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32α編集部:2014/04/30(水) 17:15:45
激甘辛評4
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              激甘辛 作品評4
                  19号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。



  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α19号


昔、革命的であったおとうさんの晩夏・・・その6「同人安曇野」便り 2009/6/9

◆この作者の作品を読むときこれまでも、それが創作ものとして感想を述べればいいか、
 思想としての評価を対象とすべきか迷うことが多い。
 そこには主人公の「私」、「前にも言ったように」とか「再び言おう」とか「私の認識
 は以下のようなものだ」などの語句からは作家の影の姿を想起させるものであり、小説
 としての仮想の世界へ突然現実の生身の作家が現れるようで、違和感があると言える。
◆「同人安曇野」に投稿した農業問題をそこで滔滔と述べることも、合評会でその作品の
 評価において芸術的評価はさておいて、司会者・茜が次のようにまとめた。

 「農業再生についてのプログラム、政府の財政的な保障、などこの作品にかんしての趣
 意はほとんど皆さんの賛同を得ていると思います。問題は政府ならずとも、財源をどこ
 に求めるかでしょう。筆者がここまで明確に試案を提出されたわけだから、その財源に
 ついてもきっとその出所を検討されたことと考えます。次回後半部分の合評会の初めに
 時間をとって、筆者にその説明をしてもらおうかと思っています」

 という、農業問題の解決にかんする討議で始終するところは、何だか「同人誌」として
 の成り立ち、主旨と違うような感じを受けた。
 或いはその様な主旨の同人誌であって、私の間違った思いこみであるのかもしれない。
◆そしてまた、この小説に出てくる主人公の考えはいかにも概論的であり、私が以前読ん
 だ小説「生活の探求」の都会のインテリの生き方に疑問を持った杉野駿介が故郷に戻っ
 て農業を嗣ぎ、体験を通して農業問題に目覚める姿の方によりリアリィティを感じるの
 である。
 とまあ、勝手なことを書いたが、もしこれが論文やエッセイの形をとり、作者が自分の
 考えを直接語るのであればなんら問題はない。実は舞台裏を明かせば、先日19号のゲ
 ラ刷りを目の前に作者とO氏と私の三人が論じ合ったのがこの部分なのだ。しかし作者
 はこの方法で作品を創る意義を強く示した。だからこの難しい創作方法の成功を祈りた
 い。



「作者の反論について」 2009/6/13

 作者の「安曇野便り」の合評において、農業問題についてあの様な長文の理論を数ペー
ジに渡って展開するのは、小説という想像の世界を創り出す行為においてそぐわないので
はなかろうか、と私もO氏と同じ感じを抱いた。
 どのような物を書こうが一向にかまわないが、合評という場でなされた議論にたいして、
自分の真意と違うことを強制するなとばかりに「一切受容しません」と言い切るのは、合
評という主旨にたいしての理解がなされていないように思う。
 彼の反論を見ていても、「為にする」議論ばかりで、冷静にお互いの言い分を理解しよ
うという努力が感じられない。なにも人の意見に全て従えと言っているのではない。相手
の意見と自分の意見の相違を真摯に討議していくという度量、柔軟性が欲しい。一を言う
と十の「為にする」論をしてくる。
 作者の作品にたいする私の微妙な感覚は、今回の反論を見ていると理解し合えない、い
くら言ってもその真意が伝わらないような思いがした。
為にする議論(タメにするギロン)
議論において、その結果としての結論を出すことを目的とせず、まず結論があって、議論
をしたという体裁を整えるために行うもの。



