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31
:
α編集部
:2014/04/30(水) 13:45:52
激甘辛 作品評3
.
???? 激甘辛 作品評3
?????????????????????????????? 17−18号2008-2009
??????「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
*電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
*現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
を読むことができます。
同人α17号
そこで、一寸した疑問が湧いてきた。アメリカやフランスでは日本の文字に魅される人
が多くなったとか。若いアメリか人の腕の入れ墨に「台所」と彫ってあったのには噴飯も
のだが、日本のTシャツに書いてある英語にもいい加減なものもあるから、おあいこであ
ろう。確かに異国的なものへの憧れはあるだろうが、書を芸術とするのは中国や日本のよ
うな漢字を使う国だけであろうか。ローマ字やその他の国々の文字を芸術の対象とする考
えを持つ文化が外にあるかが知りたい。
テーマー「間柄」による、会話詩 2008/12/8
この詩はメタファーを読み取るといういつもの癖で作業が許されるものなのか、またその
ようなものを作者が意図していないのか、私には判らない。それほどこれは自然体の無垢
の心で読み取る詩なのだろう。
たぶん作者は私を取り巻く人達のような悔しさや惨めさなどの不条理の世界で生きること
から開放された人生に違いない。私も戦後の貧しさのなかで屋外にしつらえられた仮設の
五右衛門風呂に入りながら、秋の空の雲を動物や乗り物になぞらえた記憶がよみがえった
ものの、いまの自分は随分遠くまできたものだという感慨をもった次第である。
そして、とてもこれは作品の評としてはほど遠いとものと自覚しているのであります。
昔、革命的だったお父さんの挽歌…その5安曇野から 2008/12/14
前半の時間の考察はなかなか面白い。しかし、「今の瞬間だけをそのつど生きている生
き物には、時間は生起してこない。時「間」の成立には「これまで」と「これから」の「間」
が生きられることが不可欠なのである。」にたいして、ちょっと意地悪に時間の定義を知
りたくなった。
私が以前読んだ橋本淳一郎の「時間はどこでうまれるのか」という本の中に、哲学者マ
クタガートの時間系列があった。それは時間のA系列、B系列、C系列という考え方であ
る。
★A系列の時間とは、常に「現在」という視点に依存する時間のことを言う。生き
ている自分にとって、時間はいつも「今現在」である。いわゆる主観的な時間で、
われわれが日常的に感じているのは、このような時間しかないわけだから、人間
的時間と見なして良いだろう。
★B系列の時間は、物理学的時間に対応しているが、それは物理学的時間の一部で
ある。具体的にいうと、デカルトやニュートンが考えたような客観的時間のこと
で、相対論や量子論が明らかにした時間は単純に座標軸に刻むことができないの
で、B'系列、B''系列などの分類しなければならない。
★C系列は、もはや時間とはよべない。それはただの配列の事である。簡単な例で
述べれば、1−秋田さん、2−石川さん、3−岡山産・・・などの、単なる名簿
であって、それらの数字の間に、時間的な順序関係は何もない。このような時間
とはかんけいのないたんなる配列を、C系列と呼ぶ。
しかし、マクタガートの結論は、A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。C系
