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alpha-archive-06
30
:
α編集部
:2014/04/29(火) 16:37:05
激甘辛 作品評2
.
?????? 激甘辛 作品評2
????????????????????????????????200814−16号
??????「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
*電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
*現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
を読むことができます。
同人α14号
ウエストポート ルービン・良久子著 2008/3/1
http://2style.in/alpha/14-2.html
「ウエストポート」は情景描写のみごとさ、プロットの面白さはいつも関心させられる。
それは常日頃陶器や絵や写真に興味を持ち鑑賞したり製作したりといった生き方をした
人でないとなかなかああいう自然の色や時間による変化の描写は出来ないと思う。
しかし、大勢の人が右へいくならば自分は左へと行くような天の邪鬼を自認するものに
とって、何か人の言わないことを無理に探し出すことに自己表現を試みるという悪い癖
で敢えて評すれば、筋の破綻はなく納得出来るもので、しっかりと納まっているが筋の
進みが重点に置かれていて、心理の描写「意識のながれ」が少ないのが不満である。
肥と筑 第四回 長岡曉生著 2008/3/11
http://2style.in/alpha/14-3.html
◆またまた秋の風鈴なみの無粋な季節はずれの感想を書きます。早い時期に書けば楽なの
に皆さんの素晴らしい意見の出た後で、気の利いた、大向こうを呻らす、人と違った観
点のものを書くことは非常に難しい技でありまして、怠けた罰と諦めましょう。 この
「肥と筑」のような壮大な読み物は真剣に評するとなれば、四書五経は勿論のこと亀甲
文字や金文字などの資料集を読破しなければならないから、異常プリオン蛋白による
牛海綿状脳症のような私のプヨプヨの脳ではとても無理なことであります。だから個々
のことに対する質問や疑問ではなく、別な観点から眺めて見ましょう。
◆論文か小説か?という命題が前々回あたりから話題になっていましたが、論文とすれば
取り上げられた資料が果たして真であるか、事実にはない想像のものか、または風説に
よる単なる噂に域を出ない物かなどの判断をいわゆる専門家の集中砲火を浴びてボコボ
コにされる運命が待っているでしょう。ところがそれを小説というスタイルにすれば資
料と資料の膨大な時間と空間を繋ぐ大胆な推論という便利なものも許されるに違いあり
ません。そういう風に見ると作者の意図を十分発揮させるためには小説というスタイル
を選んだことは正しいと言えましょう。登場人物の性格描写が不十分だの、皆が等価に
扱われていて統一感がないということでしっかりとしたイメージを読者が作り上げるこ
とが出来ないので戸惑う、などということはまた別の問題でありましょう。
◆初期値のごくわずかなずれが、将来の結果に甚大な差を生み出す(バタフライ効果)の
「カオス理論」や、ものの予測のできない空間的、時間的変化や動きを表す「1/Fゆ
らぎ理論」などのように、歴史上の資料という小石を池に投げ込んで出来る波状が大き
な波となって拡大するように、初期値の選択で違った結論に到達することだってあり得
る事でありましょう。色々の説、色々の論が生じても何が真実で何が間違っているかの
判断は俄につきがたい問題も多く、それがかえって推論の面白さでもあります。
◆世の中には、鉄の箱である飛行機が空を飛ぶのは信じられないと思う人は多いと思いま
す。ベルヌーイの定理などの流体力学を使ってその浮力を証明しているが、どうもそれ
だけでは解明できない部分があるという。しかし現実に飛行機は空を飛ぶわけですから、
