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126α編集部:2014/05/01(木) 13:56:53
激甘辛 作品評6
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              激甘辛 作品評6
                  21号2009-2010


   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。



同人α21号


昔、革命的であった男の挽歌(その7、安曇野便り)????2009/11/24

作者は以前「茜色」に特別な思いがあると告白した。茜色に染まった神秘的な山際の夕日
に魅せられたのか、それともそんな名前の女(ひと)に叶わぬ恋心を抱いた過去があった
のか、私はそれ以上詳しくは問わなかった。作者はそんな思いもあって今、「茜」という
女性を登場させたのだろうか、私には知る由もない。

私も日本の伝統色の色彩とその呼び名に魅されるのである。 「淺緑(あさきみどり)」
「臙脂色(えんじいろ)」「褐色(かちいろ)」「群青色(ぐんじょういろ)」「深紫
(こきむらさき)」「朱鷺色(ときいろ)」「中紅なかくれない」「木賊色(とくさいろ)
「鈍色(にびいろ)」「利休鼠(りきゅうねずみ)」などなど。

また「杣道(そまみち)」とか「小体(こてい)な家」「出来(しったい)」などといった
懐かしい日本語もはや廃れようとしている。時々辞書を引きながら、響きのいい言葉や姿
の美しい文字に出会ったとき、その言葉をつかって文を作りたくなるときがある。そのよ
うに作者は「茜」という文字に魅了されて、いつかその思いを遂げたくなったのだろう。

さて、本題の感想を述べよう。
1.これは私の好みの問題であることだが、P1上部の文で「そんなとき隣人(といって
も300メートルは離れている家だが)の鶴見さん」とあるが、ト書きや( )書きはあ
まり文学的ではないと私は思う。たとえば「300メートルは離れている隣人の鶴見さん」
と書いても良いのではと思うのである。

2.前半の自然の描写や内証は実に素晴らしい。私好みの世界を見事に作っている。これ
は作者の別の資質が発見された喜ばしい作品だと私は思った。

3.しかし「同人安曇野」に投稿された農業再生、財政問題について、滔々と述べられる
後半には一つの疑問を私は感じた。それはこの「同人安曇野」の主旨が依然として明確で
ないのだ。これは文学的な作品を載せるものなのか、そして合評はどんな観点で評価され
るのかが不明である。それとも生活に根ざす様々な問題点を政治的に解決するための研究
や提言を扱う同人誌なのかである。その辺が明確になれば読者の読み方も違ってくるだろ
う。それともそれを含んだトータルナ文学作品として作者は描こうと努力しているのか。
またまた厳しい意見でごめんなさい。


昔、革命的であった男の挽歌という表題について???? 2009/11/25

今流行の血も涙もない必殺仕訳人の仕業ではないが、作者にとって予想もしていないよう
な問題を指摘され断罪されることは辛いことであろう。しかしこれも泣いて馬謖(ばしょ
く)を斬るのたとえで、これからの創作に生かして貰いたいと思う故である。

万理久利さんの表題の変遷の調査をみて、そういえば私も各号の編集時に作者の表題につ
いて違和感を微かに感じてはいたが、作者の意図を尊重するという逃げ口上ですまし、私
もこのことについて余り深く考えてはいなかった。このところ皆さんの評論を読んで、そ
の表題がこのシリーズの最初の頃の意図と少しずつずれてきていることを感じたのである。

先ず、挽歌とはなにか。挽歌とは「葬送のとき、柩(ひつぎ)を載せた車をひく人たちがう
たう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌。哀悼歌」とある。この意味とすれば沼南ボーイ
さんの言われるように、昔革命的であった男の挫折や屈辱や悲しみの賦でなければならな
い。しかしその後の作品をみれば、その男はやおら蘇生して棺のなかから出でて、安曇野
あたりで現世の不条理を説いている。まさに挽歌とは言えなくなっていることは確かであ
る。この意味でこの表題のままであるとすれば、読者に間違ったサインを送っていること
になりはしないだろうか。

そう言う意味では表題はなかなか難しい。作者がつける表題は物語の概要を示すようなも
のが多く、それが会社の定款のような具体的なものだと、小説の内容を限定し狭めてしま
う恐れがある。そうかといってあまりにも抽象的すぎても、各小説の内容を示唆すること
がないのでイメージが乏しくなる。