列は時間とよべるものではないから、結局「時間は実在しない」と述べている。
後半の食料やエネルギーそれを取り巻く世界の環境問題などが主人公の口から論じられ
ているが、データが生々しく解説風で、フィクションという小説形式のに取り入れて論ず
るにはそぐわないような気がした。もう一度主人公の頭の中で醸造されたエキスとして上
手く語れないのだろうか。
最後に「 そして、このことが茜と本来の人間的な関係を築くことができそうな気がす
る。「本来の人間的な関係」とはどういうことかと問われそうだが、それは肉体的な関係
よりも彼女の全体を知りたいという知的好奇心から情的連帯感を求めたいことだ。
私が生きるうえで茜の存在が一つの価値観としてあるような期待感が備わることだ。
それほど彼女には不可思議な魅力があるということかもしれない。」という件で締めてあ
るが、本来の人間的な関係を築こうとする意図と、現実の世界の問題の解析との天秤がど
ちらに傾くか、気が気ではない。
さくらそう 2008/12/19
◆学生時代、知人が話す大阪弁にその当時はあまり良い印象を持たなかった。なんとも複
雑な感情をともなうもののようであったり、別の解釈ができそうな不思議なニュアンス
を感じたりして、総じて曰くありげで不真面目に聞こえたものだ。それは少年の頃育っ
た郷里や東京での生活で交わされる直裁的な言葉とは確かに違っていた。東京弁を野球
に例えて直球だと見なせば、大阪弁は掴み所のない変化球、魔球のような感じがしたの
だった。愚直に可否をはっきり表現していて潔いような感じを与える東京弁と反対に、
大阪弁はその中に色々の感情が詰め込まれているようで、肯定しているかと思えばやん
わり拒否しているようでもあり、一筋縄ではいかないぞという思いを私に抱かせた。さ
てそこで大阪弁とはどのようなものなのかの概略を改めて調べてみた。
* 文末の省略 (例)これが大阪城でおま。 あんじょうさせてもろてま。
* 連音・促音 (例)プラッチック(←プラスチック) やーもっさん(←山本さ
ん)
* 「だす」 共通語の「です」を大阪城だす。
* 「おます」 (例)これが大阪城でおます。
* 否定形の表現 (例)膝は笑えへんやろ。 そんな奴おれへんやろ。
* 「もうかりまっか」
大阪は商人の町として発展したために曖昧で互いに角を立てない表現が発達した。文末
の省略はその象徴的なもので、一見すると肯定しているのか否定しているのかはっきりし
ないことがある。と書いてあった。 (Wikipedia)
◆しかしこのところ筒井さんの作品を読んでいるうちに、なかなか大阪弁のやわらかさや
断定しない言葉の情緒を、これまたいいもんだと迂闊にも感じ始めている自分があった。
いまでも男性の話す大阪弁にはいささか違和感を感じるのだが、女性のそれは強い性格
の女性に痛めつけられた私にはこの上なく癒しの響きがあって惹かれるものである。
しかしこれもまた十把一絡げにすることも乱暴なことで、たぶん個人差の問題でもある
だろう。中には私の手に余る女性もいるのかもしれない。
だが、一方灰汁の強い大阪弁を最近は噸と耳にしなくなったような気がするのは私の錯
覚だろうか。だんだん地方色が薄れてきて標準語に引きずられてきているのかもしれな
い。そう言えば東京生まれの息子の「鼻濁音」も聞いたことない気がしてきた。そのよ
うに独特の地方色がなくなってしまうことは残念なことである。
◆とまあ、作品の評の前にずいぶんと頓馬なことで紙面を費やしてしまった。これで終わ
りにするのも間尺が合わないから努力してみよう。
この作品は皆さんの評されるように、シリアスな物語を流れる水のごとくなめらかに語
られている。しかし敢えて評すれば、点と点を結ぶ「線」、主人公と関係を持つ人人々
