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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

2767れん:2006/08/25(金) 11:04:07
彰往考来さん
2766
>これは場所により異なるのではありませんか…

それは前提として十分承知しております。ですから、前置きに“私が所属していた地区の会員宅”と書き置いたわけです。
顕師のに関しては、私の所属していた地域の会員が所持していた顕師の形木や特別形木も、私の知っているかぎりのものは、(所持者の希望によるものや、会の指導によるものでしょうが)寛師の形木に取り替えられてましたし、地域の会館の本尊も、顕師直筆から、やはり寛師の形木にかわりましたね。脱会者の私としては、むしろ寛師のに取り替えられた後の、回収されたであろうこれら顕師直筆を含む本尊を、創価学会がどう扱ったのかに興味がありますね。
また、達師の特別形木に関しては、皆様が言われているところの“疑惑”が取り沙汰されている所ですので、ここらへんの真相も知りたいと個人的に思っております。

2768きゃからばあ:2006/08/25(金) 11:21:43

>2757

独学徒さん

写真のリンク、ありがとうございます。
あまりにも鮮明に掲載されていると、ちょっとびっくりします。


れんさん、独歩さん、

すると「1月1日」の物は、特別御形木ではく、「1月7日」の物だけが特別御形木として扱われているのでしょうか?
そして「1月7日」の物の中に、『MADE IN 地下室』と『MADE IN 法道院』があると考えていいのでしょうか?

それと当時の週刊誌に、「地下室で作られた物かどうかは僧侶が見ればわかる」と、そんなような文章があったような気がします。
やはり 『MADE IN 地下室』と『MADE IN 法道院』には見ればわかるような違いがあったのでしょうか?
いくらなんでも表装をはがしてまで確認はしたくないですから…。
ちなみに実家では「その特別御形木を下付されたのは会館で御供養も出した」と言っていました。(やはり『MADE IN 地下室』なのかもしれない…。)

2769犀角独歩:2006/08/25(金) 16:53:03

彰往考来さん、話題に上がっている日寛の特別御形木というのは、なんでしょうか。これも、1枚のペラ紙に表装の布模様までプリントして、脇書を消した印刷に軸ばかりを付けたようなものでしょうか。なんで、これを特別というのでしょうか。どんな資格者に頒布されたものでしょうか。

石山も、学会も、顕正会も、写真製版したものを御形木というのは、いい加減やめたらいいと思いますね。形木というのは版木をいうわけでしょうから、「御写真製版本尊」、さらに学会のものは布模様もプリントですから、表装とも言えないただ印刷でしょう。
ついでに著名な文章を敢えて、付しておきますか。

「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有り… 日興の弟子分に於ては…一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり」

御筆ではなく、歴代のものならいいというわけでしょうか。
「奉書写之」の四文字まで形木ならぬ印刷とは、嘆かわしい限りです。


れんさん、創価学会が回収した本尊をどのように扱っているか、これはたいへん興味深いですよね。『富士の清流』かなんかでは、石山で専用の焼却炉があって燃やしていることを批判しているわけですから、創価学会は、どのように扱っているのか、ちゃんと明示すべきですよね。


きゃからばあさん、概ねそのとおりです。ただし、MADE IN の件は、いまとなっては、藪の中。僧侶が見れば、わかるというのは、石山教師ならば誰でもということではないでしょうね。こちらでご投稿の大縫さんや、そのお知り合いの表具師Oさんならばわかるだろうというのが個人的な思いです。

ところで「地下室」というのは、いったい、どこからの情報でしょうか。わたしがこの話をリアルタイムで受け取った頃は、製造場所を特定した話は、少なくとも訊きませんでした。

2770大縫 薫:2006/08/25(金) 22:01:22
 今晩は、独歩さんの仰る通り御写真製版本尊と名称を改めるべきです。
形木本尊は全体に文字が薄く版木自体を所有する寺院も火災等の災害を受け
今では古刹寺院の一部しかなく、刷り損ミスで20枚刷っても1枚ぐらいしか
まともに刷れているのが無いと聞いた事があります。
 日蓮宗の宗定本尊も写真製版そのもので、形木とは言っていません。
往古の形木本尊は真筆本尊に比べても、技術が未熟な為に文字の位置がだいぶ
ズレていて真筆本尊の写しとは程遠い物です。
 御写真製版本尊のほうが、書写された方の筆法や文字のかすれが忠実な為に、
その時分の心境の変化がわかると思います。

2771犀角独歩:2006/08/26(土) 07:27:57

わたしが記すと、どうも舌鋒に鋭利となりますが、以下、学会を含む石山圏信念体系で生きてこられた皆さん、わたしと同様の過程にある方、事実に真正面から目を向けて考えてみませんか。

当掲示板の議論で、日蓮本仏論は後世の解釈教義であること、石山の唯授一人相承はあり得ないこと、さらに彫刻本尊は後世の模造品であること、この3点が概ね確認されてきました。

いま話題は、形木か・印刷かという流れになっていますが、もう一歩踏み込みます。「奉書写之」の‘之’は所謂「本門戒壇の大御本尊」であると、日顕さんは述べていたわけで、大方、石山圏の考えはこうなっています。この点は学会でも顕正会でも同様でしょう。とするとき、我々が石山・会信徒として貸下され、本尊として拝んできた印刷漫荼羅は、後世の模造品を写したものであるわけです。その本体を模造品として、斥ける場合、どうして、その写しを本尊として拝むことが出来るのかという疑問にぶつかりませんか。

問答さんをはじめ、皆さん、信仰の根源に立ち入った問題提議となりますが、お考えをお聞かせいただければ幸甚です。

2772問答迷人:2006/08/26(土) 07:59:17

犀角独歩さん

日顕師の、『「奉書写之」の‘之’は所謂「本門戒壇の大御本尊」である』というのは、苦し紛れの言い訳であろうと思っています。戒壇本尊を書写したのなら、「二千二百二十余年」と写さなければ、誤書写です。ところが顕師は三十余年、と認めています。

書写は、相伝にしたがって行われてきた、と言うのが真相であると考えています。もっと判りやすく言えば、歴代の書写に倣って、或いは言い伝えに則って、行われているのだと考えています。

これは、何も日蓮正宗に限らず、日蓮宗各派も同様ではないのでしょうか。

詰まるところ、蓮師の曼荼羅に倣って、そして、伝承によって行われているのだと考えています。

大石寺の場合は、途中、戒壇本尊が作られてから、戒壇本尊を書写する、ということにされてきたけれども、実際には、戒壇本尊を写さずに、従来通り、模倣・伝承によって行われているのだ考えています。

つまり、否定されるべきは、『戒壇本尊』と、『戒壇本尊を書写するという説明』なのだと考えています。大石寺から貸下された曼荼羅を拝む事は、このような理由から、何ら問題なく、蓮師の教えに随ったものだと、僕は考えています。

2773犀角独歩:2006/08/26(土) 08:08:33

問答さん、早速のレス、有り難うございます。

たしかに「内証を写す」云々といった苦し紛れの言い訳はありますが、少なくとも書写した本人にそのような意図があった場合はどうでしょうか。
わたしからすれば、こんな苦し紛れの言い訳をするという邪心に基づいて書写された漫荼羅が、正直を基とする日蓮信仰の本尊となり得るとは考えがたいのですが、この点は如何でしょうか。

また、「日蓮宗各派も同様」という点は、まことにそのとおりであろうと拝察するわけですが、そうなると、漫荼羅を本尊とするとき、何も石山のものに限らず、他日蓮門下僧侶の書写ものであっても、なんら差し障りがないというお考えでしょうか。

2774問答迷人:2006/08/26(土) 08:22:18

顕師に聞いてみなければ判りませんが、少なくとも、顕師は戒壇本尊を写すという意図を持って書写してはいない、と僕は考えています。戒壇本尊が偽物で有る事は、顕師の言によって明らかになったことでもあり、三十余年、と認めたところにも、戒壇本尊を書写するのではない、という意図があったと考えています。

他門下僧侶の書写した曼荼羅も、顕師同様、蓮師曼荼羅の模倣、或いは伝承に基づくものであれば、何ら問題ないと考えています。

2775犀角独歩:2006/08/26(土) 09:56:31

他門下書写漫荼羅に関するご見解は、わたしも同意見です。
重ねて、お尋ねします。

日顕氏が彫刻本尊を写した意図はなかった点は、もとより、これが後世の模造品であると知っていたわけでしょうから、内心・本音ではそうであったでしょう。しかし、建前としては之を「本門戒壇の大御本尊」としていたのであって、この点は、日寛以来の、石山の、本尊書写の有様ではないでしょうか。

もし、彫刻本尊を写したのではないとすれば、では、この「書写」というとき、その原本はいったいなんでしょうか。石山門下にあって、これを彫刻本尊としなければ、日寛以来の教義は、齟齬を来します。

またたとえば、いま、話題になっている「特別御形木本尊」は、讃文、また、釈提桓因を帝釈とするという多少の出入りはあるものの、明らかに彫刻を模しています。既に先に指摘しましたが、「特別御形木」の愛染は、彫刻本尊を模していますし、また、独学徒さんが指摘されたとおり、「經」の、特に糸偏は、その形を模していることは、日達さんに限りません。(この点は追って、また、図形鑑別で示そうと考えています)

決して、言葉尻を取るわけではありませんが、問答さんの論法と、石山における既成事実を併せ考えますと、彫刻本尊を写したのではない日顕氏本尊は門下の書写慣習を妥当に引き継いだものであるけれど、日寛以来日達氏に至る書写本尊は彫刻本尊を写したものであるとなりませんか。

2776問答迷人:2006/08/26(土) 10:22:10

>この「書写」というとき、その原本はいったいなんでしょうか。

実は、これは、法華経に説かれるところの、五種の修行の書写ではないでしょうか。その意味では、蓮師が曼荼羅を認めるのも、書写なんだと。
そうすると、原本は、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という事になりますね。

>日寛以来日達氏に至る書写本尊は彫刻本尊を写したものであるとなりませんか。

戒壇本尊が偽物、との認識が無かった訳ですから、書写は戒壇本尊を模倣した形になったのだと思います。ですから、それは、戒壇本尊の写しという事になりますね。

2777犀角独歩:2006/08/26(土) 10:55:37

いま、ここで、わたしが示す疑義は、既に柳澤師が『石山本尊の研究』で述べています。

日顕氏が本音は、ともかく、以下のように発言し、それを「日蓮正宗創価学会」として両宗教法人が認める出版物に掲載された以上、これは石山・学会とも、公式見解と見なせることになります。

「抑も当山より授与するところの御本尊は、末法の一切衆生に御総与遊ばされたる此の大御本尊の御内証を、代々法主唯授一人の相承を以て、之を写し奉りて授与せしむる」(御戒壇説法 写真集日蓮正宗創価学会32頁)

と、同書P116に紹介されています。
つまり、石山本尊は彫刻本尊を書写したという‘建前’を、実際の相貌との差異を「内証」と言いくるめて、信者を欺したものであるわけです。

石山歴代は、自ら本尊を書いているわけですから、それが彫刻本尊と相違していることは知ったうえでしょう。これが正直な本尊書写でしょうか。正直な信心をいう宗派において、不正直、換言すれば、嘘偽りを知ったうえで書き、印刷し、大量頒布され本尊とされたものに信仰的な価値があるのだろうか、というのが、わたしの問いかけです。

かつて敬台院は日精に腹を立てて、その本尊を拝むことを拒否したという逸話が残っています。いま、学会は、日顕氏の不相承を盾に、この本尊を拒否しています。このような感情論を信仰世界に持ち込んでよいかどうかは一考の余地がありますが、しかし、実際は彫刻本尊を写したものでもないものを「書写」と謀って信者会員に貸与された本尊の、信仰的価値はどうなのか、わたしは「ない」と思いました。
ただ、わたしの恩人の祖父、楠山日かん師は、問答を設けて

【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。

【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001.html

とも言い、一致派らしい、寛容を示されていました。
しかし、彫刻本尊以外は、たとえ御筆漫荼羅でもダメであるといってきた石山・学会においては、この論法は立たないでしょう。

なお、書写については、日寛も本尊抄文段に五種法師の「書写」を証とします。法師品に書写行とは法華経典を一字一字誤りなく正確に写すことを言うわけですね。経典に釈提桓因とあれば釈提桓因、それを勝手に内証を写すなどといって帝釈と書き換えてしまったり、二千二百二十を二千二百三十と書き換えてしまえば、これは誤写、改竄の責めは免れません。斯かる姿勢で書かれた漫荼羅は、正直な信心の、本尊とたり得るのかという疑義です。

たぶん、ここで、議論に参加され、日蓮本仏論が後世、中古天台本覚論・恵心流口伝法門の焼き直しで捏造されていったものであると知り、真蹟遺文に久遠元初、自受用報身という教義がないことに気付いた人々が、まず、捨てざるを得なかったのは、石山勤行の観念文だったのではないでしょうか。なぜ、捨てざるを得なかったのか、それが日蓮その人の教義ではないと気付いたからです。

同じことは本尊にも言えないでしょうか。彫刻本尊を書写したという本拝んできたわけですが、原本が後世の模造品であるとき、いったい、それをその書写(彼の言い分では内証?)したものが本尊たり得るかどうか、わたしは、このハードルを越えざるを得ないと思えます。

2778れん:2006/08/26(土) 11:23:38
顕師云々で思い出しましたが、かつて地域の会館にあった顕師直筆は「南無大迦葉尊者」「釈提桓因大玉」とあり、蓮祖直筆では、この勧請は弘安三年三月以降の御筆漫荼羅に見える特徴ですから、この顕師直筆は端的にいえば所謂彫刻本尊を書写したものではないということだと理解しました。上記の顕師直筆の相貌から、彫刻本尊の“内証”を写したというのはかなり厳しい言い訳に聞こえますね。

2779とおりすがり:2006/08/26(土) 11:29:17
参考までに石山における書写の原本は日興曼荼羅であるとかつて法道院法華講の人が言ってました
これなら写しの写しってことでとりあえずいいのがれOKかな
真偽は知りませんけどね

