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伊東静雄を偲ぶ
自問自答する反響
山本先生のおっしゃるように「・・・・・さやうなら・・・・・」というのは、遠ざかっていく過去(または『哀歌』)が、「さよなら」という地上からの詩人の呼びかけに応えているような感じがします。あるいは、翳が「さよなら」と会釈をして、詩人が白雲に向かって「・・・・さやうなら・・・・・」と呼びかけているのでしょうか。
風立ちぬ補遺
立原道造の評論「風立ちぬ」は、論旨の飛躍やすり替えなどがあって、なかなか読み難い文章になっています。(引用するには長すぎるので、お手元に同評論がない方には分かり難く申し訳ありませんが・・・)
前稿で書きましたように、堀辰雄が「時間から抜け出した日々」と言うのを揶揄(イロニーというのでしょうか)しつつ、以下のように勇まし気な空文句を並べています。
(自分もまた)「日常から抜け出して」“変様”するのだ、…ここから先は“惨落”だ。ここはもう終わりだというところから始まるゆえに僕らの言葉は”橋”となる。そして“出発”した僕らの“前進”はもっと危険な方向に向けられる。“どこへ?”
“前進”が、内部への、世界が示す底知れない透明な深さへの、更に“敢為”な一歩が、今やいりようである。“騎士たちの勇敢な遠征が。”
大きな響きが空に鳴りわたる、“出発”のように。何のために? 聞くがいい。…僕らは今初めて新しく一歩を踏み出す。<<風立ちぬ>>としるした一つの道を抜け出して。
どこへ???しかしなぜ? 光にみちた美しい“午前”に。
このように、“・・・”の語句(“ ”は私が付けたもの)が、立原の新しい詩語であるかのように評論「風立ちぬ」で出現しています。(難解詩語)
「風立ちぬ補遺」には伊東静雄や田中克己が登場し、イロニー臭のするところもあるので、『コギト』へ接近するのかなと思っていると、次の『詩集西康省』では、「詩人はたいへんにイロニーを愛する。そしてその愛し方もまたすでにイロニーである。僕らが今この本と一緒にいるときひどい拒絶をうけている。」と、イロニーを揶揄し、伊東静雄や田中克己とも距離(淵)を置こうとしています。
とどのつまりは、松本健一氏が言われるように「堀辰雄への訣別は、抒情詩への訣別を意味した。」(現代詩読本「立原道造」―“純粋精神の行方”」という悲劇的な境地に自ら迷い込んだまま、短い生涯を終えてしまったのです。
「天命」 <やなせ たかし>
見おぼえのある
絶壁の岸
ここまで何度か
追いつめられ
助からないと思ったが
奇跡的に
九死に一生
なんとか
生きのびてきた
生きとしいけるものには
天命がある
もはや
無駄な抵抗はせぬ
ゼロの世界へ
消えていくでござる
拙者覚悟は
できているから
あせらず
しばらく
お待ちくだされ
??????『詩とファンタジー』(2013/12/1 責任編集 やなせたかし)
“おや?やなせさんは先月(10月13日)亡くなられたのでは・・・”と思いながら、『詩とファンタジー』を昼休みに紀伊国屋で買ってきて、今読んでいます。
本誌の前身『詩とメルヘン』(サンリオ)では、伊東静雄詩も、きれいなイラスト入りで特集していただきました。
「手のひらを太陽に」「アンパンマンのマーチ」「勇気りんりん」など、子供たちの愛唱歌になっており、東北の子供たちも「きっとアンパンマンが助けに来てくれるね!」と言ったということです。今では、海外にも輸出されて、アンパンマンは子供たちのグローバルカルチャーになっています。
“「天命」が下るまで、やなせたかしさんのように精一杯生きて、爽やかに、ゼロに帰して消えていくことができるように。” 誰しも願うことではありますが、「言うは易く行うは難し」の言葉通りで、心身共に日夜精進をせねばと改めて思います。
?? ・・・一世紀近く/生きてきましたから/もうおしまいです/あっというまでしたね/すぎてしまえば・・・
関西から、諌早情報です〜♪♪
美しい紅葉の季節になりました。ご無沙汰していますが、お変わりございませんか。
11月10日はあるかんば隊で、雨の中無謀にも成就山(標高約250m)の、御室八十八カ所霊場巡りをしてきました。石段&坂道踏破の、アラウンド80の諸先輩のご健脚ぶりに、脱帽&ブラボーでした。
長崎を舞台に、グループホームで暮らす89歳の認知症の母親と息子(漫画家・岡野雄一さん)の、おかしくも切ない日常を描いた介護喜劇映画『ペコロスの母に会いに行く』が、11月16日(長崎では9日)より全国公開されます。 『ペコロスの母に会いに行く』公式サイト http://pecoross.jp/
プロデューサーの森岡克彦さんと、配給会社『東風』代表の木下繁貴さんは、いずれも諫早高校出身です。
村岡さんが、映画を作りたいと思われた動機や、それからのこと・・Facebookで出会い、Facebookで広げ、映画の資金集めもFacebookで繋がった人たちが、力を貸してくれた・・。不思議な映画のメイキングストーリーです。
http://ameblo.jp/hide7mail/entry-11426201043.html
日本の社長インタビューで紹介された、配給会社『東風』代表の木下繁貴さん。
http://www.magazine9.jp/article/boss/8882/
「喜劇の巨匠森崎東監督の本領発揮というべきか。笑って泣いてまた笑い、最後に思い切りの感動でお客様を震わせる。決して悲しい涙ではなく、心が浄化された美しい涙が流せる映画だと思います。あまり力まずにゆったりとした気持ちで油断して(笑)喜劇をお楽しみください」とは、プロデューサーの村岡克彦さん。 村岡さんはわがままを言って、伊東静雄の詩碑のある諫早公園でも、ロケをしてもらったそうです。 なんとも嬉しいわがままです。
映画の上映が、とても楽しみです。 あるかんば隊員はここしばらく『ペコロスを応援せんば隊』として、映画のPRに励みます。 みなさまにも是非観て頂き、そして周りの方々にアナウンスして頂けましたら、幸いに存じます。
村岡克彦さんがFacebookで紹介されていましたので、シェアさせて頂きます〜♪♪
『AKB48の曲とダンスに勇気と元気をもらって、「諫早」をPRするために作りました!「諫早の良いところ」「元気な人」「長崎がんばらんば国体」などなど費用ゼロ、情熱だけで作りました!出演者数約750人、皆さんの生暖かいツッコミをお待ちしています』
http://www.youtube.com/watch?v=9IrTootPQ7w
『ペコロスの母に会いに行く』
ココペリ〜さんありがとうございます。
さっそく岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』(西日本新聞社)を読みました。とても面白かったですよ。認知症の母親との生活という実話に裏付けられている上に、漫画家岡野さんの優れた描写力によって、読者をひきつける強い魅力を放っているように思います。詩人伊藤比呂美さんも「絵はうまいし、長崎弁はたっぷりだし、みつえさん(89歳)はかわいいし。」とべたほめされています。
紀伊国屋本町店で「ピコロス・・・ありますか?」と店員さんに尋ねたら「ペコロス・・・でしょう!」と、すぐわかりました。本が平積みされており、良く売れているようですよ。
大阪市内は「梅田ガーデンシネマ」と「シネマート心斎橋」で上映されるようです。(先日「梅田ガーデンシネマ」で予告編を観ました。)来週には映画『ペコロスの母に会いに行く』を観に行けると思います。
本日(11/15)、朝日新聞夕刊に記事が載っていました。
http://
11/15朝日新聞夕刊(デジタル)
「ペコロスの母に会いに行く」
■評:理屈いらない親子の情
【秦早穂子・映画評論家】ペコロス、小タマネギみたいな禿(は)げ頭の息子ゆういち(岩松了)と母みつえ(赤木春恵)の物語は、岡野雄一の自伝的漫画を土台にしている。
会社の仕事はそっちのけ。好きな漫画を描き、“どんげんでんなる”とライブハウスで歌う息子も、父の死後、ボケが進む母との暮らしは、怒ったり、笑ったり、許したり。もう、どうにも出来ず、母を施設へ預ける日がやって来る……。
天草の農家に生まれた、しっかり者のみつえ。幼馴染(なじみ)のちえこは口減らしのために働きに。みつえも後を追い、原爆の落ちた長崎に嫁いだ。夫さとる(加瀬亮)は神経症で酒癖が悪く、月給を一晩で飲んでしまう。苦しい暮らしであった……。
“早春賦”の歌を原点に、ひとりの女の記憶の旅は、少女から妻、そして老母と、過去・現在が交錯する。親と子、介護の問題を越え、昭和から平成、時代の流れを映し出す、優れた視線だ。
人は老いるほどに、過去の記憶が蘇(よみがえ)る。まして認知症の人には、失われていく思い出が拠(よ)り所(どころ)なのか。「死んでからのほうが、うちによう会いにくる」。夫、妹、友がやって来たと、幸せな母。ぼけるのも悪くない、息子は思う。肝心の彼は、忘れられてしまったが。体験しなければ、分からぬ痛さだ。それでも「忘れてもよかけん。ずっと元気で」。おっとりした長崎弁そのままの思いが、全編を支える。
ラストの眼鏡橋で、母が死者と再会する映像は、美しく、厳しい。彼女にとっては、夢でも感傷でもなく、それこそが、生きている現実なのだろう。
同じ長崎生まれ、85歳の森崎東監督の確かな目が光り、赤木春恵89歳、初の映画主演という。日本人が本来持つ明るさ。溢(あふ)れる生命力。断ちがたき親子の情。そこに、なんの理屈があろう。
伊東静雄没後60周年―痛き夢の現代の詩に問いかけるもの
本日 神戸女子大で行われた『現代詩セミナー』に参加しました。
<基調講演>田中俊廣教授「伊東静雄没後60周年―痛き夢の現代の詩に問いかけるもの」の骨子をメモしてきましたので、取り急ぎ田中氏講演のさわりの部分だけを以下のように要約して取り急ぎお伝えします。
[テーマの意味]伊東静雄の生き方、詩作のありかたや詩作品が、現代詩人の詩作のありかたに問いかけるものは何か?、現代とどうクロスさせるべきか?
[伊東静雄の詩作のポイント]
? 15年戦争(「倉橋氏「昭和10年代」)という困難な時代に生きて、日中事変、満州事変、太平洋戦争という大事件とパラレルに??を続けた詩人。
? ひたすら自己探求・問いかけを行う詩人。
? 「詩で生きる」「詩を生きる」ことをモットーにして、「詩のことば」を創造してきた詩人。―その過程でいろいろな「文体」を試行した(自由律…口語律、文語律にとらわれない自由さがある。倉橋氏)
文体とは、表面的には口語・文語、深層的には、その人の価値観、思想を表すものという二つの意味があり、その二つが詩の言葉に現れてくる。
「詩の世界」(フィクション)<・・・・・>「私の世界」(現実)
「詩の世界」(詩のことば・文体)が、「私の世界」から独立していって、詩から自分が引っ張られるようになる。(「詩によって私が語られるようになる」と同じ意味か?)
『コギト』の時代には、『詩と詩論』や萩原朔太郎によって、詩のことば・文体は、既に一応確立していた。伊東静雄は、そのなかで、さらに自分らしい詩のことばを見つけようと努力した。「詩人が詩を作るということは、新しいことばを発見することである。」(島崎藤村)(朔太郎「氷島の詩語について」より)
「戦時中に生きる」という困難な状況の中で、自分に問いかけ(自己探求)を行い、ひたすら“詩で生きよう”とした伊東静雄は、生涯を通じて自分なりの「詩のことば・文体」を追求したということができる。
このような伊東静雄の詩作法や遺された詩作品が、現代の詩人に問いかけるものは何か?
現在は、「詩のことば・文体」も一般的に確立し、平準化しており、表面的には平穏な時代であるが、世界の深いところでは病根が濁流のように渦巻いており(不安を秘めた時代)、また「個性が解体している時代」ともいえる。そのような現在の状況において、現代の詩人は、自分で自分の詩のことばを作っていかなければならない。
すなわち「どのようにして個性を持った文体を確立していくか?」「日本語の美しい詩のことばをみつけていくか?」が伊東静雄の時代と同じく重要である。伊東静雄の詩作法や遺された詩作品は、現代の詩人にそのような課題を問いかけている。
各論として、「曠野の歌」「八月の石にすがりて」「水中花」「燕」「春の雪」「詩作の後」「倦んだ病人」などの詩について、興味深い解説がありました。(これについてもメモ整理後に投稿予定です。)
会場で売られていた『イリプス』2013・12に、倉橋健一「伊東静雄覚え書き―没後60年考」が掲載されております。倉橋氏からは、「昭和10年代は、我々の現代に重ねて考えることができる。」「伊東静雄は、(イロニーとして)死を歌いながら、生きるインパクトを強めていった。」という話があり、とても示唆に富むものでありました。
その他にも有益なお話があり、午後1時〜6時という正味5時間の「現代詩セミナー」が、とても短く感じられました。ありがとうございました。
現代詩セミナー伊東静雄
当日用事があり着いた時は田中氏の公演の終わりごろでした。
その後シンポジュウムがありましたが予想通り中途半端に終わったというところ。
その後は詩人たちの自作朗読があり、ここで退却しました。
到着前に吉増鋼三氏の四季派学会でのビデオが上映されたようで折角の時でしたのに見れずこれは残念でした。そのときのレジメが添えられていましたがこれが詩のように難解でさっぱり判読不明でした。聞いた人に聞くべきでした。
私は日本浪漫派における伊東静雄の立ち位置への疑問と小野の追悼文「伊東の幽霊」のなかの疑問点を質問しましたが話が充分伝わらなかったようでした。
それはともかく伊東静雄没後60年のセミナーが開かれたこと評価します。田中氏の本、すぐ図書館ででも借りることにします。
「伊東の幽霊」の質問
こんばんは。質問者が斉藤さんだったとは気が付きませんでした。
「伊東の幽霊」についての斉藤さんの質問のご趣旨は、皆さんよく理解しておられ、「同感」であったと思います。「保田與重郎…三島由紀夫は、生前伊東静雄が敬愛してやまなかった」という小野さんの文章は、(「生前」と言えば死ぬまでずっとという意味でしょうけど)斉藤さんが言われるようにそれは事実に反しますね。伊東静雄が彼等に敬愛されていたのですよ。ただし、小野さんファンも結構おられる中で、諸先生方も大御所小野さんの文章を「あれはおかしいですね」と回答するわけにもいかなかったのではないでしょうか。あそこで前列2番目にいた私が拍手したら、倉橋氏や田中氏と目が合い、お顔が「もっとも!」という感じに受け取れるような表情でしたよ。
吉増鋼三氏の四季派学会でのビデオは、音声も画像も何か訳のわからない気持ちの悪いもので、観ても全く理解不能でした。
田中氏の講演の各論部分や他の先生方のご発言の中で、私に重要と思われた事項についても記録をしておりますので、少しまとまったらご報告します。
伊東の幽霊の質問
Morgenさんありがとうございます。少し似ている方が居られたので聞いてみたら人間違いでした。分っていただけて嬉しいです。
あのあと倉橋氏に再度お話しました。Morgenさんのセミナーの要旨さすがに良くまとめておられると感心いたします。
『ペコロスの母に会いに行く』
介護喜劇映画『ペコロスの 母に会いに行く』・・観てきました〜☆彡
映画を観終わって・・『 恕(じょ)』 ゆるす おもいやる はかる
この一文字が、私の胸に温かいぬくもりを持って、ぽぉっと浮かび上がりました。
認知症のみつえさんや、息子でバツイチ・ハゲちゃびんの雄一さんや、周りの人々の心情を丁寧に掬い出して表現してあり、しみじみじわじわっと心に染みいる素晴らしい映画でした。
影の主人公は、みつえさんの夫で雄一さんの父、さとるさんではないかと思いました。 神経症で酒乱だった夫に散々苦労させられたのに、夫の死後10年も経つというのに、認知症になったみつえさんは夫のために酒を買いに行く。 今では父親の事を、「大好き!」と胸を張って言う雄一さん。
これはゆるしのメッセージでは・・自分に対しても人に対しても『恕』・・そう思えました。
坂本竜馬は長崎を さか はか ばか と表現しているそうです。坂と墓と馬鹿(馬鹿が付く程に、正直者でお人好しで、おくんち祭りに没頭する)が多い。
「ボケるとも 悪か事ばかりじゃ なかかもしれん」 「どんげんでんなる どんげんでんなる どんげんでんなるてゆうたろうが〜♪♪」・・そんな長崎人が上手く表現されていて、観る人の心を軽く、明るく、希望へと導いてもくれます。
プロデューサーの村岡克彦さんのお言葉「決して悲しい涙ではなく、心が浄化された美しい涙が流せる映画だと思います。あまり力まずにゆったりとした気持ちで油断して(笑)喜劇をお楽しみください」正にそうでした。
前売り券がもう一枚あるので・・今度はちょっぴり俯瞰して、出演者一人ひとりの立場や気持ちに寄りそって観てみるのも、面白いかなぁと思っています。
ではでは、ネタバレにならない程度にこの辺で〜(^_-)-☆
『ペコロスの母に会いに行く』公式サイト http://pecoross.jp/
伊東静雄没後60周年― 痛き夢の現代の詩に問いかけるもの(2)
ココペリ〜さんこんばんは。日曜日は、用事があって同窓会に欠席してすみませんでした。
少し長文になりますが、斉藤さんにお褒め頂いたので、調子に乗って続きを書きます。
1、『わがひとに與ふる哀歌』・・・「曠野の歌」
「曠野の歌」は、自分の死を想定し、自分の死体を収めた棺が馬に引かれて行き、やがて永久の帰郷となるという文脈であり、「わが痛き夢よこの時ぞ遂に/休らはむもの!」と、詩人の「痛き夢」は死によってしか終わらないと言っている。
「わが痛き夢」とはなにか? 伊東静雄の生き方を考えてみると、?精神的な自覚症状(「神経衰弱」と本人は言う) ?生活の苦しさ ?父の遺した借金 ?故郷喪失(家が無くなった)−これらの苦しみがあるので、自分を超えた“ある夢”、理想、イデアを求めても、死んでからでないと痛き夢は止まない(死んでも実現できない)のではないか。「わが痛き夢」とは、そのような「自分を超えた“ある夢”、理想、イデア」のことである。このような苦しさの中で伊東静雄は自己超克の苦しい闘いを強いられた。この「自己超克の苦しい闘い」は、『夏花』の「八月の石にすがりて」に継承される。
2、『夏花』・・・「八月の石にすがりて」「水中花」〜「燕」
・「八月の石にすがりて」
この詩は、“蝶”〜“自分”〜“狼”という文脈の流れで、蝶と狼が共鳴している。
自分というのは、小さな存在であるが、「わが痛き夢」を求めて生きてきた。
蝶は、自分の運命を知ったからにはもう生きていけないと息絶えた。(“死の願望”“死ぬしかないんじゃないか”という思いに駆られる。)しかし、狼は、飢えにかげりて、青みがかった末期の目をしていても、なお夢を見て、希望をつなごうとしているではないか。自分もまた狼のような目をして「痛き夢」を求めようとしているのだ。
・「水中花」
前文は口語体、詩は古文による14行詩という古典的な形の詩であり、詩作をする者にとって参考になることが多い。
「堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。・・・すべてのものは吾にむかひて/死ねといふ、/わが水無月のなどかくはうつくしき。」というところを見れば、伊東静雄が死に近いところ(人生の危機)にいたと言うことができる。芥川龍之介の「地獄変」や三島由紀夫のように、「美と死が一緒になっている」境地からの脱出(芥川的傾向の克服)が次の課題となる。
・「燕」
この詩でそのような死の危機からの脱出がはかられている。
東南アジアから、海波を乗り切り、嵐をも越えて、最初にやってきた一羽の燕が、「わが門の ひかりまぶしき たかきところに 在りて そはだだ 単調に するどく 翳りなく」鳴く。「あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と/羽うちたたきし 寒き海波を物語らず」だだ 単調に するどく鳴くのである。燕が、(自らの苦しかった過去や苦難を乗り越えてきたことを一切語らず)ただ「単調に するどく、翳りなく 鳴く」のと同じように、愚痴をもらさず、弱音を吐かず、ただひたすら“詩に生きよう”という強い詩人の決意が、「燕」という詩に表明されているということができる。
3、『春のいそぎ』・・・「春の雪」
「春の雪」は、形の上では七五調で、明治30年代・藤村の時代に帰っている。(形には拘らなかったとも言うことができる。)
「ながめゐし(物思いにふけっている)私の想いに、下草のしめりの中に、かすかに春の温かさ(気配)が感じられるような、春の雪がふる朝であるよ」と歌う。静かで、空気感、透明感が感じられる良い詩である。(悪い詩、嫌いな詩という人もいる。)
「春の雪」は、昭和17年1月27日の日記「2日ほど前より風にて臥床中なりしまき子熱ひきしが、身体いまだだるげなり。われも気分わるし、早くいぬ。」に続けて草稿(3篇)が書かれている。
春の雪とは、早く戦争が終わって平和が訪れてほしいと願う気持ちの表れであるが、戦時下の環境ではあからさまにそうは言えなかった。伊東静雄もあの戦争のイデオロギーの中にいたが、三好達冶や高村光太郎のような扇動的な詩は書かなかった。この後、約2年半の空白時代がくる。(日記だけ書いた。)
4、『反響』・・・「詩作の後」
戦争が終わって、詩の作り方を変えて、1年間に10篇(3年間に17篇)もの詩を書いているのは、詩人としては非常に勤勉な頑張りようであった。
「詩作の後」は、詩作という営みがいかにきびしく、心身を疲労させるものかということを語っており、伊東静雄の強く求める心を表している。
「目はまだ何ものかを/見究めようとする強さの名残にかがやきながら」というのは、詩作は終わったが、目はまだじっと何ものかを見究めようと輝いているのである。
5、反響以後・・・「倦んだ病人」
正岡子規の絶筆「糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな」という俳句では、自分のことを佛と外から見ている。「倦んだ病人」では、伊東静雄も自分のことを冷静に、客観的に外から見ていることが両者に共通している。
以上のように、伊東静雄の詩作の流れを見てくると、伊東静雄は非常に面白い。
桶谷秀昭氏や大岡信氏が、昭和30年代にとなえられた「凋落説」や「下降説」に大学生として疑問を感じ伊東静雄詩研究を始めた。
現代の詩人は、詩のことばが一般化され、平準化されたなかでも、伊東静雄のように、自分で自分の詩のことばを作っていく努力をしなければならない。これが、本日の基調講演のテーマ「痛き夢の現代の詩に語りかけるもの」の結語である。
『ことばの遠近法』―文学/時代/風土
先日の、神戸現代詩セミナーにおいて注文していた田中俊廣教授の『ことばの遠近法』―文学/時代/風土(弦書房)が、本日午前中に配達されました。
田中さんには、色々と温かいご高配を頂き、まことにありがとうございました。
取り急ぎ「故郷というイデア」のうち伊東静雄及び野呂邦暢関連項目だけを読ませて頂きましたが、大いに参考になりました。
田中さんは「あとがき」で次のように書かれています。
本書のタイトルを『ことばの遠近法』としたのは、作品との距離感を適切に客観的にとって、立体的創造的に読解したい、と常日頃考えていたからです。・・・作品は、作者、時代社会、環境、風土などと無関係には成立しえない。それらの構成要素の強弱や濃淡を的確に透視することによって、作品を立体的に読解=創造して発想を、ことばの遠近法とよびたい。
伊東静雄没後五十周年に刊行された『痛き夢の行方 伊東静雄論』においても、「これらパースペクティブな見地に立って、実存の深奥を立体的構図で描出する詩法を仮に<ことばの縁近法>と名付けたい。」(同書221頁)と書かれており、その詩法の実例として「詩作の後」「夏の終わり」の2篇の詩をあげて名解説をなされています。(222〜230頁)
「小さい手帖から」で試行された伊東静雄の詩法を<ことばの遠近法>と位置付けられた田中さんが、その詩法にさらに研きをかけられ、伊東静雄没後六十周年にあたって「それらの構成要素の強弱や濃淡を的確に透視することによって、作品を立体的に読解=創造していく発想を、ことばの遠近法とよびたい」と立言されていることに強い興味をもって、味読させて頂きました。
皆様も是非ご一読されるようお薦めいたします。(書店・Amazon.co.jpなどで購入できます。)
神戸現代詩セミナー(追記)
さる16日の「神戸現代詩セミナー」基調講演に続いて質疑の模様から一部を追記としてお伝えします。
・倉橋氏の指摘「伊東静雄の詩は昭和10年代の詩として位置付けた方が適切ではないか。」
(『イリプス』2013.12/160〜167頁の「伊東静雄覚え書き」には、以下のように書かれている個所があります。
<わが死せむ美しき日のため>を、セガンティーニに刺激された生と死に関するメタフィジカルな思索としても、その底から浮びあがった痛き夢こそは死への憧憬を乗り越えて、昭和10年代―戦争の時代というこの国の死の時代に生のリズムとなって、詩意識―美意識―を支え続けたものであった。)
・これに対する田中氏の直接の回答はありませんでしたが、基調講演全体で回答を述べられていたと思います。(「倉橋さんは自分で基調講演をすればいいのにネ。」という田中さんのつぶやきが印象に残りますが、一方では、田中氏の以下のような立論を聞きたくて、倉橋氏はわざわざ田中氏に基調講演をを依頼されたのだとも言えます。)
・田中氏の立論が集約されていると思われる文章が『言葉の遠近法』の「『伊東静雄日記 詩へのかどで』を読む」の中にありますので、抜粋してみます。
伊東は単に、『わがひとに与ふる哀歌』や『夏花』(昭和15・3)前半期の、形而上の高みへ張り詰めたパトスを歌い上げるだけの詩人ではない。一方で、『春のいそぎ』(昭和18・9)や『反響』(昭和22・11)の、精神や感情の深部を透視する感想・観照の詩人でもある。伊東詩評価は、これら何れかに分かれがちだが、二つは表裏一体であって、両者が照応することによって、伊東の世界の構造が豊かに広がり深まっていく。
(『言葉の遠近法』58頁)
「芥川的傾向の克服」「イロニーを用いざるを得なかった理由」などについても言及があり、興味深い指摘でありましたが、稿を改めます。
伊東・言葉・立原
皆様ごぶさたしています。またまた心ならずも休筆状態に陥ってしまいました。ココペリーさんお久しぶりです。Morgenさん、斉藤さん、貴重なご投稿の数々ありがとうございます。
「現代詩セミナー」についてのMorgenさんの報告はとても興味深く読ませていただきました。「曠野の歌」以下の各論についてもぜひ知りたいと思っていましたところ、続稿をお寄せいただいて大変よくわかりました。
田中俊廣先生の講演の結語、
現代の詩人は、詩のことばが一般化され、平準化されたなかでも、
伊東静雄のように、自分で自分の詩のことばを作っていく努力を
しなければならない。
これは田中先生の御著『痛き夢の行方 伊東静雄論』以来、一貫したお考えであろうと思われます。
私には課題のままとなっている、伊東の未定稿「海」と初期詩篇「窗」、固有名や〈名〉の問題、新即物主義の問題、それらを含めて「初期詩篇論」を改めて考えなおさねばならぬと思い、そこで碓井雄一さんと田中先生お二人の初期詩篇論を並べて投稿の準備を始めたところで、筆が止まってしまい、そのまま病臥状態に入ってしまったのでした。
田中先生の初期詩篇論の骨子はきわめて明瞭であると、私には思われます。すなわち、「私を超ゆる言葉はないか」これの探求が伊東の課題であった、と。
観念や概念に汚染された〈ことば〉の身体性を回復することや、存在の原点への遡及という、不可能性への挑戦(p.55)
〈作者〉や〈事物〉(対象)から装飾や習俗や既成概念を剥ぎ取ることによって、存在の本源へ、あるいは純粋客観へ可能な限り遡及し、その行き着いた地点から、それぞれの純化された要素を支柱にして、作品を立ち上げようとする脱構築の軌跡を、〈初期詩篇〉には辿ることができる。(P.57)
伊東がついに〈私を超ゆる言葉〉を見出し得たかどうかはまた別の問題でしょう。しかしこの努力は、伊東の最晩年までも尚続けられた、と田中先生は見ておられるようなのです。
先生が戦後の作品「詩作の後」を例にとりながら、
〈小さな手帖から〉の諸篇は表層は静穏平明で気負いがなく、発語のボルテージは概して低い。にもかかわらず、詩作の現場、その行程の内側では、ことばと自己との格闘は壮絶を極める。(P.224)
と述べておられるのは、「意識の暗黒部との必死な格闘」が決して終わったのではないこと、〈私を超ゆる言葉〉への探求は最後まで続けられたこと、を示しておられるものと、私は受け止めたのでした。
筑摩書房版『立原道造全集』第3巻所収の[火山灰まで]を読み始めるとすぐ、次のような言葉にぶつかります。
私の言葉は私の魂よりずつと醜い。(P.6)
このあと、立原がこのノートに書きつけている独白は常に、言葉、言葉、言葉、です。まるで〈抒情〉などは問題ではないのだ、と云わんばかりに。
そうして、
SHOW DRAWING の愚かさ! 立面に対する建築家の感性はつねに、図面の仕上げの効果によつて鈍らされてしまふのだ。(p.24)
われわれの立原詩受容が、彼の描いた立面図から勝手に「見取り図」を想像して、それに色までつけて喜んでいる、ようなものでなければよいのですが。
立原ノートに詩篇「何處へ?」の初稿にあたるものが出て来ます。これは芳賀檀に献じられた成稿「何處へ?」と、まるっきり違うものだとも云えるし、同じ立原の作品だとも云える、このあたりを厳密に考え詰めてみることが、エセー「風立ちぬ」読解のひとつの鍵になりはせぬかと考えます。しかし私にとってこのエセーは、まだ依然として難解です。
夏花のエピグラフ
先日神戸でロシア文学の会があり部外者ですが誘いがあったので参加しました。モスクワからの女史がペルシャ文学について発表され、オマール.ハイヤーム「ルバイヤート」がテーマでした。田中俊広氏の「痛き夢の行方」167p、「夏花」を読んでいたところだったので奇遇に驚いた次第。
田中氏はこのことを丁寧に記述されていますが、それまで私は素通りでした。
ルバイヤート№22.23の詩を使ったエピグラフは友へのレクイエムというわけですね。
詩人は(伊東)は謎賭けびとです。
それと今年のけやき通りの会の講演者は倉橋さんだったとは、後の祭り。残念。
「ペコロスの・・・」
映画『ペコロスの母に会いに行く』観てきました。
さすがは森崎東監督のお力でしょうか、大物スター達が友情出演して、チョイ役でも全力投球していました。
「ボケることで父ちゃんに会えたとなら、ボケるとも悪かことばかりじゃなかかも知れん。」というセリフが効いています。認知症になると、夢と現実の境目がなくなって、昔の思い出が夢現(ゆめうつつ)のように次々と蘇るようです。認知症になったときに備えて、今のうちに良い思い出をいっぱい作っておきましょう。
「笑いと涙と、正しき怒りを今一度。」という森崎映画の真髄! あらすじも、セリフも、景色も非常に面白かったです!!
富士正晴の「中原中也論」「立原道造論」について
Morgen さん、ご調査ありがとうございました。
中尾務さんの論考「VIKING」が出たのは2008年ですから、問題の時期からはもう60年もたっており、その間には資料の移動や散佚は当然あり得ただろと思います。ただ、中尾さんの文章(下掲)からは、その執筆当時はまだ記念館に残っていた風に読めるので、気になっていたのでした。
参考資料として、中尾務「VIKING(六)」(『VIKING』693号、2008年9月) から、関連部分を下に引いておきます。
『VIKING』創刊の前月、一九四七年九月から(推
定)、富士正晴は出版社・明窗書房に非常勤の有給顧問と
して勤めているが、その前に、富士と明窗書房社主・谷口
武彦との間で、竹内勝太郎詩集『明日』、井口浩・富士正
晴・野間宏の三人詩集(『山繭』)、高安國世の評論集(『物
への信頼と意志』)、富士正晴詩人論集(『招待と拒絶』)の
刊行が決っていた。
(中略……概要:然るにこの年末頃から谷口との関係がま
ずくなって、富士は明窗書房を離れ、1948年一〜二月頃に、
圭文社に編集者として入社した。)
確実なことは、明窗書房から圭文社へ移ったことで富士
正晴が失ったものがあるということ。前年の八月に明窗書
房からの刊行が決まり、富士がその編集に当たった四冊中、
『明日』『物への信頼と意志』『山繭』の三冊は出されたが
(いずれも富士が明窗書房を離れてからではあるが)、富士
の詩人論集『招待と拒絶』は出されなかったのである。
この富士正晴唯一の詩人論集『招待と拒絶』は、戦前、
一九四〇年三月に高村光太郎から序文をもらい、河出書房
からの出版話も進行しながら、結局は刊行されることなく
終った『詩人論 一九四〇年』を原型とするもの。(注1)
富士正晴は、戦前、出版話が立ち消えたあとも、この
『詩人論 一九四〇年』を書きつぎ、復員後も加筆。谷口
武彦との間で明窗書房からの刊行の話が決まって二ヵ月後
の一九四七年一〇月、「小序」を付して脱稿。新たに『招
待と拒絶』のタイトルをつけられるが、富士が明窗書房か
ら離れるとともに出版話も流れることになる。この二度に
わたって出版の機会をうしなった原稿は、その後も上梓さ
れることなく、今も、一部割付を終えたまま、富士記念館
に原稿のまま残っている。
【注】
(1)富士正晴の『詩人論 一九四〇年』の内容は、「序
文(高村光太郎)」「伊東静雄」「中原中也」「立原道造」
「高村光太郎」。富士「忘却の果て」(『乱世人間案内』)
には、この『詩人論 一九四〇年』が〈河出書房から
出版されそこなった〉理由について、〈是非三好達治
を書き加えてくれというのを書かなかったのだ〉とあ
り。富士宛高村光太郎書簡から、この河出書房とのや
りとりは一九四〇年のことと分かる。この出版話が消
えたあと、富士は、「竹内勝太郎論草案」「田中克己」
「林富士馬論」「萩原朔太郎」「蔵原伸二郎」「高村光太
郎の弁護」「三好達治」「井上靖」「馬淵美意子」「中野
重治」などを加筆、「小序」を付して、この詩人論集
を『招待と拒絶』と題した。
寒波到来!
今日 石狩出張から帰ってきた社員が「大阪は寒いですね!」と言っていました。いよいよ寒波到来ですね。
富士正晴記念館の中尾さんに電話をしてみましたが、本日はお休みのようです。山本様御投稿分のコピーを郵便でお送りしておきましたので、そのうちお返事を頂けると思います。
私のほうは、田中俊廣教授『ことばの遠近法』に記載のある『井上良雄評論集』と『解釈と鑑賞』別冊‐「芥川龍之介」を注文して、配達(本日の予定)を待っているところです。読んだ後でまた投稿します。
富士正晴の詩人論原稿について
富士正晴の詩人論原稿について、富士正晴記念館の中尾様に問い合わせをいたしましたが、山本様の仰る原稿は同記念館に保存されており、閲覧も可能であるということでした。取り敢えず、お知らせいたします。
お知らせです
長らく品切れだった『伊東静夫詩集』杉本秀太郎編・岩波文庫が,10月に増刷されました。
前から欲しかったのですが,ようやく手に入りました。
訂正です
「伊東静夫」は「伊東静雄」の誤りです。
済みません
芥川的傾向克服〜「空の浴槽」“驚叫する食肉禽”
先月の神戸現代詩セミナーにおいて、「伊東静雄の神経衰弱的症状」や「芥川的傾向の克服」に関連して田中氏と唐橋氏の間で、若干の質疑応答がありました。
それを詳細に再現することはできませんが、先に紹介した『ことばの遠近法』の中で、田中氏が芥川龍之介に関しても言及しておられますので、それらを手掛かりにして私なりに少しまとめてみます。
“芥川的傾向”と「空の浴槽」にある“驚叫する食肉禽”について
・昭和4年10月22日 潁原退蔵宛書簡(42)から
・・・近頃は私の内の芥川的傾向を克服するためにと存じまして、全集などをもとめて芥川研究に少しづつ時間を費やしていることでございます。・・・
芥川龍之介は、潁原退蔵『蕪村全集』に以下のような序文を書いています。
・・・わたしはあなたの蕪村全集を得たらば、かう言ふ知的好奇心の為に夜長をも忘れるのに違いありません。それは知恵の輪といふ玩具を貰った子供の喜びと同じことであります。どうかこの子供じみた私の喜びを笑ってください。・・・(大正14年9月8日)
・『ことばの遠近法』―『伊東静雄日記 詩へのかどで』を読む―混沌を透視することばの試行(昭和22.5)には以下のような文章があります。(同書59頁)
・・・発表第一作の詩「空の浴槽」についての記述が最後部に認められることからも、「詩へのかどで」というノートタイトル(伊東自らによる墨書)は相応しい。しかも、この散文詩は精神の傷と痛みに耐え、自らのメスで解剖するようなモチーフであって、これまでの格闘の行程が反映されてもいる。
この両者を合わせて考えると、文学上の「芥川的傾向」の克服とは思われないので、もっと精神的なもの、デーモニャックなものであり、芥川と伊東の両者に共通するいわゆる「神経衰弱的傾向」の克服が伊東静雄の課題であったのだと推論されます。(潁原氏に、そうあからさまには言えなかったのではないでしょうか。)
また、「空の浴槽」にある“驚叫する食肉禽”というのが『明暗』に掲載されるのも「書簡」から数ヶ月後と近接しており、蓮池氏や福田氏が寄せ書きの激励文を送ったような形跡もあり、蓮池氏から何回も催促の手紙があったものの、自己の精神障害的なことを詩に書き渋ったのではないかとも推理されます。(佐賀高校時代の親友大塚格氏には、以下のように自己の病跡を詳細に書き送っています。(*『青春書簡―詩人への序奏』をご参照下さい)
「俺はたしか、強度の神経衰弱になってゐるのに相違ない。おれの頭には変調がやって来た。独り言や独り笑いが、むやみに出て困る。・・・水草が五色にも六色にもわかれて見える。何とも言えない奇麗な色だ。発狂しそうな頭にぴしぴし刺激する」(2月15日)
芥川龍之介も、不眠症や ひどい頭痛、幻聴、幻視などに悩み、大量の睡眠薬や鎮静剤を常用していたことが知られています。
以上に述べたことから推理すれば、「芥川的傾向」と、「空の浴槽」にある“驚叫する食肉禽”という比喩的表現は、実は同質の神経症状(意識の暗黒部との必死な格闘)だったのではないかと考えられます。
井上良雄『芥川龍之介と志賀直哉』については、長くなってしまいますので改めて投稿することとします。
『ペコロスの母に会いに行く』の森?東監督の「NHK ETV特集」ご案内
今年も残りあとわずかとなりました。皆様お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか。
『ペコロスの母に会いに行く』 http://pecoross.jp/ (まだまだ上映中です)
クラウド・ファンティングという面白い手法で製作されたインディペンデント映画でありながら、全国80館以上の規模で上映され、今後も上映劇場が広まりをみせているという異例ずくめの映画・・素晴らしい快挙です〜!!
第35回ヨコハマ映画祭にて「2013年日本映画ベストテン 第3位」
「監督賞」で森?東監督、「撮影賞」で浜田毅撮影監督の受賞も決定しました!!
◎ヨコハマ映画祭HP http://homepage3.nifty.com/yokohama-eigasai/
プロデューサーの村岡克彦さんと配給会社『東風』代表の木下繁貴さんが、諫早高校の出身というご縁もあり応援しています。
その村岡さんから届いた《どうしても観ていただきたい衝撃番組のお知らせ》情報です。
『ペコロスの母に会いに行く』の裏側に潜むもうひとつの物語・・
今週12月21日(土)のNHK Eテレ「ETV特集」(夜11時〜0時)は、映画「ペコロスの母に会いに行く」の森?東監督の特集が放送されます。なぜ森?東監督がこの映画を撮ろうと思ったか、そしてその撮影中に彼の中に生じた衝撃の事実。いま初めて語られる“記憶という名の愛”を映画に刻み込もうともがく森?監督の格闘の日々に密着したドキュメンタリーです。映画「ペコロスの母に会いに行く」の裏側に潜むもうひとつの物語をご覧下さい。
対話
対話には体力が要ります。
立原道造がエセー「風立ちぬ」でしきりに<対話>を云っていた頃、すでに彼には対話のための体力がなくなっていたのではないでしょうか。
(「対話」と題しながら実際にはモノローグしか書けないことへのアポロジーとして。)
1.
枕上読書で、散漫に読み散らしています。
大岡信さんの『私の万葉集』が講談社文芸文庫で出ました。早速楽しんで読んでいます。大岡さんも楽しそうに書いています。
パラパラとめくっていると、
紫のにほえる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも 大海人皇子
お、そうだ、ここにあったのだ。もうすこし先、巻三の331大伴旅人にも「めやも」の用例あり。「めやも」は反語であって、「さあ、生きよう」とはならない、というのは前から云われていたのですが、結局この件はどう落着したのでしょうか。
同じ個所で、
「忘れ草」は原文「萱草」。ヤブカンゾウのことで、中国では古来憂いを忘れさせる草とされていました
と説明あり。立原は万葉から採った?(採らなくともこんなことは常識か)
2.
『全集』で[長崎紀行][盛岡紀行]を読む。
[長崎紀行]で立原は下関駅について、
下関駅の夜更けの感じは上野駅のプラットフォームによく似てゐる。終端駅だからだらう。九州朝鮮行と指さしてあるのがかなしかつた。
立原の眼は澄んでいる。
上野駅という固有名は、「かなしい」と口に出して云わずとも、その「名」が<かなしさ>を自ずと負っているのである。それは「上野発の夜行列車……」と歌い出すと同時に、演歌/艶歌/怨歌となってしまうだけのパワーを持っている。
詩人はこのパワーに、倚りかかる、こともできる。逆に、意識して、倚りかからず、と決意することもできる。立原は、倚りかからず、と云ったのだった。
私は、やりかけの、伊東の未定稿「海」と初期詩篇「窗」についての考察を早くまとめなければならない。
以前私は中上健次をとりあげて「天王寺」という短文を書いたことがあった。今それを見ていただく紙幅がないが、天王寺も終端駅である。「天王寺」を歌った演歌は、ないだろう。それでも中上にとっては天王寺は、あこがれであり、かなしみであった。
3.