の「面」の記述で、高さや深さや時間の交差といった多次元の構造になっていないのが
物足りない気がした。もう少し流れの中に障害物や、瀬や淵や曲がりくねった複雑さが
欲しい。最後に一番知りたかったのは夫がどうして主人公から離れていったかの記述で
ある。しかしまたこのような淡々とした作風もあっていいようにも思えた。
《言葉集め星創り五拾番》より 弐拾六番
元旦を生む 神野佐嘉江著?? 2009/1/14
http://2style.in/alpha/17-8.html
〇一つは、文字が会話をなしえない単なる記号として、まるで筑豊炭坑の捨石(ボタ)
山のようにゴロと裸のまま転がっているようだ。
それらが〇〇では二つの言葉がくっつき合って、なんだか常人の頭には存在しない判じ
物のような言葉が生まれ出でる。 「へその梅」、「干柿浣腸」、「炭のような卵子」、
「歳神の超音波写真」「性別正月」そして・・・。
〇〇〇ではそれに動詞や形容詞などの述語がくっついてきた。すこし意味をなしてきた
が、なお身近な科学法則には当てはまらないことばかりだ。この広大な宇宙に未だに存在
の証明されていない、でもあるとしなければビッグバンの仮説に影響してくるダーク・マ
ター(暗黒物質)の侮れない力のように、間尺に合わなくても真実を含んでいるのかもしれ
ないと思う。
さて正月のめでたさと生命の誕生を祝って書かれたものだが、物質から生命が発生する
ときはこのようにオドロドロの奇々怪々な、きれい事では済まされない経過をへて、かわ
いい赤ん坊の誕生となるのだ。
おめでとうひっひっふー 子孫繁栄ひっひっふー (福笑いひっひっふー 万歳ひっひっ
ふー からっ風ひっひっふー。
まずはめでたしめでたし。
・「蛍」・・・道しるべ 2009/1/20
◆ なんとも心地よい物語なので、点字の仕組みの説明のところで船を漕いでポトリと冊
子を落としてしまった。クラシックの演奏を聞いていて途中から気持ちよく眠るのは、
いい演奏の証拠であると某文化人が言っていた。「歪んだ風景」の中に住む者にとって
も皆さんの評の通り、意味の取り違いによるあざ笑いや、冷たい目を背中に感じること
もなく、優しさや思いやりのいっぱい詰まった世界がとても心地よかったからでしょう。
◆目が覚めてからすぐにシステムや算法(アルゴリズム)に反応したのは、点字の決まり事
に興味を持ったからだ。六個のポイントで「かな」を表せるという単純なものだから、
コンピュータ上でそのまま本を読むように「かな」を打てる「点字ソフト」を作るのは
簡単ではないかと思った。そのようなソフトがすでに市販されているのかどうかかは私
にはわからないが。
◆私は作者のように人に優しく、ボランティアなどの奉仕精神もなく、ただ自分のことだ
けにめいっぱいで過ごしていることを時に恥じる者であるが、綺麗すぎるものごとの中
に潜む負の部分を見過ごす訳にはいかず、すぐに水を差して白けさせるという困った性
格だ。一度でもいいから、作者のような純愛の物語を作って見たい。しかし無理でしょ
うね。
フランス便り 秋 2009/1/22
先の「沈みゆく家」の評に対して、作者たる私自身がくだくだと言い訳を一杯書いてし
まったことを、てらいや自己顕示欲やひけらかしに思えてきて、今は実に後悔している。
作者は書くだけでいいのに、あとは解釈をそれぞれの読者の感覚に任せればいいのに、と
いう常日頃思っていたにも拘わらず理屈をこねて自分の考えを押しつけたことに滅入って
いるのである。
さて、それはともかくフランス便りを楽しく読まして貰った。行ったことはないが、そ
のような長閑な街の雰囲気を映し出した作者の素直な記述に、遠くに居ながらにしてそこ
ら中を作者ご夫妻達と一緒に散策しているようないい気分になった。
