した芸もない芸無人(ゲイノージン)達で番組を占拠させている。

 お笑いやユーモアのあるものを全部否定するつもりはないが、同じ時間にどの局もおしなべて
流すのは選択の余地を奪うものだ。これはテレビだけの話ではなく、FMラジオにおいても同様
で、同じ時間に同じジャンルの音楽を各局が流すのはどんな意図があるのかその見識を疑う。

 たとえばジャズを聴きたいと思ってもどの局もその時間はクラッシクを放送していたりする。
なにせ局の自立性も多様性もなくて、ただ右へ習いの「みんなで渡れば怖くない」式の安全思考
に安穏としているのが実状である。みんなでくだらない番組は思い切ってテレビを消し視聴率の
ダウンを目論もうではないか。



ついて行けない!?? 2003.5.30

 もうイラク戦争とその後の話題はマスコミの紙面やテレビにほとんど見あたらない。あんな
に狂気とも思える総動員体制で報道されていたにもかかわらず、すでに過去のもののごとく忘
れ去られようとしている。

 2001.9月の米国同時多発テロの後すぐにアフガニスタン戦争に突入し一応平定した。しかし
国内における拠点の大半は解体されたのだが、未だアルカイダを完全に制圧もできずに別の場
所にある拠点が再活性化されているという事実もはや話題にはならなくなった。

そして2003年、一カ月前までは朝から夜中まで報道されていたイラク戦争も、白装束集団の執
拗な取材に取って代わられ、次はマスコミは何に活路をみいだすのであろうか。何もおこらな
い時は有名人のくっついたり別れたりする話や刺激的な、猟奇的な殺人事件にうつつを抜かす
のであろうか。

この過激な変化をする世界情勢もさることながら、一見終わったかかに見えるもののなかにい
まだ問題が山積していることを無視して走り去る情報をあつかうものの変わり身の早さにとま
どうのは私だけであろうか。



本の話???? 2003.6.2

 本屋に行ってしばし躊躇することが多い。面白そうな本をみつけても懐具合と相談して諦め
たり、狭い部屋のスペースを考えて購入を控えたりすることが多いのだが、それでも足繁く本
屋に通うのである。

 辞書や百科事典などは身近に置いてしょっちゅう利用するから購入も止むを得ないとして
も、全集ものなどはもってのほかである。昔はそれらを随分購入したが、そのうちの八割は二
度と読み返さないことが判明した。専門書の全集なんぞその一割強はページも内容もスカスカ
で、あってもなくてもいいものでうまっている事が多い。

 それにそれらの数十冊を全部一遍揃てしまうと思わずひどい目に遭うのである。いつでも読
めると安心してなかなか果がいかないで、数十年かかってもついには最後まで行き着くことは
ない。本棚が整然と全集で見事に埋まっている威厳と誇らしさの満足は得られないのだが、必
要に応じて読みたい時読みたい本だけを選んだ方が良いと結論に達した。

 気に入った本を購入して、挿し絵や序を読んだりあとがきや奥付などや装丁などの周りをう
ろうろ眺め回す。なかなか本文に入らずに居る時間の楽しさは、懐を痛めても購入する価値が
あるのであるが、いまはそのような事情であるからもっぱら図書館を利用する。返却期限が気
になるのと最新の本が読めないのが難点であるが.....。



なんでもありではどうだろう????? 2003.6.13

朝日新聞のあるコラムに指揮者の岩城宏之氏が「プロ社会はルール無用?」という文をのせて
いる。サミー・ソーサの不正バットの事件に関連したもので、その内容は小生も前々から感じ
ていたことである。ルール違反の確たる証拠がなければやり放題なのか。もはやプロのみなら
ずアマのスポーツ界でも純粋でごまかしのない精神でおこなわれるというまやかしの論は、す
こしでも客観的に観察する人であれば信じられそうもないことである。

 優れたスポーツマンは健全な肉体と精神をあわせ持つ、そしてむしろ健全な肉体にしか健全
な精神が宿らないごとく建前論を言われることが多い。だが、これまでのスポーツの世界を振
り返って見るといろいろと問題点が浮かび上り金科玉条も危ういものになっている。

* 野球では敵のサインをスタンドから双眼鏡で盗むことはルール違反である。どこそこの球
 団はそれをシステマッチックに行い、バッターに教えているからいかん。
* 筋肉増強剤でポパイのごとく強力なパワーを獲得しホームラン競争にうち勝つのはルール
 違反ではないのか。アメリカの野球選手の4割近くは筋肉増強剤を使用していると聞く。
* ジャンプ競技では日本人に不利になるようにスキー板の規則を、水泳競技では泳法のルー
?? ルが改正された。

このように公平であるべきルールさえ団体や国家のエゴにひん曲げられる世の中だから、この
際「薬」も「変型バット」も「スパイ行為」も「故意の死球」もよしとするルールをつくった
らいいだろう。

たとえばボールが必ず当たるように大黒柱のような太いバットとか、死球に備えて甲冑を装備
するとか、盗塁用のターボエンジンを背負うとか・・・いけない劇画の世界へ迷う込みそにな
った。
こんなことかいていると「キンチョール」の、野球に例えた「卑怯なまでの即効性」というゴ
キブリ退治のCMの画面を思い出す。



恐怖症?????????????? 2003.6.14

 世の中には脅迫観念に悩まされる人が結構いるものだ。軽微な症状は一般の人にもあると思
うが、重症の人は思春期の人口の1%ほどいるといわれ、自立と依存の葛藤を抑えようとして
脅迫症状が現れるという。不潔恐怖症、閉所恐怖症、高所恐怖症、尖端恐怖症、確認脅迫症な
どがよく知られている。そしてそれを回避するために一種の儀式行為を各人が行うという。

 有吉佐和子の小説「和宮様御留」にでてくるさる貧乏貴族が、外出するとき決まった方の足
から出て「貧」「福」「貧」「福」と唱えながら歩き、必ず「福」で家に入るよう歩調をあわせ、
不幸にならないための努力をする情景が描かれている。これも一種の儀式行為を伴う脅迫観念
であろう。

 かくいう私にも閉所恐怖症と先端恐怖症と高所恐怖症がみられるのである。閉所恐怖症は狭
い地下室に閉じこめられてもがいてる夢を、先端恐怖症は錐やナイフの刃先が迫る夢をよく見
る。高所恐怖症に至っては、職業上やむなく手摺りのないビルの屋上に昇ることが現実にあっ
て度々嫌な想いをした。

 そのことについてなぜ高所の恐怖を抱くのか真剣に考えて見たことがある。たしかに高所か
ら落下すると確実に死に至る事を想像して恐怖を感じることもその一因である。しかし決定的
な理由がもう一つあった。それは己が自分の意志に反して「ダイビング」をするのではないか
という恐怖で自分にたいする不信に根ざすものであったのだ。それは若い時悩んだ「プラット
ホームから入ってくる電車に向かって身を投げ出すのではないか」という恐怖と同じであり、
いまでもかすかにではあるがその恐怖は残っている。



なまえに纏わる想い ???????? 2003.6.18

 自治体の合併にともなって新しい名前の都市が生まれている。「あきる野市」「さいたま市」
などの仮名の都市も多くみかけるようになった。庶民が親しみやすいという理由で付けられた
名前であろうが、漢字の方が一読でその都市のイメージを捉えることが出来ると私は考えるの
だが。仮名の名前はどうも捕らえ所が無くいつまでたっても無性格でインパクトがない。

 また、田無市が「西東京市」になり「南アルプス市」や「四国中央市」も生まれた。こと此
に至ってはその由来する謂れや伝統やそこで育まれた文化にたいする思い入れをきっぱりと否
しているようで鼻白む想いである。

 そして町名にしてもしかりで、為政者側の管理しやすい町名に統一したり、一部の住民の意
見に迎合し、懐かしい町名を改変したりしている。角筈や黒門町や春木町などはすでに一部の
施設の名前に残るだけで消え去ろうとしている。

 泉鏡花の「婦系図」の物語、文学士・早瀬主税が密かに所帯を持っていたのは、芸者あがり
のお蔦であった。ところが酒井の愛娘に縁談が持ち上がり、お蔦との関係を師に責められた主
税は別離を決意、お蔦は泣く泣く身を引いた。これが後に舞台で満場の紅涙を絞った「湯島の
白梅」の名場面である。
その恩師 酒井先生は真砂町に住んでいて「真砂町の先生」と呼ばれたが、その真砂町も町名
としてはもうない。



わが生命維持装置の消耗度について???????? 2003.6.19

リチャード・ドーキンス書の「利己的な遺伝子」によると、人間の肉体を支配しているものは
己ではなく遺伝子なのだそうである。いかにも己の意思のもとに生を営んでいると思い込んで
いても、この肉体は遺伝子の単なる生命維持装置にすぎないという。

何億年もの昔、生命が発生してから遺伝子は永遠の命を獲得する術として未来に向かって生き
延びるためにその時々の人間の肉体の中で生き、肉体が衰えると次の世代すなわち子孫へとそ
の遺伝子は引き継がれ永遠に生き延びるという目論見を秘めているのだという。

さて、そのような生命維持装置たるわが肉体はどのくらい消耗しているのか、あとどのくらい
維持できるかを検証してみたい気がする。しかし局部的主観的データは2・3あるものの科学的
総合的な検証は会社勤めのころ受けた健康診断を最期に30数年も行ってはいないから、大雑
把な予測すら出来るはずもない。

左足は坐骨神経通が原因でもあろうか、中学生のころよりすでにしびれ、だるさなどの症状と
仲よくして来た。右耳は山スキーでの吹雪のため鼓膜に傷がつき多少の難聴をきたし、目は近
視と乱視と老眼でめがねの種類を幾つそろえても満足に見えない。左の肩は2年前五十肩にな
り腕が上がらず、やっと治ったかと思うまもなく右が痛くなって今でも続いている。

いままで一度も病院のベッドで寝たことの無い自然治癒にまかせて薬をほとんど飲まずに生き
延びた原始的肉体は、検査すれば病気のデパートであるに違いない。だがもうすでに彼(か)
の遺伝子にとって私の肉体は御用済みなのだから、ポンコツであろうともこれから先もその消
耗度を見て見ぬふりして、己に戻してもらったこの肉体を大切にしよう。



読書について???????????? 2003.6.24

 文化庁の国語に関する世論調査によると、「全く本を読まない」というひとが37.6%にのぼ
ったことを報告している。

 電車の中でも上等なスーツに身を包んだ、いかにも一流企業の社員と思われる男性が漫画本
を食い入るように見ている姿を度々見かけることがある。この前など、すでにリタイアしたと
思えるれっきとした白髪の紳士がやはりそのような本を読んでいたのには驚き、情けなくなっ
てしまった。

 読書の価値についてはラスキンの著「胡麻と百合」が有名であるが、本を読んでも「飯の足
しにはならない」などという現実的な効用しか信じない人がいる。

 現実にできないことなどを仮想の世界で体験ができるとに意義があり、この有限の世界と違
った想念の無限の世界が覗けるのである。埴谷雄高の「死霊」などもそのような世界であり、
かなり難解な本であるが半世紀の時間をかけて書かれた力作で、みなさん一読したら如何。ち
なみに小生は完全読破に半年掛かってしまったのであります。

ごまとゆり【胡麻と百合】
(原題英Sesame and Lilies)評論集。二編。ラスキン著。一八六五年刊。一八六四年の二
つ講演を収めたもの。「胡麻(王者の宝庫)」は一般的な読書論、「百合(女王の花園)」は
教育と義務について述べた女性論。芸術を基調とした思想を展開した。



なぜだろう???????????2003.6.28

「日本の賃金水準は世界一か」。日本経団連の経営労働政策委員会が出した資料によると、一
時間当たりの製造業の賃金は日本を100とすると、米国は93、ドイツは76であるという。
はたしてそのデータが同じ条件の下にはじきだされた数値かどうかは定かではないが、すくな
くとも先進国のなかでもトップレベルに違いない。

それにも関わらず、小さな住宅や密集した環境や物価の高い暮らしなどといった生活する上で
の基本的なものの貧弱さが目立ち、欧米と比較する時高賃金による豊かさを日本の庶民が感じ
ることができないのはなぜだろう。

 これまでに貿易収支の黒字が何十年も続くにもかかわらず、国民の豊かさに繋がらなかった
のはなぜだろう。どこにその金が流れているのか、だれがその恩恵に浴しているのか我々庶民
にはさっぱりわからない。誰かその絡繰を教えて...。



望みを言えば????????????2003.8.27

 やはりチープな楽しみ方を書いた「南伝感電」さんは2002.4.15日ホームシアターについて
書いた「何電感電」さんと同一人物ではなかったようですね。当の「何電感電」さんも「難電
感電」と書くところによると、投稿があまりにも昔のことでその正確なペンネームを忘れてし
まっているみたいである。

金がなくとも-----おっと「南伝感電」さんはたっぷりあるかも知れない、自分と同じと早と
ちりしてはいけない-----兎に角「チープな楽しみ」の出来る時間が十分あって、小生にとっ
てはうらやましい。
いつになるか定かではないが、仮にその自由な時間を小生が獲得することが出来たとすれば、
似つかわしくないと笑われそうだが二つの習い事をするのが夢である。

  ● 一番目はjazz vocalである。
     野性的なはげしいリズム、迫力に満ちたシンコペーション、ラグタイム、スイング、
     モダンジャズなどの音楽に浸り、この世の憂さを晴らすためである。

  ● 二番目はエッチング(銅版画)である。
     この世を去る前に上梓する心算のわが回想禄に使う挿し絵を自分の手で創ってみた
?????????? いからである。

しかし、このささやかな夢も当分実現しそうにも無いから笑われることもなかろう。
優雅な時間を獲得するために時間を惜しんで忙しく働く現状はまさにパラドックスの極地であ
ります。



生命を維持するためには     2004.8.16

新風児氏がイカの活き作りについて違和感を感じられたのも納得するし、今田迷道氏の「そん
なことを言っていたら餓死するしかない」と言われることも間違いない。

生け簀の中の生きたイカがうまいと考えてしまうのははたして的を射てるであろうか?魚は死
んで5・6時間経たほうがうまいといわれる。昔は江戸前(東京湾)で漁師が獲った魚を市場
に持ち込み競り落とされ、天秤棒を担いだ魚売りに届けられて家庭の食卓に上るのがちょうど
5・6時間経ていてタンパク質がアミノ酸に変わったうまい肴を食したという。だから生け簀
の中で生かされてストレスでへとへとになり、脂も落ちてやせ衰えた魚をただ新鮮だというこ
とだけでうまいと思いこむことは単純すぎないだろうか。そして鯛の生き作りと称して半身を
刺身に、半身は水槽に泳がせながら食するにいたっては、その悪趣味には鼻白む思いである。

また、いっぽうかわいそうながら動物や植物の命を犠牲にしながらでしか人間は生きられない
事実がある。埴谷雄高の「死霊」の中に「キリスト」や「仏陀」のような解脱した人たちも身
近な動植物を食すしか己の生命を維持できないということにどのような道理を説いているかと
問うている部分がある。まさに他の生き物達と人間がどう折り合いをつけ「生きるために他の
生物を殺生する」ということに正当性を見つけるかは、人間に課された永遠のテーマであるこ
とに間違いない。



この平和ボケ日本      2004.8.21

いま話題の「温泉スキャンダル」の騒動をみていると、実に平和な日本だなと思える一方、そ
んなことにウツツを抜かす世情を「平和ボケ」と断じるほかはない。
白骨、伊香保に続き、神奈川県の箱根温泉でもインチキ温泉で入湯税を不正に徴収していたこ
とや、群馬県の伊香保温泉では、半年も湯を入れ替えない“アカの湯”があったことが発覚した。

それはともかく、オリンピックのニュースに負けず劣らず「不正のオリンピック」ショーよろ
しく何日も何日も放映をみていると、そんなにこれは大事なのかと揶揄したくなるのである。
まず、温泉が効能書きに示されているように鮮やかな効果があるとは信じ難い。たしかに、田
植えの終わった後や、収穫の済んだ農閑期に長期の湯治は、身体と心を癒すためには効果があ
ったであろう。そうとは言え、たまさかの入浴で簡単に慢性病が治るとは思えないのである。

それゆえ、この「温泉」であるか「水道の水を沸かした」ものかは、利用者に何の健康上の被
害は生じることはない。ただ「だまされた」といって「温泉の効果」を過大評価した人だけは
被害を受けたと思っているだけで、ことさらに生命に関わるような重大事として騒ぎ立てるこ
とでもあるまい。

一連のこのての報道もマスコミの定見のなさで、もっと力をいれて大事なニュースを掘り起こ
す努力を怠らず、それらを果敢に報道する義務があると思うのだが。
だがそれもこれも「ベッカム様」・「ヨン様」とウツツを抜かす民衆の求めるところの結果な
のかもしれないね・・・。

54α編集部:2014/02/21(金) 10:23:20
イタリア旅行記
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??????????????      イタリア旅行記




イタリア旅行決定
2007/3/4
■ 日時:4月30日〜5月7日(8日間の旅)
■ 場所:ミラノ・フィレンチェ・ベネチアその他
■ 費用:33万円/1人
■ 旅行社:H.I.S(プランタン百貨店地下2階)


「海外用携帯電話」 2007/3/9
海外用携帯電話の使用はドコモでレンタルがある。105円/1日 但しドコモの携帯電話の契約が必要。
au解約には予約番号を貰う。解約金?円、転出料2,000円。ドコモ:3,240円/月


「パスポート申請」 2007/3/7
有楽町交通会館にてパスポート10年用を申請。1週間後受け取り。
旅行に必要なものの調査とリスト
☆ デジタルカメラの容量を調査。512MBのSDで何枚撮れるか?
  エコノミー:612コマ撮影可能
☆ シエーバー・デジタルカメラの充電の方法、イタリアの電圧の調査
  ヨーロッパの電圧:220V  充電器:ニコン製品 PW−EH30E 1,000円


「所得税支払い」 2007/3/12
確定申告完了。所得税約17万円納める。沖村税理士に報酬約8万円支払う。
このあと事業税、市民税と続く。重税感に喘ぐ心境だ。

フロイト全集4及び戦後短編小説再発見4を購入。
今度のフロイトは夢解釈?で面白そう。前2巻も早く読破しなければ。

さて今度のイタリア旅行は質素倹約で行こう。携帯電話もなし。翻訳機もなし。
翻訳機は日本語の翻訳はするが、相手の外国語は翻訳しないから半分の機能しかないことが判った。こちらが聞くいっぽうでは役立ちはしない。


「イタリア旅行の準備」 2007/3/31
■ 銀座数寄屋橋阪急のエディー・バウワーにてジーンズと薄手の長袖シャツを購入。
■ 帰りに湯島聖堂を散策。お茶の水駅・聖橋・神田川沿いの土手に一本の見事に咲いた桜の木があった。密集する桜もいいが、常緑の林や山のなかの一本の桜もまたいい。私の住んでいる本郷あたりは意外と桜の木を見ない。東大の校内や上野の方まであえて出掛けなければ桜の並木を見られないのか。今年も思い立たなければ見逃しそうな気がする。
              

「イタリア旅行−1日目」
参加コース名:行こう!観よう!楽しもう!イタリア紀行 8日間(Aグループ)
Veni, Vidi, Vici. (来た、見た、勝った)のもじりか?
添乗員:安井
航空会社:FINNAIR(フィンランド航空)
hotel:ミラノ Hotel Cristallo (3つ星)     Via Scarlatti 22.2014 MILANO tel.02/29.517.555
               

● 午前5時半起床、荷物をゴロゴロ引いて京成上野駅まで歩いて行く。約15分。
成田れたことがあるが、その後ようすが変わっていて当時の記憶と違うようだ。荷物の受け付け及び搭乗券受け取りに約一時間かかり、添乗員である安井さんに飛行機の燃料代一人25,400円を払い辛うじてグループに合流、及び出国手続きに間に合う。しかしあのセキュリティ-のチェックの長蛇の列はどうにかならないか、中には乗り遅れる人もいるのではないかと思われ、空港の処理機能を強化すべきだと思った。

● 滑走路についても、前に飛び立つ飛行機が混んでいて11:00出発のところ12:00と一時間も待たされた。ヘルシンキまで9時間という、ちと長すぎる。この鉄の箱が空を飛ぶはずはないと信じている人がいるというが、私にも本当に飛んでいるとい確信が持てない。

● 機内は金髪の背の高い白人が多く、また幼児を連れた人も多い。エコノミー症候群にならないため機内を歩き回る人もいる。食事は1:00と4:00頃の2 回出た。量も味も以前ヨーロッパやアメリカに旅した時よりも劣るようだ。黒パンの堅くて不味いのには驚いた。北欧の食に対する考え方の違いかも知れない。日本のように味覚にたいする異常な執着はなく、生きるためにはそれなりの栄養を摂取することが主体と思われる。

● ロシア上空にて北極圏とみられる地域はいまだ氷と雪に閉ざされた延々と続く不毛の白の世界である。ヘルシンキへと南に航路をとると、緯度が下がるにつれ海が見えた。その中に雲なのか島なのか同じような形をした真っ白なものが見えた。「し」とか「り」を草書の文字で一筆書きような形で、よく見ると細部は入れ子構造のフラクタルな法則のもとに発生したもののようだった。

● 同じくフィンランド航空でヘルシンキからミラノへ二時間半。途中のポーランドと思われる田園地帯の黄色い畑の幾何学的な模様が、人間の生活している場所を現しているようで北極件の様とは対照的であった。あれは麦畑であろうか?ともかくヨーロッパは高い山が無く平地が多いので、農業國という印象であった。飛行機の進行右手に常に蛇行しながら流れる大河は最初はライン川かと想ったが違うみたい。後で調べてみよう。

● イタリアに入る前にアルプスの山々が見えるだろうと期待していたのだが残念ながら雲にわれて見ることが出来なかった。ミラノは曇りでどんよりしていた。ヘルシンキもそうだがミラノの市街の住宅は屋根の色や土地の区画も整然と統一されていて美しかったが、大きさはは日本とあまり違いがないようだった。
高速道路沿いにはアカシア(正式にはニセアカシア)が白い花を咲かせていた。

● 都市の中心には100年以上も経つと想われる欅やスズカケの大木が多い。しかし灌木のようなものは無い。都市の文化的雰囲気は年月を経た木の景観によるところが大きいような気がする。それからミラノだけそうなのか、季節の違いなのかは判らないが想像していたより、街全体がくすんでいて色彩に乏しいと感じた。ゲーテのミニヨンの歌「君よ知るや南の国」のような光輝く太陽の国というイメージはなかった。

● ミラノ中央駅のあたりの治安の悪さは添乗員からスリ、置き引きに注意と言われるまでもなく、黒人や東欧人のたむろしているのを見るだけで判った。夜はできるだけ出歩かないようにということである。ホテルの窓から下の通りを見ても10時、11時ころまで大声をだして4,5人たむろしていた。ホテルの部屋は 8畳くらいの広さではあるが、家具や丁度品はお粗末でこれで星3つのホテルなのか。清潔さや器具の機能、室内の仕上げなど全てにおいて大雑把で繊細さに欠け日本に劣ると感じた。

● 明日の工程:
  モーニングコール:7:30  食事:8:00地下にて(このとき荷物をロビーへ)
  部屋番号:305号室(建物の階数は日本の1階がヨーロッパでは0階)
  日本への電話:0081-局番の最初を取った後の番号 例:0081-3-3812-4002



「イタリア旅行−2日目」
hotel:ベニス Hotel ALEXANDER(4つ星)  Via Forte Marghera 193/C
● ミラノ:5時起床 モーニングコール:7:30
  食事:8:00(コンチネンタルスタイル パン、牛乳、レモンジュース。コーヒー)
  出発:9:00
● 今日の行程:ミラノ→ベローナ→ベネチアの近くのホテル
ミラノの都市は地図の好きな私でも1日ではどこに何があるのか、どの方向へ行けばいのか頭に中に描けなかった。兎に角最初はスフォルツェスコ城を見学。日本から持ってきた
カメラの充電器のコンセントが合わないのでデジタルカメラが使用できなかった。城内の売店でインスタントカメラ(フジフィルム製 24枚撮り)を求める。スリらしい集団に合う。接触したら見事にパスポートや財布などの大事な物を取られるとか。ずっと以前にパリで盛んにジプシーの集団の標的になったことを思い出した。ただ日本の韓国系のスリ集団と違って、刃物を使った強引さはないとか。また今回も一度そのような体験を望んでいたが、そう言うスリルはなかった。

● スカラ座、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア、ドゥオモなど歩く。次回はスカラ座でオペラを鑑賞したい。高級ブテックのあるガッレリアの買い物には興味がない。ただここにも韓国系と思われる中年の女性が多数、おもちゃを路上で売っていた。どうもそのような露天商の人種によるそれぞれのシンジケートが有るように思えた。これはヴェローナやヴェネチアやローマにおいても、扱う商品によって人種の違いが見られた。

● バスで約2時間走りヴェローナの街にはいる。ローマが支配したガリヤへの街道の街だったそうだ。S字に流れるアディシェ川を中心に出来た街で、美しくコンパクトな街だ。神曲を書いたダンテの墓や、ロミオとジュリエットの物語の舞台となった街で、もう一度ゆっくり訪れたいと思った。

● 高速道路を約1時間半。ヴェネチアの本土側のホテルに到着。途中なだらかな丘陵地帯、ブドウ畑が続く。農作業している人を全然見ない。矩形の単純な家、スペイン瓦とベージュ色の外壁が自然と解け合っていて好感がもてる。それにごちゃごちゃした物(物干しや自転車等の生活物資)が敷地のどこにも見えない。それに反し日本の建物の複雑さはどうだ。1階と2階の大きさが違うため構造上問題が多いし、屋根は複雑、色もまちまち、下手をすると一つの建物の中に4,5数種類もの色を使っている。煩雑で洗練されてなく見苦しい。クライアントのなかには敢えてそうすることが自慢になっているケースもある。

● 泊まったところはラグーナが多いためか、夜中蚊に悩まされた。部屋に一匹、洗面所に一匹。



「イタリア旅行−3日目」
hotel:ベニス Hotel ALEXANDER(4つ星)Via Forte Marghera 193/C

● ALEXANDER:5時起床 モーニングコール:7:30
  食事:8:00(コンチネンタルスタイル パン、牛乳、レモンジュース。コーヒー)
  出発:9:00 ベェネチア見学

● 今日の行程:ヴェニス約4時間→インチーサ泊

● 出発する前にホテルの廻りを散策する。郊外の住宅地で車やバイクなど道路に駐車してある。バラやその他の花が咲いているが、種類は日本の家庭より少ないようだ。バスでチェックポイントまで行く。

● このイタリアの観光の制度は、バスツアーから市内に入るための料金を納めさせる一種の通交税みたいなもので、観光によって成り立つ都市の糧となるものである。しかし、突然別の場所にも設置したり、いいなり放題だと日本人の添乗員は嘆いていた。それにもう一つその都市の資格を持ったガイドを乗せないと罰せられるという制度があり、いくら日本からの添乗員が知識も能力があっても、市内の観光の説明はいっさい出来ないこと。しかし、乗ってくる現地のガイドは何の仕事もしないでいることが多く、その国のためには観光客からせしめることをおもに考えているふしがある。

● そのチェック・ポイントから30人ほど乗れるモーターボートでベェネチア本島のサンマルコ広場までいく。どんよりとした天気である。ガイドによればイタリアの天気は変わりやすいらしい。晴れたかと思うと雨が降ってきた。海は白く濁り、多少匂いもする。下水・雑排水をそのまま放流しているのだろう。これがあの澄み切ったアドレア海につながっているとは思えない。もし透明な海に囲まれていたら完璧な美しい都市となるだろうにと考える。

● 上陸したらすぐにゴンドラでラグーナを30分ばかり遊覧した。いたるところで石の家が沈んで入っている様で、かさ上げする工事が行われていた。年に数度高潮に襲われ広場から数十センチ水を被るそうである。後数十年後はこの都市も住めなくなるかも知れまい。
そんな時、橋の上から「ちょっとまってください」という声と同時にカメラを我々のゴンドラに向けられた。4人のクルーとも思わずポーズを取ったが、あれは後で映った人に写真を売りつけにくるぞ、と話題になった。

● イタリアで゙は何事も好意で何かをして貰うことはありえない。必ず代価を払わせられるということを肝に銘じる体験をすることとなった。案の定昼食のレストランに現れて1枚千円でその写真を売りに来た。半分一杯食わされたと思いながらも「旅情」の気分を味わう記念にいいかと購入した次第である。ここでイタリアの悪口ばかりでなく、少し擁護しておこう。スリや置き引きなどの犯罪はともかく路上の物売りやチップかせぎのサービスや写真屋などの輩は、客に買い取れと強請はしないのでしつこく言い寄ることはしない。あくまでも客の判断であるところがいい。チップもあまり真剣に考えなくてもいいようで、あくまでも客のサービスにたいする判断のかげんによる。

● ガラス店ではベネッシャングラスを2脚買った。約3万円。安いか高いかは細君の判断に任せて、ヒ-゙ルやワインを飲むために、それとこの旅行の唯一の高価な記念として購入した。

● 添乗員は飛行機の中でイタリアでは「水」と「トイレ」はどこででも求められる訳ではないから、機会がある度に解決しておくようにとくれぐれも注意された。なるほど公衆便所はなく、常に25セント必要な場所ばかりである。水は2ユーロ。これはチャーターしたバスの運転手が積み込んで用意した水を売ってくれた。

● ベネチアを離れインチーサへ向かう高速道路の景色は、畑の区分を示すのか規則的に並ぶ細くて天を突く槍のような糸杉が目立つ。日本にはない景色である。植生や鳥や虫の種類は多くなく、見慣れるとちょっとその単調さが退屈である。それに反し日本の自然は山や谷・川・海と変化に富んでいる。

● 今日はフィレンチェを通り越したインチーサという所に泊まる。
日記用のホテルのレターペーパーをフロントに求めたが無いとのことだった。イタリアの並のホテルは備え付けてないみたいだ。また洗面器の水をためるためのゴム栓がどのホテルも満足に機能しなかった。どうもその辺の修理や管理に対して大まか過ぎるのではないか。日本人が細かすぎるのだろうか。お客さんのためと必死に尽くす、あるいは評判を気にする日本と違って、何事もありのままを受け入れことを要求するイタリア式考え方が多くみられた。



「イタリア旅行−4日目」
hotel:インチーサ Hotel i Ciliegi(4つ星) P.zza G.Amendola.4-REGGELLO(Firenze)
               

● am7:00朝食 8:00フィレンッチェへ出発。約20〜30分
イタリアの高速道路はあんなに車がたくさん走っているの都市に入る入り口では全く渋滞しないのは不思議だ。例のチェックポイントで冥加金を払いザッカというアルノ川沿いの公園の橋を左に渡り、高台のミケランジェロ広場へ行く。ここからはフィレンチェの街が一望出来るので、都市の範囲を理解するには絶好の場所である。廻りを緑の山に囲まれ、赤煉瓦色の屋根瓦で統一された美しい盆地の街である。

● ザッカにもどりバスを下りてアルノ川沿いに歩いてウィツイ美術館へ。長蛇の列。膨大な絵画が展示されている。ボッテチェリの「ビナス誕生」「春」、ダビンチ、ラファエロ等の絵をかいつまんで見る。全部見るには2・3日掛かるだろう。フィレンチェの街は1週間滞在が必要だ。

● ヴェッキオ宮殿、シニョーリア広場、サンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂など散策する。思ったより皆近い。ここでフリータイム解散。12:00 昼食を取るため路地裏を歩く。マリーノ・マリーニ美術館近くの路地に迷い込んだらしい。La Spadaというレストランに入る。帰国して改めて地図をみると結構名のあるレストランだったということが判明した。フルコース55.80ユーロ。パスタは大皿に3種類盛り合わせ、堅い味なしの肉は4人分くらいの大盛りに、クウオーターの赤葡萄酒をちびちび飲みながら2時間掛けて挑戦したがさすが私達もそのボリュームに降参した。他のあらゆる面では日本人も負けないが、体力、食欲においてはイタリア人には及ばないと思った。中年のウエートレスも感じよかったし、サラリーマン風の人達が昼食に来るところを見るとなかなか庶民的でいいレストランに違いない。

● ホテル専用のレターペーパーが置いてないホテルが多いので、今日は是非とも文具店を見つけ便箋を買いたいと思った。それからデジタルカメラの充電器のイタリア用のアジャスター(日本のは2口、イタリアのは3口)を持ってこなかったのでそれもどこか電気店を見つけて求めなければならない。食事を終わって近くの紳士服を売る店で日本には無いような色のネクタイを買った後、それらの店を訪ねたら近所に有るらしい。無事2つとも購入することが出来た。便箋はイニシャルのKという文字の入ったものを買った。

● まだゼッカのでの帰りのバスの集合まで6時間ほどあったので、ポンチオ・ベッキ オ橋を渡って、パラティーナ美術館へ行く。アプローチの広さと急な傾斜に疲れた。何のことはない絵画を見るチケットと庭園散策のチケットの区別が判らず、絵の方は見れなかった。この庭園もまた小高い山になっていてほとほと体力のなさを自覚した。

● ベッキオ橋の手前の商店街をぶらぶら歩くうちに路地の置くのパティオみたいな場所にあるテラス喫茶があった。物腰の柔らかい洒落た老人のギャルソンが応対してくれた。コーヒと紅茶を頼んだら、黙ってウインクしながらパイを一皿おまけしてくれた。外国に居るという気分と妙に身近な庶民の生活感の調和した実に心安らぐ魅惑的な時間をであった。

● バスに戻ってきたクルーによると行く店のサービスがことごとく悪かったと言っていたが、私達が接したレストランのウエイトレスもレター屋のすらりとした教養のありそうな女店主も電気屋の店員も白髪の老ウエイターも皆親切であった。



「イタリア旅行−5日目」
hotel:ローマ Hotel GALLIA(4つ星) 00185 ROMA Via di S.Maria Maggirore,143
               

● 今日の行程:インチーサ(3時間)→アッシジ(3時間)→ローマ

● 土砂降りの雨。中世の古都アッシジへ。サンフランチェスコ教会を見学。荘厳な教会で中では声を出してはいけない。12時近くのレストランで昼食。クオーターの赤ワインを飲みながら食事。さすがイタリアのワインは上手い。

● 雨のち曇のち晴れ、とにかく天候が変わりやすい。イタリア人の性格もかくやと思われる。

● ローマへ向かう高速道路から見るオリーブ畑と糸杉と、南に下がるにつれて赤松が混じる。
それにしても農作業をしている人を全く見ない。家々も人や犬や猫が棲んでいる気配もない。夕暮れ時にも電灯がついている家を見なかった。

● 郊外にあるチェック・ポイントに寄って金を払ったらいよいよ念願の2千年のローマの街だ。サン・ピエトロ寺院はとてつもなく大きな建物だ。私にはあの荒々しい石の建物には圧倒されてなじめないと思った。それと恵まれない、貧しい人々を救うべき宗教があのような絢爛豪華で富を蓄積していることに違和感を覚えた。なんであれ組織は真の目的を忘れて組織を守るために肥大化していくのだろう。このへんのところは私達無神論者の考えとは違うだろうから、実際の信者の方の意見が聞きたい。

● もう一つの疑問はキリスト教は偶像崇拝を禁止しているというが、各教会は聖マルコとか聖フランチェスカとか聖ピエトロとかの聖人の名で設立されているのはなぜか。キリストが神では無かったか。どうもギリシャ時代の多神教・神々達への信仰と合体したに違いない。これは唯一神アッラーを信ずる回教徒とは全く違う。

● 日本では野球帽や鳥打ち帽やニットの帽子を被る若者が結構いるが、こちらでは帽子を被る人達をほとんど見ない。なぜなのかわからない。私は河野多恵子の小説「後日の 話」のなかに出てくる帽子屋の話などで、イタリアに来たらきっと皆中年は帽子を愛用しているだろうと思って、自分も帽子屋を探して気に入った物を買って帰ろうと楽しみにしていた。しかし思いこみが外れてしまったらサッサとその気も失せてしまった。
幻想を抱くとはそういうことで実に根も端も無いこと憧れを育てることかも知れない。

● ホテル・ガリアはテルミニ駅から5分の位置にあり、今までのホテルでは一番洗練されていて、また清潔である。しかし4つ星といえど、日本のような大ホテルではなく、通りからのみる玄関はつい見過ごしそうな質素な物である。

● 路上おみやげ売りの考察。
  1.針金をまげて自転車やおもちゃなどを作る。
  2.にせブランドの鞄などを白いシーツを広げて売る。→黒人
  3.にせブランドのスカーフをウデにいっぱい掛けて歩き回り売・る。→東洋人の女性(韓国?)
  4.ヒューと鳴るおもちゃを売る。
  5.古代ローマの戦士の服装を着て写真のモデルになる。(男、女共)
  6.修道僧の格好をする。(托鉢?)
  7.レインボーカラーの文字(名前?)を書く。(アラビヤ文字?)
  8.バラ売り。→黒人
  9.リモコンでおもちゃを動かして売る。→東洋人の女性(韓国系?)
  10.物乞い。顔をふせ髪コップだけ差し上げて金を要求する。(アラブ系女性)

● 観光客の考察
   1.赤や緑などのはでなウインドブレーカーを着て、つばだけの日よけ帽子をかぶりサングラス
    を掛ける。→韓国人グループ(男女共)
   2.赤いシャツが多い→中国人



「イタリア旅行−6日目」
hotel:ローマ Hotel GALLIA(4つ星) 00185 ROMA Via di S.Maria Maggirore,143
               

● 今日はフリータイムのローマ市内観光。先ずはHotel Galliaからカンツオーネの夕べの集合地HotelGianaの往き道を確認に行く。 Hotel Galliaからテルミニ駅の方向へ歩いて7・8分だった。その後フォロ・ロマーノへ歩いていく。歩道が狭くしかも石畳が凸凹で荒くて歩くのに苦労する。小型の乗用車が隙間なく駐車しているし、バイクが非情に多くスピードを出して走り回るので、危なくてしょうがない。

● 二千年前の強者共の夢の後であるフォロ・ロマーノを二時間ばかり散策する。シーザがブルータスに刺されたあたりとか政治の中心だった元老院とか、凱旋門とかを見学した。そこは今の都市のレベルから10mくらい下がった所にあり、昔はその位置にあったのが、新しい都市を造るたびに埋め立てしていったためであろう。

● フォロ・ロマーノを西の丘に登っていくとローマ市庁舎があった。更に行くとミケランジェロが設計したといわれるカンピドリオ広場に出る。するどく交差した白い太い線でアクセントをつけた床のタイルは見事である。

● そこで踵を返して左にフォロ・ロマーノを見ながら東のコロッセオへ歩く。その途中レストランで゙昼食を摂る。ピザと野菜サラダとヒ-゙ル中ジョッキを一時間半掛けてテラスで味わう。かなり美味しい。支払いで一寸した行き違いがあったがその原因は何か、そのときは気づかなかった。コロッセオからまた反転してテベレ川まで歩いた。しばらく歩いていたが自分の位置が分からなくなったのでHotel Glliaに戻るためタクシーに乗った。支払いのときまた運転手がその金に納得しない。部屋で良く見たら5ユーロを払うところ500円硬貨を出していたことが判明。そうかあのレストランでもそのことだったかと納得した。そこではOKだったのでユーロと円が混じっていても通用したのであろう。成田を出るとき円は確かに別の場所に区分けしていたのにと不審がった。タクシーの運転手がこれはユーロでないと言ってくれれば気づいたのに、ただイタリア語でぺらぺらとまくし立てるものだから、その時は何が何だか分からなかった。

● 午後3時hotelに帰りシャワーを浴び一眠りして、ワイシャツとネクタイとサンド色の上着と洒落て出かける。さて今宵はローマの最後の思いだとして ChaliaというレストランでDine with the  tenors(テノールの夕べ)で過ごす。アリベデルチ・ローマの歌と共に終わる。再び訪れることを願って。
               



「イタリア旅行−7日目」
● Htel Galliaを7:00出発。他のクルーと合流し飛行場へ。
  帰りも来るときと同じくフィンランド航空で、ヘルシンキでトランジット。

● 飛行機の中ではなかなか眠れない。アインシュタインの相対性理論のように距離が遠くなる、或いはスピードが早く移動すると時計は遅れるということが頭に浮かんだ。しばらく眠ったかと思えど1分ぐらいしか経っていない。そんなことを繰り返し成田へやっと着く。この年齢では10時間以上のフライトは堪えた。

● 数日時差でおかしい。やはり若いときのような回復力がないことを痛感した。

● さてこれで、イタリア旅行も無事終わり。思ったより緊張もなく気楽な面白い旅であった。
こんどはアイルランドなどの文学の旅にでも行きたくなった。




付 録

「同人α」11号送付の添え書きより 2007/5/23
拝啓
 さわやかな季節になりました。今月また「同人α」第11号を発行しましたのでお送りいたします。担当はルービン・良久子さん、表紙は彼女が近藤君に依頼したものです。
 「斜光」と「同人α」があのような論争で袂を分かったのに「同人α」のためにデザインをしてくれたとは驚きでありました。彼は我々が思っていたほどそのことの意味を真剣に考えていないのではないかと、その定見のなさが感じさせられます。
 それはともかくこの同人誌は年齢や地域に拘り無く広がっていって居ます。こんど一人の仲間が増えました。13期生・長岡曉生(ペンネーム)さんで高校の時の物理の小柳先生のご子息だそうです。
 6月中旬に歓迎会を催す予定であり、まだ彼の詳しい情報は分かりませんが、筑波大学で研究に携わっていたとか。理工科系らしく緻密な調査の上に成り立つ、理路整然とした論法であります。いままでのわが同人には見られない範疇の人のようで、我々もまた多様な個性の集まりが強みだと喜んでいます。

 電話で話しましたように、ゴールデンウイークの七日間イタリアにいきました。日本と
イタリアの人文的な相違をつぶさに見てきました。二千年の歴史のなかでいかに宗教が人
々を「解放?」・「束縛?」をしてきたかの証として、いたるところに絢爛豪華な教会があ
りました。細君のローマに傾倒するのを尻目に、天の邪鬼の小生は現在の世情に興味をそ
そられました。
 その結果の一部が下記の路上の物売りのデータであります。全部が全部違法ではないで
しょうが、スタイルブックから抜け出たようなかっこのいい二人組の警官が来ると、白い
シーツに並べれれた偽ブランドの商品を素早く繰るんで肩に掛け、すたこら逃げ出すその
素早さは見事というほかありません。警官も慣れたものでけっして深追いはしないで、悠
然と観光客のモデルになっていました。その辺が実に悠長で、なんともいえない「共生」
の心を感じました。
 要はそのような物を掴まされる方が悪いのでしょう。とにかく全てを観光に利用し、観
光で食っているという国であることを認識しました。いやー実に面白かった。
最後に一度財布をすられて見たかった。残念。

  1. 針金をまげて自転車やおもちゃなどを作って売る。
  2. にせブランドの鞄などを白いシーツを広げて売る。→黒人
  3 にせブランドのスカーフを腕にいっぱい掛けて歩き回り売る。
    東洋人の女性(韓国系?)
  4. ヒューと鳴るおもちゃを売る。
  5. 古代ローマの戦士の服装を着て写真のモデルになる。(男、女共)
  6. 修道僧の格好をする。(托鉢?)
  7. レインボーカラーの文字(名前?)を書く。(アラビヤ文字?)
  8. バラ売り。→黒人
  9. リモコンでおもちゃを動かして売る。→東洋人の女性(韓国系?)
  10. 物乞い。顔をふせ髪コップだけ差し上げて金を要求する。
    (アラブ系女性)
 どうもこれらの系統をみるに、人種による職種分けが出来ているようで、なにかシンジケートがそれぞれのグループにあるのではと思われました。
 外にも自然や天候や各国から来ている観光客のスタイルによる分類などの考察もありますが、これはまた別の機会にしましょう。             敬具



2007/10/18
「映画「ローマの休日」の中で」

◆ イギリス名詩選の中にも、あまりにも直截過ぎたり散文ではないかと思う、これでも
  詩かというものがある。トマス・キャンピオンの「誠実な人間」とかアレクサンダー
  ・ポウプの「隠栖の賦」等々。だが口ずさむと英語独特の韻を含んだ心地よい言葉や、
  我々日本人には判らない感覚があるのかもしれない。
◆ 先日山荘でイタリア旅行でのローマの名所を懐かしく思い、映画「ローマの休日」の
  DVDを見た。その中で、グレゴリー・ペックの部屋を訪れた王女オードリー・ヘッ
  ブパーンが口ずさんだ詩を二人で言い争ったシーンがあった。いやこれは「ジョン・
  キーツ」だ、いや「アルフレッド・テニスン」だと言って。いつかもう一度そのシー
  ンを見て誰の何の詩であったか探したいと思っている。



同人α16号 ブログより2008/10/29
               
「ブログの写真はどこですか。古賀さんの写真は隅っこで,風景写真がドーンと大きいのは,なんか意味があるのですか。どっかに古賀さんが写ってはるのですか」という浪速びとさんのご質問の答えて・・・。
 最近写真を撮っていないこと。思えば歳をとるとそういう機会が少なくなったせいか写真がすくない。いざブログに載せようとしても随分前のばかりで、しかも気に入ったものがない。身近な人の葬儀に行くといい遺影が飾られているのに感心して、もうそろそろこの世とおさらばするときのために、最近滅多に着なくなった背広とネクタイしめてきめた写真でも用意しなければならないと漠然と思いながら、そうかといってなかなか実現はしない。
 熊野詣での写真をと考えたが、出発の日から合評が始まるのだから、それでは遅いと慌てて見繕うのだがなかなかない。それではと昨年の春イタリアに旅行して一番見たかったフォロ・ロマーノを訪れたとき撮した写真と、それに心を馳せて想像している山荘での写真をフォトショップで合成して面白い物を創ろうとしたが時間と能力不足で、訳の分からないものになってしまった。

 イタリアの都市々の贅を尽くした壮大な教会をみると、その民衆からの搾取ではないかという思いがあった。大きな指輪や煌びやかなローマ法王の様子を見ていると、神の前では何人も自由で平等であるという宗教の本質と違うところで活動が行われているものに見えるのは私の僻みであろうか。
 写真はフォロ・ロマーノ(ローマ時代の政治の中心広場)を撮した写真である。まさにシーザやブルータスや元老員達が二千年前に活躍した場所である。最近読んだ「ヨーロッパ思想入門」によれば、近代の国家の基本理念がこの時代にすでに出来上がっていた。民主主義、法治国家、下水道・上水道・道路などの都市の整備等々。専制君主の気まぐれの政治ではなく法を基本とした民主主義と共和制の国だったから周辺の異民族も受け入れ、世界に冠たる国家を作ることが出来たのではないか。
 しかしこのフォロ・ロマーノに思いを馳せるツアーのクルーは少なかったように思える。なぜなら行程には含まれていなかったからで、殆どが寺院回りで走り回った感があった。今度はキィーツやテニスンやジェームス・ジョイスやバージニア・ウルフなどのイギリスの詩人や小説家の舞台を訪れてみたいと思っている。



55α編集部:2014/02/22(土) 02:41:53
東京散策 (1)
東京散策2007


   「飛鳥山公園散策」 6/9

◆ 地下鉄南北線で飛鳥山公園に行く。7年前だったか失念したが、丁度佐賀の郷里から東京へ戻ってきた
  あくる年だったと思う。ここ飛鳥山の紫陽花を見に来たことがある。
◆ JRの線路側の公園の崖下に折り重なるように紫陽花が咲いている。ポツポツと降り出した小雨の中、
  王子駅に向かって歩いた。駅を通り越した先のおにぎり屋で昼食をする。そのあと地下鉄に乗り後楽園
  の丸善に本を探しに立ち寄る。梁日石の「血と骨」は見つからず帰宅した。



   「無題」 7/5

◆ 6:15起床。散歩に出掛ける。今日は菊坂を下り、樋口一葉が通った質屋の横を左に曲がる。1Mにも
  満たない路地を抜けると高台に出た。そして白山通りと春日通りの交差点を左にまがり、真砂坂(旧富
  坂)を登って家に帰る。約30分。



   「朝の散歩」 7/6

◆ AM5: 30起床。少し仕事をして散歩に出かける。壱岐坂を後楽園に向かって下り、途中で神田川にむ
  かって左折。神田川をお茶の水駅方面へ左折。順天堂病院、東京医科歯科大学を通り抜け、聖橋のたも
  とを左折して、湯島聖堂を横目に湯島天神に向かって行く。結構坂道が多くて運動になる。さらに途中
  で左折して湯島小学校を右手にみながら帰る約40分。シャワーを浴びて朝食を取る。
◆「同人α」のメンバー16人の名簿を完成。皆にインターネットで配布する。



   「神田川」 7/7

◆ AM6: 00起床。散歩に出る。壱岐坂を後楽園に向かって下る。左折して神田川沿いにお茶の水橋へ。
 神田川の緑地には澤胡桃の実が実っている。萩の灌木があった。そして楠は小さな青い実をたくさん付け
 ている。つぶせば良い香りがするだろう。子供の頃の楠の実鉄砲を想い出す。順天堂病院の栃の実も大き
 くなっている。今植物が盛んに育っている様子が判る。
◆ 木原公生君の通夜に行く。
  過日、熊井君から木原君の容態についてお知らせしておりますが、昨日7月5日15時35分亡くなり
  ました。残念です。
  つきましては、葬儀等につき下記のとおりお知らせいたします。
               記
・喪主   木原 日出子 様 (奥様)
・式次第  通夜   7月7日(土) 18時から19時
       告別式  7月8日(日) 10時から11時
・式場   戸田斎場 本館 一階
   住所 東京都板橋区舟渡4丁目15番1号
   ?   03−3966ー4241〜3
   交通機関
    都営地下鉄「三田線」
     蓮根駅下車 タクシー5〜6分  徒歩20分
     西台駅下車 タクシー5〜6分  徒歩30分
    JR埼京線
     浮間舟渡下車 タクシー5〜10分  徒歩25分
 なお、生花一対を「佐賀高校同窓生一同」としてお供えしました。   以上



   「入谷の朝顔市」 7/8

◆ 最近は家の廻りの朝の散歩に精を出している。今日は入谷の鬼子母神まで足をのばした。東大竜岡門の
  近くの、春日の局にゆかりの麒祥院の横に沿った細い猫道を抜け、無縁坂を下り不忍池に出る。蓮の葉
  が茂る中、すでにちらほら大きな花がぽっくりと
  咲いている。完成された形状とうすいピンクの花びらが涅槃を偲ばせる。それから上野公園を抜けて日
  暮里駅の陸橋を越えて、朝顔市の沿道を歩く。はじめて朝顔の一鉢を買った。

足の痺れを覚えてから半年ばかり経って、いよいよ不安になり東大病院に検査に行った。
まるで魚のようにあっちやこっちに転がされながら十数枚のレントゲンを撮られ、血液を抜かれた結果、頸
椎などの異常はないが糖の値が385で入院しなければならないと脅された。その385という数値が私にとっ
てはどのようにシリアスなことなのかさっぱり判らない。なにせ35年間も体の検査をしないまま、自覚症
状もなくそれなりに健康で意欲も充実していたから、知らない間に考えもしない病気を背負い込んでいたこ
とに驚いた。

そのごの診断で入院は免れたが、食事と運動と睡眠に気をつけて気長に治すようにとのこと。そういう訳で
朝の散歩と寝る前のダンベル体操を日課にしている。



   「肥と筑」の感想」 7/12

◆ AM5:30起床。体重66kg。今日は順天堂病院の横を通りお茶の水橋を渡って右へ回る。
  神田川沿いに水道橋駅方面へ坂を下る。珍しい木があった。なたまめのような薄くて長い鞘豌豆を十倍
  くらいした実がなっている。横に銘板があり「皀角坂」とあった。
  説明文をよむと「さいかち」の木が多かったとかいてある。どうもその木は「さいかちの木」らしい。
  マメ科の落葉高木。山野に自生し、栽植もされる。枝や幹にとげがあり、葉は羽状複葉。夏に緑色の小
  花を多数総状につけ、秋、ねじれた扁平な豆果を結ぶ。豆果は古くは石鹸(せつけん)の代用とされ、漢
  方で利尿・痰(きよたん)の薬とする。河原藤。
  [季]秋。



◆ 水道橋駅を右に曲がり来た道の反対側の神田川沿いを遡る。途中で左に曲がり、10匹ちかい野良猫の
  たむろする路地を通る。途中猫じゃらし3本を摘んで帰る。 五十分の散歩。





   「神田明神・湯島聖堂散歩」 7/16

◆ AM6:00起床。細君と蔵前橋通りを下り、神田明神の階段を上り裏門から表門に抜ける。湯島聖堂を
  回ってサッカーミュージアムの脇をすり抜け帰る。
  湯島聖堂では漢詩・十八史略・易教・甲骨金文字・論語素読などの講座が開かれているので、時間が出
  来れば講義を受けたいと思う。
◆ どうも記述の仕方が悪く誤解を招いたようですので訂正します。十四代までさかのぼれると母が言って
  いたのはともかく、わが古賀家が江戸時代の大学者古賀精理の縁者という風に受け取れる書き方、一般
  論として「古賀という姓」と書くべき所「古賀家」と書いてしまったのがいけなかったようです。同じ
  名字ですからまんざら縁の無いわけではないでしょうが、訂正とお詫びいたします。
◆ 確かに長岡さんが示唆されたように嬉野市塩田町にも丹生神社がありました。私も実は戦後暫く塩田に
  住んだことがありました。父が復員して来て初めて鋳物工場を始めた土地です。いま思うと漫然と父が
  この土地を選んだ訳ではなさそうです。一つはその神社があるように鋳造に関するなにかの目に見えな
  い因縁があったかも知れません。もう一つはこの塩田は有明海沿岸・朝鮮・中国などの間の物資の集散
  の地になっていたもので、私の父は十九歳ころまで海運業として二本マストの帆船で二週間掛けて釜山
  まで往き来したもので、塩田はその船の港だったのです。そのころまではこの町も旧長崎街道にあった
  ので白い漆喰壁と銀色のいぶし瓦の大店が並んでいました。
◆ 丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)をまつる神社は全国にあり、その数約170カ所にもおよびま
  す。それは朱砂(水銀)を採掘する一族が祀る神であると考えられています。古代における水銀の用途
  は、朱(弁柄)、赤土(丹土)と共に朱砂が顔料として用いられていた他、アマルガムメッキ用に水銀
  が用いられていた。特に奈良東大寺の虞舎那仏像(大仏)の建造の際には、熟銅73万7560斤とともに、
  メッキ用に金1万436両、水銀5万8620両、さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達されていると
  のこと。私はこれらのことから、全く素人考えですが日本の有史前後にこの技術を持ち込んだのは帰化
  人ではないかという思いがするのですが、如何でしょう。





  「湯島聖堂」 7/17

◆ 先日朝の散歩に神田明神と湯島聖堂を巡った。神田明神の生命力に満ちた鮮やかな朱色と対照的に黒で
  統一された聖堂は学問の奥深さを秘めているようなたたずまいである。学問の神様として湯島天神はあ
  んなに混み合っているのに、孔子を拝するここはひっそりと静まりかえっている。学問を志すならこち
  らが本場だろうにと不思議に思う。
◆ 長岡さんの小説に興味を持ったゆえかもしれない、無意識のうちに聖堂の門の前にたっていた看板が目
  に入った。そこには漢詩・十八史略・易教・甲骨金文字・論語素読などの講座が開かれている。時間が
  出来れば講義を受けたいと思い、そしてまた長い間本棚眠っていた白川静著の「字通」を拾い読みし出
  したところである。



   「傑作な看板」 7/18

◆ AM5: 00起床。一時間仕事をする。6:00、今日は竜岡門から東大校内に入り、三四郎池を廻って正
  門から出る。本郷三丁目の角の三原堂は今立て替えの工事をしているが、工事用シートに大きく「立て
  かえ最中」の文字が目に付いた。おやっ、名物の大学最中(だいがくもなか)」のほかに「たてかえも
  なか」を発売したのかと一瞬思った。普通たてかえの工事中であれば「立て替え中」とかいて「最中」
  とは書かないだろう。これは三原堂の受けねらいのユーモアなのか。きっとそうに違いない。
◆ 長岡さんへ
  さっそく湯島聖堂の講義のパンフレットを取り寄せて見ましょう。それから「除福」について、名前は
  頭に隅にあったのですが、調べてみるとこれほど身近なとことにつながっていたとは思いもしませんで
  した。
  徐福一行が最初にたどり着いたのは杵島の竜王崎(佐賀県杵島郡白石町)であった。
  と有明町の海童神社にある石碑に書いてあるとのこと。両親の里であったのですが、いつも通る道のす
  ぐ脇の岩山に何か神社があるのは知っていましたが、横目で通るだけで迂闊にも私は一度も訪れたこと
  はありませんでした。そのような重要な伝説を見逃すとは。こんど帰省したら早速訪ねて見よう。



   「相思相愛」 9/18

初恋」の感想を書く前に相思相愛の場面を見付けました。東京医科歯科大学の病院の裏手で、とても考えら
れない物同士が情熱的に抱擁しているような情景をみました。自転車に巻き付いた昼顔は不思議な自分達だ
けの世界を作っているように私にはみえました。野暮なことはしないでこのままそっとしておきましょう。





   「面白い看板」 9/19

am6: 00起床。いつもの散歩に出る。お茶の水橋を右に曲がり、アテネフランセを脇にみて飯田橋へ。そ
の途中にドキッとする看板を見た。「イノチシラズ印」の袢纏を売る店である。たしかに昔はいなせな火消
の衣装として命を張ったに違いない。それにしても「イノチシラズ」とはよくも名付けたものだ。
刺し子の施された袢纏は現在はうん十万もするほど高価なものとか。いまでは鳶や火消しがお祭りの時にし
かみられない物だが、一度私も着て晴れがましい気持ちで歩いてみたい。





   「猫道散歩」 9/22

今日は神田明神まで行って、男坂を下り湯島天神まで回り道をする。最近は路地裏の「猫道」をよく歩く。
そして野良猫の生態を観察すると結構面白い。
野良猫は人間にたいして不信感があり警戒心がつよく、なかなか近づけない。つねに車の下や狭い塀の間の
逃げ込む場を意識しながら行動している。いくら近所の人が餌を与えている様子でも野生の性質が抜けなく
て、人が近づくと物陰に走り込む。
仕官先の庇護のもとに安定した暮らしと愛情をうけている飼い猫はその点、人間を敵と見なさないので、近
づいて触れてもすぐに逃げ出すことはない。写真は家の中から余所の猫を見ている5匹の飼い猫達。





   「木造3階建の家」 9/23

散歩途中、本郷5丁目あたりの路地裏で木造3階建てのアパートを見付けた。多分戦前に建てられて、戦火
を免れた強者であろう。もはや現在の建築基準法の構造や防火規定に抵触することは確実で、このような物
は再び現れて来ないだろう。新しく立て直すとすればコンクリート造や鉄骨造などの確実に違った形態の物
を要求されるだろう。しかし、五十年以上も生き延びた建物には懐かしさがこもり、尾崎 一雄の文学を目
指す若い青年とその恋人との貧乏長屋に暮らす芳兵衛物語を彷彿させるものだ。

久し振りに息子が尋ねてきたので、細君と私の三人で秋葉原に山荘に取り付ける照明器具を探しに行く。天
井が高いのでペンダントでないと新聞も読めない。しかしこの頃の秋葉原には照明器具を専門に扱っている
店がめっきり減った。山田照明も山際リビナ館も閉鎖になっていて、ゲームソフトやオーディオやコンピュ
ータ関連の物ばかりになっているようだ。そう言えば照明器具なんて新築の時一度購入すれば何十年も持つ
から、そんなに需要が無いのだろうし、デパートから家具が消えたのと同じ理屈なのだろう。




   「里親募集中」 9/25

◆ 早朝の散歩の時に電話代を振り  込むために近所のセブンイレブンに立ち寄る。店を出ると、とある
  ビルの壁面に「里親募集中」という子猫の写真のビラが貼ってあった。血統書付きの高価な猫ではない
  ようだが、将来下町の看板娘になりそうな可愛い子猫である。
◆ 我が家のベランダから見るポケットパークの白の野良猫は、日がな一日空調の室外機の上に寝そべり見
  事に怠けて何もしない。自転車でどこからかやってくる年取ったホームレスから食べ物を貰うときだけ
  は、滑り台の上にお出ましになるのだが、夜は餌を探すとか、縄張りを見回るとか真面目に仕事らしい
  ことをしているのだろうか。メールの返事を書くとか、部屋の掃除をするとか 、忙しい私にその「猫
  の手」を貸してくれないだろうか。
◆ 動物が飼える環境であれば、犬もいいが私は猫を飼いたい。犬が飼い主に愛嬌を振りまき忠誠を誓う姿
  をみるとどうも惨めに見えてきて、己の内にもそのような媚びやへつらいが潜んでいるように思えて閉
  口する。その点猫は実に自己中心的で、死んでも嫌なことはしない、出来ない、といった風情が孤高の
  精神を保っているようにみえる。
  打算と妥協の渦巻く今の世の中でその姿を私は羨望のまなざしで見ている。
◆ 木原君を偲ぶ会
  今回は金子君の都合が悪く、高木君も ? ですので、出席者は古賀・香月・田村・武藤・熊井の5人に
  なります。
  集合はいつもの汽車ポッポの前に27日17時半とします。
  出来たら香月君、何処か予約をしておいてくらませんか?適当なところがなければ、またいつものビル
  のどこかに潜り込みましょう。




   「千社札」 9/29

◆ 散歩の途中「湯島御霊社」という小さな神社の境内にはいっていったら、千社札が臆面もなく真正面の
  高い所に貼ってあった。千社札はもともと神社仏閣にお参りした記念とし奉納したもののようだ。
◆ しかしこっそりと人気のない時に貼るのであろうか、私はその現場を一度も見たことはない。高いとこ
  ろは竿だけのような物で千社札をぺたりと付けて、しかもたわしみたいな物でなでつけると聞く。
◆ デザインや色やまた貼る場所にも拘るマニアがいるとか。より高いところに挑戦する者、隠し貼りとい
  って人に見えないことにて悦に入っている者、長い年月で紙がはげ落ち文字だけがのこることを「抜け」
  といって自慢する者などがいた。江戸の庶民は貧乏でありながらやせ我慢の美学を実践し、このような
  禄でもないことに喜びを感じていたのだなあとあきれるとともに、その遊び心に感心する。

56α編集部:2014/02/22(土) 03:25:24
東京散策 (2)
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   「湯島天神辺りを散歩」 10/4

◆ 久しぶりに晴れる。家の前のポケットパークに見慣れない虎模様の子猫がいた。帰りにペコチャンの飴
  をやったら、美味そうに食べていた。
◆ この不二家の懐かしの飴は朝食前の散歩に必要な医者から勧められた「血糖値」不足を補うためのもの
  で、常に携帯しているものである。「血糖値」をさげる糖尿病の薬を服用しながら、下がりすぎたらチ
  ョコレートや飴を舐めるようにという医者の指導だが、じつに治療方法としては原始的だとあきれる。
  まるでマッチで火をつけて、燃え広がるとポンプで消すようなものだ。
◆ 野良の世界も子猫が自分で餌を探して生き延び、やがておとなに成長するには至難の業であろう。真っ
  白とか真っ黒とかあるいは器量が抜群によいとかの特徴があれば、拾われて安泰の生活を約束されるだ
  ろうが、どうもぱっとしない様子の猫は目も見えないうちに捨てられるのが落ちだ。捨てられた猫をみ
  るとたいてい野良猫特有の模様のが多いような気がする。どのような模様の猫が野良猫になりやすいか
  いつか統計でもとってみるか。
◆ 天神下でなんとも不思議な看板を見た。駐車禁止までは理解できるが、関係者厳禁がどうも解せない。
  関係者以外の行きずりの車だったら勝手に駐車してもかまわないのであろうか。




   「探偵家業」 10/5

◆ 犬は人に付き、猫は家に付くといわれる。そして猫は一寸した環境の変化でよく家出するという。例え
  ば家の模様替えをしたとか、奥さんの香水の種類を変えたとか、ご主人が突然変な音楽に凝りだすとか、
  日向ぼっこの場所を横取りされるとか、日頃人間には許容できる範囲の我慢も原始本能の強い猫にとっ
  ては許し難いことに違いない。
◆ さて、もう一つの職業を選ぶとすれば、私はフィリップ・マーローやエラリー・クインのような探偵家
  業をやってみたい。時には変装し、時にはカーチェイスをし、クライアントに依頼された捜索や謎とき
  をはたしてなにがしかの金を手にするのだ。暴力的ではあっても「女性には優しく、男にはつれなく」
  なければいけない。
◆ 探偵の業務は、「調査」と「工作」に大別される。
  素行調査 ・浮気調査・家出人探し・債務者探し・裁判の証拠収集・ストーカー対策・過去調査・特殊
  工作・別れさせ工作・リストラ工作・統合失調症工作・痴漢冤罪工作などである。そしてその経費はど
  れくらい掛かるだろうか。
  素行調査・・・10万〜500万・浮気調査・・・50万・家出人探し・・・50万〜500万・・・裁判の証
  拠収集・・・50万 ・ストーカー対策・・・40万・別れさせ工作・・・200万・リストラ工作・・・
  150万
◆ 探偵が常に携帯している7つ道具とは、テープレコーダー・小型懐中電灯・折りたたみ傘・日よけの帽
  子・メガネ・単眼鏡・ビニール袋・現金と運転免許証・ピンホールビデオカメラ・CCDカメラ・暗視
  スコープ・盗聴器・盗撮カメラ発見キット・盗聴プリケイ等など。
◆ ただ年を取ると例えば医者や弁護士のような、病気や恨みや怒りや情のもつれなどの、人生の負の部分
  に立ち入る職業は結構時間も体力も気力においても強靱さを要求され、その覚悟は半端ではない。世の
  中重労働に比例して報酬も高くなるのだから、安くても適当にお茶を濁せる楽な仕事と天秤にかけると、
  結構人生のトータルのバランスはとれているように思えてくる。
◆ そして今更そのような難関の資格も取れないのと、もはや人々の人生の負を正して上げようという正義
  感も高揚感も湧いてこないので、猫や犬などの迷ったり家出したペット達を探す探偵がよかろう。それ
  は村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる猫探しを生業とする少し頭の変な老人がモデルだ。急がず騒
  がずマイペースでまるで猫になったような気分で気ままに生きるように。だとすれば先に挙げた探偵の
  七つ道具の他に、鰹節とかマタタビ・猫じゃらし・潜望鏡とか、猫の鳴き声も練習する必要がある。
  猫の集まる場所の地図も追々作らなければならない。・・・などと考えながら茂みのなかに子猫を見付
  けて朝の散歩を終えた。





   「痺れ」 10/7

◆ 最近は食事中に食べ物をよく落とすようになった。糖尿病による神経症が原因なのであろうか、手足の
  痺れが一年ほど前からあった。当人はしっかり物を掴んでいるつもりなのだが、箸の先から食べ物がこ
  ろげ落ちるので絨毯の上はその日何を食べたか、シャーロック・ホームズやポアロでなくても大方推測
  出来るほどである。
◆ しかもたいてい、白いワイシャツや綿のズボンを新しく着替えたその日に限って手が滑るので、さて今
  日も元気で頑張ろうという朝の溌剌とした気分がそがれて滅入るのである。しっかり椅子を引き寄せて、
  胸までテーブルにつけて、構えて食事すればそのようなことにはならないと思うが、足を組んで斜に構
  えて座る我が家の丸テーブルにもその原因がありそうである。
◆ だがあながちそうとばかりでもないようで、細君も何十年も遣い馴染んだ食器を手から滑らせて時々壊
  しているようだから、年を取るということは物を掴む筋力や体を支えるバランスが衰えるということな
  のだろう。
◆ この前、夜中にトイレに起きたとき、暗闇のなかのクッションに躓き、手で捕まったにもかかわらず踏
  ん張りきれず、よろけてチェストの角に左の胸をしたたか打ちながらひっくり返ってしまった。大して
  痛くもなかったが、それでも擦過傷で出血し、直るまで何週間もかかてしまった。肋骨は折れやすいと
  いうが幸いにも骨折には至らなかったようだ。
◆ 老人が足先だけでちょこちょこと足を引きずって歩くのをよく見かけるが、一寸した道路の段差にも躓
  きやすくなるので、私は出来るだけ大股でしかも踵から着地するように心掛けている。それには正しい
  姿勢を保つために意識と筋力が必要であろう。また歩道などに置いてある自転車や置き看板や植木鉢な
  どの諸々の私物は、バランスの悪い老人のためには障害物となってしいまうのである。さて筋力を鍛え
  るために今日も散歩に出掛けるか。





   「漱石山房」 10/8

◆ 今日は昨日歩かなかった分を取り戻すべく、少し遠くまで散歩した。本郷通りを東大農学部を通り越し
  た先の角を右に曲がり、根津神社へと坂を下る。途中日本医科大学の横道に入って「漱石山房」を覗く。
  「我が輩は猫である」の苦沙弥先生がうるさがった野球をしている生徒達の運動場が今の日本医科大学
  の場所であったと思われる。
  「漱石山房」の実物は名古屋の犬山にある明治村に移設されていて、ここには近代的なガラス張りの記
  念館になっている。しかし嬉しいことに、小唄の師匠だったか失念したが、そこに飼われている「白」
  へまさに今逢いに行くところであろうか、我が輩(猫)の彫像が塀の上を歩いていた。
◆ 朝早い根津神社の境内は人影もすくなく、実に清々しい。公孫樹も黄色い実をすでに落としていて、独
  特の匂いを放っている。
  そう言えばいま「文京区いちょう祭」という看板があったが、途中の本郷通りのいちょうは丸裸に剪定
  されてあったが、あれは何事だろう。いちょう祭の趣旨が疑われるのだが。落葉が目障りだという近所
  のエゴがあって区もその辺だけ枝降ろしをしたのだろうか。ともかく昨今は落ち葉がじゃまだとか、公
  園の噴水ではしゃぐ子供達の声がうるさい等と言う苦情で噴水を止めたというニュースがあったが、嘆
  かわしい人達が多くなった。近隣の苦情を考えて個人の敷地にも大きな木を育てなくなったのかもしれ
  ない。落ち葉の処理の大変さよりも緑が身近のある方がどれだけ健康にいいのかと思うけどね。とにか
  く目先の不具合だけが気になり、なにが本当の価値なのか判らない朴念仁が多すぎる。
◆ 根津神社から六十センチくらいの狭い「お化け坂」の階段を上り弥生町の「立原道造」記念館のまえの
  弥生門を守衛に挨拶して東大に入り、病院の横を抜けて竜岡門から出た。


   「香り」 10/9

◆ 今朝は金木犀の香りが漂う春日通りを上野広小路、アメ横へと野良猫と面白い看板を探しに出かけてい
  った。そう言うわけではないがブルージ−ンズに鮮やかな金木犀の花の色のポロシャツを着て・・・。
◆ どこからともなく漂ってくる清々しい微かな金木犀の香りを探して辺りを見回す散歩もまた乙なもの
  だ。同じようなもので銀木犀という木がある。花は白色で形状と香りは全く同じであるが、ヒイラギモ
  クセイという種類は葉がヒイラギのようにぎざぎざしている。この木も注意してみるとあちこちに植え
  てあることが多い。
◆ 当節は金木犀の香りは子供に言わせると「トイレ」の匂いだという。確かに芳香剤によく使われるから
  だろう。そして私が昔は好きだったのだがその後嫌いになったものがある。それは「百合の香り」であ
  る。
  夏目漱石の「それから」で、代助が友人の妻である三千代とともに生きる決意をする序曲としての場面
  がある。そこにはむせるような強い魅惑的な百合の香りがあり、それをとおして彼と彼女の情念の動き
  を記述しているようだ。
  しかし、近年とみに数を増した葬儀の祭壇に必ず飾られるようになってしまった花と香りは、私が好き
  だった女性に対する魅惑の思いをかきたてさせるものから、喪失感や無常観などの暗いイメージを想起
  するものへと変わってしまったから、百合の香りが漂って来るときいつも陰湿な暗い気分になってしま
  う。
◆ さて今日の収穫は、盛り場で出されたゴミにカラスの数匹と二匹の子猫。それから「のむ蔵」と書かれ
  た飲み屋の看板。湯島天神の前の「ウメヤ産業」の看板。まさか少子化を憂えて「産めよ増やせよ地に
  満ちよ」とばかりにそのノウハウを商売にしているのでは・・・。





   「不思議な看板」 10/16

◆ 最近はただ単に健康のために散歩するのも、義務的めいて飽きるので野良猫の観察や、珍しい看板や不
  思議な判じ物めいたサインを探しては楽しんでいる。
◆ 左の看板は何を表しているのか判然としない。今流行のリフレクソロジーという足をマッサージする店
  の広告であろうか?
◆ 右の看板は字が反対の看板。念のため反対側を覗いてみると、やはりこちらの文字も反対になっている。
  職人が右と左の面を間違えてとりつけたか。いやまてよ、意識的に宣伝効果を狙った代物か?いささか
  観察者を悩ませる看板だ。





   「変な看板」 10/22

◆ 本郷三丁目の角を赤門の方向へ100m位い「見送り坂」を下っていくと、左にだらだ らと続く降りる
  坂がある。これが樋口一葉がよく通った「菊坂」である。あまり気にならない位の勾配ではあるが、自
  転車で登ってくるとバテてしまいそうな長い坂である。その途中に「金魚坂」があり、ほんとに人一人
  がやっと通れる位の狭い路地がある。こんな高台でも銀魚を育て商うほどの湧き水があるのか「金魚屋」
  があり、一部喫茶店になっている。
◆ 西片の方へ下る途中で変な看板を見付けた。どうも散髪屋らしく、ドライヤーを拳銃に見立てて弾を発
  射しているらしい。その店の名前がCHAMPIONというのだろうが意味不明なのに、よくぞ命名し
  たと思う。持ち主は理髪の技能のチャンピオンなのか、それとも言葉の調子に惚れたのか。よく見ると
  ご丁寧に発射音の衝撃を避けるべく、人差し指で耳を塞いでいる。間違って店の客になれば、かつての
  具志堅用高やパパイアのような爆 発髪のアフロヘアーに無理矢理させられるかもしれない。





   「文士の家」 10/23

◆ 10月8日に「漱石山房」について書いた千駄木の家がそうだとばかり思っていたら、きょうの朝日新
  聞にそれは新宿区早稲田南町にあったということだ。いまは区立漱石公園となった旧居後には「漱石山
  房」はない。千駄木の家はたしかに漱石や森鴎外が住んでいたことがあり、これは名古屋の犬山の明治
  記念公園のなかに移築されている。
◆ その時代の文士は自分の家を持たず借家に住んでいた人が多い。それは環境の良い家が安価に借りられ
  たからでもある。今のように一生を家を持つために長い年月を働きずくめで求める時代からすれば夢の
  ような話で、一種の財産と考える現在の家に対する価値観と昔の考えは違っていたのだろう。
  金田一京助などは、持ち家かどうかは検証していないが、狭い本郷界隈を転々と5回くらい転居してい
  る。鐙坂(あぶみざか)の辺りにはおそらく戦前からのものではないかと思われる小体な木造の古い住居
  が残っていて、金田一京助の住まいである看板が立ててある。成金の仰々しい家と違いなかなかヒュー
  マンスケールのしっとりとした木造2階屋のいい家である。





   「神保町の古本祭り」 10/30

この前昼飯に家に帰る前に後楽園から神田神保町を廻ってみた。秋晴れの気持ちの良い日で面白い旗を見た。
「なんだかんだ西神田」というだじゃれの文字を表した垂れ幕というか、旗というか橙色の目立つものがつ
るしてあった。建設中の現場には「安全・安心」、労働運動には「団結」などの文字を書いた布切れをやは
り旗と呼ぶようである。
神保町の交差点を駿河台下の方へ歩くと「神田古本祭り」をやっていた。今日が最終日なのだろう、車道側
の俄造りのベニヤの書棚はおおかた空になっていた。古本屋の店先にうずたかく積んだ名のある文豪や思想
家の紐で結わえられた全集物を見ながら私は歩いた。
あれもこれも欲しいのだが、難しい物に挑戦するための時間と積ん読のための空間に難があり、いつも諦め
ているのだ。しかしこれから歳を取るに従って、長時間にそして難解な内容に耐えるだけの気力が残ってい
るかが問題だ。お茶の水橋を渡って、順天堂病院の脇を通って家へ、約一時間の散歩をした。





   「奇妙な看板」  11/2

◆ 真砂図書館の傍、鐙坂(あぶみざか)と炭団坂(たどんざか)に挟まれた北斜面の閑静な土地がある。
  1メートルくらいの通路は自動車も通らず、緑の多い散歩道だからよくその道を通るのだが、一寸その
  雰囲気にそぐわないなものを見付けた。「中村さん・高島さん土地返して」という看板である。自分の
  土地を浸食されたのであろうか、深刻そうであるのに「返せ」という命令口調ではなく「返して」とお
  願いしているところが、妙にとぼけた滑稽さ与えていてなかなかいい。
◆ 以前に安部譲二だったと記憶するが「南進木」(なんしんぼく)という木が出てくる小説を読んだこと
  がある。どのような筋だったかは判然と記憶していないが、詐欺師の物語だったように思う。
  自分の土地の南側の庭に隣地との境界を示すその「南進木」を植えると、毎年少しづつ成長するに従っ
  てその木は南に進むらしい。だから10年もたてば南側の隣地を浸食してじぶんの土地が増えるといっ
  た内容で、確かに植物は太陽の方向に生長する性質を持っているから、ありそうでなさそな話である。
◆ 依頼された建物を計画してもいざ建設しようとするとき、隣との地境で揉めることがある。「境界はこ
  こではない、もっとそっちだ」などとお互いに主張し合い、何世代も前からの不満が一気に吹き出すこ
  とがある。長い間積もり積もった隣への不信感がたとえ数センチ数ミリのことなのに、もはや一家の存
  亡を掛けた戦いとなり簡単には解決しない場合がある。共同住宅の音や、ペットの匂いや、嫉妬や妬み
  といった感情を起こしやすい相隣関係はなかなか難しい問題だ。





    「絵の解説−神田明神」 2008/10/28

 O氏 から「万華鏡」の表紙絵の解説をという要望に応えますが、何時も上手な人の作品ばかりで、当
人にとってはなんとも不肖の分身をいきなり晒されたような気分で居心地が悪いのであります。まだ銅販画
を習いたての技法もろくに習得しない作品で、屋根瓦の線のなんと乱暴なことでしょう。まさに「どうでも
よかやんねー」という私の性格を表しているようであります。
 神田明神は家から近く時々散歩のついでにお詣りします。この絵と違い赤い朱で塗られた楼門は実にあっ
けらかんとした派手さです。江戸時代の地味な街並みと対立させることで「晴れ」の空間をつくり出すこと
を目論だのでしょう。九段にあるイタリア文化館の赤い色や楳図かずお邸の白と赤のストライプに病的な嫌
悪感を持つ人もいますが、この神田明神もそれに劣らず、この世ならぬ法悦さえ感じさせる代物です。しか
し今でもなんら違和感を感じません。本郷通りを隔てて学問の神様として孔子祭った湯島聖堂がありますが、
この建物は反対に黒の漆で塗られていて凄みがあり、神田明神との対比は見事です。

http://

57α編集部:2014/02/22(土) 20:24:51
激辛戯評 (1)
.
          激辛戯評 ペンネーム 磁気嵐 2008-(1) 





激辛戯評立ちあげのご挨拶 9/12

 このホームページの名称も「万華鏡」に決まり、いよいよ紙面も新しくなりましたので、
それに便乗して「激辛戯評」という名の私設コラムを立ちあげたいと思います。万華鏡の
中の色鮮やかな幾何学模様が次から次へと変化するように、世の中の見え方もまた違った
方向から眺めることによって、それが「実」と思われたり「虚」と映ったりすることに思
いを寄せて・・・。
 なにせこのホームページは個人への誹謗中傷・公序良俗に反すること以外は何を書いて
もいいと勝手に解釈して、声なきマイノリティーの意見を火中の栗を拾うことを覚悟の上
で書いてみたいと思います。だから「和」を尊ぶ人達には突然の激辛に顔をしかめたり、
背けたり、無視したり、反撃を試みたりと忙しくなることでしょう。とにかく「聖」も「俗」
も「虚」も「実」も「融通無碍」「混沌」「多様多種」「百花繚乱」「天衣無縫」と、とに
かく臆することなく賑々しく騒ぎたてましょう。



激辛戯評−注文の多いレストラン 9/13
 画面が暗い、イメージが悪い、コントラストが補色関係で目チカチカする、ほとんどの
人がそう思うだろうとから「この指とまれ」などと煽って、みんなで変更するように申し
込みましょうという投稿がありました。しかし苦労して開店したばかりのレストtランに
怒濤の如く注文を言われてもまだ慣れていない影のスタッフは戸惑うばかりでしょう。も
う少し見えないところでこれらを支えている人達がいることに思い馳せるという余裕がな
いものでしょうか。たぶんこれは仲間内という安易な思いこみによる甘えの構造からくる
と思います。そして、マイノリティかもしれませんがこの色が上品で洒落ていて私は好き
という違った感覚を持った人だっていないとも限らないのではないでしょうか。

 このホームページを立ちあげるとき、運営委員になってくれるひとを募ったにも拘わら
ず、積極的に関わって同胞のためにいいホームページをつくることに協力しようと、自ら
手を挙げた人はすくなかったと聞きます。だれでも用意された舞台上で華々しく舞うこと
は気分が良いことでしょう。人が美味しいステーキや新選な刺身や香ばしい焼き鳥などを
楽しんでいる一方で、それを愛おしんで育て、やむなく殺し食料にするという嫌な役目を
になう人もいます。人間は生き物を犠牲にすることなしには、己の命を生きながらえるこ
とは出来ないという罪の意識を無くしたときに、レミングのように集団暴走しておのれの
種を危うくすることでしょう。



激辛戯評−辛すぎる!! 9/15

 先日、立ち食いそば屋で掻き揚げそばを食べていたら妙齢のご婦人が入ってきた。横目
で見ていると、暖かいうどんに芥子入りの缶からどんどんそれをふりかけ、ついには缶の
中のものを殆ど使い切ってしまった。うどんのが見えないくらい真っ赤に盛り上がったも
のを平気で食っている。あれは何だろう、芥子ダイエットでもしているのだろうか。うま
いうどんの味を感じることができるのだろうかと訝ったしだいである。このコラムもまた
辛すぎるとその味わいを疎外するに違いないからほどほどにと注意しようと考えてみた。
 ところで今回は、どうも優雅な密流さんの自尊心を傷つけたようだ。「私は本来他人と
バトルを繰り広げることや争いは好みません。他人につっかかるようなことを私が言った
のを聞いた人がいらっしゃいますか?」と反論されていますが、「くどいようですが本当
にこの色で字が読みやすいですか?気分が明るくなりますか?」という問いにはすでに本
人の好まない議論を誘発する要素が含まれています。バトルがいやならものごとを自分の
考えだけで一刀両断に切り捨てないか、それともその反論に最後まで冷静に議論をするか
のどちらかでしょう。
ちなみに、色彩の感じ方について調べてみました。

●レッドを選んだあなたは…
 あなたは火のように情熱的で、夢中になれるものがあると、寝る時間も惜しむほど没頭
 するパワーがあります。しかし、熱しやすく冷めやすいので、長期で持続することより
 も、瞬間的に達成できることが向いています。花や実が赤いように自然界の中で赤は、
 昆虫や鳥を誘う色であり、人にとってはリードする、リーダーの色です。あなたは、人
 に従うよりも取り仕切った方が自分らしさを発揮できます。しかし、この色の持ち主は
 小さいころ同じREDの人と争ったりぶつかったりしてリードすることに恐怖心を抱く
 ことがあります。リードすると嫌われる、リードしても従ってくれない、リードすると
 自分だけ損をする・・・.もしも現在リードするのが苦手と感じるようでしたら、小さ
 いころの心の傷を癒す必要があります。また、リーダーシップには様々な方法がありま
 すから今の状況にふさわしいリーダーシップについて学ぶことで、仕事、恋愛、結婚、
 金銭に関することに役立てることができるでしょう。

●ブルーを選んだあなたは…
 あなたは美しい地球を包み込む空のように心が広く寛大で物事を熟成させる静かなパワ
 ーがあります。洞察力にすぐれ愛情深く、哲学的な思考を持ち正しい導きをするマリア
 様のような存在です。しかし、束縛を嫌い自由を好みますので組織に入るよりも、フリ
 ーで自分の得意分野を必要に応じてこなす方が向いています。組織では伝統を守ったり、
 人を育てるポジションが向いています。的を着いた的確なアドバイスをすることが得意
 ですが、表現がストレートすぎてしまうこともあります。小さいころ、そのストレート
 さが意地悪だと誤解された経験があったりすると、話すことが恐くなり、思ったことが
 言えなくなる人もいるかもしれません。それは、あなたの愛情深く人を傷つけたくない
 と言う思いと、自分が傷つくことに対する恐れです。しかし大人になったあなたなら、
 思いやりのある表現ができるはずです。基本的に、表現することがテーマなので、話す、
 歌う、絵を描く、文を書くなど表現方法を身につけることで自分らしさを発揮できる人
 です。自分の考えや思考を人に伝達するコミュニケーションがあなたには最も重要なこ
 とです。                       wikipedia:色彩心理より



激辛戯評−地色の問題 9/16

 スイートさんの『「地の色」の件で一人でも読みづらいという方がいましたら、できる
だけ早く「地の色」に変更して、弱者に寄り添ってくださるようにお願いします』の提案
について考えてみましょう。
◆弱者にも色々のケースがあり、それらの全ての人に満足な答えが用意される訳ではない
 と思います。たとえば画面の地色が見づらいという問題も、赤緑色覚異常や青黄色覚異
 常といった全く反対の傷害を持った人達もいるわけですから。けっして担当の方の「こ
 だわりの地の色」にたいするプライドによるものだと断定するのはいかがなものでしょ
 うね。
◆運営委員の方がこの地の色で固定するという訳でもなさそうなので、そのうち別の色に
 なるでしょうからそれを待ちましょう。暫定的な解決方法として画面の文字を大きくす
 ることが出来ますから試してみてください。
 方法:キーボードのctrlキーを押しながら+キーをクリックする。そうしますとク
 リック毎に文字は大きくなります。
◆「万華鏡」というタイトルを一番上にという提案も技術的に出来るかどうか今後の課題
 として運営委員に研究してもらいましょう。



激辛戯評−週刊誌「AERA」 9/19
 朝日から出版されている「AERA」という、一応高級といわれる週刊誌がある。
その表紙の一番下にまことに低俗な駄洒落が書いてある。
AERAのトータルなうたい文句は   21世紀も、毎週、「会えら」。
   2008年9月22日号には    もう口には、入れます米。
   2008年9月15日号には    次は俺、そりゃア、ソウダロウ。
   2008年9月 8日号には    太田、いい加減にセイイ!チッ。
 学生時代に読んだ「朝日ジャーナル」は当時のリベラルな週刊誌として群を抜いていた
が、その後継誌としての「AERA]のなんともまあセンスの悪さであることよ。いろいろ
の価値観やいろいろの趣向を持つ読者をターゲットにする週刊誌もよろしいが、一応イン
テリ層を対象とするものがここまで大衆に迎合して哀しくはないのかね。前身の「朝日ジ
ャーナル」を懐かしむあまりの愚痴ではありました。



激辛戯評−汚染米 9/20

 最近輸入された汚染米のことでいろいろ話題になっています。日本は米を100%自給で
きますが、それでもそのような訳ありの米を輸入するのはなぜか。それは日本の生産者を
保護するために、外国の安い米が大量に入ってこないように高い関税を掛けたいからです。
諸外国はこれは自由競争の原則に違反するとして、少なくともある程度はコメを関税なし
で輸入するようにと1993年のウルグアイ・ラウンドで求めました。そうして決められた
最低量輸入量が、ミニマムアクセスです。
 そのなかで薬物やカビなどに汚染されて行き先のない汚染米が大量に残るだろうという
ことを、農水省が予測できないことはあり得ません。だから民間がうまくやってくれるだ
ろう、汚い仕事は見て見ぬふりして処分を押しつけ、最後までチェックしなかったに違い
ありません。
 汚染米を食用に転用するという詐欺行為に直接手をくだした業者は言わずもがな、国民
の食の安全の管理・監督の義務を負う農水省の役人もまた無罪放免とはいきません。だか
らお仕置きのために、ひとつ給料の代わりにその汚染米を現物支給して毎日食べてもらっ
たらいかがでしょう。大量の汚染米も処分できるし、またその人たちもその不条理さが身
にしみて理解できるという一石二鳥の案(名案・迷案)はいかがでしょう?



激辛戯評−「排出権取引」 9/23

 京都議定書で地球温暖化の原因となる、温室効果ガスの一種である二酸化炭素、メタン、
亜酸化窒素、ハイドロフルオロカーボン類、パーフルオロカーボン類 、六フッ化硫黄に
ついて、先進国における削減率を1990年を基準として各国別に定め、共同で約束期間内
に目標値を達成することが定められた。
 また京都議定書の第17条に規定されている、温室効果ガスの削減を補完する京都メカ
ニズム(柔軟性措置)の1つで、排出量取引がある。これは各国や各企業ごとに温室効果
ガスの排出枠を定め、排出枠が余った国や企業と、排出枠を超えて排出してしまった国や
企業との間で取引する「排出権取引」という制度である。
 排出量を厳しく決めて地球温暖化を防ごうというところまではよく理解できるが、排出
権取引で規制枠を超えた国や企業が規制枠を余した国や企業から買うという、金銭のやり
に託したところがどうもよく理解できない。高い理想を実現させるためには、まことに俗
な売買行為という手段を認めるという割り切った考えには違和感を感じるのである。この
辺はまさに東洋的な考えというよりも西洋的な現実主義の思想を感じるのは、私がまだ青
いせいであろうか。



激辛戯評−惚れた欲目で泥船に乗り続けるか 9/25

 新しい総理大臣のもとに新しい内閣が出来た。しかしどうも代わり映えしない。昔だっ
たら一癖も二癖もあるような閣僚が並んでいたのだが。最近どうも小粒に見えるのは、己
が彼等より年取ったせいなのか。それとも二世議員の坊ちゃん面のせいなのか。漫画宰相
と揶揄されても蛙の面にしょんべんでは、まともに手向かう気力も萎える。やはり社会は
風通しがよくてはいけない。階級制度とまでは言わないまでも既得権が固定される社会は
不健全だ。何の係累もない田舎出の芋兄ちゃんや芋姉ちゃんが日本の未来のために理想を
掲げてのし上がってくることができる社会がくることを願う。
 年金や健康保険や食の安全や公務員などのシステムの崩壊にも拘わらず、自民党は「我
が党こそそそれらの難題を責任もって改革する」とのたまうが、笑止千万である。そうと
いいきるならどうして五十年の間それらの不祥事を放っておいたのか。知らなかったのな
らますます統治能力のなさをさらけ出すことになり、知っていたということならそのうま
味をを享受していたことになる。ここでまた国民は変わった為政者の希望の言葉に夢を託
し何度も瞞されるか、ここでいっそのこと決定的な愛想尽かしをして引導を渡すか、今度
の選挙は見物である。



激辛戯評−アナクロニズムのお化け  10/1

 今回のどたばた辞任劇の主役である中山前国交相の主張を聞いていると、自民党の古株
達に巣くうアナクロニズムのお化けを見たような気がする。彼が放った三本の矢は、日教
組へ・成田空港反対農民へ・アイヌやそのたの国の祖国をもつ日本人へと向けられたもの
である。憲法の28条には結社の自由、29条では財産権が保障、また今年の6月には「ア
イヌ民族を先住民族とする決議」を全会一致で採択してある。最高学府の最高の難関であ
る法学部を卒業したという彼が学んだものはいったい何だったのか。我々みたいに権力を
持たない庶民がどのような思想を持っていても結構であるが、法治国家である我が国の規
範に沿えないような高級官僚や議員はいただけない。
 私個人としては、人種や職業や貧富による差別を否定しているのであるが、土壇場まで
その主義は変えないという確証があるわけではない。しかし、出来る限りにおいてはその
様なマイノリティに対する偏見は悪いことだと思う努力を必死でしているものだ。
だから中山前国交相と私の感覚の相違はたぶん基本的に立つ立場というか見方が違うので
あろう。我々の無力なものが日々の生活や精神的な充実をいかに得るかということとちが
った、彼等は天下国家の観点から、いかに強力で世界に冠たる国家を作るかという使命感
に駆られているからであろう。しかし庶民というか国民がいなければ、国家も成り立たないのにね。
 さて、戯評としての位置づけでみるに、敢えてアナクロニズムの考えを言い放つことで、
自民党を壊滅させるための野党の特命をうけた中山隠密ではなかろうか。



激辛戯評−冗長だなあー  10/3

 最近冗長すぎる記事が流行っているのかなあー。小生みたいな多忙な輩は申し訳ないが、
ほとんどこの手のものは読むひまがない。もっと的確に表現してくれないだろうか。
かつて「リバー・ランズ・スルー・イット」の映画のなかで厳格な牧師である父親が、ク
レイグ・シェイファーの演じる長男に作文をさせてそれを添削している場面があった。そ
して最後に、一枚の紙に書かれたものの無駄な部分を削りに削って短く的確な文になるま
で教育していたことを想い出した。
その様に書くのもカラスの勝手、い言のも勝手、よけいなお世話かもしれないが・・・。



激辛戯評−読みたくない人は読まないで下さい   10/10

聞くところによると運営委員の方達の手間や努力によって、「万華鏡」への投稿文を保存
していると聞く。たしかに私達も必要な時はその過去ログを読み返したり検証したりする
ことが出来るだろうし便利であると思う。そこで切角何でも投稿OKの現状に水を差すよ
うだが運営上においても、また紙面の有功利用に於いても2・3の提案をしたい。

◆写真掲載については、性格的には記事の補足に当たるもので、絵や写真などの創作に
 関する個人的な趣味の掲示は、 運営委員会へ作品を登録して表紙に掲示してもらうか、
 個人のホームページを作ってブログにリンクしてもらうかしてはどうだろう。
 とにかく記録したりこのホームページに掲載するにあたって、大きな写真は膨大なメモ
 リーが必要になるし、画面のバランスも崩れるので、なるべく少なく小さめにしたらい
 かがであろうか。小さい写真でもクリックすれば大きくなることは皆さんすでに御存知
 であろうから。

◆文章の記述についても一行開けが流行しているが、なるべく詰めるようにしよう。俳句
 や詩などは行を開けたいと思うのは納得するが、普通の記事で・・・や頻繁な行変えは
 内容の流れやリズムが返ってそこなわれるのではないか。

◆今回の「斜光」に関する同じような資料をこれでもかこれでもかと連続的に並べること
 はよそう。また「斜光」届きましたなどの私的なものはメールで済まそう。一般的では
 ない極限られた身内の話題で始終することは控えよう。いろいろの考えの投稿者を期待
 して開かれたホームページを目指すことが主旨だと思っている私には、自分だけが楽し
 まないで、すこしはまわりに思いやりをもって見回す謙虚さをと言いたい。

 最後に、何を書いても良いということも言えるが、場末の飲み屋ではあるまいし仲良し
や親しさを強調した「ミーさん」「ハーさん」などと言い合う、そのセンスを疑いたくな
るのは私だけであろうか。しかし、この激辛戯評は賛同者もなく無視されるのが落ちだろ
うと諦めてはいるが、言いたいことを書いてみた。そしてあなたは最後まで読んでくれた
のですね。ありがとう。



激辛戯評−10月10日の鳥星さんのお尋ねについて  10/11

1.画像や写真が目的の書き込みは、このBBSにはふさわしくないのでしょうか。
2.BBSへアップする画像の大きさはどのくらいがよろしいのでしょうか。
3.文章の長さや段落また行空けなどに制限があるのでしょうか。
4. 万華鏡のトップの画像は運営管理の方の采配でアップされるもの理解していました(運
 営管理の方から掲載の要望があって、それに応えた作者が画像を運営管理の方に 送っ
 た後にトップにアップされる、と思っていました)

1から3までの件についてはおそらく「万華鏡」というホームページを作られた人たちは
できるだけ規制することなく、どんな書き込みもOKという考えでおらると思います。
だからいまだもってホームページ管理規約なども見あたりません。
4.万華鏡のトップの画像は運営管理が皆さんに最初の頃公募したはずです。
公募したからには依頼や推薦を待つということではなく自ら積極的に申し出ることではな
いでしょうか。
 それはそれで尊重すべきことで、鳥星さんが自らの判断でどのようなものでも、いくら
でも投稿するのを強制的にやめさせることはその精神に反します。しかし貴方が毎日大き
な写真や大量の文書を数限りなく書き込むという場合を考えてみてください。それが自分
で満足できるものだと思っても必ずしも好ましいと思っている人ばかりではないことも考
えて見てください。わたしは少なくともいろいろの印象をもつ読者のいることを常に意識
して投稿しているつもりです。

 私が言わんとすることは何も正確なバイト数やピクセル値、文字数などを設定するとい
う問題ではありません。連続して何枚も大きな写真を載せるとか、大量の冗長な全く個人
的な文章を平気で掲載するという、自分の世界だけで満足していることが気に掛かるので
す。そのうちつまらないと思う人がこのホームページを開かなくなることがあるのではな
いかと懸念します。皆さんがそれでよければそれでいいのですが。



激辛戯評−自由主義の危機  10/17

 私は経済学を学んだことはないので、株や先物相場といったものが正当な経済行為と認
識しながらも、兜町の東京証券取引所の大人達が1円2円で右往左往する情景を見ていて
しらけるのであります。あたかも経済行為だけが世界を支配しているような考えのキャピ
タル・ゲインの亡者達で満たされている昨今の風潮を、無産階級としては糾弾したくなる
のであります。
 マルクスの資本主義の内在する矛盾から必然的に社会主義革命を引き起こし、共産主義
に移行するという考えは、1989年11月9日ベルリンの壁の崩壊で決定的に敗北しました。
しかしだからといって勝利した自由主義が今満足に機能しているかどうかは疑問でありま
す。
 今日の朝日新聞の「あしたを考える」というコラムに「資本主義は本質的に不安定」と
いう岩井克人氏の記事が載っていました。「経済学者のケインズは、市場経済は不安定で
あり、政策によりある程度のコントロールが不可欠であると考えた。しかし60年代から
英米を中心とする新古典派経済学が思想として優位に立ち始めた。市場経済は、国家の介
入や規制をできるだけ少なくし、純粋化すればするほで効率化が達成されるとする考え方
だ」と氏は述べています。
 たしかにサブプライムローンなどといった負の資産を証券化して世界にばらまいたり、
石油や小麦などといった生活必需品の先物相場をつりあげて高騰させることなどの投機は
はたして健全な自由主義の経済行為でありましょうか。多くの人の幸せを得るためのシス
テムではなくなくなって、ビルゲイツのような何兆円もの所得を個人で手にするような歪
な社会を作り出したのではないか。この前のTVでは「アメリカの50%の資産をわずか
400人の富豪が占めている」という。彼等はその資産を大事に抱えて三途の川を渡るの
でありましょうか。経済に詳しい人の意見が聞きたいと思います。

58α編集部:2014/02/22(土) 20:58:10
激辛戯評2
          激辛戯評 ペンネーム 磁気嵐 2008-(2) 



激辛戯評−いつまで続くぬかるみぞ 10/18

 ウ・ドンコ氏が投稿に関する一連の論争「にいつまで続くぬかるみぞ」という思いの不
快感を寄せられていますが(その投稿は途中で削除されましたが)、ただ面白くおかしく
きれいな言葉だけで飾られた自分の思うがままに投稿して満足しているだけでは成り立ち
ません。多くの人達の支えがあってこそ成り立つもので、私もこの論争は大きな問題点を
含み見過ごすことはできないと感じています。

 火付け役の私より吟遊視人さんへと議論の対象が移っていてはなはだ気の毒でありま
す。最初に私が言いたかったのは掲載写真の連続の投稿や大きな画面一杯の投稿、或いは
一般化できないほどに私的な身内の情報を大量に載せるのはいかがなものかという提案が
主であったと思います。でも素人さん異風人さん南橋さん達の貴重なデータは参考になり
ましたが、本質的な問題は今だ残されたままのように思います。それに対するまともな意
見は吟遊視人さん意外になかったのではないか。容量を云々される方達はキャパシティが
十分あるからいくら投稿してもいいとう結論なのでしょうか。
 運営委員の人はどのような種類のどのような形式の投稿も自由であるというしか言わな
いでしょう。しかしその建て前を拡大解釈すれば誹謗中傷や公序良俗に反するものや、悪
意のある投稿だって自由であると思う人もあるでしょう。
 しかし社会には法律のような一定の決まり事があり、また多くの人達が思想や人権に関
わる以外のルールやエチケットがあるように、何でもやっていいということではないでし
ょう。今まで思うがままに投稿していても反対の意見がないから万事賛同を得ていると思
っていても、不快感を持つ声なき声の人達もいることにも思いを馳せるべきでありましょ
う。このことは、思想や信条にたいする投稿を制限するということでないことは言うまで
もありません。それとボランティアとはいえ時間を割いて努力している運営委員という裏
方の苦労も多少考えてみられては如何でしょうか。システムに通暁している人や、思い通
りに書き込みたい人が率先してこのホームページを運営されたらいかがでしょうか。



激辛戯評−天敵 10/24

 先に自由主義社会の歪みを書いたがその続きとして、天敵を駆逐した人間の一人勝ちに
よる傲慢さを憂う。いや、人間の天敵はまだ存在する、それは人間であるという人もいる。
過去数千年間人間同士で散々殺し合ってきた。それも穿った言い方だと私は思う。
 これからの地球環境を良くするのも、また悪くして近い将来滅亡させるのも人間であろ
う。一方地球は人類より強く、ずっとタフだ、人類による環境破壊などにはびくともしな
い、ただ生物が死に絶えるだけだと言う人もいる。地球もあと五十億年もすれば太陽に呑
み込まれて消滅する訳だが・・・。



激辛戯評−評価額??10/25

 今朝の新聞に麻生内閣の閣僚の資産を公開してあった。しかし土地の評価額の根拠は固
定資産税課税評価基準額で叩いてあり、我々の常識から考えてみてまったくかけ離れた評
価である。例えば麻生首相の持つ渋谷区神山町の土地2384? (719坪)の公示価格は坪40
万8千円。719×40=2億9347万円となっている。
 私は公示価格や相続税路線価の実際取引される価格との関係には詳しい訳ではないが、
見聞きする地価と違うような気がしてならない。バブル期ではあったが世田谷の桜丘で当
時坪500万円していたと記憶する。今はそれほどでないとはいえ代々木公園の側の一等地
のこの土地が坪40万ではおかしくないか。このように実情と違う数値を信じると間違っ
た印象を持つことになる。それにしても銀のスプーンをくわえて生まれた人に庶民のこと
が判ろう筈はない。PS: 公示価格や相続税路線価の実際取引される価格との関係をご存じ
の方はご教示ください。



激辛戯評−反論歓迎??10/28

 随分前からいろいろの分野で問題提起をしてきましたが、やっとトトシカーナさんの力
強い反論があり嬉しい限りです。このまま相手にされなくて一人相撲をとり、足でも挫い
たという名目でやむなく休場というシナリオにならないかと危惧していました。
 さて、トトシカーナさんは私の最後のコメント「それがどうした」というじつに個人的
な独断と偏見に感応されたようですが、この挑戦的な表題はもともと柳田国男や柄谷行人
がある時期に主張した考えであります。そして私は日頃思っていたことと同じ考えがあっ
たことに思わず感じいった訳です。
 私が言いたいのは、日常的な対象を詠ったり表現したりするがいけないとは言っていま
せん、言葉として表現する事に於いて、ただ物事を写実しただけでなくもっと自分なりの
言葉を磨き想念を広げるようにしたいものだといいたいのです。ゴッホやゴーギャンは日
常的な対象を描いていても、色やタッチや構図は実に個性的で誰もそれまで表現しなかっ
たものでしょう。例えば蕪村の「易水にねぶか流るゝ寒かな」とか「菜の花や月は東に日
は西に」とか芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」「荒海や佐渡によこたふ天河」のよ
うに日常生を突き抜けた宇宙的な発想が素晴らしい。たまには型や規則に囚われることな
く、それを破るくらいの気概がほしいと思います。



激辛戯評−金融危機??10/29

 今日の朝日新聞に「金融危機 欧米の評価損260兆円」とある。つぎに述べることは全
く株やいろいろの投資に無縁な、そして経済というものに通じない私がいうのだから間違
った認識をしているかもしれないから、どうぞこのような世界経済の情勢や金融システム
について詳しいかたの解説を切望する。
表題のなかにある評価損とあるからは数字上のことで、実際現金が決済されたものではな
いだろう。だから倒産する企業はともかく、生き延びて再び株価が上がれば元に戻るわけ
から、短期的な数字上の損得に一喜一憂し過ぎのような気がしないでもない。
 ところでこの世界ではパイの奪い合いだから損したものばかりでなく、260兆円を儲け
たものもいるはずだ。突然金庫の中の「げんなま」が消えた訳でもないだろうに。ほいほ
く顔が誰なのか私には判らない。誰かこの人達を知りませんか。きっと信用取引で「空売
り」していた彼の獅子文六の小説・大番の「ギューちゃん」みたいな人だろうか。



激辛戯評−まんがどらえもん??11/4

 今年のカレンダーもあと二枚になってしまった。アメリカはあんなにダイナミックに変
革しようとしているのに、日本の政治の世界は澱みっぱなしである。
のびたの福田君が遊びに飽いて、というより思うようにならずに途中で投げ出した後、金
持ちのぼんぼんのスネオの麻生ちゃんに交代したけれど、やはりちっとも庶民のことはわ
かってらっしゃらない。葉巻をふかしてチャーチルか吉田のお爺ちゃんのまねばかり。
すこしは上品で偉いんだぞ見せようとするが、まさにスノッブの典型だね・・・あれは。
さしずめ気になる豪腕男のジャイアンは小沢一郎君か。
 どらえもん押入から早くでてきて、四次元ポケットから日本の政治をよくするマシーン
をだしてくれ。



激辛戯評−一冊の本「露の身ながら」 11/5

 副題が「いのちへの対話」という免疫学者の多田富雄氏と遺伝学者の柳澤桂子さんの往
復書簡集である。多田富雄氏は2001年に脳梗塞で倒れ声を失い右半身不随となった。片や
柳澤さんは1969年に原因不明の難病が発病して、激痛と闘いながら生命科学の啓蒙書を
執筆している。
 二人のそれぞれ違う病魔にたいして戦う姿には、我々があすこが痛いここが不自由で滅
入るなどといった不平不満など遙かに超えた、生きるか死ぬかの瀬戸際において示される
思考に感動する。その精神は開かれていてどのような時でも感情に支配されることなく理
性で物事を理解する余裕をしめしている。
多田氏は次々に発生する病気にたいして、克服する努力を「もぐらたたき」といい、柳澤
さんは「ハードル競争」と称する。二人とも自ら置かれた不遇の状態を諧謔してみせてい
る。そこに最高の教養人としての見事さがある。
 書簡の内容は免疫や遺伝に関する専門的な話題をとおして「生きる」「いのち」「平和」
などの、憂うべき現在の情況や思想が語られている。また多田氏は自ら鼓を打ち、能を創
作し演出するという古典に通じ伝統を重んじる人であるが、柳澤さんは現代の便利な電気
製品や生活用品などの新しいものに興味を覚えるというモダーンな人だ。平和主義や学術
論に於いてはほとんど同じ見解を示すが、一寸した趣向が違うところがまた面白い。
 柳澤さんの著作はまだ読んでいないが、多田氏の「生命の意味論」のなかの免疫に関し
ての自己と他者を認識する機能が今の生物の生存を守っているという所に私は感銘した覚
えがある。自己と他者の問題は高等な頭脳のなかでしか認識しないと考えていたが、すで
に原始的な細胞のなかでそのことを判断していた事に驚いた。具体的には自己は味方、侵
入してくる他者は外敵といことを認識して攻撃して排除しなければならないという機能で
ある。自己と他者の認識が狂って、自己を他者と認識して自分を攻撃するのがぜんそくや
アトピー性皮膚炎などのアレルギー反応によるといわれている。
 その方面に興味のない人にはいささか目障りでしょうが、一度眠り薬の代わりと思って
挑戦してみてください。常用しても決して副作用や薬物依存症にはなりませんから。



激辛戯評− アメリカ大統領選??11/5

 小浜市では風雅の香りをそえる上品なおまんじゅう「紅白おばまん」を、オバマのアメ
リカの大統領当選確実を受けて製造を開始した。アメリカ国民は白人、黒人、有色人種、
富裕や貧困、マイノリティ、マジョリティなどの枠を超えて変革に期待した。ブッシュの
片割れの保守のマケインが遂に負け犬(マケイヌ)になった。
日本でもこれだけシステム疲労の国の組織に一撃を食らわす大勢の民衆の変革意識を期待
したい。



激辛戯評−歴史的な変革を見た??11/7

 私が生きてきた中で、そうなることを切に願われたとしても、とても現実にならないだ
ろうと考えていたことが、劇的に変化する見たのは今回で2度目である。
 一つは1989年11月9日に突如として東ベルリンが西側への通交を自由化したことに始
まり、ついには共産主義の国々の体制が崩壊したことであった。もう一つは今回のアメリ
カ大統領選における白人至上主義の崩壊である。しかしそれは突然の変化に見えるが、実
は見えない崩壊は静かに徐々に始まっていたのだろう。これ以上にっちもさっちも行かな
くなったとき、物事はカタストロフィーの理論のようにある特異点を超えると急激に反転
するもののようだ。
 兎に角それがすぐに良い結果をもたらすかどうかは判らないが、世紀的な歴史の変動を
目の当たりにした思いがする。



激辛戯評−ボージョレ・ヌーボー??11/8
 今朝の新聞を見るとフランス産赤ワインの新酒「ボージョレ・ヌーボー」の初出荷が7
日成田空港に到着した、解禁日は20日とある。その味についてはそれぞれの好みがある
ので言及はしないが、日本の「ボージョレ・ヌーボー」フィーバーにいたっては、いささ
か眉をひそめたくなるのである。私に言わせれば一瓶2・3千円もするとはとても思えな
い代物を競って求める様子は商売人の手管に乗せられたとしか思わない。
 ところでボージョレ・ヌーボーとは一体なにかについてはWikipediaを検索すると次の
ようなことが判った。
「それぞれの国の現地時間で11月の第3木曜日(=11月15日-21日のうち木曜日に該
当する日)の未明の午前0時に一般への販売が解禁される。特に日本は時差の関係から世
界の先進国の中で最も早く解禁の時を迎えると言われる。現地においては高値で多量(輸
出量の半分を日本が占める)に買い漁る日本のやり方に対する批判が存在する。なお、現
地での価格は日本の数分の一である。ワインとして十分出来上がっていないにもかかわら
ずワインとして出回るようになってしまったからである」と書いてある。
 しかしそのブームに対しての批判はともかく、私はこのボージョレ・ヌーボーの話題の
お蔭で、フランスの地図を広げる機会に恵まれたことを感謝する。
スタンダールの「赤と黒」のジュリアン・ソレルが育ったブザンソンを、カントルーブの
歌曲のオーベルニュ地方を、映画「マルセルの夏」のプロバンスを見つけたから。そして
最も私の先入観を覆したのはフランスの中央にあるとばかし思っていたパリが殆ど北に位
置したことである。



激辛戯評−定額給付金??11/13

 今回の定額給付金について「世紀の愚策」野党批判−という新聞記事があった。私も次
のような観点でそう思う。
我々が納めた税金の中から給付するとは、まるでお上が下々に施すといったように見える
が、どうも本末転倒のようで納得がいかない。裕福な個人や会社が自らの懐を痛めて施す
といったことと訳が違うだろうと言いたい。だから朝三暮四の現代版ではないかと眉に唾
をつけて考え直した方がよさそうだ。
 景気対策とか困窮する生活の一助にとかいう名目らしいが、識者によるとどうも景気浮
揚には役立たないらしい。生活救済についても一時的で、根本的な解決策では決してない
だろう。
 給付の対象者の所得制限も1800万円とか2000万円などの案があるが、サラリーマンの
平均的な年収が約600万円からすれば、それも随分高額なところで線引きしたと思う。ま
た所得の高い人は自分で判断して給付を受けることを遠慮すべきだという意見もあるが、
一方所得者は累進課税で高い税金を払っているのだから、われわれも受け取る権利がある
と言いたい気持ちだろう。
 給付を自治体にまかせるという方針もまた陳腐なことである。
自治体によって扱いはまちまちになるだろうし、色々の支障が生じることは間違いないと
ころだ。例えば役所で給付する場合、個人の証明はどうするのか、体が動けない人の代理
者の確認・証明、住所不定の人や戸籍の曖昧な人の証明などはどうするのだろうか。本人
より先に他人がなりすまして受け取るとか、代理に受け取ってやる等と言って知識の無い
人やだまされやすい人から搾取するなどが頻繁に生じるだろう。
 どうもこの政策は間近い選挙のために一票を買うような不純な動機が見え隠れしている
ようである。このような杜撰な政策を考えて平気な宰相のおつむはマンガで満たされてい
て、出てくるアイデアは低俗でお遊びの次元から脱出出来ないようだ。



激辛戯評−個人的偏見人相学??11/14
 これは易経や占星術を極めた人による知見や、科学的分析による結果でもない、いわゆ
るずぶの素人の独断と偏見に基づくものであるから、話にならんと思う方は読まなかった
事にして忘却して欲しい。
 およそ人はイケメンや美女であることが、世の中で生きる上でなにかにつけ有利である
と思う人は多いであろう。しかし私は顔かたちがいいとか悪いとかでその人の魅力を判断
することはしない。いや、しないように努力していると言うべきかもしれない。
モデルのような美形が金太郎アメみたいに、いつでもどこででも同じ笑顔を見せているの
をみると、つねに人の目を気にしてだれにでも媚びを売っているように覚えて気持ちが悪
い。それよりは不細工の範疇に入る人の見せる真剣な眼差しや、何かに熱中している顔の
美しさにむしろ惹かれるのである。とにかく歴史や文化の違いでどうにでもその判断は違
うものだから、今そうだからといって内容がなければ美形も安穏としては居られない。
 ところで古事記にでてくる大国主命(おおくにぬしのみこと)は別名を葦原醜男(あし
はらしこを)といった。醜男の本当の意味は、醜い男ではなく葦原のように野性的で力強
い男の意だったとあるが、やはり単なるイケメンではなかったろう。だからと言うわけで
もないが、国を創る大きな仕事をしてきた神様だからそれなりの威厳を備えていたに違い
ない。
 ちょいと遠回りしたが、還暦を迎えた者は自らの容貌や態度に責任を持たねばならない
と誰かが言ったのを聞いたことがある。話題になった中山成彬前文部科学大臣の日教組へ
の恨み節や、田母神俊雄前航空幕僚長の荒っぽい歴史観、今回の麻生総理の脳天気振りを
みていると、その容貌に共通するものがあるように私には見える。誰でも信教や思想の自
由はあるわけだが、権力の中で吠えるのはいかがなものかと思う。思い切ってその地位を
放棄して一市民になってからそのように主張されれば非難は受けなかったに違いない。
それもせずして権力者側に居ながら異を唱えるということこそ、節度も持たない人かと思
われている理由だ。そのことを判っているのかいないのか、判っていないとすればその地
位につくべき人間ではなかったし、判っていたのならまさに我々庶民の警戒すべき確信犯
であろう。この人達を見ると、造作の素材は決して悪くはないが、思い込んだら地獄の底
まで突き進むといった危うさが見とれるような偏狭で頑迷さが、顔つきを変形させている
ように私には感じられた。



激辛戯評−黒船を求む??12/2

 今、薄紫の花を咲かせている香りのよい冬の花、ローズマリーのペンネームを持つ麗人
から、『「声なき声」の方からのメッセージで多かったのは「穏やかな書き込みを望む」
でした』は、私のことかと思われちと耳が痛い報告でした。しかしまたそれと違う辛口の
意見を好むマイナーな「声なき声」もきっとあるはずとやせ我慢して見せましょう。
 最近の「あほう総理」おっと「麻生総理」でした、文字に親しむよりもマンガというビ
ジュアルで鍛えたものだから、当然「踏襲」を「ふしゅう」、「未曾有」を「みぞうゆう」、
「頻繁」を「はんざつ」などと新しい読み方をされるのは理の当然でありましょう。ここ
までくると並の人は恥ずかしくて穴深く隠れてしまいたくなるものですが、さすがに卓越
した政治屋、そんなことに耐えられなければ、いや恥などという言葉が自分の頭のなかの
辞書に載っていないのでなければ、この魑魅魍魎の政治の世界では生きて行けないのであ
るようですから。
 とは言え、その御仁のダッチロールを見ていると、今の日本の危機を救うだけの高邁な
理念と哲学がありそうにも見えません。さてそこでこの安穏と手をこまねいている国民の
目を覚まし、果敢に変革を決断させるためには「黒船」に乗った異能者が必要ではないか
と思いつきました。一層のこと、アメリカ大統領に就任するまでのあと一月半のあいだ黒
船で日本へ来て、大変革を指導してもらえないだろうか「オバマ」さん。



激辛戯評−子どもにネットを使わせるな??12/4

 新聞の「聞く」というコラムに「子どもにネットを使わせるな」という柳田邦男氏の記
事があった。彼は子どもに携帯電話やメール、ネット、テレビゲームを使うことに反対し
続けている。全部だめということではなく、せめて小学生ぐらいまでは、使わない環境で
育つ方がよいと言う。
 子どもの成長にとっては、ネガティブに働くからである。一方それらを使わない環境の
もとでは、不便さや自分で考えないと何も出来ないという経験が、物事を考える力をつけ
ることになるという。バーチャルな世界にばかり浸ると、生身の人間に浸ることが極度に
すくなくなり、決め細かい感情や感性が育たず、他者の痛みや悲しみを感じる心が育たな
い。非行や暴力・凶悪事件を起こした少年少女の成育歴調査や精神鑑定で明らかにされて
いることだと述べられている。
 確かに有害サイトや匿名によるネットいじめなどにたいして、いいか悪いかの判断がつ
くまでは近づけさせない方が良いと思うし、バーチャルの世界が現実の世界と違うことを
はっきり認識させなければならないだろう。
 兎に角マンガやバーチャルは感覚的に理解しやすく、何の疑問ももたずに全てをその様
なものだと早合点してしまい、それ以上ものごとを見る目が深まることはない。現実はも
っと複雑でどちらが正でどちらが間違っていると簡単に割り切れるものではないし、口あ
たりのいい言葉や、人物がそのままの評価で終わる筈もないと考えるがいかがであろう。



激辛戯評−麻生太郎の替え歌??12/10
 永田町界隈で、麻生太郎首相に関する「替え歌」が広まっているらしい。
言っていれば、平安時代から江戸時代にかけて流行した表現主法の一つである「落首」、
現代版ですねこれは。落首は公共の場所、特に人の集まりやすい辻や河原などに立て札を
立て、主に世相を風刺した狂歌を匿名で公開したもの。当然のことながら当時言論の自由
というものは存在せず、政治批判は極めて危険性の高い行為だったが、匿名での公開によ
って、読み書きができる者なら誰でも自由に言論活動を展開することができた。
 さてその替え歌は二つあるという。どちらが秀逸かはお任せしましょう。
◆松任谷由実の名曲「あの日にかえりたい」の麻生版
   泣きながら ちぎった詔書を
   手のひらに つなげてみるの
   根拠なき あの日の自信
   わけもなく 憎らしいのよ
   あのときの 高支持率を
   人はみな 忘れてしまう
   あの頃の私に戻って
   「解散」と言いたい〜
◆沢田研二の名曲「時の過ぎゆくままに」の麻生版
   あなたはすっかり 疲れてしまい
   解散さえも イヤだと泣いた
   壊れたマイクで いつもの演説
   繰り返しては ため息ついた
   時の過ぎ行くままに この身をまかせ
   紫の袱紗(ふくさ)が 漂いながら
   もしも袱紗が 出てくるならば
   議場の景色も 変わっていくだろう



激辛戯評−なんか変だぞ??12/18

 2008年12月2日の新聞に「コメ生産枠取引 佐賀の転作分を他県へという記事があっ
た。コシヒカリで有名な新潟魚沼地方で今年、その生産量が増えた。理由は、佐賀県で大
豆に転作されて減ったコメの作付け分が新潟県に割り振られたからだ。もともと生産調整
は、農業団体などの生産者が主体的に目標を決める制度。ところが07年産米の価格が急
落したため国は今年、都道府県や農協に生産調整の指導を強化。都道府県同士が割り当て
られた作付け面積を融通し合う新制度を導入した。
 これで、割り当てよりもコメを多く作りたい都道府県が、転作を拡大して減産する都道
府県から減産分を「買える」ようになった。枠を増やした県は国からの転作交付金を減ら
され、枠を減らした県は交付金が加算される仕組みだ。
これに「売り手」として名乗りを上げたのは佐賀県だけで、1400?分を返上、青森、宮
城、福島、新潟、石川、茨城、山梨の7県に配分された。と報じている。
 これは、9月17日に「地球温暖化について」の感想ですでに書いたように、温暖ガス
の排出権取引とまったく同じシステムである。金銭の売買でしかことが動かないこと事態
を憂えるのだが、目先の問題解決に効果があるかも知れない一方、失うものもまた大きい
のではないだろうか。作付け面積の規制以前にも、 1970年代からはじまった米の強制的
な生産調整=強制一律減反があって、農業現場に深い傷を残してしまった。減反に従う農
家や農村を対象に減収を補てんしたり、補償金(とも補償)を支払うという負のシステム
があった。
 お上からの強制的な負の政策がいかに生産意欲を削ぐ、勤勉な労働という価値観を喪失
させるものか、また休耕田になった水田や畑の荒廃をもたらしたか、知られるところであ
る。これはまさに共産主義に勝ったと思いこんだのだが、官が規制するという行為は計画
経済の共産主義を見ているようで、自由主義の敗北でもある。
一方石油や穀物や株や投機などの金、金、金という拝金主義が今の世界同時恐慌をもたら
したと断ずれば、キャピタルゲインの一攫千金よりも勤勉で着実に汗をかくという価値観
を取り戻さなければならない。六本木ヒルズのIT長者は人間が生きるに必要な基本的な
もの以外の活動しかしていないと思うがいかがでしょうか。



激辛戯評−愚者への贈り物??12/18

 イラクの首都バグダッドで14日、記者会見中のブッシュ米大統領にイラク人のテレビ
記者が靴を投げ、拘束された問題で、同大統領は16日、投げ付けられた際を振り返り、
「物を考える十分な時間がなかった。身をかわし、よけるだけだった」と述べた。CNN
に語った。
 一方同記者の拘束に反発する抗議デモはイラク各地で起きている。靴を他人に投げ付け
るのは、イスラム世界で最大の侮辱行為ともされる。同記者の詳しい動機は不明だが、テ
ロや米軍の攻撃で被害を受ける市民取材を続けるうちに、米国に対する怒りが高じていた
ともされる。
 そしてバグダッドからの情報によると、同記者に対する予審が16日開かれ、記者はブ
ッシュ大統領に対する行為を認めた。刑法にある、イラクまたは外国の大統領の暗殺未遂
の罪に問われる可能性があるという。
 2008年12月18日付けの「朝日川柳」に面白い川柳があった。
     ブッシュには靴麻生には匙を投げ
 ニュースを見て思ったのだが、その記者のコントロールは見事で、避けなければ二つの
靴とも確実にブッシュの鼻柱を挫いたであろう。
しかし大統領の暗殺未遂の罪は大げさだ。では腐った卵や熟し切ったトマトやパイを投げ
つけたら何の罪になるのだろうか。いずれにしろブッシュ・「裸の王様」・最低の大統領
には「履き古しの靴」を、日本の宰相には「大きな匙」を贈りたい思いである。



激辛戯評−自動車と道路??12/20

 横断歩道で信号を待つ間に観察すると、朝の通勤時間の乗用車の殆どが一人しか乗って
いない。タクシーだって客が一人の場合が多く同じようなものだ。その結果中型車は一台
1.7m×4.7m≒8?もの公共の面積を占用するのだから、これでは都市部の道路が込むわ
けだ。ガソリンに課税される金額はそれなりに納得がいくが、道路拡張や整備とのいたち
ごっこでいつまでたっても満足行くはずもない。
 アメリカには通勤時間帯の混雑を防ぐために車規制をしている。それをカープールレー
ンという。これは都市部で通勤時間に行われるバスレーンの様なものであろう。カープー
ルレーンは指定時間の間、複数人数乗った車の専用レーンとなり、もし運転手しか乗って
いない車がカープールレーンを走ると、高額の罰金を払わせられる。複数で車をシェアす
ることにより、渋滞を緩和しようというのがねらいで、近所同士、友人、夫婦で車をシェ
アして通勤している人も多いようだ。
 最近はまた若者の自家用の車にたいする意識も変わっているようで、アメリカ発の金融
危機のせいばかりでなく、新車が売れなくなっているという。
車を所有しないで、あらかじめ登録されたメンバーで共同利用するというカーシェアリン
グというものがそうである。自分が使った時間分の料金を支払うというシステムで、車の
維持費が不要で、経済的に大変得だという。但し数時間の使用は確かに安いが、1日2日
単位の長時間になるとレンタカーの方が有利になるという。
 カーシェアリングの考え方や仕組みはもともとスイスが発祥といわれている。1970年
代に大量の車両が都心に流入した結果、商店街などの荒廃が進んだことから、行政主導で
大規模な車両の流入規制(トランジットモール)が実施された。また都市にはLRT(路面
電車)やバスなどの公共交通機関を充実し市民の足が確保された。一方、住民らは都心
に車がもてない為に、郊外に共同で車を所有しはじめた。これがカーシェアリングの始ま
りとなる。(Wikipediaより)
 さてこのシステムが大いに稼働するとすれば、道路の混雑、個人の駐車場の問題、車の
有効稼働率の問題等が解決するのだが、はたして日本の社会に定着したものとなるかは判
らない。とにかく見栄や虚栄で無駄な車をなるべく持たないようにして減らすことに尽き
るし、世間の意識も確実に、思ったよりも早く変化しているように思える。



59α編集部:2014/02/23(日) 14:07:14
シネマの話
.
             シネマの話1 2002-2004



シネマの話  2002/6/3
飯田橋の神楽坂をもう一本後楽園寄ったところに軽子坂(かるこさか)という路地がありました。
その坂の由来は知りませんが、横町を曲がったすぐの所に一軒の映画館をみつけました。
約200席のいわゆる懐かしの名画をみせるという場末の小さなもので、そこは貧乏学生時代のノ
スタルジーを彷彿させるに十分な面影を残した、狭さと昔を懐かしむような老年の人たちや若い学
生といった客筋で満ちていました。よき時代の雰囲気が廃れていない時空が未だ存在するんだなー
と嬉しくなりました。もちろん入場料はシルバー料金の1,000円ぽっきり。この値段で5時間
近く楽しめる娯楽はそうめったには見つからないと思います。

往年のアン・マーグレットを思わせる美貌の女優と、アラン・ドロンに似た男優の演ずる
「ムーラン・ルージュ」のファンタスチックな物語を主に鑑賞するつもりでしたが、もう一本の方
「ぼくの神様」が思いもよらず秀逸でした。第2次大戦のポーランドが舞台。ナチスのユダヤ人狩
りから逃れるため親元を離れ一人疎開させられた児童の物語でした。美しい田園風景の中で起きる
大人の戦争という不条理の世界に、子供までが巻き込まれ厳しい現実に直面する話でした。

このような素晴らしい映画は大作でないだけに、あまり宣伝されず埋もれてゆくのかと思うと残念
です。そのような訳でたまには誇大に宣伝された大作だけではなく、こまめに優れた小品を探しだ
して映画鑑賞を楽しんではいかがでしょうか。

ようこそ井手さん、距離や時間の制限を受けず遙か離れた友人と交流するためにあるホームページ
ですから、より遠い人のアクセスを歓迎します。絵、音楽、散文、詩、俳句、釣り、ゴルフ、その
他のあらゆる趣味の人、この場所で侃々諤々語り合いましょう。



またまたシネマの話 2002/7/12
毎週映画館通いの有閑老人と思し召しではございましょうが、事実は違います。根が怠け者故、若
い頃より脇道が好きで色々のことに勢を出し、どちらが本業だか、どちらが趣味だか判然としない
当人ですが、今では毎日まじめに「世のため」・「人のため」キッチリと労働していて、生涯現役
を貫く心算だからね。
 さて、またまたシネマの話

■ VA SAVOIR (恋ごころ)
2001年  フランス・イタリア・ドイツ合作フランス映画
監督:ジャック・リヴェット
主演:ジャンヌ・バリバール、セルジオ・カステリット、ジャック・ボナフェ
イタリア劇団の主演女優カミーユはフランス人、久々のパリ公演中、昔の恋人のピエールに再接近。
愛人の座長ウーゴは、パリジェンヌに急接近。彼女の兄はピエールの妻に接近中・・・。
男女6人の恋の糸がもつれ合うコメディトーンの幸福感溢れるリヴェット・ワールド。

なんだかシェークスピアの「ファルスタッフ」や「真夏の夢」をミックスしたどたばた喜劇と言っ
たところ。最後は関係者が一同に会し、もつれた難題も解決し大団円といったお話。

■ BANDE A PART (はなればなれに)
 1964年 フランス映画
 監督:ジャン=リュック・ゴダール
 主演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール
ヌーベルヴァーグ絶頂期のゴダール長編第7作。
アンナ・カリーナと2人の男性と踊る「マディソン・ダンス」シーン等は、そのポップセンスにタ
ランティーノはじめ、ヴェンダース、ジェームッシュ、ハートリート

多くの映画人に影響を与えたキュートな作品。

サルトルやボーボアールの実存主義はなやかなりし時代の3人の若者の物語で、アメリカ映画と違
った時間と空間がみものであります。アメリカ映画のテンポの早い策に長けた物語が好みの人には
退屈かもしれないが、私はこの出た所勝負の行方知れずの手法が我が生き方に合っていて好きです。



またまたシネマの話 2002/7/15

■ MULHLLAND DRIVE (マルホランド・ドライブ)
2001年 アメリカ・フランス合作映画
監督:デイビット・リンチ
主演:ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング
   車の衝突事故で記憶をなくしたブルネットの女と、同情したブロンドの女優の
   卵・・・。細部にわたる伏線と謎に満ちた登場人物、常識を破壊する展開・・・。
   マルホランドドライブで始まるリンチ・ワールド。

どこまでが幻想でどこまでが現実なのか筋がほとんど判らない。多少ともアバンギャルドに興味を
持つ私でさえ理解不能でありました。
これでも第54回カンヌ映画祭の監督賞を受賞しているのであるから、ハッシュで頭を浄めて鑑賞
するか、またまたその前衛作品に着いて行けないほどこの私が古びたのか、その理解出来ない理由
は謎であります。

■ THE SHIPPING NEWS(シッピング・ニュース)
 2001年 アメリカ映画
 監督:ラッセ・ハルストレム
 主演:ケヴィン・スペイシー、ジュリアン・ムーア、ケイト・ブランシェット

父親に抑圧され、自分をもてないまま生きてきた男が、妻にも裏切られ、父の故郷である凍てつく
北国・ニューファンドランド島に戻り、人の温かさに触れ、自分を取り戻していく。「ショコラ」
につぐヒューマン・ドラマ。

自己表現が不器用で人を引きつけるようなエピソードも持たない、世間の話題にものぼらない、ど
こにでもいるような平凡な男でさえ、たいした変化もない日常の生活の中にすでに感動を与える生
き方をしていることを私達に想い起こさせる物語。

大山さん、投稿者がすべて、語りや体験において一流のプロの経歴を持っているということではあ
りません。むしろ、平凡にして通俗な中になんとかもっと自己表現して、己の生きる証をと「田作
(ごまめ)の歯ぎしり」をしているというところです。
どうぞ感じたことや伝えたいことなどを、たとえ自己満足、独断と偏見と思われようともそれをも
のともせず言い放ちましょうや・・・。

   追:みっちゃん、主人公の叔母が自分の過去の秘密を知られて”shit”
     と囁いたのをこの映画の中で確かに聞きました。指導のお陰です。謝謝!!



シネマの話 8/6
H.G. Wells原作の 宇宙戦争、 透明人間、月世界旅行等の有名なSF小説の一つであるタイムマシ
ーンの映画を見た。

The Time Machine
[SciFi/Action/Adventure]
製作総指揮 アーノルド・レイボヴィット / ローリー・マクドナルド イ
製作 ウォルター・F・パークス / デビッド・バルデス
監督 サイモン・ウェルズ
脚本 ジョン・ローガン
原作 H・G・ウェルズ
出演 ガイ・ピアース / サマンサ・ムンバ / ジェレミー・アイアンズ

1890年代のニューヨーク。冬。雪の降る公園で、結婚の申し込みをした、その日に恋人のエマ
を暴漢に殺された、物理学教授アレクサンダーガイ・ピアースは、4年をかけてタイムマシンを完
成させた。彼は4年前のその日に戻り、エマを助けようとするが今度は交通事故によって亡くなっ
てしまう。「過去は変えられないのか?」という命題を求めて、彼は80万年後の世界に旅立つ。

この映画を選んだのは小生として「この暑さで頭が狂った」としか思えない結果であった。
そんな予感はあった。隣で上映の「海辺の家」を止めてH.G.Wellsの名に惹かれた連れ合
いの意見に従ったまでである。

その映画の話はお粗末で、タイムマシーンの時空の旅の最後は必ず元に戻るのが筋であろう。そし
て「過去は変えられないか?」という命題の解答もないまま、80万年後の世界でそのマシーンを
壊してしまい帰れなくなったというお粗末な話。その続きの第2作を目論んでいるであろうか…。
結論として見ない方がよい。金掛けて作る労力と時間の大いなる浪費、従って今回の批評としては
☆なし。

はずれもまた経験のうち。今度は良い映画を紹介するからね。



シネマの話−チョコレート 2002/9/3
チョコレート(原題:MONSTER'S BALL) 2001年/アメリカ映画   ☆☆☆★
2002年第74回アカデミー賞 <最優秀主演女優賞>受賞
2002年ベルリン国際映画祭 <銀熊賞 最優秀主演女優賞>受賞

監督:マーク・フォースター
脚本:ミロ・アディカ/ウィル・ロコス
キャスト:レティシア・マスグローブ:ハル・ペリー、ハンク・グロトウスキー:ビリー・ボブ・ソーン

死刑囚の夫と、幼い息子を交通事故で相次いで亡くした黒人女(ハル・ベリー)。親の愛を求めて
いた息子が目の前で拳銃自殺した(ヒース・レジャー)ことで初めて人生に必要なものは何である
かを考えはじめた人種差別主義者の孤独な白人男(ビリー・ボブ・ソーントン)。それぞれの家族
の死をきっかけに、交わるはずのない2人が心を通じ合わせていく…。深い喪失の淵から、愛を知
ることによって人生を取り戻す男と女の新たな出発を描いた、心に染み入るビターなラヴ・ストー
リーである。
解説書によれば邦題の“チョコレート”は3通りの形で登場する。主人公がいつもレストランで注
文するチョコレート・アイスクリーム。黒人女の息子が母に隠れて食べ続けたチョコレート・バー。
だがそれが何より象徴するのは、ハンクが忌み嫌っていた黒人の、そして、後に彼が心から愛する
ことになる女性の肌の色を暗示する。
しかしこれは原題の「monster’s ball」と異なり邦題で「チョコレート」と付けたのだから少々
深読みの嫌いがあり「そこまで言うか」と言いたくもなる。

この映画から感じたものは
 1.車がなければ生活出来ないほど広大なアメリカ(公的交通手段のすくなさ)。
 2.未だに残る人種偏見、女性蔑視(おそらく深南部が舞台であろう…Memphisと言ったうな言
   わなかったような)
 3.男の強さを誇示する昔気質の風土・・・親子三代刑務所の監視員という職業柄かもしれない
   が、とくに主人公の父は身動きも出来ない肉体になりながら、まだ息子を支配しようとしい
   て、愛情を注ぐことより自分の力を誇示し、「子供は親を一生面倒見なければいけない」と
   強制する。 確かに人道的にはそうであるが、感謝や優しさを示さない、そのようなことは
   女々しくて悪だと考えていて一歩的な服従を求める。息子は祖父や父に似合わず優しさと繊
   細さを持っていて、いつも父や祖父から「だめな人間」と評価されていた。その息子とその
   ことで諍いの結果目の前で息子が自殺してやっと、主人公も最後は父から受け継いできた「人
   間の強さ」ではなく「男の強さ」を信じるその頑迷さが愚かであることを悟った。


物語の出だしが黒人女の夫の処刑場面から始まり「dacer in the dark」のそれ
とそっくりで、なんとも暗い思いにさせられたのだが、二人とも大きな代償を払わされたにもかか
わらず幸せになる予感めいたラストシーンが印象的であった。

おまけ・・・(それにしてもdancer in the darkは暗かったな−・・・)



シネマの話−海辺の家 2002/10/16
「海辺の家」  LIFE AS A HOUSE     ☆☆☆
配給] アメリカ/日本ヘラルド映画
[分数] 126分
[監督] アーウィン・ウィンクラー
[製作] ロブ・コーワン、アーウィン・ウィンクラー
[製作総指揮] マイケル・デ・ルカ、ブライアン・E・フランキッシュ、リン・ハリス
[脚本] マーク・アンドラス
[出演] ケヴィン・クライン、ヘイデン・クリステンセン、クリスティン・スコット=トーマス

[あらすじ] 自分のものと誇れる“何か”をお前に残してやりたかった――。父と子の絆を描く
感動のヒューマン・ドラマ。 建築事務所に勤めるジョージ・モンローは42歳の建築デザイナー。
父親との確執が原因で、自分の息子ともうまくコミュニケーションがとれなかった。ついには妻に
も逃げられ、上司との摩擦から会社もクビになる。挙げ句の果てに医者から余命4ヵ月との宣告を
受けてしまう。再婚して幸せに暮らす妻。そしていまだに父を憎み続ける16歳になる息子。ジョー
ジは初めて自分の人生に疑問を感じた。そして、昔からの夢だった自分の家を建て直すことを決意
する。最後の夏、ジョージは反発する息子を無理やり手伝わせ、手造りの家を建て始めた……。

個人的には身につまされる映画であります。私も他人の家を数多く設計してきたが、未だ自らの家
を造るには至らず、間借り人生を送っているのだから・・・。

素晴らしい環境の中、周りの善意ある人達にささえられ、死というシリアスなテーマのにも関わら
ずハッピーな気分にさせてくれる、いかにもアメリカ的な映画である。

難をいえば、必要でもないエピソードが多く総花的で、それが作品の深みを削いだようでもある。

おまけ:このところ「家」を扱った映画が多いのはなぜでしょうね。
    「シッピング・ニュース」・「パニック・ハウス」・「The Others」等



シネマの話−アイリス  2003/1/5
アイリス   ☆☆☆☆
(原題:IRIS)
2001年/イギリス・アメリカ

[スタッフ]
監督・脚本:リチャード・エア
原作:ジョン・ベイリー
脚本:チャールズ・ウッド
プロデューサー:ロバート・フォックス/スコット・ルーディン
製作総指揮:アンソニー・ミンゲラ/シドニー・ポラック
[キャスト]
アイリス・マードック:ジュディ・デンチ
ジョン・ベイリー:ジム・ブロードベント
若き日のアイリス:ケイト・ウィンスレット
若き日のジョン::ヒュー・ボナヴィル

第74回アカデミー賞最優秀助演男優賞(ジム・ブロードベント)受賞
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[ストーリー]
 主人公は、「イギリスで最も素晴らしい女性」と形容される実在した作家で哲学者のアイリス・
マードックと、その夫で同じく作家であり、文芸評論家のジョン・ベイリーの物語で、ジョンがア
イリスについて書いた本がイギリスでベストセラーになった。

 アイリスは、作家としても一流、自由を愛し既成概念に捕われない性格の持ち主で、イギリス女
性の羨望的存在でもあり、常に時代の先頭を走っていた。ジョンはオックスフォード大学で彼女と
出会い一目でアイリスに恋をして、複数の恋人と付き合う彼女をひたすら追い求た。恋愛経験豊富
なアイリスも、ジョンの純粋さに惹かれ始め、やがて本当の自分を理解してくれるのはジョンだけ
だと気づいて彼と結婚した。
 そして2人の愛は年とともに穏やかに深まっていたが、そんなある日、アイリスにアルツハイマ
ー病という悲しい運命がふりかかる。ジョンは時にくじけそうになりながらも、持ち前のユーモア
を忘れずに酷薄な運命に愛だけを武器として介護に打ち込むものの遂に最期を看取るという物語。

 映画を見た若い人のいう「深い愛情物語」として素晴らしいという評ばかりでなく、この映画で
は2つの苦悩が描かれている
1.アイリスの苦悩
  時の寵児となるほどの明晰な頭脳を持つアイリスは、知らず知らずの内に何かが狂い
始めた。時として意識の及ばない自己の行動を、正常な頭脳に戻ってそれを知ったときの人間とし
ての尊厳を喪失する恐怖と苦悩を描いている。自意識の喪失は死の宣告にあたいするであろう。

2.ジョンの苦悩
  高齢ながら食事や家事を一人でこなし切れず徐々に家の中が崩壊するにまかせざるを得ない状
態、しだいに進行する妻の痴呆に悪戦苦闘するジョンの苦悩。まもなく確実に愛するものを失って
しまうというさびしさ。

それは、死に面してどうもしてやることも出来ない、どうしょうもないという諦めという言葉でし
か一人の人生にケリをつけるすべはないことである。

最近読んだ「父の遺産」でも人工呼吸で存命させることができるかもしれないが、
今後訪れる悲惨さを考えた主人公が老父の耳元で囁いた次の言葉が忘れられない。

”Dad,I'm going to have to let you go."
(父さん、もう行かせてあげるしかないよ。)



シネマの話−サテリコン 2003/11/29
ポルノの話題でにぎわっているので一言。
以前に、ローマの暴君ネロの時代にペトロニウスが書いた「サテリコン」という小説をフェデリコ
・フェリーニが同名で映画化しものを見たことがある。小説も読んだが、性の倒錯した映像に衝撃
を受けた。この小説が貴族のグロテスクで享楽的な行いに対し反抗を持って語られたのでネロの治
世を批判したということでペトロニウスは自殺に追いやられたと記憶する。

DVDで発売されているようなので、興味がある人は一見しては・・・。

サテリコン
(1970・伊) SATYRICON
監督・脚本:フェデリコ・フェリーニ
原作:ペトロニオ・アルピトロ 撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽:ニーノ・ロータ他
出演:マーティン・ポッター ハイラム・ケラー サルヴォ・ランドーネ キャプシーヌ



シネマの話−めぐりあう時間たち 2003/12/6
めぐりあう時間たち ☆☆☆☆★
  THE HOURS

 監 督  スティーヴン・ダルトリー
 出 演  ニコール・キッドマン, ジュリアン・ムーア, メリル・ストリープ
1941年。精神を病み英国の田舎町へと移り住んでいた作家ヴァージニア・ウルフは、しかし、生き
る気力を失っていた。献身的に彼女を支えた夫への愛と感謝の気持ちを手紙に綴った彼女は、近く
を流れる川へと向かい、その流れの中に身を沈めていく・・・。

3つの時代、3つの場所、3人の女性たち。それぞれの"時間"が、ある1日を描く1つの物語へと再構
成されたとき、失われかけていた彼女たちの人生が、そこに見出されていく。脚本、女優、監督、
全てが揃ったからこそ生まれる、まさに総合芸術と呼べる作品。・・・と解説書には書いてあるが
私には何をいっているのかさっぱりわからない。えてしてこの手の映画解説は小難しく書くか美辞
麗句で満たすか、頭の冴えない者にとってはまるで判じ物である。

ようするに、バージニア・ウルフの実生活と彼女の小説「ダロウェイ夫人」に書かれたモデルの人
物とを平行にして物語が展開している。最初は誰が何いう関係なのかわからず戸惑うばかりであっ
た。ともかく生と死、精神状態(病)、性の認識、女性の社会的な自立などのテーマを3人の女性
の生き方を通して表現しようとしていることは確かだが、この映画はいくら言葉並べても納得いく
解説をすることは難しく、これ以上かくのは止めた。

ともかく、ニコール・キッドマンは、精神的な憂鬱さと強迫観念に苦しむバージニア・ウルフを見
事に演じきって、第75回アカデミー賞主演女優賞受賞した。



チョコレート私も見ました 2003/12/15
随分前にシネマの話でこの「チョコレート」を取り上げたが、アメリカの保守的な深南部の男の話
であったと記憶する。

女性や子供や黒人などの弱者を「物」としてしか見ず、それを強い男の誇りだと考える生き方しか
できない祖父と主人公。そしてある日弱者に偏見をもたない息子が二人に反発して諍いの結果目の
前でピストル自殺をする。それを契機に、主人公はいかに自分の考えが偏っていたかを悟り、黒人
の女性と結ばれるという話。

スイート プラム和さんは濃厚なセックスシーンに圧倒された由、「いままでのうちで一番綺麗な
セックシーンである」と言ってのけたばかな映画解説者がいたが・・・。
おまけ−同じチョコレートでも「ショコラ」という素敵な映画があります。一見してはいかが。

「nanpa」さん、おっと間違い「なんば」さん、「歩くハイマー」会員募集行脚ごくろさんで
した。甘言の雨あられの中「難破」せず無事かえって来て、まずはよかった。関西勢が脱帽するよ
うな体力を見せつけたと見えて、我々足萎え族は「関東連」が皆かくも若くて丈夫かと誤解される
のではと心配です。藤澤さん、丈夫で長持ちしそうなのは「楠葉さん」だけと思ってください。
ところで皆さんの写真を早く見たいですね・・・。



シネマの話−シネマクラブ会員を募ります 2004/1/28
■ ずっと前から「シネマクラブ」なるものを作ろうという思いがありました。個人的にはよく映
画を見に出かけるのですが、仕事の忙しさとそれ以外にいろいろなことへの関わり合いが多く、も
う一つ同好会を加えることで「現役人生」を全うできるかどうかが危惧されて二の足を踏んでいた
のでした。そして、楠葉氏の映画鑑賞の名解説に触発されたのと、2月7日の同好会の新年会がち
ょうど程よいタイミングと思われましたのでこの際フィリップ・マーローの科白をもじって「楽み
がなければ生きていけない、楽しまなければ生きる資格がない」とばかりに発足したいと考えます
が、皆さんのご意見・ご感想をお願するとともに賛同を期待します。

■ 少年の頃見た映画の中のスターや自由な若者の生活に憧れたのは私だけではないのではないか
と思われます。そして、いつかは自分もそのような華やかな生き方が出来るのではないかという希
望をもって「シェーン」・「真昼の決闘」・「大いなる西部」などのアメリカのヒローや「エデンの東」
・「草原の輝き」・「太陽がいっぱい」などの人物になり切って映画館を出てきた思い出が今でも甘
美に蘇ります。

■ また、私は映画からたくさんのことを学びました。舞台になっている場所の気候や風土、建築
や都市空間、人間の機微、服装や色彩や配色、その他現実の世界を超えて想念の世界で遊び楽しむ
ことが可能であります。さて、みなさん一緒に映画館を訪れ、青春のあの日を呼び戻しましょう。



シネマクラブのおしらせ 2004/5/1
(仮称)シネマクラブ発起会のご案内

 今年の2月7日の新年会にて、(仮称)シネマクラブを発足することをお知らせし会員を募りま
したが、忙しさにかまけて既に3ヶ月も過ぎてしまいました。しかしこのところの爽やかな風と勢
いよく伸びる若葉の緑を見るに付け小生も元気が湧いてきました。

 さて、現在の会員は女性11名、男性13名の合計24名(別紙会員名簿)になりましたので、
これからの会の方針と組織について話し合いたく下記の日時・場所にて発起会を催したいと思いま
す。皆様におかれましてはゴールデンウイーク中家庭サービスで疲れた身体と頭を、昔の懐かしい
シネマの話などを肴に飲みかつ食べて癒したいと思いますので、万障お繰り合わせの上ご出席のほ
どをお願いいたします。

■ 日時:5月8日(土)  PM:1:00〜
■ 場所:千代田区神田小川町2−12 進興ビル B1F
     「うすけぼ〜神田店」
     TEL(03)3233−1271
     (古賀和彦の名前で予約しています)
■ 会費:5,000程度(食事・飲み物込み)

 活動方針の案として下記に示したものの他にお気づきの点がありましたら、当日ご提案ください。
  □ 組織(会長・副会長そのたの役割分担を決める)
  □ 年会費(年額1,000円〜2,000円程度)
  □ 活動方針
    ・飯田橋のギンレイホール(名画座)のグループカード(30,000円/年)の活用
     について。(個人的には小生が1枚購入していますので、これを採用するかどう
     か検討)
    ・持てあました無料招待券(映画・絵画・演劇・音楽会)の提供と斡旋
    ・「さしあげます」「いただきます」の情報欄をホームページで立ち上げる
    ・「よかった」「愚作だった」などの映画感想をホームページ等で発表する。

■ このお知らせは会員の方には別途会員リストを添えて封書にて郵送しました。
■ これから新しく入会する人歓迎します。
■ 会員およびこれから入会したい方は今回の発起会への出欠をE−mail・電話・
  はがきその他にて5月6日までにお知らせください。

  連絡先:TEL 03-xxxxxxxx
      E−mail:kxxxx.co.jp   古賀和彦まで



golden weekについて   2004/5/5
 英語にはgolden wedding(金婚式)/golden years(退職後の老後 - 通例65歳以降をいう)という
言葉はありますが、goden weekなるものはない、これは和製英語であります。
昔、この連休の期間に大いに映画を見ようというキャンペーンで使われた言葉で、私もそれに義理
立てしたわけではありませんが、昨日「ぼくは怖くない」というイタリア映画を見ました。貧しい
南部イタリアの田舎の少年の物語で、広大な金色に染まった麦畑が印象的でありました。次回は「パ
ピヨンの贈りもの」を見る予定、銀座テアトルシネマはこんなすてきな小品を上映しています。
一度出掛けては如何?



(仮称)シネマクラブ発起会のご報告 2004/5/10
去る5月8日(仮称)シネマクラブの発起会を開催しました。
会員は女性11名、男性13名合計24名になりましたが、当日は10名の出席を得ました。(そ
りゃースクリーンの美女、美男子も真っ青になるような御仁ばかりでした)うまい食い物と美酒の
手助けをえて、真剣に討議を重ねました結果次のことを決定しました。

■会の名称を次の二つに絞って、会員の皆さんの意見を勘案して決定することにしました。
  第1案:クラブ・シネマ1000(「クラブ死ねません」の意、シネマを1000回見終わらなけ
      ればしねませんの意)
  第2案:Cinema de Joy(シネマで楽しもう、死ぬまで楽しもうの意)
■年会費は1,000円
■世話人:田村道子・徳永信子・的野久子・古賀和彦
■映画の好きな人、飲み会の好きな人など新入生を歓迎します。

早速近藤君がわれわれのロゴマークを作ってくれましたのでギャラリーに紹介します。



Cinema de Joy  2004/7/2
昨日見た映画[25th Hour]の報告ありがとう。またその的確な評に感心しました。
ところで一つ提案があります。
映画の評価及び皆さんへのお勧め度として☆印のよるジョイ・ポイントを記したらどうでしょう。
ちなみに昨日の映画は小生の独断と偏見によるジョイ・ポイントは☆☆☆☆・・・。



正式名称決定!! 2004/5/28
(仮称)シネマクラブの正式名称が決定しました。     2004.5.28

クラブ・シネマ1000とCinema de Joyのどちらかにするかの意見を問い、
5月20日に締め切りましたところ下記の結果になりましたので報告します。

投票総数 11名 (男性5名、女性6名)
クラブ・シネマ1000(クラブシネマセン・死ねません)     4票
Cinema de Joy(シネマでジョイ・死ぬまでジョイ)  7票

クラブ・シネマ1000もなかなか含蓄があり捨てがたいもので後ろ髪を引かれる思いでしたが、
Cinema de Joyに決定しました。
これからは映画を通して皆さんとの交流を深めたいと思っていますので、活動にどしどしご参加
ください。

余談:投票の結果を眺めていたら、クラブ・シネマ1000に投票した人は男性がほとんどで、
   Cinema de Joy は女性が多いことに気づいた。

   企業戦士として日本の経済を支えて来た男の義務と責任を担うという信念をいまだにまだ
   引きずっていて「まだやり遂げるためには死ねません」と自分を叱咤激励する姿が浮かんで
   来ませんか。

   一方女性の方は「今楽しかったら幸せ」、不確定な将来のことなど知りませんとばかりに楽
   天的に見えてくるようです。

   多田富雄著の「生命の意味論」によれば、人間は二十二対の染色体と性に関する一対二本の
   合計二十三対の染色体を持っている。女性はX染色体を二本、男性はX染色体一本とY染色
   体一本を持っている。

   ところが人間はもともと女性になるべく設計されていて、よけいな回りくどいやり方で無理
   矢理男性にさせられているという。人体の基本形は女性であって、男はそれを加工すること
   によって作り出されているわけである。
   だから旧約聖書による「イブはアダムの肋骨から生まれた」というのではなく「イブの肋骨
   からアダムが生まれた」というのが正しいのでは?

   人間の生存に必要な遺伝子を含む非常に大きいX染色体を二つも持った女性と、ただ男にな
   るだけの役割しかないひ弱なY染色体を持った男性との生命力の勝負は、文句なく女性が栄
   冠を勝ち得ていることは男性より長寿であることを見ればたしか。

   データから以上のような結論に達したのだが、皆さんはどう思いますか?



隠し剣鬼の爪 をみました 2004/12/13
昨日有楽町ピカデリーで「隠し剣鬼の爪」をみました。
いい映画でしたが何点かの疑問がのこりました。
1.先に公開された「たそがれ清兵衛」に筋が酷似。同じ藤沢周平の作品だから部分的に似るのは
  しょうがないが、あそこまでそっくりさんの映画をつくるということは、柳の下のドジョウを
  狙ったととらえられてもしかたがないのでは?
2.武士の魂を大事にする生き方なら、決闘の相手を嵌めるような業を使ったことへの葛藤はない
  のか?「隠し剣鬼の爪」は結局どういう業だったのか?
3.悪家老の暗殺を私憤のみで正当化出来るのか?

以上の疑問にだれか答えを教えて・・・。
「烏のかって」ですがどちらかを既に観た人はもう一作は観ない方をおすすめします。



理屈っぽいついでに! 2004/12/15
疑問に残っていたあの技が判りました。
今朝、なにげなくあの「隠し剣 鬼の爪」の技はいったいなんだったのだろうとつぶやいたら、そ
ばにいたカミサンが「悪家老を暗殺した技よ」と事も無げに言ったのであります。そうか小柄を指
の間に挟み鋭く突き上げ家老の心臓を一突きにしたあの技(鬼の爪のように見える)だったのだと
小生は不覚にもいまごろ納得したのであります。

これからは、小生の隠し事をすべてお見とうしの技をカミサンは会得していることが判明し、
ゆめゆめ油断は禁物という結論にいたったのであります。
?



60α編集部:2014/02/23(日) 17:23:18
偏西風/ 夜間飛行
.
            偏西風 ペンネーム 夜間飛行 2009  万華鏡より




偏西風−夜間飛行 2009/1/1

 新しい年が明けました。まずは経済的にも政治的にも未曾有の激動の年になるでしょう。
私の頭の中にできあがった価値観を見直し、修正し、新しい規範を作るべく努力するには
とっておきの社会情勢となったわけです。本来は世紀末のバブルが崩壊してから五年後の
2000年という切りのいい節目で20世紀という時代を総括し、新たな価値観を探し当
てていなければならなかった。しかしそれも10年遅れた訳です。拝金主義の亡者による
投機的な経済行為がはたして正当性があるのか、少子化がはたしてすべて悪なのか、飽食
や虚飾や既得権に守られた古いシステムや考え方がこれからの世の中で存続できるのか、
国民が許容できるのか等々・・・。
 さて新しい年の始まりにあたって、コラム名を「激辛戯評−磁気嵐」から「偏西風−夜
間飛行」に改めましょう。なぜなら「激辛戯評」ではテーマが限定されるし、勢い憎まれ
口に傾きます。しかも「磁気嵐」ではどうもホームページ荒らしの印象を与えて来たみた
いで、投稿した後は妙に沈黙を誘い、白け鳥の舞うところとなりました。また少数の人を
除き反論も賛同も得られない寂しさを味わいました。ミーハーの環境一辺倒になることを
懸念してのもので、苦いこと・まずいことなどの敢えての問題提起はそれなりに効果はあ
ったと自負していました。
 昔、日本航空の提供で「ジェット・ストリーム(偏西風)」という深夜のラジオ番組が
ありました。フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの「ミスター・ロンリー」
の曲でが始まり、城 達也の魅惑的な声に乗って様々な美しいイージーリスニング音楽を
知りました。そしてエンディング曲は「夢幻飛行」で終わった。私は見上げる満天の星の
煌めきと地上の人の営みに心馳せて飛ぶ「夜間飛行士」になって、これからは余り不興を
買うことは控えて昔の心やさしい自分に戻りましょう。

          

 「帽子にまつわる話」
◆今丁度、O氏から借りてウイリム・アイリッシュの「幻の女」を読んでいる。
 未だ殺人犯の名前は判らないが、狂言回しになった女の燃えるようなオレンジ色の帽子
 がキーポイントである。また以前、男の帽子という書き物を読んだことがあった。昔か
 らある男の装いに背広やでネクタイや帽子があるが、不思議なことに現代は帽子だけが
 廃れてしまったという。確かに私の父は生きている間、外出するときはソフト帽やチロ
 ル帽を被って出かけていた。あの年代までは他人の前に出るときの装いとして、一種の
 自分の気持ちに普段と違うと いうけじめをつけるための儀 式だったのだろう。

◆河野多恵子の「後日の話」の 内容は、十七世紀のトスカー ナ地方のさる小都市国家
で、 結婚生活二年にして、思いも かけぬ出来事から処刑される ことになった夫に、
最後の別 れで鼻を噛み切られ、その後 を人々の口の端にのぼりなが ら生きた、一女
性についての 話である。その夫は麦藁帽子 業者カタラーニ家の長男ジャ コモである。
 その小説に描かれたイタリアの麦わら帽がどのような物なのか、カンカン帽あるいは中
 折帽子か判断がつかないまま、数年前にイタリア旅行に行った時に私はそのような店を
 探して買ってくるつもりであった。しかしベネチアでもフィレンチェでもローマでも見
 つからなかった。そして目的を諦める決心が付いたのは、歴史に埋もれて未だ古い仕来
 りを守っている古都の街角で、帽子を被っているイタリアの紳士を全然見かけることが
 なかったことである。私は確実に時代は変わったのだなと悟ったのである。

◆しかし、今この写真にあるようにパナマ帽とサングラスという時代錯誤のジゴロ風の格
 好は、好むと好まざるに関わらず私にとって「必要悪」になってしまった。さて、ジゴ
 ロ(仏gigolo)は、女から金を巻き上げて生活する男、女に頼って働かない男、または
 女にたかって生活する男のことをいう。転じて「男娼」「ヒモ」「スケコマシ」「男妾」
 を指す言葉である。とWikipediaにある。
 昔、私は密かに「髪結いの亭主」を目指していた野望は砕かれ今は確実に立場は逆転の
 身となってしまった。頭の毛が薄く真夏の太陽の輻射熱には耐えられず、加齢による目
 は明るい光線に晒されて白濁した世界のなかに漂い、覚束なげに歩く有様である。

 「まあ!何て事でしょう!!」
 あけましておめでとうございます。今日は富士山がよく見えました。雪の表面が氷のよ
うにつるつるに光って見えます。山荘からの眺めはこのように赤松や椚が大きく育ったた
めによく見えません。しかしそれはそれで林が健全だということですから我慢しましょう。
さて、今年はひとつ乗り遅れないように合評をしたいと思っていますが、早速このていた
らくで、這々の態で走り出したバスに飛び乗ったところをみると、やはりいつもと同じに
なりそうです。
 まず、意表を突く表題がなかなかいいですね。さてこれから何が起きるかと興味津々に
なりました。そして彼岸の世界に飛んでいく話に時空を超えた広がりを感じました。抜粋
とあるから当人同士はもっともっと長い会話を楽しんだのでしょう。
 人と人の繋がりを縁とか絆といいますが、苦しい時、楽しい時、同じ時間と空間のなか
で経験した者同士は、宝物のような幸せな記憶が残ります。だから少しでも心を通わした
人たちと再会するのは、己の生きてきた証を得たようなこの上ない満足が得られるのでし
ょう。彼岸での男同士の思わぬ出会い、かたや現実の世界では夫人同士の思わぬ出会いが
折り重なって見事なタピストリーを視るような思いをしました。

          




 イスラエルのカザ地区への空爆のこと 2009/1/4

 ますます紛争は拡大して地上戦に移りそうです。これは吟遊視人さんのいう通り全く理
不尽なことです。このようなことを許している欧米の正義とやらは突き詰めれば国益が最
優先のものでしかないということが判ります。
今日に至ったイスラエルの問題は二つあると思います。
 一つは、紀元前721年「北王国イスラエル」が、アッシリア帝国に滅ぼされてアッシリ
アに捕囚され、紀元前586年には「南王国ユダ」も新バビロニアに滅ぼされユダ王国の民
は「バビロン」に捕囚される。それ以来亡国の民となって世界中に散らばっていく。しか
し国々での土地の所有を許されない根無し草の生活は、勢い金融や学問や音楽などの芸術
に向かっていった。その土地の者はよく考えてみれば、土地を耕したり物を生産したりす
る自分たちよりもユダヤ人が経済や学問や芸術の世界を支配して上流の生活に収まってい
るのに気づいた。そこからユダヤ人への差別と排斥の感情が生じた。ユダヤ教という戒律
の厳しい宗教で結ばれた排他的な人たちではあったが。決してユダヤ人がその国の法を犯
すような人たちではなかった。
 二つ目は、第2次大戦のあと欧米の国々は、国内で行われていた差別や排斥などの罪の
意識と、経済や学問や芸術の面での隠然たる支配にたいする恐怖もあって、一種の厄介払
いの思惑もあって、数千年も前のユダヤ人の国家であったイスラエルに再び建国させたの
である。そこにはパレスチナ人がすでに長い年月住み着いていたにもかかわらずである。
当然ユダヤ人とパレスチナ人の人口や経済的な力関係のバランスが崩れるのも意に介さな
いで・・・。だからイラクやソマリアやルワンダやケニヤの紛争の責任はすべて帝国主義
を標榜して世界を蹂躙した大国のエゴによるものである。しかしそれにしても今のイスラ
エルはアメリカという老虎の威を借りた狐のようではありませんか。
 とまあ、このように吟遊視人さんが心配されるまでもなく、アンチ体制、アンチ常識、
アンチ仲良し主義の臭いは捨てた訳ではありませんので。



 偏西風−再びガザ攻撃について 2009/1/8

 まさしくこの攻撃は屈強の大人がよその人の赤子の手を捻るようなもので、誰が見ても
非はイスラエル側にあるでしょう。建国以来イスラエルが行ってきた不条理からすれば、
たとえパレスチナ側のロケット砲による抵抗が続いているにしても、正規軍が領土を蹂躙
することは行き過ぎている。
 吟遊視人さん、抗議ということで何か我々のできることはありませんか。たとえばイス
ラエル本国や大使館やブッシュ宛に直接抗議のメール送りつけるとか。



 偏西風−イスラエル問題 2009/2/9
 望遠鏡氏が書かれた影の権力者−5 は良く調べられたもので、私のように多忙な者に
とっては非常にありがたいと感謝します。ただ私の投稿文だと思われるものにたいするコ
メントがあり、少々言わんとするところを十分説明、その意を汲んでもらってないような
感じを持ちましたので少し釈明したいと思います。
 1.「第2次大戦のあと欧米の国々は・・・数千年も前のユダヤ人の国家であったイス
  ラエルに再び建国させたではありません」にたいし:私は欧米諸国がユダヤ人に正式
  に建国を奨励し承認したとは書いていません。ユダヤ人の違法な移住を制限すること
  が出来なくなって黙認したという意味で書いたわけです。
 2.「イスラエル人の入植を制限したイギリスに対して、イスラエル人はテロ行為をし
  ててその権利を獲得でもなく」:これもまた彼等が入植する正当な権利を獲得したと
  いうことを言ったわけではありません。ただユダヤ人が、パレスチナ人のロケット砲
  攻撃や自爆テロなどの行為にたいして、いかにも己の側に理があると一方的に非難す
  ることは出来ない。自分達もかつてイギリスにたいして行ったテロ行為があったにも
  関わらず、敵前から五十歩逃げ出した者がはたして百歩逃げ出した者を蔑むことがお
  かしいと言いたかった訳であります

 以上点が私の言わんとすることでありました。望遠鏡氏が言われるように、亡国の民が
長い間自分の国を持つことを希求した経緯は私にもわかります。しかし私の今回の問題の
一番重要なことは、イスラエル国家の建国に当たって、何百万という不法なイスラエル移
民が先住のパレスチナ人を差別・虐待した歴史であります。
 飛躍した例を許してもらうとすれば、歴史以前に南方や中国や朝鮮などから渡來して来
て、混血によって生まれた日本人とその領土に、昔の祖先のルーツを頼って大量の不法流
民が進入して来て力を持ち、現に住んでいる国民を北海道などの辺境の土地に閉じこめた
想像してみてください。イスラエル建国では、古代や中世ならともかく近代になって起き
たのことを私は憤っているのです。
 最後に、望遠鏡氏の「ユダヤ人は驚嘆すべきことをやり遂げた民族です」と書かれてい
るのを見ると、ユダヤ人のその行為を賛美しているように聞こえてきますが、私だけでし
ょうか。それとも少々の皮肉を込められているのでしょうか。
そして、詳細な資料による考察を提示と、「皆さんの漠然とした案を補正出来れば」とい
う考えには納得できますが、最終的にこの資料に基づいて己がどのように判断したかを期
待する私は、いつも肩すかしを食らっているような思いがしています。



 偏西風−「言魂」を読む 2009/2/15

 図書館にずっと前に予約していた「言魂」が、待つこと26番目でやっと私の手元に届
いた。そして今日読み終えた。石牟礼道子さんと、夛田富雄さんの間で交わされた往復書
簡集である。
 老人医療に関する医療費カットに怒り、忿怒仏と化した夛田さん、水俣病を長年告発し
てきた石牟礼さんが「新作能」を通して、この世の不条理を訴えている。それらの能には
最終的に救いが描かれているのか、見ていないので私には判らない。
夛田さんは長崎や広島の原爆を題材に「長崎の聖母」やアインシュタインをモデルにした
 「一石仙人」、水俣病を描いた石牟礼さんの「不知火」などであり、常に虐げらている
弱者の側に立って問題点を訴え続けている。
 夛田さんや石牟礼さんが憤るように、今現在のいろいろの不祥事や政治や官僚システム
の破綻で生じる国民に与える不利益にたいして、国や企業の対応の不誠実さは目を被うば
かりである。なんとかせにゃーいかん!!



 偏西風−草なぎ君 2009/4/25

 この頃は警察もマスコミも妙に頑張って働いているようだ。
今日の新聞に面白い川柳が三つあった。
      マスコミもよってたかって裸にし
      これしきで世には巨悪があるでしょう
      鳩時計時刻以外に顔を出し
 草なぎ君の行為は大人としては褒められるものではないが、これ見よがしに逮捕するほ
どのことはあるまいに。深夜に多少の騒音をまき散らし近所に迷惑をかけたことは確かだ
が、盗みや強盗などといったように直接人に危害や損害や恐怖をあたえた訳でもあるまい。
世の中にはもっと悪質な犯罪はそこらじゅうに転がっているが、まともに取り締まったこ
ともないのにねぇ。たとえば暴走行為などは実行犯でありながらほとんど野放しの状態で
あり、万引き犯も逮捕したりしなかったり。駐車違反や私物による公道の占拠等々・
 マスコミも何が本当に問題にすべき報道かを検証することを止め、ただ視聴率を上げる
ためにだけに血眼になっているようだ、テレビなどは食えないゲーノー人(芸NO人)や、
政治家を目指す売名タレントのためのものかと思われる番組でいっぱいである。それも教
養という目くらましを被せた物知り競争もの、しかし普通使いもしない知識や判じ物や、
外国語の当て字の漢字を知っていることが何になる。もっと考えなければいけない大事な
ことが身の回りにはいっぱいあるだろうに。どうも年を経ると世の中の軽薄なものが目に
ついて、しっとりとした悠長な大人の文化が失われて行くのがちょっと寂しい気がする。
これも今のニッポンが平和な証拠なのかも知れないのだが。



 偏西風−朝三暮四の故事ににたり 2009/6/30

 選挙も近くなって与党の皆の衆は周章狼狽の体で、国民の関心を買うため何でも有りの
買票政策をしている。いつもは天下国家の高説もどこえやら、己の当落をのみを危惧する
みっともない姿の御仁ばかりが目立つこの頃である。だから、我々は定額給付金や高速道
路値下げやエコポイント等の、一見国民の得するような政策をばらまくという、あからさ
まな朝三暮四の企みを見抜き、それに乗せられないように気をつけようではないか。
 自民党は覚悟して一度野に下った方がよい。元首相や長老や派閥の領袖などの古びた革
袋の中身は処分して、若手の中にはまだ有望な人材があると見えるから、新しい革袋と酒
を仕込んだほうがまだ未来が望めるからである。選挙に勝つ為の奇策としていまだ真価の
判らない、単に人気のある地方の長に三顧の礼を尽くすような筋書きは、阿呆総理の好き
なマンガとしては秀逸なできである。
 東国原知事の総裁云々の話は、彼のあくなき権力志向という野望がチラチラと垣間見え
てくるようで、単純に拍手喝采とはいかないようだ。地方分権が住民参加による自治とい
う民主主義の根幹をなすものだから、彼の目指すところは間違っていないと思う。しかし
国家の長となるには、未来世界への平和や環境や経済の難しい問題への理念と展望を、は
たして持つだけの器がどうかは疑問がある。
 お笑い芸人の路を歩んだだけあって、民衆の不満や要望にあざといく対処するテクニッ
クはさすがに見事ではあるが、受け狙いの目先の話題や損得ではなく、本当に必要な難し
い問題を地道に解決出来るかどうかが問われるだろう。
朝三暮四:三省堂国語辞典より
〔「列子(黄帝)」などに見える故事。狙(そ)公(=猿回し)が猿にトチの実を朝に三つ、
暮れに四つ与えると言ったら猿が怒り出したので、朝に四つ暮れに三つやると言ったとこ
ろ猿が喜んだというもの。狙公橡(とち)を賦(くば)る〕
(1)表面的な相違や利害にとらわれて結果が同じになることに気づかぬこと。
(2)うまい言葉で人をだますこと。



 偏西風−臓器移植について 2009/7/3

 今朝の朝日新聞のコラムに柳田邦男氏の臓器移植改正法案についてのコメントが載って
いた。それは脳死状態の次男の臓器提供に悩んだ経験のある柳田氏が、参議院厚生労働委
員会での参考人としての意見を問われたものだ。衆議院通過したA案は全ての人の脳死を
死と判定する法案である。
 柳田氏は脳死を死と認める人と、そうでない人がいて、まだ社会全体のコンセンサスが
得られているとは言えない。もう少し社会の成熟を待つべきだと結んでいる。世界の情勢
として脳死は死であるとすることと、日本的な「人一人の人生と死生観を大事にするとい
う」脳死を死と認めないというダブルスタンダードは新しい文化のあり方であり、日本が
持っていたあいまいさの良さを残してもいいのではないかと言っている。
 それにつけても、TVタックルで河野太郎議員が顔を真っ赤にして、臓器移植法案のA
案になぜ反対するのか「引き延ばしている間に、移植を待っている患者の何人殺せばいい
のか、これは殺人だと」と激高していたのが印象に残る。提供する側の親は脳死でも心臓
や肺は動いているのに死と認める訳には納得がいかない。移植を待つ患者側がそれを承知
でまるで権利のごとく声高に主張するのはちょっと違うような気がする。死んでいく命と、
生き延びる命に優劣は付けがたく、権利や義務の関係を発生させるような法を拙速に作る
ことに違和感を感じた。たしか生物学的・倫理的・医学的にも難しい問題ではある。



 偏西風−政争を観劇して 2009/7/24
 麻生内閣を支持する人と麻生下ろしを画策する人達のバトルの顛末を見て感じたこと。
岡野加穂留氏のホームページに次のように政治家を分析していた。
政治家(Statesman)が全体のわずか5パーセント程度で、いわゆる政治屋(Politician)が10
パーセント、自己の利益のみにうつつを抜かしている政治業者(Political Wheeler Dealer)
が、残りのおよそ85パーセントというのが実態だと思います。
まず政治屋や政治業者の資質として
◆体力:バリケードを張られても強引に突破することのできる体力。
 どんなに忙しくても、どんなに些細な関係でも冠婚葬祭に出かけて顔 を売ることので
 きる体力。
◆二枚舌:イソップ物語の中の蝙蝠のように鳥が戦争をしたとき、コウ モリは動物の陣
 営に行って、「私は鋭い牙とフサフサとした毛が生え ていますから、私はあなた方の
 仲間です」と言っておきながら、鳥の 陣営では「私にはこんなに立派な羽が生えてお
 り、飛べますから皆さ んの仲間です」と嘘を平気でつき、有利な方につくこと。
◆二枚腰:相撲や柔道で、一度腰が折れたようでも砕けずに立ち直る粘 り強い腰。いく
 ら自分が間違っていても素直に認めようとせず、ああ でもないこうでもないと言い張
 り、しぶとく居直ること。
◆恥の感覚:いくら恥をかいてもそれがきちんとした大人としての感覚 を持っていない
 こと。自分の辞書に載せない人。
◆金に貪欲であること:
まず政治屋や政治業者に向いていない人
◆知力:ものごとを深く考えることの出来る人
◆誠実:一枚舌の人
◆羞恥心:天に向かって唾を吐くようなことを決してしない人。
◆高い理想:現実的な問題の解決に努力はするが、遙か向こうに高い理 念を抱いている
 人。
◆品位:貧しても貪にならず、泰然自若の人。
◆金に執着がないこと:藤山 愛一郎のように井戸塀も辞さない人。
とまあ、どこかのお寺で配っている「べからず集」・「すべき集」みたいになってしまっ
たが、反麻生内閣の連中の意気地のなさ、シャンシャンと手拍子で、握手で終わるシーン
を見ると、潔さ、やせ我慢だけで自己主張せざるをえない者にとって、下手な猿芝居を見
ているようでおおいに落胆したものだ。



 余酔・余聞−地球の話余酔・余聞−地球の話 2009/8/8

 ブレイクの時間になったと聞いて、気楽な話を投稿したいと思った。余酔とは二日酔い、
余聞とは巷に転がっている役にも立たない噂話、ようするにほろ酔い機嫌のいい加減な法
螺話をして気晴らししたいというジコチューな考えである。
 ふっとある時地球はどちらの方向に回転しているでろうと考えた。西に向かって回転し
ているのであろうと今までは思い込んでいたが、そうではなく東に向かって赤道では時速
1万7千km/hで回転しているのだ。そうでなければお日様が東から出て、西に沈まぬ
訳がないからだ。
 そうなるとまた疑問が湧いてきた。どうして天気は西から東に移って来るのだろうとい
うことだ。赤道近くは逆に西向きに風が吹いているが、北極や南極に近い所はいわゆる偏
西風が吹いている。だから雲や雨は地球の回転以上の速度・風速10万8千km/hで東に
向かって走り去っているいるからだ。その偏西風の発生のメカニズムを理解するのは私の
頭ではとうてい無理だと諦めた。

?



61α編集部:2014/02/24(月) 20:36:24
シネマの話2
.
          シネマの話2 2007-2010





『手紙』?? 2007/3/8
飯田橋のギンレイ映画館で久しぶりに邦画を見た。東野圭吾原作・生野慈朗監督・
山田孝之・沢尻エリカ主演
兄は弟を大学にやるための学費欲しさに、謝って人を殺してしまい、弟は兄の事件が発覚
する度に差別を受ける。服役中の兄への手紙をベースに物語は進み、加害者側と被害者側
の精神的な苦しみを描いた秀作である。
派手な場面や無理な演技もなく、山田孝之・沢尻エリカの二人もなかなか良い俳優だ。
久しぶりにその切なさに涙がでたね。



映画「ローマの休日」の中で  2007/10/18

◆ イギリス名詩選の中にも、あまりにも直截過ぎたり散文ではないかと思う、これでも
  詩かというものがある。トマス・キャンピオンの「誠実な人間」とかアレクサンダー
  ・ポウプの「隠栖の賦」等々。だが口ずさむと英語独特の韻を含んだ心地よい言葉や、
  我々日本人には判らない感覚があるのかもしれない。
◆ 先日山荘でイタリア旅行でのローマの名所を懐かしく思い、映画「ローマの休日」の
  DVDを見た。その中で、グレゴリー・ペックの部屋を訪れた王女オードリー・ヘッ
  ブパーンが口ずさんだ詩を二人で言い争ったシーンがあった。いやこれは「ジョン・
  キーツ」だ、いや「アルフレッド・テニスン」だと言って。いつかもう一度そのシー
  ンを見て誰の何の詩であったか探したいと思っている。



『マイ・ブルーベリー・ナイツ』 2008/3/30

◆いつものようにポプコーンを頬張りながら日比谷スカラ座で「マイ・ブルーベリー・ナ
 イツ」という映画をみる。ちょうど有楽町あたりの高架下のカフェを舞台にしたような
 ニューヨークの若者の恋愛物である。なかなかの秀作であった。
  解説:恋人に捨てられたエリザベスは彼のことが忘れられず、彼の行きつけのカフェ
 に乗り込む。そんな彼女を慰めてくれたのは、カフェのオーナー・ジェレミーと、甘酸
 っぱいブルーベリー・パイ。それからのエリザベスは、夜更けにジェレミーと売れ残り
 のパイをつつくのが日課になる。しかしそんなある日、彼女は突然ニューヨークから姿
 を消す。恋人への思いを断ち切れずにいたエリザベスは、あてのない旅へとひとり旅立
 ったのだった…。
◆空間の犯罪・・・武田泰淳、火の記憶・・・・松本清張を読む。
◆湯島図書館より岩波書店「科学」を借りる。



ホームページの名称案  20084/16
◆私は「ニューロン・カフェ」がいいな。
 ニューロン(neuron)とは、脳の中にある神経系を構成する細胞で、その機能は情報
??処理と情報伝達に特化しており、動物に特有である。
 随分昔『バクダット・カフェ』という映画があった。イラクのバクダットにあるカフェ
 かと思いきや、ラスベガスとロサンゼルスを結ぶ道筋にあるモハヴェ砂漠のはずれにあ
る、取り残された様な寂しげなモーテル「バクダット・カフェ」での話である。懐かし
いかの有名な『シェーン』で悪役を演じたジャック・パランスや、『制服の処女』の
クリスティーネ・カウフマンなどの往年のスター達が出演している秀作だ。ジュベッタ
 ・スティールが歌う主題歌“コーリング・ユー”も哀愁があって忘れがたい。
 そのようなカフェに立ち寄る様々な人々が持ち込む、過去や現在や未来の情報を現代の
「井戸端会議」を楽しもうではないかという意味を込めた名称であります。



『僕の好きな先生』  2008/4/23

2002年のフランス映画。
 フランス中部オーベルニュ地方にある小さな小学校に集う13人の生徒とその先生との
生活を追ったドキュメンタリー。子供たちをたった1人で教育するジョルジュ・ロペス先
生は、あと1年半で退職する。
 先生の生徒に対する姿勢や、それを追うカメラの視線がとても優しいのが印象的だった。
先生は終始穏やかで、生徒が言うことをきかないときも、争ったときも、頭ごなしにしか
るのではなく、どうしてそういう行動をとったのか丁寧に問いただし、厳しい言葉で、し
かし優しく穏やかに戒める。
 決して強請はしない、決して答えを出すのを急がせない。子供が結論をだすまで根気よ
く待つという教育の原点を見たような気がする。



『ミリキタニの猫』 2008/7/3

 久し振りにシネマ・デ・ジョイの映画鑑賞につきあった。ここギンレイは6年程前、神
楽坂界隈を散策したときたまたま見付けた映画館だ。その後「CINEMA・DE・JOY(シ
ネマ・デ・ジョイ:シネマを楽しもう、死ぬまで人生を楽しもう)」という同好会をつく
るきっかけになったもので、そのときの日記を取りだしてみた。
 飯田橋の神楽坂をもう一本後楽園へ寄ったところに軽子坂(かるこさか)という路地が
ある。その坂の由来は知らないが、横町を曲がったすぐの所に一軒の映画館をみつけた。
約200席のいわゆる懐かしの名画をみせるという場末の小さなもので、そこは貧乏学生
時代のノスタルジーを彷彿させるに十分な面影を残していて、昔を懐かしむような老年の
人たちや若い学生といった客筋で満ちていた。よき時代の雰囲気がいまだ廃れず存在する
んだなーと嬉しくなった。いままでに「トークツーハー」や「シッピング・ニュース」
「ぼくの神様」「灯台守の恋」「ぼくの好きな先生」「あなたになら言える秘密のこと」等
の商業ベースにのらないような秀作の小品を沢山みた。一年間に50本ほど上映している。
 さて本題の「ミリキタニの猫」について一口でいえば80歳になる日系2世のミリキタ
ニ(三力谷)のドキュメンタリー映画である。女性のリンダ・ハッテンドーフ監督が引き取
って同居し、8年掛けて制作したものである。そこには猫を画くことの好きなミリキタニ
という放浪画家が体験を通して培われた、米国社会にたいする反骨精神に貫かれた生き方
が描かれている。
 「原爆」や「ツールレイク強制収容所」「世界貿易センターの倒壊」などのショットを
はめ込んでミリキタニの精神形成を視覚化し、いかに戦争が不毛であるかを問い詰める。
しかし、リンダ・ハッテンドーフ監督や廻りの善良な人達との交流をもとにその頑なさも
次第に解けてゆく。その最期の見せ場として、絵にはテーマとして描くけれど、何十年も
訪れることの無かった「ツールレイク強制収容所」に立って、「思い出は過ぎ去るだけ」
という言葉とともに、米国社会への頑なな反感を解きほぐしていく・・・という映画であ
った。
 かつて、同人αのルービン・良久子さんが「ツールレイク強制収容所」について書いた
文が有ったと記憶していたのだが、「斜光」や「同人α」の投稿文を全部探したが見つけ
ることができなかった。できれば良久子さんにその投稿カ所を教えてもらいたい。


沼南ボーイさんへ??2008/7/5

 ギンレイをご存じとは、同好の志ではありませんか。「シネマ・デ・ジョイ」はいつで
も入会を歓迎します。それはともかく「隣の第2ギンレイ」に疑問を抱き調べてみました。
たしかに同じビルの地下に「アダルト専門」の映画館があることは知っていました。それ
がそうなのかギンレイに問い合わせてみたら、経営は違うといいいます。名前は「クララ
館」、悩殺の姿態にクラクラするからでしょうか。沼南ボーイさんがあししげく通った映
画館がそこかどうかは判りません。
 そういえば昔渋谷道玄坂の途中に百軒店(ひゃっけんだな)という枝道がありましたが、
その突き当たりに正確な呼び名は失念しましたが、「渋谷SS」と「テアトルSS」とい
うストリップ劇場が隣り合わせにあったと記憶します、さすがは東京だと上京したばかり
の私は感心しまくったものでした。それからひまじんさん、軽子坂の言われどうもありが
とうございました。神楽坂界隈はヒューマン・スケールの町並で、生活小物などの店も多
く本当に暮らしやすい街だと思います。



『あの日の指輪を待つきみへ』??2008/7/27

◆東劇へ映画を見に行く。
 「あの日の指輪を待つきみへ」とういう日本の題名。いかがなものかという日本名を付
 ける洋画が多い。原題は「Closing the ring」シャーリー・マクレーン主演。



『コレラ時代の愛』?? 2009/1/27
 ガルシア・マルケスの原作を映画化した「コレラ時代の愛」

 久しぶりシネマ・デ・ジョイに参加して映画を見た。
ギンレイ映画館を5年ほど前に初めて発見した時よりも客は確実に増加していて、満席に
近い入りだった。この映画館の「[ギンレイ・シネマクラブ]に入会されますと、その日
から当館で上映する映画を1年間、何度でもご覧いただける[シネパスポート]を発行い
たします。日本で初めての磁気テープ付カードです。」という企画は着実に映画ファンに
浸透したようである。

 さて今度の映画のあらすじはO氏の解説のとおりだが、二つほど私にもどう解
釈したらいいかわからない場面があった。一つ目は男がやっと探し当てた恋人に話しかけ
ると、女は「いま私は、あなたと一緒になる気持ちがないことがはっきりと判った」と冷
たく言い放つ場面。もう一つは女の夫が亡くなって、徐々に男を受け入れるという精神状
態がわからない、その理由なり心情を女が言葉にしていない。




『久しぶりのロードショー』  2009/2/22

 9時50分朝一番の有楽町マリオンのスクリーン3で『チェンジリング』というアメリ
カ映画を見た。
『硫黄島からの手紙』などストーリーテリングには定評のあるクリント・イーストウッド
監督による感動作。息子が行方不明になり、その5か月後に見知らぬ少年を警察に押し付
けられた母親の真実の物語を静かなタッチでつづる。実生活でも母親であるアンジェリー
ナ・ジョリーが、エレガントだが強さを内に秘めた母親を熱演。1920年代当時、堕落し
たロサンゼルス警察が保身のために行った数々の非道な行動が、実際にあったという事実
にがく然とする。という映画評があった。



逆さまの世界 2009/3/30

 最近『ベンジャミン・バトン、数奇な人生』という映画による奇妙な筋の話題で賑わっ
ている。主人公は八十歳の老人として生まれ、だんだん若返って行くという筋である。ど
う考えても時間の矢が過去・現在・未来へと一方向へしか進まないという事実に反する物
語であるが、いろいろな違う世界を想像させてくれるからともかく面白いと思った。
私も以前からこの「逆さまな世界」について興味を持ち、表題を手帳に書き留めていたの
で、遅まきながら私の疑問点を否定的な考えというより、どうも自分の頭では答えの出せ
ない点を書き出してみたいと思う。
 この世界では理論的にパラレルワールドという、いま我々が生きている世界と全く同じ、
鏡に映った様な世界が現存するという説がある。それはビッグバンの時に正物質と反物質
がほぼ同数出現し、相互に反応してほとんどの物質は消滅したが、正物質と反物質との間
に微妙な量のゆらぎがあり、正物質の方がわずかに多かったため、その残りがこの宇宙を
構成する物質となった。そのため現在の既知宇宙はほぼすべての天体が正物質で構成され
ているのだ。それでもなお正物質と反物資の衝突を免れた反物質の世界があるという説で
ある。どうも実感としては納得いかないもので想像できないことではあるが。
 そこで、本や映画に描かれた逆さまの世界はどんなものか。

1.先ず時間が逆行する世界
 何もかも後ろ向きであるから、歩くのも後ろ向きなのか、食べ物は口から限りなく出て
 くるのか。
 「ベンジャミン・バトン」の主人公が八十歳の赤ん坊として生まれるという設定も、逆
 行する時間としては実におかしい。土に帰った原子や分子という無機質から八十歳の老
 人として生き返るべきであろう、という疑問がある。

2.上下左右が逆さまの世界
 上下や左右は相対的なものだから、この世界は有りそうである。
 小さい字がほとんど読めなくなったので、ルーペ専門店へ視力を補完する道具を求めに
 行った時、面白い物を見つけた。リバーサル・ミラーという名称の鏡で化粧するときに
 使うという店員の説明だった。最初その鏡に映った自分の顔を見たときに妙な違和感が
 あった。よく観察すると鼻の右側にある黒子が左に移っているのである。まさに他人か
 ら見た自分の顔が鏡に映っているのである。女性はこんな物が有るということはすでに
 知っているであろうが、化粧と関係ない私には驚きだった。そういえば三面鏡も理論的
 には同じなのだが、それが左右逆になっているとは細君から説明を聞くまではしらなか
 ったのだ。
 もう一つの疑問は、普通の鏡では上下が逆転しないのはなぜか。これは何となく私でも
 判る。足下に置いた水平の鏡の中では上下が逆転する、しかし左右は逆転しない。上下
 左右逆転する鏡ができるか?