[盛岡紀行]を書いたころの立原がいちばんよかった。
私にとってあらまほしかった立原。
・東北で見、感じ、考えたことをそのまま持って帰ること
・アサイへの愛を実体化し、現実に、行為すること
・別離、などしないこと
・病気でなければよかった
・野村は来なければよかった
・南への旅は来年まで待つこと
・エセー「風立ちぬ」は温めて10年後に書き直すこと
・芳賀檀なんかにイカレないこと
・死を、あと一年ではなく、堀のようにもっと長く、じっと見つめること
立原よ、なぜあのとき、アサイさんに向かってすなおに手を伸ばさなかったのだ。手を伸ばして、そのすぐ指先に、それは見えていたのではないか(愛が、ではない。人が、女が、身体が)。なぜそれに触れ、掴んで、引き寄せなかったのだ。道造はアホや、なんでそんなときに、別離とか言い出すねン。(暴言! 掲示板除名か)
4.
漱石は大きなものでは『文学論』を残すだけとなり、で、これに取りつきました。
「凡そ文学的内容の形式は(F + f)なることを要す」
しかしいったい何度、この冒頭の句を読み、どこまで読んで、何度挫折したことか。(でも今度は大丈夫だと、何となくそんな予感がする。)
そうして読んで行くと、たちまちこんな文句に行き合います。
(一)F ありて f なき場合… (二)F + f そして(三)として、
f のみ存在して、それに相応すべき F を認め得ざる場合…(中略)…注目すべきは、抒情詩中往々漫然たる情をこの種の形式により発表せるもの古来少からぬことなり
これ、立原じゃないの?
このごろは何でも立原に結びついてしまうので、困ったものです。
先に読んだ『現代詩読本立原』の「討論」の中で安藤元雄氏は、
『萱草に寄す』は普通は抒情詩あるいは気分の詩として読まれがちですけど、自然というファクターを考えたいですね。……霧とか夕暮とか梢とか……ぼくとしてはこの『萱草に寄す』は自然との媒介物なしの直面というものをいつも読んできましたし、そういう方向にも読めるんじゃないかと。
だが私はまだ少しこだわるのです。地異や火の山や灰や萱草は、花や小鳥や夢や追憶は、はたして F であろうか、と。立原の詩に果たして F ありや、もしありとせばその F とは何か、と。(こういう問いは立原には迷惑でしょうね。)
「記憶は愛である―記憶を失わせるものに抗う」
真冬の寒波を道ずれに冬至がやってきました。本日(12/22)は、全国高校駅伝の選手達も応援団の皆様も、本当にお疲れさまでした。すごい好記録が出ましたね!
先日ご案内いただいたNHK/ETVドキュメント「記憶は愛である」(12/21)を観ましたので、短評を書きます。
<再放送>12月28日 (土)午前0:45〜午前1:45 ETV特集「記憶は愛である〜森?東・忘却と闘う映画監督〜」
映画『ペコロスの母に会いに行く』には、原作にない二つの歌が登場します。―「早春賦」と軍歌「あゝ紅の血は燃ゆる」です。
森?監督が、この二つの歌の歌詞を、認知症のみつえさんが唄いきるという一見「不自然な」演出を、敢えて採用された意図はどこにあるのか? NHK/ETVドキュメント「記憶は愛である」を観て、それが良く理解できました。
みつえさんにとっては、忘れたくない少女時代の懐かしい歌「早春賦」と、「この歌は好かん」と思い出したくもない軍歌「あゝ紅の血は燃ゆる」ですが、人間脳の記憶細胞には、何かのきっかけで、良い記憶・悪い記憶のどちらも容赦なく蘇るものです。
この映画は認知症をテーマにしているから、記憶が蘇る喜びを、認知症のみつえさんに感じてほしい。記憶は必ず蘇ると信じて、「記憶は愛である」、記憶を失わせるものに対して抗いたい。これが、認知症のみつえさんに二つの歌を唄わせた森?監督の意図であったということです。(口から口へ伝えられた歌が、古い記憶を蘇らせるのに有効だということ。)
86歳の森?監督は、自らも認知症の不安に怯えているのでありますが、これと闘うために、もう一本新しい映画を作ろうと挑戦されているそうです。
三重海軍航空隊に所属していた兄森?湊さんが、数冊の日記を残して、終戦の翌日21歳の若さで割腹自決されたました。まさに「戦争に運命を翻弄された青春」であり、戦争は終わったのに何故あのように「わが身をずたずたに切り裂いて」自決したのかという納得できないその理由「生身の興味」を、「私の中にある兄の記憶」をたどって、ぎりぎりのところまで追いつめてみたいからだということです。
森?湊さんは、「欧米の支配からアジアを開放する」という満州建国大学の理想に憧れて、昭和17年に同校に入学しました。そこでは有能な官吏の養成をめざして、中国人、ロシア人、日本人が机を並べて勉強をしました。
「真っ直ぐな心の持ち主」、「まっとうな男」であった森?湊さんは、「我々が日本という国家を背景に背負っているのと同じく、彼等(中国人)もまた中国という国家を背景に背負っている」「我々が皇威宣布と言い、八紘一宇と言うとき、支那人はどう思うか。南方の諸民族はどう考えるか。このすさまじい現実を見よ!」と日記の中に書き残しています。
10代の青年であった森?湊さんは、やがて満州建国大学の理想に疑問を抱き、2年で自主的に退学したそうです。大方の日本人は、「このすさまじい現実を見て!」見ぬふりをしてきたのでしょうか。
中国人や南方民族の人々の「心の奥底に刻まれた記憶の集積」は、時間が経てばいつか失われるというものではなく、何かのきっかけで蘇ってくるものだということもまた、私達は心に銘記しておかなければならないという、森崎さんからのひとつのメッセージかも知れません。
写真で垣間見るその日記には、日本人として決して忘れならない万金の重みをもつような言葉が記録されています。一日も早い映画の公開をお待ちしております。 森崎監督が自らの決意で示されている最大のメッセージは、「認知症と闘う妙薬は、新しい課題に挑戦することだ!」ということです。私も、つい「退廃的」な方向に安住しようとする自らの怠惰心を鞭打たねばならないということですね。(言うは易く行うは難し!)
明けましておめでとうございます。
明けましておめでとうございます。正月3日間好天に恵まれて、ぽかぽかの太陽のもとで初詣をすることができました。本年もよろしくお願いします。(写真:出雲大社と原爆ドームで写した元旦の陽光です。)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001111.jpg
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謹賀新年
文藝春秋2月号 代表的日本人の「新選・百人一首」に伊東静雄の短歌が選ばれました。
ゆくりなく掻きなでゝ見し我が髪のいたくもひえしかおそあきなれば
大正15年11月16日 日記には 「寒い日で、冬が来たのがしみじみと感ぜられた。」の書き出しである。歌は6首詠まれており、静かなる夜更け 床にいねて。と添書きがある。
今年もよろしくお願いします。
新春のお慶びを申し上げます
皆様にとりまして、光あふれる素晴らしい年になりますよう、心より祈念いたします。
新年早々、嬉しいニュースが飛び込んできました。
祝1位 『ペコロスの母に会いに行くhttp://pecoross.jp/ 』
2013年 第87回キネマ旬報日本映画ベスト・テンで何と何と、1位を受賞しました〜!!
http://www.kinenote.com/main/kinejun_best10/2013/award/
諫早高校の後輩でプロデューサーの村岡克彦さんの言葉「この作品は原作自体が中央では全く知名度がないローカルな自費出版だったため、ほかの映画のような資金調達方法が取れなかったことが一番きつかった。ただ、原作のテイストをきちんと描ければ多くの支持を得られる自信は明確にあった。自分自身、長崎市に近い飯盛町の出身で認知症の家族もいたし、数年前に亡くなった父は若いころ酒乱で母に暴力を振るっていたこともある。どうしてもこの漫画を、全国の人に知ってもらいたいという思いだけで今日まで突っ走ってきた」と振り返る。「本当にうれしい。長崎から生まれた長崎弁の映画に協力してくれた全ての人たちに、心からありがとうと言いたい」とも。 (長崎経済新聞)
昨春、堺市美原区に建立された伊東静雄の詩碑の除幕式で、野呂文学研究者でエッセイストの中野章子さんに初めてお目にかかりました。
この日の出会いがご縁となり、昨秋の諫早高校同窓会関西支部の総会で、中野さんの『芥川賞作家・野呂邦暢〜 その人と文学 〜 』のご講演が実現しました。総会の様子とレジュメはこちらですhttp://www.k2.dion.ne.jp/~kanko-dk/soukai.html
昨年文遊社から『野呂邦暢小説集成』(全八巻)の刊行が始まりました。野呂邦暢没後33年目の春に、第一巻『棕櫚の葉を風にそよがせよ』が、夏には第二巻『日が沈むのを』が出版され、今年は第三巻『草のつるぎ』が刊行予定です。この全集に解説を書かれているのが中野章子さん。 正に時を得たご講演に、皆の関心も高く熱心に聴き入りました。「伊東静雄の詩に惹かれ、自分でも詩作を試みる」のくだりに、胸が熱くなった私なのでした・・。
としのはじめに
皆様、今年もどうかよろしくお願いいたします。
毎日ちびりちびりと読み進めていた夏目漱石『文学論』上下、岩波文庫、をようやく読み終わりました。読み終えての感想は、なにか大きな仕事をなしとげたような、快い疲労と達成感と並んで、素直に「おもしろかった」というものでした。(どこが、と云われると話が大きくなります。)
ここではその一節だけを引用してみます。ただし、これからこの一節について論じようというのではなく、話のきっかけにしようと思うだけです。
世俗に所謂叙情詩なるものは、事物を叙するにあらず、性格を写すにあらず、その名の示す如く情を歌ふものなり。既に情を歌ふを以て主眼とす。勢痛切ならざるべからず。情を歌ひて痛切ならんとするとき、歌ふものは自己ならざるべからず。自己より痛切なる情緒を有するものなければなり。この故にかの叙情詩なりものは余を以て筆を起し、余を以て筆を擱く。余とは作家なり。然らずんば作家と合成せる主人公なり。この故に叙情詩に在つては吾人常に間隔の尤も短縮せる距離において詩中の趣を味ひ得るものとす。(『文学論』(下)、岩波文庫 p.207)
とくに変わったことが云われているわけではありません。叙情詩とは、私情を、つまり〈私〉の〈情〉を、歌うものである、と。
1.
「私の言葉は私の魂よりずつと醜い」(『立原道夫全集』3. p.6)
何が、私の言葉を醜くするのだろうか。何が私の言葉を汚染するのだろうか。
それは〈私〉の言葉だからではないか。
〈客観的叙情詩〉というものがありうるとは思えないが(それは言葉の矛盾、文法違反だ)、立原はもしかして、そんなものを書きたかったのではないか、と、ふと思ってしまう。
「自我語」などという耳なれない造語(全集3、p.20)。
こんなことも云っている。
「僕は何かを捨てることをみつけた。// さうして、そのかはりに何かを手にするのだつた。僕はいつになつてもなくならなかつた。捨てるたびに溢れて行つた。僕はそれから汚れて行つた。さうして、いつもかはることは出来なかつた。(全集3、p.25)」
言葉の〈私性〉が言葉を汚すのならば、言葉は「私を超え」なければならない。
2.
しかし、言葉というものは、そのありのままの姿で、すでに「私を超え」ている、とも云えるのではないか。即ち、言葉は本質的に、他者に向かって語り、他者から語られるものである、ということによって。あるいは言葉は歴史的社会的に伝承され積み重ねられ受け継がれて来たものである、ということによって。
それはそうではあるが、他方また、純粋に「心の中の出来事」として、言葉を考える、ということが、あるかもしれない。そうするとそれは、立原の云い方では "in sich tief gehen といふこと"、そうして "Ding an sich の世界に行くといふこと"(全集3、p.20)となるだろうし、伊東に関して田中俊廣先生の表現を借りれば「存在の原点への遡及」ということになるだろう。〈モノに向かっての超越〉である。
3.
ふたつのオブセッション。
(1) 「私性」を「捨てる」こと。引き算。
(2) モノに直に到るということ。
これはしかし、ものすごくしんどいオブセッションではないか。そうして、あるとき――それまでリルケの模倣のような、あるいは散文詩なりかけてやめたような、なにやら窮屈なふっきれない作品を書いてきた伊東は、あるときふと、思ったのではないか。
いいのだ、と。べつに、詩から〈私〉を捨てなくても、あるいはモノに即きモノに到らなくても、詩は私情を、つまり〈私〉の情を/私の〈情〉を、歌えばいいのだ、と。
そのような思いの中で、一気に出来上がったのが、「晴れた日に」ではなかったか、と私は思うのです。伊東がこの作品を『哀歌』巻頭に置いたのは、そのことのための、ひそかな〈標〉であったのではないか、と。
「静かなる窓ひとつあり」
いなづまのまたひらめき
静かなる窓ひとつあり
夜ひとりあり
(新年恒例の「歌会始の儀」入選作。2年前に妻に先立たれた83歳の独居老人。窓ひとつの部屋で、誰と語ることもなく、孤独な夜を過ごしている。窓の外では、時折いなづまがひらめいている。)「染み透るような孤独感」が伝わってきます。
夕方、用事があって近所の阪急電車踏切を通りかかると、警報機が鳴り、バーが降りているのに、踏切の中に老人が蹲っています。居合わせた青年と二人で老人を抱え、バーをくぐって外へ運び出しました。
90歳位かと思われるその老人の、体重の空気のような軽さが、思わずわが胸を打ちました。「あゝ、人の命の軽さよ!」その数秒間、3人とも一言も言葉を交わしませんでした。鉛のように重たい塊が胸につかえるように引っ掛かり、言葉が出なかったのです。靴を履かせても老人は、足が弱ってほとんど立っていられないようです。
やがて、電車が、次々と踏切の手前に停車し、何事かと人が集まってきました。私は、駆け付けた駅員さんに後を託してその場を離れました。
「生と死が紙一重のところで隣あわせているような・・・」という言葉がふと脳裏に浮かびました。今年もまた色々なことが起こるでしょうが、「困難に抗って」生きていこうと思いますので、よろしくお願いします。
「乾いた抒情」―前稿の続きとして
??丁度前稿を掲示板にアップした頃に、TV画面には「阪急京都線は、人身事故のために上り、下りとも運転停止中」というテロップが流れていました。(前稿とは無関係ですが…)
??大阪では、「人身事故のために運転停止中」という駅のテロップが常日頃、ひんぱんに流されており、通勤の足を止められた乗客たちは苛立ちや怒り或は諦めを感じているのが実情です。だから、世知辛い昨今の世相としては、誰かの「死」に対する湿っぽい同情よりもむしろ、Dry hardness(“枯れた堅さ” T・E・ヒューム)と言えるような性質の乾いた感情が起こり易いのでしょうか。
(「短歌的抒情の否定」を叫ばれる)小野十三郎さんは、 昭和28年2月5日(伊東静雄存命中)に発行された『現代詩手帖』(創元社新書版)の中で、伊東静雄の「秧鶏は飛ばずに全路を歩いている」「自然に、充分自然に」を取り上げて、「乾いた抒情」だと褒めています。 なかなか興味深い文章ですので、少し長くなりますが、同書214ページから引用してみます。
[・・・・・] 「自然に、充分自然に」は、この詩人持ち前の鋭い直感が時間的な展開ではなく、瞬間にして空間的な造型作用をやってのけたような詩で、リリシズムも極度に煮つまると一種の超現実的な世界をその場に現出させるものであることがわかる。それにしてもまことにおどろくべきイメージだ。“そこに小鳥はらくらくと仰向けに寝転んだ”というこの非情さは一体何に対するこれは作者のプロテストなんだろう。非情であって、しかもそれはあたたかい。作者は極めて冷静にそれを表現しているが、読者はあとで何かワッと叫びたくなる。そのようなこれは詩だ。」[・・・・・]「私は、伊東の詩に、抒情の否定を叫んだ詩人たちの精神の内部にもまだできていないそういう感性の組織乃至は秩序の如きものを感ずる。もちろん伊東の思想や批評の性質の究明とこのことは別だけれども、思想や批評が抒情となるプロセスを、確かにこの詩人は自分一個の立場で科学的に理解していると私には思えるのだ。」
今にして思えば、昭和28年2月5日発行小野十三郎著『現代詩手帖』214ページに記された小野さんの褒め言葉は、壮烈な闘病生活中の伊東静雄(同3月12日逝去)に対する小野さんの激励の辞(または賛辞 Hommages 賛歌 Hymn)であったのかもしれませんね。
ご報告
今年から,伊東静雄研究会の活動の広報に努めることにします。
1月18日,諫早図書館で第75回月例会を開きました。
会報は第69号です。
通常は第4土曜日なのですが,今月は第3土曜日の期日となりました。
出席者は7名,寒い中での集まりでした。
まず,昨年12月8日に開催した第8回『伊東静雄生誕フォーラム』について報告がありました。
『文藝春秋』2月号に伊東静雄の短歌が紹介されています。
2月に出版される『サライ』に伊東静雄の記事が掲載されます。
楽しみです。
今年の「菜の花忌」は第50回の節目ということで,何か例年とは異なった企画のアイデアはないものでしょうか。
次回例会は2月22日午後2時から,諫早図書館で行います。
会員は随時募集しています。
詩だけではなく,文学に興味をお持ち方は気軽に覗いてみて下さい。
仙台市在住の作家佐伯一麦さんの随筆集に,伊東静雄の詩が取り上げられています。
色んな所に静雄のファンが居るようで,嬉しいことです。
『散歩歳時記』では詩『春のいそぎ』が,『からっぽを充たすー小さな本棚』では,詩『七月二日・初蝉』が取り上げられています。
いずれも日本経済新聞社出版です。
プルースト
伊東静雄の掲示板にプルーストとは何のこっちゃとお思いでしょう。ずいぶん前に読みかけて、ゆっくり読むつもりで置いたままにしてあった、海野弘『プルーストの部屋 『失われた時を求めて』を読む』(中公文庫)というものを、寒いのでフトンから亀のように首だけ出して、読んでいるのですが、これが、読み始めてすぐ、或る数語、数行から、伊東の何やかやに連想が飛ぶのです。その様子をちょっと写してみます。
[p.11]コンブレーの少年時代=早寝の時代 → パリを中心とする社交の時代=遅寝・夜更しの時代 → 『失われた時を求めて』執筆、早寝、“コンブレーへの回帰”。回帰といえば直ちに、“(ふたたび私は帰って来た)”(「河邉の歌」)を思い出す(プルーストはずいぶん大回りですが)。
そもそも題名が『失われた時への回帰を求めて』の意味であり、筆者の海野さんは「失われた」を「不在」と云いなおしています。我田引水ながら、私はかつて、「非在の過去への憧憬」という云い方をしてみました。〈帰る〉というのは大きな容量をもつ言葉で、ほとんどの文学者をこの語に結びつけて考えることができます。伊東と〈帰郷〉の関係は周知のテーマです。
[p.16]プルーストの本文では、有名な紅茶とマドレーヌのエピソードにすぐ続いて、「水中花」の比喩が出て来ます。「そしてあたかも、水を満した陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまでなにわからなかったその紙きれが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、花となり、家となり、人となるように」、いまコンブレーのすべてが一杯の紅茶から出てきた、と。
内田百?に「水中花」という小文があります。ところが本文中のどこにも、水中花のこともその説明も、出て来ない、ただ標題だけが「水中花」という、ふしぎな文章です。
物質的記憶、と海野氏は云っています。(海野氏の引く訳文は井上究一郎訳ですが、個人訳を完成された鈴木道彦氏は「無意志的記憶」と云っています(『プルーストを読む』集英社新書))。
さて、あらためて、伊東の詩「水中花」は、何が出て来たのか、キッチリ云ってみよと云われると、むつかしいことになりそうです。無論、伊東の詩の「嘆き」「堪えがたければ」「死ねといふ」「などかくは美しき」これらの激情は、プルーストにはない。
[p.35〜]〈白鳥〉のシンボリズム(そもそも第一篇の標題が Du cote de chez Swann)。私は前から『哀歌』の表紙の「白鳥」であることが気になっていました。そのイキサツ、保田の関与、などについては、必要な解説は十全になされているとは思うのですが、そもそも話のモトはギリシア神話のレダと白鳥であって、それはたとえば「清らかな恋」などというイメージとはつながりにくい、どちらかといえばきわめてエロチックなイメージなのです。そうして白鳥は〈犯す者〉なのです。世間には、たとえば「白鳥の湖」などからくる、思い込み乃至誤解があるのではないでしょうか。
[p.41]第一篇第三部は「土地の名、――名」となっています。海野氏は、土地の精霊、土地の名が呼び出す魔術的な魅惑についての最も美しい文章、と云っています。その具体的な様相についてはプルーストの本文を読んでみるほかありませんが、少なくともプルーストが〈名〉というものをきわめて強く意識していたことが、私の関心を引くのです。年末にまた「下関」のことを書いたりして、私は依然、〈名〉〈固有名〉を問題として持ち続けています。
(追記。p.123ではとくに「駅」=土地の名=による時間・空間の分節、ということをとりあげていて、この部分も興味深い。)
しかしこんな調子で突拍子もない連想がいつまでも続くわけはないので、まあ、数十頁で止みました。長話になりすぎた感あり。あともうふたつ、〈伊東の詩と「女」〉〈窓〉という話題が残ったのですが、これは次回にもう一度だけ投稿して終わりにします。
先日アマゾンのマーケットプライスで注文した、思潮社刊『立原道造研究』が届きました。この諸篇を少しづつ読むのが楽しみです。読み終えた頃には春が来そうです。
「第50回菜の花忌」のご成功をお祈りしています。
「伊東静雄研究会報」69号をお送りいただき、楽しく読ませていただきました。
以倉先生の「戦前の東京駅の写真」という散文詩は、鉄道写真集へのノスタルジアかと思って読み進むと、実は以倉先生のお心に秘められた深い「悲」が詠われていることが分かりました。
私も、最近入手した『諫早街道をたずねて』(山崎諭著)、『民謡風土記』(山崎諭著 高来町教育委員会)、『諫早文化』第3号、『新宿の散歩道−その歴史を訪ねて』(昭和48年三交社刊)などを開いて、古い白黒写真や、昔の地図、民謡などに見入ることがあります。(『諫早文化』第3号 山崎諭「岳の新太郎さんと諫早」の中に伊東静雄に関わりのあった森亮氏が登場されます。)
昔の人の懐かしい姿が、白黒写真の街角からひょいと出てくるというようなことはありませんが、私の記憶に残っている60年も昔の諫早街道の佇まいや、浮立の行列や笛の音、山崎諭先生(有明中学校で美術を教わりました)のご温顔などを偲ぶことができます。
伊東静雄60年回忌を記念する菜の花忌を3月に控えて、伊東静雄研究会の皆様が色々と企画を凝らしておられることに敬意を表します。
美原図書館前の伊東静雄文学碑が、「美原読書友の会」のお力で、60周年記念行事として建立されましたが、堺市や住吉高校とは伊東静雄詩碑が取り持つ縁で、今後とも親密なコミュニケーションが保たれるものと思います。もし予算が許せば、それらの方々をご招待して伊東静雄60年回忌記念菜の花忌が盛大に行われ、また伊東静雄賞が、萩原朔太郎賞(賞金百万円)中原中也賞(同)三好達治賞(?)に伍してさらに広範な詩人達の人気を集めるものに発展して、将来の100年回忌記念菜の花忌へとつながっていくことを強く祈念したいと思います。 堺市長さんや、住吉高校長さんなどは、公務多忙で式典には参列できなくても、温かいメッセージをお寄せ頂けそうな気がします。
「平成26年菜の花忌」の大成功をお祈りしています。
プルースト(2)
前回投稿(海野弘『プルーストの部屋』を読んでいると、伊東の何やかやに連想が飛ぶ、という話)の、続きです。
[p.147]「マルセルはバルベックのグランド・ホテルの部屋から刻々と変わってゆく風景を見ている。それは窓というフレームによって切りとられた眺めである。展覧会の壁に掛かった絵ということもできる。」プルーストはその風景を「日本の版画の陳列」のようだと云います。アール・ヌーヴォーへの浮世絵の影響の大きさについてはすでに言い慣わされています(ジャポニスム)。海野氏は日本の版画の平面性について「窓のむこうに実在の風景があるのではなく窓ガラスの平面に風景がある文様を描きたしているように見えるのである」と書いています。それならば、これは、硝子絵でもあります。伊東の「窓」はとくに、フレームによって風景を切り取るという窓の働きに注目しているようではありません(この点は例のケストナーの詩のほうに多少その気味があるようです)。
伊東の未定稿「海」の詩句、「眼がね屋の/窓にかゝつた一枚の/浮世絵」を、以前私は、「町通りに小さな眼鏡屋があり、そのショーウィンドウの硝子のむこうに、浮世絵が壁にでもかかっていたのであろう」と想像してみました(2013.3.28投稿)。これはショーウィンドウです。すると私の思念は、ショーウィンドウは果たして窓か、飾り窓、飾り窓の女などというのもあったな、そもそも窓の本来の機能は何だろう(内→外、外を見る/外→内、外気と日光)などと、とめどなく広がって行くのですが、それは書きません。
一方、「呂」に出した初期詩篇「窗」の詩句は、あきらかに「海」を引き継いでいながら、異なった情緒を伝えようとしています。私はその情景を次のように想像してみました(2013.4.4投稿)。「「私」は机に向かってぼんやりと坐っている。前はガラス窓である。外の夕景が、夕明かりとともに窓ガラスに映っている。ふと気がつくと、窓ガラスに自分の身体が、透明に、夕明かりと重なって、二重写しになっている。ああ、これを切り取れば、何やら好もしい硝子絵になりはすまいか」。こちらのイメージのほうがプルーストの思い描く「日本の版画」に近く、さらにフレームの機能や硝子絵まで出てきて、いっそう親近性を感じます。ただ、決定的な違いは、プルーストでは、詩でも絵でも小説でも、絶対に自画像にはならないことです。対して伊東の初期詩篇の大多数は、自画像なのです。伊東は「願」ということを云っていますけれども、「願」はすでに成就したのではないでしょうか。なぜなら、すでに「さうして 私の詩が出来た」のですから。
伊東は〈庭〉に比べれば〈窓〉にはそんなにこだわりや思い入れはなかったようです。用例もごく普通の使い方と思われます。(印象に残るのは、「この窓べに文字をつづる」「夕映」の窓、「子供の絵」の「お父さんの窓」、「夜の停留所」の校舎の窓明かり、などでしょうか。――こうして見ると、戦後の詩ばかりです。ここでは必ず窓の近くに生身の伊東がいる。)
むしろ、チラチラと見ただけですが、立原のほうが、面白い使い方をしているように感じました。(窓に凭れて、すべての窓に、くらい窓の外に、ひとつの窓はとぢられて、窓をひらいて――何やら意味ありげな、と思いませんか?)
海野氏のあと、鈴木道彦『プルーストを読む』(集英社新書)を読み、ここからもいくつかのトピックスを拾い出したので、(もう終わりにする、と前回書いたのですけれども)また、再々度、投稿します。
「バルベックのグランドホテル」
プルーストの『失われた時を求めて』は、全14巻と余りにも長くて、私は最初の1〜2巻しか読んだ記憶がありません。ノルマンディーのカブールにあるグランドホテルは、小説の中の「バルベックのグランドホテル」で検索してもちゃんと「1泊3万円〜5万円」と案内がしてあるので驚きました。」
私は、立原の「対話」の意味が分からなくて、立原が依拠したと言われるハイデガーを読んでみたのですが、ますます分からなくなりました。「マルティン・ハイデガーが一体何か実証的で論証可能なことをいっているのかどうか、人間や世界についての彼の厖大な発言が何か同語反復的な饒舌以上のものなのかどうか」」というジョージ・スタイナーの解説(岩波書店『マルティン・ハイデガー』より)と言う批判もあります。小説や詩の形式として「対話型」と「独語型」があるのは分かりますが、それ以上に云々するのはしんどくなって今のところ考えるのを止めています。(立原の「風景」云々という堀批判もありますが)
昨日は山田洋次監督『小さいおうち』という映画を観ました。(原作は中島京子『小さいおうち』文春文庫 直木賞受賞)
ちょうど雑誌『コギト』発刊や『風立ちぬ』と同じ昭和初期から始まり、終戦後までの東京が舞台です。山田監督(大阪出身82歳)は、小津安三郎『東京物語』を意識して『東京家族』と『小さいおうち』を製作されたということですが、田舎者の私には都会人の東京ノスタルジアが充分には理解できないのかもしれません。赤い三角屋根の「小さいおうち」は昭和モダンの象徴であり、当時のサラリーマンの夢だったのです。
戦後世代は、「昭和10年代」とか、「15年戦争の時代」という一定の先入観を持ってその時代を見ますが、その頃の一般庶民にとっては、いよいよ日本が欧米諸国から対日経済封鎖をされ、現実に生活物資が不足する昭和15〜6年になって配給や生活物資統制令が出されるまでは、案外のんびりと「小市民的」生活をエンジョイしていたということを、主人公タキ(倍賞千恵子さん)は言いたいのだそうです。現在の若者の目線で甥の健二が「戦時中は暗黒の時代だったんだろう。嘘をついてはだめだ。」とタキを揶揄しても、小さいおうちの女中(黒木華)である彼女は何も知らされていなくて、それなりに平穏な青春時代を送ったのではないでしょうか。(タキの出身地山形だけでなく全国の農村は不作による飢饉に苦しんでいました。)
いよいよ本格的な寒波が襲来していますので、充分な防寒対策をしてお過ごしください。
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プルースト(3)
勝手なことばかり書いて申し訳ありません。プルーストは今回で終りです。
以下には、海野弘『プルーストの部屋(上・下)』(中公文庫)を[海野上][海野下]、鈴木道彦『プルーストを読む』(集英社新書)を[鈴木]のように書いて、出所を示します。
[海野上 p.59]第二部の標題の jeunes filles en fleurs を「花咲く乙女たち」としたのは名訳だ、と海野氏は云っています。この「乙女たち」はその後変奏されて、この長篇のずっとあとまで続くようなのですが、ここではとりあえず「花としての女」「花の精としての少女」です。
伊東の詩には〈女〉が出て来ない。――いや、もちろん出て来ないわけではなく、早い話、「わがひと」は女であろうし、「おまえ」と呼びかけられればそれは女の人でしょう。そのほか、具体的な、生身の女の人はいく人も出ては来ます。が、たとえば朔太郎や、中也、それからまた犀星、それらの詩人が歌ったような、何といえばよいか、女くさい、女の性を体現したような、女は出て来ない。昔、竹林館の佐子さんとそんなことを雑談で話していて、佐子さんからは「伊東静雄と女、というのはおもしろそうなテーマ」だという感想を頂戴しました。
すぐ次の[海野上 p.60]に、「花は処女性を意味する」という、海野氏の言葉があります。そこから、不意に、「言葉が無垢であるためには、それは発語されてはならない」という、奇妙なフレーズが私の口をついて出て来ました(「処女性」とはそういう意味だろう)。これは私が立原に向けて云っているつもりなのですが、いうまでもなく「発語されない詩語」というのは、ディレンマである以前に、無意味です。
前に〈名〉(土地の名)というものにたいするプルーストのただならぬ意識・関心ということを書きましたが、まだ続きがあります。
[海野下 p.102]「あらゆるものがアルベルチーヌを思い出させて、〈私〉を悩ませる。……たとえば、地名は、ふさがっていた追憶の傷口を開かせて、血を噴き出させる。」〈私〉はかつての恋人、アルベルチーヌをパリのアパートに「囚」え、幽閉する。が、やがてアルベルチーヌは「逃げ去」る。フランスの地図上の、アルベルチーヌがかかわった「たとえばトゥールという地名は、もはや非物質的な映像によってではなく、有毒物質によって、別様に構成されているように思われ、そんな毒性は私の心臓にじかに作用し、心臓の鼓動を早め、苦しくするのであった。」地名、場所、部屋、そういうものはみな、なお存在するのに、かつてそこにいた人間だけが不在である。
[鈴木 p.71]も、「ゲルマント」という名について、その名のもつ「特別な響き、特別な光芒」に言及し、それを「固有名詞の持つ不思議な力」と云っています。
こういう情念によって作品を書いた詩人や小説家は、日本にもあったかもしれません。伊東は、地名を書かない人でした(ただひとつの燿かしい例外、「有明海」を除いては)。以前私は伊東詩に出る固有名を取り出して分析を試みたことがありましたが、それを書くにはもう少し、時が熟するのを待たねばならぬと思います。
[鈴木 p.85]プルーストは『失われた時を求めて』の第一〜第三巻の題名について、第一巻「名前の時代」、第二巻「言葉の時代」、第三巻「物の時代」というのを考えたことがあるそうです。実体、物、ここではフォーブール・サン=ジェルマンという場所ですが、その「実体に到達するためには、単なる名前や想像力の時期が超えられなければならない。」私にとって興味深いのはしかし、プルーストの 名前→言葉→物 という三階梯、であり、こういう発想をするプルーストという人を、面白い、と思ったのでした。
[鈴木 p.192]「逃げ去」ったアルベルチーヌは結局、乗馬中に立木に激突して死んでしまいます。このあと、「死んだ女」と「忘却」についての長い長い章が続きます。まったく単なる連想ですが、伊東に「田舎道にて」という詩があります。「死んだ女はあつちで/ずつとおれより賑やかなのだ」。私にはこの詩がいまだによくわかりません。
[鈴木 p.205]「音楽こそは――仮に言語の発明、語の形成、観念の分析がなかったとした場合に――魂の交流の唯一無二の例になったのではないかと私は考えた」(プルースト X-81)。音楽こそは、というのは、立原の願いでもあったのではないか。前に私は「立原のFは何か」という、野暮な問いを提出しましたが、「この詩は何を歌っているのか」というのは言語的な問いです。立原はむしろ「何を」という問いを受け付けないような、意味を持った言語よりもむしろその音、響き、韻、リズム等で「魂」が伝わるような、そういう詩を欲したのではないでしょうか。(あるいは語と語のつながりが意味をもった文となるのではなくて、音程とリズムをもった抽象的なメロディーとなるような)
[鈴木 p.215]「言葉が何かを指し示すのではなくて、経験が言葉を指し示すのである。」伊東の場合は「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」のでした。「彼ら」とは、のちに伊東が手を入れたように、「その日」、すなわち「短かかつた燿かしい日」という経験にほかなりません。そして伊東がそう書いたとき、ある意味で言葉は彼の〈私を超〉えていたのです。
[鈴木 p.230]「未知の記号[シーニュ]で書かれた内心の書物……自分の無意識を探索する私の注意力は、水底を調査する潜水夫のようにそれを探りにゆき、それにぶつかり、その輪郭をたしかめる……」これは伊東の「意識の暗黒部との必死な格闘」とほとんど同じではないかと思いました。
プルースト
「失われた時をもとめて」は2巻目までは私小説的で蛇のようにのたうち回る段落の無い文書でとまどいますが慣れると詩が感じられ今も胸を打ちます。高等遊民の作者のスノップなサロンの出来事やプチマドーレヌからの連想が特に有名ですが、私はここで一度ダウンしたのです。15年前に読書会に入り2ヶ月に1巻ずつ(井上訳10巻)を読み何とか読み通しました。この本は風俗小説(同性愛)音楽と美術評論、ドレフェス事件、世界大戦の時代小説とも読める大河小説で、最後のページに出てくる言葉「......時のなかに.....」に来た時まるでエヴェレスや......モンブランに登頂したのかのような感動を覚えました。私も鈴木氏等の評論を参考にしましたが今は忘れてしまいテキストのみが心に残っています。出来れば再登頂したいものです、山本さんの論考ありがたく読ませていただきました。
以前、入院のつれづれにトーマスマンの「魔の山」を読み伊東静雄の「病院の患者の歌」を連想したことを思い出したところです。
お知らせ
小学館サライ3月号「ことの葉、届け 伊東静雄」の記事が登載されました。「そんなに凝視めるな」の詩文が紹介されています。50回菜の花忌を控えたこの時期に、多くの方の眼に触れることは大へん喜ばしいことです。
静雄は「うまくすれば自分の詩は五十年先に残るかもしれない」とひそかな自負を親しい人に語り、桑原武夫もまた「日本人が真に詩を愛し続けるかぎり、百年後、彼の名は一そう光をましているであろう」と記しましたが、没後60年の今日これらのことばは実証されつつあります。凛然たる人生を花とみづからをささえつつ生きぬいた詩人・伊東静雄をあらためて偲ぶ機会にしたいと思います。
私も買いました
書店に急ぎ走りました。
詩碑に献げられた菜の花とビール瓶の写真がきれいですね。
ビール瓶は,アサヒではなくキリンラガーの方が伊東静雄には似合うのではないでしょうか(笑い)。
それはともかくとして,この写真を見て多くの人が詩碑を訪れて下さったら嬉しいですね。
酒癖の悪かったという中也との間に,どんな会話があったのでしょうか。
「ことの葉、届け 伊東静雄」
皆様今晩は。
サライ3月号「ことの葉、届け 伊東静雄」をスキャンしたり、写真に撮ったりしてここにUPしようとしたのですが、ガードが掛かっていて、左右反転してしまいますので、コピーは送れません。
伊東静雄詩が「心に響く、言葉の力」をもった詩として、100年後にも愛唱され、顕彰され続けられるように祈ります。
映画「小さいおうち」最優秀女優賞
映画「小さいおうち」については先日投稿しましたが、ベルリン国際映画祭で、黒木華(はる)さんが最優秀女優賞を獲得されたことが大きく報道されています。
どの写真を見ても、一見、主演女優は松たか子さんでその秘められた不倫がテーマかと早とちりしそうですが、実は黒木華〜倍賞千恵子さん演じる女中タカさんが主演であり、原作者中島京子さんが『ゲンダイ』で述べておられるように、昭和10年代の庶民が戦争を身近に感じることなく、のんびりと平凡な暮らしをしていたことを、女中タカの目や口を通じて語らせらせていることに重点がありそうです。ヨーロッパの諸国から現在の日本がそのように見られており、そのことを日本に柔らかく示唆しているのだとしたら、私たちは最優秀女優賞を深刻な警告と受け止めるべきですね。ご参考までにリンクしてみます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001127M.jpg
http://gendai.net/articles/view/news/147819/5
残念
サライ3月号のことを,ブログ「朱雀の洛中日記」で紹介して下さっています。
伊東静雄の輪がどんどん大きくなって欲しいですね。
ところで,この度復刊になった丸山豊著「月白の道」を注文したのですが,品切れで手に入りませんでした。残念。
丸山豊著「月白の道」ほか
おはようございます。
昨日は諫高同窓会有志の方々と十三で映画「ペコロス・・・」を観て、その後一時間ほど喫茶店でおしゃべりをしました。皆様とてもお元気そうなお顔をしておられ、面白い話を聞かせていただいて何よりでした(謝謝)。遠方からお越し下さった方はお疲れ様でした。またおしゃべり会にお誘いください。
龍田様の丸山豊著「月白の道」については、紀伊国屋で尋ねましたら注文したら24日には入庫するそうです。ご希望であれば取り寄せてお送りしますが?
多謝
Morgen様 有り難うございます。
上村様宛にお送り下さいませんか。
お手数をお掛けしますが,宜しくお願いします。
立原・対話・ハイデガー
[Morgen さんの今年2月6日投稿に関連して]
私の手もとに2冊の本があります。
A. 『ヘルダーリンの詩の解明』(ハイデガー選集第3巻)昭和30年初版発行 理想社
B. 『ヘルダーリンの詩作の解明』(ハイデガー全集第4巻)1997年第1刷 創文社
A. に、斎藤信治訳「ヘルダーリンと詩の本質」が収められています。註および訳者後記によると、この斎藤訳は「十余年前[訳者後記の日付は1954年11月]に理想社から発行された」とあって、正確な日付がわかりませんが、ウエブで検索した結果、「昭和13年3月理想社出版部発行」であることがわかりました。タイミングは立原「風」とぴったりです。この単行本と選集とはおそらく内容は同じであろうと考えて、これ以上の追及はしませんでした。国会図書館その他いくつかの大学図書館にあり、古書でも入手可能なようです。冒頭に「五つの主題的な言葉」の1として“詩作とは「凡ゆる営みのうち最も罪のないもの」(?377)”という、ヘルダーリンの母宛1799年1月付書簡の言葉が引用されています。
B. には、濱田恂子訳「ヘルダーリンと詩作の本性」が収められています。本書は立原没後にかかわるので、その他の詳細は省きます。冒頭部分は“詩作すること。「このすべての営みのなかでもっとも無垢なこと」Dichten: Dis unschuldigste aller Geschäfte (第3巻377頁)”。
立原は「風立ちぬ」の中で2ヵ所、ハイデガーに言及しています。
その2は「風立ちぬ」の?の中ほどで直接ハイデガーの当該著作から引用、註で「この本をよむのにあたつて、僕は未見の斎藤信治氏に負ふところが多い」と記しており、実際立原の引用部分も斎藤訳とほぼ同じです。立原が「負ふ」た「この本」とは前述の理想社出版部発行の刊本と推定します。
その1はヘルダーリンの母宛1799年1月付書簡に関するもので、彼自身の引用では、「私は心乱されずのどかにあらゆる営みのうちでいちばん罪のないものにふけるとき、なぜ私は幼児のやうに心たのしいのでせう」。ただし斎藤訳のなかにこれと同じ文章はありません。立原はハイデガーの引用の前後も付けて記しているのですが、どこからその資料を得て来たのでしょうか。原文まで遡って自分で訳したとはちょっと考えにくいのですが。
さらに、こまかいことですが、立原はヘルダーリンとは書かずに「ヘルデルリーン」と(正しく?)表記しています。服部正巳がディルタイを訳して昭和7〜8年に「コギト」に載せたものが「フリードリヒ・ヘルデルリーン」なので、あるいはこのあたりか。
ヘルダーリンの母宛1799年1月付書簡は、河出書房新社刊『ヘルダーリン全集 5』p.347-にあり、当該部分は、「いったいなぜ、私は、妨げをうけずに快くゆったりと、あらゆる仕事のなかでもいちばん罪のないこの仕事をするときに、子供のように平和で善良なのでしょう」。
ハイデガーの「ヘルダーリンと詩作の本性」ドイツ語原文も(『ヘルダーリンの詩作の解明』ハイデガー全集第4巻全体とともに)ウエブサイトからダウンロードすることができます。(大変な世の中になったものです。)読む、読まぬはともかく、私のパソコンに取り込んでおきました。ちらちらと見ると、「対話」Gespräch は(三)を中心にして頻出します。実は、私は、原文は未読ですが、訳は『全集』で以前に一度読んでいるのです。しかしその時期や内容については鮮明な記憶がありません。(紅茶とマドレーヌ!)
