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長年、悟り系真理探求してきた者だが質問あります?
1
:
り
:2025/10/11(土) 16:41:29 ID:xSAuVLWc0
私はこのサイトの存在は知ってるけど願望実現?系に特化したサイトだと思ってました。
久しぶりになぜかのぞいたら、真理系のスレもあったので、真理探求に興味ある人もいるのでは?と勝手に理解してスレ立ててみました。
この手のサイトのルールに疎いので、見当違いor邪魔だったらスルーしてください。
私も昔、願望実現、潜在意識、などの流れから、
じゃあ真理とはなんなんだ?と悟り系に流れて探求してきた者です。かなり地獄も味わいましたw
一応こんな自己紹介です。
ある程度放置してみて、レスつかなかったら、消えますw
116
:
り
:2025/10/16(木) 08:51:32 ID:pTi/3SPo0
>113 114
いいですねー。
>目が覚めているのに目が覚めたような感覚
素晴らしい。笑
つまり、プロセスが進行すると自然に色々な恩寵的インスピレーションが起きてくるんです。笑
>115
まさにそうです。笑
主体も対象もないというのは、
すべてが主体であり対象でもある。ということなんです。
そして、そもそも、
主体。対象。というのは言葉であって、概念であって、あとから付けられた「アイデア的な何か」みたいなものなのです。
この世界は〝夢のようなもの″の真意は。
「夢だからどうでもいい」ってことではなく。
主体─対象─存在─気づき。全てが一つの意識の運動だったということです。
117
:
幸せな名無しさん
:2025/10/16(木) 10:30:40 ID:sZqw3DF20
良スレ
118
:
113
:2025/10/16(木) 13:05:35 ID:ZU4L/ats0
>>116
ありがとうございます!
さっき「 」は「 」でしかないから
言葉にすれば言葉にするほど別物を差すことになる、と気付きました
これも先日たまたま聞いていた昔のアニメソングの
「夢色のスプーン」という歌がヒントになりました
この歌詞の中でのスプーンは「 」を差しているような気がして
でも誰か知りませんか?というフレーズがあるのですが
それに対して、知りませんかと言ってもみんな持ってるよなーと思ったり
「 」は「 」です 〜完〜
これだけですよね実は
気付いたからどうってこともないし何も変わらない
でも「 」は、安らぎですね
あるのに見えない、特に探す必要もないのに探していた…?
「 」を求めて宝探しみたいに地面を掘っていても
地面自体が「 」でした、みたいな?
あ〜れ〜…
119
:
幸せな名無しさん
:2025/10/16(木) 13:10:15 ID:BJoXKKMM0
>>116
ご明答よかた!笑
あちらとこちら。
それらが概念であり思考なんですよね。
この概念による分離が、あなたと私の「私エゴ」を想起させ、それがあれやこれやと私を強化させ悩んでいるという仕組み。ですね。
ありがとうございます。
120
:
幸せな名無しさん
:2025/10/16(木) 14:25:12 ID:O8MDtTtk0
すべてが恩寵で最適なタイミングで起きることが起きるなら、達人とか非二元のスピーカーが「何もしなくていい」というのも頷けるな
それでいいのか、もうプロセスは進行してるのか
121
:
り
:2025/10/16(木) 20:23:41 ID:3mBa5JZM0
>>117
d(^_^o)
122
:
り
:2025/10/16(木) 20:25:54 ID:3mBa5JZM0
>>118
>さっき「 」は「 」でしかないから
言葉にすれば言葉にするほど別物を差すことになる、と気付きました
→ はい。その通りです。
>これも先日たまたま聞いていた昔のアニメソングの
「夢色のスプーン」という歌がヒントになりました
この歌詞の中でのスプーンは「 」を差しているような気がして
でも誰か知りませんか?というフレーズがあるのですが
それに対して、知りませんかと言ってもみんな持ってるよなーと思ったり
「 」は「 」です 〜完〜
これだけですよね実は
→はい。笑
そのため、原初回帰。また、再発見。
と言われています。
>気付いたからどうってこともないし何も変わらない
でも「 」は、安らぎですね
あるのに見えない、特に探す必要もないのに探していた…?
→「どうってことがない」これは、「動ってことがない」つまり、「 」は、動きの外側です。
そう、そこには、安らぎという動きもない・・にもかかわらず、なぜか個人は根源的な安らぎを感じることがあります。
それは、「 」自体が、無条件だからです。
この世界も、心も、停止することなく波のように動き続け変化しています。しかしそれは、海のように、常に無条件で在ります。
>「 」を求めて宝探しみたいに地面を掘っていても
地面自体が「 」でした、みたいな?
あ〜れ〜…
→そうそう。まるでシュールなコメディだよね。笑
しかし、多くの場合、
心はそれらを悟っても、自らの意志では掘ることをやめられません。
慣性の法則のように、頭ではわかっているのに、やめられない止まらないが続いてしまう。
そのため恩寵が世界を通して、少しずつ「 」と個人の最終的な、合一を促します。これがまさに幸せの青い鳥を探していた探求者が、あるとき、それはホームにあるよ。と知らされて、ホームへと帰還する。また恩寵に運ばれて送還されていくのです。
123
:
り
:2025/10/16(木) 20:41:41 ID:3mBa5JZM0
>>119
124
:
り
:2025/10/16(木) 20:43:24 ID:3mBa5JZM0
>>119
その通り。笑
この「分離の概念」があるから、
私─私以外─あちらこちらの、
心の「演劇・ドラマ」を創造することが可能です。
エゴ─役者として、悩むことも可能ですし。
楽しみ味わうことも可能。
分離の概念を超えて、それらをただ、気づき(見守り)続けることも可能です。
125
:
り
:2025/10/16(木) 21:04:25 ID:3mBa5JZM0
>>120
>すべてが恩寵で最適なタイミングで起きることが起きるなら、達人とか非二元のスピーカーが「何もしなくていい」というのも頷けるな
→そうそう。だけども、「何もしなくていい」をやろうとすると、「何もしないをやって、何かが現れるのを期待して待つ」ということをやりがちだから、(それが起きたらそれが最適に起きたのだけど)
つまりそれは、
「ただ、起きた」の連続ってことです。
「自然発生的に、なにもかもが起き続けている」そしてそれは、最適ってこと。
最適というのは、ちっとも最適にみえなくても最適。最適だと思い込もうとすることじゃないです。
>それでいいのか、もうプロセスは進行してるのか
→プロセスの進行は、たとえるなら太陽光のようなもの。
常に進行しているよ。
朝でも昼でも真夜中でも、太陽は燃えて光を発している。その恩寵によりあなたのプロセスは停滞にみえても進行しているし、進行を実感してもしなくても進行している。
それが「何もしなくても良かったんだ」ということの真意。
126
:
120
:2025/10/16(木) 21:12:13 ID:O8MDtTtk0
>>125
なるほど、わかりやすかった。ありがとう!
確かに何もしなくていいって言われると「(動作を)何もしないで、何かが現れるのを待とう」としがちだけど、そういうことじゃないんだよね
最適だと思ってもそう思えなくても最適で、プロセスは進んでる
ならもう好きなことしようって思えたよ
127
:
り
:2025/10/16(木) 22:38:34 ID:pTi/3SPo0
>>126
d(^_^o)
そう、どうあれプロセスは進んでいる。
そうなってくると、プロセスを「進める方法」「停滞を阻止する方法」の構図自体がもはやナンセンスな話になってくる。
「ただ、起きる」=「最適」
そのことを信じてても信じなくても知ってても知らなくても、最適。
無条件でそうなってる。
個人の私からしたら当然「抵抗」は起きるかもしれない。ただ、それも最適に起きてる。
>ならもう好きなことしようって思えたよ
→うん。それもまた、ただ起きる。笑
128
:
り
:2025/10/17(金) 00:23:39 ID:31rsP3Ow0
>>127
追伸
・・「ナンセンス」ってのは言葉を間違えました。決してメソッドをやることの否定ではありません。
メソッドを、やることが起こるならそれが最適であり、また効果があり、やることが◎だったのです。
ただ、メソッドをやらないこともまた最適であり◎という意味。どちらにせよ最適に運ばれるという意味。
やる⇔やらない の、意味のあり方、捉え方自体が変わってくるかも。
ということ伝えたかったのです。
129
:
幸せな名無しさん
:2025/10/17(金) 17:04:24 ID:37YCqWk60
>>111
回答ありがとうございます。
>「ただ在るそれ」に留まるのは驚愕するほど簡単である
「人間の本質であり、自然なことで何もしなくていいのだから、一番楽で簡単なこと」
私もこのように知って覚醒したと思えた時がありました。
それでも「ただ在るそれ」「純粋な意識」に気づいている時間が短くなりました。この意味で困難なのです。
平安があれば気づきの継続は容易いけれど、徐々にに消えていきました。ネガティブな心が復活しています。
私にとって平安は気づき続けるための重要な要素です。
>虚無の恐ろしさは、エゴがアイデンティティを明け渡すということを恐れているからです。
それはわかっています。
>そういうときは恐ろしさに抵抗しないでください。
あの状況で抵抗しないのは無理です。それがエゴの本質なので。
エゴがなければ抵抗はしないでしょうが、まだエゴがあるから問題なのです。
身体と心を自分と錯覚する無知で騙されているエゴの状態から、自力(=エゴによる意図)で脱却しようとするのは矛盾していて有りえません。
結局どうしようもありません。
恩寵があってもあの虚無を超えられないなら悟りは不要だし、エゴのまま生きるしかないと思う。
その上、理解できない理不尽が続いて疑念が強まり信仰を失いつつあります。
一切は恩寵であり完璧なのが真実だとしても、それは「ただ在るそれ」の視点でしかないでは?
あなたの言う「信じなくていい」は「明け渡すだけでいい」の意味なら理解できます。
信じる必要はなく安心して明け渡せばいいことを頭で理解していても、現実がそれを拒みます。
根本の障害は自己愛(=「ただ在るそれ」への信頼)の欠如でしょうか?
それならば信じたい気持ちを否定できません。
最初期に指摘され頭では理解してはいるものの、これもまた、どうしようもありません。
あなたは地獄を経験したことで明け渡しが起こったのなら、私にはこの先今までとは比べ物のならない苦難があるのかもしれません。
地獄はもう沢山ですけど、そう考えると絶句します。
有難うございました。
130
:
幸せな名無しさん
:2025/10/17(金) 18:55:30 ID:l1n90WiA0
自愛についてはどう思いますか?
悟ると愛しかないなんて言いますけどどんな感覚なんでしょう
131
:
幸せな名無しさん
:2025/10/17(金) 19:22:31 ID:uLa106w20
>>1
>私も昔、願望実現、潜在意識、などの流れから、
>じゃあ真理とはなんなんだ?と悟り系に流れて探求してきた者です。
自分は逆ですね。真理とはなんだ? から、潜在意識を利用して願望実現系の人たちが認識の変更と言っているのを知って、こっちのほうが楽しそうだとなったクチです。
まだ、真理も願望実現もどちらも未達成ですが^^
132
:
り
:2025/10/18(土) 01:37:14 ID:1iTQMkoc0
>>129
こちらこそありがとうございます。
長くなってしまったので、2つにわけてお答えします。(※願望疲労注意。笑)
>私もこのように知って覚醒したと思えた時がありました。
→おっしゃるとおり、それは、一時的に起きたのだと思います。
>「ただ在るそれ」「純粋な意識」に気づいている時間が短くなりました。この意味で困難なのです。
→はい。困難なのは通常です。笑
「一度純粋意識に目覚めたら終わり」ではなく、そこからが“合一の道の始まり”です。
何度も何度も、会いに行くことになります。
個人(エゴ)から見れば、深いところでは平安を知りつつも、表面では困難や苦痛として感じられる。それは、純粋意識の光によって、同一化した“偽の自己”が脱皮していくプロセスにあるからです。
>平安があれば気づきの継続は容易いけれど、徐々に消えていきました。ネガティブな心が復活しています。私にとって平安は気づき続けるための重要な要素です。
→はい。その平安こそが、気づきを続ける意欲の重要な指針でありエンジンです。
また、その″純粋意識”の気づきの光があるからこそ、「これはネガティブなものだ」と判断している″エゴ″、″同一化″の影は浮かび上がってきます。なぜなら、影が炙り出されるのは、光が当たっている証拠でもあります。
そのおかげで、次第に自然と握りしめている収縮感(同一化)が溶解されていくのです。
>あの状況で抵抗しないのは無理です。それがエゴの本質なので。
→まさにそのとおりです。
私が言った「抵抗しないで」は、「抵抗が起きても、それにさらに抵抗しないで」という意味です。「抵抗してしまうこと」に抵抗しないでください。できなくてもいい。許してください。許せなくても、許してください。
つまり・・これが“赦し”の意味であり、「気づきにとどまる」アプローチそのものなのです。
>エゴがなければ抵抗はしないでしょうが、まだエゴがあるから問題なのです。
→エゴを問題だと思い、エゴを無くそうとしている者もまたエゴです。
エゴが「エゴをなくそう」としても、終わりは来ません。エゴの終わりとは、「自分が主体である」という幻想の終わりです。
「エゴは幻想なんだ」とエゴが知ることではなく、
“始まりすらしなかった”エゴが、まるごと崩れてしまうこと。
ですからその瞬間は、語りえません。
それは・・最大の楽しみにしておいてください笑
エゴはその瞬間が訪れることを恐れます。
しかし、決して恐ろしいものではありません。
それが恐ろしいものではないことを、
頭ではなく、純粋意識そのものなんともいえない叡智によって深い実感を通して学んでいきます。それでもエゴはわかっていても、立場上、最後まで抵抗するその使命をまっとうします。
>身体と心を自分と錯覚する無知で騙されているエゴの状態から、自力(=エゴによる意図)で脱却しようとするのは矛盾していて有りえません。
→ええ、その通りなのですが、それでも「エゴが自力でやる」プロセスが必要なのです。
なぜなら、“トゲを抜くには、別の小さなトゲを使うしかない”からです。
代表的な例を挙げます。
A. エゴが純粋意識にとどまる → 恩寵によって最後のエゴが溶ける
B. エゴが純粋意識にエゴを捧げる → 恩寵により「捧げ者」が溶ける
C. 観察者として識別する → 恩寵により最後には識別者が消える
D. メソッドを繰り返す → 恩寵により最後には「実践者」が消える
どれも「エゴが意図を持って何かをやる」形式ですが、″恩寵″によりそれが始まり最後には恩寵によって溶けていく流れになります。
133
:
り
:2025/10/18(土) 01:41:17 ID:1iTQMkoc0
>>129
【虚無・信仰について】
>結局どうしようもありません。恩寵があっても虚無を超えられないなら、悟りは不要だし、エゴのまま生きるしかないと思う。
→いいえ、虚無を越えるためには、「それ=あなたの本質」に向かうしかありません。
この世界にあるものは、虚無に対する“気休め”にはなるかもしれないけれど、根本的には終わらせられないのです。
なぜか?
虚無そのものは、実は「虚無ではない」からです。熟睡のように、体験者が消えているとき、虚無は“言語化不可能な至福”素晴らしいものになります。
>理不尽が続いて疑念が強まり信仰を失いつつあります。
→お気持ちよくわかります。
理不尽・・まさに!w
しかし、それは・・
純粋意識が気づきのシャワーで、
嫌がって叫ぶエゴを微笑みの中まるごと洗ってあげるようなものです・・。
それで、色々と落として流してくれる。
理不尽にみえて・・それは、エゴにとって実のところ救いでもあるのです。
ただ、理不尽にみえる。これは正論です。
そのお気持ちは理解できます。
また、疑念が出てくることも大切なプロセスです。それでも「純粋意識」を一度でも体験した人間は、信仰や真理探求を手放せません。
たとえ、怒りや絶望があっても、そこからまた遅かれ早かれ祈るしかなくなるのです。
というより、祈りが起きてしまうのです。
【真理探求・明け渡しについて】
>あなたの言う「信じなくていい」は「明け渡すだけでいい」の意味なら理解できます。
→そうです。「信じなくていい」とは、信じた先で、明け渡す。
「信じよう=疑い」ですから
その「疑い」こそ抽出し、明け渡す。
それはこうも言い換えられます、
「起きることに対して完全に委ねること」です。
抵抗やネガティブや恐怖を、
あなたが所有して握りしめるのではなく、
純粋意識に明け渡すということです。ネガティブを明け渡し、残ったのが平安です。
ただし、“明け渡す”ことは、最初はうまくいかないことのほうが多いです。
それでも続けてください。必ず変化していきます。明け渡しは、実は最高の薬であり癒しです。
明け渡しを繰り返していくと、分離、収縮、恐怖、疑念、怒りが──やがて深いところでは「解放」「勇気」「強さ」「無条件の喜び」「真理への想い」へと変わっていきます。
>根本の障害は自己愛(=「ただ在るそれ」への信頼)の欠如でしょうか?
→はい。だからこそ「信じたい」と思う心は否定しないでください。
あなたの本質は「ただ在るそれ」なのだから、何よりも最高レベルで信じる価値に値します。
▼【地獄を経るプロセスについて】
>あなたは地獄を経験したことで明け渡しが起こったのなら、私にはこの先今までとは比べ物のならない苦難があるのかもしれません。
→たしかに、私にも“地獄のように見える”経験がありました。
でも、終わってしまえば──それはただのプロセスだったとわかります。
地獄と表現したのは表面的には地獄にみえてもそれは地獄ではないことをお伝えしたかったのです。
私は実際何でもわかるわけじゃありません。
むしろ人よりも世の中の情報に対して無知でしょう。笑
ただ、心から伝えたいのは、「真理への努力は、必ず報われる」ということ。
どんなに暗闇でも、どんなに地獄のようでも、
その中を歩んでいるあなたの“それ”は、確実に導いてくれます。焦らなくていい。でも、進んでください。
覚めない悪夢はありません。明けない闇も、ありません。
さて、これは綺麗事か?
