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素朴な疑問
2777
:
犀角独歩
:2006/08/26(土) 10:55:37
いま、ここで、わたしが示す疑義は、既に柳澤師が『石山本尊の研究』で述べています。
日顕氏が本音は、ともかく、以下のように発言し、それを「日蓮正宗創価学会」として両宗教法人が認める出版物に掲載された以上、これは石山・学会とも、公式見解と見なせることになります。
「抑も当山より授与するところの御本尊は、末法の一切衆生に御総与遊ばされたる此の大御本尊の御内証を、代々法主唯授一人の相承を以て、之を写し奉りて授与せしむる」(御戒壇説法 写真集日蓮正宗創価学会32頁)
と、同書P116に紹介されています。
つまり、石山本尊は彫刻本尊を書写したという‘建前’を、実際の相貌との差異を「内証」と言いくるめて、信者を欺したものであるわけです。
石山歴代は、自ら本尊を書いているわけですから、それが彫刻本尊と相違していることは知ったうえでしょう。これが正直な本尊書写でしょうか。正直な信心をいう宗派において、不正直、換言すれば、嘘偽りを知ったうえで書き、印刷し、大量頒布され本尊とされたものに信仰的な価値があるのだろうか、というのが、わたしの問いかけです。
かつて敬台院は日精に腹を立てて、その本尊を拝むことを拒否したという逸話が残っています。いま、学会は、日顕氏の不相承を盾に、この本尊を拒否しています。このような感情論を信仰世界に持ち込んでよいかどうかは一考の余地がありますが、しかし、実際は彫刻本尊を写したものでもないものを「書写」と謀って信者会員に貸与された本尊の、信仰的価値はどうなのか、わたしは「ない」と思いました。
ただ、わたしの恩人の祖父、楠山日かん師は、問答を設けて
【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。
【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001.html
とも言い、一致派らしい、寛容を示されていました。
しかし、彫刻本尊以外は、たとえ御筆漫荼羅でもダメであるといってきた石山・学会においては、この論法は立たないでしょう。
なお、書写については、日寛も本尊抄文段に五種法師の「書写」を証とします。法師品に書写行とは法華経典を一字一字誤りなく正確に写すことを言うわけですね。経典に釈提桓因とあれば釈提桓因、それを勝手に内証を写すなどといって帝釈と書き換えてしまったり、二千二百二十を二千二百三十と書き換えてしまえば、これは誤写、改竄の責めは免れません。斯かる姿勢で書かれた漫荼羅は、正直な信心の、本尊とたり得るのかという疑義です。
たぶん、ここで、議論に参加され、日蓮本仏論が後世、中古天台本覚論・恵心流口伝法門の焼き直しで捏造されていったものであると知り、真蹟遺文に久遠元初、自受用報身という教義がないことに気付いた人々が、まず、捨てざるを得なかったのは、石山勤行の観念文だったのではないでしょうか。なぜ、捨てざるを得なかったのか、それが日蓮その人の教義ではないと気付いたからです。
同じことは本尊にも言えないでしょうか。彫刻本尊を書写したという本拝んできたわけですが、原本が後世の模造品であるとき、いったい、それをその書写(彼の言い分では内証?)したものが本尊たり得るかどうか、わたしは、このハードルを越えざるを得ないと思えます。
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