3.夢の中の世界
 変な夢をみた。仰向けに寝て横書きの文章を見ていたが、苦しくなって横向きに体を変
 えた。そうするとその文章も水平ではなく、己の左右の目の方向に横書きの文字が並ぶ。
 これはどうしたわけであろうか。頭のなかでは上下左右の補正を自動的にしているらし
 い。絶対的と思われるの現実の水平、垂直の概念は脆くも崩れ去った。今まで頭の中に
 浮かぶものの位置関係を深く考えたこともなかったのだが、目をつぶって見るものはち
 ゃんと頭の方向に合わせて横向きに映るという、新しい現象の発見をした。
 まさに、現実と虚構(想念)の違いであり、もし目を覚まして見ている原稿と頭の中の
 文が同じ方向であったらもっとおかしいことになるだろうと思った。ものごとの知覚は
 現実そのものでなく、脳を通して認知することで、必ずしも見えたもののそのままでは
 ないということか。知覚の上で自分が自分を瞞したり、瞞されたりしているようでもあ
 る、不思議なことである。

4.携帯電話で画面を縦・横に変えてもいつも水平を保つ物がある。便利そうではあるが、
 夢の中のように横向きに寝そべって画面をみると、顔に平行にならないから返って不便
 な気がする。
 とまあ、「逆さまの世界」が理屈に合うか合わないかは、それぞれのものごとにより違
 うであろうが、今回は「ベンジャミン・バトン、数奇な人生」のお蔭でなかなか面白か
 った。今多迷道氏から「お前は屁理屈ばかり言う」とお叱りを受け、藤沢周平の描く剣
 の達人からバッサリやられそう。



『闇の子供たち』  2009/4/16

 映画「闇の子供たち」を見る。タイ・バンコクの臓器売買というシリアスなテーマの映
画であった。日本など裕福な国の難病の子供を助けるために、貧しい国の子供の臓器が売
買されている、しかも提供する子供は生きたまま健康な臓器を摘出されるので、当然その
子は死ぬことになる。ある子供が生きのびるためにもう一方の子供は殺されるというアン
ビバレント(二律背反)の不条理。原作は梁石日(ヤン・ソクイル)、「血と骨」は以前読
んだことがある。嘔吐を催すような強烈な生への執着をもつ作者の父の物語である。映画
を見た後パンフレットを読み返してなるほどと思った。この作家なら見逃さないテーマだ
と納得したのである。



『天使と悪魔』 2009/5/17

銀座シャンテシネ2に「」を見に行く。
 秘密結社・イルミナティによるヴァチカンへの復讐(ふくしゅう)を阻止するべく、ガ
リレオの暗号コードに挑む宗教象徴学者・ラングドンの活躍を描く。例によって激しいサ
スペンスと大音量の効果音にはいささか閉口したが次の二点については面白かった。

◆ヴァチカンを破壊するためにスイスのセルン研究所(実在する欧州原子核研究機構)で
 反物質を作る。物質と反物質が衝突すると対消滅を起こし、質量がエネルギーとなって
 放出される。これは反応前の物質・反物質そのものが完全になくなってしまい、消滅し
 たそれらの質量に相当するエネルギーがそこに残るということである 。1gの質量は約
 9×1013(90兆)ジュール のエネルギーに相当する。
◆我々にはヴァチカンの内部を見ることは叶わないが、このえいがでそれらの施設(膨大
 な歴史の資料質)やコンクラーベの模様などは興味深かった。



黒猫と青春の感想 2009/9/8

 先日、リチャード・ギア主演のハリウッド映画『HACHI 約束の犬』を銀座マリオンで
見た。「忠犬ハチ公」のリメークで、筋としては実に単純で判りやすい。しかし何年も戻
ってこない主人を待っている犬はじつにバカだなぁと思う一方、我ながらついホロリとし
てしまった。照れ隠しというつもりはないが、それが何故なのかと考えてみた。

 それはこの犬が主人に寄せる絶対の愛・無償の愛だからではないか。
乳飲み子と親の関係に通ずるものだが、児童虐待、尊属殺人などの社会現象をみていると、
もはやこの無償の愛は人間関係に求めることは難しく、動物と人間の間にしか認められな
い時代になってしまったのではないか。無償の愛は実は強者と弱者の間でしか成り立たな
いのではないか。
 弱者は庇護されなければ生きて行けないし、強者はその弱肉強食だけの生き方のみでは
殺伐としていて心が満たされず、弱者の放つ癒しのオーラ・生体エネルギーを必要とする
のではないか。だからこの世の中は強者ばかり、或いは弱者ばかりでは人間社会が衰退に
向かうのではないだろうか・・・と考えた。

 私の少年の頃は、犬、猫、兎などの動物との暮らしは身近にあった。屋敷が広かったせ
いか、迷い猫、迷い犬、迷う兎などが常にいた。今までのそれらの動物がいなくなると次
の野良が入り込んで来て、いつものように馴染んで住み着いた。猫の名前はだいたい安直
に「白」とか「黒」とか名付けられていたが、犬は柴犬などの雑種で赤犬がほとんどで代
々「ベル」という名前で呼ばれていた。猫も犬も顔中ひねくり回したり、髭を切ったり、
目がねを書いたりといった悪戯をされたにも係わらず、よくなついていた。だから、もの
言わない動物から癒される経験した私にとって、子供が動物に接する環境を与えてやれな
かったことが今悔やまれるのである。彼に弱いものに対する考え方が育ったかどうかが気
になるところではある。

 動物を擬人化した書き方が色々あって面白い。夏目漱石の猫は人間の行動や思考を鋭く
観察している。気むずかしい苦沙弥先生が雪隠で謡曲を呻ったり、隣接する学校の生徒達
がうるさいと大人げなく本気で怒ったり、寒月君の結婚に纏わる虚栄や功名心などの俗世
間の風潮を見聞きして「人間はなんと滑稽な生きものであるか」などとと揶揄している。
 この黒猫と青春はそんな揶揄や苦笑の目線ではなく、実に素直で暖かい目で描かれてい
るから気持ちいい。きっとみどりさんの廻りには無償の愛が溢れているんだと思った。
 最後に、私の感想が碇さんの江藤晋平の力作まで行きつけなかったことをお詫びします。
ごめんなさい。



*「当世グランマ気質」を読んで 2009/10/26???? *同人α21号掲載作品

この作品を読んで、「当世グランマ気質」とはどういうことを意味しているのか、私には
確たるものがつかめませんが、それはともかく良久子さんの創り出す情景描写は、私にア
メリカ映画のシーンを思いださせるものでした。そして書かれている地名を見るに付け、
またアメリカを放浪したいという心を掻き立たせました。
 ベルヴュー市の良久子さんのお宅を訪れたのはもう25年前になりました。シアトルか
ら湖の浮き橋を渡った美しい街でした。庭にあるリンゴの老木が印象に残っています。
 モンタナ は訪れたことはありませんが、長距離バスのグレイハウンドでソートレイク
からシアトルに行く途中で、近くを通ったような記憶があります。

 また『リバー・ランズ・スルー・イッツ』の舞台だったことを思い出しました。模範的
な長男とブラッド・ピットの演ずる破滅的な性格の次男を描いた、とてもいい映画でした。
 ヴァーモントは『ホワイト・クリスマス』という映画の舞台。
クリスマス・イブの日はいつもこの映画を私は見ます。アメリカの一番良い時代、そして
その豊かな暮らしや風景は私の青春時代の憧れの的でした。
 兎に角この作品はまだ若かりし頃の私の夢を思い出させました。有り難うございます。
そしてこのシーンのような時間、私にとっては親しい友人と昼食と一杯のビールを飲みな
がら過ごす時間が一番幸せな時間だと
最近は思えるようになりました。さて、これから目の修繕に行って来ます。



*「BUTTERFLY EFFECT」を読んで1 2010/2/10??????*同人α22号掲載作品

?? 私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では
結果; 効果; 影響??感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後ま
で読んでも表題とは結びつかなかった。
 そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

 さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開されたア
メリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
 そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小
さな波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないよう
な大きな波になるということを言うらしい。
 しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。これ
から二度三度読み返してそれについて−その2・その3−で考えてみようと思うが、まずは
とば口で一服・・・・・。



62α編集部:2014/02/25(火) 00:24:58
帽子考
.
                帽子考



?? 「私の七つ道具」の中に帽子が入っていた。
?? 確かに帽子に纏わる投稿と映像がたくさんあった。 (編集部記)





「帽子について」 2007/4/11

 2007.4.11朝日新聞の昭和モノ語りのコラムに 「帽子・男の[制服]」、規律の象徴と
いう文があった。戦前の男は全部帽子をかぶっていた。古い写真やフィルムを見ると男性
のほとんどが帽子を頭に載せている。中折れ帽、パナマ帽、鳥打ち帽、学生帽など。
 当時は帽子を被ることに正当な理由があったに違いない。暑さやまぶしさを防ぐためや、
上着やネクタイの様に礼儀正しさや身綺麗さを表すものだったのだろう。それは現在でも改ま
った場所での上着やネクタイ着用と同じだったのだろうけれど、今帽子だけが廃れたのはなぜ
か判らない。

 10年前亡くなるまで私の父はソフト帽を愛用していた。ちょっと改まった外出をすると
きは必ずグレーのソフト帽を被って出かけた。だからと言う訳ではないが私も帽子がすき
である。ベレー帽やハンティング帽、船員帽、カーボーイ・ハットや釣り用の防水ハトな
ど持っている。しかしかぶるのはなぜか恥ずかしい。細君から冷やかされるのが少々堪え
ているが、70歳過ぎたら平気になりそうな気がする。




「イタリア旅行記」より   2007/5/4

●  日本では野球帽や鳥打ち帽やニットの帽子を被る若者が結構いるが、こちらでは帽子
  被る人達をほとんど見ない。なぜなのかわからない。
  私は河野多恵子の小説「後日の話」のなかに出てくる帽子屋の話などで、イタリアに
  来たらきっと皆中年は帽子を愛用しているだろうと思って、自分も帽子屋を探して気
  に入った物を買って帰ろうと楽しみにしていた。
  しかし思いこみが外れてしまったらサッサとその気も失せてしまった。幻想を抱くと
  はそういうことで、実に根も端も無いこと憧れを育てることかも知れない。




「ハンチング」 2007/1/14

三越にてハンチングを求める。イエーィツの詩「イニスフリーの湖島」の郷里に帰って来た,
「静かなる男」ジョンウエーンのかぶっている帽子をまねて。

HANDCRAFTED BY EXCUSIVRY BY HANNA HATS OF DONEGAL LTD.
DONEGAL TOWN IRELAND DRY CLEAN ONLY PURE NEW WOOL
MAID IN IRELAND






「新しい帽子」 2008/4/18

 先日昼休みに細君と銀座に出た。目的の一つは毎年もう咲いたかなと気になる、銀座一
丁目紺屋橋の高速道路沿いにある八重桜の花を見ることだった。丁度今ピンクの花が盛り
である。難を言えば一色過ぎて、色々の花の種類を見たかった。有楽町から銀座通りの入
り口までの並木を散歩して、4丁目に向かう。
 その途中の「トラヤ帽子店」でハンチングを買った。客が2・3も入れば一杯になりそう
な小さな老舗なのに、4人くらいの店員がいる。おそらく店主から若い店員まで一家で切
り盛りしているのだろう。銀座にはそのような店があちこちあり、歴史をつくっている。
ちなみに購入したハンチングは「トラヤ」が製作したオリジナルだということである。
 トラヤのホームページを覗いてみると

◆ 帽子を被ると、人はその立ち振る舞いまで変わるという。
 帽子を被ることによって、男は自らを顧み、自信を深める。
 と同時に変身願望をも満たしてくれる。
 ひとりの人間がふたつの気分を味わうことができる。
 ソフト帽は紛れもなく、男を紳士にする特効薬なのである。(出石 尚三)

◆ トラヤ帽子店(輸入、国産紳士帽子専門店)
 大正六年創業以来、ソフト帽、パナマ帽で古くから親しまれている帽子屋です。神田の
 神保町から始まった帽子店は現在、銀座店、浅草店で営業いたしております。トラヤ帽
 子店では、ヨーロッパやアメリカから日本人に向いたベストセレクションをお届けいた
 します。






*「私の名前」を読んで 2008/4/20 *同人α14号合評より

◆ 名前は単なる記号に過ぎないという考え方もあるが、それでも数十年それと付き合う
  わけだから、それなりの感慨も湧こうというものである。私も姓の「古賀」は高校2
  年生の時はクラスに5人も居て閉口したし、名前にも九州男児らしい猛々しさがなく
  不満だった。いまでも多少そう思っている。しかしこのような同人の趣味に浸ってい
  る「文弱」なのだから、性に合っているのかもしれない。

◆ むかし自分の子供に「悪魔」という名前をつけようとして、役所から拒否をされると
  いう社会問題があった。一人前の大人が自分に命名するのなら分かるが、なにも分か
  らない子供に不利と思われる名前をつけるのは親の単なる自己満足に過ぎない。まる
  で子供をペットを扱うように飾り立て可愛がっているふうでどこか違和感がある。

◆ 最近は市町村合併により新しい名称を名乗る自治体も多くなったが、中には噴飯もの
  や軽薄なものがちらほら見られる。たとえば「四国中央市」とか「南アルプス市」と
  か「田無市」が「西東京」になるとか等々である。 女系図に出てくる「真砂町」も
  「文七」おっと間違えた「伝七捕物帳」の黒門町も無くなった、歴史を無視してなん
  とも感慨のない無味乾燥な記号と化してしまった感がある。

◆ 昔、別の同人誌でペンネームは是か否かという問題が起きたことがある。知った人の
  文章に興味を抱き読むのだから、個人名が分からない人のは読まないといって反対し
  た人があった。それも名前をかなやカタカナで書いても、それは戸籍に載っている綴
  りではないからだめだという。私はある時は別の世界の人間に変身したいと思うこと
  がある。 その時はペンネームを使い、服装を替え、帽子を被り、サングラスを掛け
  「月光仮面」になりたいのだ。それによって一方からでなく他の角度から社会が見え
  てくる効能もあるだろう。
  とまあ己の繰り言ばかりになってしまったが、大西さんの「私の名前」は名前に纏わ
  る小さな思いから祖父の「文七」さんのエピソードまでほのぼのとした感慨がじつに
  よく書けている。まさに日だまりの縁側でほうじ茶を飲みながらのんびり談笑してい
  る気分だ。
  ただ、二つだけ要望がある。
    一つは「私の名前」をもう少し洒落た題にしたらいかがでしょう。
    二つ目はこの「文七」祖父の物語を十倍くらいの長さにして書いて貰いたい。




*「帽子にまつわる話」 2009/1/1  「偏西風」より
◆ 今丁度、O−chanから借りてウイリム・アイリッシュの「幻の女」を読んでいる。
  未だ殺人犯の名前は判らないが、 狂言回しになった女の燃えるようなオレンジ色の
  帽子がキーポイントである。また以前、男の帽子という書き物を読んだことがあった。
  昔からある男の装いに背広やでネクタイや帽子があるが、不思議なことに現代は帽子
  だけが廃れてしまったという。確かに私の父は生きている間、外出するときはソフト
  帽やチロル帽を被って出かけていた。あの年代までは他人の前に出るときの装いとし
  て、一種の自分の気持ちに普段と違うと いうけじめをつけるための儀 式だったの
  だろう。

◆ 河野多恵子の「後日の話」の内容は、十七世紀のトスカーナ地方のさる小都市国家で、
  結婚生活二年にして、思いもかけぬ出来事から処刑されることになった夫に、最後の
  別れで鼻を噛み切られ、その後を人々の口の端にのぼりながら生きた、一女性につい
  ての話である。その夫は麦藁帽子業者カタラーニ家の長男ジャコモである。
  その小説に描かれたイタリアの麦わら帽がどのような物なのか、カンカン帽あるいは
  中折帽子か判断がつかないまま、数年前にイタリア旅行に行った時に私はそのような
  店を探して買ってくるつもりであった。しかしベネチアでもフィレンチェでもローマ
  でも見つからなかった。そして目的を諦める決心が付いたのは、歴史に埋もれて未だ
  古い仕来りを守っている古都の街角で、帽子を被っているイタリアの紳士を全然見か
  けることがなかったことである。私は確実に時代は変わったのだなと悟ったのである。

◆ しかし、今この写真にあるようにパナマ帽とサングラスという時代錯誤のジゴロ風の
  格好は、好むと好まざるに関わらず私にとって「必要悪」になってしまった。さて、
  ジゴロ(仏gigolo)は、女から金を巻き上げて生活する男、女に頼って働かない男、
  または女にたかって生活する男のことをいう。転じて「男娼」「ヒモ」「スケコマシ」
  「男妾」を指す言葉である。とWikipediaにある。
  昔、私は密かに「髪結いの亭主」を目指していた野望は砕かれ今は確実に立場は逆転
  の身となってしまった。頭の毛が薄く真夏の太陽の輻射熱には耐えられず、加齢によ
  る目は明るい光線に晒されて白濁した世界のなかに漂い、覚束なげに歩く有様である。






鬚ねこと帽子親爺 2009/7/30 α19号「歪んだ風景−沈みゆく家 第六回」コメントより

 作家池田あきこの描く、猫のダヤンを主人公にした「わちふぃーるど」で織りなす不思
議な世界を展示した、河口湖木ノ花美術館の建物の前で撮った写真である。皆さんと張り
合おうとばかりに、はつらつとした若かりし頃の凛々しい写真をと探したが、どこへ隠れ
ているのか頓と見あたらない。鼻髭、顎髭、頬髭で己の本性を隠していた頃もありました。
それが一枚も残っていないとは、もしや余りにもむさ苦しいので誰かが処分したのではな
いか。
 随分前に三歳の頃の息子と電車に乗っていたら、前に座っている二人のうら若き女性か
ら、クスリと笑われた事がある。よほど私のカイゼル髭風が妙だったのか、息子と私がう
り二つだったためか、どっちだったのだろう。
 大体髭には二つの意味を込めて男は伸ばすようだと私は断じる。一つは体制側の権威を
誇示するため。もう一つは体制側ではないことをひけらかすためため。私は30代初めか
らドロップアウトしたので、やはり後者だったと思う。今髭をのばしたら真っ白に違いな
い。だからうらぶれた人生の落伍者風の無精髭に違いない。願わくばショーン・コネリー
のような素敵な髭面を夢見るのだが・・・。






僕にとっての帽子考 2010/10/9  「趣味と道楽の狭間で」コメントより

 僕の周りには帽子の好きな友人が何人かいる。僕もその一人である。帽子の効用は夏の
太陽から暑さを避けることや、薄くなった頭を隠すこと、風から髪の乱れを守ること、頭
部保護、防寒などの実用的理由から、またファッションといったものまでいろいろある。
僕が被っているのはジョン・ウェイン主演の映画「アメリカ合衆国の特殊部隊・グリーン
ベレー」の帽子である。だからといって特別僕が軍国主義的な思想が好きというわけでも
ない。長い間自由業を営んできたのでラフな格好でも勤まったものだが、僕は自分の生活
が自堕落にならないように時々はネクタイなど締め、正装をして事務所に出かけたものだ。
その意味では、あるていどの規律的生活を厭うものではない。
実用的でなくても帽子を被る人達は、己の姿を別の人格に見せたいという無意識の願望が
あるのではないかという私の考えは、また別の機会にじっくり思索してみたいと思ってい
る。
 僕は数年前友人のS君と誘いあわせて御徒町のアメヤ横町のガード下にある中田商店に
繰り出した。あるわあるわ、世界中の軍服や勲章や階級章など、戦前の軍国主義の時代に
迷い込んだような妙な気分になった。いくら何でもこのアナクロニズム的雰囲気にはつい
て行けない。その後S君はハンチング帽ばかりで、その時僕はグリーンを、彼は黒を一緒
に求めたのだが、この黒いベレー帽を被った姿をいままで見たことがない。さてはあのア
メヤ横町への同道は僕のために多少無理をしたのかもしれないと今は思っている。
 今回の「趣味と道楽の狭間で」は十数年前に同人誌「斜光」に投稿したもので、狭間シ
リーズの走りという記念すべきものであった。しかし僕はこの帽子をいろいろ欲しがると
いう行為は道楽とは言えず、趣味ともいえる実にささやかなものなのだと思っている。



==============================
 この写真を見た感想は、確かに「人格が変わっている」ということ に尽きた。
いや、と言うよりも「飛んでいる」という感じを受けた。しかも、以前にどこかで見た顔
なのだ。
 それは、どこで見た顔だろうと考えている内に、思い出した。
以前勤務していた研究所の公式テニス部のNo1の顔である。
長期に渡ってTOPの座を保ち続けた強靱さと自信が形作った顔が この写真の中にそっく
り再現されている。
これが、帽子が持つ魔力という物であろうか。
長岡 曉生

==============================
 帽子はおしゃれの意外なポイントにもなるが、その他、人格を少し変えてみる、 他人
を戸惑わす、そんな力をもつ有力な小道具だ。
筆者はおしゃれというより、後者の理由で帽子に惹かれているのかと思う。
 私の母は帽子が好きで春夏秋冬お気に入りの帽子をかぶっていた。 彼女の目的はただ
一つ「おしゃれ」そんな彼女の子供は全員帽子は苦手でほとんどかぶらない。それでも母
の手編みの帽子一つはみななぜか取っており、冬になるとかぶっている。
母の帽子と買って貰った帽子が手元にある。遅ればせながら「おしゃれ」で時々かぶっ
ている。いや人格を変える目的かもしれない。あるいは顔隠し。
ベレー帽姿の筆者は確かにすごみがある。ベレー帽が彼の人格を変えたのだろう。
万理 久利




学生帽 2012/2/21 α30号「あした天気になーれ 第6回」ポートレートとコメントより

 引っ越しばかりしていたので、随分写真も無くしてしまったが、なんとか押し入れの中
から昔の写真を探し出した。これは私が高校生の頃我が家の庭の一角で撮った写真である。
年の離れた従兄弟とスピッツらしき白い親犬、犬小屋には一匹の子犬までがちゃんと写っ
ている。
このころより私は朴歯の下駄を愛用していたが、この下駄はどうも違うらしい。黒い鼻緒
の桐の下駄で親父のものではないだろうか。
 帽子は白い二本の白線に二羽の鵲をあしらった金色の記章、いかにも間寛一のかぶる高
等学校の帽子そっくりである。セータはやはり鈍色のアラン模様のフィッシャーマンセー
ターである。どうもこのころから「あした天気になあーれ」や「無限回廊」などという空
想癖の兆しがみられるようである。






窓辺にてーそして、それから 2012/6/7 α31号「光と影の狭間で」ポートレートとコメントより

たぶん大学二年生のころ夏休みに帰省した折、田辺(森)君と二人で九州一周の貧乏旅行
をしたときの写真だと思われる。大人になるまで偏食、好き嫌いが多く、腺病質、神経質
でカマキリのように痩せた姿が見受けられる。ここは霧島温泉の近くの丸太造りの山小屋
のようだ。たぶん韓国岳に登る前か後かの写真で、窓枠に座った足には草鞋みたいなもの
を履いている。未来は渾沌としていて不安に押しつぶされそうな思いに、いつも不機嫌な
顔をしていたようだ。







宇宙戦艦大和艦長 2013/1/23    α33号「無限回廊」ポートレートとコメントより

*バード・ブレインの初夢 *「無限回廊」の登場人物
super sybogのバード・ブレインはあるとき、太陽系第三惑星の消滅する前に14万8千
光年の彼方のイスカンダルへ放射能除去装置コスモクリーナーDを求めて宇宙戦艦大和の
艦長となって旅立つ夢を見た。パワー・イーターの完成が間に合わなかっこと、最終兵器
であるリターン・パスの全世界の国々への設置に遅れが生じたこともあって、一部の国の
争いで核爆弾によりガイアの人々に放射能汚染の危険が迫ったためだ。これらの預言は既
にモノリスに記録されたものである。
                          古賀 和彦



63資料管理請負人:2014/02/27(木) 03:57:02
詩散策
.
                 詩 散 策
             2002−2004年??Tea Pot




2002年

窓辺にて−その1 4/13

一気に初夏の季節になったかのように
半袖で花見した3月末の陽気も
しまい込んだセーターを再び探す今日の寒さは
裏切られたような気持ちで
それならそうと花の季節をいっそのこと少し遅らせて欲しかった
頭の隅でどこそこの垂れ桜はいつ頃、牡丹はいつ頃の算段はあるものの
あれやこれやでついつい見逃すこのごろ
しかし窓の外、公園を隔てたビルディングの壁には
もう枯れて死んでしまったかと見えた夏蔦が
薄緑の芽を吹き出し日を追うほどに勢いを増す

今日から tea time(やすらぎのひととき)に
窓辺から望む情景や心に浮かぶ思いの数々をスケッチし
−願わくば毎日−シリーズとして書き留めたいと思う


窓辺にて−その2 4/14

いい本にいきあたるのは至難のわざ
年間数100万部出版されるものの中
昼下がりのひととき静かに
まず、帯の文字を読み
ゆっくり急がず扉を開く
読み終えるまで三日
反芻すること数日
もう手当たりしだいに読む時間は
私にはゆるされていない
願わくばひとときでも
至福の時をあたえる本にであいたい



窓辺にて−遠い昔の話 4/25

少年のころの話である。
いつも側に一匹の犬と数匹の猫そして時には兎がいた
飼っているようで、そうでないようで
なんとも悠長な関係であった
猫や兎の名前はそのときどきで変わったが
犬の名は代々「ベル」であった
「ベル」が死んだり、行方不明になると
どこからともなく野良犬が住みつき
「ベル」という名を引き継いだ
不思議なことに彼らのほとんどが
雑種のおとなしい性格の赤犬であった
近所の子供にも親しまれ
友人の妹に私のことを「ベルのようにやさしかね−」と
形容詞として使われるほどであった
大人になった私は家をでていったので
「ベル」がその後何代続いたかは知らないままである



窓辺にて−若きころ 5/15
上京したての頃、あまり詩歌と縁のなさそうな風貌の
Tという友人がおしえてくれた詩を思い出して。


                旅上

          ふらんすへ行きたしと思えども
          ふらんすはあまりに遠し
          せめては新しき背広をきて
          きままなる旅にでてみん。
          汽車が山道をゆくとき
          みづいろの窓によりかかりて
          われひとりうれしきことをおもわむ
          五月の朝のしののめ
          うら若草のもえいづる心まかせに。

          地下鉄道(サブウエイ)にて

          ひとり来りて地下鉄道(サブウエイ)の
          青き歩廊(ホーム)をさまよいつ
          君待ちかねて悲しめど
          君が夢には無きものを
          なに幻影(まぼろし)の後尾燈
          空洞(うつろ)に暗きトンネルの
          壁に映りて消え行けり。
          壁に映りて過ぎ行けり。

             *「なに幻影の後尾燈」「なに幻影の恋人を」掛け詞    萩原朔太郎詩集より



窓辺にて−あじさいの詩 5/24

様子がおかしい、何かが変だ、窓越しの空気に漂う不快さ。
一瞬の逡巡、一瞬の沈黙
悲しむべきか、ビルの壁に勢いよく這い登っていたあの夏蔦が無惨にも刈り
取られていた。
もうすぐ梅雨。今まで通ったことのない路地を好んで歩く癖は、永い彷徨の結果
染みついた私の趣向であり、今日も真砂図書館までの未踏の路地裏を探した。
そこには蛇苺やあじさいの花がさく路地であった。そしてその時あじさいの花の詩を
思い出したがそれは記憶違いであった。それはあじさいそのもを詠った詩ではなかった。

               こころ

          こころをばなににたとへん
          こころはあぢさいの花
          ももいろに咲く日はあれど
          うすむらさきの思ひでばかりはせんなくて。

          こころはまた夕闇の園生のふきあげ
          音なき音のあゆむひびきに
          こころはひとつによりて悲しめども
          かなしめどもあるかいなしや
          ああこのこころをばなににたとへん。

          こころは二人の旅びと
          されど道づれのたえて物言ふことなければ
          わがこころはいつもかくさびしきなり。


                萩原朔太郎 「純情小曲集」より



窓辺にて−思い出してはいけない 7/31

 ベランダの前の公園では8月に近づくと、一斉に蝉が鳴きだした。
 その声を聞くと急に不安になり、まだ半分も過ぎていない
 というのに、残りの夏休みの日を数え始めた少年の頃。
 なつかしい詩の数々は、いつになっても思い出すその頃の己の
 心象風景を。



窓辺にて−「水駅」 8/15

若い頃島崎藤村や室生犀星などの詩集を愛読したが、現代最先端の詩は
最早私の理解を遙かに越え難解になってしまった。韻を踏むことや、
七五調の快いリズムや、五・七・五といった定型の呪縛から脱出を目論で
いるようであり、散文に近いものもある。

                    水駅

          妻はしきりに河の名を聞いた。肌のぬるみを引きわ
          て、わたしはすすむ。

          みずはながれる、さみしい武勲にねむる岸を著けて。こ
          れきりの眼の数でこの瑞の国を過ぎるのはつらい。

          ときにひかりの離宮をぬき、清明なシラブルを吐いて、
          なおふるえる向きに。だがこの水のように移りは決し
          て、いきるものにしみわたることなく、また即ぐにはそ
          れを河とは呼ばぬものだと。

          妻に告げて。稚(わか)い大陸を、半歳のみどりを。息はその
          さきざきを知行の風にはらわれて、あおくゆれるのはむ
          ねのしろい水だ。

          国境、この美しいことばにみとれて、いつも双つの国は
          うまれた。二色の果皮をむきつづけ、錆びる水にむきつ
          づけ、わたしたちはどこまでも復員する。やわらかな肱
          を輓(ひ)いて。

          青野季吉は一九五八年五月、このモルダビアの水の駅を
          発った。その朝彼は詩人ではなかった。沈むこの邦国
          を背に、思わず彼を紀念したものは、茜色の寒さはな
          く、草色の窓のふかみから少女が垂らした絵塑の、きり
          つけるように直ぐな気性でもなかった。ただあの強き水
          の眼から、ひといきにはげしく視界を隠すため、官能の
          ようなものにあさく立ち暗いんだ、清貧な二、三日付で
          あったと。

          水を行く妻に告げて。
                        荒川洋次 詩集「水駅」より



窓辺にて−朝の食事 8/21

朝の日の光を浴びながら、丸いテーブルを窓辺に引き寄せて
蔦の模様のテーブルクロス、ワイルドストロベリーのtea cup
メインの皿には一枚のクリスプベーコンとアメリカンベーコン2枚
5分きっかりにボイルドした半熟玉のそばには緑鮮やかなブロッコリー3切れ、茎2切れ
メルティチーズの乗った4分の1の食パンと焼きおにぎり4個
高坏のガラスカップに青紫のブルーベリーがはいったヨーグルト
メロン6分の1切れ、以上今日の朝食でした。

ところで「君よ知るや南の国、オレンジはたわわに実り」という
ゲーテの詩を思い出せないのですが、どなたか教えて下さい。
たぶん「ミニヨン」の中に出てきたと記憶しているのですが。



窓辺にて−「ミニヨンの歌」 10/2

ゲーテの「ミニヨンの歌」を見つけた。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」
の第3巻の巻頭に載せられているのだが、それは私の覚えている歌詞ではなかった。
訳者によってこうも違ってくるものか・・・。それぞれの訳はもはや別のものに見えてくる。
「君よ知るや南の国 オレンジたわわに実り花はさける」の訳者は誰でどの詩集なのか
またも迷路にはまってしまった。

   ??たとえば赤井慧爾訳では

                 「あの国をご存じですか」

          あのくにをご存じですか、レモンの花が咲き、
          暗い葉かげに黄金のオレンジが燃え、
          穏やかな風が青い空から吹き、
          ミュルテルは静かにそして月桂樹は高くそびえています。
          あの国をご存じですか。
          あそこへ、あそこへ
          あなたといっしょに、ああわたしの愛しい人よ、行きたいのです。

   ??そして森 鴎外訳では

                 「ミニヨンの歌」

          「レモン」の木は花さきくらき林の中に
          こがね色したる柑子は枝もたわわにみのり
          晴れて青き空よりしづかやかに風吹き
          「ミルテ」の木は高く
          くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ
          君と共にゆかまし

          「君よ知るや南の国 オレンジたわわに実り花はさける」はどこいった?


窓辺にて−ミニヨンの歌 10/21

ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」の第3巻の冒頭に出てくる「ミニヨンの歌」の
訳でここ半月ばかり探していたものが遂にみつかった。昔親しんだ詩である。森 鴎外・堀内敬三
会津八一・大久保健治などたくさんの訳がある中で若い頃覚えた訳詩はまた特別である。

          Kennst du das Land, wo die Zitronen blueh'n,
          Im dunklen Laub die Gold-Orangen glueh'n,
          Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
          Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht,
          kennst du es wohl ?
          Dahin! Dahin!
          Moech't ich mit dir, o mein Geliebter,zieh'n.

          君よ知るや南の国
          レモンの花咲き
          緑濃き葉陰には、こがねのオレンジたわわに実り
          青き空より、やわらかき南の風
          ミュルテは静かに、ロルベ−ルは高くそびえる。
          君よ知るや、かの南の国。
          かなたへ、君とともにゆかまし。愛しきひとよ。
                          本田 清訳



窓辺にて−詩人の友 10/28

詩ははみ出し落ちこぼれのものだ
とK氏から借りた本にあった。
強い人を単純だとせせら笑い、成績のよい人を点取り虫だと陰口をいい
負け惜しみに耽る。同人誌とはそういう傷のなめ合い、慰め合うもので
なかろうか・・・と杉山平一は書いている。

          敗れた者でなければ
          友ではない
          虐げられた者でなければ
          味方でない

          押しのけ進む者は
          旗とともに去れ
          ・・・・・・・・

          声たてぬすすり泣きこそ
          われら詩人の味方なのだ

                 丸山 薫 「詩人の友」より



窓辺にて−晩秋 12/2

冬の始まりにあたって、やり過ごした秋を思う。
あの時思い切って紅葉の山へ出かければよかった。

          晩秋

          汽車は高架を走り行き
          思いは陽(ひ)ざしの影をさまよふ。
          静かに心を顧みて
          満たさるなきに驚けり。
          巷(ちまた)に秋の夕月散り
          舗道に車馬は行き交へども
          わが人生は有りや無しや。
          煤煙くもる裏街の
          貧しき家の窓にさへ
          班黄葵(むらさきあふい)の花は咲きたり。
           −朗吟のために−

                        萩原朔太郎 詩集「氷島」



2003年

窓辺にて−春の兆 1/24

太陽の光は微かに力を増したように思えます。
冬至からすでに一月過ぎ、厳寒のなか少しずつ春にむかって、
あらゆる生物が動きだす気配を感じます。

               竹

          ますぐなるもの地面に生え、
          するどき青きもの地面に生え
          凍れる冬をつらぬきて、
          そのみどり葉光る朝の空路に、
          なみだたれ、なみだをたれ、
          いまはや懺悔をはれる肩の上より、
          けぶれる竹の根はひろごり、
          するどき青きもの地面に生え。

                草の茎

          冬のさむさに、
          ほそき毛をもてつつまれし、
          草の茎をみよや、
          あおらみ茎はさみしげなれども、
          いちめんにうすき毛をもてつつまれし、
          草の茎をみよや。

          雪もよひする空のかなたに、
          草の茎はもえいづる。
                      萩原朔太郎 詩集<月に吠える>より



窓辺にて−新緑のころ 4/28

新緑のころ

窓辺から望むポケットパークの欅の新緑が美しい。
それぞれの性格が芽を出す時期をずらし、
急いで飛び出す木もあるし、ゆっくりあたりの様子を確かめる
のんびりした性格のものもある。
我が家のベランダにgooseberryはすでに実をつけ始め、
気を揉む私の心を知ってか知らずかraspberryはまだ蕾を二つ。
いいことの少ない世相のなかで鬱々と気を病むこのごろだが、
この季節はそのような私に、新しい希望を抱かせ生きようとする
力を与えてくれる。



信州の旅−おまけ 5/13

              初恋

          まだあげ初めし前髪の
          林檎のもとに見えしとき
          前にさしたる花櫛の
          花ある君と思ひけり

          やさしく白き手をのべて
          林檎をわれにあたへしは
          薄紅の秋の実に
          人こひ初めしはじめなり

          わがこゝろなきためいきの
          その髪の毛にかゝるとき
          たのしき恋の盃を
          君が情に酌みしかな

          林檎畠の樹の下に
          おのづからなる細道は
          誰が踏みそめしかたみぞと
          問ひたまうこそこひしけれ

                島崎藤村 「若菜集」より



友の死を悼む 10/11
大久保君は一月前初めて「斜光」の編集に参加したのに、それが最期になってしまった。
ここに追悼の詩を送る。

                挽歌

          秋はみじめにしたたり
          ゆうぐれはながれそめたり。
          そらに落葉のかげ映り
          かすかに青き匂いのちらばへり。
          手はひたひの上に冷え
          さみしく唇はかたくとざされり。

          ともよ、おん身の肌にすがりつき
          たましひはくらくすすりなく。
          ああ、はぐれしかげにすがりつき
          たましひはくらくすすりなく。

                  室生犀星 「青き魚を釣る人」より



2004年

窓辺にて−初春

 1/4

元旦は神田明神から湯島天神まで散歩しました。天神様の境内ではすでに二・三弁の花を付けた梅
の木もあり、やがて暗がりのなかでかすかに匂いだすでしょう。

                  早春

          微笑んだら
          梅の花の香りが風に漂いました
          夢のなかで訪ねていった境内に
          その白い花びらが、舞っていたせいでしょう

                       吉行理恵詩集<幻影>より

スイートプラム 和さんの疑問に答えて
このホームページのトップの名文は、「斜光」0号(パイロット版)の巻頭言であります。
そのとき「斜光」がその後何号まで続くかどうか誰も判らないなか、我々のこれからの人生を見事
に示唆した格調い文をもってしたのは 北 勲氏であります。



窓辺にて−Splendour in the Grass 1/29
「草原の輝き」を覚えていたのは私だけでなかったことがうれしくなりました。
ワーズワースの詩を見つけましたので味わってください。

          Splendour in the Grass

          What thought the radiance
          which was once so bright
          Be now for ever taken from my sight,
          Though nothing can bring back the hour
          Of splendour in the grass,
          of glory in the flower,
          We will grieve not, rather find
          Strength in what remains behind;
          In the primal sympathy
          Which having been must ever be;
          In the soothing thoughts that spring
          Out of human suffering;
          In the faith that looks through death,
          In years that bring the philosophic mind..
                     ―― William Wordsworth ――



窓辺にて−倚りかからず 10/15

先日「朝日新聞」の大岡 信の「折々のうた」で茨木のり子の詩を久しぶりにみた。

自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ

その解説に曰く、この小気味よい叱咤激励の詩句で「ばかものよ」と叱られているのは、
まず第一に自分自身だろう・・・と。私たちもまた然り。
安易な世間の情報に踊らされている私達を尻目に、この冷気の中にすっくと爽やかに立つ
ような生き方の彼女を思い出して図書館にその詩集を探しに行った。

                倚りかからず

         もはや
         できあいの思想には倚りかかりたくない
         もはや
         できあいの宗教には倚りかかりたくない
         もはや
         できあいの学問には倚りかかりたくない
         もはやいかなる権威にも倚りかかりたくない
         ながく生きて
         心底学んだのはそれぐらい
         じぶんの耳目
         じぶんの二本の足のみで立っていて
         なに不都合のことやある
         倚りかかるとすれば
         それは
         椅子の背もたれだけ

               茨木のり子詩集「倚りかからず」より



64資料管理請負人:2014/02/27(木) 04:56:34
詩散策2
.

              詩 散 策 2
                   2007年




ハンチング 1/14

        
三越にてハンチングを求める。イエーィツの詩「イニスフリーの湖島」の郷里に帰って来た,
「静かなる男」ジョンウエーンのかぶっている帽子をまねて。

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イエーィツの代表作「イニスフリーの湖島」の詩

I will arise and go now, and go to Innisfree,
And a small cabin build there, of clay and wattles made:
Nine bean-rows will I have there, a hive for the honey bee,
And live alone in the bee-loud glade.

And I shall have some peace there, for peace comes dropping slow,
Dropping from the veils of the morning to where the cricket sings;
There midnight's all a glimmer, and noon a purple glow,
And evening full of the linnet's wings.


I will arise and go now, for always night and day
I hear lake water lapping with low sounds by the shore;
While I stand on the roadway, or on the pavement grey,
I hear it in the deep heart's core.

今こそ腰を上げて故郷イニスフリーに帰りたい。
そこでは泥と小枝で作った小屋を建て。豆を植え、
ミツバチの巣箱を作り、蜂の羽音を聞きながら静かに暮らしたい。

そこでなら心が安らぐだろう。
夜明けがコオロギの鳴く我が家にゆっくりと平和を降り注ぎ、
夜更けには月が、そして昼間は深紅の太陽が輝き、
夕暮れには紅雀の羽ばたきが聞こえる。

さあ、今度こそ帰ろう。
岸辺に打ち寄せる波の音が夜も昼も耳を打つから、
都会の街路や灰色の舗道に佇む時も絶え間なく
あの波の音が私の心の奥底に響いて来るから。



テニスンの詩集 1/15

こんどはテニスンの詩を読んでみようと想っていたが、きょうは湯島図書館は休み。
映画「君に読む物語」に出てくる少年の父親は貧しい暮らしながら、息子にテニスンの詩
を読んであげたという回想のシーンがあった。あの階層でも詩に親しむという文化は日本
の労働者階級では考えられない事だ。それともあの父親は特殊な例であったのか?

アルフレッド・テニソン(Alfred Tennyson, 1809年8月6日 - 1892年10月6日)ヴィク
トリア朝時代のイギリス詩人。美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読された。



現代詩集? 1/16

テニスンの詩集は湯島図書館にはなく取り寄せて貰うようにした。
そのかわり現代詩集?アメリカ・イギリスを借りる。その中には
エズラ・パウンド、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ、マリアン・ムーア等。

山内礼子さんよりメールアドレスの変更を連絡してきた。その折同人αを読みたいので送
るように依頼される。6,8,9号の3冊を送る。送料390円



TVの捏造について 1/16

関西テレビ制作の「発掘!あるある大辞典?」のなかの「納豆ダイエットできる」は歪曲
・捏造の番組だったといま盛んに話題になっている。しかし私に言わせると、ほとんどの
 そのての娯楽番組は「やらせ」で、根っから信じていない。信じていなくて楽しむのは
 いいが、「やらせ」と思ってもいない人達にとっては罪なことである。
 「田舎に泊まろう」などの場面でも、突然声を掛けるなどと言ったものではない。事前
 に打ち合わされ、役割を言い含められた人物が演技しているのが透けて見えている。そ
 れでもいい、娯楽番組はただ楽しければいいという見方もあるだろうが、それだけでは
 済まなくなり、教育基本法改正のフォーラムでの質問者の「やらせ」につながっていき、
 情報を操作する側の罠にはまるばかりだ。マスコミの情報の50%は疑ったほうがよろ
 しいようで、舌を出したペコちゃんの顔が見えてくるのである。

ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ アメリカの詩人 1883-1963
の詩は何気ない日常の何気ない一瞬をとらえて詩にするので面白い。

ちょっとね

僕は
アイスボックス
にあった桃を
食べてしまった

で それは
きっとお前が
朝食のために
とっておいたんだろう

すまない
桃は甘く
すごくうまく
すごく冷たかったよ



鳩の街 1/28

今日の朝日新聞の「東京物語散歩」というコラムに、吉行淳之介の「原色の街」という小
説の案内が載っていた。私はこの物語はまだ読んだことはないが、たまたま最近目にした
中に田村泰次郎の「鳩の街草話」というのがあった。やはり二つの小説ともに舞台は墨田
区向島の「鳩の街」、昔の赤線地帯である。江戸時代から「向島百花園」の月見で知られ
ていた、文人の別宅のある粋なところだったようだ。

    テニスン詩集

‘Break,break,break’

On thy cold garay stones, O Sea!
And I would that my tongue could utter
The thouts that arise in me.

O well for the fisherman's boy,
That he shouts with his sister at play!
O wellfor the sailor lad,
That he sings in his boat on the bay!

And the stately ships go on
To their haven under the hill;
But O for the touch of a vanished hand,
And the sound of a voice that is still!


Break,break,break,
At the foot of thy crags,O Sea!
But the tender grace of a day that is dead
Will never come back to me.

砕け、砕けよ、砕け散れ
おまえの冷たい灰色の岩に、おお海よ!
願わくは、我が胸に起こりたる想いのかずかずを
口で言い表すことができるのなら。

漁夫(すなどり)の少年にとって何と幸せなことか、
遊びながら妹と大声をあげることができるなんて!
船乗りの若者にとって何と幸せなことか、
湾に浮かべた小舟で歌をうたうことができるなんて!

立派な船が進んでゆくよ、
小山の麓の港にむかって。
ああ、だが、今は亡き友の手に再び触れ、
今は黙(もだ)せる声の響きを耳にできるものなら!

砕け、砕け、砕け散れ、
おまえの岩山の足もとに、おお海よ!
だが、過ぎ去った日の、あの優しい恩寵は
二度とけっしてこの身に戻ることはないだろう。

親友アーサー・ハラムの急死の悲哀を詠った作。



江頭邦夫君の死2/15

死に対する哀しみや無常観よりも
私は彼の生きた人生に賛美を送ろう
苦しいことや悲しいことがあったにしろ
見事にここまで生き抜いて来たのだから

この宇宙は生命の無いことが普通なのだから
生命があることが希有なことであるから
存在する或いは存在したということが
奇跡のようなものだから

私達は江頭君と同じ時間に同じ空間に
生きてたことに喜びがあり
彼の一生が長い短いにかかわらず
見事に生命を全うしたことを祝福しよう



パスポート 2/21

海外旅行用パスポートの写真を近所で撮る。
戦後短編小説再発見3  「さまざまな恋愛」を購入。

シェリー
インド調小夜曲
   ?
夏の夜のやすらかなまどろみの
夢にあなたをみて目ざめたのです、
風がほのかにそよいでいます、
星が美しく輝いています、
夢にあなたをみて目さめたのです、
わたしの足に宿る精霊が
わたしを導いて−どうしてか誰が知りましょう
あなたの部屋の窓辺に来たのです、恋しい女よ!
   ?
さまよう風が消えてゆきます
暗く静かな流れのうえに−
黄木蓮の香りがうすれてゆきます
夢のなかのなつかしい想いのように、
夜鳴鶯の哀しい調べが
彼女の胸で悶え絶えます−
ちょうどわたしがあなたの胸に
ああ、あなたがいとしい故にこそ!
悶え絶えねばならないように。
   ?
おおわたしを芝生よりあげて下さい!
わたしは死ぬ!気が絶える!力が尽きる!
あなたの愛を口づけの雨として
わたしの唇とほの白い眼瞼に降らせてください。
ああ!わたしの頬は冷たくあおざめ
わたしの胸は激しく慟悸しているのです−
おお!この胸をあなたの胸にかたく抱いてください、
わたしの胸はそこでさんらんと砕け散るでありましょう。



小熊笹 2/28

■ 高山造園に小熊笹の植栽を依頼。紅葉3本の見積もり依頼。3月24日植え込み予定。
■ 河口湖ケーブルテレビ 引き落とし金額について問い合わせ
  2月6日引き落とし19,600円には年間の会費13,000が含まれているということ。
  デジタルの契約を解約したい。6,369→3,940になる。3月24日工事予定。
■ 奥田 林(おくだしげる)氏の通夜。帰りに新松戸駅の近くで樋口・飯田氏達3人で飲
  む。久しぶりに郊外の景色を見た。寒い夜のプラットホーム。暗闇のなかに点在する
  家々の灯り。若いころ通った田園風景、なにか満たされないような家庭の温もりから
  遠ざけられたような独り身の寂しさを思い出した。

立原道造 1914-1939


街道の外れで
僕の村と
隣の村と
世間話をしている
《もうじき鶏が鳴くでせう
《これからねむい季節です

その上に
昼の月が煙を吐いている



同人α第11号投稿詩 3/8

投稿詩 「 選択」

■ ポール・セザンヌの透明な空気
  パウル・クレーの静かな時間
  エリック・サティのけだるさ
  ラフマニロフのボカリーズの永遠の宇宙
  私は絵の世界にのめり込む
  私は音楽の世界にのめり込む
  そして私は趣味と道楽の狭間で立ちすくむ

■ 人の為巧まず地道に働くか
  己の望むまま派手やかな世界に生きるか
  私は辛い仕事に打ち込む
  私は華やかな脚光を浴びる
  そして私は晴と褻の狭間で立ちすくむ

■ 摩天楼の理想に酔いしれるか
  地上の果実を拾い味わうか
  私ははるかに遠くの星に棲むか
  私は今の収穫を確かめるか
  そして私は夢と現の狭間で立ちすくむ

■ そして私は光と影の狭間で立ちすくんでいる
■ そして私は本音と建前の狭間で立ちすくんでいる
■ そして都市と田舎の狭間で
■ そして私はパラノイアとスキゾフレニーの狭間で立ちすくんでいる
■ そしてモダンとポストモダンの狭間で立ちすくむ
■ そして私は男と女の狭間で立ちすくんでいる

飯田橋のギンレイ映画館で久しぶりに邦画を見た。東野圭吾原作・生野慈朗監督・
山田孝之・沢尻エリカ主演
兄は弟を大学にやるための学費欲しさに、謝って人を殺してしまい、弟は兄の事件が発覚
する度に差別を受ける。服役中の兄への手紙をベースに物語は進み、加害者側と被害者側
の精神的な苦しみを描いた秀作である。
派手な場面や無理な演技もなく、山田孝之・沢尻エリカの二人もなかなか良い俳優だ。
久しぶりにその切なさに涙がでたね。



歪んだ風景−岐路 5/11



■春
しっとりと湿気を含んだ空気の中に漂う花の匂いに浸りながら、私は窓辺に寄り添いパー
スペクティヴの街を眺めた。左下から右上にむかって道はせり上がり細く収斂しながら空
に向かって霞の中へとけ込んでいる。オーダーで飾られた石造りの古い建物は、等間隔に
開けられたベネッシャンブラインドの窓々の作るリズムが私には快かった。
私はさよならを言って帰る彼の後ろ姿を窓越しに目で追いながら、ジムノペディの音楽を
聞き、彼と過ごしたさっきまでの幸せな時間を噛みしめている。そうだこれは釣鐘草の花
の匂。がっしりとした肩、すらりとした背、ざっくりとした荒い手織りの茶色のブレザー
を着てハンチングを被り、大股でゆったりと歩き去る。そして彼の姿は街灯の黄色の光に
照らされて、黒い影を歩道に残しながら左の街角に消えた。


             

■夏
円錐状の赤や白い花、逞しい幹、鬱蒼とした大きな葉を持つ西洋栃の木は、これから暑い
太陽の光を遮り人々に涼しい影を作ってくれるだろう。私はさよならを言って帰る彼の後
ろ姿を窓越しに目で追いながら、ボレロの音楽を聞き、彼と過ごしたさっきまでの幸せな
時間を噛みしめている。そうだこれは山百合の強い匂い。太い眉、どっしりとした鼻、ほ
どよい厚さの唇、日に焼けた顔、さっぱりとした白いポロシャツ着て麦わら帽子を被り、
大股でゆったりと歩き去る。そして彼の姿は真昼のまぶしい光に照らされ、影も残さず左
の街角に消えた。




■秋
真っ赤に紅葉したアメリカ楓の大きな葉は微かな風になびいている。夕暮れ時の部屋には
凜とした透明な空気が漂う。私はさよならを言って帰る彼の後ろ姿を窓越しに目で追いな
がら、ボカリーズの音楽を聞き、彼と過ごしたさっきまでの幸せな時間を噛みしめている。
やはりこれは金木犀の匂い。金釦のついた紺色の上着とベージュの綿のズボン。そして彼
の姿はコバルトブルーに暮れなずむ空の下、細い影を引き連れて左の街角に消えた。


             

■冬
木々は枯れ葉を落とし、天に向かって手をさしのべ叫び祈るように厳しい姿を見せた。春
はまだ私には気の遠くなるほど彼方に思える。私はさよならを言って帰る彼の後ろ姿を窓
越しに目で追いながら、シシリアーノの音楽を聞き、彼と過ごしたさっきまでの幸せな時
間を噛みしめている。やはりこれはローズマリーの匂い。そして彼の姿は鈍色の時雨に煙
る街灯に照らされた歩道を踏みしめて、黒いコートに包まれた不吉な形となって右の街角
に消えた。私はそれを見て、もはや楽しかった時も終わりだと悟った。

同人α第11号投稿作品
*BGMを聴きながら観賞したい方→ 岐路



始原へ遡ろう−無の紐 6/20

◆私は作者と共に「真空」・「超ひも理論」・「エレガントな宇宙」・「あることの不思議」など
の本を読んでいるから、なんとなくその表現している世界が判らないでもない。

◆この詩のテーマはまだ宇宙がビッグバンによって生まれる前の、ただエネルギーだけが
存在している真空で混沌とした無の世界のことである。そして素粒子のひもが振動し出し
てビッグバンとなり様々な物質を生み出していく過程は我々の想像をはるかに超えてい
て、何が生じたか理解できないほど神秘的だ。

◆だからこの詩は人間の能力では何が何だか判らないことが起きていることを表現してい
る。いわゆるまだ形をなさないカオスの世界を表現したであろうことだけは判ったと結論
しとくとしょう。


イギリス名詩選 10/14

ここ二・三日富士山は雲に隠れたまま顔を出さない。
久しぶりにイギリス名詩選を読んだ。私の心情にぴったりの詩だ。

エミリ・ブロンテ

富なんてものは問題にもならない。
恋だって、考えただけで吹き出したくなる。
なるほど、名誉欲か? そういえば、昔夢見たこともあったが、
日が射すと忽ち消える朝霧みたいなものだった。

もし私が祈るとすれば、自然に
口をついて出るたった一つの祈りだ。
「今の私の心をこのままそっとしておいてくれ、
そして、ただ自由を私に与えてくれ」という祈りだ。
嘘ではない。−光陰矢の如しで、どうやら私の
終わりも近い。そこに私が求めるものは、ただ、
何ものにも囚われない一人の人間として、勇気を持って、
生に堪え、死に堪えてゆく、ということだけ!

◆ 河口湖畔の自然博物館近くで毎年クルミの実を採取していたがいまはない。近くのガ
  ソリンスタンドのオーナーに聞いたところ、今年の夏の台風で目通り1mもあったク
  ルミの大木が倒壊したという。残念なことに今は切り株だけが残っている。今年はど
  こか新しく採取できるクルミの木を探さなければ今年は駄目かと半分あきらめていた
  ら、「辻が花」の久保田一竹記念館の側の湖畔に沢山実っている木をみつけた。早速
  背負い籠と伸縮自在な剪定竿をJマートで求めて勇んで出かけるとするか。
  そうだ、野いちごやクルミや山栗の採取マップをこの冬は薪ストーブに当たりながら
  作成しよう。



我が願い 10/16

イギリス名詩選より

A Wish         Samuel Rogers

Mine be a cot beside the hill;
A bee-hive's hum syall soothe my year;
A willowy brook that turns a mill,
With many a fall syall linger near.

The swallow,oft,beneath my thatch
Syall twitter from her clay-built nest;
Oft shall the pilgrim lift the lantch,
And share my meal,a welcom guest.

Around my vivied porch shall spring
Each fragrant flower that drinks tha dew:
And luky,at her wheel,shall sing
In russet-gown and apron blue.

The village-church among teh trees,
Where first our marriage-vows were given,
With merry peals shall swell the breeze
And point with taper spire to
Heaven.

小さな願い     サミュエル・ロジャーズ

私の願いは、丘の傍の小さな田舎家にすむことだ。
そこでは、蜜蜂の静かな唸り声が私の耳を慰めてくれ、
水車をまわす小川のほとりでは柳がそよぎ、
せせらぎの音が絶えずあたりに漂っていたら、と思う。

わが田舎家は軒先の、泥を固めて作った巣からは、
燕の囀りも朝な夕なに聞こえてくる。
時には、旅人が門の閂をはずして入ってきて、
わが家の客人として食事をともにしてくれる・・・・・。

蔦の這ったポーチのまわりには、露をふくんだ
花がいずれも見事に咲き揃っている。
家のなかでは、手織りの服と青いエプロンをつけたルーシーが、
糸を紡ぎながら静かに歌を朽ちずさんでいる・・・・・。

われわれが初めて結婚を誓った村の教会も
木の間隠れに見えている、---そして、楽しげな鐘の音が
そよ風にのって伝わってくる、その尖塔が
天国を指している・・・・・。私はこういう所に住みたい。



イギリス名詩選より 10/29
老齢

Old Age Edmund Waller
The seas quiet when the winds give o'er;
So calm are we when passions are no more.
For then we know vain it was to boast
Of fleeting thigs, so certain to be lost.
Clouds of affection from our younger eyes
Conceal that emptiness which age descries.

The soul's dark cottage, battered and decayed,
Lets in new light through chinks that Time has made:
Stronger by weakness, wiser men become
As they draw near to their eternal home.
Leaving the old, both worlds at once they view
That stand upon the threshold of the new.

老齢           エドマンド・ウォラー

今まで吹いてた風が止むと、海は静かになる。
それと同じで、激情が収まると、人間も穏やになる。
結局無意味になりのが分かりきっているのに、くだらないことを
自慢していた自分のむなしさが、歳をとってやっと分かってくる。
若い時には、うぬぼれに眼が曇、つい見落としていた
もの事の儚さが、老人になってやっと分かって来るのだ。

魂を覆ってい、肉体という小屋がぼろぼろになると、
「時」が穿った隙間から新しい光が射して来る。
人間というものは、弱くなってさらに強くなり、
神の御許に近づくに従っていよいよ賢くなってゆく。
古いこの世にまさに別れを告げ、新しいあの世の入り口に
立つに及んで、やっと両方の世界が同時に見えて来るのだ。



「パラレル宇宙」の狂気 10/30

神野佐嘉江氏はジキル博士に違いない
ギリシャ神話に登場する異なった個体
血液細胞を同時に持つ伝説の生物のように
バイオリンと鶯の遺伝子を密かに掛け合わせて
思い通りのキメラを創った

時にはバイオリンのように腐植土をした板に
毛が生え、ギーギーと鳴なり
時には鶯のようにけきょけきょと鳴いた
キメラはある時は己がバイオリンだと信じ
ある時はいや本当は鶯だと言い聞かせた

しかし、どっちつかずの体と心は思い悩み
そのストレスでついに身もだえして自ら命を絶った
その時ジキル博士はハイド氏になった
非常に稀ではあるがヒトにも存在するという



65α編集部:2014/03/04(火) 02:35:13
『不器用に、ひたむきに』 あとがき
.


   古賀幸雄回想録
 『不器用に、ひたむきに』 あとがき 1997




 平成八年八月末、父は突然他界してしまった。享年八十四歳であった。
その年の正月、父は回想録を書いたので送ると言って来た。私は、新聞以外の活字を追っ
ている姿などめったに見せたことのない父が、この回想録をいっきに書き上げたことに驚
くとともに、その動機を不思議に思った。ある時母が「私の祖父は辞世の句を墓に彫りあ
の世に行った」と自慢げにその教養を話すのを聞いて、父は「自分にだってできるさ」と
言って書き出したのだと、母は冗談めいて言ったことを思いだした。
 私は父が十七歳のとき船が遭難し、もはやこれまでといった状況のなかで命を取りとめ
た島を訪れたいという願いを、以前に聞いたことがあった。数年前、父自身もそのもくろ
みを実行に移そうというやさき、あいにく胃のほとんどを切り取るという手術をし、「も
うこの歳では無理だな」と断念していたようだった。
 私はこの回想録を読んで、いままで父がまだ充分元気であったため、子として何もして
あげられなかった思いもあったので、その旅行を実現させようと決心した。まずその見島
なるものもどこにあるのか、交通手段やその他、年寄りの旅に無理は生じないかなどから
調べる必要があった。そこでさっそくある旅行会社に調査と旅行のスケジュールを依頼す
ることにした。私は両親の意向を伺い、了解を得たので、兄に相談の上「兄弟夫婦からの
招待旅行」とすることを決めた。
 それは平成八年の四月初旬、両親と兄夫婦四人は佐賀から、私たち夫婦は夜行列車「出
雲一号」を乗り継いで東京から東萩駅に向かった。その島は山口県の萩の港から四十五?
ほど離れた、韓国との間に位置する面積七、八?、昔の萩藩流罪の島であった。二時間の
連絡船の旅は、慣れない私達にとっては非常に苦痛で、春とは言え日本海の荒波は容赦な
く百数十?の船を翻弄した。
 やっとの思いで宿に着くと、さっそく私たちは女将に、木村亀松さんという恩人の消息
を尋ねた。その家は、この島にある二つの港のうち数?離れたもう一つの宇津港であった。
私達は電話で、若い女性の声の相手に真意が伝わったかどうか覚束ないまま、明日の訪問
を約束した。その夜、私達は地図を見ながら、遭難現場はこの赤瀬という岩場ではないか
とか、木村さんに助けられて山を下りた道筋などを求め思いを巡らせた。
 次の日、私達は宿の車で木村家を訪ねた。昨日の電話の女性と思われる人は、私達六人
を見てちょっとひるんだ様子であった。そこには、亀松さんの甥の木村繁男さんが待って
いて、父の話す六十数年前の出来事を聞いてくれた。亀松さんは既にこの世になく、その
子供さんも早世し、いまは孫の代ということで、そのときのことを知る人は一人もいなか
った。私達は鴨居の上の木村亀松さんの遺影に手を合わせ、また海の見える丘の墓に線香
を上げた。
 木村繁男さんは「あなた達が憶測した遭難場所は人家に近く、また切り立った岩場もた
いしたことないので違うのではないか。多分この島の裏側の長谷という韓国に面した場所
と思われます」と言って、車がやっと通ることのできる山道を案内してくれた。
 道の突き当たりはちょっとした広場になっていて、荒れ狂う玄界灘が一望でき、足元か
ら百?もあろうかと思われる断崖が垂直に切り立っていた。この島は日本の本土に向かっ
ては、なだらかな優しい丘陵地帯で水田や畑も見られるが、韓国に向かっては、人を寄せ
付けない断崖絶壁であった。父の記憶による砂浜は満ち潮のせいか見ることができなかっ
たが、十数?もあろうかという立岩がところどころに海面から鋭く突き出ていた。よくも
この断崖を大雪の日に登れたものだと不思議に思われたが、右手の少し突き出た立岩の切
り込んだ襞の部分に、やっと人がはい上がれるほどの勾配の斜面が続いているのが認めら
れた。父は「多分あの切れ目から登ったのだろう」と言って遠い過去の記憶を読み取ろう
としているようだった。そしてきっぱりとした声で「もうよい」と言って車に乗った。私
はこの一言で父の思いが完結したことを悟った。
私達は再び荒波に悩ませられてその島を後にした。萩市内や秋吉台などを回っている中で、
「お父さんはこのごろ歩くのが遅くなったね」「もう歳だからそういうものだろう」など
と噂をしていた。私はそのときすでに父の体に予兆があったのかも知れないと後で気づい
たものだった。
 この小旅行も父の喜びとともに終わり、両親と兄夫婦は佐賀へ、私達は東京行きの新幹
線で同時刻のプラットホームでの別れであった。思い出せば、私と兄が入れ替わっている
とはいえ、四十数年前の鹿島駅での別れと酷似していた。一つ違っていることは、貧しく
哀しい昔の状況と違い、楽しく満ち足りた別れであった。私はこのとき、この回想録の出
版を父と約束したのであるが、心のうちで急がないと間に合わないかもしれないとの予感
めいたものはあった。まさか四ヶ月後という早さで現実になるとは思いもしなかったし,
私が父の姿を見たのはこれが最後となってしまった。
 午後四時ころ趣味にしている農作業を終え、風呂に入って髭を剃り、身だしなみを整え
てテレビの前にいた父が妙なうなり声を出しているのを、母は裏の土間で聞いた。急いで
居間に行ってみると、すでに意識はなく数十分で亡くなったという。通夜の日、主治医の
有島先生から「不整脈が認められたので、ニトログリセリンを持たせていたのですが」と
いう言葉を聞いて私達は驚いた。父はここ数年の間、私達家族にそのことを一言も話さず、
いずれ来る死を黙って整えていたようである。
 そして、本を作ることに関しては全く無知な私達家族が、約束のこの回想録を出版する
ことが出来たのは、校正と監修は北 勲(いさお)氏、装丁とイラストは近藤 勝(まさ
る)氏、印刷と製本は石井 順昭(よりあき)氏という、私の高校時代の同窓生である各
氏の多大なる尽力によるものである。
 ここに、「不器用にしかもひたむきに」生き抜いたこの八十四年の激動の時代を、いつ
も背筋を伸ばし、愚痴を言わず、忍耐強く、しかも老いてなお身だしなみを整えていた父
に、私達は立派に完成したこの回想録を添えて、冥福を祈りたい。


         『不器用に、ひたむききに』より
        

          長い旅路の果て、
          若き二人の思い出の故郷、
          大谷の地に帰り着いた。



66α編集部:2014/03/05(水) 09:51:16
梁山泊
.

               梁山泊 2010年5月(23号)〜



        

梁山泊考  1990  (青春のあの日)

 当時私の部屋は空間・時間を問わず出入りが自由で、水滸伝の面々ほど野心家や豪傑で
はなりけれど、将来の可能性を信じ、かと言って大した努力もしない連中が常に数人屯し
ていて、あたかも梁山泊の如きであった。そこで彼らのその後を、独断と偏見をものとも
せず記念誌に残そうと思う。

○近藤 勝(通称 コンドー)
 自称版画家。時々木版画の個展を開いては例の強引さで知人縁者に買って貰い、芸術
の為と称しては、家族を置き去りにしたまま欧米に放浪する癖あり。最近は己を知ったか、
大口を叩くより大口バスや虹鱒のフライフィッシングと言う粋な釣りに専念している。

○小宮 弘敬〈通称 コンチャン)
 写真の勉強をしていたので、てっきりカメラマンになるかと思っていたら薬九増倍の魅
力に勝てなかった?ともあれ兼好法師も言っている様に、物くるる友、薬師云々、これか
らはお世話になります。

○高柳 増男(通称 マスオ)
 悟朗と双璧の音痴の彼が、驚いたことに音楽事務所を開いて、クラッシックのプロモー
ターとしては特異な存在とか。数年前何を間違えたか、ベルギー政府より叙勲された由。
目はしの利くタイプなので金儲けに走れぬことはないと思うが、不思議に芸術の節度を守
って苦労している模様。

○田辺 悟朗(旧姓 森 通称 ゴロヤン)
 某紙製品会社の一人娘と結婚。自分の代で潰さぬ様色々気苦労も多いらしく、「大陸蛍
光灯」と称されたほど温厚な彼も近年はめっきり経営者らしく厳しい顔になりつつある。
某料理屋にて婚約者を紹介するからという約束に、婚約者(現在の奥方)はじめ皆揃うな
か、数時間遅れの登場。やはりサラリーマン稼業は無理であったか。

○徳重 雅啓(通称 トクサン)
 ある夏、何時ものように「トクサン遊ぼ」と呼びに行くと、窓に格子が造られていて出
入りができない。我々の侵入阻止か、彼の逃亡を防ぐためか?未だ真相は判明していない。
風の便りでは中洲に夜な夜な出没し、飲み代の付けがい1千万との豪快な噂があるような
ないような。

○中島 紀昭(通称 ノンリ)
 数年前までは月の半分は飛行機の上という世界を股にかけた企業戦士だった。そのまた
数年前、副社長としてペルーのダイナマイト工場に赴任し、たぐい稀なる色の黒さが功を
奏して万事うまくいったとか。そのままいれば大統領候補の声もかかったかも知れないの
に。

●最後に、かく言う私は設計事務所を営んでまじめに15年、野次馬と反骨と独立自尊精
神を友として、売れない作家か、依頼人のない探偵の如きマイナーな世界を楽しんでいる。
思えば、1千億個の星を持つ星団が1千億もある膨大なる宇宙の中で生命を宿す星は今の
所この地球のみであり、同じ時、同じ場所で巡り会えることこそ奇蹟。可能な限り旧交を
大事にしたいと思う。




アクセス回数が益々増える!!   2002/10/8
この落書き帳へのアクセス回数が増えました。
昨日までは1日せいぜい15回、今日はグッと増えて28回であります。

LOTO6で初めて1000円当たりました。そのうちウン億円当てるからね。
もしその夢が叶えれば河口湖畔に梁山泊を開設するから期待してくだされ。




「無題」  2007/6/23

◆ 屋外バーベキューグリルを試運転してみる。燃料の炭を一箱・焚き付用ガスバーナー
折りたたみテーブル・ランタンを新たにホームセンターで購入した。いよいよテラスにそ
れらをセットしてグリルに火を付けてみる。炭が調理できるような状態までなるには結構
時間が掛かる。これからは1時間くらい前から着火の準備が必要のデータを掴む。さて赤
いタータンチェックのテーブルクロスをして、牛肉・鶏肉・秋刀魚・玉葱・ピーマン・と
うもろこしを用意した。一寸肌寒いので木綿の上着を羽織りビールをのみながら林の中の
夕暮れを楽しむ。上や下の小径を通お隣さんに「一緒にいかが」と声を掛けたくなるよう
な心安らぐ時間である。あいにく今週はこの山荘の住人達は訪れていいないようである。
首尾良く試運転を終えた細君はいよいよ友人を招待して楽しむ準備が出来たみたいだ。さ
てこれから高校時代の「梁山泊」の連中や「同人α」のメンバー達と浩然の気を養おう。




「はかたさん」 2007/12/3

奈良からのはがきを頂き、秋の古都を一日散歩したくなりました。
当方、月に一度は河口湖へ行っていましたが、貴方とこの春電話で話して以来現地より数
度試みましたが、うまくコンタクトも取れずにご無沙汰しました。その後菜園からの収穫
という風の便りが聞こえて来ないところをみますと、今年は試運転期間だったと推察され
ます。
春先に3m位の紅葉の木を三本敷地に植えたので、今年の秋にはと楽しみにしていました
が見に行くのが早かったり、遅かったりなかなかタイミングが合わず、はたしてどれくら
いの色合いになるのかまだ確認はしていません。だから家の新しい紅葉3本の色具合は来
年の楽しみです。
湖の側に建つ廃墟のようなマンションの敷地にあった胡桃の大木が、夏を過ぎた頃行って
見ると根本からバッサリと切られていて、毎年採取していたたくさんの実も今年は収穫出
来なくなりました。近くのガソリンスタンドの主人に「どうして切られたのか」と問いた
だすと、台風で倒れたとのことでした。だから湖の周りにいい胡桃の木がないかいま探索
中です。
同人αの発行も13冊目になりました。「斜光」を飛び出してから遂に発行回数を抜き去り
ました。どうせオーマンな連中の冊子だから3回くらいで中止になるぜ、と考えた人もあ
るかと思います。だから年に4冊の発行がまだつづいていることに多少鼻が高い思いをし
ています。出身も年齢も違う同人が増えて、ベルギーやフランスやアメリカや北海道など
からの投稿する同人もただいま16人になりました。数冊を同封進呈しますから、眠られ
ない夜に睡眠剤代わりに服用してください。幻覚や依存症などの副作用はないものと信じ
ます。
梁山泊の連中の中から急いで鬼籍になる者も出てきているこの頃、たまには彼等の悪口を
肴に一献傾けたいと思ってはいますが、いまのところ随分忙しくそのうちなんとか企画し
ましょう。




「悟郎を励ます梁山泊の会」 2009/11/10

11月28日(土曜日)pm6:00
「うまい鮨勘」6名




「万理さんへ」      2009/11/27
「三つの願い」の望外のお褒めありがとうございます。この作品において、私には初め
ての評価をいただき、うれしく思うと同時に励みになります。しかし最初の創作物として
努力した結果、当初はほとんど反応がありませんでした。私も今までたいしたものでもな
かったと、半分忘れしまっていました。今思うとビギナーズ・ラックなようなものなのか、
それともこれからも続けてあのような力作ができるのかどうかわかりません。また、私と
したことが浅はかにも一番の力作を最初に出すという、ポーカーでは絶対勝てない稚拙な
戦法をとってしまいました。書いたものの中に今後万理さんの評価に耐えるものがあるか
どうか、少々心配であります。

万理さんの日記で小さい頃のことがいくらか判るようになりました。今度は私の若い頃
の一部を紹介しましょう。

 佐賀県の文化レベルが高いかどうかは私には判断できませんが、私の友人達は勉学にお
いてはまあまあの個性的な人が多かった。ほとんどが受験に血眼になって閉じこもるので
はなく、クラブ活動もするし、家(梁山泊)に集まる10人ほどのグループは月に1度くら
いはハイキングや山登り・誕生会・クリスマスなどで集まっていました。ウドンコは私の
部屋に下宿していたし、高柳は時々私の家から学校に行っていたし、男の子達は特に日曜
祭日になるとたいてい3・4人は一部屋に寝ていましたね。
グループは男の子と女の子がそれぞれ4・5人づついて、あの江戸時代の大藩であった
佐賀藩のなかでも、信じられないくらい開放的でした。高校生の皆がそうであったか、私
の周りの特別な環境だったかはわかりません。その「梁山泊」に出入りした連中はいまで
もつきあっています。O−chanは管弦学部と郵便友の会で一緒でした。もう50年の
付き合いになります。北くんとは「斜光」を作った時からのつきあいです。今では一番近
い友人の一人になりましけれど、高校生のときは頭のいい生徒会長の彼を私は眩しげに憧
れの目でみるだけでした。一方彼は私の存在すら認めていなかったでしょう。
万理さんは「Gさん、Tさん、Uさん、その他多くの皆様の絵がうまくてびっくりです。
5年生の万理の絵を見返すと惨めな気持ちに陥るほどです」といわれますが、私はそうは
思いません。あなたの絵には物語が見えます。なにか一心に真理を追求するような視線が
見えます。たとえば、G氏は思いの外ギロリとしたドロドロした想念を感じさせる才能を
持ち合わせているようですが、Tさんの絵はテクニック的には実にうまい。しかし奥行き
や広がりや物語性が感じられない。たんなる挿絵に過ぎないと私は思います。あなたの絵
は不思議な時間と空間と物語性があります。小さい頃の姿は自己紹介の夏休み日記でわか
りましたが、さてこれからどのような万理さんが登場するか楽しみであります。




「田辺悟朗君の同人α入会」 2010/10/23

田辺悟朗(旧姓 森)君が同人αに入会されましたのでご報告いたします。
彼は私と中学校そして高校、その後現在までの長きにわたり親しく付き合ってきた朋友で
あります。特に高校の頃は「梁山泊」と称した私の部屋にいつも屯していた十数人のうち
の一人で、ことある毎にハイキングや旅行やいろいろの遊びを共有してきた同志でありま
す。また大学時代には「傾斜」、15年前には「斜光」という同人誌を立ち上げた創始者の
一人でもあります。そのような濃い縁(えにし)の名文家が再び戻ってきてくれたことを
大変嬉しく思います。いまは現役を退いたすぐですので、もうしばらくは鋭気を養う期間
が必要のようですが、そのうちエネルギーが満ちてくると、派手ではありませんが彼独特
の味わいのある文を書いてくれるでしょう。まずはよかった!!




「博田さんから」 2010/10/29

今朝博田貴美子さんから久しぶりの電話があった。富士五湖隣保班の独りである。
「斜光」の「目の再生工場からに帰還」を読んで、そんなに悪かったのということだった。
とにかくそのうち江口裕子さんが福岡から上京してきたときに「梁山泊」の会をやろうと
いうことになった。




「窓辺にて−アラン全集」 2010/10/30

 今日は台風で雨。5年前この山荘を造るときから台風に縁がある。東京から現場に出か
けるときはいつも台風がついてきた。だから慣れっこになっていて、折角の行楽に水を差
されてがっかりするという思いは余りない。返って一日中家の中で薪ストーブを炊き、昔
の髭面の己の姿をアルバムのなかから見つけ出したり、昔買った本への新しい興味を見い
だしたりと結構楽しいものだ。
 私は本棚から褐色になって古びたアラン全集10巻を見つけ出した。「梁山泊」の仲間
の一人で、早世した徳重君が高校生のときにアランのことをよく話題にしていたのを思い
出した。彼がその時点でどれだけその本を詳しく読みこなしていたのか判らないが、体の
不調や親との確執などの数々の悩みを背負い込んでいた彼は、生きるための本質を掴みた
いという思いに駆られていたのだろう。
 アランはペンネームで本名はエミール=オーギュスト・シャルティエといい、フランス
のリセ(高等学校)の教師となる。 過去の偉大な哲学者達の思想と彼独自の思想を絶妙
に絡み合わせた彼の哲学講義は、学生に絶大な支持を受け、彼の教え子達の中からは、後
の哲学者が多く輩出されている。女流哲学者のシモーヌ・ヴェイユは彼の教え子。
彼はまえがきで「もしこの本がだれか職業哲学者の批判の対象となってとやかく言われる
ようなことがあれば、そう考えただけでも、書きながらみいだした生き生きした喜びは台
無しにあるだろう。喜びというものがまれな今日このごろでは、書くよろこびといものが
本をつくる理由だと、私にはおもわれる」といっている。
 それにしても、このような生活の中での、「記憶」「想像力」「自己愛」「野心」「誠実」
「正義」「時間」「空間」の身近なことの認識について、をフランスでは高等学校ですで
に教えていることに驚く。さてすこし私も腰をすえてもう一度読み直してみよう。




「斜光」投稿文の感想のお礼」 2011/5/25 万華鏡

私は佐高卒業30周年記念大会で発行された「青春のあの日」に「梁山泊考」という一文
を投稿するまで、一度も読んでもらうための文章を創りませんでした。またそれまでは自
分のそのような志向の存在すらまったく自覚していませんでした。
そのときの冊子およびその後の「斜光」において、幸いにも発表の場が私に与えられ、そ
の意義を啓発される機会がに恵まれたことを深く感謝します。

私は最初からたくさんの読者に、血湧き肉躍る楽しさやほのぼのとした明るい平和な読み
物を書こうとは思っていませんでした。三内(さんない)丸山遺跡出土の縄文遺物ではあ
りませんが、明るくない、洒落ていない、面白くないの三無(さんない)作品ばかりであ
ったと言えましょう。「晴やか」な部分ではなくむしろ心の襞に隠れている、人間の弱さ
や女々しさなど「褻(け)」の部分を見つめ、それを思考した記録を残したいと思ったか
らです。

私自身はパラノイア(偏執)というよりスキゾフレニー(分裂)の傾向があると思ってい
ますが、その後の「同人誌」活動を含め、あらためて書いたものの数を眺めてみますと、
パラノイア的に創作を諦めることなく、自分でも結構遠くへ来たものだという感慨に耽る
この頃です。たぶんこの世に残す私の思考の痕跡は、書き物というこれらの残滓のみでし
ょう。勿論、全くの自己満足の世界であることは承知の上であります。

三十回に到達しそうな回数の転居そのものが、その時々の生きて行く道の岐路で、AとB
の狭間で揺れる心象風景を伴ったものでした。そして捨て去ったもの、滅び去るものの中
に憐憫と郷愁を美を覚えたものです。おそらくこれからも、この狭間で歪んだ鈍色の風景
のなかに立ち止まり思案する己の姿は見られるでしょうし、その暗闇とまでいかない薄暗
いモノクロ世界で、今回のように旅人ーM氏のようにほのかな灯りを貸していただければ、
自分の生存の証を確認することが出来るでしょう。ありがとうございました。




堪えるなあ。   2013/5  同人α後記

 先日、梁山泊の仲間の一人が亡くなった。写真の十二人のうち四人が鬼籍に入ったこと
になる。美人薄命、憎まれっ子世に憚るなどという言葉を聞くと、長生きもいい加減にし
なくてはと思うこともある。セピア色の写真に写った前途洋々の少年少女の時代が懐かし
く郷愁も覚えるが、何も嘆くことはない。短命であろうと長生きであろうと皆、自分の人
生を一所懸命生きて来たのだから。しかし幼なじみが一人二人といなくなるのは少々堪え
るなあ。
          (卒業30周年記念誌より)
         
??         *渾名が白抜きで書かれています。左から、「いわゆるゴロー」
          「スタスタのマスオ」「馬猿の近藤」「シミキンのコガ」



67α編集部:2014/03/06(木) 08:34:05
オキシモーラン1
.
     ???? オキシモーラン1 2002-2008



 「Oxymoron」オキシモーラン(オキシモロン)はあまり聞き慣れない言葉だ。
英和辞書には「撞着語法」と短く書いてある。
撞着、矛盾だから、矛盾した言葉を結合させる語法のようだ。
「語法」とあるからには、この矛盾したものどうしの結合から新たな世界を創るとい
うひとつの試み、方法なのだろう。
 オキシモーラン活動を地道にしてきた神野氏の作品を思い浮かべる、その神野氏を
師と仰ぐ赤松氏の作品を思い浮かべる、確かにどこかその匂いがする。極めて論理的
な人が、矛盾する言葉を並べて遊ぼう、試そうとするところがまた興味深い。

 二人が直接的にこの言葉を説明したに記事はないかと探してみたところ、神野氏が
ほんの少しだけ触れていた。
 ……………………………………………………………………………………………………
 『言葉集め星造り』も着想は二十代です。これは、言葉が、単語から句、文、話
 へ大きくなるのを、宇宙の膨張になぞらえたものです。こちらでは、れいの「オ
 キシモーラン 0xymoron」、言い換えると、俳句用語で言う「取り合わせ」や「二
 者合体」を楽しみつつ、言葉の全相に迫ろうと試みたものです。
 ……………………………………………………………………………………………………
とある。なるほど、なるほど。         (編集部)






パラドックス 2002/11/12??落書き帳

戦争について考えるに、人はなぜ平和を得るため武器を持って戦うのでしょうか?
武器のない争いのない平穏な生活を望むために、人を脅かす戦争という手段を用いることに矛
盾を感じないのでしょうか?これは平和のために戦争をというパラドックスの罠には填ってい
ます。

また、人はすべて他の生き物を殺し、食すことでしか生命の維持が出来ないことは実に罪深い
ことではないでしょうか。これはまたパラドックスの極地であり、宗教でいう「原罪」はここ
に行き着く想いではないでしょうか?

このような矛盾の中でしか生存できない私達生き物であるならば、それでも「生きる」という
名分を見つけなければならないのですが、私にはまだ解答が得られないのです。




暇と金の関係  2003/2/9  落書き帳

暇があれば金がない、または金はあるが使う暇がないと世間ではいいますが、そりゃー両方あ
るにこしたことはありません。しかしこの世情では片方でもあればめっけものと考えて楽しん
だが得でしょう。

私なんざー、自慢じゃないが今も昔も両方とも縁がない人生でごさいます。
最近やっと疫病神と貧乏神に三下り半をしたためて、引導を渡そうかと密かに目論んでいる次
第。その前に力つきてくたばるやも知れませんが・・・。




速さがとりえ ??2003/2/4??落書き帳

blackmail:恐喝する,ゆする
blackout:停電,記憶[意識,視覚]喪失

「計三個の問題です」とありますが、もうひとつは何でしょう。
作者がとつぜんblackout(記憶喪失)したか?質問の意味を解さない私がblackout(停電)
したか?

あとで読み返してみたら、「ランゲルハンス島の住人」が「ランゲルハウス」になっていた。
やはり、私の脳のほうに問題があることを発見した。




I氏へ   2003/2/4

ずっと昔、読書家のI氏から最先端科学の「複雑系」の話を聞いた覚えがありました。そのと
きはたいした興味を覚えなかったが、最近「量子力学」・「超ひも理論」などをへて「複雑系」
の本を読みました。

ところで、「nさんへ」の投稿をみると堅物ばっかりと思っていたI氏もそのようなユーモア
の持ち主であることが判って嬉しいですね。

小生も自分ではよく出来たと思うのですが、そのようなダジャレを息子から「親父ギャグ」と
白い目で一笑にふされ続けています。しかし、「親父ギャグ」は江戸時代よりつづくダジャレ
を継承していて言葉遊びの一つの文化でしょう。同音異義や何かに見立てる掛詞などを瞬時に
組み立てて表現することは並の業ではありません。

話はかわって、異風者氏は「読書会」ば自分と違う傾向の本をテーマにしているとこのHPに
書いておられたが、それは違います。参加した人が次の本を決める訳ですから、漫画・エロ・
科学・哲学・神学等、そのジャンルは問いません。

そう言うわけで、是非「読書会」に参加されて、私共を「構造改革とロジステック方程式」や
「零式艦上戦闘機」の迷宮へ誘って欲しいと思います。




さすが教授! 2003/12/19?? 落書き帳

さすが教授、比較文化はいよいよ佳境にはいりましたね。なかなか面白い。
「古事記」上巻神武天皇の巻に「大便之溝涼下」あるように、古来の日本は厠といって川の上
につくり、そのままポトンと流していたそうな。雷(いかずち)の神の母親は厠で糞闘中、川
を流れ下って来たさる男性の神様にレイプされて妊娠し、雷(いかずち)の神を生むときその
熱さに「御陰(みほと)焼かえて失せにけり」だったとか。比較文化これからも楽しみにして
います。




アクセス20000?? 2003/12/25?? 落書き帳

遂に20000番目のアクセスに成功。朝から狙っていたかいがありました。
楠葉さん、骨折したとはお気の毒に。徒然草第八九段の「猫また」に襲われての災難ではあり
ませんか。吉田兼好は現代に立派に通用する実に合理的な考えの持ち主のだと小生は思いまし
た。



解読に閉口しましたか? 2003/6/4??????落書き帳

当て字について叱られてしまった・・・ハハハー。
(ここは好きだった枝雀の照れ笑いを思い出してください)

たまにはジェームス・ジョイスの「フィネガンス・ウエイク」の筆法もよかろうと考えました
が、底が浅かったようで・・・ハハハ。




応援ありがと 2004/6/5?? 落書き帳

当て字文をK・M生さんから賛同をえて安心しました。時の権力者に対する批判や社会の風潮
に対する風刺やあざけりの意をふくんだ匿名の文書を人目に触れやすい場所に落とし人に拾わ
せたり、相手の家の門壁などにはりつけたものがあり、平安時代からみられたもので詩歌形式
のものを落首(らくしゅ)といいました。この落書き帳も少なからず、見事な言い換えや掛詞
などで庶民の気持ちを代弁する精神を受け継いだものだと私は勝手に解釈しています。そうい
う訳でおおいに世相を風刺し、笑いとばしましょう。

昔こういう文をつくりましたが残念ながらホームページではルビが使えず、解読に難しさがみ
られます。
あえて( )書きのふりがなを付ければいささか間が抜けていてしまりがないのが残念です。

重苦念男起(じゅくねんおとこたち)のバードウオッテイング泡酷暑(ほうこくしょ)

                         壱千九百九拾九.?.弐拾七
                         ランゲルハンス島の住人 記


K.M君、M.O君、M・K君そしてしんがりに控えし将星(しょうせい)、もっと精強(せ
いきょう)かと奇態(きたい)したのだが、たった4人の盗見会(とりみかい)でありました。
“霧理(ぎり)と刃傷(にんじょう)を大拙(たいせつ)に”をモットーとして夜渡(よわた
り)りしていると思しき者のみ討ち揃い、暗き孔より除見(のぞきみ)たる爺蔦(やちょう)
の数々。革兎(かわう)、白詐欺(しらさぎ)、阿保詐偽(あおさぎ)、大蛮(おおばん)
怪粒梨(かいつぶり)、さて最期に磯市議(いそしぎ)の搭乗(とうじよう)。はたと思いう
かべしは、襟座辺数(えりざべす)・手柄裸(てーらー)と痢茶℃(りちゃーど)・罵豚
(ばーとん)、稚野留守(ちゃーるす)・風呂運損(ぶろんそん)のお撒けつき、吸什然
(すうじゅうねん)まえの死値馬(しねま)の輪題(わだい)に観劇(かんげき)し輪飲
(わいん)2罠(ふたびん)をたいらげて迷亭し、絵殿(えでんの)の乾菓子(ひがし)の沙
里茄子(さりなす)か磯市議(いそしぎ)の門テレ(もんてれー)を彷徨したれば夢心地の
壱日ではありました。

ベルギー在住の方には難しかったかな・・・それともくだらなかったか。
正確な日本語を思い出そうという努力を台無しにしたかも・・・。




開けられたパンドラの箱 2004/6/9??????落書き帳

ダグウッド・ブッシュに「パンドラの箱」を与えたのは誰だ?勿論アメリカ国民の過半数によ
ってね。

彼は禁断のその箱を皆が「止せ」という忠告も聞かず開けてしまった。ゼウスによって封じこ
まれたこの世のすべての悪と災難がいま世界に充満しようとしている。貪欲・中傷・虚栄・疑
心暗鬼・飢餓・破壊・・・。

いまはブロンディにダグウッドの乱暴を止めるよう頼むほかないか・・・この空想と現実がご
ちゃ混ぜになってしまった悪夢もそのせいか?

混沌の世の中、それでもなお「パンドラの箱」の底に最後に残った「希望」が人類を救うこと
を願いたい。




光電盤も賑やかになりました 2004/ 6/10????落書き帳

この光電盤も海外からそして兎小屋の屋根裏書斎からと、いろいろの職歴、いろいろの思想の
持った人方々が自由に自分の意見を発信し、実に多彩で賑やかになりました。二年前には想像
もつかない発展ぶりです。そのうちいっぱい飲みながら覆面懇談会でも開催しませんか?

K・M生さん ランゲルハンス島には全ての人の細胞もすでに住んでいることを報告します。
なお私は下記のごとく人間の腑臓の中枢に住む天邪鬼であります。

すいぞう(‥ザウ)【膵臓】・【ランゲルハンス島】
胃の後下部に位置し、消化腺と内分泌腺とが合一した臓器。人では長さ一五センチメートルぐ
らいの細長い木の葉状をなす。消化酵素を含む膵液を膵管によって十二指腸に分泌する。
内分泌機能としてはランゲルハンス島から血液中にインシュリン・グリカゴンなどを分泌す
る。ランゲルハンス島の名はランゲルハンス(Langerhans)という ドイツの病理学者の名か
らとってつけられた器官であります。




やめてえー候。  2004/11/3????????落書き帳
笑声も輪大の「客死剣・オニの瓜」を奇態して診る心算でありますが、かっちゃん!!
あまり商才な回折は困りまする。最期の愉しみに撮って奥いた叛忍を細書に夢夜矢離報された
ようで京見が半間致すは必定・・・。
憎まれ愚痴のついでに、この欄の投降も十行くらいに納めるという諦闇を死体がいかが?
磯がしい時は投降文があまりの永さだと半分も詠まない人も大飯ともおもうよ・・・。




*「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」 2007/11/26 旧α掲示板 *同人α13号

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案し
 てきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新
 しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつ
 か試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A
 列は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列
 それぞれに乱数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番
 号をそれぞれ若い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、
 「民主主義における無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」など と判
 じ物のようなものが出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろ
 う。そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎ
 にぎしく騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり
 始める。傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じな
 がら想像も付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉
 同志のミスマッチによるおもしろさをかみしめる。
◆ それにしても現在はアバンギャルドというかアナーキーな前衛芸術というか、す
 っかり影を潜めてしまっている。これは既成概念に支配されて満足しているだけの
 活力のない社会になってしまったようで、学園にもイデオロギーに被れた若い学生
 達咆哮もなく、北島君の担当した「同人α」第3号の表題である「狂気」をも持ち
 得ない人達ばかりになってしまったのか。などと世間にたいして斜に構えながら肉
 体的には衰えても精神的には老成したくはないそとばかりに勇みこんでいる。
 しかし、だから、そして、これでは「パラレル宇宙」の評になってはいないな。
 北君ごめんなさい。




*「シリーズ・歪んだ風景−異星人」の合評のお礼 2007/12/9??旧α掲示板 *同人α13号

私への合評のお礼が北島氏論のまっただ中に割り込むという間の悪い行為で申し訳あ
りません。私の行動はいつも人の歩調に合わない・合わせない「ずれずれくさ」のて
いたらくであります。

◆ 「知の論理」という本の中で<欲すること>と<知ること>のあいだのある決定
 的な断絶について論じた文がありました。その中に吉田戦車の「伝染るんです」と
 いうマンガについて「圧倒的なナンセンスの氾濫のなかでも、ほとんど傑作とよび
 たいくらいのぷっつんぶりで、そのユニークさや不気味さを気味悪いくらい鮮やか
 にさししめしている」とあります。その四コマ漫画に出てくる少年は、事故かなに
 かで脳を傷つけたらしいと思わせるような、頭に血が滲んでいる包帯を巻いていて、
 彼の発する言葉は話し相手にはどうしても理解できないもので、そのずれは分裂症
 の患者の発する言語に似ているようです。私はそのような不思議な論理でコンタク
 トをとろうとする思考の根拠と言葉による意思の疎通の可能と不可能についてこれ
 からも知りたいと思っています。
◆ 慣れない人にとっては苦痛を伴うような読みづらい「異星人」の合評ありがとう
 ございました。私はこれまでなんとか美しい言葉での表現や理論的な整合性を大切
 にして自分の思いを伝えたいと努力し、いかに表現すれば共感を得られるか、ああ
 でもないこうでもないと試行錯誤しながら必死で探し求めてきました。しかし今は
 自分と読者が同じ感覚での理解と共感を100%一致させることは、本質的にあり得
 ないことだと悟りました。同じような環境、同じような経験と思われる中でも、そ
 の人その人の過去の経験や考え方で少しずつずれを生じた解釈をしているに違いあ
 りません。すくなからず一般的な付き合い程度の事柄は、いわゆる同床異夢である
 ことを感じない程度の深さの付き合いにおいてはたいした破綻を来さないで過ごし
 ているのが殆どのことでありましょう。どうせ100%の共感がなくても世の中はな
 んの支障もなく回っているのであるならば、さてそこで、だから、そのことを踏ま
 えて、一度言葉のシステムといいますか、何となくなれ合っている表現や字面や意
 味をめちゃめちゃにした、一種のルール無視を敢えてすればなにが破壊され、何が
 新しい価値を持って生まれてくるだろうかと思った次第です。これはまさしく手法
 は違っていても、神野佐嘉江氏と同じ世界をめざしているよう私には感じます。今
 回の試みで、80%程度の理解は期待できなくても、10%の共感をえられたであり
 ましょうか、

◆ そう言うわけで記号化した言葉の異質な組み合わせの妙を楽しむために、神野佐
 嘉江氏による造語「オキシモーラン」の運動を発展させて言葉による遊びのシステ
 ムを創ろうと思っています。そして一つの方法を完成させるべくいま思考中であり
 ますので、ご期待ください。




「オキシモーラン」言葉遊び1  2007/12/12 旧α掲示板

まず何を創るか、なにから始めるか、どのように進めるか。どのように発展するか、
どのような効果が期待できるかはいまのところ全く未知である。それは詰まらぬもの
か、予想外に面白いものかやってみないと判らない。
今の考えでは俳句や和歌の形式とし、文節に分解し記号化したものをエクセルの列と
して集め、A列に名詞を、B列に形容詞や副詞をC列に動詞や述語をといった方法で
記録する。
最後に仕上げとしてそれぞれの列で乱数を発生させてそれをソートし、若い数の順に
並び替える。全く関連性のない各文節で出来上がった句なり和歌の新しい文が表現す
る面白味、諧謔、隠喩、比喩等の新しい解釈が出来ることを期待しよう。

(案)
◆ 賛同者を募り表現方法、活動方針などを検討する
◆ エクセルの列に言葉を集める。
 1.名詞
   a.イデオロギー
    b.場所
    c.人物
    d.本の名前
 2.形容詞
 3.副詞
 4.動詞





「オキシモーラン言葉遊び」2 2007/12/22  旧α掲示板

先日より「オキシモーラン言葉遊び」のEXCELを利用したシステムを作る算段で、
いろいろと長岡氏の知恵を借りた。関数についての何回かのやりとりで一応使えるシ
ステムが立ち上がる目途がたった。

◆ 長岡 様
 なかなか忙しくご無沙汰しています。
 ところで、オキシモーラン言葉遊びのソフトを作るためにエクセルの関数を使用し
 ていますが、もしご存じでしたらご教示ください。
 添付したエクセルのA、C、E、G、I列の数値を乱数を発生させる関数を使って
 いますが、若い数字順にソートするために、その数字を固定しなければなりません。
 そのためにはRAND()*1000のあとにCtrl+F9を押す必要がありますが、
 連続で固定する方法が分かりません。もしご存じであれば教えてください。
 それから、O−chanが23日の忘年会への出欠の回答が無いと悩んでいました
 が、いかがでしょう。返事して上げてください。今年最後の会合を楽しみにしてい
 ます。
 その前に「肥と筑」の合評という難関をクリアーしなければなりませんが。
◆ EXCEL RAND() をキーワードにして
 グーグルのオプション検索で得た結果を添付します。この方法を応用すれば、多分、
 問題は解決できると思います。但し、50個/列の5列全てに関数を入れて行くの
 はそれなりに大変だとは思いますが。
◆ 毎回、各列の単語それぞれの順位(例えば、1位〜50位)が、必要なのでしょ
 うもしそうではなく、各列の50個の中から一つ選ぶだけで良いのならば、例えば
 RANDBETWEEN(1,50)を各列で求めてやれば、ずっと簡単に、求める回答が得
 られると思うのですが。
◆ 例題に対して、RANK関数を応用したEXCEL解とその毎回変わる結果を、TAB
 区切りのTEXTとして固定したものを添付します。どうやら、この方法を使うこ
 とが出来そうですね。
◆ 私が、ずっと誤解をしていたようです。要するにある時点で、[f 9]キーを押
 した乱数生成の結果を保持しA, C, E, G, I 列の数値ごとに、2列ずつソートす
るわけですね。
 次の手順が使えます。(例:test-2.xls)
   1)乱数生成で得られたEXCEL表の第一行(題名行)を削除する。
     (題名行があると、手順4)のソートの際に文句を言ってきます。)
   2)TEXTファイル(TAB区切り)として書き込む。
     (この時、関数機能は削除されるのでデータは全て固定されます。)
   3)今書き込んだTEXTファイルを、EXCELで読み出す。
   4)A, C, E, G, I 列の数値に基づき、2列ずつソートする。
     これは、データ(D)の並べ替え(S)で可能です。

 貴方より頂いたRANK(A2,$A$2:$A$100) 関数は使えますね。
  A列にRAND()*1000で3桁の乱数を発生させ
  B列にRANK(A2,$A$2:$A$100)で序列化をし
  C列に「形式を選択をして貼り付ける」を開き「値」にチェックを入れて、B列
  の「値」をC列に貼り付けると固定された数値がコピーできました。
  ctr+F9を押すという考えに固執していましたが、よく考えると実に単純でした。
  いろいろお騒がせしましたが、これでシステムの目途がつきました。ありがとう
  ございます。しかしもっといいアイデアがあるかも知れませんので、これからも
  よろしく・・・。




「ナンセンス文学」 2008/1/3  窓辺にて

◆「人体の態度、姿態、運動は、この人体が、一つの単なるメカニックであると我々
 に思わせることに性格に比例して滑稽である」−ベルグゾン
◆自然とメカニックなるものとの対立を発見して、これを意識的に己に、或は文学上
 に再現することは、明らかに人間高度の理智の機能である。感傷の国日本に「ナン
 センス文学」の貧弱な所以も個々にある−小林秀雄全集第一巻P160
◆「オキシモーラン言葉遊び」は言葉をメカニックに分解・再生するナンセンス文学
 に成り得るか?




「北君へメール」  2008/4/28

今日から北君の合評期間になる由を伝える。それに伴いブログ用の写真をみつくろっ
て郵送してくれるように依頼した。そのときの話で
◆北君が独自のブログを開設して、いままでの作品集をつくり同人αのホームページ
 とリンクすれば、皆さんに読んでもらえるのではないかと提案した。
◆北君より二冊の本について紹介された。
 * バロ−著:無限のはなし
 * 文藝春秋今月号:茂木健一郎の「オキシモーラン」について



68α編集部:2014/03/07(金) 08:05:49
オキシモーラン2
.

        オキシモーラン2 2009-2011前半


            
             「オキシモーラン言葉遊び」の師匠





万理さんより
2009/11/19

神野巨人・巨匠  「文芸は爆発だ!!」3
感想文案その2
神野語による作文学習 1
**************************************
【逗子花火大会】
花火 火花 ばなな 吉本ばなな 隆明 おぼれる 女 マージャン イイジャン
じゃんけんぽん 水面鏡の万華鏡 砂に寝ころび蟹とたわむる
**************************************
爆発どころか 「0点だ!!」
私の言葉は土台がもともとないから、一度飛び散ったら 勝ってほうだい、宇宙のは
てまで届かずに消えていく。是覆水本盆




万里さんへ
 2009/11/19

 あなたの感想を読んだらKくんも同類がいたと思ってきっと喜ぶと思います。そこ
で、二つの提案があります。
 一つは、私は「窓辺にて」という日記をブログ上で書いていますが、検索しようと
思う人は探し出して読めるようです。そのようにして4・5人が密かに読んでいる模
様です。確実な人はKくん、Oさん、Nさんなど・・・。
あなたが私に送ってくれるメール文は非常におもしろいからあなたとのやりとりをこ
の日記に記録したいと思っています。そのように数人にバレバレでよいと思うようで
したら、そのように返事ください。もしいやならよしましょう。私は正面切っては言
えないことを、密かにのぞいている人を意識してわざと揶揄することもあり、その微
妙な関係がまたおもしろいと考えています。
 二つ目は、Kくんが「オキシモーランの会」を作ろうよ、と私をさそいました。そ
の「オキシモーラン」とは江崎玲於奈氏が使い始めたことばで、その意味は全く異質
なものの組み合わせで新しい価値を生み出そうということらしい。そして詩の分野で
は西脇順三郎の提唱する、伝統や因習に因われない詩的言語の新しさを求める運動に
つながっていると思われます。
Kくんの作品はそれを大胆に鋭く進めたものだとおもいます。私も前に主語、動詞、
副詞、形容詞、名詞などを新聞紙などから集めてエクセルで、その言葉をランダムに
組み合わせるソフトを考えて見たことがあります。その組み合わせた陳腐な文節は奇
妙奇天烈で、読み方によっては諧謔的、ある種の真実を含むおもしろいものでした。
Kくんは文学者らしく、自分の頭の中で計算してつくりますが、私は理系らしく全く
情緒抜きにテクニカルに言葉を組み合わせるという方法を考えました。いかがですか、
この「オキシモーランの会」は?行動に移すことに興味はありますか?



万里さんから
  2009/11/19

ともにOKです。
<窓辺にて>
A先生は私の頭を透視できるのでしょうか。
Aさんに送るメールの中には、言の輪に書き込もうかと少々迷うものもあります。異
端児とは言え、あまりに個人的であったり、幼稚であったり(私にも若干のプライド
だけは残っている?)、誤解されるようなもであったり・・・一々先生に聞くのも面
倒だし、「自分で判断しろ」といわれるに決まっているからこれまで話題にしたこと
はありませんでした。私は直感、感性で動く、決めることが多くあります。
Kさん、Oさん、Nさん、まったく問題ありません。むしろ読んでいただきたいくら
いです。とにかく先生が良いと考えた人は多分間違いはないと思うし、一回先生のフ
ィルターを通すわけですから・・・判断はおまかせします。私の著作権は全てお譲り
します。(偉そうに!!)
「オキシモーランの会」
頭の回転の鈍い私、神野巨人様があの博識のK様であることに気づきませんでした。
(名簿確認までは気が回らなかった)
なるほど、なるほど・・・・・・
私は単純に言葉遊びが好きなだけですが、お仲間に入れていただければ、神野ワール
ド学習にもなるでしょうし、もちろんAワールドをもとと知ることができるでしょう。




『言葉集め星創り五拾番』密と罪の花を読んで
2010/2/23

神野 佐嘉江氏の混沌の世界で遊ぶ者は、ネジが一本外れたか又は配置を換えした、お
めでたい脳みその持ち主、万理久利さんと私の二人だけなのか。作者の文のなかで目に
ついた言葉をはじめからトレースしたら、ほとんど万理さんと同じで、重複するからこ
こでは書かない。先日言葉とはなにか 丸山圭三郎著を読んでいて次のようなものが
目にとまった。机の冬は、病み上がりの色できしみつづけ:失語症患者の文妙なる屍
は、新たなる酒を飲むであろう:シュルレアリストの実験詩神野氏の提唱するオキシモーラン
の会員の一人として、私も不可解な言葉の文章を作って見たくなった。そこで作ったの
が次の十の文章である。意味は各読者の連想に委ねるという無責任極まりないもので、

混沌のプールの中で自由に泳いで、溺れてくだされ。
汚れた空気 大好評自民党終演 一発合格適正検査
シネマの町 万能細胞主君の理不尽 悪玉論鮮やか
振り込め詐欺 独自の理念を求め  正直者将来夢膨らむ
カラダに良品 悪銭が蔓延り要求  無料見積
蕪村門下の 仲南海ここは退屈な星 出馬へ大関名寄岩
小細工なしの真っ向勝負 サントリー名門が いいと思います
機械工業社会に 生徒が発表無謬論 発信しては投資した
武芸一筋破壊的 DL引き出し学芸賞 学力をはぐぐむ
ゼロから始め 爆破予告電話入 自分のお墓を整えた
鍵握る男世界的 金融不安を迎え  解放する受賞


2011年


西脇順三郎
2011/6/3

朝日新聞 2011.6.3 に「詩を変えた西脇順三郎」という記事があった。言葉をつむ
いだの は現代詩の創始者とされる西脇順三郎のその生涯と作品がテレビ番組にまと
められた。
「エッジスペシャル 新しき美を求めて、詩人・西脇順三郎」というCS放送、18
日夜9時45分に再放送されるらしい。残念ながら私のTVではCSが映らない。
西脇順三郎の詩は読者にとって、その意味もつながりも情景すら定かに浮かばない、
メタファーの世界である。例えば「旅人かへらず」の詩は

旅人は侍てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考へよ人生の旅人/汝もまた岩
間からしみ出た/水霊にすぎない/この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時に
ひからびる/ああかけすが鳴いてやかましい/時々この水の中から/花をかざした幻
影の人が出る/永遠の生命を求めるは夢/流れ去る生命のせせらぎに/思ひを捨て遂
に/永劫の断崖より落ちて/消え失せんと望むはうつつ/さう言ふはこの幻影の河童
/村や町へ水から出て遊ぴに来る/浮雲の影に水草ののぴる頃

私はこの新聞記事を読んで「オキシモーランの会」を再び活動させたいという意欲が
湧いてきた。2007/11/26日の日記には「もう7・8年になるだろうか、北君が「オキ
シモーランの会」を作ろうと提案してきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二
つの異質なものの結合によって新しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風
を示すものだった。私もいくつか試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷
徹に見なし、エクセルの縦A列は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉
を100ばかり創りABC列それぞれに乱数をコンピューターで発生させて番号をつけ
る。その後ABC列の番号をそれぞれ若い順にソートして並べてみると「資本論は忍
術である」となったり、「民主主義における無限級数は小さな階段を這い上がって死
に絶えた」などと判じ物のようなものが出来上がった。」と書いてあった。

これが詩なのかどうか、その価値があるか判らないが言葉遊びとしては結構面白い。
またシステマチックなことの好きな私としてはエクセルという感情抜きの乱数配列の
なかに、人間的な情感の言葉を紡ぐという遊びもまた魅力を感じている。「オキシモ
ーラン」の運動、果たして新しい遊びになるかどうかは、好奇心の豊かな人の数と情
熱の度合いに頼るばかりだ。




オキシモーラン言葉遊び試運転 AKM20110604
2011/6/5

法を性生活道具に 名寄せして 更に内容充実 灯り祭りが始まった

汚れた空気が大好評 自民党の終演 一発合格適正検査

権威も影響力もない 経済散歩  巨大なきれいな空気を持とう

お子様の江戸期に 桝添要一反旗を翻す 色気たっぷり首相就任へ

国保・下水道 舞い降りる本体部分 部品を分解小型化し 宇宙に飛ばしたい

生前個人墓 政権掌握  山中教授ら 皮膚細胞のお茶漬けを 提供します

医療費をめぐっては あの世で迅速対応 万が一の宝くじを期待して

silly talk




Thank you for 合評 神野佐嘉江氏より
2010/ 6/5

皆さん、合評有り難う。とても丁寧に読んでいただいており、恐縮です。『人の像
(かたち)をした美しい青い地球』は、我が二十代に着手したものです。これから長
い人生を生きるのだが、地球のエネルギーにあやかりたいものだ、との思いで綴って
きました。地球は日に日に狭くなり、その姿は日に日に科学的に明らかにされる一方、
己の人生も雑多な体験を重ねていきました。というわけで、初版は一九八○年、三十
年前ですが、その後付け足して、種々かき集めると百編ぐらいにはなりますが、たの
がなかなかまとまらず、今日に至っています。『言葉集め星造り』も着想は二十代で
す。これは、言葉が、単語から句、文、話へ大きくなるのを、宇宙の膨張になぞらえ
たものです。こちらでは、れいの「オキシモーラン 0xymoron」、言い換えると、俳句
用語で言う「取り合わせ」や「二者合体」を楽しみつつ、言葉の全相に迫ろうと試み
たものです。これは当初の構想が三百編。目下六十編あたりで頓挫しています。最近
は、『冥界から覗く(仮題)』に取り組み、「在ることの不思議」をなんとか作品化で
きないかと試みています。皆さん、詩人「まど・みちお」はいかがですか。この人は
「在ることの不思議」を歌う詩人だと僕には見えます。



オキシモーラン言葉遊び−AKM20110612
 2011/6/13

第三の想像力とは欺瞞排出がないように、目を閉じて現象をとらえ、
どろどろの相関図を描く能力である。

乱れた行動によって、他の鋭い世俗感覚をすべて動員した結果、指をく
わえる実施計画を練った奴がいるとか。

情念家達は爆破予告の電話を聞いて、それが誰からのものかを知ってい
ながら、間違って解釈する暗黙の遊びにすぎないと断じた。

権威も影響力もない、何かの偏見によって内部に見えたものだと、56年
振りに返事を要求してきた。

お子様の空間、時間はもとより、空に動く星に問われたギリシャ語だって、
住居侵入罪に値する。

これは文書校正ツールの論文・報告書でも赤字が入らなかった。
やはり意味不明でも格調ある正しい文章なのだ。
persona




オキシモーラン言葉遊び−AKM20110619
  2011/6/21

◆シネマの町としての発展は、自分で選べるという口約束をした政党に、
 貧しい人たちはその夢を信託した。

◆ゼロから始めて、子供のはやる心を自己の危機と認知し、世界現象を
 「間」という風物詩の分類で集めたい。

◆アクティングアウトは、首長の三割が初めて生き生きとした探求や
 想起や推理などの勉強に励んだことだ。

◆触覚という何かの偏見によって、母を亡き者にしたいと願う哲学者は、
 その真理を教えてと泣き叫んだ。

◆モラトリアム状態は、自分が犯して奪った5億円を皮膚の細胞の下へ
 隠すために、たえず変容を迫られているからだ。
persona





遊びについて
 2011/6/21

キメラ2号氏がヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』について書いてくれま
したのでもう少し話を進めてみましょう。フランスの社会学者・哲学者・文芸評論家
であるロジェ・カイヨワはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて
『遊びと人 間』を執筆しました。私もずっと昔買って読んで見ました。そこには遊
びの形態を細かく分析し、
〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉
〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉
〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉
〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉
の4種類に分類して考察しています。
しかしその中には言葉遊びは見えない。むしろ子供が体を使って遊ぶ運動に限られて
いるようです。そこで言葉に纏わる遊びを調べて見るとぎなた読み、ことわざパロデ
ィー、しりとり、たほいや、つみあげうた、倒語、どちらにしようかな、なぞかけ、
もじり句、アナグラム、アンビグラム、ダズンズ ハナモゲラ、パングラム、マジカ
ルバナナ、回文、たいこめ、空耳、見立て、語呂合わせ、山号寺号、折句、あいうえ
お作文、縦読み、早口言葉、駄洒落、地口入れ詞、無理問答、ルー語、ピッグ・ラテ
ン、英語の言葉遊びなどがあり、どんなものか見当もつかない物もあります。(時間
がある人は調べて見てください、ほとんどが解説されています)

ぎなた読み    :べんけいがな、ぎなたをもってさ、しころした。
かねおくれた、のむ
ことわざパロディー:猿も筆の謝り。弘法も木から落ちる
倒語 :ミュージシャンが言葉を逆さにして使う一種の隠語

まあ、いろいろの遊び方がありますが、私達は日常知らず知らずのうちにいくらかは
使っているようです。
私は特にアナグラムや数字の語呂合わせが好きです。私のペンネーム「オール・ド・
エレガンス」もアナグラムの一種だし、電話番号の1210−7080も「人に言う
なよ、○○は七転八倒」などと数字をみればなんとが語呂を合わせたい誘惑に駆られ
ます。
オキシモーラン言葉遊びは言葉の音や意味の曖昧さを逆手にとったもので、上記の遊
びよりちょっと複雑なものが出来て、人様々な解釈を楽しめたらいいなと思います。


persona



オキシモーラン言葉遊び−AKM20110629
2011/6/29

「人間」とは人と人の間、その空間は「不可侵の場」すなわち非武装緩衝地帯を意味
するもの、内部に許容が見えてもそれは視覚上だけのもので、二人の間の適正な距離
の検証が必要だ。

引っかけや小細工なしの問題で、途絶えていた情報が見えないなどの愚かしい質問は
やめて、その不条理を逆手にとって入院保険でとりもどそう。

過熱報道から顔をそむけ、麻痺とか熱とか障害などの条件をクリアーして、満天に輝
く星々を仰ぎながら手に手を取って夜の砂浜を歩く、そんな道行きが望みだ。

アジールの母を愛するために私は、俳人高井梯子のどうにも変えがたい悪癖を、良心
に謀り異端児として対応することに決めた。

感覚による錯覚はだれでも素朴に映り、そう考えるという慢性的な責任を回避する現
象からとらえるべきで、古今東西・老若男女・天変地異に捕らわれては ならない。
persona



69α編集部:2014/03/08(土) 07:14:16
オキシモーラン3
.

        オキシモーラン3 2011後半

            
             「オキシモーラン言葉遊び」の師匠

撞着語法(オキシモーラン)wikipedia より
……………………………………………………………………………………………………
撞着語法(oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「黒い光」など、通
常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。形容詞や
連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(け
いようむじゅん)とも言う。集合論・論理学的には、「Aであって、かつ、not A」で
あるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語
ることである。狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見
えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。
……………………………………………………………………………………………………

*氏の言葉遊びに呼応した同人の記事も掲載しました。




オキシモーラン言葉遊び−AKM02110702 2011/7/3

◆乱れた行動によって、手術や検査などのすべて与えられる治療の機会を放棄して、どうにもな
らない虚栄の遊びに浸ってしまった。

◆他の感覚として、街角の占い師に示された事実は、私の目撃した宗教的儀式と同じもののよう
だった。

◆南北両極を軸として、予見と厳密な意味での経験は、初めて生き生きとした概念を示して、走
り去った。

◆集団自決した青年達の知的彷徨の時期は、 容易に分析できることを知りつつ、自分の墓が与
えてくれる安らぎに打ち勝つことが出来なかった。

◆感覚印象は、イベントの模様に基づき神殿、寺院、森などの排他的論理、真であるときに真と
なる論理演算に行き着くところだ。

おまけ
◆光の妖精イリデッサ、森のなかの悪戯パック、 舞い降りるアセロラ体操、日常の淀ん だ空
気に作用する遊びの触媒を探し回る仲間を募った。
http://www.suntory.co.jp/enjoy/movie/d/984288850001.html?fromid=movt_flash

persona




あした天気になあーれ−評のお礼   2011/7/9
   *★ 著者コメント(編集部)


震災列島しかもこのくそ暑い毎日、評という難行苦行を押しつけたようで痛み入ります。
とは言うものの、この自虐的作業は作品を理解するには一番有効な手段であるなどと理屈をつけ
て、必ず己の能力UPに繫がるでしょうなどと、正当化するものであります。しかし、この弁は
いささか自分でも何を根拠に言放っているのか判らない始末。この暑さのせいだと言い繕いたい
し、オキシモーラン的言葉遊びのやり過ぎのせいのようであります。支離滅裂、前後不覚、人事
不省、味噌も糞も一緒、目糞鼻糞、五十歩百歩、こんとん、混沌、渾沌、意味不明、無茶苦茶、
まさに迷走の体であります。病院へ行かなくゃ・・・。しかしなんとかここに娑婆に踏みとどま
って、この世に漂う不条理の波々に耐えて書いてくれた万理さん・長岡さんの質問に答えましょ
う。

◆ 民間天気予報と言えば下駄です。放り投げて表、裏その他から明日の天気を予測します。
★そうです、次回はその下駄が主題です。どのような展開になるかはお楽しみに。

◆登場するもに必ず科学的検証を入れることだ。これが毎回楽しみでもあり、小説を支えてくれ
る大事な要素になっている。少々奇想天外な話題にも信憑性をもたせるという憎い構成をしてい
る。
★第一回目は大森 荘蔵の確率論、第二回目は雄の三毛猫の遺伝子論を取り上げました。さて次
回の科学的検証は何にしましょうか。チキン・ジョージの「パチンコ力学」?アラン流「しわぶ
きの肉体に及ぼす心理的影響」?それともジョン・ロールズの「正義論」?

◆この作品は笑いと、涙の世界だ。 迫力がある。
★そう真面目に精一杯生きている庶民の滑稽さ、くだらない意地や、過剰な情の吐露、ちっぽけ
なプライド等々に振り回されるあほらしさのなかに、諧謔と悲哀さを見る。
単に情による涙もの、知による理屈もの、意による根性ものだけでは物足りないと思う考が私に
はあります。

◆チキンの登場の他に、主人公と妻とのやりとりが作品にスパイスとして効いてくる。妻は片鱗
を覗かせるだけではあるが、チキン同様、存在感を持たせている。
★お気づきのように登場人物は少ない。そのなかでこの三人は、ジロ−はジョージに勝ち、ジョ
ージは細君に勝ち、細君はジローに勝という「じゃんけん」「みつどもえ」「三すくみ」の関係
であります。そしてそれぞれ全く違う個性をもって生きています。

◆経済的しくみはおおいに気になるところなのでしょう。
そこのところは天才的勝負師、チキン・ジョージは港の女を使ってうまくやってるような気がし
ます。

★天気予報占いサイトの運営費は別途に見事な理屈をご披露します。
★左様、函館、宮古、釜石、気仙沼、三崎、焼津、御前崎、?地、高松、八幡浜、別符、長崎、
枕崎など港町ブルースに出てくる漁港を主に雄の三毛の活躍の場として考えましょう。そしてそ
れぞれの源氏名を募集、たとえば小樽の祐次郎、釜石の鉄、長崎の雨太郎等々。チキン・ジョー
ジは港々に女を待たせていることは間違いありません。

◆猫って笑う動物なんだろうか。これが男優だとして、また猫が笑うとして、この写真は一体晴
れには猫の笑い顔、雨には猫の怒った顔を使うのかな。とすれば、雨用に適した写真を別途用意
する必要が有りますね。
★ 笑った猫の撮影では「またたび」のご褒美をたっぷり与えました。また、猫は水にぬれるこ
とが嫌いですから、捲土重来を期して雨に日はもっぱら寝て過ごさせます。そのキャラクターは
下記の写真をご覧ください。

    




オキシモーラン言葉遊び−AKM02110712  2011/7/13

◆本当の難問にぶつかって、自分を鍛えるための意志を表明しても、過熱報道やヤラセによる環
境破壊が、子供のはやる心を沈黙させている。

◆アイディンティとは、知覚の探求において自分で選べる存在の自由に反旗を翻し、埋没する怠
惰を嫌悪することから始めなければならない。

◆年金時代の到来に当たっては、動かないもの、沈んでいるもの、悲観にくれているものに溢れ
ているが、ここは退屈な星ではない。

◆武芸一筋の時代にあっては、指の上に加わった重力が、 世界現象を「アンドロメダ銀河」と
「M51(子持ち銀河)」の衝突に投資した。

◆機械工業社会に潜むものの運動に関する錯覚は、 ギリシャ語、バルト語、キリル語、クラジ
ャート語の合体によってもたらされたものだ。

persona




オキシモーラン言葉遊び−AKM20110722 2011/7/23

◆電脳オタク組合は、 穢土期に遡ること200年前の設立と知りながら、自分の
国のものだと要求した傲慢不遜な隣国があった。

◆感覚による認識のなかでの予見は、生きているうちに容易に享受できることを、外見上探求や
想起や推理により取得できるであろう。

◆医療費をめぐって機関と患者達は、なぜ生化学的検査をひとつにしか数えないかと鬩ぎ合った
あげく、ネット暴走を利用して主導権を握った方が勝ちを納めた。

◆遠近を示す幾何学的形式の確立は、独断と偏見という触媒によってのみ、現 在の自分の思考
方法を検証できるのだ。

◆われわれは常に事実から顔をそむけ、立ち止まり、見て見ぬ振りをする小ことによって微弱な
安心作用を獲得しようとしている。

◆アイディンティについて生徒が研究発表する内容は、おそらく昭和初期に於ける施錠不安を綴
ったものだろう。

◆南北両極を軸として、地球の断熱工事などの巨大プロジェクトは、利権による痙攣的な運動に
身をまかせるという暗黙の了解が存在する。

persona




     オキシモーランAKM20110722 について  万理久利  2011/7/23

     偶然がもたらす言葉の奇蹟。しばらく眺めてみよう。今回は大分こなれ
     たものが勢揃いしているようです。それでもなかなか姿を現さない。そして何かが見
     えたとき、ほくそ笑む自分がいます。
     ニーチェの言葉とどこか川の底で繋がるようにも思えました。三つほど。
     ◇がニーチェの言葉。飛躍があるでしょうか。人それぞれです。

     ◆電脳オタク組合は、 穢土期に遡ること200年前の設立と知りながら、自分の 国の
     ものだと要求した傲慢不遜な隣国があった。
     ◇狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例で
     ある。

     ◆医療費をめぐって機関と患者達は、なぜ生化学的検査をひとつにしか数えないかと
     鬩ぎ合ったあげく、ネット暴走を利用して主導権を握った方が勝ちを納めた。
     ◇ 世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をし
     ているのである。

     ◆われわれは常に事実から顔をそむけ、立ち止まり、見て見ぬ振りをすることによっ
     て微弱な安心作用を獲得しようとしている。
     ◇脱皮できない蛇は滅びる。その意見をとりかえていくことを妨げられた精神も同様
     だ。

     そしてもう一度眺めてみます。
     オキシモーランを馬鹿馬鹿しい、言葉の冒涜だ、と言う人もいるかもしれません。そ
     のときの自分について是非考えてみてもらいたいものです。初めてのことを考えるこ
     と、遊んでみることを反射的に多分恐れているのです。




オキシモーラン言葉遊び-AKM20110808 2011/8/8

◆「人間」とは人と人の間、その空間は「不可侵の場」すなわち非武装緩衝地帯を意味するもの、
内部に許容が見えてもそれは視覚上だけのもので、二人の間の適正な距離の検証が必要だ。

英語に翻訳すると
"Man" is among the people and the space is "if a non-aggression" to mean a buffer
zone unarmed, ie it may appear to tolerate the inside not just the visual proper
between the two distance it must be verified.

英語を中国語に翻訳すると
“人”,在人民群众中,“如果不侵略,”空?是指?冲区手无寸?,只有在适当的??两者之?的距离?
行??, 即它是承受内无可能会出?。

中国語を日本語に翻訳すると
"人間、"人々の間で、"不可侵の場合、"バッファ領域は非武装であり、そして唯一のそれは許容
範囲内にないことを目視確認との間の適切な距離で発生する可能性があります。

同様にして、
◆引っかけや小細工なしの問題で、途絶えていた情報が見えないなどの愚かしい質問はやめて、
その不条理を逆手にとって入院保険でとりもどそう。

英語
No problem hooking and hairy, stupid questions like does not see the information
which has been dormant stop, get back in the hospital insurance for the advantage
of the fact that absurd.

中国語
没??挂?和毛茸茸的,就像愚蠢的??,不看已?于休眠状?停止信息,在住院保?的事?,荒?的??

日本語
リンクされていると毛深い、愚かな質問のように、情報が病院の保険で途絶えていた見て停止し
ない問題ありません、事実とんでもない利点抱腹絶倒間違いなし!!

persona



オキシモーラン言葉遊びAKM20110811 2011/8/11

優れたgoogle翻訳機を駆使して日本語→英語→中国語→日本語を行えばどのような変化を
するかみものであります。こんな言葉遊びは異端でしょうか?

◆日本語
シネマの町としての発展は、自分で選べるという口約束をした政党に、貧しい人たちはその夢を
信託した。

英語
  Development of a town's cinema, a party that promises to pick
   your own, the poor were entrusted with the dream.

中国語
  發展的一個小鎮的電影院,一個黨,選擇自己的承諾,窮人被委託的夢想。

日本語
  貧しい人々に自らのコミットメントを選択する小さな町の映画館、パー
  ティ、の開発は、夢に委ねられた。

◆日本語
触覚という何かの偏見によって、母を亡き者にしたいと願う哲学者は、その真理を教えてと泣き
叫んだ。

英語
  The prejudices of some of the tactile philosopher who wish the
  deceased mother, and tell the truth cried.

中国語
  他的一些偏見的觸覺哲學家誰希望死者的母親,?實話哭了。

日本語
  正直叫びに、死んだ母を触れないようにする哲学者の彼の偏見の一部。




     人の像をした美しい青い地球 長岡曉生 2011/9/1

    いつものこととは言え、神野さんの作品はなんとも不思議な世界を醸し出していて、
    これを分析するのが骨である。

     いや、これは元もと分析される対象としての作品群ではない。
     意識が無意識の中を浮揚しながら対象を広げていく過程、言い換えれば連想の網が広
     がっていく過程を、表題の「人の姿をした美しい青い地球」を毎回の原点として広げ
     ていく作業として述べているのだ。
      読者は、「人の像をした美しい青い地球」という原点、謂わば同一の舟から作者が
     放つ投網の中に、毎回どんな魚を見いだすのだろうか。同じ舟から網を投げても、漁
     場が毎回移動するため得られる魚の種類は毎回異なって来る。
      例えば、今回は前に登場したあの京子さんは出て来ない。
     だから、一連の作品群には「第??回」という時系列を示す目印は付かないのである。
      と書いてきたら、これはもう本作品の分析にどっぷりと嵌っていること
     に気がついた。仕方がない。分析ついでに、私なりにできる理系偏重的感想を、二つ
     だけ書いてしまおう。神野さん、笑って受け流して下さい。

     ★実体と比喩との平行
     一見して気が付くのは[天体地球]という実体と、[美しい青い地球]という比喩に
     仮託された胎児(今回は男性なのだ)の併存であり、両者は平行的に育っていく。
     とは言っても、両者の時間刻みは、片や億年単位、もう片方は月単位で測られている。

     ★輪唱技法的描写
     実体[天体宇宙]と比喩[美しい青い地球]とは、宇宙と胎内という別の場所で時間
     をずらして受精しているように見えるが、よく読むと重複している部分もあり、これ
     また不思議な気分になる。言ってみれば輪唱技法的な描写とも言うべきだろうか。

     ウーン。やっぱり、支離滅裂でピント外れな評になりました。
     これに二重・三重に逆方向の翻訳処理を加えれば、生き返りのオキシモーラン処理に
     なってひょっとしたら、読むに足る結果が出て来るのかな。
     赤松さんか、万理さん、お暇な折にやってくれませんか。
     2708




オキシモーラン言葉遊び−AKM20110914 2011/9/14

さて先の「ルビついて」をまず「ウクライナ語」に翻訳、それを韓国語にし最後にまた日本語に
戻すと下記のように化けてしまう。

一日の始まりは、まだ朝に疲れているビットと、以前、占い和泉オープンAozora
文化ミラー
"CFUが希薄"ワボギエ"蝶"Ryunoske Akutahava前に。私の心を読むことが困難であ
ることがわ
かった。本の中にルビーが深さの上部上の文字の一握りで、許可された文字の数に感動しただ
け中国語の文字の目を知られていないが読むことを知っているだろうが、この一向ニッケルは、
脳への介入を意味するものではありません。Aozora文化はこの提案に、しかし、中国のルビー
後のかっこ内の同じ大きさの性格は非常に不安。これは、例えば、私の提案の"αのdoujin" 質
問13"あまのじゃくの風景シリーズ - 外国人は、"電子書籍"C" とルビに変換される、中国ル
ービンブラケットの配置をのためにHTMLで、治療。リズムを処理し、読者が流れかどうかの感覚
を邪魔しないようにする方法Ichitaroで作成されたWord文書にテキストを変換すると、同じ現象
が発生、それが何か強い欲求が残ってい る。

「同人α」第13号以下の翻訳は「質問13"あまのじゃくの風景シリーズ - 外国人」と変化した。
google翻訳機能をおちょくっちゃーいかん!!
長年の苦労の結果を感謝しなくちゃいかん、なにせ悪意はないのだから!!
でもこんなたまらん楽しみを放棄する訳にはいかーん!!
persona



     「キメラ17号」からの感想 2011/9/14

     評価 ★★★
      今朝ほどの翻訳オキシモーランは迫力ものであった。
     抱腹絶倒箇所はボールドになっていて、その箇所も一致。

     「一日の始まりは、まだ朝に疲れているビット」
     この出だしがなんとも、村上春樹を思わせるのだ。
     「あまのじゃくの風景シリーズ - 外国人」
     ここまで微妙に変換されたら、たじろぐ。

     読者のみなさん、原文とオキシモーラン遊びの文章、二回程ゆっくり読み直してくだ
     さい。その面白さが伝わるかと思います。
     この手の遊びが苦手な方は何度読んでも時間の無駄ですのでお控えください。



70α編集部:2014/03/08(土) 22:22:20
日記考
.

               ??日記考  2007


【電子日記】
 ここにもにも日記がありました。リンク集掲載の「窓辺にて」です。
同人誌に昨年より掲載されている神野佐嘉江著「人生詩」は日記型式の創作ものと言ってよいでしょ
うが、こちらは正真正銘日記です。とは言っても通常よく見る日記とは違うようです。
 窓辺の住人は2007年に電子日記を開始しました。日記事始めと、この年の11月に記録した『日記
考』を掲載します。三日坊主を心配していたようですが、今も続いています。
2013年も終わり、もうすぐ7冊目の製本となりそうです。

「人生詩」の主人公はこれまでに、いったい何冊の日記帳を書き綴ったのだろうかと考えてしまい
ました。 7冊どころではなく膨大な量になるはずです。    (2013 編集部)

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「今日から日記に挑戦!!」  2007/1/13

 よし今日から私のブログを作って日記を書こう。自然の移りかわりやそれに伴う心境の変化や、読
書の感想そのた書き留めて置きたいことがらを記するのだ。
出来れば毎日、せめて三日に一度、しかし十日も忘れることは許されないとしよう。

フロイトの「不気味なるもの」・・・フロイト全集第17巻P30
同じ事態の反復がある一定の条件のもと、一定の状況と結びつくと、うたがいの余地なく不気味な感
情を引き起こす。この感情はいくつかの夢の状態が示す寄る辺なさを思い出させる。
例えば ・不案内の街の路地を歩いても何度も同じ街角に出る。
    ・身の回りのナンバー例えば六十二という数字が同じ一日のうちに何の関連もなく係わっ
      てくる。
フロイトの「集団心理学と自我分析」P159
・二つの人為的な集団 教会と軍隊
・一つの宗教は、たとえ愛の宗教を称する場合でも、それに属していない人々に対しては厳しく、ま
た、心ない態度を取らねばならないのだ。なにしろ根本的には、どの宗教も。それが包み込む人々に
は誰にとってもそのような愛の宗教なのだが、それに属さない人々にたいしては残虐で非寛容である
といったものだ。




「日記」についてその(1)  2007/11/12

◆ 今年1月から日記を書き始めてから1年近くになろうとしている。三日坊主に終わることもなく
 書き続けているが、いままで日記の効用をあらためて考えたことはかつてなかった。日記を書くこ
 とで何が自分の為になるのか、どのような変化を己にもたら
 すのかを真面目に考えてみたい。
◆ 日記が書かれる主な契機の一つとして、旅や仕事や戦争などの特別な出来事の内容、見聞、覚え
 書きを認めるようことから始まったと思われる。古にも紀貫之が土佐の国から京まで帰京する最中
 に起きた出来事や思いなどを書いた土佐日記とか、藤原道綱母の蜻蛉日記、菅原孝標女の更級日記、
 阿仏尼によって記された紀行文日記である十六夜日記、我が青春時代に紅涙を絞ったかのアンネの
 日記、その中でもスケールの大きさと歴史的価値においての白眉は古代ローマのカエサルがガリア
 征服の経過を記した『ガリア戦記』がその代表であろう。
◆ 備忘緑として
 診察予定日、人にあう日にち、時間、場所、電話番号などを忘れないために 書き留めておく。
◆ 資料として
 日々の散歩などで得られる「変な看板」とか野良猫の生態とか、人間の表情とか服装や髪型などを
 カメラで記録して、いつの日か創作の為に資料として蒐集しておく。
◆ 考察の記録
 新聞や雑誌や社会の出来事に対して問題意識を高め、ものごとをよく観察し分解して再び自分の
 考えのもとに定義し纏めておく。これは何回も読み返しそれについて資料を集め日々訂正・削除・
 加筆が自由に出来るのでブログの日記は非常に便利である。
◆ 面白そうな表題・演題だけでも思いつくまま書き留めておくいずれその件について考える時がく
 るし、断片的にも考察した時はすぐ加筆しておく。
 そのうち一つの纏まった文に成長していくだろう。想念は想念を呼び次々に大きな世界を作り出す
 だろう。
◆ 相手からの手紙や、伝言、批評などを記録しておく。必ず自分の糧になるだろう。
◆ 人と変わった考えは特に大事にしよう。結果的に間違いや早とちりがあってもひるむとはすまい。
 恥ずかしい思いや、みっともなさも臆するな。荒い書き方でもかまわぬ、直ぐに書き込もう。但し、
 自分の考えや意見をこの日記から外に出す場合は、検証を忘れるな!!感情でものを言うな!!好
 き嫌いはいいが誹謗中傷は、自分の人格を貶めるもの。




「日記」についてその(2) 2007/11/13


◆ 母が亡くなってから丁度1年経つ。亡くなる1週間前に入院している郷里の病院に見舞った時、
 母は私に40年分(40)冊)の日記を託した。今思うと生前にもその日記についての日頃私の評を期待
 していたように感じていたのだが、私も自分たちの生活に汲々といた時期でもあり、なかなか日記
 を開いて読むには至らなかった。十数年前も父の「回想録」の原稿を託されていたが、それも又父
 の生前に出版することは叶わなかった。いずれも亡くなるという衝撃が私に思い立たせるエネルギ
 ーになるのだが、なぜ生前に希望を叶えてあげなかったか、その喜びを分かち合えていたらどんな
 によかったか、と後で悔やまれ残念でならない。だから今母の膨大な日記を目の前にして、是非活
 字にしてあげたいと思う気持ちは強い。
◆ 私は両親にとってあまり親孝行の息子ではなかったと自分では思っている。長男の兄は家業を嗣
 いで父と一緒に働いたからそれなりの孝行はしたであろう。私は早くから元を遠く離れ、自分の「た
 つき」にばかりに追われてなかなか優しい言葉や、それなりの心遣いもしないで来た。
◆ 父は見識も広かったので目の前の事だけではなく、遠くにいる息子にも公平に眼を向けていたけ
 れど、田舎に隠居した母は昔の人らしく、また女性らしく目の前の事を大事にすることで満足な日
 々を暮らしていたから、父の亡き後家父長制度の残照の中で長子」にほとんどの財産を託した。一
 方私は自由と平等の考え方を理解してくれなかったことを恨む思いであったが、離れた次男と親と
 共に歩いた長男の評価は自ずと違っていたことを後で感じた。
◆ そして遅遅として捗がいかないまでも、離れて暮らしていた母と一緒にいま活字を追う度に同じ
 空間と時間のなかで暮らしいるのだなと実感している。だから私は兄が親の跡を継いで行う家の決
 まり切った行事よりも、父や母の書き残した日記と共に情感を共有している今の私の方がずっと親
 とともに生きていると自負しているのである。



71α編集部:2014/03/10(月) 14:24:15
踏まれても遊び場創り
.
           踏まれても遊び場創り 2002−2011年




     これまで数多くのサイト、遊び場を創ってきた人がいます。
     創ってきた遊び場を、後に「わたしのもの」「わたしたちのもの」と言われて
     ことごとく奪われたにも拘わらず「おれが創った」「おれおもの」とは一言も
     言わず静かに眺めている人がいます。

??                                  (編集部)





■掲示板「落書き帳」の事始め(現「万華鏡」)2002年



新しい落書き帳について 2002/3/5?? 落書き帳

新しい落書き帳をつくりました。みなさんのユーモアある落書きを期待しています。
さらにそれに対する感想・意見の交換で楽しみましょう。



(無題)    2002/3/13
こんにちは
ご機嫌いかがですか



「落書き帳」の1年を振り返って 2002/12/30
「落書き帳」の1年を振り返って
平成13年11月から試作を始め、今年平成14年3月5日より公開しました「落書き帳」もすでにA
2ファイル2冊分の量(約920通)の投稿がありました。

最初は2・3人の好き者同士の挨拶程度が続き、話題がはたして未長く続くかどうか自信もない と
いう、まさしく手探り状態でありました。しかし現在では遊びや読書、釣り、ゴルフといった趣味の
範囲から、身の回りのことにとどまらず環境、政治などのグローバルな問題に関して のすばらしい
意見も掲載されるまでにいたりました。

この「落書き帳」は気軽な話題から高尚な思想および絵画・音楽の混在するすばらしい時空間を目指
しています。なにせこの世は一方的な価値観に支配されない自由と多様性を認めること が我々の発
展に不可欠な要素であり、生き抜くための安全装置と考えます。

これからも皆様の身近な情景や心情といった取りとめもないものから、深い洞察を通して得ら れた
ご高説まで、独断と偏見をものともせず投稿されることを願います。

そして、これから新たに参加される方々およびいままで活躍された下記の方々共に来年もさら に充
実した「落書き帳」となりますように支えていただくことをお願いします。

(投稿者登場時系列順・敬称略)
■ kazu.k       ■ 鳥星         ■ 近藤 勝
■ Old−Par      ■ O−chan     ■ 野中洋次
■ k.akizuki    ■ 仮面ライター     ■ “痴人の愛”人
■ Tea Pot      ■ 何電感電       ■ ウイルス
■ みなとみらい        ■ 流れ弾        ■ 田村道子
■ 忠SANN        ■ 辻 佳子       ■ 熊井浩二
■ 北  勲          ■ 井手元子       ■ 大山
■ エセ読書人        ■ 今田迷道
■ ランゲルハンス島の住人  ■ 若葉         ■ スズメが気になる人
■ 月間読書人        ■ 寫香         ■ 異風物
■ 古賀和彦         ■ 小宮 ひろゆき    ■ 中島勝彦
■ 読書人           ■ 紙仮面        ■ 自己流捻千家
■ sharakuse−   ■ nori       ■ yama

「落書き帳」は新しいものからさかのぼる過去の100番目までは画面に現れますが、それ以前のもの
は次々に消去されて行きます。しかし、私ども管理者は1番目のものから最新まですべての投稿記事
を記録していますので、望む方は管理者まで申し出ください。wordのファイルを電子メールにて
お届けします。(管理者のメールアドレスは画面の一番下にありますので、住所・氏名(本名)・電
話番号・メールアドレス等を記入の上お申し込みください)
では来年こそ皆様にとってすばらしい年になりますようお祈りします。





【映画鑑賞クラブ Cinema de Joy】2004年??落書き帳



シネマクラブのおしらせ 2004/5/1
(仮称)シネマクラブ発起会のご案内

 今年の2月7日の新年会にて、(仮称)シネマクラブを発足することをお知らせし会員を募りましたが、忙しさにかまけて既に3ヶ月も過ぎてしまいました。しかしこのところの爽やかな風と勢いよく伸びる若葉の緑を見るに付け小生も元気が湧いてきました。

 さて、現在の会員は女性11名、男性13名の合計24名(別紙会員名簿)になりましたので、これからの会の方針と組織について話し合いたく下記の日時・場所にて発起会を催したいと思います。皆様におかれましてはゴールデンウイーク中家庭サービスで疲れた身体と頭を、昔の懐かしいシネマの話などを肴に飲みかつ食べて癒したいと思いますので、万障お繰り合わせの上ご出席のほどをお願いいたします。

■ 日時:5月8日(土)  PM:1:00〜
(中略)
活動方針の案として下記に示したものの他にお気づきの点がありましたら、当日ご提案ください。
  □ 組織(会長・副会長そのたの役割分担を決める)
  □ 年会費(年額1,000円〜2,000円程度)
  □ 活動方針
    ・飯田橋のギンレイホール(名画座)のグループカード(30,000円/年)の活用について。(個人的には小生が1枚購入していますので、これを採用するかどうか検討)
    ・持てあました無料招待券(映画・絵画・演劇・音楽会)の提供と斡旋
    ・「さしあげます」「いただきます」の情報欄をホームページで立ち上げる
    ・「よかった」「愚作だった」などの映画感想をホームページ等で発表する。
(中略)
  連絡先:TEL 03-xxx E−mail:xxx    古賀和彦まで



      シネマの会(仮称)からのお知らせ 投稿者:O2004/5/20
      (略)今日は楽しいお知らせ。
      昨日会長さんより5人無料のカードをお預かりしました。ホームページの管理者でも
      ある会長さんは実に奥ゆかしい方。私のように何かあるとすぐ調子に乗って威張り散ら
      し、顰蹙をかっても気付かない人と違い、我々同窓生の楽しみのために、黙々と努力を
      惜しみません。このカードも実は彼が私達のために身銭を切って提供してくれた物。一
      人用一万円、二人用二万円とあるのに、5人用三万円を買い、しかも私に預けたのです
      から。

      この無償の愛を(私達は愛されているのです!)ないがしろにしたら罰が当たります。
      雷が落ちてくるかも知れません。早速6月5日(土曜)に「アドルフの絵」(ヒットラ
      ーは絵書きを夢見た事があったんですね)と「Ten Minutes Older 人生のメビウス」(7
      人の監督のオムニバス)を見に行きます。愛を分かち合いたい方は御連絡下さい。一日
      三回公演二本立てです。初日です。(以下略)


正式名称決定!! 2002/5/28
(仮称)シネマクラブの正式名称が決定しました。

クラブ・シネマ1000とCinema de Joyのどちらかにするかの意見を問い、5月20
日に締め切りましたところ下記の結果になりましたので報告します。

投票総数 11名 (男性5名、女性6名)
クラブ・シネマ1000(クラブシネマセン・死ねません)     4票
Cinema de Joy(シネマでジョイ・死ぬまでジョイ)  7票

クラブ・シネマ1000もなかなか含蓄があり捨てがたいもので後ろ髪を引かれる思いでしたが、
Cnema de Joyに決定しました。
これからは映画を通して皆さんとの交流を深めたいと思っていますので、活動にどしどしご参加くだ
さい。(以下略)



Cinema de Joy 2002/6/27
シネマでジョイの代表として迷道さんにお答えします。まだ事務所にある週刊「20世紀シネマ館」
の資料が揃って居ませんし、そのなかにあるかどうかは調べていませんので、詳しくは述べられませ
んが、邦題は確かに「トロイのヘレン」でした。ギリシャ人のロッサナ・ポデスタはさすがに美人で
した。下記にその資料を記します。
(中略)
これからも映画に関してのお問い合わせには精一杯答える心算ですのでよろしく!

↓ それから7年後

2011年 --掲示板「万華鏡」(元落書き帳)

     ドキュメンタリー映画際 投稿者:G 2011/7/25
     「シネマの会」という毎週一回、銀鈴シネマで話題作を見る同好会があります。メンバ
     〜は「同人言の輪グループ」を中心とした6人です。
     私は、これは面白そうだなと思える映画には、参加しています。(以下略)


     ギンレイ 投稿者:H 2011/7/25
     2週間に2本上映されますので、週1回1本ずつ、飯田橋のギンレイホールで映画を観る
     のを楽しみにしています。
??????????(以下略)


     映画鑑賞 投稿者:11期ファーン 投稿日:2011年 7月26日(火)15時27分
     映画鑑賞、素敵な趣味サークルですね。ところで「銀鈴」ではなく「銀嶺」だったと記憶
     しています。こちらも同人「言の輪」同様、呼称変更したのでしょうか。 変化はいいけ
     れど、歴史はすっかり死んじゃいますね。
     それでも変化ですか。多数決ですか。


     11期ファーン様へ 投稿者:H 2011/7/26
     ギンレイホールは、「銀嶺」でなく、「銀鈴」会館です。
     呼称変更はしておりません。



ギンレイホールについて 2011/7/27
「11期ファーンさん」および「ひまじんさん」の間で「銀鈴」か「銀嶺」かの問題が話題になっ
ていますが、その端緒は「ドキュメンタリー映画際 投稿者:吟遊視人 投稿日:2011年 7月25日の
『「シネマの会」という毎週一回、『銀鈴シネマ』で話題作を見る同好会があります』の投稿にあり
ます。

この映画鑑賞の会を作った者として、その経緯から解き明かしてみましょう。それは今から9年前、
2002年の6月の日記にたまたま散歩していたときの記録があり、そのときの印象が映画鑑賞会を
発足するきっかけになりました。なおその会の正式名称は「シネマ・デ・ジョイ」(シネマで楽しも
う。死ぬまで人生を楽しもうという意味をこめて)と皆で決めました。
代表は私、副代表はM.Tさん、H.Mさん、会計はT.Mさん。年会費:1,000円。会員24名で発足、
なお現在私は退会して会員ではありません。

飯田橋の神楽坂をもう一本後楽園に寄ったところに軽子坂(かるこさか)という路地がありました。
その坂の由来は知りませんが、横町を曲がったすぐの所に一軒の映画館をみつけました。約200席
のいわゆる懐かしの名画をみせるという場末の小さなもので、そこは貧乏学生時代のノスタルジーを
彷彿させるに十分な面影を残した、狭さと昔を懐かしむような老年の人たちや若い学生といった客筋
で満ちていました。よき時代の雰囲気が廃れていない時空が未だ存在するんだなと嬉しくなりました。
もちろん入場料はシルバー料金の1,000円ぽっきり。この値段で5時間近く楽しめる娯楽はそう
めったには見つからないと思います。
(中略)
さて本題の名称について
銀鈴会館というビルは確かにそこに存在します。またギンレイホーという映画館もそのビルの一角に
あります。銀鈴会館はその中に雀荘、酒場、くらら劇場(アダルト映画)、不動産会社などの入って
いる総合ビルで、その名称であって「ギンレイホール」はそのなかの一つです。
念のために銀嶺ホールと私が思い込んでいた名称をWikipediaで調べてみました。この映画館に関
する投稿は「ギンレイホール」か「銀嶺ホール」で数件見つけました。
◆青木塾ブログ:名画座、銀嶺ホール
◆飯田橋ぎんれいホール | 人生、色々、男も色々・・・
◆dietcoker_diaryのブログ : 銀嶺ホール (第9地区)と後楽園遊園地 ...
◆青山808 (4) 飯田橋銀嶺ホール:青山808:So-netブログ

そこで正確を期すために「ギンレイホール」の支配人に直接その名称について尋ねました。その結
果1974年から「ギンレイホール」と称していて、それ以前の記録が見つからないという返事をいた
だきました。いずれにしてもWikipediaにも「銀鈴ホール」では記載されていません、ましてや「銀
鈴シネマ」という名称もありませんことを報告します。





■同人α新掲示板「ニューロンカフェ」の事始め  2010年??


     赤松さんへ 投稿者:O 投稿日:2010年 3月11日(木)09時【旧掲示板「言の輪」】
     (略)新同人に貸すまでは、「言の輪」は私個人の掲示板です。だから気に入らない投稿
     を削除したりブロックするのは所有者の私の自由です。貸していた家を自宅として使う事
     になったから、出入りする人を選んだり、金庫の鍵(パスワード)を付け替えるのも当た
     り前です。(略)



↓名指しで三名がO氏による掲示板封鎖を受け、


さあはたらくぞ!! 2010/3/12
いよいよnew同人αのはじまりです。みなさんのニューロンを十分に働かせてもっと魅力のある、
刺激的なホームページにしましょう。長岡さん、万理さん宜しく・・・。



おはよう??2010/3/13
新しいホームページの改良で今日も一日楽しくなりそうであります。
投稿するときは「変な数字やアルファベット」を記入して投稿という文字をクリックしてください。
どうしてこのような機能がついているのか、機能を外せるのか研究中。





■ニューロン・カフェの裏サイト「戯評」の事始め 2010年



Weekly Caricature (週刊戯評)の開設 2010/10/9
Weekly Caricature (週刊戯評)をここに開設します。
今までは「窓辺にて」上で戯評をしていましたが、日を追うごとにその書き込みの量が増えてきそう
に思えました。ではいっそのことこのコラムを独立させて、自由に書きやすくすることを考えたしだ
いであります。
本来は「万華鏡」、「言の輪」、「木霊」でもこの程度の意見、異論をも許容して論じるのを希望する
のですが、現状の「なかよし こよし」の紙面では不快がられるのが落ちであります。だからここに
各ホームページの投稿文の鋭い分析の上賛同と批判をして真実を追究するものであります。





■ニューロン・カフェ 佐高11期「青春のあの日」復刻 2011年



おしらせ?? 2011/12/1
このたび佐高11期生卒業30周年記念誌をもう一度読みたいという希望があり、私達有志はそれを復刻して「青春、そしてそれから」という電子図書を作りました。
書庫の片隅に埋もれていて目に触れなかったり、なくしてしまった人にとっては有意義ではないでしょうか。この懐かしい時代とその回想録は記録にとどめたいという思いもありました。そこでその主旨を理解して、掲載を承諾をくださった方達から順次掲載するつもりです。

まずはその「青春、そしてそれから」のサイトを覗いてみてください。
この万華鏡の画面の上部のリンクの「同人α【ニューロン・カフェ】」はこちらをクリックしたら、ニューロン・カフェの画面になります。下の方のリンク集のなかに赤い文字で書いてある「青春、そしてそれから」をクリックしてください。もしお気づきの点がありましたらどうぞ遠慮なく下記のメールまでお寄せください。

E--mail :  koga-kaz@s5.dion.ne.jp 古賀和彦



 これにも、心ない意見が投げつけられました。気に入らない投稿には10倍返しの人のようです。

             ↓

       古賀和彦さんへ?? 投稿者:One of 11期生??2012/3/8
      ??貴方の私の投稿へのコメントを見て、随分と誤解があるなあ、という気がしますが、
       この投稿を最後のつもりで意見を述べさせてもらいます。

       何度でも見てもらえばわかりますが、貴方の企画に対して批判、嫌味を言っているつ
       もりはもうとうありません。この企画について11期生以外の方(多分貴方たち同人
       誌の方でしょうが)ぐらいしか反応しないことに対して、いくらかの同情心で私の率
       直な感想、弁解、意見を述べたにすぎません。

       繰り返しますが、私にはパソコンと目と鼻の先にある本立てに、この「青春、そして
       それから」の本はあります。それで何もリンク先から引っ張り出して見る必要はあり
       ません。そう言っているだけで、こんな企画はする必要はない、とか無駄だなんて一
       言も言っていません。あくまで私にとってはこのような状態にある、と述べたまでで
       すし、他の11期生がすべてすぐに手にとれるところに置いてあることもないでしょ
       う。

       先の新年会やある同好会の席で同じ11期生へ、貴方の企画に対しての感想を聞いた
       ところ、
       「悪いことじゃないからいいのでは」
       「しないよりもした方がいい」
       「手順に問題あるけど、あまり難しいことは言う必要もないのでいいのでは」
       という意見や感想がほとんどでした。私もほとんどこれらの意見と同じものです。

       それに貴方が言われている企画の目的や趣旨については素晴らしいことです。このよ
       うな素晴らしい趣旨で実践されていることなら、拍手こそすれ文句などを言えるわけ
       がありません。
       ただ嫌味や批判と受け取られたとしたら、私の稚拙な文章のせいで申し訳なく思って
       います。

       続いて匿名で書いたことへのコメントについてですが、私は基本的に投稿するスタン
       スとしては、批判、非難する文章でなければ匿名で書いてもまったく問題でないと考
       えます。また匿名だろうと匿名でないだろうとそれはまったく投稿者の自由だと考え
       ます。
       先に述べたように今回の投稿は、貴方への批判文書ではないし、私の率直な感想、意
       見ですので本名を明かすことはしません。
       このことは現在の管理人が、匿名の投稿者の本名を検索したり、バラしたりは絶対に
       しない、という確信から、安心して匿名で投稿できることによります。

       最後に、「多数派工作を装う」とか「グループ批判をしている」とかの文章について
       は、思い当たることはないのですが、強いて言えば、貴方たち同人誌グループで、こ
       の本のコピー(ワード化)されていることを聞いたことと関連するのかもしれません。
       だけど貴方たち同人誌の掲示板へリンクすることで読者の呼び込みを策しているなん
       て、決して言ってもいないし、書いてもいません。また万華鏡へリンクされていない
       ことも「それは製作者の自由であろう」と書いたまでで何ら批判していません。どう
       かご安心ください。

       以上、少々長くなりましたが、私の先の文章についての誤解が取れることを念じて
       います。
       それにこんなことでやりあっていたら、他の読者や投稿者から顰蹙を買いそうなので、
       よほどのことがない限りこれ以上書くこともないでしょう。



72α編集部:2014/03/11(火) 22:21:46
合評する姿勢 と 受ける著者の姿勢
.
       合評する姿勢 と 受ける著者の姿勢





合評について 1 
2007/8/6

私もNさんが感じられたように、Kさんが合評にたいする意見や疑問を英語で投げかけら
れる意図が分かりません。正面からそして真剣に討論するならやはり日本語で書くのが筋
でしょう。何かの感情をさえも日本語で相手に理解して貰うのさえなかなか難しいのに。
まして論じるとなればなおさらのことではないでしょうか。おぼろげなる英語の理解力で
内容を見ると、褒めることがほとんどで批評するに至ってないとのことですが、よく読ん
でください。指摘すべきことはどなたもちゃんと書いて居られます。

また、O氏のエロ、グロ、ナンセンス、誹謗中傷なんでもOKということは、このような
HPにおいては建前上止める事は出来ません。そうかといっていやと思う人が抗議して意
見を闘わせて方向付けしなければ、私が「落書き帳」に見切りをつけたように離れて行く
のが必定でしょう。それはそれでよろしいということであればそれでよろしいでしょうが。





合評について 2 
2007/8/10

◆ 合評についての方法論はNさんが実に明確に分析し提示してくれました。私も前面
  的にそれに賛成いたします。
◆ だが、今回の問題は実はそれ以前のマナーの問題だと思います。何を書いてもよろし
  いという建前は確かにそうですが、何度も検証し分析して苦労しながら合評するとい
  う責任を負った真面目な投稿と、楽しい会話やホラ話やユーモアや艶な話や披露とい
  ったお遊びの投稿とを区別しないところに有るのではないでしょうか。
◆ なんでもありでそんな決まりはない方がいいという人もいるでしょう。しかしこれは
  決まりではなく、それなりの教養を身につけている人であれば自然に備わってくるエ
  チケット・マナーではないでしょうか。だから社会生活していく上で最小限のマナー
  が無ければよけいな軋轢を覚悟しまければなりません。それはそれで良いという人は
  不作法な人の中で平気で居られるのでしょうか。そういう人は一番先に諍いを起こす
  か、離れ去っていくような気がします。(こういう憶測をいっちゃーいけませんね)、
  とにかく真面目な記事に対する、事実の検証をしないいい加減な思いこみによる批判
  や揶揄は、その人の人格を自らおとしめる事になると思いますが。
◆ だから個人が良い放しの投稿であればそれはそれで読者も無視していいでしょうが、
  呼びかけて読者の意見を求めるのであれば、自ら身分を明かすか
  読者が理解できる言葉を使う努力をすべきであると思います。





「樹木との付き合い・波乱」*を読んで?????? *同人α13号掲載
2008/1/5

◆同人αの合評をしているので評論というものを知りたくて、このところ家にある新潮社
 版の小林秀雄全集十四巻を拾い読みしている。小林は部分的な表現や齟齬を指摘するの
 ではなく、全体的な印象や考え方の評論が多い。それらは本丸に突き進んで結論めいた
 業物を「さあどうだ」とばかりに広げるわけでもなく、搦め手から知らん振りしてじわ
 りと攻めてくるから、なかなか一筋縄ではいかないのである。だからよく読まないと本
 意がどこにあるか、それを見つけるまでに難儀をすること請け合いだ。私もそのうち何
 とかその神髄を会得して合評の質を高めたいと思っている。
◆大木への憧憬
 私も樹木には関心がある。特にイイギリは郷里の九州ではあまり見かけた事がなかった
ので、横浜から六本木の会社まで通う東横線の祐天寺駅の手前にあった赤い実をつけた大
木は何だろうと思ったのが最初だ。平吉の訪れた国立自然教育園にも沢山あるのも知って
いたし、立川の昭和記念公園の入り口付近にも大木があった。イイギリは冬がいい、真っ
白な雪の中であればもっと印象的であろう。廻りの落葉樹の葉が落ちてしまった中に大手
を広げて仁王立ちした大木が、真っ赤な房状の赤い実をぶら下げて一人自己主張をしてい
る様は擬人的でさえある。
◆さて本文についての感想を書こう。自然のなかの木々の描写や少年の頃の田舎の思い出
も的確に描かれていて読者を納得させるものである。また株の世界、その売買システムな
ど経験のない私にとっては目新しく、ああこういうものかと情況はわかった。
しかし、次の二点で納得いかないと思った。
    1.プロットにおいては「鶴の恩返し」や「浦島太郎」が見え隠れしている。
    2.人物の性格においては大木に心を寄せる人物と投機に走る人物がどうも性格上
     しっくりしない。世の中にはそういう人もいるとことは否定しないが、この場
     の平吉の自然に対する精神的な清さと、生き馬の目も抜くような非常な世界の
     人間に違和感がある。
     やはりこれは「○○の恩返し」というプロットを意識した設定で、らくさんが
     言及しているように別々の物語にした方がいいのではないかと思った。





『生活の探求』
2008/1/6

◆小林秀雄の島木健作の「生活の探求」の評があった。
 「島木健作の最近の書き下ろし長編「生活の探求」は、特色のある小説である。この長
 編は未完であるから完結した作としての出来栄えをここで論ずることは出来ない。ただ
 これだけでも充分僕らの興味を惹くのは、この策の思想小説としての明瞭な意図である。
  *一昔前に、青年の頃読んだ懐かしさでこの本を探したが廃版になったのか、見つか
   らなかった。いつかまた神田の古本屋街でさがしてみるか。
◆また志賀直哉論の中で、「作品の印象を率直に受け入れるために、何も批評家になる必
 要はない。作中人物となって生活しているような気になること、或いは作中人物と実際
 に交際したいような気持ちになること、そう言う一般読者が小説を読む際にして必ず抱
 く率直な錯覚は、高級なもの通俗なものたるを問わず、凡そ小説と呼ばれるものが社会
 に生きるための根底の条件をなす。
◆志賀氏の文学に登場する人物の数や種類は、きわめて少ない。古典が日に新たな所以は、
 その作者に、後世の発見を待つほど多様に才能が備わっているためではない。ある限定
 されてはいるがユニックな才能を徹底的に発揮したことによるのだ。志賀氏の作品のう
 ち、作者の手で充分に仕上げられた人間のタイプを求めれば、僅かに「暗夜行路」の時
 任謙作一人しか見つからないであろう。





楽屋裏を開かすことの可否
2008/10/29

 先のMさんの 「合評・お礼」に代えて(その1)の創作の経緯についての記述があり
ましたが、このことについて考えてみます。私の考えでは下の理由であまり楽屋裏のこと
を作者が語ることは好ましくないように思いますが。皆さんの意見は如何ですか。
◆創りものと分かりながらも読者は感情移入して読もうとしますが、それが作者が経験し
 たり似たような事実を目の当たりにして感動したものでなく、資料を集めて書いた全く
 の創りものと打ち明けられた時には、いくら良くできた物語でもどこかに冷めた意識が
 読者に生じると思うからです。読者は無意識にその中に含まれる「あざとさ」を感じた
 りしないでしょうか。
◆テレビなどでNG集などを映して楽しんだり手品師が最後に種を開かすのと同じで、そ
 の面白さは別の意図であって本筋とは違うもの、いつも使えるような手法でなく禁じ手
 に等しいものでしょう。
◆創作者が自らその楽屋裏を語ることは、飴屋がぺっぺっと両手にツバキをつけながら延
 ばしている所を晒すようなもので、いくら甘くて美味しいあめでもそれを見てしまった
 後食べる子供は興ざめすると思いますが。

以上、創作の方法についての皆さんの疑問に答えてという作者の意図があるのかも知れま
せんが、折角物語の主人公に肩入れしようとしている読者に対しては効果がないと思いま
すが。またまた天の邪鬼・捻者・野次馬・おせっかいの「赤松次郎」の弁でした。





「合評会の熱い夜」をみて
2009/2/15

 昨夜見た「合評会の熱い夜」という番組をみて。
小説を書くことを目指す十人近くの作家志望の人達が、月に一度集まって人の作品を合評
するというドキュメンタリー映像である。我が同人αの合評とどこが同じでどこが違うか
に興味を持った訳です。
 ある男性と女性の二人の作品を通して、みんなの批評によってどのように考え方、表現
方法が変わって行くのかを検証してありました。二人とも普通でない、むしろ異常な環境
のなかで育ったものを小説に書いたわけでありますが、それが独りよがりだったり、皆の
共感を得られなかったのはどうしてだろうという考察、惑い、悩みに一つの方向を見いだ
す、それでも多少の光明は見えてきたが、まだ確たる解答を二人とも得ていないというス
トーリーでした。
 ところで、別の番組のミステリー物の犯人が分かるか判らない場面とこの番組を交互に
チャンネルを切り返していたために、いきなり「知の技法」という文字をホワイトボード
に書いてい人がいましたが、その本のどの部分が話題になったのだろうかと知りたかった
のですが迂闊にも見逃してしまいました。この本はかつて沼南ボーイさんとの間でホーム
ページの中でやり取りをした覚えがあったもので、東京大学教養学部「基礎演習」テキス
トとして「知の論理」「知のモラル」「知の技法」の3部作として出版されていたもので
す。私にとっては今でも「ものごと」を考える方法論として非常に参考になっているので
あり、もしこのての本を読むことに苦痛でない人は一読を勧めます。
 だが、私にとって書くことは、人に読んでもらって、その物語に共感して欲しいという
よりは、むしろ今まで生きてきた時間や空間の中で経験してきた自分だけの逸話や考え方
を記録したいと思っているだけで、「合評会の熱い夜」に出演した人達のような「売れる
物を書きたい」と言うわけでは必ずしもないのであります。






合評をしないい理由
2009/12/29

 NさんがM氏の合評をしないのは、以前M氏から受けた侮辱的な評にによるものと考え
られます。私もそういう言い方でM氏から言い放されたことが都度都度ありました。今回
の私の評にたいする回答をみても、問題提起にかんしての誠意のある受け答えをしないで
突き放すところがあります。それは彼の使う言葉の不的確さを認識しないが、知らないか
だと思いますが。とにかくNさんは冷静に論じあうことが不可能だからあえて表すること
はしないと誓っているようです。




論評
2010/10/30

引用
「斜光」・『巻頭言』・・・人生相談を読んで・・・投稿者:M
早速、××組・S氏の『巻頭言』について
「イジメ」の記事についての考え方として、「イジメはなくならない!」と、に明解な、
第三者的な判断で、識者・評論家たちが、軽率に「イジメのない世中」などと口にしてい
るのを批判されているのも、ユニークです。しかし・・・しかしですねえ・・・「人生相
談が楽しく読める」というのを、悩みを必死の思いで相談に持ちかけた人が聞いたとした
ら・・・。また、「イジメなんてなくならない!」・・・こちらも、イジメられた当事者
の耳に伝わったりしたら・・・。どうも「アッシには、係わりゴザンセン!」・・・木枯
らし紋次郎のようにクールですね。まあ、「ユニーク」ということで、読者の関心引きそ
うで、まさに最高の『巻頭言』であることには間違いありませんが・・・

◆と批判的な論調で書かれているが、おしまいのところでMも、
 「人生相談」はシッカリ、『楽しんで』読んでいます。理由は、「創作小説」のネタに
 ならないだろうかと、データとして整理しているんです。」

と来る、M氏が、「S君は不見識だ」といわんばかりの、そのS氏の発言と、自分(M氏)
が小説のネタとして読んでいることといったい何処が違うのだろう。
その論で行けば己の態度も同じく不見識ではないのか。
この人はいつもこのような同じ過ちを犯し、自分の言動に一貫性がない。





「原点」*を読んで?????? *同人α21号
2010/2/2
(前略)
 この作品を読む前に、Rさんの生い立ちに関するO氏の投稿があった。私は以前も書い
たが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。しかし
私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想などは知
らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは
手品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不
思議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内
を明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑
賞を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。




     憎まれ口について 投稿者:O 投稿日:2010年2月4日 〔憎まれ口についての憎まれ口〕 編集部

      Aさん、嫌々ながらの合評、有り難うございました。苦手だったり気が向か
     ない作品の合評は神経を使うと思うし、努力も必要だから尚の事その労苦に感
     謝します。参考にして、検討したい個所は有り難くそうさせてもらうし、私の
     意図が分っていないと思う時は、それがこちらの書き方が原因なのか、読む人
     の読解力が問題なのか、こちらでよく考えた上、勝手に判断させてもらので、
     どうぞご心配なく、言いたい事を書いて下さい。赤松さんの「何を意図してい
     るのか分らない」に対する答えは、楽屋裏を見せてしまい、後の方々に先入観
     を与えてしまう事になるかもしれないので、最後に書きましょう。

     自分が思いもよらなかった見方や感想があると、それを自分に取り込む事でも
     っと世界を広げる事が出来るだけでなく、評する内容によってその人の考えや
     感性がある程度分るし、それも合評してもらうもう一つの楽しみです。



73α編集部:2014/03/13(木) 00:25:46
帽子考
.