それでも終わらない苦しみが続くのでは?
あり得ません。
あるとしたら・・
そんな理不尽なことがまかり通るとしたら・・
きっと、それは夢の中だけです。笑
夢から覚めれば、すべては静かに終わるでしょう。
そして、「夢から目覚めた私」すらも静かに消えていくでしょう。
グッドラックd(^_^o)
134
:
り
:2025/10/18(土) 03:45:02 ID:1iTQMkoc0
>>130
「自愛のメソッド」のような話でしょうか?
だとしたら、やったぶんだけ効能があると思います。気になるなら是非やってください。
それはすなわち、心や潜在意識に「ただ気づいてあげる」という光を当てること。
自愛とは、「あるがままに抵抗しないこと」、つまり「許しそのもの」です。
そしてそれは、やがて「自分=世界=全体性」のあるがままへの、許しに広がっていきます。
ただし、本当の意味では、これはエゴにできる芸当ではないんです。
“そうする”んじゃなくて、“そうなっている”という事実の話です。
ここで。
「自愛」ってそもそもなんだろう?
これまでの人生で、あなたは「〇〇を愛している」と感じたことがあると思います。
人でも、モノでも、趣味でも、体験でも、アーティストでも、推しでもなんでもいい。
「好き!愛してる!!」と感じた瞬間ですね。
で、それって。
実は、「あなた自身を愛しているから、〇〇を愛することができた」んですよ。
つまり、誰かを愛するのも、お金を愛するのも
成功を愛するのも、名誉や物語を愛するのも。
全部、「自分という存在を愛している」からこそ起きるんです。
たとえば「自分のこと好きになれない」と言う人がいても、
「でも何か好きなものある?」と聞くと、必ずあります。笑
それが自己愛の証です。
どんな人でも、悪人でも、変人でも、狂人でも、何かしら“愛する何か”を持っています。
それは、無意識に「自己」を愛しているからです。
そして、その“自己”とは一体何なのか。
それを探っていく道こそが、いわゆる「悟りの道」なんですね。
悟りや真理の話やスピリチュアルでよく言われる「愛」は、人間の感情的な愛とは違います。
もっとシンプルで、根源的なものなんです。
たとえば誰でも、
「幸福になりたい」
「苦しみをなくしたい」って思いますよね?
これって言い換えれば、
「変わらない幸福」や「苦のない状態」を求めてるということ。それが、私の言ってる「存在そのもの」「意識そのもの」なんです。
実例。
エルモルエルモルト(仮)
ここで、完全にいま私の思いつきの存在。
「エルモルエルモルト」という動物をご紹介しましょう。これはバスケットボールくらいの大きさで、とてもゆっくり歩行する。
これは今、あなたの意識に浮かびました。
それから緑色で、首が長くて・・鳴き声は猫そっくりで・・と、まあ、なんでもいいです。
大事なのは、たとえ架空でも、それは今「存在した」ということです。
つまり、「あなたに認識された」から、そこに“在った”のです。
これが「存在そのもの」の働きなんです。
そして、それを認識する“意識”がある。
認識される以前から、“前提として在る何か”がある。それこそが、目には見えないけど、確かに感じられる「存在」「意識そのもの」「愛」なんです。
じゃあ、その「愛」は人間にできるのか?
残念ながら、エゴは完全な愛にはなれません。
どれだけ愛っぽいフリをしても限界があります。心も世界も動くからです。
そのため、好き嫌いも喜怒哀楽も起こります。完璧なエゴは、熟睡中だけです。
この世界は原因と結果で動いてます。
ただそれでもエゴはそんな完全性の「愛」によって、その変化してしまうという不完全さを許されています。ゆえに、ただ起きます。
でも・・
そんなエゴの根っこにあるのも「自己愛」です。
エゴは自己を求めながら、本当のことを求めながら、真理と融合していくプロセスを歩みます。
人と人がバラバラに見えていても、
ふとした瞬間に“一体感”を感じるとき、そこに「愛」があります。ヒントがあります。
だから、愛とは。エゴと真理の合一。
そして世界が求め続けている、根源的な構造とそれらを超越したもの、そのものだと思います。
もちろん、私の言ったことが、
唯一の愛の正確な描写と言いたいわけではありません。これよりも愛は深遠で形におさまりません。
人によって愛の表現や捉え方は様々でしょうしまたそうあるべきです。
しかし、それらの様々な表現の違いの背後で、ただ不変に在るのが愛・・と私は言いたくなってしまいました。笑
そんな感じでしょうか。
135
:
り
:2025/10/18(土) 04:01:58 ID:1iTQMkoc0
>>131
みなさんルートが違うのが、とても興味深くておもしろいなぁ。
私もそうでした。夢中でした。
グルグルと抜け出せない辛い日々が続いても・・ある一瞬の恩寵的なにかや、インスピレーションがあると。
「最高だ。素晴らしい。こんな楽しいことないなぁ!!」
と感じたりしてました。数分後、またグルグルしたとしても。笑
「私は達成した」とはならないのです。
「私は未達成だ」が、
「ふっ」と、それと同時に「ガラガラドッシャーン!!」と・・。
あなたも私も、すでにそれなのです^^
136
:
幸せな名無しさん
:2025/10/18(土) 07:37:53 ID:Rbwc1Gh20
>>135
りさん、ありがとうございます。
独りで静かにしているときは、自分は思考や身体というよりも意識だ、この空間だという感覚のようなものが強いです。
そう感じているときは、自分はどこからも来ないしどこへも行かない。ずーっとここにいる。そう感じます。
自分が意識だという状態を観察していると、自分は気づきなんだと気づきます。
気づいた瞬間、主観(認識者)と客観(世界)が現われたという感じがします。
日常生活のほとんどは、思考や感情、記憶と一体化してエゴにまみれて、自分も現実も否定的な状態ですが。
マズローの6段階の欲求、生理欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求、自己超越欲求ですが、全部体験してみたいですね。
137
:
り
:2025/10/18(土) 14:50:02 ID:1iTQMkoc0
>>136
はい。それらのあらゆる動きに気づきとして在り続ける。あるいは、気づきに気づき続ける。
すなわち、ただ在り続ける。
すると気づき自体が深まっていく。深度が増す。
ハッキリ感が強くなり、何かが鮮明になる。
まるで目が覚めるように。
そして気づきの安定化が起こってくる。
さてここで、「潜在意識」「心」「エゴ」の話に繋げると。
気づきそのもので在り続けていると、
同時に、個人の心の深層部にも気づきの光が当たりはじめます。
たとえるなら、
真夜中の暗闇の中、ぼんやりとしか見えなかった部屋に少しずつ朝の光が差し込んでくるようなもの。
個人としては何が起きているのかよくわからなくても、気づきの光によって、部屋の中にあった「欲」「執着」「観念」「信念」たちが
気づかれて、同一化が緩まり、解放されて救われていくプロセスが促進する。
けど、彼らにとっては「まさか気づかれるとは思ってなかった」から、激しく動揺する。
なんというか・・そんな整理整頓の大掃除が始まるんです。
「これはまだ必要かな」「いや、これはもういらないな」そんな取捨選択が、無意識のうちに内部で進む。
だからこそ、ネガティブも抵抗も混乱もゆさぶりもバンバン出る。
これはたとえば、親が入ってきて勝手に部屋のものを捨てたり、配置を変えたりして、子供が「ふざけるな!」と怒っているような感覚。
でも親は、「いや、この方が絶対いいから」と淡々と片づけを続ける。
この過程に子供は激しく抵抗し続ける。
ときとして親は「ビンタを喰らわすこともあるかもしれない」これは愛のムチ。笑
ただ結果的には、部屋が綺麗になって助かる。これがいわゆる「浄化」です。
その過程で、マズロー的な欲たちも
本来の自分にふさわしい形に整理され、
綺麗に埃を払われて、再び部屋に配置される。
配置の場所は以前と変わってるかもしれない。
ただ、使いやすくシンプルになっている。
これらを通して、世界においても自然に変化が起き。具現化され、体験されていく。
そして、本来の自分にとって「叶わない方がいいこと」や「ふさわしくないもの」は、
静かにゴミ出しされていく。
このプロセスは基本的にはゆっくり、あるいは箇所によってはスピーディーに進行していく。
個人差がある。ベストなペースがある。
しかしどのみち最後には、住み心地のいい
自分という部屋になるんです。
要は、「気づきで在る」という方法が心の奥にまで光を届けるいちばん確実で、やさしい方法です。※これは視点を変えれば委ねる、明け渡す、信頼する。の方法とも同義語になってきます。
ps 願望実現の「何もしなくてもいい」
「潜在意識にお任せしよう」っていうメソッドともどこか繋がる話だと思いました。
──あなたがマズローの6大欲求全部体験できるように幸運をお祈りします!
138
:
幸せな名無しさん
:2025/10/18(土) 15:54:54 ID:Uht5GQiY0
>>132
>>133
とても詳しく答えて頂き、ありがとうございます。
私の迷いに対応できる人に巡り会えたのは幸運でした。
ところで、今までにない不思議な感覚なんですが、あなたの言葉は私自身の言葉のような感覚を持つのです。
うまく表現できないけど、今まで強固だった自我があやふやで境界が崩れるような。
一番大きかったのは、虚無に対する恐怖に支配されていたことに気づけて楽になったこと。
光と一体になっても退屈だし、虚無は恐ろしいし、それを超えたものは理解できないので、信用できるのか確信が持てない。
それでも意識(真我)は、エゴが何を思おうが、ただただ在り続ける。
信じるしかないけど、身の周りは理不尽だらけで生きているのが嫌になる。
霊的考察に従い、あたたが言うように正しくプロセスが進行してると思いたいところだったけど、信じられる気持ちを持てないどころか逆に不信が増す。
あなたとの対話は、暗く長かったトンネルから抜け出すきっかけになりそうです。
たいぶ気が楽になりました。
本当にありがとう。
139
:
り
:2025/10/18(土) 18:16:23 ID:dxdUH4zE0
>>138
まさに恩寵。
私もあなたも、なぜかわからないけどそうなってしまうことがあります。だいぶ気が楽になる。・・なんともいえない。摩訶不思議。笑
こちらこそありがとうd(^_^o)
140
:
8
:2025/10/18(土) 19:55:25 ID:/P4BE15I0
>>54
すみません。返信忘れてました。
回答ありがとうございました。
それにしても、言語化の力がすごいですね。
ここまで深掘りというか、自分の言葉に落とし込んで説明できることを尊敬します。
141
:
幸せな名無しさん
:2025/10/18(土) 21:49:04 ID:Pufwawfc0
スレ主さんは、他者=自分?、他者を同じように愛せる境地になった?
自分のことは社会が決めた善悪の枠に囚われず、許し受け入れることはできるようになってきた。
だけど、他者に対しては、好き嫌い問わず出会い自体には感謝の気持ちは持てても、誰彼問わず優しく接することはできないんだよね。
エゴを捨てたら最終的に利他の心は芽生える?持てる?ものなのかな。
142
:
幸せな名無しさん
:2025/10/19(日) 06:28:08 ID:TZLVQEoU0
>>137
りさん、こんなに詳しく丁寧に、ありがとうございます!
>要は、「気づきで在る」という方法が心の奥にまで光を届けるいちばん確実で、やさしい方法です。※これは視点を変えれば委ねる、明け渡す、信頼する。の方法とも同義語になってきます。
実践したいと思います。
>──あなたがマズローの6大欲求全部体験できるように幸運をお祈りします!
りさんのこと、何をお祈りしたらよいのかわかりませんが、りさんのこともお祈りいたします!!
143
:
幸せな名無しさん
:2025/10/19(日) 08:06:20 ID:2hJElOoU0
1(り)さんは超能力とか奇跡体験などはお持ちですか?
そういう能力、奇跡を起こす聖人などどう思われますか?
私は訳あってそういう能力を探究しているものです
例えば松下松蔵という方は病気や骨折など一瞬で治すことができたとか
ttps://web-mu.jp/history/21732/
心霊手術師のホセ・アリゴーもただ治すだけでなく他のエピソードも凄い
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BC
144
:
り
:2025/10/19(日) 16:19:14 ID:geSrq5oE0
>>140
こちらこそ。
「何かが」伝わったなら良かったです。
言語化の力ですか。
表面的には、個人の私が、過去に沢山グルグルと探求したからかもしれません。
ありとあらゆる「言葉のヒント」を頼りに探求するしかなかったからです。
ただ、真理そのものは「概念─非概念」を超えている。その視点からしたら、どれもこれもただ起きた。つまり、私個人が、ある質問を見て考え説明することがただ起きた。
なので、真相は「あなた─私」を超えたところからの不可思議な何かの力──それが動き回っている。それはなんだろう?・・わからない。
だから「恩寵」ってことにしておきましょう。笑
145
:
り
:2025/10/19(日) 16:26:55 ID:geSrq5oE0
>>141
>スレ主さんは、他者=自分?、他者を同じように愛せる境地になった?
→個人の私(個人の心)としては、好きなことは止められなく好きだし、興味のないことはどれだけ取り組んでも興味が出ない。笑
喜怒哀楽、あらゆる感情が起きる。いち普通の個人といえば、まったくその通り。
好かれることも嫌われることも当然ある。
じゃあ以前と変わらないのか?と聞かれたら、変化した部分はやはりあります。
変化したのは、「これまで現実だと思っていた世界そのもの」が、すべて偉大で不可思議な、夢の演劇の場だったという理解に変わったこと。
そのため、すべてはただ起きている。
同時に、真相的にはどれほど偉大で不可思議であっても、
夢なので「まったく起きていない」とも言えてしまうのです。
>社会が決めた善悪の枠。
→これはつまり、「夢の中には夢の中のルールがある」ということ。
そして夢は動きそのものだから、その時代その時代によって善悪も変化していく。
夢の中には「原因と結果」のルールがある。
だからこそ、あなたは「許し」や「受け入れること」に取り組んだ結果、それができるようになってきた。
うん、まさにその通り。
>自分のことは社会が決めた善悪の枠に囚われず、許し受け入れることはできるようになってきた。だけど、他者に対しては、好き嫌い問わず出会い自体には感謝の気持ちは持てても、誰彼問わず優しく接することはできないんだよね。
→感謝。すべてに対する優しさ。
これはね、愛と同じくらい深遠な言葉。
なぜなら、真理的な見地では、愛も感謝も「感情」ではないから。
愛も感謝もすべてに対する優しさも、
本当の意味は、個人や世界の視点から見たときの「真理の構造そのもの」あるいは「真理の絵そのもの」なんです。
とはいえ、個人の私たちは「愛」や「感謝」や「優しさ」を感じるという現象が起きる。
つまり──「愛」「感謝」「すべてに対する優しさ」は、取り組んだからそういう気持ちになれた、というよりも、
“取り組むこと”が起き、“そういう気持ちが起きる”ということが自然と起こった。
これは本当は「やること」ではなく、「起きてしまうこと」
だから、愛や感謝が起きていない時や、真逆のネガティブな感情が起きている時があっても、
まったく自然なんです。
そして、起きるときも、起きないときも含めて、すべては最適に起きている。
>エゴを捨てたら、最終的に利他の心は芽生えるの?
→エゴを捨てる、というのは「エゴ(個人)が私である」という前提が崩れること。
だから、そうなった個人は、
全体的な気づきの中の最適な流れの、ひとりの演者となる。
利他が起きるかもしれない。
利他を意識せず、やりたいことをやるかもしれない。
ただ、何をやるにしても、もはや「やり手」ではない。
そして、それが起きたとき、
「それが最適だ」ということすら忘れて、
全体性の流れの中で、やり手ではないことすら忘れて、何かをやる。笑
そんな感じかな。
146
:
り
:2025/10/19(日) 16:30:10 ID:geSrq5oE0
>>142
ありがとう!嬉しいです!
147
:
り
:2025/10/19(日) 17:06:09 ID:DNemUIso0
>>143
私個人としては、超能力を持っている自覚はまったくありません。笑
奇跡体験・・不思議な体験。
あったとも言えるし、なかったとも言えます。
ある意味では、すべてが奇跡であり、不思議です。同時に、すべては至って自然なことでもある。そういう両面の見方になります。
では、「そういう能力や奇跡を起こす聖人」についてどう思うか?
私は、そういった現象は実際にあると思います。
なぜなら夢=心=無限の可能性を備えているからです。
心を通して想い続け、
その実現に対する疑いが完全に溶けたとき、
超能力も奇跡も起こり得る。
だから、そういう人が現れても、
そういう現象が起きても、
本質的には何も不思議ではありません。
(とはいえ、現場に居合わせたら「うわ、すげえ!!」って思うでしょうけどねw)
特別な能力開発法というものも、世の中にはあるのかもしれません。
私は詳しくありませんが、可能性としては否定できません。
どう思うか?と聞かれれば、
やっぱり「摩訶不思議だなぁ」と思います。笑
感覚としては、大谷翔平選手を初めて見たときのリアクションに近いです。
「すげーなぁ! 本当にこの世界、何が起こるかわからないなぁ」
そんな感じです。
そして、私個人の感覚では、そうした超能力や奇跡も、すべて恩寵のように感じます。
それらがごくたまに現れるのは、
エゴ=心の思い込みや先入観をやさしく崩し、
この世界の神秘に圧倒されて、何か計り知れないものへ心を開かせるため。
それ自体が、ひとつの「恩寵」で実は「真理探求への道」に繋がっているように私は感じます。
148
:
幸せな名無しさん
:2025/10/20(月) 09:17:41 ID:v9RRa./.0
>>139
そう、恩寵なんですよね。何故かこういうことが起きた。
もう質問はないので終わりでいいと思ったけど、少し雑談でもしたいとコメント書いてます。
あなたのようなタイプの覚醒者は、友人が会ったりしていて割といるんだろうと思ってました。
いわゆる聖者と違い多くの人を導く運命を持ってるわけでなく、普通の人として生きている。
実はこのタイプの方が最終段階で、もう転生はしないんだと思ってます。
あなたはひっそりと生きていく人なんでしょうか?