さてこの問題を作者はどう解くだろうか、眠れない夜を送りつけたような気がするし、余
りのあら探しに私も眠れそうもない。


いろいろの尺度???? 2009/11/29

 長岡さん、決してジャブやパンチの応酬が、実りのないことだとは決して思いません。
白けているのではなくむしろ大いに歓迎するところであります。

 さて、皆さんの合評を読んで感じたことは、論点のかみ合っていないものが多いなあと
感じました。長岡曉生さんがいみじくも書かれた「一定のデータを対象に、一定の論理の
下に解析して、一定の結果を得ることを目標とする」には私も同感しますが、残念ながら
そのような土俵が作られていないように思います。
 たとえば小説の手法や構成上のバランスや完成度を論じているときに、書き込まれた内
容の芸術性をを問題にするなどなど、かみ合わないのです。表題に含まれる「挽歌」に対
する説明や、「安曇野」のなかで取り上げられる「農業問題」などの政治性をどう位置づ
けするかについては明確な回答はない。それを重要な問題とみなすか、本意には影響がな
い小さなことだと考えるかの違いのようです。
 これはお互いに自分の中に持っている尺度、物差しの単位の違いによると思われます。
人の考えを計るのに尺貫法の物差しを使う人が、インチやヤードの物差しを持っている人
を納得させることは難しいことです。だから同じ物差しを用意しておいて、お互いに論ず
るとことが理想的ですが、それがまた本当に難しいことであると感じます。
 私はしかし物差しの違う論争が全くつまらないと言うわけではありません。それぞれの
尺度で測った行き違いの問題点が、沢山出てくることはいいことであります。また、論者
が今どのような物差しを使っているかが判るだけでも面白いと思う訳です。だから各読者
には全く間違ったと思われる、筋違いのはちゃめちゃなものも大いに歓迎するという訳で
す。その中から異質で私の想像もつかないような価値が生まれるかもしれないのですから。




テーマ「カオス」による 会話詩をよんで ????2009/12/14

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感じた。



たんぽぽ(1)・・・敏夫の場合??2009/12/18

◆周りは倉庫や町工場やスナックなどの混在したところらしい。数十年前はこんな広場も
あったんですね。もう子供が入り込んで勝手に遊び場にできる広場もなくなったようです。
そしてその言葉さえあまり聞かなくなった。そうだ空き地とも言っていたなぁー。
 持ち主もわからない雑草や砂地の場所で、土管などの建材が積んであって、よくの漫画
に出てくるドラえもん、のび太(福田)やジャイアン(小沢)やスネ夫(麻生)などがいじめた
り、いじめられたりしていた場所。

◆街路樹の葉はすでに散っているところから判断して、ブラウニングの詩風にいえば「時
は冬、日は昼、昼は12時半、曇り空の昼食後」というところでしょうか。

◆登場人物11人のうち男性3人、女性7人、背の高い人物はどちらかわからない。どん
な職場だったのだろう、この写真の登場人物からは残念ながら名探偵でも想像できない。
キャッチャーはなんだか気が入っていないし、後ろの背広の男性は筒井さんにつられてバ
ットスイングのまねをしている。皆の視線がバットに向いているから空振りかと見えるけ
れど、キャッチャーのミットには納まっていないという、球の存在が見あたらない不思議
な場面である。背広の男性の右手に二つの球が見えるのがそれだろうか。

などと枕が長いのは本題の精彩に欠けると自覚しているようなもの、どうも真打ちにはと
うていなれそうもない。
私は細部まで検証することが苦手です。建物を設計するにも人それぞれの癖があります。
一つは細部から詳細に検討して要素を積み上げていくタイプ。もう一つは大まかな全体の
機能や配置や動線を考えることから始めるタイプ。私はいつも後の方で、細部の納まりや
びっくりするような匠の技は持ち合わせていない。
そこで大掴みの二点だけ感想を述べたい。