               帽子考




   「私の七つ道具」の中に帽子が入っていた。
    確かに帽子に纏わる投稿と映像がたくさんああった。 (編集部記)




「帽子について」 2007/4/11

 2007.4.11朝日新聞の昭和モノ語りのコラムに「帽子・男の「制服」、規律の象徴とい
う文があった。戦前の男は全部帽子をかぶっていた。古い写真やフィルムを見ると男性の
ほとんどが帽子を頭に載せている。中折れ帽、パナマ帽、鳥打ち帽、学生帽など。
 当時は帽子を被ることに正当な理由があったに違いない。暑さやまぶしさを防ぐためや、
上着やネクタイの様に礼儀正しさや身綺麗さを表すものだったのだろう。それは現在でも改ま
った場所での上着やネクタイ着用と同じだったのだろうけれど、今帽子だけが廃れたのはなぜ
か判らない。

 10年前亡くなるまで私の父はソフト帽を愛用していた。ちょっと改まった外出をする
ときは必ずグレーのソフト帽を被って出かけた。だからと言う訳ではないが私も帽子がす
きである。ベレー帽やハンティング帽、船員帽、カーボーイ・ハットや釣り用の防水ハト
など持っている。しかしかぶるのはなぜか恥ずかしい。細君から冷やかされるのが少々堪
えているが、70歳過ぎたら平気になりそうな気がする。




「イタリア旅行記」より   2007/5/4

● 日本では野球帽や鳥打ち帽やニットの帽子を被る若者が結構いるが、こちらでは帽子
  を被る人達をほとんど見ない。なぜなのかわからない。
  私は河野多恵子の小説「後日の話」のなかに出てくる帽子屋の話などで、イタリアに
  来たらきっと皆中年は帽子を愛用しているだろうと思って、自分も帽子屋を探して気
  に入った物を買って帰ろうと楽しみにしていた。
  しかし思いこみが外れてしまったらサッサとその気も失せてしまった。幻想を抱くと
  はそういうことで、実に根も端も無いこと憧れを育てることかも知れない。




「ハンチング」 2007/1/14

三越にてハンチングを求める。イエーィツの詩「イニスフリーの湖島」の郷里に帰って来た,
「静かなる男」ジョンウエーンのかぶっている帽子をまねて。

HANDCRAFTED BY EXCUSIVRY BY HANNA HATS OF DONEGAL LTD.
DONEGAL TOWN IRELAND DRY CLEAN ONLY PURE NEW WOOL
MAID IN IRELAND

         





「新しい帽子」 2008/4/18

 先日昼休みに細君と銀座に出た。目的の一つは毎年もう咲いたかなと気になる、銀座一
丁目紺屋橋の高速道路沿いにある八重桜の花を見ることだった。丁度今ピンクの花が盛り
である。難を言えば一色過ぎて、色々の花の種類を見たかった。有楽町から銀座通りの入
り口までの並木を散歩して、4丁目に向かう。
 その途中の「トラヤ帽子店」でハンチングを買った。客が2・3も入れば一杯になりそ
うな小さな老舗なのに、4人くらいの店員がいる。おそらく店主から若い店員まで一家で
切り盛りしているのだろう。銀座にはそのような店があちこちあり、歴史をつくっている。
ちなみに購入したハンチングは「トラヤ」が製作したオリジナルだということである。
 トラヤのホームページを覗いてみると

◆ 帽子を被ると、人はその立ち振る舞いまで変わるという。
 帽子を被ることによって、男は自らを顧み、自信を深める。
 と同時に変身願望をも満たしてくれる。
 ひとりの人間がふたつの気分を味わうことができる。
 ソフト帽は紛れもなく、男を紳士にする特効薬なのである。(出石 尚三)

◆ トラヤ帽子店(輸入、国産紳士帽子専門店)
 大正六年創業以来、ソフト帽、パナマ帽で古くから親しまれている帽子屋です。神田の
 神保町から始まった帽子店は現在、銀座店、浅草店で営業いたしております。トラヤ帽
 子店では、ヨーロッパやアメリカから日本人に向いたベストセレクションをお届けいた
 します。

     





*「私の名前」を読んで 2008/4/20 同人α14号合評より

◆ 名前は単なる記号に過ぎないという考え方もあるが、それでも数十年それと付き合う
  わけだから、それなりの感慨も湧こうというものである。私も姓の「古賀」は高校2
  年生の時はクラスに5人も居て閉口したし、名前にも九州男児らしい猛々しさがなく
  不満だった。いまでも多少そう思っている。しかしこのような同人の趣味に浸ってい
  る「文弱」なのだから、性に合っているのかもしれない。

◆ むかし自分の子供に「悪魔」という名前をつけようとして、役所から拒否をされると
  いう社会問題があった。一人前の大人が自分に命名するのなら分かるが、なにも分か
  らない子供に不利と思われる名前をつけるのは親の単なる自己満足に過ぎない。まる
  で子供をペットを扱うように飾り立て可愛がっているふうでどこか違和感がある。

◆ 最近は市町村合併により新しい名称を名乗る自治体も多くなったが、中には噴飯もの
  や軽薄なものがちらほら見られる。たとえば「四国中央市」とか「南アルプス市」と
  か「田無市」が「西東京」になるとか等々である。女系図に出てくる「真砂町」も
  「文七」おっと間違えた「伝七捕物帳」の黒門町も無くなった、歴史を無視してなん
  とも感慨のない無味乾燥な記号と化してしまった感がある。

◆ 昔、別の同人誌でペンネームは是か否かという問題が起きたことがある。知った人の
  文章に興味を抱き読むのだから、個人名が分からない人のは読まないといって反対し
  た人があった。それも名前をかなやカタカナで書いても、それは戸籍に載っている綴
  りではないからだめだという。私はある時は別の世界の人間に変身したいと思うこと
  がある。その時はペンネームを使い、服装を替え、帽子を被り、サングラスを掛け
  「月光仮面」になりたいのだ。それによって一方からでなく他の角度から社会が見え
  てくる効能もあるだろう。
  とまあ己の繰り言ばかりになってしまったが、大西さんの「私の名前」は名前に纏わ
  る小さな思いから祖父の「文七」さんのエピソードまでほのぼのとした感慨がじつに
  よく書けている。まさに日だまりの縁側でほうじ茶を飲みながらのんびり談笑してい
  る気分だ。
  ただ、二つだけ要望がある。
    一つは「私の名前」をもう少し洒落た題にしたらいかがでしょう。
    二つ目はこの「文七」祖父の物語を十倍くらいの長さにして書いて貰いたい。





*「帽子にまつわる話」 2009/1/1  「偏西風」より
◆ 今丁度、O−chanから借りてウイリム・アイリッシュの「幻の女」を読んでい
  る。未だ殺人犯の名前は判らないが、狂言回しになった女の燃えるようなオレンジ色
  の帽子がキーポイントである。また以前、男の帽子という書き物を読んだことがあっ
  た。昔からある男の装いに背広やでネクタイや帽子があるが、不思議なことに現代は
  帽子だけが廃れてしまったという。確かに私の父は生きている間、外出するときはソ
  フト帽やチロル帽を被って出かけていた。あの年代までは他人の前に出るときの装い
  として、一種の自分の気持ちに普段と違うと いうけじめをつけるための儀 式だっ
  たのだろう。

◆ 河野多恵子の「後日の話」の内容は、十七世紀のトスカーナ地方のさる小都市国家で、
  結婚生活二年にして、思いもかけぬ出来事から処刑されることになった夫に、最後の
  別れで鼻を噛み切られ、その後を人々の口の端にのぼりながら生きた、一女性につい
  ての話である。その夫は麦藁帽子業者カタラーニ家の長男ジャコモである。
  その小説に描かれたイタリアの麦わら帽がどのような物なのか、カンカン帽あるいは
  中折帽子か判断がつかないまま、数年前にイタリア旅行に行った時に私はそのような
  店を探して買ってくるつもりであった。しかしベネチアでもフィレンチェでもローマ
  でも見つからなかった。そして目的を諦める決心が付いたのは、歴史に埋もれて未だ
  古い仕来りを守っている古都の街角で、帽子を被っているイタリアの紳士を全然見か
  けることがなかったことである。私は確実に時代は変わったのだなと悟ったのである。

◆ しかし、今この写真にあるようにパナマ帽とサングラスという時代錯誤のジゴロ風の
  格好は、好むと好まざるに関わらず私にとって「必要悪」になってしまった。さて、
  ジゴロ(仏gigolo)は、女から金を巻き上げて生活する男、女に頼って働かない男、
  または女にたかって生活する男のことをいう。転じて「男娼」「ヒモ」「スケコマシ」
  「男妾」を指す言葉である。とWikipediaにある。
  昔、私は密かに「髪結いの亭主」を目指していた野望は砕かれ今は確実に立場は逆転
  の身となってしまった。頭の毛が薄く真夏の太陽の輻射熱には耐えられず、加齢によ
  る目は明るい光線に晒されて白濁した世界のなかに漂い、覚束なげに歩く有様である。

     





鬚ねこと帽子親爺 2009/7/30 α19号「歪んだ風景−沈みゆく家 第六回」コメントより

 作家池田あきこの描く、猫のダヤンを主人公にした「わちふぃーるど」で織りなす不思
議な世界を展示した、河口湖木ノ花美術館の建物の前で撮った写真である。皆さんと張り
合おうとばかりに、はつらつとした若かりし頃の凛々しい写真をと探したが、どこへ隠れ
ているのか頓と見あたらない。鼻髭、顎髭、頬髭で己の本性を隠していた頃もありました。
それが一枚も残っていないとは、もしや余りにもむさ苦しいので誰かが処分したのではな
いか。
 随分前に三歳の頃の息子と電車に乗っていたら、前に座っている二人のうら若き女性か
ら、クスリと笑われた事がある。よほど私のカイゼル髭風が妙だったのか、息子と私がう
り二つだったためか、どっちだったのだろう。
 大体髭には二つの意味を込めて男は伸ばすようだと私は断じる。一つは体制側の権威を
誇示するため。もう一つは体制側ではないことをひけらかすためため。私は30代初めか
らドロップアウトしたので、やはり後者だったと思う。今髭をのばしたら真っ白に違いな
い。だからうらぶれた人生の落伍者風の無精髭に違いない。願わくばショーン・コネリー
のような素敵な髭面を夢見るのだが・・・。

     





「麦わら帽子」 2009/8/3

 誕生日の贈り物を買いに細君とアメヤ横町に行った。時々覗く、5坪くらいの小さな帽子専門店だ。
銀座に出かけた時はトラヤ帽子店のショーウインドウをよく覗くが、残念ながら日曜日は閉まってい
る。それに紳士用としてかしこまった帽子が多く、麦わら帽子のようなくだけたものはあまりない。
 今度買ったものは麦わら帽子と言っているが、どうも麦わらではなくてパナマ草を使っているようだ。
麦わらよりも粘りがあり破れにくいようである。形もテンガロンハットに似ていて気に入った。つばの廻
りにワイヤーが入れてあって形を自由に変えられるのがいい。誕生日の贈り物としてその麦わら帽子
と、ユニクロで2千円弱の白いチノパン2本を買ってくれた。安価ではあったが少し良い気分になった。

     




鈍色の空−その3(最終回)のコメント  2010/6/14

半世紀前の「真昼の決闘」・「友情ある説得」のゲイリー・クーパーや、「駅馬車」・「静か
なる男」のジョン・ウェインのように、まだ男が男らしく、女が女らしかった時代が懐か
しい。これは単なる懐古趣味だけの感傷からではなく、この時代の映画の中の主人公は物
事にたいして心の内になにが正しいかを的確に判断する目を持っているように思えた。そ
の人達はそれに裏打ちされたゆるぎないプライドや自負が、何とも言えない品格を創り出
していた。詭弁や策略といった小細工で下らぬ意地や面子を守るためにだけ行動したりせ
ず、理にかなった主張のもとに攻めるべき時は果敢に攻め、引くべき時は清く引くという、
じつに清々しい堂々とした生き方をしていたものだ。
残念なことに昨今は、自分の言葉と行動が一致しなくても良心が疼くこともなく、プライ
ドを投げ捨てても何の痛痒も感じない人達がいる時代になってしまった。感情でなく「理
正(りせい)」で「万理(ばんり)」の本質を突き詰めて「神野(かみの)」領域にあるか
もしれない、「よりよきもの」を志向するという、心のうちなる良心の鏡を持っているよ
うに見えるゲイリー・クーパーやジョン・ウェイン達は、いつの世になろうとも「赤松次
郎」の憧れの人物像であった。
などと数十年前にスキーで訪れた蔵王の山頂でのカーボーイの格好をした我が写真を見な
がらそういう妄想に駆られたのであります。

     



       『鈍色の空─その3(最終回)』合評??  神野佐嘉江 2010/6/20

       古賀君、
       「著者のポートレートとコメント集」を見たよ。近影かと思ったら数十年
       前のだという。驚いたね。古賀君は昔も今もちっとも変わっていない。
       ただ、ジーンズの前の辺りの紺が濡れ色だね。するとこれはおもらしか。
       それなら近影と思えなくもない(笑)。
?????????????? (*以下略 編集部)





僕にとっての帽子考 2010/10/9  「趣味と道楽の狭間で」コメントより

     

 僕の周りには帽子の好きな友人が何人かいる。僕もその一人である。帽子の効用は夏の
太陽から暑さを避けることや、薄くなった頭を隠すこと、風から髪の乱れを守ること、頭
部保護、防寒などの実用的理由から、またファッションといったものまでいろいろある。
僕が被っているのはジョン・ウェイン主演の映画「アメリカ合衆国の特殊部隊・グリーン
ベレー」の帽子である。だからといって特別僕が軍国主義的な思想が好きというわけでも
ない。長い間自由業を営んできたのでラフな格好でも勤まったものだが、僕は自分の生活
が自堕落にならないように時々はネクタイなど締め、正装をして事務所に出かけたものだ。
その意味では、あるていどの規律的生活を厭うものではない。
実用的でなくても帽子を被る人達は、己の姿を別の人格に見せたいという無意識の願望が
あるのではないかという私の考えは、また別の機会にじっくり思索してみたいと思ってい
る。
 僕は数年前友人のS君と誘いあわせて御徒町のアメヤ横町のガード下にある中田商店に
繰り出した。あるわあるわ、世界中の軍服や勲章や階級章など、戦前の軍国主義の時代に
迷い込んだような妙な気分になった。いくら何でもこのアナクロニズム的雰囲気にはつい
て行けない。その後S君はハンチング帽ばかりで、その時僕はグリーンを、彼は黒を一緒
に求めたのだが、この黒いベレー帽を被った姿をいままで見たことがない。さてはあのア
メヤ横町への同道は僕のために多少無理をしたのかもしれないと今は思っている。
 今回の「趣味と道楽の狭間で」は十数年前に同人誌「斜光」に投稿したもので、狭間シ
リーズの走りという記念すべきものであった。しかし僕はこの帽子をいろいろ欲しがると
いう行為は道楽とは言えず、趣味ともいえる実にささやかなものなのだと思っている。

==============================

 この写真を見た感想は、確かに「人格が変わっている」ということ に尽きた。
いや、と言うよりも「飛んでいる」という感じを受けた。しかも、以前にどこかで見た顔
なのだ。
 それは、どこで見た顔だろうと考えている内に、思い出した。
以前勤務していた研究所の公式テニス部のNo1の顔である。
長期に渡ってTOPの座を保ち続けた強靱さと自信が形作った顔が この写真の中にそっく
り再現されている。
これが、帽子が持つ魔力という物であろうか。
長岡 曉生

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 帽子はおしゃれの意外なポイントにもなるが、その他、人格を少し変えてみる、 他人
を戸惑わす、そんな力をもつ有力な小道具だ。
筆者はおしゃれというより、後者の理由で帽子に惹かれているのかと思う。
 私の母は帽子が好きで春夏秋冬お気に入りの帽子をかぶっていた。 彼女の目的はただ
一つ「おしゃれ」そんな彼女の子供は全員帽子は苦手でほとんどかぶらない。それでも母
の手編みの帽子一つはみななぜか取っており、冬になるとかぶっている。
母の帽子と買って貰った帽子が手元にある。遅ればせながら「おしゃれ」で時々かぶっ
ている。いや人格を変える目的かもしれない。あるいは顔隠し。
ベレー帽姿の筆者は確かにすごみがある。ベレー帽が彼の人格を変えたのだろう。
万理 久利

合評期間:2010.10.10〜2010.10.16
長岡曉生氏より
この写真を見た感想は、確かに「人格が変わっている」ということに尽きた。いや、と言
うよりも「飛んでいる」という感じを受けた。しかも、以前にどこかで見た顔なのだ。
それは、どこで見た顔だろうと考えている内に、思い出した。以前勤務していた研究所の
公式テニス部のNo1の顔である。長期に渡ってTOPの座を保ち続けた強靱さと自信が形
作った顔がこの写真の中にそっくり再現されている。これが、帽子が持つ魔力という物で
あろうか。





学生帽 2012/2/21 α30号「あした天気になーれ 第6回」ポートレートとコメントより

 引っ越しばかりしていたので、随分写真も無くしてしまったが、なんとか押し入れの中
から昔の写真を探し出した。これは私が高校生の頃我が家の庭の一角で撮った写真である。
年の離れた従兄弟とスピッツらしき白い親犬、犬小屋には一匹の子犬までがちゃんと写っ
ている。
このころより私は朴歯の下駄を愛用していたが、この下駄はどうも違うらしい。黒い鼻緒
の桐の下駄で親父のものではないだろうか。
 帽子は白い二本の白線に二羽の鵲をあしらった金色の記章、いかにも間寛一のかぶる高
等学校の帽子そっくりである。セータはやはり鈍色のアラン模様のフィッシャーマンセー
ターである。どうもこのころから「あした天気になあーれ」や「無限回廊」などという空
想癖の兆しがみられるようである。

     





窓辺にてーそして、それから 2012/6/7 α31号「光と影の狭間で」ポートレートとコメントより

たぶん大学二年生のころ夏休みに帰省した折、田辺(森)君と二人で九州一周の貧乏旅行
をしたときの写真だと思われる。大人になるまで偏食、好き嫌いが多く、腺病質、神経質
でカマキリのように痩せた姿が見受けられる。ここは霧島温泉の近くの丸太造りの山小屋
のようだ。たぶん韓国岳に登る前か後かの写真で、窓枠に座った足には草鞋みたいなもの
を履いている。未来は渾沌としていて不安に押しつぶされそうな思いに、いつも不機嫌な
顔をしていたようだ。

     





宇宙戦艦大和艦長 2013/1/23    同人α33号「無限回廊」ポートレートとコメントより

*バード・ブレインの初夢 *「無限回廊」の登場人物
super sybogのバード・ブレインはあるとき、太陽系第三惑星の消滅する前に14万8千
光年の彼方のイスカンダルへ放射能除去装置コスモクリーナーDを求めて宇宙戦艦大和
の艦長となって旅立つ夢を見た。パワー・イーターの完成が間に合わなかっこと、最終兵
器であるリターン・パスの全世界の国々への設置に遅れが生じたこともあって、一部の国
の争いで核爆弾によりガイアの人々に放射能汚染の危険が迫ったためだ。これらの預言は
既にモノリスに記録されたものである。
                          古賀 和彦

     



74α編集部:2014/03/13(木) 03:44:09
ペンネーム考
.
              ペンネーム考



ペンネーム考 2009/12/4

 落書き帳、万華鏡、言の輪で使ったペンネームを数えてみた。そのときの話題や自分の
感じ方の傾向で使い分けていたようである。
それとやはり私はアナグラムのような遊びが基本的に好きだということだろう。
「斜光」「色眼鏡」「風の便り」「歩くハイマー(アルツハイマー病防止のために郷土を歩
こうクラブ)」「シネマ・デ・ジョイ(映画鑑賞会:シネマで楽しもう、死ぬまで楽しもう)」
などなどを考えたのだから・・・。

◆落書き帳
1.??Kazu.K:一番最初に使用した平凡なもの
2.??Tea Pot:詩、絵、小説などの鑑賞
3.??ランゲルハンス島の住人:ちょっと変な異端なことを書く時
4. 自己流捻千家(じこりゅうひねせんけ):非常に独断と偏 見に満ちたもの(特に伝統や
形式にあぐらをかいている活動にたいする批判)
5. Old Elegance:ちょっとスノッブ的目線
◆万華鏡
6. 磁気嵐:社会の不条理に対しての反発
7. 夜間飛行:磁気嵐のような毒を含んだ説法を改め柔らかな表現を目指して改名したも
??の
8. 沈黙星:どんな時に使用したか忘れた
◆言の輪
9. 赤松次郎:小説の主人公、私の分身
10. 叶 加目八:古賀という漢字を分解したものでだじゃ れ、軽口の時使う


       ペンネーム考1への感想
       これまで10ものペンネームを使っていたのですね。驚き。「分裂症」が気
       になりますが・・・
       みんなユニーク、言葉へのこだわりがよく伝わります。北氏との濃厚な?
       交友もわかるような気がしました。多分読んだ人も、見ていないようでそ
       の「ペンネーム」で内容を想像し、読後は不思議と納得していたのではな
       いでしょうか。「タイトル」だけではないのですね。
       漢字、カタカナ、ローマ字を駆使してうまく使い分けていますね。私も全
       部納得。ネームに対するコメントは描いたイメージとほぼ合致。
       好きなペンネームは「赤松次郎」と「Old Elegance」です。
       今後書く作品はきっとこの二種類のペンネームによる作風に絞られてくる
       ような気がします。
       私のペンネームはただ一つです。貴殿ほど雰囲気を変えた文章をたくさん
       書くことがなかったからだと思います。私の場合は、何気なくペッンネー
       ムの前に修飾語をつけて文章の雰囲気・内容の補強をし、ある意味でペン
       ネームを使い分けています。                Y




ペンネーム考その2 2009/12/6

??同人誌「斜光」を立ち上げてからまもなく、ペンネームは是か非かという一大論争にな
った。私はペンネームOKの論を張り、もう一人は駄目という。そこには「斜光」が同窓
生を主体とする同窓会誌であるという認識があったらしい。だから本名で書かないと作者
が誰か判らず、読む気がしないという。
 私は資金的にも公の同窓会に寄るところもなく、自立しているから完全な同人誌である、
読むか読まないかは作者を知っているどうかではなく、内容が面白いかどうかの問題であ
る、と主張した覚えがあった。たとえ彼の言うことに百歩譲ったとしても、個人名を「和
彦をかずひこ」とかいても「シズエをしずえ」と書いても、それは戸籍に載っている通り
の名前と違うという言い分に至っては、パラノイア的な極端さを私は感じた。そう言う人
は同じ思想や出身や年代の集団に固執し、多様な価値観を認める開放性に乏しい人だと言
わざるを得ない。
 結局は編集委員会の結論として、ペンネームを禁止はしないが、出来るだけ本名で書く
ようにしようという、玉虫色の結論で決着したのである。
??その時私が主張したのは、人はその時々で自分の気分に合った着物を着て楽しむように、
人間の複雑な心模様のもとに創作する文の作者名も、本名と別な思い入れのもとにあって
も良かろうという論法であった。確かに私達が創作ものを主体に本を作ろうとしたことに
たいして、同期生の動向を主体にする「情報誌」として考えるという目的の違いがあった
のだが、最終的に「斜光」は同窓生の情報誌に近くなり、私は「斜光」と別れて「同人α」
という純粋な同人誌に移行した。

 ペンネームはYが言う「「ごっこ」は少なくとも私にとっては本音を吐き出す恥ずかさ
からその形態をとることもあるし、本気で遊ぶ部分もあります」につながっていて、現実
の自分と自分を見ている自分を意識する所にある。これは江戸時代から川柳や滑稽本や語
呂合わせ、だじゃれといった文化につながるものである。行動や性癖や考えや好みをよく
観察して、人も己も客観視できる能力が豊でないと諧謔や機知として表現できない。その
意味では「ごっこ」や「だじゃれ」やペンネームの遊びを切り捨てる訳にはいかないので
ある。むしろ感性を育てるためにはそれらが必要なことだと思うのだが。

追:ここでまた日本語のしっとりとしたいい言葉を思いだしました。
迷える子羊「stray sheep」、三四郎や美禰子(みねこ)の心の内の揺らぎを思わせる、
「心模様」という言葉の響きがなかなかいい。




       ペンネーム考2への感想文 091206

      少し前から、「アルファ・システムについて」という題で自分なりの確認や
      問題点提起等についてきづいたことを書きとめてきました。引用が長くなり
      ますが参考まで

      同人誌投稿と書き込みサイトの再確認
      1. 斜光:佐賀高校同窓生でつくる。従って他の人間は会員になることはで
      きない。内容も、多種に渡る。 主目的は同窓生交流
      2. 同人α:文芸「作品」を対照とする。目的は文章鍛錬と作る楽しさを追
      求すること。 従って開かれた同人誌となる
      3. 万華鏡:斜光を基盤にしたおしゃべりサロン。内容は多種に渡る
      4. 遙かなる木霊:万華鏡からさらに分化したサロン
      5. 言の輪:主に同人αのメンバーからなるサロン。主目的は合評であるが、
      会員同士の おしゃべりサロンでもあり小作品の発表の場でもある。

      「斜光」立ち上げのペンネームをめぐる論争を読んでみて同人αとして進化
      していった様子が確認できたような気がしました。上記私の分析にほぼ間違
      いなさそうです。 (違っていたら指摘してください)

      目的が異なれば、おのずからペンネームについての見解も異なるはずです。
      それだけのことです。言っても無駄です。
      妥協するか独立かの二者選択。赤松さん、田村さん、大変なご苦労であった
      ろうと思います。

      ペンネームの捕らえ方、ほぼいっしょです。「読むか読まないかは作者を知
      っているどうかではなく、内容が面白いかどうかの問題である」そのとおり
      です。「創作」の究極はそこにあると思います。
      以前にも言いましたが、「一つの作品を書き上げたら、作者本人の手を離れ
      たものになる」と通じると思います。例えば「三つのお願い」オール・ド・
      エレガンス著 などは、私が作者を知らなくても、なんとなく手にして読み
      たくなる作品です。タイトルとペンネームから興味をひかれます。
      作者を知った上で読みたくなる本があることも確かです。実名を使うか使わ
      ないかわどちらでも良いことですが、ここでいう作者名も「実名」ではなく
      ペンネームであることが多くあります。
      10もの使い方をする作家を私は見かけたことがありませんが、「遊び心」
      のあらわれとして、タイトル、中味、と同様に変化させるのも「あり」だと
      思います。
      多分そのうち疲れてくるし、アイデアも枯渇してくるかもしれません。
      私は「ごっこ」が大好きです。時々、どちらが本当の私なのかわからなくな
      ることがあります。人間の頭の中は本当に不可思議です。   Y




ペンネーム考2への感想についての補足

 同人誌投稿と書き込みサイトの再確認
1. 斜光:佐賀高校第11期卒生でつくる、限りなく同窓会誌にちかい同人誌。従って他の
 人間は会員になることはできない。内容も、多種に渡る。 主目的は同窓生交流
2. 同人α:文芸「作品」を対照とする。目的は文章鍛錬と作る楽しさを追求すること従
って開かれた同人誌となる
3. 万華鏡:佐賀高校第11期卒業生(同人誌斜光の運営ではない)を基盤にしたおしゃべ
 りサロン。内容は多種に渡る
4. 遙かなる木霊:イマジン氏の個人のホ^ムページで佐賀高校第13期卒業生を基盤とす
 る。(立ち上げに関しては第11期のホームページのアイデアを提供した経緯がある)
5. 言の輪:主に同人αのメンバーからなるサロン。主目的は合評であるが、会員同士の
おしゃべりサロンでもあり小作品の発表の場でもある。
?? 以上思いついたところを補足しました。

今読んでいる池田晶子の本の中に目にとまった文がありました。
「科学は目に見える物によって目に見えない心を説明しているにすぎない。解説は決して
回答じゃないんだ」
「自分の性格を冷静に観察、分析して自覚することができるということは、自分のなかの
じぶんでない部分、自分のことを他人みたいに見ることができる部分があるということな
んだ」



75α編集部:2014/03/13(木) 05:00:02
本のある暮らし1
.
           本のある暮らし1??2002-2004





図書館に行きました
 2002/3/18

昨日の日曜日湯島図書館にいきました。
その前に真砂図書館から電話で借りていた石川淳・開高 健・富岡多恵子の本の返却を迫
られました。10日間の期限オーバーです。
そのついでにK氏から推薦された「エレガントな宇宙」 B・グリーン及び「コンタクト」
田口ランディを予約し、三好達治・金子光晴・草野心平の日本詩人全集を借りてきました。




いつも良い本の紹介感銘します
2002/8/23

いつも良い本の紹介感銘します。毎日山積した仕事に追われ、なかなか紹介された本を
読む時間がありません。
とはいうものの、食事後のスポーツやニュースなどのTV鑑賞をやめれば持ち帰った仕事
をこなしてもなお寝るまで1時間くらいの読書と1時間くらいの音楽を楽しむ時間は作れ
るのですが・・・。いつも机の上には読みかけの本が5冊くらい積んであります。そのな
かには図書館から借りたものも2・3冊あり、時々返却するよう催促の電話をもらい、あ
わてて継続の手続きをしに行きます。そのうち秋になればなんとかそのような時間をつく
ってみたいと思っています。




豚の話のついで
2003/1/25

豚の話のついでだが・・・。

「豚の死なない日」(A Day no Pigs would die) ロバート・ニュートン・ペック著 白水Uブックス
「続・豚の死なない日」(A Part Of the Sky)を読んだ。年末に手にした「父の遺産」
といい、年の初めにものにしたこの本といい読み応えのあるすばらしい本を博田さんに紹
介してもらったものだ。

1900年代初期のアメリカ大恐慌時代の予感がする社会情勢下、ヴァーモントの田舎の貧し
い農夫一家の物語である。
主人公の13歳の少年は父親、母、伯母そして隣人との絆、家畜との心のかよいを通して素
朴な中に力強く成長していく。

ヤングアダルト、すなわち少年用に書かれた物語であるが、どのような境遇であろうとも
ユーモアとすべてのものに注ぐ愛情をわすれない率直な人間の根源的な生きる力を書いて
いる。表題は、父親が農業のほかに豚を殺す仕事に従事していることによるものである。




読書会の報告
2003/6/4

 誰かが報告書を出すだろうと「知らぬ顔の半部衛」を決め込んでいましたが、楠葉好夫
氏の中に次回読書会の題がでていましたので、正式な報告をせねばと思い一番真面目と自
称する私が書いてしまいました。

 5月24日(土)「室生犀星」についての読書会を開きました。
「イスラーム」から始まって、「韓国」「大江健三郎」「吉本ばなな」を経て5回になりまし
た。それぞれ真面目に読後感をレポートに認める時もあれば、ある作者の作品では退屈し
て途中で投げ出してしまい、人の感想をふむふむと感心して拝聴するばかりの時もありま
す。とにかく堅苦しい決まりも義務もなく「モット知りたい」をモットーにしている同好
会であります。次回は約2カ月後、題は「徒然草」と「本格小説」(水村美苗・新潮社」)
です。
みなさんの自由な参加を期待します。読書会より後半の酒と歓談が楽しみという人が実
は大半を占めているのではと思われます。

私の独り言
●「イスラーム」はイラク戦争の始まる前で、いままでほとんど知らなかった回教の成り
  立ちから社会・政治にいたるまでを学習し、概論くらいはわかるようになりました。
●「韓国」もまた私たちにとって地理的に近くても国の成り立ちなどの理解からは程遠い
 もので、
  いままではその歴史を腰を据えて探求しようとしませんでした。
●「大江健三郎」社会性を帯びるほど芸術性から離れていくような気がします。
●「吉本ばなな」おじさん達には理解しがたい感覚の世界。読もうとも思わなかったがこ
 の機会を与えてもらったおかげその作品にふれることができたので感謝する。しかしこ
 れからは二度と読むことはないだろう。
●「室生犀星」犀星の生い立はまさしく小説を地でいくすごさであります。「性に目覚め
 るころ」は、、未だ行く末の決まらない「私」を通して思春期の女性にたいするの憧れ
 と強い劣等感を、若者特有の性願望を描いています。




絶版でした
2004/1/5

2003年の最後の読書会はアメリカ人のエラさんを加えて、馬込村の先生の講座を地で
行く比較文化論でにぎわった。そして次回は夏目漱石の「心」と、エラさんがハーバード
の修士号を取ったテーマであった「高橋たか子」の「骨の城」の2冊に決定。

しかし今日昼休みに近くの本屋で探したが見つからず、取り寄せてくれるように頼んで帰
ったが絶版になったという返事をもらった。図書館にもないとしたら、神保町の古本屋で
もうろつくほかはなさそうである。る。



76α編集部:2014/03/13(木) 05:54:05
本のある暮らし2
.
             本のある暮らし2??2007




「internet security」
2007/1/13

norton internet security(3台用)を購入。安物を買うつもりだったが、店員に相談したと
ころ、仕事でパソコンを使用するのであればちゃんとしたソフトが良いでしょうと言うの
で、前から使っていたNORTONにした。いささか起動やアクセスの重さが気になるが
しかたあるまい。¥9,800円なり。早速家のパソコンにインストールしてスキャンしたら、
スパイウエアーが2個も侵入していた。

フロイト全集第7巻「日常生活の精神病理学」
戦後短編小説再発見2 の2冊を購入
坂口安吾 「戦争と一人の女(無削除版)」
    ・シリアスな情況のなかに生きながら、妙に達観したとぼけの文章がいい。


田村泰次郎
2007/1/17

田村泰次郎の[鳩の街草話]を読む。
自堕落に生きている主人公が借金の金を用意するために七年連れ添った女を女郎屋に売る
話である。女は承知しているものの、いざとなった主人公は他の男に取られるという思い
で悔いてしまう。覚悟を決めた女の強さと反対に男の意気地なさが惨めである。


読書
2007/1/18

今読んでいる本は
・フロイト全集第17巻
・現代詩集? アメリカ・イギリス
・戦後短編小説再発見2
・テニスン詩集

仕事はいつしてるのかと問われそうなほどたくさん手がけていて、いささか批難を被りそ
うだが、すこしづつ確実に読み進むのみ。「同人α」第10号に投稿する小説[シリーズ・
歪んだ風景−定年−パート3」も月末まで書かねばならない。また流行作家なみに4・5
日で追い込むやっつけ仕事になりそう。もう少し十分に推敲したいのだが、まあ参加する
ことに意義ありか。


読書
2007/1/19
「性の根源」
武田泰淳「もの喰う女」・吉行淳之介「寝台の舟」を読む。
最近は無頼の徒のものをよく読むなあ。戦後短編小説再発見2の副題が「性の根源」にな
っている故か?

その本の序に次のように書いてあった。変化・変貌する社会のなかで、家族や友人、知人
との人間関係がこれまでの堅固さ(これは幻想だったが)を失い、個人として社会に浮遊す
るという、寄る辺なき「生」を生きることの孤独だった。そして、この孤独感、孤立感を
発条として、人とつながろうとする精神、支え合おうとする意志が、言葉によるミクロコ
スモス、多くの短編小説を生み出した。

しかし私には坂口安吾・武田泰淳・田村泰次郎のようなこの手の小説は書けそうもない
が、私の大好きな室生犀星の「性に目覚める頃」みたいなものはそのうち書いてみたい気
がする。

今度の「同人α」に投稿する物語に出てくるホームレスの記述に必要な、7年から10年
前に載った週刊誌の記事の件で澤田君に電話した。どのようにしてその週刊誌を調べたら
いいかの方法を問うた。「大宅文庫」なるものが世田谷にあり、そこにはたぶんバックナ
ンバーがそろっているだろうということだった。そのほか国会図書館をインターネットで
検索したら各地区の図書館からアクセス出来ると書いてあったので、湯島図書館の司書に
「週間文春」「週間ポスト」「週間新潮」「週間現代」の7から10年前のものを調べてもら
っている。月末までその資料が揃うか問題だ。


読書
2007/1/21

風呂に入ってゆっくり布団の中で本を読みたいのだが、随分目を悪くしてから十分な光が
ないと文字が読めなくなった。読書の時の明かりの方向や角度は意外と大切な割に、照明
器具にいままで満足した認めしがない。ソファーに座って読む場合はフロアースタンドで
斜め後ろ上部から照らすのが理想的だが、布団に寝て読む場合はなかなかそれに適した器
具がない。きょう有楽町のビックカメラでスタンドを買ってきたが当分その置く位置や高
さの調整に四苦八苦するだろう。


読書
2007/1/24

「明くる日」・・・河野多恵子
・体の不具合をかかえ不安な毎日を暮らす央子(なかこ)は、夫の島田になかなか打ち明け
 られない毎日を過ごす。そして最後の手術のため入院する時夫と友人宛に二通の遺書を
 認めようと思っていた。そしてその内容について本当に落ちついた気持ちで言っている
 自分の姿を想像した。

「マッチ売りの少女」・・・野坂昭如
・肉体を売る若い娘の不幸な一生をじめじめした描写でなく、あっけらかんとした文章で
 つづっている。女事態は自分が惨めであるという自覚がなく、流れるままに生きそして
 死んでゆく。「嫌われ松子の一生」に似ている。

「密の味」・・・田久保英夫 ・途中で読むのを止めた。


八甲田の雪崩遭難
2007/2/16

八甲田の雪崩遭難のニュースに40数年前のことを思い出した。大学1年のころだったか、
体育の授業で山形の蔵王でのスキー講座があった。3泊4日の最後の日の課題として山頂
までリフトで登り、樹氷の中のツアーコースを降りてくることであった。ツアーコースは
ゲレンデとはちがい、ふわふわの雪の上を滑るのであるから、尻餅をつくと雪の中に体が
すっぽりと沈んでしまい、足だけが雪の上に浮いているのでなかなか起きあがれないので
ある。スキーを初めて習う人もそのような難しいことをさせるのであるから、指導員も無
茶なことをしたものだと後で思った。

山頂から各々の学生が勝手に滑り降り、そのコースの中程までは晴れていたのだが、急に
吹雪き出し目の前が全く見えなくなった。廻りには友人も一人もいない。私は谷に落ちな
いようにその場所に座り込んだ。もう少し長く吹雪いたら確実に遭難しただろう。そのと
き右の耳がチクリと痛んだ。聞こえが悪くなったので半年ばかりして耳鼻科にいったら鼓
膜が破れている、古い傷なので修復は無理と言われた。いまでも右の耳は難聴である。だ
から吹雪の恐ろしさを実感したとともに、死と隣り合わせであったのではないかと後で気
づいて恐ろしくなった。

藤沢周平の「隠し剣シリーズ」で「邪剣竜尾返し」というのがある。
不意に相手に背を向けることで一瞬相手の剣気を殺ぎ、その虚をとらえて、瞬転して必殺
の一撃を振り下ろすという技である。しかし、まじめな正義感のある好青年が藩の掟を破
った友人に、だまし討ちともいえる秘剣を使うことがはたして武士の魂を持っていると言
えるのか。・・・と考える私はまだ青いのですかね。さすがに作者もそのへんのところの
後ろめたさを感じていたのか、「あの剣はもう使わん」と主人公に誓わせている。しかし
この手の物語は総じて、いくらまじめに生きている武士を描いても、社会の仕組とはいえ
しょせん人殺しの罪は人間として免れられないし、後ろめたさがありはしないだろうか。
たとえ物語としてもそのへんの限界がみえてくる。


固有名詞の度忘れ
2007/2/17

フロイト全集7
固有名詞の度忘れについての論文で、しばしば起こる事例に心理学的な分析を施しが、そ
の結果、想い出すというひとつの心的な機能が不首尾を来すという、一定の特性があると
いう結果を得られた。なにかを単に忘れるというのではなく、間違ったことが想い出され
るということである。

「同人α」第10号「冬号」を今日発行した。夕方より東内夫婦、田村さんで手分けして70
部、第9号を10部製本。その後銀座にてうちあげした。途中より北島浩之君も参加。



戦後短編小説再発見3
2007/3/1

★昼の花火・・・・・・・山川方夫
★光る道・・・・・・・・壇 一雄
★逆光線・・・・・・・・岩橋邦枝
★贈り物・・・・・・・・丸谷才一
★首のない鹿・・・・・・大庭みな子
★ふたりとひとり・・・・瀬戸内晴美
★恋人・・・・・・・・・野呂邦暢
を読む「昼の花火」・「恋人」は宙ぶらりんの若者の男女間系を描いたもので、なかなか
よかった。


灯台へ
2007/3/10

イタリア旅行の間の仕事のフォローのために山本清志氏と引き継ぎ打ち合わせ。
それからこのシステムが良好であれば、毎年休暇が取れることになる。

■ 世界文学大系57 筑摩書房 この本はジェームズ・ジョイス、ヴァージニア・ウル
  フ、T.S.エリオットが納められていて、なかなか魅力的である。ただし、昭和35
  年出版のため3段組で文字は非常に小さく、夜読むのには辛い本である。
  今、ヴァージニア・ウルフ 「灯台へ」を読んでいる。


フロイト全集17
2007/3/11

■ 戦争神経症者の電気治療についての所見
  自分の生命に対する不安、他人を殺せという指示にたいする反抗、我が身を情け容赦
  なく押さえ込む情感に対する拒否感といったところが、戦争逃亡的性向を養う最重要
  の情動源泉であった。
  その苦しみの故に病気へと逃亡した患者を、健康な状態すなわち軍務遂行可能状態へ
  戻すために電気治療を施された。それは病気を治療されるほうが、健康な状態より苦
  痛で過酷であるということにより悲惨な電気ショック療法がとられた。

■ 夢学説の補遺
  夢には「欲望夢」「不安夢」「懲罰夢」の三つがある。

■ 女性同性愛者の一事例の心的成因について


戦後短編小説再発見3
2007/3/26

■ 病身        高橋たか子
■ オフィリアの埋葬  大岡昇平
■ 花火        山田詠美
■ 或る小石の話    宇野千代
■ 浮揚        高樹のぶ子

高橋たか子は実に上手い。恋人の病気をテーマに進む筋の中に主人公の一種独特の癖や好
みが描かれている。その平穏ななかのちょっと異常な感じがうまい。
宇野千代の或る小石の話は、一昔前の古風な男女関係が綴られていて、しっとりとした情
緒がいい。


フロイト全集4「夢解釈?」
2007/3/30

フロイト全集4  20P、39P
■ 夢の内容は常に、本人の人格、年齢、性別、地位、教養の程度、馴染んだ習慣、これ
  までの人生全体で経験した出来事などに、多かれ少なかれ規定される。
■ 夢源泉を完全に列挙してみれば、結局四つの種類が数えられる。それらはまた、夢そ
  れ自体の分類にも応用されている。第一は、外的な(客観的な)感覚興奮、第二は、
  内的な(主観的な)感覚興奮、第三は、内的な(器質的な)身体刺激、第四は、純粋
  に心的な刺激源泉である。
■ 心臓病患者の夢は概して大変短く、驚愕を伴う覚醒で終わる。その夢の中では、ほと
  んどいつも、陰鬱な条件下での死という状況が役割を演じている。
■ 肺疾患の患者は、窒息、雑踏、逃走などの夢を見、目立って多くの人が、悪夢に襲わ
  れる。
■ 消化器疾患では、夢は、食物を摂ったり吐き気を催したりすることに関連した表象を
  含む。


フロイト全集4
2007/4/20

夢問題の学問的文献(H) P124
精神病という現象と夢という現象にはかなり広い範囲の一致がある。
■ ショーペンハウアーは「夢は短い精神病で、精神病は長い夢である」
夢解釈の方法 P134
■ 象徴的解釈
  夢内容を全体として視野にいれ、夢とは別の、了解しやすい、そして何らかの観点か
  ら見て類同的な内容で、一挙に代替させることである。
  閃きや直感にかかわるところが大きい。
■ 暗号方式
  夢を一種の暗号文のように扱って、個々の印を決まった鍵に従って既知の意味の印へ
  と翻訳することである。


埴谷雄高
2007/4/21

「没後10年あらためて埴谷雄高『死霊』を読み直す」の特集の「群像」5月号を購入。
埴谷雄高、稲垣足穂、武田泰淳は同じ志向をもつ。
埴谷は非合法の共産党活動に従事した末の不敬罪および治安維持法による起訴、その結果
としての豊多摩刑務所の独房−精神および身体の「洞窟」に閉じこめられること−という
体験が、「私」というものを徹底的に志向することを強いたのである。そしてそこで「私」
が「私」であることの不快、すなわち「自同律の不快」を耐え、そのことによって自らと
世界を変革するためのまったく新しい思考方法を見いだした。「不合理ゆえに吾信ず」。
「私」が「私」である不快を耐えるためには、この世界には決して存在することない、あ
るいは存在することに出来ない者たち、すなわち「死霊」たちをその場所、つまり「私」
という洞窟のなかから抽出してくる他に方法はなかったのである。−安藤礼二−評


梁 石日
2007/6/12

◆ 北君推薦の「梁 石日(ヤン・ソギル)」の「血と骨」上下巻を湯島図書館から借り
  る。


『知のモラル』
2007/6/28

知のモラル−小林康夫・船曳建夫著より
◆ モラルを問われるのは常に他者に対するものである。
◆ 行為としての知の責任は、なによりも他者が「よりよく生きる」ことに対して向けら
  れなければいけない。
◆ 知の全ての専門領域において、知がこのような言葉を奪われた他者−社会的な弱者、
  過去の他者、まだ存在していない未来の他者−と触れ合う場面で、ほんとうの知のモ
  ラルの問いが提起される。
◆ 相手をあくまでもコミニュケーションの可能性を備えた他者として扱い、他者として
  理解しようとすること。自分のコントロールを超えた土器時の世界を持っている人間
  として「ともに生きようとする」こと−そこにモラルの方向性がある。
◆ モラルとは「ともにある」ことへと開かれた他者の存在を認め尊重すること以外のな
  にものでもなっか。
◆ 詩人リルケがうたったように、動物とは異なる人間の人間らしいあり方は、なにより
  も世界に対するその「開け」にある。
◆ モラルはイデオロギーではない。自分に対して論理的に正しいという判断をもってし
  まっていることほど、モラルとして醜いことはない。
◆ モラルは他者に時間を与えようとすること。
  他者にコミュニケーションのための言葉を与えようとすること。
  他者にその未来への「開け」を与えようとすること。そのような気遣いこそがモラル
  である。


『知のモラル』
2007/7/1

◆ 「詩というものはうまい詩からそのことばのつかみ方を盗まなければならない。これ
  は詩ばかりではなくどんな文学でも、それを勉強する人間にとっては、はじめは盗ま
  なければならない約束ごとがあるものだ」
  「詩というものは先ずまねをしなければ伸びない。まねをしても、まねの屑を捨てな
  ければならない」−室生犀星『わが愛する詩人の伝記』
◆ 「明晰であることの一つは、手の内のカードを全て見せてしまう勇気と無縁ではない
  と思いました」−司馬遼太郎書簡
◆ 朝鮮文学
  中国の怪談本「剪燈新話」からとった、金時習(キム・シスプ/1435〜93 )が書い
  た漢文の物語「金鰲新話(きんごうしんわ」があるが、それ以前の朝鮮における文学
  は見あたらない。またその後近代になるまでもたいして見るべきものは無いようであ
  る。


『知のモラル』
2007/7/2

知のモラル−歴史・神話を壊す知−小熊英二
◆ 知には2種類在ると考える。ひとつは、人びとに答えと確信を与え、敵を指示し、特
  定の方向に導く神話をつくる知。
◆ もうひとつは、問いを発し、立ち止まりながら対話をはかり、神話をこわす知。


『知の理論』
2007/7/11

◆ 今日は雨のため朝の散歩は中止。決めたことにたいしてあまり律儀にならないこと。
  他人に迷惑をかける訳でもないし、なにがなんでも達成しなければという脅迫観念は、
  精神的に、肉体的に逆効果を生むに違いない。
◆ 知の理論 P26 「限界の論理、論理の限界」
  学問的業績を評価された人は、必ずしも答えを見つけ「真理」に到達した人ではなく、
  より豊かな実践を拓いていく新たな丁番を創り出した人。何かある問題に答えた人よ
  りも、むしろ問題を創り出した人である。
20世紀のこの一冊:L.ウィトゲンシュタイン「哲学の探究」(藤本隆志訳、「ウィトゲンシ
ュタイン全集8」、大修館書店、1976
圧倒的な影響力をもった古典的著作として、そして試作の息遣いをともに体験しうる生々
しい現場として。しかし、読みにくい。


話の辻褄
2007/9/23

◆ 自分から最も遠いカテゴリーの人が傍にいるときこそ、自分が何者であるか確信が持
  てる。それゆえファシストは自分と最も遠い人々のうちに同伴者を捜しもとめる。
◆ ニーチェの「超人」は彼と決して交わるはずのない「大衆」に対する嫌悪を自己超克
  の動力として必要とする。それゆえ、背理的なことだが、「超人」はつねに「大衆」
  が彼の傍らに付き添って、彼に嫌悪感を供与してくれることを要請せずにはいられな
  い。
◆ 「話のつじつまが合いすぎた話」は読者にとって印象が薄い。どういう訳か、輪郭の
  なめらかな、あまりにも整然とした記述は、私達の記憶にとどまらない。
  逆に、どこかに「論理の不整合面」や「ノイズ」や「バグ」があるテクストは、かな
  り時間が経ったあとでも、その細部まではっきりと思い出すことがある。それはその
  「不整合」を呑み込むときに刺さった「棘」がおそらくまだ身体のどこかで疼いてい
  るからである。私たちの記憶に残るのは「納得のゆく言葉」ではなく、むしろ「片づ
  かない言葉」である。うろ覚えであっても、決して忘れることの出来ないその種の言
  葉は、論理をもってしては「呑み込む」ことが出来なかったからであろう。
  −『私家版・ユダヤ文化論』−内田 樹
◆ これは私の見解だが、余りにも流暢で面白い非の打ち所のない完璧な文章よりも、拘
  りの・ぎくしゃくした・理屈っぽい描写の混じったものが妙に後に残るのは何故だろ
  う。山から海まで真っ直ぐな川をとどまる事もせず一気に流れ下る水よりも、淵や瀬
  や石・杭・中州などの障害物のあるなかを流れ下る方がずっと印象に残るとように。
  私がシンメトリーを基調とした西洋文化ではなく、ちょっと間を外したり左右非対象
  を基調とした日本の文化のなかで育ったせいだろうか。


「私家版・ユダヤ文化論」を読む
2007/9/30

この前亮子さんが書いてくれたイギリスのジョークにユダヤ人が登場するが、老獪でけち
な民族の代名詞として使われているのはなぜかと0−chanも疑問を呈していたのを見
た。丁度私もその話題と同じ時に「私家版・ユダヤ文化論」(内田 樹著)という本を見
つけたので少し勉強してみようと思った。

◆ その本にはまずなぜ何千年もまえから迫害され続けて来たかを考察してあった。紀元
  前十世紀に南北に分裂したイスラエル王国のうち北王国はアッシリア王サルゴン二世
  に紀元前七二二年に滅ぼされ、南王国はバビロニア王ネブカドネザル二世によって紀
  元前五八六年に滅ぼされた。それ以来亡国の民として世界中に散らばって行った。
◆ 「ユダヤ迫害にはそれなりの理由がある」という反ユダヤ主義の生じる根拠として、
  ユダヤ人が「キリストを殺した」という思いこみがあって、キリスト教世界では「賤
  民」として扱われ、土地の所有や農業への従事が禁じられていた。彼等には高利貸し
  や行商や芸能など、キリスト教徒からすると非生産的な職業(その当時の隙間産業)
  しか許されなかった。迫害され差別された社会の中でユダヤ人は勤勉で頭を使うこと
  を何世代に渡って励んだ結果、汗を流して生産に従事する国民よりも裕福になり、芸
  術や学術の面でも社会を牛耳るようになってきた。現代においてノーベル賞を受賞す
  る民族のなかでも突出してユダヤ人が多いことをみても判る。アーリア人(ヨーロッ
  パの白人)は老獪で賢いセム族(ユダヤ人)に騙されて自分たちの富を横取りされる
  と考え始めた。
◆ その中で「シオン賢者の議定書(プロトコル)」など「ユダヤ人世界征服陰謀の神話」
  などの反ユダヤ文書が出回った。それは「死せる孔明、仲達を走らす」のような、何
  の根拠もない亡霊におびえるようなものであった。
◆ 皆が皆鉤鼻が特徴でシェークスピアの「ベニスの商人」に出てくるずるがしこく老獪
  なシャイロックのようなイメージではなく特別身体の特徴などはアーリア人とほとん
  ど変わらないし、宗教も全員がユダヤ教徒ということではない。
◆ 以上の本を読んでヨーロッパの人たちのユダヤ人に対する思い(怨念)が私には理解
  出来ないほど深いものであることが判った。それはたぶん自分たちの国家の中に紛れ
  込んで見えないユダヤ人による知の支配と富の搾取たいする疑惑と怨嗟によるもの
 で、大戦の後のイスラル建国は罪滅ぼしの大儀名分を装った、国体から体よく追い出す
  ことと、敵の姿いつも見える状態にしておくためのアーリア人の戦略だったかも知れ
  ない。そして反ユダヤ主義的思想が言われなき冤罪であっても、アーリア人にとって
  それが自らのアイデンティティを確認するためのものだったのかもしれない。


「逃げる」
2007/10/3

危機のモラル マレクラ島のフィールドから 船曳建夫著
◆ 地震、大雨、日照り、疫病、そして集団間の争い、殺人、姦通、そして儀礼上の侵犯
  といったものに対して解決しようと努力するが、どうしても解決出来ない場合は最後
  の手段としてその場から「逃げる」ということである。親族や知人の類を頼って一時
  的に避難することで問題の「無化」という解消法をとる。
◆ 近代社会観の源にあるホッブスの「リバイアサン」に見られる考え方からは、「逃げ
  ること」は社会(国家)を成り立たせている契約の放棄であり、社会を不成立に導く
  ものとみなされるであろう。はたしてマレクラ島における「逃げる」ことが社会を支
  える行為として成り立っているのか。
◆ 社会が割れて散り散りになった人々は、その先々で生きていくことで、社会性を回復
  し得る。その外側に別の人間集団を持たない社会はないから、人はある社会の外に「逃
  げる」ことができるのである。「亡命」と「難民」が人間の幸福の姿であるかどうか
  は別として、それらはある社会の外に出る選択の表現としてあり、こうやって逃げ散
  ることに、人間が社会的にいきるモラルに反する内容はないのである。
◆ 1995年1月の阪神大震災では6,000人以上の人が亡くなった。その瞬間は逃げるこ
  とは出来なかったが、その後「自分達の町は自分たちで守るのがよいのだ」という踏
  みとどまって集合して危機に対処する面が強調されすぎているような気がする。「逃
  げる」ことをどれだけ暗黙のルールとして、体が覚えて危機を回避できるか。社会の
  あり方として追及していかねばならない。
◆ ここからは私論だが、道徳や規則や狭い帰属意識や「こうあるべき」といった」あま
  りにも硬直化した思いこみを、己の本当の価値観や望みを見失わせるような自分以外
  の力によって動かされているのでないかという疑問をもち、 どこかでリセットして
  自己を解放する「逃げる」こともたまには考えて見る必要があるのではないか。

 *『リヴァイアサン』はトマス・ホッブズの著書で1651年発行。題名は旧約聖書に登
  場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。正式名称は "Leviathan or the
   matter, forme and power of a common-wealth ecclesiasticall and civil"。
  この中でホッブズは、人間の自然状態を万人の万人による闘争であるとし、この混乱
  状況を避けるためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を政府(この場合
  は国王であり、この政府を指して『リヴァイアサン』と言っている。右の口絵に描か
  れている王冠を被った『リヴァイアサン』は政府に対して自らの自然権を譲渡した人
  々によって構成されている)に対して全部譲渡(と言う社会契約を)するべきである。」
  と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を
  構築した。


「ふるさとの川 城原川」の本を読んで
2007/10/20

 この作者が小さい頃より生まれ育った故郷の土地から豊かな感性と真実を見通す目を育
まれて、いまだにその自然に愛情を持ち続けていることに私は感心する。だから色々の事
情で故郷を離れ、ある意味で捨てたという苦い思いを持つ私にとっては羨望の眼差しを向
けてこの本を読んだのである。

 作者がそこから得た生きる知恵の確かさは、テレビや週刊誌などのマスコミや専門家、
知識人と言われる人達によってもたらされる情報に惑わされることなく、故郷の治水に関
わる施設の是非についての判断に目が曇ることはなかった。我々現代人はなんと軽薄で雑
多な情報を頭の中にため込んで、一見地味ではあるが連々と祖先から受け継がれ、生活に
根ざした本当の知恵を忘れさっていることだろう。

 我が国で散見する大プロジェクトの中には為政者サイドの思惑が全て住民のためと考え
ているとは思えない場合もみうけられることが多々あると私は思う。高潔さを忘れ去った
高級官僚やいかがわしい建設関係などが国民のためという大義名分を翳し、己の利益追求
のために画策しているいのではないかと思われる場合もある。だから我々庶民はそれが本
当に地域住民のためのものかをまずは疑って見る必要がある。
 結論を急がず、弛まぬ努力で疑問を明らかにする思考をすれば自ずと真実が見えてくる
はずだ。この作家のように臆することなく「自分の感覚」と違うことに疑問をぶつけて、
筋書き通りの物語を作り上げようとする者のデータの意味する暴き出すことは大切だ。

 以前に「佐賀城本丸周辺の環境と景観を守る会」の市民運動に参加した時すでに「自分
達の街は自分たちで考える」という市民意識が芽生え始めたことを実感したのだが、自分
達の身の回りのことを自ら判断し決定するという、自治意識を持つた作者のような人達が
多くなりつつあることを嬉しく思った。また自ら決定することは将来の地域にたいする重
い責任と義務を追わねばならないことは言うまでもないことである。しかし今までも為政
者がその決定にたいして充分に責任を負って来たとは思えない場合も多く見てきたのであ
るから、所詮そうであるなら、決して行政のプロや雇われ専門家に任せることをしないで、
その土地土地の政治は自分達の手で責任をもって参画することに果敢に挑戦して貰いた
い。そして近い将来望むべき地方自治の時代が到来することを私はこの本を読んで確信し
た。
 最後に、「治水について」という小難しいデータと官僚的な報告書だろうという、いさ
さか私にとって気が重い感じで読み始めたのだった。しかし読む進むに従って「おまえは
川から流れてきたとぞぉ」とか、私の場合は「悪かことすっと山からドーコが連れにくっ
ぞ」などとよく大人からおもしろ半分恐怖を植え付けられたことを、また「カラス貝は大
きくなると、夜、真っ赤な火を吐いて飛ぶらしかぞ」等々は小さかった頃の懐かしさを想
い出させてくれたとともに、育った環境に注ぐ愛情を綴った優れた文学作品にもなってい
る。


「Vanity of vanity all is Vanity」
2007/10/24

◆ 今日の朝日新聞に載った加藤周一の夕陽妄語に「空の空なるかな すべてこれ空なり」
  という言葉を「ソラのソラ」と読んだ雑誌編集者がいたといって呆れていた。なるほ
  ど旧約聖書に出てくる「Vanity of vanity all is Vanity」という言葉は私でさえ
  昔習った覚えがあり、allの後にaが付くのは何故か、そしてallは複数でなく単数名
  詞なのかというような問題であったように思う。
◆ そして加藤は、日本の雑誌編集者が「聖書」を見たことがないのは、西洋の読者層の
  大部分が生涯に一度も「論語」を見たことがないという事情と似ていなくもない。し
  かし「ソラのソラ」が日本語として意味をなさないのとは別のことである。「空の空」
  は日本語として十分明瞭である。敢えて「ソラのソラ」と読むのは、日本語の知識の
  貧しさと、そのことに対する注意不足をしめすものだといっている。たしかにこれは
  何だろう、何を意味するのかと疑問を感じて声にする前に思案しなかったのだろうか。


コンコーダンス
2007/10/25

◆ コンコーダンスといって、特定の作家の用語を索引出来る便利なものがある。例えば
  the concordance of the New Testament (新約聖書コンコーダンス)、や??compile a
  concordance to Shakespeare [=Shakespeare concordance](シェークスピア・コンコーダ
????ンス)、ワーグナーのコンコーダンス、ディケンズコンコーダンスなどがある。コン
????ピュータなどによるテキスト文中の全単語のアルファベット順リストで「愛」を索引
????するとシェークスピアの全作品の何処に使われているという事が瞬時に判るという。
◆ 白川静博士の「字通」は持っているが、ものを書く趣味のものにとってせめて「聖書」
  や「シェークスピア」のコンコーダンスは欲しいと思っている。しかし 5万円近く
  もする高価さについつい後回しになって、飲み代やそのたの身近な欲望に化けてしま
  うのが残念である。いつかきっと実現したいと思うのだが、もはやLOTOの大当た
  りに頼るしかないか。Ǜ



77資料管理請負人:2014/03/13(木) 11:03:13
本のある暮らし3
.
            本のある暮らし3??2008前半




「小林秀雄全集」
2008/1/5
 同人αの合評をしているので評論というものを知りたくて、このところ家にある新潮社版の
小林秀雄全集十四巻を拾い読みしている。小林は部分的な表現や齟齬を指摘するのではなく、
全体的な印象や考え方の評論が多く、それらの文もなかなか一筋縄ではいかないので、よく読
まないと本意がどこにあるか見つけるまで難儀をする。
 ところで、第四巻「作家の顔」の石坂洋次郎の「麦死なず」P72後ろから6行目の「成る程」
の「な」の字が横になっている。いつだったか辻邦生の「夏の砦」にも校正ミスを見つけたが、
このような大きな出版社でも版を重ねられたものでもあるのかと思うと驚きである。というこ
とは同人αもってしかるべしなのであろう。


「生活の探求」
2008/1/6

◆小林秀雄の島木健作の「生活の探求」の評があった。
「島木健作の最近の書き下ろし長編「生活の探求」は、特色のある小説である。この長編は未
完であるから完結した作としての出来栄えをここで論ずることは出来ない。ただこれだけでも
充分僕らの興味を惹くのは、この策の思想小説としての明瞭な意図である。
 *一昔前に、青年の頃読んだ懐かしさでこの本を探したが廃版になったのか、見つからなか
 った。いつかまた神田の古本屋街でさがしてみるか。
◆また志賀直哉論の中で、「作品の印象を率直に受け入れるために、何も批評家になる必 要
はない。作中人物となって生活しているような気になること、或いは作中人物と実際 に交際
したいような気持ちになること、そう言う一般読者が小説を読む際にして必ず抱 く率直な錯
覚は、高級なもの通俗なものたるを問わず、凡そ小説と呼ばれるものが社会 に生きるための
根底の条件をなす。
◆志賀氏の文学に登場する人物の数や種類は、きわめて少ない。 古典が日に新たな所以は、
その作者に、後世の発見を待つほど多様に才能が備わっているためではない。ある限定 され
てはいるがユニックな才能を徹底的に発揮したことによるのだ。志賀氏の作品のう ち、作者
の手で充分に仕上げられた人間のタイプを求めれば、僅かに「暗夜行路」の時 任謙作一人し
か見つからないであろう。


「生活の探求」の古本購入
2008/1/9

・生活の探求 (正・続2冊揃)
・島木健作
・函、B6判、P333+548、正・続共重版揃、状態は良
・昭16
・2冊
・1,500
・河出書房
・からさわ書店
・〒1580091
・東京都世田谷区中町5-20-9
・TEL:03-3703-1975
・FAX:03-3703-1975
・E-MAIL: karasawa-shoten@mb.point.ne.jp


「生活の探求」の本が来た
2008/1/11
◆世田谷のからさわ書店より注文していた島木健作の「生活の探求」・「続生活の探求」の2冊
が着いた。1500円+送料450円 計1950也
昭和16年発行の随分古い本で、紙もざら半紙である。絶版になっているからなかなか揃わず、
全国の古本屋のデータでも十冊くらいしか無かった。もちろん全集には入っているだろうが、
単行本としてもやけに少ない。もはやこんな本を読む人がいなくなったのだろうか。それにし
てもこの頃からざら半紙を使うほど日本の国は逼迫していたのか、それともこの程度が当たり
前の時代だったのか。今の真っ白い紙はまぶしいくらいだ。
  *【ざら紙】(ざら半紙の正式名称)
   製紙材料のうち、原木を砕いただけで加工していないグランドパルプの割合が7割を超
   える、印刷用紙の総称。表面がざらざらしている。廉価な紙で、新聞やまんが週刊誌な
??????どに使う。


「理工系物理学」鐸木康孝著
2008/1/12

「物理学の理論はすべて近似である。ケプラー法則に従って運行する惑星は一つもないし、ニ
ュートンの法則に従って運動する質点とか剛体というものはひとつもない。正しいか、正しく
ないか、ということは、物理学では問題にならない。問題になるのは精度である。誤差の極め
て大きな理論に対して、これは誤りであるという判定がおこなわれることはある。しかし、こ
の理論は正しいという判定をこなわれてことは一度もない。


ミツバチ大量失踪事件
2008/1/13

ミツバチ大量失踪はウイルスが原因か
◆岩波の「科学」12月号で面白い記事を読んだ。
◆ミツバチが巣箱から大量失踪する原因不明の「蜂群崩壊症候群」が昨年の10月ごろから欧
米各地にひろがっているという。
◆単に密が生産されないというだけではなく、ミツバチに受粉を頼っている果樹や作物にも影
響している。養蜂協会の緊急アピールには「皆さんの日に3度の食事は、ミツバチが働いたお
かげです」という文言がはいっている。
◆大量失踪の原因ががなんであるかは、蜂の死体がほとんどみつからないことから今は特定で
きてはいない。
◆原因説としては
 1. ミツバチの酷使による過労説
 2. 携帯電話の急速な普及に伴う電磁波の増加で帰巣本能に変調をきたしたという説
 3.「イスラエル急性麻痺ウイルス」や「カシミールハチウイルス」などのウイルス説
 4.「ダニミツバチヘギイタダニ」というダニ説
◆本来は働かない季節外でも、各地に運ばれて蜂蜜を集めるように品種改良されたミツバチが
「過労」や「ダニ」に警戒心を失った結果などを想像させる観察結果をみるにつけ、自然のバ
ランスが崩れるような急速な改良や開発が、いずれの日にかいかに己の身に不利な状況を作り
だすか、この「大量失踪」事件は人間に警鐘を鳴らしている


「生命とはなにか?」−その1
2008/1/20

『生物と無生物のあいだ』 (講談社現代新書 福岡伸一)
我々の身体がこれほど大きい理由は生命とはなにか?
◆生命を構成する原子はブラウン運動をしている。
◆つまり我々の細胞の内部は常に揺れ動いている。
◆生命の秩序を構築するためにはわれわれの身体は原子にくらべてずっと大きくなくてはなら
ない。
◆ブラウン運動する粒子もある一定方向に拡散する。しかし中にはそれと反対にふるまう粒子
があり、その頻度は平方根の法則にしたがう。たとえば100個の粒子があれば、100のルート
だから10固定の粒子はその活動からはずれることになる。例外が10ならば、生命は常に10
%誤差率で不正確さをこうむることになる。だから生命体が100万個の原子から構成されると
すれば、100万のルートで1000個すなわち0.1%となり格段にさがる。生命体が、原子ひとつ
に比べてずっと大きい物理学上の理由はここにあるとシュレーディンガーは指摘している。


「生命とはなにか?」−その2
2008/1/28

「生命現象を縛る物理的な制約」  講談社現代新書 福岡伸一著
◆生命の発生段階における基本的形態形成に拡散の原理が重要な役割を果たしていることが、
最近になってわかってきている。
◆私達の身体は中央に背骨が走っており、それを中心線にして左右対称の構造をしている。
背骨に分節構造があり、神経の配線もこの分節にしたがって仕分けされている。これが脊椎動
物の基本構造である。しかし無脊椎動物である昆虫や、ムカデ、ミミズ、クモのような生物に
ついても広く、中心線とそれに沿った分節構造が存在するという基本デザインは共通している。
◆分節を持つ生物は、分節を持たないなめらかな生物に比べ、不気味な形態となったが、分節
をもつことの有利さをも享受することとなった。たとえば、分節による機能の分担の繰り返し
構造に伴う物質利用の効率化、あるいは損傷の際、被害をその分節だけにとどめることができ
る有利さや、そのことによる修復のしやすさ等である。こうして分節を持つ生物はより環境に
適合し、分節を持たない生物との生存競争に打ち勝ち、今日あまねく分節をもつ生物が広がっ
た。
◆生物の形態形成には、一定の物理的な制約があり、それにしたがって構築された必然の結果
と考えたほうがよい局面がたくさんあると思える。


「生命とはなにか?」−その3
2008/1/29
 「生命はなぜ動的な秩序を維持できるのか」  講談社現代新書 福岡伸一著

◆拡散はその途上では濃度勾配という情報をもたらすが、やがては一様に拡がり平衡状態 に
達する。これは物質の勾配のみならず、温度の分布、エネルギーの分布、あるいは化 学ポテ
ンシャルと呼ばれる反応系の傾向も、速やかにその差が解消され均一化する。物理学者はこれ
を熱分布的平衡状態、あるいはエントロピーの最大状態と呼ぶ。いわばそのその世界の死であ
る。物理学者は自分の扱う世界をしばしば”系”と呼ぶ。
◆エントロピーは乱雑さ(ランダム)を表す尺度である。全ての物理学的プロセスは、物質の
拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終
わる。これをエントロピー最大の法則と呼ぶ。
◆ところが生物は、自力で動けなくなる「平衡」状態に陥ることを免れているように見える。
もちろん生物にも死があり、それは文字通り生命という系の死、エントロピー最大のの状態と
なる。しかし生命は、通常の無生物的な反応系がエントロピー最大の状態になるよりもずっと
長い時間、すくなくともヒトの場合であれば何十年もの間、熱力学的平衡状態にはまりこんで
しまうことがない。その間にも、生命は成長し、自己を複製し、怪我や病気から回復し、さら
に長く生き続ける。
◆エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することでは
なく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れころが、生物の内
部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになる。
◆つまり生命は、「現に存在する秩序がその秩序自信を維持していく能力と秩序在る現象を新
たに生み出す能力をもっている」ということになる。
◆秩序はまもられるために絶え間なく壊されなければならない。
◆生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。
生命が平衡の秩序にとどまることなく今の瞬間を壊すともに新しく生まれ変わるという論は存
在について言及しているハイディガーの「存在と時間」の思想と同じものだと感じた。


『居酒屋「清月」』*を読んで  *同人α13号掲載
2008/1/31

◆筋は特別珍しい、刺激的な、謎めいたものではなく、誰にでも何所にでもあるようなものだ
が、テーマが最後まで一貫していて判りやすい。そして色々の人物を登場させると、一般に猥
雑になり易く何を言いたいのか、だれがどのように係わっているのか、判じ物みたいな物語に
なるのだが、一人一人の人物の特徴や考え方まで想像できるような描き方はみごとである。
◆この物語を貫くテーマは、主人公が弱者に対するやさしさを十分持ちながら、勇気を持って
救い出すという行動に移せなかったという自分の意気地無さや、欲情に負ける自分のいやらし
さにたいして痛恨の念を抱いている。それはまた青年の頃の過ぎ去った卑しさと思っていたの
だが、大人になった今でも「清月」での市役所の役人の醜態と自分はあまり変わりはしないの
だという思いに苛まれるのである。この辺の描き方はすごいね 私も「シリーズ・歪んだ風景」
で描きたいと常日頃思っている、隠れた人間の心の襞 見事に描き切った小説であると思った。
◆最後にブログの写真のなんとこの小説の圭一の、ハッシュや酒に溺れ、放蕩三昧の満たされ
ない日々の生活が見え隠れする、そのようなすさんだ青年の姿を彷彿とさせる、名画の一こま
のようだ。


「生活の探求」
2008/2/19

◆「生活の探求」p120
 「人間生活の美しさや醜さや豊かさや貧しさに対して、喜びや悲しみや怒りや憎しみやを率
直に生々と感じることのできない悲しい人間にです。人間としては一番大切なものです。そう
いう愛があってはじめて積極的な生活者になれる。生活のなかから益々そういう愛を深め、そ
れは又逆に彼の生活を豊かな立派なものにしていく。挫折してもまた起ちあがっていく力もそ
こからくみ出せる。それは理論や思想とは無関係でない」という点において、それに欠けるよ
うに思える志村克彦の生き方に、杉野駿介は批判的であった。
◆湯島図書館より「思想」を借りる。
◆古井由吉著「白暗淵(しろわだ)」を購入。この作家は現代純文学の数少ない書き手の 一
人だ。


ノックアウト実験
2008/2/21
◆ノックアオウト実験という面白い言葉があった。
 遺伝子を人為的に破壊して、その波及効果を調べる方法を、「ノックアウト実験(叩き潰す)」
という。
 タンパク質の構造は、アミノ酸配列に依存し、アミノ酸配列はDNAの塩基配列に暗号化(コ
ード)されてゲノム上にかかれている。特定の塩基配列を取り去れば、その欠損による波及効
果を観察することによって、そのタンパク質の役割が確認できる。
「生命とは何か?」福岡伸一著


「生命とはなにか?」−その4 
2008/2/22

福岡伸一著を今日読み終えた。
◆ニューヨークのロックフェラー大学の医学研究室からボストンのハーバード大学に移って暮
らしていた時の魅力的な文章があった。特に私が憑かれたものは「それは振動(バイブレーシ
ョン)だった」とニューヨークを評した彼の言葉・感覚であった。私は彼が 優秀な生物学者
としてだけではなく、文学的な豊かな才能に恵まれていることを感じる瞬間だったのだ。
◆「私はそのころすでにニューヨークを離れてボストンに暮らしていた。この街は、アメリカ
の他のどの都市とも異なった光を発している。
 ニューイングランドと呼ばれる東海岸の一体は、イギリスから盛況とが最初に到達した場所
で、時間と落ち着きが静かにながれている。秋には石畳の路地にプラタナスやイタ ヤカエデ
の黄色い落ち葉が重なり、それを踏むと乾いた音がする。街の商店には、リンゴを絞ってシナ
モンを入れたアップル・サイダーの茶色のボトルがならぶ。ブラウンストーンと呼ばれる褐色
の石積み建物の間からのぞく空は鈍く低い。まもなく長い冬が訪 れる。一日中、気温が零度
を上まらない日も多くなる。そんな夜は街路灯や遠くの窓辺 の光が、透明なまでに鋭角的に
澄んでみえる。空気中の水蒸気がすべて氷結して地表に落下してしまうので、光の通り道にそ
れを散乱するものが何もなくなるのだ。
 ニューヨークから北東へ約二百キロ上がった、同じ大西洋岸に位置するこの街には、ニュー
ヨークには確かに存在していた何かが欠けていた。新しい環境で研究を再開することに忙殺さ
れていた私には、最初、それが何であるか判らなかった。それは振動(バイブレーション)だ
った。街をくまなく覆うエーテルのような振動。誰もが急ぐ歩道の靴音、古びた鉄管をきしま
せる蒸気の流れ、地下に続く換気口の鉄格子から吹き上がる地下鉄の轟音、塔を建設する槌音、
壁を解体するハンマー、店から流れ出る薄っぺらな音 楽、人々の哄笑、人々の怒鳴り声、ク
ラクションとサイレンの交差、急ブレーキ・・・。マンハッタンで絶え間なく発せられるこれ
らの音は、摩天楼のあいだを抜けて高い空に拡散していくのではない。むしろ逆方向に、まっ
すぐ垂直に下降していくのだ」


寒さ
2008/2/29
(前略)
◆フロイト全集第8巻「機知」
◆戦後短編小説再発見第11(事件の真層)・12巻(青春・恋愛)
 計3冊購入。


「アーラヤ識の参考書について」
2008/3/6

長岡氏より
現在手に入る手頃な参考書として、次をおすすめします。仏教の思想〈4〉認識と超越 (角川
文庫ソフィア)   ¥840
昭和45年発行の角川選書の復刻版ですが、よくまとまっていると思います。
Amazon で、翌日入手可能です。赤門前の山喜房仏書林でも、在庫はあると思います。


「生活の探求」と「白暗淵(しろわだ)」
2008/3/14

◆今、家では古井由吉の「白暗淵(しろわだ)」を、事務所では島木健作の「生活の探求」
を平行して読んでいる。二つの小説は実にそのスタイルの違いが際だっている。
◆「白暗淵(しろわだ)」は終戦間近の大空襲に纏わる少年の身の回りの回想が主に語られて
いる。時間的にも過去と現在が混在しながら、色々の状況をこと細かな心象風景をつづったも
ので、霞の中に見え隠れする感覚をまるで白昼夢のような描写で語られてい く。
◆かたや「生活の探求」は杉野駿介が置かれた複雑な世俗的な人間関係に見切りをつけ、東京
の学生を続けることに疑問を抱く。そして帰省するなかで、満たされない何かを求めて農家の
父の跡を継ぐ決心をする。恐らく学問を修めてそれなりの階級に上り詰めても、自然と親しん
だり、肉体労働や知恵を働かしながら生産に直接携わるという生き方に、主人公は充実感を感
じるのであろう。このところは私も生活に直接結びつく生産に携わらない仕事のなかでは、自
らの生に対する強さや満足が薄いと感じ、都会を離れて自然に身を置く暮らしのなかに求めて
いるのである。
◆両方の小説とも会話の描写がない、主人公の目を通した内証の記述で、今時の劇画や推理小
説などの筋の進行で魅せるものに馴染んだ読者は、この忍耐にはなかなか耐えるということが
出来ないかも知れない。私はこれらの地味で、なかなか展開しない筋の小説のスタイルは結構
慣れているせいか好きである。主人公は様々な問題や悩みやを抱いて苦労するが、結局は何も
解決しないままで続いて行くという純文学の特徴を色濃く持っている。


「科学」1月号
2008/3/16

湯島図書館から借りたてきた「科学」1月号のなかで、目にとまった記事は
◆進む中国の水質汚染
大気汚染と同様に水質汚染も相当非道いらしい。揚子江には1986年300頭前後いた「ヨウス
コウカワイルカ」が2007年に1頭ビデオ撮影されたのみになった。
◆遺伝子と骨が語る日本人の成り立ち

およそ15万年前に現代人はアフリカで誕生した。人類のアフリカ人のミトコンドリア DNA
は8〜6万年前に人口が急増したことが出アフリカの引き金になったと考えている学者もい
る。そのすべてを含むアフリカ人のミトコンドリアDNA(専門用語ではハプログループと呼
ばれる)がグループMはアジアへNはヨーロッパへと拡散して行った。
◆日本の歴史にみる科学者たちの特性
千々石ミゲル:最初の理系人間の好奇心
千々石ミゲルは天正少年使節団4人のうちの一人。スペイン王フェリペ2世や教皇グレゴリオ
13世の16世紀世界史の俗と聖の最高権威に謁見している。
近世始頭の日本人が知的好奇心に溢れ、とりわけ科学的な関心がつよい、と宣教師達の証言が
ある。
   *西川如見:知の公開を主張した民間の天文地理学者
   *伊藤圭介:結社システムと植物学の始祖
   *寺田寅彦:風雅な眼と「底を抜く」科学者
◆不思議な数eの物語:E.マオール/伊理由美訳 岩波書店
自然対数の底eのe = 2.7182818の意味を知りたい。


「生活の探求」−島木健作著 読み終わる
2008/3/19
◆はじめ、生産における農民と直接に相結んだ時には、駿介はただ一途に農民に惚れ込んだ。
その簡潔素朴な姿を愛した。その無駄のなさと、中身の詰まっている生活を愛した。しかし彼
はようやく彼等の他のいろいろの面を見るべき時に立ち入った。
◆干ばつの時の水の分配の争い。結局解決は自然現象の天に頼むしかない現実があった。
◆たばこ乾燥の共同作業における様々な利害関係が横たわっていることが見えてきた。
◆お大師さん、地の神さん、山の神さん、金比羅さん毘沙門さんや牛の神様八幡さんその他あ
ちこちに点在する祠の祭に対するお供えや寄付といった貧しい農民の負担は決して小さくなか
った。
◆駿介の悩みはそれらの古い仕来りに参加せざるをえないこと、その中でも特に己のなかに宗
教心がないまま従わなければならないという苦痛と呵責。
 このように農業に生きようとする駿介の廻りに様々な多くの矛盾があった。しかし農家の生
活改善に向かって積極的に働きかける考えを抱いた彼が、廻りの人々を説得し仲間を募り動き
出すのという物語は今始まったばかりであった。

 数年前に故郷の田舎に戻った私も、このような様々な生活上の不合理を感じた。宗教や生活
上の決まり事、考え方など都会生活ではすでに克服されたと思っていた矛盾が未だに色濃く残
り私を悩ませた。駿介はけなげにその農村にとけ込み、理解し、改善しようという積極さを持
っているが、私は他に職業があることもあって、とけ込もうとしなかった。むしろその環境を
去ることを選んだ。
さてつぎに、続「生活の探求」に取りかかろう。


夢について
2008/4/5

◆「同人α」第3号に載せた「シリーズ・歪んだ風景−影」に書いたように私の夢には色彩は
あるものもあるが影がない。そして私の夢には会話がない、小鳥の囀りや小川のせせらぎなどの音がない。
◆ところが行ったこともない場所や逢ったこともないのない人達が登場することが不思議でな
らない。その様な状況を勝手に夢の中で作り出すことができる能力が私の脳にあるのか。それ
とも、いつかどこかで知らないうちに経験したそれらの一つ一つのことを、脳の暗い襞の片隅
に記憶していて、それらの事実の記憶の断片を紡いで形を洞察するという表象能力の顕われな
のか。
◆表象能力といえば、二次元のさいころの絵から経験によって蓄積された見えない向こう側を
想像して立体に見立てる能力である。建築を学んだ時に、この表象能力がなければ2次元で表
す設計図は描けないし、そういう人はこの仕事に向いていないと教わった。就職して先輩から、
問題のある図面を描いた人がいたということを聞いたことがある。例えば周り階段と構造の梁
の関係。梁がそこにあることを立体的に思い及ばない人は、階段の途中に梁が出てきて、潜る
か跨ぐかしなければ通れないといったことである。
◆実際に私が経験したものは、随分昔の建物で未だに使用されている日比谷公会堂の階段がそ
うだ。階と階の中間にある踊り場の真ん中を上の階の梁が横切っている。もうちょっとで頭が
ぶつかるような低さで、背が高くなった若者はかなり危険な代物である。それともその建物が
建立された時代の人達の背がそれほど低く、あまり支障が無かったのかは判らない。いまでは、
あの建物の用途と空間の規模から判断してもバランスを欠いたもので、設計ミスと言われても
仕方ないであろう。
Wikipediaで夢について調べてみた
◆夢とは睡眠中に起こる、知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する現象をさす。
◆ 夢は人間に限られた現象ではなく、ほとんどの温血動物が見るとされる(ただしハリネズ
ミの一種に例外がいる[要出典])。人間同様に睡眠中に、覚醒活動状態の脳波を示したり、反
射運動である尻尾をふる、鳴き声をあげる発現などが確認されている。
◆ メカニズムについては不明確な部分が多く、研究対象となっている。例えば、浅い眠りに
陥るレム睡眠中に見るとされ、ノンレム睡眠時は発現されないと考えられていた。しかし、最
近ではノンレム睡眠時にも夢を見ることが確認されている。たとえば、フラッシュバック性の
悪夢はノンレム睡眠時に起こることで知られる。だが、夢が現出してくるルートが比較的解っ
ているのは、レム睡眠時で、PGO波という鋸波状の脳波が、視床下部にある端網様体や、後
頭葉にかけて現れる。この PGOが海馬などを刺激して記憶を引き出し、大脳皮質に夢を映し
出すと考えられている。
◆夢を見る理由については現在のところ不明である。 夢の存在意義を定めようとする説はさ
まざまあるが主に
  * 無意味な情報を捨て去る際に知覚される現象
  * 必要な情報を忘れないようにする活動の際に知覚される現象
   の二つが有力である。
◆ 夢には時間軸が存在せず主観時間でのみ知覚しているとも考えられている。これは、目が
醒めた時点で記憶されている夢の多くは覚醒前20分以内に見た物とされているが、夢の中で
は実際の睡眠時間よりも長い、数時間〜数日に感じたというケースが多いことによる。
◆文学作品
 * 「夢十夜」(夏目漱石)
 * 「ドグラ・マグラ」(夢野久作)
 * 「パプリカ」(筒井康隆)
 * 「冥途」(内田百?)
 * 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
    (フィリップ・K・ディック)
 * 「豊饒の海」(三島由紀夫)


北君の著作
2008/4/7

◆書き忘れたが、昨日北君が彼の著作集を読んでみてといって置いていった。ページ数が振ら
れていないので何ページの書き物か判らないがA5版で3センチにもなる長編だ。内容もパラパ
ラと捲ってみたが「膨張、膨張」という題で「地球から三千光年の宇宙空間。人の像をした美
しい青い地球と人とが。語水素を吟味している」という書き出しである。小説か言葉遊びか、
中には漢詩みたいなものも混じっている。これはじっくりと覚悟して読まなければならないと
思った。それから「シュルレアリズム宣言・溶ける魚」アンドレ・ブルトン著、岩波文庫とい
う本をくれた。夢、想像力、狂気を擁護して、現実の奥深くに隠された<超現実>を暴き出し、
真の生、真の自由にいたる革命の必要を高らかにうたいあげるということば書きが表紙にあっ
た。最近世間には既成の価値観や芸術を破壊して新しい何かを作り出すというエネルギーが乏
しいように思われる。だから私は、人の通った道や、沢山の人が行くであろう方向に逆らって
歩いてみたい。この本はその辺を示唆してくれるであろうか。


「白暗淵(しろわだ)」を読む
2008/4/25

◆古井由吉の「白暗淵(しろわだ)」を読み終えた。「東京大空襲」の記憶を縦糸に「音]を横糸
にしてつづられた短編集で、表紙には次のような言葉が書いてある。
 静寂、
 沈黙の先にあらわれる、白き喧噪。
 さざめき、沸き立つ意識は、
 時空を往還し
 生と死のあいだに浮かぶ
 世界の実相を撮す。
 言葉が用をなすその究極へ−。
◆今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物語性
は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ心理性の世
界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬと小林秀雄がいみじくも言っているように、
純文はそれしか残されていないのではないかと私には思われる。そのような作家は古井由吉を
含めた少数しかいないのではないか。


北君へメール
2008/4/28

今日から北君の合評期間になる由を伝える。それに伴いブログ用の写真をみつくろって郵送し
てくれるように依頼した。そのときの話で
◆北君が独自のブログを開設して、いままでの作品集をつくり同人αのホームページとリンク
すれば、皆さんに読んでもらえるのではないかと提案した。
◆北君より二冊の本について紹介された。
 * バロ−著:無限のはなし
 * 文藝春秋今月号:茂木健一郎の「オキシモーラン」について


「無題」
2008/5/27

◆細君は高校の同窓会で高崎の方面へ旅行に出かけた。
◆北島君の著作集の増版20部作成。
◆ここのところ生活が不規則で今度の検診ではどのようなデータがでるやら、一寸心配である。
◆「脳と仮想」茂木健一郎著を読み終える。
◆「欲望する脳」茂木健一郎著を読み始める。
◆中学時代からの友人の武藤君が亡くなったとの知らせあった。悪性リンパ腫瘍が見つかって
から約半年であの世に逝ってしまった。新しいシステムの楽器(ピアノに似たもの)や新しい建
材を造ったりした発明家で個性的な人物であった。


「欲望する脳」
2008/6/8

:茂木憲一郎 P132
◆自分のことしか関心がないナルシシズムは醜いだけである。
◆客観的な批評基準に準拠せずに、延々と自分語りを続ける人たちにはうんざりする。
◆その一方で、他人に心を開き、あまりにもスムーズにコミュニケーションを続けるだけの人
間にも、どこか信用できないものを感じる。


「志向性」
2008/6/10

◆「欲望する脳」 茂木憲一郎 より
ソシュールの言語哲学で言う「シニフィエ」はほぼ個々で言う「志向性」と等価であり、人間
の心の中に立ち現れる様々な志向性の部分集合が言語的志向性であると考えることができる。
「無限」や「理想」といった概念が、「今、ここに」のどのような現実にも完全には対応しな
いままに私達の精神の中で自由なダイナミクスを切り結べるもの、「志向性」という属性の持
つ闊達な性質である。
ある意味で埴谷雄高の「自同律の不快」も同じことを意味するのかも知れないと思った。
◆埴谷雄高の「自同律の不快」 松岡正剛: 松岡正剛 千夜千冊より
“自身以外のものに絶えずなりたいと志向する”
だから彼にとっての重要性は、「(私は)(不断に変わるモノ)」であって、「(ずっと私である)」
ということはあり得ない。それは不快だと考えたのかもしれません。それが『ぼくはぼくだと
いうのが不愉快だ』という埴谷雄高の『自同律の不快』なのです。


「ヨーロッパ思想入門」
2008/6/13
◆「欲望する脳」茂木健一郎著を読み終える。
◆「ヨーロッパ思想入門」岩田晴夫著を読み始める。
ヨーロッパの思想は二つの礎石の上に成り立っている。ギリシアの思想とヘブライの信仰であ
る。そして驚くことに日本ではまだ縄文時代や弥生地代といった原始に近い生活をしていた頃
なのに、二千年前にすでに現在の社会のシステムが完成していたこと。自由・平等そして専制
君主や王のに支配されることのない法のによる共和制・民主主義などの等。それからローマ時
代にいたっては道路や上水道・都市の機能の整備等々。


「美しい日本四つの特徴」
2008/6/21

「免疫の意味論」や「生命の意味論」を書いた東大名誉教授の多田富雄さんが朝日新聞の「聞
く」というコラムに、「美しい日本四つの特徴」の文を書いておられる。
1.は「アニミズム」の文化である。一神教ではなく自然のなかに無数の神を見つけ、それを敬
ってきた。そのことは宗教対立で戦争を招くこともなく、日本のエコロジーの思想もここにル
ーツがある。
2.は豊かな「象徴力」である。俳句、和歌は事実の記載ではなく、たった一語で世界を表現し
た。
3.は「あわれ」という美学の発見をあげたい。「もののあわれ」はもちろんのこと、もっと広
く、滅び行くものにたいする共感、死者の鎮魂、人の世の無常、弱者への慈悲などの、あわれ
なものへの思いが日本の美の大切な要素になっている。
4.に「匠の技」美術はもちろん、詩歌や芸能でも、細部まで突き詰める技の表現がある。「型」
や「間」を重んじる独特の美学である。部まで突き詰めんじる独独



78資料管理請負人:2014/03/13(木) 18:55:00
本のある暮らし
.
            本のある暮らし4??2008後半





北君へ
2008/7/6

 返事が遅れて申し訳ない。仕事もだんだんまた増えて来たし、「落書き帳の掲載拒否問題」
などの事件に奔走していて、結構せわしくなりました。ところで今読んでいる本は
  ●小説の設計図 青土社 前田塁
  ●ヨーロッパ思想入門  岩田靖夫
  ●続生活の探求     島木健作
  ●灯台へ ヴァージニヤ・ウルフ
「時間はどこでうまれるか」は数日前に購入したばかりです。一冊に絞って読み終えればいい
ものを、家と仕事場にそれぞれ積んでいるからついつい手をだしてあれやこれやになってしま
います。
 またこの頃貴君の「膨張、膨張」をかじり読みしだしました。いつもながら貴君の作品は他
にはない抜きんでたイメージの世界が開けていて、自分の書く物もこのように広げられたらい
いなとおもいます。
最終の目標は私でしかないものを見付けたい、それがいま私が存在する意味であろうと考えて
います。
 ドフトエフスキー全集は山荘にそろえていますがまだ十分読んでいるわけではありません。
そのうちそのうちと思っているうちに時は過ぎていくのでしょうね。
母の日記は気長に時間を掛けましょう。
最近は自力本願をへての他力本願へ到達するのが一番理想的な開眼の仕方のような気がしま
す。自己を十分確立した後でないと悟りが深くならないような気がします。
そのうちまた逢いましょう。



純文学とエンターテイメントとの違い
2008/7/11

 エンターテインメントにおいて、作者は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、
作品は書かれる。その枠内において、人間性なり恋愛観なり世界観といったものはいかに見事
に、或いはスリリングにかかれていても、読者の了解をはみだし、揺るがすことがない。
 純文学の作家は、読者の通念に切り込み、それを揺らがせ、不安や危機感を植え付けようと
試みる。と福田和也は言っている。



「小説の設計図」を読み終える
2008/7/12

 そこには太宰治の「走れメロス」・川上弘美の「センセイの鞄」・多和田葉子の「容疑者の夜
行列車」・小川洋子の「博士の愛した数式」・西原理恵子・松浦理英子・中原昌也などの作品へ
の痛烈な批評が書いてある。ああこういう読み方・問題点があるのかという眼が養われていく
ようだ。
 この中で私が読んだ本は「走れメロス」と「博士の愛した数式」の二つである。
確かに「走れメロス」においては、為政者にたいする反逆から刑に処される身になったわけだ
から、その話が筋となるものが義理とか友情とかの美談に矮小化されたものとなっている。最
期は友情の問題も抜け去り、運命がただ時間との勝負に成り下がっている。このような物語が
人間の読者はその義理や人情への誠実さを貫くことに感涙するが、よく考えてみると小説や映
画の中にも初めは世界の重大事を扱うような語りが、途中で家族愛や友情といった、じつに個
人的な幸せに矮小化されていく物語を見せられ、ガッカリさせられることがある。フォーサイ
スの「ジャッカルの日」や「サイレント・ワールド゙」「ディープ・インパクト」などの映画に
おいてもしかり。ただこれらのB級映画はしょうがないか。



月刊誌購読契約
2008/9/25
書店では売っていないのでやむなく岩波書店発行の「科学」の年間購読を契約する。16,800円/
年 「思想」もと思ったがこれは図書館で借りて読もう。
特別飲み・打つ・買うの道楽もないからせめて本代は惜しむまい。



「本を買う」
2008/10/5

床屋に行くついでに湯島図書館にて石牟礼道子の「言魂」を予約した。予約者が12人もいた
ので当分読めないだろう。
散髪の後で駿河台下の三省堂に寄る。「16歳の教科書」という本を買おうと思って探したが、
保坂和志の「小説、世界の奏でる音楽」という評論の本が目にとまったので、合評の参考にで
もなるかと思い購入して帰る。



岐路に立つ「同人誌」
2008/11/11

 朝日新聞の文化というコラムに『岐路に立つ「同人誌」』、副題「文学界」での「評」を打ち
切りにという文が載っていた。半世紀にわたり、全国の同人誌に掲載された小説を取り上げて
きた「文学界」(文藝春秋)の名物欄「同人雑誌評」が、7日発売の12月号で打ちきりとなった。
同人の高齢化が進み、寄せられる同人誌が激減したためという。「文学界」の「同人雑誌評」
は1951年に始まり、無名の新人や地方の作家の作品を紹介してきた。
 かつて文学を目指す者はまず「同人誌」で修練するのが本道とされた。石原慎太郎、柴田翔、
河野多恵子、瀬戸内寂聴、吉村昭などが巣立った。ちなみに「文学界」のリストにある同人誌
の数は320。最盛期には200誌以上が寄せられたが、現在は50誌ほどに減ったと言う。
 そのように「文学界」での批評は打ち切りになるが、一方季刊の「三田文学」が引き継ぐか
たちで「同人雑誌評」を来年から掲載するという。



保坂和志の小説論
2008/11/13

 保坂和志氏について書いてある「文化」というコラムが目に付いた。
「小説、世界の奏でる音楽」、「小説の自由」、「小説の誕生」の小説論3部作が完成したという
記事である。いままさに私は「小説、世界の奏でる音楽」のとばくちをうろうろと彷徨い読ん
でいる最中であったので興味を持った。
 「小説の言葉は本来、あいまいさ含めて広がりがあるものなのに、軽いことしか伝達できな
くなったいるのではないか」、「社会的なネガティブとされる緩さや貧しさや小ささを自覚する
ことが、実は強さになる」、「希望があることは、人をゆっくりと考えさせない。静かにすわっ
て考える。"たそがれ゜から文化は始まる」、「人生は一人で完結するものではなく、親子関係
など、誰かに託し、誰かに託されて生きている。自我の揺らぎを描けただけでも十分な達成と
思う。手法も題材も出尽くしたと言われ中で、小説にはなお可能性はある」と言っている。



「東アジア「反日」トライアングルを読んで
2008/12/6

 北君から貰った古田博司著の『 東アジア「反日」トライアングル』を読み終わる。
その中で、靖国問題や教科書問題などで繰り返し起きる反日運動がなにによるものかを検証し
ている。そこには古くからある中華思想やエトニを経たナショナリズムが根底にあるからだと
する。
 エトニとは地理的広がりを持たず、ネイションのような政治単位となりえなかった共同体を
「エトニ」を言い、韓国のように同族的な利害の結びつきを強める一方、それ以外のものに対
しては実に排他的であり、社会の分裂の主要因となりうるほどの地域対立の存在が広く知られ
ている。政治面では大統領選挙や国会議員選挙における地域別得票率の極端な違いとなって現
れる。中でも特に有名なのは、後三国時代にまでさかのぼるといわれる全羅道と慶尚道の対立
である。
 中華思想とは、自分の国(中華)が世界の中心であり、その文化・思想が最も価値のあるも
のとし、漢民族以外の異民族の独自文化の価値を認めず、「化外の民」として教化の対象とみ
なす思想。華夷思想ともいう。
 ナショナリズムとはアーネスト・ゲルナーによると「政治的な単位と文化的あるいは民族的
な単位を一致させようとする思想や運動」と定義している。
 中国や韓国・北朝鮮の国は戦後60年も経つというのに、たしかにかつて日本はこれらの国
を侵略したことは間違いないが、二国間に問題が起きる度に「反日」という籏をたてて日本の
非だけをあげつらう。それはうまくいかない国内の民衆の不満をそらすには有功だろうが、自
ら偏狭なエトニや民族主義や中華思想を克服出来ない限り、近代国家としての真の自由と発展
を取得することは出来ないであろう。日本はそのような独善的なエトニや民族主義や中華思想
の国にたいして立場を相互理解しようとすることは不可能であり、日本はただ近代国家の立場
の中で、粛々と自らの理を主張して行く他はないと説いている。



「日本語が滅びる時」
2008/12/10

多様性が生態系の機能や安定に重要
 岩波書店「科学」に鷲谷いずみ氏の記事を読んでいて、「日本語が滅びる時」についての話
題をべつの角度から考えてみた。
 昭和天皇在位60年を記念して創設された国際生物学賞を、ミネソタ大学教授で植物生態学
者のティルマン博士が受賞した。博士は生物多様性がどのように維持され、また生物多様性が
生態系の機能や安定にいかに重要であるかを、理論のみならず草原での大規模実験によって明
らかにした業績によることへの賞である。
 その多様性の重要さはリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」のなかでも述べられてい
るように、どうも本当らしい。芝生のなかの雑草を全部取り去ったら、芝生も枯れてしまうと
聞いたことがある。
 だから世界のなかの多くの個性ある言語も文化も滅びてもらっては困るのではないだろう
か。生物界のように種々雑多なものの混在がなくなった時、安定的な人類の存続が望めないよ
うな気がする。そして一つの言語や文化に呑み込まれた時、人類の滅亡が始まるような予感が
した。杞憂であればいいが・・・。



79資料管理請負人:2014/03/13(木) 19:14:02
私の七つ道具
      私の七つ道具  2009-2014





私の七つ道具−その1「老眼鏡」 2009/9/13

年齢を重ねると一財産を抱えて外出しなければならない。若い頃は精々一つか二つで済ん
だものをと愚痴の一つも言いたくもなるこの頃である。一つでも忘れると本も読めないし、
車内の人の表情を面白く観察することも出来なくて退屈だ。だから私はいつも七つ道具を
黒い鞄にいれて出掛ける。上着を着る季節はいいが、夏になるとズボンのポケットではと
ても収容できないからだ。

1.老眼鏡
 もともと近視だったからそう強い老眼ではなかったが、50歳の初めころから使い始め
たと記憶する。丁度ヨーロッパ旅行から帰った年に永代橋の袂のマンションの一室に事務
所を構えた。20?ほどの小さな北向きの部屋で、毎日墨東の南砂からバスで30分かけ
て通った。時間があれば門前仲町で降りたり、そうでなければ一つ手前の佐賀町あたりで
降りて永代橋を歩いて渡るのが習慣だった。橋の上から見る佃島方面の水の拡がりと高層
マンションの林立景色はいつも私の気分を爽快にさせた。仕事が終わる夕方になると、ふ
わふわした白いものが視野一杯に拡がり、ついには見えなくなってしまったのが老眼を意
識した始まりだった。
 それから60代の初めの頃までは裸眼で新聞を読めたが、糖尿病を患うころから急に見
えなくなった。白内障のせいもあるのかも知れないが、最近は老眼鏡でも補正できなくな
って、12ポイントの活字以上でないと読めない。だから文庫本の6ポイントの文字はル
ーペでも駄目になった。いつも本屋で読みたい本を買ってはくるものの、快適に見えずに
非常な努力を必要とするから、この頃は毎日の新聞以外は殆ど読書をしていない。




私の七つ道具−その2「ポケットナイフ」 2009/9/14

2.ポケットナイフ
 ビクトリノックス社の十徳以上の大型のアーミーナイフも持っているが、やはり常時持
ち歩くには小型のものがいい。ハサミ、ドライバー、ナイフ、ピンセット、爪楊枝の五徳
である。西洋のは必ずワインオープナーが付いているが、私はワインを止められているか
ら、それは必要ない。
最近はデジタルカメラ画像、MP3ファイル、メールデータなどパソコンへデータを持ち
運びしようとする時に手軽に記録できる保存メディアとして、4GB-16GBフラッシュメモ
リーがついているものもあるという。
 滅多に本郷から出かけることはないが、たまたま遠出したときに大地震が襲ってきて家
に歩いて帰らなければならなくなったら、このちっぽけなポケットナイフが命をつなぐた
めに大いなる力を発揮するだろう。




私の七つ道具−その3「万年筆」 2009/12/7

3.万年筆(モンブラン−マイスターシュテュックNO.146).
 真っ黒の胴体に金色の帯があり実に優雅なスタイルをしている。ちなみにモンブランを
検索してみると、モンブラン(Montblanc)はドイツの筆記具メーカーである。高級な万
年筆を販売することで知られている。製品には、アルプス最高峰モンブラン山の頂きを覆
う雪をイメージした、白い星型のマーク「ホワイトスター」が付くことで有名。代表的製
品であるマイスターシュテュックのペン先には、モンブラン山の標高"4810"が刻まれて
いる。
 これを購入したのは、バブルのころ私にも一寸実入りがいい時があって、なんだかおが
使いたい衝動に駆られて、思い切って買ったものだ。憧れの万年筆を持つと、何だか自分
のくせ字が妙に味のある物に、何でもない手紙文が非道く情緒的に人の心を打ちそうに思
えるから不思議だ。
 私は以前はロイヤル・ブルーの明るい色に惹かれていたが、今は歳相応に落ちついたブ
ルー・ブラックのインクを使っている。しかし水性ボールペンの便利さ故に仕事で使って
いて、すっかりそのモンブランを忘れ、引出の奥にしまい込んでいた。ある時思い出して
郷里に戻ったときに、日記を書くのにこのモンブランが親孝行の証となって、年老いた母
のもとに置いてきたことがあった。その後それを愛用してくれたかどうかは確かめたこと
がないので判らない。
 母がなくなって、私はこれだけは取り戻してきた。今はボールペンのタッチの堅さと違
い、ちょっと太めの文字とペン先の柔らかさ・撓りが気に入って、また思い出したように
使い出した。

写真は七つ道具1番の老眼鏡、2番のアーミーボケットナイフ、3番のモンブランの万年筆

        




私の七つ道具−その4「帽子」 2009/12/24

4.帽子
 戦前までは庶民でも大人は帽子を愛用していた。ソフト帽やカンカン帽など一種の上着
やネクタイのようなもので、外出時には改まった姿と思われていた。それが戦後は何処へ
いくにもジーンズにTシャツのすますようになったことで改まった服装という観念もなく
なったかもしれない。そこでまたWikipediaを紐解くと「歴史的には特定の頭部の装身具
は、その人物の社会における身分を示すこともある。詳しく用途を記すと次のとおりにな
る」とある。

* ドレスコード・エチケット
* 制服の一部(制帽・軍帽・官帽など)
* 夏場の直射日光による熱中症を避ける為の日除け(防暑)
* 防寒
* ファッション
* 昆虫、衝撃、飛来落下物、危険物、毒劇物などからの頭部保護
* 髪型の保護
* 宗教上の戒律
* 禿を隠す
* 商品広告(主にプロスポーツ選手)
* 手袋と組で、貴族性を象徴(女性皇族・王族は被っていることが多い)
* スポーツ(特に野球)の応援
* ジャグリングの道具として

 父親が戦後も正装して出かけるときはソフト帽を、普段の外出にはチロルハットなどを
被っていた影響で、私も帽子好きになったようだ。しかし少々恥ずかしいような気分もま
だ残っているが、古希に近づいている訳だからもう堂々と被ってもいいと思いようになっ
た。また必要性からいっても夏のカンカン照りの日はやはり帽子を被らないと、頭が熱な
って熱射病になりそうである。今持っている帽子の種類はパナマ帽から麦わら帽子、ハン
チング、船員帽、テンガロンハット、キャンプ用防水ハット、野球帽、ベレー帽、スキー
帽などである。次は父親の被っていたボルサリーノ社のらくだ色のソフト帽を銀座のトラ
ヤで思い切って買おうかと思っている。




私の七つ道具−その5「ステッキ」
2014/2/27

5.ステッキ帽子
 私は最初ステッキをハイキングや山登りの目的のために購入したもので、 神田小川町
の L−Breath 御茶ノ水店で求めたと記憶する。しかしその後山荘に移り住んでみると
別の目的が加わった。すなわち歩行用の手助けだけではなく、猪や猿、鹿、熊のための護
身用として必要になったわけだ。そもそも一昔前の時代では西洋でも日本でも護身用とし
て使われ、 シャーロック・ホームズも格闘技バリツというステッキ護身術なるものも駆
使したという。
 いま私が使用しているのは葡萄色のKIZAKI社の三つに収納できるTrekking &
Walking Telescope Shaftという製品だが、もうそろそろ銀座タカゲンに行って正当なス
テッキを購入したいと思っている。しかしラウンド握りスネークウッドステッキに至って
は80万円近くするから選ぶのに悩ましい限りだ。勿論木の種類や握りの部分に銀や水牛
や白蝶貝などの装飾を施したものでなければ、1万円弱からあるのではあるが・・・。

写真の銅製の作品はcoppers早川(早川 篤史・克己(親子))氏の作品で、作品名を「ス
テッキ」−F091といいう。彼等の個展を覗いた日に購入したもので、私の放浪癖の生
き様に似ていると勝手に共鳴して購入したものだ。

      




私の七つ道具−その6「ルーペ」
2014/3/11

 ルーペも色々の種類がある。最も典型的な丸形の手持ちタイプ、繊維や印刷物の検査に
用いるリネンテスター、眼窩に挟み込んで使う時計見、双眼ヘッドルーペ、スタンドルー
ペ、薄くて軽いフレンネルルーペ、折りたたみルーペ等々。また倍率も1.6〜100倍くら
いまで多様多種である。

 私は過日、広告などの説明文、保険の契約書、電化製品に張ってあるラベル、ポイント
6号で書いてある書物等の小さい文字など、今使っている老眼鏡では見えなくなった。
なみに今の老眼鏡ではポイント12号以上でないと満足に読めない。だから願わくば新し
い度の強い眼鏡を求めたいと思った。だが時すでに遅し、残念ながら自前の目はもはや収
縮する筋肉が老化していて、眼鏡での補強で視力回復は出来ないことが判った。

 そこで必要になったのがルーペである。所謂拡大鏡、虫眼鏡、凸レンズの助けを借りる
ことを思いつき、お茶の水駅前にある丸善のステイショナリー店で求めることにした。
私はその中からドイツ製の大きさ6cm角、倍率3.5倍の携帯用スライドルーペ(ポケット
ルーペ)を選んだ。厚い牛皮に挟まれて保護されたルーペである。随分長い間使用してい
るので、黒く染められた牛皮の端が摩擦によって剥げ、肌色が見えているのはそれだけ愛
用した証拠であり、ご苦労さんと言って労いたいと思っている。

おまけ
 2010の不条理な闘争時、敵の理不尽な反則攻撃と理屈を理解しない頭脳に対抗するた
めに、我々は本当はスカウターが欲しかったなあー。それはドラゴンボールというアニメ
で、異星人が使う通信機能と生命体探索機能を兼ね備えた装置である。Wikipediaによる
と:スカウターはモノクル(片眼鏡)に似た形をしていて、片耳に取り付け、付属する半
透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能力を数値化した情報や、その対象への方角や距
離が表示される。戦闘力反応を示すスクリーンの色は青や緑、アニメでは他に赤、黄、紫
と、数種類ある[8]。一度検出した相手をロックすることでレーダー代わりに使用するこ
ともできる。フリーザ一味の宇宙人には一般的に使用されており、索敵範囲は非常に広く、
宇宙船で移動すれば一年かかる距離まで通話・戦闘力測定が可能な優れものなのだ。




私の七つ道具−その7「ペンライト」
2014/3/13

目を手術してから頓に暗いところの物が見えなくなった。例えば自動車のキーの差し
込み穴、玄関ドアの鍵穴、ベッドや机の下や隙間に入った落とした物などの時に使用す
るものがペンライトである。Wikipediaによると、 ペンライト (penlight) は、ペン型
の懐中電灯である。狭義には、本物のペンの大きさの、先だけが光るものを指すが、他
にもさまざまな形態・方式のものがある。広義には、ライトスティック (lightstick)
と呼ばれる、やや大型の、広い範囲が光る器具を含む。

 私は想像したことも使用したこともないが、好きな歌手のコンサートで何千人、何万
にという観客が演奏に合わせて振るペンライトは一つの意志をもったメッセージに見え
るだろう。ほかに医療用ペンライトというものもある。咽の奥、またミステリーなどで
よく生死を判断するのに眼球の状態を見るときに使用しているものもその類のものだろ
うか。私のペンライトはアルカリボタン電池1.5V 4本 LED照明の黒い円筒形のもの
で、キーホールダーに付けている。これで脳や心の襞の暗闇に潜む情念が浮き上がって
見えれば一つの文学が出来るかも知れない。

 しかし一歩冷静に考えてみると「私の七道具」というものは、あればより便利なだけ
であって、なければ命に関わるものではないといえる。ちょっと不便さを我慢し外の手
立てを考え出せばすむことだ。
 トーマス・カーライルがいっているように「人間とは道具を使う動物である」とか、
ベルクソンは「ほかの生物と人間の進化の違いは、キリンや馬や象などのように自分の
肉体を進化させて環境に合わせようとしてきたのにたいして、人間は自分の平凡な肉体
を進化させるのではなく、道具を作ることで対応してきた」と言っている。最強、最終
の道具の使い手は、カルト教や偏狭な思想を人々に信じさせその気にさせる、カリスマ
的人物なのかも知れない。



80α編集部:2014/03/13(木) 20:28:44
本の生活5
?? .
????????          本のある暮らし5 2009





「続・コレラ時代の愛」について 2009/1/28

冷たく言い放つ場面
 箱入り娘だった女が男と引き裂かれて暮らした数年間にいろいろの世間を経験して知識
も広くなり、以前の男の執拗なストーカーじみた一途な愛に言われなき窮屈さを感じたか
ら。それとも女の尻を追っかけ回すだけではなく、もっと価値ある仕事に打ち込め、外に
求める前に己の内の充実を図れ、社会のために何かをしろということでしょうか。敢えて
「泣いて馬謖を斬る」行為だったのでしょうか。私にはどれも確信がありません。
 夫が亡くなって徐々に男を受け入れる精神状態
安芸さんの言われるように、鋼鉄のような女性でも熱せられると飴状になるのではないで
しょうか。
医者であった上流階級の夫との生活も甘いだけの生活ではなかったことや、もともと一緒
になるときも惚れ込んだ訳ではなかったという風に描かれていたのをみると、初恋の男の
なかに夫になかった「癒し」を再発見したからか。男と女の感覚の差だと割り切って納得
することも出来るでしょうが、またまた私には確信できませんでした。



本を注文 2009/2/7

 かねてより「アーラヤ識」に関する書籍について、小柳さん推奨の「仏教の思想(4)認
識と超越(角川文庫ソフィア)をamazonに購入注文をした。
赤門の前の山喜仏書林に電話するも在庫はないとのこと。最早絶版になっているかもしれ
ない。この認識と超越を読んでみてよければ全巻を買うかもしれない。西洋の価値観に偏
った物の見方を脇に置いといて、少し仏教思想の覗いてもいいなと思うようになった。



伝えるために身を削る  2009/2/14
 今日の朝日新聞「試写室」に「合評会の熱い夜」というTV番組が紹介があります。
今日のNHK 夜10:40
紹介記事は「言葉による表現を志す人が集う大阪文学学校という学舎がある。開校55年。
田辺聖子ら芥川賞作家も腕を磨いた。 作品を持ち寄り、遠慮なく評価をしあう合評会が
伝統だ。アマチュア作家が「伝えるべきは何だろう」と見を削るように書き、それぞれが
抱える弱さに立ち向かう姿は、けれん味がない」とあります。私は是非見るつもりです。



「言魂」を読む 2009/2/15
 図書館にずっと前に予約していた「言魂」が、待つこと26番目でやっと私の手元に届
いた。そして今日読み終えた。石牟礼道子さんと、夛田富雄さんの間で交わされた往復書
簡集である。
 老人医療に関する医療費カットに怒り、忿怒仏と化した夛田さん、水俣病を長年告発し
てきた石牟礼さんが「新作能」を通して、この世の不条理を訴えている。それらの能には
最終的に救いが描かれているのか、見ていないので私には判らない。
夛田さんは長崎や広島の原爆を題材に「長崎の聖母」やアインシュタインをモデルにした
 「一石仙人」、水俣病を描いた石牟礼さんの「不知火」などであり、常に虐げらている
弱者の側に立って問題点を訴え続けている。
 夛田さんや石牟礼さんが憤るように、今現在のいろいろの不祥事や政治や官僚システム
の破綻で生じる国民に与える不利益にたいして、国や企業の対応の不誠実さは目を被うば
かりである。なんとかせにゃーいかん!!



エルサレム賞を受賞した村上春樹  2009/2/18

 イスラエル最高の文学賞である「エルサレム賞」を授賞村上春樹へのいろいろの意見が
ありました。受賞を評価するもの、紛争に反対する演説を評価するもの、反対表明をする
くらうなら受賞することを拒否すべきという意見等々である。この行為はいろいろの立場
で村上春樹を見ている人にいろいろの印象を与えたことは確かだ。

 社会派の吟遊私人さんが言われる通り、招待されて美味い物を散々食べた後で不味かっ
たと文句を言うようなものだ思う人もいるし、私のように「羊をめぐる冒険」、「世界の
終わりとハードボイルド・ワンダーランド」、「海辺のカフカ」などに出てくる、世俗か
ら隔絶された「この世とあの世の境界」で彷徨う主人公のように、不思議な気持ちを味わ
った人も居るだろう。
 そこで彼が演説した問題の内容は次のようなものである。
仮に壁が堅く高く、卵が潰えていようと、たとえどんなに壁が正しく、どんなに卵が間違
っていようと、ぼくは卵の側に立ちます。何故でしょう? ぼくらはそれぞれが卵だから
です、ユニークな魂が閉じこめられた、脆弱な卵だからです。ぼくらはそれぞれ高い壁に
直面しています。高い壁とはすなわち、ぼくらに普段通り個人的には考えさせないよう仕
向けている、システムにほかなりません。
 演説はさすがに隠喩上手な作家だけあって見事なものであったと思う。軍事力に長けた
イスラエルを、ベルリンの壁のような強固で仰々しいコンクリートに例え、パレスチナを
壊れやすいちっぽけな卵に見立てた。その卵は硬い壁に向かってぶつかり壊れるが、私は
彼等の側に付く。たとえその卵が悪者だとしてもという演説だった。
 受賞について尋ねられた時、ガザは戦闘状態だと警告されました。ぼくは自分に問いか
けました……イスラエルを訪れることが正しい事かどうか? 片方に荷担することが?
少し考えがありました。そこで行くことにしました。多くの小説家と同じ立場を、ぼくに
言われていたこととは反対の立場をとることにした訳です。小説家としては自然なことで
しょう。小説家は自分の目で見るか、自分の手で触れていないことを信じることが出来ま
せん。ぼくは見ることを選びました。何も言わないことよりも、話すことを選びました。
 こんな風にぼくは述べに来たのです。とかれが自分の行動を釈明している。このあと先
の「仮に壁が堅く高く」につながるのである。

村上春樹の個人の問題だから、その行動がなにのよるものかはカラスの勝手であるが、こ
れから私は彼の本を読むにあたって、彼の発する言葉と彼の行動との間をどう結びつける
か、今までのような単純な思いこみは出来ないという違和感が生じたことは確かだ。



速読について 2009/2/28

 新聞の広告欄に「熟読のすすめ」なる文字を見つけた。良く読むと何のことはない、読
んだ本は一冊のノートに要約を纏めようという、整理用のノートの宣伝だった。私は熟読
という用語に反応した訳だが、日頃速読を薦める公告もあり、一ヶ月で50冊も読むと自
慢する人もいるなどという記事に常日頃の疑問を持っていたからだ。
 速読法の専門スクールがあるくらいだから、それが必要な職業があるのだろうか、どの
ような人達にその技術が必要なのか、私にはよく分からない。
速読の講座の要点として、 筆者の「意味の世界」→「筆者の出筆行為」→「読者の解読
行為」という経路をたどって再構成されたものなので、筆者の意味の世界が、読者によっ
て再体制化されたものに他なりません。意味の再体制化作業(心的作業)、これが読書の
実体です。短い時間により多くの文字を知覚し、その文字によって表現される意味を認識
することが要求されることになります」など言った訳の分からない能書きが書いてある。
 いろいろ調べてみるが、肝心の速読のメリットについて明確に書いたものは見あたらな
い。
今の私は、目が悪くなったのもその理由のひとつではあるが、何冊も平行して読むから、
一冊の本を読むのにも数週間、下手すると半年もかかることがある。付箋をつけたり前を
読み返して見たり、用語について辞書で調べてみたり、どちらかというと遅い方に属する
だろう。
 熟読がいいか速読がいいかは本の内容によるものだろう。ハウツウものは一時間で読め
る程度の内容だから斜め読みでもよかろうが、「存在と時間」や「純粋理性批判」などの
本を速読しても何も残らんだろう。だれか速読の必要な職業やその効能についてご存じの
方はご教示賜りたい。



「肥と筑 第八回」の感想  2009/3/15

 どうも作品の内容について質問を探すことに四苦八苦しているのが実情であります。裏
を返せば、まさにそれは長岡さんの論にたいして確たる反論を見いだせないという我が不
勉強を如実に表わしているのであります。しかしへそ曲がりの赤松次郎らしく、大海に浮
かぶ、ちっぽけな史実という島々を結ぶ線に、飛躍や食違いや強引な接合という弱点がき
っとどこかにある、と目を皿のようにして探すのだですが、皆目見当もつきません。それ
は作者の知識が私の思い及ばぬほど宇宙的な壮大さ、深淵さでとてつもなくすごいものだ
からでしょう。 せめてロッキ−ド事件の榎本三恵子が証言した「蜂の一刺し」のように
「まいった」と一本とりるような意地悪な質問をしてみたいものです。
◆骨相学
 海人族などの渡来人が日本の各地に拡散するとき、先住民である縄文人・弥生人との関
係、どのようにして融合していったか。
 有史初期、古事記や日本書記のころにも帰化人が貴族の三割くらいを占めていたと読ん
だことがありましたが、大阪の人達の骨相を調べたら、朝鮮の人達に極めて近いひとが多
いと聞いたことがあります。縄文人・弥生人・北方騎馬民族・南方海人族の骨相的特徴
は?
◆出雲のズーズー弁
 松本清張の「砂の器」のなかに東北地方ばかりでなく山陰地方でにも存在することに言
及されて、それが犯人を追いつめていく筋だったと記憶していましたが、あまりに昔読ん
だので定かではありません。
◆曼荼羅を描いた本は私も持っていますが、人間の奥深く探求した思想を視覚的・象徴的
 に表したもの。個々の真理探究をする西洋の思想にはないものであり、その統合された
思想の世界は精緻さと深さに満ちていて驚くべきものですね。今読んでいるアーヴィン・
カリヴァン著の「CosMos」がまさにこの宇宙の統一理論の基礎のなっているような
しています。
◆法曼荼羅と深層意識のアーラヤ識について、以前なにかの哲学者の本のなかで読んだこ
 とがありましたが、長岡さんの紹介された【認識と超越<唯識>仏教の思想4(角川書
店)】を購入しましたので、もう一度読んでみたいと思っています。
次号の表題「空」を解説するなんざぁ、長岡さんも策士だなあ。



堀田力氏の記事をよんで  2009/3/21

 元東京地検特捜検事の堀田力氏の文を読んで奇異に感じた。堀田氏の言われるように単
に手続き上の問題として論ずるだけでことがすむのか。そこに何らかの政治判断が働いて
いるとすれば、形式犯よりもむしろそちらの方が国民にとって重要な問題ではないのか。
だからそれを払拭するためにも説明責任があると思うのだが。
どうも堀田氏の論はあえて職務範囲の中に問題を押し込めた、身内意識の論理なような気
がする。




北君来訪  2009/3/21

 AM11:00約束通り北君が事務所にやって来た。彼はいろいろの本をリュックサック
から取りだして、その中から私の読んでいないものを貸してくれた。
「言葉とは何か」・丸山圭三郎・夏目書房
「歳時記・句歌」・山本健吉・新潮社
 数十年前の日記にもう一度今の観点に立った批評を加筆した作品を前もって見せてくれ
た。その作品について話し合う。同人αに投稿する方法も検討した。
それから、田村さんや北島君たちと昼食をとろうという話になって連絡をとる。二人で丁
度六本木の国立美術館へ日本美術会主催のアンダパンダン展を見に行くところだというこ
とで、そこで我々と落ち合うことにする。六本木も40年前に勤めていた会社があって、
よく昼食や飲み会などで歩いたものだが、防衛庁跡地にミッドタウンというの大きなビル
が建ち、すっかり変わってしまった。展覧会を見た後、ホールの喫茶コーナーで談笑。そ
れぞれが自己顕示欲の少ない友人達だから、会話も一方的ではなく4分の1ずつ話すから、
ゆったりした気持ちよい時間が保てた。4時前に地下鉄でそれぞれ別れ、れ、帰宅の途に
ついた。



「新自由主義」 2009/4/6

 今日、ルポ「貧困大国アメリカ」堤 未果 岩波新書を読み終えた。
ミルトン・フリードマンは反ケインジアンとして「危機のみが真の変化をもたらす」とい
う考えを唱え、新自由主義としての経済システムを市場競争に任せた。その結果、負の遺
産を商品化したサブプライムローンとか、石油や農作物などの高騰を招いたヘッジファン
ドの投機を放任し、現在の世界的金融危機をもたらしたと言っていい。なぜなら米国のレ
ーガン政権や英国のサッチャー政権、ブッシュ政権の経済政策の理論的支柱を提供した。
日本の小泉・竹中政権の「聖域なき構造改革」についても、大きな影響を与えたといわれ
ている。
 アメリカでは小さな政府を創るために軍・医療・健康保険・災害救援などの社会的な機
能を民営化したことで、社会を安定させる役目の中産階級がなくなり、少数の富裕層と大
多数の貧困層を生み出した。その政府主導による政策によって、経済至上主義・効率至上
主義が国民全体の生活向上させるためというものよりも、企業、株主、経営者優先が大企
業を生みだし、寡占化して大勢の国民から搾取するシステムを作り上げた。
 一人の庶民が生きるために汗して働く時間給の数百倍を得る人達がいることは確かで、
マクドナルドなどの店員と証券マンや銀行マンなどの間のこのような格差があっても何の
痛みも感じないという人達は、そちら側の人達かまたはとにもかくにも満たされていると
思いこんでいる能天気な人達だろう。
日本でも数多くの企業の不祥事が庶民の信頼を失っているのは、まさに経済至上主義、金
儲け主義、効率主義を追い求めた結果であろう。今世紀にはいって価値観が二十世紀とあ
きらかに変わったもかかわらずその弊害を認識しないか、判っていても無気力に放置する
かどうかが、今我々に問われていると思う。



『性についての雑考』*の感想 2009/4/7 *同人α18号

 私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
 エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
 「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
  (1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
  (2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。



透明標本について 2009/4/8

 科学雑誌「ニュートン」5月号に生物の「透明標本」なるものが載っていた。
ある特殊な方法で処理したもので、生物の生きていたときの姿そのまま、体内の骨や胃腸
の内容物のようすを見ることが出来る標本である。
 ハツカネズミの標本を見たとき、人類の祖先だなと感じたのは前足、後ろ足とも見事な
五本の指を持っていた。まさに人間の手や足の指そのものだ。その外ヤマカガシがニホン
アマガエルを呑み込んだ直後の標本で、そのカエルの体の形態も見事に見てとれる。

      



長崎市立図書館より資料が届く 2009/5/16

◆長崎市立図書館
〒850-0032 長崎県長崎市興善町1-1 TEL:095-829-4947 FAX:095-829-4948
リファレンス担当 矢口育美
1.「広報長崎 ダイジェスト・縮小版」
2.「長崎市制六十五年史 後編」
3.「長崎の対岸 稲佐風土記」
4 「長崎市統計年鑑 第15回(昭和44年度版)」
5.「ふりかえる二十年のあゆみ」
6.「五十年史」
コピー代+郵送料=440円 切手にて支払い(5月末まで)



長崎市営交通船の資料送付のお礼   2009/5/18

矢口育美 様
 長崎市営交通船の資料、確かに受理しました。ここにコピー申込書2通及びその費用で
ある切手を同封いたします。
 本来ならそちらに出掛けて調査すべきところ、電話でこのような便宜をはかっていただ
き、本当に感謝します。
 この資料は私達が作っている「同人α」という同人誌に掲載する、私の作品(シリーズ
・歪んだ風景−沈み行く家」に用いたものです。今月の末に第19号を発行しますが、四
十年ほど前にそちらで四年間暮らした思い出を「長崎賛歌」として綴った文章です。この
小説は続きもので、もし貴女が興味がおありでしたら、下記の同人αの「言の輪」という
ホームページをご覧ください。その中に作品集というブログにリンクしてありますので、
今までの全ての作品が無料で見れます。私達同人および読者の皆様と共に、これらの投稿
作品を合評という形で下記のホームページ上で感想を述べ合っています。もし貴女が興味
がおありでしたら、どうぞ遠慮無くお寄せください、期待しています。
なお、今回の19号の作品集への掲載は6月7日くらいになると思います。
同人αURI:xxxxxxx
                             2009年5月18日

      




面白そうな本  2009/6/11

 今日の天声人語に紹介してあった面白そうな本がある。
あのね 子どものつぶやき   朝日新聞出版
460円(本体価格)/483円(税込価格)
 幼い子どものつぶやきには、素直な疑問や新鮮な驚き、深い愛情など、大人が忘れてし
まった大切なこころがつまっている。2歳から8歳くらいの子どものふとしたコトバを書
きとめた朝日新聞連載中の大人気投稿欄「あのね 子どものつぶやき」を編集したオリジ
ナル文庫。子育ての悩みや仕事の疲れを吹き飛ばし、やすらぎとファイトを与えてくれる
一冊。大人も子どもお年寄りも楽しめて、プレゼントにも最適。
あのね 子どものつぶやき
あのね 子どものつぶやき   朝日新聞学芸部
900円(本体価格)/945円(税込価格)
 朝日新聞「くらし」面連載で大人気の投稿欄、1年分を単行本化。小さな子どもの何げ
ないつぶやきが、子育ての苦労を忘れさせ、大人の心を和ませ、子ども時代の大切さを改
めて教えてくれる。装丁・イラスト=和田誠



吟遊視人氏の反論について  2009/6/13  *同人α19号

 吟遊視人氏の*「安曇野便り」の合評において、農業問題についてあの様な長文の理論
を数ページに渡って展開するのは、小説という想像の世界を創り出す行為においてそぐわ
ないのではなかろうか、と私もO−chanと同じ感じを抱いた。
 どのような物を書こうが一向にかまわないが、合評という場でなされた議論にたいして、
自分の真意と違うことを強制するなとばかりに「一切受容しません」と言い切るのは、合
評という主旨にたいしての理解がなされていないように思う。
 彼の反論を見ていても、「為にする」議論ばかりで、冷静にお互いの言い分を理解しよ
うという努力が感じられない。なにも人の意見に全て従えと言っているのではない。相手
の意見と自分の意見の相違を真摯に討議していくという度量、柔軟性が欲しい。一を言う
と十の「為にする」論をしてくる。
 吟遊視人氏の作品にたいする私の微妙な感覚は、今回の反論を見ていると理解し合えな
い、いくら言ってもその真意が伝わらないような思いがした。
為にする議論(タメにするギロン)
議論において、その結果としての結論を出すことを目的とせず、まず結論があって、議論
をしたという体裁を整えるために行うもの。



吟遊視人氏の合評のお礼について 2009/6/14

手法について
 確かに私は氏が目指している手法を繰り返し問題にして批評してきたと思います。だか
ら氏はそのしつこさに「何回もその意図するところを説明しているのに、ちっとも理解し
てくれない」というもどかしさに、思わず感情的な(これは私の感じたもので、他の人は
そうでもないかも知れない)言葉の吐露があったと判断しました。
 氏が何か新しい挑戦を試みることには吝かではありますが、私はまだその手法に違和感
を感じ続けていることは確かです。このシリーズの第15号「ひとり芝居『天の魚(いを)』」
や第17号の「農業問題」、今度の「農業悶題」がこの手法でありますが、このような長大
な解説は論文か講演のものと私は感じていて、小説のなか登場人物の情景描写や筋とこの
主張との関係で、どちらに主体があるかという判断に戸惑ったからです。それは現に第16
号では「地球温暖化について」という問題を独立したエッセイの形で纏められていて、私
にとってはこの方がずっと判りやすい手法で、氏が日頃から社会問題に通暁されている主
張が素直に読みとれるからです。しかし氏が引き続きこの手法で創作されても、私はもは
やこの件についての問題提起をしないことにしましょう。願わくば新しい挑戦には反発や
異論がつきものですので、それを肥やしにして進むくらいの柔軟な
姿勢を私は望みます。



北君に会う 2009/6/15

 昨日11時30分頃から神田明神のソバを食べに細君と散歩に出かけた。休みだったので
お茶の水駅近くのリンガーハットのちゃんぽんを食べる。「これは本場長崎のちゃんぽん
麺とは少々違う」などとケチをつけながら、それでも結構満足していた。ついでに丸善に
よって、「もっとすごい!!このミステリーがすごい!」と帯に書いてある派手な宣伝文
句の「生ける屍の死」・山口雅也の本を購入。小さい活字が見えないから小難しい本は読
むのが辛いが、この程度の娯楽小説だったら根気も続くだろうと思った。
 午前中に井上君の携帯電話を借りた北君から電話があった。中学の同窓会が銀座であり
午後4時頃終わるから会いましょうと言うことになり、借りていた彼の書き物を抱えて細
君と約束の三越の前で会う。「うまい鮨勘」でビールを飲みながら歓談する。「アーラヤ
識」や「宇宙」の話をする。是非インターネットでスバル望遠鏡の宇宙写真を見てご覧、
何だか頭が変になり「生きる」ということの不思議さに思いを馳せるからと薦められる。
そのあと三愛のドトールコーヒを飲んで6時頃別れる。荘島君が体の具合が悪くて同窓会
に来ていなかったと聴き、山形旅行の時香月君が言っていた「彼は入院している」という
情報が本当だろうか 。ちょっと気になる話である。



偏西風−臓器移植について  2009/7/3

 今朝の朝日新聞のコラムに柳田邦男氏の臓器移植改正法案についてのコメントが載って
いた。それは脳死状態の次男の臓器提供に悩んだ経験のある柳田氏が、参議院厚生労働委
員会での参考人としての意見を問われたものだ。衆議院通過したA案は全ての人の脳死を
死と判定する法案である。
 柳田氏は脳死を死と認める人と、そうでない人がいて、まだ社会全体のコンセンサスが
得られているとは言えない。もう少し社会の成熟を待つべきだと結んでいる。世界の情勢
として脳死は死であるとすることと、日本的な「人一人の人生と死生観を大事にするとい
う」脳死を死と認めないというダブルスタンダードは新しい文化のあり方であり、日本が
持っていたあいまいさの良さを残してもいいのではないかと言っている。
 それにつけても、TVタックルで河野太郎議員が顔を真っ赤にして、臓器移植法案のA
案になぜ反対するのか「引き延ばしている間に、移植を待っている患者の何人殺せばいい
のか、これは殺人だと」と激高していたのが印象に残る。提供する側の親は脳死でも心臓
や肺は動いているのに死と認める訳には納得がいかない。移植を待つ患者側がそれを承知
でまるで権利のごとく声高に主張するのはちょっと違うような気がする。死んでいく命と、
生き延びる命に優劣は付けがたく、権利や義務の関係を発生させるような法を拙速に作る
ことに違和感を感じた。たしか生物学的・倫理的・医学的にも難しい問題ではある。



「心霊写真」 2009/7/4

 早朝「生ける屍の死」という妙な題のミステリ−の本を読み飽きたので机の置き、その
上に老眼鏡を何気なくのせた。すぐにはそうと気か着かなかったが、なんとなく気を散ら
した後に、もう一度意識を戻した時ハッした。本が人間の顔をしている。さてそれは作者
の顔だろうか、物語の主人公の顔だろうか。山口雅也という作者の顔は知らないし、遅々
として捗が行かない私の読書に、面白いから早く読めと小説の主人公がシャシャリ出たの
だろうか。妙に感情移入を誘う顔である。

      



「高橋たか子」 2009/7/27

 昨日の朝日新聞の読書欄に、横尾忠則による高橋たか子の「過ぎ行く人たち」という本
の紹介があった。高橋たか子はかつて読書会で「骨の城」を取り上げたことがあったので、
神秘的というか宗教的というか、人間の意識や真理を隠喩を通して書いた不思議な物語に
興味をもった記憶がある。
 この「過ぎ行く人たち」では「『私』の中を流れている運命の河の岸辺に寄り添うよう
に顕れる既視感(デジャヴ)は『私』のもの?」。それとも宇宙空間にある人類のとてつ
もない昔の大河から流れてくる見知らぬ誰かの情報なのか?」。それは大乗仏教の深層心
理である「阿頼耶識(あらやしき)」なのではないか?
私も先の同人α第5号・表題『Deja-vu』で「既視感(デジャヴ」について書いた事があ
る。その中では
1.仏教の輪廻転生(りんねてんしょう)の中で次の世に生まれ変わる時、  前世の記憶
  を全て消されると言われている。しかし何かの拍子に一  部の記憶が消し忘れされ
  たために、前世の経験の断片が微かに思い出されることのようでもある。
2.遠い祖先から何百万年の情報を受け継ぐ私の中の遺伝子がご先祖の  生きた世界の
  経験を、あるとき突然気まぐれに私の心に体現させる  行為なのか。
  と書いている。 だからこの高橋たか子の「過ぎ行く人たち」の中で「既視感」や
 「阿頼耶識(あらやしき)」をどのような解釈をしているか、大乗仏教の「唯識」論を
 今読んでいる私にとって興味をそそる本である。



北くんより 2009/11/17

北君よりおすすめの思想家
池田 晶子(いけだ あきこ、1960年8月21日 - 2007年2月23日)は、日本の哲学者、
文筆家。東京都出身。 ... 大学時代、哲学者木田元に師事し、アルバイトとして雑誌『JJ』
の読者モデルを務める。埴谷雄隆、小林秀雄などに傾倒したという。
 今年になってまだ寒ころお茶の水の丸善に池田晶子著の「14歳からの哲学 考えるため
の教科書」を買いにいったが、探せなかったので別の本を購入したことを思い出した。



三省堂にいく  2009/11/28

 昼食に神田駿河台下の讃岐うどんを食べに細君とでかける。帰りに三省堂に寄り、私は
池田晶子の「暮らしの哲学」「14歳からの哲学」の2冊を買う。細君は「ルビコン川」と
かいうローマ史の本を買ったようだ。
 池田晶子は雑誌のモデルをしていた。なるほど美人だ。天は二物を与えた希な例であろ
う。しかし46歳で死去。なるほど天は我々に常に言い訳を与えてくれる。彼女ほどの才
覚を与えてくれなかったけれど俺はまだ生きている・・・という。
今日は「梁山泊」の連中の忘年会で銀座の「うまい鮨勘」で飲む。
博田、小宮、田村、田辺、中島、近藤と私の計7名。

      



北君より  2009/12/7

 北君から写真のお礼の電話あり。じつは小柳氏より以前教わっていたにも関わらず練習
していなかったからその方法を失念していた。一太郎の改ページ機能について、及び私が
興味ある問題について話していたことに関する本を、北君に教えてもらう。
改ページ機能:ctrl+y
追悼池田晶子にささぐ:ある統合失調症の手記



北君へ  2009/12/14

 池田晶子の「14歳からの哲学」を読み終えました。現実は今の意識の一瞬にしかなく、
過去や未来にはない。存在そのものが奇跡などの論をみるとフッサール現象学の流れをく
む、「存在と時間」のハイデッガー、「実存主義」のサルトルなどの論が展開されている
ようです。時間というものは、本来流れるものでは無い。過去から未来へ流れるものでは
なく、ただ「今」があるだけだ。「今」しか無いのだから、今やりたいことをやろう、や
ることができる。
 〈在る〉ことの不思議 古東 哲明 (著) などを読んだことが、最初は全く理解できなか
った難しい哲学の本の内容が少しづつ、理解できるような気がします。これから池田晶子
の「暮らしの哲学」を読み始めます。最初の1ページを読んでみると、花の美しさや、別
れの辛さを思う心「クオリア」の問題を考える内容ではないかと思われます。「クオリア」
は茂木健一郎の本でも取り扱っていましたが、現象学の延長にあるようです。
 目が悪かったこの1年間は本を読むのがつらくて、ほとんど根気も失せていましたが、
今は努力すればなんとか読み続けることが出来るようになりました。いままで休んでいた
分を取り戻さなくてはと思っています。月刊誌をなにに決めるかはまだ思案中です。青土
社の「現代思想」、芸「ユリイカ」は特集にかたよっていて、しかもサブカルチャーが多
く、余り読みたいとは思いませんでした。昨日は岩波書店の「思想」を試しに買ってきて
読み出しました。



81α編集部:2014/03/14(金) 04:43:16
オキシモーラン2
.

               オキシモーラン2 2009-2011前半

                
               「オキシモーラン言葉遊び」の師匠




万理さんより
 2009/11/19

神野巨人・巨匠  「文芸は爆発だ!!」3
感想文案その2
神野語による作文学習 1
**************************************
【逗子花火大会】
花火 火花 ばなな 吉本ばなな 隆明 おぼれる 女 マージャン イイジャン
じゃんけんぽん 水面鏡の万華鏡 砂に寝ころび蟹とたわむる
**************************************
爆発どころか 「0点だ!!」
私の言葉は土台がもともとないから、一度飛び散ったら 勝ってほうだい、宇宙のは
てまで届かずに消えていく。是覆水本盆




万里さんへ
 2009/11/19

 あなたの感想を読んだらKくんも同類がいたと思ってきっと喜ぶと思います。そこ
で、二つの提案があります。
 一つは、私は「窓辺にて」という日記をブログ上で書いていますが、検索しようと
思う人は探し出して読めるようです。そのようにして4・5人が密かに読んでいる模
様です。確実な人はKくん、Oさん、Nさんなど・・・。
あなたが私に送ってくれるメール文は非常におもしろいからあなたとのやりとりをこ
の日記に記録したいと思っています。そのように数人にバレバレでよいと思うようで
したら、そのように返事ください。もしいやならよしましょう。私は正面切っては言
えないことを、密かにのぞいている人を意識してわざと揶揄することもあり、その微
妙な関係がまたおもしろいと考えています。
 二つ目は、Kくんが「オキシモーランの会」を作ろうよ、と私をさそいました。そ
の「オキシモーラン」とは江崎玲於奈氏が使い始めたことばで、その意味は全く異質
なものの組み合わせで新しい価値を生み出そうということらしい。そして詩の分野で
は西脇順三郎の提唱する、伝統や因習に因われない詩的言語の新しさを求める運動に
つながっていると思われます。
Kくんの作品はそれを大胆に鋭く進めたものだとおもいます。私も前に主語、動詞、
副詞、形容詞、名詞などを新聞紙などから集めてエクセルで、その言葉をランダムに
組み合わせるソフトを考えて見たことがあります。その組み合わせた陳腐な文節は奇
妙奇天烈で、読み方によっては諧謔的、ある種の真実を含むおもしろいものでした。
Kくんは文学者らしく、自分の頭の中で計算してつくりますが、私は理系らしく全く
情緒抜きにテクニカルに言葉を組み合わせるという方法を考えました。いかがですか、
この「オキシモーランの会」は?行動に移すことに興味はありますか?



万里さんから
  2009/11/19

ともにOKです。
<窓辺にて>
A先生は私の頭を透視できるのでしょうか。
Aさんに送るメールの中には、言の輪に書き込もうかと少々迷うものもあります。異
端児とは言え、あまりに個人的であったり、幼稚であったり(私にも若干のプライド
だけは残っている?)、誤解されるようなもであったり・・・一々先生に聞くのも面
倒だし、「自分で判断しろ」といわれるに決まっているからこれまで話題にしたこと
はありませんでした。私は直感、感性で動く、決めることが多くあります。
Kさん、Oさん、Nさん、まったく問題ありません。むしろ読んでいただきたいくら
いです。とにかく先生が良いと考えた人は多分間違いはないと思うし、一回先生のフ
ィルターを通すわけですから・・・判断はおまかせします。私の著作権は全てお譲り
します。(偉そうに!!)
「オキシモーランの会」
頭の回転の鈍い私、神野巨人様があの博識のK様であることに気づきませんでした。
(名簿確認までは気が回らなかった)
なるほど、なるほど・・・・・・
私は単純に言葉遊びが好きなだけですが、お仲間に入れていただければ、神野ワール
ド学習にもなるでしょうし、もちろんAワールドをもとと知ることができるでしょう。


2010年


「カオス」と「混沌」
 2010/1/30

いやはや今回のO嬢の「R子さんについて」という投降は、ますます私の悩味噌を攪拌し
てシナプスやニューロンのカツ丼を破戒し、量子の世界におけるブラウン運動に陥らせた。
前の日に出ん話で一刻ばかり「琴の話」の成り立ちや、基本的理念について話し合って、
今回の躁動を「古都の環」は合豹を主とするということに照らし合わせて半生したたばか
りなのに、舌の音も乾かないのにこの投稿は何なのか?
私はかくのごとく忍識せざるを得ない。「彼女の頭のナカは「カオス(空漠)」ではなく
「混沌(物質が一杯詰まっているけれど法則がまだない)」であろう。やはり異星人なの
だ。彼女のなかに地球人の法則をいくら探し求めても決して獲られない未知の生物という
認識以外に、こちらが発狂するのを止める手だてはないように思える。
穴論として、彼女の混豚の思考に合わせようとする怒力を止めて、こちらはこちらの起立
を確立しなければならないということに私は築いた。




『言葉集め星創り五拾番』密と罪の花を読んで  2010/2/23

神野 佐嘉江氏の混沌の世界で遊ぶ者は、ネジが一本外れたか又は配置を換えした、お
めでたい脳みその持ち主、万理久利さんと私の二人だけなのか。作者の文のなかで目に
ついた言葉をはじめからトレースしたら、ほとんど万理さんと同じで、重複するからこ
こでは書かない。先日言葉とはなにか 丸山圭三郎著を読んでいて次のようなものが
目にとまった。机の冬は、病み上がりの色できしみつづけ:失語症患者の文妙なる屍
は、新たなる酒を飲むであろう:シュルレアリストの実験詩神野氏の提唱するオキシモーラン
の会員の一人として、私も不可解な言葉の文章を作って見たくなった。そこで作ったの
が次の十の文章である。意味は各読者の連想に委ねるという無責任極まりないもので、

混沌のプールの中で自由に泳いで、溺れてくだされ。
汚れた空気 大好評自民党終演 一発合格適正検査
シネマの町 万能細胞主君の理不尽 悪玉論鮮やか
振り込め詐欺 独自の理念を求め  正直者将来夢膨らむ
カラダに良品 悪銭が蔓延り要求  無料見積
蕪村門下の 仲南海ここは退屈な星 出馬へ大関名寄岩
小細工なしの真っ向勝負 サントリー名門が いいと思います
機械工業社会に 生徒が発表無謬論 発信しては投資した
武芸一筋破壊的 DL引き出し学芸賞 学力をはぐぐむ
ゼロから始め 爆破予告電話入 自分のお墓を整えた
鍵握る男世界的 金融不安を迎え  解放する受賞



2011年


西脇順三郎
2011/6/3

朝日新聞 2011.6.3 に「詩を変えた西脇順三郎」という記事があった。言葉をつむ
いだの は現代詩の創始者とされる西脇順三郎のその生涯と作品がテレビ番組にまと
められた。
「エッジスペシャル 新しき美を求めて、詩人・西脇順三郎」というCS放送、18
日夜9時45分に再放送されるらしい。残念ながら私のTVではCSが映らない。
西脇順三郎の詩は読者にとって、その意味もつながりも情景すら定かに浮かばない、
メタファーの世界である。例えば「旅人かへらず」の詩は

旅人は侍てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考へよ人生の旅人/汝もまた岩
間からしみ出た/水霊にすぎない/この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時に
ひからびる/ああかけすが鳴いてやかましい/時々この水の中から/花をかざした幻
影の人が出る/永遠の生命を求めるは夢/流れ去る生命のせせらぎに/思ひを捨て遂
に/永劫の断崖より落ちて/消え失せんと望むはうつつ/さう言ふはこの幻影の河童
/村や町へ水から出て遊ぴに来る/浮雲の影に水草ののぴる頃

私はこの新聞記事を読んで「オキシモーランの会」を再び活動させたいという意欲が
湧いてきた。2007/11/26日の日記には「もう7・8年になるだろうか、北君が「オキ
シモーランの会」を作ろうと提案してきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二
つの異質なものの結合によって新しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風
を示すものだった。私もいくつか試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷
徹に見なし、エクセルの縦A列は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉
を100ばかり創りABC列それぞれに乱数をコンピューターで発生させて番号をつけ
る。その後ABC列の番号をそれぞれ若い順にソートして並べてみると「資本論は忍
術である」となったり、「民主主義における無限級数は小さな階段を這い上がって死
に絶えた」などと判じ物のようなものが出来上がった。」と書いてあった。

これが詩なのかどうか、その価値があるか判らないが言葉遊びとしては結構面白い。
またシステマチックなことの好きな私としてはエクセルという感情抜きの乱数配列の
なかに、人間的な情感の言葉を紡ぐという遊びもまた魅力を感じている。「オキシモ
ーラン」の運動、果たして新しい遊びになるかどうかは、好奇心の豊かな人の数と情
熱の度合いに頼るばかりだ。




オキシモーラン言葉遊び試運転 AKM20110604
  2011/6/5

法を性生活道具に 名寄せして 更に内容充実 灯り祭りが始まった

汚れた空気が大好評 自民党の終演 一発合格適正検査

権威も影響力もない 経済散歩  巨大なきれいな空気を持とう

お子様の江戸期に 桝添要一反旗を翻す 色気たっぷり首相就任へ

国保・下水道 舞い降りる本体部分 部品を分解小型化し 宇宙に飛ばしたい

生前個人墓 政権掌握  山中教授ら 皮膚細胞のお茶漬けを 提供します

医療費をめぐっては あの世で迅速対応 万が一の宝くじを期待して

silly talk




Thank you for 合評 神野佐嘉江氏より 2010/ 6/5

皆さん、合評有り難う。とても丁寧に読んでいただいており、恐縮です。『人の像
(かたち)をした美しい青い地球』は、我が二十代に着手したものです。これから長
い人生を生きるのだが、地球のエネルギーにあやかりたいものだ、との思いで綴って
きました。地球は日に日に狭くなり、その姿は日に日に科学的に明らかにされる一方、
己の人生も雑多な体験を重ねていきました。というわけで、初版は一九八○年、三十
年前ですが、その後付け足して、種々かき集めると百編ぐらいにはなりますが、たの
がなかなかまとまらず、今日に至っています。『言葉集め星造り』も着想は二十代で
す。これは、言葉が、単語から句、文、話へ大きくなるのを、宇宙の膨張になぞらえ
たものです。こちらでは、れいの「オキシモーラン 0xymoron」、言い換えると、俳句
用語で言う「取り合わせ」や「二者合体」を楽しみつつ、言葉の全相に迫ろうと試み
たものです。これは当初の構想が三百編。目下六十編あたりで頓挫しています。最近
は、『冥界から覗く(仮題)』に取り組み、「在ることの不思議」をなんとか作品化で
きないかと試みています。皆さん、詩人「まど・みちお」はいかがですか。この人は
「在ることの不思議」を歌う詩人だと僕には見えます。




オキシモーラン言葉遊び−AKM20110612
 2011/6/13

第三の想像力とは欺瞞排出がないように、目を閉じて現象をとらえ、
どろどろの相関図を描く能力である。

乱れた行動によって、他の鋭い世俗感覚をすべて動員した結果、指をく
わえる実施計画を練った奴がいるとか。

情念家達は爆破予告の電話を聞いて、それが誰からのものかを知ってい
ながら、間違って解釈する暗黙の遊びにすぎないと断じた。

権威も影響力もない、何かの偏見によって内部に見えたものだと、56年
振りに返事を要求してきた。

お子様の空間、時間はもとより、空に動く星に問われたギリシャ語だって、
住居侵入罪に値する。

これは文書校正ツールの論文・報告書でも赤字が入らなかった。
やはり意味不明でも格調ある正しい文章なのだ。
persona




オキシモーラン言葉遊び−AKM20110619
  2011/6/21

◆シネマの町としての発展は、自分で選べるという口約束をした政党に、
 貧しい人たちはその夢を信託した。

◆ゼロから始めて、子供のはやる心を自己の危機と認知し、世界現象を
 「間」という風物詩の分類で集めたい。

◆アクティングアウトは、首長の三割が初めて生き生きとした探求や
 想起や推理などの勉強に励んだことだ。

◆触覚という何かの偏見によって、母を亡き者にしたいと願う哲学者は、
 その真理を教えてと泣き叫んだ。

◆モラトリアム状態は、自分が犯して奪った5億円を皮膚の細胞の下へ
 隠すために、たえず変容を迫られているからだ。


persona





遊びについて
 2011/6/21

キメラ2号氏がヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』について書いてくれま
したのでもう少し話を進めてみましょう。フランスの社会学者・哲学者・文芸評論家
であるロジェ・カイヨワはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて
『遊びと人 間』を執筆しました。私もずっと昔買って読んで見ました。そこには遊
びの形態を細かく分析し、
〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉
〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉
〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉
〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉
の4種類に分類して考察しています。
しかしその中には言葉遊びは見えない。むしろ子供が体を使って遊ぶ運動に限られて
いるようです。そこで言葉に纏わる遊びを調べて見るとぎなた読み、ことわざパロデ
ィー、しりとり、たほいや、つみあげうた、倒語、どちらにしようかな、なぞかけ、
もじり句、アナグラム、アンビグラム、ダズンズ ハナモゲラ、パングラム、マジカ
ルバナナ、回文、たいこめ、空耳、見立て、語呂合わせ、山号寺号、折句、あいうえ
お作文、縦読み、早口言葉、駄洒落、地口入れ詞、無理問答、ルー語、ピッグ・ラテ
ン、英語の言葉遊びなどがあり、どんなものか見当もつかない物もあります。(時間
がある人は調べて見てください、ほとんどが解説されています)

ぎなた読み    :べんけいがな、ぎなたをもってさ、しころした。
かねおくれた、のむ
ことわざパロディー:猿も筆の謝り。弘法も木から落ちる
倒語 :ミュージシャンが言葉を逆さにして使う一種の隠語

まあ、いろいろの遊び方がありますが、私達は日常知らず知らずのうちにいくらかは
使っているようです。
私は特にアナグラムや数字の語呂合わせが好きです。私のペンネーム「オール・ド・
エレガンス」もアナグラムの一種だし、電話番号の1210−7080も「人に言う
なよ、○○は七転八倒」などと数字をみればなんとが語呂を合わせたい誘惑に駆られ
ます。
オキシモーラン言葉遊びは言葉の音や意味の曖昧さを逆手にとったもので、上記の遊
びよりちょっと複雑なものが出来て、人様々な解釈を楽しめたらいいなと思います。

           
           persona





オキシモーラン言葉遊び−AKM20110629
2011/6/29

「人間」とは人と人の間、その空間は「不可侵の場」すなわち非武装緩衝地帯を意味
するもの、内部に許容が見えてもそれは視覚上だけのもので、二人の間の適正な距離
の検証が必要だ。

引っかけや小細工なしの問題で、途絶えていた情報が見えないなどの愚かしい質問は
やめて、その不条理を逆手にとって入院保険でとりもどそう。

過熱報道から顔をそむけ、麻痺とか熱とか障害などの条件をクリアーして、満天に輝
く星々を仰ぎながら手に手を取って夜の砂浜を歩く、そんな道行きが望みだ。

アジールの母を愛するために私は、俳人高井梯子のどうにも変えがたい悪癖を、良心
に謀り異端児として対応することに決めた。

感覚による錯覚はだれでも素朴に映り、そう考えるという慢性的な責任を回避する現
象からとらえるべきで、古今東西・老若男女・天変地異に捕らわれては ならない。
persona



82α編集部:2014/03/14(金) 05:54:09
僕の化身
.

               僕の化身 2002-2008


   「私の七つ道具」5.出てくるステッキを持つブロンズ像をめぐるあれこれ。
      この像の兄弟たちは、共同著作『無限回廊』の登場人物の
            イメージキャラクターにもなった。
     (編集部)



「ブロンズ像」
2010/9/7

昨日の早川篤史氏の作品がどうしても気になり、夕方もう一度銀座松屋の7階の展示場へ
見に行きました。小さい像を思い切って購入しました。今まで30回近く転居した己の姿
を見つけたからです。つばのついた帽子、野暮なコート、右手にステッキ、左手に大きな
鞄、今の環境にちょっと飽きたのでどこかへ出かけるか・・・。
作品の名前はNo.F091 ステッキですまたの名は彷徨える次郎です。
    早川篤史氏のホームページ
http://www.coppers-hayakawa.com/




僕の化身 「ステッキ」F091(ブロンズ像)
2010/9/9

私はこのブロンズ像を見つけたとき、まさに今までの自分の姿を見たように思えて即座に
購入した。この像にたいしての作者の命名は「ステッキ」作品番号はF091である。F
というのは動物や人間や飛行機や船などのシリーズの一つの区分符だろう。そして091
というのはそのシリーズの制作番号と思われる。ここでも奇しくも我が素数愛好家として
喜ばしいことに31番目の半素数(7×13)である。

私には電話番号や身近な数字に語呂合わせを考える癖があり、ことあるごとに考えて楽し
んでいる。例えば私の携帯番号は090−1210−7080であるが、語呂合わせでは、
    無い苦労 人に言わないで(古賀は)七転び八起き
    大苦労  人に言わないで(古賀は)七転八倒

wikipediaより
語呂合わせ(ごろあわせ)とは、文字を他の文字に換え縁起担ぎを行うものや、数字列の
各々の数字や記号に連想される・読める音を当てはめ、意味が読み取れる単語や文章に置
き換えることを指す。電話番号や暗証番号、数学など元の数字列が意味する事象を暗記す
る場合に使われる。
例えば
1564 :「人殺し」  893:「ヤクザ」   427:「死にな」
37564:「皆殺し」 18782:「嫌な奴」+18782:「嫌な奴」=37564:「皆殺し」
4649:「よろしく」 0840:「おはよう」 14106:「愛してる」 724106:「何してる」
889 :「早く」   0906:「遅れる」   3470:「さよなら」

さて、「F091」に対する私の語呂合わせの考察は、『「F」という文字は「ヘルムホル
ツ(自由)エネルギー(Free energy、大文字)を示す文字として用いられる』というこ
とから導き出した結論が、「瘋癲(ふうてん)」。気がついてよく見ると「瘋癲の寅さん」
にそっくりなのだ。091という文字の語呂合わせは「悔い無し」故に「瘋癲(ふうてん)
に悔い無し」。そして像の名前は「ステッキ」から「彷徨える次郎」に改名。しかしもし
読者のすばらしいアイデアがあれば大いに歓迎したい。




      「Y氏より」

      ●F091、とにかく「かわゆい」。赤松さん、自分の分身みつけてヒート
      アップ。あん まし似てたらヒートする。ポッケに何時も入れておきたい。
      さわりたい、話しかけたい。 そんなところだろう。(犬づれバージョンも
      ありましたね。タロウJ065もなかなかのも のでした。)
      ●そんなにぐんぐん先行かないで時間ください。1年とは言いません。数日。
      命名ね、そりゃあ大家がつけるのが一番です。「瘋癲(ふうてん)に悔い無
      し」。そして像の名前は「ステッキ」から「彷徨える次郎」に改名。これ以
      上のものが出てきたらメールします。まずないと思うけど、私なりに考えて
      みます。赤松さんは天才だ。
      ●携帯No.:「無い苦労人に言わないで(古賀は)七転八倒」、私は携帯登録
      してあるけれど、宅電や外電の時、これを使おうと思う。
      ●まあ、趣味人から始まって道楽人、そのうち極道、そして極楽間違いなし。
      要はバランスを少しのこし、徹底して極めることです。狭間の極道。
      ●N氏は、子以外に自分の分身的、象徴的「偶像」お持ちですか。お花かな。
      ひょっとして凄いお人形さん持ってたりして…。私は香港でピエロ人形を即
      決で買いました。あまりに悲しげだったので、感情移入不十分、帰国時無く
      しました。今のところ無し。
      ●野球の券が見つかりません。どこにしまい込んだのだろう。




      「N氏より」
      赤松さんへ
       註:Fに悔い無しで良いのではと思います。
      ★ブロンズ像の形と時間
       まあ、赤松さんの腕時計で、全て暗示されていますが正面から見ると全体
      は、おへそを中心にした長針・短針・秒針の形、ネクタイ部分は、長大な時
      間をゆっくりと刻む針でしょうか。両手は、鼻部を中心とした長針(右腕)
      ・短針(左腕)ステッキは、右手の先を中心とした秒針、上面から見ると頭
      部・頸部は、針の心棒、側面から見ると旅行鞄にも、ひょっとして時計模様
      が有るのかな?要するに徹頭徹尾、時間軸中を旅する人を現わしているよう
      です。
      ★091
      悔い無しの他に、携帯の頭の090の一つ後が、091象徴的には、領域
      を広げる幻の番号ですね。91=13*7、91は、31番目の半素数だと
      か。確か、31も素数ですよね。13*7には、死と再生(13)を7度繰
      り返す意味があります。
      ★時を駆ける瘋癲の寅さん
      要するに、この像には時間の表象が満ちあふれていて、鞄を持った主人公が、
      死と再生が繰り返される時間の中を、悔いなく彷徨する状態を示しています。
      正に、時を駆ける寅さんですね。無限回廊のシンボルとしてピッタリのブロ
      ンズ像がピッタリの時期に手に入ったんですね。
      ★TAROTから見る
      ところで、瘋癲の寅さんと言えばTAROTでは22番のFOOLです。こ
      こにもFが出て来ます。この22番は、一つの宇宙が滅んで次なる宇宙が生
      成されるときのアーラヤ識が、彷徨いつつも遊ぶ旅を象徴するものですが
      22=2*11です。2は、アーラヤ識(MAYA)そのものを、11は、
      その持てる強大な潜勢力を現わしています。
      なお、フェニキア文字の22番は、taw(X印)であり、ギリシア文字の
      τに当たりますが、その音価はtで、偶然にもtimeと対応しています。
      もう一つ、TAROTでは22番を、0番とも見なします。0は、無限回帰
      のために必要な、宇宙のご破算なのです。




「早川氏へのメール」
2011/2/7

ブロンズ像「ステッキ」−F091考
私はこのブロンズ像を見つけたとき、まさに今までの自分の姿を見たように思えて即座に
購入した。この像にたいしての作者の命名は「ステッキ」作品番号はF091である。F
というのは動物や人間や飛行機や船などのシリーズの一つの区分符だろう。そして091
というのはそのシリーズの制作番号と思われる。ここでも奇しくも我が素数愛好家として
喜ばしいことに31番目の半素数(7×13)である。

「彷徨える次郎」
私には電話番号や身近な数字に語呂合わせを考える癖があり、ことあるごとに考えて楽し
んでいる。
例えば私の携帯番号は090−1210−7080であるが、語呂合わせでは  無い苦
労 人に言わないで(古賀は)七転び八起き
または 大苦労 人に言わないで(古賀は)七転八倒。

wikipediaより
語呂合わせ(ごろあわせ)とは、文字を他の文字に換え縁起担ぎを行うものや、数字列の
各々の数字や記号に連想される・読める音を当てはめ、意味が読み取れる単語や文章に置
き換えることを指す。電話番号や暗証番号、数学など元の数字列が意味する事象を暗記す
る場合に使われる。
例えば
1564 :「人殺し」  893:「ヤクザ」  427:「死にな」
18782:「嫌な奴」
37564:「皆殺し」 18782「嫌な奴」+18782「嫌な奴」=37564「皆殺し」
4649:「よろしく」 0840:「おはよう」  14106:「愛してる」 724106:「何してる」
 889 :「早く」  0906:「遅れる」
3470:「さよなら」

さて、「F091」に対する私の語呂合わせの考察は、『「F」という文字は「ヘルムホル
ツ(自由)エネルギー(Free energy、大文字)」を示す文字として用いられる』という
ことから導き出した結論が、「瘋癲(ふうてん)」。気がついてよく見ると「瘋癲の寅さん」
にそっくりなのだ。
091という文字の語呂合わせは「悔い無し」
故に「瘋癲(ふうてん)に悔い無し」。そして像の名前は「ステッキ」から
「彷徨える次郎」に改名。

さて本題
早川さんにお願い。私達は「同人α」に複数の作者による合作を試みています。そのSF
小説風の題名は「無限回廊」と言います。各作者をイメージした主人公は、早川さんの作
品と重ねあったものと考えました。そこで「同人α」にこの作品を参考として載せさせて
いただきたいのですが。勿論作者名をcoppers早川として、またホームページアドレス:h
ttp://www.coppers-hayakawa.com/ を明記します。この提案について返事をいただきた
いと思います。ちなみに発行部数は五十冊程度で、市販はしていません。

なお、「同人α」の無限回廊第一回から今度出版の第三回ができあがりましたら同封した
いと思います。よかったら裏表紙に書いてあるホームページ「ニューロン・カフェ」を覗
いて見てください。

??????????#11「宇宙戦士」?? #13「頭脳監察官」??#17「飛翔教官」??#7「宇宙神祇官」

    



登場人物
 「宇宙戦士」
◆ バード・ブレイン(認識ナンバー11:タローカード11番は、力あるいは正義の大アル
カナ)
アラン模様の厚手で鈍色のアイルランドフィッシャーマンセーターを常用。ロシア系モン
ゴルの蒼き狼の血筋。何者にも支配されない一匹狼のワィルドさと同時に、美的感覚や感
性を大事にする。建築・都市計画技師。キューバやニューカレドニアの冷凍施設による開
発で、新興国の国の経済立て直しに参画。建設技術と冷たさは世界最高水準。列強国、ア
メリカ、ロシア、中国を氷河期状態にする使命をもつ。ゲバラを愛し、キューバ人を愛す
るバード・ブレインは、列強大国に反旗を翻させる。最終目的は彼ら一人一人にアメ車を
持たせ、小型宇宙船で旅行をさせ無重力宇宙空間で陽気にサルサを踊らせること。尚キュ
ーバには大学二校、小学校五校、病院施設設計、建設の上寄付をしている。「影、すき間、
空間、歪み、ずれ、繊細な表現」を偏愛する哲学者の顔も持つ。「赤富士」に憧れ日本の
山梨に別荘を所有。妻はギリシャ人、歴史研究家。

「頭脳監察官」
◆グレイ・ブレイン(認識ナンバー13:タローカード13番は、死の大アルカナ:死と再生
の回帰)
純白のアルパカのベストを常用、花はやはり白色のカサブランカを好む。北欧グスタフ公
の血筋。天才的記憶力と分析力を持つ物理学者。自然科学の世界で活躍する身でありなが
らそれに飽きたらずホロスコープ等の占術を学び、宇宙の数理の世界に人生を投影する。
また中国哲学、インド哲学、イスラム哲学などの東洋哲学にも造詣が深く、死と再生問題
の研鑽に倦むことを知らない。また植物研究家でもある。日本にフラワーパークを所有す
る植物愛好家の一面も持つ。「グレイ植物図鑑」は隠れたベストセラーとなった。実は(株)
サカタの種の大株主。
五大国他の核をホロスコープと式神の力で探しだし、バード・ブレインの力を借り凍り付
かせ、古代文明国家に復帰させる。
世界唯一の被爆国日本の「富士」を地震の被害を出さずにもう一度大噴火させ、ヒマラヤ
の最高峰チョモランマをしのぐ世界最高峰に仕上げる。頂上には核を観測する核廃絶ホロ
スコープ観測所を設置、その名は「金太郎」。大噴火の際日本列島全体も大きく隆起し、
日本海、太平洋に領地を広げる。妻はオーストリア人オペラ歌手。

「飛翔教官」
◆ エヴァ・マリー・ゼノン(認識ナンバー17:タローカード17番は、星の大アルカナ:
希望と真実)
ユニクロ風のランニングシャツと短パン、実はプラダの特別仕立てを常用。メイド・イン
・ベトナム。貧しい儒学者の子として生まれた革命家、ホー伯父さんの孫の血筋。露悪趣
味的に悪ぶるところがありエキセントリックに見えるが、実はシャイで内証の苦悩を隠そ
うとする傾向がある。
法学をピエログリフ大学で学び酒席で卒業、世界中の利己的遺伝子にニュートリノ法を浴
びせ、人類に真の自由をもたらすという夢を持っている。人類をしばる法律ではなく開放
する法律である。ハノイの地底深くに巨大カミオカンデを設置。バード・ブレインの力を
借りアフリカ大陸を程よく冷やす。アフリカの各地でこの数百年におよぶ欧米諸国の何重
もの搾取の構造を破壊し、真の自由を実現する。アフリカ各地で、とりわけナイルを中心
に多くのソクラテスやプラトンが誕生する。地球上の白、黒、黄の人種はニュートリノの
作用により色の区別が不可能となる。
独身貴族を気取るが実はペンダントには二枚の写真。学生時代に捨てられた男とハノイ時
代、刑務所にぶち込んだ捨てた男である。実はサルトルとボーボーアールの関係を乙女チ
ックに夢見続けている。

「宇宙神祇官」
◆サカエ・ル・カミノ(特別出演):一見質素に見えるが、なにげなくダニエル・クレミ
ュのシャツを着こなしている。大魔法使いゲドの血筋。言葉の可能性を求め実験を繰り返
し突き進む希有な小説家でもあり優秀な脳外科医でもある。時々宇宙語で語る。精神と肉
体双方の解放をめざし、夢想癖と放浪癖も見られる。その文体は「21世紀の最高の美」と
も一部から高い評価を受けている。趣味は多彩。妻はアメリカ人、上院議員を務めた後現
在ではNASAに勤務する宇宙物理学者。
平成23年2月7日(月)
早川篤志・克己 様                古賀和彦
??