運命はそれぞれで見出されてしまい、崇められたり教えを請われて弟子の形で付き纏われたりなんてことが起こらないとも限らない。笑
あなたは何故かここにスレを立ててしまい、私も何故か見つけてしまった。笑
あなたは説明が上手なので、表に引っ張り出されて賑やかな人生になるかも?
あまりスレも伸びないところを見ると、それはないか。笑
あ、弟子になりたいと言ってるんじゃないです。私にはグルがいるので。
149
:
幸せな名無しさん
:2025/10/20(月) 11:07:31 ID:xaaMExE60
>>39
りさん的にはオンラインゲームのキャラがオンラインゲーム趣味にしてる感じなんだろうか
150
:
幸せな名無しさん
:2025/10/20(月) 14:10:51 ID:dSIZcKsQ0
>>147
全ては奇跡、恩寵ですか。全ては等価値、典型的な悟った人という感じですね
レスありがとうございます
>それらがごくたまに現れるのは
>エゴ=心の思い込みや先入観をやさしく崩し、
>この世界の神秘に圧倒されて、何か計り知れないものへ心を開かせるため。
確かにそういう事はよくあります。でも同時に「ただの技術」としてもある
例えば新種の生物や未知の技術が発見される、みたいに、人の無知の中にある
それに気づかせるのも一つの恩寵と言えるのかもしれませね
151
:
幸せな名無しさん
:2025/10/20(月) 19:16:48 ID:FP7kvygU0
>>150
私はスレ主さんではなくて148です。
勝手ながら私なりの言葉で言わせてください。
奇跡や超能力の意味についてはスレ主さんと同じ見解で、人知を超えた何かへの目覚めを促すためにある。
一瞬で病を治す人にも会ったことがあります。
治された側は、自身の中にある問題への気づきのための猶予を与えられただけで、根本の治癒ではありません。
中には治された瞬間に気づくような準備が整っていた例もあります。
密教なんかで方法論が確立してて技術的に可能になってるけど、そうした余地があるのも無限の可能性を秘めた創造。
そして超能力の探求は深い欲望の沼にはまる危険が極めて大きい。
欲望は限りなく追求できるけど、それによって起こる破壊的結末は甘んじて受け入れなくてはいけない。
その覚悟があれば、探し回らなくても見つかると思います。
保身を乗り越える必要があるので、結局真理探求に通じてます。
私は真理探求のプロセスで神秘体験はたくさんあるし神通力の発現も多少あります。
「は?奇跡?」みたいな体験も少ないけどあります。
全部道標のようなもので、これらが起こった原因は興味なく一時的なこととして流してるので、それに至る方法を探ったことはないです。
152
:
幸せな名無しさん
:2025/10/20(月) 21:09:18 ID:qOdHbMYg0
スレ主(り)様に質問です。
僕は表現活動が好きで、絵を描いたり、動画を作ったり、バンド活動をしたりしてきました。始めてからずっと続いてるものも、やめたけどまたやりたい事もあります。
根底にあるものが、頭の中にあるものを形にしたいって気持ち、これはもう衝動ですね。止められません。
その作品で人とコミュニケーションとりたい、できれば喜ばせたいって気持ちも一応あります。エゴとして、仕事にしたいとか、有名になりたいとかもあります。が、これらはついでですね。頭の中を表現したいが、主なる理由です。
こういった、活動していきたい人、スピ系だと本書く以外にあまり見かけないのですが、スレ主様から見て、芸術系の表現とはどのようにうつりますか?
また、僕も悟りや真理に少しは興味あるのですが、その真理を知りたい欲求がどこから来ているのか全くわかりません。なんとなく大きな流れに乗せられてる感じというか。
スレ主様は、真理を探究する欲求はどこからやってきていて、どういう感覚なのかも、教えていただけると嬉しいです。これは単に好奇心なのですが。
153
:
り
:2025/10/21(火) 14:52:13 ID:Us..D3/Q0
>>148
ええ、雑談どうぞ。
ふむふむ、なるほど。雑談のジャンルではあるかもだけど・・これまた深いテーマですね。
これらのテーマについて話してみます。
あなたは、このことをおそらく理解されていると思いますが(一応、細かく。しつこくいきます。笑)
正確に言えば、「覚醒」は“者”を吹き飛ばします。
そのため、“覚醒者”も“聖者”もまた、純粋意識を通して世界が見せる「想念」や「心」の現れのひとつです。
もちろん、それらは重要な現れであって、決して軽んじているわけではありません。
大まかに分けると、世界(心)の現れには三つの方向があります。
「新たな夢の始まり」と「夢の維持」、そして「夢の終わり=目覚め」の現れです。
いわゆる覚醒者や聖者といった現れは、「夢の終わり=目覚め」を促す役割として機能します。便宜上、“覚醒した人”、“悟った人”などと呼ばれてますが、彼らは見かけはどうあれ、本質的にはもはや「何者」でもありません。
「物=物質性」つまり身体でも心でも行為者でもないのです。
(これは、身体や心や行為が“ただ起こっている”という体現的理解──すなわち非物質性そのものです。これが霊性の真意)また同時に、「直接的にそのものとして在る」=伝授係なんですね。
あなたにグルがいらっしゃるのはとても素晴らしいことで、あなたの努力や純粋な情熱に対する賜物です。
ただ、そのように素晴らしいグルとの縁がない方。そういう場合でも、現象や体験がグルの役割を果たします。また、非人間のなにかでもグルの役割を果たします。
グルの役目は、あなた自身の内側──「純粋意識」へと押し込むこと。まずはこれに尽きます。
その最深部に「真のグル」がいるからです。外側の導き手はいかに偉大な現れでも、そう見えなくても、結局はそのための橋渡し役です。(そういう意味で外側のグルは重要な存在です)
最終的には、その「真のグル」が聖なるものとの合一を完成させます。
それが「覚醒」。
″現象を超えた現象″なんです。
ただし、どんな力をもってしても、
探求者がそれを″心から望まない限り″、あるいは“新たな夢の始まり”や“継続”を強く望んでいる場合には、そっちに巻き込まれていき。スムーズにはいきません。
そして、探求者本人の機が熟していなければ、
真理の言葉も、非言語的な「それ」の伝達も、
たとえ“沈黙を超えた沈黙”であってもうまく機能しないことも多々起きます。
人によっては混乱に陥ることさえある。残念ですが、そういうケースも時々起こります。(長い目で見たら、それさえも恩寵だとしても・・)
それほど、エゴ──偽主体の溶解は一筋縄にはいきません。だからこそ、繰り返し、継続的な探求力が必要になるし、純粋な情熱を内面で燃やし続けることが大切になってきます。
「偉大なる幻想」の力、おそるべし。
だからこそ、常に恩寵が働き続けます。
さて、ごめんなさい。話が少しそれましたね。
あなたの言う「人を導くこと」との関係ですが、
なんにしても、運命によって見出されてしまう。おっしゃるとおり。笑
起きるも起きないも、その種に備わっている内容物次第です。
ただ、どちらにしても、覚醒は夢の世界にとっては“異端分子”です。
どうあれ、周囲の無意識層にその影響がないわけはないんです。
だから、仮にひっそり沈黙していても「多動的に周囲に伝えて撒いている」とも言えるし、逆にガンガン人前で語っていても彼、彼女の立場は「無為」とも言えます。
さらに、導くことも、導かれることも、どちらも“誰か”がやっているわけではないわけです。
説明が上手と言ってくださって、ありがとう。
ただ、ここ(掲示板)ではあまり真理そのものの話を深掘りして伝えることは、恩寵によってそれくらいにしときなさい。とストップが入ることもしばしば。なので実のところ構図の説明であって、真理の重要な深層領域のお話はしておりません。(それに、潜在意識の話や、願望実現のテーマと、かなりズレてきますし。笑)
ただ、今このスレで語られていることは、
語るべくして語らされていることが起きています。
このスレが動いても、終わっても、途中で止まっても。どれも最適。
起こることは起こり、起こらないことは起こらない。そしてすべてが、見えざる恩寵の流れ。
繰り返しますが、こういった真理について会話のやり取りができること自体、我々を超えたところでの、高次の恩寵の力です。質問、雑談ありがとう。摩訶不思議。(毎回同じことばっかり言ってるけど。笑)
長くなるので、輪廻、解脱、最終段階についての話はまたの機会で。
154
:
り
:2025/10/21(火) 14:54:21 ID:Us..D3/Q0
>>149
こんにちは。オンラインゲームの話は、その時たまたまやっていたから、例えに使いました。
ただその時やっていただけなんで、その話は忘れてもらって構いません。笑
オンラインゲームで例えると、ゲームの中でキャラが別のゲームをしているという感じとは・・また違いますね。
155
:
り
:2025/10/21(火) 14:59:50 ID:Us..D3/Q0
>>150
こちらこそ、ありがとうございます。
ちなみに「等価値」というのは、
「個人の人間がそう思えるようになった」とか、
「意識が変化した」という話では決してありません。
真理とは、すべての言葉が溶け去る場所にあります。しかし、人間や世界を“現実”として語るならば、
真理は人間も、世界も、現実も、等価値として在る。いや、等価値という概念さえ超えて、ただ在ります。
それと、超能力そのものは実際にあると思います。
「技術」としての側面も、確かに納得できます。
はからずとも超能力に縁のある方は、
自然とその探求に向かうでしょう。
場合によっては、想像を超えるような能力が開花することも夢ではありません。
聖典の中にも、超能力や神通力に関する記述は多いです。
ただし、真理探求や真理そのものが向かう方向は、
「私─私以外」という区別を超えていく道。
能力を高めるというより、
「能力者そのもの」を超えていく方向性なんです。
いわゆる超能力は、
他者が“非超能力者”であるからこそ、相対的に成立します。
つまり、超能力の価値とは、
他者に奇跡を感じさせ、他者を助ける
そうした“相対的関係”の中に意味を持つ。
文献にあるように、他者を癒やし、救う力として現れるように思えます。
けれども、もし超能力者が孤島に一人でいたら、
その能力の価値はなかなか発揮できないでしょう。
たとえるなら、古代人から見れば、
「新幹線で目的地に着く」ことも超能力のようなものです。
けれど現代では、それは誰もができる“普通のこと”ですよね。
一方で、真理探求はまったく別の方向です。
孤島に一人であっても、その「孤島そのもの」が=“私”であり、そもそも“孤島で一人”という状況さえ「真相的には起きていない」という視点へと向かっていく。
それが、真理探求という道の本質なんです。
156
:
り
:2025/10/21(火) 15:07:09 ID:Us..D3/Q0
>>152
こんにちは。
ありがとうございます。
芸術・・うん、大切な質問ですね。
私個人の理解では、芸術とは。
「真理の気配を感じ取るための道」であり、同時に「悟りのインスピレーションをこの人間的次元に翻訳するための現れ・叡智」です。
つまり、あなたがおっしゃる芸術的行為のことを、私は真理と人間性の交点に立つ行為そのものだと考えています。
本を書く以外にも、スピリチュアルな表現は本当は多岐にわたります。
芸術もそのひとつですし、実のところ“どんな活動”でも、スピリチュアルな道と呼べるのです。
私の見方では、芸術というものは「大いなる目に見えない何か」
それは潜在意識かもしれないし、集合意識、または霊感的なインスピレーションかもしれません。(好きなように呼んでください)
しかしそれらは、個人を超えた普遍的な“意識そのもの”から流れ出し、
それに触発された個人が世界に表現として形にする。
それはごく自然で、そして深く神聖なプロセスです。
そして、自分から生まれた何かを、全く別の他者が受け取り、「自分だけじゃなかった、この感覚」と感じる瞬間。
そこには、非分離的な感動や一体感が生まれます。
芸術の起源は神事(かみごと)にあります。
すなわち、芸術とは「人間が神と共に在ることを思い出すための営み」なのです。
(もちろん私の主観的な感想です。笑)
そのため、ときに、感想を超えて「よくわからないけど圧倒される」体験を与える。
たとえば、ギザのピラミッドのように、好き嫌いを超えた“何か”を感じさせる力。
それが芸術の真髄です。
あと私の考えでは、芸術には大きく二つの方向性があります。
一つは。思考や概念や常識を超え、魂に触れるような圧倒感・説得力・“本物”の力。
もう一つは。作品を通して生まれる、一体感や非分離の感覚、またはカタルシス(感情解放・浄化)
このどちらも、スピリチュアルな要素に満ちています。
そして、創作という行為自体が、まさに修行でもあります。
・大いなるものに心を開く修練。
・エゴを手放す修練。
・自分とは何か?を掘る修練。
・無私で集中する修練。
・「降りてくるのを待つ」忍耐の修練。
ネタがないときの「明け渡し」もまた修練です。
こうして見ると、芸術活動はまさに深いスピリチュアル・プラクティス。笑
また、「真理を知りたい」「表現したい」という欲求そのものが、古来″恩寵″と呼ばれてきました。
なぜなら、その欲求を起こすためには、本来、数え切れない体験を通過しなければならないからです。
その衝動は、どこから来ているか?
それは本来のあなた自身からです。
だからこそ、頭の中を形にしたいという衝動を、大切にしてください。
それは、あなたの内側から溢れ出た恩寵です。
その流れを愛し、楽しみ続けていれば、
あるとき自然に、内側から次の段階へ呼ばれる瞬間が訪れるでしょう。
エゴも、欲も、「仕事にしたい」も、すべてがその流れの中で最適に起きています。
止められないものは、すでに「起きてしまっている」のです。
表現活動と悟り探求は、対立するものではありません。むしろ、同じひとつの流れを、別の角度から見ているだけかもしれませんよ。
あなたの衝動を信じて、どうか続けてください。応援しています♪
157
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 16:19:00 ID:HEzmWWz.0
イラストを描くことが好きだった者です。ある時以来、全然描けなくなってしまいました
絵のネタは描くのが追い付かないくらいにいくらでも降ってきていました
描いていてとても楽しかったです。細かく丁寧に描くというよりは勢いでババっと
降りてきたものを描いてはネット上にあげていました
既存のキャラクターを描くのではなくオリジナルです
そんなことを続けていたら絵を出しているネット上のある場所において
好意的なコメントを沢山いただけるようになったのですが、強烈な人が現れて
絵を出すたびに、下手だ不愉快だ上手い人の絵を参考に研究しろとか汚物の絵文字とか
批評頼んだわけでもないのに毎度毎度しつこく叱られてげっそりしてしまいまして
匿名だけど強烈な人はおそらく一人だったし、この出来事はほんの短期間だったのですが
私の長年のお絵描き好きの心は折れちゃったみたいです
まあ、イラスト描いていて嫌な思いをすることもなくはなかったので最後の一撃かな
しかしその人に叱られた絵のうちの一枚をお絵描きサイトの
「このテーマで絵を投稿した人の中から〇名様に抽選で商品券プレゼント」に出して
一万円の商品券もらったんですよね、毎回はずれてたのに(笑)
しかし、これらの事もただ「起きた」だけですよね
描けなくなることが起きた
テンション上げようと新しい画材を用意してみたけど駄目でした
絵を描くぐらいならそのぶん寝とけ描く時間が無駄だみたいな気持ちです
また楽しく描きたいけど無理はしたくない
描く気持ちが起きるのを待つしかないですかね…
せっかくのお絵描きが好き、楽しいという気持ちを、そんな恩寵を
自ら駄目にしてしまって、あーあ…という感じです
でも描きたくないのに描いても残念なものにしかならないので
それはしたくないです
ぐだぐだと書いてしまいましたが、創作についての書き込みがあったので
つい書き込んでしまいました
絵は描けなくても掲示板への書き込みはできるらしい(笑)
158
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 17:53:43 ID:3a2PYpqo0
スレ主さん、はじめまして。
お時間あるときにご意見を伺いたいです。
私は小さい頃から不安や恐怖、恥、緊張感が人一倍強く、生きづらさを感じてきました。
容姿や才能を人から褒められても自分のすべてが嫌いで、自己表現がすごく苦手でした。
仲の良い友達はいるのに、教室など集団の中にいると猛烈に孤独や違和感を覚えてその場から逃げてしまう。
それで無気力・自暴自棄になったりグループや人前で全く話せなくなったり。
(こんな感じなので10代の頃から自己に囚われ、疑問を感じ、いくつか病院に行きましたが、いつも特に問題なしでした(^^;)
引き寄せを知って叶えてもさほど満たされなくて(特に恋愛)、悟り系に興味を持つようになりました。
最近、大事な存在(動物)が亡くなるという事象が起きて、その現実に抵抗したり自分を責めたりしましたが、ふと「自然な流れなのかもしれない」と受け入れたらすごく楽になりました。
この世にいない存在に会いたいと思えば苦しくなりますが、彼が肉体という制限から解放されたと考えると穏やかに死を受け入れられます。
この件をきっかけに、物事をコントロールしたいと思うのは不安や恐怖が強いからであり、コントロールしたいと考えるから生きづらさや苦しさに苛まれるのだと思うようになりました。
目に見えている自分や他人、物事など外側の事象を手放していくと、すごく楽に感じます。これが明け渡しなのでしょうか?