2780問答迷人:2006/08/26(土) 11:33:06

犀角独歩さん

>不正直、換言すれば、嘘偽りを知ったうえで書き、印刷し、大量頒布され本尊とされたものに信仰的な価値があるのだろうか

仰る意味、良く判ります。厳しく考えれば、その通りであると思います。そしてしかも、このハードルを越える事は不可能であろうと考えています。

実は、このような側面が有りますので、僕も何とかせねば、と考えてきました。明日、友人と身延山久遠寺参詣を計画しています。恐らく、日蓮宗の門を叩く事になるだろうと思っています。

2781れん:2006/08/26(土) 11:51:05
とおりすがりさん
初期石山(〜有師)の歴代貫主書写の漫荼羅は、目師のを除いて、日興師“書写”の漫荼羅であることは確認しております。
興師その人の十界広式のは公開されている写真によるかぎり宗祖・弘安元年八月のもの、それに提婆達多を加えたもの、弘安二年二月目師授与・弘安三年三月以降の宗祖漫荼羅を原本にしたものであることが伺えます。興師の場合、弘安年間の宗祖御筆を採用しているものの、時期により原本を変えている模様で、特定の原本を想定できないということだと思います。

2782とおりすがり:2006/08/26(土) 12:11:51
>>2781れんさん
なるほどありがとうごいます
その人が言ってたのは、信徒に下付のものは現在でも日興曼荼羅が原本ということでした
その話を聞いて、ここでも信徒差別かと当時思った次第
まあでも板曼荼羅の不正直と書写原本の件はちょっと別かと思ったので口を挟みました
ではまたロムに戻ります

2783犀角独歩:2006/08/26(土) 14:34:57

問答さん、そうですか、明日、身延へ登山でいらっしゃいますか。
もし、お時間があれば、お会いしたかったです。
残念ながら、石山漫荼羅本尊は、超えるべきハードルという点で、同一、方向である点が確認できました。

れんさん、ありがとうございます。やはり、弘安3年と言うところが面白いですね。結局、熱原と関連づける創作物語は弘安2年であるけれど、原本とするのは弘安3年というのは、興味深いですね。ご指摘の「南無大迦葉尊者」「釈提桓因大玉」は、日禅授与漫荼羅でもそうであることも指摘できますね。

2784問答迷人:2006/08/26(土) 16:17:30

犀角独歩さん

>もし、お時間があれば、お会いしたかったです。
すみません。日帰りの強行スケジュールです。今回は、時間の余裕がまるで有りません。

>石山漫荼羅本尊は、超えるべきハードル

そうですね、やはり、受持する曼荼羅に、曇りが有るのは、好ましい事では有りません。

たとえば、石山信徒が僕の仏壇を見たら、「あっ、なんだ、問答は石山信徒なんだ」と受け取るでしょう。そして、僕が戒壇本尊の写しを拝んでいると思うでしょうね。

出来たら普遍性のある形で、蓮師の教えに則った信仰をするのが望ましいと思います。

明日は初めて身延登山なので、くまなく拝観して来ます。その結果、次は、恐らく地元の日蓮宗寺院に参詣する事になるのだろうと思います。

2785一真法界:2006/08/26(土) 18:28:55
初めまして。皆さんよろしくお願い致します。
本当に素朴な疑問なのですが、ここに書き込みされておられる方々は、
どのような、ご本尊を拝んでおられるのでしょうか?
私は学会員なので、日寛筆の例のご本尊です。

2786れん:2006/08/26(土) 18:35:03
とおりすがりさん
2782
>信徒に下付のものは現在でも日興曼荼羅が原本…
なるほど、ここに、彫刻本尊の内証書写云々が、石山でも後世になっての新義であることがわかりますね。日興上人御本尊集で改めて確認しましたが、正応三年の目師授与のものは宗祖・弘安元年八月の漫荼羅が原本。正応四年と五年のものは目師授与の漫荼羅が原本。永仁四年の僧日乗授与は宗祖・弘安三年三月以降の十界広式を原本としており、正安・乾元年間は概ね弘安元年八月の宗祖漫荼羅を原本とし(但し六師の座配位置が若干異なる)、嘉元にはいると、これに提婆が加わり、嘉元二年八月十五日の書写漫荼羅にいたり迦葉・帝釈が「南無迦葉尊者」「釈提桓因大玉」と表記されるものがあらわれ、徳治以降はこれが大体定型化するというのが、興師書写の大雑把な流れですね。なお興師が弘安三年三月以降の宗祖の十界広式の特徴を書写した漫荼羅を書写したのは、写真が公開されているものでは永仁四年四月八日・嘉元二年九月八日・同年十一月三十日の三幅だけというのが、気になるところではあります。
犀角独歩さん
かつて、私が見た顕師直筆漫荼羅の勧請が迦葉・帝釈天の表記を含め日禅授与漫荼羅と同じでしたので、いま思いますと、ここに顕師の本音があったのかという感じが無きにしもあらずと言う感じですね。
私個人としては、聖僧の化儀を全うされている方の書写漫荼羅が望ましくおもいますが、僧侶の妻帯が一般化した今日では、無理な話でしょうね。というわけで、独歩さん引用の富士一跡門徒存知事の一節の精神には反しますが、現代では蓮師図顕の御筆漫荼羅写真製版を受持するという信仰形態も止むをえないとは愚考しております。

2788管理者:2006/08/26(土) 20:01:23

小心者007さん

2787の書き込みは、当掲示板の禁止事項「非礼」の侮辱表現に該当します。よって削除します。

【禁止事項】

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。なお、管理者の制止を無視して、侮辱表現、侮辱発言を続けられた場合は、以後の投稿をお断りする事になりますので、予め、御承知置き下さい。

2789彰往考来:2006/08/28(月) 08:28:13

>2769日寛の特別御形木というのは、なんでしょうか

遅くなりました。親の家へ行ってしげしげと拝見してきました。

創価学会版寛師の特別御形木御本尊は和紙に印刷して表装してあります。ラミネート印刷ではありません。

ちなみに創価学会版寛師御本尊は5種類のサイズがあると思います。正確なところは解りませんが。全て原版は同じです。
5種類をサイズ順にあげると
①携帯御本尊(御守り御本尊)
②御形木御本尊
③特別御形木御本尊
④会館用(小)
⑤会館用(大)

このうち、④はちょっとあやふやなので折りをみて確認したいと思います。③より一回り大きいもので、個人会館や、文化会館の別室などに安置してあるのです。学会の大幹部のご自宅もこれだったような気がしますが、定かではありません。なにせみんな同じ相貌ですからあまり気がつきません。

③の配布基準ですが、決められたものがあるはずですが存知あげていません。創価学会版寛師の御本尊へのお取替えを実施した際には、従来の型式と同じもの(特別御形木ならこの型式)に交換されたと記憶しています。

2790れん:2006/08/28(月) 09:15:26
独学徒さんがご紹介くださったホームページに、石山日達師の昭和三十八年五月十五日書写の形木(写真製版というのが正しいですが、まあ従来の呼称で)の画像が掲載されてますね。こちらの漫荼羅を見て驚いたのは、柳澤師の「石山本尊の研究」に掲載された昇師筆漫荼羅と相貌が全同だったことですね。昭和三十八年の形木における迦葉の表記は「大迦葉尊者」ですが、昭和四十一年の二つの形木は「迦葉尊者」とあり、違いを見せています。また、昭和三十八年の形木は正像時(とされていた)の先師勧請は龍樹・天台・妙楽・伝教で南無が冠されますが、昭和四十一年の形木では天台・伝教だけで、しかも南無が省略されている違いがありますね。
昭和三十八年と昭和四十一年の形木で、諸尊の存没や表記の違いを見せるのは、やや気になる疑問ですね。

2791犀角独歩:2006/08/29(火) 14:38:19

投稿するところを間違えましたが、すぐにレスが着きましたので、そのままとしました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/2215

2792れん:2006/08/29(火) 17:52:12
犀角独歩さん
>複製が複製であることをしっかり明示する矜持が望まれますね…
まさに仰る点、それが、御筆複製の漫荼羅を受持する際の前提となるでしょうね。蓮師は「寿量品の肝心たる妙法蓮花経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしむ」(観心本尊抄・平成新修308ページ)といわれてますが、現実に蓮師は題目を中心とした文字漫荼羅という形で授与されたのですから、漫荼羅には“閻浮の衆生に授与せしむ”る寿量品の肝心の妙法蓮花経の五字としての意味合いがあったであろうことは一応の類推は可能と思います。
現在では聖僧は皆無といってもよいでしょうから、仰る点を明示したうえで、しかるべき寺院の住職の開眼による、本人が望む蓮師御筆漫荼羅の複製を受持するのが、現時点では妥当と愚考します。

2793犀角独歩:2006/08/30(水) 09:47:05

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/2221

上記から移動します。

独学徒さん
彰往考来さん
れんさん
ラキさん

> プラスチック製の携帯ミニ日寛曼荼羅…次回、オフ会等…持参

是非、見てみたいですね。

> 伝特別御形木の絹本日寛曼荼羅…10,000円

けっこうな値段を付けていますね。

> 某興門寺院より授与いただいた書写曼荼羅

これは、その寺院住職が書写されたものということでしょうか。

> 表装は自分で表具店に持ち込み行ってもらいました。

> …「常住御本尊」には二種類…法主上人猊下の直筆曼荼羅…板曼荼羅

つまり、「願主之」と略された仮本尊ではなく、願主・常住場所を記し、手書きされたものですね。これを原本として、末寺を通じて、石山、「法主」に許可をもらい板に刻むということでしょうね。最近は、余り行われないようですが、かつて学会系と目される石山批判で紹介されたように仏具店などで工賃を払って造ってもらい、それを開眼法要して本尊とするものでしょう。

この開眼ということですが、いまの石山では、いったん、俗人が手に触れたものは本尊ではなくなっているので、開眼供養をするというのがしきたりになっていますね。引っ越しや、仏壇換えの際も、故に坊さんを呼んで法要します。
学会はこの手のことはまったくやりませんね。仮本尊だからといえば、それまでですが、そもそもそんなやり方を学会幹部は知らない、知らないから、やんなくていいという得意の短絡思考でしょうね。

しかし、石山文献、たとえば、化儀抄注解なんか見ればわかりますが、この開眼に当たるのは、曼荼羅に、伝法「法主」が花押を書き入れることで、書き入れていないものが仮本尊ということになるわけでしょう。では、その仮は、末寺住職が書いたものでも、形木でもよいわですね。この花押が書き込んでもらうために、その仮本尊を持参して、石山に参詣したという歴史が看取できます。

この点は、現日蓮宗でも同様で、身延の売店で買った段階では、ただの美術品、それに所属寺院住職の裏書きをしてもらってはじめて、本尊となるとするわけですね。

2794犀角独歩:2006/08/30(水) 09:47:35

― 2793からつづく ―

> 聖僧無き現代

れんさんも、この点を仰りましたね。石山で聖僧というのは、女犯のないことをいうのでしょうね。しかし、これは遺誡置文出来た頃 …日興からどれほど、時間を隔てて、日興に仮託されて成立したのか決せませんが … その頃、既に聖僧と呼べるものがいなかったことは「先師の如く予が化儀も聖僧たるべし。但し時の貫首或は習学の仁に於ては、設ひ一旦の�h犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」という段階で、この点は度外視され、「(文明八年土佐国吉奈)連陽坊聞書に云く、仰に云く・さて末法今時は悪心のみにして善心無く・師弟共に三毒強盛の凡夫の師弟相対して・又余念無く妙法蓮華経を受持する処を・即身成仏とも・名字下種とも云はるゝなり」というわけですから、となれば、日目以降、曼荼羅書写が聖僧でなければならないという名目は瓦解しています。

> 本尊を曼荼羅の中から選定…宗定本尊

わたしは、曼荼羅を本尊とするのであれば、伝師から、書写してもらうものがよいと思います。
御筆曼荼羅は、原則的に授与者が入っている、その授与者宛のものでしょう。それを自分用にすることは、仮のもの以上の意味を持たないからです。あと、本尊というのであれば、これは釈尊像が原則でしょうね。その派生として、四脇士を付すのが日興流。まあ、石山の影響を受けてしまうと、この日蓮の祖意は、素直に受け取れないフィルターがかかってしまうでしょうね。

敢えて、横道に逸れれば、しかして、本尊とは、本尊抄で見る限り、形に表したものそれ自体が仮のものなのでしょう。では、仮のものではない本尊とは何か、すなわちそれは、観心本尊 …心で観る本尊… であるというのが一抄の大意ではないでしょうか。

以下の、説明を、わたしは納得します。

「こゝにいふ「その本尊」とは、在世に於ける、仏所嘱の本門の題目そのものを指したものでもなく、また地涌の菩薩でもない。況や付嘱の儀相全体の場面を意味するのでもない。それは題目を八品に説いてこれを付嘱するところの本門の仏、即ち妙法蓮華経の教主釈尊たる本門の仏を指したものに他ならないのである。故に「その本尊の体たらく」とは、その形相の上からいへば、かゝる本門の教主釈尊が、その観心たる事一念三千の題目を説き給ひし時、釈尊会座の一同が釈尊に帰命し、その法を信受したる姿を現わしたのであり、これを内面的に見れば、一切が本仏果海の慈光に浴して、浄仏国土の姿を具現したものであるといふことが出来よう。換言すれば、それは信仰の世界に於ける理想境、即ち仏の境界を顕わしたものである。そしてかゝる儀相を図顕したのが、曼荼羅であるといへよう。そこで曼荼羅は、本尊の実体そのものを顕わさんとするものではないが、曼荼羅によりて顕わされるところの本尊の実体は、本化の四菩薩を脇士とする久遠の釈尊に他ならない」(『創価学会批判』P140)

