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誹謗中傷って、何?
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最近、よくインターネットでの誹謗中傷ちうことがクローズアップ
されておるが・・・
誹謗中傷って、何?(笑)
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人間は見たいものしか見ない,信じたいものしか信じない。
そういう意味では自分勝手です。
けれど、それは世界のあまりの残酷と非情に立ち向かうには,人間という生き物はあまりに脆弱すぎるのかも知れません。
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「差別」と「誹謗中傷」が、ごっちゃに(笑)
「差別」わ、悪くないよ。
「差別によって不利益蒙った御仁の言い分が通って、不利益に関する回復又は保障がなされた」
時点から、その特定差別が「悪い」ことになるだけでねぇ。
もし差別が悪いなら、飛行機に乗ってる乗客わすべて「エコノミークラス」でなくては
ならないわけだ(笑)
差別わ、悪いことでわないよぉ〜
誹謗中傷わ、「評価されたくない相手から評価されたことに対する怒りの表現」だよぉ〜
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あと・・・
「問題を問題にしない」ちうのわ、あくまでも「自らの選択」だよね。
「問題を問題にしてる」御仁と、「問題を問題にしない」御仁の間でわ
その「問題を解決するか否か」についての争いが起こるわけでねぇ(笑)
問題を問題にして解決迫るのわ、まさに「意思の強要」に他ならないわけで。
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>>114 緑装薬4さん
>もし差別が悪いなら、飛行機に乗ってる乗客わすべて「エコノミークラス」でなくては
ならないわけだ(笑)
国語辞典によると
さべつ 1 【差別】
(名)スル
(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
「いづれを択ぶとも、さしたる―なし/十和田湖(桂月)」
(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。
「人種―」「―待遇」
(3)〔仏〕「しゃべつ(差別)」に同じ。
とありました。
一般に差別を問題にする場合は、(2)、の場合を指します。
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だいたい予想の範囲内の回答をありがとうございます。
私の基本的な主張は、>>108で要約されているように、
「知らないことは仕方がない」「知らない者には責任が無い」
に集約されます。
これについて、(1)知っているのに判断しなかった場合の意見に限って言えば、>>107のうろちい氏の言い分は理解できますが、ここからが問題です。
あるかないか、問題が存在しているかいないかもわからない場合に、あるかないかわからない問題を知る努力というのは、どれほどすべきものなのか? また、あるかないかわからない問題を知らないと罪になるという前提で、問題を追い求める(追い求める作業を一段落させるために、あるかないかわからない問題を【ある】ことにしてしまう)というのは、限りがないのでは?
私はうろちい氏の見解とは異なり、「知ろうとする努力義務」は【ない】と思います。
知ろうとすることができるのは、知るべき対象が【ある】という前提で探す場合です。
Googleで我々が検索できるのは、探したい対象がなんであるかを朧気ながらであってもわかっているから、「探せる」のです。
あるかないかわからない、問題であるかどうかもわからない、そういうものを探すことはできません。
これは、選択とは言えません。
うろちい氏にしても、>>108さんにしても、疑問を投げかける側として、すでに自分が「これは問題だ」と思っている問題を明確に持っているから、それにまだ気付いていない人に対して「自分が気付いていることに気付かないのは、知る努力が足りないのだ!」と言えるんですよ。
うろちい氏も>>108さんもご存じない問題があるにも拘わらず、それについて知ろうとする努力をしていないのは義務違反だ! と言われても困るでしょう?
自分が知っているからそれについて相手に「問題の存在を教え」て、相手に判断を迫るというのならまだ理解もできます。
しかし、「そもそも問題の存在が知られていないのに、そのあるかどうかわからない問題を探さなかった罪」を言うのは、おかしい、と。
「イスカンダルにワープする方法があるはずなのに、それについて追い求めようとしないのは知ろうとする努力義務に反している!」とか、今言われても困るでしょう(^^;)
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次に、「知ってしまったら判断をしなければいけない」という話についても異論があります。
判断というのは、手に入れた情報が正しければ下すことができます。正しくない場合であっても、「判断を下すのに充分足りている」と思えれば判断を下せるかもしれません。
しかし、
・今の今まで知らなかったことを、「これは問題である!」と手渡される
・それが問題であるかどうかを充分に吟味できる情報を見聞/検分していないのに、「すぐに判断を下せ」と言われる
これはおかしい。
そもそも「本当にそれは問題であるのかどうか?」を考えなければならない。もしかしたら問題ではないのかもしれない。
ひとつの証言だけを鵜呑みにして、例えば喧嘩の仲裁に入るときに、殴ってる方の言い分だけ、殴られてる方の言い分だけ、どちらか一方しか聞かないで判断していいものなのか?
当事者が二人いるなら二人の意見を両方とも聞かないと判断できないでしょう?
事態が「得をするものと損をするもの」「加害者と被害者」がいて、「損をする被害者」を自称する側からだけ聞いた意見を鵜呑みにして、「問題だ!」「判断しろ!」というのはおかしい。
しかし、そうなって初めて「いろいろ知ろうとする(判断が求められているならば)」のであって、そのような事態にならない限り、「判断を求められもしていないのに、問題を求めて彷徨う」というのはおかしい。
うろちい氏は「知る努力義務を果たすべき」と言いますが、知る努力義務を果たせば果たすほど、慣熟した判断を下すのには時間がかかるのでは?「現在調査中、情報検分中につき態度保留」とした場合、それは「判断とそれに伴う責任を回避した」ことになりますか?
判断に必要な情報が充分かどうかを誰が補償するんです?
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>>108
具体論についてのハンセン氏病の件については、ここではこれ以上踏み込まないつもりでおりますが、ひとつだけお許し下さい。
「今日まで知らなかったで済ませられます」
知らなかった問題については、判断はできません。
今日知らされたのなら、知らされた情報がどこまで正しいのかを、例え時間が掛かっても充分に検分すべき(=これが「知ろうとする努力義務」)でしょう。
その情報の検分が不十分な状態で判断を下すのは、むしろ「無責任」でしょう。
あらゆる問題というものは、判断を求められる人間が問題の存在を「知った」瞬間から始まるものです。
問題を知らないうちは、判断も求められません。
そして正しい判断をするのには、問題を構成する情報をよく検分=知ることが必要であり、拙速な判断は好ましくありません。
マスコミが知らせなかったら、それはマスコミの責任。
我々一般人がそれを知らなかったとしても、知らされるまでは責任を負う義務はありません。
「問題だと訴える人」を知った瞬間からですよ。始まるのは。
それ以前は始まってなんかいやしないんです。なにも。
また、判断と行動が求められ、それに期限があるときだけですよ。「本当に問題かどうか?」を一生懸命突き詰める努力も。
先ごろ、ソースロンダリングを基軸とした事件がありましたけれども(子細は面倒なので避けますが(^^;))、「それは問題だ!」と言い出す前に、「本当に問題なのかどうか?」は調べないと。
また、「問題だ!」と言いだすのは、不利益を被る人であるわけですが、不利益を被る人の言い分が常に正しいとは限らないわけです。(ハンセン氏病の件は念頭から外してください。一例を持って全体を論じることになりかねないので)
そう考えると、「問題だ!」と言い出した人間が弱く可哀想な正義で、それには従わないといけない、その言葉は検証せずに受け入れなければいけない、そうした弱者の存在を知る努力を怠っていたものにも罪がある……という原因の根幹を追い求めて罪悪感を無理矢理共有させるようにし向ける思考については、少なくとも私は共有できません。
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そういうわけで、
うろちい氏、>>116さんがまだご存じない問題について、知ろうとする努力義務が足りない、罪を共有せよ!
何が問題なのかは、知ろうとする努力が足りないから知らないのだ!
と、【問題を隠した謎々の問題と答えを、知らないことを理由に責任を追及された場合】に、どうなさるのかをお答えいただければ幸いです。
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>>120 ヤスツさん
>【問題を隠した謎々の問題と答えを、知らないことを理由に責任を追及された場合】に、どうなさるのかをお答えいただければ幸いです。
世界中のあらゆる問題について、知り得ないこと、知らなかったことは当然あります。
その場合例え責任がないとしても、問題は存在し、結果も表れます。
前に「オゾン層破壊」の場合を話しましたが、その結果は自分自身や自分の子孫に降りかかります。
「知らないことは仕方がない」「知らない者には責任が無い」としても
その結果として、自分であれ他人であれ被害をこうむる・・・それをどう考えるかですね。
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ヤスツさん
今「テロへの先制攻撃」と称して、サドル師が潜んでいると
めぼしをつけられたところが空爆を受けています。
それを「知らない」としても、責任を取らされたり、断罪されたりはしません。
だけどもし、ヤスツさんが、イスラム教徒だと「知らない」で、
自分の経営する会社に、雇った人が
あるいは、持っている賃貸住宅に、入居させた場合
その人がテロリストの親玉だと疑われて、会社ごと、住宅ごと空爆されたとしたらどうでしょう?
「知らない」ことが、免罪符にならない場合も多々あるのではないでしょうか?
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>>119
>「今日まで知らなかったで済ませられます」
基本的にはそうだと思います。
知らなかった事は,少なくともその時点までは「無い」事ですから。
ただ、この考えは
「知らないのなら仕方ない」→「知る事によって責任を負いたくない」→「問題から目をそむけ耳を塞いで気が付かないことにする」
ということに繋がらないでしょうか?
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>>119
>あらゆる問題というものは、判断を求められる人間が問題の存在を「知った」瞬間から始まるものです。
>問題を知らないうちは、判断も求められません。
>そして正しい判断をするのには、問題を構成する情報をよく検分=知ることが必要であり、拙速な判断は好ましくありません。
これは知ったあとの態度ですよね。
その問題をなんらかの形で知った時,脊髄反応的と言うか感情的に「ひどい、かわいそう」というのではなく、
「果してそれは本当なのか?」「その問題がどうして生じたのか?」を自分なりに調べて考える事。
そうではないと実は問題だと思っていたことが問題ではなく問題はよそにあった、ということもいくらでもあります。
一見,弱者の為の正論であったり、また、社会規範に基づく正しい物であったりするように見せかけながら、実はその裏には異なる意図が隠されているケ−スもあるでしょう。
ただそれは「知らないから仕方ない」ですむ範囲がどこまでか?ということなのでしょうね。
かつて掲示板で無限責任論を唱えていた方がいましたが,私はこれには同意できません。
というのは、なんらかの問題に少しでも関ると,己が感じざるを得ない責任は非常に重くなります。
例えば反戦デモにいってそれで終り,というわけではない。
実際戦争を停める為に出来うる行動をするでしょう、けれど、それでもかなわなかった時,反戦デモの参加者には戦争責任が生じるのか?
戦争で傷ついた人々を救済しようとしても、実際現地に行く事が出来るか?(イラク人質事件はこの問題を付きつけられる筈だったのですが,本当は)
治安安全上の問題や、もっと日常的な問題(時間,お金が無いといった)で事を行えなかった場合,責任は生じるのか?
例えばイラク攻撃に反対し,アフガニスタンへの救援活動をしている人間がス-ダンの内戦について,最近まで知らず,またス−ダンの人々になにもしなかった場合,ス−ダンの人々に関して責任は生じるのか?
アフガンに対してとス−ダンに対して,どちらかしか責任を負えない(具体的に言うと,募金できる額が5000円しかなくて双方から5000円の募金を求められたとか)場合,負わなかった側に責任が生じるのか?
上手く言えないのですが,負うべき責任が重すぎると、123で書いたように見ないふりを洗濯してしまうこともあるのではないでしょうか?
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>>121
「知らなかったのだから仕方がない」
というのは、「知らなかったから、それに伴う被害を受けなくてもよい」という意味とイコールではありませんよ。
知ったことによってできる判断の多くは、「被害を最小するする努力の機会を生かすかどうか」でしょう。
知らなかったことによって、仮に被害が「知らなかった当人」に起きる場合は、被害を甘んじて受けるしかないでしょう。
ですが、それを後から「知ろうとしなかったから罰が下った」とか「知ろうとしなかったから悪い」とか、そういうのは違うだろうと思いますよ。
知らなかったから仕方がない。
知らなかった者には責任はない。
が、責任はなくても被害を被ることはある。
そして知らなかったことで、被害を回避できないこともある。
>>121さんは、「責任」と「被害」を混同していませんか? それは別のことだと思うんですが。
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>>122
その問いについて答えるとするならば、
「(雇った相手がイスラム教徒だと)知らなかったのだから(家族が死んでも)仕方がない」
ですよ。
何度も言いますが、「知らない」ことが免罪符になるとは言っていません。
「知らない」ことは、自分に降りかかる被害の回避をする機会を逸することになるとは思います。
ただ、知らなかった(備えなかった、というべきでしょう。その例えの場合)から起きた結果というのは、受け入れるより他にないのでは?
コトが起きてから後悔しても無意味ですし、逆にことが起きる前にその例えに備えようと思ったら、
・日本人以外は雇わない
・仏教徒以外は雇わない
・従業員は雇わない
・空爆される可能性のある会社など持たない
・空爆される可能性のある住宅など持たない
・自分以外で犠牲になる可能性のある家族など持たない
・他人の迷惑になる自分などこの世に置かない
と、無限に「備えて」いかなければならなくなります。
例えば「日本人で仏教徒以外は雇わない」あたりが現実的かもしれませんが、それはまた別種の差別を生むことになるんでしょう?