立原「風」とハイデガー「対話」、これでは何もわかったことにならず、私はこれから腰をおちつけて「詩作の本性」だけでももう一度読みなおしてみようと思っています。
ご報告
2月23日午後2時から,諫早図書館2F集会室に於いて第76回例会を開催しました。
出席者は9名。
長崎新聞の松尾潤記者が取材に来られました。
「菜の花忌」第50回を記念する記事が長崎新聞に連載されるとのことです。
会報は第70号です。
内容は次のとおり。
1 昨年11月25日に逝去した詩人辻井喬の詩「新年の手紙」
2 小野十三郎の文章「明滅する冷感」昭和30年7月14日大阪新聞掲載
????伊東静雄の詩「燈台の光を見つつ」
????田中克己の詩「再会」「多島海」
3 谷元益男 第24回伊東静雄賞 受賞者
????詩「獣の気配」「鎌の先」
4 村尾 イミ子 第14回伊東静雄賞 受賞者
????詩「写真の中から」
5 伊東静雄の詩「海水浴」
6 龍田豊秋「魯迅ゆかりの地」 2月16日毎日新聞長崎県版掲載 はがき随筆
7 伊東静雄の詩「中心に燃える」
8 松尾静子の詩「眼鏡橋」
9 サライ3月号掲載 伊東静雄の記事
10 第50回「菜の花忌」及び第24回「伊東静雄賞 贈呈式」のご案内
????「菜の花忌」 ??3月30日 午後1時 於 諫早公園 詩碑の前
????「伊東静雄賞 贈呈式」??????午後2時30分??於??道具屋
????記念講演 講師 後藤みな子氏(作家)
?? ????????????演題「諫早,長崎−私の故郷」
??????????????????????????????????????????????????????????????????????????以上
来月の例会 3月22日午後2時から 於 諫早図書館2F 学習・創作室
拝領しました
Morgen様 本当に有り難うございました。
先ほど,上村様がわざわざ届けて下さいました。
しっかりと読ませて頂きます。取り急ぎ御礼申し上げます
松浦寿輝氏の「エセー」
鈴木道彦訳・集英社文庫版『失われた時を求めて 1』の巻末に、松浦寿輝氏が「エセー プルーストから吉田健一へ」という文章を載せています。私はこの文章に大いに触発されるところがあって、そのことを書いてみようと思います。
松浦氏はまず、吉田健一『時間』から、次の部分を引用して、その時間観を示します。
併しプルウストは近代の完璧を求める方法で時間を追究したのでそれ故にプルウストが遂に得た時間の観念はその刻々に流動する姿よりもその流動を奪はれてこれが時間だと自分の前に置ける類のものであり、それが刻々に過ぎて行く状態を認識してこそ時間が自分の前にあることになるのにはプルウストも思ひいたらなかつた。(『時間』?)
次に、プルーストにおける有名な「紅茶にひたしたマドレーヌ」に代表される「あの超越的な時間」の様相を、次のように、プルーストからの引用とともに紹介説明します。
……プルーストの「無意志的想起[レミニツセンス]」とは、一つの時間断片ともう一つの時間断片とが不意に接合する瞬間に訪れる至福のことであった。プチット・マドレーヌの味がコンブレーの幼年期を、……唐突に喚起する、そのとき「私」は、現在でもなく過去でもない場所にいきなり連れ出される。「私は過去を現在に食いこませることになり、自分のいるのが過去なのか現在なのか判然としなくなっていた。」(第7集「見出された時」?)。
松浦氏は、吉田的な「刻々に過ぎて行く」時間態様を「現在的」[アクチュエル]、プルースト的な無意志的想起によって喚起される時間態様を「現実的」[レエル]と呼んでいます。
ここからあとは、松浦氏の視線は吉田健一のほうに定められて、その意味の解明と価値の測定に向かうのですが、私の想念はここで外れて、昔私が書いた「「河邊の歌」を詠む」に飛びます。以下は我田引水ということになります。お許しを願います。
拙稿の草稿には、公表後さらに書き込んだもの、下書きにあったが本文には取り入れなかったもの、そういう書き込みや貼り込みが大量にあって、そのひとつに別図のような妙な図があります。松浦氏の文章を読んだとき、私はすぐに、かつて自分が画いたこの図を思い出したのでした。図の内容を修正しながら、もう一度解明を試みます。
私は河邊に横たはる
ここはまだ「アクチュエル」な時間です。
ただし、これは詩の内部の話であること、また詩そのものは全体が虚構であることに注意。
[さらに、河邊は「河邊」という「名」によって指される場所であって、どの河と、その固有名を特定しないのが伊東の本意、というのが私の読み方ですが、これは別の論点になります。]
(ふたたび私は歸つて來た)
ここでAとBが接合します。( )は、事態が「レエル」であることの、あるいは時間態様が異なることの、徴表です。「一つの時間断片ともう一つの時間断片とが不意に接合する」。「無意志的想起」のきっかけになったのは、紅茶とマドレーヌほど明確ではありませんが、たとえば、草いきれや、葉ざわり、横たわる姿勢、などが考えられます。
この「超越的な時間」「純粋状態の時間」においては、アクチュエルな時間は無化され、傷ついたり豊富にされたりした時間は飛びこされます。
「私」をふたたび「アクチュエル」な時間に引き戻すのは、ザハザハという河の音です。ザハザハは、「刻々に流動するアクチュエルな持続」としての時間の流れのオノマトペです。作者はこうして引き戻され、依然としてアクチュエルな時間のうちに在ることを
私に殘つた時間の本性!
と云います。
この時間には、生けるものの「死すべき宿命」mortalité が含まれます。作者はそれを目のあたりに見ます。
熾な陽の中に
はやも自身をほろぼし始める
野朝顔の一輪を
私はみつける
あるひとは『失われた時を求めて』を「時間と記憶を主題とする芸術小説」と要約しています。ふりかってみると私は「河」稿を書いていた間ずっと、「時間と記憶」について考えていたようなのでした。
つけ加えると、松浦氏のエセーは以下、ありきたりのプルースト顕揚ではなく、逆に
吉田健一の全文業を通底するもっとも重要な主題は、ここでプルーストの語り手が「現実的なもの」[レエル]との対比において貶毀的に切り捨てている「現在的なもの」[アクチュエル]の顕揚にほかならなかったと言えはしまいか。
という方向で書かれていて、吉田健一論として、それはそれで十分に説得的であると思いました。
さらにエセーの後半で
プルーストが用いる「現実」「観念」「真」「本質」といった一連の概念には一種のプラトニスムが感知されずにはいない……時間をめぐるそうしたイデア論の理念性……
として指摘されている「イデア論の理念性」は、プルースト以外、たとえば〈私を超ゆる言葉〉などにも適用可能で、それはまた新たな論点を提起するものと思いました。
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『詩学』昭和23年11月号
山本様。お話を切らせてしまいますが、チョットだけすみません。
龍田様から丸山豊の本の話があり、何か伊東静雄との重なりがあったような気がして探していたら『詩学』昭和23年11月号に、両詩人の詩が併載されているのを見つけましたので、映像だけを投稿します。表紙は東郷青児です。
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お知らせです
おはようございます。
Morgen様 伊東静雄と丸山豊が見事に重なりましたね。
ところで,田添市議のブログ「多良岳の仙人」に私のコメントを載せて頂きました。
どうぞ皆様,ご覧になって下さい。
今年の梅林・盆梅展
今年は梅や桃の樹にとっては大受難の年です。熟しないまま果実が落ちてしまう「ウメ輪紋ウイルス」という伝染力の強い病気が見つかったそうで、防除地域に指定された地域(大阪、兵庫、東京西部の一部)では、感染のおそれがある植物については、抜根し、焼却等の処理をしなければならないそうです。(植物防疫法に基づく農水省告示)
毎年の恒例となってきた大阪城梅林の梅盆栽店も中止されています。大阪天満宮の盆梅展もいつもの名品の展示がありません。樹齢300年も経った老梅の名品が何本も焼却されるのかと思うと、何とか生かせる術はないものかと案じられます。それらの梅の木が生きのびるためには、植物防疫官による検査の結果、感染していないと認めてもらうことが必要です。
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立原・対話・ハイデガー(2)
ハイデガーが『ヘルダーリンと詩作の本質』(以下『本質』と略称。訳文は原則として斎藤訳による)で述べている「対話」の意味を、できるだけ簡潔にまとめてみようと思います。
ハイデガーは冒頭まずヘルダーリンの「五つの主題的な言葉」を掲示します。「対話」はその 3 で主題となりますが、1、2 がそこに到る論理的な導きになっているのでひと通り見ないわけにはいきません。
1. 詩作とは「凡ゆる営みのうち最も罪のないもの unschuldigste」(?, 377)
詩作 Dichten は、戯れ Spiel というつつましい営みである。それはたんに、ものをいう Sagen und Reden だけのことであるゆえに、現実を変える力はなく、また真剣な行為 Tat でもない。それゆえ最も罪のないものである。
立原はこの部分を、『本質』からの引用ではなく地の文として、次のように書いている。
「……このとき「描く」とは、夢のやうなものであつて、現実ではなく、戯れであつても真剣な行為ではない。何物にも拘束せられずに、うつとりとしてそこにある。あらゆる営みのうちでいちばん罪のないものである」
出所をハイデガーの『本質』と示して立原が引用した、ヘルダーリンの母親宛書簡の部分は、前回投稿において述べた。「戯れ」の語はその少し前にも出て来る。
なお、詩作/行為という対比は、伊東の詩「帰郷者 反歌」を想起させる。「詩作を覚えた私が 行為よ」これは偶然であろうか。
ここまでの限りではまだ、詩作の本質は語られていない。しかし指針は与えられている。詩作は言葉を素材としてなされる。ヘルダーリンは言葉について何を語っているか。これが次の課題である。
立原・対話・ハイデガー(3)
2.「その故に凡ゆる財宝のうち最も危険なるものである言葉が人間に与えられた……人間が自らの何ものであるかを証せんがために……」(?, 246)
ハイデガーは、1でのべた「詩作は凡ゆる営みのうち最も罪のないもの」ということと、この個所(2)でいう、「言葉は凡ゆる財宝のうち最も危険なるもの」という、この両者はいかにして両立するか、というふうに問題を立てておいてから、いったんそれをわきにどけて「三つの先決問題」をまず考える、といいます。三つ、とは
1. 言葉は誰の財宝であるか。
2. 如何なる点においてそれは最も危険なる財宝であるか。
3. 如何なる意味においてそれは一体財宝であるか。
私には残念ながら、この三つを逐条的訓詁的に解明するだけの力がありません。自分でこれが最低最小のぎりぎりの要約と考えるものを書いておきます。しかし、空を掴んでいるかもしれない。
1. 人間は自らの何ものたるかを証しせねばならぬ者である。この証しをするために人間に言葉が与えられた。言葉は人間の財宝である。
2. 後述
3. 言葉は経験と決意と気分を伝える有用な道具 Werkzeug として役立つ。しかしそれは言葉の本質の偶有的な一部分にすぎない。本質的な点は、言葉があってはじめて世界がある、ということである。そうして世界があるところにのみ歴史がある。言葉はこの、より根源的な意味において、財宝 Gut である。
さて、後述とした2では、言葉の「無垢」と「危険」とをいわば対比するような形で、ハイデガーは少し贅沢に言葉を費やしています。この部分が私にはおもしろかったので、この「対比」部分を取り出してみましょう。
■人間は一般に言葉の力によって初めて顕わなるもの Offenbare にひきわたされる。
(浜田訳:開示することに晒される)。この「顕わなるもの」というのは難解な概念で、困ってしまうのですが、ハイデガーが他の個所で云っていることをてがかりにして、とりあえずここでは「現世的なもの Weltliche に組み入れられる」という意味に読み解いておきます。
■現世的なものに組み入れられた言葉が自己自身のうちに内蔵する危険
言葉は理解され且つ万人の共有財産とならねばならない。
そのために言葉は、
純粋なもの das Reine、本質的なもの das wesentliche と並んで
混乱せるもの das Verworrene、低俗なるもの das Gemeine ともならねばならない
■ヘルダーリンは云う
初穂は神々に帰属する
果実が人間のものとなるのは、それがもっと陳腐な gemeiner 有り触れたalltäglicher ものとなるときである
■結論:かくて言葉はたえず自己を自己自身によって創り出された仮象のうちに投げ入れそれによって自己の核心――純粋な言葉 das echte Sagen ――を危険に曝さざるをえないのである。
このように要約すれば、次の課題「如何にして言葉は生起するか」が見えて来ます。次章、3.の主題は「対話」です。
* 「通俗的な、低俗な、陳腐な」という語に対するのが gemein であることは、ちょっとした新鮮な驚きでした。われわれが学生時代に学んだドイツ語では「共通の、共同の」と訳しておけばすべて間に合ったものでした。そういえば太宰治の『ダス・ゲマイネ』も「通俗的・卑俗的」の意味だということでした。
「対話の放棄」の意味するものは?
おはようございます。(会社で書き込んでいますので手元に資料がありませんが…)
2月6日の私の“「対話型」か「独語型」か?”という問題提起に関して、山本様から「立原・対話・ハイデガー」と題する懇切な連続コメントを頂いております。(感謝!)
立原のいわゆる「もはや対話が成り立たない」というエッセー「風立ちぬ」における離別宣言が、「もはや対話は無駄だと、国際連盟を脱退し、米英仏から離れ、経済封鎖という墓穴を掘ってしまった」日本政府の姿と何処か似てはいまいか?
戦前のハイデガー「対話」というのは、同質者間における共通の話題に関する対話―いわば「モノローグ的ダイアローグ」であり、その結果ハイデガーは、ユダヤ人や米英仏との対話を拒否し「ナチズムへの時局便乗者」という生き方を選択してしまったのではないか。これが2月6日における私の問題意識でした。
今年の伊東静雄賞の栞を先日諌早からお送りいただきましたが、田中俊廣教授の選評の中にこれに通じる言葉(「生きる視点」?)がありました。(手元に資料なし)
目下のクリミアをめぐる緊迫した国際情勢をみると、ロシアに対する経済制裁が実際に発動され、実効があがるのかどうかは分かりませんが、プーチンはEU諸国間における足並みの乱れを見越して、クリミア編入に踏み切ったようです。しかし、ウクライナとロシアの国境線は長く、いつ発火してもおかしくない状況であると言われています。やはり「もうこれから先はどうにもならないという、絶体絶命と思われる場所でも」なお、人類的知恵を尽くした「対話」によって、何らかの「橋を架ける」余地は残されているのではないでしょうか。
昭和6〜7年当時の日本外務省は、「経済封鎖が怖いので先手を打って国際連盟を脱退した」(?!)そうです。偏った、楽観的な情報分析に基づく一方的な「対話の放棄・拒否」が、歴史に拭い難い禍根を残すという過ちを繰り返さないようにと祈りたい気持ちです。
伊東静雄の未定稿・未発表の詩一篇
彼らは何とはなしにやつてくるらしい
前のつづきを快活にしゃべつたり
笑つたりしながら
その中庭の木立の小さい池のふちに
日に幾組か一対の男女の生徒が来る
彼らにはもう金魚などに興味のある時期は
とつくにすぎてゐるが
かと云つてそこに来てみれば
金魚を眺めて立つてゐるより仕方がない
そんな時 きまつて相手の肩に手をおいたり
指先をもてあそんだりするのは女の生徒だ
それは遠くからみてゐていいしづかさだ
もうしばらくさうしてをればいゝと思う一つの絵だ
しかしすぐ男の生徒は
急に子供らしくぎこちない いたづらっぽさで
小石をつかんで金魚にいたずらを始める
女の子が仰山にそれをたしなめる
それに構わず石を投げる
そして男の子が笑ひこけながら逃げると
何か叫んで女の生徒はそれを追ふ
そして二人の声はすぐに
木立の外のにぎやかな声々にまじつてしまふ
この詩は、伊東静雄蔵書(諫早図書館蔵)の昭和23年6月出版の丸山薫著 詩集 「花の芯」裏表紙余白に記されている。この詩を裏付けるように、伊東静雄研究(昭和46年 富士正晴編)に収録された中田有彦氏「伊東さんの思い出」に、中田氏が詩人の転勤を知らずに住中に出かけると、正面の表札が「住吉高校」に変り、職員が「伊東先生は阿倍野高校に移りました」という。そこで阿倍野高校を訪ねると
『男女共学というのはいいね。教室のふんいきがとてもやわらかだ。教員室から校庭を見ているとね、ときどき木陰で男の生徒と女の生徒が小鳥みたいにキスしたりしている』『ホントですか』『ええ、ほんとうです』
昭和23年春ごろの思い出だと記されている。
詩人は、昭和23年4月学制改革で府立阿倍野高校に転任したが、同年5月に富士正晴宛て「私は今度アベノ高女に転任しましたが、6月初めごろ、同校が男女共学で、住吉中学に同居することになりますから、6月3,4日頃まででしたら、アベノ高女の方においで下さい。このごろは一つも詩できません。昨日やつと半年ぶりに一つ書いて心持が少し楽になつてゐるところです。」の書簡を送っている。
路上 習作稿
「ドイツ詩抄」大山定一翻訳本の裏表紙の余白に下記の走り書きを見つけた。静雄の字体だから詩の習作として書きとめたものだ。大山定一から贈られた本を読むうち創作意欲が湧き出たものであろうと勝手な推測をする。
中洲の一劃をはさんで
大川と堂島川がゆつたりと流れてゐる
ゆつたりと? さう ゆつたりと従順に
それは 流れてゐる
議事堂のドームが あざやかな緑青にかがやいて
やがて人々の群は爭うて
わが家にかへる時刻だ
乗物といふ乗物にとりついて
ここで途切れている。時期は戦後、大空襲の跡もまだなまなましい大阪、勤めが終り我さきに帰宅する人々、昭和二十二年「改造」十月号に発表された「路上」の原型と推定される。
路上
伊東静雄
牧者を失つた家畜の大群のやう
無数の頭を振り無数のもつれる足して
路上にあふれる人の流れは
うずまき乱れ散り
ありとある乗りものにとりついて
いまわが家へいそぐ
わが家へ?
いな!いな! うつろな夜の昏睡へ
ただ陽の最後の目送が
彼らの肩にすべり
気附かれずバラックの壁板や
瓦礫のかどに照る
そして向うに大川と堂島川がゆつたりと流れる
私もゆつくり歩いて行かうと思ふ
そして何ものかに祈らずにはをられない
――われに不眠の夜をあらしめよ
――光る繭の陶酔を恵めよ
未発表詩発見おめでとうございます。
50回目を迎える「菜の花忌」式典を前に、未発表詩が発見されたとは、式典に華をそえる嬉しいニュースです。御盛会をお祈りいたします。
昭和23年の春といえが、紙を固めた「模造皮ランドセル」に夢をいっぱいつめて、今は無い「小江小学校」(「小江公園」として同保存会の皆様に守っていただいています。)に私も入学したことを思い出します。
伊東静雄の未発表の詩を噛みしめるように読んで、焦土と化した敗戦国日本が急速に復興を成し遂げたエネルギーが、再び心に甦ってくれることを期待するばかりです。
立原・対話・ハイデガー(4)
3.「多くのことを人間は経験した。神々の多くの名が呼ばれたのは、我等がひとつの対話であり、相互に聞くことができるようになって以来のことである」(?, 343)
このあとに「対話」についての論述がはじまる以降、あまりむつかしく考えないことにしよう。
「我等―人間―はひとつの対話である。人間の存在は言葉のうちにその基礎をもっているのであるが、言葉は対話に於いて始めて本来的に生起する。……ところで「対話」とは何であるか? 云う迄もなく何かに関して相互に語りあうことである。そこでその場合言葉が相互の接近を媒介することになる。」
人間は、語り、聞くことができる。そのことにもとづいて、対話が成立する。ハイデガーの云いたいことの第一は、言語は本質的に対話である、ということである。
立原もここまではごくふつうに受け取ったであろう。エセー「風立ちぬ」?の終り近くで「そして僕らは詩人に問ふ。互に聞き得べきものとして。そして僕らの対話は可能である」と立原が書いているのは、あきらかにハイデガーのこの部分 Und hören können voneinander を意識してのことであろう。
ところでハイデガーの論調は、ここから、ある一点の強調に向かって動きはじめる、ように私には思われる。前引部分の直後のハイデガーの言葉は、次のように続く。
「だがヘルダーリンはこう言つている――「我等がひとつの対話でありそうして相互に聞くことができるようになつて以来」と。聞くことができるというのは相互に語りあうことの結果なのではなしにむしろ逆にその前提である。ところで聞くことができるということがそれ自身に言葉の可能性を予想しこれを必要とする。語りうることと聞きうることとは等しく根源的である。我々がひとつの対話であることは我々が相互に聞くことができるの謂である。我々がひとつの対話であるとはそれはいつも同時に我々がひとつの対話であるの謂である。ところで対話の統一は我々を結びつける唯一同一のものがその都度本質的な言葉のうちに顕わになつていることによつて成り立つ。そうしてそのような言葉の基礎の上に於て我々はひとつでありしたがつて本来的に我々自身なのである。対話とその統一が我々の現存在を担つている。」(太字は訳文で傍点。以下同)
ここでハイデガーが云いたいのは、対話はひとつである、ということである。原文はゲシュペルトで、wir sind e i n Gespräch と記されている。我々の個々が交わしあう対話の数々ではなく、それらをひとつにしたもの。あたかも合唱が個々の歌唱ではなくてひとつの「歌」であるように。「我々を結びつける唯一同一のもの」が、我等の内にある。その同一のものによって、我々はひとつ、言葉はひとつ、対話はひとつである。それらが互いに担保しあって、「我々」という現存在を形作っているのである。
けれども対話は常にひとつであったのではない。ヘルダーリンは「我等がひとつの対話であって……以来」と云っている。それは時間的な出来事であった、とハイデガーは云う。「時が自己を開くとき」、これについては『有と時』§79-81 を参照せよ、というが、私にはもうその余裕はない。
「「引き裂く時」が現在―過去―未来へとその裂目をひらくとき、そのときから始めて常住のものの上に相互にひとつになる可能性が成立する。ひとつの対話で我々があるのは「時がある」というそのときからである。時が出現し成立して以来、そのときから我々も歴史的に存在するにいたる。両者――ひとつの対話でありそうして歴史的であること e i n Gesprächsein und Geschichtlichsein――はその誕生を同じうし、相互に連関しそして同一である。」
この部分は引用が足りない。ハイデガーの、論証の踏み石を、飛び越している。私の理解が及ばぬため、説明も不足している。最低限私が引き出して示したかったのは、「歴史的」という言葉である。「ひとつ」は、この語にもかかっているのである。
未発表詩発見のこと
うれしいニュースでした。
阿部高の男女共学風景はなかなかいいですね。こういうのを一日一篇くらいづつ、どんどん書いて私たちに残してくれればよかったのに。――
昭和23年といえば、私はちようど「新制中学」に入った年でした。その時は伊東静雄のイの字も知らず、三年後の昭和26年に住高に入りましたが、その時には伊東先生はもう阿部高にも住高にもいなくて、河内長野の病院に入っておられました。
今から10数年前、中学の同級生の旧交が復活しはじめ、会食をしたり、毎年一泊旅行をしたり、そのうち誰かの発案で、思い出『文集』を作ることになりました。絵がうまくて、後にデザイナーになった友人が「中学生の頃の山本君をイメージして」描いてくれた、当時の新制中学生像があります。こんな格好で、北田辺町522の筋向いの昭和中学まで、カランコロンと歩いて通っていました。まだ戦後。けれども、私たちは皆、貧しくて、素朴で、キラキラ輝いていたように思います。
ご報告
3月22日午後2時から,諫早図書館に於いて第77回例会を開催した。
出席者は7名。
会報は第71号です。
内容は次のとおり。
1 大岡 信 『日本の詩歌』より
藤原氏の権力争いにより失脚し,太宰府長官として都から追放された藤原道真の漢詩の紹 介
2 高橋 睦郎 「虚を通って実へ」 山上 樹実雄小論
3 宇田 正 追手門大学名誉教授 「水都大阪を巡る近代文学散歩」
????宇田氏は,『春のいそぎ』の古書を手に入れ,詩「淀の川辺」に魅了された。
4 ヘルダァリーンの詩 「夜」 大山定一翻訳
????????????????????????「無題」????〃
5 取材メモ 上村代表が,未発表の詩を発見
????坂東まきさんが,諫早市に寄贈した父伊東静雄の愛読書(昭和19年発刊 大山定一翻訳) 「ドイツ詩抄」に目を通したところ,裏表紙の余白に詩の走り書きがあった。
????上村代表は,「路上」の原型と推定する。
????ほかに,丸山薫著詩集「花の芯」の裏表紙の余白にも詩が記されていた。
6 庄野潤三 昭和43年出版「前途」より抜粋
7 長崎新聞掲載 2014年3月9日掲載 ながさき文学散歩 中島恵美子
????タイトル 伊東静雄の菜の花忌 ??写真 諫早公園の詩碑
8 長崎新聞連載 「伊東静雄と故郷」菜の花忌第50回のタイトルで7回に亘った。
9 長崎新聞第一面に掲載 2014年3月22日 未発表詩発見
10 長崎新聞掲載 2014年3月23日上村代表が,伊東静雄の蔵書の書き込み調査
11 毎日新聞掲載??2014年3月23日 未発表作品発見
??????????????????????????????????????????????????????????????以上
??2014年3月30日,第50回菜の花忌が開催された。
前日の嵐からの回復が遅れ,場所は諫早観光ホテル道具屋となった。約130人が参加。
第14回市中学生・高校生文芸コンクール詩部門最優秀賞の前田悠花さん(明峰中)と中村美結さん (長崎日大高)が自作の詩を朗読した。
??次に,第24回伊東静雄賞を受賞した谷元益男さんへの贈呈式と作家後藤みな子の講演があった。
??4月20日,諌早つつじまつりの一環として,例年どおり詩朗読会を詩碑の前で実施します。
??多くの皆様のご参加を祈ります。
来月の例会 4月26日午後2時から 於 諫早図書館2F
愚挙としてのプルースト
プルーストの話はこれで終りです。
訳書が現在、文庫で4種出ています。
井上究一郎訳、ちくま文庫、10冊
鈴木道彦訳、集英社文庫、13冊
吉川一義訳、岩波文庫、14冊(未完)
高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫、14冊(未完)
さて、どれを選ぶか。なにしろ長いので、途中、選択の誤りに気付いて路線変更、となったりするのは、「悔い」が大きすぎます。フランス語をやっている友人に聞こうかと思ったりもしたのですが、やはり自分で決めることにしました。
そのために、第一冊だけは4種類を全部、読んでみることにしたのです。そうして先日、ひとまずこれを果たしました。
思うに、同じ本を4度読むというのは、愚挙です。いわば、12キロの道のりを、普通に歩けばもう4キロ進んでいるのに、1キロごとに引き返してまた出発点から歩きなおし、結果としてまだ1キロしか進んでいない、というようなものでしょう。
各訳書それぞれに特徴があって、それはそれでなかなか面白いのですが、これは略。結論として私は岩波文庫の吉川訳を選ぶことにしました。訳業はまだ未完ですが、これは心配していません。吉川訳が完了するのと自分の寿命と果たしてどちらが先か、これはいい勝負ではないかと思うので。
愚挙をもう一つ、重ねました。原文のフランス語のにおいを、たとえほんの少しでもかいでみたい。たとえ真似だけでもやってみたい。それで、第1冊の、紅茶とマドレーヌ、水中花のあたり、訳書で10ページ分ほどを、辞書を引き引き、訳書を横目に見ながら、ともかくよんでみました。フランス語は全然まじめにやっていなかったので、しかしもうそれは悔いません。自分なりに「原文を読む」楽しさは得られたと思いました。
高遠弘美氏が吉田秀和の「失われし時をめぐって」という文章を絶賛しています。『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(新潮社)のち『吉田秀和全集』(白水社)にも収録。この本はある筈と探すと、両方とも買っていました。時代はちょうど「プラハの春」の頃で、ソ連の戦車の音が聞こえてきそうな、生々しい時代の息吹きとともに、ヨーロッパ見聞のあれこれが熱っぽく綴られていました。
『堀辰雄選集』(筑摩書房)にも、プルースト関係の雑文が集められています。五篇とも昭和10年より以前なので、立原も読んでいるはずです。で、立原はプルーストに無反応?
プルーストをめぐる私の愚挙と愚考については、今回で終わりです。ご迷惑をおかけしました。
立原・対話・ハイデガー(5)
すると直ちに次の問いが生ずるとハイデガーは云う、
「引裂く時のなかで常住のものを把捉しそれを言葉で繋ぎとめるものは誰であるか」
これに答えるのが、ヘルダーリンの詩「追憶」における次の言葉である。
4「常住のものは、しかし、詩人がこれを建設する」(?,63)
(浜田訳:「留まるものを創設するのは、しかし詩人たちなのだ」
Was bleibet aber, stiften die Dichter.)
斎藤訳で「建設する」とあるのは、stiften で、浜田訳はこれを「創設する」と訳する。辞書では、たとえば、a)(…のための)[設立]基金を出す;(…を建設する);(…を)寄贈する、寄付する、喜捨する……b) 創立する、設立する。名刺形 Stift には(寄付によって設立された宗教上の団体・施設;)宗教財団;理事会;参事会;修道院;神学校;司教区本部……などの訳がつけられている。その寄付金や基金が Stiftung、これはまた寄付という行為をもさす。このようにかなり特殊な使い方をする語であるのに加えて、ハイデガーはさらに他の文脈でもこの語を用いていて、それぞれに特殊なニュアンスを与えているらしい。ようするにハイデガーが、詩人が stiften する、と述べたここの意味を深く追究し解明し解説する力が、私にはない。
寄り道はここで終わって、ハイデガーの論旨を続けよう。
留まるものは必ずしも常住不動ではなくてむしろ速やかに移ろい去るが、どのようにしてこれを繋ぎとめるか。
「詩人が名づける。……詩人は本質的な言葉を語るものなるが故にかく名をよぶことによって存在するものが始めてその本質を規定せられ、かくて存在するものとして a l s Seiende 知られるにいたるのである。詩は言葉による存在の建設である Dichtung ist worthafte Stiftung des Seins.」
ここでハイデガーは簡潔な要約を行った後、次節に引き継ぐのだが……
5「いさおしは多けれど、しかも、人間はこの地上に於ては詩人として住んでいる」(IV, 25)
最終節のこの言葉は私には謎のようなものだ。ハイデガーの説明は保留して、私ももはや疲れて来たので、ここで一気に、《歴史》と並ぶもうひとつのキイワード、《民族》の提示される場面へ飛ぼう。それは突然出て来るのである。
「最初に生じた結果は詩の活動領域は言葉であるというにあった。それ故に詩の本質は言葉の本質から把握せられねばならぬ。ところで次に明らかになったことであるが詩とは万物の存在と本質を建設しそれに名を賦与することであって決して気儘な饒舌ではなく、むしろそれによって始めて我々が日常の話のなかで物語ったり談論したりしている一切のものが明るみに歩み出るをうるにいたるような当のものである。故に言葉が予め創作材料としてそこに見出されてそれを詩がとりあげるというのではなく、むしろ詩そのものが始めて言葉を可能ならしめるのである。詩は民族の根源的な言葉である。それ故に逆に言葉の本質がが詩の本質から理解せられねばならぬ」
詩は民族の根源的な言葉である Dichtung ist die Ursprache eines geschichtlichen Volkes.これはずいぶんと激越な言葉だ。浜田訳は「詩作は歴史的な民族の祖語である」祖語というのも激越な訳語だ。
閑話休題
こんばんは
山本様のご投稿「立原・対話・ハイデガー」興味深く拝読させていただいております。
(ご投稿中に差し挟んで済みませんが、ティーブレイクとして投稿します)
昨日、あるかんば隊の皆様が昨年11月に訪問された「仁和寺―御室の桜」を観てきましたので写真を載せてみます。因みに、古くからの京都の戯れ唄に「わたしゃお多福御室の桜、はなはひくても人が好く」というのがあるらしく、背も花の咲く位置もも低くて別名「お多福桜」とも言うらしいです。
ついでに竹久夢二のセノオ楽譜“MORGEN”の写真も合わせてご覧ください。
4月20日、天気が下り坂のようで心配ですが、何とかもってくれることを祈ります。
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竹下夢二の絵
竹久夢二のセノオ楽譜“MORGEN”有難うございました。「『手をかたくくみあわせ』というのはひところ伊東さんが音楽に熱心な時、私が卒業して姫路にいたころ、まだあの人が『コギト』に出ず、『呂』などに拠ってた時ではなかったかと思いますが、私がシュトラウスの『モールゲン』という歌のレコードを聞かせようとしたとき、竹下夢二の幻想的な絵のついた楽譜の日本語の歌詞を読みながら意味がよくわからぬといい、ドイツ語の方の意味もわからぬといいながらいつまでも見ていましたが、その表紙の絵が若い男女が手を組み合せて海の方へ行っているものでしたし詩の内容は『わがひと』のもそれをとったと思われる位で、『わがひと』にはその絵が頭にあったと思います。詩はJ・Hマッケイの由です」 酒井百合子書簡より
尹東柱
私の教え子のTさんは、教え子といっても「先生、わたしもうじき古稀やで」という位で、たぶん40代の終り頃に私たちの通信制高校に入学して来た、元気のよい、在日のおばちゃんである。
Tさんが自分でも思いがけず入院し、ベッドで『尹東柱詩集』を読んで、先生にも読んでもらおうと思って、わざわざゆうパックで岩波文庫版『空と風と星と詩 尹東柱詩集』を送ってくれた。私も買うつもりをしていたので、これはうれしかった。もうひとつうれしいことに、後半にハングルの原詩が収録されている。だが悲しいことに、私のハングルはもう完全にサビついていて、読めるのだが読めない(おわかりでしょうか?)