鐸木康孝著による「物理学の理論はすべて近似である。ケプラー法則に従って運行刷る
惑星は一つもないし、ニュートンの法則に従って運動する質点とか剛体というものはひ
とつもない。正しいか、正しくないか、ということは、物理学では問題にならない。問
題になるのは精度である。誤差の極めて大きな理論に対して、これは誤りであるという
判定がおこなわれることはある。この理論は正しいという判定をこなわれてことは一度
もない」などや、とにかこの世界の出来事は「 99・9%は仮説」という竹内 薫著のよ
うに、この世の中でまだ解明されてないものがほとんどであるという。
◆だから私は「肥と筑」を小説として書き上げたというふうに、作者の意図をくみ取った
つもりだ。はたしてその真偽はいかに。 そして、今回もまたまた「カオス理論」や
「1/Fゆらぎ理論」などといった奇っ怪なものでお茶を濁してごめんなさい。
愛13題??碇民治著 ????2008/3/17
http://2style.in/alpha/14-4.html
俳句に関しては全くの門外漢なの碇さんの「愛13題」の句の善し悪しを評することは
出来ませんが、盲蛇に怖じずにて自己流の感覚的なことを書きますと、現代俳句において
2、3の疑問点があります。これは天の邪鬼たる私の偏った意見かもしれないので、もし
的外れであれば遠慮無くご指摘ください。
◆俳句の約束事 :碇さんが示してくれた数多くの約束事を見て、このような約束事を造
ることは、句の本当の意図からだんだん離れているのではないかと感じました。俳諧の
初めの頃はもっと自由闊達で、野太く、直裁的ではなかったのではないでしょうか。
◆漢字:漢字やカタカナやひらがなから受ける視覚的な印象もまた大事で、その配分やバ
ランスも読者に与える感じは違ったものになるでしょう。視覚的にみますと今回の碇さ
んの句の印象は漢字の部分が多く目に付きます。難しい言葉が必ずしも鬱陶しいといく
ことではなくて、ひらがなの間に配置された少ない漢字の大いなる効果もまた考慮され
ていいかも知れません。
◆字足らず字余り:
拝むや・・・・おろがむや(5文字)
雪解川・・・・ゆきげがわ(5文字)
菊美しき・・・きくはしき(5文字)
碧きかり・・・あおきかり(5文字)
などの字足らずや字余りの処理の仕方もあまりにも5・7・5に当てはめるという約束事
に囚われて、不自然で姑息に見えてしまうのは私だけでしょうかね。以上言いたい放題
失礼しました。
プラトニック・ラブ 2008/3/20
◆ プラトニック・ラブという題をみて、九鬼周造の『「いき」の構造』に出てくる江戸
っ子の思いを遂げられない恋、諦められた恋をまず思い浮かべた。それから肉体的に結
ばれることなく、遠くから思いを寄せるだけの貴婦人に対する精神的な中世の騎士の愛
を思い浮かべた。そのような現象はそこら中にいつも溢れるように存在していると言う
のに、こんどもまた「言葉」の定義からはいるという私のいつもの悪い癖が出てしまっ
た。
とにかく、プラトニック・ラブという用語はどこから来たのかを納得しないとどうも先
へ進めないというから始末に負えない。
◆そこで安直にWikipediaで調べてみると、プラトニック・ラブ (Platonic love) とは、肉
体的な欲求を離れた、精神的な愛のことである。プラトンも実は男色者であったが、そ
の著書の『饗宴』の中で、男色者として肉体(外見)に惹かれる愛よりも精神に惹かれ
る愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)
よりも、美のイデアを愛することであると説いた。
◆また、九鬼周造の『「いき」の構造』のなかで語られる、身分の違いや人妻などの女性
に心を寄せるものの決して成就しない忍ぶ恋であり、諦める恋である。そこに江戸っ子
の意気地、やせ我慢の美学が感ぜられ、それが究極的な「粋」だと言っている。そのよ
うなものを私は勝手に「プラトニック・ラブ」と呼ぶような気がする。
◆さて、著者の小説のなかで語られるものをみると、そのような二人の関係がはたして「プ
ラトニック・ラブ」なのかどうか疑問に思われる。肉体的に結ばれないからそうだとは