◆一つは、カーチャンがぼくを嫌いな訳は「ぼく」だからなのか。それとも男の子だから
だけなのか。嫌う訳は単に可愛くないとか、カーチャンの言うことを聞かないというよう
な単純なものでなく、もっと深い理由が隠されているような気がしてならない。たとえば、
「ぼく」はカーチャンの前の男の子供で、連れ子たから今のトーチャンに気兼ねして邪険
にした。妹は今のトーチャンの本当の子であるから可愛がる、などが考えられる。それと
もカーチャンは父親に子供の頃虐待されたから男が嫌いになった。しかしそれではトーチ
ャンと仲良くなったということについて理屈が合わなくなる。結局、終わりまでカーチャ
ンのぼくを嫌う心情の解析はしていないから、最後までなぜなのか読者にはわからない。
何かのトラウマとすれば、迷い苦しむカーチャンのそのへんの心情を私は知りたいと思っ
た。

◆二つ目はこの物語は「ぼく」の淡々とした語りで始終しているから、最初はあまり衝撃
を与えなかったが、よく考えるとまさに犯罪に近い物語である。
この敢えて淡々とした「ぼく」の語り口は作者が意図したものだろうか。
「その後ぼくがどうなったかは,とてもぼくの口からは話せない。トーチャンやカーチャ
ンに聞いてよ。 ぼくもトーチャンやカーチャンがどういうか聞きたいよ・・・」で終わ
っている。悲惨な最期を暗示しているが、Tさんのコメントではその2も主人公は敏夫だ
とある。私にはそれがどんな物語になるか謎である。余計なことかも知りませんが、もし
この物語が読み切りで、その2が新しい情況の物語だったら、主人公の名前は変えた方が
いいような気がします。




四国八十八ヶ所遍路みち・旅日記  2009/12/28

両親は生きている時に四国や篠栗霊場巡りをしていた。その篠栗霊場とは、本場の四国霊
場八十八ヶ所とは別に「篠栗四国」「小豆島四国」「知多四国」という「日本三大四国」
の一つで、福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八ヶ所の札所があると、インターネ
ットで調べたらあった。しかし両親がどのような心境であちこち苦労して巡っていたかは
聞いたことがない。私みたいな理屈をこねないから、ごく自然に天命を感謝して巡ったと
想像されるのである。一方私は未だにそんな心境に至らず、今のところ一年発起してその
天命に感謝したり、或いは何かの業(カルマ)を払い清めるために、または作者のように
単にスポーツと割り切って巡礼する気持ちは全くない。たとえ強い信念で思い立ってもそ
の苦労に耐えられないだろうし、すぐに色々の疑問にさいなまれて挫折するに違いない。

再三私は作者に、冒険にたいする意味合いを知りたいというおねだりをしているのだが、
未だにその無理難題に着手してはくれないようだ。ジョージ・マロリーは「なぜ、あなた
はエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」
と答えたという逸話がある。だがそれだけでは無いはず、志向するには理由があるはずと
ある哲学者は言っていた。
すべて解決できないことは神に委ね安心立命を得るか、それともちっぽけな脳みそをかき
回してでも自分で回答をみいだす苦労を背負うかは個人の自由である。私は後者であるか
らこのような偏屈な合評とも言えない感想を書いて、顰蹙を買うことになると覚悟してい
る。Mさんごめんね―。




雄猫勇吉の冒険 (2)??2009/12/31

年が明けてからこの作品の感想を書こうかと思っていたが、次の三つの理由で今日この年
の終わりに書くことにした。
? 大晦の紙面の寂しさを吹き払うために万理久利さんの努力に頼るだけでは申し訳ない
?? から。
? 年始となれば自ずと新年の挨拶やら、抱負で自然と賑わうだろうから。
? イマジン氏のエッセイにいたく感動したから。

さて、今回の作品「雄猫勇吉の冒険 (2)」は実にすばらしいできである。以前のような、
本人はまじめにそう思っているのだが、どうも屁理屈に思える考えを書かれて、それはそ
れなりに面白い見方ではありましたが、今回は堂々と真っ正面から勇吉の立場を詳細に観
察し、己の少年のころの環境と重ね合わせて検証しているところが、じつに深い洞察と無
駄のない表現を伴っていて、名文と私は思った。

最後にあえて一つ注文を付けるとすれば、「勇吉の恋」は次号に回した方がよかった。な
ぜならば、いじめや権力闘争などの社会的な問題について深く論じてきたわけだから、そ
こにまた別のエピソードが加えられると、せっかく見事な問題意識が持続されなくてもっ
たいない。あれもこれもという奉仕精神は得てして最後に何の印象も残さないから不利で
ある。激しく反論していても、最後に謝ったり慰撫したりするいつものO−chanの喧
嘩を見ているごとく、読み手としては結論はなんだったのかと不満が残る。喧嘩するなら
するで、最後まで論調を変えて貰っては困るのである。とまあ、フランスで遊びほうけて
いるO−chanまでまな板に載せてごめんなさい。しかし最後の節で私も同じ過ちを犯
したようだ。
イマジンさんの今回の「雄猫勇吉の冒険 (2)」は名作であった。