茨木のり子さんが『ハングルへの旅』の最後のほうに、尹東柱のことを書いている。茨木のり子さんはTさんの肌にも合いそうだから、『茨木のり子集 言の葉』3冊が文庫で出ているよ、ということも含めて、知らせてあげた。(『言の葉 3』にも、エッセイ「尹東柱について」が載っている。)
『ハングルへの旅』の終りのほうに、こんなことが書いてある。
“尹東柱は留学生時代、立原道造を読んでいた。年譜でそれを知った時、ハッとした。尹東柱の詩を読んでいると、その抒情の質が立原道造に似ているような気がしていたから。”
ある詩人の「抒情の質」を比べる、というのは、考えればとんでもなく難しいことだ。それは読む者の「感性の質」を試される、というのに等しい。
茨木さんはあともう少し、いろいろ書いている。私としては今のところ、死の直前に変な方向に曲がりかけて、その可能性を可能性のままに残して、24歳で若死してしまった立原と、同じく27歳、1945年2月、「解放」のわずか半歳前に、福岡の刑務所で獄死した、生前一冊の詩集も刊行されず、その名前さえほとんど知る人のなかった尹東柱と、そんな二人の若い詩人が、同時代に、たがいに顔を合わすこともなく、軽井沢や追分と、下鴨警察署や福岡刑務所で、別々に、生きていたという、〈事〉の、ふしぎさ。尹東柱-立原道造と、こんなふうに二人の間に引かれた線の、そのふしぎさにハッとする。
文庫では金時鐘さんが「解説に代えて――尹東柱・生と詩の光芒」を書いている。かすかだが決して消えない火種が、まわりのものをブスブスといぶらせて、その焦臭が私たちの身体に突き当たりまつわりつくような、濃密な、熱い、激しい文章でした。
[「対話」は難渋中]
尹東柱詩集『空と風と星と詩』
こんばんは。明日から大型連休が始まりますが、皆さま如何お過ごしでしょうか。
私は、山本様にご紹介頂いた尹東柱詩集『空と風と星と詩』を買ってまりましたので、今から読むつもりです。昼間に会社で拾い読みしてみて、少し気になった詩の一部をとりあえず抜き書きして紹介してみます。
「星をかぞえる夜」(1941・11・5) 卒業記念詩集『空と風と星と詩』から
[・・・・・]
私はなにやら慕わしくて
この数かぎりない星の光が降り注ぐ丘の上に
自分の名前を一字一字書いてみては、
土でおおってしまいました。
夜を明かして鳴く虫は紛れもなく
恥ずかしい名を悲しんでいるのです。
ですが冬が過ぎ私の星にも春が来れば
墓の上にも緑の芝草が萌えるように
私の名の文字がうずもっている丘の上にも
誇るかのように草が一面生い茂るでありましょう。
「たやすく書かれた詩」(1942・6・3) 同年4月立教大学文学部英文科に留学
[・・・・・]
六畳の部屋は よその国
窓の外で 夜の雨がささやいているが、
灯りをつよめて 暗がりを少し押しやり、
時代のようにくるであろう朝を待つ 最後の私、
私は私に小さな手を差し出し
涙と慰めを込めて握る 最初の握手。
第21回 石楠花忌
生涯一教師、地域の子供たちをたくましく育てた詩人木下和郎(きのしたかずろう)、故郷の風土を愛する心は、同郷の伊東静雄にも通ずる、第21回「石楠花忌」が、地元小長井町の詩碑前で行われた。運営は、しのぶ会代表の中溝章氏、和郎の詩をこよなく愛する坂口敏治氏、高来文化協会長嘉村徹氏ほか30名で、その多くが和郎の教え子で、福岡からの出席者もあった。詩「昭和19年 秋」を伊東静雄研究会津田緋沙子が朗読、当時をしのばせるスピーチもあり、夫人木下建江氏の謝辞で幕を閉じた。
筑紫石楠花によせて
おはようございます。
いま、我が家の小さい庭では、数本の筑紫石楠花が、次々に蕾〜開花〜落花の変遷を見せています。昨夜は雷鳴が響きわたりました(春雷と言うのでしょうか)。今朝は、5月の陽射しに包まれて、草木の蕾が膨らみ、あらゆる木々の葉っぱが燃えるような照り葉色に輝いています。(栃の木、樅、山紅葉、縮緬蔓、常盤柿、山柿、さつき、椿、むべ、甲州梅、山桜、瑞祥松、糸魚川真柏、辛夷、小梨、山躑躅、捻幹石榴、実生かりん、筑紫石楠花・・・・・などの中・小品盆栽が雑然と棚上にあります。)
上村さんから「第21回 石楠花忌 」のご案内があり、小長井の詩人木下和郎とは?と調べていましたら、「木下和郎詩集」 (1967 紀元書房)、文芸誌「岬」(木下和郎追悼号 風木雲太郎編集)、「木下和郎全詩集」(芸文堂)などが見つかりました。
草の雷(いかづち) 木下和郎
三月二十七日 また はげしい雷雨でした
夜十一時 ひとつ落ちました
千早が目を覚まし
どうしても ねつきませんでした
枯れがれの桑畑を稲妻が走ります
そんな雷鳴に
桑の蕾も
ちょっぴりふくらむのです
みりにもみたないかいこがからをやぶりました
蚕室温度二十七度
多良の峯にはなごりの
霧氷がかかりました
爽やかな五月に
『魂を揺さぶる人生の名文』/困ったときの名文頼み(川村湊 光文社 2002)を、5月1日昼食の序でに立ち寄った古本屋で買ってきました。体裁はケストナー「人生処方詩集」を真似た編集のようにも見えますが、読者が自分にとっての名文を「続編」として付け加えていくことを、著者はまえがきで勧奨しています。
そのなかに、
○孤独感に苛まれたとき・・・・・伊東静雄詩集「水中花」を読みなさいという処方箋があり(112~113頁)、「ナニナニ?!」と、即購入しました。(594円)
[・・・・・]
遂に逢わざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかいて
死ねという、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
川村湊さん(法政大学教授 評論家)の詩解釈のポイントは以下の通りです。
[・・・・・]
<遂に会わなかった人の面影が、葵の花の前に立ち、我慢できないので、水中花を空に投げ上げれば、金魚の影もそこに見える。・・・・・六月はなぜこんなに美しいのか。>
「なぜ、気分爽快になり、孤独感から開放されるのか?」分かりませんが、確かに静雄詩のイメージは鮮明、口調はいいです。詩人だって苛立ち、切れてしまうことがあるのだということに思い至り、「淋しいのは俺だけではない」と共感することによって、孤独感から抜け出せるのかもしれません。
<私流コメント>
某脳神経学者(有田教授?)の説をモジッて、以下のように考えてみました。
孤独感や不安感(ノルアドレナリン神経系の優勢)に苛まれた人は、まずバナナを一本食べて、5月の朝の太陽に顔を向け、約10分間のリズム体操(水中花投擲に替えて速歩3分間の3回インターバル運動でも可)をすれば、脳内神経伝達系統のうちで、まずセロトニン神経が活発となり、ドーパミン神経やノルアドレナリン神経とのバランスが確立され、活き活きとした平常心になる。その結果として、不安や孤独感に苛まれた人も「わが水無月−五月でも同じ−のなどかくはうつくしき!」と感嘆する心境になる。
(芥川龍之介が志賀直哉の自然人に憧れた故事を思い出しますね。)一度お試し下さい。もしだめだったら他の処方をお試し下さい。
ハイデガーとの〈対話〉の終り
ものを考えること、ものを書くことは、力仕事であることを、近頃つくづくと感じさせられます。
立原の名前が出てくるというだけで尹東柱のことを書いたところ、Morgen さんからまことに適確な引用をいただきました。自分の名前を指で書いて、土でおおってしまう……だが春が来るとその丘にも草が生えるだろう、誇るように、燃えるように。この淋しさと悲しさ、この希望と自恃。立原に似ているようでいて、あきらかに異なる抒情の質。その背後で、国家権力に倚りかかろうと身体を傾ける若者と、国家権力に抗ってついに圧し潰された若者と。この〈歴史〉と〈民族〉の拮抗、擦過、純情。
ハイデガーの「本質」を追って行くことに疲れ、またこれは立原の〈対話〉とあまり噛み合うところがないようにも思われたので、この件は、〈歴史〉〈民族〉のあとで出る、〈合図〉という語と、〈この乏しい時代に〉という措辞とこの2点にだけ注目しておきたいと思います。
はるかな昔、石母田正『歴史と民族の発見』という本がありました。わたしはこの本を読んでマルクス主義者になりました。党全盛の時代は過ぎ、セクト全盛にはまだ至らないという、モラトリアムの時代で、わたしはノンポリからついに出ませんでした。「歴史と民族」が、あの時代と、もう10年か20年前の時代に、同じ口調で、同じ熱さで語られ叫ばれたのは奇妙な感じです。
矢野久美子『ハンナ・アーレント』(中公新書)という本を読みました。アーレントがハイデガーについて書いています。[ハイデガーは]自分のことを天才と思いこみ、責任感をまったくもたない「最後のロマン主義者」のそれと見なしていた。彼の哲学から導き出される自己は、自己中心的で仲間から分離した自己、完全に孤立し原子化された自己たちであり、そこから「民族」や「大地」といった概念、つまり一つの「超-自己」への組織化が生まれる、と。著者はもっと端的に、ハイデガーは「他者を欠く哲学者だった」と書いています。
熊野純彦氏が岩波の『図書』4月号で、レーヴィットのハイデガー批判を次のように紹介しています。ハイデガーは……「共同相互存在 Miteinandersein」の有する積極的な可能性をあらかじめ通りすぎてしまっているのではないだろうか。つまり一者[アイン]としての私が他者[アンダー]であるきみと共に[ミット]、また私ときみとが互いに[アインアンダー]かかわり合う次元が、ハイデガーの思考にあってはつねにすでに飛びこえられているのではないか。(レーヴィット『共に在る人間の役割における個人』1928)
ハイデガーの『言葉についての対話 日本人と問う人とのあいだの』(平凡社ライブラリー)などを読むと(本書の注解には数多く教えられました)、ずいぶん繊細な〈対話〉がなされていて、必ずしも彼が野猪的夜郎自大的な人物とも思えないのですが、しかしやはり、3月20日の投稿で Morgen さんが指摘しておられた「ハイデガーの「対話」というのは同質者間における共通の話題に関する話――いわば「モノローグ的ディアローグ」であった」という意見に、結局わたしも同感です。
実存的な個々の人間どうしの繊細微妙な思惟情感の差異を認め合いつつ、ねばり強く相互に手を触れ合える地点を求め続ける、個と個の〈対話〉や、アレントも云っている、思考という孤独な営み、自分との対話、「わたしというたったひとりの人間」が「わたし自身」とおこなう対話もある。
立原の堀辰雄にたいする、対話が「成り立たない―→成り立つ―→成り立たない/訣別」というのも、なんだか自分勝手なきめつけのような気もします。しかも立原はハイデガーから〈対話〉という語は借りて来たけれども、その使い方は必ずしもハイデガーと同じではなく、「ひとつの対話」以下、その「本質」部分には、触りもせぬような書き方をしています。「風立ちぬ」論についてはもう少し詰めたく、とりあえずハイデガーとはもう別れようと思って、妄言駄弁を弄しました。でもここから伊東静雄まではまだ距離があるようです。ご海容を。
[追記:]「モルゲン」でいろいろ検索していたら、中路正恒さんという人が、「モルゲン」「哀歌」「わがひと」etc. についてたくさん書かれているのに出会いました。いくつか読んだだけですが、とりあえず記しておきます。「モルゲン」は、曲(音)そのもの、ないしは楽譜を検索しているのですが、かかって来ません。
「誘わるる清らかさを私は信ずる」
吉本青司著『ローマン派の詩人たち』(沖積社 昭和56年10月1日)70〜106ページに、「誘わるる清らかさを私は信ずる」と題して伊東静雄に関するエッセーが載っていますので、私の注釈を加えず原文に即して概略(かなりの圧縮です)を紹介してみます。
同書の表題の言葉を「誘わるる清らかさを私は信ずる」としたのは、幾度も読みかえすにつけ、この言葉がどんなに怖ろしい意味を持つかを思うからである。それは一言にして言えば、「感性への大変な信頼」ということになる。静雄詩を解く、神話に匹敵するキーワーズである。(・・・静雄の人生と詩業の意味を解明するかぎであることに間違いはない。)
<難解な「静雄詩を解く、神話に匹敵するキーワーズ」をご教示下さるのであれば、熟読吟味せねばなるまい!!>と拝読させて頂きました。「プシケ」「果樹園」「公園」などの同人で、1913年高知生まれの詩人吉本青司様のご論旨は、静雄詩と同じく高尚・難解かつローマン的でもあります。
その論旨を短く要約することは困難ですので、サブノート風に箇条書きにしてみます。
1、私が泉のそばに座った時/噴水は白薔薇の花の影を写した/私はこの自然の反省を愛した・・・さうして私の詩が出来た
美の理念を創造した白薔薇の姿を噴水に見ることが「反省」であり、詩人は対象から受ける印象について反省するが、その反省の主体となるのは自己の理念であり、対象となるのはつねに内的な理想的な対象でなければならない。
2、かく誘ふものの何であろうとも/私たちの内の/誘わるる清らかさを私は信ずる
この「誘わるる清らかさ」こそ、理想的な自然や世界を思考する「理念」と超感覚的な源泉であるところの清浄な魂であり「精神性」であろう。
3、いま私たちは聴く/私たちの意志の姿勢で/それらの無辺な広大の讃歌を
(無縁の人=「反省」のできない人は何も感じないが)私たちは「意志の姿勢」で鳥々や草木の太陽への広大な讃歌を聴く。(理念の反省が行動となるのは意志の姿勢によってであり、美しい魂の理想主義が「讃歌を」を生む素地である。)
4、空虚を歴然と見分くる目(空虚を識別する理性)<太陽を遍照させたいという祈念(A<B…BはAより大きい)・・・∴静雄詩「わが人に与ふる哀歌」は「太陽を遍照させる主体たる清らかな魂あるいは理念への讃歌」である。<コギト・エルゴ・スム>
5、地上に太陽は照っていないので、天地の間に置かれた恋人たちにとっては、天上への「讃歌」は地上にあっては「哀歌」(讃歌即哀歌 哀歌即讃歌)である。(「永久の帰郷」は、地上に帰ることによって天上への夢を実現するのが静雄の念い。…cf:芥川
***分かりにくい文章になってしまいました。興味の或る方には原文のコピーをお送りしますのでお申し出ください。kuni@nozaki.ne.jp
R.シュトラウスの歌曲と静雄
R.シュトラウスの歌曲を愛好していたのはよく知られているが「わがひとに与ふる哀歌」の詩がマッケイのモルゲン(あすの朝)と似ていることは自明と思われます。
あすは太陽が再び輝き.....。マッケイ
山本さんの文からR.シュトラウスの歌曲を思い浮かべ、晩年の名曲「4つの最後の歌」の第4曲「夕映え」、アイヒェンドルフの詩も愛好したに違いないと思った次第。
私たちは悲しみも喜びも/手に手をとって通り抜けてきた.......。この二つの詩の合作ともいえそうで。
私はジェシー.ノーマンのソプラノとオーケストラ版で聞いております。なお5/8の朝bs3クラシック倶楽部にてサンドリーヌ.ピオというsp歌手がモルゲンを歌っていました。
ご報告
4月26日午後2時から,諫早図書館に於いて第78回例会を開催した。
出席者は7名。
平成25年度の決算報告及び承認。
会報は第72号。
内容は次のとおり。
1 伊東静雄研究会 平成25年度活動報告
2 一筆啓上 後藤みな子様 松尾静子(伊東静雄研究会会員)
3 伊東静雄 詩 「夜の停車場で」 昭和23年「詩学」12月号に掲載
????富士正晴の解説
4 伊東静雄の未定稿作品の紹介
5 文章の書き方 辰野和男(岩波新書323)
6 長崎新聞 2014年3月31日掲載
????「第50回菜の花忌」の記事 「伊東文学は郷土の誇り」??????松尾潤記者
7 長崎新聞 2014年4月8日掲載
コラム「観覧車」??「菜の花忌に感動添え」 石田謙二生活文化部長
8 長崎新聞 2014年4月22日掲載 コラム「往来」
????後藤みな子 第24回伊東静雄賞贈呈式で記念講演 「魂の帰郷を果たしたい」
松尾潤記者
9 朝日新聞 2014年4月16日掲載 未発表詩発見???? 佐々木亮記者
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5月の例会 5月24日午後2時から 於 諫早図書館2F
「菖蒲忌」(5月25日)によせて
木下和郎詩集「嵯峨島抄」に次のような詩があります。(ただし抄録)
[・・・・・]
昭和五十五年五月七日、朝、
「おとうさん、野呂さんが・・・・、野呂さんが・・・・」と
妻は、私の出勤の足を止めます。
涙がとめどもなく頬を濡らした。/私は哀しいのではなかった。泣きながらこれは哀しみではないのだと自分に言いきかせていた。哀しみとはちがうもうひとつの何かが胸を占め、あとからあとからと涙を溢れさせるのだった。(野呂邦暢「足音」より)
[・・・・・]
“待つことにはなれています”あなたの微笑みが彼岸の哀しみとなってしまいました。
野呂邦暢さんが突然亡くなられた朝の様子が昨日のことのように伝わりますが、既に34年が経過したのだと思うと、溜息が出てきます。せめて「菖蒲忌」(5月25日)が盛大に催行されることを祈ります。
野呂邦暢を150人追想(西日本新聞)
「野呂邦暢を150人追想 諫早市で菖蒲忌 作品への高評価いまも」というタイトルで、本日の西日本新聞に記事が掲載されていますので、(無断)転載します。
諫早を拠点に活動し、自衛隊時代の日々をつづった「草のつるぎ」で芥川賞を受賞した作家、野呂邦暢(1937〜80)をしのぶ第34回菖蒲忌が25日、諫早市の上山公園の野呂文学碑前であり、約150人が出席した。
没後30年が過ぎても野呂文学への評価は根強く、みすず書房が5月に「兵士の報酬随筆コレクション1]を刊行。6月刊行の「小さな町にて随筆コレクション2」と合わせて、単行本未収録の約240編を収録するという。交遊社も[小説集成](全8巻)の刊行を始め、これまでに3巻を刊行した。
この日は、主催者のあいさつとして、諫早市芸術文化連盟の森長之会長が「作品は歳月を超えて、格調高い野呂文学の風韻を生き生きと伝えてる。」と述べた。高校生などが野呂文学作品を朗読し、出席者が野呂文学碑にショウブを献花した。(2014/05/26 西日本新聞朝刊)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001162M.jpg
ご報告
5月24日午後2時から,諫早図書館に於いて第79回例会を開催した。
出席者は8名。
会報は第73号。内容は次のとおり。
1 <詩を読む>??「四月の風」 伊東静雄 昭和9年「コギト」掲載
2 詩「四月の風」を解題 上村 紀元
3 詩「除夜」 高塚 かず子
4 詩「赤とんぼ」 第13回伊東静雄賞奨励賞受賞作品?????? 小町 よしこ
5 第21回 石楠花忌 4月29日
「昭和十九年 秋」の詩碑の前で開催され,その後例年は葉桜の下で皆さんと食事を楽しむ が,今年は天候が思わしくなく近くの公民館に移動した。
????伊東静雄研究会の津田緋紗子氏が「昭和十九年 秋」を朗読した。
6 詩「草の雷」 木下 和郎
????詩集「草の雷」の帯文 野呂 邦暢
7 「文章」??伊東 静雄
???? 芸術といふものは誠さえこもっておれば、下手なほどよろしい。
?????????????????? ???????? ???? 昭和16年6月「三人」25号掲載
8 散文詩 「薪の明り」??昭和23年「家庭と料理」11月号掲載 伊東 静雄
9 詩「捨てられたはしため」 E・メーリケ 作
???????????????????????????????????????????????????????? 手塚 富雄 訳
????手塚富雄全訳詩集2(角川書店)から収録
??上村代表が,「薪の明り」とモチーフの似た詩を探し出したもの。
?????????????????????????????????????????????????????????????????????? 以上
伊東静雄賞贈呈式における後藤みな子氏の講演「諫早、長崎ー私の帰郷」を
当研究会会員の津田緋紗子氏がテキスト化しました。本当にご苦労様でした。
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来月の例会は6月28日午後2時から,宇都町のレストラン「えげん坂」に於いて開催しま す。詩に限らず,様々な文学を採り上げおしゃべりを楽しんでいます。
興味をお持ちの方は気軽にお出で下さい。
Das verlassene Mägdlein(はした女か少女か?)
Das verlassene Mägdlein
Früh,wann die Hähne krähn,
Eh' die Sternlein verschwinden,
Muß ich am Herde stehn,
Muß Feuer zünden.
Schön ist der Flammen Schein,
Es springen die Funken;
Ich schaue so drein,
In Leid versunken.
Plötzlich,da kommt es mir,
Treuloser Knabe,
Daß ich die Nacht von dir
Geträumet habe.
Träne auf Träne dann
Stürzet hernieder;
So kommt der Tag heran -
O ging’ er wieder!
“ Mägdleinを「はした女」と訳すか「少女」と訳すか?”私は昔から少し引っかかりを感じていました。
Mägdeは詩語としては「乙女」であり、-leinは「小さい」ですから、「年の若い乙女」の意味で、(他家で働く若い女中さんかもしれませんが)「はした女」というような卑語的な意味は感じません。
私は、小さい頃から、ごはんやおかず、風呂、牛のえさ、味噌・醤油豆を自分の家のかまどで炊き、時には煙草の乾燥小屋のボイラーも焚いてきました。頭の中では、どうすれば上手に燃やせるかとか、焦がさないコツ、火加減の調節などを工夫しながら薪をくべました。(少年時代の自分の姿を観ている。)
伊東静雄は、かまどを炊く妻の姿に田舎の母親を観ているのでしょうか。
メーリケの詩では、少女は、早朝に起きてかまどに火をつけ、燃え上がる炎をみて、心も沸き立ちますが、甘い言葉をかけ言い寄ってきたのに、もう来てくれなくなった情け知らずの若者のことを、昨夜夢にみたことを突然思い出します。少女は、涙が次から次に流れて、「早く日が暮れてしまえばいい!」と苛ついています。(メーリケは乙女心を観ているのか「はした女」のはしたない心を観ているのか?)
一つの詩を読んでも、(詩人の意図に拘わりなく)それぞれの心象は読み手によっていろいろなのでしょうね。
訂正とお詫び
第79回伊東静雄研究会報告で詩「捨てられたはしため」は、上村代表が「薪の明り」とモチーフの似た詩を探し出したものと記されていますが、小高根二郎著「詩人、その生涯と運命」で既に紹介されていたものです。訂正とお詫びを致します
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山と川の名
またごぶさたをしてしまいました。
私と同年輩の友人知人に、最近あまりにも脳梗塞が多く、中に亡くなったのも何人かあり、軽いのは娘さんに山岳用のストックを買ってもらって、二本杖をつきながら毎日歩くことに励んでいるのもいます。が、あまり病人が多いので気になって、病院で云って頭のMRIを撮ってもらいました。その結果を先週聞きました。「先生、血管切れたり詰まったりしてませんか」「大丈夫です」「脳ミソの隙間が空いてませんか」「ぎっしり詰まっています」「それなら、かしこいわけですね」「詰まっているのとかしこいのとは、関係ありません」
もうろうとして雑書を読みちらしているうちに、これは過去何度も目にしたに違いない、しかしその時なぜかハッと気をひかれるものがあって、メモをしておいた詩句があります。
あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川
むろん、よくご承知の、高村光太郎『智恵子抄』の中から「樹下の二人」の一節です。
お気づきかもしれませんが、このとき私が脳裡に無意識に並べていたのは
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
……
いかな日にみねに灰の煙の立ち初[そ]めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは
何が云えるのでしょう。もう〈論〉には疲れ、今の私にふさわしい語はせいぜい〈想〉ぐらいのものか。
元気を出してまた書いて行きたいと思います。
京都は35℃を越えたとか、言っています。ささやかな地異!
捨てられた下女
1.
Morgen さんの前回の Mägdelein の投稿を拝見して、ハッと何かに触れられたような気がし、その無意志的記憶の糸の端を引っ張ると、まるでプルーストが全コンブレーを引きずり上げたように、いろんなものがずるずるとついて上がって来ました。
もう十年以上も前、私は「伊東静雄と柳田国男――桶谷秀昭の所論をめぐって――」という論考を書きかけたのですが、「めぐる」だけで、まとまりがつかず、とうとう放棄してしまった、苦い記憶があります。
私がとりあげたのは、桶谷秀昭「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」でした(初出「ポリタイア」1986.12、のち思潮社『現代詩読本10』、桶谷秀昭『土着と情況』に収める)。ここに氏は伊東の「薪の明り 散文詩」を引いて、その所論の足掛かりの一つとしているのですが、この桶谷論文の所在を報告すれば、ひとまず私の役割は果たしたことになります。
2.
伊東はなぜか「誰の作か忘れたが「捨てられた下女」と題するドイツの詩」というふうに紹介して、メーリケの名を出していません。しかし伊東がメーリケの名を忘れるはずはなく、これは文飾であろうと思います。 Mägdelein はやはり「召使いの若い娘」「下女」におちつくものと私は思います。単なる「少女」は採りません。朝早くかまどに火をたきつけるのは彼女の「仕事」なのです(Muß ... stehen; Muß ... zünden)。それより訳は最後の行がむつかしいですね。
メーリケの詩には何十人もの人が曲をつけているそうですが、私はネットで探して Hugo Wolf 作曲のものを何人かのソプラノ歌手で聴きました。ヴォルフの曲想は、なんだか重く、沈鬱で、あまりピンと来ませんでした。
3.
伊東は一応、「それは男に捨てられた下女の悲しみをあわれんだ詩でる」と云って、この詩を紹介しているのですが、しかし彼が伝えたかったのはそれよりも、子供の頃朝早く目を覚ましたときにかまどの明りの中に見た御飯をたいている母や姉の姿、戦後の疎開地で「暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女」の姿の「あわれ」ということでした。
4.
桶谷は、これまでの自分の「伊東静雄体験」を回想風に綴りながら、最後の結びの部分に入って、現在の自分がとりわけ惹かれるのは、『夏花』以後の「生活者伊東静雄の心性」であることを告白します。作例として「夢からさめて」「庭の蝉」「誕生日の即興歌」などが挙げられます。ここには同質の心性が流れており、それが人を惹きつけるのは、これが「自身の生の暗部にまでとどこうとするある種の自覚」であり、「この種の自覚は、たんに個人的なものから、民族の遠い体験の核にまでその触手をとどかせるような、普遍的な意味をになっている」からである、と。これが桶谷の、ひとつの結論です。
5.
さらに同質の感受性が想起させるものとして桶谷はなお、つぎのものを挙げます。
・伊東静雄の散文「今年の夏のこと」と、柳田『先祖の話』
・伊東の「薪の明り」と、柳田国男の回想的自伝『故郷七十年』の一節。
後者から引き出される共通のイメージ、〈かまどの前の女〉――
母が朝早く焚きつけているかまどの煙の匂いの記憶から柳田国男がその民俗学を発想したとすれば、伊東静雄はその記憶を詩の発想の基盤にくり込むことによって、「一種前生のおもひ」にめくるめいたのである。それは「すみ売りの重荷に」堪えた戦争末期の生活者伊東静雄の生命の原理の自覚でもあった。それは『哀歌』の詩人が「意識の暗黒部との必死の格闘」の果てに到りついた、日本民族の遠い体験への「草蔭の名無し詩人」の追想でもあった。
6.
これが桶谷の、もう一つの結論であり、しかし趣旨は前にあげたものと変わるところはない。
私は桶谷の云うことが決してわからないのではありません。けれどもまた、完全に納得しきれたのでもなく、むしろ云いたいことがいっぱいあるのです。そういう桶谷の所説を「めぐって」いるうちに、いつしか、まるでダンテの煉獄めぐりのように、深い迷路にもぐりこんでしまったような具合になりました。しかしそういうことは余談に属するので、私が迷路で見た光景のいくつかを、折を見て綴ってみようと、未練たらしく保留をつけた上で、私の「論」は「やっぱり未完」ということになるほかなかろうと思います。
「薪の明り」論
??山本様。なかなか興味深い「薪の明り」論をありがとうございました。
桶谷秀昭「ああかくて誰がために咲きつぐわれぞ」はすっかり忘れていました。
私の“Das verlassene Mägdlein”解釈は、それこそ「論」ではなくて「想」でありますので無視して下さい。私の少年時代の家(農家)は、曾祖母や戦争から帰ってきた父の弟達を含めて当時13人家族でした。広い土間の向こう側に6個くらいの大小のかまどが並んでいました。ご飯は毎朝2升位炊いていたような気がします。(そのかまどを焚く係が小学生の私だった時期がありました。私は薪の焚き方に色々興味をもって、薪割や薪の組み合わせの工夫をしたような記憶が微かにあります。) 伊東静雄や柳田国男よりも我が家の方が更に田舎だったために、「パチパチと木の燃える音を布団の中で聞く」というような悠長なことはありませんでした。(土間と寝室とは大分離れていたせいもありますが。)
伊東静雄「薪の明り」は、「ふと目ざめて、御飯をたいている母や姉の姿を、かまどの明かりの中に度々見た。」と本人が詩の中で書いている通りですが、柳田国男『先祖の話』や「日本民族の遠い体験へのの追想」などへと深められるのが、桶谷秀昭氏独特の「論」なのだろうかという気もしますが・・・。
この詩の末尾には「暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明かりの中にうずくまっている女の姿ほど、あわれなものはない。」と書かれておりますが、(『家庭と料理』昭和23年11月号)、このかまどは、山本様の『伊東静雄と大阪/京都』128頁に間取り図が載っている北余部の家の「土のカマド」のことだろうと思います。まだ明けきらぬ薄闇の中で、かまどの「薪の明り」が映し出す「(戦禍を生き抜いてきた)家族」の姿。「薪の明り」の詩文を読むと、ザッハリッヒな散文詩の中に、「自分の心の中に浸み出してくるようなその情緒(詩的直観)」を、(戦後らしい)新しい詩のことばで表現しようという意欲が、詩人の心に湧いてきたのではないでしょうか。
桶谷秀昭氏の、これは「衰退後退期」の詩だが、「(かって活躍した)一詩人の運命にかかわる」詩として・・・(歴史的存在として意味がある?)とでもいうような偏った「伊東静雄私論」は、私には理解できません。
また、この「桶谷私論」が掲載されている同じ「現代詩読本」で、菅谷規久雄氏は「わたしたちはただ、一べつして去るのみである。」と書かれていますが、自然は破壊されても、その後の伊東静雄の評価は1979年頃よりもさらに高まっているのではないでしょうか。それは、伊東静雄のように美しい詩を書ける人がその後現れていないからではないでしょうか。
*『メーリケ詩集 改訂版』メーリケ 森孝明訳・三修社版は、明日にでも配達される予定です。一読してお知らせすべきことがあればまた投稿します。
「捨てられた娘」
『メーリケ詩集』(改訂版)森孝明訳(三修社2000/6/30)が届きましたので添付してみます。ご一読ください
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001169.jpg
桶谷「ああ誰がために……」の引用
前回の投稿では、桶谷秀昭の論考「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」をとりあげ、伊東の散文詩「薪の明り」の「かまどの前の女」を媒介にして、伊東と柳田を結ぶ「日本民族の遠い体験」というキイ・コンセプトを導き出した次第を述べました。
この、〈伊東―柳田〉というリンクに関して、私には云いたいことがいくつかあるのですが、その準備としても、必要なデータをまず、少し詳しく引用しておこうと思います。(長い引用はうるさく、また当該文献をお持ちの方にはまったく無用の事柄になりますが、この点、お許しをいただきますよう。)
桶谷秀昭「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」(思潮社『現代詩読本10 伊東静雄』より)
…わたしは、『夏花』以後、たとえば「夢からさめて」にあらわれてくる生活者伊東静雄の心性に、現在とりわけ惹かれる。それは『春のいそぎ』全篇を蔽い、蝉の音に、「一種前生のおもひ」を感じ、また[……引用略、「誕生日の即興歌」]という詩にあらわれている。自身の生の暗部にまでとどこうとするある種の自覚である。この種の自覚は、単に個人的なものから、民族の遠い体験の核にまでその触手をとどかせるような普遍的な意味をになっていると考えられる。このことはすでに昭和九年の「今年の夏のこと」というすぐれたエッセイに照らしてもうなずける。ここに感得される伊東静雄の感受性は、『先祖の話』の柳田国男を想起させるものがある。その感受性は戦後に書かれた散文詩と題した「薪の明り」にも、きわめて素朴にあらわれているものである。
「暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女の姿」に、ドイツの詩「捨てられた下女」のあわれさをひきあいに出しているのだが、しかしここで伊東静雄がたぐり寄せているのは遠くなつかしい彼の感性の故郷である。暗い冬の朝のまだ暗い時刻、「ふと目ざめて、御飯を炊いている母や姉の姿を、かまどの明りの中に度々見た」記憶である。こういう記憶もまた、柳田国男の次のような文章と比較することで、ある意味を考えさせられる。
[柳田国男、引用後掲]
母が朝早く焚きつけているかまどの煙の匂いの記憶から柳田国男がその民俗学を発想したとすれば、伊東静雄はその記憶を詩の発想の基盤にくり込むことによって、「一種前生のおもひ」にめくるめいたのである。それは「すみ売りの重荷に」堪えた戦争末期の生活者伊東静雄の生命の原理の自覚でもあった。それは『哀歌』の詩人が「意識の暗黒部との必死の格闘」の果てに到りついた、日本民族の遠い体験への「草蔭の名無し詩人」の追想でもあった。「述懐」=『春のいそぎ』
右の引用で[柳田国男、引用後掲]とした部分は、柳田国男『故郷七十年』から取られたものであり、ただ桶谷は途中恥部を省略して引用しているので、その部分を直接『定本柳田国男集』別巻第三、旧版八四頁から、「中略」された部分も復元して、次に引く。
子供のころ、私は毎朝、厨の方から伝はつて来るパチパチといふ木の燃える音と、それに伴つて漂つて来る懐しい匂ひとによって目を覚ますことになつてゐた。
母が朝飯のかまどの下に、炭俵の口にあたつてゐた小枝の束を少しづつ折つては燃し附けにしてゐるのが私の枕下に伝はつたのであった。
今でも炭俵の口に、細い光澤のある小枝を曲げて輪にして當ててゐる場合が多いやうであるが、そのころ私の家などでは、わざわざ山に柴木を採ることはしないで、それをとつておいて、毎朝、用ゐてゐたわけである。じつはその木がいつたい何といふ名であるかを長らく知ることもなかつた。
ところが、たまたま後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であったことに気がついたのである。
思へば、良い匂ひの記憶がふと蘇つたことから、私の考へは遠く日本民族の問題にまで導かれていったのであった。
「ザッハリッヒな詩作」とはどういうことなのか?
山本様のご投稿の幕間をお借りして、前稿で舌足らずになっていたところを少し補充させていただきます。(これもまた舌足らずか!?)
はたして「ザッハリッヒな詩作とはどういうことなのか?」について私なりに考えてみようとしたのですが、結果的には論旨が少しずれてしまったかも知れません。
「どんな仲間にも参与しないもの、
今は言いようもなく孤独なのだ。
そこで彼は事物から学ばねばならぬし
子供のようにふたたび始めねばならぬのだ」
<リルケ『時禱集』第2部「巡礼の書」(塚越敏『リルケの文学世界』より抜粋転用)>
この詩の中で、リルケは「子供たちが注意深く善良なときには、すぐにも気付いて全き心で愛したりもする」純粋な事物(事物世界Ding‐Welt)との交渉の姿勢が大切であると言い、晩年にいたるまでこのような事物との純粋な交渉姿勢を保ち続けています。
リルケの詩作方法に影響を受けたといわれる伊東静雄も、「事物の詩」などの初期詩篇に始まり、〜昭和14年「そんなに凝視めるな」、〜戦後の「小さい手帳から」などに見られるように「ザッハリッヒな詩作」を心がけています。
しかし「わがひとに與ふる哀歌」に謡われているのは「美的に理念化された世界」であり、凝視や意識によって映し取られた世界(像世界 Bild‐Welt)であります。
一見、とてもロマンチックな詩など生まれそうもない昭和初期の現実の「日常世界」において、子供の目で見るように純粋な事物(事物世界Ding‐Welt)に対する感動を詩にするのか、凝視や意識によって映し取られた世界(像世界 Bild‐Welt)から「美的に理念化された世界」を詩にする(形而上詩)のか? 伊東静雄は、詩人としての道程においてこの双方を試みたのではないかと私は思います。
また、ロマンチックな詩など生まれそうもないほど意のままにならない当時の「日常世界」の中で、「美的に理念化された世界」を詩作のモチーフとすること自体が、伊東静雄にとっての浪漫的イロニーであったと言うこともできるのではないでしょうか。
「そんなに凝視めるな」(昭和14年)では、「手にふるる野花はそれをつみながら」、「自然は自然のままに」見て、自然(事物)から学ばねばならぬとアッピールしています。
特に、戦後になると「リルケ」「リルケ」とリルケ研究に励み、「小さい手帖から」のようにもっぱらザッハリッヒな詩ばかりを作りました。
「自分がなぜその事物に感動したのかを考える過程を詩にする」と自ら述べている伊東静雄流の新しい詩策法は、静雄詩が平凡な自然詩や叙景詩に堕すことを防ぐとともに、当時の文学青年たちに新しい方向を示す灯台の光であったのだと私は思います。(評者の個人的好みが如何であれ、単なる「歴史的な存在」と軽視したり、一瞥後無視できるようなものではなかったことはその後の伊東静雄詩評価の高まりが証明しています。)
伊東静雄の詩作をめぐる「痛き夢」が、生涯を貫ぬく通奏低音として流れる美しい響きとなって読者に感動を与えることが、その後高まった伊東静雄詩評価の理由なのではないでしょうか。
谷友幸『リルケ』(アテネ文庫、昭26.10刊)
Morgen さんの投稿に触発されて、何かリルケの本を読んでみようと書架の前に立ち、やがて引っぱり出したのが、これでした。
「アテネ文庫」。今どきこんな名前を知っている人はもうあまりいないでしょう。この文庫はどれもみな薄くて安くて(上掲書は78ページ、定価30円)、私もだいぶん持っていたのですが、いつのまにかみんな無くなってしまいました。
谷友幸先生の名前も、古いリルケイアンなら知っている、その筋ではかなり有名らしいのですが、今頃は聞きません。私はこの谷友幸先生に、2回生のときにドイツ語を習いました。こわい先生でした。たしかテキストはホーフマンスタールだったと思います(無茶ですよね)。
そんなわけでわたしにとってはなつかしい本で、それこそ一気に読了しました。(なにしろ78ページですから。)
そのうえで思うのですが、もう、自分は力が弱くなって、何か本を読んで、ハッと気を引かれる場所に遭っても、いつか強い思考の力を以て独自の思索を展開することがあるとすれば、この個所はその立脚点の一つになるだろう、と思って、傍線を引き、メモに書き写し、コピーを取って、それを残し、しかしながら「強い思考」は一向に働かず、「独自の思索」は少しも立ち上がらない、口惜しく、情けない思いばかりが残る、という具合なのです。今回も引用で埋めることになりましたが、どうかお許しください。
さてそれで、昔読んだ時も今も、やっぱり「リルケはむつかしい」。私はMorgenさんの引いておられる、塚越敏『リルケの文学世界』も持っていて、半分ぐらい読んだのですが、時祷・神・復帰・形象・親密性・鏡・運命・落ちる・伽藍・精神・たましひ・世界内面空間・純粋連関・内部/外部・物象・愛・恋をする女・死/生・天使・豹……
ザッハリッヒということについて、とくにひとつ印象深く残っているエピソードがありました。それは、別の本で読んだのかもしれません。谷さんの本から引用します。
「新詩集」は、抒情詩の領域に、未曽有の新生面を拓いた。いはゆる「物象詩」の成立である。この「物象詩」の最初の記念すべき作品たる「豹」が、詩人にとって、いかなる大きな犠牲のすえに生まれたか。読者は、パリのリルケが幾週間にもわたって欠かさずジャルダン・ド・プラントに通ひつめ、ひねもす檻のまへに立ちつくしながら、檻中の豹を熟視するに努めたことを、知ってゐるだらうか。
わかりやすいエピソードですが、しかし私たちはその意味するところを、半分も、2割も、理解できないようです。檻の中の豹をひねもす観て、凝視めて、それで豹という物象の本質のようなものが見えてくるのか、そうして見えたものを詩作すればそれはザッハリッヒな詩ということになるのか。
谷さんの主張は、仮に「物象詩」という云い方をしても、それは「リルケの詩作の発展の一段階」のようなものではなかった、ということであろうと思います。
谷さんは一応リルケの活動の時期区分のようなこともしているのですが、そのあとで、
なほ「第一詩集」「舊詩集」に集められた諸篇とか、「生活に沿うて」「プラーク物語二種」「最後のひとびと」に収められた短編小説類は、リルケを専門に研究するのでなくば、詩人の有史以前の作としてまったく無視して差支へない。
と、大胆に断定し切っています(こわい先生でした)。もしそうだとすると、私たちも「呂」や、拾遺詩篇の前半なども「有史以前」として無視してもよいのかもしれません。
「物象詩」についての谷先生の結語は、次のようです。
生の忘却と死の加齢――これが、パリ時代におけるリルケの芸術的生にほかならなかった。かくては、かれのたましひも、しだいに、その表層から冷たく石のごとく凍るばかり。かれは、石と化した内面の重みにあくまでも耐へながら、研ぎすました眼を鑿と化しつつ、観入の槌によって、一打一打、われとわがたましひを刻みながら、物の象を彫りおこす。「物象詩」は、すべて、かくのごとくにして、成立したのであった。
本書のいちばん最後に、次のようなフレーズを含む詩句が引かれます。
……
もはや 眼の仕事は終つた
心の仕事にかかるがよい
……
わかりやすい、と思ってはいけない。谷先生によると、ここには
「すべて宗教的なるものは、詩的である」との深遠な使命に生きた純粋孤独の聖なる詩人ヘルダーリンに嚮導されつつ、急角度の転向を行って、芸術による芸術の克服の道に進む
リルケがゐる、という。
……私に「リルケを読む」ということが果して可能なのだろうか。――
(書架にもう一冊、谷友幸『リルケ』(新潮社、昭25.8刊、328ページ)があるのですが、これには全然手をつけていません。)
R.M.Rilke “Der Panther”
おはようございます。
会社で、仕事の合間にチラチラとこの掲示板を覗き見しています。
確かに、山本様がお書きになっているように、リルケの事物詩(物象詩)は新詩集のDer Panther(1902年)から始まるといわれています。そこで、高温多湿の梅雨どきの鬱を吹き飛ばすために、手元にある岩波文庫『ドイツ名詩選』がらドイツ語原文だけを投稿してみたら如何かなと思い、書き写してみました。(皆様名訳にご挑戦あれ!)
伊東静雄にも幾つか「動物園にて」の詩があります。リルケの影響でしょうか?
(私の理解)<(私の一生は)大阪という狭い社会に安住して、「都会自体の運行に身を任せながら、小さい輪を描くように空回りをしていた」(秋田静男「リルケにおける檻の世界」)に過ぎないのではないか。、外の世界を見ようとしないまま、やがては生涯を終えようとしている―これが私の生きたder Stäbeであり、既成概念や偏見で作られた自分の「像世界Bild‐Welt」しか見てこなかったのかもしれません。ときたま「事物世界Ding‐Welt」を垣間見ても、神経がピクリと動き、心臓がドキリとして、それで終わり。―まるでリルケに見透かされているような人生ではないか。そんな感想を抱きながら、私はDer Pantherを読みました。>
*大都会パリの重苦しさ、パリ住人の苦悩に、リルケは「パリは辛い、辛い、不安な都会です。」(1902年末書簡)と、1903年にはパリを飛び出します。(イタリア、ドイツへ)
伊東静雄の「ザッハリッヒな事物の詩(論)」について一定の理解をしておきたいと投稿を始めてはみたものの、 私の能力では、『ロダン論』〜『芸術書簡』などのリルケの芸術論全体(初期〜1902年〜後期で変化あり)を俯瞰して述べることはできませんので、?事物の詩(論)"と関わりの有りそうなところだけを拾い読みをしているのですが、考えがまとまるまでもう少し時間を頂きます。
Der Panther
Im Jardin des Plantes,Paris
R.M.Rilke
Sein Blick ist vom Vorübergehn der Stäbe
so müd geworden, daß er nichts mehr hält.
Ihm ist, als ob es tausend Stäbe gäbe
und hinter tausend Stäben keine Welt.
Der weiche Gang geschmeidig starker Schritte,
der sich im allerkleinsten Kreise dreht,
ist wie ein Tanz von Kraft um eine Mitte,
in der betäubt ein großer Wille steht.
Nur manchmal schiebt der Vorhang der Pupille
sich lautlos auf -. Dann geht ein Bild hinein,
geht durch der Glieder angespannte Stille -
und hört im Herzen auf zu sein.
<注>今から丁度100年前、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件が起こり、この事件がきっかけとなって、同7月28日第一次世界大戦が開戦し、リルケにも召集がかかりました(〜1926.10)。
R.M.Rilke “Der Panther”(2)
リルケ「新詩集」は、谷友幸先生をはじめ名だたるGermanist達が翻訳しておられます。
一般的に、「新詩集」の第一部には直喩(wie,als ob)が多く、第2部になると隠喩(メタファー)が多用されており、その比喩表現がリルケ詩を難解にしているといわれていますが、「詩とは比喩なり。」という伊東静雄の言葉は此処から発しているような感じもします。
(各訳文の詳細は出版物をご参照下さい。)先生方の訳文を比べてみると、次の2ヵ所で少し差異があるようです。
?第二節の、
ist wie ein Tanz von Kraft um eine Mitte,
in der betäubt ein großer Wille steht.
?第三節の、
geht durch der Glieder angespannte Stille ?