83α編集部:2014/03/15(土) 08:24:53
本のある暮らし6
.
          本のある暮らし6??2010





お茶の水散歩
2010/1/22

昼に駿河台下の三省堂まで散歩する。 ロラン・バルト著の「喪の日記」が目についた。
鮮烈な言葉の印象に憑かれて買いたかったが3,300円、今の私の懐ではちょっと躊躇した。
代わりに中島義道の「人間嫌いのルール」という本の内容紹介が気に入って買った。
「人はひとりでは生きていけない」。その言葉を錦の御旗に、表向きうまくやるのが「お
とな」、できない人は病気と蔑む----他人を傷つけないという名目のもとに、嘘やおもね
りも正当化されるのが日本社会である。
そんな「思いやり」の押しつけを「善意」と疑わない鈍感さ。「人間嫌い」はそこに途方
もない息苦しさを感じてしまう人なのだ。
したくないことはしない、心にもないことは語らない。世間の掟に縛られずとも、豊かで
居心地のいい人間関係は築ける。自分をごまかさず、本音でいきる勇気と心構えを持とう。
PHP新書700円。



「sincere」と「誠実」
2010/1/23

中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、 一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。 そこには
相手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほ
どはっきりと言い放つのである。 日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に
相手の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の
各人の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんで
も開放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。



三次元空間を異なるベクトルで走る-2読んでの感想
2010/2/5

◆「三次元空間の異なるベクトル」に時間軸を加えれば四次元、ここまで行くと個々の考
 えはなお交わりにくい。お互いの真意を理解し合うためには多大な思考の質と時間が必
 要だ。だから、せめて論ずるときに同じベクトル上では無理にしても、お互いの姿が見
 えて、その軌跡を予測できる近さ、同じ時間が必要であると思う。そういう面では同じ
 場所に集い、一問一答えの会話がいいのではないだろうか。
◆池田晶子や中島義道は貴方のいう通り、まず疑うことから思考を始める。そしてその結
 果自らの考え「否定」または「否定の否定」をはき出す訳だ。
 このたびに限らず、吟遊視人氏の文は、彼の頭の中で消化した考えはいままでに余り見
 たことはない。 長岡さんの言われる通り、友人などの考えをただ載せているだけで、
 彼自身がどのように感じたのかが全くわからない。 Yさんの行動に一番早く言及した
「読者の一人」に置いても、友人の意見を下敷きに投稿したものでした。
 彼の得意な時事問題にしても、新聞や週刊誌のどこかで書かている情報や考えからほと
 んど出ることはない。もちろん社会派的な意見を選択はしているが、独自の視点から論
 ずるというふうには感じられない。
◆人間はなぜ生きるかという命題にたいして、埴谷雄高は「自同律の不快」と言った。こ
 れはいまの自分に満足できないということだろうか、簡単に自己を固定化することがあ
 らゆる可能性を閉じることだと考えて不快に思ったのだろうか。じつに難しい言葉を吐
 いたものだ。
◆優しい人達の多い中、一方私は人の見たくないものを敢えて暴き出すちょう悪爺さんの
 役を演じようと思う。中島義道ほどの「人間嫌い」までは徹しきれないが・・・。



読書
2010/2/9

1.中島道義「人間嫌い」のルール 終了(16日が返却日)
2.池田晶子 14歳の君へ 終了
3.同上事象そのものへ!*1991初出版作品* 四分の一(9日が返却日)
4.バルトと記号の帝国  三分の一(9日が返却日)
「14歳からの哲学」から約三年後の著作だ。購入した本だから、ゆっくり読めばよかった
のが、なぜか読みたかった。「三年」を感じさせた。さらに優さしい表現、そして構成、
印刷の工夫もなされている。著者にとってはさぞや苦労と忍耐があったかと思う。著者は
14歳のみならず、大人に対しても「考えなさい、言葉はすごいものよ、言葉自体があなた
なのよ、言葉を大事にね、あなた自身が自然の一部、そして宇宙。」と、著者が最も苦手
する優しく判りやすい言葉で書き綴った作品だと思った。
*2006.12.25 『14歳の君へ』第一印刷
*2007.01.20 『14歳の君へ』刊行記念サイン会 リブロ池袋本店にて
*2007.02.23  死去
読んだ後で知りました。 万理久利2/8深夜記
追記:図書館へは行けそうもありません。池田読みかけは読み上げようと思っています。
                         2/9まだ明るい午後記



「煙滅」という本
2010/3/1

朝日新聞2010.02.28読書欄 煙滅 ジョルジュ・ペレック著
            塩塚秀一郎訳
 「評」:奥泉 光
これはとんでもない本であるという書き出しではじまる。どうとんでもないのかといえば、
1969年に発表された仏語の原作は、300ページを超える長さがありながら、「e」の文字
を一度も使ってない物である。いわゆるリポグラム(文字落とし)というやつなのだが、
仏語において「e」はもっとも出現頻度の高い文字であり、この制約は、日本語でいえば、
「い」段のかな「い、き、し、ち、に、ひ、み、り」を、「い」段に言っている漢字を含
め一回も使わないで書くのと同じくらい困難をもたらす。
そんなことをしてなんの意味があるの?と問うのは、小説を読んだり書いたりすることに
どんな意味があるのと問うこととおなじである。つまりそういうことをするものにこそが
しょうせつなのだ。小説は言葉のアートであり、だからそういうことをする意味が分から
ないという人は、小説でなく、「癒しの物語」とか「いい話」とかを求めているにすぎな
い可能性がある。



「邪馬台国の地」
2010/5/14

2010年3月28日の朝日新聞に面白い記事があった。
「日食ヒントか」邪馬台国の地−神話もとに天文学挑戦という長い表題である。
邪馬台国があったのは畿内か九州か、天文学の立場から論争に決着をつけられないかと、
国立天文台の2たりの学者が挑んでいる。
ようするに日本付近で皆既日食があった通り道を調べて、邪馬台国でそれが見えたのでは
ないかという推論をもとに調べた訳だ。推論の根拠は日本書紀で、天照大神が天の岩屋戸
に隠れ、辺りが闇の包まれたという神話の記述が具体的であることから、この描写は皆既
日食を差しているという解釈がある。岩屋戸神話は邪馬台国などの文明地で見られた皆既
日食に基づいているのではないかと推論した。
1〜3世紀には53年、158年、247年、248年の4回の皆既日食があったことは計算上わか
っている。
53年3月9日は約20分の誤差で畿内も九州も皆既日食が見えるという。その外の年代の皆
既日食は畿内も九州も見られないので外れである。
歴史を証明するのにこのように我々には思いも付かないような色々の手段があることをし
って嬉しくなった。それぞれの専門家が己の技術を生かして、違う分野の真理に迫ること
はじつに楽しいことだろう。今回は畿内か九州かまだ結論はでないが、そのうち何らかの
文献や痕跡が見つかれば、一遍に解決するかもしれない。とにかく全く視点を変えた歴史
へのアプローチに感銘した次第である。



「本能と知性」−ベルクソン
2010/5/15

岩波書店 思想12月号  フランス技術哲学の中のベルクソン  米虫正巳著より
ベルクソンは生命の進化において、動物の二つの分化が「本能(instinct)」と「知性
(intelligence)」という二つの能力の区別に対応しているという。
「生命に内在的な力」は物質に働きかけつつ自らを展開しようとするが、この力は有限な
ため、物質へ働きかける際して道具を作り上げ、その道具を介してより有効な働きかけを
行う」能力として本能を位置づける。生物にとって、「有機的な諸道具を利用し、構築さ
えする能力である」。
本能によって活動する生物は物質に働きかけるために道具を使用し組み立てるが、この道
具は「それを利用する身体の一部をなしている」ものである。生物は本能に基づいて自ら
の有機体的身体をそのまま道具へと変形して活用する。
それに対して知性とは,同じようの生命が物質に働きかけるために自らに道具を作り上げ
る能力ではあるが、自らの身体を有機的な道具として作り上げる本能とは異なり、「非有
機的な諸道具を製作し、使用する能力である」。
非有機的な道具を製作するということは、生物が自らの身体を変形して有機的な道具とす
るのではなく、非有機的な物質を加工して、それを道具へとつくりあげることである。
早い話が、人間以外の本能で動く生物は、鳥や魚や馬などは、飛んだり、泳いだり、走っ
たりする能力を自らの身体を加工して生きてきた。一方知性のある唯一の人間は、自らの
身体を加工することなく、洗濯機や自動車やパソコンなどの非有機的道具を作り上げるた
とういことである。このような定義は私に取ってなかなか面白いと思うのだが、うざった
かったかなあ・・・。



「サミュエル・ベケット」
2010/5/16

1906 年4月13日 - 1989年12月22日)は、アイルランド出身のフランスの劇作家、小説家、
詩人。不条理演劇を代表する作家の一人であり、小説においても20 世紀の重要作家の一
人とされる。ウジェーヌ・イヨネスコと同様に、20世紀フランスを代表する劇作家として
も知られている。1969年にはノーベル文学賞を受賞している。
   『名付けえぬもの』 『事の次第』 『伴侶』 『また終わるために』



三省堂へ
2010/6/17

昼休みに本を求めてお茶の水の丸善へいく。目的のものは在庫がなく、駿河台下の三省堂
まで足をのばす。散歩には坂道もありいい距離だ。それにしても今日は蒸し暑い。それと
もこの冬から寝汗をどっさり掻き、主治医に相談したら「微熱やだるさや他の症状が出な
ければ心配ない」とのこと。どうも考えて見ると糖尿病が発症してから汗を掻かなくなっ
ていたようだ。もともと古賀家は町田の伯父さんといい、私のお袋といい冬でも汗びっし
ょりになるくらいで、私もそれを受け継いでいたと思う。だから最近汗を掻くようになっ
たのは、昔の健康体に戻りつつあるのだろうか。
とにかく汗を掻き掻き三省堂まで行ってよかった。一冊だけまだ在庫があったので喜んで
買ってきた。ついでにもう一冊・・・。
佐伯一麦:「誰かがそれを」
岩波書店「思想」6月号:「来るべき精神分析のために」



本の紹介
2010/8/9

本『香水(パフューム)―ある人殺しの物語』 パトリック ジュースキント /著
出版社:文藝春秋 (2003/06)



誕生日
2010/8/10

今日は私の誕生日・69歳
8月8日銀座に行く。明日が私の69歳の誕生日だが、本屋に寄ってパウル・クレーの絵に谷
川俊太郎の詩を添えた「響きあう絵とことばのおくりもの」と言う題の絵本が気に入った。
細君は誕生祝いに費用を出すという。1500円
パウル・クレーについての私の知識は、近代建築の四大巨匠ル・コルビュジエ、フランク
・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてヴァルター・アードルフ・ゲ
オルク・グロピウス、そのグロピウスが創立したドイツの芸術と建築の学校「バウハウス」
で、クレーは関わっていたことから始まった。
建築においては造形や構造は言うまでもなく、色彩や配色およびテクスチャーのことまで
学ぶものである。私はクレーの写実的な描写や遠近感をあえて押さえた作品の二次元の世
界に封じ込めたフォルムや色彩のシュールさが好きだ。油絵の生々しい情念ではなく一種
の観念として凝縮させた静かな思想。そういえばクレーの日本画の蒐集は数十冊に及んで
いたという。やはりその影響で平面のなかに観念を封じ込めたのであろう。音楽家でいえ
ばブラームスのような抑制された表現を感じるのは私だけであろうか。

今日が本当の誕生日。8月9日。たいした関係はないが、長崎原爆記念日。
お茶の水に一月ぶりに散髪に行く。途中で近藤に会う。3メートルの至近距離で面と向か
ってもわからないで楽器屋に入っていった。私が濃いサングラスをしていたためか、5キ
ロやせたので面変わりをしたためか。それともあまりあたりを注意しないためなのか。ま
えから上の空の性格だったことは確かだ。楽器店のなかまで追っかけていった。ギターの
ピックを探しているらしい。肩をたたくとびっくりして「やせたなあ」といった。確かに
体重は減ったが、標準的な体重だと私は思っている。お茶でものむ暇があるかと問うたけ
れど、その時間がないということであったからすぐ別れた。
散髪のあと三省堂を覗く。岩波書店の月刊誌「思想」1800円と、今話題の「ハーバード白
熱教室」とおびに書いてあった、マイケル・サンデルの「Justice」という本を購
入。2300円。これはNHKの教育テレビで放送されていたものだ。これは自由主義と共和
主義の論争なのだ。



本の紹介
2010/8/23

岩波の「思想」
ヘイドン・ホワイト的問題と歴史学
W・G・ゼーバルト
「フィクションとは、歴史の抑圧された他者である」
アウステルリッツ(AUSTERLITZ)はW・G・ゼーバルトによる小説。「私」が旅先で偶然出
会った建築史家・アウステルリッツから、彼の波乱に満ちた生涯を聞く、という形式。他
のゼーバルトの作品と同様、写真やイラストが文章の説明という形ではなく、しかし引き
離すことの出来ない形で文章に寄り添っている。
2001年刊行。日本語訳は2003年、鈴木仁子訳で白水社から刊行。ISBN 4560047677



「英語支配を批判する」
??2010/9/5

2010/09/03の朝日新聞のオピニオンのコラムで、「幸せな奴隷」になってはいけない、気
づけば日本語が駆逐され周りが英語だらけでもいいのか、津田幸男筑波大教授は英語支配
を批判している。
「学校の英語教育はこれでいいのか。この夏さまざまな論が紙面に掲載された。英語が国
際共通語であり学習が重要だという認識は共通だった。しかし津田氏はそんな英語観は脱
するべきだと言う。英語は格差を拡大し、差別を生む道具になっている。
[happy slave」という英語がある。直訳すると「幸せな奴隷」。支配される側が支配さ
れていると観じない状態を言う。それが究極の支配である。ユニクロや楽天が英語を社公
用語にすると報じられているが、世間の人は「やっぱり英語は大切だ」と受け取り、英語
支配の構造が進んでしまう。中学・高校の英語は選択科目でいい。学びたい生徒だけが学
べばいい」と説いている。
私も生活の中で使いもしない立場の人が必死で英語を生涯学習するのを見るに付け、余計
な労力を使っているようであり、もっと大事なことを考える時間に回したらいいだろうに
と思ってします。単に日常会話程度でも一つの才能に見えてくるから不思議だ。しかしそ
のような人すべてが母国語で個性的な考えや思想を語れるという訳ではない。日本語でさ
え十分使えない人がなまじっかの英語でそのような思想を理解し語れるという訳ではな
い。まずは自国語を研鑽すること。英語などのメジャーな文化を崇拝することは、そうで
ないマイナーな文化はどんどん駆逐されて地球上から消滅する事になるだろう。そうなれ
ば画一化された価値観だけが残ってしまうだろう。
「楽天」などのIT産業は私に言わせれば、人間の生きる基本的な力を生み出すものでは
なく、いくら大きな会社にのし上がろうと装飾的な価値しか生み出していない。私にとっ
てはあってもなくてもいいような企業である。しかしその程度の会社ほどもてはやされる
のが現代だろう。



去りゆくもの三つ
2010/9/20

このところ色々の事が終わってゆくのを見るのは一寸寂しい。
一つ目はフロイト全集を頼んでいる近所の本屋が店を閉めると言ってきた。しかしどうも
腑に落ちないのは、その後に10月から別の本屋がそこに入るということだ。この文永堂書
店はこの土地で随分長く続いた店だと思うが、店仕舞いの理由が判らない。
二つ目は、東大の弥生門を出て目の前にあった「立原道造記念館」が休館するという新聞
記事を読んだ。詩人で建築家の立原道造は24歳で夭折している。同じ職業という感慨も
あって、東大構内を抜け根津や谷中への散歩の途中、その小さな記念館を何度か訪れた事
があった。彼の詩や設計された住宅は私の感覚に近いもので親近感を抱いたものだ。
それに加えて、まんざら縁も縁もないわけではない。大川組の高木君から、彼の奥さんの
姉がそこの館長をしているということを聞いた。一度なにか話しかけた記憶があるが、あ
の人だったのだろうか。歩くハイマーの会でいつか私が本郷界隈の担当として企画する時
には是非立ち寄るつもりでいたのだが残念なことである。
三つ目は、久しぶりに息子と三人で会食をするために電話をして、どこにしようかと問う
たら「天丸」が今月末に店を閉めるというから、最後の食事をそこでしようという事にな
った。「天丸」は永谷園の直営店で銀座6丁目の角のビルの地下にある店で、天ぷら屋と
しては旨くて安い店であった。どうもパイロット店として永谷園が宣伝のために安く提供
していたようだ。私達は銀座では天ぷらはここ、パスタ、寿司はこことリーゾナブルな店
を決めていたが、その一つが無くなることは寂しい。これ等の店は一見さんには見つけに
くい地下にあり、長い間営業するにはなじみの客を大事にするために安くて旨い店でない
と成り立たないということだ。



「UP10月号」着
2010/10/11

駿河台下の三省堂でウィリアム・トレヴァーの「アイルランド・ストーリーズ」の次の一
冊があるかどうか調べたら出版していなかった。
次に蓮見重彦の「表層批評宣言」を探したがこれも在庫がなく、岩波書店の「思想」10月
号を購入。帰りにインドカレーを食す。



「趣味と道楽の狭間で−合評の返事その1」
2010/10/15

長岡さんの言われるように「翻訳に潜む危険」はまさにその通りであると思います。
これはWeekly Caricature (週刊戯評)という別のサイトに万理久利さんが載せたもの
で、あまりにもぴったりした内容なので紹介しよう。
  「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格が
  ない」というレイモンド・ソーントン・チャンドラーが書いた「プレイ
  バック」という本の中で探偵フィリップ・マーロウが答えた有名な台詞で
  ある。すぐに私はwikiで調べてみました。原本の英語では
????If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be
  gentle, I wouldn't deserve to be alive.
????作中のヒロインから、「あなたの様に強い(hard)人が、どうしてそんなに
  優しく(gentle)なれるの?」と問われて。
????翻訳では
????●清水俊二訳は「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさし
   くなれなかったら、生きている資格がない」
????●生島治郎訳は「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、
   生きている資格はない」
????●矢作俊彦訳は「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなけれ
   ば生きていく気にもなれない」
   もう違っている。しっかりと、タフ微妙に違う。生きる資格がない、と生
   きていく気にもならない 、違う。
   翻訳は難しいし、読み手もそこを十分知らなければならないと思う。原書
   に当たるのが最高ですね。頭悪いし時間減っている私には無理だな。
   でも原書と翻訳、この違いだけは認識していたいと思います。

さて、本文のなかでの英語との対比について考えて見よう。
道楽: a loose life, debauchery, profligacy
       放蕩、不品行、浪費
これを見てもどうも日本語の「道楽」に対しての英訳、あるいは和訳において
も私の考えている意味にどうもぴいったしといかないと思ええた。 a loose
lifeのなかに「道楽」という行為の説明を読み取る事は出来ないのである。こ
れは辞書を作る人の考えや感覚で対比させる言葉を選んだとしか思えない。だ
から別の人だったら別の対比をしただろうと思った。
そのように翻訳されたものが果たして完全であるかは保証がない。同じ日本語
でありながら受け取る感覚は人様々であるから、用語の定義もまた難しいもの
がある。



読みたい本
2010/10/29

「流れとよどみ-哲学断章」大森荘蔵 産業図書
「忘れられた日本人」   宮本常一 岩波文庫
「論理哲学論考」 ウィトゲンシュタイン  岩波文庫



「アラン全集」
2010/10/30

今日は台風で雨。5年前この山荘を造るときから台風に縁がある。東京から現場に出かけ
るときはいつも台風がついてきた。だから慣れっこになっていて、折角の行楽に水を差さ
れてがっかりするという思いは余りない。返って一日中家の中で薪ストーブを炊き、昔の
髭面の己の姿をアルバムのなかから見つけ出したり、昔買った本への新しい興味を見いだ
したりと結構楽しいものだ。
私は本棚から褐色になって古びたアラン全集10巻を見つけ出した。「梁山泊」の仲間の
一人で、早世した徳重君が高校生のときにアランのことをよく話題にしていたのを思い出
した。彼がその時点でどれだけその本を詳しく読みこなしていたのか判らないが、体の不
調や親との確執などの数々の悩みを背負い込んでいた彼は、生きるための本質を掴みたい
という思いに駆られていたのだろう。
アランはペンネームで本名はエミール=オーギュスト・シャルティエといい、フランスの
リセ(高等学校)の教師となる。 過去の偉大な哲学者達の思想と彼独自の思想を絶妙に
絡み合わせた彼の哲学講義は、学生に絶大な支持を受け、彼の教え子達の中からは、後の
哲学者が多く輩出されている。女流哲学者のシモーヌ・ヴェイユは彼の教え子。
彼はまえがきで「もしこの本がだれか職業哲学者の批判の対象となってとやかく言われる
ようなことがあれば、そう考えただけでも、書きながらみいだした生き生きした喜びは台
無しにあるだろう。喜びというものがまれな今日このごろでは、書くよろこびといものが
本をつくる理由だと、私にはおもわれる」といっている。
それにしても、このような生活の中での、「記憶」「想像力」「自己愛」「野心」「誠実」
「正義」「時間」「空間」の身近なことの認識について、をフランスでは高等学校ですで
に教えていることに驚く。さてすこし私も腰をすえてもう一度読み直してみよう。



古本探し
2010/11/11

お茶の水の丸善へ注文していた冊子表紙用の厚紙を買いに行く。
ついでに駿河台下の東京堂まで行って次の三冊を購入。先日三省堂で在庫を調べて貰った
が無かったので、神保町書籍案内のインターネットで調べたら東京堂にあるとのことだっ
た。三省堂でも無い本があるのだなーと思った。もう一冊の蓮實重彦の「表層批評宣言」
は出版社でも品切れというので、結局は手にはいらなかった。古本屋を探すほか無いだろ
う。
「流れとよどみ-哲学断章」大森荘蔵 産業図書
「忘れられた日本人」   宮本常一 岩波文庫
「論理哲学論考」 ウィトゲンシュタイン  岩波文庫
帰りに50周年記念の同窓会のために散髪屋に言って帰った。
このたびはご注文いただき、誠にありがとうございます 。
注文番号: 822197
商品名: 表層批評宣言
価格: 1000円
著者: 蓮實重彦
出版社: ちくま文庫
出版年: 1995年
二十世紀文庫
227-0054 神奈川県横浜市青葉区しらとり台11-11-1209
E-mail:ADS02715@nifty.com
Tel:045-983-8276 Fax:045-983-8276




2010/11/16

ホルヘ・マリオ・ペドロ・バルガス・リョサ(Jorge Mario Pedro Vargas Llosa, 1936年
3月28日 - )は、ペルーの小説家。アレキパ出身。ラテンアメリカ文学の代表的な作家で
ありジャーナリスト、エッセイストでもある。主な作品に『都会と犬ども』『緑の家』『世
界終末戦争』など。1976年から1979年、国際ペンクラブ会長。2010年ノーベル文学賞を受
賞。「緑の家」木村栄一訳 岩波文庫 「嘘から出たまこと」 寺尾隆吉訳 現代企画室



「天声人語−言葉」
2010/11/27

2010/11/26日の天声人語に言葉について興味ある記事があった。
「この頃の国会の議論はまるで「ヒステリック症候群」的で「大げさな物言いや、汚い言
動で罵倒」する場面が多く見られる。言葉は魔物だから、自ら言い募るほど自ら酔っぱら
う。ゆえに言葉はますます尖って、盛大になるが、言っている当人の人望は下がるばかり
だ。清水幾太郎の名著「論文の書き方」に次のような一節がある。
「無闇に激しい言葉を用いると、言葉が相手の心の内部へ入り込む前に爆発してしまう。
言葉は相手の心の内部へ静かに入って、入ってから爆発を遂げた方がよいのである。言葉
は慎ましいものに限る、とこの碩学は言う」とある。
高見から見下ろすような侮蔑的なもの、相手を揶揄して己の優越を暗にしめすものなどの
悪意を感じさせる感情的な言葉は発しないように私も心しよう。



84α編集部:2014/03/15(土) 11:24:09
[JUSTICE]を読んで
.
           [JUSTICE]を読んで??2010





「誕生日」
2010/8/9

今日は誕生日。8月9日。たいした関係はないが、長崎原爆記念日。
お茶の水に一月ぶりに散髪に行く。途中で近藤に会う。3メートルの至近距離で面と向か
ってもわからないで楽器屋に入っていった。私が濃いサングラスをしていたためか、5キ
ロやせたので面変わりをしたためか。それともあまりあたりを注意しないためなのか。ま
えから上の空の性格だったことは確かだ。楽器店のなかまで追っかけていった。ギターの
ピックを探しているらしい。肩をたたくとびっくりして「やせたなあ」といった。確かに
体重は減ったが、標準的な体重だと私は思っている。お茶でものむ暇があるかと問うたけ
れど、その時間がないということであったからすぐ別れた。

散髪のあと三省堂を覗く。岩波書店の月刊誌「思想」1800円と、今話題の「ハーバード白
熱教室」とおびに書いてあった、マイケル・サンデルの「Justice」という本を購
入。2300円。これはNHKの教育テレビで放送されていたものだ。これは自由主義と共和
主義の論争なのだ。





[JUSTICE]を読んで−その1
2010/8/17

 まだ三分の一も読んでいないのだが書いてみた。
このごろは目が悪いせいか2ページも読むと眠くなり、蝸牛の歩みにブレーキを掛けたご
とく、なかなか捗がいかない。このままだと夏休みの宿題は期日内に終える自信はないの
である。しかし途中での報告は、私が感じ続けていた疑問の答えらしきものをつかんだよ
うに思えて記録したいと思った。その疑問たるや、今年の始めの同人α騒動におけるG君
やOさんの言動に対しての私の疑問がはっきりと見えてきたからだ。

 功利主義を確立したジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」は今の社会にもまだ
基本の理論として生きている。菅総理が唱える「最少不幸社会」を目指すということは、
「最大大多数の最大幸福」の学説をひねって言ったものであろう。
それは「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきであ
る」という意味である。しかし「JUSTICE」の著者マイケル・サンデルは幸福を数値化し
て総和を測ることに疑問を呈する。幸福が人によってその質や量がそれそれ違うのに、そ
のような方法でおしなべて判断していいものか、そしてその結果少数派を単純に切り捨て
ていいものかと疑問を呈している。ベンサムそのような問題点を補完したのがジョン・ス
チュアート・ミルで、彼は晩年は自ら社会主義者を名乗っている。
 功利主義と反対にアメリカには自由至上主義{リバタリアニズム}という思想があり、
何事も自己責任のもとに自由である。政治や社会が個人の行動を規制すべきでない。個人
の自由を侵してはならないという主張である。だから社会がベンサムやミルのような最大
幸福を目指すために富の分配において公正を考える必要はないということだ。たとえばア
メリカのライフル協会が、自分の身を守るためには自分自身であるという信念のもとに、
銃をもつ権利を手放さないように。また金持ちが民衆の石油や穀物などの困窮を全く気に
掛けないで、投棄に走り大金持ちになるという自由競争を是とするように。公的医療制度
などで個人の自由を制限され管理されるのはいやだという考え。陪審員制度さえ公的専門
家{判事}に任せるのはいやで、個人として裁判の課程を見極めなければ気が済まないと
いう、自由至上主義的個人主義の考えが根底にあるようだ。

 さて最初の枕部分の問題にもどると、「何でもあり、自由がいい」と主張して同人αの
規約の改正に対論することなく絶対反対した訳だが、はたして彼等が唱える「自由」がど
ういうものであったかはいろいろの論評をみていて、彼等の主張するものが時と場所で違
うという破綻を示している。
まさに彼等がいう「自由」とは、多様な人を受け入れて公正な運営をすることではなく、
自分に都合のいいものだけ取り入れて異端や異論を排除するというもので、まるで自由至
上主義{リバタリアニズム}に通ずるものである。
しかし一方彼等は自分たちは弱者側に立っているという姿勢を強調し、世の中の富の配分
の不公正や不条理について正義を振りかざして熱っぽく語っている。まるで自分だけが月
光仮面のおじさんだと自負しているかのように。
ようするにかれらは自由至上主義と功利主義とを時と場面で使い分けているというダブル
スタンダードなのだ。意識的にそれとも「自由」という言葉の深い意味を考えてみたこと
もないという無能なためなのであろうか。
 「JUSTICE」の本の結論がどのようなものになるかはまだ判らない。しかしマイケル・
サンデルは自由至上主義よりもよく機能している功利主義にしても、道徳や正義などとい
ったあいまいなものを除いた純粋な理論だけでは現代の多様な世界の現象に対処すること
は出来ないのではないかという問題を投げかけていると、私は憶測している。





[JUSTICE]を読んで−その2
2010/8/29

 代理出産契約と正義・臓器提供などの倫理の問題・富の分配などの平等の問題、現実に
起きている多くの問題は、裁判の一審で出た判決でさえ二審ではまったく反対の決定がな
される昨今である。
それは自由、正義、平等、道徳、倫理、幸福、義務、責任などの解釈の仕方で結果が分か
れもので、この本はそれらの事象をどのような解釈が正義にかなっているか、またどのよ
うな社会のシステムがよりよいのかという問題を取り上げ、それを皆に問いかけている。
その道徳や自由のよりどころについてカントの考えを述べると

道徳の最高原理
 対比その1(道徳):義務 対 傾向性
 対比その2(自由):自律 対 他律
 対比その3(理性):定言命法 対 仮言命法

対比その1(義務対傾行性)は行動に道徳的な価値を与えられるのは義務の動機だけだ。
対比その2は人間が真に自由といえるのは、意志を自律的に決定しているときのみ、すな
わち自分が定めた法則に従っているときのみだ。
意志の他律とは、外部の要因、つまり自分以外のものに従って意志を決定することだ。真
の自由とは、自然の必然性や物理の法則、因果律などに支配されない、自らに課した法則
によってなされたものだ。
その法則とは、人間は感覚がもたらす快楽や苦痛に支配される感性的な存在であるだけで
なく、合理的に推論できる理性的な存在でもある。もし理性が私の意志を決めるなら、そ
の意志は事前や傾向性の命令にとらわれずに選択できるはずだ。
カントが考える理性、道徳にかかわる実践理性は、道具としての理性でなく「いっさいの
経験的目的にとらわれずに、ア・プリオリに法則を定める純粋実践理性である」

定言命法: 「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せ
よ」カントはこの定言命法が自由の表明であるという。
仮言命法:「〜ならば、〜せよ」という他律的な意志決定。

とは言え現実の世界では、カントの定言命法に従って行動出来る人はまれだろう。むしろ
己の既得権や名誉や有利な立場を守りたいという仮言命法による主張の人が大勢を占めて
いるだろうから。政治の世界では定言命法は現実には存在しえないと思われる。しかしあ
えて言えばこのような至高な理念は無視してはならないと私は思う。どう解釈していいか
判らなくなった時の判断の規範としてはたとえそれが抽象的で現実的であり得ないもので
あっても絶対必要だと思うのである。また時代や環境などにより変化する価値観に左右さ
れることのない規範は、定言命法のような観念的な定義のしかたしかあり得ないのではな
いだろうか。この [JUSTICE]という本がはたしてよりよい社会システムを提案しているの
かは読み終えていないのでまだ判らない。





[JUSTICE]を読んで−その3
2010/9/9

◆中立への切望
??現代の民主的社会に生きる人々は、道徳的・宗教的問題に突いて意見が一致??しない。
 そのうえ、そうした不一致は合理的だ。「十分な理性をもつ良心的??な人格が、自由に
 討論した後でさえも、全員同じ結論に達することは期待で??きない」

◆正義と善良な生活
??正義に対いする三つの考え方を探ってきた。

??第一の考え方
  正義は功利性や福祉を最大限にすること。
  最大多数の最大幸福を意味する。
??第二の考え方
  正義は選択の自由の尊重を意味する。
  自由市場で人々が行う現実の選択(リバタリアンの見解)であれ、平等な 原初状態
  において人々が行うはずの仮説的選択(リベラルな平和主義者の見解)であれ。
??第三の考え方
????正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる。マイケル・
  サンデルは第三の考え方に属していることをここで表明している。功利主義的な考え
  方には欠点が二つある。
?? 一つ目は、正義と権利を原理でなく計算の対象としていること。
?? 二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、 平らに
  ならして、個々の質的違いを考慮しないこと。

◆共通善に基づく政治
 1.市民権、犠牲、奉仕
????公正な社会には強いコミニティ意識が求められているとすれば、全体への配慮、共通
  善への献身を市民のうちに育てる方法を見つけなければならな。
 2.市場の道徳的限界
????国家が兵役や捕虜の尋問を傭兵や民間業者に委託する場合。
????親が妊娠と出産を、発展途上国で報酬と引き替えに分娩する人に外注する場合。
????公開市場で腎臓を売買する場合。
????このような問題で問われるのは、効用や当事者の合意があれば良いというだけではな
  い。
????善の価値を判断する正しい方法について、対立するさまざまな考え方を公に論じ、社
  会制度を律する基準が市場によって変えられるのを望まないなら、我々は市場の道徳
  的限界について公に論じる必要がある。
??3.不平等、連帯、市民道徳
????貧富の差があまりにも大きいと、民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれる。
????一つは財政的、もう一つは公民的悪影響だ。功利や合意に及ぼす影響とはまったく別
  に、不平等は市民道徳をむしばむおそれがある。
??4.道徳に関する政治
????善良な生活の問題に公共部門が関与するのは公民的逸脱であり、リベラルな公共的理
  性の範囲を超える行為だと見る人もある。多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して
  意見が一致しないものだ。それにもかかわらず道徳的不一致にたいする公的な関与が
  活発になれば、相互的尊敬の基盤は弱まるどころか、強まるはずだ。われわれは、同
  胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、ときには耳を傾け
  るべきだ。

 マイケル・サンデルは最後に道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた
理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。といっ
ている。
 私はこの本でいろいろの事を学んだ。そして今まで世界の自由主義のシステムを引っ張
ってきたベンサムの功利主義や自由至上主義だけでは成り立たなくなっていることを知っ
た。いま世の中の価値観の多様化で意見が一致しなくなり、まさに新しい手法を見つけ出
す必要があることも判った。マイケル・サンデルは具体的な理論や方法を見つけ出した訳
ではないが、その方向を示唆したことは確かだ。



85α編集部:2014/03/15(土) 11:53:24
「喪の日記」/ロラン・バルト
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        「喪の日記」/ロラン・バルト??2010





「喪の日記」
2010/1/26

今日三省堂にどうしても欲しかった本を買いに行った。ロラン・バルトの「喪の日記」み
すず書房 3,300円である。ついでに「ロラン・バルト最後の風景」水声社 2,000円を併
せて買ってきた。「喪の日記」は一週間前に立ち読みで、その言葉の響き、意味の深さに
惹かれたのだが、そのときは諦めて帰った。しかしどうしても欲しくなったのである。し
かしそれが立ち読みの時感銘を受けたそのものかどうかを、そしてこれらがかたして私の
文章に影響を与えるだろうか確かめよう。




      喪の日記を書くバルトともう一人のバルトの風景 Y.コバルト
      2010/1/27

      <新生>の風景・・・ロラン・バルト、コレージュ・ド・ フランス講義
       原 浩之著 冬弓社
      子宮邸に蟄居し、考えるか、本を読むか、寝てるか、パソコンに向かう日々
      が続きます。至極のときです。
      1976年?から交通事故で死ぬ(実際は持病)1980年の間の彼の講義メモ、ノ
      ート、メモを詳細にあたり、他の作品や、彼に影響を与えた様々な作家にも
      触れている、私にはカタカナの多い難物でした。吸い込まれるように読みき
      りました。
      「喪の日記」タイトルが鍵となったのでしょうか、それとも赤松さんが目を
      留めて散財した事実が鍵となったのでしょうか。いずれにせよ、昨日決めた
      「読む順番」はドンピシャリでした。人間追い詰められると嗅覚が効くので
      しょう。
      「言葉、文、短くて美しい、深い」こんな意味合いの感想を赤松さんは述べ
      られていました。何やら、マザコン男のメソメソ日記だけではない何かがあ
      る・・・これも感でしょうか。彼は聡明で強い男です。言葉と表現の自由に
      ついてどう守るべきかについても考えています。老いつつあっても常に前に
      飛び出す、再出発の決断もできた。
      彼は母を失ったことで、それまでの小説を書くということ、文体と言語の間
      にある「エクリチュール」についての思索をさらに深め決断の講義を行い続
      けた。(1977年就任講義には母も参加この数ヶ月先に失う)権力の言葉によ
      る統制(創る、または強制削除、放出)に対し見抜き、言葉で糾弾し続けろ
      と皆に語りかける。過去と断絶して新しく生きる、作品を創ることを選んだ
      のだと思った。講義は「これから作品を書こうする皆へ」の語りかとなるが、
      自分自身の声明でもあった。バロンさんの最後はあっけなかった。それでも
      著者のように違う言語使う東洋日本から講義に参加し、何かに魅せられて本
      を出版してしまう人が居て、私がそれを開き読んだ。著者いわく、この講義
      こそが大作品、大演出だったのだと。まあ、私も著者も褒めすぎや勘違いが
      多いのかもしれません。 自称アナーキー、バルトさん苦笑いか舌出してる
      かな?「ママン」と遊んでるかな?
      「金にもならないのになぜ書くのか」
      「読まれずにゴミとなるのになぜ書くのか」
      「文章を作るということはどのような作業なのか」
      そんな疑問をかかえる私の頭の整頓と刺激になりました。
      追記
      ●フランスが自国語に誇りと拘りを持つ国であることは知っていましたが、
      裾野が広いのですね。
      ●「ウィキペディアの世界」、「コレージュ・ド・フランスの自由な気質」、
      「バルトさん の文学におけるジャンルの解放」何か共通するものを感じま
      した。
      ●バルトさん面白いことに触れていました。作品に取り掛かっているとき読
      書は極力控え る。時間がもったいない。読むとしても下らないものか、自
      分の作品とできるだけ離れ たものにする。
      ●彼は今のネット世界を想像できただろうか。今生きていたら何を考えるの
      だろう。


      ロラン・バルト   Y.コバルト
      2010/1/28

      K氏は確か仏文?私は読後K氏もきっと彼の作品読んでいるのではないかと
      思いました。機会があたら何気なく聞いてみてください。
      R子さんもフランスだ。彼女は南フランスの田園で淡々と呼吸をしているの
      だろう。バルトや、ニーチェや埴谷みたいにもがき苦しまないで自然体で生
      きているのだろう。彼女なりに考えて選んだのだろう。

      「創生」の中での言葉についての個所、触れておきます。時代背景、訳者の
      センスによって微妙に変わるものだと思いました。キリスト教で七つの大罪
      の一つである「怠惰」:(無為)も。近代化が進む中で「勤労は美徳」「怠け
      は罪」とのレッテルを貼られた。ニートもひとくくりで「悪怠惰」とされて
      いる。そういえば、大日本帝国も、戦意を煽るため色んな言葉を作り出した。
      今すっかり消滅。

      バルトの「怠惰」の捉え方:「無為」あるいは「閑休」

      バルトの「倦怠」の捉え方:精神の非活性化状態

      バルトの「倦怠と創作の関係」:
      芸術は反=倦怠の優位であり、芸術は脱=倦怠の境位である。私は怠惰と無
      為と閑休と倦怠のオンパレードです。
      赤松さんがバルトさんの日記に何か魅了されたとしたら、一つ一つの言葉を
      検証し簡潔に繋ぎ合わせたからではないでしょうか。彼はずっと挑戦してき
      たのです。飛ぶ前の準備運動。意外とその時に思わぬ予想だにせぬ力が出る
      ものです。消えていく言葉があれば、時代に影響されず残り続ける言葉もあ
      る。まか不思議。全てその時代を生きる人間の「繋げて行きたいとの意思」
      なのかとも。赤松さん、狭い場所ですが、意思表示し続けてください。




無題
2010/1/28

◆昨日中島義道の「人間嫌いのルール」を読み終えました。作者は徹底的に虚栄や義理や
 人情などの嘘やおもねりを嫌っています。池田晶子に似て、純粋に己の心に正直に生き
 ていることが判ります。それが付き合いが悪かったり、愛想がなかったり、同情しなか
 ったり、とにかくこの本の通りに「人嫌い」になることは相当の覚悟が必要です。
 たとえば 同情ということについて
 同情の四重の非道徳行為である。
 1.同情を求めるルサンチマンの共同謀議であるゆえに
 2.相手を見下ろしているゆえに
 3.それにもかかわらず見下していないと自分を欺くゆえに
 4.その結果、自分はよいことをしたと満足し自己愛を満たすゆえに
◆なぜ私は書くのか書かないではいられない、書かなければ生きていけない、書かなけれ
 ば実存の確認ができない。ということで、人のために、人の評価を得るためにではない
 と私は思っています。だからテーマがないという人がいるが、じっくり自分の心の内や
 身の回りを観察すれば、テーマはそこらじゅうにあるのではと思います。
◆少しばかりロラン・バルトの「喪の日記」を読みました。自分の心模様を記述するのに、
 私が思いつかないような言葉、隠喩、たとえば「日曜の朝のやわらかさ」




ロラン・バルトを読む
2010/2/8

ロラン・バルトの「喪の日記」を読み終わる。母の死から書き起こされた喪失感を綴った
もので、決して壮絶なとか沈痛なといった激しい感情の言葉ではないけれど、心に沈む言
葉の響きがある。「わたしの悲しみは説明できないが、それでも語ることはできる」そし
て「この悲しみをエクリチュールに組み込むこと」の出発点になった。
エクリチュールとはWikipediaより
パロール(話し言葉)に対して用いられる、哲学用語の一つ。現代に入ってエクリチュー
ルとパロールの二項対立とその差異に注目したのはフランス現代思想家のジャック・デリ
ダである。よって哲学思想においてエクリチュールと呼ぶときは、まず西欧社会のパロー
ル本位主義(音声中心主義)に潜んでいた倒錯を暴くためのシステムが問題となる。それ
は脱構築のための最初の手立てであった。
2月6日 2010サークル合同新年会兼50周年記念同窓会決起大会のあとpm5:00より岩波ホー
ルで「カティンの森」を観た。その後神保町すずらん通りの食堂で餃子を食べる。田村・
諸石・北島の四人。
カティン事件とはWikipediaより
1941年頃ソ連国内のスモレンスクに近いグニェズドヴォ(Gnezdovo)村近くの森で約4400
人のポーランド軍将校捕虜・国境警備隊員・警官・一般官吏・聖職者がソ連の内務人民委
員部(秘密警察)によって銃殺された事件。日本ではカティン事件またはカチン事件とし



      「ロラン・バルト」  Y.コバルト
      2010/3/28

      3月25日はロラン・バルトの命日でした。あまりそのようなことにこだわ
      らない赤松さんかと思いますが。私は気になる人の「初めと終わりの日」は
      気になりまります。彼が作った創生の小説を是非読みたかった。期待を残し
      て逝くところなどは、なかなかのもの、かとも。誰かにバトンタッチできれ
      ばと、宇宙のどこかで考えているのかもしれません。彼は絵も書いていた。
      お時間があるときに下記サイトご参照ください。コメントもついています。

      「電話」で話す、「会って」話す(話し言葉)と 「文章化」(書き言葉)。
      その間にあるのが「メール」でしょうか。私が今取り組んでいる課題です。
      ヒントになりました。おまけに絵まで登場。私にとってはなかなか読み応え、
      見応えがありました。何となく佇まい、赤松次郎と似ているように思えまし
      た。「色の音楽・手の幸福――ロラン・バルトのデッサン展」京都大学
      http://www.rakastava.com/articles/article3.html





「ロラン・バルト」
2010/3/30

いまソシュール研究の第一人者である丸山圭三郎の「言葉とはなにか」の最後の部分中尾
浩の「解説・丸山圭三郎・ソシュール・文学」を読んでいたらロラン・バルトが出てきま
した。それは次のような文章です。
丸山が好んで採用するバルト(Barthes,Roland)が「当人達の内部に、ある乱れ、わなな
き、狂気、妄想、屈折が検出されるような、そういう科学者たちが、彼(バルト)は好き
だった」
この本は半年前神野佐嘉江君から借りたもので,もし興味があったら又貸しを了解しても
らいましょうか。このところ軽薄な輩がつかう言葉に、そんなに単純なものではないと、
いささかうんざりしていたところでした。
シニフィアン、シニフィエ、共時態、通時態などの言葉も知りました。神野佐嘉江君はこ
れらの言葉もすでに知っていました。電話の会話のなかで共時態、通時態などの言葉にす
ぐに反応するということば、確実に理解しているということでしょう。
そういえば彼は大学の仏文で立花隆と同じ机を並べて学んだと言ってましたから、知って
いるのは当然ですね。
ロラン・バルトのサイトを見ました。解説もよかった、彼の絵もまたよかった。抽象的な
スケッチも私好みで、具象では彼の思い「ある乱れ、わななき、狂気、妄想、屈折」を表
現することは叶わないのでしょう。



86α編集部:2014/03/16(日) 00:49:00
私の七つ道具
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????????        私の七つ道具?? 2009-2014






私の七つ道具−その1「老眼鏡」 2009/9/13

年齢を重ねると一財産を抱えて外出しなければならない。若い頃は精々一つか二つで済ん
だものをと愚痴の一つも言いたくもなるこの頃である。一つでも忘れると本も読めないし、
車内の人の表情を面白く観察することも出来なくて退屈だ。だから私はいつも七つ道具を
黒い鞄にいれて出掛ける。上着を着る季節はいいが、夏になるとズボンのポケットではと
ても収容できないからだ。

1.老眼鏡
 もともと近視だったからそう強い老眼ではなかったが、50歳の初めころから使い始め
たと記憶する。丁度ヨーロッパ旅行から帰った年に永代橋の袂のマンションの一室に事務
所を構えた。20?ほどの小さな北向きの部屋で、毎日墨東の南砂からバスで30分かけ
て通った。時間があれば門前仲町で降りたり、そうでなければ一つ手前の佐賀町あたりで
降りて永代橋を歩いて渡るのが習慣だった。橋の上から見る佃島方面の水の拡がりと高層
マンションの林立景色はいつも私の気分を爽快にさせた。仕事が終わる夕方になると、ふ
わふわした白いものが視野一杯に拡がり、ついには見えなくなってしまったのが老眼を意
識した始まりだった。
 それから60代の初めの頃までは裸眼で新聞を読めたが、糖尿病を患うころから急に見
えなくなった。白内障のせいもあるのかも知れないが、最近は老眼鏡でも補正できなくな
って、12ポイントの活字以上でないと読めない。だから文庫本の6ポイントの文字はル
ーペでも駄目になった。いつも本屋で読みたい本を買ってはくるものの、快適に見えずに
非常な努力を必要とするから、この頃は毎日の新聞以外は殆ど読書をしていない。




私の七つ道具−その2「ポケットナイフ」 2009/9/14

2.ポケットナイフ
 ビクトリノックス社の十徳以上の大型のアーミーナイフも持っているが、やはり常時持
ち歩くには小型のものがいい。ハサミ、ドライバー、ナイフ、ピンセット、爪楊枝の五徳
である。西洋のは必ずワインオープナーが付いているが、私はワインを止められているか
ら、それは必要ない。
最近はデジタルカメラ画像、MP3ファイル、メールデータなどパソコンへデータを持ち
運びしようとする時に手軽に記録できる保存メディアとして、4GB-16GBフラッシュメモ
リーがついているものもあるという。
 滅多に本郷から出かけることはないが、たまたま遠出したときに大地震が襲ってきて家
に歩いて帰らなければならなくなったら、このちっぽけなポケットナイフが命をつなぐた
めに大いなる力を発揮するだろう。




私の七つ道具−その3「万年筆」 2009/12/7

3.万年筆(モンブラン−マイスターシュテュックNO.146).
 真っ黒の胴体に金色の帯があり実に優雅なスタイルをしている。ちなみにモンブランを
検索してみると、モンブラン(Montblanc)はドイツの筆記具メーカーである。高級な万
年筆を販売することで知られている。製品には、アルプス最高峰モンブラン山の頂きを覆
う雪をイメージした、白い星型のマーク「ホワイトスター」が付くことで有名。代表的製
品であるマイスターシュテュックのペン先には、モンブラン山の標高"4810"が刻まれて
いる。
 これを購入したのは、バブルのころ私にも一寸実入りがいい時があって、なんだかおが
使いたい衝動に駆られて、思い切って買ったものだ。憧れの万年筆を持つと、何だか自分
のくせ字が妙に味のある物に、何でもない手紙文が非道く情緒的に人の心を打ちそうに思
えるから不思議だ。
 私は以前はロイヤル・ブルーの明るい色に惹かれていたが、今は歳相応に落ちついたブ
ルー・ブラックのインクを使っている。しかし水性ボールペンの便利さ故に仕事で使って
いて、すっかりそのモンブランを忘れ、引出の奥にしまい込んでいた。ある時思い出して
郷里に戻ったときに、日記を書くのにこのモンブランが親孝行の証となって、年老いた母
のもとに置いてきたことがあった。その後それを愛用してくれたかどうかは確かめたこと
がないので判らない。
 母がなくなって、私はこれだけは取り戻してきた。今はボールペンのタッチの堅さと違
い、ちょっと太めの文字とペン先の柔らかさ・撓りが気に入って、また思い出したように
使い出した。

写真は七つ道具1番の老眼鏡、2番のアーミーボケットナイフ、3番のモンブランの
万年筆

       





私の七つ道具−その4「帽子」 2009/12/24

4.帽子
 戦前までは庶民でも大人は帽子を愛用していた。ソフト帽やカンカン帽など一種の上着
やネクタイのようなもので、外出時には改まった姿と思われていた。それが戦後は何処へ
いくにもジーンズにTシャツのすますようになったことで改まった服装という観念もなく
なったかもしれない。そこでまたWikipediaを紐解くと「歴史的には特定の頭部の装身具
は、その人物の社会における身分を示すこともある。詳しく用途を記すと次のとおりにな
る」とある。

* ドレスコード・エチケット
* 制服の一部(制帽・軍帽・官帽など)
* 夏場の直射日光による熱中症を避ける為の日除け(防暑)
* 防寒
* ファッション
* 昆虫、衝撃、飛来落下物、危険物、毒劇物などからの頭部保護
* 髪型の保護
* 宗教上の戒律
* 禿を隠す
* 商品広告(主にプロスポーツ選手)
* 手袋と組で、貴族性を象徴(女性皇族・王族は被っていることが多い)
* スポーツ(特に野球)の応援
* ジャグリングの道具として

 父親が戦後も正装して出かけるときはソフト帽を、普段の外出にはチロルハットなどを
被っていた影響で、私も帽子好きになったようだ。しかし少々恥ずかしいような気分もま
だ残っているが、古希に近づいている訳だからもう堂々と被ってもいいと思いようになっ
た。また必要性からいっても夏のカンカン照りの日はやはり帽子を被らないと、頭が熱な
って熱射病になりそうである。今持っている帽子の種類はパナマ帽から麦わら帽子、ハン
チング、船員帽、テンガロンハット、キャンプ用防水ハット、野球帽、ベレー帽、スキー
帽などである。次は父親の被っていたボルサリーノ社のらくだ色のソフト帽を銀座のトラ
ヤで思い切って買おうかと思っている。




私の七つ道具−その5「ステッキ」
2014/2/27

5.ステッキ帽子
 私は最初ステッキをハイキングや山登りの目的のために購入したもので、 神田小川町
の L−Breath 御茶ノ水店で求めたと記憶する。しかしその後山荘に移り住んでみると
別の目的が加わった。すなわち歩行用の手助けだけではなく、猪や猿、鹿、熊のための護
身用として必要になったわけだ。そもそも一昔前の時代では西洋でも日本でも護身用とし
て使われ、 シャーロック・ホームズも格闘技バリツというステッキ護身術なるものも駆
使したという。
 いま私が使用しているのは葡萄色のKIZAKI社の三つに収納できるTrekking &
Walking Telescope Shaftという製品だが、もうそろそろ銀座タカゲンに行って正当なス
テッキを購入したいと思っている。しかしラウンド握りスネークウッドステッキに至って
は80万円近くするから選ぶのに悩ましい限りだ。勿論木の種類や握りの部分に銀や水牛
や白蝶貝などの装飾を施したものでなければ、1万円弱からあるのではあるが・・・。

写真の銅製の作品はcoppers早川(早川 篤史・克己(親子))氏の作品で、作品名を「ス
テッキ」−F091といいう。彼等の個展を覗いた日に購入したもので、私の放浪癖の生
き様に似ていると勝手に共鳴して購入したものだ。

     





私の七つ道具−その6「ルーペ」
2014/3/11

 ルーペも色々の種類がある。最も典型的な丸形の手持ちタイプ、繊維や印刷物の検査に
用いるリネンテスター、眼窩に挟み込んで使う時計見、双眼ヘッドルーペ、スタンドルー
ペ、薄くて軽いフレンネルルーペ、折りたたみルーペ等々。また倍率も1.6〜100倍くら
いまで多様多種である。

 私は過日、広告などの説明文、保険の契約書、電化製品に張ってあるラベル、ポイント
6号で書いてある書物等の小さい文字など、今使っている老眼鏡では見えなくなった。
なみに今の老眼鏡ではポイント12号以上でないと満足に読めない。だから願わくば新し
い度の強い眼鏡を求めたいと思った。だが時すでに遅し、残念ながら自前の目はもはや収
縮する筋肉が老化していて、眼鏡での補強で視力回復は出来ないことが判った。

 そこで必要になったのがルーペである。所謂拡大鏡、虫眼鏡、凸レンズの助けを借りる
ことを思いつき、お茶の水駅前にある丸善のステイショナリー店で求めることにした。
私はその中からドイツ製の大きさ6cm角、倍率3.5倍の携帯用スライドルーペ(ポケット
ルーペ)を選んだ。厚い牛皮に挟まれて保護されたルーペである。随分長い間使用してい
るので、黒く染められた牛皮の端が摩擦によって剥げ、肌色が見えているのはそれだけ愛
用した証拠であり、ご苦労さんと言って労いたいと思っている。

おまけ
 2010の不条理な闘争時、敵の理不尽な反則攻撃と理屈を理解しない頭脳に対抗するた
めに、我々は本当はスカウターが欲しかったなあー。それはドラゴンボールというアニメ
で、異星人が使う通信機能と生命体探索機能を兼ね備えた装置である。Wikipediaによる
と:スカウターはモノクル(片眼鏡)に似た形をしていて、片耳に取り付け、付属する半
透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能力を数値化した情報や、その対象への方角や距
離が表示される。戦闘力反応を示すスクリーンの色は青や緑、アニメでは他に赤、黄、紫
と、数種類ある[8]。一度検出した相手をロックすることでレーダー代わりに使用するこ
ともできる。フリーザ一味の宇宙人には一般的に使用されており、索敵範囲は非常に広く、
宇宙船で移動すれば一年かかる距離まで通話・戦闘力測定が可能な優れものなのだ。




私の七つ道具−その7「ペンライト」
2014/3/13

??目を手術してから頓に暗いところの物が見えなくなった。例えば自動車のキーの差し
込み穴、玄関ドアの鍵穴、ベッドや机の下や隙間に入った落とした物などの時に使用す
るものがペンライトである。Wikipediaによると、 ペンライト (penlight) は、ペン型
の懐中電灯である。狭義には、本物のペンの大きさの、先だけが光るものを指すが、他
にもさまざまな形態・方式のものがある。広義には、ライトスティック (lightstick)
と呼ばれる、やや大型の、広い範囲が光る器具を含む。

 私は想像したことも使用したこともないが、好きな歌手のコンサートで何千人、何万
にという観客が演奏に合わせて振るペンライトは一つの意志をもったメッセージに見え
るだろう。ほかに医療用ペンライトというものもある。咽の奥、またミステリーなどで
よく生死を判断するのに眼球の状態を見るときに使用しているものもその類のものだろ
うか。私のペンライトはアルカリボタン電池1.5V 4本 LED照明の黒い円筒形のもの
で、キーホールダーに付けている。これで脳や心の襞の暗闇に潜む情念が浮き上がって
見えれば一つの文学が出来るかも知れない。

  しかし一歩冷静に考えてみると「私の七道具」というものは、あればより便利なだけ
であって、なければ命に関わるものではないといえる。ちょっと不便さを我慢し外の手
立てを考え出せばすむことだ。
  トーマス・カーライルがいっているように「人間とは道具を使う動物である」とか、
ベルクソンは「ほかの生物と人間の進化の違いは、キリンや馬や象などのように自分の
肉体を進化させて環境に合わせようとしてきたのにたいして、人間は自分の平凡な肉体
を進化させるのではなく、道具を作ることで対応してきた」と言っている。最強、最終
の道具の使い手は、カルト教や偏狭な思想を人々に信じさせその気にさせる、カリスマ
的人物なのかも知れない。




私の七つ道具−おまけ−「計算尺」
2014/3/15

 私が仕事で使った馴染みの道具は俗にスライドと言っていた計算尺と、三角柱の各面に
1/100、1/200、1/300、1/400、1/500、1/600の六種類の縮尺を刻んだ携帯用の三角スケ
ールと2mのコンベックス(巻き尺)の三つである。
 計算尺(ヘンミ P45S)とは対数の原理を利用したアナログ式の計算用具である。
棒状や円盤状のものがある。 乗除算および三角関数、対数、平方根、立方根などの計算
用に用いられる。そのころは携帯用の三角スケールとともに計算尺を胸ポケットに入れて
建築現場に出かけるのが格好いいと思っていた。

 面積計算や構造計算や三角関数などを計算するときは、事務所では手動式の計算機を使
っていた。いわゆるタイガー計算器である。手動で回転し桁毎に計算して答えが出るとチ
ンと音が鳴った。桁を変えてまたその音が鳴るまでレバーを回転させる、そのようにして
最後の桁の計算が終わると答えが出てくるようになっていた。
 それからまもなく電動計算機機になり、昭和54年頃になるといまの電卓が出てきてそ
れらの計算機の役目が終わった。しかし電卓で三角関数や平方根の計算は出来なかったの
で、しばらくは携帯できるスライドだけはなお健在であった。

 最後に「七つ道具」のいわれや定義を書くに至ったことは、いかにも迂闊なことだった。
しかも三年も経てこのシリーズを完結するとはトホホである。
この「七つ道具」という慣用句は一体何なんだ。

◆武士の七つ道具 - 具足・刀・太刀・矢・弓・母衣(ほろ)・兜
◆弁慶の七つ道具 - 鉄熊手、大槌、大鋸、まさかり、つく棒、さすまた、
 そでがらめ
◆大名行列の七つ道具 - 槍・薙刀・台笠(だいがさ)・馬印(うまじるし)・挟箱(は
さみばこ)・立傘(たてがさ)・大鳥毛(おおとりげ)
◆あんこう鍋の七つ道具 - 肉、皮、胃、肝臓、卵巣、鰓(えら)、鰭(ひれ)
◆探偵の七つ道具 ・ カメラ、ICレコーダー、単眼鏡、折りたたみ傘、小型ライト、ダテ眼
コンビニ袋だそうです。

 七つ道具(ななつどうぐ)とは、七種の道具のこと。また一組にして携行する小道具の
こと。 何かを行う上で必須だと考えられたり好都合だと考えられている一組(ワンセッ
ト)の道具群のことであるとものの本には書いてある。
 無くて七癖あって四十八癖という警句があるが、「七」は「無くて」の「な」に音を合
わせ、調子を合わせたものとか。だから「七つ道具」が必ずしも七つという限定された数
字にこだわることはない。一組(ワンセット)ということはそういう意味があるのだろう。
結局は七という数字が口調のよさや、少なくもなく多くもないという程度の数であり、
成る程と思わせる数でもあるのだ。
persona



87α編集部:2014/03/22(土) 06:23:25
著者前書き集/讃集
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             著者前書き集/讃集
2007/13号-2009/21号




      氏は「落書き帳」に始まり、万華鏡、言の輪、ニューロン・カフェ等、幾つ
      もの掲示板やブログを作ってきた。そういう人に限って、仲間の資料はきち
      んと保管するが、自分のものは少々スボラになるらしい。
      「掲示板は俺がつくった」とも決して言わないところを見るとあまり所有に
      拘らないようだ。それと同じく自分のコメントや写真にについてもつい扱い
      が雑になってしまうのかもしれない。
      というわけで、苦心の末、やっと13号以降の物を何とか揃えてみた。




『シリーズ・歪んだ風景−異星人』 13号

        

「なぜか時間がなくなった」 2007/11/27

 数年前までは都心から随分離れた狭山まで毎月2回市民講座のエッチング教室に通い作
品も多少造る心の余裕があったのに、仕事の量は今も昔も変わらないのだが、なぜか分か
らないまま気持ちがせわしくなって些事に追われる今日この頃であり、自分は人のペース
に惑わされない職業を選んだはずなのに、30数年の間そのリズムでやって来たのにと思
いつつもいつの間にか世間の風の中で漂わされて、机の前に座っても考えることや趣味の
ことをするのが億劫で、仕事をしている方が楽に思えてついつい頭を使わない方へ傾いて
ゆくのであるが、私が望む仕事の進め方はどんなに多くの量の作業でも、在る一定の長い
単位の時間の中ではストレスはたまらないように、時間を自分で自由に差配し遊ぶときは
遊び仕事をハードにするときはするということだが、人間貧すれば鈍するで心の余裕がな
いときは頭を使う気持ちにはなれないのは、シモーヌ・ベイユではないけれど、耐えられ
ぬ程の肉体的にきつい労働も一種の慣れという安定に陥って、いわゆる「思考怠惰」が起
きると言っているようにならないために、人間は最低限の思考できる程度の金銭の保障と
適当な量の労働が必要と思うゆえ、いま多忙を我慢するかという樂と苦のジレンマに陥っ
ている今日この頃である。(金井美恵子の「水の色」の1ページに渡っての句点、行変えな
しの文をまねて)

 写真は狭山市の市民展出品のエッチング作品の前で




『シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家 第二回』 15号 (号数不明)

        

2008/5/20
コメント無し

コメントお待ちしてます




『シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家 第三回』 16号

        

「ブログの写真はどこですか。古賀さんの写真は隅っこで,風景写真がドーンと大きい
のは,なんか意味があるのですか。どっかに古賀さんが写ってはるのですか」という浪速
びとさんのご質問の答えて・・・。
 最近写真を撮っていないこと。思えば歳をとるとそういう機会が少なくなったせいか
写真がすくない。いざブログに載せようとしても随分前のばかりで、しかも気に入ったも
のがない。身近な人の葬儀に行くといい遺影が飾られているのに感心して、もうそろそろ
この世とおさらばするときのために、最近滅多に着なくなった背広とネクタイしめてきめ
た写真でも用意しなければならないと漠然と思いながら、そうかといってなかなか実現は
しない。
 熊野詣での写真をと考えたが、出発の日から合評が始まるのだから、それでは遅いと
慌てて見繕うのだがなかなかない。それではと昨年の春イタリアに旅行して一番見たかっ
たフォロ・ロマーノを訪れたとき撮した写真と、それに心を馳せて想像している山荘での
写真をフォトショップで合成して面白い物を創ろうとしたが時間と能力不足で、訳の分か
らないものになってしまった。
 イタリアの都市々の贅を尽くした壮大な教会をみると、その民衆からの搾取ではない
かという思いがあった。大きな指輪や煌びやかなローマ法王の様子を見ていると、神の前
では何人も自由で平等であるという宗教の本質と違うところで活動が行われているものに
見えるのは私の僻みであろうか。
 写真はフォロ・ロマーノ(ローマ時代の政治の中心広場)を撮した写真である。まさ
にシーザやブルータスや元老員達が二千年前に活躍した場所である。最近読んだ「ヨーロ
ッパ思想入門」によれば、近代の国家の基本理念がこの時代にすでに出来上がっていた。
民主主義、法治国家、下水道・上水道・道路などの都市の整備等々。専制君主の気まぐれ
の政治ではなく法を基本とした民主主義と共和制の国だったから周辺の異民族も受け入れ
世界に冠たる国家を作ることが出来たのではないか。
 しかしこのフォロ・ロマーノに思いを馳せるツアーのクルーは少なかったように思え
る。なぜなら行程には含まれていなかったからで、殆どが寺院回りで走り回った感があっ
た。今度はキィーツやテニスンやジェームス・ジョイスやバージニア・ウルフなどのイギ
リスの詩人や小説家の舞台を訪れてみたいと思っている。

古賀和彦氏讃
古賀節が生まれつつある。
 人生を俗の世ばかりでなく森羅万象とくに宇宙や地球という天体の中に置き、有限無限
や無の哲理を援用して説く。 big words を用いながらその説くところ生硬に陥らず、万物
の揺らぎの中にたおやかに在り続けるの趣あるは、氏が研鑽を積みその森羅万象をよく感
得していることの証と思われる。それらコントラストの効いた文辞を読むほどにその調べ
のよさ香りのよさに酔い痴れたのは私ばかりであろうか。古賀節はこの後ますます練りこ
なれますます芳醇馥郁となっていくものと思われる。氏よ、病をてなずけ、業を等閑にし、
ますます宏才博覧に努められよ。                北 勲
2008/10/29




『シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家 第四回』 17号

        

コメントお待ちしてます

2009/2/26




『シリーズ・歪んだ風景?沈みゆく 家−第五回』 18号

        

皆さんのように若かりし頃の凛々しい写真をと思ってはいたが、なにせ引っ越し魔の小生
であるから、そのような写真は散逸して頓んと見あたらない。これは同人 αの立ち上げ
の頃と思われる5年前の、牟田さんの教え子であった宮崎大治郎氏の個展を表敬訪問した
ときの写真である。京橋の奥まった路地のビルの画廊で撮ったものだが、本来なら彼の絵
を中心に撮すべきところ、被写体となっている二人は名うての「我が道を行く」戦士であ
るともっぱらの噂、さもありなんと折りにつけ自分自身を振り返ることがある。
2008/11/21




『シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家 第六回』 19号

        

作家池田あきこの描く、猫のダヤンを主人公にした「わちふぃーるど」で織りなす不思
議な世界を展示した、河口湖木ノ花美術館の建物の前で撮った写真である。皆さんと張り
合おうとばかりに、はつらつとした若かりし頃の凛々しい写真をと探したが、どこへ隠れ
ているのか頓と見あたらない。鼻髭、顎髭、頬髭で己の本性を隠していた頃もありました。
それが一枚も残っていないとは、もしや余りにもむさ苦しいので誰かが処分したのではな
いか。
随分前に三歳の頃の息子と電車に乗っていたら、前に座っている二人のうら若き女性か
ら、クスリと笑われた事がある。よほど私のカイゼル髭風が妙だったのか、息子と私がう
り二つだったためか、どっちだったのだろう。
大体髭には二つの意味を込めて男は伸ばすようだと私は断じる。一つは体制側の権威を
誇示するため。もう一つは体制側ではないことをひけらかすためため。私は30代初めか
らドロップアウトしたので、やはり後者だったと思う。今髭をのばしたら真っ白に違いな
い。だからうらぶれた人生の落伍者風の無精髭に違いない。願わくばショーン・コネリー
のような素敵な髭面を夢見るのだが・・・。
2009/7/30




『沈み行く家−最終回』 20号

        

先の浪速びとさんのスピード感とバランスの良さをとらえた写真を見て、羨望の眼差し
を向けたばかりである。一方私は体を動かす事が余り好きではない。病気になって医者か
ら運動を奨励されて来たが、それでも多少数値がよくなると、なるべく忙しいだの時間が
ないだのと言い訳を作っては、サボタージュしているのである。何故そうなのか、ここで
私は私なりに運動嫌いの勝手な理屈を告白する必要があるだろう。

もともと生き物はよほどの必要に迫られない限り、なるべく静かに暮らした方が理にかな
っている、と勝手に思っているのである。原始時代は食糧確保に苦労をしただろうが、一
度大きな獲物にありつくと、それを食い尽くすまで寝て暮らしたに違いない。それが自然
な人間の姿ではなかったろうか。
ましてや健康の為には運動が必要だという風評を信じて、過酷なまでに肉体を虐める根性
は特に嫌いである。また「健全な肉体に狂気は宿る」を見せつけられると、「健全な精神
は健全な肉体に宿る」というのもちといかがわしい。プロの運動選手の七十歳前後で壊れ
てゆく姿を見ていると、読者はかなりこの運動不要論になるほどど賛同されるであろう。

また、自然の中に立つあの見事な大木を見よ、樹木は条件さえよければ寒かろうが熱かろ
うがじっと同じ場所で数百年も生きているではないか。人間は何を求めて走り回っている
のか、必要以上の欲望に支配されているのではないか。いままで感心のなかったおばちゃ
んおじちゃん達が、ある日突然目覚めて走り回るのを見ると、多くの大衆はアルコールや
パチンコ依存症のように、依存する対象を探し回っているという、精神が壊れ始めている
のではないか。
とまあ、自分の怠けの理屈をこね回したのでありますが、ポケットパークを根城にして一
日13時間は寝ているいて仕事をしない野良猫が、私の理想であります。




『鈍色の空−その1』 21号

        

 最近とみに人相が悪くなった。心情もまた悪くなったのか、それとも品性をよく見られ
ようと思う気持ちが無くなったのかどうかわからない。サングラスや帽子などの必要なも

のを臆面もなく身につけようになると、昔のような気取り屋というイメージからだんだん
遠くなって行くようだ。

 このシーン(敢えてシーンと言いたい)はいつもの週末、銀座探訪のおり歩行者天国に
なった車道に置かれた椅子と日傘の前で写ったものである。何十年も前、大映映画の多摩
川撮影所でスタジオを設計監理していた頃、キャットウオークからいろいろの場面の撮影
を見ていたことがある。そのためかこの写真を見て自分ではなんだか監督になってハード
ボイルドの映画でも撮影しているような気分になった。

 髪の毛も若い頃のような太くて硬くて真っ黒ではなく、細くてまばらで銀髪になってし
まい、「鈍色(にびいろ)の空」のような、まだ人生の複雑さのなかで戸惑っている若者
からはほど遠くなってしまった。だから今では「ちょい悪親父」のように世間を斜に構え
ている「食えない人間」になってしまったように見えるのかも知れない。



88α編集部:2014/03/22(土) 07:20:49
テーマ前書集
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             テーマ前書集 2005-2013




    第一号テーマはもう一人の同人α創立に拘わった女性に譲ったようだ。
   女性をたてたというよりも、単に,面倒だったに過ぎないのかもしれない。
   テーマはどれも、作品から想像される著者が関心を寄せるようなものばかりだ。
??????尚、表紙を飾る作品は、絵も文字も氏の提供による。このあたりも「人任せ」
   を嫌う氏の気質が良く出ている。後にそれが仇となる。
    印刷編集作業から降りると言ったとき、みんなから顰蹙をかうことになった。
   「人任せにしていて何を今さら。」とも言わなかった。
   掲示板を「私のものです」といわれた時も黙っていた。テーマの時と同じよう
   に女性をたてたのか、はたまた、あまりにもばかばかしいと思ったのか…。
   損な性格なのか、人がいいのかよく分からない。  (編集部)





第2号「想」  2005/2

          

はじめに

さて、第2号の名称の「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなければ
なりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?はた
して無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まされて来
ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの難題に決
着をつけなければならないと考えました。
いま現在我々が生きている世界は有限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取
って確かめることができます。しかし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、
各の頭の中には神や虚数や妄想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の
果てと思われている130億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受け
るとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび音楽
や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその世界へ
積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕たちは人生
を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自己表現に努
めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」とした次第であ
ります。
                                 古賀和彦






第16号「揺らぎ」  2008/8

          

まえがき

 私は以前、別の同人誌に「狭間シリーズ」の文章を十編ほど書いたことがあった。趣味
と道楽の狭間で、本音と建前の狭間で、晴と褻の狭間で、光と影の狭間で、都市と田舎の
狭間で、男と女の狭間で、パラノイアとスキゾフレニーの狭間で、モダンとポストモダン
の狭間で、など人生の岐路に戸惑ってたちすくむ己の心情を綴ったものだ。
 そして一方を決断したその時、捨て去ったものに微かな思いを残した。去りゆくもの、
滅び行くものに憐憫の情を覚えることは人間の証のような気がしてならない。だから拝金
主義者や権力主義者などの効率よく物事を決断し、疑いもなく自ら選んだ道を突き進む人
を私はあまり好きではないし、信用もしない。人が岐路に立って自分の行く道を決めかね
て、戸惑い揺らぎながら迷っている姿に、私は人間としての共感を抱くのである。

 「揺らぎ」とは機械的な正確無比の時の刻みではなく、一定した流れの中に生じる微か
な乱れのことをいうのである。
この宇宙の森羅万象,すべてに「揺らぎ」があるという。それが心臓の脈拍の揺らぎであ
り、うち寄せる波,風,潮の満ち引きの揺らぎであり、モーツァルトなどの名曲の中の旋
律の揺らぎであり、人との会話においても時には予期しない返答だったりするような揺ら
ぎである。揺らぎが創り出す変化は、私達が過ごす日常の殆どが褻の時間のなかで、人生
とは面白いと感じさせる何かを創り出す力があるようだ。

 この世の中に絶対的に基準となるものは有りはしない。時間や空間や思想や理論におい
ても同様で、いまこの一瞬の自覚した己の存在だけが真実であることを除いて、すべて虚
であり、想念の中の出来事である。だから、どこかの殺虫剤会社の「そんなものが効くの
か」という男の疑問に答えて、藤原紀香が「その疑い深い目が好き」と艶っぽく宣うコマ
ーシャルがある。この、権威や定説や既成の価値観に対して「揺らぎ」や「疑い」を抱く
精神が好きだ。
                             古賀 和彦






第25号「颯」 2010/11

          

  「颯」―表題によせて                     古賀 和彦

まず始めに表紙のデザインに用いた「颯颯」という文字は、山鬼:楚辞・九歌にあるもの
を借りた。
雷填填兮雨冥冥   雷填填として雨冥冥たり
猿啾啾兮又夜鳴   猿啾啾として又夜鳴く
風颯颯兮木蕭蕭   風颯颯として木蕭蕭たり
思公子兮徒離憂   公子を思へば徒らに憂ひに離(かか)るのみ

雷が鳴り響き雨が暗く、サルは悲しげに夜も泣いています。風は颯颯と吹き渡り、木は蕭
蕭たる音を立てています、あなたを思うと私の心はいらずらに憂いに沈むのです

颯の文字の姿を眺めていると堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出す。信州のサナトリウムの周
りの自然のなかで白い野バラの間を微かに吹き抜ける風ノイメージが湧いてくる。颯爽と
したという漢字がこの「颯」である。

大富豪で泥棒を趣味とするスティーブ・マックイーンと保険調査員のフェイ・ダナウエイ
の二人が、全く違う立場で丁々発止とやり合う「華麗なる賭け」という映画があった。悪
と正義のせめぎ合いなかで何とも言えない二人のもどかしい関係を表現したミシェル・ル
グランの「風のささやき」という名曲がある。
http://www.youtube.com/watch?v=Wl8fKAYQuPk&amp;feature=fvsr
またマンディー・バーネットの ウィスパーリング風という歌もある。
http://www.youtube.com/watch?v=FcfPumlZFiY


  風のささやき

風は独り窓辺に佇む私の心に
微かなささやきを残して走り去り
彼の姿を見せることはしない

仮眠の五感をそっと刺激して
覚醒しようとする私をからかうように
過去の思い出のなかに漂わせ
仮の夢に想いをふくらまさせ
荷担した報いとして孤独な憂をあたえる ニューロンの揺らぎ

あるときは花の香りを運んで
あるときは竹林をさざ波のように
あるときは松林をゴーゴーとふるわせ
あるときは首筋に冷たい空気を置いて行く
あるときは私にはな歌を唱わせる

風は私の想念への誘い
風は私の心へのささやき
風は私への宇宙の啓示







第30号「沈黙」 2012/2

          


「沈黙」前書き   饒舌と緘黙の狭間で           古賀和彦

 「沈黙」と書いてみるとすぐ思い浮かぶのが、遠藤周作の「沈黙」と埴谷雄高の「死霊」
を思い出す。この二文字を思いついたのは、あまりにも推敲されない文字の氾濫に辟易し
たからだ。事象について断定的であったり、まったく普遍性のない言葉での個人的体験談
や日常茶飯の些事が、生理的要求でもあるように放埒に垂れ流されている現状は憂うべき
現象に思えるのである。この生活空間に流されているTVや雑誌やニュースや評論などの
膨大な量の情報が、はたして人に幸せをもたらすと信じていいのだろうか。 人間の基本
的な生命維持に必要な情報はそんなに人を溺れさせるほど多くはないはず。その他のほと
んどは報道の繰り返しや、病気や生命等の危うさを強調する脅迫宣伝や、パチンコや競馬
競艇、宝くじなどの射幸心をくすぐるものや、空白の時間を埋めるためだけのくだらない
お笑い番組ではないか。そして自分に都合のよい情報だけを加工して評論し、それが怪し
くなると挙げ句の果ては自己弁護を繰り返す似非文化人や、空白な時間への恐怖で語り続
けることを止めない人や、まったく物事を深く考えることをしない人などが多くて、軽薄
な己の姿を世間に晒していることさえ考えがおよばないようである。

 私は語りは現実の世界、沈黙は想念の世界と思っている。
書いたり語っているときは現実の世界で活動している。
物事の本質を見極めようとするとき想念の世界に入り込む。すなわちそれは沈黙の世界で
ある。
これは同人αの第2号で書いた有限と無限の私個人の理解の仕方と同じである。有限は現
実の世界、無限は想念の世界。この二つはまったく交わることがないようだが、そうでは
ない。マルクス・エンゲルスが唱えた学説が現実にロシアやその他の社会主義国家を作っ
たように、単なる想念の産物である思想が現実の人の生活に影響を及ぼして来た。その逆
もまたあり得る。現実の世界から得た経験や事実が想念の世界の思想を導くこともあり、
お互いに密に影響しあっているのである。
 また私たち人間は「より正しい答え」を導くために「より正しい考え方」を模索してき
た。その思考法として演繹法と帰納法というものがある。
演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法。
帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一
般的原理を導く方法である。
帰納法は現実のなかから本質を抽出し、演繹法は想念のなかで想定した結論を推論したも
のだといえる。これはまさに現実の世界と想念の世界の代物ではないか。

 遠藤周作の小説は、迷う信者に対して神は救いの手をさしのべなかった、なにも示唆し
なかった。 ただ静かに寄り添っていただけだという。 「弱者の神」「同伴者イエス」と
して黙して語らなかったというような内容だったと記憶している。
また埴谷雄高の「死霊」に出てくる、主人公三輪與志の異母兄弟で、精神病院にいれられ
た黙狂の矢場徹吾は、「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」な
どの謎に立ち向かっているのであろうか。黙狂が失語症の故なのかそれとも吃音に悩まさ
れた故なのか判らない。 この喧噪の世の中、吃音に悩まされたことがある私は、そんな
沈黙の世界に魅せられるのである。






第35号「迷宮(labyrinthラビリンス)」 2013/5

          

前書き 迷宮(labyrinthラビリンス)        古賀 和彦

 迷宮と言えばギリシャ神話の「アリアドネの迷宮」ミノス文明の「クノッソスの迷宮」
が頭に浮かぶ。「クノッソスの迷宮」は死者の世界だったという。しかしこの世にあるク
レタ島のなかにあるから、死者の世界とこの世を結ぶ建物、場所、空間なのだろう。だと
すれば古事記に出てくる底根国(そこつねのくに)、イザナギが妻に逢いたい気持ちを捨て
きれず、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイ
ザナミとの約束を破って見てしまい、結局は死んだ妻を生き返らせることはできなかった
というこの話は、もう一つのギリシャ神話のなかのオルフェウスとあの世の妻エウリディ
ケとの物語と同じである。
 またゲド戦記にも若いゲドは死者の霊と共に「影」をも呼び出してしまう。その後ゲド
は石垣の向こう、暗黒の黄泉の国のなかで影と戦う物語がある。この暗い空間は生と死の
狭間にあり、人の意識や感覚の惑うまるで迷宮のようではないか。ゲドは襲いかかる影即
ち、猜疑心や虚栄心や嫉妬心などの邪悪な己の心と戦うという解釈もあるという。
 長い私の人生もまたこのような暗黒の迷宮のなかで一所懸命出口を探して彷徨い続けて
いるようなものだと思うこともないではない。



89α編集部:2014/03/23(日) 20:44:04
河口湖通い -2007
.

              河口湖通い -2007




        引っ越しを何度も繰り返してきた氏がたどり着いた場所は
        富士を仰ぐ河口湖町だった。少なくとも何かに引き寄せら
        れたに違いない。
        著者が設計した山荘が建つ2005年に先立つ2003年の記録に
        河口湖が登場していた。




窓辺にて−「辻が花染め」
2003/11/7

 五年程前、門前まで行きながらその建物があまりにも仰々しくて、入るのが憚られて見
学を止めてしまった思い出があったのだが、先日友人と紅葉狩りのついでに河口湖にある
「久保田一竹美術館」を覗いてみた。

 一竹は室町時代の染めの一種で「辻が花染め」を再現した。ここは自ら命名した[一竹
辻が花]の作品数十点を展示してある。着物については全く呼び名や使用方法に疎く確か
ではないがたぶん「打ち掛け」というものであろう。自然をテーマにした図柄を鮮やかな
色や秘めやかな色で表現された絞りの着物は、かすかに光沢のある絹の柔らかさ、奥深さ
が印象に残った。そして建物を取りまく山々の紅葉が火のように燃えていた。




もしや本人が雨男
2004/8/8

楠葉さん「歩くハイマー」の会の「青木が原樹海散策」、是非実現しましょう。
私もそのころ河口湖付近に居ました。どこかで楠葉さんとすれ違ったかも知れません。
晴れ男と自認しているにも拘わらずあの猛烈な豪雨は、いつも同行する雨男のK氏が密か
に来ているのかと思った程で、ごくわすかな裾野をちらっとみせるだけの富士山のつれな
さを嘆きました。

おまけに、今日が初めての走向ですと自慢げに云ったレンタカーの車で出掛けたのですが、
雨が降ってきたのでワイパーを動かしたら、突然止まってしまい2度と作動しなくなりま
した。それでも後ろのワイパーだけは元気よく張り切って動きます。
バックで走向してはいけないという交通法規はないと思うので、東名でも中央高速でも理
論的には後ろ向きに100?/h走向は可能でしょう?残念ながらそのような高度のテクニ
ックを持ち合わせて居ず、ガソリンスタンドやレンタカー会社やJAFに見てもらっても
故障を直せず、ホンダの修理工場に預けたまま高速バスで東京へ帰って来る始末。
ホンダさんあの故障はリコールものじゃありませんか?

畑のトマトをちぎって食べさせてくれた農家の人・ガソリンスタンドのお兄ちゃん・JA
Fの吃音のおじさん・ホンダディラーの社長さんなどの好意をいっぱい感じたことが、故
障という思わぬ出来事も面白い体験をしたという楽しい感情に変わりました。




ヒヨドリ
2004/1/27

以前に買ってきたたくさんの実をつけたセイヨウヒイラギを室内のテーブルの
上に置いていた。時々つがいのヒヨドリが一定の時間にやってきて欅の枝のに
留まってその実をのぞいている。そのうち一度そのセイヨウヒイラギに向かっ
て飛んで来て、ガラス窓があるのに気づいて危うくぶつかりそうになったこと
がある。
私はクリスマスも終わったので約束通り外に出し、ヒヨドリに啄ませようと思
った。
案の定、昨日そのつがいのヒヨドリがやってきてそれぞれ仲良くおよそ5粒食
べて去っていった。あとなん日かで全て鳥の胃袋に収まってしまうだろう。
そういえば昨年の冬休みに河口湖の家に行った時、本郷のセイヨウヒイラギよ
り十倍も大きい木にたくさん赤い実をつけていたが、一つ残らず食べられてい
た。この件に関しては「かも知れない」と予測していたものの、ドアにつけた
クリスマスのリースに,近くの草むらで見つけた野薔薇の赤い実で飾っていた
のだが、その実も全部食べられていたのには呆れてしまった。ハミングバード
見たいに空中に留まりながら啄んだろうか。暖かくなると本格的にブラックベ
リーやブルーベリーやグーズベリーを山荘で育てようと思っているのだが、さ
て小鳥や猿などの野生動物との争奪戦を覚悟しなければならなそうである。自
然の生活とはそういうものかも知れない。

夜は新宿西口「魚民」にて6時から大長の設計室のOB会があった。
出席者:松尾、朝川、松本、岩崎、浜崎、中部、藤本、望月





2007年 山荘「Black berry Cottage」通い



河口湖
2007/2/24

8:10 新宿発の高速バスにて河口湖の山荘に行く。
今日の富士山は素晴らしい。ただ少し雪の量が少ないような気がする。
暖房するに薪ストーブで3時間掛かった。

山荘にゆく途中に私の好きな場所があった。民家から離れた道沿いの所有者が
あるのかどうか解らないような、一塊の林で昔でいえば入会地みたいな風情で
あった。百年以上も経たと思われる欅の大木が五本くらい茂っていて、その向
こうに富士山が見えた。
今日その道を通って、人間のさもしさに腹が立った。その大木のほとんどが二
メートル位の長さに切られて積み上げられていた。何か大きな建物でもつくる
のか、それとも宅地として開発して金を儲けようという魂胆か。これほど悔し
い、寂しいことは最近なかったような気がする。




小熊笹
2007/2/28

■ 高山造園に小熊笹の植栽を依頼。紅葉3本の見積もり依頼。3月24日植
  え込み予定。
■ 河口湖ケーブルテレビ 引き落とし金額について問い合わせ
  2月6日引き落とし19,600円には年間の会費13,000が含まれているという
  こと。
  デジタルの契約を解約したい。6,369→3,940になる。3月24日工事予定。
■ 奥田 林(おくだしげる)氏の通夜。帰りに新松戸駅の近くで樋口・飯田氏
  達3人で飲む。久しぶりに郊外の景色を見た。寒い夜のプラットホーム。
  暗闇のなかに点在する家々の灯り。若いころ通った田園風景、なにか満た
  されないような家庭の温もりから遠ざけられたような独り身の寂しさを思
  い出した。




河口湖の家-植栽完了
2007/3/24

■ 河口湖の家の道路側に小熊笹、いろは紅葉(高さ4m)4本植栽完了。
  高山造園
■ 佐賀より家具が着く、椅子4脚、母の日記帳45冊+雑記2冊、イタリア調
  丸テーブル1個
■ ケーブルテレビのデジタルチューナーを外す。
  デジタルTVはまだ時期尚早




母の日記
2007/3/25

河口湖は一日中雨だから読書のはかが進んだ。「あることの不思議」の二度目
を読み始める。
いよいよ母の日記を活字にする作業に取りかかろうと想う。
遺言の内容や最後の私に対する思いに納得いかないけれど、それはそれとして
長い付き合いをしてきた訳だから、しかもこれだけの思いを綴ってきた母を理
解するために、大した親孝行もしなかったという想いもあって、一冊の本に纏
めて古賀家の記憶のためにしたい考えた。
母の日記帳は以下の通り
■ 自由日記ハードカバー箱付き全40冊
  1967から〜2006まで
■ その他雑文大学ノート2冊
  兎に角何年かかるか判らないが、北君と相談の上進めたいと想う。




河口湖の家
2007/4/13

午後2:10の高速バスにて、河口湖へ行く。富士山は麓は現れるも山頂は曇。
気温は丁度良い。山桜、豆桜、しだれ桜、レンギョウなどが一斉に咲く。梅もまだ
咲いている。早速薪ストーブを焚く。




一の宮の桃
2007/4/14

       



今日は御坂道を通って一の宮の桃の花を見に行く。御坂峠のトンネルを抜けた
ヘアーピンカーブで今年の正月危うく事故で命を落としそうになった事を思い
出し、少々嫌な気分があった。しかし桃の花は今が丁度見頃で、まるで桃源郷
もかくやありなんと思いをはせる程見事であった。なだらかにピンクの花が敷
き詰める甲府盆地の遙か向こうには、まだ雪を頂く南アルプスの山々が連なり
爽快な気分である。
何とかという公園に車を止め、花や木楢の林を散策し、五月にはきっと新緑が
素晴らしい景色になるだろうと思った。帰りは精進湖の方の道を選んだ。途中
にあったくろねこ大和で、母の日記帳二十冊を北君に送る。およそ一年掛けて
編集しよう。




花見ドライブ
2007/4/15

今日は日曜日。村松さんのうちの犬・花ちゃんに逢う。近所の林や小川の道を
散策する。イワナかヤマメでもいるかと水の中を覗いたが、魚影は見えず。
一昨年であったか、一度十五センチほどの魚一匹を認めたことがあるので、確
かに何か住んでいることは間違いないのだが。
村松さん達がつくっているわさび田を見た。三年もののわさびが三、四本育っ
ていた。

11時頃から河口湖畔を右回りにドライブした。途中富士ビューホテルのソメ
イヨシノ、しだれ桜、やまつつじ、こぶしなどが一斉に咲いていた。寒い地方
の春は全ての花が一斉にさくらしい。梅もまだ花をつけている。もう少しする
と我が家のいろは紅葉や唐松の芽が吹き出すだろう。

道を隔てた向かいの人が三時ころ、自分の畑でつくったほうれん草似に野菜を
お裾分けに持ってきた。おひたしにすると柔らかくて癖が無く、まるで空心菜
のようなシャキシャキとした歯ごたえがあり美味であった。お茶に誘ったが、
これから八王子の家に帰るということで、この次きっと誘おうと思った。そう
言えば昨年紅葉を見に来た小宮さんを迎えにいって、家の近くの駐車場につい
た時、そのお隣さんがちょうど貸し農園から帰るのに出くわした。そして、採
取したピーマンやほうれん草やそのた沢山の野菜を貰った覚えがある。大して
親しくした覚えはないけれど、管理組合の総会のあとで村松さんの四阿でのバ
ーベキューでご一緒した位なのに・・・。五月になれば、そのとき話題になっ
た、富士の裾野での山菜採りに是非連れて行ったもらおうと思った。


       







河口湖
2007/5/11

急に思い立って河口湖に出かける。最近植えた3本のいろはもみじの新緑が気
になって。pm 18:10発高速バスにて。




河口湖二日目
2007/5/12

我が家のいろはもみじの新緑が美しい。ブルーベリーは2株ともささやかな花
を付けている。グーズベリーやブラックベリーは生きているもののまだ花のつ
ぼみは見えない。東京から去年の秋持ってきて植えたので、今年は土地に馴染
むのが精一杯で結実は駄目かも知れない。チャィニーズホーリーも同じく花芽
が見えない。それに反して同じ条件なのに、ラビットラズベリーの繁殖は目を
見張るものがある。数メートル先の他の植物のテリトリーも何のそので、地下
茎を伸ばしほとんど花壇のあらゆる所に目を出している。そして最初の株の廻
りは白い花で一杯だ。これはこの土地にぴったり適用したのだろう。東京では
ベランダの暑さのためか、なんだか元気がなかったのにとその勢いに驚いてい
る。

今日も明け方の赤く輝く富士が美しい。

Jマートに行き薪2把、クライミングローズ、ローズマリーそれぞれ1株購入。
亀甲台を流れる川沿いに散歩。近くで村松氏が作っているわさび田を見に行く。
清冽な流れの二帖ばかりの畑が三段になった小さな畑に青々とした三年ものの
わさびが5,6本育っている。もうそろそろ食べ頃だ。朝は少し肌寒かったので
ストーブを焚く。すぐに暖かくなり、快適な温度となる。

「超ひも理論」川合 光著を読み終わる。

薪ストーブによる暖房が空調機によるより気持ちがいい点はいくつか考えられ
る。
 ? 排気ガスが室内に出てこない。
 ? 熱の伝わり方である伝導・対流・輻射のバランスがいい。
 ? 家全体を暖房するから、寒い場所がなく温度差による風が起こらない。
 ? 石油ストーブの様ないやな匂いがしない。
 ? 排気ガスの煙突から出る熱も室内に取り入れるから効率がいい。
 ? 石油やガスなどの危険なものを室内で取り扱わない為清潔で安全。
 ? 薪は化石燃料ではないから再生産ができ、自然のサイクルが成り立つ。



河口湖-1
2007/6/1

金曜日pm12:40発高速バスで河口湖へ
◇ ジムニーの車検を山梨スズキの河口湖支店に依頼する。月曜日までの終わ
  らないので6月22日に受け取りに来るよう手配する。車検料50,050円、
  後日車検費用27,000円を払うこと。
◇ 代車を借りて家に行く。




河口湖-2
2007/6/2

◇ 西洋ひいらぎ、千両を本郷から持ってきて植える。小熊笹は順調に根は着
  いているがまだ新芽は出そろってはいない。葉の大きさが思っていたよう
  なものになるか気がかりではある。林の中を散策。川に魚の影を見る。
  ご近所も数件滞在している。

       






河口湖-3
2007/6/4

◇ 今日は朝から調子が悪く、何となく食欲がない。夜中になって食べ物を全
  部吐き出した。肩懲りと腹痛で一睡も出来ず参った。原因はどうやら母の
  日記を入力する時の照明の暗さによる目の疲労から来たものらしい。それ
  と右目の視力低下によるバランスの悪さで老眼鏡をかけても良く見えない
  ことも原因のひとつではある。




河口湖−4
2007/6/4

◇ 今朝は東京に帰る日だが、体が疲労困憊していて辛い。だが仕事があるか
  らそうは行かないので、無理して家を出る。7:00出発。ところがバックで
  車を道路に出すとき、またあの松の切り株にのし上げてしまった。この前
  も我がジムニーも同じ状態で前のバンパーを曲げてしまった。今日の代車
  はジムニーのような四輪駆動の車でなく車高も高くなくて、もろにぶつか
  ったものだからバンパーを壊してしまった。さて事故処理のためam8:10
  の新宿行きの高速バスに乗ることは不可能でam10:10のに変更。
◇ スズキの店が開くまで、そこの駐車場で朦朧とした苦しい状態で一時間待
  つ。昨日から何も食べていないので寒気と痛みとで死ぬかと思った。
◇ 事故の色々の手続きを終わってほうほうの体で本郷に帰る。後日ソニーの
  自動車保険の報告では所有していない車の保険には入っていないので適用
  外だと言われた。約50,000円の修理代は自前になってしまった。
◇ 悪いことは重なるものだなあと改めて認識した。だがこれからは良いこと
  が続くだろう。




バーベキューグリル
2007/6/23

◆ 屋外バーベキューグリルを試運転してみる。燃料の炭を一箱・焚き付用ガ
 スバーナー・折りたたみテーブル・ランタンを新たにホームセンターで購入
 した。いよいよテラスにそれらをセットしてグリルに火を付けてみる。炭が
 調理できるような状態までなるには結構時間が掛かる。これからは1時間く
 らい前から着火の準備が必要のデータを掴む。さて赤いタータンチェックの
 テーブルクロスをして、牛肉・鶏肉・秋刀魚・玉葱・ピーマン・とうもろこ
 しを用意した。一寸肌寒いので木綿の上着を羽織りビールをのみながら林の
 中の夕暮れを楽しむ。上や下の小径を通お隣さんに「一緒にいかが」と声を
 掛けたくなるような心安らぐ時間である。あいにく今週はこの山荘の住人達
 は訪れていいないようである。首尾良く試運転を終えた細君はいよいよ友人
 を招待して楽しむ準備が出来たみたいだ。さてこれから高校時代の「梁山泊」
 の連中や「同人α」のメンバー達と浩然の気を養おう。




博田さんから電話
2007/7/1

博田喜美子さんから電話。山中湖にきているので河口湖にいるのなら合いまし
ょうといい留守電を昨日の午後8時に携帯にいれたとのこと。それに気づかず
きょう昼頃ご主人の携帯に電話する。いま忍野のちかくの貸し農園で野菜を作
っているとのこと。これからは野菜を管理するために月に2度くらいは山中湖
の別荘に行くから、逢いましょうとのことであった。




「同人α」第12号校正会
2007/8/14

◆ 「同人α」第12号の校正会を河口湖の山荘で開催。
 安芸・樋口・小柳・武藤・田村・細君・私の7人。
 武藤君は車で来てもらい、後の4人は新宿より高速バスで河口湖駅まで。
 昼食を湖畔のレストランで取り、正午ころ山荘に着く。夕方まで校正の仕事
 をして、夕食はテラスでバーベキューをし大いに盛り上がる。その後就寝ま
 で囲碁やトランプに興じる。安芸さんは五段、樋口さんは初段とみた。ちな
 みに私は三段位だと思う。樋口さんは安芸さんに五目置いて負けた。私は安
 芸さんに二目置いて中押しで勝ったから。おまけの話として樋口さんのいび
 きのすごさが朝話題になった。




山荘記
2007/10/2

◆ 山荘に行く。9月28夕方出発、10月1日朝帰る。その間ずっと止むこと
 なく雨は降り続けた。白い雲が手に取るような近さまで山の上から静かに下
 りてきて目の前の赤松や椚の林は赤や鈍色の木の幹以外を乳白色の粒子で包
 み込んだ。まだ残暑の季節なのに肌寒く、ここに来た晩に薪ストーブに火を
 入れれば良かったと二日目には思った。長袖のシャツと上着を羽織って我慢
 できなくもない。こんど二週間後に長崎の細君の妹と訪れる時は、家の数本
 の紅葉も少しは色付いているだろうし、秋も深まり確実に火が欲しくなるだ
 ろう。ただ今のところ断熱材を十分施し、窓も防寒を第一に考えて小さく機
 密性の良い竪滑りにし、ガラスも防犯を兼ねた二重サッシにした窓なので、
 そんなに隙間風も起こらない。もともとここは両方の山に抱かれた南斜面で、
 厳しい寒さになる平地の湖の近くより温暖で風のない穏やかな土地らしく、
 この家を建てた大工さんも「母は年取ったらここ大石で暮らすのが夢だった」
 と二年前話していた。
◆ さっきから本棚の下に積み上げた木楢の薪が「ピシッ」「ピシッ」と微か
 な音を立てている。初めは雨が何かを穿つ音かと思っていたが、注意深く聞
 いていると確かにその数十本の薪から音がしている。以前春先暖かくなった
 時、木の中にいる幼虫が羽化して出てくると聞いた事があり、「蜂」や「虻」
 のような姿をした虫がはい回っていたことがある。いつも住んでいる訳でも
 ないから、虫たちも外へ出て行くことも、水や餌があるわけでもないからた
 いてい風呂場や流しの近くで死んでいることが多かった。しかし私が二階の
 書斎でパソコンをいじっている時、大きな「アシダカクモ」が目の前に現れ
 た。先に「同人α」に書いた「シリーズ・歪んだ風景−影」にでてくる日本
 で一番大きな蜘蛛である。故郷で散々経験した後だったので、そんなに驚き
 もしなかった。それより、どこから家の中に入ってきたのか、何を食べて生
 き延びているのか不思議でならない。去年亡くなった母が「アシダカグモ」
 はゴキブリや蜘蛛の巣を張る種類のクモを捕食するから殺してはだめよと言
 っていたのを思い出す。
◆ 薪が出している微かな音は細君にも聞こえるらしいから、やはり現実にで
 ているのであろう。良くオンザロックで年代もののウイスキーを楽しむとき
 にひとかけらの透き通った氷が出す「ピチッ」「ピチッ」という音にそっく
 りだ。四つに割られた白い硬そうな木楢が今日の雨による湿度を感じて呼吸
 しているのであろうか。それとも寒さが始まるにともない厳しい乾燥に身を
 引き締めている悶えだろうか。結局その原因は解明できなかった。自然のな
 かには私がいままで聞いたこともない、見たこともない「物の怪」の気配を
 感じることがよくあるのである。




イギリス名詩選
2007/10/11

ここ二・三日富士山は雲に隠れたまま顔を出さない。
久しぶりにイギリス名詩選を読んだ。私の心情にぴったりの詩だ。

エミリ・ブロンテ

富なんてものは問題にもならない。
恋だって、考えただけで吹き出したくなる。
なるほど、名誉欲か? そういえば、昔夢見たこともあったが、
日が射すと忽ち消える朝霧みたいなものだった。

もし私が祈るとすれば、自然に
口をついて出るたった一つの祈りだ。
「今の私の心をこのままそっとしておいてくれ、
そして、ただ自由を私に与えてくれ」という祈りだ。
嘘ではない。−光陰矢の如しで、どうやら私の
終わりも近い。そこに私が求めるものは、ただ、
何ものにも囚われない一人の人間として、勇気を持って、
生に堪え、死に堪えてゆく、ということだけ!

◆ 河口湖畔の自然博物館近くで毎年クルミの実を採取していたがいまはな
 い。近くのガソリンスタンドのオーナーに聞いたところ、今年の夏の台風で
 目通り1mもあったクルミの大木が倒壊したという。残念なことに今は切り
 株だけが残っている。今年はどこか新しく採取できるクルミの木を探さなけ
 れば今年は駄目かと半分あきらめていたら、「辻が花」の久保田一竹記念館
 の側の湖畔に沢山実っている木をみつけた。早速背負い籠と伸縮自在な剪定
 竿をJマートで求めて勇んで出かけるとするか。
 そうだ、野いちごやクルミや山栗の採取マップをこの冬は薪ストーブに当た
 りながら作成しよう。




窓辺にて−晩夏光
2007/12/15

◆ 14日金曜日週末山荘で過ごすためホームセンターで小さめのショベルと
 木楢の薪二束を購入して車に乗せた。暗くなる前にストーブに火を入れて冷
 え切った家の中をはやく暖めたいと思いながらつるべ落としの晩秋の湖添い
 の道を急いだ。
◆ そう言えば亮子さんのご主人トニーさんもそうであるが、イギリス人のピ
 ーター・メールの 書いた「南仏プロヴァンスの12か月」やフランス映画の
 「マルセルの夏」を思い描き、枯れ葉で覆われた林の小道を眺めながら、窓
 辺に椅子を寄せて亮子さんの詩をよんでいる。あまりにも身近な日本の国内
 の作品よりも、少年の頃思い描いた異国での暮らしの残照が心によぎる、未
 だ見ぬ国の情景を自分勝手に想像できるそんな亮子さんの詩が好きだ。
◆ 15日午後から別荘地の管理組合主導のもとに周りの道路清掃を行う。
 十数人が集まり道に積もった木楢や赤松、紅葉などの落ち葉を傾斜した道路
 脇の林の中に落とした。ほどよい天気で近所の人達と談笑しながら団地を一
 周して廻る。初めて合う人の名前がまだ分からない。常連はほとんど管理組
 合の理事経験者で十数年来の付き合いだそうである。中には数年前に売り出
 された建物を購入した新参の人もいる。夕方から隣の理事長家で酒盛りが始
 まった。大部分の人が定年退職前後の年齢で身近な話題で盛りあがる。
◆ 次の日街からの帰りに家の周りを散歩していたら、昨日の集まりで顔見知
 りになった道路沿いの人に呼び止められた。どうもロフトを手作りで作った
 話題の人で、それを自慢したいらしく家の中に案内された。よその家を覗く
 ことはその家の家族関係や住み方、趣味が一目瞭然に理解できるような気が
 して楽しい。二年目にして碁敵の理事長以外の人と親しくなった。これから
 はもっと近所の付き合いが増えるであろう。

90α編集部:2014/03/26(水) 08:10:29
河口湖通い2008
.

          ??    河口湖通い 2008




      一年の始まりは、いつもこの山荘からのようです。
      都会を離れての数日間は、天気のいい日は、自然とたわむれ、あとは特に
      何をするのでもなく、本を読むか思索にふけるだけのようにも見えます。
      至福の時。




1月

2008年元旦 2008/1/1

外はマイナス5°、朝まだき赤松林の中を散歩した。顔や耳・手先が痛いほどの冷え込み
だ。この寒さになると吐く息が白くならないことを発見した。
さっき映してきたばかりの富士山、この山を見ていると千曲川旅情の歌の
    昨日またかくてありけり    今日もまたかくてありなむ
    この命なにをあくせく     明日をのみ思ひわづらふ
の思いのように、雄大な山の大きさに比して、日々の憂いはなんとちっぽけなものか、後
十数回の年の初めしか残されていない私は、せいぜい今日という日を楽しく過ごそうと思
う。

       


新年のご挨拶 2008/1/1


 同人αの皆さん新年おめでとうございます。昨年より、もはや還暦もとっくに過ぎ、四
 捨五入すれば70という、60の坂を転げ落ちる歳になりましたので親族・友人・会社関
 係の年賀状を遠慮させてもらっていました。しかし同人の方々は特別の思い入れと親身
 なお付き合いをさせていただき感謝に堪えませんでした。いまここにメールにてご挨拶
 申し上げるべく冬空に大手を広げたような雄大な富士を横目にしながら、今年もまたこ
 の風林火山の地で一層の好奇心と野次馬根性と独立自尊の旗印を掲げてキーボードを叩
 いています。

 旧年中はご多忙のなか多くの投稿をたまわりまして感謝いたします。我々新しい試みと
 しましては、いつでも何処ででも、誰の作品でも見ることが出来るように今までの作品
 を全部掲載したブログをリンクしました。また、作品が10編纏まった同人の個別の作
 品集を作りました。現在は田村道子さんと私の2冊ですが、まもなく北島浩之氏の作品
 集が出来上がります。

 さて今年は、同人αのホームページ「東西南北」に投稿された昨年一年の同人の合評を
 CDに焼付け配布したいと思いますのでご期待ください。
 このように今年もいろいろの新しい企画を考えて一層楽しい自己表現の舞台を作りたい
 と思いますので、どうぞ皆様のご協力と誰でも編集長(変酋長・偏執調・辺周長)の心
 意気で誤算禍下さい。

●Oさんから
 明けましておめでとうございます。昨年は色々とお世話になりました。今年もきっと沢
 山面倒を見てもらう事になりそうですが、どうぞ宜しくお願いします。お互い元気で毎
 日が過ごせればよいですね。
●R Rさんから
 新年おめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いします。
 お年賀ありがとうございます。古賀様のアルファへの諸々のお骨折りに何時も感謝して
 おります。2007年はアルファへの投稿もままならぬ程の多忙でした。今年はもうす
 こしゆっくりした生活をと望んでおります。3月には帰国の予定ですのでお目にかかれ
 るでしょう。
 2008年が素晴らしい年となりますように。  らく
●MKさんから
 新年あけましておめでとうございます。
 早々のお年賀挨拶あるがとうございました。古賀さんの知性とセンスが光っていますね。
 アルファでは本当にお世話になっております。皆様の能力に圧倒されっぱなしで、恥ず
 かしいし、その存在も疑わしいのですがもう少しお邪魔させて頂こうと考えております。
 先日の合評では、古賀さんのアドバイス、ご指摘、すごく我が胸にストーンと落ちまし
 た。なるほど・・・と思いました。これ等のアドバイスを肥やしに次作に繋げていくよ
 うにします。本年もよろしくお願いします。
●AMさんから
 明けましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりましたが本年もどうぞよろ
 しくお願い致します。
 新年の富士山の写真を見せて頂き有り難うございます。山荘でのお正月を想像しており
 ます。



3月

山荘へ 2008/3/5

◆さて今度の週末は2ヶ月振りに山荘に行こうと決め、金曜日1:30の高速バスを予約し
 た。兎に角明るいうちに着いてすぐ薪ストーブに火を入れ、家を暖めなければならない。
 今の時期は多分零度前後の気温で、松林の中や、道路脇にはまだ根雪が残っているに違
 いない。日曜日には櫛田君と岸夫妻もやってくる予定になっている。その他、半月前に
 イケヤで求めてきたキットのチェスト3個を組み立ててオイルステンを塗らなければな
 らない。また昨日ギャラリー・日比谷で額装の終わった鈴木信吾の銅版画を飾らなけれ
 ばならない。それから、庭のクマザサの植栽の範囲も高山庭園を呼んで打ち合わせなけ
 ればならない等々、結構忙しくなりそうだ。
◆以前「ならた識」ということについて書いた本を買って読んだことがある。長岡氏との
 会話に出てきたのを思い出して、さんざん辞書で調べたがなかなか見つからない。多分
 仏教用語で「意識」についての哲学的なことがらだったと記憶するが、山荘の本棚にあ
 るかも知れないので探すつもりだ。
◆北島君の著作集の校正(長岡氏の校正を含め)・編集も終わり、最終の著者校のために
 ゲラ刷りを今日彼に渡す。印刷・製本するまでは時間があるので、 2007年度の「窓辺
 にて−赤松次郎の日記」を本にするために編集に取りかかった。そのまま一太郎にコピ
 ーするが、時系列に並べ替えることと、写真を新たに取り込まなければならない。どう
 も200ページくらいになりそうで、1冊にするにはホチキスが止まらないのではと懸念
 される。3冊にするか、それとも B5をA4にしてページ数を減らすか思案のしどころ
 だ。



家の温度 2008/3/8

◆午後三時ごろ山荘に着く。いそいで薪ストーブに火をいれるものの冷え切った家はなか
なか暖まらない。今日は外気温5度の方が高く、いままで長い間低い温度でじっくり冷
 やされた家は、断熱効果のおかげで外気温が上がってもそのマイナス5度状態を律儀に
 守っている。だから一度全部の窓を開けて空気を入れ換えた。
◆やっとTVの映画に時間になったころ18度になった。この温度まで上がると、すきま
 風はないし家全体が暖まっているので風の動きもなく快適である。北側の部分や林の中
 には未だ雪が残っている。近所の家の屋根の雪は無いのに、私の家の屋根だけ積もって
 いるのは、やはり常時住んでいると家本体も温度が高いのかも知れない。
◆やがて夕方より雪になった。街灯の明かりをよぎる雪の灰色の影が繁くなる。



田舎生活  2008/3/9

◆結構一日中雑用で忙しい。これは私の意に反することだ。田舎生活を憧れる人は畑仕事
 に精を出すことを厭わず、来る度に土をいじっている。向かいの夫婦も、下の男性も仕
 事着にはまって籠を担いで貸し菜園に出かける。私は山荘ではなるべくそのような労働
 をすまいと思っている、何のために都会の仕事から逃れてきた意味がないないのではと
 思っている。
◆昨日は夜半より雪が降った。今朝は良い天気になって、昨日の雪が日の当たる木々の間
 から解けてきた。雪の残る木の陰の鋭い三角の模様が面白い。

       




4月

山荘へ 2008/4/12

◆昨日の金曜日午後から山荘に向かう。
◆済まさなければならない事が山積している。
  1.前原東2丁目住宅の構造図作成
  2.北島君の著作集の最終校正
  3.2007年度赤松次郎日記の校正
  4.「定年退職後の日々第三回」の合評
  5.一の宮の桃の花を見に行くこと
◆富士吉田あたりまでは桜が満開で素晴らしかったが、ここ河口湖のまわりはまだ桜の花
 は蕾のまま、山吹の花も葉もまだである。そのかわり梅の花とこぶしの花咲いているが。
 やはりここは寒い土地なのだろう。
◆小林秀雄全集第四巻 P226
 今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬ。

       



蟻地獄の穴 2008/4/12

本郷から送った本の宅急便が10:30に届いた。そのあと車で出かける。御坂道の峠の長
いトンネルを抜けると、染井吉野の満開の花が常緑樹の山々の中に映えて見事である。木
楢や椚の木の芽もちらほらほころび始めている。樋口一葉ゆかりの塩山の慈雲寺にあるし
だれ桜を見に行くのを途中でやめて、桃の花を見るために左に曲がった。昨年も訪れた桃
祭りが開催されている公園を訪れる。一回りして帰りに桃の花の切り枝を100円で購入
した。枝も見えないほど花が着いていて、中心に向かってピンクの色が強い5弁の花びら
である。
 出かける前に床下の物置を覘いたら不思議な5条の線を見つけた。力を入れて小枝で土
を掘りながら絵を描いたような1メートル50センチほどの長さの線が傾斜した上から放
射状に下に伸びている。最初は水道(みずみち)かと思った。それにしては土は乾燥して
いて、水の流れであればもう少し広がりをもった線になるだろう。私はてっきり薪ストー
ブ用に積んでいる木楢の束から孵化した何かの昆虫の幼虫がはい出したのかと思った。昨
年の春から夏にかけて木楢の木の中に生み付けられた幼虫が孵化してはい出していたのを
見ていたからだ。
 桃の花見から午後に帰ってきたら、クマザサの植栽を頼んでおいた高山造園の職人が5
・6人庭で作業をしていた。私は社長の高山さんを見つけ、床下の不思議な線の話をした
ら、あれは蟻地獄の虫がはいずり回ったあとですよと教えてくれた。よく見ると線の先端
に二カ所丸い漏斗状の孔がある。確かにこれは小さいころ遊びに行った田舎の従兄弟の家
の近くの社の縁の下で見つけた蟻地獄の穴であることを思い出した。
 Wikipediaより
蟻地獄:ウスバカゲロウの幼虫。体長約1センチメートル。乾いた土や砂にすり鉢状の穴
を掘り、その底に隠れて落ち込んだアリなどを捕食する。すりばちむし。あとびさり。あ
とじさり。[季]夏。地方によっては極楽トンボ、神様トンボなど様々な俗称がある。



クラブアップル 2008/4/13

 私が林檎の木や胡桃の木を庭に植えることが長年の夢であると申し出ても、高山造園の
社長は「実のなる木は花の頃はいいが野生の猿や毛虫などの問題がおおく手間が掛かって
面倒だ、このような別荘地域では自然のままが一番いいですよ」といって一向に取り合っ
てくれない。だからイロハ紅葉や熊笹は彼の好みに合ったらしく快く植栽を引き受けてく
れた。
 だが、細君はターシャ・テューダー家の庭園に憧れてよく冊子を見ていたが、そのうち
クラブアップルの花に魅せられて、高山さんの仕事も終わったしこっそり庭の隅に植える
ことを主張した。だから今日Jマートで早速2mばかりの高さのクラブアップルの苗木
2本を求めて来て、南側のテラスの向こうに植えた。今年は清楚なリンゴの花が5月中旬
には見れるだろう。
 クラブアップル−googleより
分 類:バラ科、マルス属
原産地:主にヨーロッパ、北アメリカで改良された園芸品種
類 別:落葉性、高木性、広葉樹(エゾノコリンゴ、ハナカイドウの仲間)
特長・性質:花が大きく、つぼみのころから楽しめます。野生のコリンゴにくらべ各品種
とも花弁が大きく白、桃、赤藤色などがあり、半八重咲きの品種もあります。



村松さんのこと 2008/4/29

 昨日山荘の隣の村松さんの奥さんから携帯に電話があった。山荘のホームページ上で別
荘地の元管理組合長の村松さんが4月13日に亡くなったということは知っていたが、そ
の件で奥さんから改めて知らせてきた。今度行ったときにお線香を上げようと思っている
由を告げる。奥さんは村松さんは最後に「お世話になった皆さんを呼んで御馳走してくれ」
という言葉を残していったから、5月24日にどうぞ来て故人を偲んでくださいという知
らせであった。
 村松さんは私の碁敵で、彼と最後に打ったのは昨年大晦日だった。酸素マスクをしなが
らでも、気力は衰えていなかったように思えたが、それでも健全だった昨年の秋ごろより
もそのときは多少勝負に淡泊なように感じられた。その前日からその日まで8回打ったの
だが、8回とも中押し勝ちで圧勝したのだが、今思うと手加減して花を持たせたらよかっ
たと少々反省している。享年85歳、ご冥福を祈る。




5月

小宮さん 2008/5/2

◆朝7:40高速バスで山荘に出かける。富士吉田近くまで来たとき小宮さんから「いま忍
 野にいる、これから河口湖駅に向かうが如何?」という電話があった。では10:15に
 逢いましょうという事になり、待つ間駅のカフェでコーヒーを飲む。気温13度で少し
 東京よりも寒い感じだ。 小宮さんと逢い「さてどうしよう」、「ミツバツツジがきれい
 なところがあるが一緒に行きますか」という彼女から誘いがあり細君と私の三人で行く
 ことになった。じつは私の四輪駆動のジムニーは税金の安い荷物専用の「貨車」登録に
 なっているから、小宮さんは荷物になってもらって後ろの座席へ。途中スーパーで食料
 の調達をした後、青木ヶ原樹海方面へ走ること10分、見事なミツバツツジの満開の群
 生を見た。西湖を廻って河口湖にいたり湖に面するレストランで山菜そばの昼食をとる。
 その後山荘にて2時間ばかり三人でお茶を飲みながら歓談する。3時ころ小宮さんを河
 口湖駅まで送る。途中の山吹、八重桜、辛夷などの花が美しい。天気予報が大いにはず
 れ一日中曇りや小雨だったが、雨に濡れた新緑もまたいいねと話し合ったことである。
◆息子から譲り受けたコンピュータが4時ごろ届く。いろいろ調整したが、二点だけうま
 く出来ないことがあった。一つはキーボードのローマ字対応から日本語タイプへのドラ
 イブの変更がうまくいかない。そのため@マークや;、:などのキーの場所が違うこと。
 二つめはインターネットのワイヤレス受信がセッティング出来なかった。いずれにして
 もこのコンピュータのシステムのCD−ROMを本郷に置いてきたのがいけなかった。
 こんど来たときまで今までのコンピュータで我慢するか。



山荘便り−2 2008/5/3

◆隣の村松さん宅へお線香を上げに行く。奥さんも一人になって寂しそうである。特に真
 冬は雪が凍って、車が使えない時があり閉ざされるから、これからどうしようかと思っ
 ていると聞いた。藤沢に今飼っている犬の「はなちゃん」が一緒に暮らせるマンション
 でも購入して住もうかとも考えているといわれた。
◆「脳と仮想」茂木健一郎
  *クオリア(質感):脳から心がどのように生み出されるのかという謎。
  *宇宙の中の森羅万象はその客観的なふるまいにおいて、数字に直すことができ、方
   程式で書くことができるという科学的世界観があるが、それだけではない。 それは
計量できないものをクオリア(感覚質)である。




村松さんを偲ぶ会 2008/5/24

◆pm1:00より富士ビューホテルにて村松さんを偲ぶ会に細君と出席。
 100人ほどの縁の人たちが集まった。ここ亀甲台からは管理組合に関係した20人ばか
 りで、理事ではない私はたぶんお隣さんで碁敵だから呼ばれたのだろう。
◆4月に植えた二本のクラブアップルの白い花が咲いている。
 湖の側の朽ちたアパートの敷地に、昨年の台風で倒れて根本から切られた胡桃の巨木の
 廻りに実生の苗が何本かあった。その中の二本を失敬して山荘の敷地に植えたのだが、
 春先にクマザサの植栽を依頼した高山造園の工事で引き抜かれたのか姿が見えなくなっ
 ていた。その中の一本がけなげに生きていて新芽を出していた。果たして立派なクルミ
 の実をつけるように大きくなるだろうか。姿の見えない残りの一本は昨秋葉を落とした
 ので単なる雑木とみなされ引き抜かれたに違いない。




6月

「ひとりぼっちのセキセイインコ」*感想番外編  2008/6/21 *同人α15号

いま山荘の窓からシトシトと降り続く雨を眺めながら「ひとりぽっちのセキセイインコ」
の遅すぎた感想番外編を書いている。二年前に本郷の公園の見えるバルコニーの鉢植えか
ら持って来たラビット・ラズベリーがやっと土地になじんだと見えて、今年はかごいっぱ
いの赤い実が採取できた。朝食に添えて恐る恐る食べてみると、野趣豊かな野いちごの甘
い味と香りがした。これはいける、このイチゴは生命力も強く冬にも葉を落とさないから、
冬枯れの敷地に緑のさわやかさをつくってくれるカバープラントとしては最適だと思え
た。いつか見た四谷から市ヶ谷へ向かうお堀に面した黒松林の中に群生していたラビット
・ラズベリーのように・・・。
 さてこの詩は、カオちゃんやおばあさんへの惜別の情が特に強いわけでもない。まるで
パステルカラーの淡い色で描かれた,夢見るようなマリー・ローランサンの少女像のよう
な、透明で明るい光で包まれ、時間の止まった二次元の空間を思い出させる。そして、エ
リック・サティのジムノペディの音楽のような静かな諦観に満ちている。そこには鳥かご
を出て力強く羽ばたき積極的に生きる自由な姿は見られない。そこが好き勝手に生きてき
た私にとって、優しさと美しさに感じ入る一方で少々不満でもある。

       




7月

ラベンダー祭り 2008/7/13

◆山荘に行く。血圧計を忘れた。上が120台下が70台だから一応正常値を保っているの
 で、そんなにシリアスと考えていないからであろう。
◆河口湖町のラベンダー祭りをやっていた。13日の日曜日までとのこと。
◆ツルバラ用の垣根を作るために、高さ90cm直径6cmの焼いた杉丸太を3本とメッシュ
 のビニールフェンスをJマートで購入した。夕方日が西に傾き、暑さがやわらいでから
 その作業をした。こういう作業は苦手だが思いの外簡単にスムーズに完成した。
◆朝、昼とテラスで食事をする。天気はいいし、適当な木陰と快適な温度、さらに遠くの
 せせらぎの音、まさに屋外のいすに座りボケーと時間を過ごすにはいい季節だ。
 この辺は九州の郷里とちがい、蚊や蜂やムカデ、蛇といった不快な害虫が少ない。ヨー
 ロッパやアメリカの北の地方のように冬の寒さが厳しいせいなのか。傾斜地でヤブ蚊が
 発生するたまり水ができない地形だからか。
◆東京は真夏日で熱帯夜とニュースでは言っていたが、ここの夜は長袖でも着ないと寒い
 感じがする。窓を開けて寝ると風邪をひきそうだ。
◆夕方、近くを流れる渓流に行き双眼鏡で水の中を覗いたら、水流が激しくそんなに深い
 淵はないが、20cmにも満たない小さなヤマメかイワナが4・5匹ところどこにある淀み
 にいるのをみた。川筋の要所には10m近い砂防ダムがあるから、昔からいたのではな
 くいつかだれかが放流したと考えられる。

       




8月

すずめ蜂 2008/8/9

 山荘の隣の村松さんから電話があった。薪ストーブの煙突にすずめ蜂が巣を作り始めた
らしい。今のところ煙突の外なのか中なのかは判らないが、明日行ってみてもし内部なら
ば、この真夏にストーブを焚いて出て行って貰おうと思う。先週の管理組合総会の後の懇
親会があった。その屋外バーベキュー会場で、細君は両足の至る所をぶよに刺されて痛が
っている。一週間たってもまだ腫れ上がっている。いつかまれたか判らないほど小さい虫
だが毒は強い。
 ブユ(蚋)は、ハエ目(双翅目)・カ亜目・ブユ科(Simuliidae)に属する昆虫の総称。
約50種が存在する。ヒトなどの哺乳類から吸血する、衛生害虫である。関東ではブヨ、
関西ではブトとも呼ばれる。英語では Black fly
成虫は、イエバエの4分の1ほどの大きさである。
 カ(蚊)と違い吸血の際は皮膚を噛み切り吸血するので、多少の痛みや流血を伴う。そ
の際に毒素を注入するため、吸血直後はそれ程かゆみは感じなくても、翌日以降に(体質
にもよるが)患部が通常の2倍ほどに赤く膨れ上がり激しい痒みや頭痛、発熱の症状が現
れる。ひどい場合はリンパ管炎やリンパ節炎を併発することもある。  Wikipediaより



花壇の手入れ 2008/8/11

◆Jマートから杭とビニールフェンスを購入。つるバラ用の垣根をつくる。
 前回に買ってきた4キロのハンマーは杭を打ち込むのに実に有用だ。しかも 冬には堅
 いさわクルミの実を割るのにも力を発揮するにちがいない。



早起き一仕事 2008/8/12

◆今朝は早起きして山荘の木造の階段を防腐用の塗装を塗る。一番上のステップにいた野
 良の子猫と目があった。この辺にも住み着いているらしい。
 木材保護着色用塗料(日本エンバイロケミカルズ株式会社)
 キシラデコール  屋外木部用保護着色塗料
 木部に浸透し、内部から防腐・防カビ・防虫効果を発揮。色持ちの良い優れた耐候性。
 木目を生かした自然の仕上り。木の通気性を保つ浸透タイプ。塗りやすく、抜群の作業
 性。
◆8月26日(火) 熊野古道ウォ−キングと暑気払いを兼ねて集まりましょう。時間は
 午後五時半、いつもの所で。参加できる人だけでやりましょう。今のところ参加確定者
 は、金子・古賀・香月・熊井の4人です。 時間が早いですから、予約無しでどこかに
し けこみましょう。




9月

雨ごもり 2008/9/23

 三日間ずっと雨で山荘にこもったままだった。
晴れた日の朝は小鳥の声で目をさますのだが、遠くの谷川のせせらぎを除くあらゆる音を
吸収して、しっとりと湿った森は沈黙している。未だにその美しくさえずる小鳥の名前が
わからない。キリテ・カナワの唱うオーヴェルニュの歌のようにリズミカルにゆったりと
したのびのある声は、イタリアのホテルでも聞いた記憶がある。あれがナイチンゲールな
のか、和名をノビタキといらしいが本当のところは解らない。
 K君からもらった「ホーキング宇宙を語る」と山荘においてある小林秀雄の「様々なる
意匠」を読む。 小林秀雄全集は昭和四十二年出版なのに「文芸」を「文藝」「恋愛」を
「戀愛」などと旧字体を使っているのはどうしてだろうと疑問に思った。たぶんこの原稿
は戦前に書かれたもので、新字体では現せない感覚を作者が大事にしたのだろうという思
いに至った。四日目にやっと雨が止み、東の峰から太陽が顔をだすと強い光が林の間をキ
ラキラと乱舞する。あす東京に帰ったら、また忙しい時間に翻弄されるのか。




10月

トリカブトの花 2008/10/12

 山荘に着いた日は十三夜だったので明るいうちにススキの穂と野の花を摘んできて花瓶
に挿した。夜、高木の葉の間に瞬くように光る月をみながら、ちいさな白い団子を三つ食
べた。
 今朝は早起きして薪ストーブ用の杉の葉を集めに谷川の林に下りてゆく。もう標高千メ
ートルのここは肌寒く、厚手のセーターが必要だ。沢までの草深い道には名もない菊科と
思われる白い小さな花がちらほら散在する。その中に紫苑色のトリカブトの花を見つけ、
一枝手折って持って帰る。
 牧野富太郎の植物図鑑でしらべると、やはり根にはアルカロイドの猛毒を含むという、
見た目の可憐さとは裏腹にドキリとさせる植物だ。そしてこの山荘の敷地に自生していた
一本の大木と昨年植えた三本のいろは紅葉はまだ紅葉していない。

       




11月

山荘だより 2008/11/1

 今年は山荘に来るたびに雨に遭った。久しぶりに今朝は晴れて八時過ぎに東の山の端か
ら太陽が上がってきた。枕の草紙で清少納言の書いた「山際」と「山の端」の違いを、昔
散々古文の授業で教えられたという記憶が蘇った。
 この場合はどう表現するのだろうと辞書を引いてみた。山際は空の山に接する部分、山
の端は山の空に接する部分とあった。やはりこの場合は山の端から太陽が顔を出すという
表現が正しいのだろうか。時々そのような言葉の意味をあまり深く考えると何がなんだか
解らなくなってくることがある。
 我が家は時に氷点下20度の厳しい寒さになるとの理科年表のデータを採用して、でき
るだけ断熱効果のあるように二重ガラスの高機密性のある小さな窓にした。だから部屋の
中は普通の日本家屋のような開放性はなく、おまけに壁を真っ黒の塗装をした杉の板張り
としたものだから部屋の中はすこぶる暗い。白内障を患っている私は、白昼の屋外を歩く
と光が乱反射し白濁して物がよく見えないのだが、ソファーに座って本を読んだり、音楽
を聞いたりするにはその部屋の暗さがちょうどよい。若いときのような明るさにはもう耐
えられないのであるが、だからといって山荘を建てるときにそのような情態に自分がなる
などとは思っても見なかった。その山の端から出た太陽の光が、木楢の葉を通し部屋の奥
深くまで帯状となって射し込む。
風で木々が揺れるたびに光がちらちらと輝き揺らめき、自分のいままでのそしてこれから
の人生を表現しているような思えた。
 いま山荘のまわりの公孫樹は鮮やかな金色になっているが、いろはもみじはまだ紅に染
まるまではあと十日ほどの時間が必要のようだ。今年もまたそのタイミングが難しく、我
が家の見事な大木の色づきを見られそうもないのが残念である。



ストーブ係 2008/11/23

 朝11頃山荘に到着。部屋の中の気温は3度で、じっとしていると芯から冷えてくる。
すぐに薪ストーブに火を付けなければならない。家から持ってきた朝刊を全部ストーブに無理矢
理押し込む。まるで食べ物を口いっぱいに頬張るような具合だ。その上に細かい木片を10
本ばかりのせて火を付ける。
 最近は火を熾すのが我ながらうまくなった。江戸時代の火付け盗賊の親分の腕だなどと
冗談を言いながら、一発でたきつける。しかしよく放火の事件を耳にするが、家に火を付
けて火事にするのは結構難しいもので、たき火すら燃せない若者にキャンプで出会ったこと
がある。
 さて、家一軒の隅々まで暖かくなるには5時間ほどストーブに薪を燃やし続けなければい
けない。そうすると後は消えない程度に薪を継ぎ足せばよいし、寝る前に火を落としても
朝起きても15度ほどに保てていて、寝間着のままどの部屋に行っても寒くはない。
 ストーブに新聞を詰めながら考えた。気づいて見ると朝刊は40ページという、思いもしな
かったほどの枚数で成り立っている。この文字でびっしり詰まった読み物を毎日読んでい
るわけだ。そこで文庫本にしたらどうなるかを考えてみた。面積で比較した方が手っ取り
早いから下のような計算をした。
   新聞紙:45cm×55cm×40ページ=99,000c?
   文庫本:10cm×15cm×300ページ=45,000c?
   99,000÷45,000=2.2≒2冊
 以上の結果、毎日隅々まで読む人は、文庫本2冊をものにしているということが解った。
・・・などと金のかからない妙な遊びを見つけては楽しんでいるのである。




12月

山荘便り 2008/12/28

◆今日は朝日に映えた富士が窓越しに見えている。雪のない夏の「だらけた姿」より、雲
 一つない凍てつく空気のなかにスックと立つ白い雪を纏った様子の方がずっといい。富
 士山は冬がいい。月見草の咲く季節ではないが、正月になったら太宰治が逗留して富岳
 百景を描いた天下茶屋まで登ってみようと思った。
◆長岡さんよりクイズの正解者の吟遊視人氏と私の二人に何か商品をくださるという。私
 達に共通するものという示唆がありましたので、左翼的な思考を矯正するための毒薬か
 水責め、スペインの蜘蛛、猫鞭、鉄の処女、ユダのゆりかご、火頂、石抱き、皮鞭、ラ
 ック、猫の爪、リッサの鉄棺、ガロット、貞操帯、などの拷問の道具かもしれない。い
 ずれにしろ楽しみに待っています。
◆馬込の先生から借りたウイリアム・アイリッシュの「幻の女」を読み出した。とにかく
 書き出しがなかなかいい。「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気
 分は苦かった」。まさにうまい台詞である。もう一つ感心したのは主人公が6階のフロ
 アーに登るために乗ったエレベーターの動く描写で「ロビーが下にさがってゆくのが、
 外扉にはめ込んだ小さな菱形のガラス窓越しに見えた」、普通だったら上に動き出した
 などといった月並みな表現で我慢するだろう。それを下がっていくという、まるで反対
 の表現を使ったところが憎いところである。
である。



91α編集部:2014/03/26(水) 15:48:57
河口湖通い 2009
.

          ??    河口湖通い 2009



    この年は山荘だよりがすこぶる少ない。年頭の山荘からのたより「偏西風」
    は、風の吹き始めを予感していていたのでしょうか。それとも山荘通いに
    少し飽きてきたのでしょうか。




1月

 偏西風−夜間飛行  2009/1/1


       


 新しい年が明けました。まずは経済的にも政治的にも未曾有の激動の年になるでしょう。
私の頭の中にできあがった価値観を見直し、修正し、新しい規範を作るべく努力するには
とっておきの社会情勢となったわけです。本来は世紀末のバブルが崩壊してから五年後の
2000年という切りのいい節目で20世紀という時代を総括し、新たな価値観を探し当
てていなければならなかった。しかしそれも10年遅れた訳です。拝金主義の亡者による
投機的な経済行為がはたして正当性があるのか、少子化がはたしてすべて悪なのか、飽食
や虚飾や既得権に守られた古いシステムや考え方がこれからの世の中で存続できるのか、
国民が許容できるのか等々・・・。
 さて新しい年の始まりにあたって、コラム名を「激辛戯評−磁気嵐」から「偏西風−夜
間飛行」に改めましょう。なぜなら「激辛戯評」ではテーマが限定されるし、勢い憎まれ
口に傾きます。しかも「磁気嵐」ではどうもホームページ荒らしの印象を与えて来たみた
いで、投稿した後は妙に沈黙を誘い、白け鳥の舞うところとなりました。また少数の人を
除き反論も賛同も得られない寂しさを味わいました。ミーハーの環境一辺倒になることを
懸念してのもので、苦いこと・まずいことなどの敢えての問題提起はそれなりに効果はあ
ったと自負していました。
 昔、日本航空の提供で「ジェット・ストリーム(偏西風)」という深夜のラジオ番組が
ありました。フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの「ミスター・ロンリー」
の曲でが始まり、城 達也の魅惑的な声に乗って様々な美しいイージーリスニング音楽を
知りました。そしてエンディング曲は「夢幻飛行」で終わった。私は見上げる満天の星の
煌めきと地上の人の営みに心馳せて飛ぶ「夜間飛行士」になって、これからは余り不興を
買うことは控えて昔の心やさしい自分に戻りましょう。





6月

窓辺にて―山荘便りその1????2009/6/20

◆ブラックベリー
 すっと昔旅先のシアトル郊外の丘でたわわに実った野生のキイチゴを見つけた。その衝
撃的な漆黒の色に魅されて5年ほど前建てた、外壁も内装も真っ黒なワトコオイルで仕上
げた我が山荘を、ブラックベリー・コテージと名付けた。そして苗数本を本郷で求めて植
えたのだが、なかなか思うように成長しない。看板も手作りで板にblackberry
 cottageと彫り込んで玄関の柱に取り付けたのだが、ジャムがいっぱい作れるほ
どに栄えないかぎり、この山荘の名も別のものに変えなければいけなくなるかもしれない
と思っている。自生の大木が1本、2年前に若木を3本合計4本の「いろは紅葉」に因ん
で「紅葉荘」とでもするか、もうしばらく様子をみようか・・・。

       





窓辺にて―山荘便りその2 ??2009/6/20

◆卯木の花
 今年初めて気づいたのだが、山荘の敷地の西の隅に鎮座する5トンもあろうかという天
然の大きな岩の間から、綺麗な白い房状の花が咲いていた。買い物に街へ出かけたあと、
夕方その二房を手折って花の名前を調べることにした。たぶん卯の花の一種だと思ってい
たが、原色牧野大図鑑で確かめるとやはりマルバウツギという名の晩春に咲き秋には赤い
実をつける1.5メートルの灌木と書かれてあった。

       

◆熊笹
 冬枯れの敷地に緑の色がほしかったので、昨年の暮れに敷地の周りに大熊笹を植えた。
今その新しい大きな葉が元気よく繁殖している。高山造園に植栽を依頼するとき班の入ら
ない葉をといっていたのに、そのときは班が入っていた。しょうがないなあと諦めていた
が、どうも冬の間は外周が白くなるらしく、今の新芽には班は全くなく綺麗な緑一色なの
である。迂闊にも冬と夏は違うということを今知った訳である。





窓辺にて―山荘便りその3 2009/6/20

◆ラビットラズベリー
 白い可憐な花が咲いた。昨年はたくさん実がとれて賞味したが、今年は余り実っていな
いような気がする。それともこれから花が盛んに咲き実を付けるのだろうか。以前四谷か
ら市ヶ谷に向かう堀の土手の黒松林のなかにこのラビットラズベリーの群生が白い花を付
けているのを発見したときは、こんなところにしっかり生きているのかと嬉しくなったこ
とを思いだした。本郷から持ってきて植えたのだが、気候に合うらしく、またもともと野
生のもので生命力も強いから放るほっといても栄えてくれるだろう。

       

◆もみじいちご
 偶然もみじいちごの黄色い実を隣の藪のなかから見つけた。葉の裏になる物だから上か
ら見てもなかなか気づかない。傾斜のある敷地の下から登って来るときに、隠れていた美
味しい甘い実を見つけて採取した。このように野イチゴはいろいろの種類があり、実る時
期も違うからその時々で楽しめる。

       





11月

紅葉考  2009/11/8

 50年以上経ていると思われる実生のカエデの木が敷地の西隅にある。山荘を建てると
き、この木だけは絶対に伐採しないで残すこそうと決めたほど見事な大木で、最下部はま
だ深緑色で中間が黄色、上の方は真っ赤な色という緑から赤へのグラデーションはすばら
しい美しさだ。
 今度の週末はこの紅葉を楽しみにやってきたのだが、一寸早すぎたようだ。家の紅葉を
見るタイミングはなかなか難しい。
 カエデの種類もイロハモミジ・イタヤカエデなど数十種におよび、そのひとつひとつの
木によって色着く時期が違っているし、またその色も黄色や赤色とそれぞれまちまちであ
る。この写真の紅葉は河口湖美術館への湖北を通る道の並木だが、このほかに公孫樹や木
楢や唐松の黄色が楽しめる。町による紅葉まつりを見て回ったが特別の感慨はなかった。
やはり山の中で静かに散策する方がよい。クリックすると元のサイズで表示します

       



92α編集部:2014/03/26(水) 23:45:49
河口湖通い2010
.

          ??    河口湖通い 2010




     この年は前年に増して山荘便りが減っています。著者が創立から携わってきた
     同人αに異変があったからでしょうか。年末年始を除きいつ山荘へ行ったのか
     も定かではありません。
??????????2009年末、より読みやすく/親しみやすくと「個人別作品集」「著者ポートレ
     ート集」を作り上げた氏の努力も空しく、この年の春多くの仲間が同人αを去
     っていきました。それでもこの新企画はさらなる企画のバネとなってくれたこ
     とだけは確かです。




1月




α新企画   2010/1/1
その通り、惚けたふりも作戦のうちです!! 老いたら子に従えと言いますし、私はそう
そうたる貴族で才能にあふれた項羽よりも、むしろ才能のある人たちに囲まれて天下をな
した、ごろつきの劉邦がいい。とにかくこのたびの著者集やポートレートおよびコメント
ブログは、すごいものになりつつあると自画自賛したい。あくまでもその効能が判る人で
なければその価値は判らないでしょうが。



??????????「長岡氏より」
     Oさんへ  長岡曉生
     賀状メールを有り難うございました。フランスでは、皆さんお揃いで、楽しく
     お過ごしのことでしょう。今年も、田村さんと亮子さんには、色々とお世話に
     なると思いますが、なにとぞ宜しくお願いいたします。そこで、一つお願いが
     あります。(ソラ、もう始まったぞ)うすうすはご存じでしょうが実は、日本
     時間の今日中に、古賀ペアから赤松さん:作品集の一新(著者一覧からの検索
     を追加)万理さん:ブログ画像とコメント集の新搭載という、アルファ画面の
     大刷新につき、年頭の花火が上がります。なにとぞ、異国からの盛大な拍手を
     お願いいたします。





惚けるふり
あらためまして、今年もお手やわらかによろしくお願いします。いろいろと職務ご苦労さ
んです。寡黙ゆえ言葉に出してきませんでしたが、実はびっくりするほど感謝しています。
そしてその職務遂行能力の高さは万理さんも長岡さんも、私の及ぶとところでは無いこと
が判りました。もはや私に残された手段は独り言と惚けることしかありませんでしょ…。
今後はなるべく見えないふり、聞こえないふりにて義理を欠こうかと思う心算です。
まあ今後ともよろしくおつきあいください。
追;これからの文(ふみ)は誤字・脱字・変換ミスのオンパレードにて失礼。





「1月2日の訪問者より」

「赤松御殿の合評と感謝に変えて」  Y.コバルト 2010/1/3
兄、姉に送ったメールを送ります。昨日は本当に楽しかったです。ありがとうございまし
た。
兄さん 姉さん
卓夫兄さん、一泊して今日二日は河口湖にある和彦さんの別荘へ。顔にも少々皺が出てき
ている兄の顔を見て、そうかもう6x歳なのかと・・・・・ そういう私も皺が増えたの
かな?(最近鏡見ないし視力が急激に落ちている)などとふと考えてしまいました。
往復長距離ドライブ本当にお疲れ様でした。
とても楽しいひとときとなりました。二日に渡る兄さんのおしゃべり、どれこもこれも楽
しかったですよ。感心するのは、いつも工夫をこらした品々を用意する、話題に合わせた
品を用意する、その能力はたいしたものです。
 和彦さんのこだわりの「家」
夫妻こだわりの「家」素敵でしたね。葉の緑(春夏)と幹の茶色にはやはり黒がしっくり
おさまる。紅葉の秋にもしっくりおさまる。外壁の黒、そんなこだわりかな?部屋の中は
すっきりさっぱり、余計なものが一切ない。何にもない。本と小物と絵と本。それでも冬
のこの時期は薪ストーブが主役。家全体を暖めてくれます。心まで暖めてくれます。チェ
ックの赤白のテーブルクロスとマットカバーも暖かい。 春夏秋の主役は外の景色と風か
な?計算づくですね・・・・・
奥様とは約20年ぶりの再会。ちっとも変わっていなかった。こんなに背が低くて可愛らし
い人だったんだ〜と改めて見てしまいました。ちょっと少女みたいな雰囲気。美味しいご
馳走いただきました。雑煮が逸品!!もっとゆっくりお話ししたかったな〜。 姉さん、
今度皆で行きましょうよ。きっとショック受けるよ。何にもなくてスッキリしてるから。
姉さんの二つの家と比べて・・・また頭痛くなってしまうかも。
でも良いヒントになるかもしれません。お片づけのヒント、生き方のヒント。物に埋もれ
て生きていく・・それも一つの選択だと思います。自分が居心地の良い方を選べばいいだ
けのことです。でも一度は見る価値があります。あのスッキリ御殿。
まあ何だかんだの2009年でしたが、今日富士山を見て心癒されました。
兄さんと和彦さんご夫妻に感謝!!


古賀和彦様 ○子様??????????????Y.コバルトの兄
昨日は丁重なおもてなし有難うございました。久し振りに素晴らしいインテリア、色彩の
空間を満喫させて頂きました。こちらで写した写真を参考までに送付いたします。(抜粋)

<1月3日  薪ストーブ>  Y.コバルトの兄
●子様 Y.コバルト様
兄です。
昨日2日は朝7時過ぎにコバルトのマンションを出て、帰り夜6時過ぎ和彦さんの別荘を出
て、帰路コバルトを自宅前でおろして我が家に帰り着いたのが夜10時過ぎ。少々疲れたの
で、今日の東京写真美術館行きは中止。行き、河口湖インターを降りて和彦さんと待ち合
わせている公園には一発で行けましたが、帰路は闇夜で河口湖インターに入る道を間違え
たり、高速に乗っても夜中の100kmのスピードは、年のせいか緊張するし、途中から渋滞
になったりで、気を遣う運転でした。
所で和彦さんの別荘は、予想に違わずすばらしいものでした。特にシンプルな内装のイン
テリア、色彩が。初代叔母さんが住まわれていた大谷の、薪ストーブのある広いリビング
のイメージをそのまま一軒の家にしたような感じでした。
以下4枚の写真で紹介。
1.外壁の板張りが黒の落ち着いた外観。左端上の道路から降りて玄関へ。
2.下の南側から。
  3つ窓がありますが左窓側に食卓があり右窓側に薪ストーブがあります。赤松の生え
  ている下の敷地は、高校時代の友人のもの。
3.この薪ストーブだけで、2階の寝室まで全館暖房。左棚には大型液晶テレビが組み込
  まれています。
4.○子さん趣味のテーブルクロス、○子さんの友人が織った壁布の色彩が良い。
  (抜粋)





8月

夏休み 2010/8/12

今朝は気温23度、半袖の服では肌寒いです。台風の影響で雨。一日家にこもりマイケル・
サンデルの「Justice」を読みましょう。
XXさんが言うように、いまさら「○○さんの評」なんてちゃんちゃらおかしい。あのと
きベタは彼の合評を拒否したくせに。□□君の入会で気をよくしたのか、もう一度秋波を
送って様子をみたのか、unconscious hypocriteもはなはだしい。
そういえば昨日、山荘に□□君の著中見舞いの立派な手紙が来ていた。どういう風の吹き
回しか、同人ベタに再入会する報告もよこさなかったくせに、いままでよこしたこともな
かったもので、内容が単なる季節の挨拶だけとはその意図が私には解せない。
これは長岡さんに質問
このごろ「平家落人」氏の投稿があり、佐高出身らしいのですが、もしかしたら△△さん
の同期ではありませんか。発信元がibaraki.ocn.ne.jpになっていますが心当たりや如何?





「北君からのメール」 2010/8/14
 古賀君
今日ごろは多分河口湖で消夏中?うらやましい。僕は忙しくてなかなか伺えません。とこ
ろで、「むげん」のゲラ誌が届きました。中身はこれからだけど、表紙がすこぶるいいね。
夢想がすぐれ、絵が生きている。まず表紙は一流誌にまけないね。
 北 君
忙しそうでなによりすね。小生、珍しく仕事を抱えずに山荘隠りでのんびりしています。
表紙絵は今年の始め小柳さんの息子さんの、芸大の卒業制作発表会に見に行った時に見つ
けた彼の習作で、私の気に入ったものです。今回のSF的なテーマに合っていたので小柳
さんにこれを使うように勧めたもので、不思議な雰囲気がいいでしょう。昔見た「海底2
万哩」という映画に出てくる潜水艦「ノーチラス号」を思い出しました。今回も100ペ
ージを越えました。皆さんの制作意欲はますます盛んで、当分安心しています。次の世代
を担う優秀な若い会員を少人数募集しようかと話し合っています。校正は余り無理しなく
てもいいですよ。仕事に励んでください。24号の発行は21日か22日にしようかと思
っています。時間がとれれば出かけて来てください。





10月

窓辺にて−今朝の収穫 2010/10/16

あさ、ステッキとカメラを持って一人散歩に出た。この辺は野猿が山栗を食べに4・5匹の
グループで山から下りてくる。今まで猿以外に遭遇したことはないが、イノシシやシカ、
クマもいるそうだ。私は目がよくないし山野を駆けめぐるほどの運動能力も持ち合わせて
いないので、難を逃れることはもはや出来ない。だから野生動物と遭遇したときの護身用
のステッキである。
さて小一時間山荘の周りを巡ったが、まだカエデ、木楢、朴の木、ドウダンツツジ、ナツ
ズタなどまだ紅葉していない。今年は少し時期がおくれているようだ。途中に鮮やかな赤
い実を沢山付けたガマズミを見つけて一枝失敬してきた。家に戻る前に我が山荘の隣の庭
に寄ったら、大きな赤松の林のなかに沢山の黄色いキノコがぞろぞろと生えている。食べ
られるものか、それとも笑い狂いする毒キノコかは判らない。 調べてみると色や形から
憶測すると、食用にする地方もあるというコガネタケか、有毒のクサハツのキノコのよう
に思えた。富士山の麓の赤松林にはマツタケが生えると言うから期待したが、ついにお目
にかかることが出来なかった・・・残念。

       





窓辺にて−アラン全集 2010/10/30

今日は台風で雨。5年前この山荘を造るときから台風に縁がある。東京から現場に出かけ
るときはいつも台風がついてきた。だから慣れっこになっていて、折角の行楽に水を差さ
れてがっかりするという思いは余りない。返って一日中家の中で薪ストーブを炊き、昔の
髭面の己の姿をアルバムのなかから見つけ出したり、昔買った本への新しい興味を見いだ
したりと結構楽しいものだ。
私は本棚から褐色になって古びたアラン全集10巻を見つけ出した。「梁山泊」の仲間の
一人で、早世した徳重君が高校生のときにアランのことをよく話題にしていたのを思い出
した。彼がその時点でどれだけその本を詳しく読みこなしていたのか判らないが、体の不
調や親との確執などの数々の悩みを背負い込んでいた彼は、生きるための本質を掴みたい
という思いに駆られていたのだろう。

アランはペンネームで本名はエミール=オーギュスト・シャルティエといい、フランスの
リセ(高等学校)の教師となる。 過去の偉大な哲学者達の思想と彼独自の思想を絶妙に
絡み合わせた彼の哲学講義は、学生に絶大な支持を受け、彼の教え子達の中からは、後の
哲学者が多く輩出されている。女流哲学者のシモーヌ・ヴェイユは彼の教え子。
彼はまえがきで「もしこの本がだれか職業哲学者の批判の対象となってとやかく言われる
ようなことがあれば、そう考えただけでも、書きながらみいだした生き生きした喜びは台
無しにあるだろう。喜びというものがまれな今日このごろでは、書くよろこびといものが
本をつくる理由だと、私にはおもわれる」といっている。
それにしても、このような生活の中での「記憶」「想像力」「自己愛」「野心」「誠実」
「正義」「時間」「空間」の身近なことの認識について、をフランスでは高等学校ですで
に教えていることに驚く。さてすこし私も腰をすえてもう一度読み直してみよう。





11月

同人α25号原稿脱稿 2010/11/3
同人α25号「あした天気になーれ−第一回」ついに脱稿。
最後の文章で物足りないとおもっていたが、万理さんの提案の「ふわふわと湧き出る新緑
の下草を踏みしめながら私はひょいっと下駄を投げ飛ばしてみた」のアイデアを採用して、
下記のように書き換えた。これで体操選手の最後の着地がピタリと決まった感じだ。
カラマツ・ジローはそのプロジェクトを練るために久しぶりに世俗を離れて山を訪れた。
時はまさに初夏、ちょっと汗ばむ季節である。散策しながらウオークマンで聞いた「マー
ラーの交響曲第5番第4楽章アダーェット」は独り林の中を歩く私の気分に浸みた。この曲
はルキノ・ヴィスコンティ監督による映画『ベニスに死す』に使われた有名な曲だ。
彼ははどうも今のガチャガチャ忙しい音楽より、パッヘルベルのカノンやエリックサティ
のジムノペディやアルビノーニのアダージョなどテンポの緩やかな音楽が好きだった。山
荘の朝起きて生活が始動する前に聞くマイルス・デイビスやギル・エバンスなどのクール
ジャズも、己の健康な働きのリズムを刻む心臓の音ように聞こえて心地いいと思った。
そんなことを考えながら眼下に民家の散在する村と河口湖、その向こうにそびえ立つ富士
山の見える、緑鮮やかな若草の茂る草原に出た。彼はそっと右足の朴歯の下駄を空高く飛
ばして、ニヤリと笑った。





12月

今年の一年????2010/12/30
あまり過去を振り返らない性格だが、多くの人がするように、私もいろいろあった一年を
振り返ろうと試みてみよう。今、山荘で薪ストーブ を燃やしながら、ボーカル・ジャズ
を聴き、暖かい二階の部屋でこれを書いている。昨日は雲一つ無い晴れだったが、今日は
朝からどんよりと曇り富士山も見えない。
ジュリー・ロンドンの「思い出のサンフランシス」、ジューン・クリスティの「サムシン
グ・クール」,チェット・ベーカーの「マイ・ファニー・バレンタイン」などのバラード
は、風の音も小鳥の鳴き声もしないこの静かな山の中で半世紀前の過去を思い出させるに
十分だ。来年、いや数え年ではもう古稀ということになる。こんなに遠くまでよくぞ生き
てきたものだ。少年の頃はなぜだか68歳が自分の死ぬときだと思っていて、親兄弟に宣
言していたことを覚えている。なぜそう考えていたか、その根拠は定かではない。たぶん
生きる不安にさいなまれていた欝の時代だったのだろう。しかしそのときの予想からすで
に一年も延びた。
これからも課題は山積していそうだし、体力は日に日に衰えるし、縁者や知人は減ってい
くし、はたしていいことだか悪いことだか判らない。それでも萎えるまでは何かを志向す
ることだけは止めまいと思っている。ブログで日記を付けだしてから四年になる。毎年、
年開けてからA4に印刷して、黒表紙の25穴のルーズリーフに綴じるのだが、一年目は
100ページ、二年目は200ページ、昨年は315ページと年を追うごとに増えていく。
はたして問題の多かった今年の日記帳は何ページになるだろう。一冊で収まるだろうか。
そう考えると日曜を除いて1日に1ページの割合で執筆したことになる。一年を振り返る
のはその日記帳を編集・印刷してからの方がふさわしい。年末はむしろ来る年の明るさを
見つける方が良さそうだ。



93α編集部:2014/03/27(木) 10:53:07
詩 散 策 3 2008-2010
              詩 散 策 3

                2008−2010





松籟について 2008/1/3

松籟:しょうらい(籟はひびきの意)
松の梢に吹く風。松韻(しょういん)
 *太平記-三九・諸大名「石鼎(せきてい)に茶の湯を立て置きり、松籟声譲りて芳甘春
  濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし」
 *黄葉夕陽邨舎詩−宿生田「客窓一夜聴松籟、月黒楠公墓畔村
 *朱熹−越亭詩「松籟韻宮商、鴛鴦勢翔遡」



またまた松籟について 2008/1/11

 沼南ボーイさん、長岡生さん「松籟」について色々と教えていただいて有り難うござい
ます。宮尾登美子の「松風の家」は太平記-三九・諸大名「石鼎(せきてい)に茶の湯を
立て置きり、松籟声譲りて芳甘春濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし」を参考にした
のではないでしょうか。
 また、長岡さんの曹洞禅の「証道歌」中の次の句で

??    江月照らし 松風吹く 永夜の清宵 何の所為ぞ

 もまた私の知らない文献でした。

    *黄葉夕陽邨舎詩−宿生田「客窓一夜聴松籟、月黒楠公墓畔村
    *朱熹−越亭詩「松籟韻宮商、鴛鴦勢翔遡」

 などの漢詩にあるように、中国から渡来したもので、日本では「松籟」ではなくやさし
く大和言葉の趣で「松風」と訳されて使用されたのではないでしょうか。
たとえば、『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の「小督」にも取り上
げられている悲恋を、「想夫恋」の箏曲を爪弾く小督局、「黒田節」の2番の歌詞の中にも
も出てくる歌詞に託され、

        峰の嵐か 松風か
        訪ぬる人の 琴の音か
        駒ひきとめて 聞くほどに
        爪音(つまおと)頻き(しるき)想夫恋(そうふれん)

 私はどうもこれらの注記かなにかで読んだのかも知れません。しかし今までの私の「こ
のような難しい言葉を何時、どのような文献で読み覚えたのか」という疑問には何一つ答
えが見つかりませんでした。また、ここに書いたことがらは全くの憶測に過ぎません。い
つかきっとその真相が科される時がくるでしょう。





「ひとりぼっちのセキセイインコ」感想番外編  2008/6/21
http://betty.jp/birdbrain/alllist/15-6.html??(同人α15号)

いま山荘の窓からシトシトと降り続く雨を眺めながら「ひとりぽっちのセキセイインコ」
の遅すぎた感想番外編を書いている。二年前に本郷の公園の見えるバルコニーの鉢植えか
ら持って来たラビット・ラズベリーがやっと土地になじんだと見えて、今年はかごいっぱ
いの赤い実が採取できた。朝食に添えて恐る恐る食べてみると、野趣豊かな野いちごの甘
い味と香りがした。これはいける、このイチゴは生命力も強く冬にも葉を落とさないから、
冬枯れの敷地に緑のさわやかさをつくってくれるカバープラントとしては最適だと思えた。
いつか見た四谷から市ヶ谷へ向かうお堀に面した黒松林の中に群生していたラビット
・ラズベリーのように・・・。
 さてこの詩は、カオちゃんやおばあさんへの惜別の情が特に強いわけでもない。まるで
パステルカラーの淡い色で描かれた夢見るようなマリー・ローランサンの少女像のよう
な、透明で明るい光で包まれ、時間の止まった二次元の空間を思い出させる。そして、エ
リック・サティのジムノペディの音楽のような静かな諦観に満ちている。そこには鳥かご
を出て力強く羽ばたき積極的に生きる自由な姿は見られない。そこが好き勝手に生きてき
た私にとって、優しさと美しさに感じ入る一方で少々不満でもある。




ロバート・ブラウニングの詩2008/7/9

朝7時、本を読みながらロバート・ブラウニングの詩を細君が口ずさんでいた。それは窓
の外の公園が、カラスのがらがら声と猫の鳴き声、ホームレスの無遠慮な独り言等に、朝
の静けさを壊されたからである。

  The year's at the spring,
  And day's at the morn;
  Morning's at seven;
  The hill-side's dew-pearl'd;
  The lark's on the wing;
  The snail's on the thorn;
  God's in His heaven--
  All's right with the world!

  時は春、/日は朝、
  朝は七時、片岡に露みちて、
  揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、
  神、そらに知ろしめす。/なべて世は事も無し。
        *上田敏訳『海潮音』所収。





「揺らぎ」による、会話詩を読んで2008/10/3
http://2style.in/alpha/16-6.html (同人α16号)

 臼井さんの作品は今日までと思って悠長に構えていたが合評御礼が出て、さてどう繕う
かと戸惑ってしまった。
皆さんも言われているように詩の解釈は実に難しい。俳句や短歌のように作者が言わんと
することが判りやすいのと違い、理屈なしにただ感じればいいといってもメタファーを多
く含む現代詩の鑑賞は実に厄介なものがある。
 海とか波とかの響きや字面も人によってそのイメージは違ってくる。だから作者が言葉
を発した瞬間からそれは一人歩きし、一生懸命読者に理解されるようにと意図された散文
と違い読む人の解釈次第で変化していく。
美しい海や岸に寄せ来る絶え間ない波の動きもある時は、私にとって単に心地よい響きと
開放されたさわやかさだけではなく、海の底知れない広がりと深みは恐れを抱かせるし、
無限の運動は私に逃れられない束縛と映り息苦しさを覚えさせる。
 そして、この詩が最後の「?? だけど、潮に引き戻されていく・・・。」という一節によっ
て、その意味するところを私は解釈出来ないでいる。





テーマー「間柄」による、会話詩
2008/12/8
http://2style.in/alpha/17-2.html (同人α17号)

この詩はメタファーを読み取るといういつもの癖で作業が許されるものなのか、またその
ようなものを作者が意図していないのか、私には判らない。それほどこれは自然体の無垢
の心で読み取る詩なのだろう。

たぶん作者は私を取り巻く人達のような悔しさや惨めさなどの不条理の世界で生きること
から開放された人生に違いない。私も戦後の貧しさのなかで屋外にしつらえられた仮設の
五右衛門風呂に入りながら、秋の空の雲を動物や乗り物になぞらえた記憶がよみがえった
ものの、いまの自分は随分遠くまできたものだという感慨をもった次第である。
そして、とてもこれは作品の評としてはほど遠いとものと自覚しているのであります。





「碇さんの作品の合評」 2009/2/13

 「世界沈没の恐れについて」にいみじくも碇さんの書かれているように、天敵のない人
間の一人勝ちの今、人類の将来は危うくなっていくように私も感じます。
 産業革命以来人口が増え続けました。それにともない人々や産業が大都市に集中しまし
た。いまやいろいろな面で効率の良い社会を作くりあげた「集積利益」が、留まるところ
を知らない欲望でもはや「集積不利益」に転じています。人口集中による交通の渋滞、空
気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、偏狭な民族主義や拝金
主義や利己的な人々の心の荒廃などであります。
 過去にはコレラやペスト、インフルエンザなどの病気の猛威によって、また絶え間ない
大きな戦争のなどで人口が減る事もありました。これは天の配剤だったかも知れません。
地球はそんなことで壊れることはなく、もっとはるかに強かでタフですが、この地球上の
人口が100億になったらますます過密になり食料やエネルギーの奪い合いになり、人類自
らの歴史を閉じる恐れもあります。碇さんの報告を見てそう思いました。
 俳句では 観月やひとりくらしのひとり酒  が私は一番すきです。昔井上靖の「あす
なろ物語」に 寒月が掛かれば 君を偲ぶかな 愛鷹山の麓に住もう という詩を思い出
しました。碇さんの句はそこに居ない人への思いが深く心の奥底に沈んでいるように思え
ました。





星菫派(せいきんは)について 2009/2/16

Wikipediaより
 星菫派(せいきんは)は、星やすみれに託して、恋愛や甘い感傷を詩歌にうたった浪漫
主義文学者のこと(あるいは一般的に、そのような感傷的作品しか作れない詩人を揶揄す
る際にも用いられる)。明治30年代、与謝野鉄幹・晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』に
よって活躍した人たちを指す。
 第二次世界大戦のあと、戦時中の若手文学者に対して、加藤周一は「新しき星菫派につ
いて」(中村真一郎・福永武彦との共著『1946・文学的考察』に収録)という文章を書い
て批判したために、論争が起きた。





「テーマ「色」による、会話詩」  2009/2/26 2009/2/26http://2style.in/alpha/18-1.html??(同人α18号)

「臼井さんの詩はどうして子供の目で書けるのだろう」とO−chanと話していて、ウ
ィリアム・ワーズワースの詩「虹」の話になりました。

My Heart Leaps Up -William Wordsworth       虹
  My heart leaps up when I behold  ??  空にかかった虹を見ると
  A rainbow in the sky.       ??????私の心は高鳴るのだ
  So was it when my life began;   ??  少年の頃もそうだった
  So is it now I am a man;      ????大人となったいまもそうだ
  So be it when I grow old,    ????  年老いてもそうありたい
  Or let me die!           ???? でなければ死をたまえ!
  The Child is father of the Man;      少年が長じて大人となる
  And I could wish my days to be      だから私は少年の頃の
  Bound each to each by natural piety. ??敬虔な気持を持ち続けたい

 私はまさにその回答が見つかったみたいで小躍りした次第であります。私はそのような
目を持ちたいと思っても、もう随分世俗にまみれ不思議なものが見えなくなったようです。
臼井さんのように自然の中からたくさんの色を見つけ、それを黒や白に収斂して土に返す、
そして春がくると再び色々の生命が芽吹き出す。「黒」と「白」はすべての源であると言
っているようです。もう私にはそのような視点が湧き出てこないのではないか。そう思う
と作者は特別な才能に恵まれているのでしょう。
 またまたいつもの天の邪鬼の考えがうごめきだしました。ここで全く違う趣向の作者の
詩を読んでみたい気がするのですが、欲張りでしょうか。




紫陽花の花 2009/6/11

紫陽花
 いよいよ関東も梅雨に入った。じめじめしていて鬱しいようだが、この雨のお蔭で日本
列島は緑の島を保っている。世界の中には水に恵まれずに植物が育たない国が沢山あるこ
とを思えば、この季節もまた有難い気がする。もともと私はあまり外に出て運動するより
は、室内で楽しむことの好きな性格だから、一向に苦にならない。
 さて、この時期に咲く花で一番印象的なのは紫陽花だろう。事務所へ通う道筋にひとき
わ鮮やかで大振りなガクアジサイがある。私は毎朝路地裏に入っていってその花の色の変
化を愛でるのが楽しみである。咲き始めのころはかすかに緑がかった白で清楚な感じを受
ける。そのうち中紅(なかべに)色に変化して華やかになり、そのうち赤紅(あかべに)
色に、最後は深い瑠璃色(るりいろ)となる。しかも一株の木にその色の花が混在すると
ころが面白い。まるで美しい囲い者の朝な夕なの表情のような趣である。紫陽花の花言葉
が「移り気」「冷淡」なのはそのへんによるものらしい。しかし私は薄幸の女性が、縁を
受け入れて静かに生きているような気がしてならない。
 2002年「落書き帳」というホームページを作ってまもなく次のような書き込みをして
いるのを見つけた。

窓辺にて−あじさいの詩 投稿者:Tea Pot  投稿日: 5月24日(金)11時28分39秒
もうすぐ梅雨。今まで通ったことのない路地を好んで歩く癖は、永い彷徨の結果染みつい
た私の趣向であり、今日も真砂図書館までの未踏の路地裏を探した。
そこには蛇苺やあじさいの花がさく路地であった。そしてその時あじさいの花の詩を思い
したがそれは記憶違いであった。それはあじさいそのもを詠った詩ではなかった。
 こころ
こころをばなににたとへん
こころはあぢさいの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひでばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかいなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

      萩原朔太郎 「純情小曲集」より

 また、インターネットで紫陽花の詩を探しているとき、さだまさしと吉田政美のデュオ
“グレープ”のアルバム「わすれもの」に収録された曲
が見つかった。
 蛍茶屋から 鳴滝までは 中川抜けてく川端柳
 他人の心を 胡麻化す様に 七つおたくさ あじさい花は
おらんださんの 置き忘れ
思案橋から眼鏡橋 今日は寺町 廻ってゆこうか
それとも中通りを抜けてゆこうか
雨が降るから久し振り 賑橋からのぞいてみようか
この詩はまさに私が路面電車の終点の「蛍茶屋」の古い屋敷の二階に間借りしていた頃の
情景そのもので懐かしい。
 また、 アジサイは毒性があり、ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状
は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。
釈迦の誕生を祝う行事の花祭り(4月8日)に飲む甘茶(あまちゃ)は、ユキノシタ科の落
葉低木ガクアジサイの変種であるアマチャ(学名:Hydrangea macrophylla var.thunbergii)。
また、その若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。およびそれを煎じて作った飲料、だが
全く紫陽花の葉とそっくりであるから用心しなければならない。





「テーマ「空」による、会話詩」を読んで 2009/7/20
http://2style.in/alpha/19-9.html (同人α19号)

 この詩を読みながら、O−chanの魂胆をハタと理解した。こんなことを今頃になっ
て悟るとはなんと私も鈍くなったことか。この「言の輪」の画面が19号のテーマ「空」
に合わせた「空色」であったとを一月ばかりも気づかなかったことである。人の何気なく
放った些細な言葉に傷つくことがあるかと思えば、このような秘められた思いを読み取る
ことも出来ない自分が見えてきた。これでもかこれでもかと諭されても真意を理解できな
いこともあるというのに、ましてや簡潔な言葉に凝縮された思いの作者の詩においてはな
おさらだ。
 そしてこの実に優しい詩のなかに込められた意図は、くだくだ述べられた解説よりも強
烈に私の心に響いた。
「自然は終わらせるために人を産んだのかもしれない」、最後のこのセンテンスに込めら
れたメッセージは、人間はいままで何をしてきたか、そしてどこへ行くのかという、生命
の根源的な意味合いを問うという重い詩であったことに気づいた。




《言葉集め星創り五拾番》 神秘相撲について  2009/9/1
http://2style.in/alpha/19-12.html (同人α19号)

 書かないでもいいよと神野佐嘉江氏は合評を辞退したけれど、やはり投稿をお願いする
立場の私としたは、いやそれだけではなく詩というべきか散文というべきか、この難解な
読み物にいつも魅了されているからである。
 ある時は短歌でありある時散文詩であり、まさにミクロ量子の世界とマクロ宇宙のとっ
くみあいの様な、まるで神秘相撲そのものの狭間で私の脳は攪拌され、ブラウン運動のよ
うなランダムな混沌の世界を彷徨ようだ。
 一つの単語に全く意味の違う形容詞がくっつき、分節となり文章へと変化する。そして
不思議にそのはちゃめちゃな言葉に正当な意味があるかのごとく私に迫りくる。
本当のところ、用語をあげてその変化を検証しようと思ったが、相当の時間を必要とする
ことなので、今回は勘弁してもらいましょう。
それにしても神野佐嘉江氏の独自性は群を抜いていますね。




「会話詩」の感想 2009/10/4
http://2style.in/alpha/20-10.html?? (同人α20号)

 確かに人間は黙って過ごす時間を失ってしまった。居間にあるつけっ放しのテレビの音
を遠くで聞いていると、間断のない早口のしゃべり声と声高な笑いに満ちている。
 人はあまりの情報の多さに、一人の人が情感を込めた言葉を言っても、ありきたりの意
味で済ますようになった。人によってその情感は少しずつ違うのにね。だから本当の気持
ちを伝えるために多くの言葉が必要になったということでしょう。なんだか逆説のようで
すが・





「テーマ「カオス」による 会話詩」をよんで   2009/12/14
 http://2style.in/alpha/21-4.html??(同人α21号)

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感
じた。





ミルテの花(銀梅花) 2010/5/17

ゲーテの「ミニヨンの歌」に出てくるミュルテとは?
ちなみに、ロルベールは月桂樹のこと、ミルテの原産地は地中海沿岸。常緑の低木で6,
7月に白い花をつける。ギリシア神話のメガもアフロディテに捧げられ、花嫁が持つブー
ケにも使われることから祝いの木とも呼ばれる。
シューマンの30歳時の歌曲に「ミルテとばらの花をもって」(リーダークライス作品24)
がある。詩はハイネ。大意は「ミルテとばら、糸杉と金箔でこの木を柩のように飾り、僕
の歌を葬ろう。熱かった歌も死んだ。だが愛が戻ると歌は甦り、貴女に囁くだろう」。
ミルテとばらは純潔、糸杉は死を表す。クララへの愛が堰き止められていたシューマンの
苦悩が反映しているようだ。その悩みは間もなく解消。歌曲集「ミルテの花」を結婚前日、
クララに贈っている。                (白石裕史)






「同人α第24号編集後記」  2010/8/8

この暑い夏、独居隻語の癖(へき)あり。
鳥は飛べるものと当然思っていたが、ふと飛べない鳥のことが気に掛かり調べてみた。
すると飛べる、飛べないという区分けが正しくない事がわった。本当は飛ぶことが有利に
生きれることでそれを選んだ鳥と、飛ぶことを放棄してもより有利な条件で生きられるも
のとに別れるのだ。飛ばない鳥の方が珍しいのでそれ等を列記すると、アフリカのダチョ
ウ、オーストラリアのエミュー、ニュージーランドのモア、南極のペンギン等々。総じて
天敵の脅威が少な い地域で生きる事ができたからであろう。飛びたいかどうかは、長い
年月を経て選ばれた本人の意思次第。下世話な世界で揺蕩(たゆとう)う生き方もまたいい
だろう。しかしここへ集う五人衆は高く遠く宇宙の果てまで真理を求めて飛翔することを
好むようである。ここにそのことを見事にうたいあげた詩がある。サムエル・ウルマンの
詩である。
   青 春
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、豊かな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただだけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。

歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

六十歳であろうと十六歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の勇気におおわれ、
悲嘆の氷にとざされるとき、
二十歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと人は青春にして已む。





「同人α第25号 「風」−表紙と前書き」 2010/9/20

まず始めに表紙のデザインに用いた「颯颯」という文字は、山鬼:楚辞・九歌にあるもの
を借りた。

雷填填兮雨冥冥   雷填填として雨冥冥たり
猿啾啾兮又夜鳴   猿啾啾として又夜鳴く
風颯颯兮木蕭蕭   風颯颯として木蕭蕭たり
思公子兮徒離憂   公子を思へば徒らに憂ひに離(かか)るのみ
雷が鳴り響き雨が暗く、サルは悲しげに夜も泣いています。風は颯颯と吹き渡り、木は蕭
蕭たる音を立てています、あなたを思うと私の心はいらずらに憂いに沈むのです

大富豪で泥棒を趣味とするスティーブ・マックイーンと保険調査員のフェイ・ダナウエイ
の二人が、全く違う立場で丁々発止とやり合う「華麗なる賭け」という映画があった。悪
と正義のせめぎ合いなかで何とも言えない二人のもどかしい関係を表現したミシェル・ル
グランの「風のささやき」という名曲がある。
http://www.youtube.com/watch?v=tg-XaYrbX-o
またマンディー・バーネットの ウィスパーリング風という歌もある。
http://www.youtube.com/watch?v=FcfPumlZFiY

  風のささやき
風は独り窓辺に佇む私の心に
微かなささやきを残して走り去り
彼の姿を見せることはしない

仮眠の五感をそっと刺激して
覚醒しようとする私をからかうように
過去の思い出のなかに漂わせ
仮の夢に想いをふくらまさせ
荷担した報いとして孤独な憂をあたえる

あるときは花の香りを運んで
あるときは竹林をさざ波のように
あるときは松林をゴーゴーとふるわせ
あるときは首筋に冷たい空気を置いて行く
あるときは私にはな歌を唱わせる

風は私の想念への誘い
風は私の心へのささやき
風は私への宇宙の啓示




窓辺にて−パウル・クレー 2010/10/5

本屋に寄ってパウル・クレーの絵に谷川俊太郎の詩を添えた「響きあう絵とことばのおく
りもの」と言う題の絵本が気に入った。細君は誕生祝いに費用を出すという。1500円
パウル・クレーについての私の知識は、近代建築の四大巨匠ル・コルビュジエ、フランク
・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてヴァルター・アードルフ・ゲ
オルク・グロピウス、そのグロピウスが創立したドイツの芸術と建築の学校「バウハウス」
で、クレーは関わっていたことから始まった。
建築においては造形や構造は言うまでもなく、色彩や配色およびテクスチャーのことまで
学ぶものである。私はクレーの写実的な描写や遠近感をあえて押さえた作品の二次元の世
界に封じ込めたフォルムや色彩のシュールさが好きだ。油絵の生々しい情念ではなく一種
の観念として凝縮させた静かな思想。そういえばクレーの日本画の蒐集は数十冊に及んで
いたという。やはりその影響で平面のなかに観念を封じ込めたのであろう。音楽家でいえ
ばブラームスのような抑制された表現を感じるのは私だけであろうか。





「宇宙からの風が悪戯をする時」を読んで 201012/7

◆副題は場面場面にふく風を現していておもしろい。もうすこし飛んだ言葉がいい。例え
ばアースシーから吹く風に・・・。などの全く違う世界のイメージとの合体。詩の命はメ
タファだと思っています。という私のそよ風の詩は全く力不足、直裁的過ぎてイメージが
宇宙に飛び出せないものでしたが・・・。

◆風がテーマですから
疾風、旋風、烈風。そよ風、薫風、寒風、春風、熱風、山風、緑風などの風づくしを副題
に当て、意地悪な旋風さん、すべてを破壊してよ木枯らしさやさしい母の香りのそよ風さ
んなどの言葉を各節の詩の最後にリフレインの言葉で締めくくるとか・・・。

 [お菓子が飛んだ]
遠足は楽しい頭の中はお弁当とお菓子でいっぱいさ
それとちょっと好きな健ちゃんとシーソーに乗った
昼の会食はお花満開、健ちゃん満開お菓子も大満開
どこから来のか風がチョコおせんべいあめ玉たちを
遠い記憶を思い出させる甘いそよ風よ
 [家がうなる]
台風とともに家族じゅうがわくわくウキウキ状態
父親は男らしさを見せるだろう母親は食料調達鬼
肩を寄せ合い固唾をのんでお客様を待つ最高気分
がたついた雨戸がガタガタ瓦がカラーンコローン
いっそすべてを破壊しつくせ疾風よ
 [自転車に乗って1]
高校に遅刻しないようにとペダルを思いっきりこぐ
そんな時に限っていきなりの向かい風が思いっきり
プリーツスカートが全面に風を飲み込み顔に被さる
前方視界ゼロ状態で今日の下着は何色だっだかなと
紳士面した悪戯好きなつむじ風よ
 [ビルの谷間で]
前に進もうと屈んで力を込めて一歩一歩全力投球だ
西新宿高層ビル街脇は台風でもないのに大嵐になる
軽いあの子はスカートを両手で必死で抑えているが
一瞬体がふわりと宙に浮き思わず手を離してしまい
私に戦いをいどむか身の程知らずのビル風よ



94α編集部:2014/03/29(土) 10:06:26
誕生日
..
              誕生日

              2007−2010




    一見ハードボイルドを決め込む人にも、ソフトボイルドの顔がある。
    作品の中にも、投稿記事の中でも、夫、父の顔はほとんど見せない。
    そんな中、チラリと見せるのが誕生日の記事だ。
    唯一この日だけは鉄の壁を少しだけ開くようである。
    扉の中の数少ない映像だ。有名作家でもないのでチラリ家族の画像
    を載せても問題は生じないだろう。思い上がりの肖像権を叫ぶ人達
    でもなさそうだし、何と言っても、みないい顔をしていて恥じるこ
    とないから…。




2007年

細君の誕生日
2007/1/30

今日は細君の誕生日。何歳になったかにわかに思い出せない。数えるには7人分の指が必
要のようだ、ただし亡くなった高柳マスオ君のではちょと足りないけどね。
昨日は三越で誕生祝いにピンクの財布を買った。沢山万札が入ればいいね。(さっき信用
金庫の定期の満了によるお金が十数万入ったようだ)
さて息子が細君の誕生日を覚えているかな、昼休みにでもこっそり電話してみよう。毎年
なにやかやと贈り物をしているようだが今年はどうだか疑わしい。近くに住んでいるのに
最近1月ばかり家に近寄らないのは何か意図があるのだろうか。

今朝の朝日新聞の鶴見俊介さんと語るで相方のアーサー・ビナード39歳
米国出身、東京在住 日本語詩集「釣り上げては」で中原中也賞

アーサー・ビナード
  ・「国益」は一部の人の利益のためにみんなをこき使うための口実
  ・コンピューターが意味のある言葉を発することができないのは、生活していないか
   らだと思う。コンピューターは猫をだいたことがないし、豆乳も牛乳も飲まないか
   らね。
 ・・・こういう言い回しや表現を私は好きだ。

夜7時半に三越のライオン前で息子と落ち合い、スペイン料理で会食した。食い物には目
がないから快く細君の誕生祝いに来てくれた。3,800円のコース料理。
息子の年収が520万とか、26歳では上出来だろう。そうこうするうちたちまち私の年収
を超すにちがいない。
自分の学費のためにマンションを売ったり、都落ちしたりと親が苦労したと思っているの
か、けなげにも河口湖の家のローンの面倒はみるからねと手抄なことを言ってくれている。
細君にとっては私が居なくなっても一安心だと思っただろう。





2008年

細君の誕生祝い
2008/2/3

◆細君の誕生日を銀座のイタリア料理店ILPINORO(イルピノーロ)で息子を呼び
 出し、3人で祝う。3,200円のコース。味は結構いけるし、サービスもよい。
 評価☆☆☆☆
◆その後三越のスワロフスキーでペンダントを買って贈る。
 私は1万円、息子は5千円計1万5千円也。





息子の誕生日・結婚記念日を祝う
2008/3/25

 息子の誕生日と我々の結婚記念日の祝いを纏めて、23日(日曜日)に銀座の十字屋ビル
4階の「江島」で蟹料理を食って祝う。
◆息子は誰に似たのやら熊襲の末裔かと思えるほど胸毛やヒゲが濃い。背は私より心持ち
 低く中肉中背の28歳になる青年だ。私のような田舎出の癖の強い、いきあたりばった
 りの性格と違い、いつも冷静で的確に物事を判断して行動し、決して激することはない。
 その辺が親としては感心するが、一方熱中する何かを持っているかどうか判らないのが
 不満でもある。
 はたして付き合っている女性はいるのだろうか。近くに住んでいるが同居していないの
 で、その辺のことが全く判らない。直接その話題になっても、適当に惚けられてはっき
 りした情報を提供してくれないので一向に埒が明かない。服装もシャツと綿パンとスニ
 ーカーで、その格好のまま会社で仕事をするという。NTT関連の会社のネットワーク
 事業部の事業企画部でコンピュータを駆使して、システムを開発する仕事だからそんな
 服装を許されているのかもしれない。我々が想像する昔の大企業の執務風景と随分違う
 ようだ。服装に金を掛けているようでもなく、夜な夜な赤いネオン街に出没している風
 でもなく、休みの日は秋葉原の路地裏をメカの探索をしているようだから、金を使う暇
 も無かろう。親が頼りないから結婚資金でもせっせと貯めようという魂胆か。
◆細君と結婚して42年になる。
 「こうかい」という言葉で今朝話題になった。夫はいままで遠くにあるだろうと期待し
 た楽園を目指して、荒波のなか手漕ぎ舟(零細自営業)で航海してきたと、努力と成果に
 少なからず満足して、その感慨に耽っている。一方女房殿は「そりゃー後悔の連続」で
 あったと思って不満だらけであったかも知れない。おなじ「こうかい」でも実は二人は
 同床異夢であったという話。それはともかく我々は未だに理想の島の見えない波の上で
 「こうかい」を続けているのである。





一寸早いがクリスマス
2008/12/22

久し振りに家で親子3人夕ご飯を食べた。息子の都合でちょっと早いがクリスマスの祝い
をしようということになった訳だ。
チーズの盛り合わせ、さらしクジラ(妹が長崎から送ってきた)、生ハム、小カブのスー
プ、ローストビーフ(ホースラディシュを添えて)、赤ワイン(医者に止められているが
今日ぐらい醸造酒もいいだろう)、フォカッチャ(イタリアのパン)、ブッシュドノエル。
贈り物 私 :キーホールダー+靴下(ラルフローレン) 4,000円
    細君:ホットカーラー ¥2,000円(来月誕生日のお祝いでちゃん
       としたものを贈ろう)
    息子:靴下(ラルフローレン) ¥5,000円
以上贈り物も今年は控えめに・・・。
この暮れは大合唱になる大苦  とい朝日川柳に載っていた。





2009年

細君の誕生日を祝う
2009/1/30

 細君と息子と3人で細君の誕生日を祝った。年齢はどうも大台に乗ったらしいが聞かな
かったことにして、「十歳若いと詐称してもかまわない」というお墨付きを与える。
 場所は上野広小路にある、看板の字を鶴岡鶴太郎が書いた「とらふぐ亭」で五千円のコ
ース料理。息子の驕りだという。いくらか親の苦労を承知しているらしく、時々は「動け
なくなったら面倒みるから心配するな」などと殊勝なことを言って細君を喜ばしている。
両親に対してとってきた私の態度とは大違いだ。
 有楽町の「大雅」や築地の「天竹」」以来何十年振りだろう。前菜のふぐ皮湯引きから
始まって、 てっさ、唐揚げ、てっちり、雑炊、デザートのコースで十分堪能した。しか
し細君にとっての一番満足は息子がすすんで祝ってくれたことだろう。





記念日を祝う
2009/3/20

 息子の誕生日および我々の結婚日の祝いを纏めて、銀座・季楽にて昼食をする。季楽は
JA佐賀の経営する佐賀牛を食べさせる店だとか、並木通りに面する新しいビルの中にあ
る。夜は高価でとても我々庶民が出入りする所ではない。息子はもうすぐ29歳、ガール
フレンドがいるのかいないのか、さっぱり判らない。かたや我々は数限りない転居や事務
所経営の不安定さのなか、貧乏やそれに伴う行き違いなどいろいろあったが、ともかくも
44年の間連れ添った訳だ。

         





麦わら帽子
2009/8/3

 誕生日の贈り物を買いに細君とアメヤ横町に行った。時々覗く、5坪くらいの小さな帽
子専門店だ。銀座に出かけた時はトラヤ帽子店のショーウインドウをよく覗くが、残念な
がら日曜日は閉まっている。それに紳士用としてかしこまった帽子が多く、麦わら帽子の
ようなくだけたものはあまりない。
 今度買ったものは麦わら帽子と言っているが、どうも麦わらではなくてパナマ草を使っ
ているようだ。麦わらよりも粘りがあり破れにくいようである。形もテンガロンハットに
似ていて気に入った。つばの廻りにワイヤーが入れてあって形を自由に変えられるのがい
い。誕生日の贈り物としてその麦わら帽子と、ユニクロで2千円弱の白いチノパン2本を
買ってくれた。安価ではあったが少し良い気分になった。





誕生日のお祝い
2009/9/19

 息子のカメラで撮した写真のメール送信を待っていたら一ヶ月半も経ってしまった。細
君と息子と私のスリーショットは八月の上旬、銀座の「季楽(きら)」で私の誕生日の祝
いをしてくれた時のものである。写真が嫌いと言って何時も撮されることを拒否している
彼は、珍しくこの日は素直に応じてくれた。
 料理は鉄板焼きのランチで和牛450グラムを3人で食した。大きな玉葱ほどもあるばり
ばりに炒めたニンニクのスライスは大いに気に入った。勿論牛も美味で、シェフが目の前
で料理するパフォーマンスは、20年近く前に3人で楽しんだシアトルの「紅花」を思い
出す。彼はまだ小学の5年生くらいだったろうか。
 長男も長じて二十代の後半になったが、お母さんの話は「理屈が通らない」、お父さん
は「人の言うことを聞いていない」、だから中に立って交通整理する僕の苦労は並大抵で
はない、などと聞いた風なことをのたまう。知らぬ顔をしているくせに、ちゃんと人の動
向を分析して揶揄するところはなかなか大人になったものだと感心すると共に、言い得て
妙だと三人で笑った。

         





2010年

窓辺にて−パウル・クレー
2010/8/8

明日が私の誕生日だが、本屋に寄ってパウル・クレーの絵に谷川俊太郎の詩を添えた「響
きあう絵とことばのおくりもの」と言う題の絵本が気に入った。細君は誕生祝いに費用を
出すという。1500円
パウル・クレーについての私の知識は、近代建築の四大巨匠ル・コルビュジエ、フランク
・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてヴァルター・アードルフ・ゲ
オルク・グロピウス、そのグロピウスが創立したドイツの芸術と建築の学校「バウハウス」
で、クレーは関わっていたことから始まった。
建築においては造形や構造は言うまでもなく、色彩や配色およびテクスチャーのことまで
学ぶものである。私はクレーの写実的な描写や遠近感をあえて押さえた作品の二次元の世
界に封じ込めたフォルムや色彩のシュールさが好きだ。油絵の生々しい情念ではなく一種
の観念として凝縮させた静かな思想。そういえばクレーの日本画の蒐集は数十冊に及んで
いたという。やはりその影響で平面のなかに観念を封じ込めたのであろう。音楽家でいえ
ばブラームスのような抑制された表現を感じるのは私だけであろうか





誕生日
2010/8/10

今日は私の誕生日・69歳
8月8日銀座に行く。明日が私の69歳の誕生日だが、本屋に寄ってパウル・クレーの絵に谷
川俊太郎の詩を添えた「響きあう絵とことばのおくりもの」と言う題の絵本が気に入った。
細君は誕生祝いに費用を出すという。1500円
パウル・クレーについての私の知識は、近代建築の四大巨匠ル・コルビュジエ、フランク
・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてヴァルター・アードルフ・ゲ
オルク・グロピウス、そのグロピウスが創立したドイツの芸術と建築の学校「バウハウス」
で、クレーは関わっていたことから始まった。
建築においては造形や構造は言うまでもなく、色彩や配色およびテクスチャーのことまで
学ぶものである。私はクレーの写実的な描写や遠近感をあえて押さえた作品の二次元の世
界に封じ込めたフォルムや色彩のシュールさが好きだ。油絵の生々しい情念ではなく一種
の観念として凝縮させた静かな思想。そういえばクレーの日本画の蒐集は数十冊に及んで
いたという。やはりその影響で平面のなかに観念を封じ込めたのであろう。音楽家でいえ
ばブラームスのような抑制された表現を感じるのは私だけであろうか。

昨日が本当の誕生日。8月9日。たいした関係はないが、長崎原爆記念日。
お茶の水に一月ぶりに散髪に行く。途中で近藤に会う。3メートルの至近距離で面と向か
ってもわからないで楽器屋に入っていった。私が濃いサングラスをしていたためか、5キ
ロやせたので面変わりをしたためか。それともあまりあたりを注意しないためなのか。ま
えから上の空の性格だったことは確かだ。楽器店のなかまで追っかけていった。ギターの
ピックを探しているらしい。肩をたたくとびっくりして「やせたなあ」といった。確かに
体重は減ったが、標準的な体重だと私は思っている。お茶でものむ暇があるかと問うたけ
れど、その時間がないということであったからすぐ別れた。
散髪のあと三省堂を覗く。岩波書店の月刊誌「思想」1800円と、今話題の「ハーバード白
熱教室」とおびに書いてあった、マイケル・サンデルの「Justice」という本を購
入。2300円。これはNHKの教育テレビで放送されていたものだ。これは自由主義と共和
主義の論争なのだ。



95α編集部:2014/03/30(日) 08:27:11
エイプリル・フール
.

     エイプリル・フール  




      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。




2009 年

エイプリル・フール

 今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアの
ある罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。

 Wikipediaで調べると
エイプリルフールは、日本語では「四月馬鹿(四月バカ)」、漢語的表現では「万愚節」
または「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)と
呼ばれる。なお、日本では4月1日は、「日ごろの不義理を詫びる日」だった。イスラム
教においてはこの習慣はコーランに著しく反しているため、強く禁止されている
エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの
習慣が始まったかはわかっていない。有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確
証が無いことから仮説の域を出ていない。

* その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していた
 が1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反
 発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。
 しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝ってい
 た人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だ
 った少女までもが含まれていた。
 フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事
 件を忘れない為に、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようにな
 っていった。これがエイプリルフールの始まりである。
 そして13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、1564年から13年ご
 とに「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするとい
 う風習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなった
 が、「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった。

* インドで悟りの修行は、春分から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じること
 から、4月1日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある。

* 日本で、エイプリルフールが広まったのは「パチンコの負けをごまかすためにこの日に
 スリにあったと嘘をついた者がいた」ためとする説があるが、パチンコのない時代から
 この日に嘘をつく風習が記録されており、これ自体がエイプリルフールの可能性がある。
 さて、いままで私の嘘を思い返すと、仕事に行き詰まったから暫くの間姿を隠す、探さ
ないでくれと言ったFAXを友人に送り旅行に出たことがあった。人に大して迷惑を掛
 けないようなこのての嘘をいくつかついたが、結果的にはその嘘が誠となったことであ
 る。だから今年は「二億円の宝くじに当たった」、「絵の公募展で特選になった」、「屋
 敷から金の鉱脈が見つかった」、「芥川賞にノミネートされた」、「いままで知らなかっ
 た叔父さんから遺産相続の話が湧いてきた」とか、いろいろ現実にはあり得そうもない、
 しかし真実になってくれと願う妄想を考えつくのだが、さてそれを信じる友人がいそう
 もないのである。信じてくれなければこの遊びもまったく面白くない。やはり世相にあ
 った暗い話題が真実味があって、信じてもらえるのだろうか。その様な嘘がまた真実に
 なると困るから、今年は嘘をつかないことに決めた。

????????????




2011年

エイプリルフールに語る真実

  ◆宇宙語を解読できた。
  ◆今日最後の乳歯が抜けた。
  ◆今年は嘘をつかないことにした。
  ◆29回目の転居を目論んでいる。
  ◆人生の意味がやっと判った。
  ◆今日は一度も呼吸をしなかった。




2012年

エイプリルフールに語る真実

◆今日から太陽は西から昇る。
◆今日から逆さ時計を採用する。
◆今日から嘘をフィクションと呼ぶことにする。
◆今日から饒舌をやめ沈黙に徹しよう。
◆今日からひけらかしと自慢で紙面を満たそう。
◆今日から天国への階段を組み立てよう。




2013年

えいぷりるふーる

◆アメリカ国防省から急遽、青森県三沢空軍基地、神奈川県横浜海軍基地、沖縄の米軍基
 地防衛のための最終兵器「リターンパス」の設置依頼が、「無限回廊」物集班に寄せら
 れた。しかしこれは武器輸出三原則に抵触するのではないかと迷っている。

◆甲子園を沸かしている高校野球の決勝戦に覆面の豪腕投手が投げるという噂がある。
 時速200kmを出すというが、アンドロイドではないかとか、スーパー・サイボーグで
 はないかと疑われている。しかし改造人間であるとすれば、その肉体的な能力の補強は
 どこまで許されるのか。インプラントによる歯の矯正は?強力レンズ眼鏡による視力ア
 ップは?催眠によるマインドコントロールは?

◆遺伝子操作による新種の大根が発明された。それによると大木の枝にぶら下がって成り、
 秋になり木枯らし一番が吹くと適宜に乾燥し、そのまま漬け物樽に漬けることができる
 という。

◆本郷冷熱の地下ラボでは、早春になると大陸から黄砂やPM2.5などの有害物質が日本
 の空に偏西風に乗ってやってくるから、地球を反対回りにする研究を進めている。もう
 すでに完成まで79%に達しているから、近日中に太陽が西から上がる、すなわち偏東
 風が吹き有害物質はヨーロッパに向かうことになるだろう。

◆今国会で健康被害による喫煙をなくし医療行政の圧縮を試みるために、「禁煙した人に
 は」月額1万円の禁煙手当を支給するという法律を作った。しかし今まで吸っていなか
 った国民が続々と喫煙を始めたので大騒ぎになっている。



96α編集部:2014/03/30(日) 19:14:41
猫道 (1)
.

          猫道(ねこどう) (1) 2002-2009 




   氏の作品の中に猫が時々でてくることに気が付いたのはいつのことだ
   ろう。愛玩動物ではない。あくまでも観察対象としてである。
   告白だろうか、「我が儘でマイペースを押し通し、おまけに相手構わ
   ず毒舌を吐いては不興を買う」とあった。
   無口で神経質、だからこそ群れることを嫌い独り(一匹)を選び我が
   道を行く…。 自分の姿を猫に見たのだろう。
   猫道散歩ならぬ、「ねこどう」を貫き通す生き方をしてきたようにも
   見える。




窓辺にて−遠い昔の話 2002/4/25

    少年のころの話である。
    いつも側に一匹の犬と数匹の猫そして時には兎がいた
    飼っているようで、そうでないようで
    なんとも悠長な関係であった
    猫や兎の名前はそのときどきで変わったが
    犬の名は代々「ベル」であった
    「ベル」が死んだり、行方不明になると
    どこからともなく野良犬が住みつき
    「ベル」という名を引き継いだ
    不思議なことに彼らのほとんどが
    雑種のおとなしい性格の赤犬であった
    近所の子供にも親しまれ
    友人の妹に私のことを「ベルのようにやさしかね−」と
    形容詞として使われるほどであった
    大人になった私は家をでていったので
    「ベル」がその後何代続いたかは知らないままである




窓辺にて−吉行理恵詩集  2002/7/6

公園の向こうのビルディングの夏蔦はすっかり茶褐色の無惨な姿に
なってしまった。あのまま根を絶たれなければ勢いよく壁面を覆い
尽くして、涼しげな装いで人々の目を楽しませてくれただろうに。

「吉行理恵詩集」を三省堂で求めてきた。
本を手にとってみると、「立原道造」について傾倒していることを
知った。これもこの本を買う気になった理由でもある。
立原道造は建築を学び、パステル画をよくし、また詩人でもあった。
しかし二十六歳の若さで夭折したのが惜しまれる。
数ヶ月前東大の周りを散歩中、偶然弥生町に瀟洒な三階建ての
「立原道造記念館」をみつけた。絵や小さな建物のスケッチや詩集
を眺めながら、東大に学んだ彼のために隣接したその地に記念館建
てられたということは、よほど愛され、早世を惜しまれたにちがい
ない。

         流れ星

    猫は
    明るい星
    窓枠に 肘をつき
    部屋のなかを 見守っている

    日の中で
    綾取りを繰り返す 姉妹

    縁者たちにかこまれて
    お婆さんはうわごとを言う
    「うたたねしながら 死にたいわ」

    その瞬間 星が流れた

              吉行理恵詩集より




この暑いのに 2002/7/10

いつも事務所に出勤する近所の道筋にサッチーにそっくりのペルシャ猫がいます。
このクソ暑い中、目がどこについているのか、口はどの辺なのかも判らないほど深い毛皮を着
込んでいます。口のまわりはそのため、飲み物や食べ物をくっつけフェルト化しているのを見
ると気の毒になります。いっそのこと毛皮を脱いで、きりっと糊のきいた浴衣でもきて氷菓子
でもつつきながら夕涼みしたらどんなによろしいか、見るたびに可愛そうになります。




写真投稿の件 2003/1/19

写真をイメージスキャナーでとってJPG形式なおすと書きましたが、デジタルカメラで撮り
ますと自動的にJPG形式のファイルなります。

「うちの猫の高笑い」とか「どじな犬の失敗」とか、「1年遅れの還暦祝い」等、珍しい楽し
い身近の情報を管理者あてにE−mailでfileをどんどん送って下さい。(メッセージ
をつけて)

管理者のメールアドレスは画面の一番下にあります。




本郷界隈 2003/2/16

本郷は不思議な坂の街である。
 日頃は気づかぬのに、休日の朝や勤め帰りの夕方人通りがなくなると突然違う町並みに見え
てくる。嗚呼この道は坂だったかと初めて気付くのである。どのような路地も決して平坦では
ない。
なにげなく感じてはいるのだが、その勾配が微妙なだけに毎日通っていてもはっきりと意識す
ることがない。

 また坂道であれば当然下りが続くと思っているが、本郷の路地裏の坂道だけはすこし日頃の
思いこみと違う様相を見せている。一度下って必ずまた登っているのである。なぜ錯覚するの
か、どの場所が一番高い所か思い巡らしたことがある。

 私の観察によると、どうも本郷通りと壱岐坂の交差点あたりが一番高いような気がする。し
かしそれも確たる自信はなく今いる場所が一番高いような気がする。自分が立っている目の高
さだけこちらの方が坂の上と感じる。しかし少し進んで振り返るとこちらの方が坂上に見え今
来た道に向かって下っているように見えるのが不思議である。だから通りごとにこっちが高か
ったり坂下だったり感じてしまうのである。

 そしてしんと静まりかえった通りの常日頃と違った様相は新鮮で未知の場所に迷い込んだ趣
がある。私はそのような路地裏(猫道)を野良猫のように散策することが好きである。




写真を投稿してやってください 2003/8/27

実際の各氏は人格高潔、高邁、円満で決してそうではないのだが、いかにもこれから「飲み」
「打つ」「買う」に出かけそうな不良老年にみえるこの写真はいささか見飽きたと公園の野良
猫が
言ってました。どなたかこの暑さを忘れるような清々しい写真を管理者に投稿してやってくだ
さいませんか。                  管理者の代理人より




窓辺にて−猫道散歩 2003/9/8

 文京区は坂道の多いところである。夏目漱石の「三四郎」にでてくる「団子坂」、石川啄木
が通った「切通坂」「真砂坂」、樋口一葉の住んでいた「菊坂」など、ちょっと歩けばたちまち
明治大正の文学の世界に入り込む。

 今日は「鼠坂」(ねずみさか)のあたりを探検にでかけた。左に椿山荘を右にお茶の水女子
大を望む高台に挟まれた谷間を護国寺に向かって通る「音羽通り」の近くである。地図で今宮
神社を目標に定めたのだが、 大きな「音羽通り」よりももう一本右を走る高台の細い通りの
「鷺坂」(さぎさか)を選んだ。いつもの猫道愛好家としては当然の帰結である。

 「鷺坂」を北に向かってしばらく進むと八幡坂の手摺りの附いた階段へと続く。登りきった
ところに何やら由緒ある大きな古い洋館が木々の間に見え隠れした。住んでいるのか居ないの
か人影もない。猫がゆったりと道を横切る。

 私は以前にも車一台やっと通れるようなこの細いに迷った経験を思い出した。小石川植物園
の裏手の住宅街で行き止まりで苦労したことや、西片の辺もこのような路地が続いていたと思
う。高層ビルも見えず車の騒音もまったくない静まりかえった様子は「これでも東京のど真ん
中か」と驚くほかは無い。だから私は後ろから近づいてくる車に気を使うことなく散策できる
猫道が好きだ。

 今宮神社に着くだろうと考えていたのだが、どうも間違ったらしく一向にそれらしきものは
ない。どうせそれほど拘るほどの目的がある訳でもなく、そのまま歩いているとその路地の突
き当たりに地図を描いた看板が立ててあった。よく眺めているとあの古色蒼然とした屋敷の洋
館が音羽御殿といわれる鳩山会館であったことを迂闊にもその時気づいた訳である。左手に向
かって急な階段になっている鼠坂(ねずみ)に片足をかけて思案していると、まるで一昔前の
文筆を生業とするような和服姿の男が現れた。おまけにまだ残暑の厳しいなかコートまで羽織
っている。五十年前の時代を飛び越して現れたようすでひげの青々とした散切り頭が胡散臭げ
に私を見て通った。

 そう言えばはっきりと思い出せないがここ小日向や音羽近辺に有名な小説家が住んでいたと
聞く。この辺りには今でも時代が交差したような空気が漂っていて私を小説の世界へ引き込む
ようで、今宮神社の祭礼の太鼓の音が遠く高台の下から聞こえてきて、明治か大正の時代に紛
れ込んだような心地がになった。




努力をしてますが・・・。 2003/12/21

ギャラリーの写真、一週間に2・3度は取り替えるつもりですが、なにせソースが集まってき
ません。出かけるときはいつもデジタルカメラを携帯するのですが、たいてい食指の動く景色
に行き当たらず、また美しいなと思うような夜景なども当方の写す技術が不足していてうまく
行きません。旅行の時のすばらしい思い出の景色・庭の美しい花々の姿・ドジな犬・洟垂れ猫
などのほほえましい写真を募集します。掲載欄を管理者一人でまかなうのはちょっとしんどい
ので皆さんのご協力をお願いします。




アクセス20000ゲット 2003/12/25

遂に20000番目のアクセスに成功。朝から狙っていたかいがありました。
楠葉さん、骨折したとはお気の毒に。徒然草第八九段の「猫また」に襲われての災難ではあり
ませんか。吉田兼好は現代に立派に通用する実に合理的な考えの持ち主のだと小生は思いまし
た。




ポケットパークの晩秋 2004/12/10

ギャラリーの写真は都会の中のポケットパークのケヤキの紅葉です。暦の上では冬の走りです
が木々の葉はいまだ晩秋の面影をとどめていて、これからははらはらと舞う落ち葉が楽しめる
ことでしょう。

この公園はヒチコックの「裏窓」に出てくる中庭を思いださせます。この時間の写真はうらぶ
れて寂しげな様子ですが早朝はホームレスがやってきて白い野良猫に餌をあげ、昼は若いサラ
リーマンが弁当を広げ、午後は小さな子供達が遊びにやって来ます。眺めていると色々人生の
縮図を眺めているようで飽きることがありません。




猫道散歩 2007/9/22

今日は神田明神まで行って、男坂を下り湯島天神まで回り道をする。最近は路地裏の「猫道」
をよく歩く。そして野良猫の生態を観察すると結構面白い。
野良猫は人間にたいして不信感があり警戒心がつよく、なかなか近づけない。つねに車の下や
狭い塀の間の逃げ込む場を意識しながら行動している。いくら近所の人が餌を与えている様子
でも野生の性質が抜けなくて、人が近づくと物陰に走り込む。
仕官先の庇護のもとに安定した暮らしと愛情をうけている飼い猫はその点、人間を敵と見なさ
ないので、近づいて触れてもすぐに逃げ出すことはない。写真は家の中から余所の猫を見てい
る5匹の飼い猫達。

      




里親募集中 2007/9/25
(抜粋)

◆ 早朝の散歩の時に電話代を振り込むために近所のセブンイレブンに立ち寄る。店
を出ると、とあるビルの壁面に「里親募集中」という子猫の写真のビラが貼ってあっ
た。血統書付きの高価な猫ではないようだが、将来下町の看板娘になりそうな可愛い
子猫である。
◆ 我が家のベランダから見るポケットパークの白の野良猫は、日がな一日空調の室
外機の上に寝そべり見事に怠けて何もしない。自転車でどこからかやってくる年取っ
たホームレスから食べ物を貰うときだけは、滑り台の上にお出ましになるのだが、夜
は餌を探すとか、縄張りを見回るとか真面目に仕事らしいことをしているのだろうか。
メールの返事を書くとか、部屋の掃除をするとか、忙しい私にその「猫の手」を貸し
てくれないだろうか。
◆ 動物が飼える環境であれば、犬もいいが私は猫を飼いたい。犬が飼い主に愛嬌を
振りまき忠誠を誓う姿をみるとどうも惨めに見えてきて、己の内にもそのような媚び
やへつらいが潜んでいるように思えて閉口する。
その点猫は実に自己中心的で、死んでも嫌なことはしない、出来ない、といった風情
が孤高の精神を保っているようにみえる。 打算と妥協の渦巻く今の世の中でその姿
を私は羨望のまなざしで見ている。

      




湯島天神辺りを散歩 2007/10/4
(抜粋)

◆ 久しぶりに晴れる。家の前のポケットパークに見慣れない虎模様の子猫がいた。
帰りにペコチャンの飴をやったら、美味そうに食べていた。
◆ この不二家の懐かしの飴は朝食前の散歩に必要な医者から勧められた「血糖値」
不足を補うためのもので、常に携帯しているものである。「血糖値」をさげる糖尿病
の薬を服用しながら、下がりすぎたらチョコレートや飴を舐めるようにという医者の
指導だが、じつに治療方法としては原始的だとあきれる。まるでマッチで火をつけて、
燃え広がるとポンプで消すようなものだ。

◆ 野良の世界も子猫が自分で餌を探して生き延び、やがておとなに成長するには至
難の業であろう。真っ白とか真っ黒とかあるいは器量が抜群によいとかの特徴があれ
ば、拾われて安泰の生活を約束されるだろうが、どうもぱっとしない様子の猫は目も
見えないうちに捨てられるのが落ちだ。捨てられた猫をみるとたいてい野良猫特有の
模様のが多いような気がする。どのような模様の猫が野良猫になりやすいかいつか統
計でもとってみるか。




探偵家業 2007/10/5

◆ 犬は人に付き、猫は家に付くといわれる。そして猫は一寸した環境の変化でよく
家出するという。例えば家の模様替えをしたとか、奥さんの香水の種類を変えたとか、
ご主人が突然変な音楽に凝りだすとか、日向ぼっこの場所を横取りされるとか、日頃
人間には許容できる範囲の我慢も原始本能の強い猫にとっては許し難いことに違いな
い。
◆ さて、もう一つの職業を選ぶとすれば、私はフィリップ・マーローやエラリー・
クインのような探偵家業をやってみたい。時には変装し、時にはカーチェイスをし、
クライアントに依頼された捜索や謎ときをはたしてなにがしかの金を手にするのだ。
暴力的ではあっても「女性には優しく、男にはつれなく」なければいけない。
◆ 探偵の業務は、「調査」と「工作」に大別される。
素行調査 ・浮気調査・家出人探し・債務者探し・裁判の証拠収集・ストーカー対策
・過去調査・特殊工作・別れさせ工作・リストラ工作・統合失調症工作・痴漢冤罪工
作などである。そしてその経費はどれくらい掛かるだろうか。
素行調査・・・10万〜500万・浮気調査・・・50万・家出人探し・・・50万〜500万・
・・裁判の証拠収集・・・50万 ・ストーカー対策・・・40万・別れさせ工作・・・
200万・リストラ工作・・・150万
◆ 探偵が常に携帯している7つ道具とは、テープレコーダー・小型懐中電灯・折り
たたみ傘・日よけの帽子・メガネ・単眼鏡・ビニール袋・現金と運転免許証・ピンホ
ールビデオカメラ・CCDカメラ・暗視スコープ・盗聴器・盗撮カメラ発見キット・盗
聴プリケイ等など。
◆ ただ年を取ると例えば医者や弁護士のような、病気や恨みや怒りや情のもつれな
どの、人生の負の部分に立ち入る職業は結構時間も体力も気力においても強靱さを要
求され、その覚悟は半端ではない。世の中重労働に比例して報酬も高くなるのだから、
安くても適当にお茶を濁せる楽な仕事と天秤にかけると、結構人生のトータルのバラ
ンスはとれているように思えてくる。
◆ そして今更そのような難関の資格も取れないのと、もはや人々の人生の負を正し
て上げようという正義感も高揚感も湧いてこないので、猫や犬などの迷ったり家出し
たペット達を探す探偵がよかろう。それは村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる猫
探しを生業とする少し頭の変な老人がモデルだ。急がず騒がずマイペースでまるで猫
になったような気分で気ままに生きるように。だとすれば先に挙げた探偵の七つ道具
の他に、鰹節とかマタタビ・猫じゃらし・潜望鏡とか、猫の鳴き声も練習する必要が
ある。猫の集まる場所の地図も追々作らなければならない。
・・・などと考えながら茂みのなかに子猫を見付けて朝の散歩を終えた。

      




漱石山房 2007/10/8
(抜粋)

◆ 今日は昨日歩かなかった分を取り戻すべく、少し遠くまで散歩した。本郷通りを
東大農学部を通り越した先の角を右に曲がり、根津神社へと坂を下る。途中日本医科
大学の横道に入って「漱石山房」を覗く。「我が輩は猫である」の苦沙弥先生がうる
さがった野球をしている生徒達の運動場が今の日本医科大学の場所であったと思われ
る。「漱石山房」の実物は名古屋の犬山にある明治村に移設されていて、ここには近
代的なガラス張りの記念館になっている。しかし嬉しいことに、小唄の師匠だったか
失念したが、そこに飼われている「白」へまさに今逢いに行くところであろうか、我
が輩(猫)の彫像が塀の上を歩いていた。




「日記」について 2007/11/12
(抜粋)

◆ 備忘緑として
  診察予定日、人にあう日にち、時間、場所、電話番号などを忘れないために書き
  留めておく。
◆ 資料として
  日々の散歩などで得られる「変な看板」とか野良猫の生態とか、人間の表情とか
  服装や髪型などをカメラで記録して、いつの日か創作の為に資料として蒐集して
  おく。




診察日 2008/8/28
(抜粋)

検査の結果、血糖値及び高脂血症が見られるがこの数値も良い方向にむかっていると
のこと。もう少し歩かなければいけないと思った。また面白い看板や野良猫探しでも
始めるか。




山荘便り 2008/8/12
(抜粋)
◆今朝は早起きして山荘の木造の階段を防腐用の塗装を塗る。一番上のステップにい
た野良の子猫と目があった。この辺にも住み着いているらしい。




「黒猫と青春」*の感想 2009/9/8  *(同人α20号)

 先日、リチャード・ギア主演のハリウッド映画「HACHI 約束の犬」を銀座マリオン
で見た。「忠犬ハチ公」のリメークで、筋としては実に単純で判りやすい。しかし何
年も戻ってこない主人を待っている犬はじつにバカだなぁと思う一方、我ながらつい
ホロリとしてしまった。照れ隠しというつもりはないが、それが何故なのかと考えて
みた。

 それはこの犬が主人に寄せる絶対の愛・無償の愛だからではないか。
乳飲み子と親の関係に通ずるものだが、児童虐待、尊属殺人などの社会現象をみてい
ると、もはやこの無償の愛は人間関係に求めることは難しく、動物と人間の間にしか
認められない時代になってしまったのではないか。無償の愛は実は強者と弱者の間で
しか成り立たないのではないか。
 弱者は庇護されなければ生きて行けないし、強者はその弱肉強食だけの生き方のみ
では殺伐としていて心が満たされず、弱者の放つ癒しのオーラ・生体エネルギーを必
要とするのではないか。だからこの世の中は強者ばかり、或いは弱者ばかりでは人間
社会が衰退に向かうのではないだろうか・・・と考えた。

 私の少年の頃は、犬、猫、兎などの動物との暮らしは身近にあった。屋敷が広かっ
たせいか、迷い猫、迷い犬、迷う兎などが常にいた。今までのそれらの動物がいなく
なると次の野良が入り込んで来て、いつものように馴染んで住み着いた。猫の名前は
だいたい安直に「白」とか「黒」とか名付けられていたが、犬は柴犬などの雑種で赤
犬がほとんどで代々「ベル」という名前で呼ばれていた。猫も犬も顔中ひねくり回し
たり、髭を切ったり、目がねを書いたりといった悪戯をされたにも係わらず、よくな
ついていた。だから、もの言わない動物から癒される経験した私にとって、子供が動
物に接する環境を与えてやれなかったことが今悔やまれるのである。彼に弱いものに
対する考え方が育ったかどうかが気になるところではある。

 動物を擬人化した書き方が色々あって面白い。夏目漱石の猫は人間の行動や思考を
鋭く観察している。気むずかしい苦沙弥先生が雪隠で謡曲を呻ったり、隣接する学校
の生徒達がうるさいと大人げなく本気で怒ったり、寒月君の結婚に纏わる虚栄や功名
心などの俗世間の風潮を見聞きして「人間はなんと滑稽な生きものであるか」などと
と揶揄している。
 この黒猫と青春はそんな揶揄や苦笑の目線ではなく、実に素直で暖かい目で描かれ
ているから気持ちいい。きっとみどりさんの廻りには無償の愛が溢れているんだと思
った。




猫について 2009/9/23

 私も猫や犬は好きだけど、これだけ猫の魅力を綴られると、へそ曲がりとしてはい
ささか茶化したくなるのである。犬の愛想良さと違い、どちらかといえば−---本当
に猫が一般に言われているような性格そあるかは判らないが---私も猫みたいに我が
儘でマイペースを押し通し、お負けに相手構わず毒舌を吐いては不興を買うのである。
 最近茂木健一郎の「化粧する脳」という本の中に「八方美人は知性の証」と書いて
あった。他人の表情や考えを読み取り、うまく話を合わせてコミュニケーションを円
滑にするという意味なのだろう。その点私には「八方美人の知性」は育たなかったと
言える。最終的な決断の決め手は「好きか嫌いか」なのだから。
 ところで、私がペットに接する態度は、皆さんのように慈しみ可愛がることはしな
い。ペットの気持ちになって物事を見たり考えたりはしないし、また出来もしない。
そうかといってなつかれなかったという訳でもない。ごく自然に一緒に暮らしたとい
うことで、改めてそのような個人的な事象を説明しようという意欲は湧かないだけの
話である。だから夏目漱石の「我が輩は猫である」の描く猫が普遍的な人間の性や社
会問題を抉り出したところがやはり面白く読み継がれる所以であろう。




「沈み行く家−最終回」
合評ブログ用コメントより 2009/10/5 *(同人α20号)
(抜粋)

私は体を動かす事が余り好きではない。病気になって医者から運動を奨励されて来た
が、それでも多少数値がよくなると、なるべく忙しいだの時間がないだのと言い訳を
作っては、サボタージュしているのである。何故そうなのか、ここで私は私なりに運
動嫌いの勝手な理屈を告白する必要があるだろう。
 もともと生き物はよほどの必要に迫られない限り、なるべく静かに暮らした方が理
にかなっている、と勝手に思っているのである。原始時代は食糧確保に苦労をしただ
ろうが、一度大きな獲物にありつくと、それを食い尽くすまで寝て暮らしたに違いな
い。それが自然な人間の姿ではなかったろうか。
 ましてや健康の為には運動が必要だという風評を信じて、過酷なまでに肉体を虐め
る根性は特に嫌いである。 また「健全な肉体に狂気は宿る」を見せつけられると
「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのもちといかがわしい。 プロの運動選手の
七十歳前後で壊れてゆく姿を見ていると、読者はかなりこの運動不要論になるほどど
賛同されるであろう。
 また、自然の中に立つあの見事な大木を見よ、樹木は条件さえよければ寒かろうが
熱かろうがじっと同じ場所で数百年も生きているではないか。人間は何を求めて走り
回っているのか、必要以上の欲望に支配されているのではないか。いままで感心のな
かったおばちゃんおじちゃん達が、ある日突然目覚めて走り回るのを見ると、多くの
大衆はアルコールやパチンコ依存症のように、依存する対象を探し回っているという、
精神が壊れ始めているのではないか。
 とまあ、自分の怠けの理屈をこね回したのでありますが、ポケットパークを根城に
して一日13時間は寝ているいて仕事をしない野良猫が、私の理想であります。




「猫様々」*を読んで  2009/10/16 *(同人α20号)

 先ず題名の「猫様々」の読み方が気になった。「ねこサマザマ」と読むのか「ねこ
サマサマ」と読むのだろうか。読み進む内に亮子さんは大和の国の出身だから、多分
その両方の意味を込めたものの様な気がしてきた。このことは亮子さんの説明を待た
ねばならない。
 K君から借りた丸山圭三郎・著の「言葉とは何か」という本の中に、興味あること
が書いてあった。「外国語で話している理解できない言葉は単なる騒音としか聞こえ
ないし何の感情も生じない。そのように言葉はそれを話す共通の社会、共通の生活体
験といった文化の中でしか理解されないのである。例え同じ動物や同じ事物を語って
も、国や言語が違えば違った概念が生まれる」とあった。ここまでは私が何をいいた
いのか、皆さんには全く判らないだろう。早い話が、日本人の「猫」にたいする概念
と、フランス人のそれは違っているのではないかと思ったからだ。
 Rさんの参考資料のなかにイギリスやフランスの「猫」に纏わることわざがあった
が、Sさんの書かれたこの号の前書きをみると、猫だまし、猫撫で声、猫っ被り、
猫背、猫の額、猫づら、猫舌、猫脚、猫ババ、猫跨、猫股、猫間、猫火鉢、猫鮫、猫
の目のよう、猫目石、等々ことわざ、たとえは圧倒的に日本の方が多いと思う。
そこで私は日本の猫好きの人達は、「猫」をとても人間に近いものとして擬人化し、
いやむしろ家族や同胞のように考えている節がある。一方イギリスやフランスの人は
「猫」を人間と同列ではなくもっと野生の動物という認識がつよいのではないか。
「仕事猫」などの言葉があるくらいだから、ギブ・アンド・テイクの言葉が意味する
ものを考えると私はそう思った。



97α編集部:2014/04/02(水) 17:27:26
大川組
..