つまり、己が心で観る本仏釈尊が本尊であるというのが、日蓮の祖意であることになります。

なお、わたしは本尊問答抄の真偽については、極めて慎重です。

2796犀角独歩:2006/08/30(水) 19:28:59

観心本尊という見地は、いったん、置くこととして、印刷、プリント、彫刻などが、信者各人に於いて、本尊として認知される条件というのはいったい何だろうか、と改めて考えてみたいと思います。

学会、顕正会を含む石山圏では、(1)「本門戒壇」の大御本尊の写しである (2)唯授一人血脈相承(したと信じる)者が書写したものである (3)自分が正当と考える団体から受け取ったものである といった条件がプリントを本尊と認知させる条件となっているのでしょうか。

たぶん、ここのサイトに書き込む方々は、最低限でも『御本尊集』は、所蔵しているだろうと思います。仮に所蔵されていなくても、図書館で閲覧したり、ネットで閲覧できます。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

しかし、これら‘画像’を本尊として拝む人はいないでしょう。
冷静に考えればわかりますが、石山から下付された本尊は写しの印刷であるのに対して、御筆本尊は日蓮その人の直筆です。石山歴代の書写物と比し、その価値は天地雲泥の相違があります。ところが、石山圏では、たとえ真筆であっても礼拝対象とはならず、上記、3項の条件を満たしたプリントのほうを本尊として拝むわけです。いったい、信者会員として、刷り込まれた本尊認知という心理操作は、どのような実体なのか、少し冷静に考えてみませんか。

2797独学徒:2006/08/31(木) 00:00:18

犀角独歩さん、

>けっこうな値段を付けていますね。

全くです。
それでも当時は「(3)自分が正当と考える団体から受け取ったものである」との信念から、なんの抵抗も無く支払いました。
これは短期間の系統的な刷り込み・心理操作ではなく、プリント曼荼羅を人に勧めるという行為の連続の中で、自らの手によって本尊認知を上手く進められてしまったのではないかと思い起こされます。
プリント曼荼羅を人に勧めると褒められる。そんな事の連続が、知らず知らずの内にプリントを本尊として認知するに至ったのではないかと思います。
しかし、犀角独歩さんはじめ、古くから石山信仰圏で信仰されてきたご経験をお持ちの方は、違った思いなのでしょうね。(1)(2)の事由によるところが強いのでしょうか。

>これは、その寺院住職が書写されたものということでしょうか。

はい。
私の個人名の入った授与書・為書が入っているため、非公開としていますが、確かに肉筆の曼荼羅です。

>御筆曼荼羅は、原則的に授与者が入っている、その授与者宛のものでしょう。

犀角独歩さん、私が「宗定本尊」と申しましたのは、所謂「臨滅度時漫荼羅」といわれるもののことで、こちらは特定授与者は無かったと思いますがいかがでしょうか。

2798犀角独歩:2006/08/31(木) 08:35:48

2797 独学徒さん

レス、有り難うございます。

> 古くから石山信仰圏で信仰…(1)(2)の事由による

少なくとも、わたしはそうでした。ですから、現在、このような漫荼羅を本尊を拝む人を批判して記しているのではなく、自身の過去の反省を皆さんとも考えたいという提案です。

> 私の個人名の入った授与書・為書…肉筆の曼荼羅

これは尊い、個人として、またお家に継承される宝物ですね。

> 「宗定本尊」…特定授与者は無かった

仰るとおりですね。わたしが先に記したことは、御筆全般にわたって申し上げたことです。誤解を招きやすい表現でした。お詫び申し上げます。

2799藤川一郎:2006/08/31(木) 12:06:11
>>2796
実は上記文章を読みまして、一見正しいと思ったのですが、何か違和感を感じました。
まず、元々在家信徒で、(1)〜(3)までを厳格(明確)に捉えていた方はほとんどいなかったように思います。

まず(1)ですが「歴代法主書写の本尊」はもちろん「宗祖真筆本尊全て」が「戒壇の御本尊の写し」と拝するのが石山の法義ですので、そこには「宗祖真筆本尊を除外視する」又は、「宗祖真筆本尊を歴代本尊よりも低く視る」義は余りありません。
それが証拠に他門から石山信徒になる時に「たまたま先祖伝来の宗祖真筆本尊があったら授戒の後に、そのまま感得させる」事もあります(大体が痛んでいますので、表具師を紹介することも多いのですが)。
今でもその原則に違いはありませんが、さすがに宗祖真筆を所持している人は稀少ですから、余り目立たないのでは無いでしょうか?
事実、宗祖真筆本尊の御形木御本尊や板にお直しした本尊や御影様を、自仏堂に祀っている石山信徒もおります(まあそこそこのお金持ちで無ければ、経済的に無理でしょうが・笑)。

(2)〜(3)に関しては、実質的にはそこまで厳格に考えず、自らの「“伝戒之師(戒師)”がこれを本尊として拝せよ」と言われたものを本尊と拝する訳ですから、そこには唯授一人の法主云々が余り関係なく「伝戒之師と弟子の師弟関係」から存するのが本尊なのです。

現今の御形木御本尊は単純に、その昔「末寺住職が書写した判形無き御本尊」の延長にあって、所謂、仮本尊に当たるのでしょうが、その後戒師とともに本山法主上人にお目通りの上、改めて、仮本尊に判形・裏書きを頂くか、常住御本尊を別に頂く訳です。
その場合でも法主上人が重要と言うよりも、法主上人に取り次いだ戒師の存在に重きを置くのでしょう。
ですから、法主上人から下される時点では、板本尊なら原紙、紙幅なら表具の無い状態を、戒師の指示に従って、石山御用達の仏師を手配するか、表具師を手配するかして貰うわけです。そして住職が改めて入仏法要を行われる訳です。

2800犀角独歩:2006/08/31(木) 19:25:39

2799 藤川一郎さん

まあ、ここで記されておられることは、「藤川さんは」ということでしょうね。藤川さんの戒伝師がどう考えかではなく、石山が公式にどう発言し、振舞ってきたかですし、わたしの問題定義は、単なるプリントに過ぎないものを、どの時点で、信者会員が‘本尊’と認知するか、です。この点は、どうでしょうか。

> 「歴代法主書写の本尊」はもちろん「宗祖真筆本尊全て」が「戒壇の御本尊の写し」と拝するのが石山の法義

そう拝するのは、勝手ですが、弘安2年以前に漫荼羅図示はあるわけですが、それが写しのはずはないというのが、ごく当たり前の常識的な判断でしょうね(笑)

> …宗祖真筆本尊…除外視する…宗祖真筆本尊を歴代本尊よりも低く視る

そんなことはありませんよ。実際のところ、石山門外にある御筆本尊を拝まないということは、信仰対象から除外視しているわけですし、それはつまり、低く観ていると思われても致し方ないことです。

> 他門から石山信徒になる時に「たまたま先祖伝来の宗祖真筆本尊があったら授戒の後に、そのまま感得させる」事もあり

また、藤川さんらしからぬ、まさかわたしが石山40年の信者、宗務院内事部で仕事をしていたことをお忘れのうえでの発言ですか(笑)

創価学会に入会した(学会用語でいう)「旧信徒」は先祖伝来の本尊を返却させられて、日寛の印刷本尊に取り替えられたことはを、わたしは見てきました。いまさら、誰がどこで、と突っ込まれても、具体例、具体名を挙げることはできませんが、これは古い学会員であれば、周知の事実でしょう。しかし、問題は「学会の」ではないですよ。その古い本尊を受け取り、日寛印刷本尊を出したのは、各末寺だからです。これは本山に奉納されたものもあり、各末寺で止まり宝物とされたものもある、故に、石山本末の虫払法要が補っているわけでしょう。まあ、藤川さんの寺院は良識派ではありますが、石山全般のスタンダード・スケールではないと、わたしの40年の経験から思います。「学会が勝手にやった」という言い訳は成り立ちますが、それを観て見ぬふりをして看過したのは、当の石山だったわけでしょう。

> 唯授一人の法主云々が余り関係なく「伝戒之師と弟子の師弟関係」から存するのが本尊

これまた、本音と建て前に柔軟な藤川さんならではのご発言だと思いますね。
たとえば、わたしは、正信会運動で名高い妙真寺での受戒ですが、寺の名前と、当時の「御法主上人猊下」の名前は覚えていても、この寺院住職が誰であったのか、覚えていません。親も覚えていませんでした。
分離以前、寺院で受戒後、「本尊」を受け取った学会員や、顕正会に聞いて、「あなたに受戒してくれたお坊さんの名前は?」と聞いて答えられる人は、むしろ、例外に属するでしょう。さらに言えば、学会員相手の受戒なぞ、寺院住職がわざわざやることは少なく、成り立ての教師や、場合によっては、補任式も経ていない在勤者がこれに当たることも多々あったことでしょう。

> …仮本尊に判形・裏書きを頂くか、常住御本尊を別に頂く訳です。

これまた、藤川さんの周辺ではという話でしょうね。
仮本尊に判形、裏書きを受けた本尊は、過去50年、わたしは一度も見たことがありません。また、寺院で責任役員をやっていましたが、ただの一度もその中継ぎをした記憶もありません。

> 板本尊なら原紙、紙幅なら表具の無い状態を、戒師の指示に従って、石山御用達の仏師を手配するか、表具師を手配するかして貰うわけです。そして住職が改めて入仏法要を行われる

こんなことを言ってしまっていいんですか。では、創価学会の本尊模刻で「御法主上人の許可を取らなかったから謗法」とした批判と、齟齬を来たすことになりませんか(笑)

辻さんが「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後、御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」(僧俗和合へ基本を確認)と発言したのは、本山、「猊下」の許可を取らなかった非を責められて、それを謝罪し、今後繰り返さないと反省したことですね。
藤川さんの言うようなやりかたでよければ、学会に火はなかったことになりますすし、何のための公式謝罪であったのかとなりますよ(笑)

2801独学徒:2006/08/31(木) 20:59:20

犀角独歩さん、

>仰るとおりですね。わたしが先に記したことは、御筆全般にわたって申し上げたことです。誤解を招きやすい表現でした。お詫び申し上げます。

お詫びなどとはとんでもございません。
そもそも犀角独歩さんが、臨滅度時漫荼羅をご存じ無い分けがないはずで、私の読解力のと想像力の無さによる所作であったと思います。

>これは尊い、個人として、またお家に継承される宝物ですね。

有難うございます。
大切にしていきたいと思います。

>少なくとも、わたしはそうでした。ですから、現在、このような漫荼羅を本尊を拝む人を批判して記しているのではなく、自身の過去の反省を皆さんとも考えたいという提案です。

私は平成2年の9月に、正宗末寺より顕師曼荼羅を下付戴き信仰の世界に入りました。
その後直ぐに宗創紛争となりましたので、私の経験したことは、まるっきり(3)であったと思います。
おそらく新会員に、(1)や(2)の話をすることが、宗創分離後の学会にとっては最終的には不利なのではないでしょうか。
今では古くからの会員を離さないために、(1)や(2)を完全否定しないだけで、今の学会にとっては(3)のみで通用すれば、これに越したことは無いのでしょうね。

しかし顕正会や正信会はどうなんでしょうね。

2802天然水:2006/08/31(木) 22:07:41
 初めてカキコします。独歩様の言われる釈尊像は立像ですかそれとも
坐像の事を指すのでしょうか?
 御教示願います。

2803藤川一郎:2006/09/01(金) 02:56:38
> 「歴代法主書写の本尊」はもちろん「宗祖真筆本尊全て」が「戒壇の御本尊の写し」と拝するのが石山の法義、そう拝するのは、勝手ですが、弘安2年以前に漫荼羅図示はあるわけですが、それが写しのはずはないというのが、ごく当たり前の常識的な判断でしょうね(笑)

ですから、“物体的に云々”“物質的に云々”図示された戒壇の御本尊の写しとは書いておりませんよ。物体的に考えたら、独歩さんの言うとおりでしょう。
ですから私はあえて「石山法義の上で」と限定した文字を入れたんですよ。私が「石山法義では」とせっかく限定した文の意味が無くなってしまいます。私の苦労が水の泡(冗談です)。

改めて言いますが、私は石山の法義では「宗祖が立宗の砌(弘安はるかに以前)に既に戒壇の御本尊様の心が存し、それを自在に御形(色)に現されたのが、宗祖の各御真筆御本尊であるから、宗祖の御真筆御本尊は須らく、弘安以前であろうと以後であろうと問わずに戒壇の御本尊の心を御形に表したものと拝する」と教わりましたが、それは独歩さんも聞いたことはおありでしょう。
かの浅井さんですら、そのように教えておりましたから(確か)・・・。
もっとも学会ではどのように教えておったかは不明ですが。

ならば、宗祖御真筆御本尊も歴代御本尊も無理に差をつけるような根拠は無いと思います。
私は当寺院はもちろん、それ以外の檀家さん(塔中が多いのですが)の家にも何度も言ってますが、学会にごり押しで奪われた方は別にして(酷い例では歴代の板本尊を割られた方もいるようで、当時警察沙汰になってますが)、宗祖の御真筆本尊を形木にしたものや、有師がたくさん板に直されたといわれるかの高名(言ってるようなものですが)な真筆御本尊を板にして安置している檀家さんも見ましたが、それは珍しいんでしょうか?
また、塔中の根檀家さんの家にはそのような話は腐るほど聞いてますが(口が悪いですかね。腐るほどは)、これも例外なんですかね。
とにかく、最近でも名家でこのような例は聞きましたから、変更はされていない筈です。

> 板本尊なら原紙、紙幅なら表具の無い状態を、戒師の指示に従って、石山御用達の仏師を手配するか、表具師を手配するかして貰うわけです。そして住職が改めて入仏法要を行われる・・・・、創価学会の本尊模刻で「御法主上人の許可を取らなかったから謗法」とした批判と、齟齬を来たすことになりませんか(笑)

なりませんよ(笑)。ふと気づいたんですが、独歩さん人の文章細かく読んでないでしょう(笑)。
私の文章“板本尊なら原紙”“紙幅なら表具の無い状態”の短い語句中に既に「法主上人の許可を受けた」事が書かれているんですが・・・。
知っていると思いますが常住御本尊の申請をするときに「数枚綴りの書類」を提出するんですが、そこに「板にするか、紙幅にするか」とあり、板に○をつけると「原紙」(薄紙製)がおりてきますが、紙幅に○をつけますと、表具が無い状態しっかりとした紙でおりてきます。実はしっかりとした紙でおりてきた本尊は石山御用のA仏具店がそもそも、受注すらしてくれません。
つまり板であろうと紙幅であろうと、それぞれ下りてくる本尊の紙質が違うんですよね。
それこそ宗務院に勤めておられた方なら百も承知でしょう?(イヤミではありません)

なお、順序が狂いましたが戒師の件について言えば、確かに創価学会員の方は授戒=入信の儀式程度にしか考えておられなかったようで、覚えていない方が多いようです。
しかしながら、元々法華講で入信した方(私の周りはそちらが多いんですが)は、ほとんど授戒師を覚えておいでですよ。その後、住職が数代変わっていても、その全てをフルネームで簡単に諳んじる方までおいでです(一番すごかった方は5代の住職をアジャリまで覚えておいででした)。

なお、創価学会について言えば、そもそも創価学会は
「日蓮正宗」(Wikipedia)によれば
「日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院で審議の得て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印するが、創価学会は組織許可書の交付も受けていなければ指導教師も初めから存在しておらず、宗内ではゲスト的に扱われていた。」
とあるように、正式な信徒と言うよりは日蓮宗と立正佼成会などの「檀参関係の強いもの」位だったのかも知れません。創価学会への通知が「解散命令」では無く「解散勧告」にとどまったのも強権発動できる関係では無かったということなんでしょう。

まあ、しかし「ゲスト」は言いすぎでしょうが(これ誰が書いたんだろう)!