詩句の意味を理解する上では、WEB上に公開されている慶応大学 秋田静男先生の解説「リルケにおける“檻”の世界」が、私には説得力がありましたので、抜粋して紹介しておきます。
「ここ(第二節)には、豹の内部が描かれている。豹は力強い足取りで動いているのだが、それは檻の中でのこと。豹の足取りが描く跡といえば、ほんの小さな輪に過ぎず、歩く様子も空回りする機械の踊りのように見える。しかもその中心では豹という動物本来の大いなる意思がもはや何をなすすべもなく、ただ惚けて佇んでいるのである。」
「第三節には、豹の内部と、外の世界から入ってくるものとの関係が語られている。豹の目は、周囲の現象の移り変わりに囚われ疲れ果ててしまっているが、ふと瞳が開き外部の世界から像が入ってくる瞬間がある。その像は、全身緊張し続け神経も延び切ってしまっている豹のぴくりともしない器官の間を抜けていく。だが肝心な心臓部に於いて、それは姿を消しもはや存在しない。」
1902年8月に、(「ロダン論」執筆の依頼を受けて)リルケはパリに出た(第一次パリ時代)のでありますが、その経緯は『リルケとロダン』(ウルズラ・エムデ著 山崎義彦訳 昭林社)という本に詳しく書いてあります。
同じ本ではありませんが「パリ植物園(動物園を兼ねる)に行って自分の目でよく観察しておいで。」とロダンがリルケに言ったという証言もあるようです。
ロダンの執念に充ちた、徹底的な観察(自然の対象にますます深く観入してその実相のすべてをくまなく把握すること)、数10枚にもなるような細かいスケッチ法から、リルケは「見ること」を学んだようです。「ぼくは見ることを学んでいる。自分でもどういうことだかわからないが、すべてがいっそう深くぼくの内部へと入ってきて、いつもならとまるところで止まらない。自分でも気づかなかった内部があるらしい。すべてが今その中へと入って行く。そこで何が起こるのか、ぼくにはわからない。」と言っています。
<「事物の詩」(Dinggedicht)とは何か?>について
概念的には「気分詩」に対する詩のタイプとして 創始されたが、単純に「叙事的客観的に対象を描写する詩」ではない。「すべての中にものを見るとは、・・・人間や動物、植物などをも含めた、すべてのもつ“ものらしさ”(Dingheit)、すなわちその存在の本質を把みとることである。」
「およそものとは確固たるたるものですが、芸術事物(Kunstding)はいっそう確固たるものでなければなりません。あらゆる偶然からまぬかれ、あらゆる曖昧さから遠ざかり、時間から解き放たれ、空間にゆだねられ、そうしてこそそれは持続するもの、永遠にあづかるものとなるのです。」「詩もまた芸術事物(Kunstding)でなければならない。」として、ロダンが手仕事によって「面」を刻むように、詩を歌わねばならないとリルケは言っています。
1907年10月「セザンヌ大回顧展」を見たことによる「セザンヌ体験」が、「即物性」をさらに強化させたと言われています。大山定一さんが『セザンヌ 書簡による近代画論』「あとがき」のなかで、「この一群の手紙をまず彼(伊東静雄)に読んで欲しかったと、一種愚痴に似たつぶやきをくりかえす。」と書いておられるところにつながります。
―不安と絶望にぬりつぶされた貧しさのなかから「物たちDinge」がどんな貴重な慰めと救いであったか。不安のなかから「物」をつくるのが、芸術家の唯一つの運命である。このようなセザンヌ体験がスプリングボードとなり、「鎮魂歌」「ドイノの悲歌」「オルフォイスに献げる十四行詩」などの晩年の詩境に至り大きな飛躍をなす。(大山定一『セザンヌ 書簡による近代画論』から)
R.M.Rilke “Der Panther”(補)
「ザッハリッヒな事物詩とは ?」への言及が抜けていましたので、長文になってしまいましたが付け加えさせて頂きます。
「薪の明り」(昭和23年)の1年前には、伊東静雄はリルケ詩を逐一翻訳していたそうですが、遡って昭和14年の有名な大山宛書簡の中でも次のようにリルケのことを書いています。
「・・・私が詩を本気で書く気持ちになりましたのは、リルケの新詩集を読んでからであります。・・・『マルテの手記』を今拝見しますと、その目の正確さのために拂はれた勇猛な真の犠牲がわかる気がします。しかし写真のネガティブ云々と読者を戒めたリルケはやはり幾分悲しいと思って読みました。・・・」(昭和14年10月19日大山定一氏宛書簡)
この「写真のネガティブ云々」というのと、『マルテの手記』で、リルケは遂にマルテ・ラウリス・ブリッゲを死なせてしまうのですが、リルケが「ブリッゲの死はセザンヌの生であった。」(1908.9.8妻クララ宛書簡)と書いているのとは、内容的には対応しているように私は思います。
セザンヌの自画像について、「セザンヌの直視のこの即物性(まばたきもせぬ凝視のなかに、持続的な、本質的な真実をじっとおさめている眼だった。)がいかに偉大で、いかに潔白であるかを示すのが―ほとんど涙ぐましいほどに示すのが―自画像のセザンヌの顔だった。彼は自分の表情を少しも説明したり、芸術家らしい優越の眼で見ようとはしない。何の取柄もない平凡な人とおなじように、少しの飾りもない謙虚な客観性で、くりかえしただ自分自身を描いている。ふと鏡をのぞいた犬が“おや、ここにも一匹、犬がいる”と思いながらたっているかのように素朴な信頼と、何のごまかしもない関心と興味をよせて。」(1907.10.23書簡 大山定一訳)とリルケは述べています。
このようにセザンヌが自画像や静物画(林檎など)を描いたときのあり方をリルケは「ザッハリッヒ(無制限の即物性)」と言っているのです。
リルケの詩が、更にSachlichなDinggedichtへと純化され、「芸術事物」としての完成をめざすためには、『マルテの手記』において(リルケの分身でもある)主人公を否定し、死なせてしまわざるを得なかったのではないかと私は思います。
ご報告
6月28日午後2時から,レストラン「えげん坂」に於いて第80回例会を開催した。
出席者は9名。
上村代表から,後藤みな子氏の講演録が完成したことの報告があった。
会報は第74号。内容は次のとおり。
1 「伊東静雄の故郷」 川副 国基(元 早稲田大学名誉教授)
????教授は,伊東静雄と同郷で大村中学の同窓でした。
2 「八月の石にすがりて 伊東静雄の詩・35年目の夏」 小川和佑
??????????????????????????????????????????(毎日新聞1980年8月22日夕刊)
3 <詩を読む> 「水中花」 伊東静雄 昭和12年「日本浪漫派」8月号
4 日本浪漫派の解説
5 「水中花」 ??小川和佑氏の解説
6 詩「豊の香」 西村 泰則
7 詩「いのちを紡ぐ場所に立ち」??第24回伊東静雄賞佳作品???? 青木 由弥子
8 詩「鯉取り "まーしゃん"」?? 第24回伊東静雄賞佳作品 藤山 増昭
9 毎日新聞長崎県版はがき随筆 平成26年5月28日掲載 「すゞや」??龍田 豊秋 ?????????????????????????????????????????????????? ????????以上
7月の例会は7月26日午後2時から,諫早図書館に於いて開催の予定です。
Balthus(バルテュス)展
京都市美術館で開催されているBalthus(バルテュス)展を観てきました。
まず入ってすぐのところに掲示してある年譜(1919年〜スイス時代)を見て驚いたのは、バルテュスの母親がリルケの恋人であり、リルケは少年バルテュスを自分の子供のように可愛がったと記載されていたことでした。(3人で写した写真もありました。)
(R.M.Rilke “Der Panther”(補) を投稿したばかりで、1910年以降のことはあまり念頭にありませんでしたが、これも何かのご縁でしょうか。)
バルテュスの描画法(―変遷はしていますが)を推察すると、何回もスケッチをした上で、自分の内部に生まれる美のエッセンスを発見・純化・創造していくプロセスや、「絵の具と筆による面的な創作」方法などに、ロダンやセザンヌに通じるところがあるような気がしました。(―まったくの私的感想にすぎませんが。)
バルテュス11歳の時に描いた愛猫『ミツ』の物語の素描にリルケが寄せた序文に書かれている「喪失は、まったく内面的な第二の獲得にほかならない」という言葉が、これは前稿で少し触れた「写真のネガティブ云々」という言葉と似たところがあるようにも思いました。
前稿の記述が少し粗雑でしたので、補の補として「1915年11月日付書簡(大山定一訳)」から一部抜粋して付加しておきます。
「・・・・・僕は『マルテの手記』という小説を凹型の鋳型か写真のネガティブだと考えている。かなしみや絶望や痛ましい想念などがここでは一つ一つ深い窪みや条線をなしているのだ。しかしもしこの鋳型から本当の作品を鋳造することができるとすれば多分大変すばらしい祝福と肯定の小説ができてくるにちがいない。・・・・・」
猫は、バルテュスの生涯を通じて、メンタルな「鋳型」となって、絵のモティーフとされています。私は、セザンヌ自画像の犬を連想しました。
**『ミツ』バルテュス素描集にリルケが寄せた「序文(邦訳)」が見つかり、15日に手もとに届く予定ですので、一読後また投稿するかもしれません。
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バオバブの花
ごぶさたしております。
猛暑ですね。みなさん、お変わりありませんか。
先日の朝日新聞(京都版)に、府立植物園でバオバブの花が咲いた、と、写真入りで報じていました。記事にあるとおり、バオバブは、サン=テグジュペリの「星の王子さま」に出て来ます。偶然、私は先頃、同書を読み終えたところでした。そのフィナーレはちょっと悲しいけれども、本来は悲しい物語ではないのでしょう。星の王子さまの星はとても小さいのですが、ほかの小さな星でも、住人が怠け者で、手入れを怠ったため、バオバブの木が3本、根を張って、その3本だけでもう星の表面が一杯になってしまったことがある。その挿絵は笑えてくるにですが、花は描かれていなかった。
それで私は、バオバブの花が白いとは知りませんでした。以前府立植物園へ酔芙蓉を見に行ったことがあります。辛夷の花(伊東は辛夷の花が好きだったようですね)。泰山木(茨木のり子さんが、人に、辛夷を、泰山木と、間違えて教えた話を書いています)。少しまえまでうちの庭でずっと咲き続けていたボケの花。私はなぜか、白い花が好きなのです。「あるだけの菊投げ入れよ」。私の場合でしたら、黄い花なしでしろ花だけでいいなと思います。
――という、どうでもよい話を、掲示板の埋め草に。
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des baobabs
Le Petit Prince の挿絵です。
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暑中お見舞い申し上げます
暑中お見舞い申し上げます。皆様いかがお過ごしでしょうか。
私は、早めの夏休みをとって、今年一番の猛暑の中を、群馬〜栃木方面へ3日間行ってまいりました。
写真は、山の中に自生していた百合の花です。名前は分かりませんが、とても涼しげな花色をしていましたので添付してみます(「白鹿の子百合」?)。この写真を撮った約10分後、突然のスコールに遭って、雨具を持っていなかったためにずぶ濡れになりました。
??山路来て 夏日清涼 白鹿の子
これからが暑さも本番に入るのでしょうが、猛暑に逆らわず、逃げず、順応していきたいと思っています。
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バオバブの樹
星の王子様は子供も大人も楽しめるメルヘンとして心ある人から支持され世界的ベストセラーとなり読みつがれております。私は40年前にある人から薦められ読んだのですがそのあと本棚の片隅におかれたままでした。
最近NHK「100DE名著」にとりあげられたのを機会に大阪府大『M教授の公開講座」に参加しました。ナチに占領されたパリ、作者はパイロットとして従軍し地中海で消息を絶つ、この時代背景の中でこのメルヘン童話は作られました。ですから一筋縄ではないようです。
バオバブの樹は大きくならないうちに芽を摘むように述べられます、根を共通させた樹は何故3本なのか、フランス文学者、塚崎幹夫氏の解釈は(星の王子さまの世界}中公文庫)これは日独伊三国同盟を意味するとなっていて驚きました。そのほか氏の解説は興味深いもので一読おすすめです。メルヘンですのでいかようぬにも解釈が可能でしょうが氏は確信にせまっています。
伊東静雄の生きた時代と戦争詩の問題と合わせて考えるのも今の時期だけに有意義かと思いました。
クロモジの木――柳田国男「鳥柴考要領」
前回投稿の引用の中で、柳田国男はこう云っています。
「子供のころ、私は毎朝、厨の方から伝はつて来るパチパチといふ木の燃える音と、それに伴つて漂つて来る懐しい匂ひとによって目を覚ますことになつてゐた。」それが何の木であるか、自分は長らく知らずに来たのであるが、「たまたま後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であったことに気がついたのである。」
私はこのクロモジのことを、何も知りません。世の中が進歩して(?)今ではネットですぐに教えてくれて、それがクスノキ科に属する樹木であり、それゆえにこの科独特の芳香(樟脳のニオイですね)を持ち、また、高級な和菓子に半分皮を残したものを楊枝として使うこと、などを知ることができます。和菓子に添えられる、少し大ぶりの、皮つきの楊枝なら、知っている。また樟(楠)の葉や枝を折ったときにひろがる清冽な刺激臭は子供の頃から親しい。南国を旅すると楠にはたいていどこかで出会う。ただクロモジの木はまだ見たことがなかったのです。
柳田国男に、「鳥柴考要領」という文章があります(『定本柳田国男集』第11巻、初出は昭和26・4「神道宗教」第3号)。鳥柴というのはクロモジのことです。定本で6ページほどの短いものですが、その「要領」の「要領」を、できるだけかいつまんで、記してみます。
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1.
「鳥柴といふのは本名クロモジ、即ち楊枝に削つて用ゐる木で、古来の楊枝とちがつて是だけは皮付きの、樟科の樹の香を珍重せられるのである」
2.
京都でも鳥柴という名は行われていた。鷹匠や上流武家の間では鷹狩の獲物の鳥を人に贈るのに、樹の枝に結はえ付けて持って行く作法があった。その際もっとも普通に用いられたのがクロモジの木で、つまりは鳥を付ける柴だから鳥柴だったのである。
3.
ここから一歩進めて、人のみならず神に狩の獲物を奉る場合もやはりこの木を選んだことが考えられる。
4.
狩の獲物だけでなく、一般に神にものを供進するのに樹の枝に挿して飾り立てる風習は全国的であった。
・正月の餅花(甲賀地方では餅花にクロモジの木を使う)。
・御幣餅(山神を祭る時に神に供え、人も共食する)。
5.
樹種の選択と、木に食物を掛けて神に進ぜらるることと、問題は二つに分けて見ることが出来る。
6.
ヌサ……現今では絹布麻絲と紙だけになった。
シデ……神の御依ましの木が是ですという意味の標識。
御幣……四角い紙のまま串に挟んで祭場に立てる形が今でもある。その紙を「粗末に切りこまざいてさまざまの形に作つたことは、シデの目的には合致するかも知らぬが、ヌサとしては無意味のことだつた」
7.
樹種の選択については、折り取った時の樹の香といふものが選択の一つの要件であつたと見られる。榊。樒。
8.
「最初は恐らくはまだ色々の樟科の樹木が、神の依座として手折られてゐた時代があり、乃ち日本人が南来の種族であったことが、是からも段々と推測せられて来るのではないかと私は考へて居る」
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柳田が「遠く日本民族の問題」と云ったのは、後に『海上の道』に結実する、あの問題であったわけです。この、民族の「移動」または「起源」としての日本民族の「遠い記憶」にはしかし、伊東の「かまどの前の女」の思惟ないし情調は、直接の接点を持ちえません。(強いて接点を云えば、たとえば『妹の力』や『木綿以前の事』などのほうでしょうか。)
これにたいして桶谷がすぐ前に述べている、伊東の「今年の夏のこと」に見られる感受性は直ちに柳田の『先祖の話』を想起せしめる、という指摘は、素直に首肯できる気がします。(これに伊東の「なれとわれ」を加えることもできるでしょう。)[この稿続く]
お許しを願って
6/3にMorgenさんが“Das Verlassene Mägdlein (はした女か少女か?)”を投稿されてから、あっち行きこっち行きしながらウエブ上で交わされた「対話」が、Morgen さんの「豹、ザッハリッヒということ、リルケ」の問題提起のところで滞っています。私のほうが、7月にはやや体調悪く、読んだり書いたりが進まなかったので、はかばかしい応答ができず、申し訳ありません。
ふりかえってみると、私は、いろいろと思いつきを書き、まあ、「問題提起」をした気になって、しかし力不足のために、どれもこれも結論にまで行きつけない、そうして中途で途切れてしまっているものが、4つも5つもあるようなのです。
それらの中で、「最後まで書けばおよそこうなる」という形が、いちばん見えていそうに思えるのが、桶谷秀昭の伊東論にかかわる一件なので、ここで今のうちに書けるものを、ひとまず書き切ってしまおうと思います。勝手な言い分、どうかお許しを。
斎藤様
「バオバブの木」ご投稿ありがとうございました。私は新潮文庫の河野万里子訳と、同文庫・加藤恭子著『星の王子さまをフランス語で読む』というのを横に置いて読みました。塚崎幹夫氏の『星の王子さまの世界』中公文庫のことは知りませんでしたので、さっそく手に入れて読んでみようと思います。3本のバオバブの木が日独伊三国同盟を意味する、というのは、瞬間、爆笑ものでした。いいですねぇ。
サン・テグジュペリはほかに『夜間飛行』と『人間の土地』を読みました。堀口大学の訳がいい。『人間の土地』の冒頭に、堀辰雄にひっかけて発言したい部分があるので、また書きます。
R.M.Rilke “Der Panther”(追加)
こんばんは。
私も同じく「豹、ザッハリッヒということ、リルケ」のところで滞っています。そこで「マルテの手記」や「書簡集」、「晩年のリルケ」その他を読み直しています。
大山定一氏宛て書簡にある「生命の讃歌は、はたしてこのような生のネガティブな立ちどまりを通じてしか歌えないのでしょうか?」(「マルテの手記」読後感)という伊東静雄の疑問について、その回答はどう考えたらよいのか?―ということへの言及を、まだ投稿していませんでしたので、追加します。
R.M.リルケ「セザンヌ―書簡による近代画論」(大山定一訳)p180〜183に載っているクララ.リルケ宛て書簡(1907/10/19)に書かれている内容がその回答にあたるのではないかと思いますので、少し長くなりますが、一部分だけを抜粋して掲載します。(全文じゃないと分かり難いかも知れませんが。)
この部分は「マルテの死はセザンヌの生であった」というリルケの言葉を理解するキーワードでもあります。
・・・・・不意に(そして初めて)僕はマルテの宿命を理解した。この試練がマルテの力を凌駕したのだ。マルテは観念的にこの試練の必然性を確信する。・・・だのに、マルテは現実で、この試練に敗北してしまうのだ。・・・あたらしい行為がはじまらねばならぬとき、彼は何ひとつ行為することができぬのだ。ようやく獲得した彼の自由が彼に反逆する。そして、無抵抗のマルテは悲しい没落を味わねばならぬのだ。・・・・・
(「この試練」については、少し前に「セザンヌの長い自己犠牲−苦しいこころみに耐える「愛」の孤独で単純な生活。ほんとうの仕事も、おびただしい課題も、すべてはこの試練の後にはじまる。」と書かれているのにつながります。)
ご報告
7月20日午後1時30分から,諫早図書館に於いて,第1回の「長崎文学散歩」が開催された。
講師は,西陵高校教諭の中島恵美子さん。
伊東静雄を初めとして,芥川龍之介等長崎県ゆかりの文学者の紹介があった。
文学者の数が多いので,駆け足での講演となりました。
7月26日午後2時から,諫早図書館2階学習創作室に於いて第81回例会を開催した。
出席者は5名。
会報は第75号。内容は次のとおり。
1 「リルケ詩集 感想」 富士川 英郎(独逸文学者 東京大学名誉教授)
????「リルケの詩は理解しがたいが,なんだかありがたい感じがする。それは意味のわからないお経
をありがたがるのに少し似ているかもしれない。」とのことです。
2 「談話のかはりに」 伊東静雄
??????????????????????????????????????????(昭和7年11月 「呂」)
3 <古今和歌集アラカルト> 上村紀元
4 河内幻視行???????????????????? ????2013・12・23??産経新聞
5 <詩を読む>?? 菊を想ふ 昭和十七年の秋 伊東静雄
???????????????? 昭和16年12月1日号 日本読書新聞
6 詩「菊の花」 上村 肇
?????????????????????????????????????? 昭和18年 文芸汎論
7 毎日新聞長崎県版はがき随筆 『今年も咲いた』 平成26年7月24日掲載
龍田 豊秋
8 「美しい諫早の町の未来を思う」??鹿児島大学理学部教授 佐藤 正典
????岩波ブックレット「海をよみがえらせる 諫早湾の再生から考える」
?? ??著者の佐藤教授は,干潟の底生生物の研究者です。
??????干潟の豊穣さと浄化力に着目し,諫早湾潮受堤防締め切りの際は,締め切り反対の論陣
を張りました。
以上
8月の例会は,8月23日午後2時から,諫早図書館2階学習創作室に於いて開催の予定です。
「詩はお経の如し。」
「長崎文学散歩」スタートのご報告を興味深く読みました。
晩年の芭蕉も、次は是非行ってみたいと「夢は枯野をかけめぐりつつ」死んでしまったといわれる「長崎文学散歩」であり、きっと日本国民のほとんどが一度は憧れる旅に違いありません。(私もいつか「長崎観光大使」を委嘱されていたような気がしますが…?)
ご報告の中にある「リルケの詩は理解しがたいが,なんだかありがたい感じがする。それは意味のわからないお経をありがたがるのに少し似ているかもしれない。」と言う文章に目がとまりましたので、少し知ったかぶりめきますが書いてみます。
私も、『マルテの手記』やリルケ書簡に出てくるボードレールの「腐肉(屍体)」という詩が、一休『骸骨草紙』、蓮如『御文』、良寛『題九相図』(骸骨詩集)などに似ているような気がしていたのです。(「お経」とは言えませんが…)
これを解説すると非常に長くなってしまうし、気持が悪くなる人もあると思いますのでここでは止めときますが、ボードレールの「腐肉(屍体)」(これもここに全文を掲載するには長すぎますが)は是非一度、皆様もお読み下さるよう勧めます。
ここで書いておきたいのは、ロダンもセザンヌもボードレールの詩「腐肉」に影響を受け、セザンヌが一言一句間違えずにこの詩を暗誦したということをリルケも知り、感激していることです。日本人が、修行として「般若心経」を暗誦する姿を思い起こさせませんでしょうか。
しかし、セザンヌが感嘆したのは仏教的な無常観ではなくて、「…形象は消えてなくなるが、詩人の思い出として残り、画家は記憶をたよりに画布の上に素描を描く…」「…ああ、僕の美しい女よ!/接吻でお前を喰いつくす蛆虫に語れ、/腐敗した愛の形態と神聖な本質を/この僕が保ってきたと。」(佐藤朔訳)というようなその詩句ではないかと思います。
それはセザンヌの絵画論やリルケの詩論の基礎となった「お経にもましてありがたい」詩句であったに違いありません。リルケも、そういうことを突然悟ったというのではなくて、長い時間をかけて徐々に考えを確立していったに違いありません。その中でも特に、リルケが1907年10月7日〜22日の間毎日サロン・ドートンヌの「セザンヌ記念展覧会」に通い、しかもほぼ毎日奥さんのクララに手紙を書いていることは銘記すべきことであり、その感激度合の大きさを物語っているように思います。
暑い中、むさ苦しい話をしてすみませんでした。
「桶谷―柳田―伊東」圏の拡張
台風が四国から神戸あたりを通って行ったようです。「京都府南部」は風も雨もたいしたことはありませんでした。
今日、塚崎幹夫『星の王子さまの世界』(中公新書)が届きました(本体\1 + 郵送料)。予想通り、なかなかおもしろそうです。斎藤様、ありがとうございました。
リルケは、神品芳夫『新版リルケ研究』(小沢書店)というものを読み直しています。行き着くところ、また『マルテ』の読み直し、ということになるのかもしれません。Morgenさん、伊東の「生のネガティブな立ちどまり」云々については、以前なにか考えてだいぶん長いメモを書いたおぼえがあるのですが、出て来ません。また後日に。
松浦寿輝『折口信夫論』(ちくま学芸文庫)と格闘中。前にプルースト『失われた……』集英社版の解説にふれて、その時間論によって伊東の「河邉の歌」の「わたしに残った時間の本性!」を読み解いた、と思った話を書きましたが、オノマトペ論があって、「ザハザハ」へのヒントが得られそうです。
一日の半分は横になって、目方の軽い本に目をさらしたり、うとうとしたり、そんな毎日です。しつこく、「桶谷―柳田―伊東」の続きを書きます。
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「桶谷―柳田―伊東」圏の拡張
柳田の文章はたしかに深々としたイメージを喚起し、私たちに鮮やかな印象を与える。それゆえであろう、この部分に言及したものは桶谷だけにとどまらない。たとえば、谷川健一は柳田の幼少時の原体験としてこの話を引きつつ、「クスとはいったい日本人にとってどういうものなのか」という問題を追及していったことを述べ(『私の民俗学』)、さらに柳田には?はるかな民俗の体験は個人の感官の記憶にながくとどまるという確信?があり、クロモジの?木の放つ匂いの中に、南方から北漸した日本人の祖先の移動の記憶が籠められている?と述べている(『柳田国男の民俗学』)。後藤総一郎も柳田の文章をそっくり引用したあとで、この記憶から「やがて日本の固有信仰の問題にまで深められていった」という(『柳田国男論』 )。橋川文三も同様にそのまま引用しながら、柳田の感覚の鋭敏さと持続の能力が「その学問的発想の有力な動機をもなしていた」ことを指摘する(『柳田国男論』)。
桶谷が伊東と柳田を結んで考えたのは「ああかくて誰がために咲きつぐわれぞ」がさいしょではなかった。すでに「伊東静雄論」(『仮構の冥暗』所収)において桶谷は伊東のエッセイ「今年の夏のこと」に言及して、「おそらくこのような情感は、盆の精霊帰りという日本人のほとんど無意識のしかし一等根強い信仰、柳田国男のいう、父母や祖父母と共にした「小さい頃からの自然の体験」(『先祖の話』)を、じぶんの生の根源のものとして、いかに伊東が痛切に感じ取っていたかを示している」と述べている。また「日本浪曼派の〈回帰〉」(『近代の奈落』所収)でも同様に「今年の夏のこと」を引いて、「このエッセイに流れている情感、生活感覚は、反近代的な知識人の意識的な主張や信念ではなく、柳田国男のいう、常民の無意識の信仰の姿を思わせる」と、同じ主旨のことを述べている。しかし、さらに視野を広げて戦後の「薪の明り」から柳田の『故郷七十年』のクロモジの木のエピソードを想起したのは、「ああかくて誰がために咲きつぐわれぞ」が始めてであった。そしてこの文章から、冒頭で示したように、『詩集夏花』から『春のいそぎ』にわたって多くの詩篇を参照しつつ、そこから「日本民族の遠い体験」という、ひとつのキイ・コンセプトを引き出したのである。
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「日本民族の遠い体験」とは何か
「日本民族の遠い体験」という、ひとつのキイ・コンセプト、と云った。しかし、桶谷自身は、この語によって、果たして何を意味しようとしていたのであろうか。
どんな言い方をしてもわかる人にはわかってしまうということがあるだろう。「言語」ということばをもっとも狭く用いて、「同じ言語圏に属する人々」の間では、俗にツーといえばカー、などと云うように、極端には「云わなくとも」わかってしまうような、思想的心情的共同体が存在する。(もじって云えば、対話が「ひとつ」であるような共同体。)ところで、このこととは別に、発話者にとって自らの発話が意味するものが必ずしも常に明晰判明であるとは限らない、ということがある。
もってまわった云い方をしたが、「日本民族の遠い体験」と桶谷によって云われた、その語の指示内容は必ずしも彼自身にとって明晰判明なものではなく、むしろ、どんな言い方をしても「言葉にならぬ表現の部分」「暗黒の領域」の残る、そういうものであったのではないか、それにもかかわらず、わかる人にはちゃんとわかってしまうような、そういう圏の中で、桶谷は発言していたのではないか。私にはそう思われるのである。
実際に桶谷はじつにさまざまな云い方をしている。たとえば『土着と情況』に収められた伊東論だけでも、「古くから日本人の生活の根源に永遠のように流れている生命の原理」「暗い民族の根源」「日本人の暗い生命の原理そのもの」「日本人の生活の根源に流れる暗い生命の原理」「生活の根源にある暗い生命の原理」などの表現が見られるし、ほかの論考からも「日本の土着の精神土壌」「魂の故郷」「伝統の暗い影」「日本民衆の土着性に根ざした民衆の思想」「民族の土壌」「原始の混沌」「日本人の生命の原理としての自然」などの語を拾うことができる。さらに他の著書にも「暗い日本のこころ」「日本的な感性土壌」「土着の感性土壌」「土着の感性秩序」「原初の自然の体験」「日本人の心」「日本の心」「日本の精神の土壌」「日本人のナショナルな感性」「土着の血」「日本のアイデンティティ」「民族の遠い記憶」「?常民?の生活基盤が示唆する?日本?」などの言葉を見出すことができる。
桶谷には、日本人という個人の生の暗部は、血と土を共にするある共同的・普遍的な根源、民族という土壌に、その下半身を浸している、という認識がある。
人はそこから生命を汲み上げ、そこを魂の故郷とする。
伊東はみずからの生の暗部を手さぐりし、身を抉じ入れ、意識の暗黒部と必死に格闘したその果てに、生活者として、このことの自覚に到りついたのである、というのが、桶谷の感受である。
小林秀雄における歴史と伝統ということについて、桶谷はこう述べている(『批評の運命』)。
「歴史」は人間に外から強いる時間の暴力であり、「伝統」は強いられて人間が自分の内側に発見する自己の姿だ(……)
正確にいえば、これは昭和8年という時点で小林がのべた、「歴史はいつも否応なく伝統を壊す様に働く。個人はつねに否応なく伝統のほんたうの発見に近づくやうに成熟する」という言葉を、桶谷の読解によって言い換えたものであり、したがって部分を取り出して論ずる危険はあるが、これは「意識の暗黒部との必死な格闘」→「日本民族の遠い体験」の自覚と追憶という桶谷の描いた構図の、一つの自解としても読むことができるように思える。すなわち、伊東もまた、外部の力に強いられて、その果てに自分の内側に、日本民族の遠い体験につながるものとしての、自己の姿を発見したのである、と。
(結びにかえて)「眼の世界」と「心の世界」
1910年5月31日、『マルテの手記』がインゼル書店から出版され、同8月13日〜20日、タクシス侯爵夫人の好意でボヘミアの城(ラウチン)に滞在させて頂いたことへのお礼を述べたが次の手紙です。(1910年8月30日付、タクシス侯爵夫人宛)
・・・私はほとんど半病人といった状態でここに到着いたしました。・・・ラウチンはまさに分水嶺でした。今はすべてが、ちがったふうに流れています。・・・多分、いま私は少しばかり人間的になることを学ぶでしょう。・・・私はただ事物ばかりを主張してきました。それは片意地というものでした。一種の高慢であったとも、ああ、私は恐れるのです。・・・
この手紙には、その後の詩集『一九〇六年から一九二六年までの詩』で「眼の仕事」と「心の仕事」の対立の確認(融合)へと変化することの示唆が表れていると言われます。(「目に見えるものの変容」ヘルマン・マイヤー著 山崎義彦訳)
その後、第一次世界大戦(1914〜9)が起こり、リルケはパリの全財産を失ってミュンヘンに移り従軍します。戦争は、「堅固な物の世界の転倒、転倒する人間の精神状態」「断片や破片によって示される打ち砕かれた世界」(ピカソやクレーの絵の世界)をもたらしました。
リルケは、そのような経験を乗り越えて、「第九の悲歌」(『ドゥイノの悲歌』1922年完成、1924年出版)に詠われている甚だ平明な境地に達しています。
「第九の悲歌」
なぜ 現世の時をすごすためならば
・・・・・なぜ
人間の生を生きなければならないのか―そして 運命を避けながら
なぜ 運命に憧れるのだろう?・・・・・
・・・おそらく私たちは言うために此処にいるのだろう
家・橋・門・甕・果樹・窓と言い―
また せいぜい円柱・塔と言うために―・・・・・
・・・・・
見よ 私は生きている それは何によってだろうか? 幼な時も未来も
どちらも少なくなりはしない・・・ありあまる存在が
私の心のなかで迸っているのだ(富士川英郎訳)
ここでリルケが言おうとしているのは「家・橋・門・・・」というような、物たちの、単純素朴で原初的な姿を、(破壊から守り) 自己の内部へと救い入れ(内部化する)、それを芸術作品のうちによみがえらせること(内部的な変容)が、人間に委託されているのだということです。
第2次世界大戦が終わり、美原の田舎家に疎開した伊東静雄が(スイスのヴァレイに隠棲したリルケを想起させます・・・)、「竈とその前に蹲る女」という「単純素朴で原初的な姿」を見て、そこに自己の「内部世界」と深く共鳴し「光る」ものを感じて、それを「薪の明り」という詩に詠んだのだ考えると、そこには「リルケ後期詩集に通じる何かがある」と位置づけるのが相応しいのではないでしょうか。
私には、この詩を単純に「ザッハリッヒな散文詩ですね」という一言で片づけ、忘れ去ってもいいものだろうか?―というような疑問がわいてきます。
ご冥福を『闇屋になりそこねた哲学者』
柳田国男が「近代以後、日本が悪くなった時期が二度ある。一回目は漱石の弟子ども、即ち和辻哲郎、阿部次郎、こういう連中が、西洋思想を輸入したとき、これで日本が悪くなった。第二期は、小林秀雄、桑原武夫、などという連中が、ヴァレリー、プルースト、ジッドなどというようなものを担いで、それをもっとばかな若者どもがその後をついて歩いて、これで日本が二回目に悪うなった。」と私(桑原武夫)に言ったことがある。
これは、『現代風俗‘85』第9号(1985・10)「“老い”の価値転換」(桑原武夫)の中の一節です。*『日本文化の活性化 エセー1983−88年』(1988.11.25岩波書店)『桑原武夫―その文学と未来構想』(平成8年8月24日 杉本秀太郎編 淡交社)にも同じ文章が収載されています。
『日本文化の活性化』は、桑原氏が1988年4月10日に逝去された直後に遺著として出版されたものであり、『桑原武夫―その文学と未来構想』は、「日文研」講堂における同氏七回忌(1994.4.10)での約600人の集まりにおける新京都学派リーダーたちの講演記録が収められています。
『日本文化の活性化』の筆頭には「柳田さんと私」というエセーが載せられており、柳田さんは桑原氏を大変可愛がったことが書かれており、小林秀雄も、「批評家を止めてからは柳田国男を思索の対象として孤独な内省に徹した。」(若き日に小林秀雄に心酔された杉本秀太郎さんの言)そうです。
まるで喧嘩を売っているような柳田国男さんの冒頭の文章ですが、このような背景を知ると、桑原氏や小林氏に対する柳田さんの愛情あふれる言葉であることが分かります。
今年1月15日に、平凡社から『新京都学派―知のフロンティアに挑んだ学者たち』が出されており、京大人文研や日文研のことが詳しく書いてありますので、今読んでいます。
もし“伊東静雄が80歳位まで生きていたら、この「新京都学派」といわれる心温かき人脈が醸し出す雰囲気のなかで、作品や後継者を育みながら、穏やかな「老い」を送れただろうになあ!”というため息の様なものが出てまいります。
先日お亡くなりになったハイデガー研究者木田元氏(昭和3年生れ)も、若き日には小林秀雄に心酔され(『なにもかも小林秀雄に教わった』文春新書)たそうで、『闇屋になりそこねた哲学者』など波乱に満ちた青年時代のことなどを書いた本はとても面白く読ませていただきました。若き日には朔太郎や伊東静雄の詩なども愛読されたそうで、ジュンク堂で『詩歌遍歴』を取り寄せ中です。
木田元氏の御冥福をお祈りいたします。
木田元『詩歌遍歴』
木田元『詩歌遍歴』(平凡社新書 2002.4.22)が本日配達され、すぐ開封してみると目次の筆頭に「1 水無月の歌―芥川龍之介と伊東静雄」が載っています。
そこには、伊東静雄「水中花」が全文掲載され、次のような感想文(一部抜粋)が付されています。
・・・・・私は第一詩集『哀歌』の「詠唱」も好きだし、昭和十八年に出された第三詩集『春のいそぎ』の「夏の終」も好きだが、やはり「水中花」がいちばん好きだ。
この詩を最初に知ったのはいつ頃だろう。…昭和二十年代の前半に、北川冬彦か誰かの編んだアンソロジーで読んだような気がする。一読心惹かれた。・・・・・」
先の投稿で木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(平成20年10月刊 文春新書)について書名を紹介しましたが、その中に「小林秀雄と保田與重郎」という興味深い章があります。
木田氏は、同じ年の川村二郎氏(半年早生まれ)が保田與重郎の本26冊すべてを集めて読み耽ったのに、保田與重郎とは完全にすれ違い、「川村さんと桶谷秀昭さんとも、ほかの点では共感することの多い評論家なのに、話が保田與重郎に近づくと、まるで消える魔球のように、私には急に球筋が見えなくなる。」と述べられています。
リルケ『セザンヌ』
先にアマゾンに注文しておいたリルケ、大山定一訳『セザンヌ 書簡による近代画論』が、昨日やっと届きました。巻末に、昭和29年4月の日付のある訳者「あとがき」があって、この日付と、伊東にこれらの書簡を読ませたかった、という大山さんの嗟嘆をあわせ見て、しんみり致しました。わずか一年余。遅かったのですね。
本のカバー、『セザンヌ 書簡にもる近代画論』と、珍しい誤植があります。Morgen さんのお持ちの本でもそうなっていますか?
横臥状態で読むのはちょっと辛いけれども、ゆっこり味読しようと思っています。
木田元さんがなくなりました。ムゥ……書くことがいっぱいある。
「桶谷・柳田・伊東」の最後の部分を明日にでも投稿の予定です。
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サント・ヴィクトワール山は伊吹山と似ているか?
今晩は。
『セザンヌ 書簡による近代画論』は、私の手元にあるのは昭和29年6月15日発行ですが、「書簡による…」となっています。
リルケの書簡は非常に多くて、国文社刊『リルケ書簡集』?〜?を買ってみたのですが、まだ見つからない書簡があります。
高橋英夫さんが『藝文遊記』の中で「サント・ヴィクトワール山と伊吹山が似ている」と書いておられます。そこで、盆休みを利用して山頂まで登ってみたのですが、写真のとおりガスが濃くて山容は見えませんでした。山野草も少し盛りを過ぎていましたので、麓(醒ヶ井)の梅花藻の写真を添付します。
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https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001192_2.jpg
〈存在規定〉
桶谷は右のような個人の「民族という土壌」への強い繋縛性を、「存在規定」という言葉で言い表している。すなわち、「昭和の史論家――司馬遼太郎」(『滅びのとき昧爽のとき』)という文章の中で桶谷は、小説『花神』における村田蔵六のナショナリズムを「故郷が好き」と表現した司馬に同意して、「ナショナリズムは思想やイデオロギイではなくて、むしろ存在規定だといふ考へで、これに私は同感である」とのべている。
たしかに〈根源〉や〈土壌〉は、存在規定と言い得る一面を持つ。すでに『土着と情況』の各所にあらわれる「生命」「優性遺伝」「自然」「原始の混沌」といった言葉づかいも、「存在規定」を指示してているといってよいであろう。〈血〉や〈土〉そのものは存在であってイデオロギーではない。したがってそれは、観念の空中戦を演じるべきスジのものではない。
しかし桶谷は、たんなる事実認識や分析のためにこれを言ったのではなかった。それはあくまでも「論」のためであった。すなわち、桶谷の「情況」「冥暗」「奈落」にかかわる〈批評〉のなかでの発言である。『土着と情況』の「跋」にはつぎのようなことばがある。
……「情況」とはわたしにとって「奈落」である。奈落まで降りていかねばならぬように情況は存在している。さて、奈落というのは、現実の情況の表層から下降していって、透谷のことばを借りるなら、「冥暗のなかに勢源を握る」たたかいの場である。これを「情況」の外観とするなら、それの内観は、生の総体の根源にむかうことであり、「意識の暗黒部との格闘」(伊東静雄)にほかならない。
「暗い土壌」がすなわち「奈落」だというのではない。そうではなく、近代と、暗い土壌とのせめぎあいの淵から出ることができない、その淵の暗さが「奈落」なのである。「近代」はこの「奈落」「冥暗」とぶつかり、きしみ合うことがなければならない。それのないものが近代主義である――これが桶谷の〈批評〉である。
だが、この文脈で言われる場合、桶谷は時につぎのような激語を発することがある。たとえば、太宰治論のなかで北村透谷に言及した一節(『仮構の冥暗』)、
北村透谷が大きくよろめいたのも、「姉と妹」なる寓話の中の、クリスチャン・モラリティ、インディヴィデュアリズム、デモクラシイといった西洋思想を象徴する姉と、祖先伝来の貧しい農村に育ち、顔色あおざめたりといえど、毛髪一本にまで土着の血を恃む東洋の「妹」に象徴される思想との、激突の只中においてだった。
ここでははっきりと、二つの思想の激突、と言われている。
私が言いたいのは、イデオロギイと存在規定とは截然と分けることはできない、ということである。そればかりか、存在規定は無雑作にイデオロギーに連結することができる。とくに、存在規定が〈価値〉と結びつく場合にはそうである(あまりにも卑近な例であるが、「アーリア民族の血」という存在規定が「優秀さ」という価値と結びついた場合のように。また「美しい日本の私」のように。)『浪漫的滑走』のなかで桶谷は、昭和17年におこなわれた座談会「心の米英を撃滅せよ」から、つぎのような場面を引いている。
保田 ……現代の思想でいひますと、土と血ですね。僕は日本人の立場としては土と血の外にもう一つあると思ふんです。歴史とか伝統があるんです。代々万世一系に神の血統を伝へてをらるヽといふ、この思想は土と血の思想からは出て来ない。……大日本は神国であるといふ論理の面が出て来ないんです。国際関係とか人間の生存的な条件とか、いろいろなものを集めて、結局、日本は神国でなければならん、天皇は神でなければならんといふわけです。哲学の本なんかは、みんな「ねばならぬ」です。僕はこの「ねばならぬ」と書いてあるのを無視する。……ゾルレンではないんです。
出席者の一人(高瀬)は、「私は大日本は神国なりといふ事実は、日本民族生命の存在的な姿なんだと思ふね。「ねばならぬ」ぢゃない。天皇陛下万歳を抱いて生き継いでゐるもの、それが日本人なんだ」と発言して、これに追随している。保田の主張を現在のトポスで表現すれば、「大日本は神国である」というのは存在規定である、ゾルレンではなくザインである、ということになろう。イデオロギーならば、選びとることができ、争うことができる。しかし存在規定であれば、それは拒むことができない。有無を言わせない。保田は、万世一系という歴史・伝統は、土と血の思想からは出て来ない、といっているけれども、保田や日本浪曼派の思想の総体から見れば、「万世一系・日本神国」が「土と血」と全く無関係だと言い張るのは無理であるし、このふたつは自然に連接していたと見ることに、異論のさしはさみようがないであろう。
万世一系・日本神国の当否がここでの問題ではない。保田流にいえば、それは存在規定であるのだから、当否の判断はそもそも受け付けられぬことになろう。今筆者が仮にここでその当否を言ったとしても、保田はこれを「無視する」はずである。まさしく「言挙げしない」のである。だがそれにもかかわらず、私にはなお「万世一系・日本神国」はイデオロギーである、と言う権利があるであろう。
存在規定云々は、相対主義にたいする苛立ちから来る。イデオロギーというものは、本来相対論的であることを免れない。異なったイデオロギーの存在を想定しないようなイデオロギーというものは考えられない。そして、自分がひとつのイデオロギーに立つとき、相手と自分のいずれが正しいかを決定する「アルキメデスの点」は、イデオロギー自体のなかには存在しない。この苛立ちを解消するためには、イデオロギーの外に「アルキメデスの点」を設定するほかない。しかしその「点」は、ドクサにほかならない。対立するイデオロギーの双方を宙吊りにして自らはその外部の不動不可謬の場所に立つというこのあり方は、イロニイと同じ構造をもつ。この意味で「存在規定」論はひとつのイロニイとも云いうる。
存在規定云々は要するに、断定のためのレトリックである。愛国心は存在規定であるという、小林秀雄のつぎのような断定は、それがレトリックであることを見事に明かしている。(これを「恫喝」といっては、さすがに言い過ぎであろうが。)
「疑わしいものは一切を疑ってみよ……性慾の様に疑えない君のエゴティズム即ち愛国心というものが見えるだろう。」(「神風といふ言葉について」)
ユダヤ人であることはユダヤ人にとって思想やイデオロギーではなく存在規定である――こう、言ってみたとき、それはたしかに真実を含むが、たとえばカフカにとって、それは何ら問題の解決や矛盾の止揚ではなく、出発点にすぎなかった。
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長々と述べてきて、はたと道を失ったまま、私の書きかけの試論はここで切れてしまいます。このあと私はもう一度、桶谷の伊東論(6篇を数える)を、年代を追って跡付けようとしたのですが、もうこの場では無用でしょう。まっすぐ進めば、いずれは「日本浪曼派論」に真正面から取り組まねばならず、それはあきらかに力量不足です。
これまでの経緯からは、立原の「日本回帰」?が、また別の面ではハイデガーの「対話」が、この問題にかかわりますが、直接に、というわけではありません。長大な紙面を占領したことをお詫びして、私のこの件についての投稿をこれで終わりにします。
クロモジ
新聞に「クロモジ」の、こんな記事がありました。
『セザンヌ』私の版は昭和29年4月です。初版で誤植、気づいて2版で刷り直した、というところか。
伊吹山は私も大好きな山です。彦根、米原、長浜方面へ行くときはいつも、見るのがたのしみです。孫の命名を頼まれたとき、「伊吹」を考えたのですが(伊吹=息吹)、ブの音がきたない気がしてやめました。登山までされたとは、すごいですね。
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「あげまきのうた」
古書店で見ていたら、高田敏子編『わが詩わが心』(1)(2)という詩集の中に「あげまきのうた」という珍しい詩がありました。思わず買ってしまいましたので、コピーして紹介します。(少し見にくくなってしまいました。)
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『セザンヌ』訂正
8/22 に投稿した記事で、『セザンヌ』の私の所蔵本の刊行年月を昭和29年4月としたのは、私の勘違いで、奥付では昭和29年6月15日と、Morgen さんと同じです。すると、表紙カバーだけ誤植あり/なし、の2種類あり、おそらく途中で誤植に気付いて刷り直したが何かの手違いで或る部数、誤植ありのカバー付きの本が市場に出てしまったのでしょうね。言い古された「校正恐るべし」、扉とか、目次とか、奥付とか、柱とか、表紙とか、思わぬ個所でとんでもない誤植を見逃すことがままあります。コワイデスネェ……
ご報告
8月23日午後2時から,図書館2階学習創作室に於いて第82回例会を開催した。
出席者は7名。
会報は第76号。内容は次のとおり。
1 「伊東静雄賞」の重みを内包して 谷本 益雄(第24回伊東静雄賞 受賞者)
谷本さんが最初に詩として意識し,詩に向かわせたのが伊東静雄の「夏の終わり」であった。
??体の何処かに,焼けた火箸をあてがう気構えが,今後の詩作には必要ではないかと思われています。
??????????????(2014.6 宮崎県詩の会 会報より)
2 「諫早の菜の花忌」 椎窓 猛
????「菜の花忌」と伊東静雄賞の思い出。
椎窓さんは伊東静雄賞に何度も応募され,佳作となられました。
詩 「観音」 上村 肇
????????????????????????????(平成26年7月福岡錫言社発行『紫水』から転載)
3 「つばめ」????????????????????????????????????????????????中山 直子
???????????????????????????? (第13回奨励賞受賞者)
4 「忘れ得ぬ人」(1)????????????????????????????????????????樋口 正己
?????????????????????????????????????????????????????? ??(伊東静雄研究会)
??????樋口さんが繊維卸問屋で働いた思い出です。
以上
9月の例会は,27日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて開催の予定です。
『海鳥忌』も兼ねて行います。
『ながさき文学散歩2』は,9月28日13:30から諫早図書館2階視聴覚ホールにて開催されます。演題は長崎の芥川賞・直木賞 ~作家と作品~ です。
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baobab、または『考える蜚蠊』
「朱雀の洛中日記」の中野さんが今月13日、奥本大三郎『本を枕に』のことを書いておられたので、久しぶりに奥本さんの本を読みたくなって、取り寄せて読んだ。読み終わって、なんだか前に読んだような気がする。それで家中を探しまわって奥本さんの本を集めてみると、文庫新書で7冊ほどあり、『本を枕に』もちゃんと買って、読んでいる。こういうのを本当の Double Booking というのだろう。
一冊読むと次を読みたくなる。今『考える蜚蠊』を読んでいる。その第?部(というのか第?章というのか)の扉の挿絵が、掲出した baobab です。
『考える蜚蠊』の冒頭に自分の履歴のようなことを奥本さんは書いている。
小学一年生の夏であったか、海水浴に行って水が入ったのが原因で、左の耳が中耳炎になった。私が育ったのは大阪の南部、難波と和歌山市の中点ぐらいのところにある貝塚という町だが……
奥本さんは貝塚の奥本製粉という会社の社長の御曹司である。私の家内は貝塚の子で、小・中・高と学校は貝塚の学校を出た。小学校は奥本さんと同じで、ただ年齢がだいぶん離れているので、上級生とか先輩というような直接の接触はなく、それでも家内は親しげに「奥本クン」などと云ったりする。その後私たちは結婚して貝塚に住み貝塚の学校に勤めた。だから、奥本大三郎さんは私たちのことは何もご存じないけれども、私たちのほうから見れば奥本さんは親しい人なのです。
もちろん、書かれたものが好きなのである。『ファーブル昆虫記』は未読なので、プルーストが済んだら……と、気の長いことを考えている。
しかし『考える蜚蠊』第?章の扉に、なぜ baobab の絵を持ってこられたのか、それがわからない。
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Wozu Dichter?(乏しき時代にあって、何のための詩人か?)