◆墓の話
先日この「言の輪」に、この歳になると体のどこそこが悪い等と言った 病気の話で持
ちきりになるという記事があった。そのうち我々も前期高齢者のまっ ただ中に突入する
からきっと墓の話で盛り上がるだろうよなどと思ったものだ。
11月だから日本の秋分の頃よりは2月ほどずれるが、墓前に備える菊の花だとか、火
葬だとか、家族揃って墓参りするという習慣が日本とフランスはそっくりであることに
少なからず驚いた。
ところで、泉岳寺にある赤穂浪士の墓は有名だが、東京でも名のある故人の墓を訪れる
ことが趣味だという人も多くなっているという。この前「歩くハイマーの会」で吉祥寺
から玉川上水を歩く中で、太宰治や森鴎外などの墓も回ったが、いつも新しい花で華や
いでいるという。私はそのような人の墓には何の興味も湧かないので、そう言う人はど
のような意図で探索するのであるか不思議である。
◆キノコの話
種類も多く四季を通して実る野いちごには毒はない。毒々しい真っ赤な蛇イチゴはいか
にも腹痛を起こしそうだが、不味いというだけで無害であるという。
しかしキノコは毒があるのも多く、素人では判定が難しく手を出さない方がよいようだ。
新聞でキノコ狩りに出掛けた家族が、山を下りてくる途中で通りがかりの人に貰ったも
のを食べて中毒したというニュースがあった。人にあげる人も、またそれを何の疑いも
なく素直に食する人も、どっちもどっちである。その後その家族が死に至ったかどうか
は判らない。
◆写真
このエッセーを一段と魅力あるものにする手だてとして、場面場面の写真を添えては如
何と亮子さんに提案したい。
あなたと私 2009/1/31
いつものように取っ掛かりがないときは言葉の意味をあちこちと調べ回っていると、な
にやら問題点が浮かんでくるものだ。 今回はこの詩のキーワードである「縁」「絆」
「間柄」を片手では持てないくらい重くて厚い「字通」で調べてみた。
それらの意味を私の独断と偏見で捏ね回すと、「縁」とは他生からつながる結びつきで、
生まれたときから定まっていて、自らの意志で変えられない運命である。「絆」とは生ま
れた後で自ら築き上げる人と人の繋がりである。「間柄」とは自分を取り巻くそのような
人たちとの空間的、時間的距離関係であるとしてみたが、その解釈にあまり自信はない。
「あなたと私」という詩は作者が相手との関係を密にしたり、疎にしたり、肯定したり、
否定しながら考察を進める、自分探しの詩であると思う。
一度産まれたら 切るに切れない・・・の「絆」
神々の計り知れない叡智か・・・・・・の「縁」
思い違いの冷たい風が握り合った手の間を、よせては引く波のように繰り返す心もとなさ、
えにしに絡め取られた男と女・・・のベクトルの彷徨う「間柄」掴んだと思ったらするり
と手のひらの間から抜け落ちるもどかしさ、作者は未来永劫その危うい関係から逃れられ
ないだろう。肯定と否定の対句による流れの快さ、彷徨う心の惑いがよく表現されていて
良い出来と思いました。しかし時間に迫られた習作、あらがきのような印象をもち、欲を
言えばリズムにのるように言葉の長さを整えて、使い古されたものではなく詩的な言葉の
隠喩を使ってイメージを広げるようにしたらと勝手に思いました。
オールド・マン −父去る日− 2009/2/14
ブログの写真について昌平坂探偵所の赤松次郎としてはこの写真もまた3人のうち当人
はどの人かという推理を、長岡さんの時のように分析したくなりました。しかしよく眺め
るとそんなに思案することもなく判りました。右の人はムスリムのベールを被っている。
真ん中の女性はまだ若い子供のようだ。たとえ清水さんのこの旅行が十数年前の写真とし
ても、やはりその女性よりも幼くはなかっただろうから、左の女性が作者に間違いないと