             大川組

              2007−2010




2007年


2007/2/5

「同人α」第9号一冊を野口日出男君に送る。
先日の新年会の写真をCDの焼き付け土屋雄助君に送る。

さて、色々病に苦しむ友人・知人の噂を聞いた。

★ 野口君は昨年肺ガンで片方の肺を切り落としたと先日の会で言っていた。苦しくない
  かいと問うたらいまのところそうでもないといっていた。しかし「今度の会」に誘っ
  てくれてうれしかったと何度も感謝していた。大病を患ったのでこれからは出来るだ
  け友に会うようにと彼は努力しているように思えた。
★ 昔仕事でお世話になった奥田さんも心臓の手術を三回もして意識が戻らず、もう駄目
  だろう時間の問題だと飯田氏が報告してきた。
★ 大川組の木原君も白血球が急に減って力が出なくなって精密検査をしにいったと
  の知らせがあった。
★ 昨年の夏頃江川君に電話をしたときはまだ会社にいて、ちょっと声
  が出しにくいようだったが10月ころ食道ガンで亡くなっていた。
  少しづつ病に倒れる友人・知人が多くなり、寂しいことだ。



2008年

     大川組会案内 2008/2/12

     27日の懇親会のメンバ-は、金子・高木・古賀・香月・田
     村・熊井の6人になります。武藤君はおそらく駄目でしょう。
     集合は、いつものニュ−新橋ビルのエントランスに、5時半
     としましょう。
     金子さん!予約のほう、よろしくお願いします。
     




山荘便り
2008/8/12

◆今朝は早起きして山荘の木造の階段を防腐用の塗装を塗る。一番上のステップにいた野
 良の子猫と目があった。この辺にも住み着いているらしい。
 木材保護着色用塗料(日本エンバイロケミカルズ株式会社)
 キシラデコール  屋外木部用保護着色塗料
 木部に浸透し、内部から防腐・防カビ・防虫効果を発揮。色持ちの良い優れた耐候性。
 木目を生かした自然の仕上り。木の通気性を保つ浸透タイプ。塗りやすく、抜群の作業
 性。
◆8月26日(火) 熊野古道ウォ−キングと暑気払いを兼ねて集まりましょう。時間は
 午後五時半、いつもの所で。参加できる人だけでやりましょう。今のところ参加確定者
 は、金子・古賀・香月熊井の4人です。 時間が早いですから、予約無しでどこかにし
 けこみましょう。





     大川組忘年会  2008/12/1
     皆様
     12月3日(水)17時の待ち合わせ場所は、浜松町の店が
     予約取れなかったので、新橋のいつもの待ち合わせ場所(ニ
     ュー新橋ビル1階)にします。
     お店は、新橋駅前ビルB1の「魚がし日本一 新橋店」電話
     3573−2307 に予約しました。

     熊井様
     勝手ながら上記の通り変更しましたので、悪しからずご了承
     願います。            金子



2009年


     大川組旅行−熊井君より」 2009/3/16

     アウトラインを下記の通り決めました。皆さんの合意が得ら
     れ次第、JTBで予約する予定です。
     期 日     5月21日(木)〜5月22日(金)
     スケジュ−ル
     21日   9時頃 新幹線で東京発
          12時頃 山形着   (昼食)
          13時  レンタカ-で蔵王へ
     当日は蔵王温泉泊(蔵王国際ホテル)
     *ちょっと寒いかもしれないので、重ね着の出来るものを持
     参のこと
     22日   8時半ごろホテル発 途中天童の国体競技場
           (公園)に寄って山寺へ
           12時頃 山寺を下山して風雅の国で昼食
           天童市内を案内(人間将棋他)
           山形へ帰ってレンタカ-返却
           16時頃の新幹線で19時頃東京着
     予算    一人当たり  新幹線・旅館泊(2食付き)
            ¥26700
            レンタカ- (ガソリン代含む)  ¥3300
     *2回の昼食代は各人別負担として、ひとり¥30000の予で
     確認
     1.期日に付いて 香月君OKですか? 場合に寄っては1日
      づらす必要あり?
     2.旅館泊    5人部屋の予算ですが以上の通りとしま
             した。ご都合をご返事ください。





山形旅行記・一日目
2009/5/22

 5月20日より1泊2日の山形旅行に出掛けた。O−chan、熊井君、香月君、金子
君と私の5人衆、通称「大川組」のメンバーである。決して強面の連中の結社ではない。
それは昔、福岡県の大川から佐高に越境して来た同期の集まりだったのだが、知り合いだ
ったO-chanや香月君や私達部外者がなんとなく勝手に飲み会に参加したような訳だ。
この外正当なメンバーは高木君、武藤君、木原君がいた。残念ながら木原君は熊野古道旅
行を企画途中亡くなってしまった。武藤君は今四国八十八カ所の巡礼の旅の途中である。
この連中は実に穏やかで、自己主張やひけらかしや声高に騒ぐこともない。だれも強引に
意見を纏めて何所かへ引っ張って行こうとしないのがいい。
 その5人は9時18分発の東北新幹線に乗って山形へ。田植の終わったばかりの水田の
関東平野を通り抜け、新緑に満ちた東北道をひた走る。なだらかにうねる丘陵の連なりは
ヨ−ロッパの景色のように優しく、懐かしく見ていて気持ちが良い。リンゴの花がまだ咲
いているだろうかと切望するがどうであろう。皆が言うにはもう終わっていて小さな実を
付けている頃だと相手にしてくれない。ジャンクションの福島で仙台方面と山形方面に別
れる。すぐに山に挟まれた谷間に入りかなり走ると平野にでた。米沢、山形と盆地がひろ
がる。
 レンタカーを借りて蔵王連山のひとつ熊野岳(1,841m)へのぼりお釜を覗く。下に見
えるカルデラ湖は白濁した緑色で、日の当たり具合や雲による陰りで、微妙に色が変わる
のが不思議だ。この高さになると灌木一本もなく微かに苔や這い松だけが、山を駆け上る
強風に耐えている。上着を持ってきてよかった。
 この蔵王は大学生の体育の授業としてスキーを習いにきたことがある。もう45年以上
も前だ。三日間の練習の最後に地蔵山の頂上までロープウエーで登り降りてくるという無
茶な命令があった。整備されたゲレンデしか経験しない初心者にとって、山スキーなど遭
難しろとでも言うのかと思った。案の定の転んでは数メートル積もった新雪に埋もれ、起
きあがれなかったり、突然の吹雪で目の前が全く見えなくなってうずくまったり、その強
烈な吹雪が右の耳の鼓膜を破ったり、兎に角「白銀は招くよ!」のトニー・ザイラーが4
分で滑り降りたという、コースを樹氷を鑑賞する余裕などなく、這々の体で一時間以上も
掛けて降りてきた。今ならきっと指導者は責任を問われるに違いない。

       





山形旅行記・二日目
2009/5/23

 起きがけに朝風呂に入る。かすかに硫黄の臭いがした。あまりそのてのことに興味ない
ので、蔵王温泉の湯がどのような効用をもつのか判らない。しかし現に肌がつるつると滑
らかになるのは確かだ。湯上がりにデッキに出て微風に体をさらすと気持ちがいい。
 ここの浴室の造りはなかな洒落ていて、通り一遍ではない。和風で小梁や野地板の見え
る小屋組を見せ、高い天井の吹き抜けが気持ちよい。壁、床、建具などもすべて木製で、
英国産のワトコオイルにすこし黒の顔料を入れたのだろう、落ちついた深みのある仕上が
りになっている。私の山荘とはからずも材料や塗料は同じで気に入った。しかし一般の人
には暗く感じるかも知れないほど照明が控えめになっている。
 朝食の前に散歩にでかける。広大なゲレンデはよく手入れされていて歩きやすく、新緑
も種々の木によって違う色をしている。初心者用のスキー場と思われるが、15度くらい
の傾斜だろうか、転ばないように体型
を保つのに結構力がいる。
上から眺めると、村の中央に小さな教会の尖塔が見えればまさに南ドイツかチロル地方を
想い出させる景色である。
 通称「山寺」、すなわち宝珠山立石寺(りっしゃくじ)という天台宗のお寺に参った。
かなり急な石段が綴れに折れて上に続く。仲間の誰かが800段とか云っていたが、あとで
調べても段数については記述されているものを見つけることは出来なかった。
山は今しゃがの花が盛りである。
芭蕉が1689年「奥の細道」をたどってきたこの寺で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句
を詠んだという句碑があった。その影響か皆がいろいろと句を作る気分になって、いくつ
かできた。丁度春蝉が鳴いているのを読むのだが、しっくりしない。最初から名句を作ろ
うとしてももだめだよ、井原西鶴のように一晩で一万もつくるという矢数俳句のなかから
一つ二つと見つけ出すくらいでないと、とても無理だ。しかしその矢数ほどの句がとても
我々の頭では生まれるはずはないじゃないか、などとみんな大笑いしながら奥の院までの
ぼり切った。
 石段に心躓く立石寺
我が一句は季語がないし、解説がないと何が何だか判らない代物である。
 その後、K・K君がかつて赴任した土地である天童市へ向かった。舞鶴山の天童城城址
の人間将棋の場所や、天童木工を見学して回る。新幹線では山形牛弁当を食べかつビール
飲んで良い気持ちになった。午後7時に東京で解散した。りんごの花は遂に見ることがで
きなかったのが残念である。

       

       






     木原君の墓参り 2009/6/4
     大川組の皆様
     皆様のご希望を集約して、来る7月2日(木)とし、午前に
     したいと思います。
     集合日時・場所は7月2日(木)午前11時西高島平駅改札
     口(出口は1ケ所:進行方向の後部のもよう)とします。
     よろしくお願いいたします。
     さて、去る6月2日浜町にある木原事務所を昼休みにちょっ
     と寄りました。
     長女、御厨氏(木原君の後輩)、パートの女性3人で運営し
     ています。
     環境厳しいですが、明るく頑張っていますヨ。


     大川組忘年会  2009/11/10
     熊井君からのメール
     そこで日程は12月の16日(水)とさせていただきます。
     いつもの通り17時 いつものところに集合ということにし
     ておきます。
     どなたからか新提案があれば、変更させていただきます。


     熊井君より 2009/12/2
     もう師走ですねぇ! 一年が、年々記録更新するかのよう
     に早くなります。
     春夏秋冬・樹木や花の盛衰も、こんなにすばやく移ろうもの
     でしたかねぇ?
     これじゃ-大川組忘年会も、あと何回顔を合わせることがで
     きるか? 既にカウントダウンに入ったとみた方がよろしい
     でしょう。
      ところで今回の忘年会は、先日連絡した通り、16日(水)
     17時・新橋集合でいつもの通り行き当たりばったりで店に
     入ることになります。
     ですが田村さん! 今月中旬からフランスに出かけるとか?
     日程はダブっていませんか? MB会オ−プン戦は無しです
     ね?



2010年


     旅行の件      2010/5/31
     香月尹則
     高木君提案の大川会旅行会に時間が許せば君にも是非参加して
     貰いたいと思ってメールした次第です。例の件の真偽は小生に
     は判らないがその件を乗り越えて今後とも皆と付き合って往き
     たいと念じています。

     熊井浩二
     先日X氏がこういうメ−ルをくれました。
     「アルファ-問題では古賀さんと別れることになったけど、彼
     が悪い人で無いのは分かっているので、その他の件では付き合
     いを避けるつもりはありません」。彼女はこういう姿勢ですか
     ら、君もそういう気になってくれることを期待しています。大
     川組としては今後とも集まりの案内は二人に出すつもりです。
     貴方もその気になったらまた顔を出してください。近々旅行の
     件で集まる予定です。



     大川組の飲み会      2010/6/11
     皆様   金子征彦
     6月17日(木)のミーティングのお店を次のとおり
     予約しましたのでお知らせします。
     個室・安曇野庵・新橋レンガ通店
     熊井様  上記の通り予約しました。





大川組の皆様
2010/7/30

写真無事に届いたようでなによりです。
ほかの生物と人間の進化の違いは、キリンや馬や象などのように自分の肉体を進化させて
環境に合わせようとしてきた。人間は自分の平凡な肉体を進化させるのではなく、道具を
作ることで対応してきた。とベルグソンは定義している。わたしも衰える記憶力を補うべ
くカメラにたよるこうになりました。いま旅行の写真と東北の地図をみながら、おそまき
ながら自分がどこへ行ったか、八幡平がどの位置で十和田湖への道はどのようにたどった
かを復習しています。なんともとぼけた話ですね。一粒で二度おいしいという何かの宣伝
文句みたいです。まあとにかく皆心臓麻痺や転倒骨折もなく無事戻ってきたことを喜びま
しょう。娑婆は猛暑と雑用で、人生の難儀をいっぱい抱え込みそうです。なにも反省する
ことはありませんが、飲むいいわけのための反省会を楽しみにしています。

       






大川組飲み会
2010/9/16

出席者 高木、金子、熊井、香月、私の5人
X氏が欠席したので、しっかりと同人αのいきさつを語った。詳細はわからないと言いな
がら概略の経緯は理解してくれたようだ。しかしこれは私サイドだけの情報であって、次
回は私が欠席した場所でX氏の意見を聞いたらと冗談をいう。50周年記念のため佐賀に
帰省する前にもう一度会おうということになったが、日程は未定。





去りゆくもの三つ
2010/9/20

このところ色々の事が終わってゆくのを見るのは一寸寂しい。
一つ目はフロイト全集を頼んでいる近所の本屋が店を閉めると言ってきた。しかしどうも
腑に落ちないのは、その後に10月から別の本屋がそこに入るということだ。この文永堂書
店はこの土地で随分長く続いた店だと思うが、店仕舞いの理由が判らない。

二つ目は、東大の弥生門を出て目の前にあった「立原道造記念館」が休館するという新聞
記事を読んだ。詩人で建築家の立原道造は24歳で夭折している。同じ職業という感慨も
あって、東大構内を抜け根津や谷中への散歩の途中、その小さな記念館を何度か訪れた事
があった。彼の詩や設計された住宅は私の感覚に近いもので親近感を抱いたものだ。
それに加えて、まんざら縁も縁もないわけではない。大川組の高木君から、彼の奥さんの
姉がそこの館長をしているということを聞いた。一度なにか話しかけた記憶があるが、あ
の人だったのだろうか。歩くハイマーの会でいつか私が本郷界隈の担当として企画する時
には是非立ち寄るつもりでいたのだが残念なことである。

三つ目は、久しぶりに息子と三人で会食をするために電話をして、どこにしようかと問う
たら「天丸」が今月末に店を閉めるというから、最後の食事をそこでしようという事にな
った。「天丸」は永谷園の直営店で銀座6丁目の角のビルの地下にある店で、天ぷら屋と
しては旨くて安い店であった。どうもパイロット店として永谷園が宣伝のために安く提供
していたようだ。私達は銀座では天ぷらはここ、パスタ、寿司はこことリーゾナブルな店
を決めていたが、その一つが無くなることは寂しい。これ等の店は一見さんには見つけに
くい地下にあり、長い間営業するにはなじみの客を大事にするために安くて旨い店でない
と成り立たないということだ。





     大川組飲み会  熊井浩二  2010/10/19

     日取りは 11月4日(木)に決定します。
     金子君は暫く謹慎のようですが、当日の様子を見て、出来た
     ら顔を出してください。17時、いつもの新橋のビルで待ち
     合わせ。その上でどこかにしけこみましょう。どなたか 良
     い店を探しておいてください。



98α編集部:2014/04/03(木) 15:12:59
河口湖通い(最後の年)
.


           河口湖通い(最後の年) 2011




     この年もまた山荘便りが激減しました。前年末に同人グループ間の覚書がやっ
     と取り交わせたものの、年明けから○○を削除してくださいとの依頼が入った
     りと、まだやっかいなことを引きずっていたからでしょうか。
     いや、世間の喧騒、人間(グループ)関係の煩わしさに嫌気がさしたのではな
     く、新たな場所で生活したいという転居癖がムクムクでてきたのでしょう。
     大自然に囲まれた山荘にいよいよ住処を移す算段にとりかかり始めたようで
     す。




1月


「2011年頭にあたって」2011/1/1

       

昨年は初日の出を撮そうと思って河口湖畔に早起きして出かけましたが、日の出を待たず
にカメラの電池切れで、寒さのため朝日を拝むことなく山荘にもどりました。なんとも惚
けた話で、そのような思いの届かない一年でした。
しかし今年は電池の充電も満タンにし、天気も快晴で待つこと15分、東の山の端から顔を
出した太陽を撮すことが出来ました。そのスケールの大きい景色は私の広角レンズでも納
めることが出来ず、合成となりました。

地球のエネルギーの80%は太陽の恩恵とか、人間にとってその偉大な神のごとき姿と、
日本人のアイデンティティの象徴たる富士山のツーショットは、無信仰の私でさえ神々し
いものに感じました。今年は春から縁起がよさそうであります。

河口湖から眺める富士山は裾野が広く、まるで鳳が羽を広げたように見えます。私には頂
上から宇宙に飛び出すロケットの噴射装置に見えます。
今年もまた「無限回廊」「人の像をした美しい青い地球」など宇宙をテーマにイメージを
広げ、些細なことに煩わされることなく大きな心を持って過ごしたいと思います。
まずは、地方局駐在員(認識番号11)より河口湖の現場からの報告でした。

註:2011語呂合わせ   ふとくいいとし  ふれふれいいとし
2011は素数でした





8月


「澤田君へ」  2011/8/10

澤田 洋次郎様
北島正之氏の消息ありがとう。早速修正終わりました。
著者校正の件で疑問
校正して提出するのは、二段組の方だと書いてありますが、元原稿とずいぶん違うので戸
惑っています。例えばルビを入れたつもりの言葉にゲラ刷ではほとんど欠落しているのは、
何かそちら側にそうする方針があるのでしょうか、それとも単なる編集ミスなのでしょう
か?その件でご返答ください。

小生、8月10日より17日まで夏期休暇を山荘で過ごしますのでよろしく。なお、連絡はメ
ールか携帯電話 090-xxxx-xxxx までお願いします。近くまで来られることがありまし
たらご一報ください。そのときは富士を眺めながら涼をとりましょう。ちなみに山荘は冷
房なしで過ごせる気温だとちょっと自慢しましょう。
ではごきげんよう!!





「北君へ」  2011/8/11

北君 こちらは窓を開けて眠て今朝起きてみたら、しっかり体の左半分が凍りついていま
した。ははは〜。
昨日河口湖の側のガソリンスタンドの旦那に「いつもこんなに暑いの」と聞いたら「今日
は流石に参りました」と言っていました。そのとき駅前の温度計は33.5度を示していま
したが、山荘は28度で快適です。

さて、「ニューロン・カフェ」面白いでしょう。他のホームページが井戸端会議的な話題
で賑わっていますが、こちらは着実に「オキシモーラン的言葉遊び」で大いに楽しんでい
ます。
小生は、エクセルで機械的に合体させた意味不明の言葉を創り、有りそうな無さそうな妙
な理屈を付加して一人楽しんでいます。そしてこの前はgoogleの翻訳機能を茶化して、ま
ず創った日本文を英語に翻訳、それからそれを中国語に翻訳、それをもう一度日本語に翻
訳してみたところ傑作が出来上がることを発見しました。
万理さんの色やデザインの遊びもなかなかのもの、他のホームページでは試みる者もいな
い現状です。貴君もこれからも時々「ニューロン・カフェ」を開けてみてください。
                          では又





9月

「転居30回達成作戦シナリオ」 2011/9/3

主旨:下記の三つの問題解決のための行動策定理由。
一つ目は今の収入では賃貸住宅の家賃分の不足を解消のため。
二つ目はパートナーとの貸借関係の未解決のため、これ以上同じ経営を続けることの基本
である、お互いの信頼関係に疑問を生じたこと。
三つ目はリタイアのための準備のため。

さて、そのためにとるべき問題解決方法は二つある。
一つ目はハードランディング
二つ目はソフトランディング

ハードランディングとしては、今の事務所と住宅を引き払い、パートナーとの全ての関係
を清算して山荘に引っ越しする。山荘のローン完済(後五年)まで、収入の道を新たに探
さなければならない。

ソフトランディングとしては、住居を引き払い山荘に居を移すが、いまの事務所へ週に数
回通い、パートナーとの関係を保つ。収入およびコピィー機その他の機器使用はいままで
の通り保証される。

いずれにしても、仕事上および同人誌発行上、山荘にはA3で出力できるプリンターを購
入する必要がある。その調査結果は下記の通りである。

機種:EPSON LP-S5000 カラー/モノクロ混在ドキュメント高速印刷
外形:499.5mm×537mm×407mm(42?)
用紙:A3〜A5、ハガキ、不定形紙
耐久性:60万ページ
印刷速度:    カラー 8枚/分、   モノクロ 35/分
ランニングコスト:カラー 15.5円/枚、 モノクロ 3円/枚
価格:      LP-S5000  59,980円
両面印刷ユニット:LPA3CRU4 25,000円

さて、30回の転居作戦においては、多少技巧を要する。すなわち現在28回の転居であるか
ら、山荘に移る前に住民票を事務所か息子の住所に一度寄り道する事が必要と考えられる。
これで大団円。
いまのところソフトランディングの行動が濃厚である。仕事の量が増えれば状況は違って
くるし、急に決断する訳でもない。





11月

「牟田元明君へ」  2011/11/27

前略
今月の中頃、小生の河口湖の山荘にある80年ほど経つ楓の大木の紅葉を期待して出かけま
したが、残念ながらまだ青々としていました。今年は一月ほど遅いと回りの人は言ってい
ます。そのように近年その木の見事な色を見ることが出来ずに、いかにも自然のタイミン
グに合わせる難しさを嘆いています。しかし来年の春頃、いよいよそこに転居することを
決めましたので毎日その木の色具合の変化を観察できるでしょう。あの「斜光」に書いた
「転々流々」のあと、もう一度詳しく数えてみたら一回抜けていましたので、遂に転居回
数30回を達成しそうであります。。。



99α編集部:2014/04/03(木) 17:39:55
山荘住まい2012
,

           山荘住まい 2012



     この年の4月から生活の本拠地がいよいよ富士山麓へと移ります。
     たとえこれまでほぼ月一で通った土地であるとは言え、定住となると
     新しい発見や出会いがあるものと思われます。山荘便りから伝わって
     くる嬉々とした様子は、[引っ越し魔の正体ここにあり]、と思わず
     納得してしまうのであります。




「窓辺にて―そして、それから」より  (同人α31号作品)
2012.4月

◆いまとむかし
 今回終の棲家(ついのすみか)と覚悟して本郷という東京の中心から河口湖の山荘に転居
した訳だが、十数年前に両親の里である九州の杵島山(きしまやま)の麓(ふもと)へ都会の
生活をすべて精算して帰った時と、田舎暮らしにおいては同じ心境という訳ではない。先
の時はバブル崩壊の煽(あお)りを食って、蓄えも尽き果て食費や子供の学費、住宅ローン
代にも事欠き、遂には全てを売却しなければならないという、それまでの暮らしの中で最
も辛い一年を過ごした結果、いわゆる尾羽(おは)打ち枯らした状態での帰郷だったのだ。
 しかし今回は、あとに残された生命の長さを思い、都会の煩わしい世事を離れ自然に帰
ろうというもので、自らの意思による行動を起こすだけの余裕があり、生活の切迫(せつ
ぱく)の度合いは格段の違いがあったと言えよう。
 幸いにして最近の仕事事情もまた随分進化していて、この山の中でも充分要求に対応で
きるから、なにも都会にへばり付いている必要はないのである。勿論その仕事をこなすだ
けの設備と知識とクライアントへの説明、意識改革、理解が必要であることは言うまでも
ない。だから私はこの山荘を計画する時から五年掛けて、インターネットの技術の進歩を
眺めつつ準備を進めてきたのである。
そのことを可能にするための方法は、
 ●建築の設計図面をCAD(computer aided design)というコンピュータ支援ツールで
???? 作図すること。
 ●インターネットを利用してメールで図面を遠隔地へ送ること。
  (今では役所の審査を仰ぐ建築の確認申請も、受け付け先はまだ一部の民間審査機
  関に限定されるが、この方法で提出し、一度も役所へ足を運ぶことなしに許可を受け
  ることができるようになった)。
 ●その設計図面を遠隔地のコピー機に電送して直接印刷すること。
  の三つである。

 山荘で作図した図面をメールに添付(てんぷ)して送り、本郷の事務所のコピー機に直接
印刷することができることは数年前から実験済みだった。これだと早朝でも夜中でも仕事
をしたいときにして送れば、24時間の自分の時間配分を勝手気ままにする自由さが保障
される訳だ。しかも事務所の機器類は自由に遠隔操作できるから、山道の積雪が凍結して
車で里へ降りることができず本郷の事務所に通えなくなっても、せっせと雪深き山荘で仕
事に精を出し、その結果をメールで事務所のコピー機に送り印刷すれば、糊口(ここう)の
道は断たれることはないのである。
 思えばこれまで悪道、極道、非道、間道、鬼道、魔道、権道、邪道はなるべく避けたつ
もりだが、迷い道、寄り道、回り道、坂道、行き止まり道、苦行の道等の方は、長い道の
りを歩いてきたものだと感慨深いものがある。かくして富士山を拝み、花々を愛で、鳥の
声を聞きながら好きな時間を過ごせる山賤(やまがつ)の生活が今始まったばかりである。
しかし最近富士山の回りには大噴火や大地震などの危険が一杯という噂が世間を賑わして
いるようだが、何百年に一回起こるかどうか判らないことに一喜一憂するより、いまの姿
の美しさや多様な自然を形成している環境を楽しむ方がよかろうと思っている。






転居30回達成!! 2012/ 4/20

小生ついに今日、転居30回の大台を達成することができました。そして大都会から富
士山を望む田舎に転居して山賎になるつもりであります。この30回の転居は、ギャンブ
ル狂いやアルコール中毒や浪費癖による多重債務や女狂いによる刃傷沙汰等からの夜逃げ
では決してありません。また首都圏直下型大地震に対する恐怖によるものでもありません。
なぜならこの地は富士川河口活断層があり、M8クラスの地震が想定されていますし、富
士山も密かに噴火の機会を目論んでいるようですから。小生としましては、残された寿命
のなかでその大イベントを目の当たりにし、鴨長明よろしくその現状をつぶさにレポート
したいような気もします。
 而して小生の消息が途絶えたときは、山賎として薪や粗朶を求めて深山に分け入り、あ
るいは猪や猿や鹿を友として駆け巡っていると思しめください。ではこれから気分が向け
ば時々山荘便りを認めたいと思いますのでよろしく・・・。




山荘便り/転居30回目の山荘での最初の便り 2012/4/21

実は私はこの大都会の人の多さにうんざりしていた。桜の頃の上野、週末の渋谷、銀座の
雑踏、うまいもの店の行列などマスコミにすり込まれた情報にマインド・コントロールさ
れたような、何か不吉な出来事に遭遇してパニックに襲われた群衆に、飲まれ込まれるよ
うな恐怖を感じて立ちすくむのである。

アンドレ・ジイドは「僕は一つの型に嵌るくらいなら成功しない方がましだと思っている。
自分が光栄に導かれる事が判っていても、予め出来上がった定まった道は歩く気にはなら
ない。僕は賭が面白いのだ。未知なるものに興味があるのだ。冒険が楽しいのだ。他人が
いるところに自分がいないのが面白いのだ。これは、自分が勝手な処にいたいがためでも
あるし、他人に邪魔されずにいたいためでもある。なにより自由に考えるということが大
切なのだ」といっている。私は今まさにそんな気分なのだ。




山荘便り 2012/4/23

実は今回の小生に関する数はすべて素数であると言えましょう。年齢は71歳だし、前世
からこの世に転居したと解釈すれば31回となります。たぶんこの世からおさらばすると
きは83、87、89歳あたりがよろしいようで・・・。
さすれば「同人α」第101号を手にすることもあり得るわけです。
また葛飾北斎の93回には及びませんが、あと数度の転居もあり得る訳です。




山荘便り 2012/ 4/26

こちらに越してきてから天気はあまりぱっとしない。「あした天気になあーれ」の心境
である。しかしあまりにも風光明媚、天気晴朗の恵まれた環境があたりまえになって無感
動になるよりは、薄ら寒く小雨がちでこれでも春かと思うほど鈍色の景色から始まった方
が良いように思えた。まだ春まだきのようなこの気温、木々を抜ける風の音を聞いたとき、
熱い紅茶にプチット・マドレーヌを浸して食べた時に追憶する「失われた時を求めて」の
主人公のように、私も少年のころ父と目白を捕獲するために茂みに身を潜めた郷里の山々
など、既に他界した父への懐かしさや悲哀とともに思い出した。
そして部屋は持ち込んだ衣類や本のはいったダンボール箱がいっぱいで、当分屋内の整理
の仕事で忙殺されそうである。幸い庭の植物もまだ完全に目覚めていないから、手を加え
る必要に迫られていないので助かっている。






ブラックベリー/「肥と筑を読んで」より 2012/7/2

山荘に引き籠もったからといって自由気ままに過ごす時間が豊富にあるわけでもない。当
人はそのつもりで転居したのだが、まもなく思いもかけないことが起こった。連帯保証と
いう世間によくあるトラブルに巻きこまれて、簡易裁判所からの召喚状が突然飛び込んで
きたのである。霞を食って生きようと思って来たこのような深山幽谷の世界にも、そのよ
うな些事が追いかけてくるのである。しかし連帯保証をしてくれと依頼した本人と債権者
の間で和解の話になっているから、まあ一安心で、転んでもただでは起きない当人だから、
この顛末もいずれ創作の材料として書く心算である。

下世話な話はさておいて、いままではなかなか休暇でやってくる時と、花が咲く時期が合
わずいままで盛りの花を見ることができなかったが、やっとツル薔薇の花の咲き乱れる我
が家へのアプローチに出会えた写真だ。Blackberry Cottageという名
称の看板を掛けているが、手入れがわるかったのか、たわわな実りを願っているブラック
ベリーはまだ実をけていない。そのかわり山荘の周りにはいろいろの苺がみのり、毎朝散
歩の途中で採取しては食している。
黄色いのはもみじ苺、赤いのはラビットラズベリーの実である。それぞれ味はちがうが実
に美味である。

????




狐の手袋/「人生詩を読んで」より 2012/7/17

今この山荘の周りは狐の手袋(ジキタリス)が薄紫の花を咲かせている。自然は不思議な
もので春が来て緑で覆われると、そこにどのような野草が生えているのか俄には分からな
い。
丁度深い緑の山のなかに咲き誇る花を見て、初めてそこに桜の木があったことに気づくよ
うなものだ。春に越してきてまず山吹の花一色になった山を見た。それが終わると空木の
花があちらこちらに静かに咲いていた。それからしばらくは花らしいものが絶えた時、大
まむし草が盛んに目に付くようになる。それからこの季節になると狐の手袋や紫陽花の花
が咲き出した。




山荘便り 2012/ 8/4

早朝の散歩の途中の見晴らしのきく場所で、いつも立ち止まって眺める富士山はまだ噴火
していない。マスコミが騒ぎ立てていたずらに煽るにも拘わらずいたって平穏で、伸び伸
びとした稜線を従えてそびえ立つ勿忘草色の孤高の姿を見せている。

都会に住んでいた頃には、洪水のように流される実に個人的なゴシップや政局や噂話、ど
うでもいい評論家のコメントなどの報道に溢れていたが、この自然のなかではそんな知識
などほとんど取るに足らないもののように見える。ひんやりとした空気、陰影のくっきり
とした木の間から差し込む踊るような光り、ハイドンのチェロ協奏曲などを聴きながら食
べる朝食は、老いによる衰えを忘れさせてくれるようだ。

昔オーディオに凝った時期があり、ラックスマンなどの高価な機器に囲まれていたことが
あったが、この頃再びそのような音を聞きたいという感情が湧いてきた。これもメカ好き
の性癖、飯の種にならないことにばかり手をだす「遊び人」とばかりに、またまたカラマ
ツ・ジローのごとく、細君のマシンガンの標的になりそうである。




山荘便り 2012/8/7

机に向かっていると窓の外でいろいろな鳥の鳴き声が聞こえてくる。数年前から朝早く
美しくしかも長くさえずる鳥の声をベッドのなかで聴いてきたが、未だにその鳥の名前が
分からない。野鳥の鳴き声というサイトで調べるのだがもう一つはっきりしない。
日本三鳴鳥はウグイスとコマドリそしてオオルリと言われている。しかしウグイスでもな
いコマドリでもない、そうすると残りのオオルリか。そのうち追々録音でもして識者に判
定してもらうほうがいいだろう。

さて、今日は十?近くの林のなかからウグイスの鳴き声が聞こえてきた。この鳥は山梨県
の県鳥でもあり、体長16?、体は所謂ウグイス色である。私はむしろ目白という鳥の若
竹色(わかたけいろ)の鮮やかさをウグイス色としてイメージしていた嫌いがあるが、声
の良さに反して実に地味な鳥だ。
「ホーホケキョ」と、まるで熱心な信者のように法華経を唱えているようなこの鳴き声は、
正式には囀り(さえずり)というらしい。これもWebで調べて見ると,

 さえずり:「ホーホケキョ」
 縄張り宣言や雌を呼ぶために、繁殖期の雄が発する鳴き声。「ホーホケキョ」
      の後に「ケキョケキョ」と激しく鳴くのは,縄張りへ侵入してきた鳥への警
      告を意味しているという。
 地鳴き :「チャッチャッ」
  さえずり以外の鳴き声。主に繁殖期以外での鳴き声を言う。

私は手のひらにのる程の大きさのこの鳥が、谷に響き渡るようなその囀りの声の大きさに
驚く。カラスの鳴き方を観察してみると、口を精一杯大きく開け、反動をつけて体ぜんた
いを揺らしながら鳴くのである。まさに全エネルギーを一点にぶつけるような力仕事に見
える。そうしてみるとウグイスも我々が楽しんで鳴いているだろうという想像とは大違い
で、そこには生きるための必死の形相が見えてくる。

さて、いつもの癖で人間の大きさだと一体どんな状態になるだろうかと試算してみた。体
高で換算すると、人間の1?60?÷16?=10倍 ウグイスの鳴き声の通る範囲を2?
と仮定すれば、2km×10倍=20?。まさかそんなに遠くまで聞こえるとは思えない。
しかし、高速で走る新幹線の鐵橋の下くらいの音の大きさ以上であろう。こんな試算は意
味をなささい単なる遊びに過ぎないだろうが、それにしてもあの美しい囀り(さえずり)
に違った様相が見えてくるのが面白い。






      富士山を望む山奥に住む同人  キメラ17号 投稿日:2012年 9月 2日

       書評二つが入っていた。自称『山賎(やまがつ)』とアイルランド文学やフランスが舞台
      となる「ブラックベリー・ワイン」に何か共通点でもあるのかと思ったりもする。
      「ブルックリン」の評を最後まで読んでみると人間の心の襞に深く入り込んだ上での感想
      のようで、荒々しい山賎のイメージとはかけ離れたものだった。
      「ブラックベリー」は、“うまく最後まで読ませる”ものの、警句や比喩やアフォリズム
      が村上春樹の手法と似ていて通俗的である、と述べるあたりはなかなかの射撃手でもある
      ようだ。
       自然のめぐみ、いとなみは青い地球誕生からずっとからいっしょ。山賎も自然と対峙す
      るからには、荒々しそうな反面人一倍繊細なはずだとも思う。国、人種、職業、時を越え
      た所に、あるいは心(精神)の深い根っこに、共通した人間の「生きる」があるのだろう。
      その中で評者なりに選んできた「生き方」が伺える。


              『山賎のおとがひ閉づる葎かな』  芭蕉

       『野ざらし紀行』の帰途、甲州谷村への道筋での放浪の人、芭蕉の一句。詠んだ場所は
      山梨県内“都留”であるという説もあるらしい。 山荘の名前と同じく不思議なご縁なのか
      もしれない。
       無口で無愛想な山賎も、たまにはこうして斧を「ペン」に変え、ニューロン・カフェの
      ドアを開いて、[おとがひ]を開いて、山の話、本の話を聞かせて欲しいと思った。
      ここは数年前、山賎本人が徹夜で設計し建てた、釘を使わない木組みのカフェでもあるの
      だ。静かで風通しもいい。




山荘便り   2012/ 9/7

造次顚沛という難題に向かう前の一休み、今日は雨の中300メートルほど坂を下った所に
新聞を取りに行く。ここは亀甲台という別荘地の入り口だ。なぜ家から離れたここに新聞
受けを置いているかというと、家までの真冬の雪で凍った坂道を車で登れないから住宅の
ポストまで配達できないということである。単に新聞を取っている家がほとんどないから
そこまでサービス出来ないという理由か、それとも本当に凍ったとき配達できないからク
レームが来るのを厭うためか、しかしそれがどれくらい難儀するのかは本当のところ私に
は判らない。

赤松林の道路には、いつもは拳の半分くらいの松毬しか落ちていないのだが、今朝はその
雨に濡れた道路の真ん中に何かの塊が見えた。突然細君が素っ頓狂な声を出した。なにか
と思えば20?近くもある大きなガマガエル−正式な名はニホンヒキガエル−が私達に向
かって平伏した形で鎮座している。人間が近づいても動こうとしない。そのイボイボのあ
る体の色といい、なんともいえないギョッとする異形さだ。しかしその一方では滑稽な姿
でもある。私は長靴の先でちょっと押してちょっかいを出してみた。するとのそのそと動
きだして、10メートルほど歩き去って振り返って見ると、そのガマガエルは谷側の茂み
にはいって行くところだった。車の往来が少ないからいいようなものの、あまりにものん
びりしていると本郷の町で見かけた、白い腹を見せて万歳した姿で死んでいた個体と同じ
運命をたどるぞと余計な心配をしたくなるというものだ。
ヤマカガシという天敵がいるこんなところで生きて行けるほど食べ物があるのだろうか。
またヤマカガシはこの気味の悪い巨体を一飲みにするそうだ。いかにも不味そうに思える
のだが、まあ双方ともあまり気持ちいい姿ではないと言えるだろう。




山荘便り/秋の収穫  2012/10/5

今日午後より河口湖畔に冬の餌として栗鼠にあたえるオニグルミを探しに行った。収穫の
量や採取の時期についていい時だと確信があった訳ではないが、思ったよりうまく大量に
採取出来た。おまけとして更に少々小ぶりではあったが野生の栗も籠一杯になるほど拾え
たのは望外だった。

自然のなかで果物や山菜を採取するには二つの課題がある。一つは目的の物が存在する場
所。二つ目は充分に熟れた果実の採取時期である。しかし初めて求めるにあたってそれら
のものが、この広い河口湖畔のどこにあるのか見当もつかなかった。蕨やアケビなどの探
索はこれからの課題とするが、オニグルミや栗の木の等の多数の樹形は小さい頃山で遊ん
でいたのでよく知っている。そこで車を走らせながら木の姿を見つけ、そこに車を止めて
近づいてみた。幸いなことにオニグルミと山栗が同じ場所にあったし、しかも栗の実もオ
ニグルミの実も地面に落ちていて、難なく採取出来たのである。もしまだ木になっている
青い実だったら、とても手が届かなかっただろう。
採取したオニグルミの実はまだ果肉が付いていて、それを剥がすために地中に埋めておく
という話を聞いたことがあるが、今は水を張ったバケツに入れて果肉を腐らせてみようと
思っている。山栗は小さいが肥えていて虫食いもなく、早速蒸かして食したら美味だった。

この己の行動を見ていると、山里で暮らした両親が春になると喜々として蕨とりに山に出
かけていたことを思い出す。私も捕獲して食べる訳でもないのだが、小さい頃より川へ出
かけ、フナやウグイ、アブラハヤ、アユ、ナマズ、テナガエビなどを毎日追いかけていた
ことを思い出す。
このような収穫するという精神の高揚は原始的な根源的な生への本能的な衝動として、採
取した獲物を眺めて豊かさを感じるということに起因するのだろうか。
そしていま私がその喜びを強く感じるのは、どうも両親から受け継いだもののようで、い
よいよ私も山賤としての生きる技術と体力を磨かねばならないようだ。
さて、来年の収穫のために今日の日と場所をここに記録して置こうと思う。




      人生の収穫  y.コバルト 2012/10/5

      山荘便り−20121005 を読んで、著者はいい時間を過ごしているのだなと思う。
      あくせくした、ノルマと騒音と汚れた空気から離れて自然の中の現実の人間に戻る。
      再度の転居の可能性は感じるがそれがまた都会なのか、もっと山の中の小屋になるのかわ
      からなくなってくる。

      玄関の扉の外側に年中風鈴を吊る下げているが、先日その横に朝顔に変えて、造花の紅葉
      といが栗の飾り物を置いた。仕事中毒であった頃はこんなことはしなかった。
      山荘に移り住んだ人はほんもののオニグルミや栗を味わっているようだ。
      造花であれ本物であれ、それだけ時を過ごしてきたからやること、やれることなのだろう。

      自然の中に入れば寝ている時の夢はあまり見なくなるのかもしれない。自然は人の夢を包
      含しているからだ。自分といえば、相変わらず夢ばかり見ている。






山荘便り 2012/12/4

晩秋も過ぎ、もはや初冬の山々は紅葉も終わりに近づいている。最後に残った黄色のクヌ
ギや木楢の葉が一斉に散り始めた。そして葉が茂り暗い木陰の濃い夏より、むしろ地表に
太陽が差し込み山全体が明るくなったようだ。

紅葉と言っても様々な色合いがある。そして楓の赤い色ばかり思い浮かぶが、じつは山全
体から言えば黄色に変化する木々がほとんどなのだ。楓さえも全て紅になるものばかりで
はない。もっと深い赤に染まるものや、銀杏のように見事に黄色一色になるものもあり様
々なのだ。

赤に染まる木は楓をはじめ、ハゼノキ、ナナカマド、南京ハゼ、ニシキギ、ハナミズキ、
ブルーベリー、ドウダンツツジ等。
黄色に染まる木は銀杏、クロモジ、カラマツ、コナラ、クヌギ、カツラ、ホオノキ、ヒメ
シャラ、ムクロジ等である。

私の山荘の回りのこれらの木々は、それぞれの時期を違えながら11月の半ばから12月の
半ばまで私の目を楽しませてくれる。敷地の南西角にある、恐らく百年近い時を経たと思
われる楓の大木は大量の落ち葉を降らした。越してきて初めて過ごす今年の山荘で私は、
これほどまでに夏の間葉緑素豊かな葉を茂らせて光合成に精をだし、己の生命を維持して
いるという現実を想像もしていなかった。まさしく自然の営みは思いもつかないことばか
りだ。




山荘便り   2012/12/7

 初めての山荘での冬ごもりなので今回は経験不足のため、冬支度がうまくいかなかった
ようだ。それはストーブで焚く薪の一ヶ月分の量が判らず、ストックの計画が狂ってしま
ったからである。
 まず11月分として1束10?/350円の薪50束を山梨の社会福祉法人障害福祉サービス
事業所から格安で購入して山荘の床下に積み上げていた。しかしそれを使い切る数週間前
に再度注文したところ、原木を買い付け薪として加工するのに一ヶ月ほどかかるという。
配送できるのは12月17日ということで、今日から二週間ばかりの薪が足りなくなった。
最低気温も零下、最高気温も一桁になっているここで暖がなければ寒さに凍え暮らさなけ
ればならない、さてどうするか困ってしまった。

 薪の種類は何でもいいという訳ではないことを、薪ストーブを購入するときに知らされ
た。この山荘の回りは赤松林であるから、松の枝はたくさん見つかるのだが、この木は油
分が多くて煤が出るし火力も強いから鋳物製のストーブ本体を傷めるとのことである。一
方杉や桜などは火付きも良いが、材が柔らかくてすぐ燃え尽きてしまう。やはり木楢や椚
のように油分が少なく材が硬くて火持ちがいいのがベストだという。

 それから焚きつけ用としては乾燥した杉の葉が一番良いと判った。新聞紙は毎日の配達
で自然に貯まるが、くしゃくしゃに揉んでも紙と紙の間が密着しすぎて燃えが悪いし、燃
えた後の灰が新鮮な空気の流れを阻止してしまう。その点、杉の葉は一つの枝に十数本の
小枝が生え、更にその小さな枝についた針状の葉がクッションとなって、適当な空気の通
り道を作っているから、甚だ火付きがいい。
 この前、生々しい緑の杉の葉が混じっていたので試しに燃してみると、良い匂いと共に
パチパチと爆ぜて勢いよく燃えた。どうも油分をふくんでいるらしい。これは檜や杉板な
どから発する殺菌性と人に癒しを与えるフィトンチッドといわれる芳香性の化学物質では
ないかと思った。

 12月、1月とだんだん寒さが厳しくなるともっと薪の数が必要になる。それらの月の薪
の消費量と費用のデータも記録する必要がある。また焚きつけ用の粗朶や杉の葉の準備も
必要だ。近くの山の中に行けばたくさん落ちているので、時間がある限り山に入らなけれ
ばならない。しかも湿った薪では使い物にならないから、天気が二日以上続かなければ意
味がない。
そこで来年は紙ふうせんの歌ではあるまいが、「冬が来る前に」といった悠長な考えは通
用しないと判ったので、春先に一冬分の薪を購入してストックしなければ安心して冬が迎
えられないことを悟った。さて今日も杉林の中を徘徊するか。

wikipediaによる
 フィトンチッド (phytoncide) とは、微生物の活動を抑制する作用をもつ、樹木などが
発散する化学物質。植物が傷つけられた際に放出し、殺菌力を持つ揮発性物質のことを指
す。
 森林浴はこれに接して健康を維持する方法だが、健康だけでなく癒しや安らぎを与える
効果もある。フィトンチッドはその殺菌性や森林の香りの成分であるということから良い
イメージがあり、森林浴の効能を紹介する際に良く用いられている。




クリスマス/「肥と筑を読んで」より 2012/12/25

クリスマス・イブは最後にブッシュ・ド・ノエルを食し、その後恒例の「ホワイト・ク
リス マス」のDVDを見た。時代は、アメリカの一番良い時代を迎えようとしている1950
年半ばの話である。高校生の私達はこのアメリカの豊かさへの憧れに溺れそうであった時
代だった。そしてこの山荘も夜半には雪が積もりホワイト・クリスマスになった。



100α編集部:2014/04/04(金) 03:31:49
オキシモーラン4 2012-2013
.

      オキシモーラン4 2012-2003

            
「オキシモーラン言葉遊び」の師匠


   何と著者ポートレートとコメントにオキシモーラン遊びを取り入れています。
   それを除けば、言葉並べ遊びは一休みのようです。その代わりに絵画や作品、
   出来事の中にオキシモーラン的要素を見つけ出します。




2012年

絵を見る 2012/2/4

昨日長岡さんの末っ子K・Kさんの卒業・終了作品展を東京芸大まで見に行った。
家を出て散歩がてらに通った不忍の池回りの景色があまりにも素晴らしかったので写
真を一枚パチリ。人になれた5・6匹の野良猫をからかいながら上野公園をゆっくり
歩いた。
噴水公園の全部、東京都美術館などの回り、どこもここも大々的な整地工事のための
仮塀で囲われてい たが、完成すればどのように成るのだろう。いつものホームレス
の青テント村も撤去されていて、綺麗になっている。彼等も将来にわたってここらか
ら閉め出されるのだろうか。帰りにそこを通るとき多くのホームレスが屯していて、
遠くの同じ方向を見ていた。最初はなにが起きているのか判らなかったが、まもなく
赤十字のテントの場所で炊きだしが行われるのを待っていたのだ。

 さてK・Kさんの作品は「阿吽(あうん)」という題名である。Wikipediaによると、
阿吽(あうん、Skt:A - hum)とは仏教の呪文の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿
は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞ
れ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。
神社の狛犬は左が狛犬阿形、右が狛犬吽形となっている。
この絵を見ると左の人間の顔(岩石)は「阿」で、左は「吽」である。回りの小ぶり
な作品が多いなか、際だって大きな作品なので相当迫力がある。近づいてみるとまた
蚤のような大きさの人物があちこちに物語風に描かれている。なかには戦国時代のま
さにこれから敵と戦 闘に入る前の陣屋の中に、武将達が床几(しょうぎ)に整然と
座り、殿様を囲んでいる。
K・Kさんの作品は硬くて大きくて動かない、すなわち永遠を意味していると解釈で
きるものと、常に動き回り変化する小さな生き物の対比を感じる。神秘、哀愁、シュ
ール、アイロニーの作風は、我々の目指すオキシモーラン的表現(無限回廊)と同じ
方向だと思いました。

    




「造次顚沛―32号テーマに寄せてを読んで」 より 2012/10/26

 著者名の鳳凰 珍氏とは一体なにものか。鳳凰は中国神話の霊鳥で、平等院鳳凰堂
の屋根の上に留まっている鳥、一万円札の裏にも描いてあるあの鳥である。著者は嘴
は鶏、頷は燕、頸は蛇、背は亀、尾は魚で、色は黒・白・赤・青・黄の五色で、高さ
は六尺の珍しい姿をしているのか。造次顚沛に出現し、また消え去るという、実存す
るが人間の目には見えない、そして無限回廊を永遠に駆け巡っている希有なキメラに
違いない。そういえば真実を嘘で、嘘を真実と して装う、オキシモーランなどとい
う奇天烈な文学運動に染まっているハンドルネーム・キメラ17号は鳳凰 珍氏の異
名に違いない。

本郷に住む老人二人の小話、さては無限回廊第八回にでてくる本郷淳吾にまつわる
場面のことか、それにしても三国志に出てくる劉備玄徳の末裔といったり、漢の高祖
劉邦のそれと言ったり、熊さん八ッさんの迷回答に困惑しそうである。これもオキシ
モーランのマインドコントロールなのか。それにしても最後の七言絶句の出典を調べ
たが皆目判らない。もし鳳凰 珍氏の作とすれば感嘆絶句、とても素晴らしい!!




2013年

*「人生詩 を読んで」より  *(同人α33号作品)
2013/1/22

主人公の時代を経た同じ日の出来事を並列してみると、その時代時代の出会う人々、出来
事、思想などの変遷が比較できておもしろい。
作者の人物の描写は実に生き生きしていて、私もその情景に参加しているように思えて、
率直に首肯したくなるのは不思議だ。これは作者の対象にたいする観察力と並外れた感覚
の表現力によるものだろう。このバラバラの情景でも一つの作品になることは、これも作
者が長年創ってきた「言葉集め星創り」の作品とおなじく、何の脈絡もない一つ一つの言
葉から意味を持つセンテンスへの課程は、シニフィアンとシニフィエの関係に当たるだろ
う。
かつて作者が1995年発行の「同人・斜行 創刊0号」に投稿した、無機質のような言葉
を意味もなくランダムにくっつけて、新しい感覚の表現や意味を創り出す、いわゆるオキ
シモーランの作品には驚いた。ほとんどの人がその意図や作品の意味も判らず、難解とい
うレッテルを張ってしまった。しかしそこには使い古された言葉や概念をもう一度考え直
し、新しい可能性を探し出すという作者なりの挑戦があったのだろう。いくつかの作品を
読んで私も次第にその作品に魅せられていった。
とにかく作者の文は、人間や社会への恨み辛み嫉妬など、また金や地位や名誉などといっ
た世俗の欲望などを託つ(かこつ)言葉が一つもないのが清々しくていいなぁ・・・。

ちなみにWikipediaによると
シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)は、フェルディナン・ド・ソシュール
によってはじめて定義された言語学用語。
シニフィアンはフランス語の動詞 signifier(意味する)の現在分詞で「意味しているもの」
「表しているもの」を指す。たとえば、「海」という文字や、「うみ」という音声。
シニフィエは同じ動詞の過去分詞で「意味されているもの」「表されているもの」を指す。
日本語ではシニフィアンを「記号表現」「能記」など、シニフィエを「記号内容」「所記」
などと訳すこともある。たとえば、海のイメージや、海という概念、ないしその意味内容。




「シリ―ズ・歪んだ風景―鐵橋 第三回 ポートレートとコメント」より
2013/3/25

<オキシモーラン的ポートレートとコメント−解離性同一性障害多重人格)の悩み>

変装前(結界内):善意無過失、無毒無臭、誠心誠意、青天白日、正当防衛、精力絶倫、
精励恪勤、清廉潔白、是々非々、切磋琢磨、千思万考、全力投球
人様から後ろ指を指されないように謹厳実直に世間を渡り、常に和を重んじ体裁を繕う。

変装後(結界外):青息吐息、悪衣悪食、悪逆無道、悪戦苦闘、阿修羅道、悪漢無頼、悪
口雑言、阿鼻叫喚、阿附迎合、阿諛追従、阿諛便佞、暗送秋波
善意の底に沈殿する悪意に敏感故、露悪趣味に徹して世間を笑う姿は、まだ髪と髭は黒々
としていた四十五歳頃の私で、まるで数十回も別荘を出たり入ったりするどうしようもな
いラッキー・ルチアーノみたい悪党面だ。当時このような姿でクライアントと設計の仕事
の打ち合わせをしていたかと思うと冷や汗ものである。

     変装前          変装後

    




「無限回廊 十一回を読んで」より 2013/4/28

この無限回廊という物語は最初から最後までつきまとう問題を抱えている。全くの空
想小説と割り切れは簡単だが、少なくともFS(サイエンス・フィクション)とすれ
ば科学的にあ り得ない問題を平気で書くわけにもいくまい。さてそこで、西暦11
万年から過去の21世紀に戻れるタイムマシーンという装置がはたしてあるのかない
のか。

スティーヴン・ホーキング博士の否定説や、リチャード・ゴットの二つ利用すると可
能という仮説もある。肥満と関節の痛みの薬「ロコフィットGL」鶴瓶のCMのよう
にいったいどっちなんやー、どっちもー・・・といえそうで確実な論はない。しかし
このタイムマシーンは時間移動だけではなく空間移動も詳しく設定できないと酷い目
に遭うことになるだろう。時間旅行者はブラックホールの底や太陽の核融合反応のま
っただ中に出現したりするのだから。

この「無限回廊」第十一回の作者エヴァは、それまでの著者達が避けてきた重大なそ
して悩ましい問題を出してきた。それは有名な「親殺しのパラドックス」である。
「ある人が時間を遡って、血の繋がった祖父が祖母に出会う前に殺してしまったらど
うなるか」というものである。その場合、その時間旅行者の両親のどちらかが生まれ
てこないことになり、結果として本人も生まれてこないことになる。
過去の世界では自由意志の存在が疑われ、人間に自由意志があるというのは幻想だと
されたり、少なくとも限度があるとされる。これでは人間の行動についての制限を誰
かが管理していることになる。人間の自由意志はだれにも犯すことはできない。この
ような逆説に抗して越智十三は21世紀で結婚して「宙(そら)」や「陽十三(ひと
み)」という子供まで作ったのだ。
しかしいままでの著者達が書いた作品を考えて見ても、時間の矢に逆らったり光より
も早いタイムマシンや10桁の暗号の情報を運ぶことがもともとあり得ないし、太陽
系の崩壊、そのまえに起こるであろうハルマゲドンを阻止するための「物集班(もず
めはん)」に課せられたミッションそのものが「親殺しのパラドックス」に抵触しな
いか。嗚呼今私のシナプスは混線状態でこの問題にたいして理解不能である。しかし
最終章での解決方法の姿はぼんやり浮かんでいることも付け加えなければならない。

それにしてもこの「無限回廊 第十一回」の著者はオキシモーランの申し子らしく、
アナグラムや人物描写、そして読者が内容の面白さについて行けないくらいの才気煥
発さを発揮していて、作者自身が物語を創ることにこの上ない喜びを感じて、遊びま
くっているというのが、私の感想だ。




取り合わせ  2013/12/14

最近言葉の伝達についてオキシモーラン的妙な取り合わせに驚いている。

◆南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の公式追悼式において、各国首脳らのス
ピーチを手話で通訳していた男性が、手話の出来ない「偽物」だったという疑惑が広
がっており、調査が続いているという。

◆吉田戦車の「伝染(うつ)るんです。」に出てくる「傷」と呼ばれる、 頭に包帯を
巻いて学生服を着た、心身ともに深い傷を負った少年が出てくる。いつも人を不安に
陥れるような不思議な一言を言い放つ。アベックを嫌悪している。時折新しい文字を
発明している。その文字は普通の人にはどう読むのか、何を意味しているのか判読出
来ない言葉だ。

◆最近購入した小川洋子の「ことり」に出てくる主人公である少年の兄の話。
親や他人とは会話ができないけれど、小鳥のさえずりはよく理解する兄、そして彼の
言葉をただ一人世の中でわかるのは弟だけだ。 小鳥たちは兄弟の前で、競って歌を
披露し、息継ぎを惜しむくらいに、一所懸命歌った。

彼等の言葉は私達の住んでいる世界と違う世界、例えば異星人、例えば「手話の男」
は言葉を乱数に変え宇宙の彼方に発信しているのかも知れない。
「傷」と呼ばれる少年は生物の発生当時からの言葉にならないDNAに込められた情
報を示しているのかも知れない。
ことりに出てくる主人公の「兄」は小鳥のさえずりを137億光年の彼方から届く様々
な宇宙から来る光のスペクトル波長と振動数に呼応させているかも知れない。

これらの人達は世間ではすべて精神疾患というレッテルを張って安心するが、はたし
てそうであろうか、何か私達の文字や語りの文化・文明では判断出来ない言葉の世界
があるかもしれないのだ。



101α編集部:2014/04/04(金) 06:32:48
古賀 vs.長岡
.?????????????????????????? 古賀 vs.長岡




編集、印刷全般に渡り出版の要であった古賀氏のもとに、理科系男子が同人として参加し
てきました。古賀氏に質問をしながら状況を確認し、校正に始まり発行まで、労力だけで
なく、アイデアを提供していく様子がうかがえます。
二人のやりとりの中からさらにアイデアが登場しました。細かな作業の積み重ねと大胆な
アイデアが、現在の冊子および電子版に繋がっていったと言えます。  (編集者)




2007年


「同人α」小宮・山内さんへ宅配より 2007/5/23

同人誌は年齢や地域に拘り無く広がっていって居ます。こんど一人の仲間が増えました。
13期生・長岡曉生(ペンネーム)さんで高校の時の物理の小柳先生のご子息だそうです。




「新同人歓迎会」 2007/6/16

◆ 「同人α」新しい同人歓迎会
  出席者:小柳・田村・武藤・北島・熊井・東内夫婦・古賀
  小柳(ペンネーム長岡暁生)氏は太陽熱関係の研究では第一人者とのこと。しかし理学
  者という理論の世界に棲みながら、易に興味を持っているとのこと。そのギヤップは
  なぜなのか、追々分かるであろう。




間違いの指摘  2007/6/18

小柳理生さんから「同人α」第11号の間違いを指摘して貰った。
原本を早速直すことにしよう。

古賀様、
いつも編集と印刷に時間をかけて頂いているようで、ありがとうございます。
先日の歓迎会の席で、伝えるのを忘れましたが、私が気がついた範囲では、所有している
分のα11号について、以下の不具合(?)が有ります。
もし大増刷されるようなことが有れば、参考にして下さい。
すでに訂正されているならば、読み捨てて下さい。

【目次中のページのずれ】
武藤さんの分以降、1ページずつずれています。

【誤変換・衍字】
恐らく作者の修正見落としと思われる部分です。

p13 4行目
 誤変換・衍字では無く、このような場合の処理がどう決められているかは知りませんが、
碇さん本人から、6月11日朝の掲示板に以下のような書き換えの要望が、出ました。
 ???? 4行全体 → 3.   三椏の花妻のテストは選ぶべし

p26 1行目(本人に確認する必要は有ります)
 玉の腰 → 玉の輿

p29 最下行(本人に確認する必要は有りますが、鷲の紋が正解です)
 鷹の紋 → 鷲の紋

p30 3行(本人に確認する必要は有ります)
 戴して → 対して

p45 19行(明らかに衍字でしょう)
 時間のを → 時間を
p45 下から3行目
 右の街角の右が、この「冬」の場合だけ色つきなのは、意図された結果でしょうか。

以上、余計なお節介ですが。


◆ 小柳さんのご指摘有り難うございました。今回は時間もなくあわてて発行しましたの
  で色々問題があることを予想していました。なんとか経費節減のために B5版を作る
  のにB4版で印刷したほうが半分で済むという考えの基に始めたのですが、編集にお
  いて労力と文の配置の難しさで、会得するまでにはもう少し時間が掛かるようです。
  その分校正に時間と人手をかけられればよろしいのですが。なにせ編集に携わる連中
  は名うてのオーマンな性格の持ち主ですので、この辺でひとつポアロのような灰色の
  頭脳をお持ちの小柳さんの協力を仰ぎたいと思っています。
◆ 早速ご指摘の誤字、衍字は原本を訂正いたします。それからP45の「右」は色及び
????フォントも春、夏、秋とは意識的に変えています。色、匂い、形それに時間を加えた
????詩的イメージを作りたく、またいつも「左」の角を曲がって帰る男の姿が最後の冬の
  場面では「右」に曲がって消えていくところに、今までの関係が変化したことを表現
  したかったのです。
◆ それからバックナンバーが欲しいとのことだったので、今小柳さんの手元にある「同
  人α」をお知らせください。それ以前のものが少々ございますのでお送りしたいと思
  います。
????                               長岡




同人α第12号校正会 2007/8/14

◆ 「同人α」第12号の校正会を河口湖の山荘で開催。
  安芸・樋口・小柳・武藤・田村・細君・私の7人。





「同人αの出版」 2007/11/17

◆ 同人α第13号「楽」を当事務所にて発行。
樋口氏、小柳氏、田村さん姉妹と私の5人で70冊製作。以前のようにB5をB4に力づ
くで貼り付けていたが、「一太郎の最新版」を小柳氏より貰って冊子印刷が格段に楽に、
またミスも少なくなった。製本の作業も随分慣れたせいか丁寧で早く仕上がり、欠陥品も
少なくなり、製品の歩留まりも善くなった。後は校正の時間がもう少し欲しいところだ。




2008年

「小柳さんより」 2008/3/22

 窓辺にて−赤松次郎の日記の分量が164ページになり、綴じるのにホッチキスが使えな
いから、日記用のバインダファイルを探されたとのことですがある程度の部数を刷るのな
ら、市販の製本機を考慮されてはいかがでしょうか。ホットメルト製本テープ使用の糊付
け製本機で、200頁程度までは装丁できるものが各社から色々と出されており、綴じる
厚さにもよりますが数千円から1万円程度で手にはいるようです。消耗品としては、製本
テープと専用の裏表表紙を購入する必要がありますが一冊当たり200〜300円で上が
るようです。また、1冊当たりの製本時間は、どれも1分以内で済むようです。
上の情報は、[ホットメルト製本機]をキーワードにしてネット検索すれば得られます。





「小柳 さんへの手紙」 2008/9/7

熊野古道から無事帰って来ましたので、いく前に頂いていたご質問にたいして、あくまで
も私個人の見解としてお答えします。

1.佐高11期ホームページの名称募集に関してはご指摘の通り9月3日まではブログに書
 き込まれてはいませんでした。この齟齬は、実質的にパスワードをもって操作する田村
 さんと私の職務の分担をはっきり決めていないために生じたもので、当分は譲り合った
 り強請したりの逃走・闘争を繰り返すことになりそうです。なにせ二人しか管理者メニ
 ューの中に入って操作出来る人、操作したいと思う人がいないのですから・・・。我々
 は出しゃばりといいますか、野次馬といいますか、困った性格です。

2.ホームページ名称募集の決定方法が不明確とのご指摘については、多数決にするか数
 に拘わらず運営委員の協議で決定するかはまだ決まっていません。その方法をどうする
 かはこれからの話し合いで決めると思われます。例えば、紙面の場で多数決によるよら
 ず、委員会の協議の上で決定されたとしても、皆さんがその名称を変えようという提案
 がなされれば、またそれはそれで名称を変えても良いという考えもあります。

3.運営委員のメンバー表や規約についてのご質問にたいしては、私も最初はきちんとし
 た管理規約の試案をつくり、決定されればブログに常時掲載して、佐高 11期のホーム
 ページの主旨や決まり事をいつでも誰でもが確認できるようにすべきだと提案しました
 が、営利上の問題や権利関係の取引でもなく、単なる友好のための会だからそこまでは
 するまいという事になりました。問題が生じたときはきっと私の作った管理規約を蔵の
 中から探し出す日が来ると確信しています。その日がこないことが望ましいのですが。
 運営委員のリストもまた会そのものが希望次第で参加・脱退が自由ですので融通無碍が
 すきな人達を尊重して載せないことにしています。

 運営委員の決定においては民主主義は実に効率の悪いしろもので、私個人としてはもど
 かしいことも多々ありますが、いまのとろ一番いいシステムと認めています。
 以上個人の見解を述べましたがご理解いただけたでしょうか。




「文字色変更の件」 2008/12/17

◆小柳さんより作品集の校正が早速送って来た。概略の仕事は早いがどうも精密さがなく
 て困る。その点小柳さんはきっちりと齟齬を指摘してくれるし、また対応が早いので助
 かる。




2009年

「小柳さんからのメール」 2009/5/13

 古賀さんも、目が疲れて居られるのでしょうね。
製本が月末になるのは、未提出の皆さんには好都合かも知れませんね。
 ところで私の方は、自分の原稿が終わった今、わりと暇な状態です。それで、行やペー
ジの整形に手間取っておられるようだったらご遠慮なくお申し付け下さい。字数や、行数
を決定してもらえれば、粗粗の整形は分担できますので。
 何せ、古賀さんが倒れられたら、アルファの作品集は、印刷でもブログでも立ち往生し
てしまいますから。なにとぞ、御身大事を専一にして下さい。
 お気遣い有り難うございます。小さい活字が老眼鏡をかけても全く見えません。度の強
いルーペを左手から離せなくなり、困ったものです。この前の診察で、次の眼底検査の結
果を見て、手術するかどうかを判断しましょうと 言ってくれました。
 編集にあたっての貴君の申し出ありがとうございます。なるべく作業を分担する方法を
見つけ出したいと思いますが、ワープロや写真処理やホームページ作成等のソフトがまち
まちで、なかなか美味く行かないのが現状です。
 今回は、田村さんも私もいろいろの催しが重なっているため、20日前後の出版が出来
ないと判断しました。思い切って月末まで延ばしましたので、なんとかできそうです。20
号からは、目を新品に取り替えるという訳にはいきませんが、せめて9号の大きさの文字
が読める位まで再生出来ではいいなとも期待しています。結論として今回の19号はなん
とか努力してみたいと思います。




「α第19号の編集・校正」  2009/5/26

先日小柳氏よりゲラ刷りの校正表を受けとった。今日北島氏より校正ゲラ刷りを受け取っ
た。O−chanのゲラ刷りは明日シネマ・デ・ジョイで受け取る予定。
それから総合的に全文の訂正をし、せめて29日(金曜)までは70部刷り上がってなければ
ならない。
 今回は目の悪い人のために(かく言う本人が一番悪い。倍率の高いルーペがないと何も
見えない、それと以前から三浦さんの希望もあったし)、字を大きくした。
 ◆ 字の大きさ:9号から11号へ
 ◆ 一行の文字数:40字から30字へ
 ◆ 行数は変わらず40行
 ◆ 普通の濃さの明朝をbold type(強調文字)にした。
1.そのため色々の問題が生じた。まずはエラさんの英文で、一行の端部 の英単語が別れ
 てしまうこと。

2.小柳さんのサブタイトルの強調文字が他の文と同じになり、めだたな いこと。サブタ
 イトルの文字を大きくするか、またはゴシック体に 変更するか、あらためて小柳さん
 と協議する必要がある。




「小柳さんからの業務連絡」 2009/8/15

 16日は、田村さんが京都行きと言うことを言の輪で読み、これを書いています。
今までの予定では、19日までにゲラ刷りを作っておくべきでしょうが
確かその日は、古賀さんの手術の日に当たり、たとえ前日に原稿を送付しても古賀事務所
で印刷するのは無理だと思われます。
 そこで提案ですが、ゲラ刷りはとりあえずA4版とするのはいかがでしょうか。これな
ら、我が家のレーザプリンタで文章を両面印刷で打ち出し、校正現場に私が持参すること
が出来ます。(残念ながらB5版の両面印刷はできません。)両面印刷の速度は、業務用
には及びませんが、1分間に22枚とかなり早いので88ページ程度までなら4分で印刷
できます。
 また、ゲラ刷りは、とりあえず手持ちのWクリップで綴じることが出来ます
もし、そうすることになった場合、ゲラは何部用意しておけば良いでしょうか。必要部数
を、お知らせ下さい。
ところで、今までに用意できていないものは、次の4項目です。
αの表紙絵(清水さん担当)
 これは、ゲラ校正時には、必要有りませんが 表紙絵だけは、先に印刷をお願い出来ま
すか。古賀さん、田村さん、私の原稿  私自身書くのが遅れて、申し訳ないです。
以上の件について、できれば15日中にご返事頂ければ幸いです。
なお小柳の休暇は、24日の月曜日までの一気通貫で取っています。




「小柳さんより」 2009/8/25

 遅くなりましたが、標記ファイルを送ります。筒井さん以降は、北島さんの校正された
分が行方不明になってしまったので後で見つけて、もう一度やり直します。田之頭さんの
本文も入れるのを忘れ、抜けています。取り敢えず、ここ々までを印刷して田村さんに見
てもらえますか。長岡分は、1行30字に整形するため、かなり手直ししました。




「長岡さんより」 2009/12/13

万理さん
このメール、今気がつきました。
作者紹介の写真と文の保存作業、有り難うございます。
★アルファのデータの保存
 アルファの掲示板への投稿文は、ごく短い一時期を除けば、残り全部が古賀さんのHD
 に収まっているはずです。もちろん作品集については、全データが保存されています。
 これらは貴重なデータなので、複数のバックアップを取っておくことも必要であろうと
 考えています。
★作者紹介
 ブログ上の作者紹介については、私の入会時においては、未だ様式も不定で、紹介文も
 他者が作る場合もありましたがデータは全て、古賀さんが保存されているんでしょうね。
★作品集との相互リンク
 今回、万理さんにお願いしているブログ上の作者紹介集は将来的には、作品集とリンク
 させて行ければ、面白いなと思っています。ただし、画像が増え過ぎるとブログの容量
 制限に弾かれる恐れは有ります。
★作品ごとの合評とそのリンク
 ついでに、掲示板上の合評のやりとりも各回の作品ごとに纏めて後で読めるようにして
 おくと便利ですね。これは、私の作品と他のいくつかの作品については、すでに試行的
 に作っていますが、投稿文中に合評と無関係な文とが混じる場合があってその切り分け
 に意外と時間がかかります。この合評集についても、将来的には作品集とリンクを張り
 たいですね。
★CD−ROM化
 あと、適当な時期たとえば10回ごとに、作品・作者紹介・合評応答を全て含んだ
 CD−ROMを作って見たいと言うことも、古賀さんと話し合ったことが有りますが
 時間を要することなので、なかなか実現に至りません。
★各作品を一元管理する識別標記
 私の場合、各作品は各回の作品集の番号(二桁の数)+作品の番号(二桁の数)+作者
 名と書き分けています。例えば、今回の場合は
     2101北島
     2102古賀由子
     2103赤坂
     2104臼井
 などと標記します。
 リンクを張るときは、この4桁の数字をキーにすれば、作品を一元管理できて作品の紛
 れを防ぐことが出来ると考えています。以上、思いつくままに   長岡曉生




「小柳さんより」 2009/12/25

 古賀さん
大変な作業をして戴き、有り難うございます。取り敢えず、新作品集について気づいたこ
とを、細かい点は除いて記します。 万理さんも、一緒に見て下さい。
●従来の作品集
・第11号の「事故」(田村さん)のリンク先が
 亮子さんの俳句へと、ずれた場所に繋がっています。
・古賀さんの2作品(岐路と沈み行く家第四回)で、作品にはいる
 とBGMが聞こえる仕掛けを見つけました。
 万理さんは、すでに気づいて居ましたか。
●著者別作品集
・3列表示される著者名の2・3列の間が、少し狭くなっています。
・著者名一覧と、個別著者名の2箇所に存在する「東内一明」は、正しくは「イマジン」
 とすべきです。
・大西さんの個別著者名は、他と同様に少し左に寄せないと
 直ぐに2行表示に成ってしまいます。
・良久子さんと亮子さんの姓は、冊子の表記に合わせてカタカナと した方が良いと思い
 ます。
・武藤さんと亮子さんの個人集で
 第21号の後だけ空白が大きくなっています。
・古賀さんの個別集で試みられている「前の画面に戻る」ボタンは 元の場所を記憶して
 いません。寧ろ、「作品集に戻る」と「作者一覧に戻る」との二つに分けて表示した方
 が解りやす いかも知れません。
・将来の課題として個人作品を一括して読み込み、その中を自由に検索できると合評の時
 に都合が良いと思います。
 (一太郎では、その気になれば出来ますが。)

●共通の問題
・緑色ゴチックの名称部分と
 その下の「このページでは過去に作成した・・・」の部分が 表示枠が縮まると、縦方
 向に極端に細長くなりますが その下の、表題欄または著者名欄と同じ幅の固定枠にし
 た方が 読者にとっては、見やすいと思います。以上です。   

102α編集部:2014/04/06(日) 13:30:50
本のある暮らし6
.
          本のある暮らし6??2011






「天声人語−箸使いについて」
 2011/1/8

2011.1.8の天声人語に箸使いについての興味ある記事が載っていた。
その中に、「喪の日記」を書いたロラン・バルトの日本文化にたいする記述である。
記事によれば「日本の箸の文化に欧米人は神秘をみるらしい。フランスの思想家ロラン・バルトは『箸をあやつる動作のなかに、配慮の行き渡った抑制がある』と言った。バルトはまた箸には母性や、鳥のくちばしの動作も見た」とある。
何気なくそのなかで生きている私達の文化も、外から見ると違った見え方があるから面白い。





銀座散歩
2011/3/6

朝9:30銀座マリオンにて「ツーリスト」という映画をみる。小さなバケツほどのポップ
コーンを食べながら。懐かしのヴェネチアが舞台。それなりにおもしろかった。ミステリ
ー仕立てだが、無限回廊などの筋を考えることに慣れると、自ずと映画の結末が判ってく
るような気がした。それがいいことなのか、興味が半減するのか今のところ自分にも判ら
ない。
映画の後教文館に立ち寄り、ヴィルヘルム・ゲナツィーノ著「そんな日の雨傘に」を購入。
¥2,000円。ついでにこの前読んでおもしろかったアイランド・ストーリーズの著者ウィ
リアム・トレヴァーのほかの本を調べてもらった。
  アフター・レイン         採流社     ¥2,800
  密会               新潮社     ¥1,900
  聖母の贈り物           国書刊行会   ¥2,400
  フェリシアの旅          角川書店    ¥ 705
  フールズ・オブ・フォーチュン   論創社     ¥1,942
  リッツホテルの天使達       ほおずき書籍 ??¥1,500
  同窓               オリオン社    ¥1,200




検診日
2011/4/21

糖代内科及び眼科の検診日
8:30〜14:00という長丁場だった。糖代内科はスムーズに済ませたが、眼科は患者
でごった返していた。

◆糖代内科の主治医である鈴木 亮医師の論文
糖尿病とインスリンの脳におけるコレステロール代謝への影響
2011年1月11日
鈴木 亮・C. Ronald Kahn
(米国Harvard Medical School,Joslin Diabetes Center)
email:鈴木 亮
Diabetes and insulin in regulation of brain cholesterol metabolism.
Ryo Suzuki, Kevin Lee, Enxuan Jing, Sudha B. Biddinger, Jeffrey G. McDonald, Tho
mas J. Montine, Suzanne Craft, C. Ronald Kahn
Cell Metabolism, 12, 567-579 (2010)

要 約
 脳は全身でもっともコレステロールの豊富な臓器であり,脳のコレステロールの大部分
は脳によって合成されている.筆者らは,インスリンの欠乏をともなう糖尿病マウスの視
床下部および大脳皮質において,コレステロールの合成を制御する転写因子SREBP2とその
下流遺伝子の発現が低下し,その結果,脳におけるコレステロール合成とシナプトソーム
膜のコレステロール含量が低下することを明らかにした.この変化にはニューロンとグリ
ア細胞の両者におけるインスリンの直接作用が寄与し,インスリンを糖尿病マウスの脳室
に投与すると視床下部におけるコレステロール合成経路の抑制が正常化した.初代培養ニ
ューロンにおいてSREBP2の発現を抑制するとシナプス形成のマーカーが減少し,マウスの
視床下部でSREBP2の発現を抑制すると摂食量と体重が増加した.以上の結果は,インスリ
ンおよび糖尿病が脳におけるコレステロールの代謝に影響することを示しており,糖尿病
やほかの疾患でみられる神経学的な機能不全や代謝異常の発症機序に関与している可能性
が考えられた.




「天国も死後の世界もない」
2011/5/18

面白い記事があった。   毎日新聞 2011.05.18
世界の雑記帳:「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言5月16日、
「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、
英紙ガーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない。天国とは闇を恐れる人
のおとぎ話にすぎない」とし、死後の世界があるとの考えを否定した。

人間の生が精神と肉体の両方で成り立っている以上、どちらが欠けても人間として自立し
て生きてはいけない。死は疑いのない肉体の死滅である以上精神や魂だけが生き続けるこ
とはない。だから天国や来世があるということは物理的に無理な考えだ。
ただ子孫に引き継がれた遺伝子の連綿とした情報があるかぎり、一度生を受けた人の痕跡
は残り、それを来世と言えないこともない。
また、アメリカの女優シャーリー・マクレーンは南米の霊的な経験をもとに「アウト・オ
ン・ア・リム」という本を書いた。その中に「たとえ肉体は死んでも、原子は死滅せずこ
の世界に残る。それがふたたび植物や動物に取り込まれて生命を造ることになる」という
輪廻転生の意味づけをしている。なるほどそういう理屈もあるのかと思った。




「アラン」を読んで
2011/5/31

アラン全集を読んでいたら、フランスの社会学者、哲学者、数学者で、「実証哲学講義」
などの著作があるオーギュスト・コントの人格についての考察を書いていた。コントの考
察そのものを私はまだ読んではいないが、それを併せて論じたアランの説明によると、気
質は生物学的であり、個性は社会学的であり、人格は道徳的なものである。
そこで、各項の順序が威厳の増大と照応していることに注意しながら、我々の系列につい
て考えてみよう。
気質は、性格のなかに形をとらなければ、動物的なものに過ぎない。そして、ほんのがん
ぜない子供では、ほとんど気質だけがあるにすぎない。性格とは考えられた気質であり、
気質以上のものである。自分自身について、現在あるいは未来のあるときに嫉妬深く、執
念深く、憂うつあるいは臆病であったり、あるいはそうなるに違いないと考えることは、
相当な努力を要するからだ。しかし人は個性にうちかち、性格にうちかって、それを克服
して人格まで高めなければなければならない。

この文が目にとまったのは、最近自分の言動を自分の心の中の「良心」に照らし合わせる
という行為について考えていたからだ。巷ではめっきり耳にしなくなったこの「良心」と
いう言葉は、「良心に恥じる」とか「良心に従う」などといった使い方をするのだがもう
一つはっきりしないところがあった。
ある説明によると、良心とは、自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らし
て、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのことである。
しかしどうもキリスト教の基本的な神との約束として十戒や、仏教にも在家信者が守るべ
き五戒といったもののように明確なものでなく、個人の育った環境や、生き様や、資質な
どが長い年月を通して得た規範というもので、それぞれの個人的差があるようでもある。
しかし確かに自己を表現する場合には、その言動を自分の「良心」に照らし合わせてみる
ものだ。私は自分の行動において、嫉妬や妬みや執念深さや臆病さなどといった負の感情
を抱いたとき、良心に照らし合わせて良心に恥じないような言動をすることに努力してい
る。

参照:モーゼの十戒
    わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
    自分のために、偶像をつくってはならない。
    主の御名をみだりに唱えてはならない。
    安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
    父と母を敬え。
    殺してはならない。
    姦淫してはならない。
    盗んではならない。
    隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
    隣人の家のものを欲しがってはならない。

   在家の五戒
    不殺生戒: 生き物を殺してはいけない。
    不偸盗戒: 他人のものを盗んではいけない。
    不邪淫戒: 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
    不妄語戒: うそをついてはいけない。
    不飲酒戒: 酒を飲んではいけない。




『反物質』の閉じ込め成功
2011/6/6

東京新聞 2011/6/6 に面白い記事が載っていた。
【ジュネーブ共同】欧州合同原子核研究所(CERN、ジュネーブ)は5日、宇宙や自然
界にほとんど存在せず、物質と出合うと消滅する「反物質」の一種を、実験装置の中に1
6分余りとなる千秒間閉じ込めることに成功したと発表した。
物質と反物質は宇宙誕生の大爆発ビッグバン直後は同じ量存在していたと仮定されている。
長時間の反物質閉じ込めによって、より精度の高い観察、実験が可能となり、なぜ宇
宙が物質だけでできているのかなど、宇宙の進化の謎解明に道が開かれたといえる。

この「反物資」をテーマにした小説が 、ダン・ブラウン著のサスペンス小説『天使と悪
魔』(ANGELS & DEMONS)である。これは『ダ・ヴィンチ・コード』とおなじく2009年ア
メリカ映画が公開された。欧州合同原子核研究所(CERN、ジュネーブ)もその映画を
見て、実際に存在することを知ったのである。
ともかく、宇宙には「暗黒物質(dark matter)」や「反物質(antimatter)」という、興
味を刺激する謎が一杯存在していて、飽きることがない。




遊びについて
2011/6/21

キメラ2号氏がヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』について書いてくれましたの
でもう少し話を進めてみましょう。 フランスの社会学者・哲学者・文芸評論家である
ロジェ・カイヨワはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて『遊びと人
間』を執筆しました。私もずっと昔買って読んで見ました。そこには遊びの形態を細かく
分析し、
〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉
〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉
〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉
〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉
の4種類に分類して考察しています。
しかしその中には言葉遊びは見えない。むしろ子供が体を使って遊ぶ運動に限られている
ようです。そこで言葉に纏わる遊びを調べて見ると
  ぎなた読み、ことわざパロディー、しりとり、たほいや、つみあげうた、倒語、
  どちらにしようかな、なぞかけ、もじり句、アナグラム、アンビグラム、ダズンズ
  ハナモゲラ、パングラム、マジカルバナナ、回文、たいこめ、空耳、見立て、
  語呂合わせ、山号寺号、折句、あいうえお作文、縦読み、早口言葉、駄洒落、
  地口入れ詞、無理問答、ルー語、ピッグ・ラテン、英語の言葉遊び
などがあり、どんなものか見当もつかない物もあります。(時間がある人は調べて見てく
ださい、ほとんどが解説されています)

ぎなた読み    :べんけいがな、ぎなたをもってさ、しころした。
          かねおくれた、のむ
ことわざパロディー:猿も筆の謝り。弘法も木から落ちる
倒語 :ミュージシャンが言葉を逆さにして使う一種の隠語

まあ、いろいろの遊び方がありますが、私達は日常知らず知らずのうちにいくらかは使っ
ているようです。
私は特にアナグラムや数字の語呂合わせが好きです。私のペンネーム「オール・ド・エレ
ガンス」もアナグラムの一種だし、電話番号の1210−7080も「人に言うなよ、○
○は七転八倒」などと数字をみればなんとが語呂を合わせたい誘惑に駆られます。
オキシモーラン言葉遊びは言葉の音や意味の曖昧さを逆手にとったもので、上記の遊びよ
りちょっと複雑なものが出来て、人様々な解釈を楽しめたらいいなと思います。




「文芸時評」
2011/9/28

朝日新聞 2011.09.28 「文芸時評」 斉藤美奈子
「夢まぼろし 大家の弛緩芸」
今月はベテランないし長老と呼ばれるであろう作家たちの弛緩ぶりが目立った。という扇
状的な書き出しで始まっている。その歯に衣を着せぬ批評はよほど書く人がその世界(文
芸界)に毒されていないか、真偽に厳しい見解を持つ人か、打たれ強い性格なのであろう。
その遡上に上がっている作家と作品は
筒井康隆 「小説に関する夢十一夜」
川崎徹  「最後の誉めるもの」
丸谷才一 「持ち重りする薔薇の花」
などである。私はまだそれらを読んでいないが、斉藤氏の掻い摘んだ筋や情景を読んで、
安直なやっつけ仕事みたいな感じ、閨房内の事細かな描写はしょせん男同士の猥談のレベ
ル、主要な筋を脱線してしまい収まりがつかない等々。大家にとってはそれなりの面白さ
を書くことは実に手慣れたものだろう。それもまた才能や芸の内なのであろうが、私はそ
んな小説にただ面白みを感じて満足しすることは避けたいという思いを持っている。もの
を創ることは過去の価値や思想を疑ってかかり、破壊しようとするエネルギーがなければ
新しいものを創り出せない、そういう意志・志向が大事であると思っている。概して功成
り名遂げた人は自分のスタイルを壊すことを怖がり、守りに入るようだ。
またそのスタイルでものを創れば、遊びの作品でも一応大家としての面目は立つのであろ
う。世間もまた好意的に見てくれるに違いない。だが本当の大家は何時までも新しい試み
をし、失う物を恐れないような気がする。斉藤美奈子の刺激的な文芸批評を読んでそう思
った。




「アラン−宿命(アラン著作集2)」
2011/10/1

「学ばざりしこそ口惜しき」これは怠け者の言いわけである。それなら勉強するがいい。
もう勉強しなくなれば、かつて勉強したことがあっても、それをたいしたことだと思わな
い。過去に期待をかけるのは、過去を嘆くこととまったく同様、愚かなことだ。できてし
まったことは、それを出発点することができればこれほど好都合なことはないし、それに
囚われるならば、これほどけしからぬことはない。




本探し
2011/10/23

神保町の本屋二軒ほど探し回ったが見つからなかったので、トーマス・トランストロンメ
ル『悲しみのゴンドラ』の本を「思潮社」にインターネット予約をした。重版するのでい
つ手にはいるかわからない。 定価2,520円、新装版・菊判上製・112頁
本郷から水道橋を通り神保町へ。途中昼食に桂庵でかつどんを食べた。書泉、三省堂に立
ち寄り、お茶の水橋を渡って帰る。約6千歩。




「無題」
2011/10/24

古賀 和彦 さま
 ご注文いただき、ありがとうございます。
 申し訳ございません。
 『悲しみのゴンドラ』只今、重版中でございます。
 11月上旬の出来上がり予定です。
 重版が出来次第、改めて発送の案内をさせていただきます。
 尚、発送前日までキャンセルはお受けできます。
          思潮社  営業部



「悲しみのゴンドラ」
2011/11/8

今日T.トランストロンメルの「悲しみのゴンドラ」が届いた。青い表紙の帯には「ノー
ベル文学賞受賞!」
詩にとらえられた言の葉は、まるで消えゆく緑のようだ。脳卒中で言葉を奪われたのち、
詩人は前後の深い沈黙をたたえる新しい色を染め上げた。そしてなによりもすならしい黒。
「ゴンドラは命を重く積み運ぶ、簡素で黒いそのかたち。」スエーデンから届いた贈り物
である。−−−−−堀江敏幸(朝日新聞1999.5.9)



103α編集部:2014/04/06(日) 15:05:01
詩 散 策 4 2011
.
             詩 散 策 4

               ?? ??2011






「人の像をした美しい青い地球を読んで」 2011/1/10

前編の〔皮膚が乾き〕〔氷嚢は甲斐なく〕〔臓器岩石〕〔地球爆発〕はすべてのものの破壊
を表しているようです。
中編の〔焼け跡から小さな青い塊が〕〔青い塊は弱い子かもしれない〕〔光の好きな連中〕
〔プリズム〕〔夜の女神ラートリ〕〔薮の中へ蛍〕〔裸だろう曇るだろう〕〔人参は胃の腑
でマグマと〕〔消化には〕は破壊された混沌の世界を表しているようです。
後編の〔糞は鉱物片〕〔きらめき汚物〕は混沌の中からの新しい芽生えを表しているよう
です。
すなわち、既成の概念や価値観を全部破壊し尽くした後、新しい思想、秩序が生まれそれ
を繰り返すという「ツァラトゥストラは語りき」「この人を見よ」のニーチェの永劫回帰
の思想をこの詩のなかに見ました。




「西脇順三郎−オキシモーランの会」
2011/6/3

朝日新聞 2011.6.3 に「詩を変えた西脇順三郎」という記事があった。言葉をつむいだ
のは現代詩の創始者とされる西脇順三郎のその生涯と作品がテレビ番組にまとめられた。
「エッジスペシャル 新しき美を求めて、詩人・西脇順三郎」というCS放送、18日夜9
時45分に再放送されるらしい。残念ながら私のTVではCSが映らない。
西脇順三郎の詩は読者にとって、その意味もつながりも情景すら定かに浮かばない、メタ
ファーの世界である。例えば「旅人かへらず」の詩は

旅人は侍てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考へよ人生の旅人/汝もまた岩間か
らしみ出た/水霊にすぎない/この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時にひからび
る/ああかけすが鳴いてやかましい/時々この水の中から/花をかざした幻影の人が出る
/永遠の生命を求めるは夢/流れ去る生命のせせらぎに/思ひを捨て遂に/永劫の断崖よ
り落ちて/消え失せんと望むはうつつ/さう言ふはこの幻影の河童/村や町へ水から出て
遊ぴに来る/浮雲の影に水草ののぴる頃

私はこの新聞記事を読んで「オキシモーランの会」の活動を再び活動する意欲が湧いてき
た。2007/11/26日の日記には「もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」
を作ろうと提案してきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合
によって新しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もい
くつか試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A列
は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列それぞれ
に乱数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番号をそれぞれ若
い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、「民主主義における
無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」などと判じ物のようなものが出来上が
った。」と書いてあった。

これが詩なのかどうか、その価値があるか判らないが言葉遊びとしては結構面白い。また
システマチックなことの好きな私としてはエクセルという感情抜きの乱数配列のなかに、
人間的な情感の言葉を紡ぐという遊びもまた魅力を感じている。「オキシモーラン」の運
動、果たして新しい遊びになるかどうかは、好奇心の豊かな人の数と情熱の度合いに頼る
ばかりだ。




「詩学」をよんで−1
2011/11/24

先日、北君から借りた西脇順三郎の「詩学」を今読んでいる。西脇といえば日本に於ける、
我々が目指す「オキシモーラン」のメタファの先達だと認識している。

西脇は「詩学は自然科学や社会人文科学とは根本的にその性質が違う。『詩』というもの
は科学の対象になるものとその性質が違うということである。
『詩』は純粋に想像された世界である。だから詩学というものもみな想像されたものであ
る。想像された超科学的なものを科学として解明が出来ない。それ自体矛盾である。」と
書いてある。
そしてさらに「『詩』という言葉にはそれ自体二つの違った意義が含まれている。内面的
な意味と外面的な意味に分けることが出来る。それで内面的な意味の時は、私は『ポエジ
ー』という名称を付けたい。それは詩の精神とか詩作を読んだときに感じた意識としての
情念である。
外面的な意味のときは私は『詩作』(詩の作品)という言葉を用いることにする。それは
一定の韻やリズムなどの形式の作品をいう。『詩学』という意味に私はポエジーというも
のは何であるかを学ぶという意味である。」とまずその本の序に書いている。




「詩学」をよんで−2
2011/11/25

さて、西脇順三郎の「詩学」の要点を表題ごとに纏めてみようと思う。そうすればきっと
私の頭の中でその課題に対する分析と理解が増すであろう。私はいままで感銘を受けた本、
たとえば最近ではマイケル・マンデルの「JUSTICE」やアラン全集などを自分なり
に纏めてみたことがある。その結果、一回の読書では半分も理解しないで読み飛ばしてい
ることがほとんどであることが判った。世で言う速読や、一月に50冊読んだという自慢
げな多読者に比して、私の読書は遅々としてはかが行かないので、そんなに知識量は期待
できない。その代わり一つのことを反芻して行くうちに、いままで難しかった学説や理論
や用語の意味が突然実感として理解出来る時がある。まさに理論が情念と一致する「悟り」
となるのである。






「詩学」をよんで−3
2011/12/9

3−偶然
「偶然」ということは神学とか宗教家の間で言う神の世界、絶対の世界、永遠の世界に対
立して有限の世界、自然の世界、人間の宿命の世界を「偶然」という。
ポエジーはボードレール的に考えれば、精神と肉体との対立の上に立っている。この見地
からすればポエジーは無限と有限との結合の上に立っている。精神を認めると同時に肉体
も認めなければならない。ポエジーは非常に肉体的でなければならないと同時に非常に精
神的でなければならない。ポエジーは「アイロニー」であり、矛盾である。

そういえば止揚という哲学用語があった。wikipediaによると、
ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二
様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した。つまり、古いも
のが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古い
ものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論
が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考
の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。
国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方と
は異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

ポエジーは「アイロニー」という意味は、現実の世界と絶対世界の対立、矛盾の狭間で苦
悩しながら遂には最も価値あるものに昇華されると言うことか。




「詩学」をよんで−4
2011/12/15

4−想像
ポエジイはいつも新しい関係を創作することによって人間の自然法則と現実をより深く感
じさせるという価値を持っている。すべての存在は関係的である。物質の原子でさえもプ
ラスとマイナスという方向の違った二つのエネルギーの結合から出来ている。

ピカソは「芸術というものは自然と違ったものだから、同じものになり得ない。芸術によ
ってわれわれは自然でないものの観念を表現するのだ」、また「私の場合は一つの作品は
破壊の合計である」ともいっている。
もちろん破壊されたことだけでも一つの新しい関係を結ぶことになるが、それだけではす
ぐれたポエジイではないだろう。その新しい関係が、なにかしら永遠という神秘的な意識
を象徴し、なにかしら哀愁を人間に感じさせなければ、それはすぐれたポエジイではない
と思う。
ポエジイが創作する思考は非現実(イレエール)ではあるが、そうした方法でなければ「永
遠」といったような神秘的意識やあの分析の出来ない哀愁という現実にふれることは出来
ない。ポエジイは感じることであって、理解するものではない。
詩作の目的は超自然または超現実の世界を創作することによってポエジイを人間に感じさ
せることである。

私の場合はこの超現実的創作に従えば、単に自然を写実するだけの具象画に興味を見いだ
せない自分がある。すなわち現代日本画や細密の写実画などの見られる、ただ物体の再現
を目指すもののなかに「アイロニー」や「シュール」さや「現実でない神秘的意識」「哀
愁」といったポエジイを表現していないとみえるからだ。
われわれが目指すオキシモーランの目的は、「現実の世界」と「想念の世界」の鬩ぎ合い
のなかで、理性では感じられない情感を表現することにあると思った。




「網膜症(糖尿病黄斑症)回復手術入院」
2011/12/26

網膜症(糖尿病黄斑症)回復手術入院    2011.12.19〜12.26
第1日−−−*
第2日−−−* (*割愛 編集部)
第3日〜第6日
後は静かに寝ているだけの生活で、「詩学」と「悲しみのゴンドラ」と「アラン全集」を
読み、ちょっと仕事をして事務所に図面を送る。入院中の仕事のために息子よりラップト
ップパソコンのMacBook Airを貰う。無線ランは借りる。
“グレープ”のアルバム「わすれもの」に収録された曲が見つかった。

   蛍茶屋から 鳴滝までは 中川抜けてく川端柳
   他人の心を 胡麻化す様に 七つおたくさ あじさい花は
   おらんださんの 置き忘れ
   思案橋から眼鏡橋 今日は寺町 廻ってゆこうか
   それとも中通りを抜けてゆこうか
   雨が降るから久し振り 賑橋からのぞいてみようか

 この詩はまさに私が路面電車の終点の「蛍茶屋」の古い屋敷の二階に間借りしてい
た頃の情景そのもので懐かしい。
 また、 アジサイは毒性があり、ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状
は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。
釈迦の誕生を祝う行事の花祭り(4月8日)に飲む甘茶(あまちゃ)は、ユキノシタ科の落
葉低木ガクアジサイの変種であるアマチャ(学名:Hydrangea macrophyllavar.thunbergii)。
また、その若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。およびそれを煎じて作った飲料、だが
全く紫陽花の葉とそっくりであるから用心しなければならない。



104α編集部:2014/04/06(日) 16:59:32
オキシモーラン1 2002-2008
.
       オキシモーラン1 2002-2008





 「Oxymoron」オキシモーラン(オキシモロン)はあまり聞き慣れない言葉だ。
英和辞書には「撞着語法」と短く書いてある。
撞着、矛盾だから、矛盾した言葉を結合させる語法のようだ。
「語法」とあるからには、この矛盾したものどうしの結合から新たな世界を創るとい
うひとつの試み、方法なのだろう。
 オキシモーラン活動を地道にしてきた神野氏の作品を思い浮かべる、その神野氏を
師と仰ぐ赤松氏の作品を思い浮かべる、確かにどこかその匂いがする。極めて論理的
な人が、矛盾する言葉を並べて遊ぼう、試そうとするところがまた興味深い。

 二人が直接的にこの言葉を説明したに記事はないかと探してみたところ、神野氏が
ほんの少しだけ触れていた。
 ……………………………………………………………………………………………………
 『言葉集め星造り』も着想は二十代です。これは、言葉が、単語から句、文、
??話へ大きくなるのを、宇宙の膨張になぞらえたものです。こちらでは、れいの
「オキシモーラン 0xymoron」、言い換えると、俳句用語で言う「取り合わせ」
??や「二者合体」を楽しみつつ、言葉の全相に迫ろうと試みたものです。
 ……………………………………………………………………………………………………
とある。なるほど、なるほど。         (編集部)





パラドックス 2002/11/12??落書き帳

戦争について考えるに、人はなぜ平和を得るため武器を持って戦うのでしょうか?
武器のない争いのない平穏な生活を望むために、人を脅かす戦争という手段を用いることに矛
盾を感じないのでしょうか?これは平和のために戦争をというパラドックスの罠には填ってい
ます。

また、人はすべて他の生き物を殺し、食すことでしか生命の維持が出来ないことは実に罪深い
ことではないでしょうか。これはまたパラドックスの極地であり、宗教でいう「原罪」はここ
に行き着く想いではないでしょうか?

このような矛盾の中でしか生存できない私達生き物であるならば、それでも「生きる」という
名分を見つけなければならないのですが、私にはまだ解答が得られないのです。




暇と金の関係  2003/2/9  落書き帳

暇があれば金がない、または金はあるが使う暇がないと世間ではいいますが、そりゃー両方あ
るにこしたことはありません。しかしこの世情では片方でもあればめっけものと考えて楽しん
だが得でしょう。

私なんざー、自慢じゃないが今も昔も両方とも縁がない人生でごさいます。
最近やっと疫病神と貧乏神に三下り半をしたためて、引導を渡そうかと密かに目論んでいる次
第。その前に力つきてくたばるやも知れませんが・・・。




速さがとりえ ??2003/2/4??落書き帳

blackmail:恐喝する,ゆする
blackout:停電,記憶[意識,視覚]喪失

「計三個の問題です」とありますが、もうひとつは何でしょう。
作者がとつぜんblackout(記憶喪失)したか?質問の意味を解さない私がblackout(停電)
したか?

あとで読み返してみたら、「ランゲルハンス島の住人」が「ランゲルハウス」になっていた。
やはり、私の脳のほうに問題があることを発見した。




I氏へ   2003/2/4

ずっと昔、読書家のI氏から最先端科学の「複雑系」の話を聞いた覚えがありました。そのと
きはたいした興味を覚えなかったが、最近「量子力学」・「超ひも理論」などをへて「複雑系」
の本を読みました。

ところで、「nさんへ」の投稿をみると堅物ばっかりと思っていたI氏もそのようなユーモア
の持ち主であることが判って嬉しいですね。

小生も自分ではよく出来たと思うのですが、そのようなダジャレを息子から「親父ギャグ」と
白い目で一笑にふされ続けています。しかし、「親父ギャグ」は江戸時代よりつづくダジャレ
を継承していて言葉遊びの一つの文化でしょう。同音異義や何かに見立てる掛詞などを瞬時に
組み立てて表現することは並の業ではありません。

話はかわって、異風者氏は「読書会」ば自分と違う傾向の本をテーマにしているとこのHPに
書いておられたが、それは違います。参加した人が次の本を決める訳ですから、漫画・エロ・
科学・哲学・神学等、そのジャンルは問いません。

そう言うわけで、是非「読書会」に参加されて、私共を「構造改革とロジステック方程式」や
「零式艦上戦闘機」の迷宮へ誘って欲しいと思います。




さすが教授! 2003/12/19?? 落書き帳

さすが教授、比較文化はいよいよ佳境にはいりましたね。なかなか面白い。
「古事記」上巻神武天皇の巻に「大便之溝涼下」あるように、古来の日本は厠といって川の上
につくり、そのままポトンと流していたそうな。雷(いかずち)の神の母親は厠で糞闘中、川
を流れ下って来たさる男性の神様にレイプされて妊娠し、雷(いかずち)の神を生むときその
熱さに「御陰(みほと)焼かえて失せにけり」だったとか。比較文化これからも楽しみにして
います。




アクセス20000?? 2003/12/25?? 落書き帳

遂に20000番目のアクセスに成功。朝から狙っていたかいがありました。
楠葉さん、骨折したとはお気の毒に。徒然草第八九段の「猫また」に襲われての災難ではあり
ませんか。吉田兼好は現代に立派に通用する実に合理的な考えの持ち主のだと小生は思いまし
た。




K・Mさん導管です
2004/6/3  落書き帳

K・M生さんの「黄泉売」批判に同感します。哄笑六百漫部という毒者数日本一を驕りにした死体
砲台の厚意は、えがわ・くわた嚇匿の暗躍問題に始まって、殺束でひっぱたいて一竜選手を収拾
し、業界のルールを蹂躙した罪はおおきい。

同じく、国連決議も虫視し耐儀もないまま、駄々子のようにイラクに剣禍を噴きかけたアメリカの
凋落をそのとき核心しましたね。マケドニアやローマ、スペイン、大英帝国といいそんなに繁栄は
未来永劫と続かなかったように・・・。




解読に閉口しましたか? 2003/6/4??????落書き帳

当て字について叱られてしまった・・・ハハハー。
(ここは好きだった枝雀の照れ笑いを思い出してください)

たまにはジェームス・ジョイスの「フィネガンス・ウエイク」の筆法もよかろうと考えました
が、底が浅かったようで・・・ハハハ。




応援ありがと 2004/6/5?? 落書き帳

当て字文をK・M生さんから賛同をえて安心しました。時の権力者に対する批判や社会の風潮
に対する風刺やあざけりの意をふくんだ匿名の文書を人目に触れやすい場所に落とし人に拾わ
せたり、相手の家の門壁などにはりつけたものがあり、平安時代からみられたもので詩歌形式
のものを落首(らくしゅ)といいました。この落書き帳も少なからず、見事な言い換えや掛詞
などで庶民の気持ちを代弁する精神を受け継いだものだと私は勝手に解釈しています。そうい
う訳でおおいに世相を風刺し、笑いとばしましょう。

昔こういう文をつくりましたが残念ながらホームページではルビが使えず、解読に難しさがみ
られます。
あえて( )書きのふりがなを付ければいささか間が抜けていてしまりがないのが残念です。

重苦念男起(じゅくねんおとこたち)のバードウオッテイング泡酷暑(ほうこくしょ)

                         壱千九百九拾九.?.弐拾七
                         ランゲルハンス島の住人 記


K.M君、M.O君、M・K君そしてしんがりに控えし将星(しょうせい)、もっと精強(せ
いきょう)かと奇態(きたい)したのだが、たった4人の盗見会(とりみかい)でありました。
“霧理(ぎり)と刃傷(にんじょう)を大拙(たいせつ)に”をモットーとして夜渡(よわた
り)りしていると思しき者のみ討ち揃い、暗き孔より除見(のぞきみ)たる爺蔦(やちょう)
の数々。革兎(かわう)、白詐欺(しらさぎ)、阿保詐偽(あおさぎ)、大蛮(おおばん)、
怪粒梨(かいつぶり)、さて最期に磯市議(いそしぎ)の搭乗(とうじよう)。はたと思いう
かべしは、襟座辺数(えりざべす)・手柄裸(てーらー)と痢茶℃(りちゃーど)・罵豚(ば
ーとん)、稚野留守(ちゃーるす)・風呂運損(ぶろんそん)のお撒けつき、吸什然(すうじ
ゅうねん)まえの死値馬(しねま)の輪題(わだい)に観劇(かんげき)し輪飲(わいん)
2罠(ふたびん)をたいらげて迷亭し、絵殿(えでんの)の乾菓子(ひがし)の沙里茄子(さ
りなす)か磯市議(いそしぎ)の門テレ(もんてれー)を彷徨したれば夢心地の壱日ではあり
ました。

ベルギー在住の方には難しかったかな・・・それともくだらなかったか。
正確な日本語を思い出そうという努力を台無しにしたかも・・・。




開けられたパンドラの箱 2004/6/9??????落書き帳

ダグウッド・ブッシュに「パンドラの箱」を与えたのは誰だ?勿論アメリカ国民の過半数によ
ってね。

彼は禁断のその箱を皆が「止せ」という忠告も聞かず開けてしまった。ゼウスによって封じこ
まれたこの世のすべての悪と災難がいま世界に充満しようとしている。貪欲・中傷・虚栄・疑
心暗鬼・飢餓・破壊・・・。

いまはブロンディにダグウッドの乱暴を止めるよう頼むほかないか・・・この空想と現実がご
ちゃ混ぜになってしまった悪夢もそのせいか?

混沌の世の中、それでもなお「パンドラの箱」の底に最後に残った「希望」が人類を救うこと
を願いたい。




光電盤も賑やかになりました 2004/ 6/10????落書き帳

この光電盤も海外からそして兎小屋の屋根裏書斎からと、いろいろの職歴、いろいろの思想の
持った人方々が自由に自分の意見を発信し、実に多彩で賑やかになりました。二年前には想像
もつかない発展ぶりです。そのうちいっぱい飲みながら覆面懇談会でも開催しませんか?

K・M生さん ランゲルハンス島には全ての人の細胞もすでに住んでいることを報告します。
なお私は下記のごとく人間の腑臓の中枢に住む天邪鬼であります。

すいぞう(‥ザウ)【膵臓】・【ランゲルハンス島】
胃の後下部に位置し、消化腺と内分泌腺とが合一した臓器。人では長さ一五センチメートルぐ
らいの細長い木の葉状をなす。消化酵素を含む膵液を膵管によって十二指腸に分泌する。
内分泌機能としてはランゲルハンス島から血液中にインシュリン・グリカゴンなどを分泌する。
ランゲルハンス島の名はランゲルハンス(Langerhans)という ドイツの病理学者の名から
とってつけられた器官であります。




やめてえー候。  2004/11/3????????落書き帳
笑声も輪大の「客死剣・オニの瓜」を奇態して診る心算でありますが、かっちゃん!!
あまり商才な回折は困りまする。最期の愉しみに撮って奥いた叛忍を細書に夢夜矢離報された
ようで京見が半間致すは必定・・・。
憎まれ愚痴のついでに、この欄の投降も十行くらいに納めるという諦闇を死体がいかが?
磯がしい時は投降文があまりの永さだと半分も詠まない人も大飯ともおもうよ・・・。









*「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」 2007/11/26 旧α掲示板 *同人α13号

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案し
 てきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新
 しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつ
 か試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A
 列は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列
 それぞれに乱数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番
 号をそれぞれ若い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、
 「民主主義における無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」など と判
 じ物のようなものが出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろ
 う。そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎ
 にぎしく騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり
 始める。傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じな
 がら想像も付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉
 同志のミスマッチによるおもしろさをかみしめる。
◆ それにしても現在はアバンギャルドというかアナーキーな前衛芸術というか、す
 っかり影を潜めてしまっている。これは既成概念に支配されて満足しているだけの
 活力のない社会になってしまったようで、学園にもイデオロギーに被れた若い学生
 達咆哮もなく、北島君の担当した「同人α」第3号の表題である「狂気」をも持ち
 得ない人達ばかりになってしまったのか。などと世間にたいして斜に構えながら肉
 体的には衰えても精神的には老成したくはないそとばかりに勇みこんでいる。
 しかし、だから、そして、これでは「パラレル宇宙」の評になってはいないな。
 北君ごめんなさい。




*「シリーズ・歪んだ風景−異星人」の合評のお礼 2007/12/9??旧α掲示板 *同人α13号

私への合評のお礼が北島氏論のまっただ中に割り込むという間の悪い行為で申し訳あ
りません。私の行動はいつも人の歩調に合わない・合わせない「ずれずれくさ」のて
いたらくであります。

◆ 「知の論理」という本の中で<欲すること>と<知ること>のあいだのある決定
 的な断絶について論じた文がありました。その中に吉田戦車の「伝染るんです」と
 いうマンガについて「圧倒的なナンセンスの氾濫のなかでも、ほとんど傑作とよび
 たいくらいのぷっつんぶりで、そのユニークさや不気味さを気味悪いくらい鮮やか
 にさししめしている」とあります。その四コマ漫画に出てくる少年は、事故かなに
 かで脳を傷つけたらしいと思わせるような、頭に血が滲んでいる包帯を巻いていて、
 彼の発する言葉は話し相手にはどうしても理解できないもので、そのずれは分裂症
 の患者の発する言語に似ているようです。私はそのような不思議な論理でコンタク
 トをとろうとする思考の根拠と言葉による意思の疎通の可能と不可能についてこれ
 からも知りたいと思っています。
◆ 慣れない人にとっては苦痛を伴うような読みづらい「異星人」の合評ありがとう
 ございました。私はこれまでなんとか美しい言葉での表現や理論的な整合性を大切
 にして自分の思いを伝えたいと努力し、いかに表現すれば共感を得られるか、ああ
 でもないこうでもないと試行錯誤しながら必死で探し求めてきました。しかし今は
 自分と読者が同じ感覚での理解と共感を100%一致させることは、本質的にあり得
 ないことだと悟りました。同じような環境、同じような経験と思われる中でも、そ
 の人その人の過去の経験や考え方で少しずつずれを生じた解釈をしているに違いあ
 りません。すくなからず一般的な付き合い程度の事柄は、いわゆる同床異夢である
 ことを感じない程度の深さの付き合いにおいてはたいした破綻を来さないで過ごし
 ているのが殆どのことでありましょう。どうせ100%の共感がなくても世の中はな
 んの支障もなく回っているのであるならば、さてそこで、だから、そのことを踏ま
 えて、一度言葉のシステムといいますか、何となくなれ合っている表現や字面や意
 味をめちゃめちゃにした、一種のルール無視を敢えてすればなにが破壊され、何が
 新しい価値を持って生まれてくるだろうかと思った次第です。これはまさしく手法
 は違っていても、神野佐嘉江氏と同じ世界をめざしているよう私には感じます。今
 回の試みで、80%程度の理解は期待できなくても、10%の共感をえられたであり
 ましょうか、

◆ そう言うわけで記号化した言葉の異質な組み合わせの妙を楽しむために、神野佐
 嘉江氏による造語「オキシモーラン」の運動を発展させて言葉による遊びのシステ
 ムを創ろうと思っています。そして一つの方法を完成させるべくいま思考中であり
 ますので、ご期待ください。




「オキシモーラン」言葉遊び1  2007/12/12 旧α掲示板

まず何を創るか、なにから始めるか、どのように進めるか。どのように発展するか、
どのような効果が期待できるかはいまのところ全く未知である。それは詰まらぬもの
か、予想外に面白いものかやってみないと判らない。
今の考えでは俳句や和歌の形式とし、文節に分解し記号化したものをエクセルの列と
して集め、A列に名詞を、B列に形容詞や副詞をC列に動詞や述語をといった方法で
記録する。
最後に仕上げとしてそれぞれの列で乱数を発生させてそれをソートし、若い数の順に
並び替える。全く関連性のない各文節で出来上がった句なり和歌の新しい文が表現す
る面白味、諧謔、隠喩、比喩等の新しい解釈が出来ることを期待しよう。

(案)
◆ 賛同者を募り表現方法、活動方針などを検討する
◆ エクセルの列に言葉を集める。
 1.名詞
   a.イデオロギー
    b.場所
    c.人物
    d.本の名前
 2.形容詞
 3.副詞
 4.動詞





「オキシモーラン言葉遊び」2 2007/12/22  旧α掲示板

先日より「オキシモーラン言葉遊び」のEXCELを利用したシステムを作る算段で、
いろいろと長岡氏の知恵を借りた。関数についての何回かのやりとりで一応使えるシ
ステムが立ち上がる目途がたった。

◆ 長岡 様
 なかなか忙しくご無沙汰しています。
 ところで、オキシモーラン言葉遊びのソフトを作るためにエクセルの関数を使用し
 ていますが、もしご存じでしたらご教示ください。
 添付したエクセルのA、C、E、G、I列の数値を乱数を発生させる関数を使って
 いますが、若い数字順にソートするために、その数字を固定しなければなりません。
 そのためにはRAND()*1000のあとにCtrl+F9を押す必要がありますが、
 連続で固定する方法が分かりません。もしご存じであれば教えてください。
 それから、O−chanが23日の忘年会への出欠の回答が無いと悩んでいました
 が、いかがでしょう。返事して上げてください。今年最後の会合を楽しみにしてい
 ます。
 その前に「肥と筑」の合評という難関をクリアーしなければなりませんが。
◆ EXCEL RAND() をキーワードにして
 グーグルのオプション検索で得た結果を添付します。この方法を応用すれば、多分、
 問題は解決できると思います。但し、50個/列の5列全てに関数を入れて行くの
 はそれなりに大変だとは思いますが。
◆ 毎回、各列の単語それぞれの順位(例えば、1位〜50位)が、必要なのでしょ
 うもしそうではなく、各列の50個の中から一つ選ぶだけで良いのならば、例えば
 RANDBETWEEN(1,50)を各列で求めてやれば、ずっと簡単に、求める回答が得
 られると思うのですが。
◆ 例題に対して、RANK関数を応用したEXCEL解とその毎回変わる結果を、TAB
 区切りのTEXTとして固定したものを添付します。どうやら、この方法を使うこ
 とが出来そうですね。
◆ 私が、ずっと誤解をしていたようです。要するにある時点で、[f 9]キーを押
 した乱数生成の結果を保持しA, C, E, G, I 列の数値ごとに、2列ずつソートす
 るわけですね。
 次の手順が使えます。(例:test-2.xls)
   1)乱数生成で得られたEXCEL表の第一行(題名行)を削除する。
     (題名行があると、手順4)のソートの際に文句を言ってきます。)
   2)TEXTファイル(TAB区切り)として書き込む。
     (この時、関数機能は削除されるのでデータは全て固定されます。)
   3)今書き込んだTEXTファイルを、EXCELで読み出す。
   4)A, C, E, G, I 列の数値に基づき、2列ずつソートする。
     これは、データ(D)の並べ替え(S)で可能です。
◆ 貴方より頂いたRANK(A2,$A$2:$A$100) 関数は使えますね。
  A列にRAND()*1000で3桁の乱数を発生させ
  B列にRANK(A2,$A$2:$A$100)で序列化をし
  C列に「形式を選択をして貼り付ける」を開き「値」にチェックを入れて、B列
  の「値」をC列に貼り付けると固定された数値がコピーできました。
  ctr+F9を押すという考えに固執していましたが、よく考えると実に単純でした。
  いろいろお騒がせしましたが、これでシステムの目途がつきました。ありがとう
  ございます。しかしもっといいアイデアがあるかも知れませんので、これからも
  よろしく・・・。




「ナンセンス文学」 2008/1/3  窓辺にて

◆「人体の態度、姿態、運動は、この人体が、一つの単なるメカニックであると我々
 に思わせることに性格に比例して滑稽である」−ベルグゾン
◆自然とメカニックなるものとの対立を発見して、これを意識的に己に、或は文学上
 に再現することは、明らかに人間高度の理智の機能である。感傷の国日本に「ナン
 センス文学」の貧弱な所以も個々にある−小林秀雄全集第一巻P160
◆「オキシモーラン言葉遊び」は言葉をメカニックに分解・再生するナンセンス文学
 に成り得るか?




「北君へメール」  2008/4/28

今日から北君の合評期間になる由を伝える。それに伴いブログ用の写真をみつくろっ
て郵送してくれるように依頼した。そのときの話で
◆北君が独自のブログを開設して、いままでの作品集をつくり同人αのホームページ
 とリンクすれば、皆さんに読んでもらえるのではないかと提案した。
◆北君より二冊の本について紹介された。
 * バロ−著:無限のはなし
 * 文藝春秋今月号:茂木健一郎の「オキシモーラン」について



105α編集部:2014/04/06(日) 17:38:15
原発 3.11以前
.
            原発 3.11以前

               ??   2007-2009





プルサーマルのCM
2007/3/3

経済産業省始原エネルギー庁の、「もったいないの母国だからこそ、『プルサーマル』で
リサイクル。という新聞広告が載っていた。
  ・日本のエネルギー自給率は、わずか4%。
  ・電力の1/3をまかなう原子力発電の燃料・ウランも輸入資源です。
  ・プルサーマルで、限りあるウランの有効活用が図られます。
  ・プルサーマルは、海外で40年以上の実績があります。
  ・国内の実証試験でも、良好な結果が確認されました。
  ・国が厳正な審査・チェックを行います。
などと、地球温暖化や自給率などの危機感を煽って、原子力発電を止むなく選択せざるを
得ないような論調である。
他国はプルトニュームを使用する原発を減らしていく傾向にあることも論じていないし、
十分審査・チェックするから安心といっているが、これだけ事故を起こししかもそれを隠
蔽している現実をみれば、単純に認めるわけにはいかない。

「日本の天然林を救う全国連呼びかけ人」のC・W・ニコル氏の「伐採をやめ環境省に移
換を」という記事が載っていた。
林野庁は無駄な天然林伐採をやめ、管理を環境省に移管せよとの主張である。




プルサーマルの問題
2009/10/1

 随分昔、日本へ原発が導入された頃、私は本で「メルトダウン」とか「チャイナ・シン
ドローム」という言葉に興味を抱いたきっかけは、アメリカのスリーマイル島の原発事故
からであった。その事故が起きる前は、日本の原発は安全基準がしっかりしているから全
く心配ないと説明されていたがその後続々と事故を起こし、その厳しいと言われた基準そ
のものが曖昧なものだったことが判明した。
 今回のプルサーマルの原発はプルトニウムを多く含むもので、その化合物は人体にとっ
て非常に有害である。プルトニウムはアルファ線を放出するため、体内に蓄積されると強
い発癌性を持つといわれている。またいちどメルトダウンや水蒸気爆発をおこした場合は、
広大な範囲に飛び散り住環境に多大な影響を及ぼしかねない。ましてやプルトニウムの半
減期は約2万4000年であり、無害になるためにはとてつもない時間を必要とする。
昨年の洞爺湖サミットで地球温暖化ガスを減らすためには、原発も必要だという共同声明
が出たのには驚いた。
 いずれにしても人類に多大な影響を与えかねないものに対しては、例え暮らしの便利さ
が停滞したとしても、十分新調でなければならないと思った。だから私は明日の 佐賀で
プルサーマル使用に反対している牟田さん達グループが今回民主党に再検討を訴えるため
の参議院会議室へ出向こうと思う。




STOP プルサーマル運動
2009/10/3

 九州電力玄海原発3号機(佐賀県玄海町)で始まるプルサーマルをめぐり、ウランとプ
ルトニウムの混合酸化物(MOX)燃料を原子炉に装てんする作業を3日から行うと唐突
に発表した(9月30日)ことを問題とした質疑の会議に出席した。同期では佐賀から牟
田さん、東京から北島君、田村さんと私三人が参議院会館の会議室にはせ参じた。
 話の内容は既存の原発を廃止しろという極端な話ではない。人体にとって非常に危険な
プルトニュームを多く含むMOXという燃料を使用した発電をすすめるプルサーマという
政策の実施は時期尚早であるから、慎重に検討すべきだという住民の意向である。
しかし、出席した小難しい二つの担当部署役所の官僚とのやり取りのなかで見えてきたも
のがある。
 一つはこのプルサーマルを進めるためのタイムテーブルが、国策という名のももとに真
剣な検証もなされていない。検証がなされたかも知れないが、詳しいデータはないの一点
張りで僅か三枚の書類しかないような、まさしく机上のプランだったことが判明した本当
のところ詳しい資料が地下の倉庫に隠してあるかも知れないのだが・・・。
 二つ目はその燃料を再生するための高速増殖炉もんじゅが、ナトリウム漏洩火災事故の
後まだ再稼動のめどが立たず、そのタイムテーブルから大幅におくれているということ、
またMOXの廃棄物の処理方法や廃棄場所も確定していないということ。それでもプルサ
ーマルの発電のみを推し進める政府の意向が異常であるように思えた。
 三つ目は官僚の体質が国民のためと言うよりも、一度策定された者に対しては何が何で
も守ろうとする体質で、そこには世論が代わろうとも決して国民の側を向いていないこと
である。それは丁度八ッ場ダムや川辺ダムと同じことである。五〇年近くも成就しない政
策は、そこにどうしても進めなければならないという強い理由がもともとなかったからだ。

 以上の見聞により、はなはだ個人的な意見であるが、これまでの「能吏」といわれた官
僚の体質の変革を求めるとともに、地下の倉庫に忘れ去られた詳しい資料も太陽の下に晒
すという情報公開を民主党には徹底的に推し進めてもらいたい。そうすれば官僚の体質も
「公僕」という理念を思い出すだろう。



106α編集部:2014/04/06(日) 19:12:04
原発 原発 3.11以降
.

           原発 3.11以降

                  2011-2012



[東日本大震災:2011年(平成23年) 3月11日(金)14時46分18.1秒発生]

◆何と言っても不思議なのが、地震が起きる数時間前に、著者が「原発のクリーンさ大い
に疑問」という題の投稿を入れたことだ。予感でもあったのだろうか。
◆丁度この一年前、同人α内で大きな分裂騒ぎがあった。2010.3.11朝、αの推進力の一
人だった著者が「オブジェクション最終回」を出した。続いて対立するもう一人の創立に
関わった人から「ホームページは自分のものだ」という書き込みがあったのだ。地震一年
前の騒動は地震の予兆だったのだろうかなどとつい考えたくなる。
◆奇しくもこの日は、高校同期の「横須賀軍港巡り」が催された日でもあった。
◆地震の時は、同人α27号の合評中であったが、これに続く同人が選んだテーマは「こ
んとん」「震災列島」「兆」である。 冊子にも大きく影響したようだ。
震災や原発に触れた評も多く見られた。  (編集部)




戯評−原発のクリーンさ大いに疑問
2011/3/11(金)10時05分53秒

朝日新聞の投書欄に「原発のクリーンさ大いに疑問」という題で、原発をクリーンエネ
ルギーと位置づける昨今の風潮には違和感を覚えるという投稿があった。たしかにテレビ
で電気事業連合会による「原子力発電は、世界中で約50年前から行われている発電方式で
す。その特徴は、発電段階においてCO2を全く排出せずに大量の電力を安定して供給する
ことができること、また、使い終わった燃料を再処理することにより再利用できることか
ら、エネルギー資源小国・日本における発電方法として重要視されています。
反面、放射線の慎重な管理が必要で、そのための対策が何重にもなされています。」など
と言ったことをTVで宣伝していますが、必ずしもそういいことばかりだけとは言えない。

 ウランを燃料化する過程でCO2を排出するし、燃料として使用するプルトニウムの毒性
は既知の毒物の中でも最悪レベルで「角砂糖5個分で日本が全滅」するという指摘がある。
そしてまたその廃棄物を深い海の底や、地底に封じ込めるにしても、その毒性の強いプル
トニウム240の半減期は6564年である。 その間にどのような地殻変動が起きて、生物に
影響を与える状態になるか予測できないのである。
 確かに石炭や石油といった化石燃料を今まで燃やしてCO2を排出してきた結果、地球的
環境変化の問題が生じ現在至っている歴史があるにしても、 核燃料による危険や負担を
これ以上未来に先送りすることは許されない。しかもその核燃料の廃棄物処理にようする
とてつもない費用は、今の電気事業の経費には含まれていないのである。

 私は核利用そのた諸々の純粋な科学的な研究のすべてに反対するものではない。しかし
「原子力発電はCO2を排出しないクリーンエネルギー」といった、一方的な報じ方にたい
して「はたして良いことばかりか」と問い直す必要があるといいたい。 これに反対する
意見も含めて、すべからくすべての情報は信じる前にもう一度検証した方がいいと感じた。




平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震
2011/3/13
       

横須賀軍港巡りのクルージングの参加で出かけてきたが、15:30出発の船に乗る寸前に
「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」M9.0の巨大地震が発生した。その遊覧船
は前の客を降ろすまもなく沖に逃げ去っていったので、このイベントは中止になった。
私は我が家に変えるべく皆と別れて京急の「横須賀中央」駅へ行った。しかし運行停止。
この寒空に小一時間ばかり待っても電車は走らない。さあどうしたものか・・・。

同じ釜の飯を食べたみなさん。確かにそれが美味かったかつらかったかは人それぞれのも
のでしたでしょうが、一晃さんの言のようにまさしく貴重な体験に違いありません。そし
て今回私にとってはいくつか得るところがありました。
一つは何十時間も歩いて帰ることがはたして理にかなったものであるか、闇雲にか判断す
ることなく熟慮してじっと動かないでエネルギーの消耗を押さえよい機会を待つのがこが
得策なのではなかということ。
二つ目は、次の日電車で品川まではスムーズに着きましたが、その先は電車が全く動いて
いません。そのとき老いも若きも感情的にならずに長時間静かに耐えている姿を見て、ま
だ日本は捨てたものではない、秩序を保てるこの国の将来はまだ大丈夫と感じました。
被災者はこれから大変でしょうが、古来よりこのようなことは幾度も経験してきて、その
たびに不死鳥のごとく克服、再生してきたからの現在の繁栄でありますから、きっと近い
うちに立ち直ると信じています。

最後に寒い「横須賀中央」駅で不安のなかで待っている私を捜しに来てくれた友情に感謝
します。また最終的にはヶ恵義君とも再会できて、なんだか運命共同体のような気がして
きました。
       





最近のニュースで気になること
2011/3/15

1.福島原発で露呈したもの
これだけ最先端の科学と技術の粋を集めた施設なのに、その運転・制御に関して幾重に
 もいたる安全装置が、かくも次々と不具合を起こすとは信じがたい。この施設の精密さ
 と雑さの落差は何であろうか。企画者はその程度の想像力しか無かったのだろうか。こ
 のような稚拙な思想を見せつけられると、今までの隠されただろう数々の不具合を思い、
 原発の国家プロジェクトとしてそう単純には肯定できなくなる。

2.首都圏での食料品、水、ガソリン等の買い占め
昨日買い物にいったスーパーには米、パン、牛乳、飲料水も無くなっていた。それは被
 災地に優先的に回されたから品薄になったのだと思っていた。
そういえばカートに山盛りにつんで買っていく人がいたのをたくさん見た。私達はいつ
 も考えが甘く、石油ショックのときもトイレット・ペーパーや洗剤なども買いそびれて
 しまったことがある。今回も被災地でもないのでそこまで考えが及ばなかったが、それ
 にしても変に目端が利くというか、はしこい人がいて自分さえよければというセコイ考
 えの故だろう。もちろん自己防衛的な本能だからある程度はやむを得ないこともあると
 思うが、必要以上の量を自分だけ確保するという、互助精神に欠けた根性がさもしいか
 ぎりである。日本のほとんどの地方や人たちが災害にあった訳ではないから、その人達
 はもっと冷静に行動すべきであると思った。数日前に冷静に電車を待つ人々に困難に立
 ち向かう冷静さを見て心強く感じた後だけに残念である。




イカロスの羽根
2011/3/18

今度の原発事故を見るとギリシャ神話のイカロスを思う。
ダイダロスとイカロスの親子はミーノース王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉さ
れてしまう。彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、イカロス
は父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

とにかくこのシステムはなかなか閉じることをしない危険さを含んでいる。核廃棄物は活
動を停止するまで数千年、数万年のあいだ暴発しないように冷却しながら30年、その後数
万年の間地中深く保管を必要とするという。しかし今回は反応を続け放熱を止めない使用
済み燃料を制御するための保管プールの水が涸れ、高温爆発したことによる事故である。
これからもまたこのような災害や人的ミス、機能停止などの正常な管理がされない状態に
陥ればいつでもこのような事故が起きることになる。
水力発電や火力発電のように不慮の時に中止をしようとすれば、その後の危険は何もない
状態にすべてのシステムが停止できるが、原発だけは何十年も危険を出し続けるという閉
じないシステムであることを心すべきだ。

人類は今、一昔前には自然の行為でなかった、神の領域であるかもしれない遺伝子操作や
臓器移植、人工授精、脳死問題などの社会的問題が生じるのと同じく、核融合や核分裂、
核兵器などの禁断の実に手を出し、自然のバランスを壊し人類の未来を終焉に向かわせよ
うとしているように思えて仕方がない。




寄せ集め記事
2011/3/25

今頃掲示板に後出しじゃんけんの本舗による反体制側権威筋の走狗をみかける。
寄せ集め記事の変酋長。テーブル叩きの名手。
もうすでにその辺のことは私でも言っている。X氏はオリジナルな感覚が全くなく、人が
説明していることでないと気づかない。だからどの文章を読んでも、
亜流であるから、借り物の言葉だから人を感動させない。ちっともおもしろくない。




原発について
2011/5/26

朝日新聞・論壇時評  2001.05.26
非正規の思考という副題のついたコラムで、原発について二人の見解が面白かった。
関曠野氏は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているものとする。それは、
日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるので
ある、と言っている。

中沢新一氏は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」
のまま持ち込んだ原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系
を破壊する、と言っている。
福島原発の事故で、今までいろいろのコメントの投稿を見てきたが、経済的、効率的、有
害性、での有用性などの卑近な問題解決に始終しているようで、関氏や中沢氏のようにも
っと大きな観点からの有用論、不要論の論を見なかったのが残念だ。

私は少し前に書いているように、問題が起きたときに即座に停止えないシステムは、人間
の生命を脅かすのではないか。他の自然エネルギーによる発電システムは停止したときに
全てが終了する。しかし原発だけは停止したあとの数十年数百年数千年もの長きにわたっ
て制御されなければならない代物なのだ。一世代で解決し得ないシステムの事故をどのよ
うに解決し、誰がその責任をとるのか。そう考えれば自ずと原発の人類に及ぼす益よりも
害の方が格段に大きいことがわかるだろう。




2011年 7月18日の某掲示板投稿記事を読んで
2011/7/19

いつものように本当の問題点が判らないH氏だ。
要するに、燃料価格に課せられる国税を低くして地方自治体(原発を抱える自治体)への
課税率を上げるということではないか。
ここでも原発による税金「核燃料税条例」が地方自治体によって定められ、かつその自治
体だけの収入として許されているということが問題ではないだろうか。そして一地方自治
体だけが潤沢な税を徴収できる仕組みは事態がおかしいのではないか。
原発の立地への見返りとして、反対意見の懐柔としての甘い餌ではないか。
福島原発の事故をみても、いったんことが起これば近隣の自治体は勿論、放射能汚染は国
民全体に及ぶにもかかわらず、投下される潤沢な資金、税を一自治体の了解だけで決定し
ていいものか。いったん事故が日本全体に広がったとき、その原発のために潤った自治体
は電力会社や国の責任にして済ましていられるか。
などを考えると「核燃料税条例」なるものの胡散臭さが見えてくる。H氏はこのような重
大なシステムの問題が見えないままに、数値への疑問だけに頭が回っていない。やはりネ
ジが数本足りないと言わざるを得ない。




「人の像をした美しい青い地球」の感想−1
2011/7/31

 作者は次号の同人α第28号の「震災列島」という表題を決めるに当たって、東日本大
地震に思うこと」というコメントを書いている。それはまさに政治や行政不備や世の中の
不条理をかこつこというよりも先ず、真っ正面からその事態に向き合い率直に恐れ戦いて
いるのが印象的である。
 それは現実的な問題の欠点を洗い出したり、その対処方法を論じたりする人もいるだろ
う。むしろそういう人の方がほとんどだと見受けられた。たとえば原発などの可否を論ず
るにおいても、想定外のことだからやむを得ないとか、もっと二重三重の安全システムを
作るべきだとか、原価計算にごまかしがあるなどといった現実的なことから反対を説き起
こす論が多かった。しかしもっと基本的なこと、すなわちずっと以前から識者の間で警鐘
を鳴らしてきたことだが、理論的に危険な物質を扱う制御システムが困難な原発が、これ
から未来にむかって人類の存続に責任持がてるだけの制御能力があるかどうかを考えるこ
とから初めなければいけないと思う。私はこの物質を無毒化するために何十年も何万年も
の間暴れ出さないようにただ静かに管理しなければならないことを思えば、未来の人類に
その付けを残す原発に手を染めることは問題が多いように思える。

 「僕は福島原発が恐ろしかった。爆発したら何十万人もの人々がその被害に苦しむ。事
態は悪化の一途をたどっていた。この時期僕は自分が「心弱く」なっていることを知った。
誰かの側に寄り添いたい。誰か側にいて欲しい。ぎゅっと引き寄せたい。そして談笑して
過ごしたい。こんな経験はこれまであったかなかったのか。また、被災者の中には地震、
津波が恐ろしくて、思い出しては震え泣きわめく人も出てくるという。この時人間は「心」
であるように見える。当方は、心に領されている人間というものを今回初めて思い描いた」
と作者は告白している。





             非日常 投稿者 万理久利 2011/8/6
        




非日常
2011/8/7

無謀にも絵の解読を試みました。緑の大きな矩形は福島第一原発の破壊された第1号機か
ら4号機を表し、青丸はセシューム、赤丸はプルトニューム、黒丸はヨウ素、白丸は原子
力安全保安院と東京電力の白々しい言い訳、黄丸は根拠の薄い風評と思いました。




「選ぶべき道は脱原発ではありません」
2011/10/21

朝日新聞2011.10.21
選ぶべき道は脱原発ではありません  国家基本問題研究所 理事長 櫻井よしこ
という意見広告が載っていた。
主旨は
「原発事故で大きな岐路に立つ日本。事故は二つのことを教えてくれました。事故が原発
管理の杜撰さによる人災だったこと、震源地により近かった東北電力女川原発が生き残っ
たように、日本の原発技術は優秀だったこと、この二点です。いま日本がなすべき事は、
事故を招いた構造的原因を徹底的に究明し、より安全性を向上させた上で原発を維持する
ことです。選ぶべき道は脱原発ではありません。」とある。

もともと櫻井よしこ氏は保守主義の論客と思って見ていたが、これは彼女だけの執筆では
ないかも知れないが、このようなすり替えと乱暴さに疑問を感じないほど雑な論理展開を
する人だとは思っていなかった。これは有利な事実だけをとりあげて、不利なものを無視
してでも論破するぞという、手段を選ばない強引さを感じた。いろいろのレトリックや詭
弁を臆面もなく使いそうだから話半分に聞いた方がよさそうだ。

さてその主旨書を読んで三つほどの疑問があった。
一つは必ずしも震源地に近いから被害が大きいという思い込み。どの程度の検証がなされ
たのか。今話題の長周期地震動などは震源地から相当遠いところでも大きな被害をもたら
すもので、この現象の学術的検証は始まったばかりなのである。だから原発の建築の形態
や立地地盤や環境による条件が違えば一概に断定する事は出来ないのではないだろうか。

二つ目は日本の原発技術は優秀だったことど断じているが、スリーマイルやチェリノブイ
リなどと比較しても大きい災害、しかもそれらの数十年後に起きた事故ということをみて
も、とても優秀であると断定はできないはずだ。

三つ目は「事故を招いた構造的原因を徹底的に究明し、より安全性を向上させた上で原発
を維持することです。」という意見を言う一方で、調査や原因究明をする前に二つの断定
をしていることは大いに矛盾する論理ではないのか。

どうもこの手の保守主義者の観点があまりにも国益に偏っていて、人類の存続といった大
きな観点が欠けているように感じられる。国益を守れても地球上に人間が一人も住めなく
なったら結局元も子もなくなるだろうにと思ったことだった。




原発について
2012/6/22

碇さんや被災住民さんの原子力発電に関しての見解に私も基本的に同感である。
私は東日本大震災のすぐあとで下記のようなコメントをここで書いたことを思い出した。
<イカロスの羽根 2011/03/18>
今度の原発事故を見るとギリシャ神話のイカロスを思う。
ダイダロスとイカロスの親子はミーノース王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉さ
れてしまう。彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、イカロス
は父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

 とにかくこのシステムはなかなか閉じることをしない危険さを含んでいる。核廃棄物は
活動を停止するまで数千年数万年。暴発しないように冷却しながら30年、その後数万年
の間地中深く保管を必要とするという。しかし今回、反応を続け放熱を止めない使用済み
燃料を制御するための保管プールの水が涸れ、高温爆発したことによる事故である。これ
からもまたこのような災害や人的ミス、機能停止などの正常な管理がされない状態に陥れ
ばいつでもこのような事故が起きることになる。
 水力発電や火力発電のように不慮の時に中止をしようとすれば、その後の危険は何もな
い状態にすべてのシステムが停止できるが、原発だけは何十年も危険を出し続けるという
閉じな いシステムであることを心すべきだ。

 人類は今、一昔前には自然の行為でなかった、神の領域であるかもしれない遺伝子操作
や臓器移植、人工授精、脳死問題などの社会的問題が生じるのと同じく、核融合や核分裂、
核兵器などの禁断の実に手を出し、自然のバランスを壊し人類の未来を終焉に向かわせよ
うとしているように思えて仕方がない。

<朝日新聞・論壇時評  2011.05.26>
非正規の思考という副題のついたコラムで、原発について二人の見解が面白かった。
関曠野氏は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているものとする。それは、
日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるので
ある、と言っている。

中沢新一氏は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」
のまま持ち込んだ原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系
を破壊する、と言っている。
福島原発の事故で、今までいろいろのコメントの投稿を見てきたが、経済的、効率的、有
害性、での有用性などの卑近な問題解決に始終しているようで、関氏や中沢氏のようにも
っと大きな観点からの有用論、不要論の論を見なかったのが残念だ。

私は以上の人達が示したような、原発または石油・石炭・自然再生エネルギーなどの経済
的な効率の比較やメリットの論議で、反対・賛成を論ずることでなくもっと根源的な観点
で、原発がはたして人類の未来にとって許されるものかどうかというところから考え直さ
なければならないと思う。

最後に、東電は想定外の津波による災害だと断じているが、冷却水の二次電源が設置され
ていなかったという欠陥以前に、私はあの強烈な地震の揺れによる縦横に走る繊細な配管
類が破壊された可能性があったのではないか。原発の基本的な部分は地震に耐えるように
設計されていても、それを支えるものが破壊されればシステムは動かなくなり、早晩今回
の事故は起こるであろう。東電はこのことを話題にされたくないであろう。なぜなら、地
震による破壊は絶体にないと安全宣言して原発を作ってきたからである。

また、いくら安全の精度を上げてシステムを守っても、人間の操作ミス、意図的な作為に
よる機能破壊はまったくゼロにはできない。それを考えると人類の未来に持ち越すような
災害をなくすためにも、機能停止が即座に満足に出来るようなシステムを確立してエネル
ギーを得るしかない。限りなく安全に考慮するとか、これからエネルギーの不足で経済活
動に支障がある等と言った議論でことを納めるのではなく、全廃にすべきだということが
私の反対の基本的な考えである。



107α編集部:2014/04/08(火) 07:49:13
本のある暮らし8 2012
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          本のある暮らし8 2012




「無限回廊 第六回」を読んで
2012/1/3

 今回は私的な問題で、評を書く時間を持つことが出来なかった。だから万理さんの懇切
丁寧な分析と評に相乗りして、重複を避けるために詳細は語らないでおこうと思う。
これはまさに犬と雷が嫌いだったジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の
小説の神髄ではないか。現と夢、現在と神話、偶然と必然、地球と宇宙の世界を、時系列
的記述ではなく、意識の流れのように縦横無尽に自由に飛び交う想念の物語ではないか。
またこの小説の古代中国、ヘレニズム、ヘブライズムの古今東西に渡る膨大な知識はまさ
に圧巻である。
ちなみに「フィネガンズ・ウェイク」に込められた言葉は神話的世界と現代を取り込んだ、
駄洒落や比喩やゴロ合わせなどの言葉遊びに満ち満ちている。また日本語への翻訳は柳瀬
尚紀というとてつもない訳者を得て、その物語の異界さを充分感じさせられるものである。
 「フィネガンズ・ウェイク」にあってはハンフリー、イエス・キリスト、トリストラム
卿、トリスタンの恋人イゾルデ、アダム、イヴ等々であり、「無限回廊」にあっては、神
農炎帝、季炎、赤松子、ヘルメース、アフロディーテ、アイネイアース、壽夢、七娘、季
礼、孫悟空、ザインなど、その飛び方は並ではない。
 また一見博覧強記でとりつく島もないほど理屈っぽく、頑固で妥協を知らない「異風者
(いひゅーもん)」の典型みたいな作者が、とてつもなく洒脱で「剽げ者(ひょうげもん)」
でユーモア、ウイット、諧謔、隠喩に富むセンスの持ち主であることを、親しく付き合わ
ない人達には想像もつかないであろう。とにかく「無限回廊」に登場するバード・ブレイ
ン、グレイ・ブレイン、エヴァー、カミノの物語はこれからも、それぞれの個性のもとで
回し書き物として面白いものになるとあらためて確信した次第である。

参考:Wikipediaより
 原題 Finnegans Wake はアイルランドの伝説の大工ティム・フィネガンの物語にちなむ。
ティムは屋根から転げ落ちて死んだが、その通夜に生き返ったという。Wake はゲール語
で「通夜」を意味すると同時に英語で「覚醒」を意味する。また英語の Wake は航跡、
すなわちフィネガンの人生の行程を意味する。ここでタイトルにアポストロフィがないこ
とに注目したい。『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンは一人のフィネガンではなく、
複数のフィネガン、つまりは人類全体を暗示する。この作品の主題は、だれか特定の人物
の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なの
である。
 はからずも、このテーマはまさに「無限回廊」と同じくするものである。
英語による小説ではあるが、各所に世界中のあらゆる言語(日本語を含む)が散りばめら
れ、「ジョイス語」と言われる独特の言語表現が見られる。
なお、物理学における基本粒子クォークは、この作品の中の鳥がquarkと3回鳴いたとい
うところから、3種類の性質を持つクォーク理論の提唱者であるマレー・ゲルマン自身に
よって命名された。




「窓辺にて―そして、それから」より  (同人α31号作品)
2012.4月

◆読書のこと
『月とかがり火』
 最近チェーザレ・パヴェーゼ著の「月とかがり火」という本を読んだ。この本が仕事場
のサイド・テーブルに積まれた十冊ほどのなかにいつ紛れ込んだのか記憶がなかった。た
ぶん唯一の女性同人・M女史が数ヶ月前に置いていった四・五冊の本の中に混じっていた
ものであろう。発行年月日は1992年10月20日、出版社は白水社とあった。
 私は時々銀座の教文館に出向き、西洋小説のシリーズものを出版している白水社のUブ
ックスを探訪することを楽しみにしていた。そして三十年前まで、日に40本吸っていた
煙草の脂(やに)で褐色に変色した我が家の「チボー家の人々」や「モンテーニュの随想録」
「アラン全集」「シェイクスピア全集」などのお気に入りの本も白水社のもので、質のい
い本を企画している出版社だという思い込みが私にはあった。
 そういう先入観で「月とかがり火」を読み始めた訳だが、案に違(たが)わず主人公の生
き様を描いた深い内容の本だった。ファシスト、パルチザン、ドイツ軍などといった、違
った主張や価値観が複雑に混在する第二次大戦下の閉ざされた北部イタリアの田舎を舞台
に過ごす主人公。その後その村を出てアメリカに渡り、転々と職を変え遂には裕福になっ
てジェノヴァに住む。しかし出自の判らない私生児として生まれ、ジェノヴァが故郷とい
える係累(けいるい)もなく喪失感を覚える彼は、少年から青年にいたるまで過ごしたその
村を故郷として位置付けようとしてそこを再び訪れた。昔の想い出とともに語られる自然
の美しさ、そこに住む人々の人生を静かに懐かしく優しい目で語る文章には、作者の奇(き)
を衒(てら)わない性格と故郷にたいする深い愛情が感じられて、いい物語を読んだという
感慨が残った。
 私は最後にこの「月とかがり火」という題名が何を象徴しているかと考えた時、「田舎
の故郷と文明の都会」「脱出と帰郷」などの内容から、月はまだ見ぬ憧(あこが)れの「外
の世界」、かがりびは祭りなどで灯される村の生活を象徴する「内の世界」を表している
のではないかと解釈した。
 作者は、1950年6月に長篇「美しい夏」(「丘の上の悪魔」「孤独な女たち」併録)によ
ってストレーガ賞を受賞。続く新作「月と篝火(かがりび)」も注目を集めていた1950年8
月、トリノ駅前のホテルの一室で服毒自殺する。享年42歳であった。
作者の詩のなかに「ランゲは不滅だ」とある、ランゲの作曲「花の歌」は、次のURLで
そのピアノ演奏が聴ける。
http://www.youtube.com/watch?v=k4enxSzqJvg&amp;feature=fvwre

『日本語が亡びるとき』
 山荘に越してきて荷物の整理やインターネットの環境設定など、住み付くための仕事で
疲れた夜、早寝のベッドの中で読むページ数は少ない。ほっとしていざ本を読み始めると、
三ページもしないうちに眠りに落ち込んでしまう。しかし一眠りした後の夜中、目が冴(さ)
えたときにも読むから合計すると結構捗(はか)が行くものである。既にナイトテーブルの
上にはたまに来るとき再度順繰りに読み返していた小林秀雄全集やアラン全集のうちの一
冊が載っているのだが、今回購入して読まないまま友人に貸していた水村美苗(みずむら
みなえ)著の「日本語が亡びるとき−英語の世紀のなかで」をやっと思い立って読んでい
る。
 水村美苗(みずむらみなえ)の紹介文には「エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を戦後日本
を舞台に書き換えた『本格小説』で2003年読売文学賞を受賞。2009年には『日本語が亡
びるとき』で小林秀雄賞を受賞している。また夏目漱石の未完の小説「明暗」の続きを書
いて「續明暗」で1990年芸術選奨新人賞を受賞する」とあり、いろいろの点に目をつけ
て問題提起するという、単なる物語作家というよりも意欲的な作家のようである。
 この本は「現地語」「母語」「国語」「普遍語」「話言葉」「読み言葉」等、独自の術語を
用いて国語について述べている。
水村によれば、話し言葉は発せられたとたんに、その場の空中であとかたもなく消えてし
まう。書き言葉は残る。何度も何度も繰り返し読むことができると言っている。
 確かにローマ時代カエサルのガリア戦記にあるガリー人(ケルト人)は知識レベルは高
かったというが、知識階級である僧侶たちが学問を独占していた。それは記録に残すこと
ではなく、暗記することで伝えられ、文字での記録を残すことを許さなかったという。そ
の一握りの特権階級の知識人達は文学、法律、天文学、医学を学び終えるまで二十年以上
も掛けて暗記したと言われている。だから彼等ガリー人はほとんどの文化を後世に残すこ
とはできなかった。
 明治維新のころ文部大臣の森有礼(もりありのり)は英語の国語化を提唱し、前島密(ま
えしまひそか)が漢字廃止論を、梅棹忠夫は日本語ローマ字化論を唱えている。
 さらに著者は言う。質と量において、日本文学は世界の最も主要な文学であるといって
いる。その国の長い歴史の中で育てられた文化はその国の言葉でしか表現できないものが
ある。だから表意文字「漢字」と表音文字「かな、カタカナ」交じりの複雑で表現豊かな
文字で書かれた日本文学は、普遍語(英語など)で書くことは不可能であると言っている。
 小林秀雄全集は昭和43年度版にも関わらず、旧漢字、旧仮名遣いを使っている。「文
体→文體」「文学→文學」「解釈→解釋」「想い→想ひ」など、作者が戦前書いた原稿のま
ま復刻してある。もし国語が漢字の廃止や仮名文字またはローマ字化されたら、日本文学
の古典は読めなくなるだろう。
 私は懐古趣味(かいこしゆみ)ではないが、群青色(ぐんじよういろ)や亜麻色(あまいろ)、
浅黄色(あさぎいろ)、鈍色(にびいろ)など日本古来の色彩の名称や旧漢字の表記に興味が
あり、忘れ去られた言葉などに郷愁(きようしゆう)を覚える方だ。話し言葉でしゃべるよ
うに書かれた文、漢字変換のミスや間違った記述などの修正もされずに捨て置かれる文な
どは、何の感銘も受けないし、肝心(かんじん)の書き手もその間違いを恥じて修正すると
いう処理をしないところをみると、二度と自分の文を読み返さないのだろう。要するにそ
の程度の安易な記述であり、読者もまた人の書くものに対しては真剣に読むことをしない
のだろう。
そう、話し言葉と同じように発せられたとたんに、その場の空中であとかたもなく消えて
しまう程度の内容なのだから、目くじらを立てて憤慨(ふんがい)するのも余計なことで、
カラスの勝手でしょうと開き直られるのが落ちであろう。
 水村が言っているように、普遍語(英語等)を全国民が血眼になって学習する必要はな
い。単に普遍語で日常のことを会話できるというだけで高邁(こうまい)な思想を語れる人
がどれだけいるのか。母国語できちんと思想や歴史や文化を習得していなくて、何を共通
語で語れるというのか。
 この本を読んで私は、「斜光」第17号に投稿した「人は死して何を残すのか」という、
我ながら恐ろし気な命題を掲げた一文と相通じるものを今更ながら感じている次第である。




色について」
2012/5/26

 神野佐嘉江氏の万理さんへという投稿をみて、色の表現がこんなにもたくさんあるのか
と驚いた。ずっと以前、神野氏が第二版の『日本国語大辞典』へ買い換えるときに、それ
まで使用していた第一版を無償で譲ってくれたことがあった。それがいま山荘の書棚に鎮
座している。私は今朝ひんやりした空気のテラスでコーヒーを飲みながら、その第二巻の
「いろ」の項目を調べて見た。あるはあるは、色という字の頭に付く表現がおそらく250
〜300もあるのである。このことを見ても日本語の豊かさは行き着く所のない奥深さだ。

ちなみに神野氏の挙げた言葉のなかで目に付いたものを調べて見ると、
色大将:遊興、情事などに最も巧みな者
色奉公:妾や遊女として勤めること
色風:なまめかしい風。色っぽい風
それだけこの世が生々しい生の世界であることを感じる。色即是空の悟りはどこへやらで
ある。

参考:『日本国語大辞典』 小学館
   第一版 20巻21冊、1972年出版
   第二版 14巻15冊、2000年出版




「表現の技術」
2012/7/1

 朝日新聞2012.07.01に高橋卓馬著の「表現の技術」−副題:スキルを身につけるには−
という本の紹介があった。そのなかで「起承転結を壊す」「物語を説明しない」という面
白いテーマが説明してあった。
例えば緊張の表現として、どちらにより説得力があるか。
 A:「くそう、緊張してきた」と言う。
 B:無言で煙草に火をつける。その灰皿はすでに火のついた煙草がある。
 それはBということが分かるが、なぜか、と問われると、答えに窮してしまう。これは
鍛錬することで身につくことだと言っている。
 ではどうやって鍛錬すればいいのか。それは「起承転結を壊す」「物語を説明しない」
というナナメからのアプローチ法や外の面白い物語の構造を応用することだという。
◆「起承転結を壊す」
 物語を作るに於いて「起承転結」という方法は確かに文を書く人にとっては一つの指針
 になることではあるが、初心者からだんだん修練を積んで自分なりの言葉の表現とか物
 語性とかの個性を見つけると、「起承転結」といった固定した法則は必要なくなるであ
 ろう。またそうでないとその人独特の匂いというか、味わいというか、それを表現する
 作品に行き着かないのではないか。
◆「物語を説明しない」
 TVのミステリー・ドラマでうんざりするのは、犯人捜しの物語の終わりの15分間、犯
 人がどこかの断崖絶壁の寒い風の吹くなかで、何人もの刑事や被害者の関係者を取り巻
 きにして犯罪の経緯を延々と説明する場面である。これなどは物語を作る側の策のなさ
 を示しているに過ぎない。見る側はそのような状況はとっくの昔承知しているのだ。そ
 れに、なかには二重三重の理屈に合わないどんでん返しを得意とする作家がいるようで
 ある。「物語を説明しない」はまた、作者の解説や裏話の暴露といった、まったく「花
 伝書」も真っ青な代物になることへの警句だと言えよう。
面白い記事があった。
世界の雑記帳:「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言5月16日、
 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、
 英紙ガーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない。天国とは闇を恐れる
 人のおとぎ話にすぎない」とし、死後の世界があるとの考えを否定した。
 (毎日新聞 2011.05.18)

人間の生が精神と肉体の両方で成り立っている以上、どちらが欠けても人間として自立し
て生きてはいけない。死は疑いのない肉体の死滅である以上精神や魂だけが生き続けるこ
とはない。だから天国や来世があるということは物理的に無理な考えだ。
ただ子孫に引き継がれた遺伝子の連綿とした情報があるかぎり、一度生を受けた人の痕跡
は残り、それを来世と言えないこともない。
また、アメリカの女優シャーリー・マクレーンは南米の霊的な経験をもとに「アウト・オ
ン・ア・リム」という本を書いた。その中に「たとえ肉体は死んでも、原子は死滅せずこ
の世界に残る。それがふたたび植物や動物に取り込まれて生命を造ることになる」という
輪廻転生の意味づけをしている。なるほどそういう理屈もあるのかと思った。




「続生活の探求」を読む
2012/7/27

 数年前島木健作の「生活の探求」「続生活の探求」という絶版になった本を、日本の古
書データベースから探し出して、富山だったか−兎に角思いもよらない地方の書店にある
昭和16年発行、壱円八拾壱銭、弐円弐拾銭の二冊を求めた。太平洋戦争に突入した年に出
版されたこの本は、時代を反映する倹約の証のような凹凸のある荒いザラ紙の上に薄いイ
ンクで印刷されたもので、目の悪い私に読破することに数年苦労を強いたものだ。いま神
田の古本屋にも滅多になく、遠い地方の本屋にひっそりと残っていたと言うことは、小林
秀雄も実に好意的な論評を書いているのだが、地方ではなおさらのことこのようないい本
を読む人も少なかったのではないかと思われた。
 杉野駿介という大学生が都会の生活に疑問を抱き、学校をやめて故郷の農家を継ぎ、い
ろいろの苦労をしながら自分の生きる道を探すという物語である。
「すべての政治的組織運動には、権謀術策を伴うよ。嘘をつくこと、偽ること、欺くこと、
裏切ること、陥れること、憎み合うこと、非人情を敢えてすること」と友人の志村に言わ
せている。また「彼の言っている言葉に、彼自身の言葉は一句だってなかった。彼のしゃ
べった言葉は、みな彼の周囲の誰彼から聞かされたものばかりだ」と、駿介は二年ぶり上
京して本郷の大学で一緒だった友人の、生まれのいい秀才顔の後輩である三井の議論を聞
いて、そう思った。
 世の中の不条理や不満を言葉多く、声高に、政治的に託つのではなく、真面目にそして
真摯に身の回りの貧しい農民の生活のために努力する杉野駿介の生き方もまたあっていい
と思った。またもっとこの本は読まれてもいいとも思った。




「ブラックベリー・ワイン」
2012/8/31

 最近、ジョアン・ハリス著の「ブラックベリー・ワイン」を読んだ。
ベストセラーで映画にもなった「ショコラ」と同じフランスの片田舎が舞台。少年のころ
の追憶と、大人になった現在の物語を交互に語るという方法で書かれた、ちょっとミステ
リー調の物語である。
 この本を読んで不思議な巡り合わせを私は感じた。今回α32号へ私が投稿した「歪ん
だ風景−鐵橋」を書いた山荘が通称ブラックベリー・コテージであり、また「結界を張る」
についても二つの物語の要素を同じくしているからだ。たまたま読んでいる内にそれらの
言葉の符丁に驚いたものだ。
 この物語の語りは確かにうまく最後まで読ませるが、表現される警句や比喩やアフォリ
ズムは村上春樹が時々放つそれに似て、私の感覚に刺激を与える程でもなく通俗的であま
り好きではない。またロンドンを脱出して田舎暮らしを試みたのも、ピーター・メイル著
の「南仏プロヴァンスの12か月」も多少意識しているようだ。
 ところで、我が通称ブラックベリー・コッテージにはブラックベリーが有るのかと問わ
れそうだが、有ります。この山荘を建てた時からその山荘の名に恥じないようにといくつ
もの苗を植えたのだが、五年間一粒も実らなかった。しかし今年は十粒くらいが実り、今
青から赤に染まり始めた。もうしばらくすると漆黒のつややかなブラックベリーになり、
朝食に添えられるであろう。




「ブルックリン」
2012/9/1

コルム・トビーン著の「ブルックリン」を読んだ。
 アイルランドの若い娘が、故郷では職がえられないためアメリカへ渡る。ブルックリン
に住んで、あるデパートの売り子として働きながら、夜は簿記の学校に通う。

訳者あとがききに「家族間に結ばれる暗黙の義務感、運命を受け入れる静かな諦念。ジェ
ームズ・ジョイス、ジョン・マクバガン、ウイリアム・トレヴァーといった書き手たちが
切り開いたアイルランド人の内面世界を、新たに掘り下げてみせる」とある。
ここで ウイリアム・トレヴァーが出てきたのでなるほどと思った。以前彼の著書「アイ
ルランド・ストーリーズ」を読んだときも運命にあらがえない女性の静かな姿を鮮やかに
描いていたからだ。
 「ブルックリン」の主人公アイリーシュが姉の突然の死にあい、婚約者の元を離れてア
イルランドに帰郷した。そこで会った顔見知りの青年との二週間足らずの付き合いに、ブ
ルックリンに残してきた婚約者の影が薄れ、いま現に目の前にいる青年に心が移る予感を
持った。若さ故の迷いもあることではあると、読者である私もそう納得してしまいそうで
あった。だとすれば単なる若い主人公の生き様を画いただけの単純な小説だと思った。し
かし最後に主人公はブルックリンに戻る決心をして故郷を旅立つ。そこには感情のままに
故郷に残って青年と一緒になるということが、婚約者を裏切ることへの罪の意識のなかで、
情と理の狭間で揺れ動く心の葛藤を画いたもので、最後の決断は彼女の生きる上でのしっ
かりとした彼女自身規範を示したものである。
 この結末はその苦い味を表現した秀作だと私は思った。自分の心に正直であれという自
由奔放な生き方をした終わりであれば、通俗的な物足りない物語になっただろう。そして
これからも主人公は感情のままに後ろめたい行動に迷わされることなく、理を通して前を
向いて生きていくことだろうと私は感じた。




「語り」と「ことば」
2012/9/25

「語り」と「ことば」・ハイデガー「存在と時間」
 「語り」と「ことば」の両者の関係は、「語り」が外に向かって発言されたときとば」
になる。このとき「語り」は共同存在として属しているところの世界・内・物わかりを「意
義をあたえながら」分かつことである。聴く人は承諾したり、勧告し拒絶したり、警告し
たりしながら、言葉を受け取り、話合う。
 こうして語りは世界・内・存在の開示性を世界・内・存在を構成する。伝達は共として
の了解力を「分かつ」ことになる。しかし語りは、ことばの表現だけに限定い。音の抑揚、
転調、話のテンポ、「話っぷり」のあらわれである。したがって語現は、詩的(演技的)
な要素も要求され、全体的なパフォーマンスとして存在するこれらが了解に達するには、
それを語ることと並んで、「聞くこと」がある。語と聞くことは、了解にとっては一つの
セットである。語ることと同じく、聞くことても構成される。またその中には「黙ること」
も同じ意味を持っている。逆に、長ゃべることは了解の保証にはならない。「沈黙は金な
り」という言葉もあります。
とは、沈黙の方が意味が大きいことを意味する。
 しかしここでいう語りは単なる「おしゃべり」とはちがう。おしゃべりは、
「根無という性格を持っている。おしゃべりは相手が開示したことを了解することとは限
らそれを覆ってしまう。受け売り、自慢、吹きまくりといったおしゃべりは、根無しへ間
断なく流れてゆく。(荒木 清著「一冊で哲学の名著を読む」のなかの解説文)




北大路魯山人の「昆布とろ」
2012/11/3

 久しぶりに青空文庫を開いてみた。北大路魯山人の「昆布とろ」というエッセイが電子
図書に復刻されていた。夏の朝、食事の進まないようなとき、あるいはなにを食っても口
が不味いとき、日ごろの三杯飯は、知らず知らず五杯飯になること請合いである、と書い
てある。今時ご飯を三倍食べる人は珍しいだろうが、どうも美味そうである。
また東京人の舌は杜撰で荒っぽい、例えば、くどい味、油っ濃い味、粗野な味、手っ取り
早い味、落着かないせかせかした味、甘ったるい味というところに嗜好が動く、と続く。
 そういえば私が上京した半世紀前の東京の掛け蕎麦やうどんの汁は真っ黒くて、しょっ
ぱいだけの、ギョッとするような色と味だったことを思い出した。いまではどうも関西系
の味が流行っているらしく、すこし清まし風になり昔の江戸の味も変化しているらしい。
高田郁著の「澪つくし料理帖」にも、肉体労働者の多い江戸は濃い味を好むとあった。
ちなみに、澪とは船の通行に適する水路
澪(みお・水緒)とは舟の通った後に出来る軌跡
     澪つくし(澪標)とは航路を示す標識
 昔、息子の寝床で読んでやったユリ・シュルヴィッツの絵本「よあけ」のなかに出てく
る、まだ日も上がらない薄暗い山間の湖、澪を引くボートの印象的絵を思い出す。最近で
は「きみに読む物語」という映画で、これもまた朝まだきか夕暮れか失念したが、薄暗い
湖をレガッタで澪を引いて漕いでいるの最後のシーンが印象的だった。
 それにしても昆布とろとは美味そうだ。晩秋の鄙びた里の仕舞た屋で魯山人の料理を一
度食してみたいと思った。




「澪標ふたたび」
2012/11/8

??????????大阪市章

??????????