「夕映」
・・・・・
けふもかれらの或る者は
地蔵の足許に野の花をならべ
或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を
つついたり擦ったりして遊んでゐるのだ
めいめいの家族の目から放たれて
あそこに行はれる日日のかはいい祝祭
そしてわたしもまた
夕毎にやっと活計からのがれて
この窓べに文字をつづる
ねがわくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
・・・・・
先日お亡くなりになった木田元さんを偲んで、ハイデガーの本を再読してみようと開いたのですが、文字の表面を目で追っているだけの感じがします。
『乏しき時代の詩人』(手塚富雄 高橋英夫共訳 1950)―1930年生まれの高橋英夫さんはまだ10代の若さでこの本の下訳をされたのですね!!)
ヘルダーリーンの「Brot und Wein 」の中にある「Wozu Dichter?」をハイデガーは題名とした(論文集『森の道』に収録されている。)のですが、邦訳にあたっては『乏しき時代の詩人』という書名で出されています。巻末の解説によると、リルケ(1926年12月29日死去)の20周年記念として、ごく少人数の集まりの席でハイデガーが講演したものだそうです。(同書60頁には「今論議が集中している原子爆弾も、特殊な殺人兵器として、致命的なのではない。」というような“ドキ!”とする生々しい発言もあります。) 従って、本書の内容も主としてリルケの詩について述べたものですが、その内容を要約してこの投稿で紹介することは今はできません。(分からないところだらけで・・・)
この本を読んでいて思い出したのは(時節柄、自宅近所の地蔵盆に子供たちが群れているのを見たせいもあり。)、お馴染の静雄詩「夕映」の中の詩句です。
地蔵の足許に野の花をならべ・・・・・あそこに行はれる日日のかはいい祝祭
そうか、あのお地蔵さんは地元の人々からは「神」として拝まれているが、実は「逃走した神々の痕跡」なのか。
(庇護されている子供たちは、)その周りで遊戯をしたりするが、神なき時代の人間は庇護の外部にいる(リルケ)。逃走した神々の痕跡がいまなおあるとすれば、それは神なき人間には、ただこういう祝祭の場においてのみ(出会いの機会が)残されているのである。(乏しき時代にあって)詩人たることは、逃走した神々の痕跡を感じ、その痕跡の上に止まり、かくして自己に同類である人間のために、歌いつつ、逃走した神々の痕跡に注意する(転回への径をつけてやる。「聖なるもの」「啓示」などを探す。)人間なのである。(同書12〜14ページ)
ヘルダーリーンの「Brot und Wein 」の中にある「Wozu Dichter?」やリルケの後期詩集などには、逃走した神々や祝祭のことが書いてあります。(伊東静雄がこのように意識してこの詩を歌ったのかどうかの決め手を明示することはできませんが)これらを下敷きにして静雄詩「夕映」を再吟味してみました。夏の終わりの「夕映」に、また一味違った深い情緒が感じられるのではないでしょうか。
??「夕映」と言うにはまだ少し早すぎますが、秋の気配を帯びた巻層雲の彼方から、詩人の囁く低い声が聞こえてきそうな空模様です。
ねがわくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
・・・・・・
本を枕に
初めまして。「朱雀の洛中日記」の中野です。いつも伊東静雄を愛するみなさまの掲示板を楽しく拝読しております。先日は山本皓造先生が拙ブログに触れてくださって、驚きつつも嬉しく思いました。先生の奥さまが貝塚のご出身で、ご結婚されたあと、先生も長く貝塚に住んでおられたとのこと。奥様は奥本大三郎さんの先輩にあたられるのですね。私は奥本大三郎さんの処女作『虫の宇宙誌』(1981年)からのファンで、あの悠々迫らぬ大人の、ユーモアと気品にみちた文章が好きです。子ども時の大病は、時に人を早熟で思慮深くするようですね。一度、千駄木にあるという「ファーブル昆虫館」を訪ねてみたいものですが。
この夏、軽井沢を訪ねましたが、大渋滞にまきこまれて「油や」にも「堀辰雄文学記念館」にも寄ることができませんでした。軽井沢高原文庫には立原道造の資料もたくさんあると聞いたのですが。折に触れ『定本 伊東静雄全集』(人文書院)を開いています。静かな心持になりますね。
本を枕に
訂正です。先のコメントの中で、奥本大三郎の文章を「悠々迫らず」と書きましたが、「悠揚迫らず」の間違いです。うっかりでした。私は名うての粗忽者で、このような失敗は日常茶飯事なのです。初めてのコメントで早速失敗して汗顔のいたりであります。
『乏しき時代の詩人』
配達の遅れていた『乏しき時代の詩人』(ハイデッガー選集5、手塚富雄・高橋英夫共訳、理想社昭和33年刊)が届きました。Morgen さんの云われるように、本書は Heidegger, Holzwege のうち Wozu Dichter? だけを訳出したもの。(創文社の決定版『全集?杣径』は未見ですが Holzwege の全訳かと思います。)
巻頭の「訳者序」に、訳者がハイデガーに疑義を発して、
「ヘルダーリンはあきらかに時代にたいする愛の詩人であり、他者にたいする責任ということを、その詩作の基盤としていた。しかし、リルケにはその種の基盤があると認めうるだろうか。彼においての問題の中心は、彼一個の詩人的ありかたを通じての究極的問題の追求の意欲ではなかったか」
と問うたところ、ハイデガーはこれを肯った、とあります。
大山定一訳・リルケ『セザンヌ 書簡にみる近代画論』を読了しました。その中で、
・わたしの眼は「集団」に向けられていないのです。……どのような場合にせよ、個々の作家だけが問題だと、わたしはかたく信じるものです。(p.61)
・まれな例外をのぞいては、僕らはたがいに手と手をつなぐことはできません。(p.190)
これらはいかにも上記のリルケを証しているように感じられます。実際私は本書において、リルケの〈神〉や、ハイデガーの「乏しき時代」というような認識/問題設定よりも、「セザンヌの作品…外部…「物」」、「物体としてのレアリテ」、「今度の詩集にはこのような「物」をつくろうとする僕の本能的な第一歩がある筈だ」、「ロダンの素描」、「セザンヌの即物性」、「セザンヌの自画像…顔…「物」を見る眼」、などの言葉に注目を引かれました。
それともうひとつは、リルケの描写する、セザンヌという画家の人間像。
リルケには、「セザンヌの画もセザンヌの人物も、「存在者」として(言葉で)述べることができねばならぬ」という覚悟があったのです。
これから『乏しき時代の詩人』をゆるゆると読み進めようと思います。
『乏しき時代の詩人』 によせて
こんにちは。わざわざ『乏しき時代の詩人』や『セザンヌ 書簡にみる近代画論』を取り寄せてまで、お読み頂きまして恐縮します。季節の変わり目にあたる時節柄、疲れがたまりませんように、ご自愛下さい。
たまたま、ルー・ザロメ著作集4『リルケ』を読んでいましたら、次のようなリルケ自身の言葉が見つかりました。(1904.5.12ルー・ザロメ宛て書簡から要約抜粋)
<仕事をすることによって、(大都会パリでの)不安な状態から脱け出ようという(リルケの)考えが述べられ>。創造が詩人の神経症を抑え、詩人は創造によって苦しい症状から救われるのである。(創造的活動は治療的過程といわれている)。詩人は、創造によって生きることの意義を無意識のうちに感じるからで、少なくともこの創造活動の間は、不安な状態からまぬかれる。・・・この手紙を書くことは私にとって救いとなりました。
同書からもうひとつ興味深い箇所を抜粋してみます。(1911.12.28ルー・ザロメ宛書簡)
でもルーさん(ルー・ザロメ)、あなたにはその区別ができ、マルテが私に似ているかどうか、またどの程度まで似ているか立証できるでしょう。部分的には私の危険からつくられたマルテは……没落していったあの他人は、私をすっかり使い果たしてしまったのです。
マルテ=「没落していったあの他人」=「もう一人の私」=マルテの作者=「私をすっかり使い果たしてしまった人」とリルケは言っているのですが、『マルテの手記』の完成によって、リルケの神経症をマルテが天国へ持ち去ってくれたのだと言えるのかもしれませんね。<但し、マルテに取り残されたリルケがその後の人生において完全な精神的安定を得たとはいえない。>
序に言えば、“伊東静雄は『わが人に與ふる哀歌』の完成という創造的活動によって、わがひと(または「半身」)が、その「神経症」(または「芥川的傾向」)を持ち去ってくれたのだ(治療的過程)。”という仮設を立証してくれる学者・評論家が登場しても不思議ではないと言うと、少し言い過ぎになるでしょうか。(蛇足?)
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天声人語
ハイデガー『乏しき時代の詩人』と悪戦苦闘中です。
こういうものを長時間読み続けるとカラダに悪いので、1時間ほどで他に転ずる。従ってなかなか捗りません。
9/15朝日新聞の「天声人語」で鷲田清一『老いの空白』の中の、〈高貴なまでのしどけなさ〉という言葉が紹介されていました。
ローマの美術館のカフェでの光景だ。店の支配人は仕事を店員に任せ、ぼんやり外を見たり、壁にもたれたり、ぶらぶら歩きをしたり。その姿が実に優美だ、と▼支配人は何もしないことに慣れている。手持ちぶさたを紛らせようとはしない。お座りをしてじっと庭を眺める犬のような、妙な高貴さが漂う。他人の思惑などは眼中になく、ひとり超然とたたずんでいる
こう述べたあと、天声人語の筆者は、
▼この〈見事なまでの無為〉の境地が、私たちの老いには必要なのではないか。鷲田さんはそう問いかける。
と記しています。フーン、と、私は思いました。
この記事の2日前に私は、多木浩二『20世紀の精神』(平凡社新書)を読み了えたばかりでした。フロイト、ソシュール、エリオット、シュミット、ベケット、と来て最後の6人目に、プリモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』が取り上げられます。その中の「生きる上でのさまざまな目標は、死に対する最良の防御手段である」という言葉が引かれます。
〈高貴なまでのしどけなさ〉はある意味で、死に対する防御手段でしょう。しかしレーヴィは、自分には、死についてあれこれ考える時間はなかった、と云うのです。少し前から、再度引用します。
私には死に割く時間がなかった。私にはもっと考えることがあった。わずかなパンを見つけ、きつい仕事を避け、靴を修理し、箒を盗み、周囲の兆候や人の表情を読み解くことなどだった。生きる上でのさまざまな目標は、死に対する最良の防御手段である。
これが、アウシュヴィッツの強制収容所の中での、レーヴィの「生きる上でのさまざまな目標」でした。
「ロッホ ローモンド」
こんばんは。
「生きる上でのさまざまな目標は、死に対する最良の防御手段である。」というのは、私にとっても名言であるように思います。(”まだまだ!”と頑張らなくちゃ!)
「朱雀の洛中日記」で中野章子さんが、9月18日に運命の投票日を迎えるスコットランドの友人のことを書いておられ、興味深く読みました。
そのお話の中に、スコットランド民謡「ロッホ ローモンド」や「アニー ローリー」のことが出ています。「ロッホ ローモンド」の出だしのメロディーは「五番街のメリーへ」(都倉俊一作曲)そっくりですね。
我が家では、妻(66歳)が「ハンマー ダルシマー」という民族楽器の練習をしており、毎晩のように「ロッホ ローモンド」を演奏しています。(今も聞こえますが、すっかりミミタコ・・・)
しかし、この曲に付された歌詞やその歴史的背景を知ると、本当に悲しいスコットランドとイングランドの民族間戦争のお話しのようです。ネット上に公開されている歌詞の3番は次のようになっています。(これだけではよくは分かりませんが・・・) 9月18日の国民投票によって、両国民が納得して共存共栄できるような途が見つかるように祈るばかりです。しかし(国民の意見がこうも真っ二つに割れていては)道は厳しそうですね。(こんな悲しい歌は真っ平御免ですね。)
「ロッホ・ローモンド」(三宅忠明:訳)
・・・・・・・・・・・
―(3番から)―
小鳥が歌い、
野の花が咲いていた、
陽光の中に湖水が眠っている。
だが、傷心の心で、
来年の春を見ることは出来ない。
苦悩する身でことばも交わせない。
おお、君は高い道を行け、
ぼくは低い道を行く。
スコットランドにはぼくが先に着く;
だけど、恋人には二度と会えない、
美しい美しいロッホ・ローモンド(湖)の岸辺で。
訃報
小川和佑先生ご逝去の旨、新聞に報道がありました。
つつしんでご冥福をお祈り申し上げます。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます
小川和佑先生ご逝去のニュースをお知らせ頂き、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
お目にかかったことはありませんが、(私の手元にあるだけでも)20数冊の御著書を通じて、学恩を受けてまいりました。とりわけ伊東静雄詩を理解するうえでも、貴重なアドヴァイスを受けてまいりましたが、今後におきましても、小川和佑先生の後継者の方々によって先生のご業績が継承され、さらに深められていくことを強く期待しています。
お悔やみ申し上げます
平成16年3月 第14回伊東静雄賞贈呈式において、「伊東静雄−その詩と時代」のご講演を頂きました。詩集「春のいそぎ」収録の、戦争詩7編の評価については、見直されるべきであると熱く語っていただきました。伊東静雄研究の第一人者であられた小川先生の著作は、これからも読み継がれてゆくことでしょう。謹んでお悔やみ申し上げます。
山猫
福井県にMという私の友人がいて、そのMの知己である定道明という福井市在住の詩人・評論家が『中野重治近景』(思潮社1914年)という本を書いたので、できれば読んで感想でも送ってあげてくれないか、と云ってきました。
ご承知のように、中野重治は福井県の丸岡の出身で、Mの金津町とも近く、昨年私が寝ついたときに、中野の死の前の10年ほどの間に出した単行本数冊や『愛しき者へ』などをまとめて読んだことをMに知らせてやったところ、宇野重吉が『梨の花』を朗読したテープを送ってくれたりしたのでした。
さてそれで、私が『中野重治近景』を読み、「近景はここにおいてまさしく至近である」というような感想を書き送りますと、折り返し著者から丁寧なお礼状を添えて、ひとつ前の著書『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』(河出書房新社2001年)を贈っていただきました。また、定道明さんの最初の中野重治論である『中野重治私記』(構想社1990年)も、別途入手し、これを今読んでいます。
以上が前置きで、たいへん長くなりましたが、上記3著のうち『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』から、山猫についての中野の詩/文の一部を孫引きします。
「いつかだれかに言つて、そのときは冗談と受け取られたように見えたのだが、動物園に行くと山猫というやつがいる。全身黒いろで長い尾を持ち、檻の奥ふかく潜んで人にふれることがない。その金いろの瞳には凶逞無比の無頼漢の俤が宿つている。私が諸君の仕事に望みたいことは、紙くずをしか結果しないような藝術と藝術に関する学問との氾濫するなかにあつて、おのずからー王国をこの山猫の気魄でもつて築きあげてもらうことなのである。」(中野「不敵の面魂」)
この文章は昭和3年に発表されたのですが、この山猫が昭和5年に「山猫その他」として独立します。
「山猫めは全身まつ黒の毛に包まれて金いろの眼をしていた。彼のしつぽはからだよりも長く、いざというときには棍棒のようになるに違いない一種特別のふくらみを見せていた。僕の知るかぎり彼は、檻の奥行きの半分よりも前へは一度も出てこなかつた。いつも奥の方に坐つて、けつして人に馴れることがなかつた。僕は彼に、「ごろつき」の名を与えた。彼は僕に「ごろつき、ニヒリスト、てきや、かつぱらい、かなつぼ眼、海賊等の言葉を思い出させた。」(中野「山猫その他」)
そこで著者の定さんの云いたいのは、こういうことです。
「彼は山猫が真底好きなのであり、彼の分身が山猫なのである」
この作品を「プロレタリア文学者中野と短絡させてしまうとおかしくなる」
「「山猫その他」にしても、動物園へ行って、ひねもす山猫の習性を観察して、あらぬ想像力をたくましくしていた一人の男のダルな青春の輝きを、そのものとして損なうことがあってはならないのである」
中野の「山猫」は、リルケの「豹」に似ているなァ、という、アホらしい(すみません)感想が、この投稿の眼目です。ですが……(続く・時日未定・割り込んでください)
ご報告
『ながさき文学散歩2』が,9月28日諫早図書館にて開催されました。
演題は「長崎の芥川賞・直木賞 ~作家と作品~」。
講師は,西陵高校教諭の中島恵美子さん。
先日,交通事故に遭われ,体調不良を押しての講演でした。
中島さんが高校生の時,NHKのテレビ番組に野呂邦暢さんと共に出演した思い出を話されました。
芥川龍之介が長崎に滞在時,長崎医専に勤務していた斎藤茂吉と初めて会ったそうです。
芥川に精神科の薬を調合したのが,茂吉であったとのこと。興味深いエピソードを聞きました。
次回『ながさき文学散歩3』は,10月26日です。
演題は,「古典文学にみる長崎 ~万葉集から西鶴まで~」。
楽しみです。
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9月のご報告
いつのまにか,庭のキンモクセイが満開になっていました。
開けた窓から香りが入ってきて気づきました。
9月27日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて第83回例会及び第9回『海鳥忌』を開催した。出席者は9名。会報は第77号。内容は次のとおり。
1 伊東静雄を聴く 鈴木亨の覚書より????????????????????????青木 由弥子
??静雄は,「作品が成ると,これを大書して壁にはり,日夜これを眺めて口ずさみ,効果を確か めつつ自ら楽しんでいた」(桑原武夫)
?? 青木さんが,清里の文芸誌『ぜぴゅろす』を取り寄せて読んだ感想文です。
2 詩「風に聞いた話だけれど」 木村 淳子
(日本現代詩人会会員 詩集『風に聞いた話』所収)
ある夜,男の子は,人形やぬいぐるみの動物を乗せたそりを引っ張って森に入っていった。
もうすぐ春が来るころの満月の夜。通りすがりに,子供たちのたのしそうな笑い声が聞こえた。
通ったあとには海のように水が満ちてきて大きな波の壁が立ちはだかって・・・・。
3 詩「あげまきのうた」???? 原 子朗
(日本近代文学研究家,早稲田大学名誉教授,「河」同人,1986年『石の賦』で現代詩人賞受賞。)
4 毎日新聞長崎県版はがき随筆 平成26年9月14日掲載 「この道は」??龍田 豊秋
????出征兵士を送り出す肉親の情愛。集団的自衛権行使容認の先に見えるもの。
5??第9回 海鳥忌に寄せて 伊東静雄研究会
????上村 肇の詩業について
6 詩「上村さんの墓」 小野 裕尚
7 詩「かくれんぼ」????????????????????????????????????????????上村 肇
8??詩「朝霧」??????????????????????????????????????????????????上村 肇
9??詩「詩道」??????????????????????????????????????????????????上村 肇
10??詩「古語拾遺」?????????????????????????????????????????????? 上村 肇
?? ????????????????上村 肇最後の作品です。
??????????????????????????????????????????????????????????????????????以上
10月の例会は,25日午後2時から,諫早図書館2階創作学習室に於いて開催の予定です。
サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。
秋の京都の何とまあ美しいこと。
小川和佑先生を偲んで
先月20日に亡くなられた小川和佑先生を偲んで、ご著書の『伊東静雄論』(昭和48年五月書房刊)や『伊東静雄論考』(昭和58年叢文社刊)などを読み直してみました。
小川先生は、「終戦の日から昭和28年3月12日までの8年足らずの短い時間こそ、詩人伊東静雄にとって、もっとも濃密な文学的人生が存在していたのではないか。従来この詩人を論ずる諸説に対する、これは筆者の見解でもある。」と、『伊東静雄論考』197頁に述べておられます。このような見地から、従来やや思想偏重で述べられてきた伊東静雄研究を、書誌・文献中心にシフトされて、詳細な伊東静雄年譜を遺していただきました。その間に収集された資料や文献にはさぞ貴重な物があるのではないかと思われますので、関係者の方々によって、その整理保存や公開がなされるように希望してやみません。
極度の紙不足状態であった昭和22年〜3年頃に伊東静雄詩が発表された『座右寶』『舞踏』『詩人』『至上律』『詩学』などなどの雑誌は、古本屋で見つけたら買うように努めてきましたが、実際にはなかなか進みません。(手元にあるものの一部を表紙だけですが添付してみます)
我が国の先人たちは、もうだめだとさえ思えるような困難な状況の中でも、(早くも昭和21年頃から再興を図った日本の詩人たちのように)短い期間に立ち直り、日本再建を成功させた、その戦後復興に注がれた熱い雰囲気を「精神的文化遺産」として後世に遺すことが必要ではないでしょうか。そのためには(古書としては市場価値の低い雑誌などであっても)必要な書誌・文献をできるだけ整理保存して、情報公開することが我々の世代の責務ではないかという思いにかられます。(言うは易く、行うは難し。)
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「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」
9月の報告の中で龍田さんが「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」とお知らせいただいた通り、『サライ』10月号が本日発売され、杉本秀太郎先生が「生粋のみやこ人」が案内する秘めおきの京都紅葉名所」の案内人として登場しておられます。掲載されている杉本先生のお写真から推察するとまだまだお元気そうで、安心しました。
先生のお勧めは「鹿王院」「長楽寺」「蓮花寺」の3ヶ所です。紅葉の絶好シーズンになったら、是非訪れてみましょう。ついでに、杉本家の「秋の特別一般公開」(10月21日〜26日13時〜17時)も是非お立ち寄り下さい。
「山猫」追記
先月末の投稿で、中野重治の研究者・定道明氏とその著書を紹介し、そのうち『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』に引かれた「山猫その他」を再引しました。その後、氏の最初の評伝である『中野重治私記』を読了。ここにも「山猫」についての評言があり、こちらのほうが定氏の考えをよく表していると思いましたので、ここに引用しておきます。
「山猫」は「雨の降る品川駅」の翌年に発表された。一九三〇年のことである。この頃は既に中野は詩をぱらぱらとしか発表していず、この年には詩として発表されたものは一篇もない。
中野は、「山猫」の方向でなら、もっともっと詩が書けただろうに、と思うことが私にはある。いよいよ詩が書けなくなって来た中野が、「山猫」に詩と己れの矜持を賭けるべく、一歩も退かずに挑んだ図が浮んで来る。
それにしても、何という作品であろう。こうした作品が、これまでの日本文学の何処かにあったとは思われない。文学の階級性といい、階級的文学といいはしたけれども、そうした言い方そのものが霞のようにうつろに聞えてしまうほど、「山猫」は凄味に満ち満ちている。危険に満ち満ちているといった方がいいだろうか。とにかくこれは、中野にしてはじめて世に現れ出ることができた何かであって、単にプロレタリア文学理論の適用などといったしろものではないのである。ほかならぬこうした作品が、プロレタリア文学の名のもとに現れたということ、そのことがむしろプロレタリア文学の側にとって脅威でなければならかったほどの、これは出来事だったはずである。
実は私はそれまで、定道明氏の名を知らなかったのですが、手持ちの蔵書をめくっているうちに、すでに氏の名前が引かれているものをみつけました。『新潮日本文学アルバム 中野重治』、そのp.16-19に、中野の第四高等学校入学、室生犀星とその『愛の詩集』との出会い、詩作の開始、小説「歌のわかれ」と記述が進んで、次のように述べられます。
この犀星の詩は高等学校から大学入学にかけてのころを材にした中編小説「歌のわかれ」のなかにも記されることになる。そしてその「歌のわかれ」の頼子のモデル、薄金まさをへの「恋愛の敗北」(定道明「中野重治私記」)もあったという。
失恋の相手、薄金まさをの写真も掲載されています。(なお、同『アルバム』巻末の参考文献にも『私記』が挙げられています。)
定氏は『私記』で、中野の詩集に二度だけ出て来るふしぎな語「ぽろぽ」はこの薄金まさをの(私的・内密の)愛称であり、「中野はその生涯において、精神革命ともいうべきものを二度に亙って経験した。一つはこの彼女との別離であり、一つはいわゆる転向であった」と云います。まさをとの交渉の詳細は同書の後続の諸章で、また『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』のなかの「相生町薄金家の存在」の章で、考証されます。すでに見事な〈近景〉であると、私は思います。
なお、同人誌『驢馬』で中野、堀らがいっしょであったことは周知のことに属しますが、『しらなみ紀行』中の「雑誌『驢馬』の人たち」の章も、堀辰雄のイメージに迫る意味で、興味深く読みました。立原道造の「風立ちぬ」論への、かなりつっこんだ考察もあります。
追記のつもりで書き始め、「乏しき時代の詩人」の本題に入るつもりだったのですが、思わず長くなりましたので、そちらは(その他の話題も含めて)次の機会にまわします。
「菊の香や奈良には古き仏達」(芭蕉」)
街角から金木犀や菊の香が流れてきて、日ごとに秋の気配が深まってまいりました。
『芭蕉を読む 対談』(潁原退蔵、大山定一、西谷啓次、吉川幸次郎、湯川秀樹、・・・ 遠藤嘉基編、創拓社、1989)という本が、古本屋に有りました。
「もしや?」と直感が走り、『伊東静雄全集』昭和19年の4月21日付け日記及び同5月9日付け潁原退蔵宛書簡にある「芭蕉研究の座談会」のことではないかと思って立ち読みしたら、図星でした。(ただし、伊東静雄は参加を断っています。)
『芭蕉を読む 対談』の「あとがき」には、「京都帝大の北側(左京区北白川追分町)に、秋田屋という出版社の編集部があって、そこで、午後3時頃から9時ころまでの例会があった(複数回)。その記録が、秋田屋刊行の雑誌『学海』(昭和20年1月〜5月)に連載されている。記録の全貌は隠滅してしまったそうですが、創拓社がこれを探し出して、1989に刊行した旨が書かれています。
同書で取り上げられているのは「菊の香や奈良には古き仏達」「草臥て宿かる頃や藤の花」「白露をこほさぬ萩のうねり哉 」の3句だけです(他は見つからない)が、潁原先生のような専門学者だけでなく湯川博士ほか数人の素人を交えて自由な座談が行われております。
日々戦局が厳しくなっていく当時の慌しかったに違いない情勢の中ではありますが「さすがは京都だなあ。」と思わせるゆったりした雰囲気を感じました。(興味のある方は、「日本の古本屋」に何冊も出ています。)
Holzwege
ハイデガー『乏しき時代の詩人』を読了(選集?、手塚富雄・高橋英夫訳)。
太い筋は思ったよりもよく見えたのですが、ちょっとこまかい所になると、雲をつかむようになってしまいます。
で、やっぱり Holzwege を購入しました。日本の古本屋/天牛書店江坂店、\2000。Martin Heidegger, Holzwege, Vittorio Klostermann, Frankfurt am Main, Vierte Ausgabe 1963.
買った、といっても、すらすらと読めるわけではないので、今のところは、訳本と照合しながらジリジリと読み進めているところです。“Wozu Dichter?”は全部で50ページほどです。
ルー・ザロメ『リルケ』
『ルー・ザロメ著作集4 リルケ』(塚越敏・伊藤行夫訳、以文社)を読みました。
マルテ以後悲歌までのリルケの苦悩の時期へもっとも至近距離にまで接近して描かれた、すぐれた像のひとつであろうと思います。
とっつきで、文章の〈難解〉に躓きました。訳者も云うようにザロメの文章そのものがクセありなのでしょうが、訳文を読んでも、単語が並んでいて、しかしそういう並び方は日本語にはない。難解というよりむしろ困惑というべきか。
たとえば「豹」についての言及があるのですが、そこで云われている「物」「言葉」「感情移入」等の語のつながり方が、よく理解できないのです。
ヨーロッパによくある、某文学者と(たとえば)某々伯爵夫人との〈親交〉――精神的芸術的支援/物質的経済的生活的援助/肉体的交渉――というあり方が、日本人であるわれわれにはよくわからない、ということもあると思います(文章の難解とは別に)。
リルケはマルテを自分の身代わりとして〈没落〉させた後はマルテを離れる、と云われますが、私は見捨てられたマルテになお執着があり、もうしばらくその後について行きたい気がするのです。
リルケの宗教観については十分綿密に書き込まれていると思いました。とくに巻末に「ユダヤ人イエス」の章が付されたのはよかった。しかし、リルケの神にせよ、リルケの否定するキリスト教の神にせよ、およそ西欧的〈神〉がわれわれ日本人にあまりにも遠いのは如何ともし難く、そこを無理に何か発言するのはつらいのです。
巻末の訳者の言葉が印象的でした。
「リルケにもルー・ザロメにも神への絶対の信頼はあった。神はいつかは内部に姿を現わすであろう。しかし、まだ現れなかった。」
従ってリルケの時代は〈乏しき時代〉であるわけです。ハイデガーはリルケが時代の乏しさを明確に経験していると云い、歌びとの言葉は依然として聖の痕跡をとどめている、と云います。しかしその詩は、ヘルデルリーンの後列に位している、とも。さて、こういうランク付けがリルケにとって、痛いのか痒いのか、何ともないのか。
余計なことですが、これを書いた訳者の塚越敏さんは、本心から神がもう一度現われることを願ってこう書いたのだろうか。
『ペコロスの母の玉手箱』
岡野雄一『ペコロス』シリーズ第2弾が朝日新聞出版から発売されました。
第1弾『ペコロスの母に会いに行く』(西日本新聞社)は、2013年日本漫画家協会賞優秀賞を獲得したのをはじめ、映画化されてキネマ旬報日本映画一位(原作)に輝きました。今回第2弾の単行本として発売されたのは『ペコロスの母の玉手箱』です。
この本の製作途中でお母様のみつえさんは91歳で亡くなられたそうです。謹んでご冥福をお祈りいたします。
漫画『ペコロスの母の玉手箱』の最後のせりふ。
「母ちゃん、ゆっくりゆっくり空に降りてってくれたごたる気のする」
??私は、芥川龍之介「西方の人」に関する例の論争(「天上から地上へ登る」>「空に降りる」)や、リルケの詩に出てくる「降りくだる幸福」を、連想しました。
作者の岡野雄一さんは、「・・・亡くなっていよいよイマジネーション源であり続ける母と父に。・・・心から感謝。」と巻末に書いておられます。
ますますのご活躍を!!
・・・・・
そしてわれわれ 昇る幸福に思いをはせる
ものたちは、 ほとんど驚愕にちかい
感動をおぼえるだろう、
降りくだる幸福のあることを知るときに。
(リルケ『ドゥイノの悲歌 第十悲歌』末尾―手塚富雄訳岩波文庫83頁から引用)
<蛇足>
「降りくだる幸福」・・・「この落ちてゆくものを/限りなくやさしく/両手のなかに受けとめる」(リルケ「秋」)“神のようなもの ein Gott"(宗教性が発生する原初的な何物かの予感?)
ご報告
今朝は冷え込みました。ヒイラギの白い花が葉の間に見られ,甘い香りに陶然となります。
ツワブキの花があちこちに咲いて,庭が明るいです。
10月25日午後2時から,諫早図書館2階創作学習室に於いて第84回例会を開催した。
出席者は6名。会報は第78号。
内容は次のとおり。
1 小川和佑先生を偲んで ???????????????????????? 野崎 國弘
????9月20日に亡くなられた小川先生の著書を読み直されたとのことです。
2 当日に閉会式を迎える「長崎がんばらんば国体」に因んで,伊東静雄の詩『夏の終わり』が 紹介されました。
『・・・さようなら・・・さようなら・・・』
(長崎新聞 平成26年10月22日 第一面「水や空」欄)
3 詩「翼の伝承~ナガサキから~」???? 田中 俊廣
????B29は,金属の鳥。西彼杵半島と島原半島はその翼。野母半島はその嘴。
????鳥は,プルトニュームの狂った果実を鶴の港に落とし,一瞬にして7万人の命を奪った。
?? 「羽の純白を未来へ」 恐竜の化石が野母崎町で発見された。
4 詩「獣の臭い」?? 森永 かず子
5??詩「雀の庭」 門田 照子
?? 詩集『ロスタイム』 土曜美術社出版販売
夫を亡くした詩人が感じる夫の気配。
同じモチーフの詩には,茨城のり子の「夢」がありますね。
????こちらは,少しエロティックで,のびやかな思い。
6 伊東静雄先生の想い出 ???? 阿倍野高校第4回卒業生 樽谷 俊彦
?? 「言葉に論理的な意味(ロゴス)だけでなく大きな大きな拡がりをもたせることができるのだな と云うことを知らされた」?????? 以上
12月6日開催予定の「伊東静雄生誕フォーラム」の打ち合わせをしました。
杉本秀太郎先生の著書『見る悦び』の書評が,10月19日毎日新聞の書評欄に掲載されました。
評者は,湯川豊です。
11月の例会は,22日午後2時から開催の予定です。
訂正です
「茨城のり子」は,「茨木のり子」の誤りでした。
ホルトゥーゼン『リルケ』
H.E.ホルトゥーゼン『リルケ』(塚越敏・清水毅訳、理想社「ロロロ伝記叢書」、1981年)というものを読みました。
私はこの著者については何も知りません。しかし他書に参考文献として挙げているものもあり、それなりに著名なリルケイアンなのだろうと思います。訳者の「あとがき」には、日本では初心者のための適切な文献がない現状で、本書はその役目をよく果たしていると思う、と述べています。「著者は学者ではない。かつてはリルケに傾倒して詩を書いた詩人であり、現在は文芸もののエッセイストである。そのため、学問的には(誤りではないが)正確を欠くところがある。しかし学者の著述とはちがって、人間リルケを、詩人リルケをみようとする点では、なるほどエッセイストたる著者の力量がうかがえる。この点で、本書は、一般読者にとって好個の読み物といえるだろう。」
何ヶ所か、私の関心を惹いたところを紹介します。
(1)見ることを学ぶ;「豹」
「見ることを学ぶ」(リルケはこの課題をもってパリに赴いた)ということの基本的な意味は、世界は感受されうるのだという意識を極限まで高めることであり、……成功作である『豹』ですでに実施されているのは、たんなる「感情移入」や「直観」などではなく、むしろ自我と対象とを同一視することであり、感情を客体化することである。
ほかに、ロダン、セザンヌ、新詩集、事物詩、等々についても十分な紙数を割いて叙述されています。セザンヌ展を見ての印象的な言葉、「かつての人びとは、「ここにそれが在る」という画を描かずに、「わたしはこれを愛している」という絵を描いていた」も、『セザンヌ書簡』から引かれています。
(2)西欧的ロゴスへの反攻
プラトンからヘルダーリンにいたるまで、詩人に宿って詩人に詩を吹き込むのはひとりの「神」であり、したがって、詩人は「この神の口にほかならない」とみなされ、そう信じられてきたが……中期のリルケの心情はそうではなく、むしろ「職人的完璧性」という理想である。……セザンヌの自画像や『赤い肘掛け椅子の婦人』の、言葉による取戻し……
ルードルフ・カスナーの言葉。「美術においても、絵と本体との間に違いがないのと同様に、究極的には、ロゴスが存在してはならなかった。舌のうえで溶けず、しかも舌のうえで溶けないことを使命にするロゴスが、そこに介在してはならなかった。果実の味と違って、舌のうえで溶けてしまわないロゴスに、リルケは怒っていた。彼はそれに怒り、キリストに怒っていた。」
しかし他方においてリルケがヘルダーリンから多大の影響を受けていたことについて、別の個所で縷々のべられています。詩作品「ヘルダーリンに寄す」の存在することの教示も。
(3)ハイデガー『森の道』
後期リルケのメッセージは、対応や類似や追憶を通して、近代精神史におけるさまざまの最も重要な出来事や発展に、そして宿命に、関係しているのである。多くのものは、さかのぼってニーチェを指し示している。……また、多くのものは、ハイデッガーを先取りして示している。じつにハイデッガーもまた、彼の著作『森の道』のなかで、ただ一篇の詩に基いて、今日われわれが手にしうる最も美しい、最も意義深いリルケ解釈のひとつを提出したのである。
ただし「Wozu Dichter?」の内容自体についての分析や評釈がなく、単なる賛辞だけに終わっているのが惜しまれます。
メモ(「Wozu Dichter?」に関連して)
こんばんは。山本様がご紹介頂いたH.E.ホルトゥーゼン『リルケ』 は、手元に2冊もありましたが、中身については忘れていたのでぺらぺらとめくって再読してみました。取り敢えずその中で気づいたことを2〜3か所メモしてみます。
1、リルケがヘルダーリンに共感したのはいつからか?ヘルダーリンはいつから有名になったのか?