決定した・・・とまあ余計な遊びをしてしまった。
今まで共に生きてきた父を回想する作者は、敬い、慈しむ父への感情を直接表現するこ
とではなく、抑制された目で静かに、生きるとは、老いとは、死とは何かという普遍的な
真理を求め探っている。そして最後の6行で初めて作者の父の死に直面している。それま
でのメタファーは実に効果的で見事にこの詩に清廉と深さとを与えている。ちなみにメタ
ファーはアリストテレスの「詩学」のなかで、「通常の言葉は既に知っていることしか伝
えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」と述べている。
同人α18号
マグマ 2009/3/8
人知れず内に潜む心の情を熱いマグマにたとえて歌った詩。だれも己の秘めたるものの
大きさや重さや激しさを知らないという。それは日々の暮らしの中でかいま見た、人間関
係における愛情・嫉妬・羨望・失望などの喜怒哀楽に翻弄される己を深く内証した詩であ
ると思います。「誰も触れてはならぬ、如何なるものかを、誰も尋ねることはならぬ」の
部分はまさに深く関わればそれだけ己が傷つくことを言っているのでしょう。
しかし疑問点が無いわけではありません。「砂を噛むほどの寂しさ」とは作者独特の感
覚であると思うが、どういうものか私にははっきりしたイメージが沸かず、不可解な言葉
として残りました。
それから、「人も山も」は先に人を火山に例えているから、「人も」は不要に思え、重
複した感じを受けます。同じくその他の節も「人間は」ではなく「山は」とし擬人化した
「山」を主語として通したほうがいいのではと思いました。
そして最後の言葉である「赤い命を燃やす「山」を最初の主語である「人(または人間)」
に戻した方がいいのではと思いましたが如何でしょうか。
「マグマの評について」 2009/3/9
長岡さんから話を振られたので白状します。花粉症で目と鼻をクシャクシャにして参っ
ている脳を駆使してこの詩をよんだ時に、まず最初に浮かんだのは主語がいろいろ変化し
ていること。それにより視点が定まらないのが気になりました。表現しようとする目的・
内容・意図は充分評価できますが、もう少し構成上の推敲に努力されたらもっと素晴らし
いものになったと勝手に思っています。長岡さんも人が悪いなあー、赤松次郎からいわず
もがなの言を引き出すなんて・・・。
肥と筑 第八回 長岡曉生著 2009/3/15
http://2style.in/alpha/18-7.html
どうも作品の内容について質問を探すことに四苦八苦しているのが実情であります。裏
を返せば、まさにそれは長岡さんの論にたいして確たる反論を見いだせないという我が不
勉強を如実に表わしているのであります。しかしへそ曲がりの赤松次郎らしく、大海に浮
かぶ、ちっぽけな史実という島々を結ぶ線に、飛躍や食違いや強引な接合という弱点がき
っとどこかにある、と目を皿のようにして探すのだですが、皆目見当もつきません。それ
は作者の知識が私の思い及ばぬほど宇宙的な壮大さ、深淵さでとてつもなくすごいものだ
からでしょう。 せめてロッキ−ド事件の榎本三恵子が証言した「蜂の一刺し」のように
「まいった」と一本とりるような意地悪な質問をしてみたいものです。
◆骨相学
海人族などの渡来人が日本の各地に拡散するとき、先住民である縄文人・弥生人との関
係、どのようにして融合していったか。
有史初期、古事記や日本書記のころにも帰化人が貴族の三割くらいを占めていたと読ん
だことがありましたが、大阪の人達の骨相を調べたら、朝鮮の人達に極めて近いひとが多
いと聞いたことがあります。 縄文人・弥生人・北方騎馬民族・南方海人族の骨相的特徴
は?