それとも排他的になることで身を守っていれば空爆されずに済んだというのが正解でしょうか?
そこまで無限に備えることはできないし、そこまで全てを知ることもできません。
その上で、知らなかったから空爆されたのだとしたら、それはもう「知らなかったのだから仕方がない」とするより他にありません。
誤解があるようですが「知らなかったのだから仕方がない」というのは、「知らないで済まされる」ではなく、「自分の既知/不準備を全て飲んだ上で、現状を受け入れる=諦める」ということです。
諦めてしまえば、なんでも「知らなかったで済ませられます」よ。
問題は「諦められるかどうか」ですよね。どちらかというと。
・他人(自分、もしくは自分の家族など、自分から遠くなるほど)のことなら早く諦められる。
・自分に近くなればなるほど諦めにくくなる。
・諦められるかどうかは、その人の覚悟または拘りの度合いによって異なる。
・修復不能なものを多く持つ者ほど諦められないから、いろいろ備えるようになる。
・なくす物など何もない者は諦めが早いから、起きたことにこだわらない。備えも少ない。
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>>123
それなんですが、むしろ「知ろうとする努力義務が足りないのだ!」と、事後になってから責め立てられるようなことが続けば、なおのこと「知ることによって義務を負いたくない=無関心」が増えるのではないかと思います。
「先覚者はエライけれども、先覚者に促されて知った人間は偉くない」
「先覚者はエライのだからその言うことを聞かなければならない」
「先覚者に促されるまで知らなかった人間は、恥を知らなければならない」
というような、ある問題を問題としてみるか見ないかを巡って生まれる一種の優越的感情が、後から知る人を「できれば先に知った人の風下に立ちたくない」という気分にさせてしまいます。
逆に、「さらにたくさんの風下(後から来た人)を増やすことで、自分の地位を準先覚者にしよう」という発想も出てくるでしょう。
それは所謂宗教における信者の獲得の経緯と同じなのですが(^^;)
ある問題が問題だと考える人々が、他の人間にも同じように問題を共有してほしいと思うときに、それを今まで知らなかった人間に「罪悪感」を持たせるようなやり方というのは、一種の脅迫と同じなんですね。
「お前はそんなことも知らなかったなんて、なんて悪い奴なんだ」と。気のいい人や自分の評判が気になる人は、「自分が悪い人間だったなんて信じたくない」から、指摘した先覚者の意図に従う。
そうでない(そして大多数の)人は、「余計なお世話だ。お前の指摘が間違ってるんだ。お前の風下に置かれて、なぜ罪悪感を感じなきゃならないんだ!」という反発から、それ以上知ろうとすることをやめてしまいます。
問題が問題であると指摘をした人間の主目的が、「相手に罪悪感を負わせること」なのか、「問題解決のための支持者を増やすこと」なのか、どちらかがはっきりしないのが問題でもあります。
多くの場合、「罪悪感を負った人々を、弱者の代弁者が使役する」という形に発展していきますが。
「お前は悪い奴だ」と言われて、渋々「名誉挽回のために」手伝う人間の結束など、何をするにしてもさほど期待できないと思いますよ。
その意味で、問題が問題であると指摘する方々には、もう少し戦略を考えて頂きたいなあと思います。
ちょっと脱線かもしれませんが。
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>>127
>問題が問題であると指摘をした人間の主目的が、「相手に罪悪感を負わせること」なのか、「問題解決のための支持者を増やすこと」なのか、どちらかがはっきりしないのが問題でもあります。
「問題解決のための支持者を増やすこと」が勿論目的だと思いますよ。ていうか、少なくとも私はそう信じています。
前レスであげた無限責任論にしても、私は支持してはいませんが,世の問題を考えるとことはそこまで重い事だ、という部分では理解は出来ます。
むしろ、私は、それを提示された側が、お前だって責任を負っていないだろう,と逆切れすることが、嫌らしいですね。
よく、こういうこと言う人いるんですよ。
例えばアフガン難民でもホ−ムレスでも障害者でも、そういった問題を提示すると
「じゃ、あんたが全財産寄付すれば,一生アフガンでもス−ダンでも行ってそこの人達に一生捧げれば」
みたいな。
するいな、と思います。
例えばイラク攻撃反対のデモに参加する。ホワイトハウスや総理官邸に反対のメ−ルやハガキを出す。
まではしても、じゃあ、イラクにいって人間の楯になるか?命を賭けられるか、出来ないだろうと。
実際,人間の楯(の是非論はここではおいてください)となることについては、個々の考えもあるでしょうし、また、賛同はしても,イラクまでの旅費や,それに費やす時間を考えると、出来る人が限られる。
結局自分の日常が大切なのは,同じだろ,と相手を自分のレベルに引きづり落して、なにもしない自分を正当化する。
これって、卑怯だな,と思うんです。
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>>126 ヤスツさん
>「(雇った相手がイスラム教徒だと)知らなかったのだから(家族が死んでも)仕方がない」
あなたの中では
そのイスラム教徒が本当にテロリストであるのかどうか とか
テロリストがそこにいるからといって、テロへの先制攻撃として
罪のない人まで巻き込む空爆が許されるのか、という
考えは全くないのですね。
今アメリカがイラクで、ロシアがチェチェンで行っているようなことは
正しいこと、あるいは天災のように避けられないことであると思っていらっしゃる・・・
この場合は、相手がイスラム教徒であることを「知らなかった」から
当然受け入れるべき災難だと思っていらっしゃる・・・・
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129さん、横から口を出して悪いのですが,それはすげかえだと思いますよ。
そもそもは、
「知らなかった事で責任を負う必要があるか?」
という問いではないのですが?
そもそも本来あげられるべき問いは
「ハンセン病患者が人権を侵害されていることを知らなかった」
「私達が日常使用する特定の商品がオゾンホ−ルの破壊など,地球環境に重大な影響を与えるのを知らなかった」
「同和と呼ばれる特定地域出身の人々が、就職や結婚その他の日常において差別を受けていることを知らなかった」
等々、そういったことで、問題を増幅させたことに対する責任を負うべきや、否や、ということでないのですか?
>そのイスラム教徒が本当にテロリストであるのかどうか とか
>テロリストがそこにいるからといって、テロへの先制攻撃として
>罪のない人まで巻き込む空爆が許されるのか、という
>考えは全くないのですね。
この場合は,雇った相手がイスラム教徒だと知っていても知らなくても同じです。
彼がテロリストだと知っていたらならば、その雇い主は覚悟の上でしょう。
けれど、彼がイスラム教徒である一般市民と認識して採用した場合と、イスラム教徒であることを知らずに採用した場合,
結果は同じではないですか?
そして、126でヤスツさんが言っている事は,
「知らなかった事でこうむった被害が,己の無知の結果として受け入れるしかない」
というしごくまっとうなものだと思います。
それは、、法律,特に商法について無知だった為,初歩的なサギにあう、それは仕方が無い。
そういうことだと思うのですが。
そこでサギの是非を問う事とは違う話ではないでしょうか?(いや、勿論サギは悪い事だけどさ)
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>>130 イカフライさん
私の質問は
今「テロへの先制攻撃」と称して、サドル師が潜んでいると
めぼしをつけられたところが空爆を受けています。
それを「知らない」としても、責任を取らされたり、断罪されたりはしません。
だけどもし、ヤスツさんが、イスラム教徒だと「知らない」で、
自分の経営する会社に、雇った人が
あるいは、持っている賃貸住宅に、入居させた場合
その人がテロリストの親玉だと疑われて、会社ごと、住宅ごと空爆されたとしたらどうでしょう?
「知らない」ことが、免罪符にならない場合も多々あるのではないでしょうか?
前半から始まっています。
「知らない」ために責任を取らせられないとしても
問題は存在するということです。
それを放置することによって、同じ次元の被害を自分がこうむることも
ヤスツさんのように「甘んじて受けるしか仕方がない」という結果がきます。
実際はイラクで起こっていることを知っていながら
知らん振りをしているのではないかと思いますが、
イカフライさんがおっしゃるように「知っていても知らなくても同じです。
」ね。
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>>131
だから、この場合,サドル師が潜んでいると勝手にめぼしをつけて手当たりしだい空爆するアメリカのやり方についての是非の問題(いや、それ自体は非だが)と
それを知らずに雇った人間がイスラム教徒であったから空爆された、ということとは違う問題だ、ということです。
実際ヤスツさんも言われていますが、131さんは「責任」と「被害」を混同していませんか?
こういう例はどうでしょうか?
少し前に話題になったス-パ-フリ-ですが、あれは事件が明るみに出る前から、一部の学生の間では「レイプサ−クル」という噂があったそうです。
ですから、それを知る女子学生は、その真偽はおいても、近づかなかった。
けれど、そういう噂を全く知らない女子学生がス−フリのコンパに参加して集団レイプされた。
この被害女性は131さんが言うように「「知らない」ことが、免罪符にならない場合」のですか?
また、身体に有害な添加物が使用された食品がある。これはある時期は普通に市場に出回っていたが,さすがに問題になって回収され、その発売企業も責任をとらされた、と仮定します。
強い副作用のある薬品でも良いです。それを知らずに食品を食べたり,薬を服用した少女がそれが原因で不妊になった。
この場合,その少女は,「「知らない」ことが、免罪符にならない」のですか?
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> 実際ヤスツさんも言われていますが、131さんは「責任」と「被害」を混同していませんか?
世の中のことを全て「知る」などということは不可能です。
そのうち
獣をだましてわなにかけるのと同じように、人間をだまして(詐欺にかけて)金を得ることは
同じように俺の腕前だと認識して(法律を知らないで)いても、罰を受けますが
そういう場合を除けば
全く知らなかったことに関しては、【責任】を追及されることも、断罪されることもない場合が多いです。
追求もされず、罰も受けません。
そんなことは、うろちいさんも(他の人も認めています)
しかし、問題は存在する。
その問題によって【被害】を受ける人が存在するのです。
オゾン層などは分かりやすいです。全人類ですから。
公害の場合は、特定の地域であって、俺には関係ないかも知れません。
しかし自分はどの側に立つのかを問題にしています。
空爆も、アフガニスタンやイラクやチェチェンのことであって、俺には関係ないかもしれません。
しかしその理念は全人類にかかわる問題を含んでいます。
責任を追及されないからといって、知らないままでいいとか
知っても知らん振りする方が楽だと思っていいのでしょうか、という問いかけです。
空爆を受けている被害者は訴えています。
マスコミは伝えるべきではないでしょうか?
「知らないのだから仕方がない」といったとしても
「アメリカの空爆を批判もせず、その行動を支持している。
武器燃料の輸送をし、自衛隊派遣(実際に武器を取る必要はないんです。アメリカを支持するというフラッグをあげることで支える)をしている。
被害者から見たら、加害者になっています。
知らないままでいいのでしょうか? 知って知らん振りをするだけでいいのでしょうか?
イラク人の断罪を無視していいのでしょうか?
「責任」と「被害」を混同』という枠をはずして考えてください。
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イカフライさん。
スーフリ? 添加物?
これは犯罪ですね。
添加物は、食品会社自身の無知による場合があるでしょうし、その食品会社の罪がどの程度とされるかは
次の問題として、犯罪は断罪され、食品は回収以後販売停止になるでしょう。
アメリカなどの空爆は、犯罪ですか? 断罪されていますか?
これを犯罪として断罪すべきだといわれるのなら
あなたとは同意見です。
旧日本軍事政権の犯罪も、同じです。
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>>133-134
知っていてしらんぷりをすることと、知らないことは、違う事でしょう?
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>知っていてしらんぷりをすることと、知らないことは、違う事でしょう?
もちろんです。
1億円を記憶していない竜様も、本当に知らなかった(この場合は事実が無かった)
のか、知らん振りなのかが追及されるでしょう。
知らん振りのほうが、罪が重い。
しかし、その違いを他人が調べることはかなり困難ですし
起こる結果についてもーー違いがある場合とない場合があります。
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一時期(今もあるのかな?)地球に優しいというキャッチフレ−ズでやしのみ洗剤というのが出まわっていました。
ところが、それを大量生産することによって東南アジアのマングロ-ブが伐採され,その為洪水やそのほかの環境被害が起こっていた。
これを知った時はショックでしたよ、私はずっとその洗剤使ってましたから。
で、やしのみ洗剤を使用してた私は,責任を負うべきなのですか?
その洗剤の生産によって東南アジアに環境被害を及ぼしていた事を知らなかったのは免罪符にならないのですか?
聞いているのはそういうことなのですが。
個人的には、知ってしまった事を知らないふりし続けるのは、私にとっては難しい事です。
自分には何も出来ないかも知れないけれど,なんらかのことはしたい、少なくとも考えることだけはやめなくない、と思っていますし、知っていながらしらんぷりをすることは嫌らしい卑怯な事だ,位に思ってはいます。
けれどね、じゃあこんどは本当に環境に良いだろう,と思って使用し始めたエコタワシやせっけん洗剤は本当によいのか?