2804犀角独歩:2006/09/01(金) 07:50:22

2803 藤川一郎さん

まあ、繰り返しになりますが、わたしは、どの段階で信者会員は「本尊」と認知するかという問題提議をしているわけですよ。
この点は重要なので、石山のご都合や、仏具・表具の話はこの辺にしたいんですね。

> …「石山法義の上で」

そんなことは百も承知で、だから、「板に彫られる以前に戒壇本尊はあった」、だから「弘安2年以前の御筆本尊も、皆、戒壇の本尊から出た」という(敢えて書けば倒錯した)本尊観は、かなり変ですよと言っているわけです。
たしかに、石山法義ではあるけれど、日蓮義ではないわけです。

と限定した文字を入れたんですよ。私が「石山法義では」とせっかく限定した文の意味が無くなってしまいます。私の苦労が水の泡(冗談です)。

> 私は石山の法義では「宗祖が立宗の砌(弘安はるかに以前)に既に戒壇の御本尊様の心が存し、それを自在に御形(色)に現されたのが、宗祖の各御真筆御本尊であるから、宗祖の御真筆御本尊は須らく、弘安以前であろうと以後であろうと問わずに戒壇の御本尊の心を御形に表したものと拝する」と教わりました

これは石山義ではないでしょう。石山義は、

「一、明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり云云」

です。

> 宗祖御真筆御本尊も歴代御本尊も無理に差をつけるような根拠は無い

ありますよ。原本(御筆)と複写(奉書写之)の相違です。
コピーはオリジナルに劣ります。

> …珍しい…根檀家…名家…変更

まあ、藤川さんの話は「お金持ち」と「名家」を中心にした話ではないですか。
かつて日蓮正宗は、信徒数を1650万人と発表しましたよ。そのなかで、どれだけが、おっしゃるような扱いをすると珍しくなくなるのかという問題でしょうね。仮本尊しかもらっていない「連中」、「根檀家」「名家」以外は、問題外という議論ではないはずですよ。

> 本尊の紙質が違うんです

このような例を言っているわけではありません。
示されるような例は、近代に属することなのであって、家の「常住様」の痛みがひどくなったから、板に改めてよろしいでしょうか、という願いがあることは、もちろん、ご存知のところではないですか。こちらの話をしているわけです。
学会の常住本尊は紙幅で下ろされたが、痛みがひどいので板に改めたいと口頭で日達さんに伝えた。その場で「いいでしょう」と返答をしたが、あとから正式に書類で申請してくると思ったら、勝手に板にしてしまった。「それを私(日達)は知らなかった」、しかし、学会は「いや、許可は取った」という言い合いが、本尊模刻問題でしょう。仰るような書類申請とは、まるで別の話ですよ。
古い檀家さんなんかは、「今度、板に改めて荘厳したから法要してください」なんて例があったのに、なんで、創価学会にだけ、そううるさいことを言うんだという会話すら、模刻問題を語る段階ではあったでしょう。それを申請書類云々は、同列に語れる話ではないでしょうね。

> そもそも創価学会…正式な信徒と言うよりは日蓮宗と立正佼成会などの「檀参関係の強いもの」位だった

それは、あとづけの、いまとなっては話でしょう。
かつての法華講総講頭は誰ですか。七百遠忌の慶讃委員長は誰でしたか。池田さんでしょう。そうなると、石山は、そんな「檀参関係程度」、口悪く言えば「ゲスト」に、総講頭を命じ、本末を挙げての慶讃委員長を命じたのですか。日達さんは池田さんを「現代の維摩居士」とまで言ったわけでしょう。

創価学会問題というのは、ひっくり返せば、命じた責任は石山にあり、そんな二人三脚なのであって、つまりは、=石山問題だということでしょう。

仏具・表具の話はこの辺にして、信者会員が、どの段階で、プリントを「本尊」と認知するかという議論に戻していただけませんか。

2805れん:2006/09/01(金) 10:16:02
犀角独歩さん
どの時点で信徒会員がプリントを本尊と認知するかについてですが、私も独学徒さんに同意見です。私は二世でしたから、物心ついた時点で、組織からの刷り込み通り、すでに幼心にも最初からプリント漫荼羅を本尊と認識してました。ここらへん、自らの意志で入信した人とは、どの段階で認識するかの差はあると思います。聖僧云々は有師は「サテ当宗も酒肉五辛女犯等ノ誡事ヲ裏ニ可レ用レ之也」(下野阿聞書)「出家ノ本意ナルカ故ニ何ニモ持戒清浄ナラン事ハ可レ然」(化儀抄)とあり、末法無戒を標榜しながらも、石山もこの当時の僧は出家者としての節度をある程度守っていたことが伺えますね。
まあ石山は置くとして、出家者に敢えて優劣を立てるなら在家同然の生活の方よりも聖僧の方のほうが勝れているようにも思えますので、肉筆の漫荼羅を持つならば聖僧書写の漫荼羅が一番望ましく思いますが、現在は…と言うわけで、暫定的な意味であのように記しました。しかしながら、独歩さんや独学徒さんのように、有縁の御僧侶からの肉筆の漫荼羅の授与とそれを受持されることを否定するものではないので、誤解がありましたらお詫び申し上げます。

2806れん:2006/09/01(金) 10:48:38
蓮師の本尊観そのものにつきましては、独歩さんの御提示の通り、五百塵点成道の釈尊ということであろうことは観心本尊抄・報恩抄に見えます。
ただ、宝軽法重事に「人軽と申は仏を人と申。法重と申は法花経なり…」乗明聖人御返事に「経は師なり、仏は弟子なり」九郎太郎殿御返事に「法華経は仏にまさらせ給う法なれば…」とあり、真蹟遺文にも、法華経師・佛弟子あるいは法華経勝・佛劣と読めるものもあり、これを是とした場合、現代における学問から言えば、洋の東西を問わず多く見られる“聖典信仰”の影響を蓮師も受けたということでしょうが、蓮師の義、あるいは信仰体系において法華経と本尊としての釈尊の関係は、本門三法門との兼ね合いでどうなるのか、興味があります。

2807藤川一郎:2006/09/01(金) 12:58:02
>>仏具・表具の話はこの辺にして、信者会員が、どの段階で、プリントを「本尊」と認知するかという議論に戻していただけませんか。

はーい。いつの間にかずれてましたかね。
本尊は、開眼の段階で本尊と認知するんでは無いでしょうか?
1行で終わっちゃった(笑)。

すいませんが、後は「つぶやき」で論争抜きで語っておきます。

2808ラキ:2006/09/01(金) 21:33:54
>本尊は、開眼の段階で本尊と認知するんでは無いでしょうか?
(1)手元に受け取った時点で本尊と認識。
(2)仏壇に安置して本尊と認識。
私は、2回経験があるので、(1)と(2)両方と思っています。

2809一字三礼:2006/09/02(土) 09:13:00

れんさん

基本的なところがわからないので、質問させてください。

蓮祖は、六老僧及びその他の弟子達に、大曼荼羅の書き方を伝えたのでしょうか、またはそれらの相伝があった事実を裏付ける確かな資料はありますか。

蓮祖の在世に大曼荼羅を書写した弟子はいるのでしょうか。

れんさんにいただいた日興筆曼荼羅の写真を見比べますと、時代によってかなり配座や筆法が異なり、試行錯誤の後がみられます。これを見るかぎり、蓮祖から大曼荼羅の書写についての相伝など無かったのではないかと思えるのですがいかがでしょうか。

2810れん:2006/09/02(土) 11:50:11
一字三礼さん
蓮祖より六老僧やその他の弟子に漫荼羅書写の相伝が有ったか否かですが、六老僧の内、日昭師・日朗師は題目の下に自署・花押をする形態・日興師・日向師は題目の下に日蓮(聖人)在御判の形態で、六人の中でも統一されてないことを考えれば、漫荼羅について統一的な書写の相伝があったとは思えません。興師の漫荼羅書写は、特に蓮祖・弘安年間図顕の漫荼羅を原本にされているのが見てとれます。時代によって筆法がことなるのは、嘉元以降の後期の場合は後世の偽作を警戒してのことと思われますが、初期はそれなりには試行錯誤がみられるので、やはり、統一的な相伝はなかったと思われます。興師の場合、御遺文書写の延長線上にあるといえるかもしれません。
文献的には、六老僧や日常師の各門流で共通のものについては、蓮祖住山中の身延にまで遡れる可能性はあると思います。以上ご参考まで。

2811一字三礼:2006/09/02(土) 18:52:55

れんさん

ご教示ありがとうございます。

> 六人の中でも統一されてないことを考えれば、漫荼羅について統一的な書写の相伝があったとは思えません。

ご見解に賛同します。

残された資料からは、蓮祖は六老僧にさえ大曼荼羅の書き方を伝えていなかったし、そしてたぶん例外的なもの(四条氏等の事例)を除いては、蓮祖在世に弟子達も大曼荼羅の書写はしなかった、もしくはさせてもらえなかった。

これらのことから考えられるのは、蓮祖は終生、弟子達が大曼荼羅を書かくことを認めなかったのではないでしょうか。
もう一歩すすめれば、大曼荼羅写筆の教育をしなかった、書写の相伝がなかったと言うことは、自らの死後においても弟子達が大曼荼羅を書写するということを認めていなかったとも考えられませんか。

所詮、大曼荼羅本尊は’蓮祖に始まり、蓮祖に終わる’一代限りのものとも思えます。だから、例え日興が書写したものであっても、日朗の書写であっても、日有のでも、日寛のでも、日顕さんのでも、各門流末寺の僧侶方のであっても、その全てが蓮祖の意に沿ったものとは言えない、と考えるのは少し乱暴でしょうか。

> 時代によって筆法がことなるのは、嘉元以降の後期の場合は後世の偽作を警戒してのことと思われます

日興曼荼羅にも、生きているうちに偽作があったのでしょうか。初めて知りました、ありがとうございます。

2812れん:2006/09/02(土) 19:55:16
時代がやや下りますが、日尊上人仰云には「本尊書写の事 尊仰せに云く、大聖人御遷化の刻み、六人老僧面々に之を書写し給へり、然して異義無し」とあり、該当する各師の大漫荼羅は現存しませんが、日尊師が言う“大聖人御遷化の刻み六老僧が書写”した大漫荼羅が曽存した可能性はあるでしょうね。上記の日尊師の口述・日大師の筆受を信用すれば、蓮師は自らの死去に臨み、本弟子六人には大漫荼羅書写を許可した可能性が有ります。ただし現存する六老僧の御筆大漫荼羅の相貌が首題の下が日蓮判か自署・花押かの相違が顕れていますので、蓮師が六老僧選定後、大漫荼羅の書き方を六老僧に教育したとしても、細部に渡るもの指導教授ではなく、勧請の諸尊の大雑把な配置ぐらいの教授といった程度のものだったかもしれません。その結果が、首題の下が、興師の日蓮在判系と昭・朗二師の自署花押系の大漫荼羅の形態の相違に顕れたと考えられなくもありませんね。
ですから、一字三礼さんの仰る通り大漫荼羅の“図顕”は蓮師一代限りですが、大漫荼羅書写は、蓮師が自らの死去に臨み、本弟子六人には許可された可能性があることは日尊上人仰云の記事により推定されることは提示しておきます。

2813独学徒:2006/09/02(土) 20:04:19

れんさん、
一字三礼さん、

横レスにて大変失礼します。
常忍坊の「観心本尊抄私見聞」(弘安六年卯月五日)には、「此ノ観心本尊抄ノ外ニ、本尊ノ口傳日朗日興等ニ相傳有リ」とあることから、細かな内容にいたる相伝は無くとも、少なくとも大雑把な内容で本尊書写の仕方は伝えられていると思います。
聖人自らも、御一代の内には相貌の異なる種々の大漫荼羅を図顕されていますので、本来漫荼羅書写とは、最低限の決まりごとくらいがある程度で、あとは好きなように書いてくれ、といところなのではないでしょうか。
日朗・日興の漫荼羅の共通点を搾り出したら、「本尊ノ口傳」の内容がつかめるかもしれませんね。
また大石寺所蔵の日源筆「本尊相伝」と、日朗門流の「本尊五大口伝」(日企谷妙本寺第三世日山本が現存)とで、同文箇所があるといわれていますので、現在のようにどの書き方が正統かなどという議論はなく、大まかな内容で各門下に本尊相伝はあったものと考えます。