「作者の合評のお礼について」 2009/6/14

手法について
 確かに私は氏が目指している手法を繰り返し問題にして批評してきたと思います。だか
ら氏はそのしつこさに「何回もその意図するところを説明しているのに、ちっとも理解し
てくれない」というもどかしさに、思わず感情的な(これは私の感じたもので、他の人は
そうでもないかも知れない)言葉の吐露があったと判断しました。
 氏が何か新しい挑戦を試みることには吝かではありますが、私はまだその手法に違和感
を感じ続けていることは確かです。このシリーズの第15号「ひとり芝居『天の魚(いを)』」
や第17号の「農業問題」、今度の「農業悶題」がこの手法でありますが、このような長大
な解説は論文か講演のものと私は感じていて、小説のなか登場人物の情景描写や筋とこの
主張との関係で、どちらに主体があるかという判断に戸惑ったからです。それは現に第16
号では「地球温暖化について」という問題を独立したエッセイの形で纏められていて、私
にとってはこの方がずっと判りやすい手法で、氏が日頃から社会問題に通暁されている主
張が素直に読みとれるからです。しかし氏が引き続きこの手法で創作されても、私はもは
やこの件についての問題提起をしないことにしましょう。願わくば新しい挑戦には反発や
異論がつきものですので、それを肥やしにして進むくらいの柔軟な姿勢を私は望みます。





浪速の空から 2009/6/12

◆表題の「空」はそれこそ哲学的な難しい概念である。丁度いま私は長岡氏の紹介で求め
 た、仏教の思想集「唯識論」のところを読んでいる。
 それによると、心の中の表象があるのみで、外界の存在物は無いという思想であり、
 「色即是空」、色すなわち目の前の現実と見える物は全て心の現象であって存在しない
 ということでしょう。これは茂木健一郎の言う、思想や科学や宗教は人間の頭の中で考
 えた、すなわち想念の産物であるということにつながるのではないか。今目の前に見え
 ている物の存在ははたして真実か、見えない場所に移動してもその物が存在していると
 いう確信がもてるか、私には確信が持てない。とすればやはり外界の現象は実在しない
 という意味だと私は考えた。
◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?



「浪速びとさんへ」 2009/6/17

 「案の定,古賀さんに[バカ]と[アホ]で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってし
  まうと言われて,実は僕は[やっぱり・・・]とうなだれたのであります」

とありますが、決して否定的に受け取らないでくだい。これは「自己流捻千家(じこりゅ
うひねせんけ)」を自称するへそ曲がりたる小生の、その筆力に対する違った表現の賞賛
の評であります。
題名は失念しましたが河野多惠子のエッセイに、ある何でもない平凡な一つの言葉につい
てアアでもないコウでもない、表、横、裏、上、下と色々の観点から見た考察を、数ペー
ジに渡って述べてものを読んだ事があります。作家とはものごとをよく観察して、様々な
例証を示し同じテーマを違った言い方で繰り返して読者に印象づけるという、さすが言葉
で勝負する職業だなと大いに感心したものであります。
 だから、面白いエピソード一杯の文章は、読んでいるときは笑ったり、悲しんだり、驚
いたり、その文と内容に上手だなと感心しますが、本を閉じた途端にその感動も雲散霧消、
何を述べられ何を言いたかったのかをすっかり忘れてしまいます。だから「バカ」と「ア
ホ」のように一貫したテーマで色々の変化球を駆使して読者に投げかけるものは実に印象
に残ります。もともと、人間は一回こっきりで物事を理解出来るとは小生思っていません。
繰り返し繰り返し、飽きるほど囁かないと読者は頭の中の引出しの隅にしまってくれない
と思います。・・・などと、かなりしつこく独断と偏見に満ちた考えを述べました。ごめ
んなさい。