もしかしたら、それはそれでまた問題が出てくるのかも知れません。
その場合も知らなかった責任は生じるのですか?
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「知らない責任」
イスラム教徒であることを知らないで、雇ったり入居させたりしたヤスツさんには何の責任も罪もないでしょう?
イスラム教徒であることを知っていてすら、イスラム教徒を忌避するほうが間違いなのではないでしょうか?
スーフリのことを知らなかった被害者に罪はないでしょう?
有害添加物食品だと知らないで買って食べた人に罪はないでしょう?
どの場合も被害者であると思うのですが違うのでしょうか?
加害者が断罪されるべきではないのですか?
なぜ、一番目のヤスツさんだけが、加害者を断罪もせずに、あきらめねばならないのですか?
それはその加害行為を、正義の発現であると思っているから。
その加害行為を肯定しているからではないでしょうか?
やしのみ洗剤の場合は、どちらでしょうか?
知らないで買って使っていたイカフライさんは、被害者であると同時に加害者であった・・・・
良かれと思ってしていたことですからショックですね。
もっと早く知るに越したことはないでしょうが、知った時点でどうするか
>>117 うろちいさんの発言。
「問題が継続中なら知った時点からその問題をシェアすれば良いと思います。」
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>>138
ああ、やっと解ってきました。
>なぜ、一番目のヤスツさんだけが、加害者を断罪もせずに、あきらめねばならないのですか?
>それはその加害行為を、正義の発現であると思っているから。
>その加害行為を肯定しているからではないでしょうか?
おっしゃりたいのはこれなんですね。
イスラム教徒であるだけでテロリストの親玉扱いされて空爆される世界で,経営者がある従業員をイスラム教徒と知らず雇ってしまい、その為に空爆を受けてまきぞえで妻子を失った。
にも関らず、それを断罪しようとしない行為は、その問題も加害性を肯定していることである、と。
う-ん、けれどね、これは、「知らない事に関する責任」ではなくて「知ってしまった後にどうふるまうか?」という問題でしょう。
このケ−スの場合経営者(ここではヤスツさんと仮定されていますが)は、空爆され妻子を失う、という最悪の形でその問題の存在を知ら示された訳です。
その経験を持ってして、それ(イスラム教徒に対する弾圧)に目をつぶるのか,それとも手当たりしだいに空爆を繰り返して犠牲者を出す行為に抗議行動を起こすのか?
ということでしょう。
ヤスツさんが「知らなかったのだから仕方が無い」というのは、そうではなく受けた被害に関して、
「今,イスラム教徒と見れば手当たり次第空爆される」ということも
「雇った従業員がイスラム教徒である」ということも知らなかったために被害を受けた。それは知っていれば対処をする方法が取れたが、自分は全くそのことを知らなかった。
そこで、被害に対して責任を取るか,具体的には空爆で犠牲になった妻子や空爆された社屋の損害に対して,ヤスツさんに責任があるのか?ということだと、ヤスツさんも私も解釈していたんですよね。
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イカフライさん
>ああ、やっと解ってきました。
ああ、やっと解っていただけましたね、ありがとう(笑)
表現力にも問題があるのでしょうが・・・(´Д`;)
何度も申し上げているように、世界中の「問題」の全てを知ることは不可能です。
テレビも新聞もラジオも無いところで生活する権利もあるでしょうし、
その人が「知らない」ことで加担している「問題」に対して、「責任を追及される」ことはないでしょう。
それどころか、我々でさえ普通「知らない」ことで「責任を追求される」ことはないでしょう。
(法律を知らないで、犯罪を犯したなどという以外)
しかし、自分が「知らない」でも、問題は存在するし、その問題に加担しているという事実はあります。そのことの被害者から見れば、明らかに加害者の側に立っている場合があります。
「報復攻撃」を受けたとしたら、その場合は「無知の責任」を取らされたわけです。
私が指摘したように「テロリストがそこにいると疑われて」空爆を受けた場合は、「それとは別の責任を取らされた」ことになりますね。
>>102 のヤツスさんは
(私は侵略と言われる行為を悪事とは思っていませんけれども)
と述べておられます。
>う-ん、けれどね、これは、「知らない事に関する責任」ではなくて「知ってしまった後にどうふるまうか?」という問題でしょう。
ヤスツさんの場合は、「知った上で」「選択」をしたのですね。
>>107 うろちいさんの
僕たちは常に「知ろうとする」ことはできます。
それをするかしないかは「選択」です。
知ろとしたが知るに至らなかったのであれば、それ以降の行動に選択の余地は無く、責任もありません。
「知るに至らないこと」の原因に「知るための努力不足」が何割かでも入ってくるなら、その割合に応じて「知るに至らなかった」ことへの責任は生じます。
「知るに至らないこと」に対して責任に応じて、「知る」の帰結である「行為」に至らない責任も負います。
以下省略しますが、そういうことではないでしょうか?
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足を踏んでいることを知らない場合はありえます。
踏まれた相手に抗議されて始めて「踏んでいる事実」を知る場合もあるでしょう。
抗議される前に「知る」努力も必要でしょう。
抗議されたとき、どういう態度を「選択」するのかが重要だと思います。
1.抗議の仕方が気に食わんといってぶん殴る。
2.黙って足を除ける。
3.謝って足を除ける。
4.謝って足を除けた上で、気づかず足を踏んでいる他の人に注意する。
5.自分は足を踏んでいないし、抗議を受けていないが、足を踏んでいる人の存在を知って、注意する。
いろんな選択がありそうに思います。
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>>140
>ヤツスさんは
(私は侵略と言われる行為を悪事とは思っていませんけれども)
と述べておられます。
はい、これはヤスツさんの意見ですね。
ただ、ここで今言われているのはイスラム教徒がテロ扱いされて空爆されている状況も,自分が雇った従業員がイスラム教徒だということも知らなかった経営者、という仮定で、それが例えばヤスツさん、ということです。
イカフライさんでも、山田イチロウさんでも鈴木ハナコさんでも同じですよね。
そういった仮の設定の話に
>ヤスツさんの場合は、「知った上で」「選択」をしたのですね。
という、たまたま例に用いた人の意見を持ってくるのは、話がごっちゃになっていると思うのですが。
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>>141
>足を踏んでいることを知らない場合はありえます。
>踏まれた相手に抗議されて始めて「踏んでいる事実」を知る場合もあるでしょう。
>抗議される前に「知る」努力も必要でしょう。
>抗議されたとき、どういう態度を「選択」するのかが重要だと思います。
ひとつ、抜けていると思います。
「本当に足を踏んでいるのか?」を検証する、ということです。
私が過去レスでいくつかの例(差別表現問題など)をあげて提示した問題もそうですし、そもそもこのスレのテ−マがそこではないでしょうか?
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>>142 イカフライさん
>イスラム教徒がテロ扱いされて空爆されている状況も,自分が雇った従業員がイスラム教徒だということも知らなかった経営者〜そういった仮の設定の話に
そういう仮の設定の場合に、ヤスツさんは >>125 >>126 で
「知らなかったのだから当然」として甘んじて受けると答えたのです。
つまり、彼は、空爆を受けた段階では知ることになった「イスラム教徒がテロ扱いされて空爆されている状況」
の加害者を肯定する立場なのです。
そこで私の >>129 が出てきたのですが ε=(。 ̄д ̄。)★
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>>143 イカフライさん
>ひとつ、抜けていると思います。
「本当に足を踏んでいるのか?」を検証する、ということです。
もちろん、足元を確かめもしないで、謝ってはむしろダメでしょう。
「あたりや」に引っかかってはならんと思います。
私も一つ抜けていました。
わざと足を踏んづける場合。
踏まれた人が痛いと叫んでも、お前は俺に足を踏まれるべく生まれてきたのだと踏み続ける立場です。
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<削除>
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先週末から帰省をしておりまして回答が滞りましたが、私の趣旨は概ねイカフライ女史が述べられた通りです。
どうも論点が散らばりすぎなのように感じます。
>「知らなかったのだから当然」として甘んじて受けると答えたのです。
これなんですが、
「知らなかったことによって起きた、自分に対する損害について、それを回避する方法を自分が未然に知ることができず、対策を取ることができなかった。それによって起きた被害(家族など)についての責任は自分が負う。また、事前に知らなかったのだから、そうした被害が起きることは当然である。加害者が判明したならばそれを責めることも当然すべきであるが、加害者の存在を【予知・予見】できずに自衛策をとれなかった、という意味においての責任は自分自身にあり、その責任を全うできなかったから被害が発生したのであれば、そうした被害に対する責任の追及が自分宛にあれば、それへの責任を負うのは当然である」
と書いたら少しはご理解いただけますでしょうか?
「犯人に対する怒りを持たない」ということと、「自分の不備を悔いる」はイコールではないでしょう。
「知らなかったのだから(被害を受けるのは)当然、被害を受けたという罰は、知らなかったという罪によって起きるのだとすれば、その罰は甘んじて受けるしかない」
という意味なんですが。
そして何度も主題に戻りますが、
「世の中の全てのことを知ることは不可能だ」
という前提をお持ちでありながら、
「自分が知らなかったことによって、第三者に起きた損害について、自分はどこまで責任を負わなければならないのか?」
という話がどんどん不明瞭になっていくように思えます。
繰り返しますが、私の立場としましては、
「自分が知らなかったことによって起きた全てのことは、自分に知らされるまでは、自分にとっては存在しないのと同じことである」
「自分が判断をしなければならないのは、そうした出来事/事件(被害)の存在を知らされてからであり、知らされる以前には判断をする機会がないのだから、存在しないのと同じである」
「自分が判断をしなければならない場合、そうした出来事/事件(被害)の存在が、【事実】【真実】であるかをよく吟味する必要があり、判断はそれより後の問題である」
ということです。
第三者が、第三者の情報によって先行して下した判断を、よく吟味せずに盲従することは、「問題の判断の機会」を充分に生かしているとは言えないと思います。
先の「私は個人的には、侵略と言われている行為が悪事だとは考えない」についても、「侵略=悪事」という他人の判断に盲従するならおかしいということにもなりましょうが、別の側面からの判断をすると必ずしもそうとは言えなくなってきますよ、ということの例に過ぎません。
我々がこうして異なる主義主張を持ちながら、終わりのない議論をするのは、誰かの意見に盲従するためではありません。
最終的な判断は、個々人がなんらかの形で下すことになるでしょうし、その判断結果は個々人によって各々違ってくるかもしれません。それでもいいと思います。
問題は、判断を下すための情報、要素を、よく咀嚼・検分する必要があるということであり、それがこうしたネット上での議論の意味と考えています。
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どうも重いようで、書き込みに失敗したか二重書き込みになってしまっているかもしれません。
もし二重になっている場合、お手数をおかけしますが、重複分の削除をお願いしたいと思います>うろちい氏
ところで。
・住んでいた家が、他人の不注意で壊れてしまった(欠陥住宅など)。そして、その原因が明らかに他人の不注意であると証明できた。
こういう場合は、家が欠陥住宅であったことを知らなかったとしても、原因を証明できれば相手を責めることはできますし、無知であった自分が「家が欠陥だったこと」についての責任を負わされることはない。それは理解できます。
が、「欠陥住宅に関する知識があれば、購入前に見抜けたはずであって、それを見抜けなかったのは自分の無知が原因である」ということになり、引っかかったことについて自分を責め、それに伴う労苦がそのまま「無知に対する罰」として贖われることになるんじゃないかなと思います。
>>145さんが挙げられているケースのほとんどは、そうした「犯罪者による犯罪に対する場合」ばかりのように思えますが……。
私は、それこそテロや戦争、疫病、その他の「個人による備えや反対ではどうにもならないような災害」というのは、天災に近い性質のものだと考えています。
・台風によって被害が発生した。
こういうときに、「まさか家が流されるとは思わなかった」だろうし、責任は台風にあるのは明白でしょうけれども、台風に責任(原状回復の努力)を迫ることはできないでしょう?
そうすると、「台風に充分に備えておかなかった自分が損害を拡大した」ということになり、結果的には自分が悪い、ということになるんじゃないかなあ、と。
戦争については、「開戦を押しとどめるように努力すること」はできるのかもしれませんが、デモやキャンペーンでは「一国の元首の判断(というのは最終的な形式に過ぎず、そこに至るお膳立ての経緯が戦争をせざるを得なくさせるわけですが)」を変えることはできませんよね。
これが、仕掛けられる側だったらどうでしょう? 自分が戦争を望んでいなくても、自国もそれを望んでいなくても、相手の事情で戦争は仕掛けられます。
テロはどうでしょう? テロをされることなど誰も望んでいませんが、テロは相手の都合でしかけられるものです。これも、知っていてもいなくても備えていてもいなくても被害は発生しますね。
罪はテロリストにある、相手国にある、と言うことはできても、相手の責任を追及(=原状回復の要求)を突きつけても、相手を屈服・服従させない限り、要求は通らないですよね。
そう考えると、世の中には「仕方がない」ことで一杯です。
「知らなかったことによって起きたこと」の大部分も、そうした「どうにもならない仕方がないこと」なんじゃないでしょうか?