<同書P161〜162>1910年秋、へリングラード(ヘルダーリン研究者 22歳)と会う。1914年夏へリングラード編『ヘルダーリン』別巻本(第4巻)を入手。・・・ヘルダーリンは約1世紀の間埋もれたままで一般的には知られていなかった。第一次世界大戦頃から知られだし、第2次世界大戦ではゲッペルスの下で「ヘルダーリン協会」が設立され「憂国と救国の民族詩人」と持ち上げられた。(ヘルダーリンの与り知らぬこと)
2、リルケがヘルダーリンを歌ったもの・・・『ヘルダーリンに寄す』(1914年9月)
<ヘルダーリンはフランス革命期〜ナポレオン時代の「Wozu Dichter?」を歌った。>
3、リルケが第一次世界大戦を歌った『5つの歌』(1914年8月)
リルケは、「第1の歌」では、開戦当座(8月の最初の数日間)の高揚した「共同体の一員として」の気分を表現して、戦争の神に讃歌を捧げているが、「第4の歌」「第5の歌」では、原始時代のような野蛮な戦争に疑問を呈し、「嘆き」や「苦痛」を訴えている。
<リルケの時代は帝国主義列強間の戦争時代。「Wozu Dichter?」は「嘆き」や「苦痛」になってしまう。>
*H.E.ホルトゥーゼンやハイデガーはここら辺のことを書いていないのではないか。
1919年6月には、リルケはミュンヘンを捨てて、スイスへ旅立ち二度とドイツへは戻りませんでした。
戦争の数年間の障害を取り除きながら詩作に復帰したリルケは、1922年2月11日には、10年がかりの『ドゥイノの悲歌』を完結し、同23日には『オルフォイスへのソネット』を完成するという猛烈な集中ぶりを示しています。(同書216頁)
(私は、目下のところ、この難解なソネットと悲歌を何とか読み解こうとしているのですが、)同書224頁にある以下の文章はなかなか示唆的です。
「・・・若いマルテには到達しえなかった究極的な肯定を、ここで生が経験するのです。生と死の肯定が一つのものであることが、悲歌のなかで明らかにされているのです。」「後期リルケのメッセージは、・・・彼岸に対抗する決意」であり、生きることへの讃歌です、
“この世にあることは素晴らしい。おとめたちよ。・・・お前達がそこでひとつの存在を持ち すべてを持ち、その血管に存在がみちみちていた一刻は、お前たちの誰にも与えられていたからだ。”(「第七悲歌」富士川英郎訳)という生の歓呼の声です。このように「悲歌」は、リルケが新しい神様を見つける詩であり、生の「讃歌」でもあるということになりそうですね。
第9回 伊東静雄生誕「菜の花フォーラム」
第9回 菜の花フォーラム 開催のお知らせ
日時:平成26年12月6日(土)13:30〜
場所:諫早市立図書館 2階視聴覚ホール
内容:
1.「語り 伊東静雄と故郷」 音楽:荒田麻紀さん 語り・詩朗読:伊東静雄研究会
2.「伊東静雄とあんみつ」 長崎新聞社生活文化部次長 山下和代さん
3.「伊東静雄 未定稿詩の発見」伊東静雄研究会 上村紀元
4.「参加者皆さんによるフリートーク」
お気軽にご参加ください。申し込み不要。
問い合わせ 0957−22−0169(上村)
再び佐伯一麦
穏やかな日が続いております。
私が子供の頃は,大相撲九州場所が始まると,日ごとに寒さが募ったものでした。
庭の野菊が,ほのかな香りを醸しています。
佐伯一麦の新刊随筆集『とりどりの円を描く』が出ました。日本経済新聞出版社です。
江藤淳を追悼する「江藤さんの手紙」の章で,伊東静雄に言及しています。
"江藤さん,私は,あなたの文章によって,生活者として苦労した夏目漱石も,キャサリン・マンスフィールドも,伊東静雄の詩も,シェークスピアの戯曲も,蒙を啓かされたものでした。
それらの作品から,そしてあなたの文章から共通して伝わってきたのは,「自分を越えるなにものかがあり,現在を越える時間があるという感覚」でした。"
?? <・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・
・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・>
貝塚という文字にひかれて
久しぶりに、訪ねましたら貝塚市という地名に触れました。奥本大三郎氏の実家である奥本製粉は私にも懐かしい所です。岸和田から貝塚の工場に通っていた折、しょちゅうその前を通っておりましたから・・・。その近くに本当に良い古本屋さんもありました。私の住む泉州地域がこの様な形ででも、この掲示板の話題になることは嬉しいものですね。今は行く機会もないですが、駅前の露地にある酒屋さんの立ち飲みでは、奥本製粉さんの工員さんともよく一緒になりました。取りとめもない思いの内容ですが投稿致します。
ふたつの〈思い違い〉
大垣さん
以前、中尾次郎吉先生のことでご質問をいただいた大垣さんですね。お久しぶりです。そんなに貝塚に近しい方とは思いもよりませんでした。私は昭和37年から平成1年まで貝塚に住んでいましたので、古い街のことはとてもなつかしいです。駅前から旧26号線のほうに向かう道「駅下がり」の光景は今もありありと目に浮かびます。当時は駅はまだ高架になっていなくて、山側と海側の間は暗い細い地下道をくぐって往き来していました。昔は海だったところに今では町ができて、なんだか他処の町に来たような気がします。
以下が本題です。
今、リルケ、ハイデガーと読んでいて、私にはどうも、ふたつの〈思い違い〉があったようだ、というふうに思えて来たので、そのことを書きます。
その一は、〈乏しき時代〉についてです。ハイデガーをまだ読まず、この言葉だけを知っていた頃、(そして誰か他の文学者が「この乏しき時代に文学をやることにどんな意味があるのか」というような問いを投げかけていたのを見た記憶がある。「アウシュヴィッツの時代に詩を書く意味は……」)、私は、〈乏しき時代〉というのは、ごく近い現代、つまり戦争、全体主義、技術の独走、労働の疎外、などから想起される、ごく近い現代のことを考えていたのです。しかしハイデガーのもともとの云い方では、ヘルダーリンに従って、「一なる三者、ヘラクレス、ディオニソス、キリストが世界を去って神が不在となった時代」を指すのですね。と云いつつハイデガー自身、どうしても、たとえば“Wozu Dichter?”の中頃の、技術についての批判などで見られるように、ごく近い現代に視線が行くのは否めないようなのですが。
思い違いのその二は、『マルテの手記』を鋳物の鋳型、写真のネガティヴとして見ることについてです。この Negativ についてはいつか別稿で投稿したいと思っているのですが、これは私だけでなく一般に、「マルテ」→「悲歌」「オルフォイス」の線を、リルケの〈上昇〉〈成熟〉として見ることが、常識的にあると思われます。が、私は今、無条件にこれを肯定することに疑問を持ちます。
リルケ自身、この新しい境地へ行くのに、10余年の苦闘を要しているのです。しかもその新しい境地(「開かれた世界」「世界内面空間」「オルフォイス的世界」)が〈正しい〉かどうかは、必ずしも自明ではありません。それをあたかも自明にょうに、上昇、成熟と云うのは、安易にすぎると思うのです。
私ははじめ、鋳型、Negativ というものに、マイナスの符号、否定的な意味をつけて考えていたように思います。鋳物ができれば鋳型は壊してもよい、いや、壊さなければ鋳物は取り出せない。たしかにマルテは没落した。しかし没落したということと、それをゴミとして棄て去ることとは異なる。鋳型は鋳型として、それ自体独立した実体である。そうでないとすれば、『マルテの手記』という作品はいったい何なのか――こんなことを、グジャグジャと考えているのです。
庄野さんと須賀さん
近ごろ、松山巌『須賀敦子の方へ』(新潮社)を読んで、須賀敦子さんが庄野潤三さんの『夕べの雲』をイタリア語に訳し、その刊本を携えて多摩丘陵の生田の庄野邸を訪れたということを、はじめて知りました。その意外な結びつきに、いささか感動しています。
『夕べの雲』は1965(昭和40)年3月、講談社から刊行されました。私の持っているのは、講談社文芸文庫版で、その巻末に庄野さんが「『夕べの雲』の思い出 著者から読者へ」という文章を書いています。その最終行に、次のように記されています。
なお、「夕べの雲」は、昭和四十一年二月、第十七回読売文学賞を受賞し、同年十二月、イタリア、ミラノのフェロ出版社から翻訳刊行された。NUVOLE DI SERA。リッカ・須賀敦子訳。
私は上記の文庫版『夕べの雲』を2002年4月に読み、2007年7月に再読していて、その旨の書入れがあるのですが、当時私はまだ須賀敦子の名も文章も知らず、庄野さんの文庫版あとがきも当然目にしているはずなのですが、さしたる注意もはらわなかったのでしょう、まったく記憶に残っていませんでした。私が須賀敦子という人のことを知ったのは、関川夏央『豪雨の前兆』(文春文庫)中の一章によってでした。2009年11月のことです。一読、何か、烈しく搏たれるような感動と共鳴があり、すぐ書店に赴いて、とりあえず棚にあった『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』の3冊を購入して、次々に読んで行きました。その途中、京都の書店で河出文庫の全集8冊をみつけて、これも買い求めました。以来、私は、話のできる人ごとに、「須賀敦子はいいよ」「須賀敦子はいいね」と語るようになったのです。
須賀さんが庄野さんの『夕べの雲』を訳すようになったいきさつについては、自身の「“日本のかおり”を訳す」という文章があります(日本経済新聞1968.2.24 →『全集』第2巻)。
フェロ出版社につとめる友人との雑談の合い間に、クリスマス向けに出版するのに、なにか適当な小説はないだろうか、という話が出て、須賀さんは、
その時、約半年前の冬に読んだ小説のことを考えながら、「ある、日本の小説でよければ」と答えた。/私の読んだ小説とは庄野潤三氏の「夕べの雲」(昭和三十九年日本経済新聞連載)である。この小説は読んで以来ずっと私の頭を離れなかった。読んだ時すぐにこの本をイタリア語に訳せたら、と思った。この中には、日本の、ほんとうの一断面がある。それは写真にも、映画にも表わせない、日本のかおりのようなものであった。ほんとうであるがゆえに、日本だけでなく、世界中、どこでも理解される普遍性をもっている、と思った。…(中略)…しかし、ふだんから付き合いのある、二、三の出版社の編集部で「なにか、最近いい本はありませんか」というおきまりの質問に「夕べの雲」をもち出すと、きまって、私は説明の途中で、自信を失ってしまうのであった。語ってきかすべき筋立てというものがないのである。「丘の上に、ものを書いてくらしをたてている父親と、その妻と、三人の子供が住んでいて、秋から冬まで、いろいろな花が咲いたり、子供が梨を食べたり学校におくれそうになったりする話です」では、どうにも恰好がつかない。/…(中略)…縁があった、とでも言うのだろうか。「夕べの雲」は、フェロ社の編集長の気に入って、私は、九月半ばに、全訳を提出する契約書にサインし、七月と八月いっぱい、来る日も来る日も、この本にかかりきった。招かれた友人の山荘にまで仕事をもちこみ、夜、皆がトランプをしている間、台所で一人、辞書を片手に仕事したこともあった。/無事、期日に間にあって、十一月の半ばに本ができあがり、出版社からとどいたときは、本当にうれしかった。それまでに手がけた、どの訳本よりも、自分の仕事という気がした。/「夕べの雲」のように、純粋に日本的な作品を、どうやって訳したのですか、と私はよく、日本の友人から質問をうける。実を言うと、私自身、この問いには満足に答えられない。本能的に訳してしまったと言いたいほどなのである。にしても、日本人から見て真に価値あると思われる作品がイタリアで読まれる機会を得たことのよろこびは、なんといっても大きいのである。
『夕べの雲』への須賀さんの思いが、生き生きと伝わって来ます。「筋立て」を要約する須賀さんの筆には彼女の持ち味のユーモアがあふれていて、思わず笑ってしまいますし、「本能的に訳してしまった」などというところは、いかにも須賀さんらしい飾らぬ物言いが微笑をさそい、他方で彼女の心の内部空間が不意に目の前で開かれたようで、読む者をドギマギさせます。
しかし、須賀さんが自分で訳書を持って庄野邸を訪れたということは、自身のどの文章にも書かれていません。
須賀さんが『夕べの雲』を読んだのは、前掲の文章からみて1965〜66年の冬、訳書の刊行は同年12月。そして庄野邸訪問は、冒頭の松山さんの推定では1967年秋。実はこの1966〜67年というのは、須賀さんの一身上についても大変な年だったのでした。松山さんの記述と『全集』第8巻の年譜によって略述すると、
1966.12 『夕べの雲』伊訳本刊行
1967. 1 父、胃癌の手術
1967. 6 夫ペッピーノ死去(本名ジュゼッペ・リッカ)
1967. 8 母の危篤を知り帰国
1967. 9 祖母急死
1968. 2 日本経済新聞に「“日本のかおり”を訳す」を寄稿
1968. 4 ミラノに戻る
庄野夫人千寿子さんの談によると(松山前掲書)、須賀さんは庄野邸に3度来たといいます。その一回目に訳本を持参した。2度目のとき、前回約束したブナの木を持ってきて植えた。このブナの木は以後、庄野家では「リッカさんの木」と呼ばれることになります。
長々と書いてきましたが、私が思うのは、庄野さんと須賀さんとの対話のなかで、伊東静雄の名が出ただろうか、どうだろうか、ということです。そうして、さらに思うに、たぶん、伊東のことが話題に上ることはなかっただろう、と。須賀さんの書いたものから判断すると、須賀さんから「伊東静雄の方へ」伸びる触手というものは考えられませんし、庄野さんは問われもしないことをベラベラ喋る人ではありませんから、そう思うのです。松山さんは、「夫人の話から私が不思議な感じを抱いたのは、庄野は生来、寡黙で、リッカさんも物静かな人で、だから二人の会話はじつに静かだった、ということだ」と、書いています。
でも、もし、二人の間で、伊東のことが語られたとすれば……。二人の声が聞こえて来そうな、庄野さんの仕事部屋の写真が松山さんの本にありましたので、コピーして載せます(松山巌『須賀敦子の方へ』(新潮社)p.115より)。
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庄野さんと須賀さん 続
おはようございます。
早朝の雨は上がり,青空が広がってきました。
紅葉が一段と鮮やかになりました。
大分県中津市の作家松下竜一さんは,豆腐屋を廃業して失業者同然の生活をしていた頃,
『夕べの雲』が未知の読者から送られてきました。
"この作品には生きて在ることのなつかしさがたちのぼっている。
家族が平凡に日々を送っていることの総和的なしあわせがにじんでいる。
今日という時間をていねいに生きているがゆえのゆたかさがあふれている。...."
松下さんは,この本を読んで生きる勇気を与えられたとのことです。
私が『夕べの雲』を手に入れたのは「紀元書房」ででした。
この本が「紀元書房」にあることの意味は,もちろん直ぐに理解しました。
店主には何も言わず買い求めました。
須賀敦子さんの文章に魅了されて,ぽつぽつと読み進めているところです。
関川夏央『豪雨の前兆』は2007年に読みましたが,
須賀さんが記述されていることは全く意識にありませんでした。
河出の全集は諫早図書館に揃っています。
諫早図書館には,しっかりとした目利きがいるということですね。
素晴らしい。
「須賀敦子全集」をご紹介いただきまして
昼休みに立ち寄った紀伊国屋に河出文庫版『須賀敦子全集』第1巻、第2巻が有ったので買ってきました。
仕事の合間に、チラチラと「ミラノ 霧の風景」を見ています。そういえば、学生時代に『鉄道員』という映画を観たことを思い出します。
先日亡くなられた高倉健さんの映画『あなたへ』のなかに、「あなたにはあなたの時間が流れているから」という田中裕子さんのセリフがありましたが、「ミラノ 霧の風景」の文章から1980~90年代、50~60歳代の須賀敦子さんのなかで流れていた過去の「時間」(1958~1971年イタリアでの出来事)が「ザハザハと音を立てて」伝わってくるような感じがします。「時の遠近法の美しい構図」と、池澤夏樹さんは「解説」で述べておられますが、納得です。
*悔恨にずっと遠く
ザハザハと河は流れる
<伊東静雄「河邊の歌」の詩句。詩評論「河邊の歌を読む」(山本論文)をご参照下さい>
暇を見つけて少しずつ読んでみます。
須賀さんと松下さん
関川夏央『豪雨の前兆』を再読しました。
須賀さんは,ミラノの石畳を足早にかつかつと靴音を立てながら歩き回ったのですね。
ところで,須賀さんの夫ペッピーノは鉄道員の息子だったとのこと。
松下竜一さんは貧しい豆腐屋の生活を送っていましたが,ある日弟と喧嘩して
衝動的に家出をしました。
その6日目,北九州の木賃宿を出てもう何をすることもなく街をさまよい,
映画館に吸い込まれるように入りました。そこで観たのが『鉄道員』。
崩壊しようとしている鉄道員一家の幼い末息子が語るたどたどしいナレーション
に,松下さんはとめどなく涙を流したそうです。
「生活者の視点から」
この掲示板で何回か取り上げさせて頂いた松本健一氏が27日に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
同氏の著書『戦後の精神ーその生と死』の中で、橋川文三、保田與重郎、島尾敏雄、江藤淳に関して書かれている項目があります。同氏が、保田與重郎や「日本浪曼派」に興味を持たれた経緯などが述べられています。
島尾敏雄(185〜211頁)の項の中で次のように書かれていますので、一部を紹介します。
1、伊東静雄「春の雪」と島尾敏雄「月下の別れ」というふたつの詩は、戦争をその生活において呼吸しているということで、相似的である。
2、伊東静雄が、若い友人すべてにむかって「たっしゃでゐなさい」と静かに語りかけているところに、日本浪曼派の詩人はもはやいない。生活者伊東静雄がいるばかりだ。(「散華の美学」を歌う「日本浪曼派」から伊東静雄が決別したことを意味する。)
3、島尾敏雄もまた、戦争という政治に囲繞されつつも、それを「生活」として呼吸することによって、生活者の視点を紡ぎだした。
4、これは戦中〜戦後を通じて伊東静雄、庄野潤三、島尾敏雄の三者に共通することであり、三者が戦後いち早く生活者の視点から作品を生み出していった理由である。
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詩人 齋田昭吉氏ご逝去
詩人齋田昭吉氏がお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
同氏は、伊東静雄の教えを受けた詩人で、戦後、詩誌『舞踏』を発刊、病床にあった静雄を励ましました。
病院から 伊東静雄
齋田君が大阪に帰つてきた。私は大へん心がにぎやかになつた。私の病気も大分よくなつたので一層楽しい。『舞踏』が早速出るそうだ。そして、病臥一年、初めて仰向けになつて、この文章を鉛筆で書いてのせるわけである。齋田君を通じて友人達の作や消息を、この雑誌でみ得るのは感謝だ。 八月四日 (『舞踏』昭和二十五年八月号)
昭和二十六年、静雄の散文「水晶の観音」は、齋田氏が静雄の口述を記録したものです。
同氏の詩集『小さい灯』には、静雄が序文を寄せるなど、二人の交流は住吉中学の教師と生徒を超えた師弟の間がらでした。静雄を知る人がまたひとり、姿を消されました。心からお悔やみ申し上げます。
ご報告
寒波襲来で,昨日は近くの山にも雪が降りました。
11月22日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて第85回例会を開催した。
出席者は8名。会報は第79号。
内容は次のとおり。
1 詩「夜の海」 ???????????????????????? 中山 直子
????伊東静雄「帰路」(詩集『反響』所収)に取材
2 詩「葡萄は」??????????????????????????????????????????????????柳生 じゅん子
3 毎日新聞長崎県版はがき随筆 2014年11月13日掲載 「秋日」
??????????????????????????????????????????????????????????????龍田 豊秋
4 詩「一本のろうそく」?? 小野 十三郎
???????? ??(1952年 小野十三郎詩集)
5??わがひとに与ふる哀歌ー伊東静雄君の詩について 萩原 朔太郎
6 詩「冷たい場所で」 伊東 静雄
??????????????????????????????昭和11年1月『コギト』第44号より一部抜
7『わがひとに与ふる哀歌』に収録された短詩
????「詠唱」???? 2篇
????「読人不知」??2篇
8 長崎新聞 2014年11月18日 予告記事掲載
????「伊東静雄をしのび 諫早でフォーラム」
9 詩「眠る人」 彦坂 まり
???? 以上
前回に引き続き,12月6日開催予定の「伊東静雄生誕フォーラム」の打ち合わせ
をしました。
ご報告
6日,「第9回菜の花フォーラム」を諫早図書館で開催しました。
底冷えのする日和でしたが,師走のご多忙の中,約90名の方が参加して下さいました。
1 語り 「伊東静雄と故郷」
????平成26年3月21日から28日にかけて長崎新聞に掲載された,松尾潤記者執筆による 「伊東静雄と故郷 菜の花忌50回」をもとに構成したものです。
会員の古賀瑞江,坂本三枝子,津田緋紗子,樋口正己,龍田豊秋の5名が,荒田麻紀さん自 身が作曲したピアノ曲の伴奏に合わせ,「そんなに凝視めるな」「帰郷者」「海水浴」「わ がひとに与ふる 哀歌」「なれとわれ」「夕映」「野の夜」「曠野の歌」の詩8篇と伊東の 生涯を朗読しました。
????荒田さんがピアノ伴奏により朗読を引き立てて下さいました。
2 長崎新聞社生活文化部の山下和代次長は「伊東静雄とあんみつ」と題し講演しました。
????伊東の教え子,庄野潤三が小説「前途」に書き残したエピソードの紹介でした。
3 上村紀元会長が,今年3月に見つかった伊東静雄の未定稿の詩について解説しました。
4 本日,長崎新聞に高比良由紀記者執筆の記事と写真が掲載されました。
タイトル??「貴重な出会い 創作の源」
???????????????????????????????????????????????????????????????????????? 以上
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Wozu Dichter?――リルケ読書その後(1)
ハイデガー、Wozu Dichter? を、ようやく読み終えました。前にも書きましたように、原書(Holzwege)で50ページほど、一日2ページとしても、ひと月で読める、と計算したのですが、全然読めない日もあり、半ページしか手をつけなかった日もあり、結局、ひと月以上、かかってしまいました。それで、訳文で読んだ時よりいくらか理解が進んだかというと、まことに怪しいものです。それに、いつの間にか、リルケを脇に放念してハイデガーを読んでいる、というふうにならされてしまうのは、仕方がないようでもあり、腹立たしいようでもあります。
綿々と書き綴っても仕方がないので、以下では、トピカを(いまヴィーコを読んでいるのです)取り出して、断片的に記します。
ハイデガーはまず、ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」の一節を取り上げます。
何をなし、何をいうべきか、私は知らない、
そしてこの乏しい時代にあって、詩人は何のためにあるのか、を。
... und was zu tun indes und zu sagen,
Weiss ich nicht, und wozu Dichter in durftiger Zeit.
次にリルケを呼び出した後、ハイデガーは次のように問いを立て直します。
リルケは乏しき時代の詩人であろうか。
彼の詩作は時代の乏しさといかに関係するか。
それは深淵にどの程度深く到達しているのか。
彼がどこかある場所へ進みうるかぎり進むと仮定して、さてこの詩人はいずこへ達することができるか。(訳書 p.18-19)
これらにたいするハイデガー自身の答え、リルケとは結局「なんぼのものであったか」の答えは、論の最後にならないと出て来ません。少しずつ、進んで行こうと思います。
はじめにハイデガーは、この時代を何故に「乏しい」と云うのか、いつ、どうして、そうなったのか、乏しい時代の特徴は何か、と説き進めて行きます。
私はそれを図解してみました。今日の投稿の目玉はこの図解です。ここで気を楽にし、笑っていただければよろしいのです。また、まちがっているところがあれば、ご指摘ください。
前稿で私は「誤解」ということを云いましたが、あらためて考えてみても、まだその疑念は解けません。見方を変えて、たとえば人間を<実存>として規定すると、それは一般的な規定であって(人間すべてがそうなのだ)、時代的な限定を受けるものではないと思うのです。
もうひとつ、前回「アウシュヴィッツ」のこと書きましたが、記憶がアイマイで、正確な引用ができませんでした。あらためてここに記します。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」
(アドルノ『プリズメン』所収「文化批判と社会」、ちくま学芸文庫版 p.36)
時間的な順序を云うと、
1924. 6 リルケ「自然が生あるもろもろのものを…」詩作
1940 アウシュヴィッツ強制収容所建設〜45 解放
1945.12 ハイデガー記念講演 "Wozu Dichter?"
1949 アドルノ「文化批判と社会」執筆
つまりハイデガーの講演は「アウシュヴィッツのあと」であったわけです。ハイデガーは「原爆なんかたいしたことない」みたいな云い方をしていますが、アウシュヴィッツについては一言もふれていません。(これ以上言い募ると「ハイデガーとナチス」のような脇道に入ってしまうので、ここでは立ち入りません。
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顔の裏側とのっぺらぼうの首――リルケ読書その後(2)
拙い「図解」を載せましたので、恥のかきついでにもう一点、私のノートを見ていただきます。
『マルテの手記』のはじめのほうに、こういう所があります。(訳は大山定一、新潮文庫版、p.12)
……女は驚いて上半身を起した。あまり素早い、あまり急激な体の起しようだったので、女の顔は両手の中に残ってしまった。僕は手の中に残された鋳型のように凹んだ顔をみたのである。僕はおそろしく一所懸命になって、その手の中を見つめていた。手の中から持ちあげられた顔を見ないために、僕はひどく真剣な張りつめた気持だった。裏返しになった顔を見るのは無気味に違いないが、顔のない、のっぺらぼうな、こわれた首を見る勇気はさらになかったのだ。
顔に関して、3つのモノが指されている、と読めます。
? は、ふつうの、外側から、ひとの目で見える、顔(の表側)
? 女の手に残った、内側から見た、凹型の、顔の裏側
? ?を剥されて、顔のなくなった、のっぺらぼうの頭部
『マルテの手記』は、大山訳のほかに、
望月市恵訳、岩波文庫
堀辰雄訳、『堀辰雄作品集第五巻』筑摩書房
塚越敏訳、『リルケ全集 7』以文社
の3点を参看することができました。
? は Gesicht、「顔」もしくは「顔面」としか訳せないとして、??を対照してみます。
? seine hohle Form ... ein Gesicht von innen zu sehen
鋳型のようにへこんだ顔……裏返しになった顔(大山)
顔面のうつろな内側……手に残った顔面…の裏(望月)
うつろな形骸……顔の内部(堀)
うつろな凹型……顔を内側から見る(塚越)
?-1 was sich aus ihnen [Händen] abgerissen hatte
手の中から持ち上げられた顔(大山)
手からもぎ離された顔(望月)
その手から脱したもの(堀)
その両手からもぎ離されてしまったもの(塚越)
?-2 dem bloßen wunden Kopf ohne Gesicht
顔のない、のっぺらぼうな、こわれた首(大山)
顔面がなくなったのっぺらぼうな顔(望月)
顔をなくして、むきだしになっている首(堀)
顔のない、傷ついたのっぺらぼうの顔(塚越)
その様子を図に描いてみたものがこれです。私が「伊東Note」と称する、A6版の小さなノートをいつも持ち歩き、何か読んだり思いついたりするごとにそこに抜書きや発想をメモするようになったのは1999年のことで、この図はそのNote-5にあるもの。書き込んだ日付が、1999.9.2とあります。当時とりたててリルケと格闘していたわけではなく、ある日、どっと想念が湧いて来て、あわてて書きとめたもののようです。いろいろややこしいことを書いていますが、目を凝らしてご覧ください。「不在」とか「虚在」とか書いているのは、今では「非在」と表わすことに落着しました。あとで埴谷雄高さんに「存在と非在とのっぺらぼう」という文章があるのをみつけました。ただしこの投稿の動機は大山さんが文庫版の解説で引いている「鋳型/ネガティヴとしてのマルテ」という問題からの連想で、いずれそちらに戻ります。
?
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マルテの女の顔の現象学――リルケ読書その後(3)
ちょっと逸れますが……
マルテの女の顔についてのノートを書いてからしばらくして、鷲田清一『顔の現象学』(講談社学術文庫)というものを読みました(2000年1月読了)。『マルテの手記』から例の部分の引用があって、鷲田さんがそれにコメントをつけています。その部分だけを紹介します。
皮を剥がれた顔面は、神経が露出し、血が滴り、ぶよぶよに腫れているのだろうか、あるいは掌に張りついた顔面の薄膜、その裏返された顔は、ヴェロニカの布に写し取られたイエスの顔のように、ひらひらと揺れる蛇の抜け殻のように、やがて縮み、消えゆくのだろうか。だが、少なくとも、顔はもはやそのどちらにもない。顔はそれをそこに出現させている何分の一ミリかの被膜をめくるだけで消失してしまう。ひとが現にそこに存在している(はずである)のに、顔は不在であるという、こうした事態はなぜ不気味なのか。
ここでの著者の関心は、まず<不気味> unheimlich ということに向けられているようです(マルテは、不気味ではなくむしろ、怖かった mir graute …… ich fürchtete のですが)。
しかし、顔の「トピカ」は、ここから「仮面」に移り、さらには「ネガティヴな顔というものも存在する」と云われ(ム! 何だ?)、次のように語られるのです。
停止した顔、共振しない顔、逸脱した顔、崩れた顔……。それらは、意味の表面であり、自他の界面である以上に、まずは意味がその外部、つまりは《非意味》と接触する、その限界面を意味する。リルケのいう、掌に張りついた顔の薄膜ではないが、意味のなかに収容できない何ものかが、いわば裏向きにそこに出現するのだ。
抜書きでは何のことやらわかりませんが、なんだかおもしろそうではありませんか。
*1 私は顔というものを、「羊羹の切り口」(大森荘蔵)のような、厚みのないものとしてイメージしていました。鷲田さんは「何分の一ミリかの被膜」と云います。abgerissen といい、wunden という以上、やはり厚みがなければならないのかもしれません。俗にも「面の皮が厚い」なとと云いますから。それにしても鷲田さんの描写の生々しさは、ただごとではありません。私はつい、大阪弁(?)の「ズルムケ」という語を考えてしまいました。
しかし、鷲田さんの描く、惨憺たる、このもの、は、なおやはり顔であって、これを「のっぺらぼう」とは云わないように思うのです。私は「のっぺらぼう」というと、小泉八雲の「KWAIDAN」を思い出します。あれは、卵のようのツルンとしていたのではなかったか。
むろん「のっぺらぼう」というのは訳者諸氏が云うのであって、リルケは bloß と云っているだけです。辞書を見ると、bloß むき出しの、裸の mit bloßen Füßen 裸足で mit bloßem Kopf 無帽で、などの用例があり、できるだけ忠実にその意を汲むと、「本来あるべき顔面が掌のほうに剥ぎ取られて、顔面のなくなった、むき出しの頭部」というほどの意味でしょうか。wunden とありますが、マルテは恐ろしくてそれを見ることができなかったのです。それとも、恐ろしかったけれどもやはり見てしまったのでしょうか。
私の結論めいたものを云うと、「bloß とは、あるモノの外観の形容というよりはむしろ、本来は外被によって覆われていたモノがその外被を失ってむき出しになっているという、すなわち、本来的な外被の非在という、存在論的な様態を云う」ということになります。
他方「のっぺらぼう」のほうは、別に定義しなければならないようです。これは宿題です。
いま、リルケの『ロダン』を読んでいます。あれらの彫刻には「顔」はあるのでしょうか。あの場合にはリルケが見届けた「表面」Oberfläche がすなわち顔であると、私は思うのですが。
*2 「千と千尋の神かくし」に「カオナシ」というものが出て来ます。まさしく ohne Gesicht です。あの不気味な白いマスクは、たしか最後には剥ぎ取られたのだったと思うのですが、そのへんの記憶がまったく残っていません。誰か思い出してください。あの下には何があったのか。
?
冬本番!
山本様から“Wozu Dichter?”〜リルケ“鋳型”と、熱心なご研究の成果をご投稿いただいており、仕事の合間に読ませていただいております。リルケの心の中に深く刻まれた“鋳型”から、名作が産み出されたのだと思います。「のっぺらぽー」になってしまった方はどうなったのかも気になるところですが、リルケは「のっぺらぽー」には興味を失ったのではないでしょうか。
私のほうは、ここ1ヵ月ほど新しい仕事が増えて、趣味的な読書を殆どしていません。(2月ごろまで続きそうです。)昼休みに、古本屋には立ち寄りますが、自宅に未読の本が積み重なっています。
昨日も、「原田種夫全集」を買いましたが、当分読めそうもありません。同全集(五)の「西日本文壇史」はなかなか面白そうなので、これも仕事の合間にペラペラと頁をめくって眺めています。
明日からは本格的な寒波がやってくるそうですので、くれぐれもご自愛下さい。
第25回 伊東静雄賞
国内外から1380篇の作品が寄せられた第25回伊東静雄賞は、田中俊廣氏、高塚かずこ氏、以倉紘平氏、伊藤桂一氏の選考により下記の通り決定しました。
伊東静雄賞 該当作品なし
奨励賞 しのたまご 八重樫克羅氏 76歳 茨城県石岡市在住
同上 水の位置 いわたとしこ氏 83歳 神奈川県横浜市在住
贈呈式 平成27年3月29日(日)諫早観光ホテル道具屋
以上
冒険とは何か――リルケ読書その後(4)
Morgen さん。拙文お読みいただいてありがとうございます。Morgen さんはお達者で何よりです。労働者なんですね!
いたずらに掲示板を汚して恐縮していますが、書けるあいだに書いておきたい、と思いますので、どうかお許しください。
“Wozu Dichter?”においてハイデガーはリルケの詩作の到達点を「ドゥイノの悲歌」と「オルフォイスに寄せるソネット」の2篇に見定めつつ、ただ「悲歌とソネットの解釈の準備はわれわれにはない」だけでなく、「その権利をも持たない」(ハイデガーのあげている、その理由づけは、略す)として、そのかわりに後年のある「即興詩」die improvisierten Verse を取り上げて、若干の基本語をそこから見出し、それによって「リルケがこの乏しき時代に果たして詩人であるのか、またどの程度まで詩人であるのか」を測り、「従ってまた何のために詩人が存在するのか」を知ろうとします。取り上げられる即興詩は、1924年6月の作、無題、出所等は訳書にあるとおりです。
即興詩は次のように始まります。
自然が生あるもろもろのものを/彼らのおぼろな欲望の冒険に委ね……[るように]
Wie die Natur die Wesen überläßt /
dem Wagnis ihrer dumpfen Lust ……
[1行略]
[そのように]われわれもまた……/……それはわれわれを冒険する。……
so sind auch wir ……/…… es wagt uns. ……
私はこの劈頭から躓きました。Wagnis…… wagt …… 何だ、これは?
「それはわれわれを冒険する」この文は、いきなり、そのままでは、日本語としては、通用しない、と、私は思います。文脈から、「それは」は、「自然は」ですが、「自然は人間を冒険する」と云い直しても、事態は変りません。
昔ドイツ語を習ったとき、wagen という語が出て来ると、何とかのひとつ覚えのように、「敢えてする」と訳し、それで大体の用は足りていました。あらためて辞書を引いてみると、1. 危険にさらす、賭ける 2. …を敢行する、思い切って…する、などとあって、原義は 1. のほうにあるようです。
もやもやと、ふんぎれない気持ちをかかえながら、次を読んで行くのですが、そうこうするうちに、ある日、別の書物で次のようなことばに出会いました。
「アダムよ、おまえにはどんな特定の場所もどんな生得の形貌もどんな特別の才能もあたえないから、どんな場所でも、どんな形貌でも、どんな才能でも、おまえ自身で好きなように選んでとるがよい」。神は世界を創り、最初の人間アダムを造ったとき、こうアダムに告げたという、この言葉はピーコ・デッラ・ミランドラがその演説『人間の尊厳[位階]について』の中で述べているもの、とのことです(上村忠男『ヴィーコ』中公新書 p.10)。上村氏は、この思想はルネサンス期のプラトン主義的な自由意志論に通じるもの、と解説しています。ここで「神」を「自然」と置き換えれば、それはとりもなおさず「自然は人間を冒険する」ということではないか、と私は思いました。そうすると、これはリルケの独創というよりはむしろ、ヨーロッパのキリスト教思想の伝統を背負った、きわめてフツウの発想ではないのでしょうか。
自由意志と読めば、後に出て来る「庇護なき存在」das Ungeschütztsein、「危険」Gefahr はその反面として理解できるし、また、人間と他の生物との違い(人間はより冒険的である)からハイデガーがやがて、人間の根拠としての大文字の自然は「存在者の存在」である、また「存在者の存在は意志である」と云い及ぶことも、納得できるように思います。
リルケ「若い労働者の手紙」
リルケが「ドゥイノの悲歌」第五の悲歌〜第十の悲歌を一気に書き上げた1922年2月7日〜17日の間に、その悲歌の下書きの原稿用紙に「若い労働者の手紙」を書いています。これは、一見して労働者の手紙の形をしてはいますが、『リルケ全集5』(彌生書房)ではエッセイに分類されています。
「若い労働者の手紙」は、「ドゥイノの悲歌」後半部を理解する鍵といわれますので、少し長くなりますが引用してみます。(川村二郎訳)
・・・・・
「このキリストという人は、ぼくたちのことなど何ひとつとして知ってはいないのです。ぼくたちがどのように日々の仕事をはたし、どのように苦しみを切り抜け、喜びを味わうのか、何も知らないのです。
・・・・・
キリストは救い主なのだそうです。しかし彼は、妙に心ほそげに手をつかねて、ぼくたちのそばにたたずんいるだけではありませんか。」(愛の問題について)「生きとし生けるものすべて、幸福な愛の権利をほしいままにしているのに、ぼくたちにだけはその権利を認めない、そんな教義がどうしてこれほど長いあいだ主張しつづけられて来たのか、考えれば考えるほど訳のわからなくなることです。」
ここでリルケは神とキリストを区別しています。それではリルケの神とはどのようなものでしょうか。リルケの「神について」で書かれている神であり、また「オルフォイスへのソネット」第一部に歌われている神であります。
・・・・・
おんみの教える歌は 欲望ではない
究極において獲得されるものへの求愛ではない
歌は存在だ 神にとっては容易なもの
だが いつ私たちはいるのか? そしていつ神は
・・・・・
(この神は、ゲルマン民族(またはエッダやサガに描かれた北欧神話)の原初的な神に由来するものであり、ヘルダーリンやニーチェの系譜に属する神だと言われています。)
そのような純粋な「生の顕現」としての人間の叫びが「歌の存在」であり、第7の悲歌で次のように歌われています。そのなかで、リルケは「目に見えない心の内部の空間に」神殿を築くべきだと言っているように思われます。
求愛ではもはやない 求愛ではなくて 抑えきれずに湧き出た声こそ
お前の叫びの本性であれ
・・・・・
この世にあることはすばらしい おとめたちよ 見たところ貧困のうちにあって
沈んでいったお前たち 都会のみじめな裏町で
膿を病んだり 淪落に身をゆだねたお前たちにも それはよく分かっていたのだ
・・・・・
思ってはならない 私が求愛めていると
天使よ たとえおんみを求愛めても おんみは来はしないのだ なぜなら
私の呼びかけはいつも移行にみちているからだ このような強烈な
流れに逆らって歩みよることはおんみはできはしない・・・・・
高安国世さんの本――リルケ読書その後(5)
岩波文庫で、リルケ『ロダン』を読みました。訳者は高安国世さんです。
前々回の投稿でほんの少し、「表面」ということを云ったのですが、「表面」や「顔」に関する言及が、かなり頻繁に出て来ます。いくつか心に留まった個所を引きます。
“私たちにできることと言っては結局、或る特別の方法で閉じられた、どの部分も偶然ではない一つの表面(Oberfläche)、自然物の表面と同じように大気に包まれ、かげらされ、照らされている一つの表面、ただこういう表面を作り出すことよりほかにはありません。”
このように云われると私には、「表面」といってもそれは決してペッタンコの平面ではなく、何か、内部の力のようなものが押し出して来て、その力が外界と交わったところに生成される次元、というふうな感を抱かせられます。高安さんも次のようなロダンの後年の言葉を紹介しています。“面(Plans)とは量である”、また“その排除している空間だ”と。
バルザックの顔について。 “……顔がある。観ている顔、観る酩酊陶酔の中にある顔、創造に泡立ちたぎっている顔、これこそ元素の持つ顔であった。” この顔は決して剥されることはないでしょう。
後期の婦人像について。 “その微笑がどこにも固定されず、ヴェールのようにふんわりと顔の上に漂っているので、息するたびに持ちあがるかと思われる顔がある。” この顔の下は決して「のっぺらぼう」ではないでしょう。(婦人像は die späteren Frauenbildnisse と複数で書かれているので、どれか一つと特定したものではないのでしょうが、リルケの描写はあまりにも美しい。)
素描について。 “一つの無の中に、一つのすばやい輪郭の中に、息もつかず自然から奪いとった一つの輪郭、あまりに繊細であまりに貴重であったために自然がみずからぬいで置いたかと思われる輪郭のそのまた輪郭の中に含まれているのです。……ここには何ら意図して表現せられたもの、意味を持たせられたものはなく、一つの名の痕跡すらもありません。” この表現も美しい。そして、“主題的なものは制作のあいだにしだいしだいに即物的になり、名を持たぬものへと移って行くのである。” ここに「即物的」と「名」という問題が出て来ます。
文庫本巻末の訳者後記によるとリルケ『ロダン』は、1907年の第一、第二部を合わせた版があるが今は入手不可能、1913年インゼル版が見られるとのこと。これは戦後版もある由。今はウエブサイトから原文をダウンロードすることもでき、私が見たものは
Projekt Gutenberg EBooks の Auguste Rodin mit 96 Vollbildern, Insel Verlag 1920
です。文庫版では省かれている図版が96点すべてこの EBook では見られるのも嬉しい(HTML版とEPUB版がある)。URL は
http://www.gutenberg.org/ebooks/45579
高安国世さんの『リルケと日本人』(第三文明社レグルス文庫、1972年)という著書を、やはり同じ頃にたまたま書店でみつけて、買って読みました。高安さんは歌人でもあります。その実作者としての、短いのですが、重たい実感のこもった心情の吐露を、引いておきます。“私が自分一個の苦しい生活の嘆きの歌から、直接の「私」性よりむしろ現代一般の人間の持つ苦しさの客観的表現を求めていったとき、そういうリルケの『新詩集』の理念や方法が、どれだけ私を力づけ裨益したかははかりしれない。 ”高安さんもやはり「私を超ゆる言葉はないか」と悶えておられたのでしょうか。
高安さんは、弥生書房版リルケ全集(2)所収『新詩集』の訳者でもあります。また、講談社文庫で『マルテの手記』も出されたようなのですが、これは未見です。
Morgen さん。
「若い労働者の手紙」の紹介ありがとうございます。
私の持っている弥生書房版全集はバラ買いで、該当巻がありません。以文社版『リルケ全集7 散文?』に収載。田口義弘訳。いっぱい傍線や書き込みがあって、たしかに読んでいるのですが、記憶には何も残っていません。「悲歌」「オルフォイス」は、いずれそこへ行きつくべき、私の「勉強」目標ですが、さて、来年のいつ頃になりますか。伊東は「リルケ」「リルケ」と云い暮らした時期がありましたが、「悲歌」「オルフォイス」は、深く読み込んでいたのだろうか。――いつか答えなければならない問題です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001242.jpg
『リルケ年譜』――リルケ読書その後(6)
"Rilke-Chronik" という本を買いました。
理由は、いくつか。
? ホルトゥーゼン『リルケ』巻末の「文献」に、次のような紹介があったこと。
なお一冊だけ研究者にとって欠くべからざる文献を挙げておこう。研究上たいへん便利な文献である。
Ingeborg Schnack: Rilke-Chronik in zwei Bänden, Insel-Verlag 1975.