5年生存率??2010/1/24

◆専門用語
 私はこの表題の言葉を全く知らなかった。親族や知人のなかにこのような病気で多く亡
 くなっているにも拘わらずである。世の中にはそのような専門用語が沢山あり、その職
 業の間では当然のような言葉でも一般の人には符丁のようなもので、何を意味するのか
 まったく思いもつかない言葉なのである。
 しかしよく考えてみると、このての用語は後期高齢者などの呼称と同じく、なんとも人
 情味の感じられないものが多い。管理する側が便利上ラベルを張って置くようなもので、
 我々はそれを全面的に信じすぎてもいけないのではないか。
 後期高齢者といわれても、肉体的にも精神的にも個人差はあり、また5年生存率といっ
 てもあくまでも数字上の確率の問題で、個人に当てはめて判断することにおいては決定
 的なものはない。例外は常にあり全てがそうだと思わされる必要はない、自分は例外な
 のだ思っていたほうがいいと思った。だからこんな言葉が一般化されて、みんなが恐怖
 におののいたり、落胆したりするのであるなら、専門家の間だけのものとして置いて欲
 しいような気がする。
◆エッセイ「5年生存率」を読んで
 作者が病を得てからいろいろの悩みや不安などの苦悩を通して人生観が変わったと述べ
 られている。友人の死や自分の生命の限りを認識するなかで、失うものも多いがむしろ
 得ることの方が多いようだと、己の人生を肯定的に受け入れる精神的な強さと人にたい
 する優しさが作者のすばらしい人格を表している。
 人は悪い状態になってももっと悪い状態のことを考えて、まだ自分はいいほうだと考え
 て踏みとどまる強さがある。私が目の手術をしたとき、二人部屋の隣のベッドの人とよ
 く話をした。最初はその屈託のない人柄に、その人が非常にシリアスな状態であるとは
 思えなかった。しかしそのうち彼は「私は全盲なのです。光はかすかに感じるので視野
 は明るいが、物の形態は判りません」と告白された。では何故再び手術を受けられたの
 かという私の問いにたいして、「このまま放置すれば光も感知できなくなり、暗闇の世
 界になってしまいます。だから光を感知できる機能が残ってよかったと喜んでいます。」
 という言葉があった。
 私は幸い白濁の灰色の世界から鮮やかな色彩の世界へ、そして視力も確実に戻ることが
 出来たが、遂にその辺のことを隣の人に詳しく報告することを躊躇して、ただ以前より
 少しましになりました、といって同じ日に退院して別れた。私はそのとき自分よりもっ
 と難しい情況を耐えている人がいるのだという事がわかり、このエッセイの作者の心境
 も理解出来るような気がした。