で、その上で伺いますが。
「自分が知らなかったことによって、何らかの被害を被った人が存在した場合」に、自分はその被害の存在を知らされ、原状回復の努力を求められた場合、実際にできることは「被害の有無が被害者の申告通りであるかどうか?」をよく調べること、その上での判断、ということになるのであって、申告された被害が実在したかどうかが検証される前、及び、申告される以前には責任はない、という私の意見については、どうお考えでしょうか?
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>>117 ヤスツさん
だいたい予想の範囲内の回答をありがとうございます。
>私の基本的な主張は、>>108で要約されているように、
>「知らないことは仕方がない」「知らない者には責任が無い」
>に集約されます。
ええ、僕も「可能性すら知らない」のであれば「知る努力をする」という選択があるとは言いません。
>あるかないか、問題が存在しているかいないかもわからない場合に、あるかないかわからない問題を知る努力というのは、どれほどすべきものなのか? また、あるかないかわからない問題を知らないと罪になるという前提で、問題を追い求める(追い求める作業を一段落させるために、あるかないかわからない問題を【ある】ことにしてしまう)というのは、限りがないのでは?
あるかないか分からないならとりあえずあるかも知れないと言うことで、注意深くなるというのが義務だと僕は考えます。
実は僕たちはいろいろな問題があり得るという可能性を「知っている」んですね。
少なくとも差別とか人身売買とか、もう少し漠然としたカテゴリで言えば抑圧とか、そういうことが起こりうることを知っています。
それらに関しては「(自動車教習所で言うところの)かもしれない運転」でいきましょう。
いくか、いかないか、それは可能性に対する「選択」です。
一応断っておきますが、「・・と・・との選択がある」というのは事実の話で、「・・を選択すべきだ」というのは僕の見解です。
それぞれの話は区別して下さい。
さて、人類が体験したことのない全く未知の問題について、これを知ろうとする努力義務はありません。
正確に言えば「殆ど」ありません(世の中何が起こるか分からないことを僕たちは一応「知っている」のですから)。
>私はうろちい氏の見解とは異なり、「知ろうとする努力義務」は【ない】と思います。
>知ろうとすることができるのは、知るべき対象が【ある】という前提で探す場合です。
>Googleで我々が検索できるのは、探したい対象がなんであるかを朧気ながらであってもわかっているから、「探せる」のです。
>あるかないかわからない、問題であるかどうかもわからない、そういうものを探すことはできません。
全てに於いて可能性すら知らないのは幼児くらいのものでしょう。
>これは、選択とは言えません。
ですから >>107 で言ったように例えば幼児にとっては選択の余地の無いことでしょう。
幼児はスクリプトみたいなもので無選択に選択するわけです。
結果は幼児を通じて生じますが、幼児は主体的な関わりを結果に対して持っていません。
つまり、責任はありません。
物心ついた後の人は目前の問題や問題の可能性を認知しながら、なんらかの選択をしているというのが事実です。
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(つづき)
>うろちい氏にしても、>>108さんにしても、疑問を投げかける側として、すでに自分が「これは問題だ」と思っている問題を明確に持っているから、それにまだ気付いていない人に対して「自分が気付いていることに気付かないのは、知る努力が足りないのだ!」と言えるんですよ。
>うろちい氏も>>108さんもご存じない問題があるにも拘わらず、それについて知ろうとする努力をしていないのは義務違反だ! と言われても困るでしょう?
困ることと、困らないこととがあります。
存在の可能性すら予想できない事柄については困ります。
また、可能性を小さく見積もっていた事柄に関しても、可能性すら知らない事柄に次いで困ります。
可能性をある程度大きく見積もっていた事柄に関してはさして困りません。
問題の存在に確信があれば、全く困りません。
元々僕の発言は可能性を予想できることが前提の問題について述べていたつもりで、全く予想もつかないこと問題に関してはヤスツさんに対して異議がありません。
可能性を予想できる範囲では問題を知る努力をするかしないかは選択です。
僕はする責任があると思います。
その責任は、問題の存在に確信の度合いに応じて大きく、逆を言えば、確信が弱ければ小さいと思います。
>自分が知っているからそれについて相手に「問題の存在を教え」て、相手に判断を迫るというのならまだ理解もできます。
前述の「困ること」に関しては、「問題の存在を教え」る側の問題となります。
即ち >>107 で言った幼児のケースと同様です。
>しかし、「そもそも問題の存在が知られていないのに、そのあるかどうかわからない問題を探さなかった罪」を言うのは、おかしい、と。
ええ、ですから、その場合はおかしいですね。
正確に言えば「そもそも問題の存在の可能性すら知らないのに、その問題を探さなかった罪」を言うのがおかしいです。
僕とヤスツさんとの意見が食い違っているようにヤスツさんが思うのは、僕はある程度可能性を予想できる範囲の問題を想定していたのに対して、ヤスツさんは全く予想できない問題のみを想定していたからでしょう。
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>>149-150
ご回答ありがとうございます。
ある程度一致している部分もあるということで了解しました。
これで「全く予想できない問題は除外する」という合意が取れたと認識しますが、それでよろしいでしょうか?
さて、それでは「ある程度予想ができたはずの問題」といううろちい氏の想定しているケースについてですが、これは「どの程度の問題ならある程度予想ができた【はず】」なのかを定義するのが難しいのではないかと思います。
つまり、置かれている状況、施された教育、情報入手手段の広さ狭さは個人によってまったく異なるわけですから、同一の問題に対して「まったく予想できない」という基準は大きく異なります。
年齢70歳、いい大人。だけど、ほとんど一人暮らしに近く、家族はおらず、近所付き合いもない。新聞は取ってない、読んでない、ネットもない。テレビはバラエティと天気予報しか見ない。
私の家の周囲には↑こういう条件のお年寄りが割と多く生息(^^;)しているのですが、こうした人々の場合は「まったく予想できない」ということが広がりますが、その場合でも「方法があったのにその手段を講じなかったから」ということになるのでしょうか?
「テレビを見なかった、新聞を読まなかった罪」というものの適用対象になるのでしょうか?
「問題の可能性が予想できる問題」というのは、何らかの形ですでに問題の存在/萌芽を知った後であると思います。知っていなければ、それが問題になるということは予見できないでしょう。
「屋内でタバコを吸うと、子供に副流煙による煙害があるかもしれない。飼っている動物が吸い殻を口にしてしまうかもしれない(鳥がついばむとか)」どちらも想像の範囲内でしょうか。
でもそれは、「タバコは身体に悪い」「副流煙イクナイ(・A・)!!」「吸い殻は毒の塊」という認識があれば成立しますが、そういう認識がなかった時代、なかった人にとっては、可能性すら知らない事柄ということになってしまいます。
それを知っている人は、逆に注意するでしょうけれども。
これは、「可能性を予想できる問題」というものも、個人の能力や条件、環境に大きく左右されて変動してしまうということを示す一例です。
しかしそうした場合に、「可能性を予見できたはずだ」という一言を持って可能性を予見できなかった人を指弾してもよいものなんでしょうか?
可能性を予見できた人は、たまたまそれについての知識があったから予見できたのであって、可能性を予見できなかった人はそれについての知識がなかった(みのさんの番組を見てなかったとかですね)ということなわけですが、それは可能性を予見できなかった側は、「努力不足」として非難されることになるんでしょうか?
というわけで、
「元々知る機会がなかった問題は予見できないし、そうした問題を知らされていないうちは責任(原状回復の義務)を負う必然はない」
「問題を知らされた後、それが問題かどうかを判断するには、問題かどうかを調べる必要がある」
「自分が知る(判断する)以前に起きた問題については、原状回復の義務は生じない」
「自分が知った(判断した)後にも継続する問題については、原状回復の義務は【それぞれの個人が判断する】べきである」
「自分が知った後であっても、自分に影響が少ないと判断できるならば、それは無視しても問題ない。以後、その判断によって何らかの不利益が生じた場合、不利益・損害については、「無視」という判断を下した者が引き受けるべきだ」
といったところでいかがでしょうか。
-
『選択』の帰結は、当人の自覚に関わらず否応なく
降り懸かります。
『知らない』とは『選択肢が不足している状態』で
あり、知っていても選択が出来ないとは『選択機会
の不足』ですが、これに加えて『選択肢と選択機会
を与えられた時に、何が自らにとり良き選択かを判
断する能力』の3条件を揃えた状態を指して『自由』
と言います。
日常的常識以外の選択肢と選択機会を熱望する事は
自由を欲しての行為でしょうが、選択の帰結の利益
計算をする能力不足、自らの日常的常識ではない選
択を選択ではなく真理と錯覚する教養不足が原因と
なり、自由を求めても結局は不自由な状態に陥るの
です。
-
三毛猫さん
>日常的常識以外の選択肢と選択機会を熱望する事は
自由を欲しての行為でしょうが、選択の帰結の利益
計算をする能力不足、自らの日常的常識ではない選
択を選択ではなく真理と錯覚する教養不足が原因と
なり、自由を求めても結局は不自由な状態に陥るの
です。
「自らの日常的常識ではない選択を、選択ではなく悪と錯覚する教養不足が原因となり、自由を求めても結局は不自由な状態に陥るの
です。 」
とも言えますね。
『何が自らにとり良き選択かを判断する能力』を持ちたいと思います。
政権の常識、世間の常識を真理として「選択した」つもりになっていることが多いと思います。
-
>>82 >>83 イカフライさん
大分遅いレスになりましたが・・
「味噌煮込みコアラ」の件です。
やはり言語というのは使う人によって異なるわけで、それが今回のような問題を起こします。
今回の場合では、「味噌煮込みコアラ」というHNは全く悪意の無いものです。
名古屋のことを少し知っていたら、どちらも名古屋を象徴するもので、郷土愛から付けたHNと解するでしょう。
しかし、きょうこさん周辺の言語に於いては障害者への差別語でした。
双方は自分の言語を絶対視せず、きょうこさんは相手に悪意がなかったこと、味噌煮込みコアラさんは相手の言語にとっては自分のHNが差別語である事実を受け止めるべきでしょう。
受け止めることが先決だと思います。
その意味では引用されたやりとりの中ではきょうこさんは最初の視野狭窄状態から次第にふさわしい態度になっていきました。
逆の立場からきょうこさんの言語を受け止めた人がどれだけいたかはちょっと見ではわかりません。
その点はきょうこさんは
「誰ひとりとして、「味噌煮込みにはそういう意味としてとらえる人がいるんだ。ちょっと心に留めておいてもいいな」といった意見がありませんでした。私は非常に残念です。」
と指摘していますが、もし誰一人としてそうであったのなら、僕はこのきょうこさんの発言には共感します。
そもそも一番悪い奴はきょうこさんの周辺で「味噌煮込み」という語で障害者を侮蔑し、その語を差別語として成立させたヤツです。
せっかくの名古屋の誇り味噌煮込みが・・・
・・・ちなみに、味噌煮込みは山本屋、きしめんは新幹線のホームの立ち食いが好きです・・・。
-
>>154
しかし、「共感して受け止めた」後も、「味噌煮込みコアラ」というHNを使えるかと言われれば、そういう気持ちを「受け入れて」しまったら「味噌煮込みコアラは差別用語」として定着してしまい、二度と使えなくなるのではありませんか?