◆出雲のズーズー弁
松本清張の「砂の器」のなかに東北地方ばかりでなく山陰地方でにも存在することに言
及されて、それが犯人を追いつめていく筋だったと記憶していましたが、あまりに昔読ん
だので定かではありません。
◆曼荼羅を描いた本は私も持っていますが、人間の奥深く探求した思想を視覚的・象徴的
に表したもの。個々の真理探究をする西洋の思想にはないものであり、その統合された
思想の世界は精緻さと深さに満ちていて驚くべきものですね。今読んでいるアーヴィン・
カリヴァン著の「CosMos」がまさにこの宇宙の統一理論の基礎のなっているような
気がしています。
◆法曼荼羅と深層意識のアーラヤ識について、以前なにかの哲学者の本のなかで読んだこ
とがありましたが、長岡さんの紹介された【認識と超越<唯識>仏教の思想4(角川書
店)】を購入しましたので、もう一度読んでみたいと思っています。
次号の表題「空」を解説するなんざぁ、長岡さんも策士だなあ。
『桃源郷』に行った男 2009/3/26
「不老不死の実」を食べるのを止めた方がいいというガイドの言葉の理由が書いてない。
これは村の人々が経験上それを食べてしまった人の将来の不幸を予感しているためなの
か。とば口でそのことを詳しく記述しなかったし、明子と別れる事情も説明しないのもま
た謎を残したまま筋を進めるという作者の企みなのか。そうだとすれば、なかなかの策士
であります。
ところで、作者のこれまでの主人公を調べてみると、私はある共通点があることを見つ
けた。この小説の安夫、「鎮魂歌」の武田泰之、「牡 丹」の翔、「蛍」の朝比奈美代子な
どの主人公達は、深刻にじっと耐えている風でもなく、成り行きに任せて飄々と生きてい
るようだ。困ることがあっても自ら足掻いてでも問題を解決するという生臭い性格ではな
さそうである。清いと言えば清いし、善良だと言えば誠に善良である。問題の前で立ちす
くむ子供のような、無垢さを感じる。
妻を愛する夫であれば、「不老不死の実」を食べて自分だけ不老不死になるのではなく、
「アピトーユ渓谷」に出かけて行って、明子のために実を取ってくるだろうと思った。そ
う言う発想にならないところに、主人公の異質な感覚がある。
私も以前「不老不死」のテーマで「三つの願い」という中編のSFものの寓話を書いた
ことがあるが、主人公は実に惨めな人生を過ごさなければならないといった結論であった。
なにせ人間や動物やそのたの生き物がすべて滅亡した、殺伐とした世界を一人生き続けな
ければならないからだ。話し相手もいないので言葉も失し、頭脳も退化した姿は、まさに
肉体は生きていても人間としての尊厳は精神活動の停止で保たれず、まさに死んでいるの
と同じといえよう。一体不老不死とは・・・安夫の結末はいかに? それにしても作者の
いつもの見事な構想には脱帽します。
性についての雑考 2009/4/7
私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
(1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
(2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。
色模様 2009/4/20
◆ブログの写真を見て
作者は不思議な人である。まるで剣客塚原卜伝の「無手勝流」の使い手のよう に、一
見隙だらけのように思えて観客をハラハラさせるが、結局は己のなすがままにち ゃっ
かり勝利を手にしているという希な人である。
その姿もクレオパトラか楊貴妃か藤原紀香のように傾城の美女という訳ではないが、男
の心を惑わすような妙な魅力が備わっていて見飽きない。女優でいえば「足ながおじさ
ん」に出たレスリー・キャロンか、「アパートの鍵貸します」のシャーリー・マクレー
ンあたりだろうか、好き嫌いは別として・・・。
◆さて本題の「色模様」の感想を書くが、一言でいえば信子の「心模様」を見事に書きき
ったもので、いよいよ私好みの「純文学」の世界へ入ってきた作品と言えよう。 何が
「娯楽小説」でなにが「純文学」かは人によって解釈が違うようだ。 だからこの問題
は微妙で一筋縄ではないようだから、こうであると今私が断じることはなるべく避けた
い。参考として先日朝日新聞2009/3/25の「文芸時評−「結末」の問題−齋藤美奈子」
はこう言っている。
娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいか
に描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定
義を思いついた。
起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前で
トンズラしてもいいじゃないか。
強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
◆そこで「色模様」については、足を絡ませたり。耳を噛んだり、指を絡ませる等の肉体
の接触で男女の関係を表しているが、この辺は通俗小説じみている。しかし「私が首に
なって路頭に迷ったらあなた面倒見てくれる?」の会話における男と女の心理が面白い。
男は自分の立場上不可能なことだと必死で説明し自分を守ろうとする。女は無理だと判
りながら「安心しなさい、ずっと面倒見てあげるよ」という言葉だけでも言ってもらう
ことでふっと湧いた不安が癒されるのである。そのへんの機微が男には判らない。私も
細君にそのような問い掛けをされたとき、真剣に理屈をくどくど説いて、答えを出そう
ともがくのであるが、「女の気持ちがちっとも分かっていない」「言葉は只、慰めを言
わない手はない」などと叱られるのである。世間を見ると「歯の浮くような」言葉をよ
くする男の方が、女性を幸せにするのかもしれない。だが私みたいな朴念仁にはなかな
か出来ない辛い仕事である。
男と女の繋がりは、一緒に側に居たい、それが心地よいと思うかどうかの問題で、不倫
だろうとなかろうと当事者以外が問題にするようなものではないと私は思う。男も女も
今の相手と違った魅力の人々が一杯いるわけだから、それぞれの人を好きになってはい
けないという倫理感は、他人に押しつけるべきではない。そういう面での信子の生き方
には、決まり切った世間の通念に囚われない心の自由を感じる。だから今の彼との間に
何らかの束縛感を覚えたとき、信子はすんなり別れてしまいそうな気がする。
この小説は、そのような結論の出ない、たゆたいのなかの信子の暮らし振りが非常によ
く書けていると私は思う。また筋の纏まりもよく一人称で語られているので人間関係も
判りやすい、よくできた作品里私は思う。
自然染色のぬくもり〜シルクのトンネル〜 2009/4/27
◆先日聴きに行ったウィリアム・モリスの講座と相まって、私にいろいろと考えさせるも
のを提供してくれた。
モリスについては学生時代に建築学科の教養として「アーツ・アンド・クラフト運動」
という芸術運動の提唱者であったという知識は微かに持っていた。しかし今回の講座自
体は、かつてモリスのデザインした壁紙などを継承して製作販売している会社の主催す
るものであったので、レジメもなくスライドだけの説明で、内容も私の知っている知識
を超えるものでもなかった。それはともかく、1800年代イギリスの産業革命の時代
にそのクラフト(手作り)の良さを見直すという運動は、そのまま現代の問題として生
きているのである。そこで安価に大量に製産される工業製品と、自然のものを使った手
作りのものの違いをいつもの癖で考えてみたいと思う。
◆それらの違いはどこにあるか。
たとえば、絹や麻や木綿などの天然繊維と化学繊維
天然繊維は湿度や温度などの自然現象にうまく対応した長い人間の暮らしに沿て使いこ
なされた暖かみがある。一方工業製品は強く、かつある種の特性には秀でているが天然
繊維のもつ多様な特性がない。
たとえば、草や木や動物による天然染料と合成染料
天然の染料は様々な色を含むやわらかな中間色が多いような気がするが、合成染料との
違いは私にも判からない。
たとえば、土や木や紙や石などの天然建材と新建材といわれる工業製品
??建材においても同じく、天然の建材は自然の移りかわりに微妙に対処する能力があるが、
新建材は別の要素を併用して補わなければいけない。
たとえば、レコードなどのアナログとCDなどのデジタル音楽
デジタルで情報を記録するCDが出るまで私達は、レコードというアナログの記録を再
生して音楽を聴いていた。それは針とレコードをトレースする雑音も一緒に含めて鑑賞
していた訳だ。だからCDの音が雑音を含まず、純粋な音の再現だと頭では思えてもな
んだか薄っぺらで深みのない感じを受けたものだ。私はヴァイオリンやクラリネットや
笙のように、位相の違う波形の音がいくつも重なって創り出す音に感動する。だから今