159
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 18:02:43 ID:HEzmWWz.0
157です追記
そういえばわりと最近、一瞬だけ心が動いた瞬間がありました
出かけた先の百貨店でたまたま水森亜土さんの版画の展示会をやっていたんです
無料で入れて絵を見るだけでも大丈夫な場所で
時間あまりなかったけどせっかくだからと思い少しだけ見てみた時
「ああこの方は歌うように踊るように絵を描いているんだなぁ」とそんな気持ちになって
自分もそうありたかったなーなんて思ったのでした
160
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 18:06:58 ID:HEzmWWz.0
あ、本当に歌ったり踊ったりしたいわけではないですw
軽やかで自由という感じの意味です
161
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 21:11:11 ID:qjB.Iu/.0
>>153
毎回丁寧に答えて頂き有難うございます。
どうも雑談の範疇を超えてしまいました。
あなたが仰ることは理解しています。
悟った人、悟ってない人、なんてものはない。意識のみが存在し、世界という舞台で演じられているものを鑑賞している。
雑談のジョークみたいなもので、つい言ってしまいました。
大変失礼しました。
なぜあんなことを言ってしまったのか、少し釈明させてもらえるなら、
この地上の特定の聖地や聖者のもとで神聖なエネルギーが発せられ、特別に強力な導きがあると心は感知します。
純粋意識が特定の空間で強く輝き出るのはなぜか?
「純粋意識に向かう想いと行動が現象として現れている」とか「恩寵であることを実感させるため」だけでは説明がつきません。
なぜ、ある場所やある人は特別なのか?そして、なぜそこなのか?
純粋意識がリーラとしてそういう脚本を書き舞台設定した?
考えても仕方ないこと、不思議は不思議として味わえばいいと納得させてきました。
あなたの見解はなんでしょう?
グルについても、あなたが仰ることは全くそのとおりだと思います。
確かに今の私にはこの地上において人間の形態ををまとったグルもいます。
それよりも、グルは「身の周りで起こる事やその体験」であり「それを導きとして捉える内なる力」だと思ってきました。
また、真理探求を意識する以前から自然を我が師と思ってきました。
自然の中でそこにあるものと対話し多くのことを学びました。
芸術の話も出ていますが、若い頃は芸術家を目指していて、人間には作り出せない自然が生み出す超越的な美を抽出し表現しようとしていた。
世界は法則で動いてることに気づくようになると、それを利用して成功者になれるんじゃなんてことを考え始めた。
ご多分に漏れず、私も願望実現から入ってます。
そうこうするうちに、利用するなんてとんでもなくて逆に圧倒的に支配されていることに気づいた。
この時に、人間の本質は法則の下にある心や体ではなく「ただ在るそれ、根源的な私という意識だ」という言葉に触れて、今に至ります。
合一=覚醒に至っていないのも、私がそれを望んでいないから。
これもわかっています。本当は望んでないんだから、しゃーないね、です。
どうしてか恐怖が強いです。体と心を失う恐怖などという妄想が消えないようなのです。
実は合一が成就した場合に起こるであろうことを、数回に分けて少し一時的に見せてもらっています。(と思います)
にも関わらず以前のような情熱はありません。何も知らなかった初期の頃ほど強かったと思います。
「継続的な探求力」「純粋な情熱を内面で燃やし続けること」これらを失った?と感じます。
理由はわかりません。
他のテーマについては機会があればとのこと。一応よろしくおねがいします。笑
162
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 21:31:13 ID:8jsL3Q5k0
>>155
143はさして大きな意味で質問した訳ではなく、レスの応酬をするつもりなど元よりなかったのですが
別の疑問が生まれてきたのでぶつけさせて下さい。
例えば、ウクライナのような地域では今でも爆弾が降ってくる可能性があって
そこで生き延びるに真理や悟りなど何の役にも立たない、ただ「幸運」という力が必要となります。
怪我や病気などもそれを癒すのは医学であれ超常であれある種の力です。
我々、人間は物質的な肉体をもってこの世界に生きていて、それによる苦しみが存在します。
仏教ではこれを「四苦」と言いますが、では「り」さんの真理は四苦をいかにして克服出来るのでしょうか?
「真相的には起きていない」という視点でしょうか?
私は個性は違えど「り」さんのような方は何人も見てきました。
そして、みな「救われた」という感じでしたが、同様に最低限は物質的に満たされているからとも感じました。
人はパンのみにて生くるにあらずと言いますが、逆も真なりでパンがなければ人は生きられない。
人の幸福には精神面だけなく物質的な部分が必ず必要となる。
「り」さんは三毒、エゴをかなり克服したように見受けられるが、四苦、物理的な苦しみはどうでしょう?
飢えていても目の前のパンを食べない?いやそんな事はないでしょうね。
貴方の真理は結局、誰を救えるのか?
それはパンを食べられるような「幸福な環境」で自分は不幸だと思ってる人に限られるのでは?
それとも真理に向かう程、恩寵により物質的な幸福が訪れるのか。
そういう事はありえる事ではあるが限度があり絶対ではないというのが私の見解です。
新幹線と真理の探究がまったく別であるというなら
科学技術という「幸福になりたい。苦を取り除きたい」正に人の本質と「り」さんの真理は違うという事になる。
貴方の真理はどこに向かっていて誰を救うものなのですか?
163
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 22:18:26 ID:qjB.Iu/.0
>>153
161の続きです。
>輪廻、解脱、最終段階についての話はまたの機会
これらのテーマもエゴの視点であって、ジョークの延長で不用意に口から出た必要のない発言でした。
反省してます。
夢を見続けたければ、そうしたことが起こるんだと思います。
それでもこのテーマに沿って何か私に伝えることがあるようでしたら、是非お願いします。
164
:
幸せな名無しさん
:2025/10/21(火) 23:37:04 ID:dfWzaoJU0
>>145
141です。ご返信ありがとうございます。
>>134
の書き込みも読みながら
恐らく私は「愛」を①人間の感情的な「愛」としての捉え方が強く、②真理の構造そのものの「愛」という視点はありませんでした。
故に、返信いただいた 愛、感謝、優しさの下り〜の後半部分は正直、何となく分かる…かな?程度の理解しか及んでいません。
ただ、新たに②の視点での愛とは?という視点を得られたことは嬉しいです。
自分の中で腑に落ちる時がいずれくるように認識を深めていこうと思います。
165
:
152
:2025/10/22(水) 06:50:04 ID:uW3vm2q.0
>>156
スレ主様、ありがとうございます。
あまりの愛の深さと、情報の多さに圧倒されて、言葉が見つからないので、
>>156
のレスは保存していつでも見れるようにして、長く大切に付き合っていこうと思います。
いつの日か、スレ主様の言ってることがクリアに自分なりに感覚でわかる日が来ると信じて。
応援、素直に受け取ります。ありがとうございます♪
166
:
幸せな名無しさん
:2025/10/22(水) 07:13:42 ID:mSvzDJ9s0
何このスレ、難しすぎて意味不明
167
:
り
:2025/10/22(水) 20:42:26 ID:8JWwiQaE0
>>157
>絵は描けなくても掲示板への書き込みはできるらしい(笑)
→上手い。座布団一枚。笑
>「ああこの方は歌うように踊るように絵を描いているんだなぁ」とそんな気持ちになって、自分もそう在りたいと思った。
→この瞬間、あなたは「行為/非行為」を超えた″在り方”そのものとして生きたい(表現したい)という感覚に触れました。
それこそが、真理そのものからの呼びかけ。
ヒントとしての発芽の現れ、すなわち恩寵です。
「ただ○○が起きた」というのは、
“どうでもいい”というニヒリズム(虚無主義)ではありません。
世界には二つの流れがあります。
一つは、あなたにとっての幸福を目指し、苦を解放していく道。
もう一つは“浄化”の流れです。
浄化とは、それ自体が恩寵的な現象ですが、
浄化の役割は″同一化からの解放″です。
ときに、理不尽に思える出来事を通して現れることもありますが、その役割は「幸福を目指し、苦を解放していく」というテーマに沿って、一見そう見えなくても最適なかたちで起こっています。
創作における停滞期もまた、
次の創作に繋がる意味のある時間かもしれません。なにより、永遠の停滞はあり得ません。
世界では、表面的には原因と結果が働いています。だから、「こっちへ進んだ方がいいかな?」という直感やシンクロも起こる。
それらが良い方向に導くこともあります。
だから、無理に否定する必要もありません。
再び、心地よい感覚の中で自然に創作ができるといいね。そして、それが起こるときは、必ず最適なタイミングで起こるでしょう。グッドラック。
168
:
り
:2025/10/22(水) 20:49:50 ID:8JWwiQaE0
>>158
はじめまして。
はい。あなたのように、また多くの人も「正体不明の生きづらさ」を感じることがあります。
そして私たちは、生きづらさの原因を「これだ」と探し、あらゆる手段で克服しようとします。また、願望を叶えるために努力もします。
けれど、あるとき限界点に達します。
それは「すべては変化してしまう」という気づきだったり、「肉体は永遠ではない」という現実だったりします。
そうした体験を通して、心の奥から圧倒的な問いが生まれる。
「本当のことを知りたい」
「これを体験している“私”とは何なのか」
「なぜ生き、なぜ苦しむのか」
このような問いが自然に湧き上がったとき、
それが真理探求の始まりです。
真理探求は、意志で始めるものではなく、
人生の体験を通して″自然に起こされるもの″なんです。
>この出来事をきっかけに、
「物事をコントロールしたい」と思うのは不安や恐怖が強いからであり、
逆に“コントロールしたい”と考えるからこそ、生きづらさや苦しさが生まれるのだと気づきました。目に見えている自分や他人、物事など
外側の事象を少しずつ手放していくと、すごく楽になります。これが「明け渡し」なのでしょうか?
→はい、それが明け渡しです。
ただ、もう少し正確に言えば、
″不安や恐怖が強いからコントロールしたい″のではなく、実はその逆なんです。
内側の深いところで、あなたが、
「そもそも私はコントロールしていないのでは?」と気づき始めたからこそ、表面的に“不安”や“恐怖”という形で抵抗が現れている。
明け渡しとは、何かを我慢して手放す行為ではありません。むしろ、明け渡すことそのものが「楽」であり、本来は「喜び」に満ちた自然な動きなんです。
・・たとえば。
たくさんの人が車を運転しています。
あなたも車に乗って運転している。
でも実際には、周囲の車も、自分の車も、
すべて“自動運転システム”で動いているようなものなんです。
あなたはハンドルを握っているように思う。
「どうにか曲げたい」「早く進みたい」と思う。
しかし、よく見ると──ハンドルも車も、あなたの手も、同じ“流れ”の中で自然に動いている。
明け渡しとは、「ハンドルを離す努力」ではなく、最初から自分が運転していなかったと気づくこと、また、深いところによって気づかれることなんです。
だから、「手放そう」と思う瞬間も、
それすら″手放しが起こっている″のです。
あなたが流れを信頼するのではなく、
流れそのものが、あなたを信頼して動いている。
その瞬間、コントロールしようとする緊張がふっと緩み、すべてが「ただ在る」だけになります。
そして、「明け渡し」という名の実践を重ねるうちに、それは確かに深まっていくように見えます。けれど、深まったその先でわかるのです。
明け渡しは、努力して起こすものではなく、
「起きるときに起きる」
つまり、それ自体が明け渡しなのだと。
どうか焦らず、いま起きていることを、
ただそのまま受け取ってください。
あなたの中では、すでに明け渡しが始まっています。それは「新しく生まれるもの」ではなく、
もともと決して失われていなかったもの。
明け渡しとは、あなたの“本来の在り方”そのものです。そして今、静かにあなた自身へ戻る流れが始まっています。
169
:
幸せな名無しさん
:2025/10/22(水) 20:50:18 ID:DLdfDBec0
>>153
さらに163の続きで、書き足らなかったこを加えます。
最後に言われた「真理の重要な深層領域のお話はしておりません」について。
この場で言うわけにはいかない部分があるのはわかります。
それ以上に、語るべきでない領域があり、もし言葉として聞いて知識として知ってしまえばエゴが一層強くなったり暴れ出し気が狂うなどもある。
そうした「真理の深層」のことは、機が熟した時、識別と洞察によって内から叡智として湧き出るものなんでしょう。
探求を始めた最初の2、3年ほどは特に哲学的考察にも注力しました。
形而上のことについては知ることはできないし、机上の論理的理解は障害にもなること、また探求のプロセスを先読みすることの愚かさを知って、思索は終わりにし字面から学ぶこともやめました。
やめはしましたが、その痕跡は未だ消えず障壁となってるようです。
どうしたって真我に委ねるしかない。あらためてこのことを思い直してます。
あなたの存在に感謝します。
170
:
り
:2025/10/22(水) 20:59:59 ID:8JWwiQaE0
>>161
大丈夫!失礼じゃないですよ。笑
深いテーマを感じたよ。というだけの話です笑
この地上の特定の聖地や聖者のもとで神聖なエネルギーが発せられ、特別に強力な導きがあると心は感知します。
→ええ、あります。
純粋意識が特定の空間で強く輝き出るのはなぜか?
→それは「純粋意識による恩寵的ヒント」です。
あなたの真理探求がより促進され、また停滞しすぎないように、
ちょうどよいバランス、最適なタイミングで現れるのです。また、時代や意識の成熟によって、その恩寵が「特定の場所や人」を超えて、より広く溢れる時期もあります。
>「純粋意識に向かう想いと行動が現象として現れている」とか「恩寵であることを実感させるため」だけでは説明がつきません。
なぜ、ある場所やある人は特別なのか?そして、なぜそこなのか?
→あなたである「純粋意識」から見れば、
″純粋意識からかけ離れて見える現れ″もまた、すべて純粋意識です。
「ここは聖地で、あそこは俗世」という区別をしているのは、一時的な想念のはたらきです。
あなたは想念そのものではなく、その想念が生じる″基(もと)″
つまり、純粋意識そのものなのです。
愛と光の物語も、恐れと闇の物語も、
どちらも同じスクリーンの上に映し出される映画のようなものです。物語がどんなものであっても、その映し出されるスクリーン(純粋意識)は、ただ在り続けています。
>純粋意識がリーラとしてそういう脚本を書き、舞台設定をした?
考えても仕方ないこと。不思議は不思議として味わえばいいと納得させてきました。
あなたの見解はなんでしょう?
→個人の想念、また心の潜在的傾向が、世界の見え方を決定づけます。
世界はそのまま鏡のように、あなたの内側を映し出しているのです。
同時に、集合意識としての″心全体″の傾向も、
この世界全体の現れとして投影されます。
「純粋意識で在る」とは、知る者さえも溶かしてしまう立場です。
リーラ(神の戯れ)の仕組みや構造を、いくら知的に探究し、たとえ全知識を得たとしても、
純粋意識そのものは、その″知る者″さえも溶かしてしまいます。
だからこそ、真理の師たちは
「夢(マーヤ)の構造分析」ではなく、
「純粋意識そのものとして在りなさい」と勧めるのです。(その方が近道だから)
そして逆説的ですが、純粋意識として在るとき、理解する者なしに、すべての構造が″すでに理解されている″ことが明らかになります。
また、リーラや幻想を″悪″として否定する必要もありません。なぜなら、純粋意識さえも、リーラ(現れ)を通して自己を表現しているからです。
探求が進むにつれて、リーラは“偉大なる神の遊戯”として見えてきます。
善悪や明暗を超えた、壮大な遊び。
その理解が成熟した段階で初めて、
「あぁ・・世界はリーラだった」と気づくのです。
>以前のような情熱はありません。何も知らなかった初期の頃のほうが、強かったと思います。
「継続的な探求力」「純粋な情熱を内面で燃やし続けること」──これらを失ったように感じます。理由はわかりません。
→あなたが燃えていることは、保証します。笑
情熱というと、炎が燃え盛るようなイメージを抱くかもしれませんが、真理探求の炎は、もっと静かで透明です。たとえるなら、それは「青い炎」 表面には見えにくくても、
内側では冷静に、静かに、そして確実に、聖なるものへ向かって燃え続けています。
171
:
り
:2025/10/22(水) 21:10:09 ID:8JWwiQaE0
>>162
例えば、ウクライナのような地域では今でも爆弾が降ってくる可能性があって
そこで生き延びるには真理や悟りなど何の役にも立たない。ただ「幸運」という力が必要となります。怪我や病気なども、それを癒すのは医学であれ超常であれ、ある種の力です。
→その通りです。
真理の話は、現実の具体的な苦しみを直接解決したいというケースでは、確かに機能しないことが多いです。
しかし同時に、どんな極限の状況にあっても、そこに真理探求を始めてしまう人がいるというのもまた事実です。
>我々は物質的な肉体をもってこの世界に生きていて、それによる苦しみが存在します。
仏教ではこれを「四苦」と言いますが、「り」さんの真理は四苦をいかにして克服するのでしょうか?
「真相的には起きていない」という視点でしょうか?
→いわゆる「生老病死」ですね。
真理は、それを防ぐ魔法ではありません。
生きとし生けるものにとって、それらは等しく避けられないものです。
真理の道とは、
「私は個人の人間である」という根深い思い込みを解体していく方向です。
つまり、個人が″真相的には起きていない″と考えることでも、信じることでも、体感することでさえありません。
それはむしろ、″個人”という想定自体が静かに崩れていくプロセスなのです。
>「り」さんのような方は何人も見てきました。皆「救われた」ようでしたが、同時に最低限は物質的に満たされている。
人の幸福には精神面だけでなく物質的基盤が必要です。
「り」さんは三毒、エゴをかなり克服したように見えますが、
四苦──物理的な苦しみはどうでしょう?
