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素朴な疑問

2824犀角独歩:2006/09/04(月) 09:44:26

しばらくネットを閲覧していなかったのですが、なかなか興味深い議論が進んでいたのですね。

わたしは、基本的に首題の真下に日蓮在御判と書き、書写本人の名前を書かないのが、まあ、正しい本尊であるという見解は‘書写’に限って言えることなんだろうと考えます。書写は、あくまで書写ですから、本人が認めたことを示す、花押(判)までそのまま移してしまっては混乱が生じます。となれば、在御判、もしくは御判と記すことは、いわば書写の矜持であると思うからです。

相伝の可否が話題になっていますが、これは、やはり、正式なところはなかっただろうと思うのは、皆さんのご意見と同意見です。

そもそも、相伝があったとすれば、その人は、日蓮その人となるわけですから、書かれる漫荼羅は書写であるというのは、実はおかしなことではないのか、と最近は考えています。

たとえば、ある集団に、初代責任者がいて、なにがしかの認証書類を出し、自分の判を押したとすれば、これは正式なものとなります。では、2代責任者が、同様の書類を書くことを想定した場合、二つのケースが考えられます。(複写機というものがない想定です)それを手で書き写す場合、そして、同一内容の認証を出す場合です。前者の場合、初代と同じ判を押してしまえば、文書偽造となりますから、判の部分は「印」と書くでしょう。しかし、2代目と職にある立場から新たな認証を出すとすれば、文面は同一であったとしても、自分の名前を書き、自分の判を押すでしょう。わたしは漫荼羅を、本尊というより、師弟子の允可としての要素を持ったものであるという仮説を持っていますから、このような視点から漫荼羅を眺めています。ですから、首題の下に図示写本人の名を書かれたものは、その意味を異にするのではないのかという仮説も立てています。

いずれにしても、今日蓮である血脈相伝者は、その内証からすれば、日蓮そのものであるわけですから、それが何故、書写と記さなければならないのか、書写ではなく内証を同じくする立場から、自らの名を記しても齟齬は来しません。しかし、ここで、書写と記すとちぐはぐになるというような思惑も存します。まあ、ほとんど、独り言のような投稿になりました。失礼しました。


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