 テレビを見ていたら見覚えのあるマークが出てきた。たしかにあれは澪標(みおつくし)
だと直感した。先日北大路魯山人の昆布とろの感想を書いたとき、高田郁著の「澪つくし
料理帖」まで思いを広げ、澪標の意味を調べたがこの本にはいろいろの意味を含められた
のが判るような気がした。
 澪標の描かれた旗は大阪市の市章であった。すなわち「大阪の繁栄は昔から水運と出船
入船に負うところが多く、人々に親しまれ、 港にもゆかりの深いみおつくしが、明治27
年4月、大阪市の市章となった」と言うわけだ。
 「澪つくし料理帖」の二重の意味とは、 主人公の澪(みお)は大阪生まれであるとい
うことと、 澪標によって舟が安全に進むことにように澪の料理の修行を記述しているの
ではないかと私は思った。それにしても、日頃は何気なくやり過ごすこともこのように一
つのことが重ねて目に写るのは、身の回りの騒音や義理の付き合いや無駄な情報が少なく
なった環境に心が浄化されたゆえなのか。そうだといいが。



108α編集部:2014/04/09(水) 15:41:26
電子書籍考
.
          ?????????? 電子書籍考??2011-2012



     同人αでは、創刊号出版に続き、同人が集う場所として掲示板を立ち上げると、
     すぐに作品の電子化にとりかかった。その推進役古賀氏は7年後、さらに氏が
     「ものを書く」ことのきっかけともなった同窓記念誌「青春のあの日」(県立
     佐賀高等学校11期)の電子化に着手する。
     当時、電子化における諸問題について検討していた様子や対応に苦心していた
     様子が伝わってくる。





窓辺にて−「息子の誕生祝い」より   2011/4/10

今日は朝、息子から電話があった。(中略)
電車の中で彼はiPadで電子書籍から専門の原書を購入してを読んでいた。どいう本だと聞
いたらコンピュ−タプログラムのようなものだと言って、詳しくはおしえてくれなかった。
時代はどんどん変わっていく。




電子書籍考察 2011/7/1

インターネットでダウンロードして購入する電子新聞や電子書籍と、今までのような紙の
上に印刷された新聞や書籍などの出版物について、どのようなメリットとデメリットがあ
るかを考えてみた。ちなみに電子書籍とはインターネットにつながったパソコンや専用の
小型端末機を通してデ−タをダウンロードし、購入する本のことを言う。

●2011年2月4日朝日新聞「on reading 本を開けば」というコラムにノンフィクション作
 家の佐野真一氏が、本の哲学こそ進化させるときという一文を投稿している。
 「古典的な活字中毒の私からいわせれば、電子書籍はとても付き合いきれる代物ではな
 い。本が電子化されれば、そこから音楽も映像もでるようになるという。でも、それっ
 て本当に本の進歩なの。活字と対話する孤独な作業の中からしか、自分だけの音楽も映
 像も生まれてこない。これこそが想像力を鍛錬する醍醐味ではないか。」と言っている。


●2011年5月17日朝日新聞「異議あり」というコラムに載った、編集者の山田 順氏の「電
 子書籍が出版文化を滅ぼす」という副題の文で、その内容は電子化のために社会に流通
 する情報の質が大きく低下する危惧があると警告している。
 「出版を含むマスメディアは、信頼性が高く価値ある情報を選別し、世の中に流通させ
 る役割を担っていました。電子図書では、出版社を通さず素人が自分で本を出せる。
 一方、電子書籍や電子新聞の価格が下がることで、出版社や新聞社のビジネスモデルは
 成立しなくなり、作家や編集者、記者の多くが失業する。質の高い作品や情報をつくり、
 流通させるという社会の重要な機能が失われ、残るのは不特定多数の人々による、信頼
 性も質も保証されない大量発信だけ」と言っている。

●2011年6月10日 朝日新聞 「ひと」
 著作家の富田倫生氏が世話人になっている電子図書館「青空文庫」の登録数が一万冊に
 なったという記事があった。著者の没後50年を経て日本国内において著作権が消滅した
 作品、外国語作品の翻訳や著者自身により無償閲覧の認められた現代の作品などが納め
 られていて、青空に置かれた本はインターネットでダウンロードして、だれでも自由に
 読めるという便利なシステムだ。

 さて、電子書籍についての三人の記事を示した訳だが、佐野氏は作家として昔流の本の
 イメージを大切にしているし、山田氏は編集者としての書籍運営や管理からの意見を、
 富田氏は読者の利便性を考えたシステムを作り上げたもので、それぞれの立場や論点の
 違いでその評価は分かれるようである。

 では実際に電子書籍について考えられる問題点を次に挙げると
◆電子書籍のメリット
 1.ネットに接続する環境にあれば、いつでもどこででも買える。
 2.大量の電子書籍を端末で簡単に持ち運ぶことができる。
 3.棚が必要なくなる
 4.検索しやすい。
 5.例文として使いやすい(コピペ)。
 6.買った瞬間に読める。
 7.絶版がなくなる(再版などの手間がいらない)。
 8.誰でも情報の発信者になれる。個人の作品の発表の機会が増える。個人で出版・販
  売ができる。
 9.目が見えない人もほとんどタイムラグなく、また他の人の手を煩わせることなく本
  の内容を知る事が出来る。文字の拡大が出来るので弱視の人も読める。
10.紙の使用が少なくなる。その文森林伐採が減る。
11.紙の製造から発するCO2が減る。環境にやさしい。
12.配送コスト、在庫管理の手間が減少し安価になる。(店舗を構える必要がない)
13.言語の切り替えや読み上げ、動画の埋め込みなど多様な表現が可能になる。

◆電子書籍のデメリット
 1.書き込みや気に入った箇所に印(マーク)が出来ない。
 2.作品に偏りがある。圧倒的に数が少ない。
 3.記憶されている機械に故障がおきた場合、停電、そのたの障害の時は読めない。
 4.電子書籍の出版社によるデバイスやアプリケーションごとに操作性が異なる。
 5.記録媒体を消去する危険(目の前に常にもの(本)がないため)。
 6.そもそも電子書籍端末がないと本が読めない。
 7.複数の本を同時に開くことができない。
 8.海賊版が作りやすい。
 9. データ管理が面倒。
10.現状でも文庫本などは十分安い。
11.思わぬ発見がない。

さて、要点を列記してみると、本と電子図書との善し悪しを簡単に判断することはできな
いという考えに至った。
手にとって読む本のよさは、内容もさることながらそれに付随する装丁、文字の形、編集
様式などが作り出す雰囲気も重要な要素であり、喉が渇いたからお茶を飲むといった単純
な動機の他に、時間や景色や人と人との会話なども加味された行為として茶道などができ
あがったように、総合的な感性で楽しみたいという人向きであろう。

かたや電子書籍はどのような辺鄙な場所からでも、日本には置いてない洋書なども即座に
簡単に手に入り、内容だけを早く把握したり、作品の中の文字やシラブルの検索などには
非常に便利である。要するに読者がそのときの気分や要求によってうまく使い分けるのが
良いようである。電子図書化が爆発的に進むと、今までの出版社や編集者や書店が無くな
っては困るが、全部が全部そうなるとは思わない。しかし今までのような紙による書籍は
手間暇の量と販売量の減少で高価なものになるかも知れず、好事家だけを対象としたもの
になるかも知れない。ちなみに遅読家で机の上に何冊もつんどくのが好きな私は、どちら
かというと本の手触りを尊ぶ方であり、紙の本がまったく無くなってしまうのは困るので
ある。




続・電子書籍考察 2011/7/2

一つ言い忘れたことがある。これは科学的な論証ではないが、すべからくテレビや映画や
演劇などのヴィジュアルなものは、いろいろの付加的なものを投入させることができる総
合的な情報手段である。しかし一方その中に含む情報、例えば俳優だったりBGMに選ば
れた音楽だったり、映像の内容よりも制作者・演出家の好みや意図に影響されることが大
いにある。なかにはヤラセや偏った情報のみを集めて制作された情報すら見かけるのであ
る。しかし視聴者は努力をせずに受け身的にその内容に浸ることができるし、多くがその
ような見方で満足している。
一方、本のように単純な活字だけで知らされる情報のように、理解するためにはかなりの
思考という努力が必要になる。まさにアリストテレスがアレキサンダー大王の家庭教師と
して赴任したとき「学問に王道なし」と言ったといわれるように、努力や遠回りや疑問な
しに安易に知恵は得ることはできないということだ。
そういう意味での本という情報はやはり余計な情報や便利さや手軽さなどを付加していな
い、今のままの本のように出来るだけ単純そのままの方がいいと思っている。もちろん、
ハウツーものや娯楽のためのものや読み流しでいい本もあるだろう。それはそれで別の話
である。
印刷技術のない時代は、作品は高価で稀少であったため、個人が持ち主から借りて写して
いたもので、正本(原本)に対して写本といった。人はその行為の中で読みかつ書き写し、
その内容を理解しようとしたであろう。だから写本は時には表現を変えたり写し間違えた
りもしたものもあった。源氏物語では藤原定家自筆本、明融本、大島本、三条西家本など
の数多くの写本がある。
以上私の結論としては、読書はいろいろの楽しみ方があり人様々ではあるが、概してビジ
ュアル系の情報に対しての受け手は、受動的にならざるを得ないことを忘れてはならない。
そのなかで目的によって紙の本か電子図書かを選ぶことで、どれでなくてはいけない等と
言った断定は控えようと思う。




ルビについて 2011/9/14

まだ一日の活動を開始する前、朝刊が来るまでのちょっとした退屈な時間、青空文庫を開
いて泉鏡太郎の「廓そだち」と芥川龍之介の「葱」を拾い読みした。そこで気づいたこと
だが、すこぶる読みにくい。本のなかのルビは漢字の上部に小さい号数の文字で遠慮深く
振ってあり、漢字の読みが判らないときだけ意識して目に写るが、それ以外は内容を追う
頭脳の邪魔を一向にしない。しかしこの青空文庫の文章ではルビが漢字の後に同じ大きさ
の文字で括弧書きになっていて、すこぶる邪魔だ。これは自分の文章、例えば「同人α」
第13号の「シリーズ・歪んだ風景−異星人」を電子書籍「作品集」に載せるためにHTM
Lに直すと、漢字の上のルビが括弧付きのルビに変換されるのである。
一太郎で書いた文章をワードの文章に変換するときも同じ現象が起きるのだが、読み手の
リズムや流れの感覚を邪魔しない処理の仕方はないものか、なんとかならないものかとい
う思いが強く残った。




「MM君への手紙」より 2011/11/27

(前略)
 「同人α」の日々の活動や作品の電子図書は冊子の裏表紙にあるアドレスの「ニューロ
ン・カフェ」というホームページで行っていますので、どうぞご覧になってください。
リンク先には「同人α」の規約や編集会議の議事録を、著者のポートレートとコメントに
は、その時々の作品の著者の紹介を、作品集には今までの作品を電子図書として掲載、そ
こでは自分たちの作品の感想や批評も行っています。また最近は先日電話でお願いしまし
たように、皆さんの若かりし頃を偲んで卒業30周年記念誌も復刻して電子図書に載せ始
めました。




おしらせ(BBS万華鏡掲載)より ??2011/12/1

 このたび佐高11期生卒業30周年記念誌をもう一度読みたいという希望があり、
私達有志はそれを復刻して「青春、そしてそれから」という電子図書を作りました。
書庫の片隅に埋もれていて目に触れなかったり、なくしてしまった人にとっては有意義で
はないでしょうか。この懐かしい時代とその回想録は記録にとどめたいと いう思いもあ
りました。そこでその主旨を理解して、掲載を承諾をくださった方達から順次掲載するつ
もりです。

 まずはその「青春、そしてそれから」のサイトを覗いてみてください。
この万華鏡の画面の上部のリンクの「同人α【ニューロン・カフェ】」はこちらをクリッ
クしたら、ニューロン・カフェの画面になります。下の方のリンク集のなかに赤い文字で
書いてある「青春、そしてそれから」をクリックしてください。もしお気づきの点があり
ましたらどうぞ遠慮なく下記のメールまでお寄せください。




「A君への手紙」より 2011/12/1

(前略)
実はこの電子図書を企画に及んで、著作権の問題など、プライバシーなどの問題が生じな
いかを考えました。また30周年記念号を発行した管理者、責任者の見解について佐賀の同
期会事務局長の田代君に相談しました。
(中略)
私どもの結論としては、
1.その当時発行に当たった幹事の人達も解散していて、「青春のあの日」という 記念誌
 を引き続き管理しているという組織はない。
2.同じような冊子を増版すると言うことでなくて、全くの媒体の違った電子図書 である。
 しかも営利的販売行為もない。
3.彼等三人だけの判断であって同窓会全体の総意ではない。
と考えました。しかしこちらの違論を通すことよりも、何らかの形でみなさんのためにな
るという本意を考えれば、ソフトランディングをして、彼等の意を汲んで、題名の「青春
のあの日」を「青春、そしてそれから」とし、掲載は本人の承諾を得た人だけとしました。
以上のような経緯ですが、いろいろ些細なことを言い出す人もいるかも知れません。しか
し皆さんのためになることですから、めげずに進めたいと思います。またもっと発展的に
考えれば、「斜光」も電子図書化してもよいと思っています。そのうち「斜光」編集部へ
提案するつもりです。   ではまた




 [青春、そしてそれから]のこと(BBS万華鏡掲載)より  2012/3/7

One of 11期生さんへ
投稿内容について、一体何を主張されているのかまたったく判りかねます。

「いずれにしろ私にはどうでもいいことですが、ただ作成者に誤解のないようにしてもら
いたいのは、こうした私のコメントは決して作成しているグループへ批判しているわけで
はありません。「ご苦労様」と言わなかった弁解というか、率直な感想や想いなのです」

と書かれてはいますが、私は全体の内容からはこの企画や運営方法に対して、しっかりと
嫌みや批判を読み取りました。そこで今回の企画についての私の考えを補足したいと思い
ます。
◆まず最初にこの企画を思い立った理由は三つ有ります。
 1.この記念誌を読んだ同期でない人達、または全く時代も場所も違う環境で育った読者
 が、私達11期の個性あるパワーに感動したこと。
 2.この記念誌によってその後の「斜光」「同人α」「同人言の輪」などの冊子が生ま
 れた原点であったこと。
 3.この記念誌を、誰でも読める未来に開かれた記録として残したいと考えたこと。
◆たった一人同期でない方のこの記念誌に感動されたことは大変うれしいことです。
 また同期生あるいは記念誌に載せた人達の投稿がほとんどないからといって、読んでお
 られない、感動されていないとは一概に言えません。この「万華鏡」に投稿される人だ
 けがすべての意見を代表しているとは思いません。むしろ黙って読んでおられる人の方
 が圧倒的に多いと思います。
◆この記念誌を当時同期の全員が購入した訳でもありません。しかも私のように無くした
 人もいるでしょう。そのためにも電子化した方がよいと思いました。
◆かつて佐高11期のホームページである「万華鏡」にリンクするのが筋だと投稿された人
 もいましたが、この「万華鏡」が佐高11期のホームページであるということを完全にオ
 ーソライズされているとは考えていません。そしてこの企画はまだまだ未完成でこれか
 らの追加、変更、訂正などの作業がありますから、私達のホームページ上で扱っている
 のです。
◆グループ批判をしているのではないといわれていますが、どうしてここでグループの話
 題を出すのですか。私はこの記念誌によって我が11期のすばらしさをもう一度知って貰
 いたいために企画したまでで、些細なことで本当に意義ある企画を途中で放棄するわけ
 にはいきません。現に記念誌の同窓生寄稿の内、故人分を含めると電子化に同意された
 方の割合はすでに89%近くに及んでいます。
◆最後に人に対してある意見を述べるときに、どうして「One of 11期生」などという、
 ことさら分かりにくい名前を使って、多数派を装おうとするのですか。このような場合、
 本名か、せめてこの掲示板で良く知られたハンドルネームを用いるのが「筋」だと思い
 ます。




 「恩師への手紙」より 2012/4/12

(前略)
今回は佐高卒業30周年記念大会(平成2年)において発行した記念誌「青春のあの日」
を、先輩、後輩、同期生、子供さん、お孫さん達に読んで貰いたいと思い、電子図書とし
て再現・記録することを企画した次第です。
電子図書においては著作権やプライバシーなどの権利を主張される人もいますので、原則
として掲載の了解を得た人、および亡くなった人のみと限定して掲載しました。
 幸いほとんどの方々から了承して頂き、すでに掲載しており、下記のホームページから
「青春、そしてそれから」を見ることができます。(その当時の幹事の一部から「青春の
あの日」という語句を使ってくれるなというクレームがあり「青春、そしてそれから」と
表題を変えています)



109α編集部:2014/04/09(水) 17:03:44
同人α編集後記集
.
??????????????????????同人α編集後記集
????????????????????????2010年5月(23号)〜2013(38号)






23号『蝶の夢』  2010/5

 今年の始めから言葉の持つ重要さに関しての問題で始終し、その認識の違いでもどかし
い思いをさせられたことである。言葉と行動は一致しなければ何人も人の信頼を勝ち得る
事はできないと私は思うのだが、そのように考えない人も結構いるらしい。
 ちょうどこの事に関して、ずっと昔「斜光」という同人誌に初めて書いたフィクション
で「三つの願い」というものを投稿したことがある。たまたま今回万理久利さんが気に入
ってくれて復刻してくれたので、言葉や約束の重さや深さについてSF風の寓話として考
えるにはちょうどいいと思い、投稿してみた次第である。
 それから同人αの同志の多数が退会していったが、今回の百ページを越える作品集にな
ったことは、残った私達の創作意欲は全く衰えることのないことを証明したわけである。
これからは決して人数の多さだけにこだわらず、少数精鋭をめざして着実に活動したいと
思う。そのうち新しい有能な新人の同志も徐々に参加されるであろうことを期待する。





24号 『夢碍无(むげん)』   2010/8

 この暑い夏、独居隻語の癖(へき)あり。
鳥は飛べるものと当然思っていたが、ふと飛べない鳥のことが気に掛かり調べてみた。す
ると飛べる、飛べないという区分けが正しくない事がわかった。本当は飛ぶことが有利に
生きれることでそれを選んだ鳥と、飛ぶことを放棄してもより有利な条件で生きられるも
のとに別れるのだ。
 飛ばない鳥の方が珍しいのでそれ等を列記すると、アフリカのダチョウ、オーストラリ
アのエミュー、ニュージーランドのモア、南極のペンギン等々。総じて天敵の脅威が少な
い地域で生きる事ができたからであろう。飛びたいかどうかは、長い年月を経て選ばれた
本人の意思次第。下世話な世界で揺蕩(たゆとう)う生き方もまたいいだろう。しかしここ
へ集う者は高く遠く宇宙の果てまで真理を求めて飛翔することを好むようである。ここに
そのことを見事にうたいあげた詩がある。
サムエル・ウルマンの詩である。

    青 春

  青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。
  薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
  たくましい意志、豊かな想像力、炎える情熱をさす。
  青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
  ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
  年を重ねただだけで人は老いない。
  理想を失うとき初めて老いる。

  歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
  苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

  六十歳であろうと十六歳であろうと人の胸には、
  驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
  人生への興味の歓喜がある。
  君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
  人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
  霊感を受ける限り君は若い。

  霊感が絶え、精神が皮肉の勇気におおわれ、
  悲嘆の氷にとざされるとき、
  二十歳であろうと人は老いる。
  頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
  八十歳であろうと人は青春にして已む。




25号 『颯』   2010/11

 「文芸評論家の伊藤氏貴によると「商業誌」と「同人誌」の作風の違いは、 「商業誌」
は徹頭徹尾リアリズムで通すという作品は減っていて、マジックリアリズムだったり、漫
画キャラ化だったりと、日常的には理解しがたい要素がふんだんに入り込んでいる。
「同人誌」は未だに圧倒的にリアリズムであり、舞台は日常である。かつて「身辺雑記」
と揶揄された私小説作品が多く、そのなかでもとりわけ多い話題の一つは、幼少期の思い
出話である」。 と評している。
 しかし「同人誌」である「同人α」の最近の傾向は、私小説的なものももちろんあるが、
水村早苗が目指す本格小説はエミリー・ブロンテの「嵐が丘」のようなもの、すなわち全
くの「フィクション」だが、我々もそれを目指す傾向にあり、その結果その飛び具合もこ
れからの見物である。
 今回は検索を容易にするためにページヘッダー左部分にページと作品名を記した。また
各作品の最後のページの空白に同人の描いた挿絵を入れることを試みた。このように少し
でも読みやすく美しくするための冊子を目指したいと思う。




26号 『仮面』   2011/2

 古希を前に、昨年のグループ抗争や仕事の不況、視力低下などの三重苦という鬱陶(う
つとう)しい事柄をすべて払拭(ふつしよく)できたと思うから、今年は何かと展望の開け
る年にしたい。斃(くたば)る前にもう一度不死鳥のように甦(よみがえ)って見事な最後
の花を咲かせてみたい。花ならマンセル値 3RP 5/14という色の大輪の牡丹に限る。




27号 『こんとん』   2011/5

 この頃は身の回りのものが神隠しに遭うことが多く、しょっちゅうそれらを探し回って
いる自分にはうんざりする。時々PCの中のファイルや不要と思った品々を思い切って整
理することがあるが、必ず必要なものを捨てたことに後で気づいて悔やむのである。
 また何かの用で隣の部屋に行ったものの、自分が何をしに来たのかわからず呆然とたた
ずむことがある。しかもまとめてやればいっぺんに済む作業も、覚束かなくて一つずつ済
まさなければ捗がいかない。やはり私は確実に非在に向かって歩いているようで、考えて
みれば後十回くらいしか春を迎えられないということに気づいた。だからつまらぬことに
くよくよ思い悩まないで生きようと思った。




28号 『震災列島』   2011/8

 唐の詩人杜甫の詩に「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」に由来する古稀
まで、ついに私も生きた訳だ。若い頃はなぜか六十八歳でこの世に「おさらば」するもの
と心に決めていた。その数字になにか意味があったかどうかはっきりと理由付けしたわけ
ではないが、何となくそんな気がして周りの人たちに言いふらしていたことを思い出す。
将来への不安が昂じて、そのくらいでよかろうと自分で考えていたのだろうか。だから、
ここまで生き延びたことを嬉しいという感慨はないまま、その時の予想と言おうか、希望
と言おうか、それをいま二歳も越えてしまっている。
 若い頃よりいろいろの「?」という疑問符をたくさんポケットにしまい込んでいたのだ
が、この歳になってそれらの少しは解決したであろうか。宇宙の真理、生命の由来、生き
ること、自由、平等、正義、公正等々、私の中で明確な答えの見つからないまま、むしろ
その「?」は増えていくような気がする。ただそのような情況のなかで救いなのは、(棺
桶にはいるまで何も解決していないかも知れないが)自分はいまでもそれらの答えを求め
る気持ちだけは持ち続けてたいと思っていることである。




29号 『兆』   2011/11

時々に己の作品リストを見るに付け、拙(つた)ない文章であったが今まで随分たくさん書
いてきたなという感慨を覚える。
 物事を表現するということは他人の五感を通して、作者の姿なり考えなり生い立ちなり
をつぶさに観察されることを意味すると言える。だが自らその表現を望んでいるとしても、
その反面作者は気づかないうちに裸にされた己に恥ずかしさや戸惑いを覚え、誤解・嫌悪
などの負の印象を与えているかも知れないなどと恐れ、その間で鬩(せめ)ぎ合いをするの
である。
 しかし、作品のテーマに関わらず全体的に滲み出る、作者のロマン的とか現実的とか古
風だとか現代風とかいった匂い、印象は個々の作者にはあるもので、そしてそれが感じら
れない作品はワサビの効かない刺身を食べているようである。夏目漱石だって、森鴎外、
三島由紀夫、太宰治、宮沢賢治の大家はなおさらだ。私にも私なりの個性、匂いがあるの
だろうか、いつか誰かに尋ねてみたい気がする。




30号 『沈黙』   2012/1

 自己と他者などといった認識は、高等な頭脳を持たなければ成り立たないと思っていた
が、哲学的命題以前のもっと単純な生命体のなかでも行われている。それは生命の維持活
動において最も大事なシステムの一つであるらしい。
 免疫系をインターネットで検索してみると
免疫のシステムは生体内で病原体やがん細胞を認識して殺滅することにより生体を病気か
ら保護する多数の機構が集積した一大機構である。この機構はウイルスから寄生虫まで広
い範囲の病原体を感知し、作用が正しく行われるために、生体自身の健常細胞や組織と区
別しなければならない。この認識機構は、病原体は宿主にうまく感染できるように適応し
新たな進化も遂げているので、複雑である。この困難な課題を克服して生き延びるために、
病原体を認識して中和する機構が一つならず進化した。
 即ち自己の細胞と病原体とを認識して的確に排除するという機能に於いて、自己と他者
を識別しているのである。そうなると頭脳明晰で哲学的命題の解答を見つけ出す人も、そ
んなこと一度も考えたことがなく暢気に生き長らえている俗人も、おなじ恩恵に浴してい
ることであり、特別脳を鍛えなくても生きて行けそうだ。
 しかし困ったことに好奇心という奴が心の中に住み着くと、 黙狂の矢場徹吾よろしく
「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」などといった難題の数々?
??に溺れそうな私である。そのうちつかまることのできる一片の藁が流れてきてくれる
であろうか。




31号 『遊び』   2012/5

さて、放浪の旅を終えいよいよ終の棲家(ついのすみか)に収ろうという算段ではあるが、
世の中まだまだ何が起こるか想像も付かない。私は天を指すような富士の高嶺を見る度に
ロケットの噴射台を想像する。天災列島に起こる大地震、大津波、大火災、或いは第三次
世界大戦が勃発して核戦争になって、富士山の火口をカタパルトと見なし、光子ロケット
に乗り宇宙に向かって飛び出す夢を見た。




32号 『造次顚沛』   2012/8

大都会から脱出して山に籠もった訳だが、世間から取り残されるかと思いきや、そうでは
なく肝心な物事の本質は毫も変わらないことが判った。ある程度の批判はしていたにもか
かわらず、いかにくだらない情報が毎日身の回りに飛び交い、それに影響を受けて行動し
ていたかを思い知った。テレビや新聞、週刊誌、人間関係等々。目を患って以来活字をう
まく追えなくなったいま、私はマスコミの情報を避け、むしろ五感のなかの音の世界をも
う一度日々の生活に取り戻そうと思っている。十数年前に田舎に引っ込んだとき、プリメ
インアンプ、CDプレイヤ−、スピーカーなどの高価なセットを、田舎の甥に譲ったまま
上京してきので、オ―ディオのセットの購入を今目論んでいるところだ。求めるべきか否
か、兎に角カタログを眺めているる時が一番楽しいような気持ちになっている。ないよ。)




33号 『無常』   2012/11

 α32号の出版のとき、神野氏より古東哲明著の「ハイデガー=存在神秘の哲学」という
本をもらったので、難解な理論を毎日数ページづつ辛抱して読んだ。古東氏の本で、これ
もまた神野氏からもらった本だが、「あることの不思議」という本はハイデガーの解説書
として初めて読んだためか、より一層難解に感じたものだ。その点後で読んだものは下地
ができているので理解しやすく感じられる。何せ世界内存在、きづかい、非本来的自己、
刻一刻性、ゲシュテルなどの哲学用語は一度解説書を読まない限り、いつまでも理解出来
ない判じ物の看板のようである。
 最近これらの本を読んでいるとニーチェの「ニヒリズム」、ハイデガーの「存在の奇妙
さ、希有さ、不思議さ」、サルトルの「存在と無」などの思想が繋がっていることを感じ
た。
 しかしこんなことに一所懸命考えても、一向に貧乏神は我が家を出て行く気配がない。
困ったものだ。




34号 『息吹』   2013/2
 つらつら自分の作品の傾向を考えて見るに、街や場所、その時代の出来事、特定の人物
像などにおいて、具体的な情景や名称を意図的に描かない物語が多いことに気づく。
「三つの願い」にいたってはバ―ド・ブレイン、グレイ・ブレイン、エヴァ・マリ―・ゼノン
などといった、国籍不明の名前を使ったりしているのは、なんらかの無意識の願望が働く
のだろう。
 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のジョバンニ、カムパネルラ、「グスコ―ブドリの伝記」
のグスコ―ブドリ、「ポラ―ノの広場」キュ―ストなどを意図的に参考にしたわけではな
いが、どうも私が現実的(リアリズム)描写を厭うのは、世間的な既定の印象を与えるな
どの現実に限定された解釈を避けたいという気持ちが強いのだろう。
 これは「鐵橋」に描かれているように、何物にも囚われたくないという少年の頃の私の
性癖がなせる業なのかも知れないし、今現在生きている場所や時代を超えた異国・異界へ
の憧れなのだろう。




35号 『ラビリンス(迷宮)』   2013/5

 先日、梁山泊の仲間の一人が亡くなった。写真の十二人のうち四人が鬼籍に入ったこと
になる。美人薄命、憎まれっ子世に憚るなどという言葉を聞くと、長生きもいい加減にし
なくてはと思うこともある。セピア色の写真に写った前途洋々の少年少女の時代が懐かし
く郷愁も覚えるが、何も嘆くことはない。短命であろうと長生きであろうと皆、自分の人
生を一所懸命生きて来たのだから。しかし幼なじみが一人二人といなくなるのは少々堪え
るなあ。

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36号 『言葉』   2013/8

 この頃は縦書きの編集、奇数ページ左上のヘッダー設定などに馴れて、手間を取らない
ようになった。また校正においては、長岡さんと万理さん、神野さんの三人で原稿を校正、
その後ゲラ刷原稿を私がつくり、最後にもう一度三人に最終チェックをしてもらう。これ
で完璧。印刷においては、回を重ねる毎に速度の問題も工夫をしたお陰で随分早くなり、
ミスも減った。付属品類においては、コピー用紙、製本テープ、印刷インクなどもネット
ショップで安く購入できるし、特にインクはコピー機メーカーの純正ではなく、リサイク
ル品を使うと純正の半額で求められるから、随分経済的になり助かる。
 そして義理で買わされる人、あるいは真面目に読まない人には無理に買って貰わない
ようにしているので、その結果発行部数や購読者あるいは同人の数も増えず、地味な活動
になっている。まあ敢えて増やす必要もないし、少数精鋭で充実していれば自ずといい作
品の冊子になると確信している。
 それにしても年四回、三カ月に一度、作品を作り冊子を発行するという行為を、足かけ
十年もよく続けたものだと我ながら感心することである。




37号 『古典』   2013/11
 この山荘に移り住んで既に一年半になる。引っ越して来る前に、地元の人達から「ここ
は冬になると零下二十度になるぞ」とばかりにさんざん脅されてきたが、一回冬を過ごし
てみると低い温度であるにも拘わらず、本郷の冬の寒さとさして違わないように思えた。
これも馴れたせいかなのかも知れない。
 そして大工さん、電気屋さん、設備屋さん、植木屋さん、本の編集者、設計者など付き
合いが少しずつ増えてきて、それなりに交流が始まってきた。しかもそれらの人達が折に
触れて椚・楢・アカシヤ・杉・唐松・白樺などの薪材や家の解体材など、薪ストーブ用の
木材をたくさん持って来てくれる。これで厳寒の冬は凍えることなく部屋を暖かくして過
ごせるぞ、という安心感はまことに得がたいものである。ストーブの炎を見ながらうとう
ととうたた寝することは、スヌーピーの問う「幸せとはなにか」の答えの一つなのかも知
れないと思ったりしている。




38号 『心情風景』   2013/11

 山の中での暮らしは退屈で仕方ないだろうと思われるかも知れない。ここに来るまでは
交通量の多さ、様々な機器類から発生する低騒音、ビルの林立で空が小さい、人の多さ等
々、私が大都会の真ん中で忙しい暮らしをしていたことを知っていた人には、そう思われ
ているかも知れない。
 しかしこの山の中に住んでよく観察してみると、様々な不思議がいっぱいそこら中に転
がっている。
 雪の積もった朝の散歩では、数種類の野生動物の足跡を見つけて、その一つ一つに動物
の姿を当てはめて推理するのも又楽しい。この前は杉の木によっての葉の形が違うのを見
つけた。「オモテスギ」と「ウラスギ」である。「オモテスギ」は 太平洋側の雪が降らな
い地方に生えている。「ウラズギ」は北陸や東北と言った日本海側の豪雪地帯に生える。
一口で言えば雪害に強いのが「ウラスギ」、雪害に弱いのが「オモテスギ」ということに
なる。
 そのように自然の不思議な生態を見つけては楽しむのだから、全く退屈な時間などあり
はしないと私は思っている。皆さん、猫には人間のような突き出た頤(おとがい)がないの
に気づいていましたか?



110α編集部:2014/04/09(水) 22:04:33
シネマの話3
.
              シネマの話3 2010-2013





「銀座散歩」より 2011/3/6

朝9:30銀座マリオンにて「ツーリスト」という映画をみる。小さなバケツほどのポップ
コーンを食べながら。懐かしのヴェネチアが舞台。それなりにおもしろかった。ミステリ
ー仕立てだが、無限回廊などの筋を考えることに慣れると、自ずと映画の結末が判ってく
るような気がした。それがいいことなのか、興味が半減するのか今のところ自分にも判ら
ない。




「『反物質』の閉じ込め成功」より  2011/6/6

この「反物資」をテーマにした小説が 、ダン・ブラウン著のサスペンス小説『天使と悪
魔』(ANGELS & DEMONS)である。これは『ダ・ヴィンチ・コード』とおなじく2009年ア
メリカ映画が公開された。欧州合同原子核研究所(CERN、ジュネーブ)もその映画を
見て、実際に存在することを知ったのである。
ともかく、宇宙には「暗黒物質(dark matter)」や「反物質(antimatter)」という、興
味を刺激する謎が一杯存在していて、飽きることがない。




「映画鑑賞−ジュリエットからの手紙」  2011/6/14

原題は「Letters to Juliet 」であるから、日本語の題の命名は「ジ
ュリエットからの手紙」とあり、全く逆の意味になる。シェイクスピアの書いた「ロミオ
とジュリエット」に纏わる物語である。イタリアの古都ヴェローナのジュリエットの住ん
だ家の中庭で、五十年前の満たされない恋文を壁に貼った主人公。その返事を代筆する善
意の人達が書いた手紙を貰った主人公が、昔の恋人探しに訪れたことからこの物語は始ま
るのである。まあの映画の内容からすれば両方の解釈があっても間違いではないが・・・。
映画の題名は原題と違ったものがありよくある。用心しないと日本の題は意訳が多いから
間違った印象を持つことになるので、額面通りに信じてはいけない。

この映画の原題と日本名という二つの題名から受ける印象は、図らずも日本的な文化と西
洋的な文化の違いのように私は思えた。受動的な行動パターンの日本的文化と、やはり主
体的な自我の行動性を旨とする西洋的文化的の対比と見た。ジュリエットからの手紙(f
rom)か、ジュリエットへの手紙(to)の問題が面白いなと思った。やはり受動的な
意訳の方が日本人の感情に無理なく訴えるのかも知れない。


数年前イタリア旅行の時尋ねたところであり、美しい古都である。ジュリエッタの家のあ
るパティオも覗いたが、あまりにも人が多くてゆっくり思いをはせることは出来なかった。
この映画のストーリーはハッピー・エンドで終わるアメリカ映画の定番なのだが、
しかし老いた主人公を演じたヴァネッサ・レッドグレーヴがなかなかいい。てらいのない
落ち着いた風格はさすがで、あのように老いたいと思うほどである。おまけに、マカロニ
・ウェスタンでならしたフランコ・ネロもまたいい。ついでに実際にヴァネッサ・レッド
グレーヴはフランコ・ネロの四つ上の姉さん女房である。




ギンレイホールについて 2011/7/27

11期ファーンさんおよびひまじんさんの間で「銀鈴」か「銀嶺」かの問題が話題になっ
ていますが、その端緒は「ドキュメンタリー映画際 投稿者:吟遊視人 投稿日:2011年 7
月25日の『「シネマの会」という毎週一回、『銀鈴シネマ』で話題作を見る同好会があり
ます』の投稿にあります。

この映画鑑賞の会を作った者として、その経緯から解き明かしてみましょう。それは今か
ら9年前、2002年の6月の日記にたまたま散歩していたときの記録があり、そのときの印象
が映画鑑賞会を発足するきっかけになりました。なおその会の正式名称は「シネマ・デ・
ジョイ」(シネマで楽しもう。死ぬまで人生を楽しもうという意味をこめて)と皆で決め
ました。
代表は私、副代表はM.Tさん、H.Mさん、会計はT.Mさん。年会費:1,000円。会員24
名で発足、なお現在私は退会して会員ではありません。

飯田橋の神楽坂をもう一本後楽園に寄ったところに軽子坂(かるこさか)という路地があ
りました。その坂の由来は知りませんが、横町を曲がったすぐの所に一軒の映画館をみつ
けました。約200席のいわゆる懐かしの名画をみせるという場末の小さなもので、そこ
は貧乏学生時代のノスタルジーを彷彿させるに十分な面影を残した、狭さと昔を懐かしむ
ような老年の人たちや若い学生といった客筋で満ちていました。よき時代の雰囲気が廃れ
ていない時空が未だ存在するんだなと嬉しくなりました。もちろん入場料はシルバー料金
の1,000円ぽっきり。この値段で5時間近く楽しめる娯楽はそうめったには見つから
ないと思います。

往年のアン・マーグレットを思わせる美貌の女優と、アラン・ドロンに似た男優の演ずる
「ムーラン・ルージュ」のファンタスチックな物語を主に鑑賞するつもりでしたが、もう
一本の方「ぼくの神様」が思いもよらず秀逸でした。第2次大戦のポーランドが舞台。ナ
チスのユダヤ人狩りから逃れるため親元を離れ一人疎開させられた児童の物語でした。美
しい田園風景の中で起きる大人の戦争という不条理の世界に、子供までが巻き込まれ厳し
い現実に直面する話でした。

このような素晴らしい映画は大作でないだけに、あまり宣伝されず埋もれてゆくのかと思
うと残念です。そのような訳でたまには誇大に宣伝された大作だけではなく、こまめに優
れた小品を探しだして映画鑑賞を楽しんではいかがでしょうか。

さて本題の名称について
銀鈴会館というビルは確かにそこに存在します。またギンレイホーという映画館もそのビ
ルの一角にあります。銀鈴会館はその中に雀荘、酒場、くらら劇場(アダルト映画)、不
動産会社などの入っている総合ビルで、その名称であって「ギンレイホール」はそのなか
の一つです。
念のために銀嶺ホールと私が思い込んでいた名称をWikipediaで調べてみました。この映
画館に関する投稿は「ギンレイホール」か「銀嶺ホール」で数件見つけました。
◆青木塾ブログ:名画座、銀嶺ホール
◆飯田橋ぎんれいホール | 人生、色々、男も色々・・・
◆dietcoker_diaryのブログ : 銀嶺ホール (第9地区)と後楽園遊園地 ...
◆青山808 (4) 飯田橋銀嶺ホール:青山808:So-netブログ

そこで正確を期すために「ギンレイホール」の支配人に直接その名称について尋ねました。
その結果1974年から「ギンレイホール」と称していて、それ以前の記録が見つからないと
いう返事をいただきました。いずれにしてもWikipediaにも「銀鈴ホール」では記載され
ていません、ましてや「銀鈴シネマ」という名称もありませんことを報告します。




「無限回廊 第五回を読んで」より 2011/10/23

「久しぶりの日本で、日本の大手広告会社、アジア支局に勤めるエヴァはすっかりくつろ
いでいた。ほぼ一ケ月の休暇をとれたからだ。金曜の朝もビールを片手に長椅子に横たわ
り読書をしていた。」とあるように、エヴァはどうも酒が好きらしい。
物語の中でもいくつか出てくるが、ここで小説や映画のなかで描かれた有名な場面を調べ
て見た。

◆ダイキリ
 ヘミングウェイが愛飲したフローズン・ダイキリは、ラム酒をダブルにし、グレープフ
 ルーツ・ジュースを入れ、砂糖を抜いたもので、これをパパ・ダイキリと呼ぶ。
  * ラム - 45ml
  * ライム・ジュース - 15ml
  * 砂糖 - 1tsp
◆ギムレット
 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説『長いお別れ』中の代表的な台詞
 "I s uppose IT's a bit too early for a gimlet," he said.
(ギムレットには早すぎる)
  * ジン - (全量の)3/4
  * ライム・ジュース - (全量の)1/4
◆マム
 映画「カサブランカ」の名セリフ “ 君の瞳に乾杯 ”Here's,lookin'AT you,kid とい
 う名セリフと共に飲んだシャンパンが「マム」。フランスのシャンパーニュ地方特産の
 発泡ワインである。
◆ペリエ・ジュエ
 「危険な情事」の中で、サムが、浮気相手のアレックスと飲んでいるのが「ペリエ・ジュ
 エ」これもシャンパン。
■ジャックダニエル
 1978年製作「殺人遊戯」のポスターで、松田優作が持っている酒は、テネシー・ウイス
 キーの「ジャックダニエル」。トウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などを麦芽で糖化、
 さらに酵母を加えてアルコール発酵させる。

若い時は浴びるほど飲んでも平気だった私だが、そのときは酒の味などよく判らなかった。
しかし今、医者から控えろと言われてみると無性に飲みたくなる。昌平坂探偵事務所のフ
ィリップ・マーローを気取って、新宿の高層ビル51階のとあるバーで、きら星のごとく瞬
く様々な色の町の灯りを眺めながら、ギムレットを賞味してみたいと思った。




「北大路魯山人の昆布とろ」より  2012/11/3

昔、息子の寝床で読んでやったユリ・シュルヴィッツの絵本「よあけ」のなかに出てくる、
まだ日も上がらない薄暗い山間の湖、澪を引くボートの印象的絵を思い出す。最近では「き
みに読む物語」という映画で、これもまた朝まだきか夕暮れか失念したが、薄暗い湖をレ
ガッタで澪を引いて漕いでいるの最後のシーンが印象的だった。




「37号「人生詩」を読んで」より 2013/12/19

 神野氏が私の作品に対する評の傾向をみると、情感や情景描写の素直さを指摘すること
が多い。例えば「三つの願い」や今回の「シリーズ・歪んだ風景−鐵橋 第六回」において
は論証的で説明的で理屈をこねたり、理に勝ることを諫めているようだ。
 小津映画の特徴として「説明的な要素を極限まで削ぎ落としたセリフと、端正な構図が
挙げられます。“家族や人生”をテーマに人間心理をついた一言は、多くを語らない分、
作品には観客が想像する“余白”が残されており、自分の境遇に照らして寄り添える魅力
がある」という評価がある。
(中略)
さて、私の説明的作品と違って神野氏の文章は、「言葉集め星創り」「始原へ遡ろう」「パ
ラレル宇宙」「人の像をした美しい青い地球」、 およびこの「人生詩」にしても、全くの
文学的な作品であるから難解極まりないのであるが、そこには知識の披露ではなく、己の
率直な感動の記録だから、小津映画と共通する素直さや清新さが人の情感に触れる作品を
描くことが出来るのであろう。



111α編集部:2014/04/10(木) 22:37:10
著者写真とコメント集/讃集2
.
          著者写真とコメント集/讃集 2
?????????????????????????????? 2010/23号-2011/28号




    23号から、古賀氏自らが立ち上げた著者のポートレート専用のブログ
    に、画像とコメントを掲載・保管することになった。 自画像の中には
    化身と思われるものがいくつか見られるが、どれが化身でどれが本体か
    区別がつきにくいものもあるようだ。





『鈍色の空−その3(最終回)』 23号
??2010/6/14


          

半世紀前の「真昼の決闘」・「友情ある説得」のゲイリー・クーパーや、「駅馬車」・
「静かなる男」のジョン・ウェインのように、まだ男が男らしく、女が女らしかった時代
が懐かしい。

これは単なる懐古趣味だけの感傷からではなく、この時代の映画の中の主人公は物事にた
いして心の内になにが正しいかを的確に判断する目を持っているように思えた。その人達
はそれに裏打ちされたゆるぎないプライドや自負が、何とも言えない品格を創り出してい
た。詭弁や策略といった小細工で下らぬ意地や面子を守るためにだけ行動したりせず、理
にかなった主張のもとに攻めるべき時は果敢に攻め、引くべき時は清く引くという、じつ
に清々しい堂々とした生き方をしていたものだ。

残念なことに昨今は、自分の言葉と行動が一致しなくても良心が疼くこともなく、プラ
イドを投げ捨てても何の痛痒も感じない人達がいる時代になってしまった。 感情でなく
「理正(りせい)」で「万理(ばんり)」の本質を突き詰めて「神野(かみの)」領域に
あるかもしれない、「よりよきもの」を志向するという、心のうちなる良心の鏡を持って
いるように見えるゲイリー・クーパーやジョン・ウェイン達は、いつの世になろうとも
「赤松次郎」の憧れの人物像であった。

などと数十年前にスキーで訪れた蔵王の山頂でのカーボーイの格好をした我が写真を見な
がらそういう妄想に駆られたのであります。






『無限回廊 第一回』 24号
??2010/9/11


          

これは近未来の物語、ありそうでなさそうな話である。どうせこの世の現象すべてを正確
に論証することが不可能なら、いっそのこととんでもない世界を作りたいと思った。しか
も作者は一人ではなく、いろいろの専門的な知識に精通した人がそれぞれの章を書き進め
るため、どこへ行き着くかも皆目わからない。だからいままで見たこともない世界を我々
に覗かせてくれるだろう。まずは序章をバード・ブレインが担当した次第だ。さあ皆さん
ファンタジックの世界、異常な世界、倒錯の世界など何が体験できるか好奇心を持って一
緒に出かけましょう。

写真は2月21日第22号出版の後の会議で同人α分裂の兆しを予感して分かれた後の記念
すべき写真。結果として同人αに残り、引き続き活動したのは次の四人であった。

左からグレイ・ブレイン(認識番号13):長岡曉生
真ん中がバード・ブレイン(認識番号11):古賀和彦
右にエヴァ・マリー・ゼノン(認識番号17):万理久利
サカエ・ル・カミノ:神野佐嘉江は後の登場となりますので、しばらくお待ちくください。
  バード・ブレイン記






『趣味と道楽の狭間で(狭間シリーズ1)』 24号
??2010/10/9


          

僕の周りには帽子の好きな友人が何人かいる。僕もその一人である。帽子の効用は夏の太
陽から暑さを避けることや、薄くなった頭を隠すこと、風から髪の乱れを守ること、頭部
保護、防寒などの実用的理由から、またファッションといったものまでいろいろある。

僕が被っているのはジョン・ウェイン主演の映画「アメリカ合衆国の特殊部隊・グリーン
ベレー」の帽子である。だからといって特別僕が軍国主義的な思想が好きというわけでも
ない。長い間自由業を営んできたのでラフな格好でも勤まったものだが、僕は自分の生活
が自堕落にならないように時々はネクタイなど締め、正装をして事務所に出かけたものだ。
その意味では、あるていどの規律的生活を厭うものではない。
実用的でなくても帽子を被る人達は、己の姿を別の人格に見せたいという無意識の願望
があるのではないかという私の考えは、また別の機会にじっくり思索してみたいと思って
いる。

僕は数年前友人のS君と誘いあわせて御徒町のアメヤ横町のガード下にある中田商店に繰
り出した。あるわあるわ、世界中の軍服や勲章や階級章など、戦前の軍国主義の時代に迷
い込んだような妙な気分になった。いくら何でもこのアナクロニズム的雰囲気にはついて
行けない。その後S君はハンチング帽ばかりで、その時僕はグリーンを、彼は黒を一緒に
求めたのだが、この黒いベレー帽を被った姿をいままで見たことがない。さてはあのアメ
ヤ横町への同道は僕のために多少無理をしたのかもしれないと今は思っている。

今回の「趣味と道楽の狭間で」は十数年前に同人誌「斜光」に投稿したもので、狭間シリ
ーズの走りという記念すべきものであった。しかし僕はこの帽子をいろいろ欲しがるとい
う行為は道楽とは言えず、趣味ともいえる実にささやかなものなのだと思っている。

==============================

この写真を見た感想は、確かに「人格が変わっている」ということ に尽きた。いや、と
言うよりも「飛んでいる」という感じを受けた。
しかも、以前にどこかで見た顔なのだ。それは、どこで見た顔だろうと考えている内に、
思い出した。
以前勤務していた研究所の公式テニス部のNo1の顔である。 長期に渡ってTOPの座を
保ち続けた強靱さと自信が形作った顔が この写真の中にそっくり再現されている。
これが、帽子が持つ魔力という物であろうか。
長岡 曉生

==============================

帽子はおしゃれの意外なポイントにもなるが、その他、人格を少し変えてみる、他人を戸
惑わす、そんな力をもつ有力な小道具だ。
筆者はおしゃれというより、後者の理由で帽子に惹かれているのかと思う。
私の母は帽子が好きで春夏秋冬お気に入りの帽子をかぶっていた。彼女の目的はただ一つ
「おしゃれ」。
そんな彼女の子供は全員帽子は苦手でほとんどかぶらない。それでも母の手編みの帽子一
つはみななぜか取っており、冬になるとかぶっている。
母の帽子と買って貰った帽子が手元にある。遅ればせながら「おしゃれ」で時々かぶって
いる。いや人格を変える目的かもしれない。あるいは顔隠し。
ベレー帽姿の筆者は確かにすごみがある。ベレー帽が彼の人格を変えたのだろう。
万理 久利






『明日天気になーれ 第一回』 25号
??2010/11/19

???????????????????? 戦いに赴く赤松タロウ 認識番号11(早川篤史作)
          

古賀和彦さん 賛
このむつりだんまり遊び人がついに鎧をつけた。ただしこれは戦闘用らしい。
「無限回廊」のバードブレインか、「明日天気になーれ」のカラマツの象徴なのだろうか。
筆は重く、また姿を見ることもめったにない。探偵事務所に入りびったっているのだろう。
実にミステリアスな人間だ。天気予報サイトを立ち上げるそうだが、事務所には温度計・
湿度計・風向風速計・気圧計・雨量計・積雪計・蒸発計・日射計・日照計は一切ない。
朴歯の下駄だけが置いてある。 カラマツ ジローが怒ると敵地に台風を呼び込むそうだ。
こいついったい何者だ。目を細めてニコニコ笑っているジローの顔は仮面に違いない。
 竹内真理矢こと万理久利

= = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = == = = = = = = = = = = =

万理久利さんの「賛」、ありがとう。「酸」「散」「惨」でなくてよかった。
奇数日は「ゆりかごから墓場まで」に関わる病院、学校、ウサギ小屋、葬儀場などすべて
の建物を設計、ただし天国への階段を試みたのだが、途中でどう設計ミスをしたのか無限
回廊に迷いこんでしまった。だから当分引退して悠々自適の生活を送れそうにもないので
ある。
偶数日は湯島聖堂斜向かいの昌平坂探偵事務所で、浮気、家出人、行方人探し、素行調査、
迷子の猫探しと隠れた職業をこなしている。
今回は赤松次郎でもなく、バード・ブレインでもなく、そんじょそこらに掃いて捨てるほ
どいる気の小さいぼやきマンを主人公にした。カラマツ・ジローの姿は、有毒ガス・酸性
雨に満ちた外気から身を守るためブロンズの ヘルメット潜水帽、油くさい炎をはき出し、
ガチャガチャと金属音を発して悪さをするドラゴンのような、ブロンズのオーバーコート
を装備して、BMW ROCKET?Touring ('08)star 2300cc を駆使して移動するバード・
ブレインと違い、せいぜい人荷兼用600CCのジムニー愛用なのだ。
  古賀和彦






『晴れと褻の狭間で(狭間シリーズ2)』 25号
??2010/12/19


          

三十年近くも前の写真である。息子が二・三歳になったばかりで、着ているものから判断
すると、端午の節句に着る着物のようだ。写真をフォロー・パンすると右側のチェストの
上には武者人形が飾ってあるはずである。
この後、このマンションには二十年もの永きに住んだ。年齢と今までの引っ越し回数で除
すると2.3年に一度の転居、引っ越し魔のこの私が・・・である。
すでに「晴(はれ)と褻(け)の狭間で」の鬱に悩まされた時期を過ぎていて、家族のために
「さあがんばらなくちゃ」というという気分が感じられる。
しかしその後バブル崩壊に遭遇し、「沈みゆく家」のモデルでもあるこの家を処分せざる
を得ないという永い不況に悩まされたのである。もう一度この時代に戻してあげると神様
が言ってくれても、また苦労をするかと思うとそれもちょっとしんどいようで、丁重に遠
慮申し上げるであろう。






『あした天気になーれ』 26号
??2011/2/27


          

3年前、何かの記念日に銀座並木通りにある「季楽(きら)」での食事の時の写真である。
息子とは「美味いもの」と「コンピュータ」の話題であれば会話が成り立つので、近くに
住んでいてもなかなか寄りつかない彼を呼び出すチャンスでもある。だからできるだけ季
節季節の節目には電話で声をかけて、美味いものを食い歩いたり秋葉原の電気街を散策し
たりする餌をまくようにしている。
細君との関係は、「あした天気になあーれ」の斜に構えた気弱な恐妻家のジローのように、
日頃あのような辛辣な言葉や皮肉の投げ合いが現実にあるかどうかは秘密である。一緒に
なって40数年も経れば、あのような場面が無かろうはずはないと憶測するのは読者の勝
手と言っておきましょう。






『夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で』 26号
??2011/3/21


          

今まさに「斜光」第16号に投稿するための転居についての文「転々流々」を書き終わっ
たところであります。そしてそれは「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」の時代を含む
ものだから、前書きだけでもここで予告しておきましょう。

いままで私はずいぶんあちこちと転居してきた。それが趣味でもなければ、マニアックな
記録に挑戦した訳でもない。風の吹くまま気の向くまま、結果として人より多かったまで
である。それは長じてからはその原因が様々な仕事にやむなく就かざるを得なかったから
ではなく、単に住居を点々としただけで一度も職業を変えたことはない。ましてや孟母三
遷などといったよい環境と未来のためにといった高邁な目的があった訳でもさらさらない。

さて、写真の銅製の作品はcoppers早川(早川 篤史・克己(親子))氏の作品で、作品
名を「ステッキ」−F091といいます。彼等の個展を覗いた日の日記には次のように書
き残していました。
昨日の早川篤史氏の作品がどうしても気になり、夕方もう一度銀座松屋の7階の展示場へ
見に行きました。そして小さい像を思い切って購入しました。今まで30回近く転居した
己の姿を見つけたからです。つばのついた帽子、野暮なコート、右手にステッキ、左手に
大きな鞄、今の環境にちょっと飽きたのでどこかへ出かけるか・・・。
机に飾ったその作品に、未だ「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」の時代の心模様を引
きずっている己の姿を投影して、「ステッキ」という題名から「彷徨える次郎」と名付け
ました。そのうちまた見知らぬ街でこの姿を見かけるかも知れません。






『あした天気になーれ・第三回』 27号
??2011/2/27


          

あした天気になあーれのコメント              赤松 三毛次郎

我が輩は猫になりたい。
猫は人間の体重の約15分の1。猫は一日16〜20時間眠る。猫の摂取カロリーは人間の
2400/15=160kcal。14時間動き回る人間と比べれば一日100kcal以下でも十分である。
鶏ささみ100g(105kcal)。牛乳100cc(65kcal)。だから2・3日食べなくても生きて行け
る。人間の跳躍力はせいぜい50cm。猫は体高の5倍すなわち1.5m。人間ならさしづ
め8m跳べることになる。ちなみに、蚤は体高の100倍。人間にすると150m、まるでウ
ルトラマンみたいだ。

猫と人間の採食、運動能力の効率の差は歴然としている。そしてなんて人間は無駄なこと
をたくさん欲しがるのだろう。飛行機だってコンピュータだって携帯電話だって原子力発
電なんて猫には必要ない。現にそんなものの恩恵に浴さなくとも平気で生きている。我が
輩も来世は猫となってあるがままに生きよう、「樽のディオゲネス」のごとくに。
そして、今度の「あした天気になあーれ」は我が輩の横に写っているオスの三毛猫が主人
公である。どうぞよろしくと言っていますニャー。
http://www.youtube.com/watch?v=pOEXFJ9qHvc&amp;feature=player_detailpage






『無限回廊 第四回』 27号
??2011/7/18


          

この写真はいつの頃のものかはっきりとは思い出せない。先日ポートレート用の写真を山
荘で探していたら、セルリアンブルーに真っ白の襟のついたポロシャツを着たライン下り
の船のデッキの上に立っている自分の写真を見つけた。そのシャツはなかなかシャープで
鮮やかな青が際立ったすてきなものだった。しかし私はついぞそんな物を持っていたとい
う記憶さえないのであるが、今ここにほしいと思ったくらいいい色だった。そのようにこ
の写真もいつのものか時も定かではない、遠い昔の髭を生やした気恥ずかしい写真の一つ
である。

さて今回の無限回廊は前回の作者が残してくれた難しいプロットに戸惑い・狂喜しながら、
なんとかうまく立ち回って結論らしきものを先送りした形で次の作者にバトンタッチ出来
たと悦にいっている。そしてちょっと意地悪な思いにニヤニヤするとともに、次号の担当
である万理さんがどのような物語をつくるかが楽しみである。







『あした天気になーれ 第四回』 28号
??2011/9/12


          

私は旅行中、毎晩寝る前に各ホテルのレターペーパーに必ず日記を付けることにしている。
それは絵を描く人が各所の景色や人物や文化をスケッチするのと同じく、ものを書くとい
う趣味を覚えてからの習慣になっている。見たものを正確に分析し整理することで、自分
なりに理由付けし、頭の中の引き出しに納めておく方法としては、実に有用である。

ここは、二千数百年の歴史を刻んだ「まさに近代国家の基本的なシステムを構築した」偉
大な時代の遺跡である。紀元前500年から紀元後500年、一千年間という長きに渡り繁栄
したまれな文明で、その国家を支えた政治思想は下記のようなものであろう。
1.ローマ法を基本とした法治国家であったこと。
2.民主主義であったこと。
3.人種融合政策をとったこと。
4.社会資本の整備が充実していたこと。
 交通路、上下水道、度量衡、幣制などの整備・統一が行われたこと。

フォロ・ロマーノを背に「あした天気になあーれ」のカラマツ・ジローの報告でした。
雄の三毛猫、下駄探しはチキン・ジョージにまかせて・・・。


****************************

古賀さん讃                         長岡 曉生

写真で見る通り、銀髪で長身、そしてにこやかな、そして音楽を愛する紳士です。
とはいえ、その中味はなかなかに複雑かつ新規性に満ちています。
その特徴を幾つか挙げて見ましょう。
 A群
  イタリア旅行が好みである。
  音楽を好む、それにラテン系の踊りも。
 B群
  建築一般に関心がある。
  新規かつ独創的な思考法を持っている。例えば素数好み・無限回廊の提唱など
  工夫好きであり、新しい問題の解決に熱中する。
 C群
  狭間・歪んだ風景・鈍色などが好みである。つまり難解である。
  四季の移り変わりと草木の風景が好みである。
  国語力豊かで単語の知識に卓越している。

上記の全貌は、長い時間を掛けてようやく解ってきました。
だって、鈍色で難解なんだもの。

 とはいえ、私が同人αに入会した平成19年春にも上記の片鱗は見えていました。
1)春号原稿締切りの4月末を跨いでイタリア旅行をなさっておいででした。
  ⇔ イタリア旅行好き と 狭間好み
2)この時の春号への投稿題名が、シリーズ・「歪んだ風景−岐路」でした。
  ⇔ 「イアリア建築」に住む「鈍色」女性の「四季の移り変わり」
  なお、この作品で初めてモノクロ原稿中にカラーの四季の花の写真が導入され
  後になって電子化されたα作品集の当作品に対し初めてBGMが導入されました。
  カラー導入・作品集電子化・BGM導入のいずれも
  古賀さんの工夫によるものです。

 そういえば、この時のαの号数が11号でしたが、11号は素数。
11は、5番目の素数ですが、5がこれまた素数という御念の入った組み合わせ。
それだけじゃあ無い。
11号の原稿が集まったあと、私の初顔合わせ会合でお会いしたαのメンバーが
みな11回生で、私は13回生である、と全てが素数に因む会合でありました。
お互いに、「えにし」だったなあ。

 えーと、もう一つ大事なことを忘れていたぞ。
 写真の背景に見えるのは、古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノで、西暦前6世紀頃から
3世紀末頃までローマの政治・経済の中心地として栄えた場所でした。
ここは、非常に重要な遺跡なのに、通常の観光ツァーには含まれないため、個人的に訪れ
た時に撮ったものだそうです。
 因みに、どうして著者がローマに惹かれ、この遺跡を訪れるのかを考えてみました。
銀髪でローマを愛し、そして建築物に興味を持つとなると
ははあ、当然あの人物の生まれ変わりでしょうね。
 詳細は、α29号の無限回廊でお知らせしましょう。
今、明かされる古賀和彦の前世 なんてね。お楽しみに。に。。みにに。に。??



112α編集部:2014/04/11(金) 13:05:21
著者写真とコメント集/讃集3
.
            著者写真とコメント集/讃集 3
??????????????????????????????   2011/29号-2013/35号




     喧騒の一年を過ぎ、余裕がでてきたのか、古いアルバムからセピアカラーの
     写真もちらほら。著者が言うように「カマキリ」のような姿は、今からはと
     ても想像できない。
     一方、背景に手を加え想像の世界を漂う著者もでてきた。





『あした天気になーれ第五回』 29号
 2011/12/5

  ????????????????????   ニコライ堂
          

この写真は神田駿河台にあるギリシャ正教の「東京復活大聖堂」愛称「ニコライ堂」の南
門の前で、散歩の途中に立ち寄った時のものだ。数本の蝋燭が灯され、立てかけられた聖
像画は東ローマ帝国で用いられたビザンチンモザイク様式のようで、永い歴史を私に感じ
させたものだ。

しかしカラマツ・ジローやチキン・ジョージが、雄の三毛猫、朴歯の下駄、卜占、タロッ
トカード、占星術、はたまた雨男・雨女に頼るとしても、今回私は森の石松よろしく賽銭、
蝋燭代、弁当を用意してもらい、カラマツ・ジローの代参として、天気予報の確率を上げ
るために神様にお願いに来たのではないのである。

さてさて、細君との確執はますます抜き差しならぬ様子を呈してきたことに、辟易してい
ると聞くカラマツ・ジローはどこへ行ったか。チキン・ジョージと例のガード下の薄汚れ
た屋台で、昼間っからモツ煮込みを肴に芋焼酎でも引っ掛けて憂さを晴らしているのだろ
うか、 聖ニコライは知る由もない。






『あした天気になーれ 第6回(最終回)』 30号
 2012/2/11


          

引っ越しばかりしていたので、随分写真も無くしてしまったが、なんとか押し入れの中か
ら昔の写真を探し出した。これは私が高校生の頃我が家の庭の一角で撮った写真である。
年の離れた従兄弟とスピッツらしき白い親犬、犬小屋には一匹の子犬までがちゃんと写っ
ている。
このころより私は朴歯の下駄を愛用していたが、この下駄はどうも違うらしい。黒い鼻緒
の桐の下駄で親父のものではないだろうか。
帽子は白い二本の白線に二羽の鵲をあしらった金色の記章、いかにも間寛一のかぶる高等
学校の帽子そっくりである。セータはやはり鈍色のアラン模様のフィッシャーマンセータ
ーである。どうもこのころから「あした天気になあーれ」や「無限回廊」などという空想
癖の兆しがみられるようである。






『無限回廊 第七回』 30号
 2012/4/15


          

写真コメント            ?? バード・ブレインこと赤松次郎こと古賀和彦
このころは日記も付けていなかったので何時の写真か判然としない。髭をたくわえている
からおおまかな時代は判りそうなものだが、髭にも口髭、顎髭、頬髭などのバリエーショ
ンがあって、それぞれその時その時気分次第で試みてきたから、その時期を特定すること
は非常に難しい。30歳初めからサラリーマンを辞めて、自由業みたいな生業だったから、
比較的やりたいことを気兼ねなく出来たということだ。48歳のころの高校卒業30周年記
念大会では髭面ではなかったから、たぶん40歳の半ばではないだろうか。

さて、今回の無限回廊は前の著者達のとんでもないプロットをいかに収拾をつけ、全体の
方向に軌道修正するかが技の見せ所だと思った。しかし書いてみると自分もまたとんでも
ないストーリーに魅せられて飛びまくった感じがある。まさに時間や空間や理屈を超え自
由自在に遊ぶことのできる合作の面白さを堪能してたものだ。






『窓辺にてーそして、それから』 31号
 2012/6/7


          

光と影の狭間で
たぶん大学二年生のころ夏休みに帰省した折、田辺(森)君と二人で九州一周の貧乏旅行
をしたときの写真だと思われる。大人になるまで偏食、好き嫌いが多く、腺病質、神経質
でカマキリのように痩せた姿が見受けられる。ここは霧島温泉の近くの丸太造りの山小屋
のようだ。たぶん韓国岳に登る前か後かの写真で、窓枠に座った足には草鞋みたいなもの
を履いている。未来は渾沌としていて不安に押しつぶされそうな思いに、いつも不機嫌な
顔をしていたようだ。






『シリーズ・歪んだ風景−鐵橋 第一回』 32号
 2012/10/9


            好奇心いっぱいの孤高の人
          

赤松次郎(古賀和彦) 讃
上の絵は2年前に書いた作品のイメージ画の一部です。脚本中 配役「11」です。
どんな似顔絵を描こうかと考えていたのですが、どうしてもこれに行き着きました。
遠い親戚らしいのですが、ほとんど会ったことも話したことも無い人です。同人誌を通じ
て、掲示板を通じて、赤松次郎がどんな人物かを想像している次第です。
人一倍の好奇心、これは他者及び自分自身、猫のジャンプ力から宇宙の謎にまで向けられ
ているように思えます。知りたがり屋は社会と接触しつつも、いつも孤独、一人。そんな
イメージがあります。
普通のおっさんかもしれませんが、そんなそぶりを決して見せない人でもあります。
                                  万理久利






『3304 シリーズ・歪んだ風景―鐵橋 第二回』 33号
 2012/12/24


          

結界
 二つの川とそこに架かった二つの鐵橋は、その街に住んでいる人が皆感じていたかど
うかは判らないが、空間的にも心理的にも私にとって結界であった。

 結界とはwikipediaによると、自然崇拝である古神道の影響を受けた仏教、密教であ
る山岳信仰でも用いられ、修業の障害となるものが入ることを許されない場所や土地に対
しても用いられる。
??この他、生活や作法上注意すべきなんらかの境界を示す事物が、結界と呼称される場合
もある。作法・礼儀・知識のない者は境界を越えたり領域内に迷いこむことができてしま
い、領域や動作を冒す侵入者として扱われ、無作法または無作法者と呼ばれる。
また、日本建築に見られる襖、障子、衝立、縁側などの仕掛けも、同様の意味で広義の「結
界」である。商家においては、帳場と客を仕切るために置く帳場格子を結界と呼ぶ。

 結界の内に守られた少年時代から結界の外へ飛び出していく私にとって、なにか想像
も出来ない危険に遭遇するか、それとも幸運のもとに己の人生が開けるのか、大いなる不
安とそれ以上の希望が同居する冒険と言っても良かった。
 再び結界の内側に戻ったとき、そこには知己の面影を見て同胞としての安心感を覚え、
一方屈辱、劣等感、苦しみに苛まれた過去の自己嫌悪もまた同時に思い出し、過去と現在、
異境と故郷、夢想と実感、静と動、継続と断絶、饒舌と緘黙、絶望と希望、永遠と一瞬、
安住と放浪等々、様々な「意識の流れ」に押し流されそうだった。






『 無限回廊 第十回』 33号
 2013/1/23


             宇宙戦艦大和艦長
          

バード・ブレインの初夢
super sybogのバード・ブレインはあるとき、太陽系第三惑星の消滅する前に14万8千
光年の彼方のイスカンダルへ放射能除去装置コスモクリーナーDを求めて宇宙戦艦大和
の艦長となって旅立つ夢を見た。パワー・イーターの完成が間に合わなかっこと、最終兵
器であるリターン・パスの全世界の国々への設置に遅れが生じたこともあって、一部の国
の争いで核爆弾によりガイアの人々に放射能汚染の危険が迫ったためだ。これらの預言は
既にモノリスに記録されたものである。






『シリ―ズ・歪んだ風景―鐵橋 第三回』 34号
 2013/3/26

           変装前        変装後

          

変幻自在
オキシモーラン的ポートレートとコメント−解離性同一性障害(多重人格)の悩み

変装前(結界内):
善意無過失、無毒無臭、誠心誠意、青天白日、正当防衛、精力絶倫、
精励恪勤、清廉潔白、是々非々、切磋琢磨、千思万考、全力投球
人様から後ろ指を指されないように謹厳実直に世間を渡り、常に和を重んじ体裁を繕う。

変装後(結界外):
青息吐息、悪衣悪食、悪逆無道、悪戦苦闘、阿修羅道、悪漢無頼、
悪口雑言、阿鼻叫喚、阿附迎合、阿諛追従、阿諛便佞、暗送秋波
善意の底に沈殿する悪意に敏感故、露悪趣味に徹して世間を笑う姿は、
まだ髪と髭は黒々としていた四十五歳頃の私で、まるで数十回も別荘
を出たり入ったりするどうしようもないラッキー・ルチアーノみたいな
悪党面だ。当時このような姿でクライアントと設計の仕事の打ち合わ
せをしていたかと思うと冷や汗ものである。






『シリーズ・歪んだ風景―鐵橋 第四回』 35号
 2013/6/9


          

笑顔が一番
 XとY川に挟まれた結界の中で暮らした小さい頃の写真を探したが、引っ越しの度に少
しずつ無くしてしまい、今ではほとんどそれらしいものは見当たらない。
 これは竹ひごと木の胴体と和紙を使って作るゴム動力で飛ばす模型飛行機である。当時
私はこの遊びに嵌っていて、放課後は道一つ隔てた大学のグラウンドで近所の仲間達と暗
くなるまで興じていた。今の時代と違ってみんな質素な暮らしの子供ばかりであったが、
じつに楽しそうである。
                古賀和彦(赤松次郎、バード・ブレイン、本郷淳吾)



113α編集部:2014/04/12(土) 04:19:24
「詩学」/西脇順三郎
.
            「詩学」/西脇順三郎??2011






詩学をよんで−1

先日、北君から借りた西脇順三郎の「詩学」を今読んでいる。西脇といえば日本に於ける、
我々が目指す「オキシモーラン」のメタファの先達だと認識している。

西脇は「詩学は自然科学や社会人文科学とは根本的にその性質が違う。『詩』というもの
は科学の対象になるものとその性質が違うということである。
『詩』は純粋に想像された世界である。だから詩学というものもみな想像されたものであ
る。想像された超科学的なものを科学として解明が出来ない。それ自体矛盾である。」と
書いてある。
そしてさらに「『詩』という言葉にはそれ自体二つの違った意義が含まれている。内面的
な意味と外面的な意味に分けることが出来る。それで内面的な意味の時は、私は『ポエジ
ー』という名称を付けたい。それは詩の精神とか詩作を読んだときに感じた意識としての
情念である。
外面的な意味のときは私は『詩作』(詩の作品)という言葉を用いることにする。それは
一定の韻やリズムなどの形式の作品をいう。『詩学』という意味に私はポエジーというも
のは何であるかを学ぶという意味である。」とまずその本の序に書いている。
2011/11/24





詩学を読んで−2

さて、西脇順三郎の「詩学」の要点を表題ごとに纏めてみようと思う。そうすればきっと
私の頭の中でその課題に対する分析と理解が増すであろう。私はいままで感銘を受けた本、
たとえば最近ではマイケル・マンデルの「JUSTICE」やアラン全集などを自分なり
に纏めてみたことがある。その結果、一回の読書では半分も理解しないで読み飛ばしてい
ることがほとんどであることが判った。世で言う速読や、一月に50冊読んだという自慢
げな多読者に比して、私の読書は遅々としてはかが行かないので、そんなに知識量は期待
できない。その代わり一つのことを反芻して行くうちに、いままで難しかった学説や理論
や用語の意味が突然実感として理解出来る時がある。まさに理論が情念と一致する「悟り」
となるのである。
2011/11/25





詩学を読んで−3

3−偶然
「偶然」ということは神学とか宗教家の間で言う神の世界、絶対の世界、永遠の世界に対
立して有限の世界、自然の世界、人間の宿命の世界を「偶然」という。
ポエジーはボードレール的に考えれば、精神と肉体との対立の上に立っている。この見地
からすればポエジーは無限と有限との結合の上に立っている。精神を認めると同時に肉体
も認めなければならない。ポエジーは非常に肉体的でなければならないと同時に非常に精
神的でなければならない。ポエジーは「アイロニー」であり、矛盾である。

そういえば止揚という哲学用語があった。wikipediaによると、
ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二
様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した。つまり、古いも
のが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古い
ものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論
が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考
の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。
国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方と
は異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

ポエジーは「アイロニー」という意味は、現実の世界と絶対世界の対立、矛盾の狭間で苦
悩しながら遂には最も価値あるものに昇華されると言うことか。
2011/12/9





詩学を読んで−4

4−想像
ポエジイはいつも新しい関係を創作することによって人間の自然法則と現実をより深く感
じさせるという価値を持っている。すべての存在は関係的である。物質の原子でさえもプ
ラスとマイナスという方向の違った二つのエネルギーの結合から出来ている。

ピカソは「芸術というものは自然と違ったものだから、同じものになり得ない。芸術によ
ってわれわれは自然でないものの観念を表現するのだ」、また「私の場合は一つの作品は
破壊の合計である」ともいっている。
もちろん破壊されたことだけでも一つの新しい関係を結ぶことになるが、それだけではす
ぐれたポエジイではないだろう。その新しい関係が、なにかしら永遠という神秘的な意識
を象徴し、なにかしら哀愁を人間に感じさせなければ、それはすぐれたポエジイではない
と思う。
ポエジイが創作する思考は非現実(イレエール)ではあるが、そうした方法でなければ「永
遠」といったような神秘的意識やあの分析の出来ない哀愁という現実にふれることは出来
ない。ポエジイは感じることであって、理解するものではない。
詩作の目的は超自然または超現実の世界を創作することによってポエジイを人間に感じさ
せることである。

私の場合はこの超現実的創作に従えば、単に自然を写実するだけの具象画に興味を見いだ
せない自分がある。すなわち現代日本画や細密の写実画などの見られる、ただ物体の再現
を目指すもののなかに「アイロニー」や「シュール」さや「現実でない神秘的意識」「哀
愁」といったポエジイを表現していないとみえるからだ。
われわれが目指すオキシモーランの目的は、「現実の世界」と「想念の世界」の鬩ぎ合い
のなかで、理性では感じられない情感を表現することにあると思った。
2011/12/15



114α編集部:2014/04/13(日) 20:25:18
男と女
.


????????????????        男と女




    作品の中にも掲示板の中にも、男と女のドロドロ、かけひき、情愛、
    といったものはほとんど出てこない。鈍色の世界、狭間、この範疇
    にも該当しないようだ。著者にとっては男女のことは秘密の小箱入
    りのようである。記事の中からやっと拾い出した。





男女の差違について

面白い話題なので、以前「斜光」にこの問題について書いた拙文を載せます。
男と女の生物学的差異については多田富雄著「生命の意味論」によれば、女の染色体はX
X、男の染色体はXYであるが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、人間
はもともと女になるべく設計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝子で、
血液凝固・色覚・免疫細胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に男をつ
くるためだけの遺伝子らしく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫で長持
ちするようにできているのである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男でも女
でもない状態であり、基本型がきまってから「夏目漱石曰く『でも・しか』すなわち男に
でもなるか、男にしかなれない」などといった程度のもので、Y遺伝子のためにむりやり
女の体を加工して男にさせられた結果だという。だからアダムの肋骨からイブが作られた
のではなくイブ(女)からアダム(男))が作られたということである。
だから今でもかみさんに頭があがらないのであります。
2007/12/20(木霊)






「性についての雑考 の感想」より

 私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
 エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
 「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
  (1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
  (2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。

2009/4/7(旧α掲示板)





「色模様 を読んで」より

◆ブログの写真を見て
 O−chanは不思議な人である。まるで剣客塚原卜伝の「無手勝流」の使い手のよう
 に、一見隙だらけのように思えて観客をハラハラさせるが、結局は己のなすがままにち
 ゃっかり勝利を手にしているという希な人である。
 その姿もクレオパトラか楊貴妃か藤原紀香のように傾城の美女という訳ではないが、男
 の心を惑わすような妙な魅力が備わっていて見飽きない。女優でいえば「足ながおじさ
 ん」に出たレスリー・キャロンか、「アパートの鍵貸します」のシャーリー・マクレー
 ンあたりだろうか、好き嫌いは別として・・・。

◆さて本題の「色模様」の感想を書くが、一言でいえば信子の「心模様」を見事に書きき
 ったもので、いよいよ私好みの「純文学」の世界へ入ってきた作品と言えよう。何が「娯
 楽小説」でなにが「純文学」かは人によって解釈が違うようだ。だからこの問題は微妙
 で一筋縄ではないようだから、こうであると今私が断じることはなるべく避けたい。参
 考として先日朝日新聞2009/3/25の「文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子」はこう
 言っている。
 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいかに
描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定義を
思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前でト
ンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
◆そこで「色模様」については、足を絡ませたり。耳を噛んだり、指を絡ませる等の肉体
 の接触で男女の関係を表しているが、この辺は通俗小説じみている。しかし「私が首に
 なって路頭に迷ったらあなた面倒見てくれる?」の会話における男と女の心理が面白い。
 男は自分の立場上不可能なことだと必死で説明し自分を守ろうとする。女は無理だと判
 りながら「安心しなさい、ずっと面倒見てあげるよ」という言葉だけでも言ってもらう
 ことでふっと湧いた不安が癒されるのである。そのへんの機微が男には判らない。私も
 細君にそのような問い掛けをされたとき、真剣に理屈をくどくど説いて、答えを出そう
 ともがくのであるが、「女の気持ちがちっとも分かっていない」「言葉は只、慰めを言
 わない手はない」などと叱られるのである。世間を見ると「歯の浮くような」言葉をよ
 くする男の方が、女性を幸せにするのかもしれない。だが私みたいな朴念仁にはなかな
 か出来ない辛い仕事である。

 男と女の繋がりは、一緒に側に居たい、それが心地よいと思うかどうかの問題で、不倫
だろうとなかろうと当事者以外が問題にするようなものではないと私は思う。男も女も今
の相手と違った魅力の人々が一杯いるわけだから、それぞれの人を好きになってはいけな
いという倫理感は、他人に押しつけるべきではない。そういう面での信子の生き方には、
決まり切った世間の通念に囚われない心の自由を感じる。だから今の彼との間に何らかの
束縛感を覚えたとき、信子はすんなり別れてしまいそうな気がする。
この小説は、そのような結論の出ない、たゆたいのなかの信子の暮らし振りが非常によく
書けていると私は思う。また筋の纏まりもよく一人称で語られているので人間関係も判り
やすい、よくできた作品と私は思う。

2009/4/20?? (旧α掲示板)





「*沈みゆく家 第六回 合評のお礼その4」より??*同人α19号
http://2style.in/alpha/19-10.html

1.「少女特有の希望といわれない不安」という一文が思わず大きな話題になりました。む
 しろ私の考えを早めにお答えするよりは、皆さんの侃々諤々の討論のままにした方がよ
 かったのではないか今は思っています。
 性差の違いは空間把握能力や言語認識能力などで違うといわれていますが、私は基本的
 な思考力や感覚においては、大きな性差はないと思っています。確かに子供が産める、
 産めないといった肉体的な差異や、社会的な環境において男の生き方、女の生き方とい
 った、長い年月をかけた刷り込みがあったのは確かで、そういう傾向をまだ引きずって
 はいるのだから男と女の違いの考えがあるかのごとき言葉を使ったことを反省している
 訳です。
 もし、性差による大きな思想や感覚の違いがあるとすれば、その謎は実に魅力的で、イ
 マジンさんの言われる「女性の神聖」は解き明かしたい衝動にかられます。実は私も少
 年のころにはそう思っていたふしがあります。お隣のホームページ「木霊」で企画され
 た「七夕様へのお願い事」に「二度生まれ変わりたい、一度は女性に、もう一度はその
 結果をみてどちらかに生まれ変わりたい」と欲張ったお願いをしました。でも今は同じ
 人間としての基本は変わらないと思っています。

4.柴田翔の「されどわれらが日々」の優子のセリフが少女特有の心理を表現しているのか、
 いつか読んで考えて見ましょう。

2009/8/6 (旧α掲示板)





*◇評者 ◆著者

「*鈍色の空 合評のお礼−1」より *同人α23号?? http://2style.in/alpha/23-3.html
万理さんへ
懇切丁寧に読み込んでくださって有り難う。以下設問に応じて・・・というより何がなに
やらとりとめもなく勝手に話を進めさせていただきます。

◇1から遡って読んでみると、様々な女性が出てくることに改めて気づかされた。のこと
について

◆今まで女性との関係を詳細に記述することがありませんでしたが、今回はそのことを意
 識して描きました。私はとにかく若いときからいままで女性にたいする定見を持ち得な
 かったので、むしろ性別を超えた独りの人間として接しようとしてきたと思っています。
 若いときは女性をすべて自分を超えた存在として、憧れの目で見ていたようです。想念
 の世界でアリサやレナール夫人に思いをはせても、現実の世界ではそのような純粋な思
 いが持続するとは思えませんが、人は未だにそれを求め、文学や演劇や映画の世界に浸
 るのでしょう。実際はほとんどの人生においては、逃れられない些末な雑事がほとんど
 の時間を支配していて、夢見るような幸せな恋心だけでは生きては行けないことはとっ
 くに判ってしまいました。

2010/6/25



「鈍色の空 合評のお礼−2」より

神野佐嘉江さんへ
◇「著者のポートレートとコメント集」を見たよ。近影かと思ったら数十年前 のだとい
 う。驚いたね。古賀君は昔も今もちっとも変わっていない。ただ、 ジーンズの前の辺
 りの紺が濡れ色だね。するとこれはおもらしか。それなら 近影と思えなくもない(笑)。

◆「ゆき」の中の「ゆきこ」との道「ゆき」は唯一次郎の女性にたいする微妙 な心の動
 きを詩情として感じていただき非常にうれしかった。その1から最 終回までを通じて
 これが書きたかったといってもいいでしょう。「じろうさん、じれったい」といみじく
 も長岡さんが書いたように、遠くばかり見ている次郎の女性にたいする晩成の性格を表
 し、内省としての記述はしませんでしたが揺れ動く若い次郎の心情が表現出来ればいい
 と思いました。

2010/6/26



「鈍色の空 合評のお礼−3」より

長岡曉生さんへ
◇これら全てが鈍色である。とは言え、この尾形の肺炎が、後段の主人公とゆきことの間
 の、かそけき思い出を作る一つのきっかけに成って居るのが、また作者らしい巧みな話
 の進め方と言える。

◆高揚感と現実のままならない憂さとの対比は長岡さんのいうように出来るだけ前後して
 際立たせました。人は何かのきっかけを作っては心の中の澱を希薄しようと試みます。
 私は酒を飲んで憂さを晴らすというと思ったことは一度もありませんでしたが・・・。

◇敢えて交情と書いたが、作者は常に露骨な表現を避け、対象とは距離を置いて淡々と描 写している。これは、作者が持つ想念世界への憧れとそれがもたらす一種の潔癖性なの か。それとも、そのような作中文体に表現を限ろうとする、意図的試みなのだろうか。

◆お礼その2で書いたように私はロマン主義的な傾向があり、「誰かがそれを」のなかに
 出てくる「入れ歯」とか「生理」とか、あまりにも直接的な露骨な表現を避けるきらい
 があります。事実ではあるがあまり余韻のないものを、いかに別の言葉に置き換えて表
 すかはいつも推敲するところで、直截的な言葉や一般に多く使われているものに対して、
 安易に使用して済ますことを厭うからです。これは個人的な趣味の問題かもしれません。

2010/6/27



115α編集部:2014/04/14(月) 17:04:28
小さな交流
.
             小さな交流





??????????????????  ??????????ゆるりん


ゆるりん朗読会  2010/11/8

土曜日S君と朗読会に行った。音楽をバックグランドにちょっと怖い話ばかり4話聞いた。
会場のクライン ブルーというパブ&ギャラリーは一度誰かの個展を見に来た覚えがあっ
たが、知り合いの誰のだったか失念した。
日時:11月6日(土) pm18:30〜20:00
場所:KLEIN BLUE(クライン ブルー)
   東京都千代田区神田神保町1-7
◆ゆるりんリーディングナイトとは、ナレーターやラジオのDJとして活動している西原
 さおりさんと吉田美穂さんが結成した朗読ユニットであるとパンフレットには紹介して
 ある。http://yururin.com
??これは活動は澤田君も関係している、神田神保町のボランティアグループ「神保町応援
 隊」の活動の一環だと聞いた。
◆朗読の題:川端康成 心中
      阿刀田高   迷路
高橋克彦 母の死んだ家
星新一 ボッコちゃん
◆店の名前クライン・ブルーのいわれはイヴ・クラインという画家の好んで用いた色だという。

     クライン・ブルー

wikipediaによると
ヴ・クライン(Yves Klein, 1928年4月28日 - 1962年6月6日)は、単色の作品を制作する
モノクロニズムを代表するフランスの画家。アーティストとしての活動は晩年のごく数年
である。特に「青」を宇宙の神秘的なエネルギーに通じる最も非物質的で抽象的な色だと
して重用し、自ら理想的な染料を開発した。1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナ
ショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色
(右の画像は近似色)の特許を取得し、ミラノで『イヴ・クライン−モノクロームの提案、
ブルーの時代』のタイトルで行われた個展で、この染料をキャンバス一面に塗布した青色
の絵画の作品群を発表した。また海綿で作ったレリーフや彫刻にIKBを染みこませ青色に
した作品も発表している。




ゆるりん 西原さん より 2010/11/9

 古賀和彦様
こんばんは。お返事が遅くなってしまいました。「ニューロン・カフェ」拝見しました!
ゆるりんのこと紹介くださってありがとうございます。厚かましくお返事してしまいまし
た。古賀さんの作品、読んでます。すてきです。たくさんの物語があって、わくわくしま
すね。ニューロン・カフェ。わたしも書いてみたいです。なんて。さて、音楽ですが、一
部わからないところがあるので当日音響を手伝ってくれたスタッフさんに問い合わせてい
ます。リストが届いたらまたメールいたします。それではおやすみなさい。




西原さん朗読  2010/11/9

西原さん朗読の「夢十夜」を YouTube で私も聞いた。
子供や大人の声の使い分けが流石にうまい。朗読の速度がゆったりとしていて、じっくり
と話の内容に引き込まれるのである。
読書で感じるものと朗読でのものとの違いは確かにあり、読書では理が、朗読では感情に
強く響くようなな気がする。
もともと文で書かれたものにひとの声で語ることが感情というものを新たな要素として加
えるためか。確かにwikipediaでは「朗読とは、声を出しながら文章を読むこと。「音読」
ともいうが、「朗読」には感情をこめて読み上げるという意味あいも含まれる」とある。
これはたしかに別の芸術の誕生のようでもある。たとえば絵に触発されて小説になるとか、
小説を題材に絵をかくとか。あるいは全く違う思想が芸術運動を生むとか。確かに斎藤隆
の「声に出して読みたい日本語」の中で広沢虎三の「石松三十石船」や「白波五人男」の
一節を朗々とうなる心地よさは確かに否定できない。
また、歴史を通じて、文学の享受のされ方は、黙読よりも朗読が中心であったとされてい
る。識字率の低い社会では特に読み聞かせが重要となるが、19世紀のイギリス中流階級の
ような教養のある家庭でも、小説や詩の朗読は家庭内での娯楽の一環として確固たる位置
を占めていた。 wikipediaより
以上これを契機に色々と勉強した。そして、余計なことかもしれないが、西原さおりさん
に詩や文を書いて自分の作品を朗読されることを期待したい。




BGMリス  2010/11/10

 古賀和彦 様
こんばんは。大変お待たせしました。「Mystery」のBGMリストができましたので添付いた
します。「迷路」に使用させてもらっているアルバムはリュート・ギター奏者の菊地雅樹
さんのオリジナルです。一緒に舞台を経験させてもらったこともあるすばらしい音楽家で
す。菊地さんのリュートもヨーヨー・マさんのチェロも音色がもの悲しいので、今回の作
品にはぴったりはまったのでは!?なんて思っているのですが・・・いかがだったでしょ
うか。ではではおやすみなさい。   ゆるりん 西原

ゆるりんリーディングナイトVol.2「Mystery」BGM リスト
“心中”(効果音集から使いました)
“迷路”シャコンヌ/菊地 雅樹リュートによるシャコンヌ集
1.Chaconne in G minor
2.Passacaglia in D
3.Suite in A ?.Allemande
14.Chaconne in D minor BWV1004
“ボッコちゃん”
 ベスト・オブ・ベスト/クラシック・ピアノ
 DICK 1
15.ジムノペディ 第1 番 サティ
3.泉のほとりで リスト
 “母の死んだ家”
  THE BEST OF YO-YO Ma
 6.ヴォカリーズ(プレヴィン) Vocalise for Soprano, Cello and Piano (1995)
 2.「ボヘミアの森から」op.68~森の静けさ(ドヴォルザーク)
ベスト・オブ・ベスト/クラシック・ピアノ
 DICK 4
 4.シチリアーノ(J.S.バッハ,ガルストン編)
 5.トッカータ(ホ短調)(J.S.バッハ).
6.ヴォカリーズ(プレヴィン) Vocalise for Soprano, Cello and Piano (1995)
《最初と同じ曲》



ゆるりん 西原さんへ  2010/11/10

私の作品を読んでいただいてとてもうれしいです。私たちは無名の素人集団ですが、自分
の存在の目的、価値などの疑問に対して常に興味を抱いて、解明しようと努力しています。
だから自分の頭の中で思考して、そして文字に表現して確かめ合っています。
私達の年齢になると社会のシステムから身を引いて、静かな生活を営まれている人達が多
いと思いますます。そして第一戦で活躍した人も今は自分を評価してくれる場がなく寂し
い思いをしている人を見受けます。だから私は50歳を過ぎたころに、我々がそういう立
場に立ったときの表現の場を作らなければならないと思いました。
もうお気づきかもしれませんが、15年前に作った「斜光」という同人誌は私の出身高校の
同期を主体として作りました。しかしそれが同窓会誌的になってきたところで、創作を主
体とした本当の意味での同人誌を作りたくて、そこを脱会しました。そして同人αという
新しい同人誌を作りました。会員20数名になったところで、またまた考え方の違いで脱
会して行く人があり、今は7名で運営しています。ブログの規約を読んでいただければ明
記していますが、出自、年齢、人種、思想、信念は一切問いません。
ちょっと宣伝になりましたが、最後に私の詩を紹介させてください。作品集の第11号「選
択」のなかの「「シリーズ・歪んだ風景−岐路(きろ)」です。この詩のなかには春夏秋冬と
いう時間の移り変わり、その季節季節の花と香りと音楽を取り入れたという盛りだくさん
の欲張りなものです。舞台はロミオとジュリエットの舞台となったイタリアのベローナと
いったところでしょうか。最後は男と女の別れを示唆しています。
それからBGMを挿入していますが、本当は場面に流れる音楽がセットできればよかったの
ですが、残念ながら技術的にできませんでした。西原さんの評価は如何?
お忙しいようでしたら返事は不要としてください。とにかく「ゆるりん リーディングナ
イト」のBGMの資料ありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。






??????????????????????      西澤老人


西澤さんからの手紙  2012/3/6

 今日山荘に引っ越すために書類棚の整理をしていたら懐かしい手紙が出てきた。差しだ
し人は碁敵(ごがたき)の元R大使だった西澤老人だ。なんとも先輩としての、い
や子供への心配りのようなその書面に私は今更ながらほろりとした。父の回想録を進呈し
て「大したお父さんだ」という感想をもらったり、東京を離れるときは自分の創った漢詩
を書いた色紙を持たせてくれたりしたものだ。あの寡黙で気むずかしい風体の老人と親し
くしていたのは私だけだったかも知れない。しかし今、その当時は届いたこの手紙を読ん
だという記憶はまったくなくて、今更ながらこういうやり取りをしていたとは少々驚きだ。
 ちなみに西澤老人は私より20歳は年長の人で、その当時は普通の囲碁仲間として付き
合っていたが、実は偉い人だったのだ。

西澤氏:大正一桁生まれ. R大使. N大使(1980年代)従三位叙位 (平成)
 その手紙の内容によると、12年前都落ちして寄食していた母の住む田舎から出した手紙
と、「都市と田舎の狭間で」を書いた「斜光」第5号を送った時の返事らしい。



拝啓
 お手紙とエッセイ拝見しました。少なからず敗北主義的な匂いがあるので心配です。兎
にも角にも佐賀は貴方が少年時代を過ごした故郷でしょう。当時に較べれば簡易でも水洗
便所ができ、電気冷蔵庫も洗濯機も、カラーテレビもある現在は格段に改善されています。
ムカデや蜘蛛やはいるかもしれませんが、昔に較べれば格段に減っている筈です。これか
らも家の内外の状況が改善されれば益々減少するでしょう。幸いに貴方は建築設計の知識
と技術があります。少しばかりの工夫と日曜大工の労力を惜しまなければ、収納場所も増
え、便利で使い具合のいい、皆に喜ばれる改良も困難ではないでしょう。
 アメリカの私の娘夫婦の家も築百年の寄木造り(柱のないツーバイフォー?)の建物で、
前の所有者は共有者が互いに喧嘩していた由で、大きくはあるが手入れはまったくされず、
穢くて荒れ放題でどうなることかと心配していましたが(それだから安く入手したので
す)。婿殿は十五年の日曜大工の結果、見違えるように綺麗で使い安くなりました。保険
屋によれば評価額は三倍位になったそうです。
 ガラクタ類も棄てないで工夫すれば厚生利用も可能でしょう。また使い道のある人に進
呈すれば喜ばれて交際も楽になるでしょう。近所の人のお節介やきは貴方に対する関心の
現れです。魑魅魍魎の音に聞こえるのは、蟲や鳥獣の鳴き声で、暴走族のバイクの音に較
べれば何程のこともありません。馴れてきまます。ネオンの光はなくても、満天の星を仰
げるでしょう。
 私の記憶では、和泉式部は逞しい女性であったような気がしますが、いずれにせよ、水
洗便所も洗濯機も風呂もシャンプーもなかった平安時代の女性は、貴族でも不潔で臭くて、
物の怪や呪術に恐れ脅えてあれな人達であったのです。それに較べれば現代の人達は格段
に恵まれています。また更に良くなる展望をもっています。
 兎に角、敗北主義は禁物です。斗いを避けてはいけません。当面は居直って何事も前進
的に考えて下さい。必ず道が開けるでしょう。東京へ逃げて返ってはいけません。それで
は東京へ帰っても何も良くならないでしょう。心配です。田舎でも充分暮らして行ける自
信をつけてからの上京なら、それなりに再起可能でしょう。頑張ってください。
 老婆心からついお節介な忠告で失礼しました。お容赦ください。

8月31日
古賀和彦 様                    



116α編集部:2014/04/16(水) 18:10:53
斜光のこと
.

            ??斜光のこと αのこと





「斜光」編集会議報告 ??2002/6/29??(BBS 落書き帳)

みなさんへ
このフォーラムもおおくの仲間が開いてくれています。
同人誌斜光への関心も一層深まってきております。そこで斜光編集の様子もお報せしてはどう
かとの意見も出始めましたのでここに編集会議内容を掲載することにします。なお編集に関し
てご意見ご要望があればこのフォーラムへ書き込んでください。

1. 開催日時;平成14年6月22日(土)
2. 出席者;編集委員10名
3. 主な打ち合わせ内容
・ これまでの投稿者…31名
・ 投稿を予定はしているが、現時点での未投稿者…13名
 →6月末期限で投稿をお願いする
・ 「編集後記」、「色眼鏡」、「風の便り」、「作品に一言」等の原稿にはそれぞれのタイト
  ルを明記のこと
・ 「斜光ホームページ」のPR。ホームページアドレス<URL>を裏表紙下部に掲載する
・ 「ふうけもん会」「読書会」「鳥見会」等のサークル活動を風の便りで紹介する
・ 10月19日の<佐賀;同窓会>に間に合わせるために、今後次の予定で進める
(1) 8月10日(土)校正会議→校正チェック完原稿の返却期限<8月末>
(2) 9月初原稿の最終チェック
(3) 9月中までに印刷渡し
(4) 9月末までに印刷完了
(5) 10月初からの発送





新しい投稿者歓迎!! 2002/10/6 (旧同人α掲示板)

「斜光」第7号もすでに手元に届いている方もあると思います。そこで紹介されました「斜光」
ホームページへようこそ!!

「斜光」の誌は年に一回のおつきあいですが、ここでは毎日の意見交換の場で、すでに一年の
試運転期間にこのようなたくさんの楽しい付き合いをしてきました。はじめて「落書き帳」を
開いてくださった皆様も大いに落書きをしてください。一番下の欄の管理者をクリックすれば
自分の原稿の修正・削除が可能ですので、恐れることなく書き込んで下さい。まずは勇気をだ
してなにげない日々の感想から・・・。





「斜光」パイロット版について 2004/ 9/27 (旧同人α掲示板)

「斜光」パイロット版について私にも言わせて
その当時400部も発行する同人誌にするという大それた考えはなかった。ただ仲間同士で手作
りで何かを創ることに喜びを味わいたかった。私は日本中の同人誌について図書館で調べあげ、
2・30の候補の題名を書き出し、われわれの目指す誌にふさわしい名前を4人で検討した。北君
の武満徹の作品からと思えるノヴェンバー・ステップス (November Steps, 1967年)以外の
提案はなく、その2・30の中から選ぶことになった。

そして残ったのが「斜行」と「斜光」の2つであった。昭和35年卒業と佐高を掛け、加えて「サ」
を「シャ」と発音する郷里の訛りで味付けし「シャコウ」としたわけである。
O−chanの書いた通り、「斜光」を推していた私がトイレに発った瞬間に3人の推す「斜行」
に決定した。まだ討議の途中と考えていた私の思惑は甘く、冷徹な民主主義の数の論理に押し
切られたしまった。

散々回り道の人生を歩んできた私はこれからの行く手にせめて「光」を望んだわけだが、0号
を手にした人から「私はまっすぐな道を歩んできたのに」 という意見もあって創刊号では
「斜光」に戻したいきさつがあった。

しかし、今考えると「光」はなんだかカルトの宗教の匂いがするようで、もっと率直に自分の
生き様を表した「斜行」でもよかったような気がする。





「自己流を貫く」 2007/2/13

「天声人語」2月13日
フランス歌謡界の長老 シャルル・アズナブール(82歳)が「最後の銘打った日本公
演を続けている。歌手でも役者でも、流れの速い芸能界で長く一線にとどまるには二
つの道がある。軽やかに時流に乗るか、頑固に時流を貫くか。シャンソンの名手には
後者が少くない。

私も「斜光」との和解で、皆さんの説得や取りなしがあって、「もう仲良くしてもい
いか」と思ってしまいそうになるが、やはり当初「個人の自由」を認めなかったとい
う経緯と彼らの考え方には妥協すべきではないと思う。
それが頑固といわれようと・・・。





「X氏のポートレート及び賛」より 2008/1/8 (旧同人αブログ)

◆X氏が、限りなき同窓会誌に近い同人誌である「斜光」を見放すように決別したの
は、決してイデオロギーの対立があったからではない。それはほとんどの世の重大事
が取るに足らないように見えるものから端を発するように、じつに卑近な諍いから始
まり、最後は同人αという別の冊子を立ち上げるエネルギーにまで大きくなったので
ある。
 よそから見れば些細な行き違いのようだが、食い物の恨みは末代まで残るというで
はないか。その当時は私も、たとえそう思っていたとしても決して口には出さなかっ
たであろうことを、有力な編集委員であるB君により、実にあっけらかんと「Xさん
の料理はありゃ何だ味も飾り付けも最低だ」と酒の勢いで宣ったものだ。それ以来華
麗なる馬込村の社交場から彼等一族は抹殺されて今にいたっている。





「いひゅうもん」より  2008/7/21

◆同人誌「斜光」については碇さんの説明の通りでありますが、少し詳しく説明しますと、
高校卒業周年記念に作った「青春のあの時」という冊子を執行部が編集しました。それが
とても面白かったので、あるとき飲み会で田村さん、田辺君そして私の3人が「あのよう
な冊子が一回きりではもったいない」といことになって、我々だけでも同人誌を作ろうで
はないかということになった訳です。
 「斜光(しゃこう)」という命名の経緯は全国の同人誌の名前を200ばかり集めて、
最終的には碇さんの説明にある「佐高」「昭和35年卒業の35」を佐賀弁のなまりを加
味して「しゃこう」と呼び、なおかつ一生を一日と考えれば、50代を午後3時ころの斜
めに射す太陽の光に照らされた時間、「斜光」とした訳です。
 実は創刊号は「斜行」でした。人生はあちこちと迷いながら生きると自覚しての名称と
して田村さんが推し、「斜光」を推た私が敗れました。それはちょうど、このホームペー
ジの名称である「言の輪」と「ニューロン・カフェ」の攻防と同じものでした。
 しかし斜光第10号に至って、今回の(*落書き帳)「掲載拒否」の雰囲気が流れ始め、
例のごとく個人の自由を制限するようなことには我慢ならない田村さんと私は「斜光」と
袂を分かつことになり、今は「同人α」を立ち上げてそれを主体に活動をしています。

◆それにしても「言の輪」に投稿する人達のエネルギッシュなことには驚かされます。
「村のはずれの船頭さんは ことし六十のおじいさん」などと歌っていた幼少の頃は本当
に六十歳と言えばおじいさんに見えたものですが、皆さんは前期高齢者と言われようと難
しい問題に挑戦して真理を探求することを厭わないという、なかなかの強者揃いでありま
す。




同人α19号合評より  2008/9/27 (旧同人α掲示板)

 遠藤周作の「沈黙」という本がある。病気や迫害などで苦しむ信者がキリストに救
いを求めるが、神は奇跡をおこして民衆の直接の苦痛を解決してはくれなかった。た
だ苦しむ人達の話を最後まで静かに聞いてくれたいう内容である。それはとりもなお
さず肉体的な苦痛よりも精神的な苦痛に真剣に向き合ってくれたということである。
遠藤周作はキリスト・神の行為について深くて重い思索をしている。
 じつは私達数人が「斜光」や「同人α」をつくった原点が、現役から離れた時社会
への参加の機会が減ってくる寂しさをどのように克服するかということだった。それ
は少なくとも仲間うちで絵や音楽や創作という自己表現を通して認め合うということ
で、人間としての存在感を確信する所にあるのではなかろうかと考えたのである。そ
れが「斜光」や「同人α」というものだった。
夕子もこれから社会のなかで自己表現できる場所と、一人の人間としての存在を認め
られる何かを見つけられればいい。





「ペンネーム考その2」より  2009/12/6

同人誌「斜光」を立ち上げてからまもなく、ペンネームは是か非かという一大論争に
なった。私はペンネームOKの論を張り、もう一人は駄目という。そこには「斜光」
が同窓生を主体とする同窓会誌であるという認識があったらしい。だから本名で書か
ないと作者が誰か判らず、読む気がしないという。私は資金的にも公の同窓会に寄る
ところもなく、自立しているから完全な同人誌である、読むか読まないかは作者を知
っているどうかではなく、内容が面白いかどうかの問題である、と主張した覚えがあ
った。たとえ彼の言うことに百歩譲ったとしても、個人名を「和彦をかずひこ」とか
いても「シズエをしずえ」と書いても、それは戸籍に載っている通りの名前と違うと
いう言い分に至っては、パラノイア的な極端さを私は感じた。そう言う人は同じ思想
や出身や年代の集団に固執し、多様な価値観を認める開放性に乏しい人だと言わざる
を得ない。
結局は編集委員会の結論として、ペンネームを禁止はしないが、出来るだけ本名で書
くようにしようという、玉虫色の結論で決着したのである。
その時私が主張したのは、人はその時々で自分の気分に合った着物を着て楽しむよう
に、人間の複雑な心模様のもとに創作する文の作者名も、本名と別な思い入れのもと
にあっても良かろうという論法であった。確かに私達が創作ものを主体に本を作ろう
としたことにたいして、 同期生の動向を主体にする「情報誌」として考えるという
目的の違いがあったのだが、 最終的に「斜光」は同窓生の情報誌に近くなり、私は
「斜光」と別れて「同人α」という純粋な同人誌に移行した。





「オブジェクション−1」より 2010/2/27 (旧同人α掲示板)

古賀さんと私は北島さんが言ってくれた様に、「斜光」の固定した組織、投稿資格他
の規則、「落書き帳」の検閲、更には暗黙の内での貢献度比例の発言の重さ等に閉塞
感を感じ、もっと自由にやりたいと思って抜けたのに、何故彼が今再び「斜光」と同
じ様な事を言い出して来たのか、理解に苦しみます」 (X氏)

私は「斜光」の組織や規則が嫌だったわけではありません。「斜光」以外の個人的な活動
を束縛されたから辞めたのです。規約や細則には24時間「斜光」に奉仕しなければなら
ないとは規定してなかった。また規定してあったからといって個人の自由な時間の行
動を拘束するようなものであったら、初めから参加しなかったでしょう。





「決別の賦」より 2010/3/21

◆15年前設立した「斜光」と同じように、5年前に設立した「同人α」を掲示板封鎖
という形で以前の仲間の元から去らねばならなくなった。そこに相容れぬ志の違いが
あったが、私は両方の同人誌に私のできる精一杯の役割を果たしてきたつもりである。
しかし志半ばにして別れなければならない悔しさは、長くない私の人生に消すことの
できない悔いを残すであろう。石もて追はるるごとくと唱った啄木の詩「ふるさとを
出でしかなしみ 消ゆる時なし」や、理想主義は敗退しダブリンを石もて追われたシ
ェリーのように・・・。





「同人α問題」より  2010/4/1

Xさん
これはあくまでも私と貴女の個人的な繋がりと、忌憚ない見解を示すもので、北島氏
や東内氏にはこの文は送りません。

一時は長く同じ道を歩んできた貴女だったので、不満を残しながらも惻隠の情でもっ
て上手く納まると良いなと思いました。しかし亮子さんや貴女の最後のメールを受け
取って、私の考えも変わりました。まるで我々が横車を押して同人αを不法占拠して
いるかのごとく、早く精算して出て行けと言わんばかりの認識しかないことがわかり
ました。こちらは貴女が行動を起こした事について悪いとは決していってはいません。
しかしその原因を忖度するにおいて感情的な好悪を持ち出されると、やはり解決は困
難になります。

これはもう一度どのような問題だったのか総括してからでないと前に進めないと思
い、過去のログを読み直してみました。
「言の輪」上での私のオブジェクションその1からその8の最終回までと、貴女達の
投稿を読み直すと、これからの同人αをどうするかという議論の段階から、突然の3
月9日からおよそ15日までの間の一方的な貴女の行動により、同人αのこれからの路
線の議論から、同人αの存続や帰属の正当性の議論へと対処すべき問題点が全く変わ
りました。

蒸し返すのは嫌だと貴女に言われそうですが、過去ログをみて判断すると、貴女達は
新しい活動を目指して同人αを出て行ったとしか思えません。それは実に潔い行動だ
と思います。私もまた5年前10年間いた「斜光」を考え方の違いで出て行きました。
その時私がプロバイダとの契約者であった「斜光」のホームページも、そしてその外
の全てを残して来ましたが、潔く身を引いたことは今でも自分の行動に恥じるところ
はありません。それは残った人達が良いの悪いのといったことや、自分の立場の見栄
や勝負に負けたとか勝ったということを問題に出しませんでした(個人的には悔しか
った)。しかし自分の志をしっかり自覚して貫くことが自分の好きなことを実現でき
ると確信したからです。

Tさん、いろいろ述べてきましたが、過去ログから私なりに判断して、貴女はすでに
同人αのメンバーではないと考えました。しかし貴女のとった行動を私が非難して居
るわけではありません。ですが、そのように認識している貴女が未だに同人αのメン
バーであるごとく多数派工作までして、自分達の立場を守ろうとしていることが不思
議でなりません。もし貴女が同人αを出て行ったとすれば、同人αに対するその後の
意見は内政干渉であり、一方まだ同人αに在籍しているという認識であれば、同人の
発表の場であった「言の輪」を個人の物として持ち去り、同じ考えの人しか投稿させ
ないという行為は、他の同人や一般の投稿者にたいしてどのような釈明をされるのか、
明確な考えを伺いたい。

貴女ももはや一人ではなく同じ考えの人達がいて身軽に舵を切ることができないよう
に、私も同じ考えの人達が居ます。私もメンバーのなかには好きな人と嫌いな人がい
ますが、それを表明することがいかに不届きなことかを知っています。だからどうし
ても我慢が出来なければ、排斥するよりむしろ私が出て行くことを選ぶでしょう。立
場や名誉や見栄は関係ありません。貴女の行為の発端が好き嫌いの感情でもたらされ
た行為であれば、いつまで経っても現実的な解決は覚束ないでしょう。お互いに知ら
ないうちに不快な言葉で応酬していたかも知れませんが、事実を直視してどちらに理
があるか判断してください。

どうも厳しいことしか書けませんでしたが、これからも度々顔を合わせるでしょうか
ら、感情的に憎しみ合うことだけは避けたいと思っています。
余計なことですが、この文の根拠になった貴殿による投稿文を添付します。

離婚宣言  2010年 3月 9日(火)01時41分
北島さんは「一緒にやりたいならそう言って下さい」と元の莢に収まる可能性を匂わ
せて書いたけれど、私は「そう言って下さっても」もう一緒にやりたくありません。

お世話になりました    2010年 3月 9日(火)17時42分
私達と別れた後、まずは3人で同人誌を始められたらどうですか。こじんまりも嬉し
い物です。αという名称は、欲しいと言うのであれば差し上げますが、掲示板は娘に
聞いた所では、アドレスやパスワード他が全部私と娘になっているので、譲るのは無
理だろうと言って来ました。

新同人募集  2010年 3月10日(水)19時09分
先日離婚宣言した後は、将来の方向も徐々に決まり、楽しくなってきました。無残に
切り倒されたアルファの木の株から、小さな枝と春の若芽が出てきているのを見つけ
た嬉しさです。北島さんと私で、新しい同人を編成します。アルファ同人との仕切り
直しでなく、全く新しい同人になります。古賀さん、小柳さん、万理さんを除き、こ
の新しいグループに参加する方は北島さんか私に、その意図だけをお知らせ下さい。
方法は公の掲示板でも個人のメールでも構いません。

付記  2010年 3月10日(水)19時30分
「言の輪」とブログは今は私個人の物という認識で、ブログから3人のお名前は外し、
約束事は暫定的と入れました。合評は明日から一週間田之頭さん等、新しい体制が決
まる迄、当分今迄を踏襲します。

赤松さんへ   2010年 3月11日(木)09時18分
今後古賀さん、小柳さん、真理さんは暫く投稿をお控え下さい。
私は3月9日に同人αと離婚しました。辞めたのです。決してどなたも追い出したり
辞めさせたりしていません。私が出て行ったのです。「α」や「言の輪」の名称にも
未練はありません。3人の方々はどうぞ別に掲示板を立ち上げて、残った同人達と一
緒に頑張って続けて下さい。娘の手を借りないと何も出来ないPC 音痴の私と違って、
3人共それこそ十数分で出来る作業ではないですか。

今後   2010年 3月11日(木)22時50分
今日は映画の後、このためにわざわざ上京してくれた武藤さんも一緒に、今後の新同
人の進め方について、打ち合わせをしました。その中で古賀さんと小柳さんの投稿に
ついてどうするか聞いてみた所、ちゃんと警告してあるのだから、さっさと削除しろ
という意見から、いや彼らの言い分に反論したいからしばらく待ってくれという意見
があり,それも面白いからしばらく待つ事にしました。

今後   2010年 3月13日(土)18時06分
今日古賀さんからの別件の電話で、23号の発刊も含めαは別に掲示板を立ち上げて
続けて行きたいという話を聞き、私達は創刊号から始める事を自らに再確認した所で
す。脱会しておきながらいつまでもαの名を掲示板やブログに残して置くのは申し訳
ないので、取りあえず新しい同人名が決まる迄、仮称βとしました。





「言の輪」 2011/10/25 (戯評)

小学校の同窓会  投稿者:X 投稿日:2011年10月24日(月)23時45分17秒
それからしばらくして「斜光」を作り、それを皆に衆知させる為に、せっせと同窓会
で顔を売り、その後「言の輪」発行もあり、知らない方にまで気軽に話しかける事が
すっかり習性になってしまい、今に至っています。2つの冊子作成がなければ、今程
色々な人達とおつきあいする事にはならなかったでしょう。


◆おいおい、「同人α」をまず作ってその後「言の輪」を作って別れていったこと、
その同人αは未だに引き続き存在していることはすっかり無視してしまっている。
「斜光」を創った自分、今の「言の輪」の存在をことさらに強調するこの文は、いか
にも意図的・恣意的誹りを免れないだろう。
この人は生きるためにはプライドも矜持も良心も公正さも、精神的なものは全部肥だ
めに捨て去り、その中に落ちたハンバーグでも拾って食べて生きそうな動物的激しい
本能を持っているように思える。



117α編集部:2014/04/19(土) 13:56:44
異風者
.


????????????????        異風者





異風物さんへ 2002/11/7

異風物というペンネームは郷里で言う「いひゅうもん」のことでしょうか?
辞書には「異風」とは・・・普通とは違った風体、姿、やり方、風習、風俗。また連歌の付句
の形のひとつとあり、また「斜光」第二号の田辺氏の明解国語辞典には「いひゅうか」を気難
しいと解説してありますが、私の感覚ではちょっとニアンスが違います。
「人と違ったものの感じ方・考えをする人」と、或るいはそのように敢えて考えようとする人
を個性派・変わり者とする意味の方が「気難しい」より本質を衝いているのではないでしょう
か。そのような個人主義の人が共同体の中ではなかなか迎合しないので「箸にも棒にもかから
ない」とか、「ぎゃすぎゃすどんく」・「天の邪鬼」などと揶揄されるのでしょう。

しかし、「全会一致は無効」とするユダヤ法の意味でもそのように異論を唱える御仁は貴重で
あります。あるアメリカ映画で全員ですばらしい結論を承認する時一人だけ反対する老人がい
ました。なぜか?彼は主張した「全員賛成では民主主義が成り立たない」!

ところで、先の同期会の箱根旅行で私に「俺は異風をモットーとする」といった、NHKドラ
マ:山本周五郎:春がきた)にでているひげ面の主人公にそっくりの貴君がこの「異風物」で
すか?そして貴君の論は私の意見に近いということは、私もまた「異風者」でしょうか。





異風者氏へ 2003/12/4

ずっと昔、読書家の異風者氏から最先端科学の「複雑系」の話を聞いた覚えがありました。
そのときはたいした興味を覚えなかったが、最近「量子力学」・「超ひも理論」などをへて
「複雑系」の本を読みました。

ところで、「noriさんへ」の投稿をみると堅物ばっかりと思っていた異風者氏もそのよう
なユーモアの持ち主であることが判って嬉しいですね。

小生も自分ではよく出来たと思うのですが、そのようなダジャレを息子から「親父ギャグ」と
白い目で一笑にふされ続けています。しかし、「親父ギャグ」は江戸時代よりつづくダジャレ
を継承していて言葉遊びの一つの文化でしょう。同音異義や何かに見立てる掛詞などを瞬時に
組み立てて表現することは並の業ではありません。

話はかわって、異風者氏は「読書会」ば自分と違う傾向の本をテーマにしているとこのHPに
書いておられたが、それは違います。参加した人が次の本を決める訳ですから、漫画・エロ・
科学・哲学・神学等、そのジャンルは問いません。

そう言うわけで、是非「読書会」に参加されて、私共を「構造改革とロジステック方程式」や
「零式艦上戦闘機」の迷宮へ誘って欲しいと思います。





「肥と筑」第5回感想 より 2008/7/19

◆「知の巨人」についての長岡曉生さんのクレームがありましたが、けっしておちょ
くってニヤニヤしているわけではなく、心底私はそう思っているものです。それに比
べて、さしずめO−chanが「痴の巨人」なら私は「稚の巨人」といったところで
すか。

◆製鉄の話で小さい頃のことを想い出しました。
私の父は戦後小さな鋳物工場を経営していました。そのためそのことについて私は色
々のことを見聞きしていました。樋口さんの「付文」に出てくる銀色の無臭で硬いコ
ークスが珍重されていることも知っていました。コールタール、ピッチなどの不純物
が混入している石炭では高温を得ることができません。だから高価なコークスを使用
して、解体された軍艦などの鉄くずとを混ぜて溶鉱炉に入れて燃やして銑鉄をつくり
ます。どろどろに溶けて太陽のようにまぶしく輝き、線香花火のような火花を散らす
鉄を、上半身裸の男達が鉄の柄杓で受て、鋳型に流し込みます。車の部品やら、橋桁
の受け材やら、鍋などに成型されます。九州の夏の夜などは普通でも寝苦しいのに、
溶鉱炉を使った日などは、工場と壁一つ隔てた同じ建物の住居では地獄のような暑さ
で、まともに寝られたものではなかったことを記憶しています。

◆私は「いひゅもん(異風者)」に憧れます。ここにその「いひゅうもん」についての
天野 勇吉の「あんころじいの方言放言」というエッセイがあります。少々長いが載
せてみま しょう。
早稲田大学をつくった大隈重信とか、日本赤十字社の生みの親といっていい島義勇と
か、いずれも幕末から明治初期にかけて大きな仕事をした人たちですが、そのなかで
ぼくがいちばん好きなのは、江藤新平ですね。この人はすごい。ダントツにすごい。
なにがすごいって、こんなラジカルな理論派は、めったにいるもんじゃありません。
しかもその理論のスジを通すための熱狂的なエネルギーを持ち合わせている。幕末に
佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加、明治維新後は新政府の司法卿(法務大臣)と
なって近代日本の司法制度をつくりあげると同時に、徹底した能力主義と人権主義を
確立するなど、たいへんなことをやってのけた人です。「私の友人の友人にアルカイ
ダがいる」なんてノーテンキなことを言っている法務大臣とはワケも違うし、デキも
違うすごい人ですが、数年後に政府内の意見の対立から下野して佐賀に帰り、佐賀の
乱にまきこまれてしまう。で、最後は自分が作った刑法で処刑されるという、数奇な
運命をたどった人でもあります。
これが「佐賀人」というものじゃないか、と、ぼくは思っているんですね。
で、「こういう人を佐賀の方言ではなんというんですか」と、ぼくを呼んでくれた人
に聞いたら、すぐに答えが返ってきました。
「いひゅうもん」
そうです、いひゅうもん。佐賀人の気質をひとことであらわすのはこれっきゃない。
標準語では「奇人」とか「変人」とかいうことになるんでしょうが、それともちょっ
とニュアンスが違う。「佐賀もんが通ったあとには草も生えない」という言葉がある
そうですが、そこでいう「佐賀もん」は、たんに「ケチ」とか「よくばり」という意
味だけでなく、「キョーレツな個性派」というイメージもあるんじゃないでしょうか。
たぶん、いひゅうもんのモトは「異風者」でしょうね。威風堂々ではなく、江藤新平
のように「異風堂々」。ぼくのイメージのなかに住む佐賀人の、それが原型です。

◆ところで「肥と筑」の評はどうなったとお叱りを受けそうですが、私はこの膨大な
小説 が終わってから総評をしようと心に決めています。だから、「彼奴はまた敵前
逃亡を図ったな」といわれそうですが、そうではなく興味の尽きない作者の風貌を解
析して見たいという誘惑に駆られました。
「赤信号皆んなで渡れば 恐くない」的な護衛船団方式の中では、この「いひゅうも
ん」ははなはだ厄介な存在です。無視するにはあまりにも穿った理を唱え、受け入れ
るには安逸をむさぼっている者も艱難辛苦の努力を覚悟しなければなりません。もの
ごとを理に照らして判断し、間尺に合わないことには豪も妥協せず、自分の考えを頑
なに押し通す「いひゅうもん」は、表面だけの付き合いや対面だけの仲良しクラブに
とってはまるで喉に刺さった魚の骨か、理由の分からない肋間神経痛のような忘れ去
ることの出 来ない不快感を発生させるものでありましょう。
だが、並の人間が理解できないような深遠な考えと信念を持った「いひゅうもん」に
私 は「肥と筑」の作者を重ね合わせました。このような作品は彼しか出来ないもの、
その意味に於いては強烈な個性の持ち主だと考えます。私はいつも自分にしか出来な
いものを見いだし、いかに実践するかを見つけたいと思うと同時に、いつの日かあい
つは「いひゅうもん」と呼称されることを夢見ています。





「今年最後の「同人α」の編集会議および忘年会」より 2010/12/23

今日は新しい会員になった「異風者(いひゅうもん)」氏達と今年最後の編集会議を
本郷三丁目の駅のそばにある「駒忠」で開催しました。出席者は異風者、長岡曉生、
万理久利の各氏と私の4人。神野、旗名涯(はたなはてし)氏の二人は多忙、碇氏は
遠くて参加出来ずに誠に残念でした。
とにかく、普段は寡黙で人見知りする事においては人後に劣らぬシャイな異風者氏の、
酒が入ると目を見張らせるような冗舌になり、一同そのエネルギーには驚嘆した次第
であります。





「いひゅうもん」より 2008/7/21

◆私が「いひゅうもん」にたいして確たるお答えはできませんが、調べたところによ
れば 確かに「異諷者」を「いひゅうもん」と記述してある資料をみつけました。
*異風者(いひゅうもん) (単行本) 小嵐 九八郎 (著)
* 映画『人間の翼』の監督は岡本明久さん(58)。古本屋で『消えた春』を見つけ
「石丸進一の人柄にほれて」映画化を思い立ったという。原作の牛島さんに話を持っ
て行ったところ「ぜひ映画化してほしいです」という答えが返ってきた。
佐賀の言葉で「いひゅうもん」という言葉があるのだが、岡本さんは石丸進一の「い
ひゅうもん」ぶりにひかれたという。「いひゅうもん」とは漢字で書けば「異風者」。
牛島さんの記述によると《へそ曲がりで、極端なテレ屋なるが故に、己の感情を率直
に表さず、しかも偽善者ではなく、偽悪家……といったところだ》。
郷里では多数派の人が「あの人は『いひゅうか』」という言い方の中に、人の意見に
いつも反対する御しがたい変わり者という「負」のイメージを感じていまいましたが、
今よく吟味してみると、やはり単なる気まぐれなへそ曲がりの変わり者というより、
天野勇吉のいうように、理に厳しく、通説や世間の風評に付和雷同しないで考えを貫
く人という「プラス」のイメージとした解釈したい。





「異風人さんの再登場」 2008/9/18

 久し振りに異風人さんの登場楽しみです。投稿文を見るに、まだその独特な観点と
論理の冴えは見えませんが徐々に気力も回復して、その異風振りがもどることを期待
します。
 貴君が言われるように「あえて言わせてもらえれば万華鏡、つまらないものをあた
かも本当にあるかのように美しい虚像を見せる密閉された空間ということ」と喝破さ
れていますが、茂木健一郎に言わせれば「全てが己の想念を通して認識されているゆ
え、この世の出来事はみな仮想である」ということ。だから難しい相対性理論も恋愛
も「万華鏡」の中身と似たようなものでしょう。
 ところで私はこのホームページにふさわしいと願った名称は「ニューロン・カフェ」
でした。人間の脳の中で情報を一手に引き受けているニューロンたちが井戸端会議よ
ろしく三々五々とカフェ集まって、あることないことの情報を交換して楽しむという
意味を込めての提案でしたが・・・。





「M君への手紙」より 2011/9/19

拝啓 悠々自適の貴君が羨ましく思います。 小生、今まで遊び惚けてきた報いで、
「たつき」のために一生現役を貫かねばならないようです。

もともとも小さい頃から物を創ることに興味があり、職業も建築という創造の世界に
進みました。一度は就職しましたが会社勤めにおける責任のなすりあいや虚勢などの
人間的な確執が下らなくて、33歳の時に会社を辞めたという、サラリーマン失格の小
生でした。また貴君がかつて建築構造の技術者について喝破された通り、一匹狼、ロ
マンチスト、芸術家肌、ウソが許せなくて情に厚いこと等々はまさに自分もそうかな
と思うことがあります。またそのような志向を持っていることも確かです。そして今
の仲間達もまた世間で言えば奇人・変人・異端(佐賀では異風者)の形容詞が付きそ
うな面白い連中で、同じ空気や匂いのなかで付き合うことは甚だ愉快なことです。

追記:異風者について広告時評の天野祐吉が面白いエッセイを書いています。 佐賀
の異風者の典型は江藤新平である。異風者とは単に変わり者、頑固、鼻つまみ者とい
うことではなく、理のあるところ説を曲げず、世相に迎合せず貫き通す人を言うので
はないかと書いています。まあそのような人は漱石の「草枕」の冒頭の文章のような、
世俗には疎まれ生きにくい生き様が想像できます。





「無限回廊 第六回を読んで」より 2012/1/3

 「フィネガンズ・ウェイク」にあってはハンフリー、イエス・キリスト、トリスト
ラム卿、トリスタンの恋人イゾルデ、アダム、イヴ等々であり、「無限回廊」にあっ
ては、神農炎帝、季炎、赤松子、ヘルメース、アフロディーテ、アイネイアース、壽
夢、七娘、季礼、孫悟空、ザインなど、その飛び方は並ではない。
 また一見博覧強記でとりつく島もないほど理屈っぽく、頑固で妥協を知らない「異
風者(いひゅーもん)」の典型みたいな作者が、とてつもなく洒脱で「剽げ者(ひょ
うげもん)」でユーモア、ウイット、諧謔、隠喩に富むセンスの持ち主であることを、
親しく付き合わない人達には想像もつかないであろう。とにかく「無限回廊」に登場
するバード・ブレイン、グレイ・ブレイン、エヴァー、カミノの物語はこれからも、
それぞれの個性のもとで回し書き物として面白いものになるとあらためて確信した次
第である。



118α編集部:2014/04/20(日) 11:15:32
夢もろもろ
.

            ???????? 夢もろもろ 1
               ????????  2007-2009




     フロイト全集に挑戦するくらいだから、夢について触れた文章が増えるのも当
     然であろう。想念の世界を描くことが多いことから言っても、フロイトの夢の
     世界に興味をもつのも当然であろう。
     現実を生きる表向きの世界、信じて裏切られるとか、騙される、といったこと
     がまかり通る世界に対して、嘘のない、嘘がつけない、洗いざらしの想念(心)
     の世界に惹かれるのだろう。   (編集者)





「今日から日記に挑戦!!」 より  2007/1/13

フロイトの「不気味なるもの」・・・フロイト全集第17巻P30
同じ事態の反復がある一定の条件のもと、一定の状況と結びつくと、うたがいの余地なく
不気味な感情を引き起こす。この感情はいくつかの夢の状態が示す寄る辺なさを思い出さ
せる。
例えば ・不案内の街の路地を歩いても何度も同じ街角に出る。
    ・身の回りのナンバー例えば六十二という数字が同じ一日のうちに何の関連も
     なく係わってくる。




フロイト全集17 ??2007/3/11

■ 戦争神経症者の電気治療についての所見
  自分の生命に対する不安、他人を殺せという指示にたいする反抗、我が身を情け容赦
  なく押さえ込む情感に対する拒否感といったところが、戦争逃亡的性向を養う最重要
  の情動源泉であった。
  その苦しみの故に病気へと逃亡した患者を、健康な状態すなわち軍務遂行可能状態へ
  戻すために電気治療を施された。それは病気を治療されるほうが、健康な状態より苦
  痛で過酷であるということにより悲惨な電気ショック療法がとられた。

■ 夢学説の補遺
  夢には「欲望夢」「不安夢」「懲罰夢」の三つがある。

■ 女性同性愛者の一事例の心的成因について




「所得税支払い」より  2007/3/12

フロイト全集4及び戦後短編小説再発見4を購入。
今度のフロイトは夢解釈?で面白そう。前2巻も早く読破しなければ。




「母の日記」より????2007/3/17

先日から風邪気味で体調は最悪。最後は声もつぶれ、夜中じゅう悪夢にうなされた。昨年
の正月といい、今回といいなぜか私の帰省は望まれていないような気がする。悪魔祓いが
狐を追い出す煙と鞭が必要か。




フロイト全集4「夢解釈?」  2007/3/30

フロイト全集4  20P、39P
■ 夢の内容は常に、本人の人格、年齢、性別、地位、教養の程度、馴染んだ習慣、これ
  までの人生全体で経験した出来事などに、多かれ少なかれ規定される。
■ 夢源泉を完全に列挙してみれば、結局四つの種類が数えられる。それらはまた、夢そ
  れ自体の分類にも応用されている。第一は、外的な(客観的な)感覚興奮、第二は、
  内的な(主観的な)感覚興奮、第三は、内的な(器質的な)身体刺激、第四は、純粋
  に心的な刺激源泉である。
■ 心臓病患者の夢は概して大変短く、驚愕を伴う覚醒で終わる。その夢の中では、ほと
  んどいつも、陰鬱な条件下での死という状況が役割を演じている。
■ 肺疾患の患者は、窒息、雑踏、逃走などの夢を見、目立って多くの人が、悪夢に襲わ
  れる。
■ 消化器疾患では、夢は、食物を摂ったり吐き気を催したりすることに関連した表象を
  含む。




「フロイト全集4」  2007/4/20

夢問題の学問的文献(H) P124
精神病という現象と夢という現象にはかなり広い範囲の一致がある。
■ ショーペンハウアーは「夢は短い精神病で、精神病は長い夢である」
夢解釈の方法 P134
■ 象徴的解釈
  夢内容を全体として視野にいれ、夢とは別の、了解しやすい、そして何らかの観点か
  ら見て類同的な内容で、一挙に代替させることである。
  閃きや直感にかかわるところが大きい。
■ 暗号方式
  夢を一種の暗号文のように扱って、個々の印を決まった鍵に従って既知の意味の印へ
  と翻訳することである。




「夢の歪曲」  2007/5/28

フロイト全集大4巻−P206
夢のほとんどは欲望成就である。一見そのように見えない「半欲望」のような不幸な夢で
も、分析すると歪曲された欲望成就が隠されていている。




奇妙な夢  2008/3/31

 今朝妙な夢を見た。やっとの思いでローンを組んで建てた自分の家についてであった。
それは現実にある山荘とまったく違った建物で、屋根裏に雨水が30センチばかり貯まっ
ていて、なんで水を抜かないかと細君を叱っていた。だが、屋根裏がプールみたいになる
ことも、細君に向かってそのようなありもしない責任を詰って暴言をはくことも現実には
全くあり得ないことである。しかしフロイトも言っているように、倫理的・道徳的・科学
的・物理的などのおよそ現実の世界では当然制約されている状態でも、夢の中ではそれら
の束縛から解放され、空を飛んだり、人を平気で抹殺したり理屈に合わない要求をしたり
するのである。
 私は仕方なく一カ所の軒先の鼻隠しに5センチばかりの穴を開けて天井裏の水を流して
いたが、埒が明かないので家の北側に回り壁を押していたら我が家が南側にひっくりがえ
ってしまった。細君は庭の向こうでお隣さんと楽しそうにだべっていて知らぬ顔である。
私はあわてて南側に戻って家をエイコラショともとに戻したのである。天井裏の水といい、
家を人間の力で倒したり起こしたりといった不思議な現象は夢のなかだからのことであろ
うが、なんとも奇妙奇天烈な出来事であった。
 それにつけてもそんなに簡単に建物がひっくり返ることは考えられなかったので、基礎
を調べたら、アンカーボルトが基礎の中に埋め込んでないことが判った。それから建物の
内部も非常に粗悪で自分の意図したものではなく、大工の赤池さんを自分は信用していた
のにと、その裏切に憤慨していた。まだ家のローンも半分以上も残っているし、建て替え
るには2重の負担を背負わなければならないと悩んでいた夢だ。
 フロイトに言わせると夢は現実の代償行為だといっているが、私の夢は何を暗示してい
るのであろうか。現実の山荘は腕の良い大工の赤池さんによる製作で、構造的にも空間的
にも、テクスチャーにおいても私のイメージ通りの出来映えであるというのに。




夢についてその1  2008/4/4

 またまた変な夢を見た。海外旅行へ行く日のことである。細君ととある成田空港の近く
と思われる駅に隣接する広場に集合するため来たのだが、添乗員が見つからなくて戸惑っ
ている。その広場には高校野球の開催式典のために数十校がプラカードの後ろに整列して
いる甲子園の状況とそっくりで、それぞれのツアーの添乗員のもとに点呼も終わっていた。
 私達夫婦は遅れた不満をお互いに詰りあっていたが、旅行する間くらいは機嫌良く過ご
そうではないかなどと気を取り直しながら駆け込んだわけだ。だが我々の荷物も届いてい
なくて、添乗員も見つからないので少々慌てた。飛行機に搭乗する11:00まであと一時間
しかない。 細君は添乗員を、私は荷物を探すことを手分けして、人混みのなかに入って
いったのだが、そのうち細君も見失った。携帯電話で居場所を突き止めようと思ってそれ
を取り出してみたら、今まで使っていたものではなく操作もわからない。液晶の画面も出
ないので何回も何回もキーを押し直している夢だった。
 この夢の示唆するものは、日頃と違った環境に立ち入った不安の表れと思われる。ちな
みに現実は今回は細君のみイギリスへ行く予定で、私は8日の間仕事を開けることが出来
ないのでやむなく中止した。しかしイギリスやアイルランドの小説や詩の足跡をいずれ訪
れたいという希望は捨てていない。
 それはともかく、この夢に登場する鄙びた田舎の殺風景な駅の広場はいかにもありそう
なものだが、今まで行ったことのない場所である。夢は逢ったこともない人物や見たこと
もない場所などを創造することができるのであろうか。それとも意識しないながらも現実
に一度どこかで経験しているのであろうか。そのような無意識のものを組み合わせて物語
りを造っているのであろうか。北君の言うように怖いこと、気になっていること、こうあ
って欲しいと思うこと、楽しい思い出などが起因となって夢見るのであろう。朝起きて覚
えている夢は20分前に見たもので、それ以上経たものは忘れてしまうそうである。




夢についてその2  2008/4/5

◆「同人α」第3号に載せた「シリーズ・歪んだ風景−影」に書いたように私の夢には色
 彩はあるものもあるが影がない。そして私の夢には会話がない、小鳥の囀りや小川のせ
 せらぎなどの音がない。
◆ところが行ったこともない場所や逢ったこともないのない人達が登場することが不思議
 でならない。その様な状況を勝手に夢の中で作り出すことができる能力が私の脳にある
 のか。それとも、いつかどこかで知らないうちに経験したそれらの一つ一つのことを、
 脳の暗い襞の片隅に記憶していて、それらの事実の記憶の断片を紡いで形を洞察すると
 いう表象能力の顕われなのか。
◆表象能力といえば、二次元のさいころの絵から経験によって蓄積された見えない向こう
 側を想像して立体に見立てる能力である。建築を学んだ時に、この表象能力がなければ
 二次元で表す設計図は描けないし、そういう人はこの仕事に向いていないと教わった。
 就職して先輩から、問題のある図面を描いた人がいたということを聞いたことがある。
 例えば周り階段と構造の梁の関係。梁がそこにあることを立体的に思い及ばない人は、
 階段の途中に梁が出てきて、潜るか跨ぐかしなければ通れないといったことである。
◆実際に私が経験したものは、随分昔の建物で未だに使用されている日比谷公会堂の階段
 がそうだ。階と階の中間にある踊り場の真ん中を上の階の梁が横切っている。もうちょ
 っとで頭がぶつかるような低さで、背が高くなった若者はかなり危険な代物である。そ
 れともその建物が建立された時代の人達の背がそれほど低く、あまり支障が無かったの
 かは判らない。いまでは、あの建物の用途と空間の規模から判断してもバランスを欠い
 たもので、設計ミスと言われても仕方ないであろう。
Wikipediaで夢について調べてみた
◆夢とは睡眠中に起こる、知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する現象を
 さす。
◆ 夢は人間に限られた現象ではなく、ほとんどの温血動物が見るとされる(ただしハリ
 ネズミの一種に例外がいる[要出典])。人間同様に睡眠中に、覚醒活動状態の脳波を示
 したり、反射運動である尻尾をふる、鳴き声をあげる発現などが確認されている。
◆ メカニズムについては不明確な部分が多く、研究対象となっている。例えば、浅い眠
 りに陥るレム睡眠中に見るとされ、ノンレム睡眠時は発現されないと考えられていた。
 しかし、最近ではノンレム睡眠時にも夢を見ることが確認されている。たとえば、フラ
 ッシュバック性の悪夢はノンレム睡眠時に起こることで知られる。だが、夢が現出して
 くるルートが比較的解っているのは、レム睡眠時で、PGO波という鋸波状の脳波が、
 視床下部にある端網様体や、後頭葉にかけて現れる。この PGOが海馬などを刺激して
 記憶を引き出し、大脳皮質に夢を映し出すと考えられている。
◆夢を見る理由については現在のところ不明である。 夢の存在意義を定めようとする説
 はさまざまあるが主に
  * 無意味な情報を捨て去る際に知覚される現象
  * 必要な情報を忘れないようにする活動の際に知覚される現象
   の二つが有力である。
◆ 夢には時間軸が存在せず主観時間でのみ知覚しているとも考えられている。これは、
 目が醒めた時点で記憶されている夢の多くは覚醒前20分以内に見た物とされているが、
 夢の中では実際の睡眠時間よりも長い、数時間〜数日に感じたというケースが多いこと
 による。
◆文学作品
 * 「夢十夜」(夏目漱石)
 * 「ドグラ・マグラ」(夢野久作)
 * 「パプリカ」(筒井康隆)
 * 「冥途」(内田百?)
 * 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(フィリップ・K・ディック)
 * 「豊饒の海」(三島由紀夫)




「詩的真実」  2008/5/20

脳と仮想」  茂木健一郎
◆詩的真実  (Wikipedia)
 ゲーテ: p.154 「藝術の真実」「詩的真実」 ただし、この場合の藝術とは、狭い意味
 での藝術作品に限定されない。)
 〈確かに夢の中の出来事は妙に生々しく、仮想の世界の方が現実よりもより真に迫って
 感じられる。だから現実が必ずしも真の姿をとらえているのかどうかは言い切れない〉

◆意識の流れ (Wikipedia)
 米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に最初に用いた心理学の概念で、
 人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念
 が流れるように連なったものであるとする考え方のことである。
 アンリ・ベルグソンも時間と意識についての考察の中で、ジェイムズと同時期に同じよ
 うな着想を得て、「持続」という概念を提唱している(ベルグソンとジェイムズの間に
 は交流があったが、着想は互いに独自のものとされることが多い)。
 [編集] 文学上の手法としての「意識の流れ」
 この概念は後に文学の世界に転用され、文学上の一手法を現す言葉として使われるよう
 にもなる。すなわち「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、
 特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」を表す文学用語として「意識の
 流れ」という言葉が用いられるようになる。この用法を最初に使ったのはイギリスの女
 性小説家、メイ・シンクレアだとされる。
 人間の思考を秩序立てたものではなく絶え間ない流れとして描こうとする試みは「意識
 の流れ」という語の成立以前からあり、 最も早い例としてはローレンス・スターンの
 『紳 士トリストラム・シャンディの生涯と意見』などがあるが、特に近現代の意識の
 流れを用いた小説には心理学の発達、殊にジークムント・フロイトの影響が見逃せない。
 意識の流れ手法を用いた代表的なイギリスの小説家としては、ジェイムズ・ジョイス、
 ヴァージニア・ウルフ、キャサリン・マンスフィールド、ドロシー・リチャードソンな
 ど。この手法を用いた作品として挙げられる例にはジョイスの『ユリシーズ』、ウルフ
 の『灯台へ』、フォークナーの『響きと怒り』などがある。
 また、内的独白や無意志的記憶という用語で表されることもある。
 〈日本の作家では古井由吉あたりか〉




「沈み行く家 第3回の合評のお礼」 より  2008/9/15

 誠に丁寧に評していただき有り難うございます。かつて親兄弟、親友そのた私に関わり
のある人達からこれほど真剣に感心を寄せていただいたことがあるだろうか。虐めや無関
心による引きこもりの子供達や、老人の孤独死などの人間の繋がりの希薄なこの世の中で、
このような絆を持つ私は実に果報者であります。たとえ批判的な感想であってもそれを評
するには少なくとも4、5回は読み直さねばなりません。その努力は学生時代のテスト勉強
のような忍耐と努力が必要と思われます。 この歳でまだあの偏微分の解き方がまったく
わからないと焦っているテスト前の恐怖の夢を見るというトラウマをかかえていますから
そのへんの辛さは身に浸みています。




金縛り  2008/10/30

◆金縛り
 医学的には睡眠麻痺と呼ばれる睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。
 不規則な生活、寝不足、過労、時差ぼけやストレスなどから起こるとされる。脳がしっ
 かり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入って
 いるのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。
 これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっ
 ている。ただし金縛りの起きる状態がほとんど就寝中であることから学者の説明は睡眠
 との関係についてである。覚醒状態においての「金縛り」というものについては科学的
 にはほぼ未解明であり、精神的なものに起因するとされることも多い。




「沈み行く家の合評へのお礼−その1」より   2009/1/10

 私は村上春樹の「スプートニクの恋人」は読んでいませんが、「東京奇譚集」などを読
みますと、偶然の重なりが何かに導かれたことのように感じられて不思議に思われること
が度々あります。
 ◆ドッペルゲンガー現象について
  私の中に幾度となく妙な現象を体験したことはあります。それがドッペルゲンー現象
  であったか、単に夢の中の出来事を現実と間違えて思い込んでいるのか判然としませ
  ん。
 ◆不気味なりものについてはフロイトが言う「不気味なるもの」という定義の中に同じ
  事態の反復がある一定の条件のもと、一定の状況と結びつくと、うたがいの余地なく
  不気味な感情を引き起こす。この感情はいくつかの夢の状態が示す寄る辺なさを思い
  出させる。
  例えば ・不案内の街の路地を歩いても何度も同じ街角に出る。
      ・身の回りのナンバー例えば六十二という数字が同じ一日のうちに何の関連
       もなく係わってくる。
 ◆赤松次郎は己の姿のなかに父の面影を見て一種の「不気味なるもの」ととらえた。
  また、村上春樹の小説に出てくるもので、私が彼の小説に接する以前に書いた「三つ
  の願い」やその他の場面の記述のなかで、妙に一致する記述を見つけた時もそうだっ
  た。村上春樹の場合は「ねじまき鳥クロニクル」では「井戸の中」、私の作品では深
  い縦穴、そして「不気味なる」情景の記述に「ジョルジョ・デ・キリコ」の表題は失
  念したが「車輪を回す少女」の絵を取り上げている。 これは彼の「生と死」、「この
  世とあの世」、「聖なるものと邪悪なも」などといった、 漠然とした「心の中に住み
  着いている暗闇」を好んで描くといった趣 向が私の描きたいものと一致しているよ
  うな気がするのであります。神秘主義というほど確たる自覚はありませんが。




変な夢   2009/3/8

 懸賞設計に応募する作品を徹夜で仕上げるも、締め切り日や提出先を書いた募集要項が
みあたらない。自信作の先品を提出しようとしたが、今日の日曜日までだったか、明日の
月曜日までだったか、提出先はどこだったかと慌てている場面だ。

悶々とする夢現の中で、頭に浮かぶ作品の横書きの説明書の文章がうまく編集できない。
改行をすると文章が消えたり、前の文につながらなかったり、そのうち脈絡のない文字だ
けのものが頭に残る。うまくいかない行動に堂々巡りをしていて悩ましいかぎりだ。
 仰向けになってその文章を考えているのが苦しくなって、そこで横向きに体を変えた。
そうするとその文章も水平ではなく、己の左右の目の方向に横書きの文字が並ぶ。これは
どうしたわけであろうか。頭に浮かぶ想念は、絶対的と思われるの現実の水平、垂直の概
念は脆くも崩れ去った。今まで頭の中に浮かものの位置関係を深く考えたこともなかった
のだが、目をつぶって見るものはちゃんと頭の方向に合わせて横向きに映るという、新し
い現象の発見をした。
 まさに、現実と虚構(想念)の違いであり、もし目を覚まして見ている原稿と頭の中の
文が同じ方向であったらもっとおかしいことになるだろうと思った。ものごとの知覚は現
実そのものでなく、脳を通して認知することで、必ずしも見えたもののそのままでという
ことか。自分に自分を瞞したり、瞞されたりしているようでもある、不思議なことである。




「逆さまの世界」より  2009/3/30

3.夢の中の世界
 変な夢をみた。仰向けに寝て横書きの文章を見ていたが、苦しくなって横向きに体を変
 えた。そうするとその文章も水平ではなく、己の左右の目の方向に横書きの文字が並ぶ。
 これはどうしたわけであろうか。頭のなかでは上下左右の補正を自動的にしているらし
 い。絶対的と思われるの現実の水平、垂直の概念は脆くも崩れ去った。今まで頭の中に
 浮かぶものの位置関係を深く考えたこともなかったのだが、目をつぶって見るものはち
 ゃんと頭の方向に合わせて横向きに映るという、新しい現象の発見をした。
 まさに、現実と虚構(想念)の違いであり、もし目を覚まして見ている原稿と頭の中の
 文が同じ方向であったらもっとおかしいことになるだろうと思った。ものごとの知覚は
 現実そのものでなく、脳を通して認知することで、必ずしも見えたもののそのままでは
 ないということか。知覚の上で自分が自分を瞞したり、瞞されたりしているようでもあ
 る、不思議なことである。



119α編集部:2014/04/23(水) 22:19:32
猫「道」 (2)
.

     ?? 猫道(ねこどう)(2) 2011-2013




   2010年の記録をひっくりかえしても、猫一匹登場しなかった。
   この年は寅年だったから猫も忙しかったのだろうか。 それとも
   筆者の方が忙しかったのか。
   2011年6月にやっとその姿を現す。大地震による余波だろう
   か、「猫になりたい」とある。
   2012年4月に30回目の引っ越しをし、一匹の猫と出会った。






「あした天気になあーれ・第三回」の評1 投稿者:万理久利  2011/6/30

【構成力】

作者は毎回季節の情景から入る。鳥や植物に煌めきを与え、この作品が立つ季節を教えて
くれるのだ。そこでいつも通るビルに囲まれたポケットパーク、そこに猫を登場させ、結
びもこのポケットパークの猫で終わる。(中略)
そしていよいよ、目玉人物、チキンジョージの登場となる。三毛猫探しから帰ってきた、
段取りまでつけて。そんな彼を呆れながらも麻雀のプロとして尊敬する主人公。
次に、もう一つの目玉女房だ。ジョージとのからみは凄みを否が応でも想像させる。

最後はポケットパークにいる猫たち。(中略)
それにしてもこの作品は笑いと、涙の世界だ。 迫力がある。

浅田次郎 プリズンホテルを思わせる猫たちの動画をどうぞ。配役が決まっています。
http://www.youtube.com/watch?v=O3h348uGtNg




凄すぎる顔ぶれ 2011/6/30

「浅田次郎 プリズンホテルを思わせる猫たちの動画をどうぞ。配役が決まっています。」
の裏社会を構成する猫たちの顔は凄すぎる。「三つの願い」にでてくる「カポネ」もこうい
う顔だろうか?とにかくこの社会は顔が命、片目がふさがったり、顔が捻れていたりとその
バランスの崩れ加減は、過酷な闘争の歴史を物語るものだろう。悪顔猫のシリーズの面白い
小説が一つ出来そうだ。






「あした天気になあーれのコメント」 2011/6/18

      

我が輩は猫になりたい。
猫は人間の体重の約15分の1。猫は一日16〜20時間眠る。猫の摂取カロリーは人間の2400
/15=160kcal。14時間動き回る人間と比べれば一日100kcal以下でも十分である。鶏ささ
み100g(105kcal)。牛乳100cc(65kcal)。だから2・3日食べなくても生きて行ける。人
間の跳躍力はせいぜい50cm。猫は体高の5倍すなわち1.5m。人間ならさしづめ8m跳べ
ることになる。ちなみに、蚤は体高の100倍。人間にすると150m、まるでウルトラマンみ
たいだ。

猫と人間の採食、運動能力の効率の差は歴然としている。そしてなんて人間は無駄なこと
をたくさん欲しがるのだろう。飛行機だってコンピュータだって携帯電話だって原子力発
電なんて猫には必要ない。現にそんなものの恩恵に浴さなくとも平気で生きている。我が
輩も来世は猫となったあるがままに生きよう、「樽のディオゲネス」のごとくに。
そして、今度の「あした天気になあーれ」は我が輩の横に写っているオスの三毛猫が主人
公である。どうぞよろしくと言っていますニャー。
http://www.youtube.com/watch?v=pOEXFJ9qHvc&amp;feature=player_detailpage





「あした天気になあーれ−評のお礼」より 2011/7/9

*◆評者 ★作者
◆猫って笑う動物なんだろうか。これが男優だとして、また猫が笑うとして、この写真は
一体晴れには猫の笑い顔、雨には猫の怒った顔を使うのかな。とすれば、雨用に適した写
真を別途用意する必要が有りますね。
★笑った猫の撮影では「またたび」のご褒美をたっぷり与えました。また、猫は水にぬれ
ることが嫌いですから、捲土重来を期して雨に日はもっぱら寝て過ごさせます。そのキャ
ラクターは下記の写真をご覧ください。

      





◎◎子さんへの手紙より  2012/6/7

拝啓
 このところこの山荘付近は花が咲かない時期に入りました。もう少しするとたくさん蕾
(つぼみ)を付けた薔薇(ばら)達が一斉に咲き出すでしょう。栗鼠(りす)には鬼胡桃(おに
くるみ)を二粒づつ、野良猫にはペットフードを毎日テラスに置き、手懐(てなず)けてい
る最中です。朝は栗鼠(りす)が、午後からは下の部落に住んでいるらしい白い猫がやって
きます。この猫はどうもペルシャ猫かシャム猫か、西洋の猫の雑種のようであり、かすか
に黄色がかった胴体の白と、頭と尻尾の一部に日本猫でないような模様をしています。
今朝は散歩の途中で鼬鼠(いたち)の仲間の貂(てん)を見ました。新緑だけではなく、引っ
越して来た当時の黄色の花で一面の山吹の群衆のような色彩が欲しいこの頃です。
(以下略)





「絵を見に行く」より 2012/2/4

 昨日長岡さんの末っ子小柳景義さんの卒業・終了作品展を東京芸大まで見に行った。家
を出て散歩がてらに通った不忍の池回りの景色があまりにも素晴らしかったので写真を一
枚パチリ。人になれた5・6匹の野良猫をからかいながら上野公園をゆっくり歩いた。噴
水公園の全部、東京都美術館などの回り、どこもここも大々的な整地工事のための仮塀で
囲われていたが、完成すればどのように成るのだろう。いつものホームレスの青テント村
も撤去されていて、綺麗になっている。彼等も将来にわたってここらから閉め出されるの
だろうか。帰りにそこを通るとき多くのホームレスが屯していて、遠くの同じ方向を見て
いた。最初はなにが起きているのか判らなかったが、まもなく赤十字のテントの場所で炊
きだしが行われるのを待っていたのだ。(以下略)





山荘便り 2013/3/1

一週間程前に迷い猫が台所の窓を見上げていた。ちょうど数年前に貂が覗いていた様子の
ことを思い出させるシーンだった。そしてまた昨年の春、そっくりの白ろ猫が数回訪れた
ことがあったが、その猫は遂に居着かなかった。近所の人に聞くと親猫は車にひかれて死
んだという。そう言えば山の下の集落で親子をよく見かけていたが、今の迷い猫はあの子
猫かと思った。

毛並みは全体的に白っぽいが、野良猫生活で薄汚れたのだろう、真っ白とは言い難い。
額と足と尾に微かな灰色の虎模様が入っているので、猫図鑑で調べて見たがどうも混血ら
しく判然としない。それでもトンキニーズという種類に雰囲気が似ている。まだ人に馴れ
ていないので、捕まえて詳しく調べることができない。だから年齢も子供なのか大人なの
か、雄か雌かの性別さえも判らない。しかし目の色はすこぶる美しい。 アクアマリンの
宝石のような魅惑的で上品でエキゾチックな異国の薫りが漂う。

細君は「モロ」という名前を勝手につけて餌をやっている。その名前のいわれを問いただ
すと、ミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロ(1452〜1508年)から取った名前「moro」
であるという。私に相談することもなく、またそのよりどころも説明することもなかった
が、しつこく聞くと今読んでいるマキャヴェッリに関する本に出てくる人物の名前を頂戴
したという。ミラノ公と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチが仕えた主人であり、ミラノ公の
愛妾チェチリア・ガッレラーニをモデルに描いた「白貂を抱く女性」が有名である。

この「moro」はこのところ家の外の零下10度を耐えて生きているのだから結構タフ
にちがいない。餌をやったり寝床を提供したりしているが、家の中では飼わない主義であ
る。また都会のペットのように着物を着せたり、抱いたりはしないつもりだ。だからこの
家が居心地が良ければ居着くだろうし、自由な野良の生活が望ましければ、また山の下の
民家が恋しければいつの日か自らここを出て行くだろう。私はだから「moro」の好き
なようにさせようと思っている。





山荘便り 2013/6/7

梅雨というのに一向に雨が降らない。だから太陽の光は十分満ち足りているにもかかわら
ず、朝夕はセーターとジャンパーが手放せない程肌寒い。標高1000メートル近い高さの
せいだろうか。春先山吹がこの辺りを黄色で一斉に染めたが、山荘の蔓薔薇や紫陽花やブ
ラックベリーなど、蕾はあるもののその後なんの花も咲かず、ちょっと寂しい。

最近もう一匹の野良猫が時々庭に訪れるようになった。三食昼寝付きという暮らしを保証
され仕官した我が家の猫、モロが羨ましいのかも知れない。細君はその新参の猫をカトー
と名付けた。あのローマ時代の 吝(しわい)な大カトーの名前である。どのような意味
でそのような仇名を細君が付けたのか、私はまだ問うていない。それにしてもモロに顔や
毛並みがそっくりで、兄弟ではないかと思っている。なぜなら体は大きいがモロと喧嘩す
るでもなく二匹とも三メートルばかり離れて黙って座っていることが多い。

私は朝八時を過ぎると屋敷の上の道に出て散歩に出かける。最近は下のテラスか藪の中に
いるモロを上から呼び、しばらく待っていると黒く防腐塗装を施した木製の階段をおずお
ずと登ってくる。私がゆっくり歩き出すと三メートルばかり距離を置いて付いてくるよう
になった。前に飛び出したり、藪や他所の屋敷に入り込んだり見え隠れしするのは私をか
らかったり試したりなどの遊びの積もりだろうか。散歩に小一時間ほど付いてくるという
ことはモロにとってどのような感情があるのだろうか。人の顔を見分けたり、自分の志向
した自由な意志、記憶などを観察するに、まんざら知能が無いわけではなさそうだ。兎に
角、私と迷い猫とがこのようになるまで三ヶ月ほどの時間が必要だった。しかしまだ私の
膝に乗るまでには至っていない。





シリーズ・歪んだ風景−鐵橋 第五回 著者前書きより
2013/9/13

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赤松次郎の代理として
小生の諱は「moro(モロ)」と症します。今回は主人・垢待二浪(あかまつじろう)
が生業のため多忙で、寝子の手も借りたいと常々申しておりましたので、勿論小生の餌代
を稼いで貰わなければという重いもあって、主人に代わってボードレールとゴメンネを書
いている私大であります。

小生と主人の係わりは「斜光第18号−迷い猫」に詳しく哨戒されていますが、「moro」
とは、ミラノ公ルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ通称イル・モロからとった名前で、
主人の細君が強引に名付けたものであります。そのかわりもう一つの渾名である「サルト
ル佐助」については実存主義に傾倒している主人がつけたものであります。


        

さて、昌平坂探偵事務所の分室、中町探偵事務所の万理久利女史が小生の出生の秘密を探
りあてましたので、この際その貴重な報告を記録として留めることにしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「moro」またの名を「サルトル佐助」
投稿者:キメラ17号(万理久利) 投稿日:2013年 9月 7日(土)16時52分11秒
甲斐の国は富士山麓に住む鈍色太夫という郷士の飼い猫で、本名はモロ助である。
青木ヶ原樹海の中で猿と遊んでいるところを鈍色太夫に見出され。その飼い弟子となった。
古雄賀流の忍者猫の血統だか修行した経験はない。生まれつきの極度のロンパリだったた
め、忍者にはとてもなれないだろうと考えた親猫によって青木ヶ原にそっと置き去られた
捨て猫だったのだ。太夫に拾われた後、 じっくりと鈍色流実存主義を叩き込まれた。
[サルトル佐助]は太夫がつけた芸名である。

鈍色太夫に鍛えられたサルトル佐助は、後に十一期十勇士の1匹として知られる。 同じ
十勇士で伊賀くり忍者猫の糊塗更道蔵は、ライバルでもあった。
本郷春の陣で[またたび護憲派]に敗れた後、太夫の住む富士山麓に落ちのびたという。
鈍色家の家訓「自由であることは、自由であるべく呪われていることである。」は代々受
け継がれ、今でも富士山麓に行くと太夫とサルトル佐助の子孫が仲良く暮らしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、よく考えてみると「シリーズ・歪んだ風景−鐵橋」の紹介とは難の姦計もなく自慢
話に雄割ったことをお詫び致します。    「サルトル佐助」 2013.9.12



120α編集部:2014/04/28(月) 14:29:30
長岡さんはどこにいるか
.

       長岡さんはどこにいるか




         『肥と筑 第七回』 17号 前書添付写真

        


「長岡さんはどこにいるか」 2008/12/24

 私立探偵家業にあこがれる赤松次郎としては、単に感覚で捉えることなく手元にある
2008年2月2日高級料亭「日本橋さくら水産」での同人αの新年宴会の写真をもとに、
長岡さんの若き時代の顔を推理してしてみた。まずそれらの提供された資料をA3に拡大
印刷してルーペで見ると、その範囲は簡単に絞ることができた。前列左から1番目と2番
目が絶対怪しい。しかしどちらが正しいかは赤松次郎には俄に判じることができない。顔
の作りは二人とも非常に似通っていてハンサムで、まるで兄弟のようだ。表情に至っては
同一人物の晴(は)れの日と褻(け)の日の顔の違いくらいにしか見えないのである。
そこで次郎は、判断できないでは探偵として話にならないから、次の三つでえいやっとば
かりに結論を下した。
 1. 所持品で見分ける方法
   一番目の人はナップザックを持っている。長岡さんがこのようなものを好むかどう
   か、またはいままで会うときに持って来きたかは覚えていない。
   二番目の人は本を持っている。これは長岡さんの多読・多知識を憶測するに、非常
   に有力な根拠である。
 2 姿勢から見分ける方法
   ブログと新年宴会の3枚の写真のいずれも、向かって左側(当人の右側)の顔が前に
   出ていている。これは長岡さんが人に見せる顔の方向がいつもそうであるという癖
   なのだろう。
 3. 人と違った意見を言いたがる赤松次郎の習性による。
 よって、赤松次郎探偵による結論は、前列の左から二番目が目的の人物と断定した。




後日談1

「窓辺にて−山荘便り」より 2008/12/28

◆長岡さんよりクイズの正解者の吟遊視人氏と私の二人に何か商品をくださるという。私
 達に共通するものという示唆がありましたので、左翼的な思考を矯正するための毒薬か
 水責め、スペインの蜘蛛、猫鞭、鉄の処女、ユダのゆりかご、火頂、石抱き、皮鞭、ラ
 ック、猫の爪、リッサの鉄棺、ガロット、貞操帯、などの拷問の道具かもしれない。い
 ずれにしろ楽しみに待っています。




「当て物の賞品」  2008/12/30

 長岡さんの説明の通り「下町のナポレオン」と「黒霧島」の2本でした。
私としましては昌平校の長岡教授の「私立探偵の独立免状」をいただけるだけで大満足、
これで迷子の猫だけではなく人間共の浮気調査、思想調査、身元調査に精を出せるという
訳です。




  「長岡さんの説明」より 2008/12/30

   いや、今回の当て物、私が皆さんにどう見られているかが良く解って
  私としては結構楽しませて戴きました。というわけですから、ご心配は、ご無用に願
  います。お二方に共通する物としては、度々の酒の席で確認していた物、そう、焼酎
  です。特に昌平坂探偵所の所長様は、醸造酒がお飲みになれない事を、考慮致しまし
  た。奥方向きのチョコとかも、考えない事も無かったのですがそうすると私と同病の
  所長様には、大ハンデになりそうなので避けることにしたのです。
   もう一つ、薔薇の花も候補として考えました。と言うのも、三男の小・中学校の同
  級生の女の子の家と今でも親しくしているのですがこの家と言うのが、薔薇の品評会
  で総理大臣賞を貰ったことのある薔薇農園なのです。ですから、我が家からのお祝い
  に、薔薇の花束を贈ることは良くあります。
  (薔薇は茨城の県花ですし、我が家のそばには薔薇中心のフラワーパークが有ります。)
   でも、つれあいに相談した結果、殿方にはやっぱりアルコールということに成りま
  した。若しこれから先、木の花咲哉姫様にお祝いの品を送る必要が有れば迷わずに、
  特大の深紅の薔薇の花束を送ることに致しましょう。




後日談2


  2608 無限回廊 第三回 2011/4/14

            

  長岡曉生さん・賛   認識No.17 エヴァ マリー ゼノン

  紅顔の美青年、**中年なのか。これは同人α17号、拘りの作品「肥と筑」の7回
  に提出のもの。な かなかの男前です。ピントの合わないカメラの具合にすぎないの
  でしょうか。
  17号の時私はいなかったけれど、「α」の歴史探索でお目にかかった。あの難しい
  肥と筑を書く人はどなたかとわくわくしたものです。今とどう繋がるか、目と鼻でし
  ょう。あの探る目と嗅ぎつけようとする鼻、手元の本は(書類)は検証資料にちがい
  ありません。春画、春本の可能性もあります。もちろん研究、検証資料としてです。
  知的好奇心のまま、論理にもとずく解き明かし、そしてホロスコープの世界までにど
  んどん進んでいきます。今のお姿はそれなりに歴史を重ねなかなかのものになってい
  るのでしょう。
  今回の作品無限回廊第三回ではまた別な一面、可能性を感じました。やはりあの「目」
  は、もっと先を見ていたのかもしれません。

  ※今回の震災被害地にお住まいのようです。大地震の揺れでつい目の玉をうっかり落
  としたとか、以来揺れる度に目が落ちそうになり、写真の手配もつかないということ
  で不詳エヴァが書かせていただきました。
  ※17は縁の深い数字です。たまたま思い起こした写真にたどりつきましたら17号
  でした。これでキマリでした。作品キャラはNo.13「頭脳監察官」です。これもまた
  なかなかの姿です。冊子にその姿が紹介されています。




無限回廊 第三回 感想の前に 2011/4/19

まずはブログに掲載されている著者のポートレートについて・・・。
「この写真は、数年前(???)に中学校の関東同窓会を東京で開いた時の写真です」と
い う長岡さんの「肥と筑 第7回」の著者のコメントおよびポートレートに提示された
ものの なかの一部をトリミングしたものでしょう。当時その写真をみて、長岡さんはど
こにいるか というクイズを著者自らだされたことがありました。それにたいして私の答
えを下記のような推理のもとに出した結果、見事に当って焼酎一本ゲットしたことでした。



  無限回廊 第三回 評のお礼 投稿者:長岡曉生 投稿日:2011年 4月21日(木)23時17分

  ◆赤松さん
  ★著者のポートレートについて
  そう、いきさつは御指摘の通りです。
  この時の正解は二人だけでした。中でも論理的な推理の下に的中させたのは、昌平坂
  探偵所の所長ただ一人でした。流石です。



121α編集部:2014/04/29(火) 10:07:50
激甘辛作品評1
.
             激甘辛 作品評1
??????????????????????????????9号2007-12号2008



???? 「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。




  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIを
   クリックすると当該作品を読むことができます。



同人α9号


親と子???????? 2007/1/23

 これは難解な推理小説のようで、「何んかいな」といいたくなる「名作」か、はたまた
「迷作」なのか。たった四ページの中に、由美、おば様、ママ、ポポ、父、孫、娘、祖母、
昭子の人物が登場する。それぞれの記述、独白が誰を指しているか私には断定できないの
である。理解しようと鉛筆をなめなめ相関図を完成させようと試みるが、決定的な証拠が
なく犯人はするりとフィッリプ・マーロウの目の前をすり抜けて行く怪人二十面相のよう
につかみ所がない。

 しかし一見幸せそうな家族や満たされていて何の不安もないような家庭にも底流には隠
された辛い物語があるものだ。誰の回想や独白か判らずともこの物語にはペーソスがあり
普遍性があり繊細な女性しか書けない世界である。

 英語の先生が突然日本文学に目覚めて、源氏物語のように主語抜きの小説を試みたのか。
それとも理解できない私はもはや認知症の世界に片足を踏み入れてしまったのか。ここは
一つO氏自らその相関図を完成して私の疑問を晴らしてください。





同人α11号


選択五題 碇民治 著   2007/6/18
http://2style.in/alpha/11-4.html

◆ 鉄仮面氏のように物語りを膨らまし、想像の翼の羽ばたくままに語られた物語は誠に
  楽しく、その創造力には脱帽するが、私は評としてはそこまで仮定に基づく憶測や想
  像をすることが、作者にとって果たして望んでいることだろうかといつも評や感想を
  述べる時悩むのである。
◆ またO氏のいうように作者の意図をどう理解したらいいか分からない句もある。
  これは、句に携わる人達の決まり事や用語に対しての私の不勉強のせいかも知れない。
  その一方、説明しなければ素人には分からないものをつくる意味はなんであろうか。
  私は共感の得られる情景や思いを、この短い語句の中にいかに盛り込むかが一番難し
  い作業であろう。その点私はその世界に閉じこめられることをいつも拒否している自
  分がある。
◆ 「選択五題」は確かに作者の生活の中で生ずる「岐路」でどちらの道を選択してきた
  か、またその選択した道ではない別の生き方に思いを馳せるとともに、そのときの決
  断に悔恨めいた感情も微かに感じられるのである。それはまた私の迷いや思いの残照
  と確実に共鳴した。





肥と筑 第一回 長岡曉生著 2007/7/12
http://2style.in/alpha/11-9.html

◆ことばへのこだわり
  この一家はことばやものごとなどを世間的なありきたりの解釈に飽きたらず、自ら調
  べ挙げ解明しようという旺盛な好奇心とそれを楽しむ性格が描かれているようだ。私
  もまた色々の出来事に使い古された意味や解釈に反発し、疑いの目を持ち、自らの解
  釈を作り上げようと足掻くのではあるが、それはまるで「こんなものが効くのか」と
  いう旦那にたいして、藤原紀香が「あんたのその疑い深そうな目が好きや」と応ずる
  殺虫剤のコマーシャルが気に入っていてまさに言い得て妙である。
  ついでに、これは私がいままでに評価するコマーシャルの名作の3つ目に付け加えよ
  うと思う。一番目は松平健が西洋人のバックダンサーと踊っている「コナカ」のCM。
  なんとも事大主義的で臆面もなく無意味なことをやっているところ。
  もう一つは「メガネスーパー」のCM。桃太郎と犬・猿・キジの家来達、そして赤鬼
  ・青鬼達が行進するアニメだが、一人として歩調を合わせないところが見る者の脳み
  そを攪乱して、真も善も美も糞ったれというはちゃめちゃさがいい。よくこれで製作
  費を貰えたね。
◆ 問題提起
  ある本で「学問的業績を評価された人は、必ずしも答えを見つけ「真理」に到達した
  人ではなく、より豊かな実践を拓いていく新たな丁番を創り出した人。何かある問題
  に答えた人よりも、むしろ問題を創り出した人である。」というのがありました。そ
  の点同人αの連中は常にピントはずれのような、一笑に付すような提案や計画や思い
  つきを真面目に言い出す人が多い。それが同人αの資格審査の条件であったかと思え
  る節がある。とにかく人と違ったもの、人には無いものを尊ぶ風潮を私は好きだ。
◆ 家庭団欒
  まずは知的で、そうかといって各々が個人主義の固まりでなく、和気合い合いの後藤
  家のような家族は今の日本では希であると思う。その意味では理想的な親子関係で、
  作者の家庭がそうであるとすればうらやましい限りである。我が息子などは、学費を
  貰う間はそれなりに付き合ってくれたが、卒業して就職してしまうと歩いてこれる所
  に住んでいながら、催促されて渋々月に1度位しか顔を見せない。美味いものが好き
  だから、神楽坂の志満金で鰻を食おうとか、銀座のて天丸でてんぷらを等と言って連
  れ出すのだが、最近医者より「1日1,800kcalに押さえないと恐ろしいことになりま
  すよ」とどこかのテレビの番組みたいに脅されたので、息子を連れ出すのに新しい手
  だてを見つけ出さねばならなくなった。「お父さんはもう長くはないぞ」という脅迫
  めいた科白に効果を期待するか。
◆ 「肥と筑」はこれからが楽しみ
  司馬遼太郎の小説は実に面白く読ませるが、語ることが膨大すぎて最後に残る「こと
  ば」がつかめない、というようにならないことを、vacuum headを代表して最後に
  一言申し添えます。





選択、その後??  2007/7/22

彼の独特に社会の不条理にたいする憤りとそれに伴う運動の体験は、青年の頃にノンポリ
であった私にとっては貴重な知識を与えてくれるものであり、また私が既に忘れ去ってし
まった正義感を失わず持ち続ける氏の生き方は貴重である。
その一方、物語として見るとき私は多少の小言を言いたくなるのである。それはまだ創作
を始めて日が浅い故であるかもしれないが、語りの中に共感するような心理的な葛藤やあ
るいは自然の色彩や光による微妙な移り変わりの描写などの表現が足りないような、ただ
ひたすらに情況の説明と筋を追うだけのものに見えてくるのである。

◆ P39-8行目:その山あいで自分があたかも主人公になったような気分で気ままに生き
  ている。の意味がわからない、この物語の「私」は常に主人公ではないか。それでは
  この山あいでの主人公は何であるのか?
◆ P39-34行目:離婚の理由は妻が私を嫌いになったのではなかった。今の自堕落な生
  活からむかしの行動的な「私」をもう一度取り戻して欲しいとの願いから、私を発憤
  させるために離婚を突きつけたとある。例え妻も自分自身をあらたに出発させようと
  いう意図があったとしても、それだけで離婚という選択をするであろうか。そこには
  もっと相手に対する嫌悪や憎しみや軽蔑などといった内面の激しい葛藤があるはずで
  ある。その辺の記述が欠けているから読者の深い共感は得られないのではなかろうか。
◆ P40-31行目:繰り返すことになるがの文はいかにも説明的で無駄だと思う。
◆ P41-23行目:(何度も使ってきたが・・・)も同じく不用。
  最後にこの物語があまりにも藤本敏夫・加藤登紀子の生き様と重なり合っているのが
  気に掛かる。
  随分言いたいことを書いたが、才能のある方だから嵐の夜に訪れた「佐久間茜」によ
  って生じる、これからの目の覚めるような新しい世界への展開を期待しよう。





同人α12号


稲作今昔物語り(1) 碇民治著  2007/8/31
http://2style.in/alpha/12-1.html

◆ いまの世の中はこの食べ物は「美味い」の「不味い」のと言いながらその苦労も考え
  ずに能天気に批評する風潮に染まっています。たしかに私もいつからでしょうか「食」
  を自ら生産することや自ら採取するための知恵も、そしてその原始的な生き方の大切
  さも忘れ去っていることに気づきました。
◆ 「鉄腕、ダッシュ」という、ある東北地方と思われる里山を舞台に、稲や果物や野菜
  を作る過程をさるアイドルグループに体験させる日本テレビの番組があります。これ
  をみると、実に農作業おける先陣から受け継がれたもの作りの知恵なくしては作物は
  満足に育たないことが判ります。
◆ 農機具商を営む父のもとで育った私ですが、今回碇さんの文によりそんなに農作業が
  進歩した機械により「樂」になったのかと、恥ずかしながら40数年前しか知らない
  私には驚きでした。冷房の効いた、GPS付きのすぐれものですか。
◆ くりかえし早苗をつかみ挿しにけり
  昔は梅雨の雨に濡れながら横一線にならんで人力で植えたものです。毎年親類の家に
  手伝いに行っていた頃はまだトラクターもなかった。それは大した仕事もしない子供
  にも辛い作業で、それ以来土をいじる仕事を敬遠した思いがありました。いまは胡瓜
  やなすさえ作れません。いまさらながらその時々に農業の知恵を教わっておけばよか
  ったと思います。





肥若葉は萌えて  三浦和子著 2007/9/26
http://2style.in/alpha/12-5.html

◆ 作者が俳句や和歌だけでなく今回新たに小説という創作の世界に挑戦されたことを高
  く評価します。自分には出来ないと思っていても書いている内になんとか書けてくる
  もので、是非これからも続けて自分の才能とその楽しみを見付けてください。
◆ 私も長岡さんと同じく、先ず「肥若葉」という言葉について興味を覚えました。歳時
  記や季語をいろいろと調べましたが結局判りませんでした。もし既製の言葉であれば
  その出所を、もし作者自身の造語であればどのような若葉を表現したものか詳しくご
  教示ください。
◆ 主人公は定年を迎えて自分の居所を探しに出掛けることから始まる物語は、失われた
  社会との繋がりの部分をどう満たすかを模索するという共通の問題でありましょう。
  その点で多くの人達と共感出来るテーマだと思います。
◆ いよいよ箱根の思い出をきっかけに内証の世界へ入っていく。新しい創作を通して、
  作者が表現する人間や自然にたいする考え方、人と違った個性を見付けることを私は
  楽しみにしよう。





定年後の日々パート4  2007/10/12

下世話に「残り物に福がある」という諺はよほどの運が必要のようで、このところ論ずべ
き良いところは既に賢明な皆さんの筆になってしまっている。いきおい遅れてきた者の話
題に乗れない悲哀やら、冷や飯食いの居心地の悪さを感じているのだが、それでもなお何
か人と違った見方の評を探してみようと努力するという、私がいつも陥るていたらくのパ
ターンである。だからどうしても負の面を探すということで、刺激的な効果を狙って作者
の自尊心にダメージを与えることを承知の上でアルカロイドを仕込むことになる。

◆ 構成としては、村上春樹の「羊をめぐる冒険」・「世界の終わりとハードボイルド・
  ワンダーランド」・「海辺のカフカ」などに出てくる山深い僻地にあるこの世とあの
  世の世界へ主人公は迷い込むみ、再び戻ってくるという自分探しの旅の物語のように
  思えた。しかしこの小説はこのまま終わるとすれば行ったきりで、この世とあの世の
  間の三途の川の手前で、六文銭を何処かで落として渡れずに立ちすくんでいるだけの
  主人公になってしまう。読む方もなんだか大好物の食べ物を途中で取り上げられたよ
  うな、血湧き肉躍る映画をこれから本番という時に停電するような割り切れない思い
  になった。
◆ 私は会社に8年間しか勤めず、若いときに自ら会社を去ったので、定年退職者をとり
  まく人々の間でこのような複雑な思いが交差するという記述を非常に面白く読んだ。
  しかし廻りの人たちの思惑を主人公が説明しているような書き方や時系列から逸脱し
  ない、すなわち時間的に過去・現在・未来を行き来したり、空間的な別の場所を舞台
  にした物語の一部を挿入したり、人物だけでなく天然現象や動物や植物などの記述も
  織り交ぜて、立体的に物語を作っていく手法でないように思える。この物語の記述は
  平べったい一次元と一方にしか進まない時間による記述で物語りに深みがない。川の
  流れに瀬や淵や曲がりくねりがあるように四次元のふくらみを表現して欲ししい。そ
  れから「赤目四十八瀧心中未遂」を書いた車谷長吉は、小説とはいかに登場する人物
  を生き生きと表現できるかであると言っている。また博覧強記的な知識も、一度作者
  の頭の中で疑問と共に分解され、再度組み立てられたようなものではなく、通説など
  の匂いがして、どこかで聞いたようなことが多く、作者の個性や人格から発せられた
  ような独特の言い回しや言葉の表現が観じられないのは「観光立国日本」の時もそう
  だった。
◆ とまあ、散々なことを書いてしまった。ここまでくるとさすがの作者も皆さんのよう
  にしっかりとした検証もしないで言いたい放題、批評にもならないものを読まされ、
  怒り心頭に発したでしょう。「大きなことを言っておまえはどうなのか」とブログの
  写真の姿で詰め寄られると、私は二の句も告げられず許しを請うのみにて。
  *◎◎さんごめんなさい。     友達を無くすなあー俺は!!