単純に言えないような気がする。肉体を離れた関係がはたして男女間で成立するのかと
いう命題も、小説のなかでも運命の同じ船に乗り合わせたという同志的な関係、親子・
兄弟関係に生ずる愛に似たものなどといった考察もあり、なるほどと思うが結論は出て
いない。
◆あなたはこの物語の主人公の立場になったらどうするか?と問い投げかけられているよ
うで、安易に答えをだしたら見透かされそうで躊躇する。そしてこの問題を見事に解決
する解答を今の私は見付ける事が出来ない。たぶん自分がそのような立場になったとき
は七転八倒・周章狼狽するであろうと思うだけである。常日頃観念ではこうしようと想
定していてもその時はたして建て前通りに自分が行動するか自信がない。
夫婦の関係を断ち切るか否かは、夫が妻にたいして人格的に「存在」にたりえると切に
思っているかによるだろう。ただ便利なだけか、それともアイリーンに無いものを妻に
認めているかどうかに掛かっているのではないだろうか。それでもなおそう簡単に割り
切ることはこの世の中では難しい。個人個人の性格にもよるだろう。その許容の範囲が
100%から0%の間のある割合以上で我慢できるか、或いはできないかの数値は個人差
によるところでから、この命題は個々の読者の性格に委ねられて、一向に正確な結論は
出ないわけだ。
◆今まで著者の作品が語ってきたものを見ると、恨みや悔恨や怒りの情などの激しい人間
の負の部分が語られないという傾向がある。これは作者が意識的に軽妙、洒脱なスタイ
ルをとっているのか、それともそのような作者の性格に根ざす無意識の表現の結果なの
か、どうであろう。
◆最後に「プラトニック・ラブ」の対極にあると思われる男女の関係を書いた中上健次著
の「赫髪」(あかがみ)を紹介しよう。
これは並のポルノ小説よりすごい性交の描写で全体が綴られている。しかし決してポル
ノ小説のような卑猥さはない。むしろ人間の精神と真反対の肉体のすごさを表現してい
て、中頭健次の才のすごさでもある。こういう人間の営みもあるのかと私の知らない世
界があった。ポルノ小説を一度書いてみたいといって「性の波紋」をものにされたK
氏にも一読を勧めます。
定年退職後の日々第三回…日曜日 午後の喫茶店 2008/4/12
◆久しぶりに時間が出来たので「定年退職後の日々」を初回から通して読み 直した。は
たして主人公の山本さんは自分の死を認識しているのだろうか。そのへんが 曖昧だっ
たので先日「ぼてじゅう」をつつききかつ飲みながら、作者に問うてみた。「自分でも
判りません、これからどういうふうに山本さんが動くか想定していません」という答え
が返ってきた。これはまるで原子のブラウン運動のごときランダムで混沌、やはり並の
人間の考えが及ばない著者独特の「融通無碍」の世界なのだ。
◆私であれば、送別会の帰りに感慨にふけってしまった山本さんが、駅の階段を踏み外し
て転んだ折り運悪く頭を打って敢えなく逝ってしまったとか、通り掛かりの十七歳の少
年に理由もなくいきなり刺されて死んでしまったとか、読者というより自分を納得させ
るためにくだくだ理屈をこねるだろうと思った。そのへんのところが私と著者との趣向
や気質の違いなのだろう。
◆この小説があの世とこの世を行き来していることについて考えたことがある。私がこれ
まで読んだ本の中にもそれを扱ったものがあった。村上春樹の「羊をめぐる冒険」「世
界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「 海辺のカフカ」、田口ランディの「コ
ンセント」それから埴谷雄高の「死霊」などがある。自分の中では「あの世とこの世」
を「無限と有限」、「想念と現実」と読み替えてみた。その辺のところを同人α第2号
の前書きで書いている。
◆同人α第2号の名をの「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなけれ
ばなりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?