でもラックスマンの管球アンプ、ナガオカのレコード針を使い、思い出の名演奏のレコ
ードをタンノイのスピーカーで聞いているマニアの想いも判らないでもない。
結論として、いくつもの要素を含む天然のものは総じて、色や音やテクスチャーに深み
をもつ複雑系のもので、使えば使うほど、時間が経てば経つほど味わいを増すようであ
ることは確かである。ただし安価で大量に供給される工業生産品と違い、希少な材料と
手間と時間とを要する手工芸品が高価なものになり、庶民の手から遠ざかり金満家のた
めのものになるところは、すでに150年前のモリスの時代からのジレンマになってい
る。・・とまあ、作者のエッセイを読んで、こういうとりとめもない感想を抱いた次第
である。
パイオニア十号 2009/5/4
なりたい職業の最初は忍者、それから新聞記者の特派員としてアメリカに行き、カウボ
ーイになりたかった。やむを得ず学業成績を問わない公務員になった。作者のこの辺の見
解も常人とは違い、読者にとっては非常に隠喩的で刺激的である。
また、東欧で昔の領主の館を買い、小さなホテルを経営したいと思う一方、ビルマの山
奥で少数民族とともに仕事がしたいと思うが、「私はこれまで常に、自分の希望する世界
を生きてこなかった」と嘆く。
作者はその名の通り、実は我々が生きている現実の世界ではなく、イマジネーションの
世界でいまも暮らしていると私は確信する。神が動物を創造した際に、余った半端物を用
いて獏というキメラを創ったそうであるが、貪欲に夢を食べ続けている獏のようではあり
ませんか。
そして、宇宙船パイオニアのように宇宙空間で孤独な旅を続けながら、時折我々の住む現
実の世界へ接近してきて、知的刺激を与えてくれる特異な人である。
◆Wikipediaより
獏(ばく)は、人の夢を喰って生きると言われる中国から日本へ伝わった伝説の生物。
この場合の夢は将来の希望の意味ではなくレム睡眠中にみる夢である。悪夢を見た後に
「(この夢を)獏にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見ずにすむという。
体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎にそれぞれ似ているとされる。。
The Color of the Morning Glories 2009/5/5
まじめに自分で訳して感想をと思い努力したが、長文の箇所でお手上げになったので馬
込の先生の手を借りた。ところが作品の題であるMorning Gloriesが「朝顔の花」とは
つゆ知らず、「朝の荘厳な光の色」などと、とんでもない迷訳となっていたのである。三日
ほど掛けて訳したのだが、いまさら時間のなさと辞書のせいにはしたくはなく、やはり素人
の出る幕ではないらしい。
それはともかく、この短編はある一時(いっとき)の場面の中にこれほどの密度の高い想
念を作り上げられたもので、作者の並々ならぬ力量と才能を見た。
この先品は18号のテーマである「色」について、red、green、blue、 bright blue、deep
blue、yellow、pale yellowなど七種類の記述もさることながら、私が注目したのは種々の
情景の記述の中に「二項対立」の関係で成り立っているのを見つけたからだ。
たとえば少年(男)とおばあさん(女)、低い(少年)と高い(おばあさん)の視点、過
去と現在の情景、動と静、静寂と激しい音、平安と5.11という大事件等々。これほど
一幕ものの短編のなかに深い想念を重奏の音楽のように奏でたことは実に見事であると私
は思った。
「エラさんの作品から感じたもの」 2009/5/8
G氏の評「作者は何を言いたかったのか」を読んで、私は「二項対立」の構文に目が
眩み、それを書くのを忘れていた。
情景描写に徹して感情を記述しない表現から感じるものは、単に平和への希求、再生への
希望を訴えたかったばかりではない、もっと深い宇宙や生き物の持つ根源的な宿命、人類
の愚かさについて述べられているように思う。「猿の惑星」の最後の場面のように、遠い
星間を長い間旅をして着いた未知の惑星が、朽ち果てた自由の女神像を見たとき、地球だ
ったことが判ったシーンのように、人類が今まで営んできた歴史はなんであったかと問い
直さなければならない。そのことを深く静かに表現されているように思えてならない。
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