→ええ、たとえば私は実生活で明確な問題(お金・病気・生活難など)に苦しむ人に、真理の話をしようとは思いません。
まず必要なのは現実的な解決です。
だからこそ、医者や専門家がいます。
三毒について言えば、
誤解を恐れず言うなら三毒「貪・瞋・痴」とは「私が○○である」と同一化していることへの“気づき”そのものに意味があります。
たとえば怒りが起きたとき、「怒っている私」を見つめる存在がいる。
その″気づいているもの″こそが真の主体です。
つまり、三毒に囚われないというのは、
すでに囚われていない本質的な気づきがあるという知らせなんです。
個人レベルでは三毒は起こる。
けれど、それらは対象として「気づかれて」います。そして同時に、″起きていない″という理解も、個人を超えたところで静かに成り立っているのです。
>「あなたの真理は結局、誰を救うのか?」
「それはパンを食べられるような幸福な人だけでは?」
「それとも真理に向かうほど恩寵により物質的幸福が訪れるのか?」
→パンに飢えている者は、まずパンを食べるべきです。私は血を流している人に「血も痛みも幻想です」などとは言いません。
また、「救われたいなら私の話を聞け」とも言いません。
″救い″という構造自体、
最終的には「自分を救えるのは自分(自己)だけ」だと思っています。
私にできるのは、すでに真理探求の道に入った人を励ますこと。私自身が過去に多くぶつかってきたので、経験者として″道しるべ″を渡すことくらいです。
ただ、その″道しるべ″がなんであれ、その意見が完璧でパーフェクトだとも思いません。
完璧でパーフェクトなのは「それそのもの」だけです。また、誰かの探求を代わりに行うことも、できません。
そして、「恩寵」というものも、
信じようと信じまいと、すでに誰に対しても働いています。だから「信じましょう」「ありがたがりましょう」と唱える必要もありません。
>科学技術という「幸福になりたい・苦を取り除きたい」という人間の本質的な動きと、
「り」さんの真理はまったく別の方向ではないですか?
あなたの真理はどこへ向かい、誰を救うのですか?
→いわゆる真理探求による幸福とは、
「幸福─不幸」という対立そのものを超えるものです。
だからそれは、人生の物語を「より幸せにするため」の真理探求ではありません。
むしろ、物語全体を貫く“在ることそのもの”を明らかにする道です。
科学技術は「より良く生きるため」の進化、
真理探求は「そもそも誰が生きているのか」を見抜く進化。
どちらも人間の本質的探究心の表現ですが、
向いているベクトルが異なります。
それでも、どちらも「同じ存在」から発している。
つまり、真理は誰かを救う教えというよりも、
「救う者と救われる者」という構造そのものを静かに溶かす理解者なき理解なんです。
もちろん、これはあくまで一つの見解にすぎません。もし共鳴できなければ、まったく信じなくていいんです。
信じてほしいから書いているというより、
このやり取りも含めて、
ただ「起きていること」なんです。笑
172
:
り
:2025/10/22(水) 21:25:20 ID:8JWwiQaE0
>>164
「何となく、わかる」=これこそまさに浸透しています。こちらこそありがとうございます。
>>165
テーマがテーマだけに、どうしても長文になってしまいます。申し訳ない。笑
こちらこそ♪
>>166
正論w
文字たちが、自分を成り立たせている″白紙″について語り合ってるスレです。
173
:
幸せな名無しさん
:2025/10/23(木) 07:41:37 ID:RlUVvxLA0
>>171
すばらしい。かなり厳しい事を書いたつもりですが、言わんとする事を理解して頂けたように思います。
「り」さんのように「全ては奇跡、恩寵」のような境地に到達した人はわりといる、いると思います。
そういった人物の人生は大抵上向きになります。ここで言う恩寵と言う奴です。
そして、そういう人物、そのような体験談を聞いた人物は物質次元を軽視し始める。
ある種の真理に到達すれば物理現実において不可能はない、とそんな論調が生まれる。
恩寵は人生を好転させる程度の力はあれど、人が物理現実を超越するほどの力はないというのに。
「り」さんは一元論者ですね?なんなら真理は一元を超えた所にあると、そういう思想です。
しかし、この対話を通じて私が感じたのは、人の真理は二元論という事です。
物質と霊、この二つは一部混ざりあうと同時にけして完全には混ざり合わない
常に人間はその間に生きる存在であるという事です。
真理探究者はいずれ才能と努力があれば一元論に到達します「全ては一つだ」とそうなる。
それは真理だが人の真理ではない、という事を弁えなければならない。
最後に、私の遊びに付き合ってくれてありがとう。
このレスはただの私の感想で、ある種のお礼みたいなものです。
もうこれで終わりにするつもりでしたが、また一つだけ
「り」さんは真理が真理であるとどうやって認識しているのですか?直感ですか?
まだ何かあるかもしれませんが、とりあえずここで切ります。
174
:
幸せな名無しさん
:2025/10/23(木) 15:54:58 ID:O8Mrt2JY0
>>168
ありがとうございます。
先述のとおり早くから救いを求めて彷徨っていたのが、まさか匿名の掲示板で…ようやく辿り着いた感じがします。
あくまで入口かもしれませんが、カウンセリングでも書籍でも得られなかったフィット感が物凄いです(うまく表現できなくてすみません笑
もう少し続けてもよろしいでしょうか。
悟りと願望実現は対極にあるものではないと感じていますが、
実はこの数年、どちらも求めながら実現せず世界が微動だにしない感覚、強い分離感を味わってきました。
願望実現だけに関心があった頃はそれなりにうまくいっていたのが、悟りに興味を持ち始めた頃から
おもしろいくらいに物や人と疎遠になっていくというか、手をすり抜けていくんです。
悟りも得られず物も得られず完全にこの世で迷子になっていました。
(これは不足のスパイラルに陥っていたのでしょうか?)
それでも実践や気づきで徐々に体感が変わってきています。
世界への反応(感情・思考)は習慣的に起こりますが、そこで思考を続けることなく
世界をあるがままに受け入れられるようになってきました。
反応がぽこぽこ湧くたびシャボン玉のように消えていき、淡々と再び世界に戻る感覚です。
昨日、思いどおりにいかないことが起こった時にそのまま流れに任せていたら、
世界のほうが動いて結果的に期待を超えたものになりました。
久しぶりに、世界と連動している感覚を覚えました。
これも明け渡し、本来の在り方に戻ってきているからなのかも?と感じました。
175
:
幸せな名無しさん
:2025/10/23(木) 16:48:25 ID:5o2a.67k0
読み応えのあるスレ
沼にハマらないよう気をつけないと
176
:
幸せな名無しさん
:2025/10/23(木) 18:24:40 ID:jITMXXfU0
>>170
>あなたが燃えていることは、保証します。
これは疑いを捨て勇気を取り戻す言葉です。恩寵です。感謝です。
ネガティブな感情であっても「至高のそれ」を思い続けていた。
これを「真理探求の炎」と言い切ってくださった。
やはり「リーラ」について本質的なところはわからないので、脇に置いて忘れます。
「至高のそれ」「私である意識」にお任せするだけ。疑いが晴れてきたのは大きいです。
p.s
172の「文字たちが、自分を成り立たせている″白紙″について語り合ってるスレです。」
世界の真実がこの一行に要約されていて、お見事!という感じで笑ってしまいました。
リーラの説明としては、断然こっちのほうが好きです。笑
177
:
り
:2025/10/23(木) 18:39:52 ID:pqU2OPWw0
>>169
そうですね。
それでも、どのみち探求者が一時的にエゴが強くなったり、混乱や暴走を経験するのは、避けられません。
私はその避けられないプロセスを“浄化”と呼んでいます。
今の時代、知識や情報のおかげで多くの助けが得られる一方で、たしかに混乱を招いたり、「机上の論理理解」にとどまって体験的理解に届かないこともあります。
けれど、それもまた起こるべくして起こるものかもしれません。
理論的な理解があるからこそ、後に直接的理解(体感的理解)が起きたとき、「あぁ、これがあれか」と混乱せず、スムーズに統合できるという恩恵もあるのです。
学ぶことも、修練を行うことも、ただ“起きる”。
起きたのなら、それがそのときの最適です。
>そうした「真理の深層」のことは、機が熟した時、識別と洞察によって内から叡智として湧き出るものなんでしょう。
→はい。
内側から湧き上がることもあれば、外側の出来事として現れることもあります。初期段階では、理解しているのはエゴの働きです。
エゴが段階的に理解していくということが正しいプロセスで、それは正しく間違ってません。
しかしプロセスが進むにつれ、理解している主体そのものが「誰でもない何か」へと静かに変わっていきます。
やがて、純粋意識──気づきそのものに、もともと叡智が備わっていたことが明らかになります。その叡智が、言葉や思考を超えて、自然に導きや直接理解を起こすのです。
「どうしたって真我に委ねるしかない」
そうですね。
けれど、こう考えてみてもいいかもしれません。
そもそも、真我であるあなたが、自分を真我だと疑うことは本当に可能なのか?
はたして、真我は“疑う”ということができるのか?
この線で観ていくのも、ひとつの入り口です。
こちらこそ、深い問いをありがとうございました。
178
:
り
:2025/10/23(木) 18:50:53 ID:pqU2OPWw0
>>173
(長くなったので2回にわけます)
>到達した人はわりといる、いると思います。
そういった人物の人生は大抵上向きになります。ここで言う恩寵と言う奴です。
→人生が上向きになる、
これすらも、本当に何とも言えません。
人生が“上向き”かどうかは、主観でもあり、同時に客観的な判断も伴うからです。笑
ただ一つ確かに言えるのは、「到達」(という表現を使うなら)到達そのものが、探求者本人にとって、その瞬間だけを切り取れば、言葉にできないほどの「本当に良かった!!!」という爆発的な喜びだということです。
なぜなら、真理探求における堂々巡り、つまり“問い”そのものが溶けてしまうからです。
それは、かつての探求者からすれば、あり得ないほどの大変容であり、終わりの解放です。
もちろんその満足感は、個人を超えた静かな平安からやってきます。
そしてそれは、やがて静かに消えていき、その状態が、いい意味で「普通」になります。笑
>そして、そういう人物、そのような体験談を聞いた人物は物質次元を軽視し始める。
→確かに、そういう傾向はありますね。
ただ、それもガイド一人ひとりの個性によって、表現や、解釈もまったく異なります。
聖母のような型もいれば、容赦のないズバズバ型、あるいはドラゴンのようになにかミステリアスな畏怖を感じさせる型もいる。
また、彼ら彼女らは方便も使います。
相手によって違う表現、また、その時々で矛盾するような発言もします。
けれど共通して言えるのは──もしそれが“真に起きた”ことであるなら、その言葉の根底には「他の探求者の進歩と達成を願う意図」が自然に発生しているということです。
なぜなら、探求者とは過去の自分自身だからです。そして彼ら彼女らは「エゴとは何か?」を徹底的に知り尽くしています。
179
:
り
:2025/10/23(木) 18:52:37 ID:pqU2OPWw0
>>173
>恩寵は人生を好転させる程度の力はあれど、人が物理現実を超越するほどの力はないというのに。
→言いたいことはなんとなくわかります。
恩寵を「霊性を利用した超人的な力の取得」だと勘違いしてしまうな!という感じですかね。笑 (違ってたらすみません)
あと、「物理現実を超越する」という言葉の意味によってまた変わります。
真理探求とは、個人としての限界や思い込み、つまり“束縛”を超えていく道です。
そういう意味では、探求者は「物理的現実の縛りを超えていく者」とも表現できるでしょう。
>「り」さんは一元論者ですね?なんなら真理は一元を超えた所にあると、そういう思想です。
しかし、この対話を通じて私が感じたのは、人の真理は二元論という事です。
物質と霊、この二つは一部混ざりあうと同時にけして完全には混ざり合わない。
常に人間はその間に生きる存在であるという事です。
→なるほど。非常に本質的な観点です。
私自身も、そうした思想を学び助けられた時期があり、今でもそのような表現を用いることがあります。
ただ、正確に言えば、私は一元論者でも非二元論者でも不二一元論者でもありません。
しかし、それらを否定することもできません。
側からみたら、そうなのかもしれないし。
そして、どれもまた、ある段階において“真実を語っている”から。
そして、二元論を否定する気はありません。
例えば、真理そのものを“蜘蛛”だとしましょう。
蜘蛛はその本質的な働きとして糸を紡ぎ出します。
その糸は蜘蛛から生まれたものであり、蜘蛛と深く結びついています。
けれど、糸そのものは蜘蛛ではない。
同じように、物質世界も“真理から紡がれた糸”なんです。だからこそ、物質を「ただの幻想」と単純に切り捨てることはできません。また、切り捨てて実際的に生活することは不可能です。
むしろ、人間や個人、世界は──真理から見れば、不思議で、偉大で、驚きに満ちた、愛の表現そのものだと感じています。
(ただ、個人がそれを“そう感じようとする”ことには限界がある──というのは以前にも触れた通りです)
>真理探究者はいずれ才能と努力があれば一元論に到達します。「全ては一つだ」とそうなる。
それは真理だが人の真理ではない、という事を弁えなければならない。
→おっしゃる通りです。
ただ、逆説的に言えば「人を通して真理が自らを探求している」とも言えます。
人は真理を“知る”のではなく、真理が“人という形を通して自らを味わう”。
その最前線にいるのが、私たち人間なんです。
>最後に、私の遊びに付き合ってくれてありがとう。このレスはただの私の感想で、ある種のお礼みたいなものです。
もうこれで終わりにするつもりでしたが、また一つだけ。
「り」さんは真理が真理であるとどうやって認識しているのですか?直感ですか?
→こちらこそ、遊びに来てくれてありがとう。
このスレ自体が、私にとっても誤解を恐れず言うなら楽しい遊びのようなものです。笑
人は“意識そのもの”を悟ることができます。それが、人に起こり得る“悟り”と呼ばれるものです。その意識こそが、霊性そのものなんです。
最終的に“悟った者”さえも終わります。溶け去ります。
だからこそ、一元・非二元・不二一元といった立場をすべて超えてしまう。
もはや○○論者ではないんです。
「それそのもの」は、全概念をもってしても表し切れません。それはどれでもなく、また、どれでもある。不思議な話ですが、それが“真理”のあり方なんです。
その意味で、私が語る真理も、“それらを超えたところから、二元の言葉に翻訳している”ようなものです。
直感と言えば直感ですが、より正確には“それそのものの、直接的な知”
概念以前の不可思議な理解、です。
だからこそ、「不可思議」としか言いようがないんです。
180
:
り
:2025/10/23(木) 19:47:38 ID:pqU2OPWw0
>>174
こちらこそ、ありがとうございます。
それは良かった。最適なタイミングですね。笑
続けてください。
>悟りと願望実現は対極にあるものではないと感じていますが、
実はこの数年、どちらも求めながら実現せず、世界が微動だにしない感覚──強い分離感を味わってきました。
願望実現だけに関心があった頃はそれなりにうまくいっていたのに、悟りに興味を持ち始めてからというもの、物も人も面白いほどすり抜けていく。
「悟りも得られず、物も得られず」、完全にこの世で迷子になっていました。
(これは“不足のスパイラル”に陥っていたのでしょうか?)
→まず、一般的な願望実現も「悟りたい」も、根本では同じ“願望実現欲”です。
そして、誰もが形は違えど、その欲を通して「生きている」のです。
ただ、あなたの言うように真理探求のスイッチが入ると、世界のほうがまるで調整を始めるように働きます。
これまで惹かれていたものへの関心がふと薄れたり、執着していた対象との縁が静かに遠のいたりする。
それは“世界の何かに魅了される力”が奪われるというよりも、魅力の向かう先がゆっくりと反転していくような変化です。
言いかえれば、真理や“本来のあなた”に対して心が開かれていく過程です。
もちろん、個人のあなたからすれば、
ときに喪失や停滞のように感じることもあるでしょう。
けれどそれも、真理に集中できるようにする恩寵の働きです。いわば「愛の鞭」。
スパルタな側面ですが、決して罰ではありません。だから、罪悪感は不要です。
真理実現の前には、誰しも一度、水に浸され、余分なものを洗い流されるようなプロセスが入ります。つまり、それは“願望を否定されている”のではなく、
「いまは一時的にすべてを脇に置き、本来の流れに集中しなさい」という恩寵の采配。
自然と遠回りを避け、無駄な時間をキャンセルし、あなたがまっすぐ核心へ向かうように導いてくれているのです。
しかも、その状況を通して「もう明け渡すしかない」と観念せざるを得なくなる。
つまり、“明け渡しの深化”と“浄化”が同時に起こる。これまさに一石二鳥の恩寵なんです。笑
神に(呼び方は何でもいいですが)“世話を任せる”ということですね。
ですから、あなたの言う通り、
これは“本来の在り方”に移行していっているプロセスだと思います。
ただし、これらの時期は長くても一時的です。
抵抗すればするほど長引くこともありますが、
永久に願望実現の権利を失ったわけでは決してありません。
むしろ、こうした時期を通じて、
願望の“質”や“方向”が自然に変わっていくことが多い。
個人として本当に大切な願いは、ちゃんと残ります。
このことは実はあまり語られていません。
だから「真理探求をすると人間として不幸になる」と誤解されがちなんです。笑
けれど本当は、たとえ一時的に不幸に見えても、それは“浄化”であり、
不要な魅了や寄り道を避けるために、恩寵が静かに働いてくれているのです。
もちろん、それを知っていても「嫌だ!」と感じる瞬間も起きます。でもそれすら必然。
言えるのは、どれも“期間限定”だということです。すべてが、あなたをより深いところへ導くための、完璧な布置なんです。
やがて、「どうにかしよう」とする力が静まっていきます。
不思議なもので、そうなるほどに、物事のほうが勝手に整っていく。
対処しようとする“あなた”が静まると、対処そのものが自然に起きるんです。
特別な努力は必要ありません。
ただ起こることが起こり、終わることが終わっていく──その中で、あなたは確かに“在る”ままに導かれていきます。グッドラック!