はたして無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まさ
れて来ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの
難題に決着をつけなければならないと考えました。いま現在我々が生きている世界は有
限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取って確かめることができます。し
かし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、各の頭の中には神や虚数や妄
想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の果てと思われている130
億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受
けるとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび
音楽や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその
世界へ積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕た
ちは人生を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自
己表現に努めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」と
した次第であります。
◆さて、ブラウン運動の原子のように融通無碍・混沌・渾沌の「山本さん」にどんな結末
が待っているか楽しみである。
◆ブログに掲載の著者の両親の写真はお二人の波瀾万丈の人生を読み取りたくなるような
誘惑に駆られます。父上は上海や大連や満州当たりで暗躍する諜報機関を取り仕切るの
謎の人物のように、一寸危ない感じがして不思議な魅力がありますね。
次元から次元へ 第一 神野佐嘉江著2008/5/1
http://2style.in/alpha/14-11.htmll
斉藤孝の「声に出して読みたい日本語」という本がある。そこには有名な詩や文章が紹
介されているが、名文を浪々と朗読してみると、言うに言われぬ心地よさがある。
6万年前人類の祖先がアフリカで誕生したとき、まだ文字はなかった。己の感情や同胞
への危険の警告の音は発していたにちがいない。だからこの詩を音にもどして、雪隠で謡
曲を呻る苦沙弥先生のように、野天の風呂で月を見ながら広沢虎造の十八番である「清水
次郎長」を歌う熊さんのように、我々もひとつ丹田に力をいれて姿勢を正し思い切り喉を
開き、思わせぶりな身振り手振りで感情を吹き込み「一ぅあきあがる、わきあがる、うき
きあがる、しゃば、しゅば、さばえなす」と叫んでみようではないか。 世俗にまみれた
「言葉」が声に出すことによって次元を逆戻りして原始の息吹に帰っていくに違いない。
作者曰く「皆に苦労ばかり掛けていると思うし、僕も皆のをまめに合評をやっているわ
けではないので、今回この作品の合評はパスと宣言して、皆の負担を軽くしてください」
と依頼されたが、敢えて私はその作品の鑑賞に挑戦した。そして私は難解だと言われる神
野佐嘉江氏の言葉の意味を探るのではなく、もう一度音にもどしてやればそこから新しい
何かが感じ取れるような気がした。
同人α15号
西郷札と江藤新平をかくまった人小倉処平 2008/7/4
http://2style.in/alpha/15-9.html
江藤新平の率いる佐賀の乱は大久保利通等の陰謀によりでっち上げられた理由によると
いう研究書を読んだことがある。もともと江藤新平は乱を起こそうとする不平士族を説得
するために下野したと言われているが、その間に公金横領の疑いありということで反乱軍
として追討令が出されたという資料を読んだことがある。征韓論そのものにおいても佐賀
出身者のなかでも江藤新平・副島種臣達と大隈重信・大木喬任達とはもともと意見が違っ
ていて、一枚岩ではなかったのだから藩としての反乱を起こすほどの江藤新平の考えはな
かったのではないだろうか。碇さんが読まれたものと同じものだったかもしれないが、友
人から貰ったその資料を誰かに貸してあげたような気がして、今は手元にない。
とにかく江藤新平について私が強烈な印象をもったのは、近代化のために富国強兵と中
央集権を目指して突き進む国家権力のシステムのなかに、民衆の権利を意識した「行政訴
訟法」を制定した民権論者であったことである。あの時代このような権利を認めたという
ことだけでも偉大なる人物であったと私は評価する。
法による秩序を信じ近代国家を目指した人が、権謀術数の権力闘争のなかで抗弁もゆるさ
れない裁判で晒し首の刑に処せられたことは、「士族を廃めさせたうえ梟首という強引さ
は、法も司法もあったものではなかった」と司馬遼太郎はその著書『歳月』において語っ