葛藤 2009/6/23

 葛藤という言葉については、真剣な皆さんの論争に充分言い尽くされたと判断して、こ
れ以上私の見解を述べずに横目で見て通り過ぎましょう。
確かに語り手が現在の私と過去の私を「ゆめ子」として、客観的に描くという手法は見事
に成功しています。しかし「私」と「ゆめ子」と他に人との関係が判るまでは、最後まで
読まなくてははっきりしません。頭脳明晰な人であれば一度で理解できるでしょうが、ぼ
んくらには何回も何回も繰り返して読み込まなければ判らないのであります。葛藤や生き
方などを語る小説の内容を云々するよりも、まずそのような人間関係の把握という些末な
努力を読者に要求るのはあまり得策とは言えないのではないでしょうか。
 もちろん小生のような単細胞でない人を対象にしたならば、こういうぼやきはないでし
ょうが。普通の読者がその関係を曖昧のまま読み終わって、再度検証しなければ理解出来
ないならば、そのまま読み捨ててしまうだろうと思いました。その意味でも早い内に人間
関係が判るような表現を挿入して判りやすくして、本題である主人公の葛藤の具体的な要
因や、それに伴う真理描写に力を注いで欲しいと思いました。ここではさらりと触れられ
ていて、読者の想像に任せてるに留まっているようです。私は主人公の「空」に至るまで
のぐしゃぐしゃした葛藤に苦しむリアリズムを書いて欲しいと思った。
 作者が小説に新しい構成を求めた意図は理解できました。そしてその内容もまた「人は
色々の問題を抱えながら生きることの難しさを味わっている」ということを充分に表現で
きていると思いました。





肥と筑 第九回 2009/6/29
http://2style.in/alpha/19-4.html

 さて、難物の作品「肥と筑」の合評の締め切り日は、容赦なく私に襲い掛かって来る。
それは昔に受けた怠け者の期末試験のトラウマの再現だ。あのころは部活動や麻雀、音楽
や読書、旅行などの目先の興味にばかり酔いしれて、隙あらば本分たる学問から目をそら
すことばかり考えているという、道草人生の始まりである。そのため、この作品の奥深い
知識には今更ながら驚くばかりである。加えて、その輝きに目が眩んだ訳ではないが、こ
のところ視力の悪化で活字が追えなくなるとい苦渋を味わっている。・・・などと言い訳
を使って今回の合評をパスさせて貰おうかと思案していた。
 とここまで書いたが、皆さんの合評が面白く一寸口を出してみたくなった。長岡さんが
北島君との「基本線」が同じだという認識にはO−chanと同様、私もちょっと違うの
ではないかと思う。
 北島君の基本線についてはもう言うまいと思っていたが、要するにフィクションの形を
とるとすれば、作者の生の声を感じさせたら興ざめだろうと言うことです。長岡さんのは
それぞれの登場人物に語らせるという形をとっているから創作物としては納得がいくとい
うことです。いずれにしろ土俵や物差しがそれぞれ違う者の同士が意見を言うのだから、
100%の理解が得られるとは考えていない。そのことは承知の上出来る限り自分の考えを
力説することはいいことだ。
 旅人ーMさんの評はブラックユーモア的なところがある。人のために何もしていないと
いうを負い目を感じている露悪的な私と違い、旅人ーMさんはボランティア活動もよく行
い、実に誠実で真摯な人柄と思える。しかし時として実につれない言葉の礫を投げかける
ことがある。
お客に一体「何を売りたい」のだろうか
 (1)「知識・説明」を売りたいのだろうか?

 (2)出てきた品と説明で、顧客の判断で値打ち物を選んで買って欲しいのだろうか?
・・・は実に強烈だなあ。いくら皮肉屋の私でもここまでは書けないなあ、恐れ入りまし
た。
 ところで私は「肥と筑」は私達日本人の成り立ち、すなわちルートを解明するという私
の好奇心を満たす創作だと思いますので、肝心なところはブラックユーモアで語るのでな
く、長岡さんの血と涙と汗の作品をもう少し真面目に読んであげたらと思った次第であり
ます。