パロディ2題(出合いと別れ)  2007/10/27

◆ 安倍さんの「坊ちゃん宰相」振りはなかなかよく書けていて、首相になって職務を放
  棄するまでの離散劇は毎日のニュースで私もつぶさに見て知っていました。だから欲
  を言えば私の知らない事情についてのパロディを今度書いてください。
◆ 例えば、山本なにがしの気狂いじみた安倍政権擁立への情熱は何故かとか、平沢 某
  の主君への恋々とした忠誠心はどこから来たのか、等々安倍さんを持ち上げた人々の
  滑稽な三文芝居・狂想曲の顛末はまだ「総括」と「落ち」は着いていないと思われる。
  そして性事と政治の世界では言葉はいらないとばかりに、ついに我々国民の理解でき
  る言語では語られることはなく、永田町の闇の奈落で廻り舞台をどうまわすかを画策
  する影のシナリオライターの暗躍を炙り出してもらいたい。
◆ 安倍さんが自民党の代議士先生達を魅了したのは何だったのでしょうね。
  毛並みの良さが、田舎代議士の卑しい身分にも関わらず貴族の真似事をするというあ
  の「スノッブ」感覚をくすぐったのでしょうか、それとも金の匂いや猟官の思惑から
  か。急がないと与党の天下も危うくなったし、毛並みと見てくれが売りのあの程度の
  人物を担ぎ出した自民党員の見識や感覚がもはや格段に低下しているという思いにい
  たる。実は自民党員は影武者であり、数臆年も連々と我々の中に住み続ける「遺伝子」
  のような「官僚」が本当の支配者なのかも知れない。だから見かけの日本の代表が誰
  であろうと一向に体制が揺るぐことはない、これはもしや一流国の最良の最終の理想
  的な姿かもしれない。





同人α13号


性の波紋(その3) 2007/12/11

◆ この手の克明な性描写は、それに対する意識が開放されている現代の若者と違い、
  まだ昔の規範を引きずっている私にとって趣味ではないから言及しないでおきましょ
  う。
◆ 「据え膳食わぬは男のなんとか」について、夏目漱石の「三四郎」のなかに次のよう
????な筋の文があります。三四郎が上京する汽車の中で知り合った女性とよんどころなく
  同衾することになった。彼は一つの布団の真ん中に手ぬぐいを丸めて棒状にして結界
  をつくってその女と寝た。しかしなにも起こらなかった。朝起きるとその女は三四郎
  に「いくじがないのね」と言った。女が交情を望んでいたのか、それともそうなって
  も仕方がないと覚悟の上だったか三四郎にも分からない。女心の分からない三四郎の
  逡巡は美弥子に「strey sheep」と言わしめたようにこの小説全体のテー
  マでもある。sheepは気の弱いという意味もあり、なんとなく煮え切らない男の
  心情を象徴しているようでもある。そう言えば「性の波紋」の主人公も既成秩序への
  全面否定、前世代への全面不振、権威あるものへの全面敵対などにたいして果敢に挑
  む反面、桐子や茜に対しては常に受け身であり、茜との関係にたいしても離婚した桐
  子への後ろめたさを感じる。
◆ 「来週の土曜日には桐子がやってくる。その三日後には合評会があり、いやおうなく
  茜と再会する。私はどのような言葉と表情で彼女らと接すればいいのだろうか」など
  と自戒し、自らの意志による結果としての意識や覚悟がなく、六十歳にもなって自立
  した大人としての人格がいまだに育っていない感じを受けた。
◆ 表現としてはP101行目「前号で述べたように」とか、同16行目「さて茜のことに
  戻ろう」という文は前号でも述べたように、報告書や論文のようで文学的表現ではな
  いと思う。この感覚は私だけのものであろうか意見を問います。





肥と筑 第二回 長岡曉生著 2007/12/21
http://2style.in/alpha/12-6.html

bird・brainの私が「肥と筑」をものにする巨像のような作者の頭脳に対峙するのに、どの
ようなスタンスを取るべきかいまだに決まった見解を持ち合わせていないのである。そこ
で連載の途中だからといって物事の結論を先延ばしにするという私の得意の奥の手を使い
たいのだが、皆さんの努力を見るに付けそうもいきません。逃げることも問題を処理する
方法として一つの文化であるという社会も世界には存在するという本(危機のモラル マ
レクラ島のフィールドから 船曳建夫著)を読んだことがあるが、ここで放棄することは
編集に携わる者として許されるものではないと思った。そこで旅人−Mさんや、長岡さん
の手法に習って、正面からでなく搦め手から迫ろうという魂胆であります。
◆ さて文学とはどのような芸術の範疇に入るかと調べてみると、次のように分けること
  が出来る。
  1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術
    の総称。すなわち、音楽、文芸など。
  2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられ
    て、人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なも
    のに建築、彫刻が含まれる。
  3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調
    和した形式で表出される芸術。すなわち、舞踏・演劇や映画など。
◆ そこで「肥と筑」が論文か小説かということが話題になっているが、小説とはなんぞ
  や?
  小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随想や批評、
  伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。なお、英
  語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり、
  もともとラテン語で「新しい話」を意味する。
◆ 小説は次のように分類される。
  長さ・発表形式による分類
   短編小説・ショートショート・中編小説・長編小説・連載小説
  内容による分類
   私小説・恋愛小説・青春小説・冒険小説・歴史冒険小説・秘境探検小説・海洋冒険
   小説・推理小説(ミステリー、ミステリとも)・サイエンス・フィクション(SF)・
   ハードSF・スペースオペラ・サイバーパンク・スチームパンク・ファンタジー(幻
   想小説)・ライトノベル・ホラー小説(怪奇小説)・怪談・歴史小説・時代小説・伝
   奇小説・武侠小説・児童文学・童話・絵本・官能小説(劇画系,美少女系,耽美系
   などに分かれる。)・教養小説・鍵小説・企業小説・経済小説・政治小説・ゴシッ
   ク小説・スパイ小説・大河小説・心理小説・芸術家小説
◆ ついでに純文学と大衆文学の区別は
  小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
  が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
  芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
  小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
  うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
  分けて考え るのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

さて結論として「肥と筑」は歴史的資料を扱っているが純然たる論文ではなく、登場人物
に語らせるという散文で作成された虚構の連載物語でもあるが史書でもある。だからから
小説が伝記、史書と対立するものであるという定義があるゆえに複雑だ。それは私の書い
た「歪んだ風景−異星人」のように言葉遊びに徹すればそこに描かれている内容はぼやけ
てくるし、内容を重視すれば言葉遊びは余計なものだというジレンマは常に作者に付きま
とうわけだ。一方読者の好きなように解釈すればいいとばかりに開き直ることも出来るの
だが、「肥と筑」の作者は物語と史実のどちらに重きをおくのか、それとも両方をと意図
しているのであろうか。両立出来るものを見事になしたとき長岡氏の頭脳は一層輝きを増
すだろう。





浅野川のほとりで   2008/1/2

◆金沢は私も一度訪れたことがある。しかしここに描かれている浅野川や卯辰山などの場
 所はほとんど縁がなかった。ただ室生犀星の「性に目覚める頃」を読み、犀川のほとり
 にあるという犀星の育った不遇のころの雨宝院を探したことがある。また犀星の詩のな
 かに「青き魚」などといった青色の言葉が多いのに気がついた。そして彼が特別この色
 に惹かれた理由でもあるのか疑問に思い、私が文学を専攻していたら卒論のテーマに選
 んだかもしれないとその時思ったこともあった。
◆「浅野川のほとりで」に描かれている若い頃の忙しくも生き甲斐のある生活は、高度な
 文化と歴史を持つ地方都市の生活がいかに心に残るものであったか、作者は水を得た青
 き魚のように活き活きと描写して居られる。主人公を引き立たせる舞台はまず川がある
 こと、きれいな水が流れていること、人口が多すぎないこと。40〜50万人くらいの
 都市が一番暮らしいいといわれている。私も長崎に4年ほど住んだが、高度な文化と歴
 史と人口の条件は満たしているが、残念ながら滔々と流れる清流は揃わなかった。
◆ 最後にこのような疑問を投げかけるのは良くないといつも気をつけていた。本来なら
 悪い話を先にして、最後にいい話で締めくくるべきであろうのにと悔やまれるのだが、
 もし気に障るようでしたら、もう一度前にもどって読み直しし、この文の前で閉じてい
 ただきたい。さて、

 疑問その1
  P26 上段から10行目あたりの「辞令が出た以上は赴任して頑張るしかない。くよ
  くよする性格ではないので、気持ちを切り替え新天地に望みを掛け、おおくの友人に
  見送られて梅田の駅を後にした」という心境は夫の心境と思われるので、作者が言い
  切るのはおかしいのではないか。・・・夫はそういう思いであったろうと憶測する書
  き方でなくては、作者の考えになってしまうのでは。
 疑問その2
  全体的に言い切りの形が多い。例えばP26 1行目「昭和45年3月。大阪万国博覧
  会が開かれた都市。」とか 中段の「泉鏡花・室生犀星・徳田秋声の三大文豪等の生
  地といことでその文学碑が人目を惹く。」等々
  江戸っ子の歯切れの良い言葉使いのように、判りやすい反面いささか蓮っ葉な感じを
  与え、しっとりとした情感が記述出来ないのではないだろうか。「そして」とか「そ
  れから」などの接続詞などの多用も猥雑になることもあるが、適宜に使えばいかにも
  高度な文化の中での暮らしぶりが清い水が流れるような情感をもって伝えられると思
  うのだが。






樹木との付き合い・波乱   あき もとすけ著  2008/1/5
http://2style.in/alpha/13-8.html

◆同人αの合評をしているので評論というものを知りたくて、このところ家にある新潮社
 版の小林秀雄全集十四巻を拾い読みしている。小林は部分的な表現や齟齬を指摘するの
 ではなく、全体的な印象や考え方の評論が多い。それらは本丸に突き進んで結論めいた
 業物を「さあどうだ」とばかりに広げるわけでもなく、搦め手から知らん振りしてじわ
 りと攻めてくるから、なかなか一筋縄ではいかないのである。だからよく読まないと本
 意がどこにあるか、それを見つけるまでに難儀をすること請け合いだ。私もそのうち何
 とかその神髄を会得して合評の質を高めたいと思っている。
◆大木への憧憬
 私も樹木には関心がある。特にイイギリは郷里の九州ではあまり見かけた事がなかっ
 たので、横浜から六本木の会社まで通う東横線の祐天寺駅の手前にあった赤い実をつ
 けた大木は何だろうと思ったのが最初だ。平吉の訪れた国立自然教育園にも沢山ある
 のも知っていたし、立川の昭和記念公園の入り口付近にも大木があった。イイギリは
 冬がいい、真っ白な雪の中であればもっと印象的であろう。廻りの落葉樹の葉が落ち
 てしまった中に大手を広げて仁王立ちした大木が、真っ赤な房状の赤い実をぶら下げ
 て一人自己主張をしている様は擬人的でさえある。
◆さて本文についての感想を書こう。自然のなかの木々の描写や少年の頃の田舎の思い
 出も的確に描かれていて読者を納得させるものである。また株の世界、その売買シス
 テムなど経験のない私にとっては目新しく、ああこういうものかと情況はわかった。
 しかし、次の二点で納得いかないと思った。
 1.プロットにおいては「鶴の恩返し」や「浦島太郎」が見え隠れしている。
 2.人物の性格においては大木に心を寄せる人物と投機に走る人物がどうも性格上しっく
  りしない。世の中にはそういう人もいるとことは否定しないが、この場の平吉の自然
  に対する精神的な清さと、生き馬の目も抜くような非常な世界の人間に違和感がある。
やはりこれは「○○の恩返し」というプロットを意識した設定で、らくさんが言及してい
るように別々の物語にした方がいいのではないかと思った。





楽しみ  2008/1/14

 これは作者が将来本格小説を書くために試みた習作、すなわち人物描写・スケッチとみ
た。だから私はここで評という評は書けそうにもないし、また書くほどの材料も見あたら
ないので、今はメモ的なものを書きとどめて置くことにしよう。
 この「楽しみ」の人物は、馬込村の魔女の一家のことだと私は「惚けて(とぼけて)」
認識しよう。そして先に話題になった「惚」の下記の意味付けを下敷きに解釈すると、
◆「ほれる」:ある異性がたまらなく好きになる。…に恋をする。
◆「ぼける」:知覚がにぶってぼんやりする
◆「ほうける」:夢中になって…する、とことんまで…するの意を表す。
◆「とぼける」:知っていながら、知らない、というふりをする。しらばくれる
 一家は実に「ほれる」・「ぼける」・「とぼける」ほどの破壊的な打ち込みかたもなく、
ごく庶民的な欲望というか、楽しみをお持ちで、一人を除いてそれほどほどの執着をされ
ていない。しかしよく観察するに、血は水より濃いことを図らずも証明している。それは
只一人の血族以外の先夫「弘」だけが家庭を顧みないほど、魔女以外の女に「惚れ(ほれ)」
そして「惚け(ほうけ)」たという事実だ。作者はこの真実に気付き書き分けていたのだ
ろうか。いや気付かなくても書き分けることのできる才能をこの魔女はもっているようだ。






定年後の日々について 2008/1/23

 天衣無縫というか融通無碍と言おうか、著者の豊かな発想のこの小説をじっくり読まな
ければならないのですが、いずれこの物語が大団円にいたった時に纏めて評しましょう。
と言うわけでいつものように走り回っていますので気が付いた部分の質問だけで勘弁して
ください。
◆主人公の廻りの人々が首尾良く昇天しないで今なお冥界と現世の狭間で徘徊している様
 子が書いてあるが、その人達が意図しないであの世に行ってしまったから現世への未練
 があるからなのか、冥界でも食えないで現世で稼がなければならないからか、それとも
 他に隠された重大な目的を担っているのか、いまだ謎である。
◆ 奴隷については社会制度としての奴隷と、個人的な体験としての奴隷感がごちゃ混ぜ
 になっている。前者はそこから抜け出すことは許されないがサラリーマンが奴隷である
 と思う状態は、自らの意思で自由になれる。だから、どんなに奴隷であると主張しても、
 方やその状態にうま味を享受しているかぎり、笑止千万なことである。殆どの自営業者
 が零細で、忙しく一生働かざるをえないか考えると、それもまたサラリーマンと同じ奴
 隷の状態と言えなくもない。その中で一つの救いは、従事する人がその仕事を好きであ
 るということだろう。
◆いつも著者の小説に出てくる主人公は深い悲しみや、喜び、悔しさ、憎しみと言った感
 情が書かれていないようで残念である。そのうち読者の紅涙を絞るような感動的な作品
 を期待する。以上、自ら自覚した訳でもないのに、公的呼称の高齢者の仲間にはいらさ
 れて憤慨しているさる自営業者の呟きであります。






居酒屋「清月」  2008/1/31

◆筋は特別珍しい、刺激的な、謎めいたものではなく、誰にでも何所にでもあるようなも
 のだが、テーマが最後まで一貫していて判りやすい。そして色々の人物を登場させると、
 一般に猥雑になり易く何を言いたいのか、だれがどのように係わっているのか、判じ物
 みたいな物語になるのだが、一人一人の人物の特徴や考え方まで想像できるような描き
 方はみごとである。
◆この物語を貫くテーマは、主人公が弱者に対するやさしさを十分持ちながら、勇気を持
 って救い出すという行動に移せなかったという自分の意気地無さや、欲情に負ける自分
 のいやらしさにたいして痛恨の念を抱いている。それはまた青年の頃の過ぎ去った卑し
 さと思っていたのだが、大人になった今でも「清月」での市役所の役人の醜態と自分も
 あまり変わりはしないのだという思いに苛まれるのである。この辺の描き方はすごいね。
 私も「シリーズ・歪んだ風景」で描きたいと常日頃思っている、隠れた人間の心の襞を
 見事に描き切った小説であると思った。
◆最後にブログの写真のなんとこの小説の圭一の、ハッシュや酒に溺れ、放蕩三昧の満た
 されない日々の生活が見え隠れする、そのようなすさんだ青年の姿を彷彿とさせる、名
 画の一こまのようだ。



122α編集部:2014/04/29(火) 16:37:05
激甘辛 作品評2
.
        ??????   激甘辛 作品評2
????????????????????????????????200814−16号



??????「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。



  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α14号


ウエストポート  ルービン・良久子著 2008/3/1
http://2style.in/alpha/14-2.html

 「ウエストポート」は情景描写のみごとさ、プロットの面白さはいつも関心させられる。
 それは常日頃陶器や絵や写真に興味を持ち鑑賞したり製作したりといった生き方をした
 人でないとなかなかああいう自然の色や時間による変化の描写は出来ないと思う。
 しかし、大勢の人が右へいくならば自分は左へと行くような天の邪鬼を自認するものに
 とって、何か人の言わないことを無理に探し出すことに自己表現を試みるという悪い癖
 で敢えて評すれば、筋の破綻はなく納得出来るもので、しっかりと納まっているが筋の
 進みが重点に置かれていて、心理の描写「意識のながれ」が少ないのが不満である。




肥と筑 第四回 長岡曉生著  2008/3/11
http://2style.in/alpha/14-3.html

◆またまた秋の風鈴なみの無粋な季節はずれの感想を書きます。早い時期に書けば楽なの
 に皆さんの素晴らしい意見の出た後で、気の利いた、大向こうを呻らす、人と違った観
 点のものを書くことは非常に難しい技でありまして、怠けた罰と諦めましょう。 この
 「肥と筑」のような壮大な読み物は真剣に評するとなれば、四書五経は勿論のこと亀甲
 文字や金文字などの資料集を読破しなければならないから、異常プリオン蛋白による
 牛海綿状脳症のような私のプヨプヨの脳ではとても無理なことであります。だから個々
 のことに対する質問や疑問ではなく、別な観点から眺めて見ましょう。

◆論文か小説か?という命題が前々回あたりから話題になっていましたが、論文とすれば
 取り上げられた資料が果たして真であるか、事実にはない想像のものか、または風説に
 よる単なる噂に域を出ない物かなどの判断をいわゆる専門家の集中砲火を浴びてボコボ
 コにされる運命が待っているでしょう。ところがそれを小説というスタイルにすれば資
 料と資料の膨大な時間と空間を繋ぐ大胆な推論という便利なものも許されるに違いあり
 ません。そういう風に見ると作者の意図を十分発揮させるためには小説というスタイル
 を選んだことは正しいと言えましょう。登場人物の性格描写が不十分だの、皆が等価に
 扱われていて統一感がないということでしっかりとしたイメージを読者が作り上げるこ
 とが出来ないので戸惑う、などということはまた別の問題でありましょう。

◆初期値のごくわずかなずれが、将来の結果に甚大な差を生み出す(バタフライ効果)の
 「カオス理論」や、ものの予測のできない空間的、時間的変化や動きを表す「1/Fゆ
 らぎ理論」などのように、歴史上の資料という小石を池に投げ込んで出来る波状が大き
 な波となって拡大するように、初期値の選択で違った結論に到達することだってあり得
 る事でありましょう。色々の説、色々の論が生じても何が真実で何が間違っているかの
 判断は俄につきがたい問題も多く、それがかえって推論の面白さでもあります。

◆世の中には、鉄の箱である飛行機が空を飛ぶのは信じられないと思う人は多いと思いま
 す。ベルヌーイの定理などの流体力学を使ってその浮力を証明しているが、どうもそれ
 だけでは解明できない部分があるという。しかし現実に飛行機は空を飛ぶわけですから、
 鐸木康孝著による「物理学の理論はすべて近似である。ケプラー法則に従って運行刷る
 惑星は一つもないし、ニュートンの法則に従って運動する質点とか剛体というものはひ
 とつもない。正しいか、正しくないか、ということは、物理学では問題にならない。問
 題になるのは精度である。誤差の極めて大きな理論に対して、これは誤りであるという
 判定がおこなわれることはある。この理論は正しいという判定をこなわれてことは一度
 もない」などや、とにかこの世界の出来事は「 99・9%は仮説」という竹内 薫著のよ
 うに、この世の中でまだ解明されてないものがほとんどであるという。

◆だから私は「肥と筑」を小説として書き上げたというふうに、作者の意図をくみ取った
 つもりだ。はたしてその真偽はいかに。 そして、今回もまたまた「カオス理論」や
 「1/Fゆらぎ理論」などといった奇っ怪なものでお茶を濁してごめんなさい。




愛13題??碇民治著 ????2008/3/17
http://2style.in/alpha/14-4.html

 俳句に関しては全くの門外漢なの碇さんの「愛13題」の句の善し悪しを評することは
出来ませんが、盲蛇に怖じずにて自己流の感覚的なことを書きますと、現代俳句において
2、3の疑問点があります。これは天の邪鬼たる私の偏った意見かもしれないので、もし
的外れであれば遠慮無くご指摘ください。
◆俳句の約束事 :碇さんが示してくれた数多くの約束事を見て、このような約束事を造
 ることは、句の本当の意図からだんだん離れているのではないかと感じました。俳諧の
 初めの頃はもっと自由闊達で、野太く、直裁的ではなかったのではないでしょうか。
◆漢字:漢字やカタカナやひらがなから受ける視覚的な印象もまた大事で、その配分やバ
 ランスも読者に与える感じは違ったものになるでしょう。視覚的にみますと今回の碇さ
 んの句の印象は漢字の部分が多く目に付きます。難しい言葉が必ずしも鬱陶しいといく
 ことではなくて、ひらがなの間に配置された少ない漢字の大いなる効果もまた考慮され
 ていいかも知れません。
◆字足らず字余り:
 拝むや・・・・おろがむや(5文字)
 雪解川・・・・ゆきげがわ(5文字)
 菊美しき・・・きくはしき(5文字)
 碧きかり・・・あおきかり(5文字)
 などの字足らずや字余りの処理の仕方もあまりにも5・7・5に当てはめるという約束事
 に囚われて、不自然で姑息に見えてしまうのは私だけでしょうかね。以上言いたい放題
 失礼しました。



プラトニック・ラブ  2008/3/20

◆ プラトニック・ラブという題をみて、九鬼周造の『「いき」の構造』に出てくる江戸
 っ子の思いを遂げられない恋、諦められた恋をまず思い浮かべた。それから肉体的に結
 ばれることなく、遠くから思いを寄せるだけの貴婦人に対する精神的な中世の騎士の愛
 を思い浮かべた。そのような現象はそこら中にいつも溢れるように存在していると言う
 のに、こんどもまた「言葉」の定義からはいるという私のいつもの悪い癖が出てしまっ
 た。
 とにかく、プラトニック・ラブという用語はどこから来たのかを納得しないとどうも先
 へ進めないというから始末に負えない。
◆そこで安直にWikipediaで調べてみると、プラトニック・ラブ (Platonic love) とは、肉
 体的な欲求を離れた、精神的な愛のことである。プラトンも実は男色者であったが、そ
 の著書の『饗宴』の中で、男色者として肉体(外見)に惹かれる愛よりも精神に惹かれ
 る愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)
 よりも、美のイデアを愛することであると説いた。
◆また、九鬼周造の『「いき」の構造』のなかで語られる、身分の違いや人妻などの女性
 に心を寄せるものの決して成就しない忍ぶ恋であり、諦める恋である。そこに江戸っ子
 の意気地、やせ我慢の美学が感ぜられ、それが究極的な「粋」だと言っている。そのよ
 うなものを私は勝手に「プラトニック・ラブ」と呼ぶような気がする。
◆さて、著者の小説のなかで語られるものをみると、そのような二人の関係がはたして「プ
 ラトニック・ラブ」なのかどうか疑問に思われる。肉体的に結ばれないからそうだとは
 単純に言えないような気がする。肉体を離れた関係がはたして男女間で成立するのかと
 いう命題も、小説のなかでも運命の同じ船に乗り合わせたという同志的な関係、親子・
 兄弟関係に生ずる愛に似たものなどといった考察もあり、なるほどと思うが結論は出て
 いない。
◆あなたはこの物語の主人公の立場になったらどうするか?と問い投げかけられているよ
 うで、安易に答えをだしたら見透かされそうで躊躇する。そしてこの問題を見事に解決
 する解答を今の私は見付ける事が出来ない。たぶん自分がそのような立場になったとき
 は七転八倒・周章狼狽するであろうと思うだけである。常日頃観念ではこうしようと想
 定していてもその時はたして建て前通りに自分が行動するか自信がない。
 夫婦の関係を断ち切るか否かは、夫が妻にたいして人格的に「存在」にたりえると切に
 思っているかによるだろう。ただ便利なだけか、それともアイリーンに無いものを妻に
 認めているかどうかに掛かっているのではないだろうか。それでもなおそう簡単に割り
 切ることはこの世の中では難しい。個人個人の性格にもよるだろう。その許容の範囲が
 100%から0%の間のある割合以上で我慢できるか、或いはできないかの数値は個人差
 によるところでから、この命題は個々の読者の性格に委ねられて、一向に正確な結論は
 出ないわけだ。
◆今まで著者の作品が語ってきたものを見ると、恨みや悔恨や怒りの情などの激しい人間
 の負の部分が語られないという傾向がある。これは作者が意識的に軽妙、洒脱なスタイ
 ルをとっているのか、それともそのような作者の性格に根ざす無意識の表現の結果なの
 か、どうであろう。
◆最後に「プラトニック・ラブ」の対極にあると思われる男女の関係を書いた中上健次著
 の「赫髪」(あかがみ)を紹介しよう。
 これは並のポルノ小説よりすごい性交の描写で全体が綴られている。しかし決してポル
 ノ小説のような卑猥さはない。むしろ人間の精神と真反対の肉体のすごさを表現してい
 て、中頭健次の才のすごさでもある。こういう人間の営みもあるのかと私の知らない世
 界があった。ポルノ小説を一度書いてみたいといって「性の波紋」をものにされたK
 氏にも一読を勧めます。



定年退職後の日々第三回…日曜日 午後の喫茶店 2008/4/12

◆久しぶりに時間が出来たので「定年退職後の日々」を初回から通して読み 直した。は
 たして主人公の山本さんは自分の死を認識しているのだろうか。そのへんが 曖昧だっ
 たので先日「ぼてじゅう」をつつききかつ飲みながら、作者に問うてみた。「自分でも
 判りません、これからどういうふうに山本さんが動くか想定していません」という答え
 が返ってきた。これはまるで原子のブラウン運動のごときランダムで混沌、やはり並の
 人間の考えが及ばない著者独特の「融通無碍」の世界なのだ。
◆私であれば、送別会の帰りに感慨にふけってしまった山本さんが、駅の階段を踏み外し
 て転んだ折り運悪く頭を打って敢えなく逝ってしまったとか、通り掛かりの十七歳の少
 年に理由もなくいきなり刺されて死んでしまったとか、読者というより自分を納得させ
 るためにくだくだ理屈をこねるだろうと思った。そのへんのところが私と著者との趣向
 や気質の違いなのだろう。
◆この小説があの世とこの世を行き来していることについて考えたことがある。私がこれ
 まで読んだ本の中にもそれを扱ったものがあった。村上春樹の「羊をめぐる冒険」「世
 界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「 海辺のカフカ」、田口ランディの「コ
 ンセント」それから埴谷雄高の「死霊」などがある。自分の中では「あの世とこの世」
 を「無限と有限」、「想念と現実」と読み替えてみた。その辺のところを同人α第2号
 の前書きで書いている。
◆同人α第2号の名をの「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなけれ
 ばなりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?
 はたして無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まさ
 れて来ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの
 難題に決着をつけなければならないと考えました。いま現在我々が生きている世界は有
 限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取って確かめることができます。し
 かし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、各の頭の中には神や虚数や妄
 想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の果てと思われている130
 億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
 そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受
 けるとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび
 音楽や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその
 世界へ積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕た
 ちは人生を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自
 己表現に努めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」と
 した次第であります。
◆さて、ブラウン運動の原子のように融通無碍・混沌・渾沌の「山本さん」にどんな結末
 が待っているか楽しみである。
◆ブログに掲載の著者の両親の写真はお二人の波瀾万丈の人生を読み取りたくなるような
 誘惑に駆られます。父上は上海や大連や満州当たりで暗躍する諜報機関を取り仕切るの
 謎の人物のように、一寸危ない感じがして不思議な魅力がありますね。




次元から次元へ 第一 神野佐嘉江著2008/5/1
http://2style.in/alpha/14-11.htmll

 斉藤孝の「声に出して読みたい日本語」という本がある。そこには有名な詩や文章が紹
介されているが、名文を浪々と朗読してみると、言うに言われぬ心地よさがある。
 6万年前人類の祖先がアフリカで誕生したとき、まだ文字はなかった。己の感情や同胞
への危険の警告の音は発していたにちがいない。だからこの詩を音にもどして、雪隠で謡
曲を呻る苦沙弥先生のように、野天の風呂で月を見ながら広沢虎造の十八番である「清水
次郎長」を歌う熊さんのように、我々もひとつ丹田に力をいれて姿勢を正し思い切り喉を
開き、思わせぶりな身振り手振りで感情を吹き込み「一ぅあきあがる、わきあがる、うき
きあがる、しゃば、しゅば、さばえなす」と叫んでみようではないか。 世俗にまみれた
「言葉」が声に出すことによって次元を逆戻りして原始の息吹に帰っていくに違いない。
 作者曰く「皆に苦労ばかり掛けていると思うし、僕も皆のをまめに合評をやっているわ
けではないので、今回この作品の合評はパスと宣言して、皆の負担を軽くしてください」
と依頼されたが、敢えて私はその作品の鑑賞に挑戦した。そして私は難解だと言われる神
野佐嘉江氏の言葉の意味を探るのではなく、もう一度音にもどしてやればそこから新しい
何かが感じ取れるような気がした。



同人α15号


西郷札と江藤新平をかくまった人小倉処平  2008/7/4
http://2style.in/alpha/15-9.html

 江藤新平の率いる佐賀の乱は大久保利通等の陰謀によりでっち上げられた理由によると
いう研究書を読んだことがある。もともと江藤新平は乱を起こそうとする不平士族を説得
するために下野したと言われているが、その間に公金横領の疑いありということで反乱軍
として追討令が出されたという資料を読んだことがある。征韓論そのものにおいても佐賀
出身者のなかでも江藤新平・副島種臣達と大隈重信・大木喬任達とはもともと意見が違っ
ていて、一枚岩ではなかったのだから藩としての反乱を起こすほどの江藤新平の考えはな
かったのではないだろうか。碇さんが読まれたものと同じものだったかもしれないが、友
人から貰ったその資料を誰かに貸してあげたような気がして、今は手元にない。
 とにかく江藤新平について私が強烈な印象をもったのは、近代化のために富国強兵と中
央集権を目指して突き進む国家権力のシステムのなかに、民衆の権利を意識した「行政訴
訟法」を制定した民権論者であったことである。あの時代このような権利を認めたという
ことだけでも偉大なる人物であったと私は評価する。
法による秩序を信じ近代国家を目指した人が、権謀術数の権力闘争のなかで抗弁もゆるさ
れない裁判で晒し首の刑に処せられたことは、「士族を廃めさせたうえ梟首という強引さ
は、法も司法もあったものではなかった」と司馬遼太郎はその著書『歳月』において語っ
ている。



肥と筑」第五回長岡曉生著 2008/7/19
http://2style.in/alpha/15-15.html

◆「知の巨人」についての長岡曉生さんのクレームがありましたが、けっしておちょくっ
 てニヤニヤしているわけではなく、心底私はそう思っているものです。それに比べて、
 さしずめO氏が「痴の巨人」なら私は「稚の巨人」といったところですか。
◆製鉄の話で小さい頃のことを想い出しました。
 私の父は戦後小さな鋳物工場を経営していました。そのためそのことについて私は色々
 のことを見聞きしていました。樋口さんの「付文」に出てくる銀色の無臭で硬いコーク
 スが珍重されていることも知っていました。コールタール、ピッチなどの不純物が混入
 している石炭では高温を得ることができません。だから高価なコークスを使用して、解
 体された軍艦などの鉄くずとを混ぜて溶鉱炉に入れて燃やして銑鉄をつくります。どろ
 どろに溶けて太陽のようにまぶしく輝き、線香花火のような火花を散らす鉄を、上半身
 裸の男達が鉄の柄杓で受て、鋳型に流し込みます。車の部品やら、橋桁の受け材やら、
 鍋などに成型されます。九州の夏の夜などは普通でも寝苦しいのに、溶鉱炉を使った日
 などは、工場と壁一つ隔てた同じ建物の住居では地獄のような暑さで、まともに寝られ
 たものではなかったことを記憶しています。
(中略)
◆ところで「肥と筑」の評はどうなったとお叱りを受けそうですが、私はこの膨大な小説
 が終わってから総評をしようと心に決めています。だから、「彼奴はまた敵前逃亡を図
 ったな」といわれそうですが、そうではなく興味の尽きない作者の風貌を解析して見た
 いという誘惑に駆られました。
 「赤信号 皆んなで渡れば 恐くない」的な護衛船団方式の中では、この「いひゅうも
 ん」ははなはだ厄介な存在です。無視するにはあまりにも穿った理を唱え、受け入れる
 には安逸をむさぼっている者も艱難辛苦の努力を覚悟しなければなりません。ものごと
 を理に照らして判断し、間尺に合わないことには豪も妥協せず、自分の考えを頑なに押
 し通す「いひゅうもん」は、表面だけの付き合いや対面だけの仲良しクラブにとっては
 まるで喉に刺さった魚の骨か、理由の分からない肋間神経痛のような忘れ去ることの出
 来ない不快感を発生させるものでありましょう。
 だが、並の人間が理解できないような深遠な考えと信念を持った「いひゅうもん」に私
 は「肥と筑」の作者を重ね合わせました。このような作品は彼しか出来ないもの、その
 意味に於いては強烈な個性の持ち主だと考えます。私はいつも自分にしか出来ないもの
 を見いだし、いかに実践するかを見つけたいと思うと同時に、いつの日かあいつは「い
 ひゅうもん」と呼称されることを夢見ています。



鎮魂歌  2008/7/23

 物語としては構成も最期の物語の締めくくりとしての情景も見事に決まっていて、よく
纏まっていると思います。今回の創作で旅行記だけをみて判断していた私の先入観が見事
に破られました。そういえば、同人α第10号「美」の作者が描いた少女像も並々ならぬ
技量を認めていた訳ですから早く気づくべきでした。
さて、例によって天の邪鬼の本領を発揮していくつかの疑問を呈して見ます。
 人を殺したり、陵辱した時のおぞましさ、罪悪感へのおののきは詳しく語られず、ただ
やむを得ない過ぎさっていくだけの情景としてのみ語られ、泰之の心に深く残る傷として
の様子は表現されていない。「人間の条件」の梶は体制のなかでの非人間的なことに抗い
ながら、それでも無力な己に思い悩む主人公が描かれている。
 シェークスピアの「マクベス」のように、荒野で3人の魔女に出会い、「万歳、コーダ
ーの領主」、いずれ王になるお方」と呼びかけられる。そしてマクベスとマクベス夫人は
共謀して王を殺害する。しかしマクベスはバンクォーの幽霊を見ておののき、マクベス夫
人は殺害の時汚した手の「血が落ちない」とつぶやき発狂する。己の欲望に負けて犯した
人間の罪の意識を激しく持つ二人はいつまでもいやされることはない、といった人間の業
の深さを表現している。
 泰之は逃れられない過酷な境遇をただ耐えるだけで、その非人間的な不条理を心のうち
で抗うことをしていないのが不満である。だから珠枝から誘われるままに交情するのだが、
女性にたいする好悪や性欲への渇望は示されず、ただ成り行きに従うという主体性のなさ
が目に付き、当然の行為が唐突な感じを受けるのは否めない。また珠枝の心情も心の内を
語られていないので、最後の墓参りのシーンで憶測するほかはない。
 こういう作風もあるのも分かるが、なにごとにもことを荒立てるという性格は私だけで
あろうか。このところ「落書き帳」の事件で問題点を指摘したにも拘わらず十分な説明や
反論もなく、いわゆる無視された腹いせに「鎮魂歌」をやりだまにしている訳ではない。
心豊かな作者と「斜に構えた」私の性格の違いであろうか。この辺のところの作者の反論
を期待する。



昔、革命的だったお父さんの挽歌・・・その4 安曇野便り 2008/7/29

 長い長い題を読む。実は編集の時にみた彼の題は違っていた。原題は「安曇野便り(そ
の4、ひとり芝居『天(あま)の魚(いを)』」だった。しかし「昔、革命的だったお父さん
の挽歌」シリーズの一部だからということで、現在の題になったものだ。ところでいつも
長い題を好む北島氏の傾向はどうしてであろうか。そこのところの考えを一度追及し真意
を吐露させてみたい気がする。
◆茜との予期せぬ交情を、離婚した妻・桐子の幻影におびえる主人公が不思議でならない。
 そこには不倫でもなく、なんら思い悩む道徳的な負い目はないと自分に言い聞かせなが
 ら、桐子の前で取り繕う心情は何故であろうか。
◆「同人安曇野15号」の合評会での茜の明るい様子をみて、茜の心の内はどのようなも
 のであるか推し量り兼ねる主人公の戸惑いはよく書けている。
◆「苦海浄土」の話は「同人安曇野」に投稿したという情況を描くことで、自然にうまく
 挿入されている。しかし、ここまで詳しく長い解説は別の話になってしまい、「安曇野
 便り」の小説としてのバランスを欠いているように私には思える。
◆P462段目の4行 「地元の人との付き合いは(目的がない限りは)」の 括弧書きは
いかにも説明的で、以前にも「再び言うが」とか「前にも言ったように」な どの説明的
な文が散見されるたが、文学としての態をなさないと思うのだがいかがです か。



同人α16号

「而今」と「前立腺がん」  2008/9/16

◆いつもお逢いする時はブログの写真のように、にこやかで屈託のなさそうに私には見え
 ていたタノさんですから、こんなシリアスな経験をされたことなど考えてもいませんで
 した。私もサラリーマンを辞めてから35年以上なりますが、その間一度も健康診断な
 るものを受けずに、病気で通院するなどとは夢にも思っていませんでした。しかし2年
 ほど前から両足がひどく痺れ、やむなく病院に診察に行くことになりました。やはり病
 気と対峙する覚悟を決めるまでは、これからの自分の生き方に戸惑い悩みを克服しなけ
 ればなりませんでした。
◆「而今」とはなかなか良い言葉ですね。私も最近タノさんと同じ心境になりました。過
 去も未来も幻想に過ぎない、今の一瞬のみが現実に実在する。だから過去に引きずられ
 たり、不確定な未来に一喜一憂するよりは、今をしっかり生きようということだと思い
 ます。そこで頭に浮かんだのはキルケゴールを初めニーチェ・ハイデッガー・ヤスパー
 ス・サルトル等が提唱した人間の実存を中心におく実存主義という思想です。またまた
 コピー・アンド・貼り付けの安直な方法をとりますが、以下はWikipediaより
 実存 (Existenz) の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して
「実存」とした。語源はex-sistere (続けて外に立つの意) 。
 実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越
 を主張する思想である、とされる (「実存は本質に先立つ」) 。時間の流れの中で、今
 ここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質
 を否定された自由な実存として、予め生の意味を与えられることなく、不条理な現実の
 うちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わ
 ることの出来ない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることは出来ない
 [要出典]のだ、とする。生を一旦このように捉えた上で、このような生を、絶望に陥る
 ことなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ともされる。
◆作品の評としてはなっていませんが、私が一月に一度の通院も専門医の判断まかせで、
 頼り切っている私と違い、このような正確なデータと状況の克明な描写には驚きました。
 下世話に一病息災といわれるように、私の病気を性もない仲間と覚悟してこれからも一
 生付き合っていく覚悟でいますから、これからもタノさんの元気を分けてください。



定年後の日々・・巴の妊娠  2008/9/17

 私も同人αの「樂」第13号に「シリーズ・歪んだ風景−異星人」という奇妙奇天烈な
文を書きましたが、ただワープロ変換や翻訳システムの不備を揶揄たもので、基本的には
我々の現在住んでいる地球の理屈から決して逸脱することはありませんでした。
◆女性の場合は男性と違って、20代や30代は年齢とともに微笑派が増加していくもの
 の、40代でピークとなって、それからは、やや下降線をたどる。女性は、どうも赤ち
 ゃんに対するする興味は40代が最高のようである。
◆木村先生の説に依れば「不老長寿者は、最も利己的な、異端の動物なのです。
◆そこで男性は、子孫が増えることが、自分の生存を危なくするという潜在意識の警告に
 従って、老人の顔になる人が多いのです
◆しかし、子供が欲しい女性だって、不老長寿者はほとんどが独身であり、夫婦生活をし
 ている者はほとんどいない。何故だろうか?
 「それが、不老長寿者の無限増殖を抑制する唯一の仕組みなのです。子供を産もうと思
 って愛情生活をすると、その二人は、離婚したり、相手が不慮の事故等で死亡すると一
 年以内に、再び相手を見つけないと老化して死んでしまいます。急激に老化しますから、
 相手はなかなか見つかりません。などなど、著者の小説は私達が長年苦労して築きあげ
た定説と思われる知識を、あざ笑うかのように無造作に、まるで洗濯機の中で引っかき回
し、挙げ句の果ては真っ白な脳に洗い清めようと意図する宇宙人の陰謀ではないかと思わ
れる。いちいち内容や用語の考察をすることが全く的外れで、ピエロになりそうな恐れが
あるから私は評する努力を躊躇した。きっと著者は、20世紀の最大の巨匠ジェームズ・ジ
ョイスの「フィネガンズ・ウエイク」や「ユリシーズ」などと肩を並べる奇書をものにし
ているのかもしれない。



「揺らぎ」による、会話詩 2008/10/3

詩の解釈は実に難しい。俳句や短歌のように作者が言わんとすることが判りやすいのと違
い、理屈なしにただ感じればいいといってもメタファーを多く含む現代詩の鑑賞は実に厄
介なものがある。
 海とか波とかの響きや字面も人によってそのイメージは違ってくる。だから作者が言葉
を発した瞬間からそれは一人歩きし、一生懸命読者に理解されるようにと意図された散文
と違い読む人の解釈次第で変化していく。
美しい海や岸に寄せ来る絶え間ない波の動きもある時は、私にとって単に心地よい響きと
開放されたさわやかさだけではなく、海の底知れない広がりと深みは恐れを抱かせるし、
無限の運動は私に逃れられない束縛と映り息苦しさを覚えさせる。
 そして、この詩が最後の「?? だけど、潮に引き戻されていく・・・。」という一節によっ
て、その意味するところを私は解釈出来ないでいる。




女であること 2008/10/8

 まず作者が「女であること」と表題をつけたことについて、その意図するところを私は
明確に捉えることが出来なかったことを白状しなければならない。
 それはともかく、人間の誕生について多田富雄の「生命の意味論」ではつぎのように書
いてある。男と女の生物学的差異については、女の染色体はXX、男の染色体はXYであ
るが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、人間はもともと女になるべく設
計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝子で、血液凝固・色覚・免疫細
胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に男をつくるためだけの遺伝子ら
しく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫で長持ちするようにできている
のである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男でも女でもない状態であり、基
本型がきまってから男にでもするか程度のもので、Y遺伝子のためにむりやり女の体を加
工して男にさせられた結果だという。
 生き物のなかにはある時はオス、廻りの環境がかわるとメスになるものがあるらしい。
だからシーザーが大いに悩んだほどのルビコン川のような隔たりは、男と女の間のには無
いのかも知れない。私達も男性の心の中にも女性的な部分もあるし、女性もまた男子的な
性格の人もいる。その境界は曖昧で、男らしくとか女らしくといった生き方はそれほど明
確に有るわけでなく、生来というよりはむしろ社会的な規範の中で作り上げられた結果の
差異のようだ。そして同性愛者が常にある一定のパーセンテージを閉めていることを見る
と、昔は異端の烙印を押されたものだが、現象的にみると民族の違い程度に認識する必要
が有るのかもしれない。しかし私はひげ面の男同士が抱き合ってキスしているのを見ると
「どうして」と思うのであるが・・・。
 作者が描きたかった同性愛についてのテーマを自分なりに考えてみたので、前置きが長
くなった。本題の合評としては、指の感触や思い入れは個人差があるもので、そんなもん
かとか、そうだそうだと自分の体験に照らし合わせるような個人的な感覚なので評はしな
い。そのかわり、作者の物語の描き方については2、3 の疑問がある。
 作者は敢えて現在の満足な環境の中に、ある種の物足りなさをもつ女性を描きたかった
のだろうが、読者には保坂和志がいう「体験のもつ一種問答無用の強さ」が感じられない。
「そして万一自分が同性愛者である事を悟ったとしても、これまで築いて来た全てを捨て
る事は出来ない。綾子には2度と会うまいと思った」など、今までの創作においても同じ
く深く悩むとか悔やむとかの心理の葛藤を敢えて書かないで、淡々と描いているようにも
思える。読者としてはこの終わり方に物足りなさを覚えるとともに、これからがこの物語
の始まりだと思うのだが。
 最後に参考資料として国際医学会やWHO(世界保健機関)の見解を載せてあるが、ど
うもこの創作の内容を補完するための言い訳じみていてどうかと思う。創作は創作として
その物語のなかに読者を引き込むだけでよいのでは。研究書やレポートではないのだから、
楽屋裏は見せない方がよいと思うのだが




明治維新前後の佐賀偉人百人 碇民治著 2008/10/16
http://2style.in/alpha/16-8.html

 18歳以来佐賀という郷里をはなれて半世紀にもなるので、碇さんの書かれた佐賀の偉
人達の足跡は初めて知ることも多く、今更ながら私にとって非常に興味深く読んでいる。
佐賀で暮らしていた頃はいつも身近なものより遠い都の方ばかりに目がむいていて、機会
があれば郷里を飛び出す算段ばかりしていた。だからその頃は己が育った足下の街の歴史
や偉人については興味も示さず冷淡だったと今は思う。その後もあまり帰属意識のなさと、
過去を振り向かない主義が禍して、郷里への思いも喚起されることもなくこのまま忘れ去
っていくところであった。過去に裏切られた故郷での人間関係や価値観の違いに基づく心
の底に沈殿している暗い思いがそうさせたのかも知れない。
 幸い碇さんが無意識に拒んでいる頑なな私に郷里への思いを再び向かわせてくれたよう
だ。これからも後九十数人の偉人についての記述を楽しみにしている。





「肥と筑」第六回 2008/11/2
http://2style.in/alpha/16-12.html

 海運業であった我が先祖の生業を知っている私にとって、今回の船の話には特に興味が
沸いてきた。
 渡来人の船は右舷漕ぎであっただろうと書いてあるが、それがどのような構造であるの
か、推進するに当たってどのような直進する力になり得るのか、その漕ぎ方が外の方法よ
りも有利であったという理由が知りたい。
 私は父の回想録を編集するに当たって、祖父と伯父と十八歳の父の三人が二本マストの
二百トンくらいの帆船で塩田港から有明海を抜け、風待ちしながら二週間かけて韓国の釜
山まで有田焼を積んで貿易していたという船について、船籍・洋船か和船かをお台場の船
の博物館で調べたことがある。父の従兄弟の人に聞いたところでは、真っ黒な船体で船尾
が丸い形をしたものだったから、おそらく洋船であったろうという曖昧な記憶しか聞けな
かった。
 徐福一行が最初にたどり着いたのは杵島の竜王崎(佐賀県杵島郡白石町)だったが、こ
こに上陸するには困難な場所と判断されたという。そのことを有明町の海童神社にある石
碑にはそのことが書かれているそうである。その海童神社の近くで船乗り家業をしていた
遠い祖先が除福伝説に関わりを持っていたなどという夢を持ってみたような気がしてきた。
 複合構造について、文字や刀の考察も面白かった。切る刀と突く剣の違いもいろいろの
民族の嗜好性や必要性についての考察も読んでみたい。
 この小説はものごとの出所を探し当て、その後各民族が変化させていったことを究明す
る、とてつもない比較文化論であることを遅まきながらいま悟った次第である。これで一
回分の購読料が200円は安すぎる気がしてきた。だからこの物語が完結した暁には一冊の
本として我が工房で作ることをお薦めしたい。



123α編集部:2014/04/30(水) 13:45:52
激甘辛 作品評3
.
        ????    激甘辛 作品評3
?????????????????????????????? 17−18号2008-2009



??????「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α17号

 そこで、一寸した疑問が湧いてきた。アメリカやフランスでは日本の文字に魅される人
が多くなったとか。若いアメリか人の腕の入れ墨に「台所」と彫ってあったのには噴飯も
のだが、日本のTシャツに書いてある英語にもいい加減なものもあるから、おあいこであ
ろう。確かに異国的なものへの憧れはあるだろうが、書を芸術とするのは中国や日本のよ
うな漢字を使う国だけであろうか。ローマ字やその他の国々の文字を芸術の対象とする考
えを持つ文化が外にあるかが知りたい。



テーマー「間柄」による、会話詩 2008/12/8

この詩はメタファーを読み取るといういつもの癖で作業が許されるものなのか、またその
ようなものを作者が意図していないのか、私には判らない。それほどこれは自然体の無垢
の心で読み取る詩なのだろう。

たぶん作者は私を取り巻く人達のような悔しさや惨めさなどの不条理の世界で生きること
から開放された人生に違いない。私も戦後の貧しさのなかで屋外にしつらえられた仮設の
五右衛門風呂に入りながら、秋の空の雲を動物や乗り物になぞらえた記憶がよみがえった
ものの、いまの自分は随分遠くまできたものだという感慨をもった次第である。
そして、とてもこれは作品の評としてはほど遠いとものと自覚しているのであります。



昔、革命的だったお父さんの挽歌…その5安曇野から 2008/12/14

 前半の時間の考察はなかなか面白い。しかし、「今の瞬間だけをそのつど生きている生
き物には、時間は生起してこない。時「間」の成立には「これまで」と「これから」の「間」
が生きられることが不可欠なのである。」にたいして、ちょっと意地悪に時間の定義を知
りたくなった。
 私が以前読んだ橋本淳一郎の「時間はどこでうまれるのか」という本の中に、哲学者マ
クタガートの時間系列があった。それは時間のA系列、B系列、C系列という考え方であ
る。
   ★A系列の時間とは、常に「現在」という視点に依存する時間のことを言う。生き
    ている自分にとって、時間はいつも「今現在」である。いわゆる主観的な時間で、
    われわれが日常的に感じているのは、このような時間しかないわけだから、人間
    的時間と見なして良いだろう。
   ★B系列の時間は、物理学的時間に対応しているが、それは物理学的時間の一部で
    ある。具体的にいうと、デカルトやニュートンが考えたような客観的時間のこと
    で、相対論や量子論が明らかにした時間は単純に座標軸に刻むことができないの
    で、B'系列、B''系列などの分類しなければならない。
   ★C系列は、もはや時間とはよべない。それはただの配列の事である。簡単な例で
    述べれば、1−秋田さん、2−石川さん、3−岡山産・・・などの、単なる名簿
    であって、それらの数字の間に、時間的な順序関係は何もない。このような時間
    とはかんけいのないたんなる配列を、C系列と呼ぶ。
 しかし、マクタガートの結論は、A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。C系
列は時間とよべるものではないから、結局「時間は実在しない」と述べている。
 後半の食料やエネルギーそれを取り巻く世界の環境問題などが主人公の口から論じられ
ているが、データが生々しく解説風で、フィクションという小説形式のに取り入れて論ず
るにはそぐわないような気がした。もう一度主人公の頭の中で醸造されたエキスとして上
手く語れないのだろうか。
 最後に「 そして、このことが茜と本来の人間的な関係を築くことができそうな気がす
る。「本来の人間的な関係」とはどういうことかと問われそうだが、それは肉体的な関係
よりも彼女の全体を知りたいという知的好奇心から情的連帯感を求めたいことだ。
私が生きるうえで茜の存在が一つの価値観としてあるような期待感が備わることだ。
それほど彼女には不可思議な魅力があるということかもしれない。」という件で締めてあ
るが、本来の人間的な関係を築こうとする意図と、現実の世界の問題の解析との天秤がど
ちらに傾くか、気が気ではない。



さくらそう 2008/12/19

◆学生時代、知人が話す大阪弁にその当時はあまり良い印象を持たなかった。なんとも複
 雑な感情をともなうもののようであったり、別の解釈ができそうな不思議なニュアンス
 を感じたりして、総じて曰くありげで不真面目に聞こえたものだ。それは少年の頃育っ
 た郷里や東京での生活で交わされる直裁的な言葉とは確かに違っていた。東京弁を野球
 に例えて直球だと見なせば、大阪弁は掴み所のない変化球、魔球のような感じがしたの
 だった。愚直に可否をはっきり表現していて潔いような感じを与える東京弁と反対に、
 大阪弁はその中に色々の感情が詰め込まれているようで、肯定しているかと思えばやん
 わり拒否しているようでもあり、一筋縄ではいかないぞという思いを私に抱かせた。さ
 てそこで大阪弁とはどのようなものなのかの概略を改めて調べてみた。
  * 文末の省略 (例)これが大阪城でおま。 あんじょうさせてもろてま。
  * 連音・促音 (例)プラッチック(←プラスチック) やーもっさん(←山本さ
   ん)
  * 「だす」 共通語の「です」を大阪城だす。
  * 「おます」 (例)これが大阪城でおます。
  * 否定形の表現 (例)膝は笑えへんやろ。 そんな奴おれへんやろ。
  * 「もうかりまっか」
 大阪は商人の町として発展したために曖昧で互いに角を立てない表現が発達した。文末
の省略はその象徴的なもので、一見すると肯定しているのか否定しているのかはっきりし
ないことがある。と書いてあった。     (Wikipedia)
◆しかしこのところ筒井さんの作品を読んでいるうちに、なかなか大阪弁のやわらかさや
 断定しない言葉の情緒を、これまたいいもんだと迂闊にも感じ始めている自分があった。
 いまでも男性の話す大阪弁にはいささか違和感を感じるのだが、女性のそれは強い性格
 の女性に痛めつけられた私にはこの上なく癒しの響きがあって惹かれるものである。
 しかしこれもまた十把一絡げにすることも乱暴なことで、たぶん個人差の問題でもある
 だろう。中には私の手に余る女性もいるのかもしれない。
 だが、一方灰汁の強い大阪弁を最近は噸と耳にしなくなったような気がするのは私の錯
 覚だろうか。だんだん地方色が薄れてきて標準語に引きずられてきているのかもしれな
 い。そう言えば東京生まれの息子の「鼻濁音」も聞いたことない気がしてきた。そのよ
 うに独特の地方色がなくなってしまうことは残念なことである。
◆とまあ、作品の評の前にずいぶんと頓馬なことで紙面を費やしてしまった。これで終わ
 りにするのも間尺が合わないから努力してみよう。
 この作品は皆さんの評されるように、シリアスな物語を流れる水のごとくなめらかに語
 られている。しかし敢えて評すれば、点と点を結ぶ「線」、主人公と関係を持つ人人々
 の「面」の記述で、高さや深さや時間の交差といった多次元の構造になっていないのが
 物足りない気がした。もう少し流れの中に障害物や、瀬や淵や曲がりくねった複雑さが
 欲しい。最後に一番知りたかったのは夫がどうして主人公から離れていったかの記述で
 ある。しかしまたこのような淡々とした作風もあっていいようにも思えた。



《言葉集め星創り五拾番》より 弐拾六番
 元旦を生む 神野佐嘉江著?? 2009/1/14
http://2style.in/alpha/17-8.html

 〇一つは、文字が会話をなしえない単なる記号として、まるで筑豊炭坑の捨石(ボタ)
山のようにゴロと裸のまま転がっているようだ。
 それらが〇〇では二つの言葉がくっつき合って、なんだか常人の頭には存在しない判じ
物のような言葉が生まれ出でる。 「へその梅」、「干柿浣腸」、「炭のような卵子」、
「歳神の超音波写真」「性別正月」そして・・・。
 〇〇〇ではそれに動詞や形容詞などの述語がくっついてきた。すこし意味をなしてきた
が、なお身近な科学法則には当てはまらないことばかりだ。この広大な宇宙に未だに存在
の証明されていない、でもあるとしなければビッグバンの仮説に影響してくるダーク・マ
ター(暗黒物質)の侮れない力のように、間尺に合わなくても真実を含んでいるのかもしれ
ないと思う。
 さて正月のめでたさと生命の誕生を祝って書かれたものだが、物質から生命が発生する
ときはこのようにオドロドロの奇々怪々な、きれい事では済まされない経過をへて、かわ
いい赤ん坊の誕生となるのだ。
おめでとうひっひっふー 子孫繁栄ひっひっふー (福笑いひっひっふー 万歳ひっひっ
ふー からっ風ひっひっふー。
まずはめでたしめでたし。



・「蛍」・・・道しるべ 2009/1/20

◆ なんとも心地よい物語なので、点字の仕組みの説明のところで船を漕いでポトリと冊
 子を落としてしまった。クラシックの演奏を聞いていて途中から気持ちよく眠るのは、
 いい演奏の証拠であると某文化人が言っていた。「歪んだ風景」の中に住む者にとって
 も皆さんの評の通り、意味の取り違いによるあざ笑いや、冷たい目を背中に感じること
 もなく、優しさや思いやりのいっぱい詰まった世界がとても心地よかったからでしょう。
◆目が覚めてからすぐにシステムや算法(アルゴリズム)に反応したのは、点字の決まり事
 に興味を持ったからだ。六個のポイントで「かな」を表せるという単純なものだから、
 コンピュータ上でそのまま本を読むように「かな」を打てる「点字ソフト」を作るのは
 簡単ではないかと思った。そのようなソフトがすでに市販されているのかどうかかは私
 にはわからないが。
◆私は作者のように人に優しく、ボランティアなどの奉仕精神もなく、ただ自分のことだ
 けにめいっぱいで過ごしていることを時に恥じる者であるが、綺麗すぎるものごとの中
 に潜む負の部分を見過ごす訳にはいかず、すぐに水を差して白けさせるという困った性
 格だ。一度でもいいから、作者のような純愛の物語を作って見たい。しかし無理でしょ
 うね。


フランス便り 秋 2009/1/22

 先の「沈みゆく家」の評に対して、作者たる私自身がくだくだと言い訳を一杯書いてし
まったことを、てらいや自己顕示欲やひけらかしに思えてきて、今は実に後悔している。
作者は書くだけでいいのに、あとは解釈をそれぞれの読者の感覚に任せればいいのに、と
いう常日頃思っていたにも拘わらず理屈をこねて自分の考えを押しつけたことに滅入って
いるのである。
 さて、それはともかくフランス便りを楽しく読まして貰った。行ったことはないが、そ
のような長閑な街の雰囲気を映し出した作者の素直な記述に、遠くに居ながらにしてそこ
ら中を作者ご夫妻達と一緒に散策しているようないい気分になった。
◆墓の話
 先日この「言の輪」に、この歳になると体のどこそこが悪い等と言った 病気の話で持
ちきりになるという記事があった。そのうち我々も前期高齢者のまっ ただ中に突入する
からきっと墓の話で盛り上がるだろうよなどと思ったものだ。
 11月だから日本の秋分の頃よりは2月ほどずれるが、墓前に備える菊の花だとか、火
 葬だとか、家族揃って墓参りするという習慣が日本とフランスはそっくりであることに
 少なからず驚いた。
 ところで、泉岳寺にある赤穂浪士の墓は有名だが、東京でも名のある故人の墓を訪れる
 ことが趣味だという人も多くなっているという。この前「歩くハイマーの会」で吉祥寺
 から玉川上水を歩く中で、太宰治や森鴎外などの墓も回ったが、いつも新しい花で華や
 いでいるという。私はそのような人の墓には何の興味も湧かないので、そう言う人はど
 のような意図で探索するのであるか不思議である。
◆キノコの話
 種類も多く四季を通して実る野いちごには毒はない。毒々しい真っ赤な蛇イチゴはいか
 にも腹痛を起こしそうだが、不味いというだけで無害であるという。
 しかしキノコは毒があるのも多く、素人では判定が難しく手を出さない方がよいようだ。
 新聞でキノコ狩りに出掛けた家族が、山を下りてくる途中で通りがかりの人に貰ったも
 のを食べて中毒したというニュースがあった。人にあげる人も、またそれを何の疑いも
 なく素直に食する人も、どっちもどっちである。その後その家族が死に至ったかどうか
 は判らない。
◆写真
 このエッセーを一段と魅力あるものにする手だてとして、場面場面の写真を添えては如
 何と亮子さんに提案したい。



あなたと私 2009/1/31

 いつものように取っ掛かりがないときは言葉の意味をあちこちと調べ回っていると、な
にやら問題点が浮かんでくるものだ。 今回はこの詩のキーワードである「縁」「絆」
「間柄」を片手では持てないくらい重くて厚い「字通」で調べてみた。
 それらの意味を私の独断と偏見で捏ね回すと、「縁」とは他生からつながる結びつきで、
生まれたときから定まっていて、自らの意志で変えられない運命である。「絆」とは生ま
れた後で自ら築き上げる人と人の繋がりである。「間柄」とは自分を取り巻くそのような
人たちとの空間的、時間的距離関係であるとしてみたが、その解釈にあまり自信はない。
 「あなたと私」という詩は作者が相手との関係を密にしたり、疎にしたり、肯定したり、
否定しながら考察を進める、自分探しの詩であると思う。
  一度産まれたら 切るに切れない・・・の「絆」
  神々の計り知れない叡智か・・・・・・の「縁」
思い違いの冷たい風が握り合った手の間を、よせては引く波のように繰り返す心もとなさ、
えにしに絡め取られた男と女・・・のベクトルの彷徨う「間柄」掴んだと思ったらするり
と手のひらの間から抜け落ちるもどかしさ、作者は未来永劫その危うい関係から逃れられ
ないだろう。肯定と否定の対句による流れの快さ、彷徨う心の惑いがよく表現されていて
良い出来と思いました。しかし時間に迫られた習作、あらがきのような印象をもち、欲を
言えばリズムにのるように言葉の長さを整えて、使い古されたものではなく詩的な言葉の
隠喩を使ってイメージを広げるようにしたらと勝手に思いました。



オールド・マン −父去る日− 2009/2/14
 ブログの写真について昌平坂探偵所の赤松次郎としてはこの写真もまた3人のうち当人
はどの人かという推理を、長岡さんの時のように分析したくなりました。しかしよく眺め
るとそんなに思案することもなく判りました。右の人はムスリムのベールを被っている。
真ん中の女性はまだ若い子供のようだ。たとえ清水さんのこの旅行が十数年前の写真とし
ても、やはりその女性よりも幼くはなかっただろうから、左の女性が作者に間違いないと
決定した・・・とまあ余計な遊びをしてしまった。
 今まで共に生きてきた父を回想する作者は、敬い、慈しむ父への感情を直接表現するこ
とではなく、抑制された目で静かに、生きるとは、老いとは、死とは何かという普遍的な
真理を求め探っている。そして最後の6行で初めて作者の父の死に直面している。それま
でのメタファーは実に効果的で見事にこの詩に清廉と深さとを与えている。ちなみにメタ
ファーはアリストテレスの「詩学」のなかで、「通常の言葉は既に知っていることしか伝
えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」と述べている。



同人α18号


マグマ 2009/3/8

 人知れず内に潜む心の情を熱いマグマにたとえて歌った詩。だれも己の秘めたるものの
大きさや重さや激しさを知らないという。それは日々の暮らしの中でかいま見た、人間関
係における愛情・嫉妬・羨望・失望などの喜怒哀楽に翻弄される己を深く内証した詩であ
ると思います。「誰も触れてはならぬ、如何なるものかを、誰も尋ねることはならぬ」の
部分はまさに深く関わればそれだけ己が傷つくことを言っているのでしょう。
 しかし疑問点が無いわけではありません。「砂を噛むほどの寂しさ」とは作者独特の感
覚であると思うが、どういうものか私にははっきりしたイメージが沸かず、不可解な言葉
として残りました。
 それから、「人も山も」は先に人を火山に例えているから、「人も」は不要に思え、重
複した感じを受けます。同じくその他の節も「人間は」ではなく「山は」とし擬人化した

「山」を主語として通したほうがいいのではと思いました。
 そして最後の言葉である「赤い命を燃やす「山」を最初の主語である「人(または人間)」
に戻した方がいいのではと思いましたが如何でしょうか。



「マグマの評について」 2009/3/9

 長岡さんから話を振られたので白状します。花粉症で目と鼻をクシャクシャにして参っ
ている脳を駆使してこの詩をよんだ時に、まず最初に浮かんだのは主語がいろいろ変化し
ていること。それにより視点が定まらないのが気になりました。表現しようとする目的・
内容・意図は充分評価できますが、もう少し構成上の推敲に努力されたらもっと素晴らし
いものになったと勝手に思っています。長岡さんも人が悪いなあー、赤松次郎からいわず
もがなの言を引き出すなんて・・・。



肥と筑 第八回 長岡曉生著 2009/3/15
http://2style.in/alpha/18-7.html

 どうも作品の内容について質問を探すことに四苦八苦しているのが実情であります。裏
を返せば、まさにそれは長岡さんの論にたいして確たる反論を見いだせないという我が不
勉強を如実に表わしているのであります。しかしへそ曲がりの赤松次郎らしく、大海に浮
かぶ、ちっぽけな史実という島々を結ぶ線に、飛躍や食違いや強引な接合という弱点がき
っとどこかにある、と目を皿のようにして探すのだですが、皆目見当もつきません。それ
は作者の知識が私の思い及ばぬほど宇宙的な壮大さ、深淵さでとてつもなくすごいものだ
からでしょう。 せめてロッキ−ド事件の榎本三恵子が証言した「蜂の一刺し」のように
「まいった」と一本とりるような意地悪な質問をしてみたいものです。
◆骨相学
 海人族などの渡来人が日本の各地に拡散するとき、先住民である縄文人・弥生人との関
係、どのようにして融合していったか。
 有史初期、古事記や日本書記のころにも帰化人が貴族の三割くらいを占めていたと読ん
だことがありましたが、大阪の人達の骨相を調べたら、朝鮮の人達に極めて近いひとが多
いと聞いたことがあります。 縄文人・弥生人・北方騎馬民族・南方海人族の骨相的特徴
は?
◆出雲のズーズー弁
 松本清張の「砂の器」のなかに東北地方ばかりでなく山陰地方でにも存在することに言
及されて、それが犯人を追いつめていく筋だったと記憶していましたが、あまりに昔読ん
だので定かではありません。
◆曼荼羅を描いた本は私も持っていますが、人間の奥深く探求した思想を視覚的・象徴的
 に表したもの。個々の真理探究をする西洋の思想にはないものであり、その統合された
思想の世界は精緻さと深さに満ちていて驚くべきものですね。今読んでいるアーヴィン・
カリヴァン著の「CosMos」がまさにこの宇宙の統一理論の基礎のなっているような
気がしています。
◆法曼荼羅と深層意識のアーラヤ識について、以前なにかの哲学者の本のなかで読んだこ
 とがありましたが、長岡さんの紹介された【認識と超越<唯識>仏教の思想4(角川書
店)】を購入しましたので、もう一度読んでみたいと思っています。
次号の表題「空」を解説するなんざぁ、長岡さんも策士だなあ。



『桃源郷』に行った男 2009/3/26

 「不老不死の実」を食べるのを止めた方がいいというガイドの言葉の理由が書いてない。
これは村の人々が経験上それを食べてしまった人の将来の不幸を予感しているためなの
か。とば口でそのことを詳しく記述しなかったし、明子と別れる事情も説明しないのもま
た謎を残したまま筋を進めるという作者の企みなのか。そうだとすれば、なかなかの策士
であります。
 ところで、作者のこれまでの主人公を調べてみると、私はある共通点があることを見つ
けた。この小説の安夫、「鎮魂歌」の武田泰之、「牡 丹」の翔、「蛍」の朝比奈美代子な
どの主人公達は、深刻にじっと耐えている風でもなく、成り行きに任せて飄々と生きてい
るようだ。困ることがあっても自ら足掻いてでも問題を解決するという生臭い性格ではな
さそうである。清いと言えば清いし、善良だと言えば誠に善良である。問題の前で立ちす
くむ子供のような、無垢さを感じる。
妻を愛する夫であれば、「不老不死の実」を食べて自分だけ不老不死になるのではなく、
「アピトーユ渓谷」に出かけて行って、明子のために実を取ってくるだろうと思った。そ
う言う発想にならないところに、主人公の異質な感覚がある。
 私も以前「不老不死」のテーマで「三つの願い」という中編のSFものの寓話を書いた
ことがあるが、主人公は実に惨めな人生を過ごさなければならないといった結論であった。
なにせ人間や動物やそのたの生き物がすべて滅亡した、殺伐とした世界を一人生き続けな
ければならないからだ。話し相手もいないので言葉も失し、頭脳も退化した姿は、まさに
肉体は生きていても人間としての尊厳は精神活動の停止で保たれず、まさに死んでいるの
と同じといえよう。一体不老不死とは・・・安夫の結末はいかに? それにしても作者の
いつもの見事な構想には脱帽します。



性についての雑考 2009/4/7

 私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
 エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
 「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
  (1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
  (2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。



色模様 2009/4/20

◆ブログの写真を見て
 作者は不思議な人である。まるで剣客塚原卜伝の「無手勝流」の使い手のよう に、一
 見隙だらけのように思えて観客をハラハラさせるが、結局は己のなすがままにち ゃっ
 かり勝利を手にしているという希な人である。
 その姿もクレオパトラか楊貴妃か藤原紀香のように傾城の美女という訳ではないが、男
 の心を惑わすような妙な魅力が備わっていて見飽きない。女優でいえば「足ながおじさ
 ん」に出たレスリー・キャロンか、「アパートの鍵貸します」のシャーリー・マクレー
 ンあたりだろうか、好き嫌いは別として・・・。

◆さて本題の「色模様」の感想を書くが、一言でいえば信子の「心模様」を見事に書きき
 ったもので、いよいよ私好みの「純文学」の世界へ入ってきた作品と言えよう。 何が
 「娯楽小説」でなにが「純文学」かは人によって解釈が違うようだ。 だからこの問題
 は微妙で一筋縄ではないようだから、こうであると今私が断じることはなるべく避けた
 い。参考として先日朝日新聞2009/3/25の「文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子」
 はこう言っている。
 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
 ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいか
 に描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定
 義を思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
 壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前で
 トンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
 わり、あとに引きずるものがない。
◆そこで「色模様」については、足を絡ませたり。耳を噛んだり、指を絡ませる等の肉体
 の接触で男女の関係を表しているが、この辺は通俗小説じみている。しかし「私が首に
 なって路頭に迷ったらあなた面倒見てくれる?」の会話における男と女の心理が面白い。
 男は自分の立場上不可能なことだと必死で説明し自分を守ろうとする。女は無理だと判
 りながら「安心しなさい、ずっと面倒見てあげるよ」という言葉だけでも言ってもらう
 ことでふっと湧いた不安が癒されるのである。そのへんの機微が男には判らない。私も
 細君にそのような問い掛けをされたとき、真剣に理屈をくどくど説いて、答えを出そう
 ともがくのであるが、「女の気持ちがちっとも分かっていない」「言葉は只、慰めを言
 わない手はない」などと叱られるのである。世間を見ると「歯の浮くような」言葉をよ
 くする男の方が、女性を幸せにするのかもしれない。だが私みたいな朴念仁にはなかな
 か出来ない辛い仕事である。

 男と女の繋がりは、一緒に側に居たい、それが心地よいと思うかどうかの問題で、不倫
 だろうとなかろうと当事者以外が問題にするようなものではないと私は思う。男も女も
 今の相手と違った魅力の人々が一杯いるわけだから、それぞれの人を好きになってはい
 けないという倫理感は、他人に押しつけるべきではない。そういう面での信子の生き方
 には、決まり切った世間の通念に囚われない心の自由を感じる。だから今の彼との間に
 何らかの束縛感を覚えたとき、信子はすんなり別れてしまいそうな気がする。
 この小説は、そのような結論の出ない、たゆたいのなかの信子の暮らし振りが非常によ
 く書けていると私は思う。また筋の纏まりもよく一人称で語られているので人間関係も
 判りやすい、よくできた作品里私は思う。




自然染色のぬくもり〜シルクのトンネル〜 2009/4/27

◆先日聴きに行ったウィリアム・モリスの講座と相まって、私にいろいろと考えさせるも
 のを提供してくれた。
 モリスについては学生時代に建築学科の教養として「アーツ・アンド・クラフト運動」
 という芸術運動の提唱者であったという知識は微かに持っていた。しかし今回の講座自
 体は、かつてモリスのデザインした壁紙などを継承して製作販売している会社の主催す
 るものであったので、レジメもなくスライドだけの説明で、内容も私の知っている知識
 を超えるものでもなかった。それはともかく、1800年代イギリスの産業革命の時代
 にそのクラフト(手作り)の良さを見直すという運動は、そのまま現代の問題として生
 きているのである。そこで安価に大量に製産される工業製品と、自然のものを使った手
 作りのものの違いをいつもの癖で考えてみたいと思う。
◆それらの違いはどこにあるか。
 たとえば、絹や麻や木綿などの天然繊維と化学繊維
 天然繊維は湿度や温度などの自然現象にうまく対応した長い人間の暮らしに沿て使いこ
 なされた暖かみがある。一方工業製品は強く、かつある種の特性には秀でているが天然
 繊維のもつ多様な特性がない。
 たとえば、草や木や動物による天然染料と合成染料
 天然の染料は様々な色を含むやわらかな中間色が多いような気がするが、合成染料との
 違いは私にも判からない。
 たとえば、土や木や紙や石などの天然建材と新建材といわれる工業製品
??建材においても同じく、天然の建材は自然の移りかわりに微妙に対処する能力があるが、
 新建材は別の要素を併用して補わなければいけない。
 たとえば、レコードなどのアナログとCDなどのデジタル音楽
 デジタルで情報を記録するCDが出るまで私達は、レコードというアナログの記録を再
 生して音楽を聴いていた。それは針とレコードをトレースする雑音も一緒に含めて鑑賞
 していた訳だ。だからCDの音が雑音を含まず、純粋な音の再現だと頭では思えてもな
 んだか薄っぺらで深みのない感じを受けたものだ。私はヴァイオリンやクラリネットや
 笙のように、位相の違う波形の音がいくつも重なって創り出す音に感動する。だから今
 でもラックスマンの管球アンプ、ナガオカのレコード針を使い、思い出の名演奏のレコ
 ードをタンノイのスピーカーで聞いているマニアの想いも判らないでもない。
 結論として、いくつもの要素を含む天然のものは総じて、色や音やテクスチャーに深み
 をもつ複雑系のもので、使えば使うほど、時間が経てば経つほど味わいを増すようであ
 ることは確かである。ただし安価で大量に供給される工業生産品と違い、希少な材料と
 手間と時間とを要する手工芸品が高価なものになり、庶民の手から遠ざかり金満家のた
 めのものになるところは、すでに150年前のモリスの時代からのジレンマになってい
 る。・・とまあ、作者のエッセイを読んで、こういうとりとめもない感想を抱いた次第
 である。




パイオニア十号 2009/5/4

 なりたい職業の最初は忍者、それから新聞記者の特派員としてアメリカに行き、カウボ
ーイになりたかった。やむを得ず学業成績を問わない公務員になった。作者のこの辺の見
解も常人とは違い、読者にとっては非常に隠喩的で刺激的である。
 また、東欧で昔の領主の館を買い、小さなホテルを経営したいと思う一方、ビルマの山
奥で少数民族とともに仕事がしたいと思うが、「私はこれまで常に、自分の希望する世界
を生きてこなかった」と嘆く。
 作者はその名の通り、実は我々が生きている現実の世界ではなく、イマジネーションの
世界でいまも暮らしていると私は確信する。神が動物を創造した際に、余った半端物を用
いて獏というキメラを創ったそうであるが、貪欲に夢を食べ続けている獏のようではあり
ませんか。
そして、宇宙船パイオニアのように宇宙空間で孤独な旅を続けながら、時折我々の住む現
実の世界へ接近してきて、知的刺激を与えてくれる特異な人である。
◆Wikipediaより
 獏(ばく)は、人の夢を喰って生きると言われる中国から日本へ伝わった伝説の生物。
 この場合の夢は将来の希望の意味ではなくレム睡眠中にみる夢である。悪夢を見た後に
 「(この夢を)獏にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見ずにすむという。
 体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎にそれぞれ似ているとされる。。




The Color of the Morning Glories 2009/5/5

 まじめに自分で訳して感想をと思い努力したが、長文の箇所でお手上げになったので馬
込の先生の手を借りた。ところが作品の題であるMorning Gloriesが「朝顔の花」とは
つゆ知らず、「朝の荘厳な光の色」などと、とんでもない迷訳となっていたのである。三日
ほど掛けて訳したのだが、いまさら時間のなさと辞書のせいにはしたくはなく、やはり素人
の出る幕ではないらしい。
それはともかく、この短編はある一時(いっとき)の場面の中にこれほどの密度の高い想
念を作り上げられたもので、作者の並々ならぬ力量と才能を見た。
 この先品は18号のテーマである「色」について、red、green、blue、 bright blue、deep
blue、yellow、pale yellowなど七種類の記述もさることながら、私が注目したのは種々の
情景の記述の中に「二項対立」の関係で成り立っているのを見つけたからだ。
たとえば少年(男)とおばあさん(女)、低い(少年)と高い(おばあさん)の視点、過
去と現在の情景、動と静、静寂と激しい音、平安と5.11という大事件等々。これほど
一幕ものの短編のなかに深い想念を重奏の音楽のように奏でたことは実に見事であると私
は思った。



「エラさんの作品から感じたもの」 2009/5/8

 G氏の評「作者は何を言いたかったのか」を読んで、私は「二項対立」の構文に目が
眩み、それを書くのを忘れていた。
情景描写に徹して感情を記述しない表現から感じるものは、単に平和への希求、再生への
希望を訴えたかったばかりではない、もっと深い宇宙や生き物の持つ根源的な宿命、人類
の愚かさについて述べられているように思う。「猿の惑星」の最後の場面のように、遠い
星間を長い間旅をして着いた未知の惑星が、朽ち果てた自由の女神像を見たとき、地球だ
ったことが判ったシーンのように、人類が今まで営んできた歴史はなんであったかと問い
直さなければならない。そのことを深く静かに表現されているように思えてならない。



124α編集部:2014/04/30(水) 17:15:45
激甘辛評4
.
              激甘辛 作品評4
                  19号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。



  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α19号


昔、革命的であったおとうさんの晩夏・・・その6「同人安曇野」便り 2009/6/9

◆この作者の作品を読むときこれまでも、それが創作ものとして感想を述べればいいか、
 思想としての評価を対象とすべきか迷うことが多い。
 そこには主人公の「私」、「前にも言ったように」とか「再び言おう」とか「私の認識
 は以下のようなものだ」などの語句からは作家の影の姿を想起させるものであり、小説
 としての仮想の世界へ突然現実の生身の作家が現れるようで、違和感があると言える。
◆「同人安曇野」に投稿した農業問題をそこで滔滔と述べることも、合評会でその作品の
 評価において芸術的評価はさておいて、司会者・茜が次のようにまとめた。

 「農業再生についてのプログラム、政府の財政的な保障、などこの作品にかんしての趣
 意はほとんど皆さんの賛同を得ていると思います。問題は政府ならずとも、財源をどこ
 に求めるかでしょう。筆者がここまで明確に試案を提出されたわけだから、その財源に
 ついてもきっとその出所を検討されたことと考えます。次回後半部分の合評会の初めに
 時間をとって、筆者にその説明をしてもらおうかと思っています」

 という、農業問題の解決にかんする討議で始終するところは、何だか「同人誌」として
 の成り立ち、主旨と違うような感じを受けた。
 或いはその様な主旨の同人誌であって、私の間違った思いこみであるのかもしれない。
◆そしてまた、この小説に出てくる主人公の考えはいかにも概論的であり、私が以前読ん
 だ小説「生活の探求」の都会のインテリの生き方に疑問を持った杉野駿介が故郷に戻っ
 て農業を嗣ぎ、体験を通して農業問題に目覚める姿の方によりリアリィティを感じるの
 である。
 とまあ、勝手なことを書いたが、もしこれが論文やエッセイの形をとり、作者が自分の
 考えを直接語るのであればなんら問題はない。実は舞台裏を明かせば、先日19号のゲ
 ラ刷りを目の前に作者とO氏と私の三人が論じ合ったのがこの部分なのだ。しかし作者
 はこの方法で作品を創る意義を強く示した。だからこの難しい創作方法の成功を祈りた
 い。



「作者の反論について」 2009/6/13

 作者の「安曇野便り」の合評において、農業問題についてあの様な長文の理論を数ペー
ジに渡って展開するのは、小説という想像の世界を創り出す行為においてそぐわないので
はなかろうか、と私もO氏と同じ感じを抱いた。
 どのような物を書こうが一向にかまわないが、合評という場でなされた議論にたいして、
自分の真意と違うことを強制するなとばかりに「一切受容しません」と言い切るのは、合
評という主旨にたいしての理解がなされていないように思う。
 彼の反論を見ていても、「為にする」議論ばかりで、冷静にお互いの言い分を理解しよ
うという努力が感じられない。なにも人の意見に全て従えと言っているのではない。相手
の意見と自分の意見の相違を真摯に討議していくという度量、柔軟性が欲しい。一を言う
と十の「為にする」論をしてくる。
 作者の作品にたいする私の微妙な感覚は、今回の反論を見ていると理解し合えない、い
くら言ってもその真意が伝わらないような思いがした。
為にする議論(タメにするギロン)
議論において、その結果としての結論を出すことを目的とせず、まず結論があって、議論
をしたという体裁を整えるために行うもの。



「作者の合評のお礼について」 2009/6/14

手法について
 確かに私は氏が目指している手法を繰り返し問題にして批評してきたと思います。だか
ら氏はそのしつこさに「何回もその意図するところを説明しているのに、ちっとも理解し
てくれない」というもどかしさに、思わず感情的な(これは私の感じたもので、他の人は
そうでもないかも知れない)言葉の吐露があったと判断しました。
 氏が何か新しい挑戦を試みることには吝かではありますが、私はまだその手法に違和感
を感じ続けていることは確かです。このシリーズの第15号「ひとり芝居『天の魚(いを)』」
や第17号の「農業問題」、今度の「農業悶題」がこの手法でありますが、このような長大
な解説は論文か講演のものと私は感じていて、小説のなか登場人物の情景描写や筋とこの
主張との関係で、どちらに主体があるかという判断に戸惑ったからです。それは現に第16
号では「地球温暖化について」という問題を独立したエッセイの形で纏められていて、私
にとってはこの方がずっと判りやすい手法で、氏が日頃から社会問題に通暁されている主
張が素直に読みとれるからです。しかし氏が引き続きこの手法で創作されても、私はもは
やこの件についての問題提起をしないことにしましょう。願わくば新しい挑戦には反発や
異論がつきものですので、それを肥やしにして進むくらいの柔軟な姿勢を私は望みます。





浪速の空から 2009/6/12

◆表題の「空」はそれこそ哲学的な難しい概念である。丁度いま私は長岡氏の紹介で求め
 た、仏教の思想集「唯識論」のところを読んでいる。
 それによると、心の中の表象があるのみで、外界の存在物は無いという思想であり、
 「色即是空」、色すなわち目の前の現実と見える物は全て心の現象であって存在しない
 ということでしょう。これは茂木健一郎の言う、思想や科学や宗教は人間の頭の中で考
 えた、すなわち想念の産物であるということにつながるのではないか。今目の前に見え
 ている物の存在ははたして真実か、見えない場所に移動してもその物が存在していると
 いう確信がもてるか、私には確信が持てない。とすればやはり外界の現象は実在しない
 という意味だと私は考えた。
◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?



「浪速びとさんへ」 2009/6/17

 「案の定,古賀さんに[バカ]と[アホ]で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってし
  まうと言われて,実は僕は[やっぱり・・・]とうなだれたのであります」

とありますが、決して否定的に受け取らないでくだい。これは「自己流捻千家(じこりゅ
うひねせんけ)」を自称するへそ曲がりたる小生の、その筆力に対する違った表現の賞賛
の評であります。
題名は失念しましたが河野多惠子のエッセイに、ある何でもない平凡な一つの言葉につい
てアアでもないコウでもない、表、横、裏、上、下と色々の観点から見た考察を、数ペー
ジに渡って述べてものを読んだ事があります。作家とはものごとをよく観察して、様々な
例証を示し同じテーマを違った言い方で繰り返して読者に印象づけるという、さすが言葉
で勝負する職業だなと大いに感心したものであります。
 だから、面白いエピソード一杯の文章は、読んでいるときは笑ったり、悲しんだり、驚
いたり、その文と内容に上手だなと感心しますが、本を閉じた途端にその感動も雲散霧消、
何を述べられ何を言いたかったのかをすっかり忘れてしまいます。だから「バカ」と「ア
ホ」のように一貫したテーマで色々の変化球を駆使して読者に投げかけるものは実に印象
に残ります。もともと、人間は一回こっきりで物事を理解出来るとは小生思っていません。
繰り返し繰り返し、飽きるほど囁かないと読者は頭の中の引出しの隅にしまってくれない
と思います。・・・などと、かなりしつこく独断と偏見に満ちた考えを述べました。ごめ
んなさい。





葛藤 2009/6/23

 葛藤という言葉については、真剣な皆さんの論争に充分言い尽くされたと判断して、こ
れ以上私の見解を述べずに横目で見て通り過ぎましょう。
確かに語り手が現在の私と過去の私を「ゆめ子」として、客観的に描くという手法は見事
に成功しています。しかし「私」と「ゆめ子」と他に人との関係が判るまでは、最後まで
読まなくてははっきりしません。頭脳明晰な人であれば一度で理解できるでしょうが、ぼ
んくらには何回も何回も繰り返して読み込まなければ判らないのであります。葛藤や生き
方などを語る小説の内容を云々するよりも、まずそのような人間関係の把握という些末な
努力を読者に要求るのはあまり得策とは言えないのではないでしょうか。
 もちろん小生のような単細胞でない人を対象にしたならば、こういうぼやきはないでし
ょうが。普通の読者がその関係を曖昧のまま読み終わって、再度検証しなければ理解出来
ないならば、そのまま読み捨ててしまうだろうと思いました。その意味でも早い内に人間
関係が判るような表現を挿入して判りやすくして、本題である主人公の葛藤の具体的な要
因や、それに伴う真理描写に力を注いで欲しいと思いました。ここではさらりと触れられ
ていて、読者の想像に任せてるに留まっているようです。私は主人公の「空」に至るまで
のぐしゃぐしゃした葛藤に苦しむリアリズムを書いて欲しいと思った。
 作者が小説に新しい構成を求めた意図は理解できました。そしてその内容もまた「人は
色々の問題を抱えながら生きることの難しさを味わっている」ということを充分に表現で
きていると思いました。





肥と筑 第九回 2009/6/29
http://2style.in/alpha/19-4.html

 さて、難物の作品「肥と筑」の合評の締め切り日は、容赦なく私に襲い掛かって来る。
それは昔に受けた怠け者の期末試験のトラウマの再現だ。あのころは部活動や麻雀、音楽
や読書、旅行などの目先の興味にばかり酔いしれて、隙あらば本分たる学問から目をそら
すことばかり考えているという、道草人生の始まりである。そのため、この作品の奥深い
知識には今更ながら驚くばかりである。加えて、その輝きに目が眩んだ訳ではないが、こ
のところ視力の悪化で活字が追えなくなるとい苦渋を味わっている。・・・などと言い訳
を使って今回の合評をパスさせて貰おうかと思案していた。
 とここまで書いたが、皆さんの合評が面白く一寸口を出してみたくなった。長岡さんが
北島君との「基本線」が同じだという認識にはO−chanと同様、私もちょっと違うの
ではないかと思う。
 北島君の基本線についてはもう言うまいと思っていたが、要するにフィクションの形を
とるとすれば、作者の生の声を感じさせたら興ざめだろうと言うことです。長岡さんのは
それぞれの登場人物に語らせるという形をとっているから創作物としては納得がいくとい
うことです。いずれにしろ土俵や物差しがそれぞれ違う者の同士が意見を言うのだから、
100%の理解が得られるとは考えていない。そのことは承知の上出来る限り自分の考えを
力説することはいいことだ。
 旅人ーMさんの評はブラックユーモア的なところがある。人のために何もしていないと
いうを負い目を感じている露悪的な私と違い、旅人ーMさんはボランティア活動もよく行
い、実に誠実で真摯な人柄と思える。しかし時として実につれない言葉の礫を投げかける
ことがある。
お客に一体「何を売りたい」のだろうか
 (1)「知識・説明」を売りたいのだろうか?

 (2)出てきた品と説明で、顧客の判断で値打ち物を選んで買って欲しいのだろうか?
・・・は実に強烈だなあ。いくら皮肉屋の私でもここまでは書けないなあ、恐れ入りまし
た。
 ところで私は「肥と筑」は私達日本人の成り立ち、すなわちルートを解明するという私
の好奇心を満たす創作だと思いますので、肝心なところはブラックユーモアで語るのでな
く、長岡さんの血と涙と汗の作品をもう少し真面目に読んであげたらと思った次第であり
ます。





りらの空 2009/7/8

 りらの空という題もちょっと変わっていますね。そこにはどうもこの詩の深い意味が潜
んでいそうな気がしました。
 私はかつて同人α第8号「シリーズ・歪んだ風景−記憶」のなかで、亡き両親やまだ郷
里で暮らす兄の姿や表情を正確に再現出来ない自分の記憶の曖昧さを書いたことがある。
鮮明に記憶する術としては、流動する行為の中のある瞬間を抜き取って、絵や写真や脳の
ある部分に焼き付けるといった固定する作業しか方法はないのではないかと思った。
 泳ぎ好きのかえるさんが「一枚の絵が描かれていくところを想像しながら読みました」
といみじくも言われるように、まさに幸せな家族の薄れゆく運命である記憶を永遠に自分
の頭のなかに留めようとする。両親の印象や花の色や位置、空との関係などを丹念に記憶
するための描写に心を注いでいる詩人・画家・写真家である作者の姿がある。
私は作者が「言の輪」に投稿している文においては、余りにも例えや言い換えや専門的な
表現が多くて、内容の重点が判らず明確なイメージを作れない事がある。しかしこのよう
な詩の世界では見事に作者の芸術的才能を認めるところとなる。
 ◆童話のように小さく老いた父と母
 ◆この空と花の位置をどうしよう
 ◆ 花は大地に似合いすぎて迎えられているのはいつも人間
などの言葉は確かに作者独自のものである。散々使い古された言葉、誰かからの借り物、
愛とか恋とか友情んどといった安直な美しい言葉ではなく、その人しか表現出来ないよう
な言葉で表現することが優れた詩人だと私は考える。





「絵空事」を読んで−その1 2009/7/13

ブログの写真とコメントを見て
ダンテの「神曲」を「新曲」と書いているところなどは、いかにもO−chanらしく天
衣無縫、些細なことには囚われない、まさに「地獄門」の前に立つ永遠の淑女ベアトリー
チェといったところでしょうか?
ダンテがフィレンツェを追放された後、ヴェローナで「神曲」を書いた。その家を見た、
二年前のイタリア旅行が懐かしく想い出されました。

さて本題、いつものように作者の作品は実に滑らかでよどみがなく、上手い情景と心理描
写に満ちた文章に感心するが、いくつかの疑問が残った。いつもの作者の主張を信ずると、
褒められることも大好き、反面けなされることもまた一寸好きという複雑な性格の作者だ
から、密の味は人に譲って私は苦みや辛みのスパイスを効かした評を書こうと努力しよう。
でもそれは「苦み」であって、決して「嫌み」ではない。

1.表題の「絵空事」とはこの小説でなにを表しているか。読み終えてもそれが判らない。
むなしさを覚えたとき、幸せな今までの生活が本当に自分が望んだものでなく、別にもっ
と充実した生き方が有ったのではないかと悩むことなのか。 絵空事という言葉は確かに
「実際の物とは違って誇張され美化されて描かれた絵」を言う。P33の上から2段落目に
「ついあれこれ「もし」を思ってしまうという記述はあるが、主人公がその世界に思いを
馳せるという具体的なシーンは書いてない。もっと現実とかけ離れた空想に浸る主人公を
読んでみたいと思った。

一遍に書くと勿体ないから、まだまだその2、その3と評は続きますよ・・・。



「絵空事」を読んで−その2 2009/7/14
2.人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや
観念が流れるように連なったものであるとする考え方がベルグゾンの提唱しているもので、
意識の流れという文学的な手法がある。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、ヴァー
ジニア・ウルフの『灯台へ』などである。 しかし私も物知り顔に得々と自慢できるわけ
ではなく、二つの小説は読みかけの本棚に何年も置き去りにされて、時たま続きを精々数
ページ捲られるといった有様であるのだ。
それはともかく、この「絵空事」という小説は主人公の意識の流れを全編にわたって告白
したものだが、記述された出来事に主人公の切羽詰まった緊張感が感じられない。 その
内証に厚みが感じられないのはどうしてだろう。作者は意図的にそうした書き方をしたの
だろうか。



「絵空事」を読んで−その3 2009/7/15

3.作者の今までの傾向を見ると、どうも主人公の意識から解放される自然描写や他の人
の行動や様子を描くという手法は用いられていないようだ。 それは作者の視点の欠如か
或いは感銘を受けても全く記述する意味を認めないのか判らない。延々と続く意識の流れ
に小石を投げて違った変化に驚くような、或いは寿司に添えてあるガリのような箸休めと
いいた読者の意識のリフレッシュの効果、あるいは音楽や絵や花や月に託する心の描写で
暗に主人公の思いを複合的に表現することだって可能だし、自然描写と心理描写がちょう
どいいバランスで表現される文章を期待するのだが。これもまた作風と言って済ませてい
いものか、私には判断出来ない。作者から「自分の心深く追求探索し、悶々とするのでし
ょうね。赤松さんの思考の傾向か好みか。自問してみて下さい」と鋭く切り替えされて、
自問してみました。やはり持論からちっとも外に出れない己の姿が見えてきました。



「絵空事」を読んで−その4 2009/7/16

4.合評の賑やかさにつられて、思わずもう一度「絵空事」を読んでみた。
このまま沈黙していると、皆さんが遙か高みの世界へ行ってしまい、
私は人気のない田舎の道端に一人置き去りになりそうな気がしたからだ。そこで私が最終
的な結論を出したのは、主人公の性格や生き方にたいする疑問や注文ではなく、書き方に
あると思った。

作者が流れのままに幸せに生きてきた麻子だから、そんなに深く思い悩んだことは今まで
なかった。だから自主性も深みもないと作者は解説している。たしかに読者が呆れるほど
馬鹿な人物や、嫌みな輩の物語を創作することもあろう。悔しがったり、イライラしたり、
「ばかたれ」とか「このあほが・・・」と読みながら歯ぎしりする物語もある。そこであ
りきたりの麻子の生き様に異論を感じることも承知で、いやむしろ計算ずくの意図が見え
隠れしていると思うほど、平凡で退屈な受け身の生き方をする主人公を書きたかったのだ
ろう。その意味では読者に異論を抱かせるとい効果は達成できたのではないだろうか。

そういう意味で私は一連の作品からそのような主人公を作者が描こうとした意図は理解で
きる。しかし初めから終わりまで時系列に述べられる内証は、やはり工夫をしないと読者
に緊張感を持続させることは難しい。夢想や回想などの時系列を断ち切る方法で書く工夫
があっても良かろうと感じたことである。この暑さでトチ狂った輩の、外れの深読みとお
笑いください。





テーマ「空」による、会話詩 2009/7/20

この詩を読みながら、O氏の魂胆をハタと理解した。こんなことを今頃になって悟るとは
なんと私も鈍くなったことか。 この「言の輪」の画面が19号のテーマ「空」に合わせた
「空色」であったとを一月ばかりも気づかなかったことである。人の何気なく放った些細
な言葉に傷つくことがあるかと思えば、このような秘められた思いを読み取ることも出来
ない自分が見えてきた。これでもかこれでもかと諭されても真意を理解できないこともあ
るというのに、ましてや簡潔な言葉に凝縮された思いの作者の詩においてはなおさらだ。

そしてこの実に優しい詩のなかに込められた意図は、くだくだ述べられた解説よりも強烈
に私の心に響いた。
「自然は終わらせるために人を産んだのかもしれない」、最後のこのセンテンスに込めら
れたメッセージは、人間はいままで何をしてきたか、そしてどこへ行くのかという、生命
の根源的な意味合いを問うという重い詩であったことに気づいた。





江戸五街道・踏破記(2) 2009/7/27

「一体どういう意図でこのような目標を決めて実行しようと思うのかという所です」とい
みじくもO氏が言っているように、私もその点を一番知りたいといつも思っていることで
ある。それが判らなければ私には、作者の行動を評価する資格がないと思っている。単に
普通の人がしないから或いはしようと思わないから、そして出来ないからと言うことだけ
で安易に偉大なことだという判断はしたくない。ユングの定義した「すべての本能のエネ
ルギーの本体であるリビドー」、作者を動かしたその正体がなんであるかが一番興味があ
るところなのだ。

◆P47の「旅行記、紀行文などというものは、面白くないと思うこともあります。 今回
のような、「街道踏破」を目的とした旅の場合のように、ポイントになる観光名所、観光
スポットを訪れたとしても、そこに深い知識・興味もなかったり、旅で出会った人もない、
ということであれば、尚更です。??旅に関する、心の変化や感情の高ぶりなどがなければ、
何も書くことなど思い浮かばないものなのです。今回の「甲州街道・踏破」は、そんな
心境に近いものでした」
◆P48の「「日光東照宮」がゴールだとすると、距離は、約・150km。1週間足らず
の 行程である。「早いとこ、片付けずちゃえ!」。そんな雰囲気である」
◆P49の「何か目標を立て、それに立ち向かう時、目標を追い込み・自分自身を追い込み
ます」

などの文章を見ていると、この艱難辛苦の行動の意図や目的が何なのか判らなくなる。私
みたいに身の回りの不思議さを頭の中でこね回し、宇宙の果てまで往復したり、生命の謎
に悩まされたり、意識や無意識、善、悪、などの難しい問題の廻りを堂々巡りするの疲れ
て、旅人−Mさんのような冒険をやり遂げる気力も体力も「リビドー」もない。有り体に
言えば私は単なる怠け者に過ぎないということかもしれないとも思った。さて、いろいろ
変なことを書いたが、自分に出来ないことを旅人−Mさんがちょっと羨ましかったのかも
知れない。最後に是非その行動の源がなんであるか、目的を達成した時の満足感・達成感
あるいは別の感慨などの心理を書いて欲しいと思った。





kyline 2009/8/30

ガスが見るのを避けて来た島では何があったのか。いまの孤独や喪失感の原因はなにによ
るものなのか。遠い昔は子供のいる幸せそうな家族を連想させるが、それらの疑問にはな
にも答えていない。

向日葵は首を垂れ、夏うりは摘み取られないまま腐っている、盛りを過ぎてうち捨てられ
た描写はガスの姿と重ねあわされている。
緑色のベンチの廻りから水辺へ、そして水平線に浮かぶ島へとの視点の動き、またじっと
ベンチに座って過去を振り返る思索という静寂から、何かを決心して立ち上がり歩き出し、
船をこぎ出して行く、そのとき一斉にコオロギが声高に鳴き出しという動への変化が見事
に表現されている。

私も主人公の人物や生い立ちや心情を情景描写で表現できることを常に目指している。
一度「歪んだ風景−記憶」で試みたが、どれくらい成功したかは判らない。
しかし、このエラさんのSkylineは主人公ガスが何一つその謎を解明してみせなくても、
読者に強い印象を与える。最後のシーンの「海へと漕ぎ出した」は、もう一度心のよりど
ころを見つけるために、水辺線に浮かぶ島をめざしたのか。それとも絶望のあまりに自ら
の命を絶つために彷徨い出たのか、読者の解釈にゆだねられているように思える。

最後に、本当は二週間くらい時間を掛けて自分の力で訳をしたいのだが、それも叶わず、
O氏の見事な訳があったればこそ、間違わずにこの素晴らしい作品を鑑賞できたと感謝し
ている。





《言葉集め星創り五拾番》 神秘相撲 神野佐嘉江著 2009/9/1
http://2style.in/alpha/19-12.html

書かないでもいいよと神野佐嘉江氏は合評を辞退したけれど、やはり投稿をお願いする立
場の私としたは、いやそれだけではなく詩というべきか散文というべきか、この難解な読
み物にいつも魅了されているからである。

ある時は短歌でありある時散文詩であり、まさにミクロ量子の世界とマクロ宇宙のとっく
みあいの様な、まるで神秘相撲そのものの狭間で私の脳は攪拌され、ブラウン運動のよう
なランダムな混沌の世界を彷徨ようだ。

一つの単語に全く意味の違う形容詞がくっつき、分節となり文章へと変化する。そして不
思議にそのはちゃめちゃな言葉に正当な意味があるかのごとく私に迫りくる。
本当のところ、用語をあげてその変化を検証しようと思ったが、相当の時間を必要とする
ことなので、今回は勘弁してもらいましょう。
それにしても神野佐嘉江氏の独自性は群を抜いていますね。



125α編集部:2014/05/01(木) 09:20:05
激甘辛 作品評5
.
              激甘辛 作品評5
                  20号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α20号


黒猫と青春の歌謡曲????2009/ 9/8

 先日、リチャード・ギア主演のハリウッド映画「HACHI 約束の犬」を銀座マリオンで
見た。「忠犬ハチ公」のリメークで、筋としては実に単純で判りやすい。しかし何年も戻
ってこない主人を待っている犬はじつにバカだなぁと思う一方、我ながらついホロリとし
てしまった。照れ隠しというつもりはないが、それが何故なのかと考えてみた。
 それはこの犬が主人に寄せる絶対の愛・無償の愛だからではないか。
乳飲み子と親の関係に通ずるものだが、児童虐待、尊属殺人などの社会現象をみていると、
もはやこの無償の愛は人間関係に求めることは難しく、動物と人間の間にしか認められな
い時代になってしまったのではないか。無償の愛は実は強者と弱者の間でしか成り立たな
いのではないか。
弱者は庇護されなければ生きて行けないし、強者はその弱肉強食だけの生き方のみでは殺
伐としていて心が満たされず、弱者の放つ癒しのオーラ・生体エネルギーを必要とするの
ではないか。だからこの世の中は強者ばかり、或いは弱者ばかりでは人間社会が衰退に向
かうのではないだろうか・・・と考えた。

 私の少年の頃は、犬、猫、兎などの動物との暮らしは身近にあった。屋敷が広かったせ
いか、迷い猫、迷い犬、迷う兎などが常にいた。今までのそれらの動物がいなくなると次
の野良が入り込んで来て、いつものように馴染んで住み着いた。猫の名前はだいたい安直
に「白」とか「黒」とか名付けられていたが、犬は柴犬などの雑種で赤犬がほとんどで代
々「ベル」という名前で呼ばれていた。猫も犬も顔中ひねくり回したり、髭を切ったり、
目がねを書いたりといった悪戯をされたにも係わらず、よくなついていた。だから、もの
言わない動物から癒される経験した私にとって、子供が動物に接する環境を与えてやれな
かったことが今悔やまれるのである。彼に弱いものに対する考え方が育ったかどうかが気
になるところではある。

 動物を擬人化した書き方が色々あって面白い。夏目漱石の猫は人間の行動や思考を鋭く
観察している。気むずかしい苦沙弥先生が雪隠で謡曲を呻ったり、隣接する学校の生徒達
がうるさいと大人げなく本気で怒ったり、寒月君の結婚に纏わる虚栄や功名心などの俗世
間の風潮を見聞きして「人間はなんと滑稽な生きものであるか」などとと揶揄している。
 この黒猫と青春はそんな揶揄や苦笑の目線ではなく、実に素直で暖かい目で描かれてい
るから気持ちいい。きっと作者の廻りには無償の愛が溢れているんだと思った。





日本列島徒歩縦断・旅日記?? 2009/ 9/14

先ずは気になるところから書きましょう。
P20の前半は「である」調ですが、後半から「ですます」調で書かれています。その後も
この調子の混乱が見られるのですが、どちらかに統一した方がいいと思いますが。
次にこの旅日記を読んで考えさせられたことは、いかに寝る場所と食事の確保に苦労する
かということが判りました。現代の満たされた時代と違い、人間がもっと素朴な昔の時代
はこうであったのだろうと思われます。便利さを享受することに慣れた私達は、文明の利
器が壊滅した時には、作者のようなタフな人以外は生き延びれないでしょう。
最後に、数ヶ月前にK君の一周忌に墓参りした時、いろいろの文字を刻まれた墓を見て回
りました。その中に「完歩」というMさんの先手を取った碑文を見つけて、二人で苦笑し
ましたね。その後貴君の墓にふさわしい碑文を考えだしましたか。




吉の冒険を読んで?? 2009/ 9/14

私はイマジンさんの文章を読んで、いつもその奇想天外なイマジネ−ションに驚き、感動
する。この天衣無縫さに勝てる人は居ないだろうし、鑑賞する方はそのほころびようが実
に楽しい。

◆女房は、「ゆう吉」と書く。娘は「優吉」で私は「勇吉」と書き、娘と女房は、決して
自説を曲げないとあるが、実は作者だって二人以上に相当意固地ではある。

◆作者は猫の「勇吉」を人間並みの人格を持った者として、真剣に張り合っているのが滑
稽である。これは大事な者を求めて熾烈な戦いに明けくれる男同士の姿に見える。

◆祖父母と孫の間に通う無償の愛は、希求するにあたわず作者と「勇吉」の間では成立し
ないようだ。

◆触れたり抱いたりするのと大差ない事なのに、病気やアレルギ−の感染を心配して、猫
と一緒に寝てはならぬという論法もいささか妙である。

◆作者が懐かしむ三世代・四世代が同居する大家族制は、確かに良いところもあったに違
いないが、家族で支え合わなければならなかった社会制度の未熟さに過ぎなかっただけの
話と思う。

◆メスの避妊手術はいいが、オスの去勢はまかり成らぬという主張は、女性の天皇を認め
ないという論法に何だか似ているようだ。女帝の後継者だと長い歴史を通して連綿と続い
た皇室からX染色体が引き継がれないからだめだというさる学者や政治家と同じ論法のよ
うな気がする。

以上の論点を疑問として書き連ねたが、決して私がそれらに対して苦々しく思ってはいな
い。むしろ反対に理論武装する我々とちがい、無防備な断定をなさるところが実にイマジ
ンさんらしく個性的で可愛い所であると私は考えるのであります。




(無題) ????2009/ 9/18
◆著者の合評の中で書いた私の「綻び説」を、「私は天衣無縫でもなければ、支離滅裂で
もないのであります」と反論されたところによると少々機嫌を損ねられたのではと、気に
掛かっています。


◆宮刑について
著者が「宮刑」を受けた司馬遷について書いていましたが、まさに司馬遷はその屈辱をバ
ネにしてあの膨大な史記を書いたと言われています。しかしその刑罰は男性ばかりでなく
女性にもありました。だから著者のいう男性ばかりが迷惑を被っているという不平等感は
ちょっと・・・。
話は変わって、司馬遷がその「宮刑」を受けなければならなかった原因は、匈奴との戦い
で敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を、宮廷の中で彼が唯一弁護したため武帝の逆鱗に触
れたためでした。
そしてその李陵を題材として書かかれた秀作があります。中島敦著の「李陵」という短編
です。一度読んでみては如何ですか。

◆作品集を掲載しても何の反応もないので、その意義に少々疑問をもちいささか滅入って
しまいました。内輪で散々愚痴をいって拗ねていましたが、先日Gさんのねぎらいの言葉
と、親戚の葬儀に参加した時一回り若い女性のはとこに「実は作品の全部を読んでいる、
そのうち意見を言っても良いか」という言葉を聞いて、まんざら無駄ではなかったのだと、
実に安直に機嫌を直した次第であります。

◆民主党の無血革命ははたして首尾よく達せられるか興味深い。たとえ満足な結果となら
なくても、強者や既得権者に一矢を報い、淀みきった今の社会に新鮮な空気を入れて浄化
しようという目論みには、大いに賛同したいと思う。一方自分達が何を目指しているのか、
何が足りなかったのかの総括も出来ない今だ旧態依然の自民党の姿をみるに、再び新しい
活力を見いだせるかは疑問に思える。むしろ解体して新しい党を組み立てた方が早道だと
思うが・・・。



著者へ最後のコメント?? 2009/ 9/19
著者の犬猫に対する危惧はよく理解できました。たしかに人間どもが自分たちの都合で生
態系に手を下すことはおこがましいことに思えます。田舎では狐や狸や鼬といった野生の
外敵に襲われるなどして、自然にその数は一定のバランスを保っています。だから放って
置いても野良猫が増えて困るということは聞いたことはありませんでした。
もし、これが本人の意志も問わずに、犬猫のように人間に処置を施したら殺人と同じでし
ょう。我々も心して「宮刑」を受けないように用心しましょう。とはいうものの、もはや
この年齢では生物的な機能は終焉を迎えていますが。

著者の獲得したゴルフの賞品(高級料理屋・きら))についての私の情報に誤りが二つあり
ましたので訂正します。
一つ目は店の名前を「喜樂」と言いましたが、「季樂」が正しい。
二つ目はソニープラザの角を右にと言いましたが、数寄屋橋交差点から銀座四丁目に向か
って次の信号を右へ曲がった3・4軒目です。すなわち、ソニービルの横道からもう一本
四丁目に寄った通りです。
以上いつもの私のオーマンな性格によるいい加減な情報を訂正します。




蛍・その静かな乱舞(北限にて) 2009/ 9/20

よけいな物を排除された暗闇のなかで、研ぎ澄まされた光、色、音だけが読者に迫ってく
る、見事な文である。理屈をこねるでもなく、意図的に作られたのではない文だから、実
に自然に作者の「蛍」に託する思いを私は新鮮に感じた。
作者のこの文体に込めた意図は判らないが、敢えて一つの提案をすれば、一行の文をいく
つかに分けて行替えすると、もっとリズムと心の動きが生き生き響き、完全な詩情あふれ
るものなるだろう。私はこの「蛍」は初手から詩文として読みました。




初心者の俳句??あき もとすけ著??2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-7.html

安芸さんが休養を終え再び登場されたことを喜びます。そうです、おっしゃる通り「参加
することに意義あり」です、「田作の歯ぎしり」「引かれ者の小唄」「犬の遠吠え」と思わ
れようともいいんです。何かを発信すればそれに必ず答えてくれる物好きがきっといて、
その主張に対して共感してくれることでしょう。
安芸さんは偉いなあと思いました。それは私にとって俳句や短歌はよほど時間と心の余裕
がないと目が向かないような気がして、私にとってまだ手が出ないものだからです。神野
佐嘉江氏が歳時記集や俳句・短歌の解説の本を何冊も貸してくれているにも関わらず。
延々と言葉を尽くして語る散文と違い、俳句や短歌は身を削るように言葉を極限まで濃縮
して表現するものだと考えるからです。それは西洋画が人の生き様をこれでもかこれでも
かと生々しく表現することにたいして、日本画のように観念を様式化したものの様な違い
でしょう。
そのようなものに初めて挑戦しようとされたことにたいして感心したのであります。
今回の安芸さんの句に私は空間的・時間的な情景描写に目がとまりました。
空間的描写は
 東京へ 希望の空に 春立てり→故郷から東京への空間移動
 満月に 映して人を 偲びおり→意識が満月に触発されて反射し
                て人へ向かう縁(えにし)の空間ベクトル
時間的な描写は
.恋文を 待ちて冬日の 長かり   →ひたすらに返事をまつもどかしい時間
.ねぶの花 芭蕉気取りで 見ておりぬ→古の大家に成り変わるとというタタイムスリッ
??プ
.初雪に 耐える小枝を 応援す   →文句も言わずじっと耐えている時間
.吾の如し 踏まれて生きる 草の花 →不条理を克服して生きる生命の
とまぁ−、内容を深く吟味するというよりは、全く別の観点からのものであり、本筋では
なかったようですので悪しからず。安芸さんこれからもどんどん新しい創作に挑戦してく
ださい。




肥と筑 第十回?? 長岡曉生著??2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-8.html

少し時間の余裕が出来ましたので、「肥と筑」という大作の感想に挑戦したいと思います。
私は長岡さんとは二年半という長い付き合いですので、お互いに微妙な表現も冷静に理解
してもらえるもので、たとえ見当違いや主旨の誤解や気に障る表現があっても許されると
思いこんで居ます。二年半は短いと考える人もあるでしょうが、同人αの校正や編集・出
版その後の反省会などと、実に密な関係でありますから、私は敢えて長い付き合いと思い
たいのであります。それに事があれば二時間掛けて馳せ参じてくれる彼の手にはいつも美
味しいおやつがあり、それも感謝の対象になっていることは間違いありません。

この大作においてはもちろん日本人のルーツ探しという基本的なテーマのもとに、色々の
民族の渡来人の記述が主ではあります。その文献の調査・裏付、それにより蓄積された知
識、この文の並々ならぬ構成力には驚嘆するばかりで、その真偽を判断するということに
おいて私の手に負えるものではありません。
しかし敢えて一つ問題を挙げるとすれば、狂言まわしの役割を担った語り部達であります。
作品の中でも彼等の性格や体格や気質を述べてありましたし、今度の評の解説でも後藤英
夫は加藤剛、芳賀信行は堺雅人、山南文子は夏目雅子という俳優をもってその人達の具体
的な姿を表現したいという作者の意図が見えます。

一方読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろうし、私もNHKの大河ドラマは
殆ど見ていないから、堺雅人や山本耕史についても判りません。一歩譲って知っている俳
優を擬したとしても、それだけではまだ私には登場人物のはっきりしたイメージを描けな
いのであります。それは一体何故なのか、私の表象能力に欠陥があるからでしょうか。
その原因はいくつか考えられると思います。

一つは、この物語を進める語り部達がいつも一緒に同じ舞台に立っているからだと思われ
ます。二つ目は、語り部達のその舞台から離れた時間・空間での個人としての生活、生き
様が描かれていないからではないでしょうか。勿論作者が意図することは日本人のルーツ
を記述することにありますが、切角個性的な登場人物達でありますから、歴史上の真にた
いして人間の不可解さを虚と対比させて書き込んだら、もっと面白い読み物になると思い
ますがいかがですか。・・・とまあ、毎回毎回「ぎゃすぎゃすどんく」の振りをして問題
点ばかり探すのもいい加減にしたらと自戒しています。



再び長岡さんへ?? 2009/10/2

◆語られる内容が余りにも専門的なもので、なかなか読み物としては構成が難しいとも察
します。しかし読者としては切角教養のある魅力的な人達が出現したのですから、もっと
深く関わりたいと思い、それを売り込まなければいかにももったいないなあと思ったもの
ですから。しかしもともと私みたいな純文崩れの「意識の流れ」などにはまりこんでいる
輩の求めるものとそうでないもの、すなわち物語の種類が違うのかもしれませんが。

◆「読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろう」の部分で、私の言わんとした
ことは、読者にその人物のイメ−ジが可能な長岡さん自身の観察による詳しい記述を望ん
でいるのであります。

◆「歴史上の真、人間の虚」とは過去に記録されたものは固定されていて何ものにも代え
難い。それに対して生きている人間共は虚栄や妬みや嘘で化粧されなかなかその姿を捕ま
えられない。その静と動、裏と表、真と虚・・なんだか自分が何を言わんとしているのか
判らなくなってきました。

◆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味は、はなはなだいい加減な記憶に基づく言葉と意味で、
恐らく両親の里のものではないかと思っています。これもまたうろ覚えですが、「どんく」
とはガマガエル、「ぎゃすぎゃす」とはその鳴き方を模したもの、総じて「人と反対のこ
とを唱える・言い張る」という意味だと思っています。もし解釈が間違いでしたら、その
言葉の使われている地方と正確な意味をご存じの方は教えてください。

◆「赤松さん古賀事務所で照明器の製作を宜しくお願いいたします」と言われても、生憎
光を発するおつむを所有する人は同人αの中には居ないようで、材料の供給がなく製作出
来ません。話は変わって、物書きの趣味やそれを生業としている人、たとえば筑紫哲也や
田原総一朗、鳥越 俊太郎、嶌信彦その他、髪がふさふさなのは何故だろう。



   赤松さん????2009/10/2

   ☆「意識の流れ」などにはまりこんでいる純文学系:
   成る程、赤松さんは、意識も含んだ人の動態に興味があるんですね。私も一応興味
   は有るのですが、何せ経験が浅いので、取り敢えずは人の意識構造、つまり静態の
   描写中心で行く他は有りません。

   ☆作者自身の観察による登場人物の詳しい記述を望んでいる:
   ご趣旨は、了解しました。でも今から急に容姿・性格の記述などを始めたら、読者
   一人一人の懐く像を壊してしまいそうだなあ。

   ☆静と動、裏と表、真と虚:
   裏と表、真と虚などについては、世界中の政治家達の像を嫌になるほど見ています。
   これ以上身の回りから探し出して書くのは、もう澤山だと言うのが本音です。せめ
   て自分が描く世界ぐらいは、世間の夾雑物抜きで静と動を記述して見たいと思って
   居ます。

   ☆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味:
   ご教示、有り難うございます。これは、佐賀市内の言葉では無いと思って居りまし
   た。

   ☆物書きを趣味や生業としている人は、髪がふさふさなのはなぜ:
   きっと、頭の中に色んな考えが一杯詰まってはち切れそうになっているので、文章
   や講演として出し切れなかった分が髪の毛になって噴出して来るんですよ。
   その真偽のほどは、慎重に確かめる必要が有りますが。
   長岡曉生




わが街   2009/10/3

私は大阪をあまりよく知らない。それでもまだ会社勤めの三十歳のころ、泉佐野の広大な
公有水面埋め立て地に、製糖工場を設計・監理した時期に、数回立売堀にあった大阪支店
の近辺をうろうろしたことがある。それから数十年経て、姫路で開催された高校の同窓会
に出席する前に、東京の幹事達数人と大阪・奈良・京都を物見遊山した覚えがある。その
時あいりん地区のドヤ街を歩き、もう売春防止法が施行されて数十年も経つというのに飛
田遊郭のやり手婆が赤い膝掛けをして玄関に鎮座し、客を呼び込んでいる様子を見て私の
知らない別の時代の別の世界を覗いたような気がした。そして人間の業のようなものを感
じたとき、梁石日(ヤン・ソギル)の小説「血と骨」を、またこの作品に描いてある路地
裏の飲み屋街は、車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」を思い出した。

それでもなお私の大阪に対するイメージになにか足りないを感じていた。そうだこれはま
さに「じゃりンこチエ」の世界だ。この漫画に出てくるチエは小学五年生というのに、ば
くち好きで喧嘩ばかりしているしょもない父親のテツに代わってホルモン屋「テッちゃん」
を切り盛りしている。チエを取り巻く人達は実にバイタリティに富む、一癖も二癖もある
個性的な人間どもだ。チエはチエで大人に囲まれているせいか実に冷静で、時々ギョッと
するような真実を投げつける。ギャンブルも親爺のテツに比べものにならないくらいに強
い。またに額にある三日月状の傷がトレードマークの寡黙で凄みのあるやくざのような野
良猫の小鉄がいる。

とまあ、作者の意図から外れてしまったかも知れないが、「わが街」から私が強く受け取
った印象である。美味すぎる流れるような情景描写と敢えて言いましょう。最後の「ふり
返るとそこは灰色の街」以降は妙にペーソスがあって実にいい。参りました。




会話詩…テーマ「夏草・青春・猫の恋」より?? 2009/10/4

確かに人間は黙って過ごす時間を失ってしまった。
居間にあるつけっ放しのテレビの音を遠くで聞いていると、間断のない早口のしゃべり声
と声高な笑いに満ちている。

人はあまりの情報の多さに、一人の人が情感を込めた言葉を言っても、ありきたりの意味
で済ますようになった。人によってその情感は少しずつ違うのにね。だから本当の気持ち
を伝えるために多くの言葉が必要になったということでしょう。なんだか逆説のようです
が 。




猫の風景 2009/10/15

小説かそれともエッセーかの話題で賑わっているが、私は漠然と判っているつもりでいた
のだが、明確にその違いは判らなかった。たしか数十年前に求めた白水社のモンテーニュ
随想録の題名が「エッセー」だったことを思い出した。そこでwikipedia で調べると、ミ
シェル・ド・モンテーニュの『エセー』(1580年)がこのジャンルの嚆矢であり、欧米に
おいては綿密な思索を基にした論文的なスタイルを念頭に置いてこの語を用いることが多
いが、日本においては後述する江戸時代後期の日記的随筆のイメージもあって、もうすこ
し気楽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることが多い。 日本における随筆の起源は
10世紀末に清少納言によって書かれた『枕草子』であるとされる。とあった。

だからこの「猫の風景」をどちらだという論を口角泡を飛ばして展開するという気力はな
いが、欧米においては論文的なスタイルとあり、方や日本においては日記的随筆の気楽な
漫筆・漫文のスタイルとあるので、幅広く解釈して作者がそのように意図するのであれば
そうであって、好みの問題である。だがそこで敢えて言わして貰えば、小説は「私」とい
う人称を使っても読者は作家自身を指さないという暗黙の了解があるように思うし、エッ
セーはまさに作者自身が語ることを読者は認識するというものではないかと思った。だか
らその題材にはあまり関係がないと言える。

さて本題の作品の合評に入りましょう。
先ず最初から三段落目までは「夜の蝶」の生態についての、観察と想像を交えながら実に
見事に表現してある。ここまでは小説風で、語り手が作者でなくて、「私」でも「大江匡」
でも「信如」でも一向にかまわない。しかしそれ以降は作者の顔になっていると思うので
ある。
その違和感はともかく、情景描写は実に丁寧で臨場感があり、虐げられたものにたいする
作者の優しい視線が、なかなかいい。いずれにしてもいろいろと試みたという、全般は秀
作、和歌は迷作、全体は習作と評しました。




猫様々?? 2009/10/16

先ず題名の「猫様々」の読み方が気になった。「ねこサマザマ」と読むのか「ねこサマサ
マ」と読むのだろうか。読み進む内にRさんは大和の国の出身だから、多分その両方の
意味を込めたものの様な気がしてきた。このことはRさんの説明を待たねばならない。

K君から借りた丸山圭三郎・著の「言葉とは何か」という本の中に、興味あることが書い
てあった。「外国語で話している理解できない言葉は単なる騒音としか聞こえないし何の
感情も生じない。そのように言葉はそれを話す共通の社会、共通の生活体験といった文化
の中でしか理解されないのである。例え同じ動物や同じ事物を語っても、国や言語が違え
ば違った概念が生まれる」とあった。ここまでは私が何をいいたいのか、皆さんには全く
判らないだろう。早い話が、日本人の「猫」にたいする概念と、フランス人のそれは違っ
ているのではないかと思ったからだ。

著者の参考資料のなかにイギリスやフランスの「猫」に纏わることわざがあったが、Sさ
んの書かれたこの号の前書きをみると、猫だまし、猫撫で声、猫っ被り、猫背、猫の額
猫づら、猫舌、猫脚、猫ババ、猫跨、猫股、猫間、猫火鉢、猫鮫、猫の目のよう、猫目石
等々ことわざ、たとえは圧倒的に日本の方が多いと思う。
そこで私は日本の猫好きの人達は、「猫」をとても人間に近いものとして擬人化し、いや
むしろ家族や同胞のように考えている節がある。一方イギリスやフランスの人は「猫」を
人間と同列ではなくもっと野生の動物という認識がつよいのではないか。「仕事猫」など
の言葉があるくらいだから、ギブ・アンド・テイクの言葉が意味するものを考えると私は
そう思った。




吾輩だって猫である 2009/10/25

前向上はなかなか洒落ていて要領がよく描けている。「つむじ」とは面白い名を付けて貰
ったものだ。ところで「つむじ」という言葉だけで「どこかへそまがりのニュアンスがあ
るみたいだ」というのは、ちょっと飛躍過ぎるような気がする。ところで「左巻き」とか
いって、人を揶揄する言葉があるから、その「つむじ」について興味が湧いた。いつもの
ように安直にWikipediaによるコピー・ペ−ストでお茶を濁すのだが、  つむじの向き
右利きの人の95%以上のつむじが右巻き(時計回り)で、両利きや左利きの人は右巻きと
左巻きが半々だという。この考え方を使うと右利きを断定することは出来ないものの、少
なくとも左巻きの人は両利きか左利きの可能性が高いということがわかる ...

さてこの「つむじ」君はどちら巻きであろうか。この小説のなかでの「つむじ」君の独白
を読むと、頭の回転が早そうだから「左巻き」ではなさそうだ。私は吟遊視人氏の常日頃
主張する論に共鳴することが多いので、彼の分身らしき「つむじ」君の説く所には異存は
殆どないと言える。だからその点についての論評はしないが、この小説の構成について感
じたことを書こう。

我々読者は猫の「つむじ」君の独白とみなして読み進むのだが、ただ独白が続くと次第に
著者の姿がそこにちらついてくる。だから語っているのは猫の「つむじ」であることを時
々思い出させるような仕掛けが欲しい。漱石の猫は、苦沙弥先生や世間の滑稽な様子と常
時対比させることによって、最後まで主人公が猫であると我々は読むのである。
もう一捻りするとすれば旅人−M氏が行っているように、時々「つむじ」君の飼い主たる
著者と違った意見もあればなお面白いものになりそうだと思いますが。




当世グランマ気質  ルービン・良久子著 2009/10/26
http://2style.in/alpha/20-18.html

この作品を読んで、「当世グランマ気質」とはどういうことを意味しているのか、私には
確たるものがつかめませんが、それはともかく良久子さんの創り出す情景描写は、私にア
メリカ映画のシーンを思いださせるものでした。 そして書かれている地名を見るに付け
またアメリカを放浪したいという心を掻き立たせました。

ベルヴュー市の良久子さんのお宅を訪れたのはもう25年前になりました。シアトルから
湖の浮き橋を渡った美しい街でした。庭にあるリンゴの老木が印象に残っています。

モンタナ は訪れたことはありませんが、長距離バスのグレイハウンドでソートレイクか
らシアトルに行く途中で、近くを通ったような記憶があります。またリバー・ランズ・ス
ルー・イッツの舞台だったことを思い出しました。模範的な長男とブラッド・ピットの演
ずる破滅的な性格の次男を描いた、とてもいい映画でした。

ヴァーモントはホワイト・クリスマスという映画の舞台。
クリスマス・イブの日はいつもこの映画を私は見ます。アメリカの一番良い時代、そして
その豊かな暮らしや風景は私の青春時代の憧れの的でした。

兎に角この作品はまだ若かりし頃の私の夢を思い出させました。 有り難うございます。
そしてこのシーンのような時間、私にとっては親しい友人と昼食と一杯のビールを飲みな
がら過ごす時間が一番幸せな時間だと最近は思えるようになりました。さて、これから目
の修繕に行って来ます。




Jetsam and the Bees   2009/10/29

jetsamを辞書で引くと難船の船体軽減のための投げ荷とある。詳しくは判らないが、嵐に
あって漂流・難破している船が生き延びるために、よけいな荷物を海に投げ捨てて、船体
を軽くして助かろうとする行為のことだろうか。

遠い昔、私の父達が乗った帆船も漂流・難破した時、そのような行動を取ったのだろうか。
聞いた話では、ニ本のマストは折れ、伝馬船は流され、操舵室は強風の為に吹き飛んだと
いう。そのように投げ捨てられた、或いは落下した漂流物をjetsamと言うのだろうか。
どこから来て何所へ流れていくのか判らない猫の物語を象徴した名前であることに読み終
わって気づいた。最初から最後まで物語の行くすえを暗示する意味深な言葉である。

著者の作品はThe Color of the Morning やSkyline にしても短編ではあるが、実によく吟味
された食材を最高の職人によって作られた、色や味や匂いの見事なバランスの会席料理の
ように隙のない、緩みのない、大すぎるわけでもなく、また不足してもいないという見事
な作品である。私は日本では動物や植物を擬人化して慈しむといつか書いたが、この短編
を読むと、作者はある意味でJetsamを人格があるような、同じ生きているものとしての
慈しみと尊厳の目で見ていることが感じられた。それは猫かわいがりといった人間側の満
足ではなく、猫の本姓を尊重した接し方をしているということであろう。
最後に三つの作品とも、事象に対して決して作者の意図や思い入れを書き込まないことが、
かえって深みと謎めいた感じを読者に与えるのだろう。

さて、本日私は目の再生工場から無事帰還しました。全盲の同室の人との交流・手術の一
部始終のことについて、たくさん観察してきました。
そして結果は、今までいかにモノトーンの世界をすごしていたかが判りました。この世の
中はこんなに白・黒のはっきりした形と艶やかな色彩に満ちていたのかと驚きました。今
までは自分の見ていた世界がそんなに灰色で歪んでいたのかと思いました。間違った視野
で何でも見ていたのかと疑い、本当はもっと単純明快な世界ではなかったのかと思ってい
ます。

それから、Jetsam and the BeesのO氏による翻訳を作品の後に掲載しましたので、参考に
してください。



126α編集部:2014/05/01(木) 13:56:53
激甘辛 作品評6
.
              激甘辛 作品評6
                  21号2009-2010


   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α21号


昔、革命的であった男の挽歌(その7、安曇野便り)????2009/11/24

作者は以前「茜色」に特別な思いがあると告白した。茜色に染まった神秘的な山際の夕日
に魅せられたのか、それともそんな名前の女(ひと)に叶わぬ恋心を抱いた過去があった
のか、私はそれ以上詳しくは問わなかった。作者はそんな思いもあって今、「茜」という
女性を登場させたのだろうか、私には知る由もない。

私も日本の伝統色の色彩とその呼び名に魅されるのである。 「淺緑(あさきみどり)」
「臙脂色(えんじいろ)」「褐色(かちいろ)」「群青色(ぐんじょういろ)」「深紫
(こきむらさき)」「朱鷺色(ときいろ)」「中紅なかくれない」「木賊色(とくさいろ)
「鈍色(にびいろ)」「利休鼠(りきゅうねずみ)」などなど。

また「杣道(そまみち)」とか「小体(こてい)な家」「出来(しったい)」などといった
懐かしい日本語もはや廃れようとしている。時々辞書を引きながら、響きのいい言葉や姿
の美しい文字に出会ったとき、その言葉をつかって文を作りたくなるときがある。そのよ
うに作者は「茜」という文字に魅了されて、いつかその思いを遂げたくなったのだろう。

さて、本題の感想を述べよう。
1.これは私の好みの問題であることだが、P1上部の文で「そんなとき隣人(といって
も300メートルは離れている家だが)の鶴見さん」とあるが、ト書きや( )書きはあ
まり文学的ではないと私は思う。たとえば「300メートルは離れている隣人の鶴見さん」
と書いても良いのではと思うのである。

2.前半の自然の描写や内証は実に素晴らしい。私好みの世界を見事に作っている。これ
は作者の別の資質が発見された喜ばしい作品だと私は思った。

3.しかし「同人安曇野」に投稿された農業再生、財政問題について、滔々と述べられる
後半には一つの疑問を私は感じた。それはこの「同人安曇野」の主旨が依然として明確で
ないのだ。これは文学的な作品を載せるものなのか、そして合評はどんな観点で評価され
るのかが不明である。それとも生活に根ざす様々な問題点を政治的に解決するための研究
や提言を扱う同人誌なのかである。その辺が明確になれば読者の読み方も違ってくるだろ
う。それともそれを含んだトータルナ文学作品として作者は描こうと努力しているのか。
またまた厳しい意見でごめんなさい。


昔、革命的であった男の挽歌という表題について???? 2009/11/25

今流行の血も涙もない必殺仕訳人の仕業ではないが、作者にとって予想もしていないよう
な問題を指摘され断罪されることは辛いことであろう。しかしこれも泣いて馬謖(ばしょ
く)を斬るのたとえで、これからの創作に生かして貰いたいと思う故である。

万理久利さんの表題の変遷の調査をみて、そういえば私も各号の編集時に作者の表題につ
いて違和感を微かに感じてはいたが、作者の意図を尊重するという逃げ口上ですまし、私
もこのことについて余り深く考えてはいなかった。このところ皆さんの評論を読んで、そ
の表題がこのシリーズの最初の頃の意図と少しずつずれてきていることを感じたのである。

先ず、挽歌とはなにか。挽歌とは「葬送のとき、柩(ひつぎ)を載せた車をひく人たちがう
たう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌。哀悼歌」とある。この意味とすれば沼南ボーイ
さんの言われるように、昔革命的であった男の挫折や屈辱や悲しみの賦でなければならな
い。しかしその後の作品をみれば、その男はやおら蘇生して棺のなかから出でて、安曇野
あたりで現世の不条理を説いている。まさに挽歌とは言えなくなっていることは確かであ
る。この意味でこの表題のままであるとすれば、読者に間違ったサインを送っていること
になりはしないだろうか。

そう言う意味では表題はなかなか難しい。作者がつける表題は物語の概要を示すようなも
のが多く、それが会社の定款のような具体的なものだと、小説の内容を限定し狭めてしま
う恐れがある。そうかといってあまりにも抽象的すぎても、各小説の内容を示唆すること
がないのでイメージが乏しくなる。

さてこの問題を作者はどう解くだろうか、眠れない夜を送りつけたような気がするし、余
りのあら探しに私も眠れそうもない。


いろいろの尺度???? 2009/11/29

 長岡さん、決してジャブやパンチの応酬が、実りのないことだとは決して思いません。
白けているのではなくむしろ大いに歓迎するところであります。

 さて、皆さんの合評を読んで感じたことは、論点のかみ合っていないものが多いなあと
感じました。長岡曉生さんがいみじくも書かれた「一定のデータを対象に、一定の論理の
下に解析して、一定の結果を得ることを目標とする」には私も同感しますが、残念ながら
そのような土俵が作られていないように思います。
 たとえば小説の手法や構成上のバランスや完成度を論じているときに、書き込まれた内
容の芸術性をを問題にするなどなど、かみ合わないのです。表題に含まれる「挽歌」に対
する説明や、「安曇野」のなかで取り上げられる「農業問題」などの政治性をどう位置づ
けするかについては明確な回答はない。それを重要な問題とみなすか、本意には影響がな
い小さなことだと考えるかの違いのようです。
 これはお互いに自分の中に持っている尺度、物差しの単位の違いによると思われます。
人の考えを計るのに尺貫法の物差しを使う人が、インチやヤードの物差しを持っている人
を納得させることは難しいことです。だから同じ物差しを用意しておいて、お互いに論ず
るとことが理想的ですが、それがまた本当に難しいことであると感じます。
 私はしかし物差しの違う論争が全くつまらないと言うわけではありません。それぞれの
尺度で測った行き違いの問題点が、沢山出てくることはいいことであります。また、論者
が今どのような物差しを使っているかが判るだけでも面白いと思う訳です。だから各読者
には全く間違ったと思われる、筋違いのはちゃめちゃなものも大いに歓迎するという訳で
す。その中から異質で私の想像もつかないような価値が生まれるかもしれないのですから。




テーマ「カオス」による 会話詩をよんで ????2009/12/14

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感じた。



たんぽぽ(1)・・・敏夫の場合??2009/12/18

◆周りは倉庫や町工場やスナックなどの混在したところらしい。数十年前はこんな広場も
あったんですね。もう子供が入り込んで勝手に遊び場にできる広場もなくなったようです。
そしてその言葉さえあまり聞かなくなった。そうだ空き地とも言っていたなぁー。
 持ち主もわからない雑草や砂地の場所で、土管などの建材が積んであって、よくの漫画
に出てくるドラえもん、のび太(福田)やジャイアン(小沢)やスネ夫(麻生)などがいじめた
り、いじめられたりしていた場所。

◆街路樹の葉はすでに散っているところから判断して、ブラウニングの詩風にいえば「時
は冬、日は昼、昼は12時半、曇り空の昼食後」というところでしょうか。

◆登場人物11人のうち男性3人、女性7人、背の高い人物はどちらかわからない。どん
な職場だったのだろう、この写真の登場人物からは残念ながら名探偵でも想像できない。
キャッチャーはなんだか気が入っていないし、後ろの背広の男性は筒井さんにつられてバ
ットスイングのまねをしている。皆の視線がバットに向いているから空振りかと見えるけ
れど、キャッチャーのミットには納まっていないという、球の存在が見あたらない不思議
な場面である。背広の男性の右手に二つの球が見えるのがそれだろうか。

などと枕が長いのは本題の精彩に欠けると自覚しているようなもの、どうも真打ちにはと
うていなれそうもない。
私は細部まで検証することが苦手です。建物を設計するにも人それぞれの癖があります。
一つは細部から詳細に検討して要素を積み上げていくタイプ。もう一つは大まかな全体の
機能や配置や動線を考えることから始めるタイプ。私はいつも後の方で、細部の納まりや
びっくりするような匠の技は持ち合わせていない。
そこで大掴みの二点だけ感想を述べたい。

◆一つは、カーチャンがぼくを嫌いな訳は「ぼく」だからなのか。それとも男の子だから
だけなのか。嫌う訳は単に可愛くないとか、カーチャンの言うことを聞かないというよう
な単純なものでなく、もっと深い理由が隠されているような気がしてならない。たとえば、
「ぼく」はカーチャンの前の男の子供で、連れ子たから今のトーチャンに気兼ねして邪険
にした。妹は今のトーチャンの本当の子であるから可愛がる、などが考えられる。それと
もカーチャンは父親に子供の頃虐待されたから男が嫌いになった。しかしそれではトーチ
ャンと仲良くなったということについて理屈が合わなくなる。結局、終わりまでカーチャ
ンのぼくを嫌う心情の解析はしていないから、最後までなぜなのか読者にはわからない。
何かのトラウマとすれば、迷い苦しむカーチャンのそのへんの心情を私は知りたいと思っ
た。

◆二つ目はこの物語は「ぼく」の淡々とした語りで始終しているから、最初はあまり衝撃
を与えなかったが、よく考えるとまさに犯罪に近い物語である。
この敢えて淡々とした「ぼく」の語り口は作者が意図したものだろうか。
「その後ぼくがどうなったかは,とてもぼくの口からは話せない。トーチャンやカーチャ
ンに聞いてよ。 ぼくもトーチャンやカーチャンがどういうか聞きたいよ・・・」で終わ
っている。悲惨な最期を暗示しているが、Tさんのコメントではその2も主人公は敏夫だ
とある。私にはそれがどんな物語になるか謎である。余計なことかも知りませんが、もし
この物語が読み切りで、その2が新しい情況の物語だったら、主人公の名前は変えた方が
いいような気がします。




四国八十八ヶ所遍路みち・旅日記  2009/12/28

両親は生きている時に四国や篠栗霊場巡りをしていた。その篠栗霊場とは、本場の四国霊
場八十八ヶ所とは別に「篠栗四国」「小豆島四国」「知多四国」という「日本三大四国」
の一つで、福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八ヶ所の札所があると、インターネ
ットで調べたらあった。しかし両親がどのような心境であちこち苦労して巡っていたかは
聞いたことがない。私みたいな理屈をこねないから、ごく自然に天命を感謝して巡ったと
想像されるのである。一方私は未だにそんな心境に至らず、今のところ一年発起してその
天命に感謝したり、或いは何かの業(カルマ)を払い清めるために、または作者のように
単にスポーツと割り切って巡礼する気持ちは全くない。たとえ強い信念で思い立ってもそ
の苦労に耐えられないだろうし、すぐに色々の疑問にさいなまれて挫折するに違いない。

再三私は作者に、冒険にたいする意味合いを知りたいというおねだりをしているのだが、
未だにその無理難題に着手してはくれないようだ。ジョージ・マロリーは「なぜ、あなた
はエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」
と答えたという逸話がある。だがそれだけでは無いはず、志向するには理由があるはずと
ある哲学者は言っていた。
すべて解決できないことは神に委ね安心立命を得るか、それともちっぽけな脳みそをかき
回してでも自分で回答をみいだす苦労を背負うかは個人の自由である。私は後者であるか
らこのような偏屈な合評とも言えない感想を書いて、顰蹙を買うことになると覚悟してい
る。Mさんごめんね―。




雄猫勇吉の冒険 (2)??2009/12/31

年が明けてからこの作品の感想を書こうかと思っていたが、次の三つの理由で今日この年
の終わりに書くことにした。
? 大晦の紙面の寂しさを吹き払うために万理久利さんの努力に頼るだけでは申し訳ない
?? から。
? 年始となれば自ずと新年の挨拶やら、抱負で自然と賑わうだろうから。
? イマジン氏のエッセイにいたく感動したから。

さて、今回の作品「雄猫勇吉の冒険 (2)」は実にすばらしいできである。以前のような、
本人はまじめにそう思っているのだが、どうも屁理屈に思える考えを書かれて、それはそ
れなりに面白い見方ではありましたが、今回は堂々と真っ正面から勇吉の立場を詳細に観
察し、己の少年のころの環境と重ね合わせて検証しているところが、じつに深い洞察と無
駄のない表現を伴っていて、名文と私は思った。

最後にあえて一つ注文を付けるとすれば、「勇吉の恋」は次号に回した方がよかった。な
ぜならば、いじめや権力闘争などの社会的な問題について深く論じてきたわけだから、そ
こにまた別のエピソードが加えられると、せっかく見事な問題意識が持続されなくてもっ
たいない。あれもこれもという奉仕精神は得てして最後に何の印象も残さないから不利で
ある。激しく反論していても、最後に謝ったり慰撫したりするいつものO−chanの喧
嘩を見ているごとく、読み手としては結論はなんだったのかと不満が残る。喧嘩するなら
するで、最後まで論調を変えて貰っては困るのである。とまあ、フランスで遊びほうけて
いるO−chanまでまな板に載せてごめんなさい。しかし最後の節で私も同じ過ちを犯
したようだ。
イマジンさんの今回の「雄猫勇吉の冒険 (2)」は名作であった。




5年生存率??2010/1/24

◆専門用語
 私はこの表題の言葉を全く知らなかった。親族や知人のなかにこのような病気で多く亡
 くなっているにも拘わらずである。世の中にはそのような専門用語が沢山あり、その職
 業の間では当然のような言葉でも一般の人には符丁のようなもので、何を意味するのか
 まったく思いもつかない言葉なのである。
 しかしよく考えてみると、このての用語は後期高齢者などの呼称と同じく、なんとも人
 情味の感じられないものが多い。管理する側が便利上ラベルを張って置くようなもので、
 我々はそれを全面的に信じすぎてもいけないのではないか。
 後期高齢者といわれても、肉体的にも精神的にも個人差はあり、また5年生存率といっ
 てもあくまでも数字上の確率の問題で、個人に当てはめて判断することにおいては決定
 的なものはない。例外は常にあり全てがそうだと思わされる必要はない、自分は例外な
 のだ思っていたほうがいいと思った。だからこんな言葉が一般化されて、みんなが恐怖
 におののいたり、落胆したりするのであるなら、専門家の間だけのものとして置いて欲
 しいような気がする。
◆エッセイ「5年生存率」を読んで
 作者が病を得てからいろいろの悩みや不安などの苦悩を通して人生観が変わったと述べ
 られている。友人の死や自分の生命の限りを認識するなかで、失うものも多いがむしろ
 得ることの方が多いようだと、己の人生を肯定的に受け入れる精神的な強さと人にたい
 する優しさが作者のすばらしい人格を表している。
 人は悪い状態になってももっと悪い状態のことを考えて、まだ自分はいいほうだと考え
 て踏みとどまる強さがある。私が目の手術をしたとき、二人部屋の隣のベッドの人とよ
 く話をした。最初はその屈託のない人柄に、その人が非常にシリアスな状態であるとは
 思えなかった。しかしそのうち彼は「私は全盲なのです。光はかすかに感じるので視野
 は明るいが、物の形態は判りません」と告白された。では何故再び手術を受けられたの
 かという私の問いにたいして、「このまま放置すれば光も感知できなくなり、暗闇の世
 界になってしまいます。だから光を感知できる機能が残ってよかったと喜んでいます。」
 という言葉があった。
 私は幸い白濁の灰色の世界から鮮やかな色彩の世界へ、そして視力も確実に戻ることが
 出来たが、遂にその辺のことを隣の人に詳しく報告することを躊躇して、ただ以前より
 少しましになりました、といって同じ日に退院して別れた。私はそのとき自分よりもっ
 と難しい情況を耐えている人がいるのだという事がわかり、このエッセイの作者の心境
 も理解出来るような気がした。




肥と筑 第十一回??長岡曉生著  2010/1/25
http://2style.in/alpha/21-16.html

いつもは知らないことばかりで、すでにその巨大な知識への感嘆の言葉ばかり書き尽くし
ていたから、前回までなにを評し質問したらいいのか戸惑っていたが、この度は動物の話
題で私でも取り付きやすかったので助かった。
◆白き牝鹿
 高校時代に副担任だった花山院親忠先生が、春日大社の宮司になられて一冊の本を書か
 れた。市ヶ谷で行われた出版記念の会に出席して求めた本が「春日の神は鹿にのって」
 である。その本の中に今の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の神が鹿に乗って春日大社にや
 って来たという内容だったと思う。
 今回の作品を読み始めて、インターネットで調べてみたら『常陸国風土記』では、神代
 の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いな
 がら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源であると
 書いてあり、しかも現在では鹿島港を中心とした鉄鋼企業を主とした鹿島臨海工業地帯
 を形成していることは、古代のタタラ製鉄をよくした種族と関係がありそうだと思われ
 た。しかしこの作品を読み進むと、驪戎のトーテムが鹿だったことをまさにしっかりと
 書いてあったのには参った。
◆馬
 作品のなかに「元寇の時に、騎馬隊で成るモンゴル軍を運んだのは、操船に慣れた旧南
 宋の漢族と半島の朝鮮族が操る船だったんだ。」と書いてあるのを見たとき、どうして
 蒙古軍が日本を攻めきれなかったかが判ったような気がした。ちょうど朝鮮では高麗王
 国のなかに蒙古の支配に対する反対勢力が生じていた。その勢力が朝鮮の南部及び済州
 島にあって、元と高麗の軍の補給を邪魔をしていた。このことが獰猛な蒙古軍による日
 本攻撃を鈍らせたということである。勿論神風という天然現象の幸運もあったろうが、
 占領するに足るだけの騎馬を用意できなかったことが敗因になったのではないだろうか。
◆熊
 幼時期は足柄山で山姥に育てられ熊と相撲を取ったといい、長じては坂田金時と名乗り、
 源頼光の四天王の一人になったという、まさにその金太郎の生誕地、小さな滝で産湯を
 使い、自然石の上で遊び、熊と相撲をとったという山深い足柄の山の中に、記念館を建
 てるという競技設計に参加したことがある。足繁く現地を訪れる内にその記念館のサブ
 のコンセプトを頭に描いたのを思い出した。それは今では希になっているキビ、ヒエ、
 アワ、ソバを栽培し、古来からの食習慣やその味覚を伝承するというものであった。し
 かし残念ながら第一席になることはなく採用はされなかった。
 ちなみに参考としてWikkipediaの記述によると「日本ではアワ・ヒエ等の主要穀類以外
 の穀類は雑穀類として一括して分類されることが示すように,食品・作物として極めて
 低く位置づけられてきた.しかし,雑穀類の中でアワ・ヒエ・キビ等は日本で古くから
 主食として利用されてきた歴史があり,これら作物が利用されなくなったのは高々ここ
 数十年のことである。」とある。
◆混沌
 荘子のいう混沌については作者がいろいろと考察されているのに首肯するが、私として
 の理屈は簡単なもので目、鼻、耳、口の七孔、すなわち五感を与えられたとき、規律が
 生じもはや混沌ではなくなった、すなわち混沌が死んだと解釈した。ギリシア神話に登
 場する原初神カオスは原初神としては、むしろ空隙(空いた場所)が原義である。だか
 ら中国神話や荘子、道教の有の世界の混沌とギリシア神話の空爆という無の世界のカオ
 スとは少々違うような感じがしたが、長岡さん如何ですか?



「万理久利さんの「肥と筑」十一回の評を読んで」2010/1/23

たとえ書かれているものに対しての知識がなくても、これほど理路整然と批評出来る人は
なかなかいないのではと私は感心した。惚けている万理久利さんしか目に入らない人は、
彼女の真の姿を知らないで慌てて危険きわまりないおじゃま虫だというレッテルを張って
安心しているに過ぎない。もっと危険なものが彼女の冷徹なほどの目であることを無意識
に感じながら、異質なものという言葉で納得しているに過ぎない。この投稿で本当の万理
久利さんの真価が分かっただろう。それともそれもまだ判らない鈍感さを露呈する人もい
るにちがいない。
中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。 ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。そこには相
手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほど
はっきりと言い放つのである。日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に相手
の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の各人
の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんでも開
放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。




原点  2010/2/2

この作品は「養女に貰われて始めて歩いて来たあの道に、喜びも悲しみも無い虚ろな目を
して、しっかりと両手を下げ、爪が食い入る程拳を握りしめ、一人立っている自分を見た」
の言葉に全ての鍵が隠されていると思った。
京子がもし本当の両親のもとで育ったとすれば、天真爛漫に甘えそして自我思い切り表現
したかもしれない。しかし現実に養女として貰われた京子は、もはや五歳の子供でなく五
歳の大人となろうとしたのではないか。それが自分の置かれた環境の安定した場所の条件
と子供心に思った。しかしその子供の厳しい覚悟を耐えるために白昼夢という反対の世界
を創らざるを得なかったのではないか。
だが、京子は小さい頃に誓った、自我を殺すという誓いに無意識に反発を感じるようにな
った。「優しい」「人が良い」「思いやりがある」などと言った心地よい言葉も、自分の
本当の気持ちではない「嘘」や「おもねり」を含んでいるように見え、その欺瞞性で成り
立っている世間に気づいたのではないか。そのように私はこの作品を読んだ。
この作品を読む前に、亮子さんの生い立ちに関する田村さんの投稿があった。私は以前も
書いたが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。し
かし私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想など
は知らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは手
品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不思
議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内を
明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑賞
を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。




恋情の海 1  2010/2/4

古い規範がまだ頭の隅にしっかり隠れているのか判らないが、この手の話は元来私は苦手
であるから、出来れば見て見ぬふりしてそっと通り過ぎたいと思うのだが、いくつかの疑
問点が見つかったので書いてみた。
先ず人に対する恋情なるものが、例えばプラトニックな愛とか、単なる欲情だとかのいろ
いろな形態を列記してあるが、自分なりの一定の見解もなくただ思いつくまま書いてある
に過ぎないように思える。
主人公は娘にたいしてある時から恋情を抱くのだが、作者はそれが既成の事実とし済まし
ているようであるが、なぜどの部分にどのような人格にといった詳しい記述が私は描いて
欲しい、またそれがこの小説の重要なテーマとして一番面白い部分と思うのだが。それと
も主人公がいろいろの形の愛があることを認識するという意図の小説なのか。それとも主
人公が古い規範のなかで、自分の情念の不道徳さに悩み、異常な愛の少数派の苦悩や苦痛
に共感し理解出来るようになったことが主なテーマだろうか。とにかくいろいろのもりだ
くさんの恋情が描いてあって、主人公はその混沌の世界で溺れそうに見える。
とまあ、憎まれ口を沢山叩きましたが、このようなジャンルのものを書けない私の「曳か
れ者の小唄」「減らず口」「田作の歯ぎしり」と思ってください。あしからず・・・。



恋情の海 2  2010/2/5

これが小説としてみたとき、研究書や報告書やエッセイならともかく、近親相姦や同性愛
や片思いやプラトニック・ラブや変態などの様々な愛のあり方において一般論を語られて
もあまりおもしろいとは思いませんでした。
私は小説においては人物がいかに表現されているかが見所だと思いますから、登場人物の
内面の歴史や育った環境やそれによって作り上げられた感覚や考え方を知りたいと思いま
した。ましてや読者とちょっと違う、異常な環境の場合はなおさらであります。それは読
者が必ずしも同意するということではなくても、そういうこともあるだろうと納得するよ
うに詳細に描写してもらいたいということを言いたかったのです。だから主人公が自分の
娘のどこに惹かれ、どうして彼女でなくてはいけなかったか、どうして妻や他の人ではい
けなかったかを延々と追求してもらいたいと思ったのです。
そういうわけで、私のこの小説のテーマはその辺ではないかと私は思ったものだが、人様
々であることを考えれば全くの独善に過ぎなかったようですね。



恋情の海 3  2010/2/7

私の解釈と違い、作者は悩める初老の男の周章狼狽のみをテーマにしたかったことは解説
で判った。それもまた作者の自由であるから、これ以上そのことにたいして言うことはな
い。しかし「人を愛するという事はどういう事なんだろう。相手に惹かれると心を通い合
わせたいだけでなく、体も結ばれたいと思う。それが自然な成り行きなら、抱き合わない
と愛は成就しないんだろう」といっているが、子供に対する愛や動物に対する愛、人類に
対する愛などのいろいろの形の愛がある中で、男女の愛だけに絞られていて、愛欲と結び
つけられている。だから最初「愛」という書き出しからして、私はそんなに愛を十把一絡
げに語っていいものかという疑問をもった。
だから娘に対する愛が突然愛欲に変化したのか、それとも子供に対する愛情と愛欲が同時
に混在しているのか、その辺の分析もなく描かれているところは、いかにも安易過ぎない
のではないか。ただ悩んでいる姿だけを記述して済ましていて良いのか。私はそのへんの
問題に対してもう少し深く主人公の内省として分析を試み記述して欲しかった。
それゆえ「まさに今回のタイトルである「カオス」(混沌)状態の男の観念の世界を描い
ただけ」であって、主人公は「自分の気持ちを書き出し、分析し、記録したいと」告白し
ているその書き出しの宣言を、十分満たしたものではないと私は考える。




BUTTERFLY  EFFECT  2010/2/13

私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では結果;
効果; 影響 感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後まで読
んでも表題とは結びつかなかった。
そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開された
アメリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小さ
な波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないような
大きな波になるということを言うらしい。

しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。
私はここに描かれた池の情景を表現するようなイメージの絵を求めていろいろ探し回った。
Rさんはアンリ・ルソーの絵のようだと言われるが、たしかに「夢」や「熱帯風景、オレ
ンジの森の猿たち」などの森の絵はいろいろの動物や植物が生息するに違いないと思わせ
る不思議な絵である。
片や私は、作者や絵の題名も失念したが、植物や昆虫達を鮮やかな色と繊細なタッチで描
写した、日本画の「草木花虫の細密画」のようだと思った。それはまるで池の周りの多様
多種な生物の営みを一瞬時を止めてたような絵、それとも目には見えない動き・ストップ
モーションのような不思議な静かさに見えた。しかしその絵はついに見つけることは出来
なかった。私が抱いたイメージだから、はたして私が言うようにこの作品に即したものか
どうかは実は確信できないでいる。

都会に住んでいた私がある時一時田舎で暮らしたことがある。人間で溢れた都会で生きて
いる動物、植物の数も種類もなんと貧弱なことか。それに反し田舎の自然では様々な植物、
動物、昆虫の生命が、数そして活力において人間を遥かに凌いでいるのを目の当たりに見
てきた。そこでは蟻や蜂、ぶよ、はえ、むかで、ゴキブリ、蜘蛛、蛇などが主役で、いかに
人間どもは主人面をしていても脇役なのだ。都会の人間はそのことを忘れて生きている。
この作品の語り手は不思議な視点でこの池の様子を見ていると思った。人間側でもなく昆
虫や小動物の側でもない。もっと中立的な、敢えて言えば善悪を超越した人・神の目で事
象を見ているように私には思えた。このことは作者の作品に共通して言えることで、私の
ように自分の世俗的な出来事を並べ立てて、自分で答えを出すというあまりにも人間的な
卑近な作風とは違い、もっと深い真理につながる何かを表現することが出来る、誠に羨ま
しい才能を持ち合わせていると感じた。だから表現された作品が透明感や清涼感それとこ
の世界の全ての事象の奥に潜む不思議さを読者に与えるのではないだろうか。

さて私の評の終りとして最初に抱いた疑問であるBUTTERFLY  EFFECT」の「蝶」が何であ
ったかを究明しなければならない。
銀やんまや蛙や昆虫・蝉・蛇等の目には見えないものが、その池の周りに微かな変化を起
こしていった。そのあるものの正体はなんであったか。
あるとき私は、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質「暗黒物質」(dark matter)につ
いて書いてある記事をみた。宇宙の九割はこの「暗黒物質」で満たされているという。あ
る解説書には「宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないが、光を反射しないために
光学的には観測できないとされる仮説的物質のこと」とある。その物質の候補としてニュ
ートリノ、 ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマターなどがあるというが、 ニュー
トリノ以外はまだ存在を確認されていない。
宇宙の質量の総量が計算上成り立つには目に見えないこれらの「暗黒物質」が理論上存在
しなければなりたたないという訳だ。実際それらは強力な重力を持ち、「重力レンズ効果」
という現象で星間に影響を与えているという。

この世の中は目に見えるもの以上に、目に見えないものの方が多い。ある場所での蝶の羽
ばたきが、そこから離れた場所の未来の天候に影響を及ぼすということが、複雑なカオス
の中で何かに触発されてそれは起こり、そしてそれは予測不可能なのだ。そしてこの世を
実は支配していると思われる「蝶」とは無秩序の世界・カオスを含む森羅万象に君臨する
宇宙の法則がその正体だ。
あなたの頬に微かな風を感じたら目に見えない「蝶」が側に潜んでいるのかも知れない。
そしてたとえ自分の意思だと思っていても、実は遥かに遠く隔てた135億光年の星の瞬き
が、あなたの志向に影響を与えているかも知れない。

私は作者の作品の意図の回答を言い当てることを諦め、自分に納得する解答をのみ求めた。
だから全くこの作品の合評問題の答案としては不合格であろう。しかし作者の文学が与え
てくれる「この世界の営みは人知を越えた不思議さで満たされている」という、善悪を超
越したものの見方を教わったように思える。



127資料管理請負人:2014/05/01(木) 16:42:28
激甘辛 作品評6
.
              激甘辛 作品評6
                  21号2009-2010


   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



昔、革命的であった男の挽歌(その7、安曇野便り)????2009/11/24

作者は以前「茜色」に特別な思いがあると告白した。茜色に染まった神秘的な山際の夕日
に魅せられたのか、それともそんな名前の女(ひと)に叶わぬ恋心を抱いた過去があった
のか、私はそれ以上詳しくは問わなかった。作者はそんな思いもあって今、「茜」という
女性を登場させたのだろうか、私には知る由もない。

私も日本の伝統色の色彩とその呼び名に魅されるのである。 「淺緑(あさきみどり)」
「臙脂色(えんじいろ)」「褐色(かちいろ)」「群青色(ぐんじょういろ)」「深紫
(こきむらさき)」「朱鷺色(ときいろ)」「中紅なかくれない」「木賊色(とくさいろ)
「鈍色(にびいろ)」「利休鼠(りきゅうねずみ)」などなど。

また「杣道(そまみち)」とか「小体(こてい)な家」「出来(しったい)」などといった
懐かしい日本語もはや廃れようとしている。時々辞書を引きながら、響きのいい言葉や姿
の美しい文字に出会ったとき、その言葉をつかって文を作りたくなるときがある。そのよ
うに作者は「茜」という文字に魅了されて、いつかその思いを遂げたくなったのだろう。

さて、本題の感想を述べよう。
1.これは私の好みの問題であることだが、P1上部の文で「そんなとき隣人(といって
も300メートルは離れている家だが)の鶴見さん」とあるが、ト書きや( )書きはあ
まり文学的ではないと私は思う。たとえば「300メートルは離れている隣人の鶴見さん」
と書いても良いのではと思うのである。

2.前半の自然の描写や内証は実に素晴らしい。私好みの世界を見事に作っている。これ
は作者の別の資質が発見された喜ばしい作品だと私は思った。

3.しかし「同人安曇野」に投稿された農業再生、財政問題について、滔々と述べられる
後半には一つの疑問を私は感じた。それはこの「同人安曇野」の主旨が依然として明確で
ないのだ。これは文学的な作品を載せるものなのか、そして合評はどんな観点で評価され
るのかが不明である。それとも生活に根ざす様々な問題点を政治的に解決するための研究
や提言を扱う同人誌なのかである。その辺が明確になれば読者の読み方も違ってくるだろ
う。それともそれを含んだトータルナ文学作品として作者は描こうと努力しているのか。
またまた厳しい意見でごめんなさい。


昔、革命的であった男の挽歌という表題について???? 2009/11/25

今流行の血も涙もない必殺仕訳人の仕業ではないが、作者にとって予想もしていないよう
な問題を指摘され断罪されることは辛いことであろう。しかしこれも泣いて馬謖(ばしょ
く)を斬るのたとえで、これからの創作に生かして貰いたいと思う故である。

万理久利さんの表題の変遷の調査をみて、そういえば私も各号の編集時に作者の表題につ
いて違和感を微かに感じてはいたが、作者の意図を尊重するという逃げ口上ですまし、私
もこのことについて余り深く考えてはいなかった。このところ皆さんの評論を読んで、そ
の表題がこのシリーズの最初の頃の意図と少しずつずれてきていることを感じたのである。

先ず、挽歌とはなにか。挽歌とは「葬送のとき、柩(ひつぎ)を載せた車をひく人たちがう
たう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌。哀悼歌」とある。この意味とすれば沼南ボーイ
さんの言われるように、昔革命的であった男の挫折や屈辱や悲しみの賦でなければならな
い。しかしその後の作品をみれば、その男はやおら蘇生して棺のなかから出でて、安曇野
あたりで現世の不条理を説いている。まさに挽歌とは言えなくなっていることは確かであ
る。この意味でこの表題のままであるとすれば、読者に間違ったサインを送っていること
になりはしないだろうか。

そう言う意味では表題はなかなか難しい。作者がつける表題は物語の概要を示すようなも
のが多く、それが会社の定款のような具体的なものだと、小説の内容を限定し狭めてしま
う恐れがある。そうかといってあまりにも抽象的すぎても、各小説の内容を示唆すること
がないのでイメージが乏しくなる。

さてこの問題を作者はどう解くだろうか、眠れない夜を送りつけたような気がするし、余
りのあら探しに私も眠れそうもない。


いろいろの尺度???? 2009/11/29

 長岡さん、決してジャブやパンチの応酬が、実りのないことだとは決して思いません。
白けているのではなくむしろ大いに歓迎するところであります。

 さて、皆さんの合評を読んで感じたことは、論点のかみ合っていないものが多いなあと
感じました。長岡曉生さんがいみじくも書かれた「一定のデータを対象に、一定の論理の
下に解析して、一定の結果を得ることを目標とする」には私も同感しますが、残念ながら
そのような土俵が作られていないように思います。
 たとえば小説の手法や構成上のバランスや完成度を論じているときに、書き込まれた内
容の芸術性をを問題にするなどなど、かみ合わないのです。表題に含まれる「挽歌」に対
する説明や、「安曇野」のなかで取り上げられる「農業問題」などの政治性をどう位置づ
けするかについては明確な回答はない。それを重要な問題とみなすか、本意には影響がな
い小さなことだと考えるかの違いのようです。
 これはお互いに自分の中に持っている尺度、物差しの単位の違いによると思われます。
人の考えを計るのに尺貫法の物差しを使う人が、インチやヤードの物差しを持っている人
を納得させることは難しいことです。だから同じ物差しを用意しておいて、お互いに論ず
るとことが理想的ですが、それがまた本当に難しいことであると感じます。
 私はしかし物差しの違う論争が全くつまらないと言うわけではありません。それぞれの
尺度で測った行き違いの問題点が、沢山出てくることはいいことであります。また、論者
が今どのような物差しを使っているかが判るだけでも面白いと思う訳です。だから各読者
には全く間違ったと思われる、筋違いのはちゃめちゃなものも大いに歓迎するという訳で
す。その中から異質で私の想像もつかないような価値が生まれるかもしれないのですから。



テーマ「カオス」による 会話詩をよんで ????2009/12/14

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感じた。


たんぽぽ(1)・・・敏夫の場合??2009/12/18

◆周りは倉庫や町工場やスナックなどの混在したところらしい。数十年前はこんな広場も
あったんですね。もう子供が入り込んで勝手に遊び場にできる広場もなくなったようです。
そしてその言葉さえあまり聞かなくなった。そうだ空き地とも言っていたなぁー。
 持ち主もわからない雑草や砂地の場所で、土管などの建材が積んであって、よくの漫画
に出てくるドラえもん、のび太(福田)やジャイアン(小沢)やスネ夫(麻生)などがいじめた
り、いじめられたりしていた場所。

◆街路樹の葉はすでに散っているところから判断して、ブラウニングの詩風にいえば「時
は冬、日は昼、昼は12時半、曇り空の昼食後」というところでしょうか。

◆登場人物11人のうち男性3人、女性7人、背の高い人物はどちらかわからない。どん
な職場だったのだろう、この写真の登場人物からは残念ながら名探偵でも想像できない。
キャッチャーはなんだか気が入っていないし、後ろの背広の男性は筒井さんにつられてバ
ットスイングのまねをしている。皆の視線がバットに向いているから空振りかと見えるけ
れど、キャッチャーのミットには納まっていないという、球の存在が見あたらない不思議
な場面である。背広の男性の右手に二つの球が見えるのがそれだろうか。

などと枕が長いのは本題の精彩に欠けると自覚しているようなもの、どうも真打ちにはと
うていなれそうもない。
私は細部まで検証することが苦手です。建物を設計するにも人それぞれの癖があります。
一つは細部から詳細に検討して要素を積み上げていくタイプ。もう一つは大まかな全体の
機能や配置や動線を考えることから始めるタイプ。私はいつも後の方で、細部の納まりや
びっくりするような匠の技は持ち合わせていない。
そこで大掴みの二点だけ感想を述べたい。

◆一つは、カーチャンがぼくを嫌いな訳は「ぼく」だからなのか。それとも男の子だから
だけなのか。嫌う訳は単に可愛くないとか、カーチャンの言うことを聞かないというよう
な単純なものでなく、もっと深い理由が隠されているような気がしてならない。たとえば、
「ぼく」はカーチャンの前の男の子供で、連れ子たから今のトーチャンに気兼ねして邪険
にした。妹は今のトーチャンの本当の子であるから可愛がる、などが考えられる。それと
もカーチャンは父親に子供の頃虐待されたから男が嫌いになった。しかしそれではトーチ
ャンと仲良くなったということについて理屈が合わなくなる。結局、終わりまでカーチャ
ンのぼくを嫌う心情の解析はしていないから、最後までなぜなのか読者にはわからない。
何かのトラウマとすれば、迷い苦しむカーチャンのそのへんの心情を私は知りたいと思っ
た。

◆二つ目はこの物語は「ぼく」の淡々とした語りで始終しているから、最初はあまり衝撃
を与えなかったが、よく考えるとまさに犯罪に近い物語である。
この敢えて淡々とした「ぼく」の語り口は作者が意図したものだろうか。
「その後ぼくがどうなったかは,とてもぼくの口からは話せない。トーチャンやカーチャ
ンに聞いてよ。 ぼくもトーチャンやカーチャンがどういうか聞きたいよ・・・」で終わ
っている。悲惨な最期を暗示しているが、Tさんのコメントではその2も主人公は敏夫だ
とある。私にはそれがどんな物語になるか謎である。余計なことかも知りませんが、もし
この物語が読み切りで、その2が新しい情況の物語だったら、主人公の名前は変えた方が
いいような気がします。



四国八十八ヶ所遍路みち・旅日記  2009/12/28

両親は生きている時に四国や篠栗霊場巡りをしていた。その篠栗霊場とは、本場の四国霊
場八十八ヶ所とは別に「篠栗四国」「小豆島四国」「知多四国」という「日本三大四国」
の一つで、福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八ヶ所の札所があると、インターネ
ットで調べたらあった。しかし両親がどのような心境であちこち苦労して巡っていたかは
聞いたことがない。私みたいな理屈をこねないから、ごく自然に天命を感謝して巡ったと
想像されるのである。一方私は未だにそんな心境に至らず、今のところ一年発起してその
天命に感謝したり、或いは何かの業(カルマ)を払い清めるために、または作者のように
単にスポーツと割り切って巡礼する気持ちは全くない。たとえ強い信念で思い立ってもそ
の苦労に耐えられないだろうし、すぐに色々の疑問にさいなまれて挫折するに違いない。

再三私は作者に、冒険にたいする意味合いを知りたいというおねだりをしているのだが、
未だにその無理難題に着手してはくれないようだ。ジョージ・マロリーは「なぜ、あなた
はエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」
と答えたという逸話がある。だがそれだけでは無いはず、志向するには理由があるはずと
ある哲学者は言っていた。
すべて解決できないことは神に委ね安心立命を得るか、それともちっぽけな脳みそをかき
回してでも自分で回答をみいだす苦労を背負うかは個人の自由である。私は後者であるか
らこのような偏屈な合評とも言えない感想を書いて、顰蹙を買うことになると覚悟してい
る。Mさんごめんね―。


雄猫勇吉の冒険 (2)??2009/12/31

年が明けてからこの作品の感想を書こうかと思っていたが、次の三つの理由で今日この年
の終わりに書くことにした。
? 大晦の紙面の寂しさを吹き払うために万理久利さんの努力に頼るだけでは申し訳ない
?? から。
? 年始となれば自ずと新年の挨拶やら、抱負で自然と賑わうだろうから。
? イマジン氏のエッセイにいたく感動したから。

さて、今回の作品「雄猫勇吉の冒険 (2)」は実にすばらしいできである。以前のような、
本人はまじめにそう思っているのだが、どうも屁理屈に思える考えを書かれて、それはそ
れなりに面白い見方ではありましたが、今回は堂々と真っ正面から勇吉の立場を詳細に観
察し、己の少年のころの環境と重ね合わせて検証しているところが、じつに深い洞察と無
駄のない表現を伴っていて、名文と私は思った。

最後にあえて一つ注文を付けるとすれば、「勇吉の恋」は次号に回した方がよかった。な
ぜならば、いじめや権力闘争などの社会的な問題について深く論じてきたわけだから、そ
こにまた別のエピソードが加えられると、せっかく見事な問題意識が持続されなくてもっ
たいない。あれもこれもという奉仕精神は得てして最後に何の印象も残さないから不利で
ある。激しく反論していても、最後に謝ったり慰撫したりするいつものO−chanの喧
嘩を見ているごとく、読み手としては結論はなんだったのかと不満が残る。喧嘩するなら
するで、最後まで論調を変えて貰っては困るのである。とまあ、フランスで遊びほうけて
いるOさんまでまな板に載せてごめんなさい。しかし最後の節で私も同じ過ちを犯
したようだ。
イマジンさんの今回の「雄猫勇吉の冒険 (2)」は名作であった。


5年生存率??2010/1/24

◆専門用語
 私はこの表題の言葉を全く知らなかった。親族や知人のなかにこのような病気で多く亡
 くなっているにも拘わらずである。世の中にはそのような専門用語が沢山あり、その職
 業の間では当然のような言葉でも一般の人には符丁のようなもので、何を意味するのか
 まったく思いもつかない言葉なのである。
 しかしよく考えてみると、このての用語は後期高齢者などの呼称と同じく、なんとも人
 情味の感じられないものが多い。管理する側が便利上ラベルを張って置くようなもので、
 我々はそれを全面的に信じすぎてもいけないのではないか。
 後期高齢者といわれても、肉体的にも精神的にも個人差はあり、また5年生存率といっ
 てもあくまでも数字上の確率の問題で、個人に当てはめて判断することにおいては決定
 的なものはない。例外は常にあり全てがそうだと思わされる必要はない、自分は例外な
 のだ思っていたほうがいいと思った。だからこんな言葉が一般化されて、みんなが恐怖
 におののいたり、落胆したりするのであるなら、専門家の間だけのものとして置いて欲
 しいような気がする。
◆エッセイ「5年生存率」を読んで
 作者が病を得てからいろいろの悩みや不安などの苦悩を通して人生観が変わったと述べ
 られている。友人の死や自分の生命の限りを認識するなかで、失うものも多いがむしろ
 得ることの方が多いようだと、己の人生を肯定的に受け入れる精神的な強さと人にたい
 する優しさが作者のすばらしい人格を表している。
 人は悪い状態になってももっと悪い状態のことを考えて、まだ自分はいいほうだと考え
 て踏みとどまる強さがある。私が目の手術をしたとき、二人部屋の隣のベッドの人とよ
 く話をした。最初はその屈託のない人柄に、その人が非常にシリアスな状態であるとは
 思えなかった。しかしそのうち彼は「私は全盲なのです。光はかすかに感じるので視野
 は明るいが、物の形態は判りません」と告白された。では何故再び手術を受けられたの
 かという私の問いにたいして、「このまま放置すれば光も感知できなくなり、暗闇の世
 界になってしまいます。だから光を感知できる機能が残ってよかったと喜んでいます。」
 という言葉があった。
 私は幸い白濁の灰色の世界から鮮やかな色彩の世界へ、そして視力も確実に戻ることが
 出来たが、遂にその辺のことを隣の人に詳しく報告することを躊躇して、ただ以前より
 少しましになりました、といって同じ日に退院して別れた。私はそのとき自分よりもっ
 と難しい情況を耐えている人がいるのだという事がわかり、このエッセイの作者の心境
 も理解出来るような気がした。


肥と筑 第十一回??長岡曉生著  2010/1/25
http://2style.in/alpha/21-16.html

いつもは知らないことばかりで、すでにその巨大な知識への感嘆の言葉ばかり書き尽くし
ていたから、前回までなにを評し質問したらいいのか戸惑っていたが、この度は動物の話
題で私でも取り付きやすかったので助かった。
◆白き牝鹿
 高校時代に副担任だった花山院親忠先生が、春日大社の宮司になられて一冊の本を書か
 れた。市ヶ谷で行われた出版記念の会に出席して求めた本が「春日の神は鹿にのって」
 である。その本の中に今の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の神が鹿に乗って春日大社にや
 って来たという内容だったと思う。
 今回の作品を読み始めて、インターネットで調べてみたら『常陸国風土記』では、神代
 の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いな
 がら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源であると
 書いてあり、しかも現在では鹿島港を中心とした鉄鋼企業を主とした鹿島臨海工業地帯
 を形成していることは、古代のタタラ製鉄をよくした種族と関係がありそうだと思われ
 た。しかしこの作品を読み進むと、驪戎のトーテムが鹿だったことをまさにしっかりと
 書いてあったのには参った。
◆馬
 作品のなかに「元寇の時に、騎馬隊で成るモンゴル軍を運んだのは、操船に慣れた旧南
 宋の漢族と半島の朝鮮族が操る船だったんだ。」と書いてあるのを見たとき、どうして
 蒙古軍が日本を攻めきれなかったかが判ったような気がした。ちょうど朝鮮では高麗王
 国のなかに蒙古の支配に対する反対勢力が生じていた。その勢力が朝鮮の南部及び済州
 島にあって、元と高麗の軍の補給を邪魔をしていた。このことが獰猛な蒙古軍による日
 本攻撃を鈍らせたということである。勿論神風という天然現象の幸運もあったろうが、
 占領するに足るだけの騎馬を用意できなかったことが敗因になったのではないだろうか。
◆熊
 幼時期は足柄山で山姥に育てられ熊と相撲を取ったといい、長じては坂田金時と名乗り、
 源頼光の四天王の一人になったという、まさにその金太郎の生誕地、小さな滝で産湯を
 使い、自然石の上で遊び、熊と相撲をとったという山深い足柄の山の中に、記念館を建
 てるという競技設計に参加したことがある。足繁く現地を訪れる内にその記念館のサブ
 のコンセプトを頭に描いたのを思い出した。それは今では希になっているキビ、ヒエ、
 アワ、ソバを栽培し、古来からの食習慣やその味覚を伝承するというものであった。し
 かし残念ながら第一席になることはなく採用はされなかった。
 ちなみに参考としてWikkipediaの記述によると「日本ではアワ・ヒエ等の主要穀類以外
 の穀類は雑穀類として一括して分類されることが示すように,食品・作物として極めて
 低く位置づけられてきた.しかし,雑穀類の中でアワ・ヒエ・キビ等は日本で古くから
 主食として利用されてきた歴史があり,これら作物が利用されなくなったのは高々ここ
 数十年のことである。」とある。
◆混沌
 荘子のいう混沌については作者がいろいろと考察されているのに首肯するが、私として
 の理屈は簡単なもので目、鼻、耳、口の七孔、すなわち五感を与えられたとき、規律が
 生じもはや混沌ではなくなった、すなわち混沌が死んだと解釈した。ギリシア神話に登
 場する原初神カオスは原初神としては、むしろ空隙(空いた場所)が原義である。だか
 ら中国神話や荘子、道教の有の世界の混沌とギリシア神話の空爆という無の世界のカオ
 スとは少々違うような感じがしたが、長岡さん如何ですか?