ている。
肥と筑」第五回長岡曉生著 2008/7/19
http://2style.in/alpha/15-15.html
◆「知の巨人」についての長岡曉生さんのクレームがありましたが、けっしておちょくっ
てニヤニヤしているわけではなく、心底私はそう思っているものです。それに比べて、
さしずめO氏が「痴の巨人」なら私は「稚の巨人」といったところですか。
◆製鉄の話で小さい頃のことを想い出しました。
私の父は戦後小さな鋳物工場を経営していました。そのためそのことについて私は色々
のことを見聞きしていました。樋口さんの「付文」に出てくる銀色の無臭で硬いコーク
スが珍重されていることも知っていました。コールタール、ピッチなどの不純物が混入
している石炭では高温を得ることができません。だから高価なコークスを使用して、解
体された軍艦などの鉄くずとを混ぜて溶鉱炉に入れて燃やして銑鉄をつくります。どろ
どろに溶けて太陽のようにまぶしく輝き、線香花火のような火花を散らす鉄を、上半身
裸の男達が鉄の柄杓で受て、鋳型に流し込みます。車の部品やら、橋桁の受け材やら、
鍋などに成型されます。九州の夏の夜などは普通でも寝苦しいのに、溶鉱炉を使った日
などは、工場と壁一つ隔てた同じ建物の住居では地獄のような暑さで、まともに寝られ
たものではなかったことを記憶しています。
(中略)
◆ところで「肥と筑」の評はどうなったとお叱りを受けそうですが、私はこの膨大な小説
が終わってから総評をしようと心に決めています。だから、「彼奴はまた敵前逃亡を図
ったな」といわれそうですが、そうではなく興味の尽きない作者の風貌を解析して見た
いという誘惑に駆られました。
「赤信号 皆んなで渡れば 恐くない」的な護衛船団方式の中では、この「いひゅうも
ん」ははなはだ厄介な存在です。無視するにはあまりにも穿った理を唱え、受け入れる
には安逸をむさぼっている者も艱難辛苦の努力を覚悟しなければなりません。ものごと
を理に照らして判断し、間尺に合わないことには豪も妥協せず、自分の考えを頑なに押
し通す「いひゅうもん」は、表面だけの付き合いや対面だけの仲良しクラブにとっては
まるで喉に刺さった魚の骨か、理由の分からない肋間神経痛のような忘れ去ることの出
来ない不快感を発生させるものでありましょう。
だが、並の人間が理解できないような深遠な考えと信念を持った「いひゅうもん」に私
は「肥と筑」の作者を重ね合わせました。このような作品は彼しか出来ないもの、その
意味に於いては強烈な個性の持ち主だと考えます。私はいつも自分にしか出来ないもの
を見いだし、いかに実践するかを見つけたいと思うと同時に、いつの日かあいつは「い
ひゅうもん」と呼称されることを夢見ています。
鎮魂歌 2008/7/23
物語としては構成も最期の物語の締めくくりとしての情景も見事に決まっていて、よく
纏まっていると思います。今回の創作で旅行記だけをみて判断していた私の先入観が見事
に破られました。そういえば、同人α第10号「美」の作者が描いた少女像も並々ならぬ
技量を認めていた訳ですから早く気づくべきでした。
さて、例によって天の邪鬼の本領を発揮していくつかの疑問を呈して見ます。
人を殺したり、陵辱した時のおぞましさ、罪悪感へのおののきは詳しく語られず、ただ
やむを得ない過ぎさっていくだけの情景としてのみ語られ、泰之の心に深く残る傷として
の様子は表現されていない。「人間の条件」の梶は体制のなかでの非人間的なことに抗い
ながら、それでも無力な己に思い悩む主人公が描かれている。
シェークスピアの「マクベス」のように、荒野で3人の魔女に出会い、「万歳、コーダ
ーの領主」、いずれ王になるお方」と呼びかけられる。そしてマクベスとマクベス夫人は
共謀して王を殺害する。しかしマクベスはバンクォーの幽霊を見ておののき、マクベス夫
人は殺害の時汚した手の「血が落ちない」とつぶやき発狂する。己の欲望に負けて犯した
人間の罪の意識を激しく持つ二人はいつまでもいやされることはない、といった人間の業
の深さを表現している。
泰之は逃れられない過酷な境遇をただ耐えるだけで、その非人間的な不条理を心のうち
で抗うことをしていないのが不満である。だから珠枝から誘われるままに交情するのだが、
女性にたいする好悪や性欲への渇望は示されず、ただ成り行きに従うという主体性のなさ
が目に付き、当然の行為が唐突な感じを受けるのは否めない。また珠枝の心情も心の内を
語られていないので、最後の墓参りのシーンで憶測するほかはない。
こういう作風もあるのも分かるが、なにごとにもことを荒立てるという性格は私だけで
あろうか。このところ「落書き帳」の事件で問題点を指摘したにも拘わらず十分な説明や
反論もなく、いわゆる無視された腹いせに「鎮魂歌」をやりだまにしている訳ではない。
心豊かな作者と「斜に構えた」私の性格の違いであろうか。この辺のところの作者の反論
を期待する。
昔、革命的だったお父さんの挽歌・・・その4 安曇野便り 2008/7/29
長い長い題を読む。実は編集の時にみた彼の題は違っていた。原題は「安曇野便り(そ