りらの空 2009/7/8

 りらの空という題もちょっと変わっていますね。そこにはどうもこの詩の深い意味が潜
んでいそうな気がしました。
 私はかつて同人α第8号「シリーズ・歪んだ風景−記憶」のなかで、亡き両親やまだ郷
里で暮らす兄の姿や表情を正確に再現出来ない自分の記憶の曖昧さを書いたことがある。
鮮明に記憶する術としては、流動する行為の中のある瞬間を抜き取って、絵や写真や脳の
ある部分に焼き付けるといった固定する作業しか方法はないのではないかと思った。
 泳ぎ好きのかえるさんが「一枚の絵が描かれていくところを想像しながら読みました」
といみじくも言われるように、まさに幸せな家族の薄れゆく運命である記憶を永遠に自分
の頭のなかに留めようとする。両親の印象や花の色や位置、空との関係などを丹念に記憶
するための描写に心を注いでいる詩人・画家・写真家である作者の姿がある。
私は作者が「言の輪」に投稿している文においては、余りにも例えや言い換えや専門的な
表現が多くて、内容の重点が判らず明確なイメージを作れない事がある。しかしこのよう
な詩の世界では見事に作者の芸術的才能を認めるところとなる。
 ◆童話のように小さく老いた父と母
 ◆この空と花の位置をどうしよう
 ◆ 花は大地に似合いすぎて迎えられているのはいつも人間
などの言葉は確かに作者独自のものである。散々使い古された言葉、誰かからの借り物、
愛とか恋とか友情んどといった安直な美しい言葉ではなく、その人しか表現出来ないよう
な言葉で表現することが優れた詩人だと私は考える。





「絵空事」を読んで−その1 2009/7/13

ブログの写真とコメントを見て
ダンテの「神曲」を「新曲」と書いているところなどは、いかにもO−chanらしく天
衣無縫、些細なことには囚われない、まさに「地獄門」の前に立つ永遠の淑女ベアトリー
チェといったところでしょうか?
ダンテがフィレンツェを追放された後、ヴェローナで「神曲」を書いた。その家を見た、
二年前のイタリア旅行が懐かしく想い出されました。

さて本題、いつものように作者の作品は実に滑らかでよどみがなく、上手い情景と心理描
写に満ちた文章に感心するが、いくつかの疑問が残った。いつもの作者の主張を信ずると、
褒められることも大好き、反面けなされることもまた一寸好きという複雑な性格の作者だ
から、密の味は人に譲って私は苦みや辛みのスパイスを効かした評を書こうと努力しよう。
でもそれは「苦み」であって、決して「嫌み」ではない。

1.表題の「絵空事」とはこの小説でなにを表しているか。読み終えてもそれが判らない。
むなしさを覚えたとき、幸せな今までの生活が本当に自分が望んだものでなく、別にもっ
と充実した生き方が有ったのではないかと悩むことなのか。 絵空事という言葉は確かに
「実際の物とは違って誇張され美化されて描かれた絵」を言う。P33の上から2段落目に
「ついあれこれ「もし」を思ってしまうという記述はあるが、主人公がその世界に思いを
馳せるという具体的なシーンは書いてない。もっと現実とかけ離れた空想に浸る主人公を
読んでみたいと思った。

一遍に書くと勿体ないから、まだまだその2、その3と評は続きますよ・・・。



「絵空事」を読んで−その2 2009/7/14
2.人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや
観念が流れるように連なったものであるとする考え方がベルグゾンの提唱しているもので、
意識の流れという文学的な手法がある。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、ヴァー
ジニア・ウルフの『灯台へ』などである。 しかし私も物知り顔に得々と自慢できるわけ
ではなく、二つの小説は読みかけの本棚に何年も置き去りにされて、時たま続きを精々数
ページ捲られるといった有様であるのだ。
それはともかく、この「絵空事」という小説は主人公の意識の流れを全編にわたって告白
したものだが、記述された出来事に主人公の切羽詰まった緊張感が感じられない。 その
内証に厚みが感じられないのはどうしてだろう。作者は意図的にそうした書き方をしたの
だろうか。