2814独学徒:2006/09/02(土) 20:09:07

失礼しました、誤字だらけでした。

誤:あとは好きなように書いてくれ、といところなのではないでしょうか。
正:あとは好きなように書いてくれ、というところなのではないでしょうか。

誤:日企谷妙本寺
正:比企谷妙本寺

またレスがれんさんと前後してしまったようです。

>細部に渡るもの指導教授ではなく、勧請の諸尊の大雑把な配置ぐらいの教授といった程度のものだったかもしれません。

私もこのように考えます。

2815れん:2006/09/02(土) 20:24:13
>日興曼荼羅にも、生きているうちに偽作があったのでしょうか…
今のところ、日興師が生きているうちに偽作された漫荼羅というのは確認されていないですね。ただ、常識的に考えて、(書画の類は漫荼羅を含め)後世の偽作は考えられるわけで、その対処策として、不動点の位置や花押の形などを時代により変えて、時代による基準というものを示したものであろうと拝察しております。という訳で、私のあの文章は“生きているうちに偽作があった”という意味でなく、興師が“後世の偽作”を想定されたという考察ということでご理解戴ければ幸甚です。
なお日興上人御本尊集には「相貌の特徴は(中略)初期においては比較的線が細く流麗であり、中期にいたり首題が大きく字体も太く丸みを帯び、後期に至るとごつごつした感じになる。普通年次を重ねるごとに、形や書体はまとまっていく場合は多いが、日興上人は逆のように思われる。恐らく形を意識しない独特の筆法が確立されていったのであろう」と考察されていることを紹介しておきます。

2816れん:2006/09/02(土) 20:52:01
独学徒さん
レスが前後してしまい、失礼致しました。
私も、独学徒さんのご意見に同感です。
なお御引用の常忍坊の“私見聞”の文の次下には「日朗への相伝は名越谷にあり。日興への相伝は富士に有り」とあります。日興の富士移転は正応ですから、本書の弘安六年成立には疑義を提出せざるを得ませんが、比較的常門上代の成立と見てよいと思いますので、参考資料にはなりますね。
朗師も興師も弘安式の相貌ですから、「弘安に入ってからの私が図顕した漫荼羅を手本にしろ」位は蓮師に言われたかもしれませんね。
本尊論資料によりますと石山蔵の本尊三度相伝とほぼ同内容の本尊相伝書が朗師門流にもあり、私も、私見聞にいう朗興二師への相伝の内容はこれではないかと推測はしております。

2817一字三礼:2006/09/02(土) 23:40:45

れんさん
独学徒さん

お2人のご見解としては、おおまかな相伝であればあったのではないか、ということですね。

けして反論と言うわけではありませんし、またそのような材料は持ち合わせないのですが、どうもすっきりしません。

弘安2年9月25日の「波木井殿御報」ですでに花押すら書けないくらいに衰弱されていました。10月8日に六老僧の選定があったのですよね、その後、大曼荼羅について教授するだけの体力が蓮祖にあったのだろうか、と考えてしまいます。

もう一点、れんさんが挙げてくださった日尊師の口述ですが、蓮祖臨滅度時に六老僧のそれぞれが大曼荼羅を書写したとすれば、それは認可状とも言える大事なものでしょう。その大事な書写曼荼羅が六老全ての門流で無くなるものでしょうか。
また、そのことが日尊師の口述にしか残っていないのも不自然に感じられます。

常忍坊の「観心本尊抄私見聞」も時代の下ったもののようですし、日朗・日興には’本尊の口伝’があったということですね。これによれば他の四老方には、口伝はなかったかのようにも読めますね。

本尊の相伝書の中にしっかりと資料的な価値を認められるものがないことが混乱の原因でしょうか。

2818富井:2006/09/03(日) 15:21:23
元学会員です。
昔から疑問に思う事がありました。それは霊の存在についてです。
学会時代には霊は存在しないと教えられ、不思議な体験を先輩に言うと、それは題目があがってないから
生命力が低下しているからだと言われました。
しかし実際には地区で亡くなった人が挨拶に来たなど複数の人が幽霊を目撃することもありました。
心霊現象については全否定しているかと思えば動物霊に衝くということは認めているのか、
昔はお山にくると発作のようにワンワンわめいたりぴょんぴょんとたっちゅうを駆け回る人もいたと聞きましたし、
50年代の事ですが、地元の会館で除霊めいたことをしていた話も知っています。
もう学会から離れて10年以上になりますので、今更聞く人もいないのですが
いったいあれはどういうことだったんだろうと、いまだに気になっています。
学会が当時ついていた日蓮正宗での霊の扱いはどういうものだったのか
日蓮はどう考えていたのか、どなたかお教えいただければ幸いです。

2819独学徒:2006/09/03(日) 15:46:29

れんさん、
一字三礼さん、

>常忍坊の「観心本尊抄私見聞」も時代の下ったもののようですし、

「観心本尊抄私見聞」は日付のあとに「之ヲ始メ」とあることから、弘安6年4月5日より作成を始めたということかもしれませんね。
最終的な完成の時期が「弘安6年4月5日」でないとすれば、日興の身延離山時期との矛盾は緩和されると思います。

2820れん:2006/09/03(日) 18:05:24
一字三礼さん
>2817 六老僧やその他の弟子は、恐らく、佐渡ないし身延で蓮師が大漫荼羅を図顕する有様を、間近で実地に拝見されていたというのが、史実と存じます。ですから漫荼羅の書き方そのものは、蓮師に給仕したお弟子さんならば知っていたことだと存じます。ただし、蓮師在世中は蓮師が図顕にあたり、お弟子さんが漫荼羅を図顕することはなかったのですが…(四条氏の代筆の例は曽存ゆえ不確定要素を含むので今は置きます)。蓮師は弘安五年十月八日に本弟子六人を制定しますが、恐らく、その際、漫荼羅の書写をこの六人には許したと思われます。ただ日尊師の言う蓮師遷化の時の六老僧書写の漫荼羅の存在が全く確認できないので、本来は蓮師が自らの遷化に臨み本弟子に漫荼羅書写の允可を与えたということだったのかもしれません。ただ改めて、統一的な漫荼羅書写の相伝なるものがなかったことは、昭師・朗師が首題の下に自署花押をなした形態であるのに対し、興師・向師が御遺文書写に準じて首題の下日蓮(聖人)在御判と書した形態をとったことから推定されますね。
独学徒さん
>2819
「之ヲ始メ」とあるのでしたら、常忍師が弘安六年に本書の著述をはじめ、晩年にいたるまで推敲されたものの可能性がありますので、仰る通り、興師の身延離山の年期と本書の記述の矛盾はある程度解消されるので、蓮師門下上代の参考資料として貴重なものになりますね。本尊論資料を見ても、朗門と興門には同内容の本尊相伝があり、朗門の相伝に「日昭も同座聴聞」とあって、この各門の同内容のものは、その源流は蓮師在世に溯れる可能性があるということになりますね。

2821独学徒:2006/09/03(日) 19:09:32

れんさん、

私の勘違いかもしれませんが、本弟子選定の時、向・頂二師は既に蓮師の御傍にはいなかったのではないでしょうか。
もし蓮師からの漫荼羅書写の教示が、入滅近くに本弟子に限って行われたとすると、実質、蓮師より直接漫荼羅書写の教示を受けたのは、昭・朗・興・持の四師ではないかとも考えられます。
向師の直筆と伝わる漫荼羅には、興師初期の書写漫荼羅の如く、主題直下に①「日蓮聖人(在御判)」とあるものと、主題直下に②「日向(花押)」とあるものがあります。
①は「御門下御本尊集」や「門下歴代大曼荼羅本尊集成」に所載済みで、②については身延山宝物館で展示されています。
向師のこれら全く異なる二種の漫荼羅書写は、蓮師滅後の他の本弟子からのまた聞きによる相伝の証左かも知れませんね。

2822れん:2006/09/03(日) 19:53:20
独学徒さん
確かに、日興筆「宗祖御遷化記録」の継ぎ目裏判には向・頂二師は“他行”と記されていますので、少なくとも、御遷化記録によると本書が執筆された弘安五年十月十六日には両師は“他行”していたことはわかりますし、同書によれば両師は蓮師の葬送にも参列していないので、本弟子選定後、漫荼羅についての“相伝”が行われたとすれば、両師はその場には居合わせなかった可能性はあると思います。となれば、向頂両師の場合は聴聞した本弟子を通じてその内容を知ったのかもしれません。
ただ漫荼羅の書き方は蓮祖に給仕したお弟子さんなら知っているわけで、あらたまった相伝はなかったと愚考します。あったとしたら漫荼羅に関する教義についての簡潔な教授だったろうと思います。
なお、向師に二種の形態の漫荼羅が存在する理由は、独学徒さんのご指摘のとおりの理由によるものと存じます。

2823独学徒:2006/09/04(月) 00:19:43

れんさん、

>ただ漫荼羅の書き方は蓮祖に給仕したお弟子さんなら知っているわけで、あらたまった相伝はなかったと愚考します。

そうでした。
これが最も納得のいくことですね。

2824犀角独歩:2006/09/04(月) 09:44:26

しばらくネットを閲覧していなかったのですが、なかなか興味深い議論が進んでいたのですね。

わたしは、基本的に首題の真下に日蓮在御判と書き、書写本人の名前を書かないのが、まあ、正しい本尊であるという見解は‘書写’に限って言えることなんだろうと考えます。書写は、あくまで書写ですから、本人が認めたことを示す、花押(判)までそのまま移してしまっては混乱が生じます。となれば、在御判、もしくは御判と記すことは、いわば書写の矜持であると思うからです。

相伝の可否が話題になっていますが、これは、やはり、正式なところはなかっただろうと思うのは、皆さんのご意見と同意見です。

そもそも、相伝があったとすれば、その人は、日蓮その人となるわけですから、書かれる漫荼羅は書写であるというのは、実はおかしなことではないのか、と最近は考えています。

たとえば、ある集団に、初代責任者がいて、なにがしかの認証書類を出し、自分の判を押したとすれば、これは正式なものとなります。では、2代責任者が、同様の書類を書くことを想定した場合、二つのケースが考えられます。(複写機というものがない想定です)それを手で書き写す場合、そして、同一内容の認証を出す場合です。前者の場合、初代と同じ判を押してしまえば、文書偽造となりますから、判の部分は「印」と書くでしょう。しかし、2代目と職にある立場から新たな認証を出すとすれば、文面は同一であったとしても、自分の名前を書き、自分の判を押すでしょう。わたしは漫荼羅を、本尊というより、師弟子の允可としての要素を持ったものであるという仮説を持っていますから、このような視点から漫荼羅を眺めています。ですから、首題の下に図示写本人の名を書かれたものは、その意味を異にするのではないのかという仮説も立てています。

いずれにしても、今日蓮である血脈相伝者は、その内証からすれば、日蓮そのものであるわけですから、それが何故、書写と記さなければならないのか、書写ではなく内証を同じくする立場から、自らの名を記しても齟齬は来しません。しかし、ここで、書写と記すとちぐはぐになるというような思惑も存します。まあ、ほとんど、独り言のような投稿になりました。失礼しました。

2825一字三礼:2006/09/04(月) 19:13:12

犀角独歩さん

ご無沙汰しております。

独学徒さん、れんさんのご寛容なのを好いことに、また見当はずれな推測を書いておりました。

れんさんの挙げてくださった、蓮祖臨滅度の六老僧が曼荼羅を書写したという日尊師の口述も「宗祖御遷化記録」と矛盾するというのであれば全面的に採用することはできません。

事実としては、蓮祖は自身の著作の書写は弟子にもさせていたし、代筆もさせておりましたが、大曼荼羅だけは弟子達に書写も代筆(四条氏の例を除く)もさせなかった。

私も独学徒さん、れんさんと同意で「ただ漫荼羅の書き方は蓮祖に給仕したお弟子さんなら知っているわけで、あらたまった相伝はなかった」という事なのではないかと思います。

結局は、後代の弟子達の「大曼荼羅の書写」という行為自体、蓮祖の与り知らぬものであり、もっと言ってしまえば「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではないか、と想像しております。

2826独学徒:2006/09/04(月) 20:19:04

一字三礼さん、

私は蓮師滅後、本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達が漫荼羅書写(ここでは弟子達の書く漫荼羅を一様に書写と呼びます。)を行っている事実からみても、漫荼羅書写は蓮師の意にかなったものと思います。
そうでなければ蓮師は本弟子をはじめ漫荼羅にかんして、自らの意を伝えられた弟子は皆無であったということになります。

私はあくまでも、細かな教授は無かったにせよ、大雑把な内容での教授はあったと思います。

2827一字三礼:2006/09/04(月) 22:09:57

独学徒さん

本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達が漫荼羅書写を行っている事が、なぜ蓮師の意にかなったことになるのでしょうか。

それこそ事実としては、蓮師はご生存中、弟子達に漫荼羅の書写をさせていないのでしょう。なぜそれが死後になると許すことになるのでしょうか。

> 私はあくまでも、細かな教授は無かったにせよ、大雑把な内容での教授はあったと思います。

細かくであれ、大雑把であれ、蓮師が弟子に漫荼羅の書き方を教授したとする確実な資料はありますでしょうか。

2828独学徒:2006/09/04(月) 23:16:07

一字三礼さん、

>本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達が漫荼羅書写を行っている事が、なぜ蓮師の意にかなったことになるのでしょうか。

禁じていたら行わないと思います。
むしろ蓮師在世の間は、蓮師が漫荼羅を図顕されるので、弟子達が書写する必要は無いわけです。
蓮祖滅後は蓮祖に代わって自らが漫荼羅を書写し、有縁のものへ授与して行く、特に不思議は感じません。

>細かくであれ、大雑把であれ、蓮師が弟子に漫荼羅の書き方を教授したとする確実な資料はありますでしょうか。

常忍坊の私見聞を先に引用しましたが、これはそれに相当する資料だと存じます。

また蓮師晩年の弟子といわれる日像は、「漫荼羅相伝」(日蓮宗宗学全書第1巻221〜)を著しており、上代弟子達によるこのような記録が残っている以上、私は蓮師から弟子達への漫荼羅書写に関する教授が皆無であったとは思いません。