肥と筑 第十一回??長岡曉生著  2010/1/25
http://2style.in/alpha/21-16.html

いつもは知らないことばかりで、すでにその巨大な知識への感嘆の言葉ばかり書き尽くし
ていたから、前回までなにを評し質問したらいいのか戸惑っていたが、この度は動物の話
題で私でも取り付きやすかったので助かった。
◆白き牝鹿
 高校時代に副担任だった花山院親忠先生が、春日大社の宮司になられて一冊の本を書か
 れた。市ヶ谷で行われた出版記念の会に出席して求めた本が「春日の神は鹿にのって」
 である。その本の中に今の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の神が鹿に乗って春日大社にや
 って来たという内容だったと思う。
 今回の作品を読み始めて、インターネットで調べてみたら『常陸国風土記』では、神代
 の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いな
 がら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源であると
 書いてあり、しかも現在では鹿島港を中心とした鉄鋼企業を主とした鹿島臨海工業地帯
 を形成していることは、古代のタタラ製鉄をよくした種族と関係がありそうだと思われ
 た。しかしこの作品を読み進むと、驪戎のトーテムが鹿だったことをまさにしっかりと
 書いてあったのには参った。
◆馬
 作品のなかに「元寇の時に、騎馬隊で成るモンゴル軍を運んだのは、操船に慣れた旧南
 宋の漢族と半島の朝鮮族が操る船だったんだ。」と書いてあるのを見たとき、どうして
 蒙古軍が日本を攻めきれなかったかが判ったような気がした。ちょうど朝鮮では高麗王
 国のなかに蒙古の支配に対する反対勢力が生じていた。その勢力が朝鮮の南部及び済州
 島にあって、元と高麗の軍の補給を邪魔をしていた。このことが獰猛な蒙古軍による日
 本攻撃を鈍らせたということである。勿論神風という天然現象の幸運もあったろうが、
 占領するに足るだけの騎馬を用意できなかったことが敗因になったのではないだろうか。
◆熊
 幼時期は足柄山で山姥に育てられ熊と相撲を取ったといい、長じては坂田金時と名乗り、
 源頼光の四天王の一人になったという、まさにその金太郎の生誕地、小さな滝で産湯を
 使い、自然石の上で遊び、熊と相撲をとったという山深い足柄の山の中に、記念館を建
 てるという競技設計に参加したことがある。足繁く現地を訪れる内にその記念館のサブ
 のコンセプトを頭に描いたのを思い出した。それは今では希になっているキビ、ヒエ、
 アワ、ソバを栽培し、古来からの食習慣やその味覚を伝承するというものであった。し
 かし残念ながら第一席になることはなく採用はされなかった。
 ちなみに参考としてWikkipediaの記述によると「日本ではアワ・ヒエ等の主要穀類以外
 の穀類は雑穀類として一括して分類されることが示すように,食品・作物として極めて
 低く位置づけられてきた.しかし,雑穀類の中でアワ・ヒエ・キビ等は日本で古くから
 主食として利用されてきた歴史があり,これら作物が利用されなくなったのは高々ここ
 数十年のことである。」とある。
◆混沌
 荘子のいう混沌については作者がいろいろと考察されているのに首肯するが、私として
 の理屈は簡単なもので目、鼻、耳、口の七孔、すなわち五感を与えられたとき、規律が
 生じもはや混沌ではなくなった、すなわち混沌が死んだと解釈した。ギリシア神話に登
 場する原初神カオスは原初神としては、むしろ空隙(空いた場所)が原義である。だか
 ら中国神話や荘子、道教の有の世界の混沌とギリシア神話の空爆という無の世界のカオ
 スとは少々違うような感じがしたが、長岡さん如何ですか?



「万理久利さんの「肥と筑」十一回の評を読んで」2010/1/23

たとえ書かれているものに対しての知識がなくても、これほど理路整然と批評出来る人は
なかなかいないのではと私は感心した。惚けている万理久利さんしか目に入らない人は、
彼女の真の姿を知らないで慌てて危険きわまりないおじゃま虫だというレッテルを張って
安心しているに過ぎない。もっと危険なものが彼女の冷徹なほどの目であることを無意識
に感じながら、異質なものという言葉で納得しているに過ぎない。この投稿で本当の万理
久利さんの真価が分かっただろう。それともそれもまだ判らない鈍感さを露呈する人もい
るにちがいない。
中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。 ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。そこには相
手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほど
はっきりと言い放つのである。日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に相手
の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の各人
の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんでも開
放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。




原点  2010/2/2

この作品は「養女に貰われて始めて歩いて来たあの道に、喜びも悲しみも無い虚ろな目を
して、しっかりと両手を下げ、爪が食い入る程拳を握りしめ、一人立っている自分を見た」
の言葉に全ての鍵が隠されていると思った。
京子がもし本当の両親のもとで育ったとすれば、天真爛漫に甘えそして自我思い切り表現
したかもしれない。しかし現実に養女として貰われた京子は、もはや五歳の子供でなく五
歳の大人となろうとしたのではないか。それが自分の置かれた環境の安定した場所の条件
と子供心に思った。しかしその子供の厳しい覚悟を耐えるために白昼夢という反対の世界
を創らざるを得なかったのではないか。
だが、京子は小さい頃に誓った、自我を殺すという誓いに無意識に反発を感じるようにな
った。「優しい」「人が良い」「思いやりがある」などと言った心地よい言葉も、自分の
本当の気持ちではない「嘘」や「おもねり」を含んでいるように見え、その欺瞞性で成り
立っている世間に気づいたのではないか。そのように私はこの作品を読んだ。
この作品を読む前に、亮子さんの生い立ちに関する田村さんの投稿があった。私は以前も
書いたが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。し
かし私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想など
は知らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは手
品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不思
議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内を
明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑賞
を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。