の4、ひとり芝居『天(あま)の魚(いを)』」だった。しかし「昔、革命的だったお父さん
の挽歌」シリーズの一部だからということで、現在の題になったものだ。ところでいつも
長い題を好む北島氏の傾向はどうしてであろうか。そこのところの考えを一度追及し真意
を吐露させてみたい気がする。
◆茜との予期せぬ交情を、離婚した妻・桐子の幻影におびえる主人公が不思議でならない。
そこには不倫でもなく、なんら思い悩む道徳的な負い目はないと自分に言い聞かせなが
ら、桐子の前で取り繕う心情は何故であろうか。
◆「同人安曇野15号」の合評会での茜の明るい様子をみて、茜の心の内はどのようなも
のであるか推し量り兼ねる主人公の戸惑いはよく書けている。
◆「苦海浄土」の話は「同人安曇野」に投稿したという情況を描くことで、自然にうまく
挿入されている。しかし、ここまで詳しく長い解説は別の話になってしまい、「安曇野
便り」の小説としてのバランスを欠いているように私には思える。
◆P462段目の4行 「地元の人との付き合いは(目的がない限りは)」の 括弧書きは
いかにも説明的で、以前にも「再び言うが」とか「前にも言ったように」な どの説明的
な文が散見されるたが、文学としての態をなさないと思うのだがいかがです か。
同人α16号
「而今」と「前立腺がん」 2008/9/16
◆いつもお逢いする時はブログの写真のように、にこやかで屈託のなさそうに私には見え
ていたタノさんですから、こんなシリアスな経験をされたことなど考えてもいませんで
した。私もサラリーマンを辞めてから35年以上なりますが、その間一度も健康診断な
るものを受けずに、病気で通院するなどとは夢にも思っていませんでした。しかし2年
ほど前から両足がひどく痺れ、やむなく病院に診察に行くことになりました。やはり病
気と対峙する覚悟を決めるまでは、これからの自分の生き方に戸惑い悩みを克服しなけ
ればなりませんでした。
◆「而今」とはなかなか良い言葉ですね。私も最近タノさんと同じ心境になりました。過
去も未来も幻想に過ぎない、今の一瞬のみが現実に実在する。だから過去に引きずられ
たり、不確定な未来に一喜一憂するよりは、今をしっかり生きようということだと思い
ます。そこで頭に浮かんだのはキルケゴールを初めニーチェ・ハイデッガー・ヤスパー
ス・サルトル等が提唱した人間の実存を中心におく実存主義という思想です。またまた
コピー・アンド・貼り付けの安直な方法をとりますが、以下はWikipediaより
実存 (Existenz) の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して
「実存」とした。語源はex-sistere (続けて外に立つの意) 。
実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越
を主張する思想である、とされる (「実存は本質に先立つ」) 。時間の流れの中で、今
ここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質
を否定された自由な実存として、予め生の意味を与えられることなく、不条理な現実の
うちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わ
ることの出来ない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることは出来ない
[要出典]のだ、とする。生を一旦このように捉えた上で、このような生を、絶望に陥る
ことなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ともされる。
◆作品の評としてはなっていませんが、私が一月に一度の通院も専門医の判断まかせで、
頼り切っている私と違い、このような正確なデータと状況の克明な描写には驚きました。
下世話に一病息災といわれるように、私の病気を性もない仲間と覚悟してこれからも一
生付き合っていく覚悟でいますから、これからもタノさんの元気を分けてください。
定年後の日々・・巴の妊娠 2008/9/17
私も同人αの「樂」第13号に「シリーズ・歪んだ風景−異星人」という奇妙奇天烈な
文を書きましたが、ただワープロ変換や翻訳システムの不備を揶揄たもので、基本的には
我々の現在住んでいる地球の理屈から決して逸脱することはありませんでした。
◆女性の場合は男性と違って、20代や30代は年齢とともに微笑派が増加していくもの
の、40代でピークとなって、それからは、やや下降線をたどる。女性は、どうも赤ち
ゃんに対するする興味は40代が最高のようである。
◆木村先生の説に依れば「不老長寿者は、最も利己的な、異端の動物なのです。
◆そこで男性は、子孫が増えることが、自分の生存を危なくするという潜在意識の警告に
従って、老人の顔になる人が多いのです
◆しかし、子供が欲しい女性だって、不老長寿者はほとんどが独身であり、夫婦生活をし
ている者はほとんどいない。何故だろうか?