また何よりも、蓮師より各弟子達に授与された漫荼羅そのものが、漫荼羅書写の教授につながっているとも思います。

そして漫荼羅書写が蓮祖の意に副うものでなかったのなら、蓮師門下は一人残らず蓮師違背の門下となりますし、それを糾すものもいなかったということになります。

そうしたことから私は、漫荼羅書写自体は蓮師の意にかなった行為であると考えます。

2829犀角独歩:2006/09/05(火) 04:58:36

一字三礼さん

お久しぶりです。
この手のことを考えるとき、わたしは、一字三礼さんのように、門下で言われきたことを、いったん、棚上げにして、一般常識、もしくは当時の常識から推し量ってみるのも一考であると考えます。

わたしが漫荼羅図示に関して、もっとも奇異であると思うのは、「書写」という点です。たとえば、仏像であれば、仏師の弟子が、師から皆伝して彫った仏像を、模刻とは言わないでしょうし、仏画を模写とも言いません。
ところが、日蓮の漫荼羅に関しては、その弟子達は「写」であるというわけですね。つまり、弟子達が書く漫荼羅が正本であることを認めなかったということです。写すと言うことはどこまで行っても模写ということだからです。これは実に面白い点ですね。

こんな例が、他に見られるのか、少し探ってみようと思います。

2830一字三礼:2006/09/05(火) 08:07:49

独学徒さん

> 禁じていたら行わないと思います。

そうは言えないでしょう。後代の弟子達が全て師匠の意に副って行動するということはないでしょう。

> むしろ蓮師在世の間は、蓮師が漫荼羅を図顕されるので、弟子達が書写する必要は無いわけです。

これも仰ることがよくわかりません。
六老僧にもそれぞれ直弟子はいたでしょうし、孫弟子もいたでしょう。出家・在家を合わせれば蓮師の弟子はかなりの数に上るではないでしょうか。
その弟子の中で、漫荼羅を与えるに相応しい者を吟味して蓮師は一人で漫荼羅を書き、授与していたわけですね。
弟子達に漫荼羅書写を許すのであれば、蓮師ご生存中にも弟子に書写されるでしょう。なぜ蓮師は一人で書かなければならなかったのでしょうか。

常識的に考えてみれば、先生が弟子に、書体や描き方を教えるときは、まず弟子に書かせるのではないでしょうか。しかし、蓮師が漫荼羅の書き方を相伝したとする書はありながら、蓮師が生存中に弟子に書かせた漫荼羅がない、これは大きな矛盾ではないですか。

れんさんがご指摘のように、年代表記に矛盾がある以上、常忍坊の私見聞は第一次資料とはできません。日像師の「漫荼羅相伝」の内容は存じませんが、日像師は蓮師入滅の時の年齢は幾つでしたか、まだ十代前半の子供でしょう。蓮師は子供にまで漫荼羅の書き方を相伝していたのですか。

蓮師の在世中の漫荼羅と、蓮師滅後の書写漫荼羅のあり方とは分けて考えてみたほうがよいのではないでしょうか。

2831一字三礼:2006/09/05(火) 08:08:21

犀角独歩さん

> わたしが漫荼羅図示に関して、もっとも奇異であると思うのは、「書写」という点です。

これは大変重要なご指摘であると思います。

仏師の例えでわかり易くご説明くださいましたが、後代の弟子達の漫荼羅は全てが「書写」でしかないということは、オリジナルは日蓮御筆漫荼羅のみということですよね。

これは日蓮信仰の大きな特徴のひとつと言えるのではないでしょうか。

2832真実知求者:2006/09/05(火) 19:37:50
2830様、、>書体や描き方、、、、。
  書道の御習いでしょうか、、??
 命を刻み込む「、、本尊、、」、、ですぞ、、。  当時の日蓮様の御行動の全ては、後世の我々がそれなりに学ぶ事も、、??
 でしょうか、、?  横からドーモです、、。




死bb氏

2833独学徒:2006/09/05(火) 20:44:06

一字三礼さん、

>そうは言えないでしょう。後代の弟子達が全て師匠の意に副って行動するということはないでしょう。

しかし一字三礼さんの仰せの通りだとすれば、「後代の弟子達が全て師匠の意に副って行動するということはない」どころか、ほとんどの高弟達は蓮師の意に反した行動をとったことになります。
普通に考えて、そのようなことは無いだろうと思うわけです。
ましてや蓮師ほどの方が、自身滅後の弟子達の漫荼羅書写を認めていなかったとすれば、それこそ漫荼羅書写を禁ずる遺誡なり遺言なりがあってしかるべきだと思います。
しかし漫荼羅書写を禁じた遺誡等は、蓮師も、また直弟子達のなかにも無かったと存じます。

>六老僧にもそれぞれ直弟子はいたでしょうし、孫弟子もいたでしょう。・・・蓮師は一人で書かなければならなかったのでしょうか。

日興の蓮師曼荼羅への添書の例を考えますと、孫弟子等は直弟子を介して漫荼羅授与がなされていたことも考えられます。
蓮師及び門下への「紙」の供給の問題もあったとは思いますが、蓮師が存命の間は弟子達の書く漫荼羅よりも、蓮師の書く漫荼羅を欲するのは当然の価値判断だと思います。
蓮師漫荼羅>門下書写漫荼羅という価値判断は、今も現世も同じではないでしょうか。

>れんさんがご指摘のように、年代表記に矛盾がある以上、常忍坊の私見聞は第一次資料とはできません。

この点につきましては、そのあとの投稿にて日付のあとに「之ヲ始メ」とあることから、常忍坊は「観心本尊抄私見聞」を「弘安6年4月5日」に完成させたのではなく、「弘安6年4月5日」より書き始めたのではないかとしましたが、それでも日付に問題があり上代文献として価値がないとご判断なされるなら、私には他にご紹介できる文書は存じ上げません。

>日像師は蓮師入滅の時の年齢は幾つでしたか、まだ十代前半の子供でしょう。蓮師は子供にまで漫荼羅の書き方を相伝していたのですか。

そうではなく、昭・朗いずれかよりのまた聞きによるものと判断されます。
しかしその文面にには、漫荼羅の座拝なども示されていることから、蓮祖と面識のある上代諸師の段階で、漫荼羅相伝が文献化していた事実として参考になるかと思いました。

私は一字三礼さんの
>「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではない
とのご投稿とは、考えを異にするものですが、先の私の投稿での「蓮師の意にかなったもの」というのも、不確定な要素からの発信であったと反省する次第です。

2834独学徒:2006/09/05(火) 20:48:36

先の投稿で、一字三礼さんのご投稿の引用が一字抜けていました。

誤:>「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではない
正:>「大曼荼羅の書写」は蓮祖の意に副うものとは言えないのではないか

文意が変わってしまうほどの脱字でした。
謹んで訂正させていただきます。

2835犀角独歩:2006/09/06(水) 09:35:40

れんさん、独学徒さんは、素直に資料をお読みになるほうで、一字三礼さんはまず疑ってかかる、そんな差があるとお見受けします。

わたしは、どちらかというと、一字三礼さんに近いほうなので、いままでも、そんな議論の仕方をしてきたような気がします。ただ、今回は、議論に乗り遅れたこともあり、お三人の遣り取りを、客観的に見られるところがあったので、違う視点から眺める勉強になりました。

本尊相伝というのは、どうも、「後付」の感が否めない。わたしは、そんな思いはあります。

ただ、その際、2点、気になるのは、執行師が指摘された朗・興二門における相伝文が同一であることです。これは中世以降考えられてきた以上、上古においては、この関係が密であったことを物語っているのだと思います。もしくは、どちらかが盗用したということでしょうか。

もう1点。それにしても、既に柳澤宏道師も指摘されていますが、実際のところ、この相伝と残存する書写漫荼羅は一致しない点は、実に興味深く思えます。

一字三礼が賛同くださった、何故、漫荼羅は「書写」なのかという特異点は、この相伝内容と実際の書写漫荼羅の相貌の相違から見るとき、結局のところ、具体的な相伝はなく、後付で相伝が成立していったことを物語るように、わたしは、感じます。

あまり正規な資料とは言えないかも知れませんが、日蓮門下一般、殊に僧侶方の間で読まれていると思える『御本尊の書き方』(有賀要延著・国書刊行会)では

「曼荼羅本尊の謹書は本宗寺院住職としての大事である」としながら、「しからば、その書写の手順は、と問われてみると、それには定められた規則がないことに気付かされる」(序文)と記されています。

朗興二門に先述の相伝があるにも関わらず、この言い様には、驚かされますが、しかし、偽らざる実態とも思えます。また、興門にしても、当掲示板でも既に話題になったとおり、興目両師の曼荼羅で、前者は「写」とし、後者はしからずという相違が存することは、上古已来、蓮興目相伝をいいながら、曼荼羅書写に関する相伝がなかったことを物語っていることになります。さらに相伝文と日興本尊が一致しないとなれば、もはや、いわれるところの相伝の類は、後世の成立、もしくは、本弟子法嗣とは別の成立と見倣さざるを得ないことと思えます。

さて、興門と本尊相伝と密接な関係にあったことが窺える朗門、また、相伝資料を存する常門においては、どのようなあんばいであったのか、もう少し、お三人の議論にお聞かせいただこうと思います。

2836犀角独歩:2006/09/06(水) 14:16:09

失礼しました。敬称を落としました。訂正し、お詫び申し上げます。

誤)一字三礼が
正)一字三礼さんが

2837れん:2006/09/06(水) 20:09:34
私は、あまり資料を素直に読まない方だと個人的に思っていたのですが、やはり独歩さんや一字さんに比べるとまだまだ甘い様です。故執行海秀師のご指摘の通り、朗門と興門には共通の曼荼羅についての教義の口伝書があります。以前どなたか投稿されてましたが、朗門の本尊五大口伝・合掌口伝の内容は興門の本尊三度相伝中初度本尊口伝に対応し、朗門の本尊相伝の内容は興門の三度相伝中三度本尊相伝に対応し、朗門の本尊ノ聞書の内容は興門の三度相伝中二度本尊聞書に対応しています。なお、昭門の御本尊相傳抄十九條にも本尊五大口傳=初度本尊口傳の一文が引用されています。なお朗門の方の奥書には「日朗御相承之趣」云々とあります。
ただ、一応記しますと朗門の相傳中、本門本尊相傳事と言う文献は内容は全く三位日順撰とされる本門心底抄の抜粋であることは注意されるところです。
この朗興両門の共通の文献が、共通の場で原書が成立したものか、それとも何れかが盗用したものか、決定打が無いので決しきれてないのですが、常門の伝承をも勘合すれば、朗門の文献と重複する興門の文献については、両門共通の場で原書が成立した可能性も一応視野に入りますね。
その他、興門の文献では御本尊七箇之相承は内容が両巻血脈と関連しますから、あきらかに後付け、後世成立のものですね。

2838一字三礼:2006/09/06(水) 20:10:27

独学徒さん

門外漢の私の投稿にお付き合いいただき、ありがとうございます。

> 普通に考えて、そのようなことは無いだろうと思うわけです。

私の表現が稚拙で、誤解を与えてしまったかもしれません。

仮に朗・興の二師に、あるいは六老全員に漫荼羅の相伝があったとしても、その他の弟子達全てに相伝したわけではなかったのではないかと想像しております。蓮師の漫荼羅の扱いについての慎重さは「新尼御前御返事」から推測できるものです。

現実としては、独学徒さんも仰るように、蓮師滅後に漫荼羅を書写したのは「本弟子以外の弟子達も含め、多数の弟子達」であったので、六老僧以外の弟子達はやはり相伝なくして書写をしたのではないでしょうか。相伝無くした漫荼羅書写をした、と言うことを蓮師の意に副わないことではないか、という意味で書きました。

> しかし漫荼羅書写を禁じた遺誡等は、蓮師も、また直弟子達のなかにも無かったと存じます。

確かに仰るように、漫荼羅書写を禁じた文書はないのですよね。それでも蓮師在世には、弟子達は誰も漫荼羅書写はしなかったのも事実でしょう。そのへんの事情なり、理由なりがよくわからないところです。

> 蓮師が存命の間は弟子達の書く漫荼羅よりも、蓮師の書く漫荼羅を欲するのは当然の価値判断だと思います。

仰ることはわかります。
では、日昭門流では、昭師存命の間は、その門弟達は漫荼羅書写をしなかったでしょうか。日朗門流、日向門流等でも師匠存命の間は弟子達は漫荼羅書写はしなかったのでしょうか。

常忍坊の私見聞を私が読んでもいないのに第一次資料ではない、との断定は言い過ぎでした。
こちらの掲示板で学んでいる内に、独歩さんもご指摘のように、およそ「相伝書」というものは流派の正当性を主張するために後代に作られた物ばかりなので、その信憑性をまず疑ってかかるようにしているので、あのような失礼な言い方をしてしまいました。


犀角独歩さん

> 日蓮の漫荼羅に関しては、その弟子達は「写」であるというわけですね。

この投稿を拝して思ったのですが、「書写の仕方を相伝」するというのは、なんか変な表現ではないですか。

漫荼羅を図顕した本人が教えるのであれば、漫荼羅の図顕の仕方ですよね。

なのに何故「書写」の仕方を相伝するなどと言う事になるのでしょう。今までなんの疑問も持っていなかったのですが、「書写の相伝」というのはずいぶん変なことなのではないか、と思いました。

2839独学徒:2006/09/07(木) 00:15:10

一字三礼さん、

こちらこそ、れんさんと一字三礼さんのご議論に割って入っておきながら、度々失礼を重ねており誠に恐縮です。

>六老僧以外の弟子達はやはり相伝なくして書写をしたのではないでしょうか。相伝無くした漫荼羅書写をした、と言うことを蓮師の意に副わないことではないか、という意味で書きました。