恋情の海 1  2010/2/4

古い規範がまだ頭の隅にしっかり隠れているのか判らないが、この手の話は元来私は苦手
であるから、出来れば見て見ぬふりしてそっと通り過ぎたいと思うのだが、いくつかの疑
問点が見つかったので書いてみた。
先ず人に対する恋情なるものが、例えばプラトニックな愛とか、単なる欲情だとかのいろ
いろな形態を列記してあるが、自分なりの一定の見解もなくただ思いつくまま書いてある
に過ぎないように思える。
主人公は娘にたいしてある時から恋情を抱くのだが、作者はそれが既成の事実とし済まし
ているようであるが、なぜどの部分にどのような人格にといった詳しい記述が私は描いて
欲しい、またそれがこの小説の重要なテーマとして一番面白い部分と思うのだが。それと
も主人公がいろいろの形の愛があることを認識するという意図の小説なのか。それとも主
人公が古い規範のなかで、自分の情念の不道徳さに悩み、異常な愛の少数派の苦悩や苦痛
に共感し理解出来るようになったことが主なテーマだろうか。とにかくいろいろのもりだ
くさんの恋情が描いてあって、主人公はその混沌の世界で溺れそうに見える。
とまあ、憎まれ口を沢山叩きましたが、このようなジャンルのものを書けない私の「曳か
れ者の小唄」「減らず口」「田作の歯ぎしり」と思ってください。あしからず・・・。



恋情の海 2  2010/2/5

これが小説としてみたとき、研究書や報告書やエッセイならともかく、近親相姦や同性愛
や片思いやプラトニック・ラブや変態などの様々な愛のあり方において一般論を語られて
もあまりおもしろいとは思いませんでした。
私は小説においては人物がいかに表現されているかが見所だと思いますから、登場人物の
内面の歴史や育った環境やそれによって作り上げられた感覚や考え方を知りたいと思いま
した。ましてや読者とちょっと違う、異常な環境の場合はなおさらであります。それは読
者が必ずしも同意するということではなくても、そういうこともあるだろうと納得するよ
うに詳細に描写してもらいたいということを言いたかったのです。だから主人公が自分の
娘のどこに惹かれ、どうして彼女でなくてはいけなかったか、どうして妻や他の人ではい
けなかったかを延々と追求してもらいたいと思ったのです。
そういうわけで、私のこの小説のテーマはその辺ではないかと私は思ったものだが、人様
々であることを考えれば全くの独善に過ぎなかったようですね。



恋情の海 3  2010/2/7

私の解釈と違い、作者は悩める初老の男の周章狼狽のみをテーマにしたかったことは解説
で判った。それもまた作者の自由であるから、これ以上そのことにたいして言うことはな
い。しかし「人を愛するという事はどういう事なんだろう。相手に惹かれると心を通い合
わせたいだけでなく、体も結ばれたいと思う。それが自然な成り行きなら、抱き合わない
と愛は成就しないんだろう」といっているが、子供に対する愛や動物に対する愛、人類に
対する愛などのいろいろの形の愛がある中で、男女の愛だけに絞られていて、愛欲と結び
つけられている。だから最初「愛」という書き出しからして、私はそんなに愛を十把一絡
げに語っていいものかという疑問をもった。
だから娘に対する愛が突然愛欲に変化したのか、それとも子供に対する愛情と愛欲が同時
に混在しているのか、その辺の分析もなく描かれているところは、いかにも安易過ぎない
のではないか。ただ悩んでいる姿だけを記述して済ましていて良いのか。私はそのへんの
問題に対してもう少し深く主人公の内省として分析を試み記述して欲しかった。
それゆえ「まさに今回のタイトルである「カオス」(混沌)状態の男の観念の世界を描い
ただけ」であって、主人公は「自分の気持ちを書き出し、分析し、記録したいと」告白し
ているその書き出しの宣言を、十分満たしたものではないと私は考える。