「それが、不老長寿者の無限増殖を抑制する唯一の仕組みなのです。子供を産もうと思
って愛情生活をすると、その二人は、離婚したり、相手が不慮の事故等で死亡すると一
年以内に、再び相手を見つけないと老化して死んでしまいます。急激に老化しますから、
相手はなかなか見つかりません。などなど、著者の小説は私達が長年苦労して築きあげ
た定説と思われる知識を、あざ笑うかのように無造作に、まるで洗濯機の中で引っかき回
し、挙げ句の果ては真っ白な脳に洗い清めようと意図する宇宙人の陰謀ではないかと思わ
れる。いちいち内容や用語の考察をすることが全く的外れで、ピエロになりそうな恐れが
あるから私は評する努力を躊躇した。きっと著者は、20世紀の最大の巨匠ジェームズ・ジ
ョイスの「フィネガンズ・ウエイク」や「ユリシーズ」などと肩を並べる奇書をものにし
ているのかもしれない。
「揺らぎ」による、会話詩 2008/10/3
詩の解釈は実に難しい。俳句や短歌のように作者が言わんとすることが判りやすいのと違
い、理屈なしにただ感じればいいといってもメタファーを多く含む現代詩の鑑賞は実に厄
介なものがある。
海とか波とかの響きや字面も人によってそのイメージは違ってくる。だから作者が言葉
を発した瞬間からそれは一人歩きし、一生懸命読者に理解されるようにと意図された散文
と違い読む人の解釈次第で変化していく。
美しい海や岸に寄せ来る絶え間ない波の動きもある時は、私にとって単に心地よい響きと
開放されたさわやかさだけではなく、海の底知れない広がりと深みは恐れを抱かせるし、
無限の運動は私に逃れられない束縛と映り息苦しさを覚えさせる。
そして、この詩が最後の「?? だけど、潮に引き戻されていく・・・。」という一節によっ
て、その意味するところを私は解釈出来ないでいる。
女であること 2008/10/8
まず作者が「女であること」と表題をつけたことについて、その意図するところを私は
明確に捉えることが出来なかったことを白状しなければならない。
それはともかく、人間の誕生について多田富雄の「生命の意味論」ではつぎのように書
いてある。男と女の生物学的差異については、女の染色体はXX、男の染色体はXYであ
るが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、人間はもともと女になるべく設
計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝子で、血液凝固・色覚・免疫細
胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に男をつくるためだけの遺伝子ら
しく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫で長持ちするようにできている
のである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男でも女でもない状態であり、基
本型がきまってから男にでもするか程度のもので、Y遺伝子のためにむりやり女の体を加
工して男にさせられた結果だという。
生き物のなかにはある時はオス、廻りの環境がかわるとメスになるものがあるらしい。
だからシーザーが大いに悩んだほどのルビコン川のような隔たりは、男と女の間のには無
いのかも知れない。私達も男性の心の中にも女性的な部分もあるし、女性もまた男子的な
性格の人もいる。その境界は曖昧で、男らしくとか女らしくといった生き方はそれほど明
確に有るわけでなく、生来というよりはむしろ社会的な規範の中で作り上げられた結果の
差異のようだ。そして同性愛者が常にある一定のパーセンテージを閉めていることを見る
と、昔は異端の烙印を押されたものだが、現象的にみると民族の違い程度に認識する必要
が有るのかもしれない。しかし私はひげ面の男同士が抱き合ってキスしているのを見ると
「どうして」と思うのであるが・・・。
作者が描きたかった同性愛についてのテーマを自分なりに考えてみたので、前置きが長
くなった。本題の合評としては、指の感触や思い入れは個人差があるもので、そんなもん