「絵空事」を読んで−その3 2009/7/15

3.作者の今までの傾向を見ると、どうも主人公の意識から解放される自然描写や他の人
の行動や様子を描くという手法は用いられていないようだ。 それは作者の視点の欠如か
或いは感銘を受けても全く記述する意味を認めないのか判らない。延々と続く意識の流れ
に小石を投げて違った変化に驚くような、或いは寿司に添えてあるガリのような箸休めと
いいた読者の意識のリフレッシュの効果、あるいは音楽や絵や花や月に託する心の描写で
暗に主人公の思いを複合的に表現することだって可能だし、自然描写と心理描写がちょう
どいいバランスで表現される文章を期待するのだが。これもまた作風と言って済ませてい
いものか、私には判断出来ない。作者から「自分の心深く追求探索し、悶々とするのでし
ょうね。赤松さんの思考の傾向か好みか。自問してみて下さい」と鋭く切り替えされて、
自問してみました。やはり持論からちっとも外に出れない己の姿が見えてきました。



「絵空事」を読んで−その4 2009/7/16

4.合評の賑やかさにつられて、思わずもう一度「絵空事」を読んでみた。
このまま沈黙していると、皆さんが遙か高みの世界へ行ってしまい、
私は人気のない田舎の道端に一人置き去りになりそうな気がしたからだ。そこで私が最終
的な結論を出したのは、主人公の性格や生き方にたいする疑問や注文ではなく、書き方に
あると思った。

作者が流れのままに幸せに生きてきた麻子だから、そんなに深く思い悩んだことは今まで
なかった。だから自主性も深みもないと作者は解説している。たしかに読者が呆れるほど
馬鹿な人物や、嫌みな輩の物語を創作することもあろう。悔しがったり、イライラしたり、
「ばかたれ」とか「このあほが・・・」と読みながら歯ぎしりする物語もある。そこであ
りきたりの麻子の生き様に異論を感じることも承知で、いやむしろ計算ずくの意図が見え
隠れしていると思うほど、平凡で退屈な受け身の生き方をする主人公を書きたかったのだ
ろう。その意味では読者に異論を抱かせるとい効果は達成できたのではないだろうか。

そういう意味で私は一連の作品からそのような主人公を作者が描こうとした意図は理解で
きる。しかし初めから終わりまで時系列に述べられる内証は、やはり工夫をしないと読者
に緊張感を持続させることは難しい。夢想や回想などの時系列を断ち切る方法で書く工夫
があっても良かろうと感じたことである。この暑さでトチ狂った輩の、外れの深読みとお
笑いください。





テーマ「空」による、会話詩 2009/7/20

この詩を読みながら、O氏の魂胆をハタと理解した。こんなことを今頃になって悟るとは
なんと私も鈍くなったことか。 この「言の輪」の画面が19号のテーマ「空」に合わせた
「空色」であったとを一月ばかりも気づかなかったことである。人の何気なく放った些細
な言葉に傷つくことがあるかと思えば、このような秘められた思いを読み取ることも出来
ない自分が見えてきた。これでもかこれでもかと諭されても真意を理解できないこともあ
るというのに、ましてや簡潔な言葉に凝縮された思いの作者の詩においてはなおさらだ。

そしてこの実に優しい詩のなかに込められた意図は、くだくだ述べられた解説よりも強烈
に私の心に響いた。
「自然は終わらせるために人を産んだのかもしれない」、最後のこのセンテンスに込めら
れたメッセージは、人間はいままで何をしてきたか、そしてどこへ行くのかという、生命
の根源的な意味合いを問うという重い詩であったことに気づいた。





江戸五街道・踏破記(2) 2009/7/27

「一体どういう意図でこのような目標を決めて実行しようと思うのかという所です」とい
みじくもO氏が言っているように、私もその点を一番知りたいといつも思っていることで
ある。それが判らなければ私には、作者の行動を評価する資格がないと思っている。単に
普通の人がしないから或いはしようと思わないから、そして出来ないからと言うことだけ
で安易に偉大なことだという判断はしたくない。ユングの定義した「すべての本能のエネ
ルギーの本体であるリビドー」、作者を動かしたその正体がなんであるかが一番興味があ
るところなのだ。