そうでしたか、御意心得ました。
しかしどうなんでしょうか、本弟子以外には漫荼羅に関する教示は皆無だったのでしょうか、私はこの点はいまだ研鑽の手が入っていないのが現状です。

>では、日昭門流では、昭師存命の間は、その門弟達は漫荼羅書写をしなかったでしょうか。日朗門流、日向門流等でも師匠存命の間は弟子達は漫荼羅書写はしなかったのでしょうか。

興門においては、少なくとも目師が興師存命中に漫荼羅(守)を書写していますね。
しかし本弟子達が、蓮師滅後どの程度指示を受けていたのかも定かではありません。
本弟子以外の弟子達も一門流を築き、常忍坊の例のように入道までもが一門を築いています。
常忍坊に至っては、親子関係はあるにせよ、本弟子の一人である頂師を追い出しています。
波木井入道も諸説によれば興師を追い出しているわけです。
また目師より興師在世に漫荼羅(守)の授与を受けた門流では、歴代は漫荼羅書写の際に「富士山日目上人之遺弟」と記すが如く、興師よりも目師を強調しているわけです。
その意味からも、本弟子とその弟子達との漫荼羅における価値相対と、蓮師とその弟子の例とは安易に比較できないとも思えます。
つまり本弟子達は中老以下の弟子達や在家信徒より、ある意味広範な支持は受けていなかったのではないでしょうか。

2840顕正居士:2006/09/07(木) 00:34:59
書寫は古文書をかきうつす意味にも使いますが、
書も寫もかく意味で、かきあらあわす意味がもとです。

書 write
寫 write,compose,draw
書寫 write by hand

日蓮宗の僧侶が図顕する曼荼羅は何か原本をかきうつしているわけではありません。

2841とんび:2006/09/07(木) 04:20:43
何度も、某法華講員の方の話を投稿してすみません。

一度だけ、仏界の52位の話を聞いたことがあります。
うすら覚えでは、「知らなくても良いこと」「自らは理解することすらできないもの」
「また、言葉では説明出来ない世界」のようなことを話していました。菩薩界の52位が
わかっていれば充分...と話していました。

 私は、その後詳しく訪ねたり聞いたりしていませんが、まあ菩薩界に52位があるなら
仏界にも52位があっても、おかしくないだろう..ということで、一票。

 彼は、正宗信者なので、当然日顕上人や日妙?上人、戒壇の本尊を信仰しています。
 必ずしも、彼の話を信じているわけではなく、意見を異にする場合は、俺はこう思うの
だけれど、どうだろうか...などど、話たりしています。

 ただ、彼は、仏教辞典みたいに、ほとんどのことは答えてくれます。仏界の52位なんて
ことは、どこの仏教辞典にも載っていないと思います。一度詳しく聞いてみたいとは思って
いたりしますが...。

 私は、教学云々はあまり好きではないので、追求したくはないのですが、あくまで紹介と
いうことでご理解下さい。

2842犀角独歩:2006/09/07(木) 07:15:54

2833 一字三礼さん

ええ、わたしも書き写す相伝というのは、どうも、しっくりきません。
ですから、漫荼羅図示に関する相伝がなかったからこそ、書写という形でしか継承の仕方がなかったのではないのかと憶測します。もっとも、富士方以外では、敢えて「写」を記さないものもありますね。


顕正居士さん

> 日蓮宗の僧侶が図顕する曼荼羅は何か原本をかきうつしているわけではありません

先に引用した『御本尊の書き方』では、写す原本を傍らに置くことは、明記されていますが。
ただ、たしかに模写の類とは違うのだろうと思えます。

2843一字三礼:2006/09/07(木) 18:11:50

顕正居士さん

> 書も寫もかく意味で、かきあらあわす意味がもとです。

「書」と「寫」の意味の解説ありがとうございます。

たしかに、言語の意味としてはそうかもしれませんが、仏教圏で書写といえば、まず五種法師にある経典を書き写す「書写」行を意味するのではないでしょうか。

日蓮真蹟遺文で使われている「書写」の意味は全て経典を書き写す行為を指しております。

「漫荼羅書写」と門弟達が表現した理由ですが、弟子達にとって大漫荼羅は、経典と同等か、あるいはそれに順ずるものとの認識があったからかもしれません。

2844顕正居士:2006/09/07(木) 20:03:04
一字三礼さん。

「写」は手で書くことで、複製する意味はありません。したがって「複写」と「複」を付けます。
「写本」はもとは「手稿」manuscriptの意味です。
五種の「書写」もかく意味で、語自体に複写の意義があるのではないと考えます。
現に日蓮宗の曼荼羅は日蓮の作をコピーしたものではなく、図顕した人の独自の作品です。
日蓮などの作を臨写することはありますが、それは曼荼羅ではなく、資料のためです。

2845犀角独歩:2006/09/08(金) 07:02:16

一字三礼さん

日蓮は当初、曼荼羅を文永8年の段階では「之書」(安第1)としていますが、わずか3年後の同11年になると「之図」(安第13)と改めますね。

すなわち、日蓮にとって、漫荼羅は書くものではなく、図すものという認識で定着したことになります。

いま、話題は書か・写かとなっていますが、むしろ、書か・図かというのが日蓮における漫荼羅論であり、にもかかわらず、弟子は、それは書写ととらえて点が、重要なのだと考えます。

なお、実際に書写した人が、どのような思いなのか、という点が議論の対象だと思います。単に自分の作品として書いたのであれば、写したことを意味する花押の部分を「御判」「在御判」とはしないで自分の名と花押を書き、初期の日蓮の如く「之書」とするでしょうし、さらに、いえば、日蓮独特の筆法(光明点/髭題目)を真似しないでしょう。真似ることは既に写であると思えます。

2846とんび:2006/09/11(月) 20:06:16
ひとつひとつ、コメントを返す、時間的余裕はありませんので、こちらに発言
させていただきます。
まず、れんさん、レスありがとうございます。
昨年末、たしかれんさん、だったと思いますが、摂受・折伏の件に付き、過去ログを読まれる
ことを勧められました。そして、たしか200ぐらいまでは、読みましたが、その後は、読む
時間とかをとることは出来ませんでした。摂受・折伏については、自分なりの考えを持ってい
ます。

 また、戒壇本尊は、後生の弟子の創作と感じてはいますが、いつも「もしかしたら本物かも
しれない」という心を持つようにはしています。

 私は、当初より、この掲示板の住人には、ふさわしくないと感じていました。

無学無明さん、コメントありがとうございます。とくにお返しする言葉はありません。
ただ、一点気になるのは、「サッカーはあくまで遊戯の一例であって、心肺・走力の優劣
で勝負が決まるようです」。サッカーを遊戯と単に書いていいものなのか...いろいろ
な見方があるように思います。子供のサッカー、学校の体育時間のサッカー、高校生の
サッカー、プロのJリーグなど、いろいろあります。最近では、イタリアのセリエAでの
不正問題が話題になりました。子供の遊びのサッカーも、養育上好ましいものかどうかは、
いろいろな見方がありますでしょう。プロのサッカーともなれば、生活などがかかるため
必死になっているプレイヤーもいるでしょう。精神面の強さがないと、プロサッカーなど
の選手になるのは大変だと思います。でも逆にイタリアのセリエAなどのこともあるでしょう。
また、チーム経営者と選手とは、分けて考えた方が良いとも思います。

 高校野球は、プロ野球より、純粋に感じる方も多いでしょうが、最近は、○○県の代表
校と称しても、実際は、選手の出身県は、他県の選手が多くを占める...ということも
発生しています。いろいろな見方かありますよね。

 ボクシングやプロレスは、スポーツよりもショーに近いかと思いますが、やっている選手
は、人それぞれの思いでしていると思います。

 言葉の表現とは、まことに難しいもので、無学無明さんが、「遊戯」という言葉をどのような
意図で使用しているのか、また、逆に私が「遊戯」という言葉を、どのように解釈するかで、話が
全くかみあわなくなって、議論しても、無駄な議論になってしまうと思います。

 無学無明さんの発言の意図がよくわかりません..というのが正直なところです。

 れんさん、レスありがとうございました。
 正直なところ、成仏の相についても、わからない方が良い...というのが本音です。
 「ウソも方便」「知らぬが仏」とかの、ことあざ、もあるように、死後の遺体の相に
によって、成仏・不成仏が、決まるという経文でさえ、方便かもしれないと思います。
 「本当は、全く逆」かもしれないぐらいの、思いを常に持っていたいと思います。

 飛行機が墜落して、乗客200人の遺体の全部が、分散して飛び散り、黒こげになった
りしたとしても、その乗客200人、全員が、地獄に堕ちるなんていうことは、ないと基
本的に無いと思います。

 法華経のシャク門には、化城や大白牛車が登場しますが、私には、なにが化城で何が大
白牛車か、などということは全くわかりません。また、それでいいと思っています。

 れんさん、重ね重ねコメントありがとうございました。
 私自身、仕事が本当に忙しいので、こちらでの発言やロムする時間の余裕はなかなかとる
ことができません。

 あと、いくつか、思っていることを述べて、ここの掲示板を去る意向でおります。

 文章がうまく表現できていない部分もあるかとおもいますが、みなさまご容赦下さい。

2847無学無明:2006/09/11(月) 20:48:45
とんびさん。
 謹啓  サッカーを軽視した訳ではありませんが、、少し短絡的な文言は陳謝いたします。
 世の中、勉強が嫌いな子供たちが多い(自分も)中、スポーツ、囲碁、将棋など学校以外の事柄にも興味・関心を持ちそれぞれの才覚を発揮可能な時代は「、一時的に負けて失敗しても再挑戦が可能な時」、かと、思います。
 この点を無視?したような私の発言でした、、深くお詫び申しあげます、、。 今後とも貴重な問題の御提起をご期待を申し上げます、、敬具

2848とんび:2006/09/12(火) 01:11:10
訂正します。

 飛行機が墜落して、乗客200人の遺体の全部が、分散して飛び散り、黒こげになった
りしたとしても、その乗客200人、全員が、地獄に堕ちるなんていうことは、ないと基
本的に無いと思います。

 ではなく、飛行機が墜落して、乗客200人の遺体の全部が、分散して飛び散り、黒こげになった
りしたとしても、その乗客200人、全員が、地獄に堕ちるなんていうことは、ないと基本的に思い
ます。

 そもそも、死後に地獄界がある、成仏があることでさえ、方便の可能性があります。
 この、娑婆世界が、実は、「本当の死後の世界である」と、解釈するとしたら、ここに集られる賢人
・識者の方には、あるていどのことは、おわかりになると思います。

 無学無明さん、コメントありがとうございました。

2849無学無明:2006/09/13(水) 16:46:12
 とんびさん。
  >> この、娑婆世界が、実は「本当の死後の世界である」、、。
 とても、深い、示唆に富む、、今後の展開可能なる御提言と、存知まする。
 ひょっとして、鎌倉時代の方方は「娑婆世界こそ = 前世の名残、、?」、と体感・体得していたかも、?
  インドでは、はびこる差別や身分などを公然と前世からの継続の現生、と受けいれられていました、。 
 これには、種々・難題が付きますが、やはり、避けてはならない「最重要な課題、?」、、かもしれません、。
 諸賢さまのご指導をご期待、、申しあげます、。

2850きゃからばあ:2006/09/28(木) 09:10:03

昭和35・6年頃、学会では「確信御本尊」と呼ばれるものがあり、御受戒なしで御本尊を配りました。
それは当時、末寺から各拠点になっていた幹部の自宅(まだ会館は少なかったので)などに運ばれ、その拠点宅から個人に割り当てられ配られました。
それも週一回とかではなく、ほぼ毎日のようにそれが繰り返されました。
中には大量の御本尊が割り当てられ、配るのに困った人は、なんと駅の改札で配ったこともありました。
さてこの「確信御本尊」ですが、これはどのような経過から始まったのでしょうか?
またこの学会の行動を、もちろん御本尊を下付していた大石寺は、この行動を了解していたのでしょうか?
ご存知の方、ぜひ詳細を教えてください。

2851しゅんかん:2006/10/08(日) 19:16:20
犀角独歩さんへ
私は45歳、学会二世です。私は全く活動をしておりません。皆さんの様に詳しくはありません。
申し訳ありませんが小中学生に話すように説明してもらえますか。
家には、昭和四一年一月七日の特別御形木御本尊があります。父は十九年前に亡くなり、母は数年前から軽い認知症です。
皆さんのやり取りを読まして頂いてぶったまげました。(専門的なことは解りませんが)母も私も家に有るご本尊さんは、
本門戒壇の大御本尊の通りに当時の法主が書写したものだと思っていました。
認知症の母は今も有難いご本尊様と言っております。(特別御形木を指して)信じている母がふびんです。
何故、形木本尊は戒壇の御本尊と言われている物と同じ文字、書式ではないのですか?。日蓮正宗では戒壇の御本尊と同じ文字、
書式の曼荼羅を下付した事が有るのですか、印刷物だとも思っていませんでした。
保田妙本寺の万年救護御本尊は日蓮上人が御書きになられたものですか。保田妙本寺においては信徒にどの様な御本尊を
下付されるか知っておられますか?。
又、日蓮本宗の京都要法寺ではどうなんでしょう?両宗はその宗派の信じている処の本尊と全く同じ物を現法主が書写した曼荼羅を
(コピーではなく)下付するのでしょうか。
まったく素人な質問で申し訳ありません、宜しくお願いいたします。

2852犀角独歩:2006/10/08(日) 21:55:27

2851 しゅんかんさん

はじめまして。
まず、御尊父のご冥福をお祈り申し上げますと共にご母堂様の少病少悩、また、介護、孝養に敬意を表します。
ご質問の件ですが、本日は、諸事・仕事が残っております。改めて、明日、投稿させていただきます所存です。ご寛恕ください。

2853月光浴:2006/10/08(日) 22:17:46
保田妙本寺・・・妙本寺所蔵日興上人印影御本尊(万年救護の本尊は下付は厳禁)
        以前はあった。
京都要法寺・・・檀家の要請に応じて現貫首書写の板・紙幅本尊(以前は要法寺所蔵
        の符法曼陀羅を授与していたが、現在は行っていない

2854犀角独歩:2006/10/09(月) 09:42:07

しゅんかんさん

保田、要法寺の件に関しましては、月光浴さん(はじめまして)がお答えになっておられるので、わたしは触れないこととします。また、この件は、今のところ、わたし個人はしっかりと調べておりません。諸賢にお任せいたすことといたします。

> 1.日蓮正宗では戒壇の本尊(と言っている)と同じ物を書写した曼荼羅を信徒に下付したことがないのですか?