結果的に、きょうこさんという方の押し通した主張が通用し、受け入れられ、味噌煮込みコアラさんの悪意、善意と無関係に「味噌煮込みコアラは差別用語。使っていた人間もそれを受け入れた」という事実が残り、さらには「名古屋人は味噌煮込みという差別用語が蔓延している」と、名古屋への悪印象に繋がっていくのでは……。
言葉の問題は非常に難しいと思いますが、「自分とその周辺の常識」がそれ以外の場所に通じなかったことについて傷ついたきょうこさんが、自分以外の人間に「痛みを知れ」というのは、実際問題どうなんだろう、と思います。
「うろちい」というのは私の実家では卑猥な用語である。そのことを知らなかったことに驚きを感じており、自分は卑猥な用語をHNにしているんだということを心の片隅に置いて、その上でそのハンドルを使って欲しい、とか言われたら、それでも「うろちい」というハンドルを使い続けられますか? ということですよね。
「うろちい」を「ヤスツ」に置き換えても同じことなわけですが……。
PS.山本屋の味噌煮込みはうまいですよね。
初めて食べたときは、あの味噌の黒さと箸の太さ(というか、ミニ拍子木みたいな……)と、食べ方(木蓋の上に取り分けてから喰う)で度肝を抜かれましたが……(^^;)
-
>>155
現実を認識するのと、それに対する対処とは別の話と考えて下さい。
きょうこさんもきょうこさんの外側の文化圏の人たちも、「ローカルには味噌煮込みは差別語」「広くは味噌煮込みは差別語ではない」という現実についての対処が初めてできるんですね。
どういう対処がふさわしいかは、はっきり言って難しいです。
差別語全般の話だけでも難しいですね。
日本では凶悪犯罪を防止するために銃や刀の所持が規制されていますが、カッターやカミソリ、バットなどは自由に持てます。
これは凶悪犯罪の抑制と生活の便利さとのバランスをとった結果なのですが、このバランスが本当に適当かどうかはそう簡単にはわかりません。
しかも共通の規制でも万人が同じようには不便にならず、しわ寄せが大きい人たちが必ず出るというところに難しさがあると思います。
そこへ来て、文化圏差の問題があるわけです。
文化圏差の問題は相互に誤解が生まれないように言葉を共通化するか翻訳を介してコミュニケーションをとるかで解決されます。
単純にどちらかのやり方に合わせるのでは問題が残りますから共通化は(どちらかの問題を無視しない限り)困難です。
まどろっこしいですが、聞く側も話す側も相手に誤解を与えないように努力する(つまり相互翻訳する)のが完全な成果は得られないにしても、一番かもしれません。
そうやっているうちに言語が共通化していくことも期待できるかも知れませんし。
そのためにも先ずは相互の言語が違うという現実を無視しないことからですね。
>言葉の問題は非常に難しいと思いますが、「自分とその周辺の常識」がそれ以外の場所に
>通じなかったことについて傷ついたきょうこさんが、自分以外の人間に「痛みを知れ」と
>いうのは、実際問題どうなんだろう、と思います。
今ひとつ文意が読めませんが、きょうこさんは自分の信じるルールが他圏の人間に通用しなかったことに傷ついてはいないでしょう。
それにはびっくりはしたみたいですけど。
>「うろちい」というのは私の実家では卑猥な用語である。
>そのことを知らなかったことに驚きを感じており、
>自分は卑猥な用語をHNにしているんだということを心の片隅に置いて、
>その上でそのハンドルを使って欲しい、とか言われたら、
>それでも「うろちい」というハンドルを使い続けられますか? ということですよね。
それを認識したら、これまでのようには平気では使い続けられなくなりますね。
そういう不便や煩わしさが嫌だから、問題の存在の方を無視しようとする人がいるのでしょう。
しかし「不便や煩わしさ」もまた問題なのですから、それを無視するような「差別表現狩り」もまた批判されてしかるべきなんでしょうね。>イカさん
しかし、あくまでも「・・もまた」ですよ。
ご存じかも知れませんがすがきや(これも名古屋の会社ですね)の即席麺で味噌煮込みうどんがあります。
これが結構いけます(オススメ)。
他にも名古屋圏には味噌煮込み派生商品がいろいろ。
味噌煮込みを差別に悪用する輩は絶対に名古屋のことをナメてる奴だ、きっと。
-
>>154-156
言葉と言うのは私達が持つ意志伝達の道具だけれれど,道具としては不完全なのかも知れないね。
「味噌煮こみ」という言葉自体は、なんら差別性なんて無く、単なる料理の用法に過ぎない。
けれど、そこに差別的,蔑視的視点が加わると「味噌煮こみ」が差別になるわけだ。
けれど、そうなると、言葉を規制することによって、また、新たなる言葉が差別語として誕生するってことにもならないだろうか?
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>言葉を規制することによって、また、新たなる言葉が差別語として誕生するってことにもならないだろうか?
誕生するでしょうね、差別意志が有る限りは。
ある言葉狩りは次の差別語誕生までの時間稼ぎくらいにしかならないのじゃないですかね。
言葉狩りが次の差別語を生んでいるのではなくて、言葉狩りがあろうが無かろうが、差別語は差別者が生みます。
言葉狩りはしないよりした方が差別行為を抑制する点で多少はマシというだけのものだと思います。
-
言葉狩りをすることによって、過去または特定地域に伝わってきた文化(共同体が共有してきた行為とそれを説明する言葉)が継承されなくなるという危険性があります。
言葉を狩ることで、「汚染を防ぐ」「なかったことにする」というのはそれをする側の都合でしょうけれども、差別の被害と伝統の継承を天秤に掛けた場合、差別の被害のほうが常に大きいというのなら、言葉狩りも仕方ないのかもしれませんが、本当にそうでしょうか?
その意味で、言葉狩りをして選択の幅を狭めることで差別行為を抑制することが正しいとは言い難いように思います。
むしろ、差別用語と揶揄されるものも含めて全ての言葉の「発信(使用)」は抑制せず、受信側が自由に耳を塞ぐようにしたほうがいいのではないかと思います。
例えて言えば、この板を見るのにも利用できる2chブラウザには、「あぼーん」という機能がありますね。
これは、特定の単語/文字列を非表示にする、または特定の単語/文字列を含んだ発言そのものを非表示にする、という機能です。
2ちゃんねるなどの匿名掲示板では、発信者の発信内容は特例を除けばほとんどが抑制されていません。放送禁止用語も侮蔑語も使われ放題です。
つまり、発信は抑制/規制されていないわけです。
その代わり、あぼーん機能を持つ2chブラウザを使えば、自分が不快だと感じる内容(この場合は、差別的なものなど)は、ソフトの機能として選別して視界に入れない(存在も感じさせない)ということができるようになります。
現実の世界ではそうすることは難しいわけで、一概に同列に言うことはできませんが、「受信者が不快だから発信させない」のではなく、「不快に感じる受信者と感じない受信者がいる。だから、発信は抑制せずに、受信者が選択的に抑制できるようにする」という発想に、むしろ軍配を上げたいと思います。
言葉狩りをすることが根本的な解決にならない、もしくは差別被害とは別種の被害を発生させる恐れがあり、どちらの被害のほうがより大きいのか判断が難しいような場合に、「とりあえず狩っておく」という発信側を抑制する方法は、あまり問題解決にも時間稼ぎにもならないのでは、と思います。
言葉が狩られていくというのは、その言葉が生まれ育まれた経緯や歴史を消してしまうということでもあります。
歴史とは必ずしも心地よい誇らしいものばかりではなく、辛いものもあります。そうしたものをなかったことにさせるのが言葉狩りであることを考えれば、「しないよりしたほうがマシ」という意見は、安易であるように思います。
ちなみに、私は静岡出身ですけれども、あのあたりではすがきやというと「即席うどん」と「ラーメン」でした。
特にラーメン。
※ブラウザ切り替えなどなどでいろいろありまして>>156もトリップが違っています。
-
うろちいさん
仰る通り、差別意識があって差別用語が生まれるのですね。
我々の目的は差別意識をなくすことですね。
言葉狩りが、次の差別用語誕生までの、時間稼ぎというのはいかにも情けないです。
きょうこさん問題と言うのをよく知らないので、的外れになっては悪いと思うのですが
ある人の「味噌煮込み」というハンドルに対して、きょうこさんが、それは差別語だと指摘したと言うことでしょうね?
それを受けて、公的機関が何の教育もなく「味噌煮込み」を差別用語と指定し、使用禁止にしたとすれば、それは「言葉狩り」であって、不毛です。
そこに何らの「意識変革」が行われなければ、次には、「味噌煮込みうどん」よりもっと陰湿で、もっと鋭い刃を持つ差別用語が生まれてくるかも知れません。
しかし、その掲示板では「味噌煮込み」と言う言葉が、自分の所属する環境の中で、どういう差別を込めて言われているか、説明されたようですね。
それを指摘された人に差別意識がなく、その言葉で侮蔑されている人を、《これ以上苦しめたくない》思いを持てば、あえてそのハンドルに固執しないでしょう。
そのやり取りを読んでいる人も同様でしょう。
そうするうちに「味噌煮込み」が差別語として使われなくなれば、もとの意味だけのものになります。
その掲示板で、
>「誰ひとりとして、「味噌煮込みにはそういう意味としてとらえる人がいるんだ。ちょっと心に留めておいてもいいな」といった意見がありませんでした。私は非常に残念です。」
と言う言葉が出たらしいことは私も残念です。
これは、言葉狩り以前に「社会がなすべきこと」が、もっともっとあるような気がしてきました。
-
>>160
>きょうこさん問題と言うのをよく知らないので、
82で私があげたリンクにでています。
吉岡さんのご意見は,確かに少々的外れになっていますので、一度,お読みいただければ,と思います。
私は,きょうこさんの態度にも問題点は大きかったと思います。
-
イカフライさん
題字を選んで大事と思われるコメントは、読みました。
読んでも、大して的外れなレスではなかったと思いますが、
イカフライさんはどの点で的外れと思われたのでしょうか?
京子さんの態度とは、
>「全ての人間が被差別者(この場合、知的障害者)のことを中心に考えて当然だ」というスタンスを感じずにいられません。それが、他の立場の人間にとっては、傲慢であったり,視野狭窄に写ったりするのかな、と思います。>>82イカフライさん
と言うようなことでしょうが、きょうこさんは「味噌煮込みコアラ」とのハンドルを意図的につけたと誤解していたので、少々感情的になっていたのですね。
話すうちにそれに気がついて謝罪しています。
もしそれが誤解ではなく、「差別的な意図でつけたハンドル」と言うのが事実であれば
猛然と怒っても当然のことではありませんか?(←このことへのイカフライさんのレス希望)
お互いの誤解が解ければ、許しあえるものだと思いますが・・・・
>ただし、味噌煮込みという言葉が一部の方であるにせよ、不快感を与えるものであるならHNを変更することも考慮致します。
しかし、その根拠が不明なままで、長年親しんできたHNとお別れするのも残念です。
HNの変更は、その根拠がはっきりした段階で検討することにしたいと思います。
ご了承のほどお願い致します。>>味噌煮込みコアラ氏
この姿勢を評価します。
-
>>162
この書きこみは読まれましたか?きょうこさんという方の2回目の書きこみについてのレスです。
すこし長いですが,掲載します。
(以下引用)
> この問題でこれだけの方がなんらかの考えをレスしていただけたの
> ですから障害者に対して考える一つの契機になれば良いと思います。
はっきり言ってこれから申し上げますのは、私の偏見です。所謂社会
正義を行っているという立場に御身を置いている方は、不思議に上記の
様な表現を決まって為さいます。私は不思議に思っております。確かに
この話題を投稿をなさったのは貴方様です。しかしそれに真剣な対応を
したのは、当掲示板に集うそれぞれの皆様の誠実で熱心な想いのお陰
で価値がある発言が集積されたのです。
貴方様は当掲示板の良心を具現化する方々に、貴方様の短絡的な勢
い(らしい)投稿に対して、誠実に対応して貰い、また対話を通じて救わ
れたのです。貴方様が投稿をしたというのは、単に契機に過ぎません。
上記の如き表現は、まるであなた様が当掲示板に投稿してやったから、
お前らが障害者問題を当掲示板に於いて真剣に議論が出来たので、
貴方様が投稿をしたが故であるという帰結を示しているが如きです。
この様な前向きな結果が伴ったのだから、あなた様の投稿内容も表現
もすべてが今は許容されるという下心を私は僭越にも感じます。
上記にtlcj様が以下の様に明確にご指摘なさっています。そのなかで私
が特にお伺いしたいのは、以下の部分です。
> 差別用語と断言されていますがどこでどういう風に使われているのか
> まず説明して欲しいです。普通の人はそのような認識はしてません。
> それをいきなり上がりこんでハンドルネームがどうとかいうのは
> ちょっとどうかと思います。こっちの方が不愉快ですよ。
開かれた場所でものを申すのは結構です。私は自分が完全であるとは
自惚れておりませんので、人様の苦言やご意見は貴重です。
しかしながら貴方様は、何故「味噌煮込み」という言葉が差別用語なのか
という事前説明は疎か、「味噌煮込みコアラ」というHNを使用している方
を直接攻撃しました。要するに「味噌煮込みコアラ」様への思いやりも一
切無く、いきなりHNを非難し、それを許容する私共の見識迄も疑うと
の挑戦的な書き方をなさったのです。
先ず貴方様の登場の仕方から、貴方様は真剣に反省をして頂きたい。
精神的に傷つけられたならば、何をしても良いのでしょうか。貴方様の
登場の仕方から、幾ら精神的に傷付いても、当掲示板の方々が直接
貴方様を攻撃した事など無いのです。
何度も言います。この話題を投稿したのは貴方様ですが、その投稿を
意義がある内容にしたのは、真剣に対応した皆様の相違であり手柄で
あります。貴方様の手柄では決してありません。lこの点は決して思い違
いを無さならないで下さい。従いまして今となって貴方様がすべきは、当
話題にに参画した方々に対し、貴方様の登場の仕方などの反省を踏ま
え、貴方様なりの見識を示すことではないでしょうか。
-
この後,きょうこさんという方は、一度も登場されていない様です。
このサイト自体がもう閉じてしまっているようで、あくまでログとして残されているだけですので、ほかの話に登場したかどうか解りませんが。
確かに,このきょうこさんという人は,知的障害者に対する侮蔑に常日頃から心を痛めていたのかも知れません。
それ故に,脊髄反応的に「味噌煮こみ」という言葉に反論してしまったのかも知れません。
しかし、いわれた当事者,ここでは味噌煮こみコアラさんもそうですし、他の掲示板参加者に対してどの程度誠実だったのでしょうか?
形としては謝罪していますが,
> この問題でこれだけの方がなんらかの考えをレスしていただけたの
> ですから障害者に対して考える一つの契機になれば良いと思います。
これは、上から見下ろすようないいかただなあ、と思いますよ。
その辺は,どうなんでしょうか?