◆P47の「旅行記、紀行文などというものは、面白くないと思うこともあります。 今回
のような、「街道踏破」を目的とした旅の場合のように、ポイントになる観光名所、観光
スポットを訪れたとしても、そこに深い知識・興味もなかったり、旅で出会った人もない、
ということであれば、尚更です。??旅に関する、心の変化や感情の高ぶりなどがなければ、
何も書くことなど思い浮かばないものなのです。今回の「甲州街道・踏破」は、そんな
心境に近いものでした」
◆P48の「「日光東照宮」がゴールだとすると、距離は、約・150km。1週間足らず
の 行程である。「早いとこ、片付けずちゃえ!」。そんな雰囲気である」
◆P49の「何か目標を立て、それに立ち向かう時、目標を追い込み・自分自身を追い込み
ます」

などの文章を見ていると、この艱難辛苦の行動の意図や目的が何なのか判らなくなる。私
みたいに身の回りの不思議さを頭の中でこね回し、宇宙の果てまで往復したり、生命の謎
に悩まされたり、意識や無意識、善、悪、などの難しい問題の廻りを堂々巡りするの疲れ
て、旅人−Mさんのような冒険をやり遂げる気力も体力も「リビドー」もない。有り体に
言えば私は単なる怠け者に過ぎないということかもしれないとも思った。さて、いろいろ
変なことを書いたが、自分に出来ないことを旅人−Mさんがちょっと羨ましかったのかも
知れない。最後に是非その行動の源がなんであるか、目的を達成した時の満足感・達成感
あるいは別の感慨などの心理を書いて欲しいと思った。





kyline 2009/8/30

ガスが見るのを避けて来た島では何があったのか。いまの孤独や喪失感の原因はなにによ
るものなのか。遠い昔は子供のいる幸せそうな家族を連想させるが、それらの疑問にはな
にも答えていない。

向日葵は首を垂れ、夏うりは摘み取られないまま腐っている、盛りを過ぎてうち捨てられ
た描写はガスの姿と重ねあわされている。
緑色のベンチの廻りから水辺へ、そして水平線に浮かぶ島へとの視点の動き、またじっと
ベンチに座って過去を振り返る思索という静寂から、何かを決心して立ち上がり歩き出し、
船をこぎ出して行く、そのとき一斉にコオロギが声高に鳴き出しという動への変化が見事
に表現されている。

私も主人公の人物や生い立ちや心情を情景描写で表現できることを常に目指している。
一度「歪んだ風景−記憶」で試みたが、どれくらい成功したかは判らない。
しかし、このエラさんのSkylineは主人公ガスが何一つその謎を解明してみせなくても、
読者に強い印象を与える。最後のシーンの「海へと漕ぎ出した」は、もう一度心のよりど
ころを見つけるために、水辺線に浮かぶ島をめざしたのか。それとも絶望のあまりに自ら
の命を絶つために彷徨い出たのか、読者の解釈にゆだねられているように思える。

最後に、本当は二週間くらい時間を掛けて自分の力で訳をしたいのだが、それも叶わず、
O氏の見事な訳があったればこそ、間違わずにこの素晴らしい作品を鑑賞できたと感謝し
ている。





《言葉集め星創り五拾番》 神秘相撲 神野佐嘉江著 2009/9/1
http://2style.in/alpha/19-12.html

書かないでもいいよと神野佐嘉江氏は合評を辞退したけれど、やはり投稿をお願いする立
場の私としたは、いやそれだけではなく詩というべきか散文というべきか、この難解な読
み物にいつも魅了されているからである。

ある時は短歌でありある時散文詩であり、まさにミクロ量子の世界とマクロ宇宙のとっく
みあいの様な、まるで神秘相撲そのものの狭間で私の脳は攪拌され、ブラウン運動のよう
なランダムな混沌の世界を彷徨ようだ。

一つの単語に全く意味の違う形容詞がくっつき、分節となり文章へと変化する。そして不
思議にそのはちゃめちゃな言葉に正当な意味があるかのごとく私に迫りくる。
本当のところ、用語をあげてその変化を検証しようと思ったが、相当の時間を必要とする
ことなので、今回は勘弁してもらいましょう。
それにしても神野佐嘉江氏の独自性は群を抜いていますね。




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