過去にはしたことがあったようです。現物を見たわけではありませんが、大阪に一寺、東京で二寺、これを所蔵しているところがあると聞いております。また、大石寺に提出した宝蔵報告書のコピーを何点か有しています。

「戒旦大御本尊御写」
「宗門第一之重宝御戒壇正写…」

上記、資料で、両者同一の授与者になっているのにもかかわらず、一つめが日布、二つめが日胤が写したものとなっている点です。(この点の考証は、他に譲ります)

なお、大石寺のアナウンスでは日有が身代わりとして模刻したといいます(大石日応氏『弁惑観心抄』細井精道(のちの日達)氏『悪書板本尊偽作論を粉砕す』)が、この実態は、不詳です。

> 2.日蓮正宗はなぜ戒壇の本尊(と言っている)と同じ物を書写し信徒に下付しないのですか?

藤川さん流の説明をすれば、一般信者には、印刷の仮本尊で済ますというのが、大石寺の考えであるから、となるでしょうか。

明治44年に発刊された熊田葦城氏著『日蓮上人』には「由井一乗居士特に寄贈せらる」(P375)と但し書きを付して、この写真が掲載されました。この段階では、洛陽の紙価を高めましたが、その後、立正安国会より『御本尊集』が発刊されるや、日蓮真蹟漫荼羅本尊の筆法の特徴は巷間によく知られるところとなりました。これら御筆本尊(真蹟)と比較すれば、所謂「本門戒壇の大御本尊」が偽筆であることは、火を見るごとく明らかなること、白日に晒される結果となったわけです。こうなれば、それまで写真を撮らせたり、正写もし、悠長に構えていたところを翻さなければならなくなったという顛末がそこにあるのだと、わたしは考えます。

ついで「写真を撮ることが謗法だ」という愚かな口コミ操作で、現在に至るまで信者会員を欺いています。余談ながら、写真を撮るのが謗法であれば、大石寺、創価学会が信者・会員に頒布している印刷本尊は作成の段階で写真製版されているわけですから、そもそも、その本尊こそ謗法と言うことになります。まことに天に唾を吐く類の愚論というほかありません。なお、漫荼羅本尊の写真については、大石寺では古い『富士宗学要集』に載り、創価学会でも『大白蓮華』にも掲載されていたわけですから、撮影が謗法であるという張本人が、その謗法を犯しているという矛盾を来しているわけです。

なお、大石寺では、本尊書写に関しては『本尊三度相伝』『御本尊七箇相承』を挙げますが、いずれの書によっても、「戒壇本尊」を書写したのでは、相伝、相承と相違してしまいます。また、伝日道書とされる『御伝土代』にも漫荼羅本尊の讃文仏滅年代は「二千二百三十余年」とあるにもかかわらず、「戒壇本尊」では「二千二百二十余年」となっています。(『富士宗学要集』)

つまりは、「戒壇本尊」と称されるものを写したのでは、大石寺がいう相伝・相承書写に違反するという矛盾を来すことになるわけです。そして、さらに言えば、実際に死信者・会員に頒布されている本尊は、この相伝・相承ともまた相違しています。つまり、二重三重に信者会員は欺かれてきたわけです。

> 3.保田妙本寺の万年救護本尊は日蓮上人が御書きになった曼荼羅ですか?

「曼荼羅」というより、この一幅ばかりは「大本尊」というべきでしょうが、古来、真偽説はなく、真蹟であると、わたしも考えます。
『御本尊集目録』によれば

「宰相阿闍梨日郷上人の『安房国北郡吉浜村内中谷奉龍置本尊聖教事』(文和二年卯月八日)中に左の如き一條を存する(『宗学全書興門集』280頁)
 一、日蓮聖人御自筆本尊一舗 文永十一年甲戌十二月日」(P24)

とあります。文和二年といえば、西暦にして1352年、日蓮滅72年を経るばかりの時期ですから、この書に証憑性があれば、看過できないところといえます。

2855犀角独歩:2006/10/09(月) 10:00:04

【2854の訂正】

誤)死信者・会員
正)信者・会員

2856しゅんかん:2006/10/09(月) 10:34:34
月光浴さん、早速のご返事ありがとうございます。
つまり、妙本寺では万年救護本尊以外だがコピー物じゃない
曼荼羅を下付するのですか?

2857しゅんかん:2006/10/09(月) 11:36:49
犀角独歩さん、詳細なご回答ありがとうございます。
さて、独歩さんどこかで法主(上人、貫首)の書写でもコピー物じゃ
ありがたみがない、等の文面を拝読した様に思います。同感です、
日蓮系の既成宗派で(新興系以外)法主の本尊書写直筆を下付する派は
存在するのでしょうか?。
そして又、御教え頂きたい点がございます、ご享受お願い致します。
1.多くの書物等にも記載されておりますが、日興上人は日蓮の教えを
妥協をゆるさず、かたくななまでに守った。
2.日興上人の時代においては、曼荼羅本尊のみではなく、仏像崇拝もしていた。
3.日蓮は曼荼羅に仏滅後二千二百二十余年のみしか記していない?。
4.興門派等は日蓮本仏論を唱えていますが、当の日蓮は釈尊よりも私を崇拝
しなさいと日興に言った?。
5.又、この事はあまり論じているのを見かけた事がないのですが、
(私の見識不足でしたらすいません)興門派等は勝劣派に属していますが、
法華経二十八品の後半十四品に法華経の真髄があると唱えているのですよね。
ですが、独歩さんもご存知と思いますが、私の家にある大石寺版の
勤行要典の出だしは方便品第二からです、これは迹門ですよね。
どうしてですかねエ?方便本第二は短いからって事でまっ言っかって事ですかねエ?
以上、本当にド素人申し訳ありません。
管理者さんへ、素朴な疑問を開設して下さり、有難うございます。
感謝しております。

2858犀角独歩:2006/10/09(月) 13:17:58

しゅんかんさんのご質問はなかなか核心を突いたもので、かつ現役信者会員としては、先輩、もしくは大石寺僧侶には聞けない点だと思えます。つまり、聞いても、杓子定規の嘘を信じろと共用されるばかりの部分だと思いました。

> 日蓮系の既成宗派で(新興系以外)法主の本尊書写直筆を下付する

というか、法主ならずとも、本尊書写はされるでしょう。
事実、わたしは大明寺住職・楠山泰道師が謹写された二舗の漫荼羅本尊をいただいていますし、実際、奉安しています。


> 1.多くの書物等にも記載されておりますが、日興上人は日蓮の教えを妥協をゆるさず、かたくななまでに守った。

まあ、そんなふうに喧伝する古文書に堪能で、しかし、「戒壇本尊」の真偽を論ぜず、日蓮本仏、日興正嫡を論じる人々が、他門下も、傾聴しているという様はあります。
また、故高木豊氏も、日興をたいへんに高く評価していたと聞きます。
わたしはしかし、慎重です。日興の教学は、天才・日澄を得て、発展したものであって、日蓮の教学からは、飛躍が見られると思えるからです。

> 2.日興上人の時代においては、曼荼羅本尊のみではなく、仏像崇拝もしていた。

それは当然ではないでしょうか。『原殿書』などに、その様が見られます。
また、日興は、大石寺系が言いようを借りれば、身延の正当な後継者であったというわけです。その身延の墓所には、日蓮が終生、持仏とした釈迦仏像が置かれてあったわけです。これを盗み取られたと憤慨しているわけです。その御仁がどうして、仏像批判者であるわけがあるでしょうか。

> 3.日蓮は曼荼羅に仏滅後二千二百二十余年のみしか記していない?。

いえ、そんなことはありません。「二千二百三十余年」は、もちろんあります。

> 4.興門派等は日蓮本仏論を唱えていますが、当の日蓮は釈尊よりも私を崇拝
しなさいと日興に言った?。

そんな証拠は、寡聞にして、存じ上げません。

5.…興門派等は勝劣派に属していますが、
法華経二十八品の後半十四品に法華経の真髄があると唱えている…方便品第二…迹門

これはもっともな疑問だと思います。
この点の整合性を採るために、日寛は「所破借文」のためであるというわけです。しかし、これは説明になっていません。

方便品の諸法実相、十如是の文なくして、一念三千論は成立の仕様がありませんから。

2859月光浴:2006/10/09(月) 17:59:17
しゅんかんさんの言われた日興上人の曼陀羅は、写真製版で継目やシミまで詳細
に印刷されています。白黒ですが表具も布表具で正宗さんみたいに、紙表具では
ありません。下付も妙本寺信徒6ヵ月以上で五千円の冥加料が必要と聞いています。
信徒でも法華講組織があるわけではなく、日曜日の御影様開帳に参詣をし、境内
の墓地にお墓があれば、下付を申し出が可能みたいです。
万年救護の御本尊は埼玉の仏具店の主人が開帳後に寮(庫裏)で販売していました。

2860しゅんかん:2006/10/10(火) 00:39:58
月光浴さん有難うございます。見聞の深さに驚きました。
興門派と言われている重須本門寺について少しお教え頂きたいと思います。
皆さんご承知の通り、現在は日蓮宗に属しておりますので身延系と教義の差はあれ、
やはり日蓮宗では重須本門寺に寛容ようでありますね。
その事は日蓮宗 現代宗教研究所 早城鳳城氏のご講義内でも見受けられます。
(身延系からみて矛盾点は有ってもあえて突付かないのだなと感じられました)
さてそこで。
1.日蓮正宗は重須本門寺では仏像崇拝を行っていると発していますが
本当でしょうか?
2.重須本門寺の信徒における下付本尊とはどの様なものですか?
3.身延系においては御祈祷(家内、交通、安産、水子等)と言うものを行う
様ですね、日蓮正宗では行はな様に思います。重須では?
4.重須本門寺の末寺は関西圏に存在しますか?
5.身延系においての僧侶の法衣は赤、紫と煌びやかですが日蓮正宗のそれ
(薄い灰色)とは相違します、重須はどっち?
6.又、私は幼少の時からこの法衣の事を聞いておりました。赤や紫と言った
派手な物は正宗では身に付けない、先月、京都要法寺(私の住まいは大阪なので)
に行って参りましたが、正宗と全く同じ事を僧侶がおっしゃっておられました。
本堂内も同じ様に質素でした。そうそう、仏花と言うのですか?やはりシキビでした。
そうでした!ついでに法華宗大本山、本能寺にも参り本堂も拝観させてもらいましたが、
正宗、要法寺とはやはり違いました(本能寺は勝劣派でしたっけ?)
今日、家の近くの身延系、京都妙顕寺派の寺院に参りましたがキラキラと煌びやかでした。
少し話が広がりましたが、重須においての法衣?仏花はシキビ?法華の太鼓?(団扇太鼓?)
を叩く?そして、日蓮はどの様な法衣?仏花?太鼓は叩いた?
以上宜しくお願いします。




どなたでも結構です、宜しくお願い致します。

2861月光浴:2006/10/10(火) 01:20:04
北山本門寺も要山と同様に檀家以外には本尊下付は行っていないようです。
檀家は布施をお供えして、貫首さんが一体ずつ書写をしていますので製版本尊なる
類は今は無いと思います。
私は先代日幹上人より、形木本尊を授与して貰い脇書を認めて戴きました。
日興門流は正宗さんを除けば、薄墨色の法衣・同色の袈裟を着衣します。
御祈祷は現貫首さんの言を借りれば、真言の亜流との意識で行われてはいませんが
塔中の養仙坊さんは御祈祷をしていますね。
仏像は御影の事を指すのでしょうかね! 冨士門では古刹寺院にはどこにでもある
と思いますよ!!

2862ぷー:2006/10/10(火) 20:27:22
現在の北山・本間貫首は薄墨の衣をかたくなに守っていらっしゃるようです、
旧本門宗で出家され所謂日蓮宗には特に愛着も感じられない点が目立ちますね。
教学でも先代片山貫首の頃より一段と日興門流の匂いが強く感じられます。
但し、国柱会の影響も大きい方ですけどね。

2863南註亭:2006/10/11(水) 14:57:57
本間上人の
「大本門寺の策源地づくり」世尊寺・発行、平成6年5月、B5判、62頁、非売品。
「日興上人の風光」ニチレン出版、平成8年5月、四六判、313頁、2500円。
この2冊は分かりやすいですし、内容的にもしっかりした著作ですね。
「お薦めスレッド」の方がよかったかもしれませんが、話題の流れでこちらで紹介させていただきます。

2864しゅんかん:2006/10/11(水) 22:22:43
月光浴さん、ぷーさんありがとうございます。
1.月光浴さん、すいません私の言葉足らずでした。
仏像崇拝とは日蓮上人像ではなく身延系の釈尊像や大黒さん鬼子母神、
他のことです。
2・ぷーさん、重須本門寺と国柱会とは何らかの関係が有るのですか?
日蓮上人はどの様な法衣を着、仏花を供え、団扇太鼓を叩いたか?
どなたかご存知の方お願いします。

2865月光浴:2006/10/12(木) 01:18:04
富士門でも要山や重須の末寺でも鬼子母神・釈尊を祀る所もあります。
身延・池上・中山等は仏寶は久遠の釈尊ですので、当然釈尊・一塔両尊四士
を拝むのは当たり前です。

2866藤川一郎:2006/10/13(金) 09:48:34
>>2864
日蓮宗に伝わるところの、小松原剣難時の「血染めの袈裟」は「白五条」です。


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