このきょうこさんという方が,ここまで反論を受けたのは当然だと思いますし,また、このサイト参加者はみんな随分と冷静でしたね。
どうして、ここまで正義の代弁者になれるんだろうかな?なんてこのきょうこさんという方のカキコみて思ったんですが。
-
イカフライさん
あなたから説明を受けても、私はいまだに「的外れ」だったと思いません。
的外れだというのは「あなたの下した」かなり失礼な評価です。
きょうこさんは「味噌煮込み」という言葉が普遍的に障害者を罵倒する言葉として使われていると思っていたようです。
普遍的だとの誤解から「味噌煮込みコアラ」氏が、それを知って茶化してHNを使用していると思いました。
それは誤解であったわけですが、誤解であったということは彼女にとっては後で分かったことです。
質問にお答えいただけませんが、
もし彼女の誤解ではなく、「味噌煮込みコアラ」氏が差別意識を持ってそのハンドルを作ったのだとしたら、彼女の怒りももっともでしょう?
その発言に、あっという間に大勢が取り囲んで総すかんの攻撃を加えたのですから
びっくりしたでしょうね。
それはさながら「差別意識もないのに、それは差別だと総批判を受けたとき」のようですね。
でもイカフライさんは「きょうこさんという方が,ここまで反論を受けたのは当然だと思います」という反応です。
Saravaさんのレスも名古屋人への偏見に満ちていますが(笑)
「福祉施設で働いていますから、そういう言葉には敏感ぎみなのだろうな、で終えればいいのに何を善人のふりをして1人の人を執拗に攻撃するのでしょうか。」には同意しますよ(^^;
「どうして、ここまで正義の代弁者になれるんだろうかな?」と同じですね。
すべて裏表・・・・相手の言い分を聞いてみようという柔軟さが《「お互いに」》必要なように思います。
-
>>165
>すべて裏表・・・・相手の言い分を聞いてみようという柔軟さが《「お互いに」》必要なように思います。
そう思います。「お互いに」なんですよ。
その部分で,このきょうこさんという方には,その「お互い」があったのかな?ということです。
>もし彼女の誤解ではなく、「味噌煮込みコアラ」氏が差別意識を持ってそのハンドルを作ったのだとしたら、彼女の怒りももっともでしょう?
さかんに、この事を言われていますが。
「疑わしきは罰せず」というように、人を責める前に,まず、本当に罪があるかどうかの確認は必要ではないでしょうか?それも、慎重に。
そうでないと、冤罪を招きます。
私自身,常にそこまで冷静に行動できているか、と問われればイエスと胸を張って答えるだけの確証はありませんが、すくなくとも慎重でありたい、と思ってます。
例えば,この例で言えば,ある方のレスには、わざわざインタ−ネットで検索した,と書かれていますね。
「味噌煮こみコアラ」が差別的用法を含むかどうか。
実際,これは非常に狭い範囲の限られた範囲での差別用法なんでしょうね。
それをインタ−ネットの掲示板と言う不特定の場で,あたかも既成事実のように語ったことが一番問題だと思います。
-
イカフライさん
> さかんに、この事を言われていますが。
さかんにこの事を言っているのに、答えてはくれませんね。
「ビョーキ持ち」とか「ライビョウヤミ」とかのハンドルをつけている人がいるのを見たとき、イカフライさんは、どういう行動をとりますか?
「本当に罪があるかどうかの確認」をしてから、怒りますか?
足が悪くないのに、ビッコのまねをしてビッコを侮蔑する姿を見て、どういう行動をとりますか?
彼女の世界では、それと同じくらい自明の差別言葉であったと推測されます。
(なにしろ、狭い範囲で使われている差別用語だとは「知らなかった」のですから。知らなかったことの罪を追求しますか?)
-
>知らなかったことの罪を追求しますか?
ここには
「仮に知らなかったことの罪があるとしても、他にはどのような落ち度が彼女にあったのですか?」
を加えないと、吉岡さんのこれまでの質問の趣旨が継続されませんね。
-
うろちいさん
フォローありがとう。
-
>>167
>さかんにこの事を言っているのに、答えてはくれませんね。
話を挿げ替えられているからです。
ちなみに揚げ足をとるつもりはありませんが、吉岡さんがあげられている二つの例は同じ次元では語れないですよ。
-
なんか、長い文章書いていると,途中で接続が切れてしまうので,切れ切れになります。
>「本当に罪があるかどうかの確認」をしてから、怒りますか?
足が悪くないのに、ビッコのまねをしてビッコを侮蔑する姿
これは、明かな行為ですよね。
>「ビョーキ持ち」とか「ライビョウヤミ」とかのハンドルをつけている人がいるのを見たとき、イカフライさんは、どういう行動をとりますか?
これについては、「ライビョウヤミ」の人は,本当にハンセン氏病患者かも知れない。ハンセン氏病の方でも,ネットは可能ですよね、多分。
一時期「ほとんどビョ−キ」という流行語が流行りましたよね。また、オタクの世界では「ビョウキ持ち」という言葉は特に古いオタク世代では結構使われます。
-
イカフライさん
「吉岡さんがあげられている二つの例」とは、何と何のことですか?
「ビョーキ持ち」と「ライビョウヤミ」のことですか?
この二つは、同じ次元ですね。
それでは、この二つと「味噌煮込み」が同じ次元ではないということでしょうか?
最初の発言時(つまり普遍的な差別用語ではないと知る前の)きょうこさんにとっては
同じ次元であるという意味なのですが
同じ次元では語れない理由を語ってみて下さいませんか?
-
「お互いに」と言っておきながら,吉岡さんは一方的な側の事しか考えていないのではないですか?
確かに私が上げたケ−スではきょうこさんという方は、そもそもの悪気はなかったにもかかわらず一方的な反論を浴びてしまいました。
それは、彼女(でしょう、多分)の視野狭窄の故ですが、人によって常識は異なりますから、仕方がないとは思います。
けれど、言われた方はどうでしょうか?多分,インドネシア掲示板というところからインドネシア関係について話していたと思うのですが,今まで楽しく話している所にいきなりワケカワラン事を言って乱入したわけですから,言われた方はびっくりだと思います。
あたり屋にあたったような感覚だと言っても良いでしょう。
にも関らず,この参加者の方々は誠実に対応されている。
それに対してのきょうこさんの反応が,頭の上から見下ろして終り,だったからこそ、その後,荒れたのではないですか?
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そもそものテ−マである「誹謗中傷」にも関りますが。
このきょうこさんもそうですし、前の方のレスで書いたこともそうなんですが、どうも、一方的な正義の側にたち過ぎているように思えて仕方ないのです。
被差別者のことを考える,ということと、被差別者のことだけを考える,というのは、違うと思うんですよね。
どこか非常に狭い範囲で局地的に知的障害者が「味噌煮こみボウヤ」と呼ばれて差別されている,からといって、たまたま一部同じ単語を用いただけのハンドルの持ち主がどうしてそれを考えなくてはいけないのか?ということだと思うんです。
少なくとも,そういう場ではないのではないでしょうか?
-
171を読む前に、172を書きました。
>「ライビョウヤミ」の人は,本当にハンセン氏病患者かも知れない
まさか本当のハンセン病元患者が、そういう侮蔑的な単語を、自分に対してであれ、他の人に対してであれ、使うとは思えないですが、使ったと仮定して、それが同なんですか?
本人自身がハンセン病元患者であれば、使ってもかまわないのでしょうか?
メクラがメクラだといって何が悪いという盲人がいますが、これは文脈の中で、その理由が語られる場合であって
ハンドルに「メクラ」を使うこととは、それこそ次元が違います。
「ビョーキモチ」も同じです。その言葉が、オタクの間で結構使われるから、ハンドルに使うことに何の問題もないのか、そうではないのか、
それは話し合うべき問題点だと思いますよ。
-
>どこか非常に狭い範囲で局地的に知的障害者が「味噌煮こみボウヤ」と呼ばれて差別されている,からといって、
だからきょうこさんは「非常に狭い範囲で局地的」という事を知らなかったんですってば♪
「一方的な正義の側にたち過ぎて」いるのは、《「お互いに」》だということは認めていただいたのだと思っていましたが?
堂々巡りになりそうですから、ちょっとタイムアウトします。
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あのさ、これは、そもそもこの板の主題に戻るんだけれど。
ある特定の人が差別的なイメ−ジを受けた,というだけで、それをもって問題にして良いのだろうか?
それを言ったらなにも言えないんじゃないだろうか。
例えば,吉岡さん、私はかつて吉岡と言う担任教師にお葬式ごっこをされた、だから、吉岡という名前には嫌悪感がある、と言ったらどうですか?
あなたは、私の学生時代のトラウマを思い出させようとそんなハンドルをつけているんですね,と言われたらどうでしょうか?
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>>176
>だからきょうこさんは「非常に狭い範囲で局地的」という事を知らなかったんですってば♪
これは、あまりにも常識がない、と思うのが,私の常識なのですが。
実際,ここでも「味噌煮こみ 差別」で検索された方がいますよね。
なにもヒットしなかったから、と。
-
これは吉岡さんへのレスというわけではなく、この板のそもそものテ−マについてですが。
差別視,侮蔑視する、誹謗中傷する、という自発的行為と,された、という受動的行為には,どうしても温度差が生じます。
実際に掲示板をそういった行為のために使おうとしている輩もいるとは思いますし、それは陰湿で卑しい行為だと思います。
けれど、一方でなんの意図も無く語った言葉が相手にそういった意識を与える事があります。
この明確な区別は難しいものですし、だらこそ、話し合いが必要なのだと思います。
-
で、ですね。話し合いの結果,まあ、語った側がほぼその意識が無く、にもかかわらず受けた側がそのように感じてしまった、しかも思いこみや誤解,無知によって。
この場合,どうするか? この味噌煮こみ問題はまさにそれ、だと思うんですよ。
こういう場合,そのつもりがなくても相手にそう感じさせてしまった側に責任があるのでしょうか?
私は「無い」と思います。
何故なら,人によって感性は一人一人異なる。もっと言ってしまえば,人と触れ合う事は,傷つく事でもあるのです。
このケ−スもそうですが、傷ついた側がなんらかのマイノリティ、被差別カテゴリ-である場合,一方的にその側に立ってしまうことが,逆に差別になってしまっているのではないか?とも思えます。
-
勿論,障害者やハンセン氏病患者、その他いわゆる被差別的な位置にある方々の置かれている問題は,非常に微妙で難しいことはあると思います。
日頃からそういったことに接されている方々には、それは場合によっては寝食を忘れたり,生活を犠牲にしている部分もあるでしょう。
けれど、それを差し置いてとしても,一方的な弱者と呼ばれる側を優先すべし,というのは、私はちっと違うんじゃないか、と思うんですよ。
「メクラ(とあえて言います)に悪いからスイカ割を止めよう」は、却って視覚障害者の問題を隠すようになる事に過ぎないと思う。
-
>>173 イカフライさん
> 「お互いに」と言っておきながら,吉岡さんは一方的な側の事しか考えていないのではないですか?
そこが《「お互いに」》なのですよ。
しかも、「反きょうこ」は9割以上ですね。
後の一割までもが「反きょうこ」にならなければ、イカフライさんは満足しない。
私から見れば、100を超えるレスが「フクロ」にしている様相なのに〜
<それは「正義」だから当然>というのも、傲慢に見えるのですが(^^;
> にも関らず,この参加者の方々は誠実に対応されている。
この見方も、あなたの一方的な見方であって
私には、誠実な対応に見えないレスがかなりありました。
>>177 について
私の担任教師の名前というのは、全く個人的な経験であるということが、本人にも分かることです。
しかし「味噌煮込み」は普遍的な嘲笑語だと、きょうこさんは思っていた。
検索して出てくる差別語なんて、「文部科学省認定」のようなもので、他にいくらでも差別現象はあるでしょう。それは誰かが指摘しなければならないことだと思います。
我々が知らないからといって、検索して見つからなかったからといって
「非常に狭い範囲で局地的」な差別語であるとも限定できない。
何しろ我々は<「知らない」>のだから。
-
>>180
> で、ですね。話し合いの結果,まあ、語った側がほぼその意識が無く、にもかかわらず受けた側がそのように感じてしまった、しかも思いこみや誤解,無知によって。
>こういう場合,そのつもりがなくても相手にそう感じさせてしまった側に責任があるのでしょうか?