181
:
幸せな名無しさん
:2025/10/23(木) 20:09:28 ID:qaA5qM0Q0
>>177
仰ることよくわかります。
知識や考察そのものを否定したというより、もう必要がないからやめた。無駄に新たな問題を作るのはやめた。この意味でした。
真我という言葉を使ったので誤解されたかもしれません。
純粋意識を様々に名付ける遊び心みたいなものでした。
感情が泡立ち落ち着かないときも、こうして静かに書いている今も、「私である意識」は淡々と在り続けています。
そこに疑いはありません。疑いがないというか、心身を自分と思い込んでいるときでさえ「私である意識」としての私を疑うなんてことはあり得ません。
だって実際に今こうして意識は在るわけですから。
「どうしたって真我に委ねるしかない」の意味は、結果を期待することなく物事を起こるに任せる、それに反応する心や体がすることにわざわざ余計な意味付けはしない。
そすれば最適な形で全てが運ぶ。
言葉足らずなところがあるかもしれませんが、こんなところでしょうか?
これは体験上理解したことです。それを体験し続けられなかったので疑いが起こりましたが…。
大丈夫です。
「そもそも、真我であるあなたが、自分を真我だと疑うことは本当に可能なのか?
はたして、真我は“疑う”ということができるのか?」と観る必要はなさそうです。
182
:
幸せな名無しさん
:2025/10/23(木) 21:08:18 ID:L/eentAo0
他の方へのレスも勝手に読ませていただいてます
少し前に戻ったら
>>51
で「願望が叶っても叶わなくても、プロセスだし恩寵」という言葉を見て、すごく腑に落ちて楽になりました
好きな人がいるんですが、一時的に離れても他の人に目を向けようとしても結局その人のもとに何度も戻ってきてしまっていて
逃げ回っても無駄なんだなと感じているところですw
もはや好きというより「向き合わされてる」という感覚の方が近いぐらいでw
学ぶべきことがあるんでしょうね…
非二元では「起きる出来事に因果も意味もない」って言われたりしますけど、私は主さんの「すべては恩寵でありプロセスは進んでいる」という考え方の方が好きです
楽しく拝見させていただいてます、ありがとうございます
183
:
幸せな名無しさん
:2025/10/23(木) 23:46:50 ID:XAujOShY0
>>180
ヨコからすみません
「まさに!」と頷く内容ばかりで、思わず書き込みました。
>>ただ、あなたの言うように真理探求のスイッチが入ると、世界のほうがまるで調整を始めるように働きます。
これまで惹かれていたものへの関心がふと薄れたり、執着していた対象との縁が静かに遠のいたりする。
まさにこの状態に入り、既に10年。
期間限定とは思えないくらい、外側の世界はむしろどんどん絶望的になっているように感じています。。
かと言って明け渡しもできずにまだ足掻いています。だから変わらないのかもしれませんが、本当にこれで良かったのかと、悲観的になっています。
りさんの仰るような流れに乗っている感覚は、その流れの途中でも実感できるものなのでしょうか。
もし上手くいっているサインなどあれば教えていただけたら嬉しいです。
184
:
り
:2025/10/24(金) 08:32:25 ID:605oXh6M0
>>175
ありがとう。沼と眼精疲労に注意してください。笑
185
:
り
:2025/10/24(金) 08:42:58 ID:605oXh6M0
>>181
>知識や考察そのものを否定したというより、もう必要がないからやめた。無駄に新たな問題を作るのはやめた。この意味でした。
→なるほど、そういう意味ですね。
よくわかりました。笑
ただ、止めてもそれが起こるなら──起こる。
止まったなら、それでよしです。
ところで、「真我」という言葉は本当によくできていますね。
その語自体にすでに、「私はエゴではない」という前提が含まれている。
まるで、自己が自分を明け渡していくような、美しい仕組み。
けれど、一応書くと、
真我そのものの立場から見れば、
「真/偽」も「我/我以外」もありません。
そこには、ただ在るだけです。
>感情が泡立ち落ち着かないときも、こうして静かに書いている今も、「私である意識」は淡々と在り続けています。
そこに疑いはありません。疑いがないというか、心身を自分と思い込んでいるときでさえ「私である意識」としての私を疑うなんてことはあり得ません。
→はい、その通りです。
だって、今こうして意識は在るのだから。
それ以上、何を証明する必要があるでしょう。
>「どうしたって真我に委ねるしかない」の意味は、結果を期待することなく物事を起こるに任せる。それに反応する心や体がすることにわざわざ余計な意味付けはしない。
そすれば最適な形で全てが運ぶ。
言葉足らずなところがあるかもしれませんが、こんなところでしょうか?
→ええ、まさにその通りです。笑
言い換えるなら
あなたは純粋意識、すなわち真我として在り続けること以外、何もできません。
修練が起こるなら、それが起こる。
期待が起こるなら、ただ起こる。
意味づけが起こるなら、それもまた起こる。
それが「最適」に見えても、「最悪」に見えても、どちらでも真我は完璧のままです。
「全然最適じゃない!最悪だ!」と感じることが起きるなら、それさえ、ただ起きています。
PS
「文字たちが〜」のくだり、笑ってくれましたか?
あれは本当にシュールですよね。
真理的シュール・コメディ。笑
この夢の世界は、そういう意味では、最も精巧な喜劇です。
186
:
り
:2025/10/24(金) 09:02:29 ID:605oXh6M0
>>182
どうぞどうぞ。
>「願望が叶っても叶わなくても、プロセスだし恩寵」という言葉を見て、すごく腑に落ちて楽になりました。
→そうなんです。あれこれ書いてはいますが、誤解を恐れず言えば──真相は驚くほどシンプル。そしてシンプルだからこそ楽なんです。
>好きな人がいるんですが、一時的に離れても、他の人に目を向けようとしても、結局その人のもとに何度も戻ってきてしまっていて…。
逃げ回っても無駄なんだなと感じているところですw
もはや好きというより「向き合わされてる」という感覚の方が近いぐらいでw
学ぶべきことがあるんでしょうね…
→なるほどwそれは向き合わされる関係ですね。
不思議なもので、本当に深い関係というのは、
どれだけ離れても、心のどこかで繋がり続けていたりします。
それは「学び」や「縁」といった言葉で説明できることもありますが、もう少し言うならあなたの中でまだ見つめ切れていない何かが、
相手という鏡を通して自らを映し出しているのかもしれません。
だから、無理に離れようとせず、かといって掴もうともせず、ただ「惹かれる感じ」そのものを丁寧に味わってみてください。
それは、それがどんな関係性であれ、
ひとつの力──分離を超えた意識が、
“ふたり”という形を通して自分自身を見つめている動きなんです。
恋愛は、個人の物語のように見えて、
実は“ひとつのいのち”が自分を愛するための遊びでもあります。
近づくことも、離れることも、
どちらもその愛(意識)の呼吸の一部なんです。
もちろん、これらはあくまで私の主観的な表現ですが。
>非二元では「起きる出来事に因果も意味もない」って言われたりしますけど、私は主さんの「すべては恩寵でありプロセスは進んでいる」という考え方の方が好きです。
→あらゆるものの超越、それが非二元です。
言いかえれば「対が無い」ということ。
つまり“絶対”。確かにそこでは、因果や意味すらも超えています。
けれど、同時に、私たちが今こうして言葉を交わし、あなたが誰かを想い、
悲しんだり、喜んだりしているこの世界は、“心”の中にあります。
そこでは、出来事にはちゃんと意味が生まれ、因果が働いています。
それが人間としての自然なルールであり、
この世界のやさしさでもあると思うのです。
ですから、起きているすべてのことは、
「意味を超えた意味」として起きています。
それに抗わず、ただその流れに身を委ねる。
すると、世界の方があなたに寄り添ってくるようになります。
>楽しく拝見させていただいてます、ありがとうございます。
→こちらこそ、丁寧に読んでくださってありがとう。
こうして言葉を通じて何かが響き合うのも、
きっと恩寵の遊びのひとつなんでしょうね。
187
:
り
:2025/10/24(金) 09:07:30 ID:605oXh6M0
>>183
こんにちは、どうぞどうぞ。
>まさにこの状態に入り、既に10年。
期間限定とは思えないくらい、外側の世界はむしろどんどん絶望的になっているように感じています。。
かと言って明け渡しもできず、まだ足掻いています。だから変わらないのかもしれませんが、本当にこれで良かったのかと、悲観的になっています。
→とてもよくわかります。
浄化のプロセスの最中、私もまったく同じような感覚でした。終わりが見えず、「これが本当に恩寵なのか?」と疑いたくなるほどの時期がありました。
>りさんの仰るような流れに乗っている感覚は、その流れの途中でも実感できるものなのでしょうか。
もし上手くいっているサインなどあれば教えていただけたら嬉しいです。
→気休めのように聞こえるかもしれませんが、
浄化のプロセスは、恩寵が責任を持って行い・見守り・完了させます。
そのため、失敗は不可能であり、「うまくいくこと」しか起こり得ません。
これは思考実験として聞いてください。
恩寵は、あなたの過去・現在・未来すべてを見通した上で働いている。
だからこそ人によってタイミングも期間も体験の形も異なります。その人が本当に越えられる形で、最適に進んでいるんです。
ただ、これは「我慢しましょう」ではありません。現実的な対処は、できる範囲で思いつく限り行ってください。
それすら難しいときもあるでしょうが、それも含めて大丈夫です。
大切なのは、「比較する心」に気づいていること。
──過去の自分と今の自分、
──他人の幸せと自分の苦しみ、
──未来の理想と今の現実。
そうした比較の動きを、否定せず、ただ気づいている。それだけでも大きな明け渡しです。
また、できそうなアプローチやメソッドがあるなら淡々と続けてみてください。
もしそれすら起こらなければ、それもまた恩寵の采配。
あなたが何かを「しよう」としても「できない」としても、明け渡しはその体験の中で、自然に深まっています。
そして。この時期はいずれ必ず終わります。
ただ、終わり方にはいくつかのパターンがあります。
・状況が劇的に好転する場合。
・問題が静かに鎮まる場合。
・外側は変わらなくても、内側がまったく動揺しなくなる場合。
どんな形であっても、
霊的成長・魂の深化は確実に起きています。
10年という長さを感じるかもしれません。
でも、もしそうなら、こうも言えると思います。
「それに耐えうるだけの魂だからこそ、そのプロセスを任されている」と。
これは慰めではなく、構造の事実として。
そう見た瞬間、ほんの少しだけ風が通るかもしれません。
多くの場合、こうした苦難の時期を経た魂は、
後になって「自分はこれを通る必要があった」と自然に理解する地点に立ちます。
だから、どうか無理せず、少しずつでも前に進んでください。
必要なときは、身近な誰かに助けを求めてください。それもまた、恩寵の働きの一部です
そして最後は──あなたのすべての想い、痛み、焦り、そしてドロドロした感情まで、
まるごと恩寵に明け渡してください。
それらはすべて、最終的に恩寵自身のもとへ返っていきます。
あなたの中で燃え尽きる苦しみは、
そのまま光へと還っていくプロセスなんです。
188
:
幸せな名無しさん
:2025/10/24(金) 12:35:21 ID:DEZcgqtY0
>>187
183です。早速とても丁寧で、わかりやすいご回答をありがとうございます。
内容からも、りさんご自身も相当いろいろなご経験を経られたのだろうなと拝察し、その言葉には気休めではなく、重みと温かみを感じました。
正直、私はまだそこまで達観できていなくて、被害者意識、恨み、歳ばかり取って何も前に進まない焦り、そんな自分を許せない思いや現実に対する我慢のストレスばかりがつのります。
よく、待っているだけではダメで、やはり自分から行動しなくてはいけないとも言われますが、これも自分の内側から沸いてくるのを待っていれば良いのでしょうか。それとも積極的に行動、もしくは少なくとも認識や意識を変える努力はした方が良いのでしょうか。
お忙しいところ、何度も質問して恐縮ですが、もしよかったら教えて頂ければ幸いです。
189
:
幸せな名無しさん
:2025/10/24(金) 13:19:07 ID:Irx2qO9.0
>>179
他のスレも読んでますが素晴らしい考察と理解力ですね。
付き合ってくれてありがとうございます。
>恩寵を「霊性を利用した超人的な力の取得」だと勘違いしてしまうな!という感じですかね。
「全能感」かなと思いました。何かしら真理を得れば必ず全能感が湧くものです。
そこで何か願望が叶ったらあれもこれも全て叶うに違いない、私は神だ、とそう思ってもおかしくないですね。
190
:
幸せな名無しさん
:2025/10/24(金) 18:11:30 ID:KjYemR660
>>185
172は、まるで大喜利のようなやり取りで、座布団10枚あげたいぐらいでした。笑
確かにこの夢の世界はよくできた喜劇なんだろうなと思います。
夢だと思うだけで可笑しくなったりしてましたし、覚醒に近づいた時はニヤニヤが止まりませんでした。笑
話は変わって…
対話の中で噛み合わないところがあると感じていて、理由は恩寵の定義に違いがあるようです。
物事が最適に運んでいるのは言われるとおりだと思います。
ただし恩寵ではなく筋書きによる必然と思っています。創造が起こり個性として生まれ回帰していく必然の流れです。
この筋書きの完全さを信じて起きることに抵抗せず乗れば順調と感じ、疑えば不運だ不幸だと感じる。その違いがあるだけ。
あなたが言うように、真理視点ではどちらであっても筋書きの中の必然の出来事。
私は暫くの間エゴが暴れて、ことごとく疑う状態になっていました。
疑うせいで物事を否定的に見るようになり、暗闇に落ちたと錯覚していました。
それで恩寵についてですが、これは特別なものです。
準備の整った人に必要な時必要な場面で贈り物として与えてもらえるもの。こう定義しています。
全てを見通す至高の存在への畏怖や信仰または愛を呼び起こすための特別な贈り物。
これが適切な時に贈られます。
定義は人それぞれなので、恩寵を意味で分けて考えるのもありだし、あなたのように全部ひっくるめてもいいと思います。
>叡智は外側の出来事として現れることもあります
外側の出来事を見て直接ガツンと来るやつのことでしょうか?
内にある識別力があってこそのものと感じてるので、叡智、直接的理解はいつも内側で起こる認識です。
【長くなったので次へ】
191
:
幸せな名無しさん
:2025/10/24(金) 18:12:43 ID:KjYemR660
【続き】
あなたはシフトが起こったあと、静まりきった純粋意識として心も世界も起こるがままに見ている。
私はここから先は体験してなくて聞いた話でしかないのですけど、あなたが見ている「心=世界」は養分の供給が絶たれているので、いずれ消えるはずです。認識が消えます。
あなたは「心=世界」が消えるところまで進んだでしょうか?その時どうなったでしょうか?
ここが最終の分岐点なんだそうです。
そして殆んどの場合心が復活するそうです。これが劣ってるとか失敗とかではなく、ただ、そうなだけ。
あなたは心が再活動し、もう一度世界が出現したのでしょうか?
そこを通ったし理由もわかってるなら私が言う必要はないし、そもそもここで話してはいけない領領と思います。
分岐であちらに行ったら、つまり合一する方へ行ったなら(便宜上こう表現します)どうなるか?
合一は至福そのもとなるなんて表現されてますけど…、至福そのものは物足りない。だからリーラ(二元)(世界創造)があり楽しむ。
神は自らの内に創造と破壊を繰り返す、とかいうやつです。
知識をもとに現象面を想像してみると、対象として見えている個性は身体と共に消失するのかな?
いわゆる聖者は、信心深い人間に望まれて、合一(不二一元)から地上(二元)へと身と心をまとい出現する個性なんだと思います。
それとは別で、至福そのものでありながら、リーラを見るだけではなく舞台で演じる役者もやってみたい。
そこで生まれるのが私達人間。
はじめの頃は、こんなこともあるのかな?と楽しく想像してたのを思い出しました。
私のルートでの個人的な話です。あなたとは違うなら、そんなお話もあるかと面白がってください。
失礼しました。
192
:
幸せな名無しさん
:2025/10/24(金) 18:17:27 ID:qwXtVSyo0
りさん
「私が存在してる感覚」「私は在る」ですが、自分の場合、「意識がある」「単なる意識がある」という感覚のようなものはありますが、「私」というような感覚はないです。「私」という言葉に含めている意味が違うのかもしれません。
私とか自分とかはいなくて、意識が存在している、単なる意識が存在しているという表現がしっくりくる感じがします。
193
:
幸せな名無しさん
:2025/10/25(土) 13:41:16 ID:mz9.KAKo0
>>178
こっち読んでなかったw
批判ではないのですが一貫して性善説だなと感じました。大変、興味深い回答でした。
私が言いたいのはしばしばこの手の探究者は堕落するという事です。
成功したら何かおかしくなっちゃった人、何年も成長が止まってる人、信者をずっと抱えて甘やかしてる人。
何年アイドルファンやってもファンはアイドルにはなれない、この関係はそれでいいけど。
私は、人は「救われた」時点で霊的成長は止まると思ってます、だってもう成長する理由がない。
救われた時点で維持か落ちるかどっちかって事です。
私は20年なんなら今も必死で色々やって、密度が薄い時期を含めてなら30年になります。
そして気が付いたら上だと思ってた人は下になっていたり追い付いていた。
誰にも頼ったり相談できなくなっていたのは少し困ったw
その差が何かと考えた時それは「救い」かなと思ったんですよね。
苦しんでる人、難民で助けて下さいって人、私は大変喜ばしい人たちだと思う。
そして、そういう人たちに何やら上から目線で浅い事言う人たちがいる。
まぁ私は管理人じゃないし、良いとか悪いとか、だからこうしろ、みたいな事でなく
そういう人はいるしそういう理由でそうなるのかな、という話です。
194
:
り
:2025/10/25(土) 19:15:45 ID:5ehM04HI0
>>188
それは良かった。全然恐縮しなくて大丈夫ですよ。
≫正直、私はまだそこまで達観できていなくて、被害者意識、恨み、歳ばかり取って何も前に進まない焦り、そんな自分を許せない思いや現実に対する我慢のストレスばかりがつのります。
→個人の心には、そうした動きが自然に起こります。それが完全に起きない人はいません。
それが静まっているのは、心が完全に停止したとき、または熟睡のときくらいです。(どちらも記憶には残りません)
目が覚めて世界が動き出せば、心もまた動きます。世界と心は、常に連動しているのです。
≫よく「待っているだけではダメ、自分から行動しなくてはいけない」と言われますが、これも内側から湧くのを待てば良いのでしょうか?