BUTTERFLY  EFFECT  2010/2/13

私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では結果;
効果; 影響 感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後まで読
んでも表題とは結びつかなかった。
そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開された
アメリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小さ
な波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないような
大きな波になるということを言うらしい。

しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。
私はここに描かれた池の情景を表現するようなイメージの絵を求めていろいろ探し回った。
Rさんはアンリ・ルソーの絵のようだと言われるが、たしかに「夢」や「熱帯風景、オレ
ンジの森の猿たち」などの森の絵はいろいろの動物や植物が生息するに違いないと思わせ
る不思議な絵である。
片や私は、作者や絵の題名も失念したが、植物や昆虫達を鮮やかな色と繊細なタッチで描
写した、日本画の「草木花虫の細密画」のようだと思った。それはまるで池の周りの多様
多種な生物の営みを一瞬時を止めてたような絵、それとも目には見えない動き・ストップ
モーションのような不思議な静かさに見えた。しかしその絵はついに見つけることは出来
なかった。私が抱いたイメージだから、はたして私が言うようにこの作品に即したものか
どうかは実は確信できないでいる。

都会に住んでいた私がある時一時田舎で暮らしたことがある。人間で溢れた都会で生きて
いる動物、植物の数も種類もなんと貧弱なことか。それに反し田舎の自然では様々な植物、
動物、昆虫の生命が、数そして活力において人間を遥かに凌いでいるのを目の当たりに見
てきた。そこでは蟻や蜂、ぶよ、はえ、むかで、ゴキブリ、蜘蛛、蛇などが主役で、いかに
人間どもは主人面をしていても脇役なのだ。都会の人間はそのことを忘れて生きている。
この作品の語り手は不思議な視点でこの池の様子を見ていると思った。人間側でもなく昆
虫や小動物の側でもない。もっと中立的な、敢えて言えば善悪を超越した人・神の目で事
象を見ているように私には思えた。このことは作者の作品に共通して言えることで、私の
ように自分の世俗的な出来事を並べ立てて、自分で答えを出すというあまりにも人間的な
卑近な作風とは違い、もっと深い真理につながる何かを表現することが出来る、誠に羨ま
しい才能を持ち合わせていると感じた。だから表現された作品が透明感や清涼感それとこ
の世界の全ての事象の奥に潜む不思議さを読者に与えるのではないだろうか。

さて私の評の終りとして最初に抱いた疑問であるBUTTERFLY  EFFECT」の「蝶」が何であ
ったかを究明しなければならない。
銀やんまや蛙や昆虫・蝉・蛇等の目には見えないものが、その池の周りに微かな変化を起
こしていった。そのあるものの正体はなんであったか。
あるとき私は、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質「暗黒物質」(dark matter)につ
いて書いてある記事をみた。宇宙の九割はこの「暗黒物質」で満たされているという。あ
る解説書には「宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないが、光を反射しないために
光学的には観測できないとされる仮説的物質のこと」とある。その物質の候補としてニュ
ートリノ、 ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマターなどがあるというが、 ニュー
トリノ以外はまだ存在を確認されていない。
宇宙の質量の総量が計算上成り立つには目に見えないこれらの「暗黒物質」が理論上存在
しなければなりたたないという訳だ。実際それらは強力な重力を持ち、「重力レンズ効果」
という現象で星間に影響を与えているという。

この世の中は目に見えるもの以上に、目に見えないものの方が多い。ある場所での蝶の羽
ばたきが、そこから離れた場所の未来の天候に影響を及ぼすということが、複雑なカオス
の中で何かに触発されてそれは起こり、そしてそれは予測不可能なのだ。そしてこの世を
実は支配していると思われる「蝶」とは無秩序の世界・カオスを含む森羅万象に君臨する
宇宙の法則がその正体だ。
あなたの頬に微かな風を感じたら目に見えない「蝶」が側に潜んでいるのかも知れない。
そしてたとえ自分の意思だと思っていても、実は遥かに遠く隔てた135億光年の星の瞬き
が、あなたの志向に影響を与えているかも知れない。

私は作者の作品の意図の回答を言い当てることを諦め、自分に納得する解答をのみ求めた。
だから全くこの作品の合評問題の答案としては不合格であろう。しかし作者の文学が与え
てくれる「この世界の営みは人知を越えた不思議さで満たされている」という、善悪を超
越したものの見方を教わったように思える。




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