「万理久利さんの「肥と筑」十一回の評を読んで」2010/1/23

たとえ書かれているものに対しての知識がなくても、これほど理路整然と批評出来る人は
なかなかいないのではと私は感心した。惚けている万理久利さんしか目に入らない人は、
彼女の真の姿を知らないで慌てて危険きわまりないおじゃま虫だというレッテルを張って
安心しているに過ぎない。もっと危険なものが彼女の冷徹なほどの目であることを無意識
に感じながら、異質なものという言葉で納得しているに過ぎない。この投稿で本当の万理
久利さんの真価が分かっただろう。それともそれもまだ判らない鈍感さを露呈する人もい
るにちがいない。
中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。 ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。そこには相
手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほど
はっきりと言い放つのである。日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に相手
の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の各人
の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんでも開
放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。


原点  2010/2/2

この作品は「養女に貰われて始めて歩いて来たあの道に、喜びも悲しみも無い虚ろな目を
して、しっかりと両手を下げ、爪が食い入る程拳を握りしめ、一人立っている自分を見た」
の言葉に全ての鍵が隠されていると思った。
京子がもし本当の両親のもとで育ったとすれば、天真爛漫に甘えそして自我思い切り表現
したかもしれない。しかし現実に養女として貰われた京子は、もはや五歳の子供でなく五
歳の大人となろうとしたのではないか。それが自分の置かれた環境の安定した場所の条件
と子供心に思った。しかしその子供の厳しい覚悟を耐えるために白昼夢という反対の世界
を創らざるを得なかったのではないか。
だが、京子は小さい頃に誓った、自我を殺すという誓いに無意識に反発を感じるようにな
った。「優しい」「人が良い」「思いやりがある」などと言った心地よい言葉も、自分の
本当の気持ちではない「嘘」や「おもねり」を含んでいるように見え、その欺瞞性で成り
立っている世間に気づいたのではないか。そのように私はこの作品を読んだ。
この作品を読む前に、亮子さんの生い立ちに関する田村さんの投稿があった。私は以前も
書いたが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。し
かし私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想など
は知らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは手
品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不思
議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内を
明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑賞
を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。


恋情の海 1  2010/2/4

古い規範がまだ頭の隅にしっかり隠れているのか判らないが、この手の話は元来私は苦手
であるから、出来れば見て見ぬふりしてそっと通り過ぎたいと思うのだが、いくつかの疑
問点が見つかったので書いてみた。
先ず人に対する恋情なるものが、例えばプラトニックな愛とか、単なる欲情だとかのいろ
いろな形態を列記してあるが、自分なりの一定の見解もなくただ思いつくまま書いてある
に過ぎないように思える。
主人公は娘にたいしてある時から恋情を抱くのだが、作者はそれが既成の事実とし済まし
ているようであるが、なぜどの部分にどのような人格にといった詳しい記述が私は描いて
欲しい、またそれがこの小説の重要なテーマとして一番面白い部分と思うのだが。それと
も主人公がいろいろの形の愛があることを認識するという意図の小説なのか。それとも主
人公が古い規範のなかで、自分の情念の不道徳さに悩み、異常な愛の少数派の苦悩や苦痛
に共感し理解出来るようになったことが主なテーマだろうか。とにかくいろいろのもりだ
くさんの恋情が描いてあって、主人公はその混沌の世界で溺れそうに見える。
とまあ、憎まれ口を沢山叩きましたが、このようなジャンルのものを書けない私の「曳か
れ者の小唄」「減らず口」「田作の歯ぎしり」と思ってください。あしからず・・・。


恋情の海 2  2010/2/5

これが小説としてみたとき、研究書や報告書やエッセイならともかく、近親相姦や同性愛
や片思いやプラトニック・ラブや変態などの様々な愛のあり方において一般論を語られて
もあまりおもしろいとは思いませんでした。
私は小説においては人物がいかに表現されているかが見所だと思いますから、登場人物の
内面の歴史や育った環境やそれによって作り上げられた感覚や考え方を知りたいと思いま
した。ましてや読者とちょっと違う、異常な環境の場合はなおさらであります。それは読
者が必ずしも同意するということではなくても、そういうこともあるだろうと納得するよ
うに詳細に描写してもらいたいということを言いたかったのです。だから主人公が自分の
娘のどこに惹かれ、どうして彼女でなくてはいけなかったか、どうして妻や他の人ではい
けなかったかを延々と追求してもらいたいと思ったのです。
そういうわけで、私のこの小説のテーマはその辺ではないかと私は思ったものだが、人様
々であることを考えれば全くの独善に過ぎなかったようですね。


恋情の海 3  2010/2/7

私の解釈と違い、作者は悩める初老の男の周章狼狽のみをテーマにしたかったことは解説
で判った。それもまた作者の自由であるから、これ以上そのことにたいして言うことはな
い。しかし「人を愛するという事はどういう事なんだろう。相手に惹かれると心を通い合
わせたいだけでなく、体も結ばれたいと思う。それが自然な成り行きなら、抱き合わない
と愛は成就しないんだろう」といっているが、子供に対する愛や動物に対する愛、人類に
対する愛などのいろいろの形の愛がある中で、男女の愛だけに絞られていて、愛欲と結び
つけられている。だから最初「愛」という書き出しからして、私はそんなに愛を十把一絡
げに語っていいものかという疑問をもった。
だから娘に対する愛が突然愛欲に変化したのか、それとも子供に対する愛情と愛欲が同時
に混在しているのか、その辺の分析もなく描かれているところは、いかにも安易過ぎない
のではないか。ただ悩んでいる姿だけを記述して済ましていて良いのか。私はそのへんの
問題に対してもう少し深く主人公の内省として分析を試み記述して欲しかった。
それゆえ「まさに今回のタイトルである「カオス」(混沌)状態の男の観念の世界を描い
ただけ」であって、主人公は「自分の気持ちを書き出し、分析し、記録したいと」告白し
ているその書き出しの宣言を、十分満たしたものではないと私は考える。



BUTTERFLY  EFFECT  2010/2/13

私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では結果;
効果; 影響 感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後まで読
んでも表題とは結びつかなかった。
そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開された
アメリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小さ
な波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないような
大きな波になるということを言うらしい。

しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。
私はここに描かれた池の情景を表現するようなイメージの絵を求めていろいろ探し回った。
Rさんはアンリ・ルソーの絵のようだと言われるが、たしかに「夢」や「熱帯風景、オレ
ンジの森の猿たち」などの森の絵はいろいろの動物や植物が生息するに違いないと思わせ
る不思議な絵である。
片や私は、作者や絵の題名も失念したが、植物や昆虫達を鮮やかな色と繊細なタッチで描
写した、日本画の「草木花虫の細密画」のようだと思った。それはまるで池の周りの多様
多種な生物の営みを一瞬時を止めてたような絵、それとも目には見えない動き・ストップ
モーションのような不思議な静かさに見えた。しかしその絵はついに見つけることは出来
なかった。私が抱いたイメージだから、はたして私が言うようにこの作品に即したものか
どうかは実は確信できないでいる。

都会に住んでいた私がある時一時田舎で暮らしたことがある。人間で溢れた都会で生きて
いる動物、植物の数も種類もなんと貧弱なことか。それに反し田舎の自然では様々な植物、
動物、昆虫の生命が、数そして活力において人間を遥かに凌いでいるのを目の当たりに見
てきた。そこでは蟻や蜂、ぶよ、はえ、むかで、ゴキブリ、蜘蛛、蛇などが主役で、いかに
人間どもは主人面をしていても脇役なのだ。都会の人間はそのことを忘れて生きている。
この作品の語り手は不思議な視点でこの池の様子を見ていると思った。人間側でもなく昆
虫や小動物の側でもない。もっと中立的な、敢えて言えば善悪を超越した人・神の目で事
象を見ているように私には思えた。このことは作者の作品に共通して言えることで、私の
ように自分の世俗的な出来事を並べ立てて、自分で答えを出すというあまりにも人間的な
卑近な作風とは違い、もっと深い真理につながる何かを表現することが出来る、誠に羨ま
しい才能を持ち合わせていると感じた。だから表現された作品が透明感や清涼感それとこ
の世界の全ての事象の奥に潜む不思議さを読者に与えるのではないだろうか。

さて私の評の終りとして最初に抱いた疑問であるBUTTERFLY  EFFECT」の「蝶」が何であ
ったかを究明しなければならない。
銀やんまや蛙や昆虫・蝉・蛇等の目には見えないものが、その池の周りに微かな変化を起
こしていった。そのあるものの正体はなんであったか。
あるとき私は、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質「暗黒物質」(dark matter)につ
いて書いてある記事をみた。宇宙の九割はこの「暗黒物質」で満たされているという。あ
る解説書には「宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないが、光を反射しないために
光学的には観測できないとされる仮説的物質のこと」とある。その物質の候補としてニュ
ートリノ、 ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマターなどがあるというが、 ニュー
トリノ以外はまだ存在を確認されていない。
宇宙の質量の総量が計算上成り立つには目に見えないこれらの「暗黒物質」が理論上存在
しなければなりたたないという訳だ。実際それらは強力な重力を持ち、「重力レンズ効果」
という現象で星間に影響を与えているという。

この世の中は目に見えるもの以上に、目に見えないものの方が多い。ある場所での蝶の羽
ばたきが、そこから離れた場所の未来の天候に影響を及ぼすということが、複雑なカオス
の中で何かに触発されてそれは起こり、そしてそれは予測不可能なのだ。そしてこの世を
実は支配していると思われる「蝶」とは無秩序の世界・カオスを含む森羅万象に君臨する
宇宙の法則がその正体だ。
あなたの頬に微かな風を感じたら目に見えない「蝶」が側に潜んでいるのかも知れない。
そしてたとえ自分の意思だと思っていても、実は遥かに遠く隔てた135億光年の星の瞬き
が、あなたの志向に影響を与えているかも知れない。

私は作者の作品の意図の回答を言い当てることを諦め、自分に納得する解答をのみ求めた。
だから全くこの作品の合評問題の答案としては不合格であろう。しかし作者の文学が与え
てくれる「この世界の営みは人知を越えた不思議さで満たされている」という、善悪を超
越したものの見方を教わったように思える。



『言葉集め星創り五拾番』密と罪の花   2010/2/23
http://2style.in/alpha/21-13.html

神野 佐嘉江氏の混沌の世界で遊ぶ者は、ネジが一本外れたか又は配置を換えした、おめで
たい脳みその持ち主、万理久利さんと私の二人だけなのか。作者の文のなかで目についた言
葉をはじめからトレースしたら、ほとんど万理さんと同じで、重複するからここでは書かな
い。先日言葉とはなにか 丸山圭三郎著を読んでいて次のようなものが目にとまった。机の
冬は、病み上がりの色できしみつづけ:失語症患者の文妙なる屍は、新たなる酒を飲むで
あろう:シュルレアリストの実験詩神野氏の提唱するオキシモーランの会員の一人として、私も不
可解な言葉の文章を作って見たくなった。そこで作ったのが次の十の文章である。意味は各
読者の連想に委ねるという無責任極まりないもので、混沌のプールの中で自由に泳いで、溺
れてくだされ。
汚れた空気 大好評自民党終演 一発合格適正検査 シネマの町 万能細胞主君の理不尽 悪玉論鮮やか
振り込め詐欺 独自の理念を求め  正直者将来夢膨らむ カラダに良品 悪銭が蔓延り要求  無料見積
蕪村門下の 仲南海ここは退屈な星 出馬へ大関名寄岩 小細工なしの真っ向勝負 サントリー名門が いいと思います 機械工業社会に 生徒が発表無謬論 発信しては投資した 武芸一筋破壊的 DL引き出し学芸賞 学力をはぐぐむ ゼロから始め 爆破予告電話入 自分のお墓を整えた 鍵握る男世界的 金融不安を迎え  解放する受賞



128資料管理請負人:2014/05/02(金) 08:42:40
α19号奮闘記
.
              α19号奮闘記




      どうやらこのあたりから目の具合が一層悪くなってきたらしい。
      印刷前の最終編集を迎えてさぞや目の具合が鬱陶しかっただろう。
      こんな時の仲間のフォローはありがたいものだ。(編集部)





「α第19号の表題決定」 2009/2/20

今日、筒井さんよりα第19号の表題が送られてきました。
「空」だそうです。たまたま今、仏教思想の「認識と超越」の本を購入しましたが、仏教
の教えになんだかタイミングが妙に一致したようなのが不思議に感じました。筒井さんが
この言葉を選ばれた経緯はブログに書いてありますので、どうぞ開いてみてください。





「北君から」より  2009/5/1

北君へ
 α第19号の原稿確かに受け取りました。ありがとう。
今日病院に行ってかすみ目をなんとかしてよといったら、やはり網膜症が進まないかもう
一度様子をみて、手術を考えましょうと医者は言いました。その結論は 6月末になると
思います。今日診察にいって視力検査の表を見たら結構見えるが不思議でした。左が0.7
右が0.3らしいのですから、世の中にはもっともっとめの不自由な人も沢山いるようで、
医者の対応をみていると私はまだ良い方なのかなと思いました。もう少し我慢してみるつ
もりです。
それから明日5月2日から山荘にこもり、帰ってくるのは7日になります。暇ができたら
電話してみてください。





大波止の連絡船についての調査依頼 2009/5/8

同人α第19号の為の資料を長崎市立図書館レファレンス係の矢口さんに電話して、下記
の件の資料調査を願う。
   長崎市立図書館 :095-829-4946

◆大波止から旭町の間にあった連絡船(渡し船)
  船の大きさ、乗客定員、航行距離、運行時間
  乗車賃、人、自転車、いつから始まっていつ廃止されたか





「小柳さんからのメール」 2009/5/13

 古賀さんも、目が疲れて居られるのでしょうね。
製本が月末になるのは、未提出の皆さんには好都合かも知れませんね。
 ところで私の方は、自分の原稿が終わった今、わりと暇な状態です。それで、行やペー
ジの整形に手間取っておられるようだったらご遠慮なくお申し付け下さい。字数や、行数
を決定してもらえれば、粗粗の整形は分担できますので。
 何せ、古賀さんが倒れられたら、アルファの作品集は、印刷でもブログでも立ち往生し
てしまいますから。なにとぞ、御身大事を専一にして下さい。


小柳さんへ
 お気遣い有り難うございます。小さい活字が老眼鏡をかけても全く見えません。度の強
いルーペを左手から離せなくなり、困ったものです。この前の診察で、次の眼底検査の結
果を見て、手術するかどうかを判断しましょうと 言ってくれました。
 編集にあたっての貴君の申し出ありがとうございます。なるべく作業を分担する方法を
見つけ出したいと思いますが、ワープロや写真処理やホームページ作成等のソフトがまち
まちで、なかなか美味く行かないのが現状です。
 今回は、O氏も私もいろいろの催しが重なっているため、20日前後の出版が出来ない
と判断しました。思い切って月末まで延ばしましたので、なんとかできそうです。20号
からは、目を新品に取り替えるという訳にはいきませんが、せめて9号の大きさの文字が
読める位まで再生出来たらと期待しています。
結論として今回の19号はなんとか努力してみたいと思います。





α第19号の編集・校正 2009/5/26

 先日小柳氏よりゲラ刷りの校正表を受けとった。今日K氏より校正ゲラ刷りを受け取っ
た。O氏のゲラ刷りは明日シネマ・デ・ジョイで受け取る予定。
それから総合的に全文の訂正をし、せめて29日(金曜)までは70部刷り上がってなければ
ならない。
 今回は目の悪い人のために(かく言う本人が一番悪い。倍率の高いルーペがないと何も
見えない、それと以前から三浦さんの希望もあったし)、字を大きくした。
 ◆ 字の大きさ:9号から11号へ
 ◆ 一行の文字数:40字から30字へ
 ◆ 行数は変わらず40行
 ◆ 普通の濃さの明朝をbold type(強調文字)にした。
1.そのため色々の問題が生じた。まずはEさんの英文で、一行の端部の英単語が別れてし
 まうこと。
2.小柳さんのサブタイトルの強調文字が他の文と同じになり、めだたな いこと。サブタ
 イトルの文字を大きくするか、またはゴシック体に 変更するか、あらためて小柳さん

 と協議する必要がある。






「Tさんと会食」 2009/5/28

 Tさんがα19号製本のために大阪から上京。午後7時に銀座三越前で会った。K君は
用事で欠席、O氏と私の三人で「スペイン料理びいどろ銀座店」へ行く。一日中雨が降っ
ている。時間があったので教文館で白水社の「エクスリブリス・シリーズ」の新しい本を
探す。目が悪いのでこれ以上読みかけの本を増やしたくなかったので購入するのを止めた。
外にでたら、いかにも田舎から出てきた芋兄ちゃんが、H&Mの店((Hennes & Mauritz
が展開するファッションブランド)の場所を聞いてきた。あの年頃はやはりその手の情報
に敏感だなと思った。数ヶ月前マスコミで話題にしていたので、どんな店か様子を見に行
ったことがある。開店当初は数百メートルも並んでいたが、センスも値段も品数もあまり
感心することもなかった。
 料理はパエリア、シャンピニオンの油いため、イカの墨煮、チキンのソテー、チーズと
オリーブの前菜、店で焼いたバケット、赤のハウスワインをグラス一杯ずつ、筒井さんは
全くの下戸であった。兎に角量も味も値段も三人とも十分満足した。一人3,100円也。





α第19号発行にあたって 2009/6/1

 予定より10日遅れの「同人α」第19号「空」を皆さんの協力で無事発行出来てよかっ
たと、ほっとしています。創刊号の頃からすると、作業にも慣れて、今回は不良品が一冊
も出ませんでした。・・・実は皆さんが来る前に一等最初に作った試作品は信じられない
ような間違いの代物でした。表紙と本文が逆さに、左綴じを右綴じに、いくら目が悪いと
言い訳してもイエローカードもので、こっそり処分したしだいです。

◆Eさん
 私のThe Color of the Morning Gloriesの誤訳「朝の荘厳な光の色」を「ものごとをも
 っと深く考える契機になりました」と言って頂いてありがとう。私は神野佐嘉江氏の書
 いた、何の文脈もまだ無い言葉だけの羅列を見て、今まで作り上げ た概念から抜け出
 して、改めてその言葉の響きや成り立ちを考えるとき、新しい自分なりの感覚を発見を
 します。だから通り一遍の概念に慣れすぎる自分を戒め、いつもへそ曲がりな思考をよ
 しとしています。九州・佐賀の私の郷里ではこのような人を「異風者 (いひゅうもん)」
 と呼んで変わり者・頑固者・協調性にない者といって煙たがります。
 打ち上げ会では、貴女の格調ある作品の元になる、人間や自然の観察の方法論について、
 私なりにいくらかの質問を用意していました。しかし北極と南極のように遠く離れた席
 でしたのでそれも叶わず、今度また会う機会にその話は楽しみとして取って置きましょ
 う。
◆Tさん
 わざわざ浪速から来ていただきありがとう。「変な人の集まりはいいなと思いました。
 平凡な私にはとても刺激的です」とおっしゃっていますが、変な人は大抵自分は平凡だ
 といいますから、Tさんもすでに仲間だと思いますよ。食い倒れ文化に鍛えられたTさ
 んと前の晩に食べたスペイン料理が気に入ってもらってよかった。東京も安くて 美味
 い店は探せば沢山ありますから、そちらの楽しみも上京の理由の一つに加えてくだ さ
 い。
◆Sさん
 次の20号の担当を引き受けていただいてありがとう。貴女の踊りや歌舞伎や芸術に関
 する知識は私の知らない世界のものですから、聞いていた楽しいものです。極度に抽象
 化・形式化された歌舞伎や日本画には私なりの異論がありますが、そのうち侃々諤々論
 じましょう。ともかく今度の表紙や題を大いに期待します。
◆Hさん
 久しぶりに「さすらいのビン・ボーニン」の面目躍如たる一刀両断の 論を拝聴しまし
 た。それにしてもSさんとの対決は、まるでお互いに別々の土俵から勝負をしているよ
 うでした。そのかみ合わない論争のずれ具合がなんとも妙で、未来永劫かみ合うこと
 のない、エントロピーが最大のブラウン運動の世界をみるようでした。
◆長岡さん
 この前新聞で奈良のさる古墳が「卑弥呼」のものではないかと考えられるとありました。
 そうなると長岡さんの「邪馬台国九州説」はいささか不利の感がありますがどうしまし
 ょう。それから空海が薦めた寺院の尖塔趣向は性的なものと宇宙的なものの 思想であ
 るとありました。古い塔は下方に丸い饅頭のような台座を付けたと書いてありました。
 これれはすなわちヒンドゥー教のリンガムヨニの形でしょう。・・・とまあ色々と聞き
 囓りの疑問をぶつけて、努力しないでちゃっかり長岡さんの詳しい知識を失敬する心算、
 それと、私の視力がこのままで戻らないとすると編集が難しいので、次回の20号を誰
 か技術的に詳しく、正確に、やる気のある人に依頼したいと思っています。いずれこの
 件につき皆で検討して決めたいと思いますが、私見としては、長岡さんの右に出る人は
 いないなと思っていますが、如何ですか?
◆Oさん・Kさん
 この前のKさんの文の構成でOさんとのあいだで論争になりました。私はまだその 文
 を読んでいなかったので、隣で半分面白がって傍聴していました。これはまるでHさん
 とSさんのバトルと同じではありませんか。二人は時々そのような論争をしますが、感
 覚の問題 性差の問題、知識の問題、趣味の問題か、いずれにしても私は高みの見物に
 徹した方がよろしいようで。
 今日「同人α」第19号-「春号」をクロネコヤマトのメール便で送りますのでよろしく
 お納めください。また作品集への掲載は合評の始まる前、今週末までは作業を終わりた
 いと思っています。本誌の届かない海外のかたは、作品集を開いて読んでください。





同人α第19号(春号)発行のお知らせ 2009/6/1

 5月30日に「同人α」第19号(春号)を、諸般の都合で10日ほど予定日かから遅れま
したが、無事出版することが出来ました。
   小説・・・・・7偏 (1編は英語の作品)
   エッセイ・・・1偏
   詩・・・・・・2編
   紀行文・・・・1編
   オキシモーラン的作品・・・1編  の12編です。
 会員には今週半ばにはお手元に届く予定です。また作品集も今週末までには掲載するよ
うに努力しますので、海外の方及びこの本をお持ちでない方は、作品集を紐解いて来週か
ら始まる合評にどんどんご参加してください。お待ちしています。
なお、同人誌を欲しい方は下記までご連絡下さい。
一冊200+送料80円(3冊までは同じ送料です)





同人αの増版 2009/6/2

同人α第19号を20部作成
牟田さんに10部
HUさんに6部  メール便で送る。





作品集収録のおしらせ 2009/6/3

◆同人α第19号の作品を作品集に収録しましたので、まだ冊子の届かない海外の同人の
 方、このホームページをご愛顧していただいている読者の方、どうぞ作品集を紐解いて
 お読みください。そして自由に合評にご参加ください。
◆Eさん
 「人間や自然の観察の方法論について」などと小難しいことを書きましたが、Eさんの
作品に出てくる情景や真理描写が見事であったので、日頃の観察のたまものだと思いまし
た。そこで私の質問は「人の表情や花や山や気候などの事象の変化をノート等に記録して
いるのですか?」というものでした。
◆長岡さん
 邪馬台国の場所については、決定的な証拠もなくまだまだ推理する楽しみが残ってい
 ますね。あと五十年くらいは謎のままであって欲しいような気がします。
 リンガムヨニは座禅を組む手や忍者が印を結ぶ形もそうだと読んだことがあります。
 知らないで行っていることが、数千年昔の遠い国の思想の影響を受けているものですね。
 それから、編集については私が全てを投げ出すという事ではなく、印刷や製本は勿論
 今まで通り私の所でやりましょう。ただ少し役割を分担して貰えばと拗ねてみただけで
 あります。





視力について 2009/6/8

 昨年の秋頃から急に白内障が進んだ。それまでは左目が0.7右目が0.4だから、その視
力の違いの違和感で、私はよく物が見えないのだと思っていた。しかし病院で視力検査を
してみたが、半年前のと今と比較してもその視力の数値はあまり変わらない。しかし現実
には見えにくくなったことは確かだ。
 まず、霧が掛かったような、スリ硝子を通したような、薄い和紙を目にかぶせたような
見え方である。また明るい横断歩道の白線や白い建物や明るいテレビ画面を見ると、写真
で強い光の当たった部分の周りが白くぼやけるのと同じ、ハレーション現象を起こして見
えなくなるのである。2,3メートル先の人の顔さえ見分けが付かない。
 目のどの機能が悪いかは私にはよく分からないが、どうも明暗が曖昧になっているため
らしい。前に目の機能を調べたときに、物を立体的に認識するためには「形は明暗のしま
模様で認識する」とあったから、きっと明暗の識別が出来ないくらいハレーションをおこ
して、平面の像しか造れないのだと思った。
 三次元の世界を私は二次元の像しか作れない世界にはまりこんでしまった。だから、外
界からの情報の80%は目から得られるというのだから、本も読めなくなった私は、平面
の上をただ本能のまま這い蹲ってうろうろしている、アメーバのような単細胞生物になっ
てしまったような気分だ。



129α編集部:2014/05/02(金) 22:31:46
α20号奮闘記
.
              α20号奮闘記



   「結論として今回の19号はなんとか努力してみたいと思います」と、
   割り付け後の目を酷使する細かな調整作業を買って出た同人仲間に言ったものの、
   その3月後の20号出版ではますます目の調子が悪くなり大分てこずったようだ。
   20号寄せ書は、同窓誌「斜光」や文芸誌「α」の名称のいきさつ等が書かれて
   いて、なかなか興味深い。記念すべき20号、一号から出版に力を入れてきた人
   らしい熱の入れ具合が伝わってくる。この頃から編集/印刷といった作業がこれ
   までのようにできないことを実感し、今後の出版体制作りに取りかかり始めたこ
   とが行間に読み取れる。(編集部)





「Iさんからのメール」より 2009/8/1

古賀 様
今日は仕事中で思うに任せず、失礼しました。寄せ書きの件、趣旨がはっきりして助かり
ました。なんとか書けるよう努力してみます。なにしろ雑事が多すぎて・・・、親類縁者
が多いこと、それぞれにトシをとったことも大いに関係します(^−^)
 ところでお願いがあります。同期生のあいうえお順の名簿を送信して頂けますか。
45周年の時から住所などだいぶ変わっていると思います。クラス別のは45周年時の緑
の冊子に変更を書いていますが、50音順の方が探しやすいので、ほしいのです。

Iさんへ
 同好会や同窓会でお会いする機会もなく、随分ご無沙汰して居ります。
まだ現役でご活躍の様子、元気そうで何よりです。当方は医者知らずだけが取り柄だった
のですが、最近はすっかり医者に目を付けられ、なかなか解放してくれません。考えてみ
れば「村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん」の歳を遙かに超えていますので、さも
ありなんという所でしょう。
 「同人α20号出版記念の寄せ書きの件、なんとか書けるよう努力してみます」という
貴女の返事を頂き喜んでいます。
内容は何でも結構です。私はいつも決められた表題と擦れたことを書くことを好み、また
一向に気にしません。
 私が今書こうと思っている途中の文章を例にとると「私が文を書く理由はいくつかある。
一つはもの覚えが悪いと自覚しているから、時々の思い出を忘れないため。もう一つは自
分の考えを書き留め発表することは動物のマーキングと同じく人の反論や同意や評価を得
て、己の存在を確認するためである。会話だと音楽と同じようにその時限りで過ぎ去って
いき、どんなに素晴らしくとも再現は不可能である。自分の存在を人の脳の片隅にちゃっ
かり刷り込ませるには、会話の上ではよほどのインパクトを与えなければならないだろう。
それにはいささか私の力に自信がない。しかし文章であれば常に目の前に自分の主張を再
現出来る有利さがある。私があの世に行ってしまった後でも、あんな妙な友人、親爺、祖
父、親族がいたのだなあと少しは想い出してくれればいいのではないかと思っているので
ある。言ってみれば存在の悪足掻きの記録みたいなものだ」
 名簿の件早速お送りします。ただし完全な物ではありません。 その訳は2008年までは
データの修正は完了していますが、いまだ今年の同窓会のデータは幹事より修正依頼があ
りません。私の名簿の必要性がないと考えるのもまた幹事の意志でしょうから、もともと
私的に名簿の管理を行っているのですから、私からお節介に申し出ることはしないつもり
であります。そういうわけで完璧でないことをご承知のうえ受け取ってください。





「同人α20号出版記念によせて」 20号寄せ書きより  2009/8/8

同人α20号出版記念によせて−100号に向けて出発
 同人αを出した時にはそんな長くは続かないだろうと考えた人も多いことだろう。とも
かくここまでよく続けられたものだいう感慨を覚える。
 年四回の出版はかなりハードである。先ず出来不出来はともかく自分の原稿を書かなけ
ればならない。それから編集・校正・印刷と続き、作品集をホームページに掲載しなけれ
ばならない。普通はそこでホッと一服させてくれるのだが、そうは問屋が卸さない。まも
なく「合評」が始まり、各作品を数回読んで批評をしなければならない。それが次号の編
集作業の近くまで続くのである。まったく休む暇はない。「合評」という制度を誰が作っ
たかと恨みたくもなるのだが、その反面麻薬みたいなものでこれがないと物足りないとい
う禁断症状を起こすまでに至った。だからその俎上に載せる作品を書かないことは「おい
てけぼり」にされそうな気がして、ついつい毎回投稿する羽目になってしまう。
 私が文を書く理由はいくつかある。一つはもの覚えが悪いと自覚しているから、時々の
思い出を忘れないため。より価値あることを思考するために、安心して雑事を消し去り頭
の中を空にできるメリットがあること。もう一つは自分の考えを書き留め発表することは
動物のマーキングと同じく人の同意や評価を得て、己の存在を確認するためでもある。
会話だと音楽と同じようにその時限りで過ぎ去っていき、どんなに素晴らしくとも再現は
不可能である。 自分の存在を人の脳の片隅にちゃかっかり刷り込ませるには、よほどの
インパクトをあたえなければならない。 話上手ではないからその自信は全くない。書く
行為は私にしてみれば存在を確認するための悪あがきみたいなものだ。
 それからもう一つ、ものを書く趣味はなんといっても金がかからない。真に鑑賞するこ
とを忘れて、いやその眼力もないのに、オモチャやマンガ、高価な絵画、骨董品などの偽
物蒐集や、キャバクラ通いなどの道楽よりもはるかに、身の回りにスペースも、また金銭
的な迷惑を掛けて親族の不興を買うこともない。
資料を購入しても精々本代くらいなものだ。また五分も歩けば図書館があり、無料で借り
る事ができるし、自分で目的の資料を見つけられなければ司書に調査を依頼すればよい。
一週間か二週間もすれば区立の図書館や国会図書館から資料を提供してくれる。
 昭和20年の終戦一週間ほど前にB29の爆撃で障害を負った友人がいた。彼の追悼文
を書くために空襲の日付や被害状況を郷里の図書館で調べてもらったことがある。また辻
邦生の小説「夏の砦」のなかに出てくる「スエーデン王のグスタフ侯のタピスリ」が現存
するのかどうかという疑問を抱いた。「実はあれは本当に空想でありまして、私の知識を
寄せ集めてつくったもので」と辻邦生自信が「辻邦生作品全6巻−6」月報?の「異国の
街で」の開高健との対談で暴露している。ということを真砂図書館で調べてもらったこと
もある。

   君よ知るや南の国
   レモンの花咲き
   緑濃き葉陰には、こがねのオレンジたわわに実り
   青き空より、やわらかき南の風
   ミュルテは静かに、ロルベ−ルは高くそびえる。
   君よ知るや、かの南の国。
   かなたへ、君とともにゆかまし。愛しきひとよ。

 ゲーテの「ミニヨンの歌」が森 鴎外・堀内敬三・会津八一・大久保健治などではなく
本田 清訳であることも知った。
また今回の「連絡船」についての資料を長崎の図書館に提供してもらったが、それらの資
料は数回の電話のやりとりと数百円のコピー代で済ますことが出来た。
 私の両親は名も無き衆生ではあったが、父は回想録を母は四〇冊の日記を残して逝った。
その遺伝子を多少は引き継いでいるのか、書くことを厭わない。それに慣れてくるとそれ
が最上かどうかはわからないが、その方法が見つかった。ひとつのテーマさえ浮かべば、
後は時間の問題だ。
 まず「20090730読書について」などという題を付けて、2009年のフォルダにしまい込む。
書きたいことを項目として列記しておくだけで、この時点で一気に書き終わろうとしては
いけない。いたずらに気が焦るだけである。資料等など時間を掛けてこまめに集め、書き
たい気になったら少しづつ書き加えて行けば、それなりに何とか体裁も整ってくるわけだ。
そのような表題だけのファイルや書き掛けのものがいくつも仕舞ってあり、いつの日か出
番が来るのを待っている状態である。

 「同人α」という名称については、なにか曰くがありそうに思えるが、本当のところ実
に頓馬な話しでかない。15年前に作った同人誌「斜光」では全国の同人誌200冊の名前を
調べ上げて、ああでもない、こうでもないと「ゴロ合わせ」や「同人誌の主旨」などを象徴
しようと苦労して決めたものだ。しかし「同人 α」はいよいよ立ち上げようとした電話の
中で、
「名称なんてどうでもよかやんねー」とOさん。
「だめだよ、長年連れ添った夫婦のあいだなら、「あれ」「それ」で判るだろうが、会員
を募集するならとにかく「α」とか「β」とか、なんでもいいから付けなくちゃ」と私。
「じゃあ、名称は「α」に決めましょう」とOさん。そう言うわけで思い入れも情緒もへ
ったくれもない有様で、名よりも実という誠にドライなものだった。
 さてこれから100号を目指して進むわけだが、一年に4冊、20年で100号に達するこ
とになる。我々も九十歳前後になるが、全く不可能ではないであろう。 数字を気にして
「しゃかりき」になる必要はないが、それはともかく色々の個性豊かな人達と交わること
が最大の喜び。これからもまだまだ続くだろう。





小柳さんからの業務連絡 2009/8/15

 16日は、Oさんが京都行きと言うことを言の輪で読み、これを書いています。
今までの予定では、 19日までにゲラ刷りを作っておくべきでしょうが確かその日は、
古賀さんの手術の日に当たり、たとえ前日に原稿を送付しても古賀事務所で印刷するのは
無理だと思われます。
 そこで提案ですが、ゲラ刷りはとりあえずA4版とするのはいかがでしょうか。これな
ら、我が家のレーザプリンタで文章を両面印刷で打ち出し、校正現場に私が持参すること
が出来ます。(残念ながらB5版の両面印刷はできません。) 両面印刷の速度は、業務用
には及びませんが、1分間に22枚とかなり早いので88ページ程度までなら4分で印刷
できます。
 また、ゲラ刷りは、とりあえず手持ちのWクリップで綴じることが出来ます。
もし、そうすることになった場合、ゲラは何部用意しておけば良いでしょうか。必要部数
を、お知らせ下さい。
ところで、今までに用意できていないものは、次の4項目です。
αの表紙絵(Sさん担当)
 これは、ゲラ校正時には、必要有りませんが 表紙絵だけは、先に印刷をお願い出来ま
すか。古賀さん、Oさん、私の原稿  私自身書くのが遅れて、申し訳ないです。
以上の件について、できれば15日中にご返事頂ければ幸いです。
なお小柳の休暇は、24日の月曜日までの一気通貫で取っています。





ホチキスについて 2009/8/20

同人α第20号は150ページ近くになるので、事前にホチキスの調査をした。
銀座伊東屋 3階 TEL 03-3561-8311 開店10:30
MAX HD-12N13  75枚 7,685円
MAX HD-3000FR 110枚 7,140円
MAX HD-3000M  100枚 4,000円





目の治療 2009/8/24

 8月19日糖尿病による網膜症の治療をしてもらった。いつもの眼科の重枝先生ではなく、
専門外来という部門で治療するらしい。どうも重枝先生はこの病院の専属であるが、専門
外来の先生は外の病院からの出向のように思えた。 なぜかというと、治療の説明書には
毎回同じ担当の先生ではないと断ってあるからだ。
名前は失念したが、女性の先生が治療について一通りの説明があり、何か質問があります
かと問われた。
1.私の目はどの程度のシリアスさか?
 先生の説明によると、良性と悪性の二つのタイプがあり、良性は進行しないが、悪性は
 放っておくとどんどん悪くなるという。私のは悪性の初期であるから、血液の循環が悪
 くなった部部の浮腫をレーザーで潰さなければならないとのことであった。もう少し網
 膜症と白内障が進行していたら治療の方法も無くなるということで、危うく間に合った
 かと胸をなで下ろした次第である。
2.小さい活字が見えないのは網膜症のせいか、それとも白内障のせいか
 網膜症を治療しても視力には関係なく、白内障を治さなければよく見えないとの説明が
 あった、10月後半の白内障の手術まで後2ヶ月はこのまま我慢しなければならないのか
 と思うと憂鬱になってくる。
 レーザー治療は先ず左目にコンタクトレンズをはめて瞳を広げ固定する。コンタクトレ
 ンズと言っても普通の薄いレンズを眼球に直接はり付けるのではない。丁度時計屋さん
 が時計を修理するときに片目にはめる接眼レンズみたいな物である。
 瞳をまばたくことなく開いていると、サイコロの目のようなオレンジ色の四角が縦横に
 三列づつ並んだものがあちこち移動して、太陽を直接見るときのような強くて白い光が
 発射される。異様な熱と圧力とチクチクした痛みが感じられる。我慢できない程の痛み
 ではないが、何かが壊れそうな不安な衝撃である。それでも15分ほどで終わった。
 視力はやはり変わらない。網膜症という目の障害がどのような機能低下を及ぼしている
 のか自覚症状がないので判らない。だからこの治療でどこが改善されたかが私には判ら
 ない。とにかく視力が戻るといわれる10月の白内障の手術を期待しよう。





小柳さんより 2009/8/25

 遅くなりましたが、標記ファイルを送ります。Tさん以降は、Kさんの校正された分が
行方不明になってしまったので後で見つけて、もう一度やり直します。田之頭さんの本文
も入れるのを忘れ、抜けています。取り敢えず、ここ々までを印刷してOさんに見てもら
えますか。長岡分は、1行30字に整形するため、かなり手直ししました。





Nさんさんへ 2009/8/26

 私めの目にたいしてのお気遣い、ありがとうございます。小生頭脳や運動能力はともか
く、体だけは丈夫だとばかり過信していましたが、いまでは蛇ににらまれたカエルのごと
くすっかり医者に見込まれて、深情けを掛けられています。
 今回の網膜症のレーザー治療で視力が回復した訳ではありませんので、10月の白内障
の手術までは大きな天眼鏡が依然として必要です。だからいまのところ見え過ぎて世の中
の真実に目の前が真っ暗になることはありません。
 それにしても今回の20号は盛りだくさんで、「知の巨人」である長岡さんには編集を担
当してもらい、随分お世話になりました。だから目が治っても、まだ見えないといって次
号以降もお願いしょうかと内心悪巧みの最中です。
 兎に角仕事を分散して、皆さんにもその楽しさを分けてあげたい・・・などと安直な慈
善家や道徳家みたいな言で煙に巻こうという算段です。





同人α第20号(夏号)出版のおしらせ 2009/8/31

 8月30日同人α第20号(夏号)および記念寄せ書きを出版しました。
外国を除いて国内の会員および購読者の方々には、火曜日(9月1日)頃までには届くと思
いますのでお待ち下さい。
 今回は同人21名中20名、小説−8、エッセイ−7、詩−3、俳句−1、和歌−1の投稿が
あり、しかも愛読者からの20号記念としての寄せ書きを頂き、150ページにちかい分厚
いものとなりました。なにごとも時を経る毎に薄く寂しくなるよりも、沢山の原稿で賑わ
う方がよいようで、まさに多々益々弁ずであります。
 また、一週間に二作品を合評することで、次の号までの日程でこなせるという奇策を考
え出しました。いろいろな難問も皆で鳩首すれば名案が浮かび、時間のない中創作に苦労
したり、編集や校正や印刷でてんてこ舞いしてもなかなか楽しいものです。皆さんも参加
しませんか。そして
 この内容、この厚さで一冊200円、どうぞ秋の夜を楽しんでください。





同人α第20号を作品集に掲載 2009/9/12

 碇さんから要望がありながら、大変遅くなって申し訳ありませんでした。今日やっと同
人α第20号を作品集に掲載しましたのでごらんください。まだ冊子が届いていない方、
そしてこのホームページの訪問者で興味のある方は、この作品集を読んで合評に参加して
みませんか。
 何せ得意のやっつけ仕事ですので、バグが沢山隠れていると思われます。どうぞ間違い
探しのゲームと思って「虫」探しを楽しんでください。そして見つかりましたら当方まで
お知らせください。お願いします。



130α編集部:2014/05/04(日) 08:28:07
すきま風 1
.
すきま風 1  2007-2009





間尺の合わない理不尽さ

 この世の中はじつに不都合なことが多い。例えば法律、加害者のためではないかと思わ
れるような人権に関するもの。例えば証拠不十分なため詐欺罪が成り立たないとか、昨今
の法の盲点をつく某大臣などなど。また、子供に知らない人は皆暴漢かも知れない教えな
ければならない社会は悲しいことだ。

 役所の窓口は実に不親切です。判らないからこそ教えを請うているのに「こんことも知
らないのか」というような不遜な態度をする。担当者の名前を聞いて「上司を出せ」と言
えば多少態度は改まるのだが、そこまでさせられる不快さは自己嫌悪を伴うこともあり、
後々まで嫌な思いが残ってしまう。そういう態度の担当者だって社会の全てを知っている
訳ではなく、時には違う立場に立ったとき自分の無能さを恥じることだってあるはずだ。

 そのような面倒なことを勉強したいという好奇心が強い人や金や暇を惜しまない人はそ
れもいいだろうが、職能と言われる人達を身近な友達として持っていることは、たとえ電
話のなかのアドバイスだけでも、精神的にも助けになることが多い。例えば医者・弁護士
・会計士・建築士・司法書士など。しかしもしそのような人が身近にいない場合でも、困
った時は費用がかかってもそれらの職能に頼んだ方が効率もよく安心できるので極力そう
するようにしている。

 このごろはあれは納めたのかなとか、もうそろそろ納税の時期だがその納付書が来ない
のはおかしいなどと気を病むことはしなくなった。彼らは絶対に請求を忘れて取りはぐれ
することはないと信じるから。しかし一度十数万円の還付金があるという書類が来た。私
はその件で還付される覚えはなく、事務所の経理を依頼している経理士に調べてくれるよ
うに頼んだが、決算や確定申告をした当人も還付の理由が分からないといってきた。もし
向こうが間違っていたとしたら、絶対に言ってくるからという結論にいたった。その後、
郵便局にも税務署の書類もあって照合したから間違いはなく、まあともかく十数万円は懐
に入ったのである。しかしいまでもその還付の理由が判らないし、今でも戻せと言ってこ
ないのであるからそれは正当なものであったのだろう。

 それはいいとして、予定納税という制度があり、前年の税額に見合った金額を一年分前
払いしろというものだ。そこまではともかくしょうがないが、一寸でも遅れると延滞金が
付いてくる。そんな馬鹿な事があるか、前払いする金に金利を付けるとは、前払いする金
から金利を引いて安くしてやるというのが理屈ではないかと怒りたくなる。

 人生知れば知る程悲しみを増すように、長生きすることはそのようなたくさんの間尺の
合わない理不尽さを背負い込まなければならないことか。一つ一つ解決していく根気も少
しずつ衰えて来ることが老いなのか。
]
「後見人始末記・その1−感想」より  2007/5/26





突然の辞任

◆ 安倍首相の突然の辞任劇には子供じみたものを感じたのは私だけではないだろう。同
  情する部分もあるが、最高権力者としてはいささかどうかと思う。きっと官僚や自民
  党の反対勢力によるイジメに屈したのだろう。それにしても辞め方が美しくない。
◆ 「美しい国日本」を創ろうと提唱した張本人が一番「美的感覚」から遠いところに居
  たのではないかと感じられる。囲碁でも大敗する時は「投げ場」をつくるといって、
  確かに負けましたという状態をつくり石を置き、それ以上勝負をしない、所謂「投げ
  出す」のである。それは相手の勝ちを認め、自分の負けを宣言するという一種の美学
  である。
  結局は確固たる理念も、ことを勧めるために必要な果敢な決断力も持ち合わせなかっ
  たということで、首相としての器ではなかったと言えるのではないか。

「独・偏・戯評」-安倍首相辞任について」より 2007/9/12





「国家安全保障」論

 攻め入られた場合はどうするかとか、国の主権を侵さたらどうするか、とかが現実的な
問題かどうかは仮定の話だから想定の仕方では「核には核を」とか、いや非武装中立が理
想だという、いろいろの考え方があるが出来るわけです。しかし私個人の日本を取り巻く
現状認識では北島氏の論におおむね賛同します。その理由は
◆自国内の不協和音から眼をそらさせるため、外に敵をつくり必要以上に脅威を煽るのが
 為政者・権力者の常套手段だから。北朝鮮の瀬戸際外交、アメリカのテロの脅威などを
 主張して無謀な戦争に駆り立てたことが良い例である。それに軍拡を望む人々、それに
 より利益を享受する政治家、財界の一部がいる。
◆国民の生命や国家の主権を守るためなどといった大儀名分を掲げて、庶民の善意や素直
 さを良いことに、その悪巧みを覆い隠して主張する。
◆これ以上軍備を拡張しても効果は少ない。現に飛び抜けた軍事力をもっているアメリカ
 でさえアフガニスタンやイラクを制圧できないのだから。
◆国境の近辺の小競り合いや、力の誇示や挑発は想定出来るが、強力な軍備を持ったから
 といって、相手の国に攻め入って完全に打ち負かす外はそのような問題を完全に解決す
 ることはできないだろう。
◆人々の平和や命を守るために人殺しの武器を携えて戦争する(他国の人々を殺す)という
 こと自体が自己矛盾である。そこに気がつけば、即現実的な問題の解決が望めなくても、
 それを目指して進むという精神を失ってはならないと思う。
◆きれい事をいう者とか勇ましい奴の尻馬に単純に乗ってはいけない。それは為政者・権
 力者側の走狗かもしれないのである。

 「国家安全保障」論の根拠とされる、いわゆる脅威論について 感想より 2008/4/4




地球温暖化

 地球温暖化に対する解決方法はまだ世界の国々の十分な理解と実行において足並みは揃
っていない。また北海道サミットにおける「途上国への原子力導入のための基盤整備」が
必要であるという途上国向けの決議は、CO2の排出は減少するかも知れないが、いささ
か毒をもって毒を制するような違和感を覚えた。核兵器ばかりではなく核廃絶運動の意味
のなかには、原子力発電も含めたものと考える私には、別の深い思惑(原子力発電のノウ
ハウを持つ国の商業的な思惑)が潜んでいるのではないかと疑いたくなるのである。
 排出権取引というシステムにもまた、何だか「地球温暖化を防ぐ」という高い理想を「売
買という現実的な損得勘定」に置き換えなければ進まないという、人間の弱点を利用した
システムのようでスッキリはしない。
 政府は排出ガスを減らすために個人個人の努力を奨励するが、まだ使える物を破棄して
省エネの家電製品の買い替えることがはたしてそんなに効果が期待出来るのか。新しい省
エネ製品もまたエネルギーを使い、ガスを排出しながら作られるからだ。それはちょうど
贈答品の派手なやり取りで景気が良くなると勘違いするのと同じで、田舎の蔵の中は使わ
れもしないキッチュな贈り物で満たされ、なんら人の暮らしを豊にしない、見せかけだけ
の繁栄と同じように見える。
 我々は今、産業革命以来の大量生産大量消費の時代が豊かさの証であるという思想を見
直さなければならない。エネルギーの無駄遣いを止めなければならない。ということを北
島氏の文から私は受け取った。

「地球温暖化について」の感想 より2008/10/21





カザ空爆

 ますます紛争は拡大して地上戦に移りそうです。これは吟遊視人さんのいう通り全く理
不尽なことです。このようなことを許している欧米の正義とやらは突き詰めれば国益が最
優先のものでしかないということが判ります。
今日に至ったイスラエルの問題は二つあると思います。
 一つは、紀元前721年「北王国イスラエル」が、アッシリア帝国に滅ぼされてアッシリ
アに捕囚され、紀元前586年には「南王国ユダ」も新バビロニアに滅ぼされユダ王国の民
は「バビロン」に捕囚される。それ以来亡国の民となって世界中に散らばっていく。しか
し国々での土地の所有を許されない根無し草の生活は、勢い金融や学問や音楽などの芸術
に向かっていった。その土地の者はよく考えてみれば、土地を耕したり物を生産したりす
る自分たちよりもユダヤ人が経済や学問や芸術の世界を支配して上流の生活に収まってい
るのに気づいた。そこからユダヤ人への差別と排斥の感情が生じた。ユダヤ教という戒律
の厳しい宗教で結ばれた排他的な人たちではあったが。決してユダヤ人がその国の法を犯
すような人たちではなかった。
 二つ目は、第2次大戦のあと欧米の国々は、国内で行われていた差別や排斥などの罪の
意識と、経済や学問や芸術の面での隠然たる支配にたいする恐怖もあって、一種の厄介払
いの思惑もあって、数千年も前のユダヤ人の国家であったイスラエルに再び建国させたの
である。そこにはパレスチナ人がすでに長い年月住み着いていたにもかかわらずである。
当然ユダヤ人とパレスチナ人の人口や経済的な力関係のバランスが崩れるのも意に介さな
いで・・・。だからイラクやソマリアやルワンダやケニヤの紛争の責任はすべて帝国主義
を標榜して世界を蹂躙した大国のエゴによるものである。しかしそれにしても今のイスラ
エルはアメリカという老虎の威を借りた狐のようではありませんか。
 とまあ、このように吟遊視人さんが心配されるまでもなく、アンチ体制、アンチ常識、
アンチ仲良し主義の臭いは捨てた訳ではありませんので。

 「イスラエルのカザ地区への空爆のこと」 2009/1/4





イスラエル戦争犯罪特別法廷設置

 イスラエル戦争犯罪特別法廷設置を求める署名を今日しました。被害状況の写真の中に
衝撃的なものがありました。崩れた建物の間から多分もう死んでいると思われる、頭だけ
出ている子供の写真。
 ハマスが打ち込むロケット砲によるイスラエルの被害者数十人と、イスラエルの正規軍
による攻撃で死亡したパレスチナ人の1300人に及ぶ被害と比較しても、その犯罪性は
歴然としていると思いましたので署名しました。

「イスラエル戦争犯罪特別法廷設置を求める署名」より 2009/1/25





イスラエル戦争犯罪特別法廷 2

 M氏の「まともな感性」は吾にありと言っておられますが、そうでしょうか?1700年
前のことはともかく、一度現代のイスラエル国家の成り立ちを調べてみてください。パレ
スチナ人の住んでいる今の土地にかなり強引に入植した経緯が分かります。パレスチナ人
は[軒先を貸して母屋をとられる]という表現がぴったりするようなもので、イスラエル
の建国はかなり強引で無礼な行為に感じられます。
 その当時イギリスが植民地として今の土地を統治していましたが、イスラエル人の入植
を制限したイギリスに対して、イスラエル人はテロ行為を行ってその権利を獲得したので
す。だから今のハマスのテロ行為と同じことをやってきたといえます。しかしパレスチナ
人のそのテロ行為はイスラエルの国家成立・その後の差別・蹂躙の被害者であったわけで
イギリスにたいするイスラエル人のそれとは全く反対の意味があります。
 中東戦争に関わった国益や面子に偏った西洋の大国やアラブ側などの仲介による話し合
いなど、根本的な解決にはあまり期待できない。だから「イスラエル戦争犯罪特別法廷」
を設けて、イスラエル建国以来の史実を検証した上での戦争責任を、世界の「まともな感
性」での判断に訴えることは意義があると考えます。ただ現実に行われるかどうかは判り
ません。しかし例え現実的でなくても、そのような考えの人々が少なくない事が判れば無
視はできないでしょう。関係各国もそのうち軌道修正して中立的な考えに至るかもしれな
い。その意味でも現実的な妥協点を見つけることばかりでなく、基本的な理念は必要です。

2009/1/26





イスラエル問題  2009/2/9

 望遠鏡氏が書かれた影の権力者−5 は良く調べられたもので、私のように多忙な者に
とっては非常にありがたいと感謝します。ただ私の投稿文だと思われるものにたいするコ
メントがあり、少々言わんとするところを十分説明、その意を汲んでもらってないような
感じを持ちましたので少し釈明したいと思います。
 1.「第2次大戦のあと欧米の国々は・・・数千年も前のユダヤ人の国家であったイス
  ラエルに再び建国させたではありません」にたいし:私は欧米諸国がユダヤ人に正式
  に建国を奨励し承認したとは書いていません。ユダヤ人の違法な移住を制限すること
  が出来なくなって黙認したという意味で書いたわけです。
 2.「イスラエル人の入植を制限したイギリスに対して、イスラエル人はテロ行為をし
  ててその権利を獲得でもなく」:これもまた彼等が入植する正当な権利を獲得したと
  いうことを言ったわけではありません。ただユダヤ人が、パレスチナ人のロケット砲
  攻撃や自爆テロなどの行為にたいして、いかにも己の側に理があると一方的に非難す
  ることは出来ない。自分達もかつてイギリスにたいして行ったテロ行為があったにも
  関わらず、敵前から五十歩逃げ出した者がはたして百歩逃げ出した者を蔑むことがお
  かしいと言いたかった訳であります

 以上点が私の言わんとすることでありました。望遠鏡氏が言われるように、亡国の民が
長い間自分の国を持つことを希求した経緯は私にもわかります。しかし私の今回の問題の
一番重要なことは、イスラエル国家の建国に当たって、何百万という不法なイスラエル移
民が先住のパレスチナ人を差別・虐待した歴史であります。
 飛躍した例を許してもらうとすれば、歴史以前に南方や中国や朝鮮などから渡來して来
て、混血によって生まれた日本人とその領土に、昔の祖先のルーツを頼って大量の不法流
民が進入して来て力を持ち、現に住んでいる国民を北海道などの辺境の土地に閉じこめた
想像してみてください。イスラエル建国では、古代や中世ならともかく近代になって起き
たのことを私は憤っているのです。
 最後に、望遠鏡氏の「ユダヤ人は驚嘆すべきことをやり遂げた民族です」と書かれてい
るのを見ると、ユダヤ人のその行為を賛美しているように聞こえてきますが、私だけでし
ょうか。それとも少々の皮肉を込められているのでしょうか。
そして、詳細な資料による考察を提示と、「皆さんの漠然とした案を補正出来れば」とい
う考えには納得できますが、最終的にこの資料に基づいて己がどのように判断したかを期
待する私は、いつも肩すかしを食らっているような思いがしています。

「偏西風−イスラエル問題」 *重複掲載   2009/2/9





就任演説

 いささか話題が去ってしまって、一周遅れの最終ランナーのような気持ちですがオバマ
大統領の就任演説を聞いて感じることがありました。
 大統領は国民に向けて所信を発し、首相は党の方を向いて行う。
アメリカのように直接国民が投票して決める大統領制と、日本のように「内閣総理大臣は、
国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」という議院内閣制では首相は直接国民
から選挙で選ばれた訳ではないがら、いろいろ違いが出てくる。またそれから生じる大統
領制と首相制の権力の違いでもある。大統領は議会の決定に必ずしも拘束されないが、首
相は国会の多数決でものごとを決めなければならないから、勢い与党の議員の顔色と野党
の牽制で始終する。だからオバマ大統領の演説のように、「苦労は多くても一緒に仕事を
しようではないか」といって国民に直接語りかけている。
 それに反して麻生首相は常に廻りの味方や敵を意識していて、国民に目を向けた所信表
明が身近には感じられない。オバマ大統領の就任における素晴らしい言葉による演説を聞
いて感銘する反面、麻生首相の所信表明が我々国民へ語りかける力や意志が感じられない。
オバマ大統領が掲げた大きな目標は、現実にはたくさんの障害物に出くわすだろうが、そ
れをものとせず果敢に挑戦しようという意気込みはアメリカ国民に勇気を与えるもので、
今の日本の首相や政治家や官僚の体たらくをみるにつけつくずく羨ましいと思った。

2009/1/27





名ばかりの管理職 2009/2/2

 私が大学一年生の時受けた教養講座の法学教授が、開口一番に投げかけたのが「悪法も
また法である」というソクラテスの命題だった。まだ入学したばかりのバキューム・ヘッ
ドにはじつに悩ましいジレンマ問題だったことを記憶している。もし「悪法であるなら守
らなくていい」となれば法治国家としての体をなさないし、「悪法も法であるから遵守し
なければならない」となれば自然法に背くこともあるというわけだ。
 マクドナルド判決文を読んだ時に二つの問題があると私には思われた。
一つは「管理職」という定義の問題
二つ目は実情の問題
I氏は「管理職」の定義が明確でないから、マクドナルの店長が「管理職」ではないと断
定して判決を下したのは違法であると言っている。たしかに労働基準法における「管理職」
の定義は曖昧で明確にしてからでないと有罪か無罪を判定することはできないという主張
は「悪法も法である」という明確な法実証主義の系譜であり、二つ目に実情問題と相対す
るものである。「管理者」(ここでは会社側のいう管理者としての店長)と一般の従業員
との仕事の質の違いは何だろうか。一般の従業員が客に対するサービスにたいして、店長
は人事考課の実施・アルバイトの雇用など労務管理だとすれば、単純で判りやすい。
 しかし実際の店長の仕事は管理業務だけでなく、客が居る間は一般の従業員の仕事をし、
店を閉めてから管理業務をするという過酷な労働を強いられていることを見れば、残業手
当も休日手当も支給されない、手取りの金額も一般従業員と同じとなれば、経営者は法の
盲点を突いた狡いやり方だと思う。
 この判決に対するI氏の違法判断は「悪法も法である」のようにも私には思える。私は、
会社からノルマや利潤追求を科せられて、賃金や労働時間といった過酷な労働を飲まざる
をえない実態をみるにつけ、店長の言い分に同情するものであります。その一方で「管理
職」の定義を一日も早く確定し、合法的に「悪法も法である」を「良法」に返る努力をす
べきでしょう。

「「名ばかりの管理職」とは何か−感想」より 2009/2/2





電磁波

リニアに「反対」市民団体が発足
 朝日新聞朝刊に「リニアに「反対」市民団体が発足」という記事が載っていました。
「JR東海のリニア中央新幹線計画に反対する市民団体「リニア問題を考えるネットワー
ク」が2009年2月7日、発足した」
 全国自然保護連合代表の川村晃生・境内教授らが呼びかけ、東京、神奈川、山梨、長野
などの沿線都県の市民や地方議員ら20人余りが山梨県内で集会を開き、結成を決めた。
反対する理由として、建設による自然破壊に加え、電磁波による健康被害、中間駅の建設
費負担が自治体税制を圧迫する可能性を揚げている。
 では、電磁波とはいったいなんで、私達にどういう影響があるのかということに関して
調べてみました。
●電磁波の発生源は、発電所、変電所、送電線、家電製品のテレビやラジオの電波、温熱
 効果でおなじみの遠赤外線や、紫外線、医療や材料検査等で利用されているガンマ線、
 X線などであります。
●電磁波が人体に与える影響は、ピリピリとする刺激作用、生物の免疫低下、脳内ホルモ
 ンへの悪影響、遺伝子の損傷があると指摘されています。
●電磁波過敏症とは室内の家庭用電気製品の他、屋外にある電線や街灯など電気の流れて
 いるところに近づくと、激しい頭痛や胸苦しさ、吐き気、めまいなどの症状が現れ、電
 気製品から離れると症状が消えてしまう人のことです。
 最初に目、皮膚、神経に症状が現れ、そして次に呼吸困難や動悸、めまいや吐き気など
 の症状が現れてきます。さらに悪化すると、疲労感やうつを伴う頭痛や短期的な記憶喪
 失、手足のしびれやまひが起こってくる場合もあります。
 リニア中央新幹線計画ではそれらの健康被害や自然環境に及ぼす悪影響の公正で正確な
 客観的評価がなされているのだろうか、そうでないとすれば問題であります。
 資料は探偵・興信所/総合探偵社アーストの環境調査のホームページより

 「電磁波のこと」  2009/2/11



131α編集部:2014/05/04(日) 13:37:48
すきま風 2
.
すきま風 2  2009-2011





世界沈没

 「世界沈没の恐れについて」にいみじくも碇さんの書かれているように、天敵のない人
間の一人勝ちの今、人類の将来は危うくなっていくように私も感じます。
 産業革命以来人口が増え続けました。それにともない人々や産業が大都市に集中しまし
た。いまやいろいろな面で効率の良い社会を作くりあげた「集積利益」が、留まるところ
を知らない欲望でもはや「集積不利益」に転じています。人口集中による交通の渋滞、空
気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、偏狭な民族主義や拝金
主義や利己的な人々の心の荒廃などであります。
 過去にはコレラやペスト、インフルエンザなどの病気の猛威によって、また絶え間ない
大きな戦争のなどで人口が減る事もありました。これは天の配剤だったかも知れません。
地球はそんなことで壊れることはなく、もっとはるかに強かでタフですが、この地球上の
人口が100億になったらますます過密になり食料やエネルギーの奪い合いになり、人類自
らの歴史を閉じる恐れもあります。碇さんの報告を見てそう思いました。
 俳句では 観月やひとりくらしのひとり酒  が私は一番すきです。昔井上靖の「あす
なろ物語」に 寒月が掛かれば 君を偲ぶかな 愛鷹山の麓に住もう という詩を思い出
しました。碇さんの句はそこに居ない人への思いが深く心の奥底に沈んでいるように思え
ました。

「碇さんの作品の合評」より??2009/2/13





定額給付金

 これでも選良の考え出した政策かと疑うほどの、なんともお粗末な定額給付金がいよい
よ支給されることが決まった。もはや選良と呼べる議員はほとんどみあたらぬが・・・。
さてそれを受け取る、あるいは拒否する、矜持を保つ者、そうでない者の思いやいかに?
●与党議員は呟く:これで選挙が戦える、票が買えた。
●野党議員は呟く:これで新たな社会の狂想曲が始まる。そのうち化けの皮が剥げる。
●詐欺師の親分は:いまが千載一遇の時、腕の見せどころ、全国をくまなく歩き騙し取れ。
●麻生総理は訴える「詐欺師に告ぐ!! 罪一等を減ずるから瞞した金を即刻使ってくれ。

「ついに定額給付金の支給が決まった」  2009/3/6





違法献金

 今朝の朝日新聞のコラムに「検察には説明責任がある」という、ジェラルド・カーティ
ス米コロンビア大教授の意見が載っていた。「今回の東京地検特捜部による小沢一郎・民
主党代表の公設第一秘書の逮捕と事態の展には、解せないものがある。逮捕から1週間あ
まりたつのに、検察当局は強制捜査に踏み切った理由については説明をしていない。これ
はどうしたことか。
 この事件は普通の政治スキャンダルとは質的に違う。数ヶ月以内には総選挙がおこなわ
れ、政権交代が取りざたされている、この微妙な時期に「政治資金規正法」という形式犯
で、次期首相になる可能性がある人物の公設秘書をいきなり逮捕するとは、きわめて異例
である」。という記事である。
 まさに体制が変わることを好しとしない力が働いていると勘ぐりたくもなろう。与党、
野党を問わずたいていの議員は「政治資金規正法」の塀の上で活動していることを国民は
感じている。だからといって疑惑を晴らすなといっているのではない、そのことよりもも
っと重要なことは、長く続いて管理能力を失って制度疲労をおこしている与党の続投を認
めるか、アメリカのように行き詰まった社会を刷新するために政権交代を求めるかである。
よくいまの民主党は政権能力がないという意見があるが、やらせてみなければわからない。
政権が変わらなければ錆付いた欠陥だらけの組織は新しく生まれ変わらないと思う。マス
コミは政治家がやる気をだすと不倫などの個人的なことで本人の足を掬ったり、ささいな
スキャンダルで面白くおかしく騒ぎたてたりするが、我々はそれに目を奪われることなく、
いまの日本の政治に求められている本当に重要なこと何なのかを見極めなければならない
と思う。

「違法献金事件」より 2009/3/12





WBC

 O氏の美容院での会話のレポート面白く読みました。
しかしその店員の 「これはそんなに騒ぐ程の事じゃないですよ。その理由は出場国でプ
ロの球団があるのはアメリカ、日本、韓国だけで、後は素人相手だし、アメリカは一線級
をあまり出していない」には多少の異論があります。
そこでいろいろの観点から野球というスポーツを考えてみましょう。
1.プロの球団がある国について
  上記の国だけではなく、台湾、中国、フィリピン、カナダ、メキシコ、 ドミニカ共和
?? 国、プエルトリコ、ニカラグア、イタリア、イスラエルなど 思ったより多いと思いま
?? した。
2.アメリカは一線級の選手を出していないについて
?? アメリカのダイリーガーの約70%は外国人であるといわれています。
  だからすごい一線級の選手はそれぞれの母国から出場しているわけですか ら、アメ
?? リカの選手がすべて超一流の選手ばかりとは言えないでしょう。
3.日本と韓国のチームが勝ち残った勝因は
?? 体格や運動能力にたよった他の国々の力任せの戦いと違い、その不利を補うために技
  術の緻密な研究と鍛錬による頭脳的な戦いにあったと思われます。

4.サッカーやラグビーなどの運動と野球の違い
?? 野球は攻撃する時間と守備する時間がはっきりと分かれていますが、他のスポーツは
  一瞬にして攻守が変わります。だから投手とバッターによる勝負がほとんどの野球と
?? 違い、その他のスポーツは全ての選手が攻守に関わってくるからスピート感に満ちて
?? いて常に緊張しています。攻撃の側のチームは打者以外はなにもしないで見ているだ
?? けでしょう。

  体の筋肉の使い方もまた全く違います。 その他のスポーツは走ることが主であるため
?? 体全体の筋肉をバランスよく使うが、 野球は球を投げるにしてもバットをもって球を
?? 打つにしても片方の筋肉だけ使い偏った運動で出来上がっています。 攻守が厳密に別
?? れているルールのゲームといい、 肉体のバランス上からいっても選手の筋肉の使い方
?? に偏りが??あると思います。
  といろいろ考えてみると野球というゲームは、 他のゲ−ムとはやはり異質なものと見
?? えます。 現代はスピードの時代、野球は勝負を決するのに他のゲームより時間がかか
?? るし、攻守の瞬時の交代がないために緊張する時間がとぎれます。 一時間前後で勝敗
?? が決まる??他のスポーツに人気が集まるのも判るような気がします。 さて、野球もう
?? かうかしてお??られません、もう一度その時代遅れを取り戻すために一層の改善が必
?? 要と思われます。

「WBCの話」 2009/3/24





追加の小言

◆ 東京オリンピック招致について、私も今更という感じを持ちます。虚勢の強いシンチ
 ャンですから、死ぬ前に歴史に名を残したいのでしょう。むしろ未だに開催されたこと
 のないアフリカや南アメリカに譲るという度量がないのでしょうかね。メダリスト達も
 体躯協会などに属しなければ活動出来ないという足枷をはめられているのでしょうから
??可哀想なものです。
◆定額給付金については、将来を見据えた政策とはとても言い難い代物と思います。やは
 り選挙目当ての撒き餌でしょう。どこに隠していたのか、それとも二年後に国民からし
 っかり徴収するのか、もっとミーハーに受けそうな大盤振る舞いの追加予算を出してき
 ました。責任を感じなければ国民の金を使うのは楽しそうですね。政治屋さん公僕さん!!
 私はその餌に釣られたふりして使いましょう。もとは私が納めた税金ですから。
◆大型連休は人混みと渋滞がいやですから、家に籠もってテビのニュースで皆さんの忙し
 く動き回る狂想曲を見て楽しみましょう。金もETCも搭載していない、単なる「引か
 れ者の小唄」に過ぎないだけの話です。
◆タレントの政界進出は、能力が備わっていれば拒む理由はありませんが、能力がありそ
 うな振りにだまされないように。もともと受け狙いが職業だから、人の心に響く心地よ
 い言葉を見つけ民衆をそそのかすことには長けているでしょう。東京のシンチャンや大
 阪の泣き虫君や宮崎のサイヤ人(ドラゴン・ボール)など多士済々。声の大きいだけの胡
 散臭い熱血漢を千葉県民はよく選んだもので、民度が伺いしれるようですね。そのうち
 選良と言われる職業はテレビ経験者で満たされそうだと危惧します。マンガ好きの金持
 ちスネオ君の政治手法でマンガやアニメが教科書になるかもしれませんよ・・・今に。
 国民みんなコスプレを着せられ外国の旅行者を迎える観光立国にしたら将来千年これで
 食えるかも知れません。
◆民主党の辞めないジャイアンについては,私は別の見方を持っています。彼がやって来
 た政治資金の処理は厳密にみれば、かなりきわどいですが違法ではないと思います。ほ
 とんどの議員がやっていることで、それは法の不備によることでしょう。私は政権を交
 代して数十年におよぶ自民党の悪政、管理能力不足によってガタガタになった国の機能
 を立て直すには、ジャイアンの豪腕しかないと考えます。その既得権を失いそうな人達
 の危機感が今回の秘書逮捕になったと思います。ここはぐっとがまんして政権交代の可
 能性のあるジャイアンに賭けたいのです。汚いの潔いよくないのと言った感情論で後退
 するような信念のない政治家はいりません。だから民衆が政権交代という変革より小さ
 なスキャンダルに惑わされて、政党支持の態度をコロコロと変える安易さが判りません。

「小言幸兵衛さんの小言によせて」 より 2009/4/23



森田健作氏を告発する会

 別のホームページでも書きましたが、吟遊視人さんの話題について私も感心があります。
タレントの政界進出は、能力が備わっていれば拒む理由はありませんが、能力がありそう
な振りにだまされないように。もともと受け狙いが職業だから、人の心に響く心地よい言
葉を見つけ民衆をそそのかすことには長けているでしょう。東京のシンチャンや大阪の泣
き虫君や宮崎のサイヤ人(ドラゴン・ボール)など多士済々。声の大きいだけの胡散臭い熱
血漢を千葉県民はよく選んだもので、民度が伺いしれるようですね。そのうち選良と言わ
れる職業はテレビ経験者で満たされそうだと危惧します。マンガ好きの金持ちスネオ君の
政治手法でマンガやアニメが教科書になるかもしれませんよ・・・今に。
 しかし1000円払って「森田健作氏を告発する会」に参加するのは止めておきましょ
う。意見はおおいいいますが、これは千葉県民の問題ですから彼らに任せて、高みの見物
とすることにしましょう。

「森田健作氏を告発する会」について より2009/5/12





靖国神社参拝

 F氏6月4日投稿について、私なりの異論を述べます。「日本の代表たる首相が靖国神社
を参拝しないのは、中国や韓国やその他の国の非難に負けて、日本の伝統や文化や歴史の
独自性を全うしないという行為は、情けないことである」と主張されています。 しかし
これは視野が広くリベラルな風鈴さんとは思えない一方的な乱暴な解釈と私には思えまし
た。問題点は3つあると思います。一つは靖国神社、二つ目はA級戦犯、三つ目は参拝の
問題
◆靖国神社
 戊辰戦争以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉死した日本の軍人、軍属等を祭
 神とする、東京招魂社という一介の神社から、国威発揚のために戦前は内務省が人事を、
 陸軍・海軍が祭事を統括するものとなった。戦後は、東京都知事認証の単立神社(単立
 宗教法人)となり神社本庁との包括関係には属していない、と一応政教分離の形をとっ
 てはいるが、いまだに政府機関のなかに繋がりを持った部署もあるという。そして、も
 っぱら天皇のために戦死した軍人などをまつる靖国神社は刑死・獄死したA級戦犯を七
 八年に合祀(ごうし)し、侵略戦争を“正義の戦争”とする立場を鮮明にしている。小
 泉首相の靖国神社への参拝強行は、同神社の侵略戦争肯定の立場を共有するものです。
◆A級戦犯
 A級戦犯とは戦争犯罪人の処罰を定めたポツダム宣言にもとづき、極東国際軍事裁判
(東京裁判)で処罰された人達である。
 サンフランシスコ平和条約で、日本は東京裁判などの軍事裁判の結果を受け入れること
 が規定されており、法的には日本は国家として判決を受け入れている。それより私は日
 本国民が自ら戦争責任を追求することのなかったということである。ドイツはいまだに
 第二次世界大戦の戦争犯罪裁判をしているという。近隣諸国や日本国民に多大な犠牲を
 払わせた指導者が、やむを得なかった、成り行きだったということで責任を回避
 することは許されないことだと思う。
◆参拝の問題
 中国や韓国は戦犯者が一般の戦没者と合祀されていることを問題にしているのであっ
 て、国のためになくなった戦犯以外の人たちを祭り参拝することに反対してはいない。
 個人的に今の靖国神社にお参りすることは信教の自由であるから一向に問題はないが、
 公的立場で国を代表する人たちが参拝することは政教分離からいってもおかしいと思う

 アメリカのアーリントン国立墓地のような、あらゆる宗教の戦没者を祀ることのできる
 無宗教の施設を早く作るべきである。
 風鈴さんは、日本国の象徴及び日本国民統合の象徴である今の天皇が靖国神社の参拝を
 拒否していることをご存じであろうか。

F氏の「靖国神社参拝について」より 2009/6/6





脳死問題

 真夜中の二時頃にふっと目覚めた。そして隣で熟睡している細君の規則正しく呼吸する
寝息を聞いていると、ふと「脳死ははたして本当に人間の死として正当性があるのか」と
いう以前から抱いていた疑問が再び湧いてきた。
熟睡しているときは脳は働いてはいない。しかし「自律神経系」により循環、呼吸、消化、
発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝のような機能は脳が休んでいる時で
も律儀に働いているわけである。だとすれば、脳が死んでも生命体としての機能は生き続
けていると言わねばならない。逆に考えると、心臓や肺などの自律神経系が壊れたら、す
なわち脳だって生き続ける訳にはいかないということだ。
 だから、脳死が死と法律で定めることには違和感がある。脳死であれば当然食をとった
り動いたり意志を伝えたりはできないから、いずれ死に至るのは必定ではあるが、だから
といってまだ生体が生きているのに死の宣告をする行為は許されるのか。そこまで社会の
便宜に呼応して良いものだろうかと思った。

「再び脳死問題」より 2009/8/5





2009年衆議院議員選挙

 このたびの衆議院選挙においはて色々の見方があるが、私はしがらみや情実ではなく個
人個人が自分の頭で考えて決断をくだすようにやっとなったかという感慨を持たせるもの
だった。たとえマスコミなどの面白おかしく書きたてる情報に影響されたとしても、沢山
の情報を取り込み自分の頭で考えた訳だから、戦後持ち込まれた民主主義がやっといま市
民のものになりつつあり、それが自分たちの生活は自分たちで決めるという地方自治への
思いが少しづつ根付いて来たように思えた。
 一方、自民党の大物達の敗北の弁を聞いていると、麻生首相のせいだとか民主党の甘い
ばらまき政策のせいだとばかりに言っているが、長年党に居座った人達の能天気ぶりに呆
れてしまった。国民は50年以上の一党支配で、政・官・財の構造というハード面でも、
公務員の奉仕精神や企業のモラルというソフト面もガタガタになってしまっている現状に
幻滅したからである。そして、民主党がはたして既得権や利権構造などをぶち壊して、新
しいパラダイムを構築できるかは未知ではあるにもかかわらず、自民党の自浄能力のなさ
に見切りをつけたからであると私は思っている。
 この選挙結果において自民党は壊滅的打撃を予想され、それでもまだ再生する可能性は
残っていた。しかし小選挙区制と比例代表制の欠陥というべきか、森 喜朗のような古い
手法の派閥の領袖達が小選挙区で落ちながら、比例代表でソンビのごとく生き返ったこと
である。新しい改革の力を秘めた若い人達が押しのけられて、党内調整に長けた古株が依
然として跋扈する自民党にはもはや未来はないと思った。世の中の変化を感じることも出
来ない古株は、火鉢のまわりで現状を嘆き昔の手柄話に慰めをもとめる姿がふさわしかろ
う。だから渡辺嘉美のように心ある若手は離党して新しい党に結集したほうがよいと私は
思った。

「戦い済んで日が暮れて」より  2009/9/2




大学入試不正事件

?? 皆さんの投稿を見ているといつも問題点の分析をしないで、十把一絡げの偏った意見
が多いように思える。この事件を論ずるにはまずいろいろの観点があることをどうして区
分けしないのか。そうすれば、簡単ではないにしても少なくともそれぞれの問題解決の方
法が見えてくると思うのだが。
まず
1. 学生の倫理観の問題
??大学合格の必死の願いがあったのは理解できるが、己の心のなかの良心に照らし合わせ
て見たのか。そんなにしてまでそのことに賭ける意味があったのか。
たとえ不正が見つかることなく合格したとしても、一生その負い目は自分の心に付き纏う
ことはないのだろうか。
??私も二度そのような誘いがあった。それが不正と言えるかどうかは単純に判断はできな
いが、一度目はさる代議士の秘書から大学の裏口入学への斡旋の話があった。もう一度は
大学を出て就職するときにまたその秘書から、大企業への斡旋の申し出があった。これら
はこちらから話を持ちかけたことはなかったが、その当時は代議士の秘書達は票を集める
ためにという当然の仕事だったようで、知り合いの子息には声をかけていたようだ。しか
し私は一生自分の力以外の方法で得たものにたいして負い目を見ることを厭ったので、そ
の二つの申し出を即座に断った。希望大学や選考の学部選択も、そしてこのような斡旋も
また両親には相談したことはなかったので全く親は知らなかったであろう。結果として希
望の大学や大企業には入れなかったが、そのとき私の心に宿った正義や倫理感そして独立
自尊の精神が今の自分を作っていると思っている。結果が良い悪いはべつとして・・・。

2. 手段の問題、防止の問題
??最先端の技術を使った不正の方法が判って、そのメカニズムが悪いという論はいただけ
ない。古代中国の科挙の試験でさえそのようなカンニングがあったようだから、これから
もそう簡単にこのようなことは一掃できないだろう。いろいろな方法が出現するだろうが、
一つ一つ対処する他はなさそうである。

3. 刑罰の問題(偽計業務妨害容疑)
??どんな法律で取りしまるかということは専門家でないから判らないが、その一方その条
文がないから罰を与えられないという考えもまたおかしい。この程度のことでそこまで懲
罰を求めたり、大げさに騒ぐこともあるまいという意見もあるが、それもまたおかしい。
真面目な受験生にとっては、同じ条件の下に選抜されることを前提とするならば、このよ
うな公正を損なうことになる不正を見逃すべき問題ではないと思うだろう。たとえ不正が
ばれることなく受験に成功した場合は、当然成功した生徒の中には彼の代わりに落とされ
た人もいるだろう。それを考えると、間違ったことをしたのだから、軽重はともかくそれ
なりに懲罰を受ける必要があると思う。

4. 社会的影響
??そんな不正の行為者の代わりに落ちた学生は、知らないうちにその人の進路を狂わされ
たというべきで、罪悪感も感じない不正な人が増えることは社会的公正さを保証されない
社会になるだろう。やり得の思想がはびこらないのか、正直な生き方が馬鹿を見る社会が
いい社会なのか。
??高度成長時代、バブル景気の時代、二年前のリーマン・ショックの嵐に晒されたアメリ
カの自由至上主義による拝金主義の歪みは反省されなければならない。
??生活者と関係のないところでなされる、儲けるためだけの石油や食料の投機はマネーゲ
ームを呼び、強者・弱者、富者・貧者の格差を生じ、このような社会的公正を欠くことは
結果的に不安定な社会を生むことになる。だからこの問題は些細なことではなく、これか
ら未来に向かっての大事な心の問題、価値観の問題、生き方の問題なのだと思う。

戯評−大学入試不正事件について?? 2011/3/4



132α編集部:2014/05/13(火) 09:14:49
夢 2
.

                 夢 2 2010-2012





   2010年、『てふの夢』 第23号 『夢碍无(むげん)』 第24号と立て
   続けに「夢」が入るテーマが続いた。もともと夢に対して関心がある赤松氏は
   この年より「無限回廊」という題の、まるで夢の世界をかけめぐるかのような
   作品を旗揚げする(現在も続いている)。科学的な考察と、夢と想念の世界を
   文学的に表現していくこと、両輪で迫っているようにも思える。





「同人α前書き−てふの夢」*より 2010/5/31???? *同人α23号

◆ いまちょうど老子を読んでいる。窓を開けると暗闇の向こうから気になるほどの大き
 さで間断なく聞こえる沢の音も、窓を閉めると闇と無音の世界である。そんな時山荘の
 本棚で寝る前に睡眠薬代わりに読むものを探しているとき、たまたまこの本が目につい
 たという訳だ。期せずして神野佐嘉江氏の表題と一致したのも何かの縁なのだろう。
 まえがきにある老荘の思想は原始の世界、闇や無音や空や混沌の世界へ誘ってくれる。

◆「てふの夢」は「胡蝶の夢」という言葉で前から知っていたが荘子だとは思わなかった。
 老荘思想は老子、荘子(そうじ)、烈子、淮南子(えなんじ)と継承されていくが、道
 教という宗教になるといささかその思想と違うもののような気がする。なぜなら老荘思
 想は死後の世界は描かれてはいないので仏教やキリスト教などの現世と来世という基本
 的な構造とはちがうからだ。

◆また儒教と道教の違いは、いかに社会秩序を確立するかの問題をあつかって支配者の立
 場から見た儒教にたいして、老荘思想は個人の生き方、思想に目を向け無為自然を基本
 としたもので、何ら腹がふくれるものでもなく、なにかに役立つものでもない。

◆夢にちなんでは「てうの夢」の他に「邯鄲の夢」(または「粟粒一炊の夢」)というも
 のがある。
 「てうの夢」が今生きている世界がはたして現実であるか、それとも夢の世界であるの
 か、何が真実であるか確信が持てない。
 「邯鄲の夢は」は唐の時代に盧生(ろせい)という貧しい若者が、うたた寝を始めた時
 に、旅館の主人が蒸していた黄梁(こうりょう)がまだ蒸されていないほんの一瞬の間
 に自分の一生の夢を見てしまった。そこで人の一生というのは、このように短く、はか
 ないものだという故事である。





「しんき郎とかげ郎を読んで−2」より?? 2010/6/14

◆ファンタジーの文法「物語創作入門」と銘打ったイタリアの詩人で童話作家 のジャン
ニ・ロダーリ著の本をずっと昔、神野氏から頂いたことががあった。
童話を書くつもりではなかったが、SF小説や一般の物語に挿入する夢の話に??不思議な
雰囲気の気分を表現したい思っていたからだ。

童話の世界も夢の世界に通じる自由性がある。現実の「因果関係」「時間」「空間」「モラル」
「約束事」などの拘束から解放されて、空を飛んだり、人や動物に成り変わったり、過去
や未来に飛んで行けることができるから愉快だ。
そういう意味では童話という手法はうってつけであり、子供の自由な発想の奇妙奇天烈な
物語のなかに入り込み楽しむ事が出来るのである。たまたま集まった今の同人達はおしな
べてイメージを縦横無尽に飛ばす能力に恵まれていると思われる。現に宇宙や夢や仮想の
世界を描いた作品が多いと言えるのではないか。





「鈍色の空 合評のお礼−1」より?? 2010/6/25
*注)◇評者 ◆作者

◇1から遡って読んでみると、様々な女性が出てくることに改めて気づかされた。:

◆今まで女性との関係を詳細に記述することがありませんでしたが、今回はそのことを意
識して描きました。私はとにかく若いときからいままで女性にたいする定見を持ち得なか
ったので、むしろ性別を超えた独りの人間として接しようとしてきたと思っています。
若いときは女性をすべて自分を超えた存在として、憧れの目で見ていたようです。想念の
世界でアリサやレナール夫人に思いをはせても、現実の世界ではそのような純粋な思いが
持続するとは思えませんが、人は未だにそれを求め、文学や演劇や映画の世界に浸るので
しょう。実際はほとんどの人生においては、逃れられない些末な雑事がほとんどの時間を
支配していて、夢見るような幸せな恋心だけでは生きては行けないことはとっくに判って
しまいました。

◇たまたま作者から紹介された本が二ヶ月かけて先週図書館から通知がきた。タイミング
であろうか。一気に読み終えた。自然の描写、人間の描写等、読み比べる限り、作者の方
が工夫、ぬめり気、彩り、空気が一枚上手かと思った。
物事を客観視するところも似ているが、作者の方がもっと冷たく見ている。 その本とは
赤松次郎が汗をかき三省堂まで行き購入してきた本であった。本人より私の方が先に読ん
でしまった。:

◆佐伯一麦著の「木の一族」を読んでから、私小説の書き手として私は昔から彼に一目お
いていました。このたびの「誰かがそれを」のなかの「ケンポナシ」はこの木の話だけで
28ページにわたって書き、「誰かがそれを」では夜中に聞こえてくる訳のわからない気
障りな音について38ページを費やしている。これが純文学の世界なのであろう。
今回は以前の評価と違って私にはちょっと批判的な印象が残った。 それは個人の好みの
問題だろうが、この物語のリアリズムは想念の世界の夢や美や謎などの知的な好奇心をく
すぐるものがないのが不満に思えた。
と言うことは私はエキゾチスム・神秘主義・夢などといったものや、抑圧されてきた個人
の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩などを記述しようとするロマン主義的な傾向をもつとい
うことだろうか。





24号課題「むげん」の考察?? 2010/7/2

それにしても「無限」とは恐ろしい怪物を持ち出してきましたね。いま野矢茂樹著の「無
限論の教室」という本を本棚から見つけ出して見ていますが、およそ数理的なことに興味
のある人にとってはおそろしく難解で厄介なものと思います。この本の最初に「無限とい
うのは大小の概念とは別物、数や量ではない」と書いてあります。だから私は「むげん」
という言葉は夢限・夢現・夢幻・夢玄・夢源・無源・霧言・霧幻・霧眼程度にしておこう
かと思います。しかし、だから、皆さんの「無限」という怪物をどう料理するか密かに期
待している次第です。





「「蝶の夢、人の夢」を読んで−1」より 2010/7/9

私は人の深層心理に興味を抱いていたので、岩波書店のフロイト全集22巻をいま毎月購入
している。しかしなかなか読む暇がない。フロイトによると現実には達せられない願望の
表出であり、まずい行動の自己弁護であり、いろいろの加工を加えられているため、その
願望が何であるか、その屈折した状態の夢は解析するのに熟練を要するという。フロイト
の夢判断は少々性的な解釈に偏っていると思う。現実の暮らしの中では現れない人間の隠
された深層心理が夢の中では自然の法則や倫理観や因果関係や時間、空間の束縛から解放
されて現れてくるので面白い。

夏目漱石の「夢十夜」や石川淳や内田百や吉田健一の短編に出てくる、何とも不思議な情
景、そこはかとなくただようよるべなさ、面妖さの世界は私を惹き付ける。アリスの姉は
「私はあなたのように自由に夢、冒険ができないの。あなたが羨ましいわ。私はいつでも
待っているから、あなたはいつでも自由に冒険をしなさい。でも『アリス』であることを
忘れないようにね」という言葉はいろいろの問題を含んでいる。
私からの万理さんへの宿題
 1)「アリス」であることを忘れるとはどういうことか。
 2)冒険が出来る人と出来ない人の違いはなんであろうか。





「無限回廊のプロット」より  2011/1/2

◆ ある夢
 食べたものの遺伝子を取り込む人間の夢
 牛肉を食べて牛になったり、スイカを食べて種なしスイカになった。





「『あした天気になーれ・第四回』*感想のお礼」より  2011/9/21?? *同人α28号

◆夢の話
たまたま最近フロイトについて書いた本を読んでいたら、夢判断のとっかかりはフロイト
自身の見た夢を解析したことから始まったとあった。彼自身にエディプスコンプレックス
の葛藤があったという。しかし学説を確立するために自分の体験を克明にデータにをとり、
ギリシャの悲劇を故事を例にとって追求するという、体系を確立する人の情熱と執念は並
ではないといえよう。

そして我々が見る夢についての解釈はそう単純ではない。フロイトによると、夢は自分の
行為の慰め、正当化、願望がそのままの形で現れる場合と、潜在的な願望が形を変え歪曲
されて現れる場合があるという。このような夢の変装を見破り隠された願望を探り出すた
めには、四つの夢の性質「不安」「退行」「抑圧」「検閲」について知っておく必要があ
ると言っている。
今回のカラマツ・ジローの夢は何だったのか、仮面の多い輩の夢をおいそれとが判断する
ことは間違った解釈を導き出す事になるかも知れず、正しい答えを導き出すには素人では
手に負えなくなってしまう。

万理さんは「この夢の節が今回の作品の中でどんな役割を占めるのかがよくわかりません
でした。次章(五回)以降のお預けでしょうか」と書いているが、その説明が次会にある
かどうかはカラマツ・ジローの心模様次第で、その夢の解釈もまた読者のみなさんの想像
を自由に勝手に飛ばしてもらって結構であります。





「天使ごっこ・悪魔ごっこ(7)九月を読んで」より  2012/1/4 ?? *同人α29号

最初のころの号の不思議な浮遊感、どこまで夢かどこまで現(うつつ)かわからない表現
に作者独特の個性を見つけ感心していたから、この号ではじめて悪魔「晶」と天使君「秀」
が明確に表明さたころがちょっと違和感を覚えた。いや実はもう少し前「晶」が学生生活
を終え、社会に出てどんどん物語が現実味を帯びてきたころからの思いだったのかもしれ
ない。しかしこれは私の趣向という一方的な期待感であったから、なんら作者に強い注文
をつけてベクトルの方向を変えさせようというつもりはさらさらなかった。だが今回、最
初の読み始め印象とはちがい、またあの夢か現(うつつ)の間に浮遊する「晶」と「秀」
の関係が見事に表現されていて、これはなかなかいいぞと思った。

◆詩について
  詩といえば昨年の大晦日に駿河台下の三省堂へ行き、現代思想の特集「ニュートリノ/
 相対性理論」と「詩をどう読むか」・テリー・イーグルトン(岩波書店)の二冊を買っ
 て、正月休みに具えた。その詩の本によると「詩における言葉はいつも使うありきたり
 の言葉でなく、言葉への特別の自意識をもつようなものを選ばなければならない。
 言葉にはそれぞれに固有の響き、高低、密度があり、詩には他の言語芸術よりもそれら
 をたっぷり利用しなければならない」とある。

  今回の詩<朝流れる光の粒>を読むと、情景は不思議な浮遊感と隠喩に富むが、もう
 一つ統一されたイメージ、韻律、リズム感は少ないようだし、文語、口語の混在に違和
 感があるような気がする。韻文と散文のちがいは勿論韻やリズムなどの有無の違いもあ
 るが、作者が自由におこなう「行の切り替え」も大きな要素と成る。改行によって意識
 の変化・飛躍をさせることももあるし、その一瞬の沈黙の間に緊張感や強調感をもたら
 すのではないだろうか。その点でみると行の長さも不揃いだしリズム、同じテーマによ
 るリフレインもなくどこに焦点があるか判らない。・・・ちょっと厳しい評でしたか。
 だが作者は独特の鋭い言葉、想念、象徴、隠喩、シュール、ウイット、アイロニーなど
 を豊かに持ち合わせていると思いから、これから創作を重ねるうちにきっと素晴らしい
 ものが出来ると確信している。





「あした天気になーれ 第6回(最終回)*評のお礼」より????2012/3/10????*同人α30号

「赤目四十八瀧心中未遂」を書いた車谷長吉の言ではないが、「小説はいかに人物を描く
か」。はたしてカラマツ・ジロー、細君、チキン・ジョージの三すくみ掛け合いや人物像
がうまく描けているかどうか気になるところです。ご愛読ありがとうございました。
私の一番書きたかったのは第4回の夢の話。女性がカラマツ・ジローの左腕にすがり寄り
「あなたは今までずっと私を受け止めて呉れなかった」と言ってジローの目をのぞき込む
ようにじっと見つめた。男と女は常に細い糸の引き具合、夢見て恋して諦める。
そんなだばだばだの世界・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=SlFWzNfC6Yk&amp;feature=related





山荘便り?? 2013/3/10

??先日ポール・ハーディング著「ティンカーズ」(小竹由美子訳 白水社)という本を読
み終えた。ちなみに題名の「ティンカー」とはどういう意味か。辞書によると「いかけ屋」、
「へたな職人」とある。
 物語は時計修理人の主人公ジョージ・クロスビーが死ぬまでの八日間に、父親のハワー
ドや家族との思い出とともに、様々な幻覚をみるという筋である。その父親は森のなかの
人々の要求を叶えるために、ティンカー、ティンカー、ティン、ティンとバケツやナベな
どの金物のぶつかる音をさせながら、荷馬車で色々な生活雑貨を積んで売り歩く暮らしを
していた。時には鋳掛け屋、鍋細工師としての仕事もしたが、たいていはブラシやモップ
の行商人だった。

 主人公ジョージの死の床での思考はすでに朦朧としていて、白昼夢にちかく時系列に従
わないもので、読者の私にとっては筋を追うことに難儀をした作品だ。とはいえ、私の読
書傾向は推理小説や冒険小説や時代小説のように筋を追う物語よりは、意識の流れを描く
ものが多いようで、いつも苦労している。しかし好みとはやっかいなもので、謎解きや事
件の進行など喜楽に読める作品でも、好みでないものはすぐに途中で投げ出してしまうの
だ。それに名前と場所と環境を変えただけで同じプロットで繰り返されるシリーズものの
小説等、その作り手の安易さ、読者の興味を刺激することばかりに気を配った作品、最後
にどんでん返しを得意とする技巧をこらした作品にはうんざりだ。



133α編集部:2014/05/19(月) 13:49:50
建築家らしい投稿集
.
??????????      建築家らしい投稿集?? 2007-2009







「独・偏・戯評」 -都市の景観 より  2007/7/19

◆ 日本の建築基準法では第1条に「この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に
  関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もって公共の
   福祉の増進に資することを目的とする」

◆ フランスの建築法規は「建築は文化の表現である。建築の創造、建築の質、これらを
  環境に調和させること、自然環境や都市景観あるいは文化遺産の尊重、これらは公益
  である」と定めてある。

◆ 日本の建築法規は単に構造や設備や用途等を規定しているのみで、フランスの自然環
  境や都市景観、歴史的観点等の理念が欠けているのがわかる。

◆ 現代都市の庶民の住み方においても、その理念による違いが顕著である。





「美」について   2007/7/19

◆ AM5:00起床。6:00より散歩。無縁坂を下り、東大を左に見て弥生町へ。弥生美術館、
  立原道造記念館をへて言問い通りを左へ回り、本郷通りを正門、赤門を経て帰る。

◆ 楳図かずおの建設中の家が話題になっている。外壁を赤と白の横ストライプで仕上げ
  る計画とか。それにたいして隣と向かいの住人から反対が出て建設を中止しろという
  ことである。テレビのインタビューでその人の「私の心の中を赤と白のペンキでぐち
  ゃぐちゃにするつもりか」と実に感情的なコメントがあった。あの感情は一種のファ
  ッショを生む根源を見たような気がした。自分の美的規範に反するものには理屈抜き
  で力ずくで断固反対するという激しさだ。

◆ 以前にもその様な環境破壊論が出た建物が会った。横浜の高級住宅地にピンク色のマ
  ンションが出来たときも、やはり「美」・「醜」の見解の相違で反対運動があったし
  千代田区九段に建つイタリア文化会館も、皇居の側であるから「赤」の外観がそぐわ
  ないという反対が起きた。その2例を見た者としての私見を言えば、あの程度のこと
  で環境問題として大げさに反対するほどのものか、もっと広範に改めるべき生活上の
  悪癖にたいしてその人達は運動を起こすべきだと思う。例えば、歩道に立看板や置看
  板、自転車や自動車の駐車、私物を放置しないこと。「美観」上「歩行上」も大いに
  問題である。建物の問題は私有地の中のこと、後者は公的な空間を使用に使うという
  根本的な違反であることに違いである。

◆ 話題になっている「美」については、非常に個人的なことで「あれがいい」「これが
  良い」と単純に割り切れるものではないだけに決定的な解決法がないのでやっかいだ。
  十分話し合ってコンセンサスを作り上げるように努力することしかないようである。

◆ ちなみに日本の建築基準法は建物の構造や避難や安全の規定が主で、都市の歴史や美
  観にかんする言及はない。それに反し、フランスのそれは「建築は文化の表現である。
  建築の創造、建築の質、これらを環境に調和させること、自然環境や都市空間あるい
  は文化遺産の尊重、これらは公益である」と定められている。





「観光立国ニッポン」*の感想 より  2007/8/7 ??*同人α11号

◆  さて、毎度遅刻常習犯である私の「観光立国ニッポン」についての感想を書きまし
  ょう。本来ならば最終回ですので、第一巻から膨大な物語を通読すべきでしょうが、
  糊口を凌ぐのに精一杯で、趣味のための時間を不思議な国のアリスに出てくる大きな
  時計をもった白うさぎから買いたいくらいであります。「急げ急げ」と白ウサギにせ
  かされながら、私が抱いた疑問点を簡単に二点に絞って書いてみました。

◆ 第一の疑問
  「観光立国ニッポン」という表題から、私は今までの日本の「重厚長大」の産業構造
  を脱しキャピタルゲインのように不労所得で生きていくためのシステムを見事に描い
  てくれる物語であると、私は早合点してしまったようです。イタリアやスイスやフラ
  ンスなどの歴史的遺産や文化的なものを目玉に観光で潤っている国のように、日本も
  政策によって可能ではないかという論を待っていました。しかし物語が終わってみる
  とこの表題は羊頭狗肉の看板に思え、快刀乱麻の結論を期待した私は朝三暮四の心境
  でもあります。もしEさんが最初に私が考えた物語と違うことを目指したのなら、こ
  の「観光立国ニッポン」とい表題は似つかわしくないと思います。それとも思い違い
  したのは私だけかな。

◆ あれだけの優秀な高級官僚が集まって苦労しながら出した結論、「観光立国ニッポン」
  に対する回答としてなんの実態もなく、また政策にもならずうやむやにされたことへ
  の私の驚き。E氏が描きたかったのはこの情景に違いない。霞ヶ関に蠢く選ばれた先
  鋭達が国政レベルで考えることの中には、問題解決において実態に合わない実に下ら

  ないシステムを考え出すように思われる。
◆ 私の携わる建築の世界でも、排煙施設とか天空率とか日影規制などの基準が定められ
  ているのだが、小難しい数式による算定がはたして実態にあっているのか疑わしい。
  例えば排煙施設というのは火事の時、非難支障になる煙を室外に出すための設備であ
  るが、それが現実に役に立っているのか実際効果が有った等と言った噂も聞かず、は
  たして有効に機能している設備なのか疑問である。道路斜線や北側斜線などの規制も
  建物の形態をいびつにし、材料や機能の有効利用を疎外している。また「姉歯疑惑」
  以来、構造や安全にたいする手続きの膨大な書類提出で何が変わったのか。確認申請
  で役所に出せと義務づけられた図書ははたしてそれらの建築物における支障の根本的
  な問題解決になっているのか。私は規制や提出書類の膨大な量にもかかわらず、不正
  は決して無くならないであろうと思う。なぜなら建設中の建物がそれらの図書に合致
  しているかどうかを検査するシステムが十分なままでは、いくら法律や提出された資
  料を机上で確認してもだめである。この一点が何時までものこる問題点で、役所がせ
  っせとつくる猥雑な手続きや小難しい数式の規制では解決しないこと必定である。こ
  のことは現在地球が負っている温暖化や資源の枯渇といった危機を回避しなければな
  らない行為にはんしているということだ。それらの煩雑な手続きはユーザーを守ると
  いうことではなく、行政の不備の責任を逃れるために言い訳をせっせと作っているに
  過ぎない。

◆ とまあ色々のことを考えさせてくれる小説ではあった。余り膨大すぎて私には当分こ
  のての長編小説は書けないと思った。たとえ欠陥が有ったとしても、Eさんはその名
  のごとく、私が創作するにあたって一番大事だと考えている、「イマジネーション」
  の才能を有り余る程持っておられる方だから、これからが楽しみである。またこの手
  の庶民には判らない魑魅魍魎の世界を描いて欲しい。





木造3階建の家  2007/9/23

散歩途中、本郷5丁目あたりの路地裏で木造3階建てのアパートを見付けた。多分戦前に
建てられて、戦火を免れた強者であろう。もはや現在の建築基準法の構造や防火規定に抵
触することは確実で、このような物は再び現れて来ないだろう。新しく立て直すとすれば
コンクリート造や鉄骨造などの確実に違った形態の物を要求されるだろう。
しかし、五十年以上も生き延びた建物には懐かしさがこもり、尾崎 一雄の文学を目指す
若い青年とその恋人との貧乏長屋に暮らす芳兵衛物語を彷彿させるものだ。
久し振りに息子が尋ねてきたので、細君と私の三人で秋葉原に山荘に取り付ける照明器具
を探しに行く。天井が高いのでペンダントでないと新聞も読めない。しかしこの頃の秋葉
原には照明器具を専門に扱っている店がめっきり減った。山田照明も山際リビナ館も閉鎖
になっていて、ゲームソフトやオーディオやコンピュータ関連の物ばかりになっているよ
うだ。そう言えば照明器具なんて新築の時一度購入すれば何十年も持つから、そんなに需
要が無いのだろうし、デパートから家具が消えたのと同じ理屈なのだろう。
(東京散策 (1) にも同時掲載 写真付き)





柔軟な思考の崩壊    2008/1/2

◆沼南ボーイ氏の「未来責任」について次のような投稿があった。
 道路公団民営化推進委員会や、最近の年金記録検討委員会などの委員などを経験した川
 本裕子早稲田大学教授が論じている、「問題解決の先送り」の風潮があると指摘してい
 る。
 兎に角社会保険庁や厚生労働省の薬害問題などをみると、よくもあそこまで杜撰である
 ことに平気だったものだと変に感心する。
 建築の構造疑惑・姉歯問題においても、公的審査期間にも同じようなの精神構造が見受
 けられた。

◆一方、我々建築の仕事に携わる者からすると、今回の不正防止を目論んだ建築基準法の
 改正もむしろ改悪としか写らない。早い話が、問題の本質は別な所にあるのだが、審査
 さえ厳しければ不正は無くなるだろうと単純に思っている節がある。
 だから、我々から見ると役所が「このように綿密に真剣に審査しています」とばかりに
 本質でない部分を事細かに規定して審査を厳しくするのは「ユーザーへのいい訳作り」
 としか思えない。「体面さえ整えば実質がなくても」責任は逃れるという、常套の考え
 方だ。
 それが如実に露呈したのが阪神神戸の大震災である。すべて倒壊した建築や土木の構造
 や工事監理をした役所が何一つ責任を取らない体勢になっている。それなら確認申請を
 役所に提出して許可を受ける必要はないではないか。権限だけあって責任はないという
 不思議な制度で、役人を食わすための制度でしかないのではと勘ぐるのは私だけではな
 いであろう。

◆改悪建築基準法の実例としては普通の3階建ての個人の住宅に、以前は3週間で確認申
 請がおりていたのに、改正後は3カ月以上もかかるし、その記載内容も微細に渡り以前
 の3倍も手間が掛かるのである。
 また、建材の防火や耐力や効果の認定資料の提出においても、以前は国土交通省の認定
 を受けた建材においては、認定番号を記するだけでよかったのが、改正後は認定証書と
 その納め方の資料を添付しなければならない。家一軒に200種類以上の建材を使う訳
 だから、その資料は一抱えもあるほどの量を提出しなければならない。これは二つの問
 題点があるのである。一つは公の機関が認定したものをなぜ認定番号で由としないのか。
 問題が起きれば建材を提供するものが責任を負うことを前提に認定した訳であるから工
 法や材質についての詳細を重複するかたちで提出させる意味がどこにあるのか。二つめ
 は世界の趨勢がエコや省エネや人的な労力の無駄を省くという問題を真剣に取り組んで
 いるのに、時代に逆行した政策であることである。マスコミも経済的停滞のみを追求す
 るのでなく、一番の問題点は世界的環境危機につながるこのことに気づくべきであろう。

◆無責任な国民や為政者の「未来責任」先送りの風潮とどう関わりがあるのかわからない
 が、今度の建築基準改正の取り扱いについて顕著になった事例として、柔軟な許容の考
 え方がここ近年変化していることに気づいた。





建築の安全について  2008/2/7

 建築の安全についてという記事が朝日新聞2008/2/7に載っていた。
私がいつも言うように書類審査を厳しくするだけでは不正な、あるいは施工ミスのない建
物は無くならない。改正基準法においても書類さえチェックしていればよしとするいつも
の役所の姿勢から一歩出ていないから、肝心の点で効果がないのである。それ以上に枝葉
末節まで書類に書き込まなければならなくなったお蔭で、建築士の作業が5倍も10倍にも
なり、重要な点に時間や意識がとれなくなってマイナス面がたくさん出てきた。
それから、提出する資料も格段に増えエコの面からも社会問題を含むと思われる。
国土交通省の認可を受けた建材もその納まりや材料の詳細を添付することを要求されるが
認定番号と認定書1枚の添付で済ますべきだ。責任ある省庁が認可したという権威はなん
なのか、信用できないのか。確認申請において役所が判断ミスを犯した建築物にたいして
役所は決して責任をとらない。阪神神戸大震災のとき倒壊した建築の審査をしたにも拘わ
らず、役所の責任に対しては一切言及していない。その程度の申請精度自体がなんの意味
と権威があるのか判らなくなる。





「フランス便りー春」* 評 より  2008/5/24 ??????*同人α15号

◆先ずR子さんの質問にお答えします。建築の敷地について、細分化されると通風や日照
 や植栽などの環境が阻害されるので、都市近郊の良質のベッドタウンではある一定規模
 の広さの敷地が要求されます。例えば横浜市のように敷地面積の最低限度として、
 第1種低層住居専用地域 165?
 第2種低層住居専用地域 125?
 以上の敷地の広さがないと建築できないなどの規制をしている自治体があります。フラ
 ンスの5000?からすると比べものにならないくらいのもので、お城とウサギ小屋の差が
 ありますけどね。そちらでは都市と地方の、或いは一般のサラリーマンと農業に従事し
 ている人々との問題はどうか知りませんが、日本ではどのような地域においても家屋敷
 の広さは概して狭いものです。都市部では15坪未満の敷地に3階建ての家を建てる場合
 もあり、設計に携わる身からするとその空間の貧弱さ、テクスチャーや住み方のセンス
 のなさには悲しくなります。日本は国土の70%が山岳で占められ建物を建てるのに適し
 た平地がないためか、それとも人口が多い故か、どこに行っても小さな家がひしめいて
 います。





「フランス便り―夏」*  評より   2008/8/31  *同人α16号

◆住まいにおけるヨーロッパと日本の比較を面白く読みました。
 たしかに石造りの建物は重い壁を支えなければならないために、構造上大きくな巾の窓
 がとれないから部屋の中は暗い。しかしその反面暑さ寒さの外気の遮断には有利です。
 一方日本の建築は木材が豊富に産したから「まぐさ式」と言われる柱と梁の構造で壁を
 作らなくてもいいから、大きな開口が可能である。しかし外気の影響をもろに受ける。
 私は、住まいはその土地に産する建材を使い、長い年月鍛えられた伝統的な工法の建物
 が一番合理的だと信じています。石造りは重厚で外の自然現象を制御出来るが、レンガ
 なども含めて「組積造」といわれる物は地震に弱い。最近中国で起きた四川大地震では
 数万人の死者を出した地域の家も「組積造」の建物が多かったようです。その点地震国
 日本にはその工法は向かないようです。

◆陰翳について
 日本でも昔は日差しを避けるために深い庇を設けました。その辺のことを谷崎潤一郎は
 「陰翳禮讚」を1934年に書いています。もうすでにそのころでも谷崎が嘆くような薄っ
 ぺらな深みのない西洋的な建物が横行していたのだろうと想像します。今の日本の殆ど
 の家が深い庇を持たず、明るい部屋だけが価値あるがごとく明るければいいとばかりに
 ガラス窓だらけの家になってしまったようです。晴天の夏の日差しの紫外線をもろに浴
 びる部を、人体に影響を及ぼす害や落ち着かない居場所の喪失を文化的、近代的、洗練
 された生活と思い込むのはいかがなものかと憂うこの頃であります。

◆シエスタについて
 私も職場と家が歩いて五分と掛からない近さにありますから12時から2時まで家に帰り
 ます。食事をして30分ほどシエスタを取ります。期せずして私はラテン系の習慣を享受
 しています。また珍しい異国の文化を紹介してください。楽しみに待っています。





モリモト倒産    2008/11/29

 東証2部上場のマンション分譲のモリモトが東京地裁に民事再生法の適用を申請した。
思えばバブル崩壊の1994年ころ、地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災が起こった時期に
モリモトの仕事をした。 永代橋の自分の設計事務所を止めて日本橋の熊本さんの曉設計
事務所に入った年である。
 川崎市の溝の口や大田区の糀谷そして世田谷の上祖師谷に建つマンションの設計をした。
モリモトの事務所はまだ自由が丘駅の近くのプレハブの事務所ではあったが、十年近くの
うちに中堅のマンション業者となったようだ。我々はしかし上記の物件の後は取引がなか
った。この業界は土地を持ちこんで企画しなければ設計を貰えないのである。だから不動
産屋から土地の情報をもらい、その土地にマンションを計画した物をディベロッパーに持ち込
んで、採算が合えはゴーとなるわけで、それこそ限りなく基本計画をしてもなかなか実施
までには至らなかった。今思えばこの前後は苦労の多い十年だった。





不動産の所有権について    2009/7/3

 「シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家」の最終回で取り上げる、不動産の所有権につい
て何度も専門家であるE氏に問い合わせたが回答をよこしてくれない。私の件は重要度が
低いのか、金にならないから無視されたのか、それとも単に物忘れが非道いためなのか。
とにかくいくら待っても返事がなく、全く当てに出来ないことが判った。そこで現役の不
動産会社を経営している安芸さんに電話で頼んでみた。快くOKしてくれたので、質問事
項を前もってメールで送ることにした。
 これは一戸建ての家とマンションなどの区分所有法に関わるものとの違いがあるのかど
うか判らない。あるいは共通の単純な個人の所有権の問題なのか。ともかくも舞台がマン
ションの中の問題なので、それについての権利や規制を定めた法律を知りたい。

1.住宅ローンの残る住民が所有権をもったまま、その負債を完済しないで行方不明にな
  ったっ場合。債権者はその所有権を自分に移すことができるか。もしあるとすればど
  のような手続きが必要か。

2.負債のない住民が行方不明になった場合。その権利は永久にどこにも移換されないか。

3.もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を、都市再生をはかる公的機関が
  整理できるか。もし出来るとすればどのような法律のもとに執行するか。

4.もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を公的に再生することが出来ない
  物件を「闇の力」によって不正に統合する場合はどのような詐欺手段が考えられるか。




Eさんからのメール   2009/7/5

 念願の「シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家」の最終回用の資料がEさんから届いた。
依頼して半年ぶりで非常に助かった。判らない点、外のバリエーションがが存在するかあ
るかどうか詳しく資料を読んで、あれば再度教えて貰うつもりだ。

Q1住宅ローンの残る住民が所有権をもったまま、その負債を完済しないで行方不明にな
  った場合。債権者はその所有権を自分に移すことができるか。もしあるとすればどの
  ような手続きが必要か。
A 債権者には様々な種類があり、どのような債権者かということがまず問題ですが、答
  えを単純化するために、ローン債権者(一般的には銀行)と管理組合(管理費にかか
  る債権)の二つに限定します。
  この二つであれば、答えは単純になります。
  結論的には、所有権を移すことは極めて困難ですし、むしろ不可能というべきでしょ
  う。金銭債権は、訴訟提起をし、判決を得て当該判決を根拠に土地家屋を競売し、満
  足を得る、ということになります。金銭債権としてはそれで十分だからです。
  その過程で自ら競売で落とすということが可能ですが、それは偶然の産物というべき
  でしょう。
  行方不明者を相手に訴訟を起こすときは、債務者を履行遅滞にするために公示催告し
  ます。行方不明者ですから、応じないでしょう。そこで民事訴訟を起こします。民事
  訴訟も相手方に訴訟を起こしたことを通告する必要があり、これは、行方不明者の場
  合は訴状の公示送達をします。
  前述の公示催告も公示送達も裁判所の前の掲示板に掲示することによって行われてい
  ます。
  行方不明者ですから、期日に裁判所に出頭して反論するということはあり得ないので
  ただちに結審ということになり、勝訴判決が直ちに出ます。
  こんなことになるのは、民事訴訟は当事者主義が貫かれていて、反論しなければその
  主張が正しいとして判決が行われるからです。

Q2負債のない住民が行方不明になった場合。その権利は永久にどこにも移換されないか。
A その通りです。所有権の絶対性と説明されています。本人の意思以外で所有権が移転
  することは有り得ません。

Q3もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を、都市再生をはかる公的機関が
  整理できるか。もし出来るとすればどのような法律のもとに執行するか。
A 行方不明者という理由で特別に扱う制度は我が国には有り得ません。強制的に土地等
  を使用する方法は、道路等の公共的な施設を設置するために、公権力による強制収用
  の方法があります。これは成田空港用地を国が取得するためにやった方法です。都市
  再生のような理由で強制収用を行っていいかどうか、かなり議論を呼ぶでしょう。
  ただし、マンションの場合は、その建て替え等では、集団の多数意見が尊重される仕
  組みとなっています。
  その場合、意見の申出等で前述の公示催告等の方法を使用して、実質的に本人の意思
  を無視して実行していく方法があるように思います。しかし、これには、これから更
  なる勉強をしないと俄かには困難なものがあります。
  具体的に崩落しようとしているマンションをどのようにしたいのか、おっしゃってい
  ただくとその方法が見つかるかもしれません。

Q4もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を公的に再生することが出来ない
  物件を「闇の力」によって不正に統合する場合はどのような詐欺手段が考えられるか。
A 一つは、単純に偽の売買契約です。
  もう一つは、本人の同意があったという文書の偽造です。
  いずれも行方不明ですから、短期的には問題になりえません、本人が気づいても後の
  祭りということになるでしょう。
  私はこの文書偽造の方法をお勧めします。一番単純で一番簡単だからです。
  法的には刑法に触れる方法ですので犯罪ですが、そこは闇の力ということになります。
  尚、マンションの場合は、闇の力に頼ることなく、誰かが偽造して後は誰もが知らん
  顔をする、というのが一番ではないでしょうか。これは古来から日本の伝統です。ど
  この村でも、この掟を村八分で守っているではありませんか。





分譲マンション管理費問題  2010/1/27

今朝2010/01/27の朝日新聞に「分譲マンション管理費-住まぬ人に増税額適法」という記事があ
りました。私はずいぶん前に管理組合の仕事から離れていましたのでこの問題が話題にの
ぼっていることを知りませんでした。当時から賃貸の部屋が増えると管理や環境に支障が
でることは身をもって承知していました。
「部屋をもちながら自らはすんでいない「不在所有者」には「居住所有者」より額を上乗
せしていいかどうかを争われた訴訟の上告審判決では26日「上乗せは許される」との判断
を示した。これは管理組合の活動が「居住所有者」に負担をかけ、不在所有者との不公平
感を和らげる手段として認められたものだ」と書いてあり、さもありなんと思いました。
万理さんのマンションでは早速この件に対して検討に入ったということは、管理組合が健全で
ある証拠でしょう。
私の「沈み行く家」はいかに管理組合の弱体によって、共同体が滅びてゆくかもテーマの
一つでした。区分所有の生活形態は様々な問題を抱えていることを、みなさんも知っても
貰いたいと思ったことでした。
「らぶれたー」の 「寡守(かす)」と「未時去(みぢこ)」はこれからどうなるでしょうね。
あわや落花狼藉かんらからから。
チリ人はご推察の人、しかし夜間飛行の前任の老パイロットとパチパチの頭脳明晰・矢理
久利上手・一寸異端女性ピエロのパイロットに摩り替わったことはご存知ないみたいです
ね。この世はだましだまされの世界、簡単に信じてはいけない。と中島義道はいっていた?



134α編集部:2014/05/25(日) 20:35:07
ユーモア/パロディあれやこれや
.
         ユーモア/パロディあれやこれや
                  2007-2012




  その作品を読むと、ひたすら暗くてしっとりした純文学を追っている人のように思え
  た。 しかし、氏が書き残したたくさんのエッセイを読むと、どっこいそのあくなき
  探求心は、人や生き物や事象を思いもよらぬ視点からえぐりだし、観察しまくったり
  笑い飛ばすこともやってのけているのだ。 暗くてしっとりし過ぎる作品の中にも、
  どこか突き抜けたところにたどりつき、時に笑いさえ顔をだしてくることがある。
  笑いの中にもの悲しさを、暗くて悲しくてせつない中にユーモアも。
  散歩の最中でも、執筆中でも、それが激しく入り交じる。(編集部)





「傑作な看板」より 2007/7/18

◆ AM5: 00起床。 一時間仕事をする。6:00、今日は竜岡門から東大校内に入り、
三四郎池を廻って正門から出る。 本郷三丁目の角の三原堂は今立て替えの工事をしてい
るが、工事用シートに大きく「立てかえ最中」の文字が目に付いた。おやっ、名物の大学
最中(だいがくもなか)」のほかに「たてかえもなか」を発売したのかと一瞬思った。
普通たてかえの工事中であれば「立て替え中」とかいて「最中」とは書かないだろう。
これは三原堂の受けねらいのユーモアなのか。きっとそうに違いない。





「合評について」より  2007/8/10

◆ 合評についての方法論は長岡さんが実に明確に分析し提示してくれました。私も前面
  的にそれに賛成いたします。
◆ だが、今回の問題は実はそれ以前のマナーの問題だと思います。何を書いてもよろし
  いという建前は確かにそうですが、何度も検証し分析して苦労しながら合評するとい
  う責任を負った真面目な投稿と、楽しい会話やホラ話やユーモアや艶な話や披露とい
  ったお遊びの投稿とを区別しないところに有るのではないでしょうか。





「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」  2007/11/26

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案してき
  た。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新しい世
  界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつか試みた
  ものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A列は名詞を
  B列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列それぞれに乱
  数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番号をそれぞれ若
  い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、「民主主義にお
  ける無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」などと判じ物のようなものが
 ??出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろう。
  そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎにぎし
  く騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり始める。
?? 傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じながら想像も
  付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉同志のミスマ
  ッチによるおもしろさをかみしめる。





「シリーズ・歪んだ風景−沈みゆく家 第一回」の合評のお礼 より 2008/5/12

◆実は今悩んでいる文章のスタイルについてO氏のの鋭い指摘を受けました。
 「古賀さんは心象風景に徹するか、パロデイの話の展開を真面目くさってユーモアたっ
 ぷりにやるかどちらかに徹した方がよいと思う」と。たしかに今回私が描きたいテーマ
 はシリアスなことでありますが、「歪んだ風景−疑惑」に登場した5人衆が出てきてか
 ら急にパロディの様相を帯びてきたことで戸惑っているのは確かです。イマジンさんの
 「主人公がどのような動きをとるか解りません、考えていません」という創作状況まで、
 まだ私は達観していないのであります。





「沈みゆく家−合評」お答えより 2008/6/1

◆Nさんの「パロディとは,どんなもんを言うのか」については同人α第6号の「疑惑」
という「姉歯構造疑惑事件」を取り扱った作品に登場する5人衆の描き方に依っています。
但し正確にはパロディとは「既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見し
てわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように
作り変えた文学作品」とあり、「疑惑」は本歌取りをしていないので厳密にはパロディと
いう言葉は適当でないかもしれませんが。
シリアスな問題を抱えた人物を敢えて諧謔的にとらえたもので、奇想天外な物語の展開は
パロディでないと描けないと思ったからです。悲惨なものごとも鳥瞰的に見ると、観察者
はその悲惨さから逃れて妙に冷静に達観的に諧謔的にとらえることをするような気がしま
す。姉歯事件もある面では悲劇的な問題も含みますが、一方では色や金といった欲望に振
り回される人間の弱さ、ころりとだまされる検査機関などの風刺する要素は五万と見つか
ります。その五人衆が再び登場した訳ですから、そのまま滑稽な人物とするか、一転して
シリアスに描くか迷うという訳です。
 また「戦争の傷跡の中で,戦争で障害を負った友人のエピソードに力が注がれているよ
うに思いますが,なにか唐突というか,違和感を感じながら読みました」とありますが、
赤松次郎の育った環境や、心の中の襞に引っかかっている心情などを理解してもらうため
の記述と思ってください。





「K氏・M氏の投稿について」より 2008/6/23

 K氏がM氏の文に頭に来たと聞いて、私も考え直してみた。まだ良く分析は出来ていな
いが、M氏の人の良さそうなスタイルやユーモアらしきものの中に、妙に人を突き放すよ
うな皮肉な部分を感じた。これはF氏と同じ匂いを感じるもので、私がよく言う皮肉とも
どうもちょっと違うような気がする。私のは相手を尊重する心は失っていないつもりだが、
彼等のは吐き捨てるような侮蔑と揶揄が含まれているようで、感覚的に肌が違うと感じて
いる。





「エイプリル・フール」 2009/4/1

今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアのあ
る罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。





「浪速の空からの感想」より 2009/6/12

◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?





「ユーモアについて」 2010/8/28

X氏がユーモアやパロディー記事をいつもと異なるペンネームまで駆使して投稿している
記事を読むと、X氏の日頃の文章表現と言動を考えるに、氏のユーモアや笑話を投稿する
姿には違和感がある。そこでどうしてだろうと考えてみた。
 ・X氏は一度も破顔一笑したことがない。
 ・X氏は一度もユーモアや笑い話を会話でしゃべったことはない。
 ・X氏は一度も人の機知に富んだ話に乗ったことがない
などを知ると、氏がユーモアや笑い話を投稿することにそぐわないと感じるのは、私だけ
であろうか。
アリストテレスは「道徳的な美徳は習慣の結果として生まれる」といっている。また「我
々は正しい行動をすることで正しくなり、節度ある行動をすることで節度を身につけ、勇
敢な行動をすることで勇敢になる」ともいっている」。
それから結論を導くとすれば、X氏は彼の書く社会の不条理にたいする文をはじめ、ユー
モアや笑い話においても自ら生活の中で実践されていないものだから、自らが頭の中で深
く考察することなく他からの情報を単に書き写しているにすぎないのではないか。だから
私の心に全く響かないのだと考えた





「Sさんのお願い記事を読んで」 より 2010/9/14

◆ よそのサイトのことながら何が問題点かを野次馬たる私が分析してみよう。著作権と
 いう社会的な大きな問題はマッド・アマノ事件(昭和47 年)で有名であるが、あの作
 品が著作権に触れるとなるとパロディや本歌取りといった芸術の表現が規制されて、広
 い意味での表現の自由が奪われかねない。人の作品を加工することによってしか表現で
 きない作品をすべて否定すると世の中は進歩が無くなる。パロディや本歌取りは元の作
 品の価値を超えたオリジナルなものを作者が表現できるかどうかにかかっている。これ
 は単に他人の作品・学説などを自分のものとして発表する剽窃とは違うと私は思う。
  さて今回のような大々的な著作権の問題ではなく、身近かな問題をクリアーするには
 どうすればいいかは、Sさんの問題提起を分析することから始めなくてはならない。





「あした天気になーれ 合評のお礼」より 2010/12/5

随分遅くなりました。今回は佐高卒業50周年記念大会という大きなきなイベントに参加
したため、ニューロン・カフェを留守にしました。長岡マスターと万理とママには仕事を
押しつけて長期休暇をいただき、しかもお土産も持たず手ぶらで帰ってきて申し訳ない。
もう少し待っていただければ写真と噂話という情報を持参して、ナツヅタもすっかり散っ
た初冬のニューロン・カフェを訪れましょう。『ダ・ヴィンチ・コード』のロバート・ラ
ングドン教授のようにハリスツイードの上着と黒のとっくりセーターとハンチングの出で
たちで・・・。
◆長岡さん
 『佐賀の天気は、今日は晴れのち曇りだったようですが、予報では、明日の天気は生憎
 と、曇りのち雨になりそうですね。同窓会の小旅行の間だけでも、晴れ間が出れば良い
 のですが。赤松さん、どっちが出ても表になる下駄を履いて行ったかな』
◇ご推察の通り朝は本降りの雨でしたが、午後からはすっかり晴れました。雨男 のK君
 が一緒でなかったことも幸いして。
 さて本題、シリーズ物ですので物語の展開が読めないので、全体を眺めながら分析する
 ことを得意とする長岡さんにはちょっと評しにくかったのではないだろうか。評論する
 のも難しいというより、様子見の段階と断じられたのでしょう。まだまだ本題はさきで
 すから、ゆっくり吟味してからの評を期待します。
◆『一貫して描かれて来た、妻または同僚と一緒の時の主人公の不安感や不満、安定しな
 い生活に比較して、いかにも豊かで余裕たっぷりの様にみえ、その間に可なりの乖離が
 垣間見える』
◇さすが鋭い指摘です。突然の舞台が世俗的ではない雰囲気に変わり、一瞬の戸惑いを与
 えることは、私も思わなくもありませんでした。その辺の言い訳は次号で旨く書きまし
 ょう。
 それから表紙の青はKLINE BLUE(クライン ブルー)のつもりでした。一太
 郎のフォントの色で一番上の右から二番目の青を選択、濃度はたぶん85%にしたと思
 います。詳しくはwikipediaのヴ・クライン(Yves Klein)の項目を調べるとその青が
 ありますので、どうぞ調べてみてください。私の選んだ表紙の青と少し違うと思います。
◇万理さん
 25号の表題「颯」を気に言ってくれたありがとう。ミシェル・ルグランの「風のささ
 やき」、またマンディ・バーネットのウイスパーリング風もまたいい曲でしょう。私の
 詩は推敲していないので直接的でメタファーに欠けています。そのうちもっといいもの
 に仕上げたいと思っています。
◆『ポエムでは風を敏感に感じ取る繊細さが読み取れる。作者はいつも右目で千年先、臆
 年先を見、宇宙を感じている。感覚の世界。そして左目で日常の中観察しまくり、次々
 と新しい本を読んで、嬉嬉として遊ぶ、実験する』は万理さん、ほめすぎですよ。
◇私はウィット、ユーモア、シニカル、アイロニカル、ロマン、笑いは何も人を笑わせよ
 うと意図的に創作しないところにあるのではないかと思っている。なんだかくそまじめ
 な人生のどこかに一瞬垣間見る悲しくも滑稽な姿こそ本当のユーモアだと思っている。
 努力しても努力しても人並みに旨くいかない、それでも必死でなにかを成し遂げようと
 する行為。だから普通の人は絶対しないであろう、「タロウ」のように何かを信じて鎧
 を纏い、ヘルメットを被りガチャガチャいわせながら行動する姿の中にそれを感じる。
 人はそれを異端と呼ぶだろう。カラマツ・ジローもその細君もチキン・ジョージもその
 辺に転がっているようで、どこか変だ。通常の生活の中の異常さ。とにかく人の書かな
 いことを書きたいという気持ちで今はいっぱいで次々に実験したいと思っています。





「パロディについて」 2012/3/10

 私は、パロディは平安時代から江戸時代にかけて行われた落首のようなもので、自分の
手の届かない「権力者」や「支配層」にたいして、その手段でしか批判し得ない表現方法
として使われるものと思っていた。しかしご三方は同じ同窓生を揶揄や風刺や批判のため
にその手法をとられて楽しんでおられる。これは私が「権力者」や「支配者」並の存在と
勘違いされたのか、それとも同列の人間をこき下ろすことで自らの優位性を保ち、かつ心
の安らぎをえられたのかどうか私には判りません。
もし私がパロディの作品を創るとすれば、「権力者」や「支配者」を的にするか、また
は自らの性格や嗜好を対象に風刺するかで、少なくとも友人や縁者を対象にするときはそ
れを許される関係をもつ人に限ることを心がけている。しかし私がいつも渋面をつくりな
がら小難しい硬いことばかり発言していて、ウイットやユーモアを解さないという訳では
ない。しかし今回のように論敵を揶揄や風刺で誤魔化す手法はいくらうまくできていて面
白くても趣味が悪すぎる。そういう人は己の人格を自ら貶めているとは思わないだろうか。
きっとそういう風に感じる人もいると思う。
こう書くとまたまた反論のための言葉尻をとらえられて、延々と饒舌の集中砲火を浴びこ
のホームページが炎上しそうで、しばらくは沈黙を守ろうと思う。





「[人生詩]を読んで」 2012/7/17

 今この山荘の周りは狐の手袋(ジキタリス)が薄紫の花を咲かせている。自然は不思議
なもので春が来て緑で覆われると、そこにどのような野草が生えているのか俄には分から
ない。丁度深い緑の山のなかに咲き誇る花を見て、初めてそこに桜の木があったことに気
づくようなものだ。
 春に越してきてまず山吹の花一色になった山を見た。それが終わると空木の花があちら
こちらに静かに咲いていた。それからしばらくは花らしいものが絶えた時、大まむし草が
盛んに目に付くようになる。それからこの季節になると狐の手袋や紫陽花の花が咲き出し
た。
さて本題
 十代、四十代、六十代のときの同じ日の日記によるものとして書いてあるところは、時
代による考え方や生きる姿が比較できて面白い。これは同人α第29号、題30号の「冥
界から覗く人の像をした美しい青い地球」において、自分自身を冥界と現世界を同時に覗
くという、二重の視点から描く面白さと同じだ。
十代は小説を読んだり批判したり、疑問だらけの現実に回答を得ようともがいているよう
だ。
 四十代は社会のなかにどっぷり浸かった現実的な活動が主だ。
六十代は「無限」「時間」「空間」などの悩ましい問題などに目を向けている。
 それにしても高校の同窓会の描写には笑ってしまった。作者と同じような環境を共有し
ている者にとっては、創造された情景と現実を重ね合わせて、ジグソーパズルのゲームを
する楽しさがあり非常に面白かった。これは作者がユーモア、エスプリ、ウイット、悪戯
心を豊富に持ち合わせていることを証明していのである。読者に阿る出もなくまことに淡
々と画いた情景の文の中にそれが良く感じられて、思わずニヤリとしたことであった。

  



135α編集部:2014/06/05(木) 20:53:30
山荘住まい 2013  前編
,

          山荘住まい 2013 前編



     著者は2012年4月に移住したから、この年の一月から三月までは
     初めての定住生活で迎える一番寒い期間となったはずだ。月に一度訪
     れるかどうかの時とは、例え慣れているとは言え勝手が違うだろう。
     のんびりと自然を味わっているか読書三昧の日々のように読めるのだ
     が、冬を無事に越すことができたのだろうか。(編集部)




  冬



「新しい年」 2013/1/1
暮れより紳一郎が来る。いままで乗っていたジムニーがあまりにも古く、みっともないか
ら買い換たらという息子の提案で車のディラーに見に行き、彼が資金を出すといって即座
に三菱パジェロ・ミニを購入した。本来ならお年玉をあげなきゃならないのに、息子から
のでかいお年玉だ。




山荘便り/新雪 2013/ 1/9

??最低気温も−10°の日にもなる季節になった。 ところが本郷に住んでいた時と比べて
随分寒いだろうと思われるのだが、下着ととっくりセーターと薄手のダウンジャケットの
三枚のままで過ごしているのである。「ここら辺は−20°になるよ」とばかりに山荘を建
てるときの職人さん達にさんざん脅かされていたので、当然零下の世界が相当に過酷なも
のだとばかり想像していた。しかしこれも慣れなのか、現に民家もあるわけだからいざ住
んでみると死ぬほどのこともないことが判った。

??雪の日は朝早く起きて山道を散策する。誰もいない、新雪を踏みしめるキュッキュッと
いう自分の足音以外は無音の林の中の時間を独り占め出来るのは幸せだ。
そしてそこにはいろいろの動物の足跡を見つけ、これは何だろう、猪かウサギ、鹿、猿、
栗鼠、モモンガ、貂かと思いを巡らせて推し量るのは実に楽しいことである。しかし足跡
の大きさ、形態、歩幅の間隔を見て、自分の中で想像している動物の足跡と一致しない故
に、それらの実態はまだ解明出来ていないのである。このまえ台所の地窓に両手を着け、
中をのぞき込んでいた黄色の毛をした貂の姿は愛嬌があって可愛く、もう一度その姿を見
たいと思った。




「雪が降る」2013/2/19

 息子がやって来て、雪のなかの自分の車−パジェロ・ミニを初めてみる。

    

    





     寡黙な人からの山荘便り 投稿者:同人α総務??投稿日:2013/1/9

     投稿が少ない文芸「同人α」は無口な人が集まったようだ。
     αの掲示板「ニューロン・カフェ」を「沈黙のウェブサイト」と表現した
     同人もいた。

     無口の象徴でもある、山暮らしを始めた「死霊」に出てくる緘黙の矢場徹
     吾のような人が、時を置きポツリと山の様子を書いてくる。静かな掲示板
     にふさわしい、静かな山の暮らしをポツリと書く。
     少ない投稿の中でもめったに登場しないシリーズだからかつい眼を懲らし
     て読んでしまう自分がいる。写真がなくとも、ないからこそ?山の暮らし、
     風景が十分(勝手に)想像でき、伝わるシリーズだ。
     ああこの同人は元気に生きているのだなと少し安心したりもする。

     引っ越し能力・願望は判らないが、貂(テン)は狐や狸を上回る化身能力
     を持つ生き物だ。じっと考え事をしている人間に興味をもち、部屋の中を
     覗いていたのだろう。
     次に現れたとき、矢場徹吾、いや赤松次郎はこの貂と黙って化かし合いを
     するのかもしれない。

     総務としては緘黙の掲示板が気になることが多々あったが、だからこそ丁
     寧に書く、丁寧に読む、そんな場所なのかもしれないと思い始めている。




山荘便り/素数 2013/ 2/12

 東京新聞2013/02/07に「これまでで最大の素数」を発見というニュースを報じていた。
素数好きとしては見逃せない記事で、それについていろいろと調べて見た。
「1742万5170桁という、 現時点で最大の素数を、 米国の素数探索団体がプロジェクト
「GIMPS」の参加者が発見したという。 素数の中でも特に珍しい「メルセンヌ素数」の
48番目になる。」という。素数とは 「1と自分自身以外に約数を持たない数」 のこと。
ただし1は素数に含まないという。
 どうして大きな素数を見つけようと血眼になるのか、そしてまたいま現在では円周率π
の小数点以下の計算は2011年現在では10兆桁まで計算されているというが、それらの値
を再現もなく追求することにどのような意義があるのだろうか。しかし単なる好奇心と
も言えない。そのひとつとして
◆素数の効用
 それは第三者に通信内容を知られないように行う特殊な通信(秘匿通信)方法のうち
 通信文を見ても特別な知識なしでは読めないように変換する表記法(変換アルゴリズ
 ム)のことである。通信だけでなく保管する文書等の内容を秘匿する方法としても用
 いることができる。その鍵として、十分大きな素数を二つ選び掛け合わせて公開鍵暗
 号を作る等、現実に行われている手法である。

◆自然界の素数
 自然界に現れる素数の一例として、素数ゼミと呼ばれるセミの一種がいる。アメリカ
 合衆国に分布するこのセミの成虫は、ある周期ごとに、13年ないしは17年間の周期で
 大量発生する。成虫になった後は、数週間だけを地上で成虫として過ごし交配と産卵
 を行う。
 このセミが素数周期で発生する理由として、寄生虫や捕食者に対抗するための進化で
 あるという説や近縁種との交雑を避けるためであるという説がある。つまり、もしこ
 のセミが12年の発生周期を持っていた場合、 12の約数である2,3,4,6年の寿命を持つ
 捕食者と同時に発生してしまうことになり、捕食対象にされやすくなる。また、地理
??的に近い場所で12年周期と15年周期のセミが存在した場合、 60年ごとに2種は同時に
 発生し、交雑してしまう可能性がある。すると、雑種は発生周期がズレてしまい同種
 のセミとの交尾の機会が失われる。 素数の周期を持つものは交雑が起こりにくく、
 淘汰されにくいと考えられる。
    以上Wikipediaによる。

兎に角、数字は面白い。さらに素数好きは奇人変人が多いのかも知れないし、絶滅危惧
種ではないかという疑いがありそうだ。




山荘便り/ルーティンワーク 2013/ 2/16

 アランの幸福論にあるように、人は身の回りの悩みや漠然とした恐れや不安などによっ
てもたらせれた滅入る気持ちに陥った時、その原因を一心不乱に探したり、反省や自責や
悔いることで,ますます頑なになっていく。体の筋肉は硬く緊張し、肺は新鮮な空気を取
り入れる力はなく、血液はうまく循環することはできず滞り、腸は働きを止め活動が鈍く
なってくる。
 そんな時は思考を停止して、体を動かし筋肉を和らげ、深呼吸等をして精神の安定を取
り戻す方がよい。背伸びをしたり、屈伸運動をしたり、顔や手を洗ったり、お茶などを飲
み、音楽を聴き、散歩したりする。
 私はある作業や仕事や創作に倦いたときは、それらの達成のために必要な義務感や意志
の力に強いられることなく、すぐさま別のことをすることにしている。たとえばコンピュ
ータの前で設計図を作成したり、物語の構想を練ったり、難しい本を読んだりすることに
飽きると、家を出て林に分け入り薪ストーブを焚きつけるに最適の杉の枯れ葉を集めたり
近所の大工さんから貰った白樺や唐松の丸太を小さく切ったり割ったりして薪にする。ま
た少し疲れたり腰が痛くなると山荘の周りの山道を小一時間ばかり散策し、赤松や唐松、
杉、木楢、椚などの姿や葉の色を観察したり、動物の足跡を探したりする。
 この歳になり多少の余暇の時間が多くなってみると、諸々のルーティンワークも考えよ
うによっては効能があるのではないかと思えるようになった。
 まず、朝起きて窓のカーテンをすべて開け、薪ストーブに火を付ける。コーヒーを飲ん
だ後二摘みのピーナッツを小さく砕き、小鳥の餌台に載せる。ヤマガラやコガラがその餌
を啄むのを眺める。掃除とか洗濯、食事の用意、ゴミ捨て、薪拾い等の生産性のない毎日
繰り返される些細な仕事を、嫌だと思ってしまえばこれほど面白くなく不毛な行為だと思
え、苦渋を感じることもあるだろう。しかしまったく自堕落な生活でも可能な者にとって
も、そのルーティンワークは一日の生活の一定のリズムを作る効果、また仕事や趣味に倦
いたときのリフレッシュという効能を考えると、精神的にも肉体的にもあながち悪ことば
かりとは言えないのではないだろうか。
 しかし、この文章を我が細君に見つかると、「だったら毎日の三度の食事作り、洗濯、
風呂の掃除などなどのルーティンワークをすべてやってよ」とこれ幸いに反撃をしてくる
にいまっている。  あぶないあぶない。




山荘便り/ヤマガラ 2013/ 2/19

 この山荘に移って来てからまもなく、小鳥の餌を毎朝与えている。蛇や鼬鼠や貂などの
鳥の天敵がよじ登れないようにと考えて、ハンガーからチェーンで中空に吊った、コール
タール焼き付けの小さな鉄製の餌台だ。
 今のところ集まってくるヤマガラやコガラは、店で買った小鳥用の麻の実などよりも、
ピーナッツを2ミリほどに砕いたものが好きなようである。正確に数えたわけではないが
特にヤマガラは10数匹が四方の林から入れ替わり立ち替わり飛んできて、朝早くからま
だ何も入っていない餌台をまだかまだかと催促しているように揺らしている。

 この前はいつも通らない山道に踏み行った時、大きな罠を見つけた。
この近くの害獣の指定された猿や鹿、猪、熊等を捕獲するためのもので、太い鉄筋を竪格
子状に組んで作られた幅1メートル、奥行き2メートル、高さ1.5メートルの、すこぶ
るゴツイ代物である。奥に吊してある餌(鶏だろうか?)をくわえると入り口の扉がスト
ンと落ちるようになっている。まだ実際に罠にはまった動物は見たことがないが、ある日
山道の入り口に、お揃いの柿色のシューティングベストを着た猟友会のメンバーが忙しく
出入りしていた。犬が吠えていたのでたぶんなにかが罠にかかったのだろう。
 人が餌付けしている訳ではないが、最近人里へ頻繁にそれらの野生動物が出没する。
どうもゴミ置き場の餌になるものを漁るらしい。

 そういうことを考えると、小鳥に餌を与える方がいいのか、与えてはいけないのではな
いかと考える。 野生動物に対して餌付けが行われるのは、大きくは二つの目的がある。
給餌による保護を目的とする場合と、観察を容易にするためである。
 絶滅危惧種ならともかくそうでもない動物たちに、安易に餌を与えるとその種だけが繁
殖したりしないか。野生としての餌を探したりする能力、飢えに耐える能力が失われるの
ではないか。人間に対する警戒をゆるめさせるのではないか。特にある種の物だけが増殖
してその環境が変化して、自然のバランスが崩れないかという懸念だ。

 ヤマガラは神社のお祭りで「おみくじ芸」をするほど、人になれやすく学習能力も高い
ので、たぶんそのうち私の手の上のピーナッツを啄むようになるだろう。だがそこまで馴
らしてみようとは私は思っていない。家の外に出ると餌をせがんでいるかのようにチチッ
チチッとうるさく鳴くようで、最近は餌台に通うヤマガラ達は少々肥満になったように見
えるのだが、思い過ごしだろうか。




  春


山荘便り/訪問者「モロ」2013/ 3/1

 一週間程前に迷い猫が台所の窓を見上げていた。ちょうど数年前に貂が覗いていた様子
のことを思い出させるシーンだった。そしてまた昨年の春、そっくりの白ろ猫が数回訪れ
たことがあったが、その猫は遂に居着かなかった。近所の人に聞くと親猫は車にひかれて
死んだという。そう言えば山の下の集落で親子をよく見かけていたが、今の迷い猫はあの
子猫か思った。

 毛並みは全体的に白っぽいが、野良猫生活で薄汚れたのだろう、真っ白とは言い難い。
額と足と尾に微かな灰色の虎模様が入っているので、猫図鑑で調べて見たがどうも混血ら
しく判然としない。それでもトンキーズという種類に雰囲気が似ている。まだ人に馴れて
いないので、捕まえて詳しく調べることができない。だから年齢も子供なのか大人なのか
雄か雌かの性別さえも判らない。しかし目の色はすこぶる美しい。アクアマリンの宝石の
ような魅惑的で上品でエキゾチックな異国の薫りが漂う。

 細君は「モロ」という名前を勝手につけて餌をやっている。その名前のいわれを問いた
だすと、ミラノ公 ルドヴィコ・イル・モーロ(1452〜1508年)から取った名前「moro」
であるという。私に相談することもなく、またそのよりどころも説明することもなかった
が、しつこく聞くと今読んでいるマキャヴェッリに関する本に出てくる人物の名前を頂戴
したという。ミラノ公と言えばレオナルド=ダ=ヴィンチが仕えた主人であり、ミラノ公の
愛妾チェチリア・ガッレラーニをモデルに描いた「白貂を抱く女性」が有名である。

 この「moro」はこのところ家の外の零下10度を耐えて生きているのだから結構タフ
にちがいない。餌をやったり寝床を提供したりしているが、家の中では飼わない主義であ
る。また都会のペットのように着物を着せたり、抱いたりはしないつもりだ。だからこの
家が居心地が良ければ居着くだろうし、自由な野良の生活が望ましければ、また山の下の
民家が恋しければいつの日か自らここを出て行くだろう。私はだから「moro」の好き
なようにさせようと思っている。

    




山荘便り/へたな職人 2013/3/10

??先日ポール・ハーディング著「ティンカーズ」(小竹由美子訳 白水社)という本を読
み終えた。ちなみに題名の「ティンカー」とはどういう意味か。辞書によると「いかけ屋」
「へたな職人」とある。
 物語は時計修理人の主人公ジョージ・クロスビーが死ぬまでの八日間に、父親のハワ
ードや家族との思い出とともに、様々な幻覚をみるという筋である。その父親は森のなか
の人々の要求を叶えるために、ティンカー、ティンカー、ティン、ティンとバケツやナベ
などの金物のぶつかる音をさせながら、荷馬車で色々な生活雑貨を積んで売り歩く暮らし
をしていた。時には鋳掛け屋、鍋細工師としての仕事もしたが、たいていはブラシやモッ
プの行商人だった。

 主人公ジョージの死の床での思考はすでに朦朧としていて、白昼夢にちかく時系列に従
わないもので、読者の私にとっては筋を追うことに難儀をした作品だ。とはいえ、私の読
書傾向は推理小説や冒険小説や時代小説のように筋を追う物語よりは、意識の流れを描く
ものが多いようで、いつも苦労している。しかし好みとはやっかいなもので、謎解きや事
件の進行など喜楽に読める作品でも、好みでないものはすぐに途中で投げ出してしまうの
だ。それに名前と場所と環境を変えただけで同じプロットで繰り返されるシリーズものの
小説等、その作り手の安易さ、読者の興味を刺激することばかりに気を配った作品、最後
にどんでん返しを得意とする技巧をこらした作品にはうんざりだ。

 作者ポール・ハーディングの創作方法が私の日頃のそれによく似ているので驚きである。
作者は教職の空き時間に、ノート型パソコンや手近の紙に、時系列は関係なく思いついた
シーンから文章を紡ぎだしては記録していった。プロットを構築するのではなく言葉やイ
メージを追いかけた手法はハーディングに合っていた。そして最後に彼は書いたものをす
べてパソコンに打ち込んでプリントアウトし、床に並べ、絵画で言うコラージュのように
切り貼りして構成を整えるという。
 しかし今時、パソコンやワープロを使わないで、完結するまで原稿用紙に手書きで書き
進める人は、私にとっては驚くべき才能に思われる。小さな訂正や添削はあっても、全体
の流れや筋を頭に入れながら入り口から出口まで完璧に作り上げるのは私にはとても出来
そうもないのである。




山荘便り/春一番の花 2013/3/26

??春の山で一番早い花
ここは藪椿など冬に咲く花木がないために、杉や檜、樅の木以外は枯れ葉色一色の山肌に
なる。そして一番早く花を着かせるのはキブシとサンシュの花である。
 コブシは蕾は膨らんではいるがまだ咲かない。キブシは夏、房状になる青い実を見て、
植物図鑑を探したが何の木か判らなかった。今日その花を見たので再び調べた結果それだ
と判明した。気になっていたことが解けてちょっと頭が軽くなった。
 サンシュは夏の樹形はまったく覚えがないが、春の先駆けに黄色い花が咲くのを覚えて
いた。どちらの木の花も控えめに咲くので、あまり華やかさはない。人工的に栽培した色
鮮やかな花々で満ちている都会と違い、色のない山肌にささやかな生気のある芽生えが私
の気持ちを前に進ませる。その稀少さが他の派手な花々より効果が大きいといわねばなら
ない。

キブシ(木五倍子) Wikipediaより
樹高は3m、ときに7mに達するものもある。 3-5月の葉が伸びる前に淡黄色の花を総状花序
につける。長さ3-10cmになる花茎は前年枝の葉腋から出て垂れ下がり、それに一面に花が
つくので、まだ花の少ない時期だけによく目立つ。

サンシュユ??「ハルコガネバナ」
内部にある種子を取り除き乾燥させた果肉(正確には偽果)は生薬に利用され、 山茱萸
(やまぐみ)という生薬として日本薬局方に収録されており、強精薬、止血、解熱作用が
ある。果肉は長さ1.4 cm程の楕円形。牛車腎気丸、八味地黄丸等の漢方方剤にも使われる。




山荘便り/僕の嫌いな人達 2013/3/31

??私の嫌いな10人の人びとを読んで
変人、奇人である哲学者・中島義道の本「私の嫌いな10人の人びと」が、貸していたとこ
ろから数年ぶりに帰ってきた。不思議なことに私の本だということがよく分かったものだ。
その人は本棚の整理をするとき、小難しい、しかもひねたことが書いてある書物を読むの
は、私しか思いつかなかったからだと私は憶測した次第である。 それほど世間の常識に
楯突くことを書き連ねていて、 一般には受け入れられている行為を糾弾しているようで
常識人は不快になるのだろう。

 1 笑顔の絶えない人
  ・笑顔の絶えない顔は気持ち悪い
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
  ・感謝の気持ちを他人に要求する人
  ・日本的商人道徳への違和感
 3 みんなの喜ぶ顔が見たい人
  ・家族至上主義
 4 いつも前向きに生きている人
  ・考えない人
  ・厭なことはみんな忘れてしまう人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
  ・対立を嫌う人々
 9 「おれ、バカだから」と言う人
10 「わが人生に悔いはない」と思っている人
  ・さっさと満足して死になさい

 中島義道の言わんとするところは、常識的な心地よい言葉ですましていることへの不信
である。その言葉の底の底まで考え抜くということをしないで、美辞麗句を使っていれば
すべてうまくいくという割り切り方、安易さが嫌なのだと思う。本の帯にも「いい人」の
鈍感さが我慢できないと書いてあった。
 たとえばボランティアなどを進んで行う人には敬意を払うが、自発的で無償な行為であ
るはずのことを人に言いふらすのは、何かの見返りを求めているようで見苦しい。そこに
はしてあげる」という意識が有りはしないかなどの解釈が成り立つだろう。
 しかし吉田兼好も言っているように「何もしない批評よりも偽善でも行動を」第85段は
大して何もしない私にはぐさりと胸に突き刺さる言葉である。

 ちなみに変人・奇人の作家はドストエフスキー、カポーティ、シラー、ジェイムス・ジ
ョイス、夏目漱石、江戸川乱歩、夢野久作、太宰治、吉田健一、久生十蘭、内田百間、
泉鏡花、坂口安吾等々。



136α編集部:2014/06/17(火) 14:27:33
山荘住まい 2013 後編
                                  ,

          山荘住まい 2013 後編



     山の定住生活も2回目の夏と冬。著者は猫と出会うため、そして本を
     読みふけるために移住したに違いない。そう思える。(編集部)




  夏


山荘便り 2013/ 6/7

梅雨というのに一向に雨が降らない。だから太陽の光は十分満ち足りているにもかかわら
ず、朝夕はセーターとジャンパーが手放せない程肌寒い。標高1000メートル近い高さのせ
いだろうか。 春先山吹がこの辺りを黄色で一斉に染めたが、山荘の蔓薔薇や紫陽花や
ブラックベリーなど、蕾はあるもののその後なんの花も咲かず、ちょっと寂しい。

 最近もう一匹の野良猫が時々庭に訪れるようになった。三食昼寝付きという暮らしを保
証され仕官した我が家の猫、モロが羨ましいのかも知れない。細君はその新参の猫をカト
ーと名付けた。 あのローマ時代の 吝(しわい)な大カトーの名前である。どのような意
味でそのような仇名を細君が付けたのか、私はまだ問うていない。それにしてもモロに顔
や毛並みがそっくりで、兄弟ではないかと思っている。なぜなら体は大きいがモロと喧嘩
するでもなく二匹とも三メートルばかり離れて黙って座っていることが多い。

 私は朝八時を過ぎると屋敷の上の道に出て散歩に出かける。最近は下のテラスか藪の中
にいるモロを上から呼び、 しばらく待っていると黒く防腐塗装を施した木 製の階段をお
ずおずと登ってくる。私がゆっくり歩き出すと三メートルばかり距離を置いて付いてくる
ようになった。前に飛び出したり、藪や他所の屋敷に入り込んだり見え隠れしするのは私
をからかったり試したりなどの遊びの積もりだろうか。散歩に小一時間ほど付いてくると
いうことはモロにとってどのような感情があるのだろうか。人の顔を見分けたり、自分の
志向した自由な意志、記憶などを観察するに、まんざら知能が無いわけではなさそうだ。
兎に角、私と迷い猫とがこのようになるまで三ヶ月ほどの時間が必要だった。しかしまだ
私の膝に乗るまでには至っていない。

(*「猫道」同時掲載)




山荘便り/ウィリアム・トレヴァー 2013/ 6/9

つい先日友人二人から山荘への引っ越し祝いとして高額な図書カードをもらった。
ここ一年間、仕事が思うように受注ができず、本を買ったり旅行に出かける気分に なら
ず参っていたところで、ことのほか有り難かった。
 早速、念願のウィリアム・トレヴァの本を出来るだけ求めて読もうと思った。日本で出
版されているものは八冊で、そのうちアイランド・ストーリーズは昔既に読んでいたので、
後の七冊を本屋に注文した。 ところが「アフター・レイン」「密会」「聖母の贈り物」の
三冊は求めることができたが、後の三冊は絶版でこれから全国の古本屋を探さなければな
らないだろう。

 ウィリアム・トレヴァー(William Trevor, 1928年5月24日 - )はアイルランドのコ
ーク州出身の作家。現在は、イギリスのデヴォン州に在住し、英語で創作活動を行ってい
る。人物の造形にすぐれ、長篇、短篇ともに名手として高く評価されている。イギリスと
アイルランドの双方を舞台に、カトリックとプロテスタントに属する人々の対立や葛藤を
しばしば描く。

Wikipediaによる
ウィリアム・トレヴァは主人公の身の回りに起きる事件を扱うのだが、大げさに描くこと
はしない、日常の誰にでもありそうな出来事を静かに綴っている。特に女性の心の動きや
感覚の記述に長けていて、読後に何かいい知れない問題を読者に与え考えさせるのである。
さっそくアフター・レインという短編集のなかの最初の一遍 「ピアノ調律師の妻たち」
を読んだ。書き出しは「ピアノ調律師がバイオレットと結婚したのは、まだ若いときだっ
た。そして、ベルと結婚したのは年老いてからだ った」というセンテンスから始まった。
ピアノ調律師が盲目であることによる二人の妻たちの複雑な思いの物語が始まる。後妻の
ベルはダフネ・デュ・モーリアの小 説「レベッカ」ほど気味悪い感覚ではないが、ピア
ノ調律師の考えや感覚に先妻バイオレットの影を感じた。それはピアノ調律師が話す訪問
先の様子や遠くの山や景色の色が、今ベルの感じていることと少し違うことだった。たと
えばピアノの調律に訪れた家の印象を調律師は「あんなに陰気な部屋を君は見たことがあ
るかい?
あれは聖画のせいかな?」。それにたいしてベルの印象は微妙に違っていた。突然、ベル
は自信を深めて人がなんと思おうと気にすまいと思った。裏庭の花壇から先妻が植えたバ
イオレットの植物を根こそぎ引き抜き、花壇全部を芝で覆ったのだった。

 この物語はいろいろの問題を含んでいると思った。身の回りの環境や人々の姿形におい
て、盲目のピアノ調律師の認識が若い頃はバイオレットの目や感覚を通して与えられたと
いうこと。前妻の意図した何かがあったのか、それとも彼女の持ち前の率直な感性なのか
判らない。しかし後妻のベルとは違ったもので、彼女はそれがピアノ調律師にもたらされ
た情報が正しいかどうかは別として、自分の目で見たものを語ろうと決心したのだった。
それはまたこの世界にたいする認識が果たして全く正しいものかどうかという重い問題を
この小説は私に突きつけたように思えた。




山荘便り/ランプの下で  2013/ 6/25

今朝早く目が覚めた。四時半だった。久しぶりに青空文庫を開いて新しい作品掲載を覗
いてみた。堀辰雄の「ランプの下で」という随筆があった。

 「山にやつて來てから、もう隨分長いこと書かない。去年はほんたうに何も書きたくな
かつたので、あつさりと何も書かなかつたが、今年はそんな氣持はかなぐり棄てて、ひと
つうんと書いて見るつもりだ。」という書き出しである。
どこの山の中であるか断定出来ないが、たぶん「風立ちぬ」の舞台、サナトリウムのある
信州だと思うが、ランプや狐の手袋や焚火などといった山荘のイメージは、私の住む環境
によく似ていてすぐに共感が出来た。「狐の手袋」にいたってはこの春、なんの草花だろ
と思い名前を調べたことで もある。正式名称はジキタリス(英語名フォックスグローブ)
といい毒性があるが、一方強心剤でもある。

 それから「これは、こちらの四季社から出す筈の、僕の譯詩集につけてゐ る假題。
コクトオがゲエテとハイネとニイチェの三人のことを書いた詩に「アイン,ツワイ,ドライ」
といふ洒落れた題をつけてゐるのを眞似たの である。」とある「一二三」という随筆も
なかなかいい。そして最後に散 文詩か添えてあった。

    冬

 まだすこしもスポオツの流行らなかつた昔の冬の方が私は好きだ。
 人は冬をすこし怖がつてゐた、それほど冬は猛烈で手きびしかつた。
 人は我が家に歸るために、いささか勇氣を奮つて、
 ベツレヘムの博士のやうに、眞白にきらきらしながら、冬を冒して行つたものだ。
 そして私達の冬の慰めとなつてゐた、すばらしい焚火は、
 力づよく活氣のある焚火、本當の焚火だつた。
 人は書きわづらつた、すつかり指がかじかんでしまつたので。
 けれども、夢を見たり、失せやすい思ひ出の
 助力者を支持して、少しでもそれを引き止めたりすることの、何といふよろこび……
 思ひ出はすぐ傍にやつて來て、夏よりも
 ずつとよくそれが見られたものだ。……人はそれに彩色までした。
 かうして室内ではすべてが繪のやうだつた。
 それにひきかへ戸外ではすべてが版畫の趣になつてゐた。
 そして樹々は、自分等の家で、ランプをつけて仕事をしてゐた……。

「ランプの下で」のランプが今では電灯に変わっているが、零下二十度近くになる真冬の
山荘で、薪ストーブのチロチロと燃える炎とともに夜を過ごすし、このように青空文庫を
読むのが私にとってなんともいえない癒しの時間でもある。




山荘便り/少子高齢化問題の問題 2013/ 7/3

毎日新聞 2013年06月30日 東京朝刊に面白い記事を読んだ
時代の風:少子高齢化社会=元世界銀行副総裁・西水美恵子の「小国」悲観論を笑うとい
う文である。

 「人口減少が問題だと捉えられているようだ。 減ってなぜ悪いのだろうと、長年気に
  なっている。特に「経済小国になるから困る」と言う人が多いのには驚く。
  日本より国民平均所得が高い国は二十数カ国あるが、そのうち人口がわが国を上回る
  のは米国のみ。資本と生産性が伸び、生活水準が下がらない限り、困る理由などある
  のだろうか。
  社会保障負担を案じる若い世代からは「高齢化で生産性が上がるはずがない」という
  意見をよく聞く。いつも「高齢者をばかにしないで!」と、笑ってしまう。
  企業のトップには、人口が減ると生産人口も減ると単純に思い込む方が多く、頻繁に
  相談を受ける。今ある生産人口の大半を無駄にしながら何を言うとあきれるが「女性
  をお忘れなく!」と笑って、我慢している。

私も常日頃人口減少が日本の経済を疲弊させるという論法が大勢を占めていることに違
和感があった。どうして優秀な経済学者が、人口が減っても高い水準の生活が可能である
という理論を策定しないのかと疑問に思った。世界中が人口増加でないと経済発展が望め
ないとすれば、まもなく地球上の資源を食い尽くすだろう100億を超える人口になった
とき、果たして快適な生活を保ち続けることが出来るだろうか。
 そんなことを思うとはやく人口増加に頼らない新しい理論をだれか創出して欲しいと願
うものである。




山荘便り/ネットで身辺報告 2013/ 7/17

今朝の天声人語にネット社会に関して、面白いことが書いてあった。

  「ネットは民主主義に革命を起こす。伊藤穣一(じょういち)さんの信念に揺るぎは
  ない。知の最先端、米マサチューセッツ工科大のメディアラボ所長だ。メディアラボ
  の活動指針として3つのキーワード「ユニーク、インパクト、マジック」を提示。
  「誰もやっていないことをやる、真似はしない(ユニーク)」
  「やるなら社会にインパクトを与える活動を目指す(インパクト)」
  「そしてそれは驚きや感動を与えるものであるべきだ(マジック)」
  という意味が込められている。
  しかし「初めてのネット選挙となった参院選で、候補者の9割以上がフェイスブック
  やツイッターを使う。昨年の衆院選に比べ大幅に増えた。発信の中身が乏しくないか。
  昼に何を食べたとかの身辺報告が目につく。」と評してあった。

たしかに、誰でも日頃暮らしの中で普通に経験している全く個人的などうでもいい話題を
延々と続ける最近の掲示板には失望している。携帯メール依存症のように身辺雑記のやり
とりでしか社会と繋がっているという存在確認ができないのだろうか。そんなことを山の
中で考えた。




山荘便り/短編小説の不都合 2013/ 8/16

 このところ本の帯に「英語圏最高の短編作家と称される」と書いてある、ウイリアム・
トレ ヴァーの小説を三冊購入して重点的に読んでいる。 今は二冊を読み終え、三冊目の
半ばにかかっている。情緒豊かな短編ばかり十二編、一つの物語が二十ページばかりの長
さで、手軽に読み始めることができるが、しかし最近短編小説を読むことに問題が見つか
った。
 長編小説であれば読み終えるまでかなり時間的な余裕と興味を持続させる等の忍耐が要
求されるが、登場する主人公は一定であり頭の中がこんがらかることあまりない。一方短
編小説は、もちろん私の記憶力の減退に問題は大いにあるが、十二編の物語の筋や主人公
がそれぞれ違い、覚えきれないのである。それもそうだが、一日に一時間ほどの読書では
一つの物語さえ切れ切れになり、昨日読んだ筋や人物の名前さえ覚束ない。だから短編小
説では一度で読み終えないと、その内容の全体が見えてこないという問題だ。
 わくわくするような血涌き肉躍る小説であれば、日を置かずに一気呵成に読み終えるの
だが、残念ながら私の趣向の範疇ではなく小難しい本を敢えて好むのだから、これからも
記憶と競い合いながら読むしかないのかもしれない。




  冬


山荘便り/別の言葉の世界 2013/12/14

最近言葉の伝達についてオキシモーラン的妙な取り合わせに驚いている。

◆南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の公式追悼式において、各国首脳らのスピー
 チを手話で通訳していた男性が、手話の出来ない「偽物」だったという疑惑が広がって
 おり、調査が続いているという。

◆吉田戦車の「伝染(うつ)るんです。」に出てくる「傷」と呼ばれる、頭に包帯を巻い
 て学生服を着た、心身ともに深い傷を負った少年が出てくる。いつも人を不安に陥れる
 ような不思議な一言を言い放つ。アベックを嫌悪している。時折新しい文字を発明して
 いる。その文字は普通の人にはどう読むのか、何を意味しているのか判読出来ない言葉
 だ。

◆最近購入した小川洋子の「ことり」に出てくる主人公である少年の兄の話。
親や他人とは会話ができないけれど、小鳥のさえずりはよく理解する兄、そして彼の言
 葉をただ一人世の中でわかるのは弟だけだ。小鳥たちは兄弟の前で、競って歌を披露し
 息継ぎを惜しむくらいに、一所懸命歌った。

 彼等の言葉は私達の住んでいる世界と違う世界、例えば異星人、例えば「手話の男」は
言葉を乱数に変え宇宙の彼方に発信しているのかも知れない。
 「傷」と呼ばれる少年は生物の発生当時からの言葉にならないDNAに込められた情報
を示しているのかも知れない。
 ことりに出てくる主人公の「兄」は小鳥のさえずりを137億光年の彼方から届く様々
 な宇宙から来る光のスペクトル波長と振動数に呼応させているかも知れない。

これらの人達は世間ではすべて精神疾患というレッテルを張って安心するが、はたしてそ
うであろうか、何か私達の文字や語りの文化・文明では判断出来ない言葉の世界があるか
もしれないのだ。



137α編集部:2014/08/12(火) 11:45:14
エイプリル・フール2
.

     エイプリル・フール  




      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。




2009 年

エイプリル・フール

 今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアの
ある罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。

 Wikipediaで調べると
エイプリルフールは、日本語では「四月馬鹿(四月バカ)」、漢語的表現では「万愚節」
または「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)
と呼ばれる。なお、日本では4月1日は、「日ごろの不義理を詫びる日」だった。
イスラム教においてはこの習慣はコーランに著しく反しているため、強く禁止されている
エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの
習慣が始まったかはわかっていない。有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確
証が無いことから仮説の域を出ていない。

* その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが
 1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した
 人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。
 しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝ってい
 た人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だっ
 た少女までもが含まれていた。
 フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事
 件を忘れない為に、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっ
 ていった。これがエイプリルフールの始まりである。
 そして13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、1564年から13年ごとに
 「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするという風
 習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなったが、
 「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった。

* インドで悟りの修行は、春分から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じること
 から、4月1日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある。

* 日本で、エイプリルフールが広まったのは「パチンコの負けをごまかすためにこの日に
 スリにあったと嘘をついた者がいた」ためとする説があるが、パチンコのない時代から
 この日に嘘をつく風習が記録されており、これ自体がエイプリルフールの可能性がある。
 さて、いままで私の嘘を思い返すと、仕事に行き詰まったから暫くの間姿を隠す、探さ
 ないでくれと言ったFAXを友人に送り旅行に出たことがあった。人に大して迷惑を掛
 けないようなこのての嘘をいくつかついたが、結果的にはその嘘が誠となったことであ
 る。 だから今年は「二億円の宝くじに当たった」、「絵の公募展で特選になった」、
 「屋敷から金の鉱脈が見つかった」、「芥川賞にノミネートされた」、「いままで知ら
 なかった叔父さんから遺産相続の話が湧いてきた」とか、いろいろ現実にはあり得そう
 もない、しかし真実になってくれと願う妄想を考えつくのだが、さてそれを信じる友人
 がいそうもないのである。信じてくれなければこの遊びもまったく面白くない。やはり
 世相にあった暗い話題が真実味があって、信じてもらえるのだろうか。その様な嘘がま
 た真実になると困るから、今年は嘘をつかないことに決めた。

????????????




2011年

エイプリルフールに語る真実

  ◆宇宙語を解読できた。
  ◆今日最後の乳歯が抜けた。
  ◆今年は嘘をつかないことにした。
  ◆29回目の転居を目論んでいる。
  ◆人生の意味がやっと判った。
  ◆今日は一度も呼吸をしなかった。




2012年

エイプリルフールに語る真実

◆今日から太陽は西から昇る。
◆今日から逆さ時計を採用する。
◆今日から嘘をフィクションと呼ぶことにする。
◆今日から饒舌をやめ沈黙に徹しよう。
◆今日からひけらかしと自慢で紙面を満たそう。
◆今日から天国への階段を組み立てよう。




2013年

えいぷりるふーる

◆アメリカ国防省から急遽、青森県三沢空軍基地、神奈川県横浜海軍基地、沖縄の米軍基
 地防衛のための最終兵器「リターンパス」の設置依頼が、「無限回廊」物集班に寄せら
 れた。しかしこれは武器輸出三原則に抵触するのではないかと迷っている。

◆甲子園を沸かしている高校野球の決勝戦に覆面の豪腕投手が投げるという噂がある。
 時速200kmを出すというが、アンドロイドではないかとか、スーパー・サイボーグで
 はないかと疑われている。しかし改造人間であるとすれば、その肉体的な能力の補強は
 どこまで許されるのか。インプラントによる歯の矯正は?強力レンズ眼鏡による視力ア
 ップは?催眠によるマインドコントロールは?

◆遺伝子操作による新種の大根が発明された。それによると大木の枝にぶら下がって成り、
 秋になり木枯らし一番が吹くと適宜に乾燥し、そのまま漬け物樽に漬けることができる
 という。

◆本郷冷熱の地下ラボでは、早春になると大陸から黄砂やPM2.5などの有害物質が日本
 の空に偏西風に乗ってやってくるから、地球を反対回りにする研究を進めている。もう
 すでに完成まで79%に達しているから、近日中に太陽が西から上がる、すなわち偏東
 風が吹き有害物質はヨーロッパに向かうことになるだろう。

◆今国会で健康被害による喫煙をなくし医療行政の圧縮を試みるために、「禁煙した人に
 は」月額1万円の禁煙手当を支給するという法律を作った。しかし今まで吸っていなか
 った国民が続々と喫煙を始めたので大騒ぎになっている。




2014年

オキシモーラン的エイプリルフール−その1

◆STEP裁縫
 作成に当たっては機械を用いる場合と手仕事の二つがある。今までない物質と模様を合
成させて、あらゆる形態に変化できる画期的な発明だ。 これをSTEP裁縫と呼び、ちなみ
にSplender Time of Ending  Peace の頭文字をとってSTEPという。意味は複雑すぎ
て一般の人に分かるように説明することは困難だという。科学誌ネ−チャンに掲載される
も、世界中で三人しか理解出来なかったといういわく付きの論文だ。
 遠都大学(とうとだいがく)の滝沢馬券(たきざわばけん)教授のコメントによると、
世界の三大発明の一つという歴史に残る素晴らしいものだが、私には難解すぎて皆目判ら
なかったことを告白しなければならないと語った。


オキシモーラン的エイプリルフール−その2

◆フジノミヤ独立
 我々不二山に隣接する市町村のフジノミヤ最高議会は住民投票の結果、99%の賛成票を
得て、オソロシヤ憲法第8章に基づきここにフジノミヤ独立を宣言する。ただし公海に面
していないので、外交および防衛問題についてはオソロシヤの憲法のもとになされる政権
の意思決定を遵守する。

主旨
  不二山は古来より国土の中心に位置し、かつ周りに山々を従えない独立峰で、国では
 一番の高さをもつひときわ美しい姿をしていて、まさにオソロシヤの象徴としてふさわ
 しく、また全国民の心の故郷である。
  しかし近年心無い観光客による霊峰不二山へのゴミ投棄や山菜盗伐など、またオソロ
 シヤ軍隊による山肌への砲弾の撃ち込みなどの不敬行為が目に余るようになった。而し
 て世界遺産に登録されたこともあって、その霊峰不二の自然と威厳を守るために住民の
 悲願として、ここにフジノミヤを国として成立させた。

行政上の基本事項
 1.国名 :フジノミヤ国
 2.宗主 :木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)
 3.公用語:仮名まじり漢字 準公用語:宇宙語
 4.通貨 :モロ (7,11,13,17,19進法のうちどれか未定)
 5.入国に関しての規制:入国交通料、霊峰参拝券そのた環境維持のための費用
  (これに違反したものは10倍かえしの反則金を徴収)
 6.その他:食料、飲料水、酒等の持ち込み禁止
       観光案内はフジノミヤ国の資格を得たフジノミヤ在住の案内人を雇うこと
       入国時には霊峰不二山に向かって必ず二礼二拍手一礼すること

参考:オソロシヤ憲法第8章(地方自治について)
 地方自治の本旨は以下の2点からなる。
 住民自治-住民自らが地域のことを考え、自らの手で治めること
 団体自治-地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けるこ
 となく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていくこと。




       事情説明 投稿者:鳩園潤子 投稿日:2014年 4月 1日(火)19時11分


            「オキシモーラン的エイプリルフール」 事情説明

                          平静一念 四月一日
                          医療法人「都一会」看護師長 鳩園潤子*

       前略

        赤松次郎こと本郷冷熱 本郷淳吾社長*は、前回富士山麓「都一メンタルクリニック」
       を追い出されて以来、途方もない妄想にとりつかれていました。一時期ネヴァーマリッ
       ジ教入団を希望していましたが、たとえ実の姿が、偉大なるショウ惑星環境大臣とは言
       え、妻子持ちであること、そして何よりひとかけらの嘘や虚飾も許さないという頑強ぶ
       りで教団の統一が危うくなる恐れを理由に丁重に断わられたのを最後に、行方がわから
       なくなったと聞いておりました。姿を消していたと思いきや、フジノミヤ国独立を図っ
       ていたとは、驚嘆のいたりです。

        古くは缶詰「ニチロ」日本海戦、八方領土乗っ取りに始まり、最近では冬期ピクニッ
       クで、フジノミヤはオソロシアへの不信が高まっている地域でありました。未来人本郷
       の知恵をもってすればフジノミア独立はへのかっぱであったはずです。
       フジノミア一帯の猫集団を統括したおかげで猫の手は無尽蔵であり、住民投票にもこの
       猫の手が大活躍したと思われます。猫の一票それでも一票、これが民主主義とやらです。

        思い起こせば、本郷氏は入院中、沈黙の中淡々とタペストリー制作をしていました。
       外見からは想像出来ないほど、手先は器用でした。
       縦糸と横糸が変化し、見る人を次々と新しい世界へと引き込む壮麗重厚な作品、その名
       も「木花咲耶姫」は今でも院内ホール中央に飾られています。
        もうひとつ報告があります。本郷氏が入院中に広め、流通が始まった通貨「モロ」は
       院内の食堂、売店、入院費の精算にも通常の通貨、カードと同様に使用されています。
       通貨計算における11進法適用は、入院患者のメンタル改善に驚く程の効果をもたらし
       ています。 (これは科学誌ネイチャンにも発表されました)

        フジノミヤ自治区の運営に早く飽きて、本郷氏がまた未来のショウ惑星に無事帰還さ
       れることを、院内より秘かに祈っております。
           草々


       *註)鳩園潤子、及び本郷淳吾は、同人誌掲載の『無限回廊』の登場人物である。
          本郷がメンタルクリニックに強制入院させられた話は第十三回に詳しい。
??????????????   (編集部)



138α編集部:2014/09/26(金) 08:32:53
純文学と大衆文学
.
??????????      純文学と大衆文学?? 2007-2010



「肥と筑」の感想

bird・brainの私が「肥と筑」をものにする巨像のような作者の頭脳に対峙するのに、どの
ようなスタンスを取るべきかいまだに決まった見解を持ち合わせていないのである。そこ
で連載の途中だからといって物事の結論を先延ばしにするという私の得意の奥の手を使い
たいのだが、皆さんの努力を見るに付けそうもいきません。逃げることも問題を処理する
方法として一つの文化であるという社会も世界には存在するという本(危機のモラル マ
レクラ島のフィールドから 船曳建夫著)を読んだことがあるが、ここで放棄することは
編集に携わる者として許されるものではないと思った。そこでMさんや、長岡さんの手法
に習って、正面からでなく搦め手から迫ろうという魂胆であります。

◆ さて文学とはどのような芸術の範疇に入るかと調べてみると、次のように分けること
  が出来る。
  1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術
    の総称。すなわち、音楽、文芸など。
  2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられ
    て、人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なも
    のに建築、彫刻が含まれる。
  3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調
    和した形式で表出される芸術。すなわち、舞踏・演劇や映画など。

◆ そこで「肥と筑」が論文か小説かということが話題になっているが、小説とはなんぞや?
  小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随想や批評、
  伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。なお、英
  語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり
  もともとラテン語で「新しい話」を意味する。

◆ 小説は次のように分類される。
  <長さ・発表形式による分類>
   短編小説・ショートショート・中編小説・長編小説・連載小説
  <内容による分類>
   私小説・恋愛小説・青春小説・冒険小説・歴史冒険小説・秘境探検小説・海洋冒険
   小説・推理小説(ミステリー、ミステリとも)・サイエンス・フィクション(SF)・
   ハードSF・スペースオペラ・サイバーパンク・スチームパンク・ファンタジー(幻
   想小説)・ライトノベル・ホラー小説(怪奇小説)・怪談・歴史小説・時代小説・伝
   奇小説・武侠小説・児童文学・童話・絵本・官能小説(劇画系,美少女系,耽美系
   などに分かれる。)・教養小説・鍵小説・企業小説・経済小説・政治小説・ゴシッ
   ク小説・スパイ小説・大河小説・心理小説・芸術家小説

◆ ついでに純文学と大衆文学の区別は
  小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
  が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
  芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
  小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
  うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
  分けて考え るのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

さて結論として「肥と筑」は歴史的資料を扱っているが純然たる論文ではなく、登場人物
に語らせるという散文で作成された虚構の連載物語でもあるが史書でもある。だからから
小説が伝記、史書と対立するものであるという定義があるゆえに複雑だ。それは私の書い
た「歪んだ風景−異星人」のように言葉遊びに徹すればそこに描かれている内容はぼやけ
てくるし、内容を重視すれば言葉遊びは余計なものだというジレンマは常に作者に付きま
とうわけだ。一方読者の好きなように解釈すればいいとばかりに開き直ることも出来るの
だが、「肥と筑」の作者は物語と史実のどちらに重きをおくのか、それとも両方をと意図
しているのであろうか。両立出来るものを見事になしたとき長岡氏の頭脳は一層輝きを増
すだろう。
2007/12/21 (旧α掲示板)




小林秀雄全集第四巻 P226

 今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬ。
2008/4/12??(窓辺にて)




「白暗淵(しろわだ)」を読む

◆古井由吉の「白暗淵(しろわだ)」を読み終えた。「東京大空襲」の記憶を縦糸に「音]
??を横糸にしてつづられた短編集で、表紙には次のような言葉が書いてある。
 静寂、
 沈黙の先にあらわれる、白き喧噪。
 さざめき、沸き立つ意識は、
 時空を往還し
 生と死のあいだに浮かぶ
 世界の実相を撮す。
 言葉が用をなすその究極へ−。

◆今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬと小林秀雄がいみじくも言
 っているように、純文はそれしか残されていないのではないかと私には思われる。その
 ような作家は古井由吉を含めた少数しかいないのではないか。
2008/4/25  (窓辺にて)




純文学と大衆文学

◆Kさんの「大衆」の定義をして何を主張したいのかその問題提起の意味がよくわかりま
 せん。「純文学」と「大衆文学」の違いを論じるに、純文学が優れていて大衆文学が劣
 っているようなニュアンスに反発して、純文学を読む人も大衆の中の一人じゃないかと
 いう意味の主旨かと思われます。もし私の解釈が間違っていたらそのへんのところを詳
 しく示して下さい。
 私は「純文学」と「大衆文学」の優劣は、総合的に評価出来る同じ土俵は作れないと思
 っています。面白いものが一番いいという人達、いや難解でも何か考えさせるものがい
 いという人達もいるでしょう。どの観点で評価するかは人様々で、どちらが優れている
 という問題ではなさそうです。

◆「私も結構悪食だったので、昔はいろいろの本を手当たり次第に読みました。その結果
 私の中では優劣はともかく「純文学」と「大衆文学」の区分けらしきものは持っていま
 す。大衆小説と言われている読み物、たとえば内田康夫のミステリー・シリーズなどは
 読んでいる最中は実に面白く時間を忘れるほどです。しかし最後のページが終わるとそ
 の興味は尽き、数日すると最早その内容さえ全く忘れ去っています。場所・人物・状況
 などを単に替えただけのパターン化されたものが引き続きシリーズとなって出されてい
 ますが、そのパターンに気づくと途端に興味がなくなりそれらを二度と読むことはあり
 ません。反対に純文学と言われるものは、なかには美しい表現や情景の物語もあるが、
 没頭するほど面白いものではない。いわゆる苦痛・忍耐を伴うものもなかにはあります。
 しかし、私が「純文学」と思うものには読んだ後でも長い間忘れずに頭に中に残ってい
 ます。夏目漱石の「それから」の代助と三千代が万難を排して「一緒になろう」と誓っ
 た部屋の中に漂う百合の強い香りとか、父や兄に寄宿していた代助が三千代のために独
 り立ちしようと決心して、職を探しに街へ飛び出した時の真っ赤にそまった心象のラス
 トシーンなどなど。

◆最後に、物事の解釈や表現を単に新聞や週刊誌などからの切り売りではなくて、私が考
 えもしていないような解釈や表現や新しい考え方を持つ人には憧れます。私にはもうあ
 まり残された時間もないことだし、その人にしかないをちらりと見せてくれる選ばれた
 作家・書物に出会えることを願いたい。
2008/7/26????(旧α掲示板)




文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子

 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいかに
描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定義を
思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前でト
ンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
2009/3/25?? (窓辺にて)




北 君

仕事に忙しい中、感想有り難う。このような長い読後感を書いてくれる所を見ると、時間
的にも少し余裕が出来たようですね。
君の言う通り村上春樹はストーリーテラーとしては第一級の作家と思われます。確かに自
分探しと謎の解明という筋の展開の巧さで最後まで読ませますが、読者の生き様に対して
の意味合い・インパクトがないと僕も読んだときにそう思いました。これは今まで読んだ
村上春樹の小説全般に言えると思います。純文学と通俗小説との間の微妙な位置にあるよ
うな気がして、文学少年・少女に受けるのは判るような気がします。
2010/2/14 (窓辺にて)




佐伯一麦

◆佐伯一麦著の「木の一族」を読んでから、私小説の書き手として私は昔から彼に一目
 おいていました。このたびの「誰かがそれを」のなかの「ケンポナシ」はこの木の話
 だけで28ページにわたって書き、「誰かがそれを」では夜中に聞こえてくる訳のわか
 らない気障りな音について38ページを費やしている。これが純文学の世界なのであろ
 う。今回は以前の評価と違って私にはちょっと批判的な印象が残った。それは個人の
 好みの問題だろうが、この物語のリアリズムは想念の世界の夢や美や謎などの知的な
 好奇心をくすぐるものがないのが不満に思えました。
 と言うことは私はエキゾチスム・神秘主義・夢などといったものや、抑圧されてきた
 個人の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩などを記述しようとするロマン主義的な傾向を
 もつということでしょうか。
2010/6/25



139α編集部:2015/03/31(火) 19:18:04
標本箱2 春夏秋冬
*戯評の投稿記事です
*題は編集部作成
*一部名前を変えています

主要キャスト 棘 シニン ベルギリスふりん  海馬海馬女(白痴) 万歩計




【五月蠅い奴ら】
◆おーまん:「あるわがまま」出しっぱなし、そのうちあるがままの姿で街を闊歩するぞ
◆万歩計 :作品の分析をしまくるが、みるべき解釈や真意の組み立てはできない
◆イモジン:ヴァイオリン、カントリーダンス、TOEICはどうした
◆パクチー:奉仕活動のためなら何でも、どこへでも顔を出す
◆寒痺痲 :食い物の話、通俗小説の話、毒にも薬にもならんことをよくしゃべるよ
◆冬の風鈴:「日本の負債−120」などのコピペに生き甲斐を見出すほかはない孤独な爺々
◆シニン :中央アルプス、ボボワールなどと間違ったことを平気で言放つ育ちの悪さ

こう並べてみると、みなさん言いたい放題、結果は期待できない連中ばかり。
「じこちゅう」
中毒症状最終段階。要強制排除、要強制入院。





【夏のお化け大会のおしらせ】
おとげ、シニン、万歩計、トド、シャフラー、フェイク、げてげて、うそたんと豊富なキ
ャラクターが揃いましたので、恒例のお化け大会を7月17日馬込宿で開催します。怖い
もの見たさの貴方に是非参加いただき、その醜悪さをご鑑賞ください。なお先着10名さ
ままでは無料です。





【漫画のお邪魔虫たち】
鳥干、万歩計、風凜、シニン等のお邪魔虫がよく揃ったな。
ほとんど共感を得ない文章ばかりだ。これにトド、トド女
珍封痔が加わったら、俺発狂しそうだ・・・。とくにシニン、
トド、珍封痔の三人は爬虫類のようで、生理的な嫌悪感を覚え
しかたがない。


【流行もの「漫画狂」】
ここではずっと前から住民説明会での電力会社のヤラセメールのようなことがたくさんみ
うけられた。自分の投稿文を別名でよいしょすることなど朝飯前の輩が、このホームペー
ジを牛耳っているのが現状だ。
今回のブログの投稿に五つも拍手を送るのは、このヤラセをやっているメンバーに他なら
ない。これは低脳漫画、茶番劇だね全く。よく物事の本質を考える人は、そんなこと一発
で見抜くだろう。シニン、万歩計、パクチー、イモ、疹風痔、これで拍手五つ・・・。





【怪物糊塗ランド忘年会】
怪物ランドへようこそ!! フェイクな珍獣ばかり出演させています。
◆おとげ:その場その場の感覚が一番大事とする主観主義の女王。観衆の前では素っ裸を
 も辞さない露出狂。
◆シニン:自説を正当化するためには、人を貶め嘘も吐き通す育ちの悪さ。
◆万歩計:ボランティアなどに参加して、優しさを演出しているが、内に凶暴な闘争心、
 猜疑心を内包する。
◆辛封痔:文も絵も音楽もフェイク人間。真実が何かは問うたことがない。
◆何やびと:不利な事実は知らぬが仏の役人根性に満ちた人生。
◆げてげて:怪物ランドの太鼓持ち。
◆イモジン:どうしょうもない、気色悪い爬虫類の出来損ない。
◆ヒモジン:イモジンの性悪さにも気づかないバキューム・ヘッド。
◆くそたん:どうもよくわからん、首も出し切らん無害すっぽんもどき亀。げてげて太鼓
 持ちの助手。
*2011



140α編集部:2015/04/01(水) 21:33:54
エイプリル・フール2 2015〜
                                             .
     エイプリル・フール2015〜



      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。



2015年

エイプリルフール



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、
オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
 ??「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行
  う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、世界的
  な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎えさせる最終
  兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイター」等、世界
  の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決してきたことから鑑
  みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取らない立派な会社であ
  ると言える」と述べている。
   ??参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい
商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、
「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいて
いの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると
病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしてい
て、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。
刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認する
ヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
????第 1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で
???????????? ある。
????第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的・
???????????? 経済水域はウスライナ人が所有権を有す。
????第14条 :土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権
       は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ
       とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰
属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一
国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の
運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人
になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地
球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たさ
れているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識
や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念で
ある。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。
それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと
思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の
「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を
兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能
力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。
オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産
することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。

  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
????2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
????3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
????4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)
の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星人とし
て認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服
すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデア
を募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」
「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に
備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道に
もとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の
被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の
地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート
・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純
である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、
即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通
りである。

  1.住民はリラックスして睡眠状態になる
  2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね
   て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
  3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと
   ができる
  4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール
   弾」の影響下に置く
  5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたらした。

虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年
  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の
  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チュ
  ネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事がみ
  られたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用としてインド
????に売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優秀な紛争
????終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩せやしない
????だろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収めることはま
????ことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む思
????いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガード
????下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・ボール
  弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争には必ず購
  入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に煽っていた。
????という記事を暴露した。

??  参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/27-7.html



141α編集部:2015/11/11(水) 05:55:22
岩を抱く木々、寄り添う木々
.

      岩を抱く木々、寄り添う木々 2014-2015



山林の形態その1
2014.6.26
◆岩を抱く木々
 山の斜面に生えている大木を下の道から見上げると、岩を抱いた木々があることに気が
ついた。初めは何故だろうと不思議だったが、よく考えるとある理屈でそのような情況が
生まれたのだと推測した。この辺りの山は大きな岩や小さな点石で成り立っていて、その
周りを長い間の落ち葉が積もり腐葉土をなしている。まだ発酵していない湿った木の葉に
足を踏み入れると、踝(くるぶし)まで沈む位ふわふわと層をなしている。木々にとって
は栄養豊富な山土だといえる。

 その石は明らかに富士の裾野に点在する溶岩とは違い、色は灰色で密な硬い石である。
二つの石の違いが気になって、町の教育委員会に質問してみたら、富士山の石はマグマが
直接地表で固まった火成岩で、私の山荘のある山は海底や川底に堆積した水成岩で、地殻
変動で隆起して山になったということであった。
 更に詳しく調べると水成岩の一種である粘板岩ということが判明した。粘板岩は英語で
スレートと言うくらいだから、当然日本の杮葺(こけらぶき)のように屋根葺き材として
西洋で使用する。また山梨県南巨摩郡の富士川沿いでは雨畑硯(あまはたすずり)という
硯が製造されていることからも、富士山の噴火によるのでなく富士川の堆積により形成さ
れて隆起したという、この山荘の山の成り立ちが分かって成る程と納得した。

 ところで石を抱く木々の謎はどういうことなのか。それは秋になって赤松や椚や木楢や
楓の実が落ち、斜面を転げ落ちてきて留まれるところが石と土の窪みということであろう。
そこで発芽したそれらの木々が数十年と育つうちに石の周りを根で覆い、遂には石を抱い
た形が出来たという訳だろうと推測した。そしてもっと時が経つと石木の力で砕石にひび
を生じさせ、水の凍結によって砕け散る結果の形態が認められるのである。
            続く


山林の形態その2
2014.6.28
◆寄り添う木々
 山の木はある一定間隔でしか成長しないだろうと思い込むが、実際は5メートル以上離
れて育っている木もあれば、狭い範囲に犇(ひし)めいている木々もあり、人工植林でな
い限りその間隔はランダムと言ってよい。岩を抱く木々の話には面白いもう一つ話がある。
 石と土の窪みに山から転がり落ちてきて定着する実が必ずしも一種類とは限らず、同時
に数種類の木々のものが同じ場所で発芽することになる。しかし大きく育つには数々の厳
しい条件をクリアーしなければならない。それに打ち勝った赤松、木楢、楓、橅、杉など
の二種類の木の組み合わせで育った大木が、まるで同根のように寄り添って育っているの
をよく見るのである。

 だがよく観察するとその組み合わせがどんな種類でもいいかと言えば決してそうではな
いらしい。赤松と木楢、楓、橅、杉の組み合わせは多い。しかし樅の木とのペアーは見た
ことがない。どうも樅の木と他の木とは相性が悪いらしい。セイタカアワダチソウやサル
ビアのように地下根から特殊な物を分泌してほかの植物の種子から芽の出るのを抑えた
り、根の成長を妨げたりしするといわれるように、樅の木もまた他の木々をそのような手
段で駆逐するのだろうか。
 その理由として一つ思い当たることがある。赤松をはじめ木楢や楓や椚は総じて太陽
の光を独り占めしてしまうほどの葉張りと密度において、茂らないと言える。だからお
互いにその太陽の光を譲り合いながら育つことができるのではないか。

 その一方で樅の木は樹形が黒く見えるほど密に葉を茂らせ広がり、しかも冬でも葉を落
とすことなく成長するから、太陽の光を分けてもらえない他の木々は寄り添うように育つ
ことが出来ないという理由ではないか。
 そのような樅の木は他者を寄せ付けない強さで、山の中で一人勝ちしているように見え
る。しかし、木の肌や色や葉型の違った異種の木々が寄り添って大木に成長しているのを
見ると、長い年月を苦労しながら添い遂げているような人々の生き様に見えて、ほほえま
しいく思えてくるのである。


      岩を抱く木々/寄り添う木々を読んで 2014.6.29 万理久利
      同人誌に寄稿する作品は人の心の微細な動きを追ったり、つかみ所の無い人
      間の心を描いたり、自然をさらりと歌いあげたりと純文的な匂いがプンプンす
      るものが多いのですが、時として猫の目の大きさを取り上げ顔に対する比率を
      出してみたり、そのジャンプ力を人間のそれと比較して数値で表したりと、科
      学少年らしい実験と分析をこの著者は猛然とやり始めるのです。そして今回は
      住まいの回りの木々をじっと眺めて分析を開始したようです。

       読んでいてふと寺田寅彦の作品が思い浮かびました。昔学校の図書館で宇宙
      旅行ものと並んで借りまくった本です。身の回りのものを科学者らしい目でや
      さしく、短く解き明かしていくのが何よりも面白かった。懐かしくなって青空
      文庫で久々に寅彦の作品を数点読みふけりました。「化け物の進化」「科学と文
      学」「数学と言語」どれもなんとなく相対する言葉が並ぶタイトルですが、相
      違点と同時に共通点も取り上げています。昔はただひたすら科学的な解き明か
      しが、爽快な気分を引き出したのですが、今寺田の作品を読むと、彼がただひ
      たすら、科学万能主義で生きてきたのではないということに気づかされます。
      そして彼の語る世界は本人が意図したかどうかは別として、古今東西共通の人
      間世界のことでもあることも。

       岩を砕く木々も寄り添う木々もこれまた自然界のこと、そして自然の一部で
      ある人間世界のことでもあるわけです。身近なところにたくさんの不思議不思
      議が転がっています。
      不思議を自分の頭で解き明かそうとすることと、言葉を使って何か/作品を
      創造していこうとすることとは、共通の要素があるあるようにも思えます。
      世の中不思議だらけですが、私にとって一番不思議なのは人間かな?
      一番身近であるはずの自分自身かな?


山荘便り
2015.10.31
 「寄り添う木々」という題をつけて山荘便りを書き始めた。山の中を散策していると普
通では思いもつかない現象を目にすることがある。一般的に考えると数十メートルにおよ
ぶ木々が全く近接して生えるとは想像もしない。都市部での造園家による公園の大木の植
栽はほとんど三メートルから五メートルの間隔を空けているようだ。しかし自然界にはそ
のような常識では考えられない植生がしばしば見られるものである。最初に気づいたのは
山荘から五十メートルばかり西に歩いた道路脇に、同じ根元から赤松の大木とブナの大木
が寄り添って生えている。ぼんやりと歩いているとその奇妙さには気がつかないのである
が、株立ちしている二本の木の肌や葉の形状に違和感を覚えて注意して観察した結果判っ
たものである。
 だが待てよ、異種の木々が抱き合うように生えているのは、以前に書いた「岩を抱く木」
と同じ理由であるということに思い当り、その文を探してみた。2014年の6月26に「山
林の形態その1」で「岩を抱いた木々」をその二日後に「寄り添う木々」というそっくり
な文を既に書いているではないか。私もいよいよシナプスやニューロンの働きに陰りが見
えてきたようである。
 同人α44号の竹内氏の作品である「生命」にでてくる、シュレーディンガーの「生物
は負のエントロピーを食べている」という言葉に、言い得て妙だと思った。この世界の物
質は放っておくと確実にエントロピーの増大、即ち無秩序の世界に向かうという。
だから生物は生きるために常に秩序を保つように努力しなければならない。
 山荘便りに書いたように日々のルーチンワークも毎日の規則的な精神や肉体のリズムを
つり、エントロピーの増大に抵抗しているといえる。またそれが生きているということで
あろう。「負のエントロピー」を食べれなくなったとき死に至るということだ。
 だから毎日を高齢だということで、後は残りの人生、余りの人生とばかりに時間つぶし
に無気力に自堕落に生きることは「負のエントロピーを食べれなくなった」ということで、
そろそろこの世におさらばするときが間近いのではないか。

 最近「寄り添う木々」についての追体験をしたことだが青木ヶ原の鳴沢氷穴の近くの国
道139号線沿いの歩道の真ん中に、「やどりぎ」という表札のついた珍しい木が柵に囲ま
れたなかに立っている。そのため歩く人はその囲いを迂回して通らねばならない。
 樹齢300年といわれる「みずなら」の親木に、五葉松、こめつが、ひのき、あせび等が
寄生していて、六種の木々が同棲している。しかしこの木々は「やどりぎ」のように親木
から栄養分を奪う、いわゆる寄生樹ではなくそれぞれの木々は自力で光合成して生きてい
るのである。だから「やどりぎ」という言葉は当てはまらないので、家族以外の人達が同
じ屋根の下に暮らしているのを「同居人」というごとく「同居木」と言うべきだろう。そ
れにしても樹木はなんと「負のエントロピーを食べる」術に長けているのだろうかと驚く
ばかりである。だからといって数千年も生きるのはちょっとしんどいことである。



142α編集部:2016/04/05(火) 18:05:09
エイプリルフール2015
     エイプリル・フール2015〜



      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。



2016年

オキシモーラン的エイプリルフール−その1

?? オキシモーラン社による新商品のご案内
◆ニャン眠剤発売
 さるNPO法人がまじめに統計をとったデータによると、先進国では97%の人が不眠
に悩んで いるという。その原因が配偶者・恋人、病気、リストラ、職場の人間関係、近
隣関係、社会体制にたいする不平・不満、憤りなどのルサンチマン的憎悪などがあげら
れる。途上国においては明 日のコメにも事欠くあり様の生活を強いられている序民は、
一日中重労働にあるため横になれば即ち爆睡し、不眠の悩みどころではない。

 我が家の猫、ミラノ公ドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ(通称イル・モーロ)は
私がソ ファに寝そべっていると、どこに寝ていても私の所へやってきて、体の上でぐう
ぐう眠るのがい つものパターンである。猫がよく眠るという事実は昔から知られていの
だが、それにしてもモロ の睡眠時間は並ではない。
 Yahoo(ヤッホー)の『知屁袋』によれば、経典などをネズミから守る為に奈良
時代頃に中国から輸入され、古くは「禰古末(ネコマ)」と呼ばれていたことから、江
戸時代の学者達は この語源について、いろいろ考証をしていたようである。
 ●「鼠子(ねこ=ネズミ)待ち」の略
 ●睡獣(ねむりけもの)=よく寝る動物の意
 ●ネエネエと鳴くけもの=鳴き声に由来する説。昔の人は、猫の鳴き声を「ネエネエ」
  と表現していたらしい。「こ」は小さいもの、身近なものという意味の解釈。
 ●「ねけもの」が転じて「ねこま」=これは、あの有名な滝沢馬琴が主張した語源ら
  しい。
 ●寝小魔(ねこま)=よく寝る小さな動物の意。魔は神でも人でもない有情生物を意
  味する原語で、動物の総称にも使われていた。

 ところで猫の睡眠時間はだいたい12〜16時間らしい。しかし我が家の猫は測定したと
ころ23時間17分13秒11の睡眠時間で、覚醒している時間はなんと一日わずか47分46秒49
なのであった。
そこでオキシモーラン社の富士五湖駐在員の私としてはその特性を世のため人のために
なる商品開発を思いたった。
 猫の縄張りを示すためのマーキングは尿スプレーと言われ、通常の排尿と違い少量の
尿を垂直な物に立ったまま後方に向かって噴射する行為で、強烈で独特な臭いがする。
そのスプレー液を集め、神聖な富士山の湧き水、キツネノカミソリから抽出したアルカ
ロイドを少々、72時間煮沸攪拌凝縮常温冷却抽出形成方によって純度の高いエキスを睡
眠剤として販売することである。
ヒルティの『眠られぬ夜のために』に書かれている人生、人間、神、死、愛などの深い
思想による安心立命を得ての安眠ではないけれど、アーラヤ識のなかに潜在的に蓄積さ
れた「眠りたい」という己のプラティカルな欲望を誘発させて眠りにいたらしめる薬で
ある。まずは「睡眠障害で一ヶ月の療養が必要」との医師の診断書をもらい、表から姿
を消した辛利氏にさし上げたい。
 人体への薬の治験はどうなされたかと問われれば、富士五湖駐在員の家族が半年間の
実験の知見のうえ、スマホ、パチンコ、アルコール・ニコチンなどの依存症、腎臓、肝
臓、骨髄などの器官の機能を障害するような副作用も全くない新薬であることをここに
証明するものである。
 「深川いなせ大学」の滝沢馬券教授(滝沢馬琴より十五代目)によると、使用後の目
覚めは大穴を当てたときの至福感と、野に自由に遊ぶ仔猫のほどよい疲労感を覚えたす
ばらしい睡眠薬だというコメントを残している。
 関係者からのお詫び、このたび滝沢馬券教授はニャン眠剤を少し多めに使用したため、
それ以来一度も目覚めることなく、笑気ガスを吸引した時のような、幸せそうなアルカ
イックスマイルを口元にたたえて安眠中であります。この後のコメントについては滝沢
馬券氏の長男であり、現在「中山競馬大学」の滝沢馬糞准教授に依頼しています。
  ●価格:小瓶  2,980円(ニャンキュッパ)
      大瓶 11,131.719円(いいおとこ いさみ いなせ いき)まるで
         九鬼周造の『「粋」の構造』の神髄のような値段と評判である。
  ●電話:0120-373-2374(おおいにわだい みなさん ふみんなし)まで、いまか
    ら30分以内に電話を、テレフォンオペレーターを増員してお待ちしています。



オキシモーラン的エイプリルフール−その2

オキシモーラン社による新商品のご案内
◆『明解宇宙語大辞典』の出版
 ところで皆さんは『亞書』というタイトルの本を知っているだろうか。それはギリシ
ャ文字がただランダムに並べられているだけで何の意味も持たない文章が書かれている
本のことを指していて、著者はアレクサンドル・ミャスコフスキーという人物になって
いる。
 そこで少しwikipediaで調べてみると、「亞書刊行會」という会社から出されていて、
Amazonでしか販売されておらず、64,800円という高額で売りだされている。96巻まで売
りだされているが、全て1点ずつしか売り出されていないという。そして国会図書館に登
録されているという。正式名称は『Книга "?"』なのだそうだ。Книга は書
物という意味で、?はヘブライ語で「アレフ」だ。『アレフの書』と訳すことが出来る。
この本は2つの出版社が登録されている。出版社はユダ書院。ユダ書院からは各言語に翻
訳された聖書が出ている。もうひとつの出版社は、りすの書房である。

 さてこの『亞書』には2・3の疑問が生じている。
 ●一つは、書物と言えるかどうかという疑問である。全く意味をなさない表音文字を
  ランダムに並べることに意味があるのか、むしろ構図や記号や模様や装丁など、絵
  としての芸術としての価値があると考えるのか。
 ●二つ目は、国会図書館法第十一章その他の者による出版物の納入の第二十五条に規
  定してあるからその義務をはたしたのか。
 ●三つ目は、一冊64,800円という価格が妥当かと言うことである。
  ギリシャ文字の一字をランダムに単純に並べているだけで、誤字・脱字等の校正作
  業である初校・再校・三校・著者校などの手間がまったく必要ない。また世の中に
  は好事家が百人くらいはいるから一巻発行すると64,800×100=648,000円となり十
  分ペイ出来るのである。ましてや96巻まであるから62億2千80万円にもなるから驚き
  である。

 しかし国立国会図書館は、発売元から聴取を行い検討した結果、郵送された『亞書』
各巻1冊は、頒布部数が少なく、また、国立国会図書館法に列挙された出版物に該当せず、
国立国会図書館への納入義務の対象には当たらないものと判断したため、『亞書』を発
売元に返却するとともに、発売元に支払い済の納入出版物代償金の返金を求めることと
した。
 国会図書館法の「納本制度」とは、図書等の出版物をその国の責任ある公的機関に納
入することを発行者等に義務づける制度のことで、わが国では、国立国会図書館法(昭
和23年法律第5号)により、国内で発行されたすべての出版物を、国立国会図書館に納入
することが義務づけられている。
 納本された出版物は、現在と未来の読者のために、国民共有の文化的資産として永く
保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されるのである。
 そして今回の『亞書』の問題は、「国会図書館に納品して"代償金"(通常、小売価格の
5割に相当する金額 ndl.go.jp/jp/aboutus/dep… )ゲットする詐欺的行為では?」とい
う憶測がなされた結果であるという噂もある。

??いままでの記述は落語における枕にあたる。さてこれから『明解宇宙語大辞典』編纂
の歴史を紐解くとしよう。
三年前に、生まれた三ヶ月ばかりの仔猫が山の下の里村からはるばる登ってきて我が山
荘に居着いた。名をミラノ公ドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ(通称イル・モーロ)
にちなんでその諱を「モロ」とした。 山の奥にひっそりとたたずむ湖水の色のような、
わずかに鈍色の含まれるアクアマリンの色の瞳を向けながら、朝な夕なに話しかけてき
た宇宙語を私は手を抜かず全て収録した。そして母星から送られてくる指令の暗号を解
読することの役目をになったチーフのサカエ・ル・カミノをはじめ「物集班」の力でそ
してそのデータを基に、宇宙語を解読し辞書として編纂に至ったわけである。
  下記は母星から送られてくる「ミッション」の暗号文の一例
  5405401791 9477587214 6324863264 4983412604 8640409293
  1481967000 8996483727 2621990112 1910706012 6312782576
  0210369991 8366476103 5213752153 3872301503 7539398181

 私たちの『明解宇宙語大辞典』は『亞書』の場合と全く違い、無償で下記の図書館に
寄贈することにした。
  国名      名称        (現在の蔵書数+新しく加わる1冊)
日本    :国会図書館             (24,988,176+1冊)
バチカン  :バチカン図書館            (1,100,000+1冊)
アイルランド:トリニティ・カレッジ図書館 ?????? (5,000,000+1冊)
フランス  :ビブリオテーク・ナショナル ?????? (10,000,000+1冊)

 この『明解宇宙語大辞典』を目にした「中山競馬大学」の滝沢馬糞准教授は、宇宙語
は皆目分からないが「今世紀の大穴を当てたようで、とてもすばらしい」と、意味不明
の評を書いて絶賛していたと聞く。

参照:「物集班」のメンバーは下記の小説『無限回廊』のなかの第一回の登場人物のな
   かでで紹介されている。
  ??http://2style.in/alpha/0-0.html

????






2015年

エイプリルフール



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、
オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
 ??「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行
  う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、世界的
  な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎えさせる最終
  兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイター」等、世界
  の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決してきたことから鑑
  みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取らない立派な会社であ
  ると言える」と述べている。
   ??参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい
商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、
「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいて
いの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると
病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしてい
て、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。
刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認する
ヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
????第 1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で
???????????? ある。
????第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的・
???????????? 経済水域はウスライナ人が所有権を有す。
????第14条 :土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権
       は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ
       とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰
属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一
国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の
運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人
になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地
球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たさ
れているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識
や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念で
ある。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。
それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと
思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の
「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を
兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能
力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。
オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産
することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。

  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
????2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
????3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
????4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)
の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星人とし
て認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服
すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデア
を募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」
「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に
備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道に
もとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の
被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の
地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート
・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純
である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、
即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通
りである。

  1.住民はリラックスして睡眠状態になる
  2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね
   て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
  3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと
   ができる
  4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール
   弾」の影響下に置く
  5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたらした。

虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年
  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の
  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チュ
  ネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事がみ
  られたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用としてインド
????に売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優秀な紛争
????終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩せやしない
????だろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収めることはま
????ことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む思
????いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガード
????下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・ボール
  弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争には必ず購
  入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に煽っていた。
????という記事を暴露した。

??  参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
??????????????????????????http://2style.in/alpha/27-7.html









原文


2015年

オキシモーラン的エイプリルフール−



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
 ??「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで
????行う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、
  世界的な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎
  えさせる最終兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイ
  ター」等、世界の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決し  てきたことから鑑みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取ら  ない立派な会社であると言える」と述べている。
   ??参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
       http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいていの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしていて、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。 刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認するヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
????第1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で???????????? ある。
????第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的経???????????? 済水域はウクライナ人が所有権を有す。
????第14条??:土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権???????????? は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ???????????? とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たされているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念である。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。
  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
????2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
????3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
????4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
  「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星   人として認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデアを募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」、「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道にもとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通りである。
????1.住民はリラックスして睡眠状態になる
????2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
????3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと ができる
????4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール弾」の影響下に置く
????5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたら した。

 虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チ  ュネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事  がみられたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用として  インドに売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優  秀な紛争終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩  せやしないだろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収  めることはまことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む  思いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガ  ード下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・  ボール弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争に  は必ず購入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に  煽っていた。という記事を暴露した。

  参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ−異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
      http://2style.in/alpha/27-7.html




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