それとも、積極的に行動したり、認識や意識を変える努力をした方が良いのでしょうか?
→これは多くの人が一度は抱く問いだと思います。けれど、結局のとこ──起こることは起こり、起きないことは起きません。笑
真理の立場から見るなら、それが「最適」であることに間違いはありません。ただし、個人としてその最適を“良し”と感じるかどうかは、また別の話です。
行動してしまうときは、どれほど拒んでも行動が起きます。
逆に、どれほどやる気があっても、動けないときは動けない。
認識を変える努力や意識を高めようとすることも同じです。
それが起きるときは起き、やめるときはやめる。そのすべてが、ただ起きているだけなのです。
また価値観というのは、時代や環境によっていくらでも変わります。
今あなたが「絶望」と呼んでいる状況も、ある価値観の視点から見れば、実はとても価値あるプロセスかもしれません。
また別の価値観の視点からは、中立に見えることもある。
つまり、「これは絶望的だ」「これは悪いことだ」という固定された意味づけ自体が、直接的な事実ではないよねって意味で、二次的な「幻想」なんです。なので、「夢のようなもの」と言われています。
この世界は絶えず変化し続けていて、
意味もまたその都度、変わっていきます。
ですから、たとえ今が苦しくても、
それもまた「良い・悪い」を超えた、ひとつの自然現象です。一見、後退に見える出来事さえ、
実はあなたを確実に深めていく経験になっています。
なぜなら、どんなことも最終的には“経験値”として統合されてしまうからです。
これは当然の原理です。
真理の視点では、進化も退化もなく、
ただ“あるがまま”があるだけ。
しかし人間の視点から見れば、
それは確かに、螺旋を描くように後退と前進のに見える流れの中で、上へ上へと進んでいくプロセスに見えるでしょう。
最後に一つだけ。
認識を変えようとする努力、意識を向上させようとする実践。
それ自体が「起こってしまうこと」であり、決して無駄ではありません。
やってしまうなら、それもまた流れの一部。
そして、本当にやらなくなったとき、
それを「気にしなくなる」ときか、「状況が自然に変化したとき」でしょう。
それさえもただ起きます。そして真理そのものはどんな時でも、常に変わらず、動かす、変化せず、ただ在ります。
幸運をお祈りします。
195
:
り
:2025/10/25(土) 19:18:20 ID:5ehM04HI0
>>189
ありがとうございます。
しかし。これらはただ起きているだけなんです。実際のところ。
「全能感」ですか。
確かにそうした感覚が起こる人もいるかもしれません。けれど、少なくとも私の場合は、あまり目立った形では起きませんでした。
むしろ「自分はなんでもできる」というより、
「自分にはこれができる、でもこれはまったくできないな」ということが、だんだん明確になっていった感じです。
(それは単純に年を重ねたからかもしれませんが。)
願望が叶うかどうかも、本当に人によってさまざまだと思います。
ただ一つだけ確かに感じるのは、心の奥で、辛抱強く想い続けていることは、やがて何らかの形で具現化してしまうということ。
だから、真理探求にしても願望実現にしても、
“想い続けられる”こと自体が、
その人にとって自然で、真の欲求である証拠なんでしょう。
そのため、それを阻んでいる観念や固定観念に気づき、それをやわらげたり、明け渡したり、手放していくのは有効です。
ただし、それも「起きるなら起きる」
やろうとしてやるというより、
自然にそうなっていく流れです。
「神」についての話をしだすと、また長くなってしまいそうなので、別の機会に。
196
:
り
:2025/10/25(土) 19:25:07 ID:5ehM04HI0
>>190
>夢だと思うだけで可笑しくなったりしてましたし、覚醒に近づいた時はニヤニヤが止まりませんでした。笑
→はい、それは自然発生的な、聖なるニヤニヤですね。笑 それこそが、虚無への恐れを笑い飛ばす力です。真理探求は、ある意味「大緊張からの大解放」への道。
座布団10枚、ありがとう。笑
>物事が最適に運んでいるのは言われるとおりだと思います。
ただし恩寵ではなく筋書きによる必然と思っています。創造が起こり、個性として生まれ、回帰していく必然の流れです。
→はい、まさに。
その“筋書きによる必然の流れ”こそが、私の言うところの「恩寵」です。視点を変えれば、同じものを別の名で呼んでいるにすぎません。
>この筋書きの完全さを信じて起きることに抵抗せず乗れば順調と感じ、疑えば不運だ不幸だと感じる。その違いがあるだけ。
→ええ、その通りです。
ただ、「信じる動き」も、「抵抗するかしないかの選択」も、「感想」や「評価」さえも、
すべて自然発生的に起こっているのです。
原因と結果という“物語”さえも、思考の中でイメージ的に展開されているだけ。
誰かがやっているわけではありません。
あらゆる想念が、ただ起きては消えていく──それだけです。
>それで恩寵についてですが、これは特別なものです。
準備の整った人に、必要な時、必要な場面で、贈り物として与えてもらえるもの。
全てを見通す至高の存在への畏怖や信仰、または愛を呼び起こすための特別な贈り物。
これが適切な時に贈られます。
→その通りですね。
たとえば「真理探求ちゃんねる」(もしあるとしたら笑)で言うなら、
霊性に関わる出来事だけを恩寵と呼ぶでしょう。
そのほうが説明しやすいからです。
けれど、ここは「潜在意識ちゃんねる」
(ここでのスレ立てが起きた)
ですから、私は“すべて”を恩寵として表現しています。なぜなら、どんな願望が叶おうと叶うまいと、すべてが結局、真理への理解や考察へと繋がっていくからです。そして、その過程で成熟した魂のデータは、たとえ世界が変わっても失われません。
その(やさしい?)システム自体が、すでに恩寵なんです。笑
>定義は人それぞれなので、恩寵を意味で分けて考えるのもありだし、あなたのように全部ひっくるめてもいいと思います。
→ええ、あなたの言うとおりです。
恩寵を“すべて”として見ることもできるし、
一部として分けて扱うこともできます。
ただ、一つだけ確かなのは──
私たちは「行為者」ではない、ということです。
>叡智は外側の出来事として現れることもあります。
→はい。やがて、内側の叡智が「内」と「外」という境界を静かに溶かしていきます。
すると、すべてが叡智であり、すべてがそれであるとしか言えなくなる。そして最後には、「叡智─無知」という対さえも溶けて、
ただこう言うしかなくなるのです。
「これは、これである。」
それで十分なんです。
やがて、沈黙します。
197
:
り
:2025/10/25(土) 19:29:10 ID:5ehM04HI0
>>191
>あなたはシフトが起こったあと、静まりきった純粋意識として心も世界も起こるがままに見ている。
私はここから先は体験してなくて聞いた話でしかないのですけど、あなたが見ている「心=世界」は養分の供給が絶たれているので、いずれ消えるはずです。認識が消えます。
あなたは「心=世界」が消えるところまで進んだでしょうか?その時どうなったでしょうか?
ここが最終の分岐点なんだそうです。
→これはあくまで私見ですが、
「純粋意識の発見」とは、いわゆる“小悟”“見性”“悟り体験”と呼ばれる段階だと思います。
そこから、純粋意識こそが真の主体であるという認識が深まり、安定していく。
これが「識別」「気づきの深化」「安定期」と呼ばれるプロセスです。
つまり、悟った者は、少しずつ“悟りそのもの”へと静かに移行していきます。
その気づき(純粋意識)が心=世界を浄化し、
「私はエゴである」という信念を少しずつ解体していくのです。
ここまでが、“努力”によって可能な領域です。
>それで、シフトとは何ですか?純粋意識さえ超えるというのはどういうことなのでしょう。
→そして、あるとき起こるのが「シフト」(表現はいろいろあります)。
これは、純粋意識さえも超えていく段階。
あなたの言う「真の恩寵」です。
「心=世界が消える」とは、
心=世界が“現実である”という思い込みが完全に消える、という意味です。
たとえるなら、夢を見ている最中であっても、
その奥には常に“熟睡”がある。
そして本当は、“熟睡しかない”。
つまり、「心=世界」は、
“あるように見えても、見えなくても”、
すでに消えている──という直接的な理解です。
その後、表面的には「悟後の修行」「浄化」「統合」などが起こるかもしれませんが、
それらはもはや“走馬灯”のようなものです。
>そして殆どの場合、心が復活するそうです。
これが劣ってるとか失敗とかではなく、ただそうなるだけ。
あなたは心が再活動し、もう一度世界が出現したのでしょうか?
→いわゆる「心が止まった」「再活動した」といった出来事も、
真理そのものから見れば動いていません。
「不動」も「動き」も「再活動」も、すべて“起きていない”のです。
そして、それを気にする「誰か」が起きても起きなくても、初めから何も起きていません。
だから奇妙な話ですが、
「シフト」を経た者が“修行者のフリをしてグルのもとで修行する”というリーラ(神の戯れ)が起きたとしても、笑
その者はすでに“無為”のまま、“全自動”の“役者”なのです。
>そもそも、ここで話してはいけない領域だと思います。
→だからこそ、メタファーで話しています。笑
>分岐であちらに行ったら、つまり合一する方へ行ったなら(便宜上こう表現します)どうなるか?
合一は至福そのもとなるなんて表現されてますけど…、至福そのものは物足りない。
だからリーラ(二元)(世界創造)があり楽しむ。
神は自らの内に創造と破壊を繰り返す、とかいうやつです。
→真理そのものは、世界も時間も空間も超えています。
リーラの影響を受けることはありません。
そして「至福」とは、
“世界・個人″から見た“真理そのもの”を表現するための方便的な言葉です。
それ自身は、概念を超え、
“超えている”ということさえも知りません。
>知識をもとに現象面を想像してみると、対象として見えている個性は身体と共に消失するのかな?
→個性や身体を「私である」と感じる感覚が、完全に消え去ります。
また、その感覚が消えたかどうかを気にする者が起きても起きなくても、
真理そのものは真理そのもので在るだけです。
>いわゆる聖者は、信心深い人間に望まれて、合一(不二一元)から地上(二元)へと身と心をまとい出現する個性なんだと思います。
→彼らは夢の中で、夢の住人を目覚めさせるために現れる──夢自身の神聖な“目覚めの側面”の表現です。その個性は、真我からの呼びかけとも言えます。
>それとは別で、至福そのものでありながら、リーラを見るだけではなく舞台で演じる役者もやってみたい。
そこで生まれるのが私達人間。
はじめの頃は、こんなこともあるのかな?と楽しく想像してたのを思い出しました。
私のルートでの個人的な話です。あなたとは違うなら、そんなお話もあるかと面白がってください。
→はい、そうかもしれません。
しかし同時に、それらも、ただ起こっているだけです。
言語化した瞬間、真理の言葉はどうしてもパラドックス(または、二律背反)になります。
けれど、それでいいのです。
言葉は、沈黙の縁に立っている証拠ですから。
198
:
り
:2025/10/25(土) 19:33:20 ID:5ehM04HI0
>>192
>「私が存在してる感覚」「私は在る」ですが、自分の場合、「意識がある」「単なる意識がある」という感覚のようなものはありますが、「私」というような感覚はないです。「私」という言葉に含めている意味が違うのかもしれません。
→はい、それはまさに「ただ在る」です。
ただし、「私は在る」という表現にはとても大切な意味があります。
なぜなら、エゴ(偽主体)は常に「私は〇〇である」「〇〇でない」と、何かしらの対象に同一化しているからです。
だからこそ、「ただ在る」を″私″として認めることで、その同一化を少しずつ溶かしていくことができる。
これが「識別の道」「あれでもない、これでもない」と見極めていく道です。
>私とか自分とかはいなくて、意識が存在している、単なる意識が存在しているという表現がしっくりくる感じがします。
→それでしっくりくるなら、それでまったく問題ありません。
やがて、「それ(意識)を知っているもの」
つまり意識や気づきを認識している“認識者”さえも、静かに溶けていきます。
これが、いわゆる「ただ在る」を悟った者が、
その「ただ在る」そのものによって溶かされていくプロセスです。
最終的には、「ただ在る」さえも、
ただ、在ることをやめ──言葉も、知る者も、すべてが静かに沈黙へと還ります。
199
:
り
:2025/10/25(土) 19:37:21 ID:5ehM04HI0
>>193
はい。
おっしゃること、よくわかります。
だからこそ、こう感じています。
「霊性探求の本当の導き手は、結局それぞれの内側にいる」と。
外側に“完璧な教師だけ”が現れてしまうと、
その流れ(自立的な成熟や洞察の深化)は、かえって止まってしまうように思うんです。
そして、あなたの言う「上から目線で浅いことを言う人たち」の存在が示しているのも、
まさにそのことです。
──「こちらに近づく必要はない。あなた自身の内側を信頼しなさい」。
それは、一種の警鐘でもあるのでしょう。
どれほど完璧に見える聖人や覚者であっても、
その肉体はやがて尽き、形としての存在は消えていきます。
たとえ彼ら・彼女らの叡智が残り続けたとしても、それを真に生きるのは、結局“自分の内側”でしかありません。
だから、外側の光は最終的に内側へと還っていくのです。
しかし、その“内側”にも、もう一つの関門があります。
“内側の声”が、果たして「真の導き」なのか、
それとも「エゴの声」なのか。
この識別こそ、たぶん最も繊細で難しい部分です。だから、人はときに自分の中にさえ疑いを抱き、孤独や孤立を感じてしまう。
そして再び、外側に“救い”を探しにいく。
その繰り返しの中で、
ある時ふと、外側の現象や出来事を通して
「真の声」と「エゴの声」を見抜くきっかけが与えられる。
その瞬間、外側の教師の役割は自然に終わっていきます。
探求者が内なる導きへと「完全に引き渡された」とき、
彼ら・彼女らはそれを静かに祝福するでしょう。
「寂しいから、まだここにいてくれ」そうは決して思わないし、言わないのです。
そこからは、ただ、
それぞれが自分の内側の流れに委ねていくだけです。
教える誰かがいるわけでもなく、
導かれる誰かがいるわけでもない。
ただ──そのようにして道が続いていくだけです。
200
:
幸せな名無しさん
:2025/10/26(日) 05:46:18 ID:GJqY4pMQ0
>>198
>→はい、それはまさに「ただ在る」です。
>ただし、「私は在る」という表現にはとても大切な意味があります。
>なぜなら、エゴ(偽主体)は常に「私は〇〇である」「〇〇でない」と、何かしらの対象に同一化しているからです。
そのことには気づきませんでした。
>だからこそ、「ただ在る」を″私″として認めることで、その同一化を少しずつ溶かしていくことができる。
>これが「識別の道」「あれでもない、これでもない」と見極めていく道です。
コメントを読みながら、涙がじんわりと浮かんできてしまいました。
なんと御礼を申し上げたらよいのか。感謝します!
201
:
幸せな名無しさん
:2025/10/26(日) 08:47:09 ID:uoZp.pRs0
>>197
真の恩寵。
二元を超えても終わらないかもしれない。
そこに登場する恩寵の親分。
「あー、来てくださったんですね、ありがとう」
心と体があったら、感涙の涙と共にそう言いたくなることでしょう。
ありがとうございました。
202
:
幸せな名無しさん
:2025/10/26(日) 16:37:52 ID:/7w4t7L60
>>199
もうネタもなくなってきました。「り」さんの方にも何か得るものがあったなら幸いです
「り」さんのような方は何人も見た、と書きましたがレベル高すぎて認識を改めてます
これからもスレは続くでしょうが応援しています
203
:
り
:2025/10/26(日) 19:19:59 ID:e518aJh20
>>200
はい。「存在が存在を思い出す瞬間」に、
“誰でもない者”の涙や笑いが自然に生まれることがあります。それはまるで“在る”が、自らの在りを感じているようなもの。いわば、長いあいだ続いていた同一化(催眠)の解除です。
この解除は非常に深く、繰り返し起こる必要があります。一度で終わるものではなく、
何度も何度も自分の源へ還っていく。それが「深める」ということです。ありがとうございました。
>>201
感涙の涙。まさに。
あなたが″待っている感覚″があるなら段階的に進んでいきます。淡々と純粋意識にとどまり続けてください。最後の「それ」は突然です。
ありがとうございました。
>>202
はい、ネタがなくなる、それは自然なことです。問いが尽きるとき、質問は静かに沈黙へ吸収されていきます。お気遣いありがとうございます。こちらも十分に楽しませてもらいました。
今の流れが、少し潜在意識系の方向から離れてきているので、もしかしたら、いずれ別の場所に移るかもしれません。けれど、それもまた自然な動きですね。
すべての対話は、やがてそれぞれの沈黙へ還っていきます
204
:
幸せな名無しさん
:2025/10/27(月) 08:01:52 ID:l1r7CKms0
>>196
183です。丁寧な配慮あふれるご回答、重ねてありがとうございます。
現実的に対処できることはしつつ、常に自分の観察者であり続けることを無理のない範囲で心がける、といった感じでしょうか。
私は今はただ、タマネギの皮を一枚一枚剥がされるように、自分の持っていたものを次々に剥がされて、「何もない自分」になっていくことに恐怖しています。
そして、それを引き起こした様々な理不尽な出来事に「なぜこんな目に遭わないといけないのか、私が何か悪いことをしたのか」という気持ちで、いっぱいです。
理不尽といえば、最後に一つだけ、お伺いさせていただけないでしょうか。
ずっと前から疑問に思っていて、でも私の知る限り、未だに答えを見つけられない疑問です。
それは、例えば乳児や幼児が病気や犯罪などで夭折してしまう現実について、これも潜在意識で説明できるのか、そして「恩寵」はどう働いているのかということです。
スレの趣旨とは少しズレるのを承知で、すみません。でも、悟りの境地に達したりさんならどうお答えになるのかと思いまして、もしよかったらお考えをお聞かせいただけたら嬉しいです。
205
:
幸せな名無しさん
:2025/10/27(月) 12:36:55 ID:LCIvjHm20
素人質問で申し訳無いのですが、
で?っていう感じが拭えない
今溺れている者に必要なものは悟りでも説法でもない。空気だ。
それすらもただ起こっていることであり完璧だと信じることもできようが、その空気を欲している感覚から逃れることはできるのか?