かとか、そうだそうだと自分の体験に照らし合わせるような個人的な感覚なので評はしな
い。そのかわり、作者の物語の描き方については2、3 の疑問がある。
作者は敢えて現在の満足な環境の中に、ある種の物足りなさをもつ女性を描きたかった
のだろうが、読者には保坂和志がいう「体験のもつ一種問答無用の強さ」が感じられない。
「そして万一自分が同性愛者である事を悟ったとしても、これまで築いて来た全てを捨て
る事は出来ない。綾子には2度と会うまいと思った」など、今までの創作においても同じ
く深く悩むとか悔やむとかの心理の葛藤を敢えて書かないで、淡々と描いているようにも
思える。読者としてはこの終わり方に物足りなさを覚えるとともに、これからがこの物語
の始まりだと思うのだが。
最後に参考資料として国際医学会やWHO(世界保健機関)の見解を載せてあるが、ど
うもこの創作の内容を補完するための言い訳じみていてどうかと思う。創作は創作として
その物語のなかに読者を引き込むだけでよいのでは。研究書やレポートではないのだから、
楽屋裏は見せない方がよいと思うのだが
明治維新前後の佐賀偉人百人 碇民治著 2008/10/16
http://2style.in/alpha/16-8.html
18歳以来佐賀という郷里をはなれて半世紀にもなるので、碇さんの書かれた佐賀の偉
人達の足跡は初めて知ることも多く、今更ながら私にとって非常に興味深く読んでいる。
佐賀で暮らしていた頃はいつも身近なものより遠い都の方ばかりに目がむいていて、機会
があれば郷里を飛び出す算段ばかりしていた。だからその頃は己が育った足下の街の歴史
や偉人については興味も示さず冷淡だったと今は思う。その後もあまり帰属意識のなさと、
過去を振り向かない主義が禍して、郷里への思いも喚起されることもなくこのまま忘れ去
っていくところであった。過去に裏切られた故郷での人間関係や価値観の違いに基づく心
の底に沈殿している暗い思いがそうさせたのかも知れない。
幸い碇さんが無意識に拒んでいる頑なな私に郷里への思いを再び向かわせてくれたよう
だ。これからも後九十数人の偉人についての記述を楽しみにしている。
「肥と筑」第六回 2008/11/2
http://2style.in/alpha/16-12.html
海運業であった我が先祖の生業を知っている私にとって、今回の船の話には特に興味が
沸いてきた。
渡来人の船は右舷漕ぎであっただろうと書いてあるが、それがどのような構造であるの
か、推進するに当たってどのような直進する力になり得るのか、その漕ぎ方が外の方法よ
りも有利であったという理由が知りたい。
私は父の回想録を編集するに当たって、祖父と伯父と十八歳の父の三人が二本マストの
二百トンくらいの帆船で塩田港から有明海を抜け、風待ちしながら二週間かけて韓国の釜
山まで有田焼を積んで貿易していたという船について、船籍・洋船か和船かをお台場の船
の博物館で調べたことがある。父の従兄弟の人に聞いたところでは、真っ黒な船体で船尾
が丸い形をしたものだったから、おそらく洋船であったろうという曖昧な記憶しか聞けな
かった。
徐福一行が最初にたどり着いたのは杵島の竜王崎(佐賀県杵島郡白石町)だったが、こ
こに上陸するには困難な場所と判断されたという。そのことを有明町の海童神社にある石
碑にはそのことが書かれているそうである。その海童神社の近くで船乗り家業をしていた
遠い祖先が除福伝説に関わりを持っていたなどという夢を持ってみたような気がしてきた。
複合構造について、文字や刀の考察も面白かった。切る刀と突く剣の違いもいろいろの
民族の嗜好性や必要性についての考察も読んでみたい。
この小説はものごとの出所を探し当て、その後各民族が変化させていったことを究明す
る、とてつもない比較文化論であることを遅まきながらいま悟った次第である。これで一
回分の購読料が200円は安すぎる気がしてきた。だからこの物語が完結した暁には一冊の
本として我が工房で作ることをお薦めしたい。
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