私は「無い」と思います。
それを語り合うことによって誤解が解け、
「ただ私は味噌煮込みコアラさんが、この意味を知っていて使っていると思っていました。<略>
でもご本人の意見を聞いてみると、どうもそうではないようでした。私の早とちりのようでした。申し訳ありませんでした。」と謝罪しています。
別のレスで再び「しかし味噌煮込みコアラさん自身からその由来を聞いて 私自身、少なくともそういう意味で使用しているわけではないと思い納得しました。」とも言っています。
これはきょうこさん自身が、「相手にそう感じさせてしまった側に責任が」ないことを認めたというこてでしょ?♪
前にも申し上げましたが、私は
>ただし、味噌煮込みという言葉が一部の方であるにせよ、不快感を与えるものであるならHNを変更することも考慮致します。しかし、その根拠が不明なままで、長年親しんできたHNとお別れするのも残念です。HNの変更は、その根拠がはっきりした段階で検討することにしたいと思います。ご了承のほどお願い致します。>>味噌煮込みコアラ氏
を評価します。
>>181
>「メクラ(とあえて言います)に悪いからスイカ割を止めよう」は、却って視覚障害者の問題を隠すようになる事に過ぎないと思う。
これは同感です。
-
>>182-183
吉岡さん,やはりわかっておられないですね。
人の褌を借りる様で嫌ですが、もう一度,聴く象さんという方の発言をコピペします。
>先ず貴方様の登場の仕方から、貴方様は真剣に反省をして頂きたい。
>精神的に傷つけられたならば、何をしても良いのでしょうか。貴方様の
>登場の仕方から、幾ら精神的に傷付いても、当掲示板の方々が直接
>貴方様を攻撃した事など無いのです。
>何度も言います。この話題を投稿したのは貴方様ですが、その投稿を
>意義がある内容にしたのは、真剣に対応した皆様の相違であり手柄で
>あります。貴方様の手柄では決してありません。lこの点は決して思い違
>いを無さならないで下さい。従いまして今となって貴方様がすべきは、当
>話題にに参画した方々に対し、貴方様の登場の仕方などの反省を踏ま
>え、貴方様なりの見識を示すことではないでしょうか。
この意見に対してきょうこさんは沈黙したままでした。
-
どうしてきょうこさんが反論の集中砲火を受けるのか?
吉岡さんは、本当に全く理解していないのでしょうか?
これが障害者問題,という弱者理論を外して考えてください。
-
>>183
>>「メクラ(とあえて言います)に悪いからスイカ割を止めよう」は、却って視覚障害者の問題を隠すようになる事に過ぎないと思う。
>これは同感です。
これに同感される吉岡さんは,何故
>>ただし、味噌煮込みという言葉が一部の方であるにせよ、不快感を与えるものであるならHNを変更することも考慮致します。しかし、その根拠が不明なままで、長年親しんできたHNとお別れするのも残念です。HNの変更は、その根拠がはっきりした段階で検討することにしたいと思います。ご了承のほどお願い致します。>>味噌煮込みコアラ氏
>を評価します。
となるのでしょうか?事は同じ事だと思うのですが。
言葉と言うのは人によって100通りの受け取り方があり、100通りの解釈がある。
これは、ご理解頂けますか?
それによって、ごくごく少数の人間が不快感を感じるから使うな,といってしまったら、最終的にはなにも言えなくなります。
もっと言ってしまえば,人と触れ合う事すら出来なくなります。
この一部の人間が,たまたま障害者だから、その人達の不快に思う言葉は使わないようにしましょう,という特別扱いは、却って逆差別を招いていないでしょうか?
-
まあ、確かにこの話が堂々巡りになりそうですので,他の方のご意見をお聞きしたいと思います,ログがあまり伸びるのもなんですし。
-
ずいぶん話が進んでしまったようですが、ここまでを読んだ限りではイカフライ女史の主張には同意できる点が多くみられますが、吉岡さんの主張は今ひとつピントはずれのものが多いように思います。
そのピントはずれを指摘していくと、スレの主題になかなか戻って行かなくなるので、ここでは控えさせて頂きますが。
・「自発的に(意志を持って、わざと)相手を挑発するために差別用語、または用語に差別的意味を込める(発信者による意識的な差別)」のと、「別の語義で使われている用語に、差別的な意味を見出して受動的に差別感を感じる(受信者が感じる差別感)」は異なる。
・吉岡さんは「能動的な差別」の話ばかりを引き合いに出しているが、味噌煮込みコアラ問題の主題は「発信者の意図と異なる受け取り方で差別感を感じた受信者」の問題である。
・「誰でもそうだと知っていそうな言葉をHNにする人に対してはどうするのか?(らい病、ビョーキ持ち)」というのは、「発信者に挑発の意志がある」なら、味噌煮込みコアラ問題とはまったく別の次元の話になるので、例題としては無意味。
・うろちい氏の主張は、「自分が知らずに使っていたHNが、相手を傷つけていることを後からでも知ったなら、知った時点で使用をやめる(=差別感を感じた相手の主張を受け入れ、それまで差別的意図ではなかった用語を差別用語リストに入れることに同意する)」というもの。
・同、「言葉狩りはしないよりしたほうが差別用語そのものの減少に繋がるのでマシである」という主張。
・それに対するヤスツの反論は「言葉は経緯や歴史を記録した結果、人々の口の端に登るようになったもので、特定の言葉を禁止するというのは歴史を闇に葬る行為と同じ。歴史を闇に葬っても事実は消えない上に、当の用語が差別とは本来は何ら関係がないものであった場合も、言葉狩りによって地上から消えてしまうのは容認できない」というもの。
・同、「受信者側が感じることで起こる差別感については、発信側を規制するのではなく受信側が受け取る情報を取捨選択するほうがよいのでは?(その例が2chブラウザのあぼーん機能)」
-
>「発信者の意図と異なる受け取り方で差別感を感じた受信者」の問題
と書くと、吉岡さんは恐らく鼻息荒く「差別感を感じた受信者(この場合はきょうこさん)に問題があり、無意識にHNを使った側の無知が責められないのは不公平である!」って言うんじゃないかと思いますが(^^;)、ここでの「〜問題である」というのは、「差別感を感じた受信者に問題がある」なのではなく、「差別感を感じた受信者がいるという、発信者側には予想し得ない問題をどう考えるか?」という意味です。
日本語って難しいですね。助詞の位置で内容変わっちゃうから。
-
>>188-189
まとめ、どうもm(__)m
「発信者が全くその意図が無いにも関らず差別感を感じた受信者がいるという、発信者側には予想し得ない問題をどう考えるか?」
ですね。
この場合,発信者がその意図がなかったにも関らず受信者側に差別感を与えてしまったということを認識して,尚且つ、全く意図がないにも関らず場合によっては使用を止めねばならないのか?
ここが私は不公平と言うか,納得できない部分なんです。
-
イカフライさん
> 吉岡さん,やはりわかっておられないですね。
《「あなたも」》ですよ。
繰り返されたら、繰り返すしかありません。
人の褌へのレスは、
もし「ライビョウヤミ」というHNだったとしたら、この登場の仕方は、決して反省には当たらない。
普遍的ではなかったという「知らなかった罪」を弾劾したうえで、
他に何が悪かったのですか?
> となるのでしょうか?事は同じ事だと思うのですが。
はっきりした違いがあります。
根拠についての検討もなく、スイカ割りをやめるという「逃げ」の姿勢は、解決を遅らせます。
「味噌煮込みコアラ」氏は、根拠を考察し、根拠に正当性がないなら使用し続けるし、あるなら自分の行動も改めようという前向きの姿勢を持っています。
そこが他の面々とはっきりした違いがあります。
-
ヤスツさん
>吉岡さんは恐らく鼻息荒く「差別感を感じた受信者(この場合はきょうこさん)に問題があり、無意識にHNを使った側の無知が責められないのは不公平である!」って言うんじゃないかと思いますが(^^;)
誤解ですよ。
「無意識にHNを使った側の無知」など、誰も(=きょうこさんも)責めてはいません。
自分にレスへの反発レスが来た時点まで、地域限定嘲笑語であることを「知らなかった」きょうこさんは、差別意識を持ってハンドルをつけた(無意識ではない)と思い、それに抗議をした。
それが間違いだと知った段階で、理解したと謝罪した。
そういう構図ですよ。
それにしてもお2人とも「分かっていない」「的外れだ」「ピンとはずれだ」というような表現に遠慮がありませんね。
私側から見たら同じことが言えるのに、です。
-
すみません。
スイカ割りを禁止するということに関して、詳しい事情を知らないままに書きました。
考えてみると、文部通達か何かで禁止されたわけではないですね?
(現に今年もやっていますから)
ある団体において、例えば私が出したビッコのマネのように「盲人のマネを侮辱的な意味を込めてに演じたものがいたから」とか、
何らかの話し合いがなされ、皆で止めることに決めたのなら、前言を取り消します。
こういうHPもありました。
<引用>
夏の風物詩でもあった浜辺のスイカ割り。あれも、めっきり減り、あまり見かけなくなった。なぜか? 目の不自由な人も健常者に混じって海水浴をする機会が増えたからだ。誰がスイカ割りを目の不自由な人と一緒にやるだろうか? 「あ、あんたには、目隠しはいらないか」などと誰が言うだろう? 彼がとんでもない所を打っても笑えないし、かといって、見事スイカを割っても、今一つ拍手喝采が盛り上がらないだろう。
障害を持つ人たちが、これまでのように家の中に閉じこもらないで外に出始めた。人としての、魂の主体者としての自覚に基づく、当然の行動に移ったのである。それが、我々の民主主義というものをさらに豊かにさせてくれている。そして、彼等が幽閉的な状況をうち破って社会に登場するにつれて、スイカ割りのような邪気のない差別も自然と減ってきているのだ。
<引用終わり>
http://www005.upp.so-net.ne.jp/wasei/sbt02.htm
こういう状況で自然になくなったのなら、問題はないと思います。
-
『愛は自由の子』と言う様に、自由でない者は
愛を知ることはできません。
自由とは以前申し上げましたが『多くの選択肢』
『選択機会』と『有益な選択を選ぶ判断能力』の
3条件が揃った状態であり、愛とは『配慮』と『
責任』と『尊敬』と『知』が揃った状態を指します。
きょうこ・コアラ両氏は、選択肢が増えた段階で何
が有益な選択かを判断する能力を前提にして再度選
択をされてる事から見て両者は自由であり、お互い
に再選択の後には、相手の事を気づかい、問いかけ
に真摯に応答し、相手をあるがまに見て、どの様に
すれば相手に有益な助言を与えられかという知を備
えている為に両名とも愛を理解されて実践されて(
実践しようと心がけて)おられます。
私達もこのお二人の様にありたいものですね。
-
>>192
>自分にレスへの反発レスが来た時点まで、地域限定嘲笑語であることを「知らなかった」きょうこさんは、差別意識を持ってハンドルをつけた(無意識ではない)と思い、それに抗議をした。
>それが間違いだと知った段階で、理解したと謝罪した。
>そういう構図ですよ。
その部分は、今の主題では重要ではないのでは?
では、「きょうこさんが謝ったから、きょうこさんが指摘した問題はスルーでいいのか?」という新たな問いについてはどうお考えでしょうか?
うろちいさんなどは「自分のHNが相手に不快を与えていたとわかったら、その瞬間から自分のHNを相手の言うがままに言葉狩りリストに入れることに同意する」というニュアンスのことを述べていらっしゃいます。
それがうろちいさんの「個人的な対処方法」であり、うろちいさんの個人の身の処し方の域を出ないのであれば、「そういう方法もありますね」で終わることです。
が、うろちいさんが「僕はこうしたから、君たちも僕に倣うべきだ」と言ったとしたら、それは同意できませんよ、ということです。
その上で、「では、発信者に他意がなくても、受信者が傷ついたと抗議した場合、一般論としてはどうすべきか? 対症療法的に指摘された用語を片っ端から「禁止用語」に入れていくのか。それとも、指摘されそうな用語を未然に「禁止用語」にしてしまうべきか。受信者側の「傷ついた」要望については、すべて受け入れなければならないのか(理解は示すが変更しない場合は、理解していない、差別者だ、というレッテルを貼られてしまうことを受け入れなければならなくなるのは、おかしくないか?)」という問いが、今の話題なのでは?
きょうこさんが味噌煮込みコアラさんにどう対処したかは、この場合うろちいさんが「自分だったらHNを変える」といったのと同じように、きょうこさんの個人的な対処方法なわけであって。
吉岡さんが夢中になっておられる箇所は、その意味では「枝葉末節」に類するものなのでは?
それこそ、「そうしたいならあなたはそうすればいい」で済んでしまうような。
しかしそれでは意味がないので、「では同様の事態に陥ることを、未然に防止できるのか?」「同様の事態に対する対処姿勢はどうなのか?」という話をしているわけです。
まずは、まとめをご覧下さい。
そのまとめに同意できないのであれば、吉岡さんご自身が議長としてまとめを提示してください。
そのまとめに沿って改めて意見表明させていただきます。
-
>>195 ヤスツさん
>その部分は、今の主題では重要ではないのでは?
極めて重要な主題だと、私は思っています。
「知らなかった」ことは罪なのか、どのくらい大きな罪なのか。
それらはあなたが提出したテーマでもあります。
>では、「きょうこさんが謝ったから、きょうこさんが指摘した問題はスルーでいいのか?」という新たな問いについてはどうお考えでしょうか?
これには二つの問題が含まれています、か ?
つまり、「知らなかった」ことを「知った」段階で謝罪をした、その後、その罪はどこまで追及されるべきか、という問題と
きょうこさんが指摘した、「味噌煮込み○○」という言葉で、知的障害者を侮蔑する奴をどうするかという問題。
前者については、私は謝罪があれば許してもいいと思っていますが、ヤスツさんは、謝罪くらいではいけないとお思いですか? 知らなかった罪をどこまで追求すればいいですか?