二元論の世界に生きている人が、たといこの世はゲームでただの錯覚だとしても、生きている間は二元論に縛られる訳だから空気がなくてもへっちゃらとはならんでしょう。
その意味では悟りや幸福すらない。
206
:
り
:2025/10/27(月) 13:25:38 ID:SxFZ8y8w0
>>204
どういたしまして。
私が丁寧?に、そして時に同じことを繰り返し伝えるのは、決して「丁寧な性格だから」ではありません。笑
それは、相手のプロセスが自然に促進していくための、避けては通れない必然です。
言葉は、即効性のある薬ではなく、ゆっくり沁み込む漢方のようなもの。
(あるいは、消化が必要なものでもあります)
そして、こうしたやり取りは
第三者が読んでもときに混乱や勘違いを起こすかもしれません。けれど、それもまたプロセスの一部。真理はいつだって、“誤解を通して”明らかになっていくものです。
実は同じフレーズが何度も現れるのは偶然ではありません。エゴは「はいはい、もうわかった」と言いたがり、真理を″理解して生き延びよう″とします。しかし、何度も往復する問答の中で、その勢いが鎮まり、思考の速さが静かに溶けていく。だから、私は繰り返します。
質問が尽きるまで、どうぞお気軽に。笑
さて、本題。
はい。そんな感じです。
現実的な対処が起こるなら、起こしてください。観察が起こるなら、起こしてください。
どちらも、あなたの中で自然に起きることです。思考も、感情も、行動も、そして心の浄化も。
≫タマネギの皮を一枚一枚剥がされるように、自分の持っていたものを次々に剥がされて、「何もない自分」になっていくことに恐怖しています。
→それは、とても自然なことです。
精神的なアイデンティティにしても、現実的な喪失にしても、「なにでもない存在」
ただ在る、という状態は、個人の観点から見れば“死”にも似た恐怖を呼び起こします。
けれど、その恐怖の先には、永続的な静けさと平安があります。恐怖は夜のように深くても、やがて必ず明けていくのです。
≫それを引き起こした理不尽な出来事に「なぜ自分が」と感じてしまう。
→その思いもまた、人間として当然です。
理不尽の前では、どんな哲学も答えを失います。思考で意味を求めても堂々巡りになる。
けれど、平和そのものである“あなた”が「なぜ?」と思考を出し、感情を感じ、そこに「理不尽」という名を与えている──その事実自体が、もう“在る”の働きなんです。
≫例えば乳児や幼児が病気や犯罪などで夭折してしまう現実について、これも潜在意識で説明できるのか、そして「恩寵」はどう働いているのか。
→これは非常に繊細なテーマですね。
だから、個人としてではなく「真理の視点」から、静かに触れてみます。
まず、この世界では、″最適″の中に、″まったく最適に見えないこと”が起こります。
理不尽は理不尽として起こり、それを″最適だ″と思う必要もありません。
ただ、その出来事を通して周囲の心に″内省″や″祈り″が芽生える。
それが、この現象世界における恩寵のひとつの働きです。
夭折した魂たちは、「恐れ」や「分離」を知らない領域にいます。
いわば″仏″や″天国″そのものへと還る。
悪夢の中で多くの人を見ても、朝、目覚めたときにはすべてが消えているように──彼らは、すでに恐れの届かない平和の中にいます。
彼らが言うとすれば、きっとこうでしょう。
「恐れってなに?」
「大丈夫、何も起きてないよ」と。
そして、彼らを哀れみ祈る私たちに対して、
まるで天使のように微笑みながら、静かに同情するかもしれません。
私たちは、世界の理不尽を味わい尽くす存在です。それが幻だとしても、痛みや苦しみを″疑う″という発想すら、この世界では滅多に起こりません。
だからこそ、私たちは祈ります。考えます。嘆きます。そして、最後には静かに頭を垂れる。
そのとき、原因と結果を超えた″誰でもない祈り″が自然に湧き起こるかもしれない。
それは「苦しみから救われたい」と願う祈りではなく、ただ、″在る″そのものから生まれる祈り。また、それが慈悲の成熟であり、
″奇跡の種″でもあります。
もし今、あなたの中に世界の理不尽に対して祈りたいという想いがあるなら、
それはすでに恩寵の働きそのものです。
そしてあるとき、ふと気づけば、長い夜の果てに朝日の光が静かに差しているのです。
207
:
り
:2025/10/27(月) 14:38:42 ID:SxFZ8y8w0
>>205
どうぞどうぞ、全然ウェルカムですよ。
「 」には、素人も玄人もありません。笑
>今溺れている者に必要なものは悟りでも説法でもない。空気だ。
→まさに、その通りです。
だからこそ、昔からこう言われます。
「真理を求めるなら、水中で空気を求めるような切実さで求めよ」と。
真理探求は、誰にでも自然に起こることではありません。
しかし、もしそれが起きてしまったのなら──
それは、空気のように避けられない衝動です。
たとえば、前から車が猛スピードで突っ込んできているのに、
「それも完璧にただ起きていることです」と言っていたら、おかしいですよね。
そんなときは当然「危ない!避けろ!」と叫ぶべきです。
つまり、″完璧″や″悟り″という言葉を盾にして、現実から逃げ続けたり、感じることを止めてしまうのは、本当の意味での悟りではありません。(それが起きたなら起きてしまうけど)
悟りとは、空気の中で息をしている自分そのものに気づくことなんです。
私たちは二元の世界に生きている限り、
「願う」「満たす」「手放す」「苦しむ」──
その揺れの中でしか、生きることはできません。
だから私は、欲や願望もまた大切な道だと思っています。それを歩む人がいるからこそ、真理探求者もまた、自分の中に起きた″覚悟″を静かに認めていけるのだと思う。
なので、「で?」でいいのです。
すべてのことに「で?」という問いを深めていくと、
あるとき、反転が起きるかもしれません。
──「問いかけているのは誰なのか? 私なのか? 思考なのか?」
そして、ある者は思考に苦しみ、そこから解放されたいと願う。
けれど、探しているその″思考″こそが、
答えを覆い隠している。
だから、悟りや幸福は、思考の″外側″で静かに息づいているのです。
考えて見つけようとする限り、それは遠のくように見える。
けれど、ふと考えが止まったその隙間で、
すでに、それは在る。
悟りが救いとなる人もいれば、
まったく価値のないものとして通り過ぎる人もいる。
どちらであっても、″それ″はただ在る。
208
:
幸せな名無しさん
:2025/10/27(月) 14:47:00 ID:oCyhwiW.0
>>180
>>174
です。またまたありがとうございます。
以前、悟り系のブログ主にとある質問をした際、「意図的にやっていると思うものすら全て人智を超えた采配で恩恵」と言われてよくわからなかったのですが、今ようやく掴めた気がします。
(「ハンドルも車も手も同じ“流れ”の中」と同じですよね)
ちなみに
>>183
さんの質問とそれに対する回答は、私にとっても必要なものでした。183さんに感謝です。
特に、
>>187
に書いてある『「比較する心」に気づいていること』の一文。
一元論ではなくエゴ目線で世界に自分一人しかいなかったら、今ほど焦らないしもっと流れに任せていた気がします。
スピードの異なる(ように見える)周りを横目に、追いつかなければと焦り、停滞に罪悪感を抱き、願望実現だ悟りだと言いながら、結果的に流れに抵抗していた気がします(^^;
「ただ起きている」「恩寵の采配」と知り、内側が軽く、静かになっていってます。
私はどうやら元々こういう話が好きなようで、ここからは完全にただの興味ですが…
この掲示板内にもスレがある「元祖一式」をご存知でしょうか?
特定の願望実現を目指すのではなく、どのような願いを抱くかも含めて全てを潜在意識に委ねるものです。
それはまさにこれまでお聞きした恩寵のことだと思ったのですが、「り」さんの見解をお聞きしてみたいです。
209
:
り
:2025/10/27(月) 16:14:57 ID:SxFZ8y8w0
>>208
こちらこそ^^
>以前、悟り系のブログ主にとある質問をした際、「意図的にやっていると思うものすら全て人智を超えた采配で恩恵」と言われてよくわからなかったのですが、今ようやく掴めた気がします。(「ハンドルも車も手も同じ“流れ”の中」と同じですよね)
→お、それは良かった。はい、同じことを指しています。
>一元論ではなくエゴ目線で世界に自分一人しかいなかったら、今ほど焦らないしもっと流れに任せていた気がします。
→なるほど。その感覚は当たらずとも遠からずです。その方向には、どこか「気楽さ」や「安心感」が宿りますね。
>スピードの異なる(ように見える)周りを横目に、追いつかなければと焦り、停滞に罪悪感を抱き、願望実現だ悟りだと言いながら、結果的に流れに抵抗していた気がします(^^;
→はい。まさに、そう気づけた時点で「抵抗・疑い・罪悪感」が少しずつ溶けていくプロセスに入っています。この進行はゆっくり起こる方が安全で、整理・消化がしやすい。
急激に変わると混乱が起きやすいので、それぞれにとって最適な速度で進むのです。
>「ただ起きている」「恩寵の采配」と知り、内側が軽く、静かになっていってます。
→ええ、自然なことです。
その″軽さ″こそ、スピ系や悟りの文脈で言われる「光」の直接理解に繋がっていきます。
>この掲示板内にもスレがある「元祖一式」をご存知でしょうか?
特定の願望実現を目指すのではなく、どのような願いを抱くかも含めて全てを潜在意識に委ねるものです。
それはまさにこれまでお聞きした恩寵のことだと思ったのですが、「り」さんの見解をお聞きしてみたいです。
→はい、見たことはあります。
正確にすべてを把握しているわけではありませんが、私の理解する限りでは、それは「明け渡し」の道そのものです。
表現として「潜在意識にお任せ」と言っているだけで、本質的には″個人を超えた大いなる流れに委ねる″という点で同じです。
この道は、人によって好みや体質が分かれます。
探求者の中には、大きく分けると「直接知識型」と「明け渡し型」がいて、どちらも最終的には同じ一点に収束します。
「直接知識型」は、識別力と忍耐を必要とするタイプ。
疑いを洞察に変え、比較的速く進みますが、孤独にも耐え得る心が要ります。
「明け渡し型」は、潜在意識や大いなるものを自然に信頼できるタイプ。
信じることそのものが呼吸のように楽で、ゆっくりと軽くなっていきます。
愛や感情の動きを通して理解が深まり、最終的に″全体性との合一″へと静かに還っていきます。
どちらが優れているということはありません。
二つの道は表裏のようなもので、どちらにも″恩寵″の手が常に働いています。
そして多くの場合、この二つの道は交互に現れます。
ある時期は「知ろう」とする力が強まり、またある時期は「委ねよう」とする力が自然に働く。その行き来のすべてが、一つの道の中に含まれています。
あなたが今たどっている流れも、まさにそのひとつです。
私の見解では、元祖一さんは「明け渡し」を″ゆっくり″ではなく″徹底的″にやり抜いた方なのだと思います。──あるいは、そうすることが自然に″起きた″のでしょう。
どんなアプローチであれ、徹底して生き切ることがプロセスを促進させます。
まるで、水中から陸に引き上げられた魚が、水を求めずにはいられないように。
210
:
幸せな名無しさん
:2025/10/29(水) 12:34:57 ID:.h07sqZg0
>>206
横ですがこの回答に救われました。ありがとうございます。
211
:
幸せな名無しさん
:2025/10/29(水) 21:38:00 ID:bJ2hvO.s0
りさん
潜在意識ちゃんねる界隈で言われている認識の変更と悟りは、どのような関係にあるのでしょうか。違うとすれば、共通する点と異なる点があると思うのですが、りさんの経験からはどのような認識をされていらっしゃいますか。
212
:
幸せな名無しさん
:2025/10/30(木) 03:30:05 ID:GZu0u3rQ0
あれーこれ世界自分やーんって感覚がちょっと解りました
内側も外側もないやんけこれ!っていうかね 一瞬私と外界とわけてたものが全部同じってことが解った つまり別れてない
スプラトゥーンみたいに絵具がバシャバシャ出るのが自分だとするとその絵具は飛び散って世界というキャンパスを描く
内側も外側もないから絵具もキャンパスも自分 外側が空っぽなら内側も空っぽ でも自分のエゴは変わらずある
人によっては映写機とスクリーンという表現を使うけど「は?何それ」と思ってたのは 映写機とスクリーンの間の距離を感じてたから!
でも距離ないやんこれ ゼロ距離で丸ごと世界=自分 映写機とスクリーン丸ごと自分!
感覚の文章ですいません 新しい感覚でりさんのレスを再び一から読もうと思います。
213
:
幸せな名無しさん
:2025/10/30(木) 04:45:29 ID:GZu0u3rQ0
ノリでもう一個書きます。今お風呂に入ってきました お風呂でする一連の動作全てどっかこの身体は全部自動で動いてて自我で動かしてなくね?という奇妙な感覚がありました
さっきの一瞬の世界=自分イノベーションのせいなんでしょうか りさんに質問ですりさんもこいう感覚になりましたか?
やっぱ身体勝手に動いてて自由意志ないのこれと不思議な感覚になってます
214
:
り
:2025/10/30(木) 13:52:21 ID:9iS0xcZU0
>>210
それは良かったです。レスありがとうございます。
215
:
り
:2025/10/30(木) 14:03:01 ID:9iS0xcZU0
>>211
そうですね。
潜在意識の世界でも、悟りの世界でも、しばしば語られる言葉があります。
それが「すでにある」。
けれど、この一言は、似ているようでまったく別の次元の話をしています。
① 潜在意識における「すでにある」
これは心理的・エネルギー的な文脈です。
「望む現実は、すでに存在している。あとは自分の波動や意識をそれに合わせればいい」。
つまり、“現実を変える前提としての在る”。
不足を解消し、幸福を”得る”ための実践です。
② 悟りにおける「すでにある」
一方、こちらは存在・意識そのものの文脈です。
「変える主体も、変える対象も、もともと同じ一つの意識の現れである」。
そこでは、“変える”という行為そのものが夢です。すでに完全で、何も欠けていない。
つまり、“何も変える必要がない在る”。
どちらも言っているのは、
「不足とは思考(マインド)の産物である」という一点。
ただ、片方は”不足を癒やして満たそうとする道”であり、もう片方は”不足という構造そのものを見抜く道”。
ここから多くの人が抱く疑問が生まれます。
「認識が変われば、願望は入れ食いで叶うのか?」と。
確かに、そうした現象が一時的に起こることはあります。
意識の焦点が変わると、滞っていた流れが一気に整い、“叶った”ように感じることがある。
けれど、それが恒常的に続かない理由こそ、
潜在意識の根源的な仕組みにあります。
潜在意識は「願いを叶える装置」というよりも、体験を通して存在を維持する仕組みです。
意識そのものの根底には「在り続けたい」という衝動があり、潜在意識はそのために、物語を構築します。
もしすべての願いが即刻で叶ってしまえば、
まるで映画が2秒で終わるようなもの。
潜在意識にとって、それは幸福ではなく、
むしろ存在の終焉──宇宙の静止のような状態です。
だから潜在意識は、物語を引き延ばし、体験を長く味わえるように設計しています。
「やっと叶った!」という歓喜こそ、長い物語の中でしか味わえないからです。
一方、顕在意識(表の心)はこう感じます。
「早く叶ってほしい」「この苦しみを終わらせたい」──即刻の結果こそ幸福だと信じているからです。
潜在意識は”永続的に味わいたい”。
顕在意識は”すぐに終わらせたい”。
このテンポのズレが、私たちが「苦しい」「進まない」と感じる正体です。
顕在意識がアクセルを踏み、潜在意識がスピードを調整する。
両者の目的は同じ「幸福の維持」ですが、進め方が違う。潜在意識は、あなたが現実の変化に心身で耐えられるよう、
変化のスピードを安全に調整しているのです。
それはブレーキではなく、安全装置。
急激な変化は内的な混乱を招くため、潜在意識はあえて”間(ま)“をつくる。
「遅い」のではなく、「整えている」。
潜在意識は、あなたを止めているのではなく、あなたを保っているのです。
悟りの文脈で言えば、この”調整”こそが宇宙の呼吸であり、存在が自己を保つリズムです。
悟りとは、顕在意識や潜在意識の働きを
「なるほど、これが“在る”が自分を維持している仕組みか」と見抜き、
その背後の静けさに気づくこと。
悟りは物語を止めることではありません。
スクリーン上に光と影があるからこそ、“見ること”が意味を持つ。
その両方を抱き取るのが、真の理解です。
だから、願望実現も悟りも、方向は違っても同じ一点「在る」に還ります。
願望実現を通して幸せを味わうのも、
悟りを通して存在そのものに戻るのも、
どちらも恩寵の遊びなのです。
その”遊び”の中には、思い通りにならない流れや理不尽も含まれます。
けれど、それらさえも物語を深めるための脚本。あとで必ず、「あのときの意味はこれだったのか」と分かる瞬間が来る。
願望実現と悟りは、立場が違うだけで同じ円の中にあります。
一方は「物語の中をより良く生きる道」。
もう一方は「物語そのものを見ている気づき」。
そしてその両方を抱き、動かしているのが、あなたという”意識そのもの”です。
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