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素朴な疑問

2854犀角独歩:2006/10/09(月) 09:42:07

しゅんかんさん

保田、要法寺の件に関しましては、月光浴さん(はじめまして)がお答えになっておられるので、わたしは触れないこととします。また、この件は、今のところ、わたし個人はしっかりと調べておりません。諸賢にお任せいたすことといたします。

> 1.日蓮正宗では戒壇の本尊(と言っている)と同じ物を書写した曼荼羅を信徒に下付したことがないのですか?

過去にはしたことがあったようです。現物を見たわけではありませんが、大阪に一寺、東京で二寺、これを所蔵しているところがあると聞いております。また、大石寺に提出した宝蔵報告書のコピーを何点か有しています。

「戒旦大御本尊御写」
「宗門第一之重宝御戒壇正写…」

上記、資料で、両者同一の授与者になっているのにもかかわらず、一つめが日布、二つめが日胤が写したものとなっている点です。(この点の考証は、他に譲ります)

なお、大石寺のアナウンスでは日有が身代わりとして模刻したといいます(大石日応氏『弁惑観心抄』細井精道(のちの日達)氏『悪書板本尊偽作論を粉砕す』)が、この実態は、不詳です。

> 2.日蓮正宗はなぜ戒壇の本尊(と言っている)と同じ物を書写し信徒に下付しないのですか?

藤川さん流の説明をすれば、一般信者には、印刷の仮本尊で済ますというのが、大石寺の考えであるから、となるでしょうか。

明治44年に発刊された熊田葦城氏著『日蓮上人』には「由井一乗居士特に寄贈せらる」(P375)と但し書きを付して、この写真が掲載されました。この段階では、洛陽の紙価を高めましたが、その後、立正安国会より『御本尊集』が発刊されるや、日蓮真蹟漫荼羅本尊の筆法の特徴は巷間によく知られるところとなりました。これら御筆本尊(真蹟)と比較すれば、所謂「本門戒壇の大御本尊」が偽筆であることは、火を見るごとく明らかなること、白日に晒される結果となったわけです。こうなれば、それまで写真を撮らせたり、正写もし、悠長に構えていたところを翻さなければならなくなったという顛末がそこにあるのだと、わたしは考えます。

ついで「写真を撮ることが謗法だ」という愚かな口コミ操作で、現在に至るまで信者会員を欺いています。余談ながら、写真を撮るのが謗法であれば、大石寺、創価学会が信者・会員に頒布している印刷本尊は作成の段階で写真製版されているわけですから、そもそも、その本尊こそ謗法と言うことになります。まことに天に唾を吐く類の愚論というほかありません。なお、漫荼羅本尊の写真については、大石寺では古い『富士宗学要集』に載り、創価学会でも『大白蓮華』にも掲載されていたわけですから、撮影が謗法であるという張本人が、その謗法を犯しているという矛盾を来しているわけです。

なお、大石寺では、本尊書写に関しては『本尊三度相伝』『御本尊七箇相承』を挙げますが、いずれの書によっても、「戒壇本尊」を書写したのでは、相伝、相承と相違してしまいます。また、伝日道書とされる『御伝土代』にも漫荼羅本尊の讃文仏滅年代は「二千二百三十余年」とあるにもかかわらず、「戒壇本尊」では「二千二百二十余年」となっています。(『富士宗学要集』)

つまりは、「戒壇本尊」と称されるものを写したのでは、大石寺がいう相伝・相承書写に違反するという矛盾を来すことになるわけです。そして、さらに言えば、実際に死信者・会員に頒布されている本尊は、この相伝・相承ともまた相違しています。つまり、二重三重に信者会員は欺かれてきたわけです。

> 3.保田妙本寺の万年救護本尊は日蓮上人が御書きになった曼荼羅ですか?

「曼荼羅」というより、この一幅ばかりは「大本尊」というべきでしょうが、古来、真偽説はなく、真蹟であると、わたしも考えます。
『御本尊集目録』によれば

「宰相阿闍梨日郷上人の『安房国北郡吉浜村内中谷奉龍置本尊聖教事』(文和二年卯月八日)中に左の如き一條を存する(『宗学全書興門集』280頁)
 一、日蓮聖人御自筆本尊一舗 文永十一年甲戌十二月日」(P24)

とあります。文和二年といえば、西暦にして1352年、日蓮滅72年を経るばかりの時期ですから、この書に証憑性があれば、看過できないところといえます。


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