後者については、きょうこさんによって教えられたそういう差別をする奴がいたら、私も毅然とした態度で抗議しようと思います。
>うろちいさんなどは「自分のHNが相手に不快を与えていたとわかったら、その瞬間から自分のHNを相手の言うがままに言葉狩りリストに入れることに同意する」というニュアンスのことを述べていらっしゃいます。
これはうろちいさんご自身の答える問題だと思いますが、
うろちいさんは、「味噌煮込み○○」という言葉で、知的障害者を侮蔑する奴が存在し、その言葉を浴び続けている人にとっては、その言葉を聞くことが非常に苦痛であるという事実を知った場合。
それを知って、苦痛を理解した時点では、その言葉を使わないということも一時避難的に必要なことだ、と言っているのだと、私は解釈しています。うろちい氏個人問題としてではなく、普遍的な意味で同感でもあります。(あなたに見習えとは言いませんが)
>「では、発信者に他意がなくても、受信者が傷ついたと抗議した場合、一般論としてはどうすべきか?
何度も言いますが、私は、一般論として「味噌煮込みコアラ」さんの対処の仕方を支持しています。
>吉岡さんが夢中になっておられる箇所は、その意味では「枝葉末節」に類するものなのでは?
私は根源であると、認識しています。
提起された問題とそれに対する考察は、普遍的なものとして考えています。
それにしても議論相手に対して、「夢中になっている」とか「枝葉末節」とか・・・・よくもまあと思います・・・(喧嘩を売るのではなく、平和的な話し合いをするおつもりならばの話ですが)
「味噌煮込み○○」地方限定説について。
よく似た言葉に、「ノータリン」というのがあります。漢字で書けば「脳足りん」でしょう。
元は誰かが言い出した地域限定用語だったと思います。マリリンモンローの「ノーリタン(帰らざる河)」をもじったのかも知れません。「味噌煮込み」よりはあっけらかんとして、毒気が少ないから全国区として広がったのかも知れません。
それに比べて「味噌煮込み」の、脳味噌をぐつぐつ煮込むイメージはいかにも陰湿です。あまりにも陰惨で、普通の人は声に出すも憚られ、全国区にならなかったのだろうとも思います。
その分、その言葉を浴びせられる人にとっての苦痛は想像に余りあります。
-
>(理解は示すが変更しない場合は、理解していない、差別者だ、というレッテルを貼られてしまうことを受け入れなければならなくなるのは、おかしくないか?)
理解は示すが変更しない自由がある場合、こういう反応をするのも自由だというのが
あなたの主張にそっているのではありませんか?
指摘があっても受け入れないのも自由なのですから、受け入れないのは差別者だと思うのも自由でしょう?
きょうこさんの「地域限定であることを知らないで抗議した」罪は許せないが「知らずに味噌煮込みハンドルを使った」ことは、指摘することすら許せないでは、あまりに一方的だと思いますよ。
-
>>188 ヤスツさん
>・うろちい氏の主張は、「自分が知らずに使っていたHNが、相手を傷つけていることを後からでも知ったなら、知った時点で使用をやめる(=差別感を感じた相手の主張を受け入れ、それまで差別的意図ではなかった用語を差別用語リストに入れることに同意する)」というもの。
おお、僕はそんなことを言っていたのか。
-
>おお、僕はそんなことを言っていたのか。
あはは・・・刺身を出したら、煮付けになっていましたね。
-
>>197 吉岡さん
>きょうこさんの「地域限定であることを知らないで抗議した」罪は許せないが
>「知らずに味噌煮込みハンドルを使った」ことは、指摘することすら許せないでは、
>あまりに一方的だと思いますよ。
僕もおいおい示していこうと思っていたのですけど、何故かダブルスタンダードが存在しているんですねよ。
「知らなくて言ったなら仕方がないですね」ときょうこさんに言ってあげた人はいないようでした。
一方で味噌煮込みコアラさんに対してはそうなっているのに。
「知らなくて言ったなら仕方がないですね」を双方に言った上で
コアラさんには
「しかも、それを知らないのは無理ありませんね」
と許容し
きょうこさんに対しては
「しかし、それを知らないこと自体は問題ですよ」
と批判する筋ならわかるんですけどね。
-
>>198
>おお、僕はそんなことを言っていたのか。
違うのですか?
-
うろちいさん そうなんですよ。
それが分かって欲しくて、ヤスツさんたちがこのスレで論じている「知らなかった責任」に並ぶように表記しているんですが・・・
「味噌煮込み坊や」・・・女性にこういっているとは思えないから、「味噌煮込み○○」の○○の中には、「味噌煮込みうろちい」「味噌煮込みババア」のように「罵倒する相手を表す言葉」が入るのでしょう。
味噌は脳味噌を連想させます。(あの板でも、それを指摘する人は居ました)
普通、そこまでは感じますから、今まで聞いた事がないとはいえ、指し示されれば、
「ライビョウヤミ」以上にえげつない差別用語として使われているのが分かります。
常時そんな差別用語にさらされている きょうこさんが、「味噌煮込みコアラ」のハンドルが
差別意識をもって使われていると誤解するのも、無理からぬ話です。
しかし、名古屋地方では非常に愛好される食べ物であることを初めて知り(実は私も名古屋と味噌煮込みの関係はここで初めて知りました)差別意識からつけたハンドルでないことを理解し、(たった一日しか経過しないのに)素直に反省と謝罪をした。
評価することはあっても、それ以後責め抜かれる質のものではないと思います。
しかし、謝罪の後もっともっと口汚くののしられ
挙句には、きょうこさんの与り知らぬこの板にまで引きずり出して非難されています。
「知らないでやったこと」は仕方ないという価値観は、自分の都合に合わせてしか適応されない価値観のようです。
となると、逆の立場の人は、逆の立場にしか適応しないから、味噌煮込みコアラさんがいくら知らなくて悪意もなくてつけたハンドルだと釈明しても、金輪際許さずつるし上げるような糾弾をしてしかるべきでしょう。
嫌な世界ですねえ、それって。
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どうも、二つの話題が,ごっちゃになっているような気がします。
ひとつは差別はいけない、ということ。
これは自明の事です。
もうひとつは、ある人間が発した言葉や単語が、その人に全くその意図がなく、また慣用語としても全く差別的表現としても認知されていないにもかかわらず、特定の受信者が差別感、侮蔑感を感じた場合,その発信者はその責を負うべきか?
負わない場合、その意図が全くなくても「差別者」というレッテルを貼られるのか?
どう考えるのでしょうか?
聴きたかったのはここです。
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言葉って同じ言葉であっても,100人いれば100通りに解釈されるものですね。
何回も繰り返していますが。
例えば、この「味噌煮こみボウヤ」にしても、差別用語として使用される,という背景があると聞いたら,吉岡さんのようにネガティブイメ−ジがついてしまうことは仕方がないと思います。
けれど「味噌煮こみボウヤ」という言葉だけを取り上げたらどうでしょうか?
「味噌煮こみ」も「ボウヤ」もどちらも問題のある言葉とは私には思えません。
「味噌煮こみ」というのはそもそも料理の用法ですし、名古屋名物味噌煮こみうどんは、ご存知ない方もいるでしょうが、そこその有名です。
私はタモリがやたら名古屋の事を言っていた時に知りました(食した事は1、2回しかありませんが,東京にも専門店はありますね)。
で、「ボウヤ」というのは、基本的にはオトコノコを親しみをこめて言う言葉です。
ばあいによっては、いい年をしいながら大人げないというマイナス的なイメ−ジでも使われますが。
(ガンダムの有名な台詞であるよね?)
また、昔バンドの付き人を「ボ−ヤ」とも言いましたね。
かようにイロイロな解釈があります。
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でね、これは仮定ですが、そのものずばり「味噌煮こみボウヤ」というHNを使用してる人がいて,それがある場所では地底障害者に対する差別としての言葉だったと知った時,どうするべきか?ということです。
個人的にはHNなんて記号程度だ,と私は思っています。ですから、別にイカフライでなくても私はいいです。
ただ、人によっては思い入れのあるHNの人もいるでしょう。
例えば,そのハンドル主は昔バンドのボ−ヤをしていた、その時巡業で行った先の味噌煮こみうどんが大好きで、青春時代の思い出を集約してつけたハンドルが
「味噌煮こみボウヤ」だったかも知れません。
だとしたら、その人が,ハンドルを変えない(例えそれが別の場所では差別用語として使用されたとしても)場合,
「彼は差別者にされるのか?」
言葉狩り,といういささか挑発的な表現をされるのは、そういったことがまかり通っている現実があるからではないのでしょうか?
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ちっとも錯綜していないのですが、整理がつきませんか?
>差別はいけない、ということ。
これは自明の理です。
という事が確認出来ればあとは簡単じゃあないですか♪?
「その人に全くその意図がなく、また慣用語としても全く差別表現として認知されていないにもかかわらず
特定の受信者が差別感」 どころか、のた打ち回るほどの苦痛を感じることがあるということは
きょうこさんが示してくれた例だけでも、ひとつはありますね。
その苦痛をイカフライさんも感じ取ることは出来ると思うのですが、出来ませんか?
「味噌煮込みイカ、脳味噌煮崩れ」なんて揶揄されても、ムカッとはしても生きる気力を失うほどのダメージは受けないでしょう?
しかし、それが知的障害者に向けて発せられたら、どのようなダメージを受けるかの想像力はありますよね。
これは致命的な差別です。
しかし、我々は「知らなくて犯した罪」にどう対処するのかを話し合っている最中です。
少なくともイカフライさんやヤツスさんは、「知らないで犯した罪」には、責任取れないという立場であると思います。(違いますか?)
だったら、この場合の「ハンドル味噌煮込みコアラ」さんの責任は問われないでしょ?
きょうこさんも「知らなくて作ったハンドルで悪意はなかった」と言う判断をして
責任を問いませんでしたし、
ほかの誰も、味噌煮込みコアラさんに、「差別者」というレッテルを貼って
糾弾をしなかった。(きょうこさん自身もですよ)
何の問題があるといわれるのですか?
あなたがたは「味噌煮込み○○」が、普遍的な差別語ではなく、そのハンドルに
知的障害者への差別心がなかったことを《「知らなかった」》きょうこさんを
金輪際許せないという立場をとっておられます。
「知らないで犯した罪」を徹底糾弾するという立場に、スタンスを変えますか?
「インド人は不潔好き」と評するお母さんを吊るし上げますか?
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あのね、イカフライさん。
「味噌煮込み○○」という、本来料理名であったり、何の差別も含まない言葉でもって
特定の人を、意図的に決定的に嘲笑する人が、「現に」「きょうこさんの周りには」存在するのです。
そのことを抜きには語れない問題なのですよ。
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>>206
吉岡さん、いい加減、きょうこさんから離れましょうね。
>「その人に全くその意図がなく、また慣用語としても全く差別表現として認知されていないにもかかわらず
特定の受信者が差別感」 どころか、のた打ち回るほどの苦痛を感じる
かどうかは、解りません。
>「味噌煮込みイカ、脳味噌煮崩れ」なんて揶揄されても、ムカッとはしても生きる気力を失うほどのダメージは受けないでしょう?
しかし、それが知的障害者に向けて発せられたら、どのようなダメージを受けるかの想像力はありますよね。
私は生きる気力を失うかも知れませんよ。
知的障害者のダメ−ジが健常者のダメ−ジより重い,とどうして決められるのですか?
>だったら、この場合の「ハンドル味噌煮込みコアラ」さんの責任は問われないでしょ?
>きょうこさんも「知らなくて作ったハンドルで悪意はなかった」と言う判断をして
>責任を問いませんでしたし、
>ほかの誰も、味噌煮込みコアラさんに、「差別者」というレッテルを貼って
>糾弾をしなかった。(きょうこさん自身もですよ)
それが、問われているのが「言葉狩り」です。
話を挿げ替えるのは止めましょう。
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吉岡さん、ご意見を頂く前にお手数ですが,過去ログの66-71あたりを読んで頂けないでしょうか?
特に>>71あたりを。
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イカフライさん。
あなたが、その言葉で生きる気力を失うならもっと話は早いではありませんか。
そんな差別をすることは許せないことだと、「私は」思います。
あなたも、差別は許されないことは自明のことだとおっしゃったではありませんか。
しかし「知らずに」犯した差別だったと言うことを「知って」からは、
誰一人、味噌煮込みコアラさんが、「知らないで犯した差別」を
それでも許さないといった人はいません。 居ましたか?
その上で、「知った後」コアラさんがどういう態度を取られるかは
きょうこさん自身も「今後のことはご本人である味噌煮込みコアラさんにお任せします」
と言っています。
何を問題だというのか、正確に指摘してください。
もちろん私なら、自発的にそのハンドルをやめますよ。
うろちいさんも、三毛猫さんもそうだと信じます。
あなたは、自分すら生きる気力を失うことがありそうな言葉を
愛着があるからと、使い続けると言われるのなら、
それはあなたの生き方です。
監獄にしょっ引かれることもないでしょう。
どうぞ言葉狩りにめげずに、信念を貫いてください。
それに対する批判も甘んじて受けるべきだと思いますが。
(きょうこさんも受け続けています)
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>>209
読みましたよ。
しかし今は「あなたが」提示された「きょうこさん問題」を
モチーフに、討議をしています。
錯綜させないでおきましょう。
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>>211
全く錯綜していなんですけれどねえ。
いい加減、頭を冷やして頂けませんか?
「差別されている可哀想な障害者」というイメ−ジを外してくださいよ。
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