? もともと私が、年譜というものが好きな男であること。
? その物量(1251ページ)と内容のわりに安価なこと(本体諸掛共で4011円)。
まあ、云ってみれば「本能的に買ってしまった」(!)のですね。(なお、私が入手したのは、2009年の、もと2巻本であったものを併せた、増補改訂版です。)
いうまでもなく、私にはこの本はとても使いこなせません。第一、研究者ではないし、要するに「ウレシガリ」であり「モノズキ」(両義に解されたし)にすぎません。しかしそれではお話にならないので、ごく一部でも紹介してみたい。
ためしに、たとえば1922年2月のあたりはどうか。いうまでもなく、「悲歌」「オルフォイス」が、噴火のごとく、嵐のごとく、奔流のごとく、一挙に達成された時期です。2月2日〜23日の20日あまり、記述は10ページ余にわたります。
これを全部訳せば、即席の「悲歌・オルフォイス成立史」が出来上がるわけですが、「そういうものではない」と、本書の著作者 Schnack は「本書の読者へ」で、釘を刺します。「この Chronik はリルケの伝記ではありません。ここに記されている諸々の事実、体験、経験、見解、判断等から伝記的な統一像を形成する仕事は、読者みずからが行わなければなりません。…」
とはいえ、一度はこの10数ページを訳出しておきたい気持ちは残ります。でもそれは分量からいっても、掲示板投稿にはむかないだろう……。(なお、記事の半ば以上は書簡の引用です。)
考えていて、ふと、カフカの名が思い浮かびました。カフカ 1883〜1924、リルケ 1875〜1927。カフカのほうがリルケより少し遅く生まれ、少し早く死に、いわば時間的にはリルケにすっぽり抱かれるような形で生きたわけです。ふたりともプラハの生まれです。両者はお互いのことを知っていたのか、会ったことがあるのか、文学的・思想的影響関係はどのようであるのか――そこまでは行かずとも、何が書いてあるか、まず人名索引を見ると、次のような記載がありました。
Kafka, Franz (1883--1924), Dichter aus Prag;
≫Die Verwandlung≪,
≫Das Urteil≪ ( ≫Der jüngste Tag≪ 22/23 und 34 )
≫Ein Hungerkünstler. Vier Geschichten≪ 1924
の3点をリルケは所蔵していた。
480, 541, 768, 962
4個所ぐらいなら、そんなに大きな仕事にはならないだろう。――以下、この4個所を見て行くことにします。(以降、次回へ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001243.jpg
良いお年をお迎え下さい。
今年もあと5日を残すのみとなり、今夜は「納会」で帰宅時間は不明です。
山本様が仰るとおり「リルケ年譜の1922年2月2日〜23日の20日あまり」は非常に興味のそそられるところであります。私は、不勉強で「実存主義」やカフカについて深くは理解してはいないのですが、実存主義の立場から二人の文学世界を較べてみることは、(塚越敏「カフカが挫折を重ねて生涯を終わったのに対して、リルケの方は実存の問題を突破して存在の道を切り拓いた」わけを解明する)重要な論点なのだろうと思います。「北欧神話」や『ニーベルンゲンの歌』など、読みたい本があるのですが、年末年始は家族小旅行に出ますので先延ばしとなります。
皆様良いお年をお迎え下さい。
『リルケ年譜』から「リルケとカフカ」――リルケ読書その後(7)
S.480
1914.10.16 [München]
……当時リルケがすでに Hölderlin、Werfel、Trakl、Kafka を読んでいたことを、Lulu Albert-Lazard が記憶している。
――――――
S.541-542
1916.11.10 [München]
第5回「新しい文学の夕べ」の席上でカフカが彼の散文作品“In der Strafkolonie”『流刑地にて』を朗読、聴衆のなかに、リルケとその友人 Max Pulver がいた。「カフカは、まるで影のようで、毛髪は濃い茶色、顔色は蒼ざめて」朗読卓のところに坐っていた。彼の言葉は「底知れぬ苦悩に満ちた氷の針となって」聴衆の心に食い込んだ(Max Pulver, “Erinnerungen an eine europäische Zeit”)。カフカは1916.12.7. 付のフェリーツェ・バウアー宛の手紙で、次のように記している。「あなたは朗読会についての批評のことを尋ねていますが、ぼくはあれからただ一つ、《ミュンヘン=アウクスブルク新聞》 の批評を入手しただけです。それはまあ最初の批評より好意的ですが、根本的には最初のそれと一致しているので、より好意的な感情が、朗読全体の実際壮大な失敗をさらに一層強めています。……ところでぼくはプラハでさらにまたリルケの言葉を思い出しました。『火夫』についての大変好意ある言葉の後に、『変身』でも『流刑地にて』でも『火夫』のような緊密なまとまりには達していないと言っています。この言葉はすぐには分かりにくいのですが、明敏です」。*
*[投稿者註]『カフカ全集』の「フェリーツェへの手紙」の巻の編者であるエーリヒ・ヘラーとユルゲン・ボルンはこの個所に次のような注釈を加えました。
「リルケとカフカはおそらくお互いに会ったことはない。カフカが自分の仕事に対するリルケの判断を知ったのはおそらくオイゲン・モーントを通じてである。リルケがどうして当時まだ未公刊の小説『流刑地にて』を知ったのか、確かめられない。あるいは原稿で読んだのかもしれない――それは九月三〇日にはもうミュンヘンに到着していた――そしてオイゲン・モーントとそれについて話したのかもしれない[出典記載略―投稿者]。――一九二二年二月一七日のクルト・ヴォルフ宛てリルケの手紙は、彼がカフカの創作に向けていた注意を証明している。「……どうかフランツ・カフカから生まれるすべてのものを、いつも全く特別に、ぼくのため書きとめておいてください。ぼくは彼の最悪の読者ではないと断言できます[出典記載略―投稿者]。ルー・アルベール・ラサールは、リルケが彼女にカフカの『変身』を朗読したことを報告している[出典記載略―投稿者]。」
ところがこの注釈には大きな問題があるとして、詳細な考証を加えた人がいます。河中正彦さんという、山口大学の方(故人)で、ここではとても紹介しきれませんが、もっとも簡略に云うと、
1.編者が原稿の到着を「九月三〇日」としたのは単純なミスで、正しくは一〇月三〇日であった。検閲を考慮すれば、原稿が検閲から戻ってきてそれをリルケが読む時間的な余裕はきわめて狭い。
2.朗読会およびその日の夜の懇親会への出席者名は記録されているが、リルケの名前は両方ともに見いだせないので、もし二人が会ったとすればその後ということになる。いずれにせよ、現状では確証がない。
こうして河中教授は、「リルケとカフカは出会ったか?」という論文を3篇続けて、大学の紀要に発表されたのです。私はウエブをうろうろしていて、偶然そのお名前と論文の所在を知りました。参考までにその所在を記しておきます(この稿の末尾に)。
なお河中氏の論文によると、Rilke-Chronik の初版では「フェリーツェへの手紙」の編者の註(「会ったことがない」)に同意しているらしいのですが、初版を見る便宜がなく、はっきりしたことはわかりません。他方改訂版では unter den Zuhöreren sind R. und der mit ihm befreundete Max Pulver とあり、上に訳出したように、たしかに「会場にいた」と読めます。
――――――――
S.768
1922.2.17. [Muzot]
書物を送ってもらったことにつき、Kurt Wolff に礼状を書く。「ただカフカの本だけはもう昨夜、他の仕事の途中で先に取り上げました。私はこの作家のものを一行たりとも、最も風変わりなものに到るまで私に関係のあるものか、私を瞠目させるものと思わずに読んだことはありません。あなたが親切にも私に知らせて下さったからには、私は望んでもよいでしょうから、どうかフランツ・カフカのものであなたの所から出版されるものすべてに対してつねに私の予約を受けつけておいて下さい。そう請け合ってよいなら、私は彼の最悪の読者ではありません」。クルト・ヴォルフがリルケに送ったのは、カフカの『田舎医者 短編集』“Ein Landarzt. Kleine Erzählungen”(1919)である。リルケの遺品の中に、『判決』と『変身』(「最後の審判」叢書、1916 および 1915)があった。
――――――――
S.961-962
1925.11.12. [Muzot]
この日リルケは Wunderly 夫人に手紙を書き、その手紙の余白に、夫人から返された書物について問い合わせた。「そしてあなたはカフカをまだ高く買ってはおられないのではないかと推察します。彼にはなにか、未使用品、新品、とでもいうような所があって、とても新鮮です。私は彼の短編の一つを読みました。非凡なものです。この人はあの世でどう扱われているのでしょう?彼はあっという間にこの仮初めの永遠(=この世)を駆けぬけて、天使たちを余りにもなじみ深い特徴で驚かせているに違いありません。この傑出した文学者はきっと文学を厭い切っていたのでしょうが、卑俗で些細なできごとのどの一つからでも、眼にみえぬものの一半をしぼりとる技術を知っていたのです。下らない卑しいものを採り上げて、それでもって彼は空間を造りだします。天空と同じくらい空虚であるとともに、活気を吹き込む空間をです。これを見るやいなや、もうそれを呼吸することになるのです」。ここで云われているのはカフカの『飢餓芸人』“Ein Hungerkünstler. Vier Geschichten”Berlin, 1924 である。カフカは1924.6.3. ウィーン郊外のサナトリウムで死亡した。
――――――――
下記のリンクをクリックすると、河中正彦氏の当該論文の詳細データを記載した「山口大学学術機関レポジトリ」のページが開きますので、最上段の「フルテキストURL」をクリックしてください。
リルケとカフカ(I)序説-リルケとカフカは出会ったか?(前篇)
リルケとカフカ(II)序説-リルケとカフカは出会ったか?(中篇)
リルケとカフカ(III)序説-リルケとカフカは出会ったか?(後篇-I)
河中正彦氏は『カフカと二〇世紀ドイツ文学』(同学舎、1999年)にも「カフカとリルケ――沈黙の詩学」という論文を寄せ、そのなかでもこの問題の最新の情報と見解を述べておられます。
?
明けましておめでとうございます。
新年明けましておめでとうございます。
皆様お元気で正月をお過ごしになられたでしょうか。私は今日5日から初出、若い社員の皆様の明るい顔や声に囲まれて(わが歳を忘れ)、例年に変わりなく新しい年の橇に乗って滑り出したような気分がします。
幸い今年の正月3日間は好天に恵まれました。澄み切った冬空にそびえる富士山のように、すがすがしい気分を保って一年を頑張り通したいものです。(写真は三保の松原から撮った富士山です)
どうぞ、穏やかな心で、健やかな一年をお過ごしくださいますように。
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須賀敦子さん、ふたたび
皆様あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。
前に庄野潤三さんと須賀敦子さんのことを書いて投稿したことがきっかけで、その後また須賀さんの、未読のものや未購入のものを何冊か、読むことになりました。その中から心に残った部分をいくつか抜き出して記してみます。
■『文芸別冊 須賀敦子ふたたび』(河出書房新社)
“基本的には須賀さんは行為者です。……彼女にとって書くということは、特に晩年は体を動かすということなんです。……書くというのは肉体労働です。” (若松英輔「宗教の彼方へ――須賀敦子の霊性と文学」)
“震災が起きて、家はほとんど崩れなかったんだけど、そのときしばらく本を読まなかった。だけど、その中で読んだ少ない本の中で、感動したのはアランの『幸福論』と、もう一つは須賀さんの関係で読んでいた、庄野潤三さんの『夕べの雲』だったんですよ。” (松山巌「多面体としての須賀敦子」)
“ユルスナールが、フロベールの書簡に見つけて感動したという一節、「神々はもはや無く、キリストは未だ出現せず、人間がひとりで立っていた、またとない時間が、キケロからマルクス・アウレリウスまで、存在した。」” (蜂飼耳「『ユルスナールの靴』は歩く」)
フロベールはこの時代を「乏しい時代」とは云わず、逆に力をこめて「またとない時間」、稀有の時間と云っているのです。これを書いたフロベール、それを引用したユルスナール、それを心にとめた須賀敦子、さらにそれを心にとめた、詩人の蜂飼耳さん。この人々。
■『須賀敦子が歩いた道』(新潮とんぼの本)
“よく、自分は何語で死ぬんだろうと思うのです。”(須賀)
■須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(河出文庫)
[マルグリット・デュラスについて]
“硬質の抒情性とでもいうのか”
伊東静雄のほかに“硬質の抒情”と呼ばれる詩人がいた。
[ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』]
“エゴン・シーレの絵を使った瀟洒なポスター……おなじ絵を表紙にしたエイナウディのその本……”
エゴン・シーレの表紙という、このイタリア語の原本がほしい(読めなくとも)。
“こまかい雨が吹きつける峠をあとにして、私たちはもういちど、バスにむかって山を駆け降りた。ふりかえると、霧の流れるむこうに石造りの小屋がぽつんと残されている。自分が死んだとき、こんな景色のなかにひとり立ってるかもしれない。ふと、そんな気がした。そこで待っていると、だれかが迎えに来てくれる。”
この世界は、das Offene ではないか。
庄野潤三『メジロの来る庭』
庄野潤三さんの『メジロの来る庭』という本(平成16年4月10日刊 文芸春秋)の冒頭に、次のような文章があります。
メジロ(1月26日)
午後、書斎のソファーによこになっていたら、珍しくメジロ一羽、山もみじの下の水盤に来て、水浴びする。水盤に飛び込み、水浴びして、水盤のふちに上がる。すぐにまた水にとび込み、水浴びして水盤のふちに上がる。
六回まで繰返したところへ別のメジロ一羽来て、これも水浴びを始めたので、ややこしくなる。にぎやか。
今年も、大阪の十三近くの下町にある我が家の狭い庭の山柿の盆栽(赤い実が4個残っている)に、1つがいのメジロが来てしきりに柿の実をつついています。水盤に水を入れて根元においてやりました。よほどお腹が空いていたのか、夕方うす暗くなるまで遊んでいました。明日からは、ほかのメジロも、入れ代わり立ち代わり来てくれるでしょう。盆栽の山柿の実はすぐなくなるので、熟し過ぎた柿を、明日近所の果物屋でわけて頂いて与えることにします。
(写真を撮ってメジロを脅かしてはいけませんので、正月に伊豆で撮ってきた「怪鳥」の写真を載せます。)
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もう一度、庄野さんと須賀さん
アマゾンに注文してあった『文芸別冊須賀敦子』が届きました。前にも同名の『別冊』を挙げたのですが(1月7日投稿)、「文芸」は前後2回、須賀さんの特集で別冊を出しているので、くわしく記すと、
?KAWADE夢ムック 文芸別冊 追悼特集 須賀敦子 霧のむこうに、1998年11月初版発行
?KAWADE夢ムック 文芸別冊 須賀敦子ふたたび、2014年8月初版発行
今回入手したのはその?で、須賀さんが1998年3月に亡くなり、その年の秋に出された追悼特集、ということになります。
で、その中に、庄野潤三さんの「『夕べの雲』のご縁」という文章が寄せられていたのです。おそらくこの特集のために書き下ろされたものかと思います。その要点だけを書き抜いてみます。
「夕べの雲」は、昭和三十九年に日本経済新聞に連載して、翌四十年、講談社から出版された本であった。私はイタリア語訳のことをいつどのようにして知ったのだろう? よく覚えていない。多分、或る日、いま私の本棚にある「ヌボーレ・ディ・セラ」の訳者である敦子さんの手紙を添えて、生田の山の上の私のもとに届いたのではなかったか。……今度、この稿を書くに当って、「文芸」編集部から、日本文学のイタリア訳の仕事について須賀敦子さんが「ゆうべの雲」を連載した日本経済新聞に書いた文章(昭和43・2・24)の切抜コピーを送って頂いた。大体、私の記憶の通りであった。
庄野さんは、須賀さんのイタリア語訳本が届けられたいきさつを「よく覚えていない」と云い、手紙を添えて郵送されて来たように書いていますが、前回紹介した松山巌さんの本によれば、帰国した須賀さんが本を持って直接生田の庄野さん宅を訪れた、とのことでした*。これが一度目です。
……日本へ帰ってから、「夕べの雲」の舞台である多摩丘陵の一つの丘の上の私の家を訪ねて下さった。気さくな、おだやかな方であった。二度目に訪ねて下さったときは、東京のイタリア文化会館の館長のリオさんと一緒で、その日、お母さんのお家の庭から掘って来たというブナの小さな木をさげて来て……
二度目のときのこのブナの木は、庄野さんがこの文章を書いているときにも目の前の庭で大きく育っていたのですから、記憶もたしかなのでしょう。
それにしても、あの「仕事部屋」で、静かに対座して、二人はどんなことを語りあったのでしょうか。庄野さんは、話の内容については何も書いていません。須賀さんも書いていません。それだけに、「気さくな、おだやかな方であった」という、庄野さんのやわらかな受けとめ方がいっそう、印象に残ります。でも、もうお二人とも亡くなられて、今は過去を呼び戻すよすがもなくなってしまいました。
* 昨年11月24日の投稿で書いたように、イタリア語訳“Nuvole di Sera”の刊行が1966年12月。そして松山巌さんの推測によると、須賀さんがこの訳本をもって庄野邸を訪れたのが1967年秋。これは松山さんが直接聞いた、庄野夫人千寿子さんの談にも拠っているようです。しかし、この1年近くの長い空白が、私には気になります。加えて、訳書出版の時にはまだ須賀さんには帰国の予定はなかったのです。ですから、もしかして松山さんの推測に問題があり、事実は庄野さんの云うように、訳本は刊行後間を置かずに日本へ郵送されたのではなかったか、という疑問が、私には残ります。
?
山本哲也『詩が、追いこされていく』
昼食で外出したついでに古本屋に立ち寄り、山本哲也『詩が、追いこされていく』(西日本新聞社 1996/11)という本を買ってきました。(長崎では周知の本かもしれませんが…)
私の方は、目先の仕事が立て込んでいるので、趣味的な本をじっくりと読む暇はないと思いながらも、事務机の端において時折ぺらぺらとページをめくって眺めています。その中で次のような文章が目に付きましたので紹介します。
<P90〜91>
・三浦一衛遺稿詩集『流れ星』(1989.10)の冒頭句
<ああ、照らすとてよしもなき自らの光よ。・・・>(昭和19年)・・・・・
・伊東静雄<ああわれら自ら弧寂なる発光体なり>の詩質に近いものがある。孤立した意識の暗黒部にむけられた狂い立つような思いは、内部に向けられると同時に、世界にむけて噴きだしている。それは昭和10年代という時代が生んだ絶唱なのだろうか。
<P100>
いま、抒情詩はどのように可能なのか。・・・・・
昭和10年代の伊東静雄の『わが人に与ふる哀歌』が、抒情という行為にどこまでも禁欲的であろうとすることによって、はじめて抒情詩が可能となった例を、ここに持ち出してくることもできるだろう。おそらく、抒情詩なんて不可能だという意識の屈折の果てに、逆説的に生み出されてきたのが、この国の抒情詩の系譜だった。・・・・・
『詩が、追いこされていく』というこの本のタイトルの意味は、「詩がどのような場所にあって、時代のどういう場所から言葉が発せられているのか」にかかわっている。・・・
「河」(諫早市)75号の上村肇「浦上四番崩れ」、・・・・・といった作品は、時代や社会の青春がそのまま彼ら自身の青春と重なっていた時期からの長い時間が、表現の背後に折りたたまれているのだ。老いを詩の内容とする作業は、はじまったばかりである。(P38)
以上、同書からの抜粋ですが、なかなか含蓄の深い文章です。しかし、同書が刊行されてから既に約20年という時間が経過しています。
それは「阪神大震災から20年」という「物理的時間」とほぼ同じでありますが、阪神大震災以降の諸々の出来事は、私の心の中ではつい先ごろことのようでもあります。わが「人間的時間(脳内時間)」は、「物理的時間」にはるかに“追いこされ”っぱなしになってしまっているのです。
「お前は何をしてきたのか」と中也風につぶやいてみても、どこからも憐れみの言葉ひとつすら返ってはきません。私には、「老いを詩の内容とする」という高踏的な生き方は難しそうだし、今から新事業に挑戦するわけにもいかないので、最低限自分なりの天命を全うすることを目指して、“生活者”または健康老人としてささやかに生きていければよいと思っています。
皆様は、どうぞ「老いを詩の内容とする」べく、寒風を「追風」にかえてご活躍下さい。
ご報告
世界中でテロが相次ぎます。
神が間違って創造したと思われる人類の未来には果たして何があるのでしょうか。
1月17日午後2時から,諫早図書館2階集会室に於いて第86回例会を開催しました。
出席者は6名。
12月6日に開催した「第9回菜の花フォーラム」を収録したDVDを作成しました。
観賞ご希望の方はご連絡下さい。
会報は第80号。
内容は次のとおり。
1 「百千の」 詩碑について?? ?????????????? 山本 皓造
????所在は,阿倍野区松虫通2丁目のポケットパーク内。
????撰は杉山平一さん。字は,書家の坂本二豊さん。
????庄野潤三さんも,この詩が大変にお好きであったとのこと。
2 第25回伊東静雄賞 奨励賞二篇
????詩「しのたまご」???????????????????????????????????? ???? 八重樫 克羅
????詩「水の位置」 いわたとしこ
3 詩「くりかえし」??????????????????????????????????????????????伊勢山 峻
??????????????????????????????伊勢山峻詩集「稲燃え盛る」所収
4 「学生の頃の伊東静雄」????????????????????????????????????????大我 勝躬
????伊東静雄と大村中学校で初めて出会った大我さんの思い出話です。
????佐賀高,京大時代も2人は交誼を結びました。
5 第9回 伊東静雄生誕「菜の花フォーラム」に参加して 高塚 かず子
高塚さんが,フォーラムについての感想文を寄せて下さいました。
????詩は,精神の光源であると述べられています。
????「自らの闇や世界の闇をも鋭く照射する,詩によってしか喚起されない純粋な光。
たとえば,伊東静雄という詩人の作品は,生死や時の流れを超えて,読者の心のなかで
光を発しています。」
以上
2月の例会は,28日午後2時から,諫早図書館2階のボランティア室にて開催します。
キッペンベルク『リルケ』
伊東静雄研究会の龍田豊秋様、いつも「報告」を楽しく拝見しています。確実に毎月、あのように充実した研究会を継続しておられる、会の皆様の熱意に頭が下がります。今回は思いがけず、松虫通の静雄詩碑についての拙文を使っていただいて、自分でも、あれはいつ、どこに書いたのだったか、もう記憶も定かでなくなっていましたのに、嬉しいことでした。お礼を申します。いま、詩碑はどうなっているでしょうか。
Morgenさんの、勤勉な?古書店巡りには感心させられます。昔は道頓堀や日本橋や桜橋や阪急古書の街や阿倍野筋や、あゝ、もと大阪球場に古書店が集まっていた一時期がありました。そんなことを覚えている人がまだいるでしょうか。
山本哲也さんの本は、引き締まった文体で濃い中味がギッシリ書き込まれていそうな、魅力的な本のような気がしますね。年をとって(お互いに!)なおかつ、知らない、優れた書き手に出会えるという喜び。自分にはまだそのような出会いの力が残っているという喜びです。
さて。
カタリナ・キッペンベルク『リルケ』という本を手に入れました。訳者は、芳賀檀(!)、昭和26年7月人文書院刊。ただし訳本には、その原本の標題や刊行年等の書誌事項がありません。それで少し調べて、おそらく
Katharina Kippenberg, Rainer Maria Rilke. Ein Beitrag. Leibzig, Insel Verlag 1935
というのがそれではないかと見当をつけました*。この本は何度か版を重ねているようなので、訳者が手にしたのが第何版か、まではわかりません。
* Wikipediaの「芳賀檀」のページ、翻訳の項に『リルケ』アントン・キッペンベルク人文書院 1951 とあるのはあきらかに、カタリナ・キッペンベルクの誤りです。
カタリナ・キッペンベルク(1876―1947)はご承知のように、インゼル書店の店主Anton Kippenberg夫人で、また同書店の協同経営者でもあり、リルケに限らず若い詩人たちをよく世話した、その温かい人柄でも知られています。カタリナは1876年6月生まれで、1875年12月生まれのリルケのわずか半歳年下、しかし貫禄では実際には「お姉様」のような感じで、若き詩人たちは接したのではないでしょうか。
リルケは1910年のはじめにライプツィヒのキッペンベルク邸で『マルテの手記』を仕上げました。
1910年の1月、リルケは鞄の中に詰めた「マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲ」の原稿を下げてライプツィッヒにやって来ました。私達の家で、その原稿を口述して印刷用の原稿をつくらせるためでありました。その仕事はいつも「塔の部屋」と呼ばれていた公園の樹の梢の上を見はるかす閑静な小さな部屋の中で進められて行きました。その部屋は又気持よく古い家具などで飾られていました。彼は又そこで、いろいろ美しい抽斗や箱などのついた桜材で造った古代の書斎机を使っていました。リルケはひどくその机を気に入っていたのです。私達はその机を「マルテ・ラウリッヅの机」と呼びならすようになりました。
カタリナはこのあと、家族というものについて、家の子供たちについて、ルー・ザロメ夫人のこと、ロシアのこと、カルクロイドに与えたレクイエムのこと、などを、かしこい小母さんが低声で途切れなく話し続けるように、縷々語ったあと、リルケがジードの『マルテ』の仏訳に感激したエピソードにふれます。
……リルケが、N・R・F(Nouvelle Revue Française)を贈られたが、そこには、アンドレ・ジッドによって、翻訳された「マルテ・ラウリッヅ」の一部がのっているのでした。すると彼はすぐあのインゲボルクが「私はもう生きていたくありません」と言っている所を探し出すのでした。そして、その言葉は「私は満足して死にます」(“J’ai mon content”)と訳されてあるのを見つけ出すと、眼に涙を浮べ乍らこう言うのでした、「何と美しい訳だらう、ああ、何て美しい翻訳だらう!」
これは『マルテ』第28節の、死んだインゲボルクについての母の思い出のところです。“J’ai mon content”は、原文では“Ich mag nicht mehr.”(全集?:787)、大山訳は90ページ「もうこのままでいいわ」、望月訳は88ページ「わたしもう生きていたくないんですもの」。
この『マルテ』のジードによる仏訳に関して、ちょっとペダンチックに!例のRilke-Chronikから補足しておきます。
6. SEPT. 1910: リルケはアンドレ・ジードに『マルテの手記』を送り、……(後略)
MAI 1911: アンドレ・ジードは Mme Maryrisch de Saint-Hubert との共同作業によって『マルテの手記』から2つの章を翻訳した。これは7月1日のN.R.F. に掲載された。“彼女はインゲボルクの話になるや否や……”(28. Abschnitt)。
1. JULI 1911: アンドレ・ジードによって翻訳された『マルテの手記』の断章のうちの2つが、Aline de St. Hubert の「まえがき」をつけて、N.R.F. 誌に掲載刊行された。
6. JULI 1911: リルケは7月1日N.R.F. 所載の『マルテ』の翻訳につき、ジードに礼状を書く。
[このあと書簡引用。フランス語。未訳。書簡集に載っているか?]
後年、彼女はミュゾットにリルケを見舞います。
「そっとしておいて下さい」彼は今人生に向ってこう呼びかけるかの様にも思われました。「私はもう満足しています。“J’ai mon content.” もうたくさんなのです」
入念に読み込んで、興味深いエピソード、カタリナの述べる感想、解釈、作品論、リルケ的観念の評価、など、いずれこの欄で紹介できればと思います。
激動の年となるのかどうか?
こんばんは。
山本様。キッペンベルク『リルケ』のご紹介ありがとうございます。
リルケとカフカはチェコ人でありながら当時のフランスで人気を二分していたと書かれています。特に、リルケは方々で詩の朗読会を開催し(とても感動的に自詩の朗読をしたそうで)、当時の貴婦人方がそれに魅了され、スポンサーになったとも言われています。
私は、大体毎日、昼休みに船場センター街の地下2階の食堂街でランチを摂り、1階の「天牛」古書店に立ち寄っていますが、実際はネットで探して買う方が多いですね。
先程からECB(欧州中央銀行)ドラギ総裁が、「向こう約1年半の間に、日本円で100兆円規模の国債買い取りをする。」と発表したという報道がなされています。今年は、ナショナリズム勢力の台頭によって、イギリス(5月7日総選挙)をはじめEUやロシアが世界を激動させる台風の目になりそうな気がします。
やっとデフレ脱出口に来た日本ではありますが、経済だけを考えて視野狭窄症に陥ることのないように願いたいものです。
今夜は大阪の某所で経済の勉強会に参加してきましたが、約1時間半の講義に使用されたパワーポイントによるグラフや図表が85枚という高密度情報であり、私は、講師(37歳)のハイビートな説明についていくのが大変でした。50〜60歳代の方も大勢参加され熱心に聴講されていました。刻々と世界情勢が動き、時代が移り変わっているのを実感します。「マダマダクタバランゾ!」と、歯を食いしばって小走りながらついて行くしかありません。
明日も夕方まで会議が連続していますが、その合間をぬって古本屋をのぞいて息抜きをしたいと思います。ではまた。
第一次世界大戦勃発前後――キッペンベルク『リルケ』続
1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦がはじまりました。この頃リルケは、キッペンベルク邸に滞在していました。およそ10日間、カタリナは、リルケと起居を共にしていたので、その叙述はきわめて生き生きとして、リルケの姿が目のあたりに見えるようです。当時の有様を抜書きしてみました(カタリナ・キッペンベルク『リルケ』 p.165-171)。
7月19日、リルケはパリを発ってゲッチンゲンのルー・アンドレアス・ザロメ家に赴く。
7月23日、L.A.ザロメのもとを去って、ライプチヒに赴く。キッペンベルク家に8月1日まで滞在。
私たちのお客であるリルケが到着したとき、私たちは驚かざるをえなかった。リルケはまっ蒼な顔をしていました。頬がげっそりこけ、眼と眼の間にはこれ迄見なかった八の字が寄せられていました。彼はいろいろ苦痛を訴えるのでした。それはこの時代に書かれた彼の手紙ににも書かれている苦痛です。
しかし大戦勃発の直前に、キッペンベルク家やそこに集う人々は、すばらしい夜を持った。
さて、あの忘れ難い夜が来ました。次第に途方もないものに燃え上ってきた国民の政治的な興奮に慄え乍ら、リルケはその夜彼の「ドイノの悲歌」の最初の二つの悲歌を読んでくれたのでした。それはあの「塔の室」での事で、夜もずっと更けていました。カーテンは閉じられていて、蝋燭の灯はやわらかい光を投げかけ、あちらにもこちらにも薔薇の花が蝋燭の光を受けて輝いていました。そのとき私たちが聞いた詩は、曾て私たちが耳にした事のない、未曽有のものであり、又理解を絶したものでありました。その音調は光芒一閃焦熱の剣を以つて空間を裂くかと思われました。この時の印象は、今にも爆発するかと思われるほど切迫した外界の只ならぬ空気に煽られて、黙示録の中の騎士の姿に変ってくるかと思われました。……読み終わったとき、人々は、ひどい肉体的労働でもしたかの様に体のすみずみまでぐったり疲れ切っていました。/次の日であったら、もう詩の朗読は不可能であったに違いありません。災怏はオーストリアから爆発しました。ライプチッヒに在住の兵役義務のあるオーストリア人は帝国へ召喚されました。
戦争が始まっても、リルケは「落ち着いて」いたという。政治にかけては「彼はまるでく小児」であった、とカタリナは吐息をついている。
戦争の気配はいよいよ切迫し、次第に昂ぶったものになってきました。皇帝は急いでベルリンに帰ってくるし、その他の王侯らは、それぞれの領地の主都に向って急行しました。そのとき、ロシアの動員の報が、電雷の様に私たちの頭上にはためき下ったのでした。良人がその報知をもって市からとび込んで来て、居間の中にころがる様にして入ってきました。丁度、リルケと私とはお茶を喫んでいる所でした。私は見る見る私自身顔色が蒼ざめてゆくのがわかる様な気がしました。リルケはしかし、実際そういう人だったのですが、政治のことにかけてはここでもまるで小児であることがわかりました。相変わらず、落ちつき払っていて、ただ、「それはただそういう戦争の格好をしてみせるだけですよ」などと言っているのです。
いくら「まるで小児」であったとしても、戦争から免れることはできない。「もう「個人」などというものに取り合う余地はどこにも残されていなかったのです」
8月1日、リルケはミュンヘンに向って発つ。そこでL.A.Saromeと落ち合うことになっていた。だが着いてみると、ザロメは同じその日に、急遽ゲッチンゲンへの帰途についていて、会うことができなかった。このすれ違いの事情は、ザロメ自身が記している。
一九一四年七月、ふたたびリルケはゲッティンゲンに滞在した。私たちがいっしょに明るく過ごしたあのときのことを、私は思いだす。彼のあまりにも大きくなってゆく目も、そのようなときには細くなって、誰の心をも楽しくしてくれるような幼年時代にみちたユーモアが生まれてくるのであった。私たちは、朝もはやく白むまえに起きて、素足で露にぬれた草原をあちこちと歩いたが、それはヴォルフラーツハウゼンに滞在していたあの頃いらいの、私たちの共通の楽しみでもあった。その年の七月は、明るい暑い月であった。苺や薔薇があふれ、太陽がいっぱいだった。
リルケがパリからやってきたという事情、それがおそらくは監禁されるという危険から彼を免れさせたのであろう。(パリにもっていた彼の所持品は、まもなく差しおさえられた。約十年ほどたってから、その一部ではあったが、彼は自分の持ち物をパリで取り戻したのである。)
なぜなら、そのとき戦争が始まっていたからである。
リルケはライプチヒの彼の出販社のもとへ旅をしていた。私はミュンヒェンに向かっていたが、ここで私たちはすぐにまたおち会うことになっていた。戦争が始まったとき、彼がライプチヒを発って、こちらへやってくることはもはやできないだろうと、私は思っていた。そこで私はやっと出た最後の列車に乗って帰ってきた。ところが彼も私のことでおなじようなことを考えて、急いだので、私たちは互いにすれ違いになってしまった。(ルー・アンドレアス・ザロメ『リルケ』 p.80-81)
なお、パリに置いてあって戦争勃発のために没収されたリルケの持ち物は、のち、アンドレ・ジッドの努力によって1925年11月、ミュゾットのリルケのもとに返された旨、本書訳者の注記がある。
リルケは召集されて短い兵営生活をすると間もなく、もう始めから解り切っていた事ですが兵役に適せぬことがわかってきました。しかし一九一五年の十一月、K・Kのオーストリアの戦時文庫に動員されて働らいていました。併し、彼はここでも亦この仕事に不合格だったのです。これこそ真の天馬を軛につないだ様なもので、徒らにただ悲しく翼をはばたき、柵にぶつけて翼破るだけの話でした。彼はこの仕事の下に、言語に絶した苦痛をなめました。と言うのはその仕事は次第に戦争が残酷になってくるにつれて、毎日精紳的な近しい接触をする機会をもち込んできたものですから。そこで、私は「インゼル書房」の名に於いて請願書を書き、それには全ドイツの文化人の中の有名な指導的な人々の大多数が署名し、それを二通したため、K・Kのオーストリア陸軍省、及びK・Kのオーストリア国防省に提出しました。それによって詩人は戦時動員から除隊される事になりました。そして彼は一九一六年ミュンヘンに帰ってきたのでした。
結局リルケは、戦争の期間をはさんで、まる10年以上、「仕事を」することができなかったのは、ご承知のとおりです。
なおこの頃の余談として、ウィトゲンシュタインが父の遺産から10万クローネを相続し、これを、オーストリアの貧しい芸術家たちに贈ることを考えて、トラークルやリルケがその分与にあずかったこと(各2万クローネ)、そのトラークルの自殺、など、話題は尽きないのですが、何の掲示板かわからなくなりますので、このあたりで打ち切ります。(しかし小高根さんの『果樹園』が長々とトラークルを連載したのは、どういう意図だったのだろう?)
ゲオルク トラークル G・Trakl
おはようございます。
山本様と同じく、私もかって「小高根さんは『果樹園』で、“なぜ、トラークルを長期連載(103〜132号まで)したのか?”」という疑問を持ち、『トラークル詩集』(平井俊夫訳)とハイデッガー『詩と言葉』(三木正之訳)を購入しましたが、ペラペラめくって拾い読みした程度で、まだ読みこんではいません。(*)
「正体不明の大富豪」―実は哲学者 Wittgenstein(本人はヴィトゲンシュタインと発音していたと言われます。)から、リルケと並んでトラークルも2万クローネ(公務員年収の30年分相当?)の匿名寄付を受けています。しかし、トラークルは満27歳で、致死量の麻薬摂取により死亡してしまいます。(1887年2月3日〜1914年11月3日オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク)
ハイデッガー『詩と言葉』(**)の訳者・三木正之さんは、「死の前頃の詩ではヘルダーリンの後期の詩風に最も近い関係にあった。」「トラークルに関する文学的研究がハイデッガーのこの論文の発表(1953年)以来目立って盛んになった。」と、あとがきに述べておられます。(偶々、会社のデスクの中に有りましたので参考のために付記。)
(*)『果樹園』103号に、平井俊夫「トラークルについて」と題する一文があります。ご参考までにその中から一部抜粋して紹介します。
…リルケはむしろ近代詩を完成した最後の巨匠。リルケの詩はいわば世界の詩的完成、「創造」であって、その限りにおいて近代の伝統につながる。
…しかしトラークルにとって、詩とは近代詩のように「「創造」ではなく詩人自身の言葉を借りていえば「不完全な贖罪」なのであった。…言葉の最も深刻な意味での現代の「憂鬱の詩」である。(没落の時間/「「秋」「夕暮」…)
―独墺流「近代の超克」論または「近代/現代」区分論の発生/cf「ヘルダーリン 予め崩れる近代」論/とすれば、(1910年代の)ポーレミックな論点であったと見做しうる。ただし、日本では、トラークルはハイデッガー論文の発表(1953年)以来、ドイツ表現主義評価をめぐる論点として取り上げられたという。因みに『果樹園』103号は1964年9月1日に発行されており、『詩と言葉』邦訳出版の約1年後であるというのはある種の因果関係を連想させます。(―以降は私見による“注”付記です。)
(**)『詩と言葉』 ハイデッガー選集??(1963年7月1日 邦訳出版 理想社)
・詩のなかの言語ーゲオルク・トラークルの詩の論究
・言 葉 シュテファン・ゲオルゲ
WEBページの引っ越し
このたび、ホームページを移転することになりました。新しいアドレスは、http://www.itosizuo.sakura.ne.jp になります。
祝“itosizuo”を表記するウェブサイト誕生
こんばんわ。
“itosizuo”の名称を表記するウェブサイトが開設されたわけですね。
伊東静雄研究会の皆様方のご努力によって、このサイトのコンテンツがますます豊富になり、視聴者を増やし、永久に続いて行ってくれるのだと思うと、ワクワクしますね。
これも一重に今日まで頑張ってこられた上村さんはじめ皆様方のおかげです。
トラークルへの寄り道
Unterwegs に「寄り道」という意味があればよいのですが、そううまくはいきません。辞書には「〜への途中で」とあり、そうすると Unterwegs zur Spraqche はどう訳すのでしょうか。その中のトラークル論、Ein Erörterung von Georg Trakls Gedichte は、いきなりErörterung の語義の説明からはじまり、それはまず「場所の指示」であり、ついで「場所の注視」である、という調子です。なるほど、「論究」では「場所」Ort というものとの関連がわかりません。しかしこれを最後まで読み通す気力はないので、後日邦訳の選集か全集を入手して読むことにします。
私の持っているトラークル関係本は、
・中村朝子訳『トラークル全集』、青土社 1979
・杉岡幸徳『ゲオルク・トラークル 詩人の誕生』、鳥影社 2000
の2冊だけです。杉岡本は書店で偶々みつけて買ったので、きわめて主張の強い本で、私にはその当否を判断する力はありませんが、その意味でおもしろく、その主張から2ヶ所を紹介します。
詩人とドラッグの関係について
わたしは今、これほどまでに悲劇的な、詩人とドラッグの関係が語られてこなかったという事実に、改めて驚いている。……トラークルは何ひとつ望みはしなかった。彼は別に、人生の不条理とか世界の苦痛なんかに悩んでいたのではない。そんなことは彼の詩からも書簡からも読み取れない。
彼に特有のほとんどの詩語は「薬物的に」説明できる、と著者は言います。たとえば
トラークルの「暗」・「黒」は、モルヒネを意味する。……ところがハイデガーのトラークル論によると、「『黒』は闇に閉ざされ、暗いところに保護すること」らしい。……恐るべき同義反復ではないだろうか。
「グロデク」について
トラークルはそこで、九〇人もの重症患者を一人で看病しなければならなかった。……突然、銃声がとどろいた。ある重症患者が自らの頭を銃で打ち抜いたのである。壁には脳みそがべったりと張り付いた。詩人が耐え切れずに外に逃げ出すと、外の木の枝の一つ一つには人間がぶら下がっていた。処刑されたウクライナ人たちの姿だった。……「嘆き」「グロデク」が生まれたのは、このような状況からだった。それゆえ、この詩は純粋な意味での戦争詩、戦場の詩と言えるのである。/なぜこのようなことを強調するかというと、ハイデガーのように、この「グロデク」を「戦争詩などではなく、まったく別物」などと奇怪なことを言い始める人がいるからだ。/しかし、これは、おそらく全世界で最も偉大な戦争詩であり、反戦詩であり、そして最も偉大な政治詩なのだ。
私事になりますが、トラークルについてはちょっとした思いがあります。ご承知のようにトラークルはザルツブルクの出身で、私はザルツブルクへは2度行きました。けれどもその時にはザルツブルクとトラークルは結びつかず、知ったのは帰った後でした。旅行中にこの町の本屋で買った“Salzburg”という、町の歴史や見どころをエッセイ風に綴ったものを読んでいると、3ヶ所ばかり、トラークル「ゆかりの地」の話が出て来ます。たとえば生家のあったヴァーグプラッツや、彼が薬剤師の実習で勤めた「天使薬局」など、そういう所は旅行中に何度も前を通っているのですが、知らぬということは悲しいものです。すべては「後の祭り」でした。今、ウエブサイトを検索すると、そういう「ゆかりの地」が7つも8つもあって、標識や記念碑のあることがわかります。モーツァルトより人気があるのではないかと錯覚しそうなほど。そういえば私は、ルートヴィヒ・フィッカーの雑誌“Brenner”の本拠だったインスブルックにも行ったのでした。そしてあの有名な「ブレンナー峠」を望見したのです。もちろん、ブレンナー峠−雑誌“Brenner” −フィッカー−トラークル、という「連関」のことなど何もしらずに。
またリルケに戻って、少なくともやりかけのハイデガーのリルケ論についての読みを、あと2回ほどでまとめたいと思っています。そのあと、「リルケ読書その後」をもう少し。今、ある縁でヴィーコを読むことを迫られて、その読書中。そうするとデカルトも。併行してリルケ、トラークル、ハイデガー、さらに取り残された立原道造と「風立ちぬ」論、奥の院に伊東静雄――と、まあ、がんばってみよう。
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リルケの空白時代(遍歴時代)
こんにちは。山本様 (またリルケに戻りますが)
『マルテの手記』完成(1910年)〜『ドゥイーノの悲歌』完成(1922年)の12年間はリルケの「空白時代」と言われることがあります。
この「空白時代」には、いわゆる「遍歴時代」(1910年〜1914年)と第1次世界大戦(1914年~1919年)がありました。「遍歴時代」に、リルケは、まるで『マルテの手記』の世界から逃れるように、「救いとなる出会いを求めて」各地(イタリア、スペイン、北アフリカなど)を転々と放浪しています。30代半ばから40歳にさしかかったリルケは、視覚的、空間的、彫塑的なものから、音楽的なものへ近づこうとしていたのです。「私を驚かせ 音楽よ」
ちょうどその頃(1914年1月22日付)、ウィーンの若い女性ピアニスト(マグダ・フォン・ハッティングベルグ。ブゾーニの弟子)から、「あなたのおそばに行って、音楽の宥和力によって、あなたのその不安な魂を救済したい。」というような趣旨のラブレターが届くのです。
その日から2月21日までの一ヶ月間に、リルケは15通の熱烈な長文のラブレターを書いています。(リルケは彼女をBenvenutaと呼んだ。それはWelcomeというほどの意味らしい。)その後二人はベルリンで落ち合い〜パリ〜ドゥイノ館と2ヶ月余の旅をしています。
彼女は貸しピアノをリルケの部屋に持ち込み、ヘンデル、バッハ、シューマン、モーツアルト、ベートーベン・・・と日課のようにピアノを弾いて聴かせました。しかし、やがてはさすがのリルケもそっと席を立って部屋から姿を消すようになったそうです。そしてまもなく二人は旅先で別れました。
しかし、このベンヴェヌータ体験を経て、リルケは「見る詩人から愛する詩人へと脱皮した」そうです。その過程を表すのが『ベンヴェヌータとの愛の手紙』(源哲磨訳 河出書房新社)であり、1922年に『悲歌』や『ソネッット』において「心の仕事」を成し遂げるに到ったのだそうです。
私は,他人のラブレターを読むなどという無粋な趣味はありませんが、リルケにとっては手紙=日記であり、その手紙の言葉のどこかに、リルケの「心の遍歴」を解明するキーワードが散りばめられていると言われると、読まざるをえませんね。しかし、ここぞという時のリルケはかなり「情熱的」ですね!!
*(蛇足)因みに、小高根氏は「伊東静雄伝では、詩魂の形成過程を内奥から抉りだすために、手紙と日誌と作品との作品との相関の狭間から、できる限り鋭利にメスを入れた。」(小高根二郎「湧然する棟方志功」後記)のでした。微妙な問題であるだけに、読み手は早とちりや我田引水に陥りやすいところでもあり、関係者から大目玉を頂戴することにもなります。書簡集の相方マグダ・フォン・ハッティングベルグも、後日この書簡集(リルケの遺言によりすべて返却された。)をもとに本(**)を書いておられます。(ただし、源哲磨氏によると、この本は粉飾や美化が多くて信頼性に問題があるそうですが、反面資料として只今取り寄せ中です。)
**『リルケとの愛の思い出』(マグダ・フォン・ハッティングベルグ著、富士川英郎・吉村博次訳 新潮社)
昼休みに古本屋に立ち寄ったら『ベンヴェヌータとの愛の手紙』(1973年刊)が150円で売っていましたので購読した結果がこの投稿となりました。なお、キッペンベルク『リルケ』では、ベンヴェヌータは冷たく扱われているように思われますが、その手紙を読む限り誠実で情熱的な女性に見えます。
「転向」
・・・・・視覚による仕事はすでになされた
いまや心の仕事をするときだ」
(1914年6月20日 ルー・サローメ宛書簡)
オスカー・ココシュカ
神戸市立博物館で今「チューリヒ美術館展」をやっています。なかなかおもしろそうで、行きたいのですが、神戸まで電車を乗り継いで行くのはちょっとしんどいので、残念ですがあきらめました。
朝日新聞の夕刊では毎日一点づつ、出品作品の紹介をしています。先日の記事を見て、妙に気持ちがおさまらず、何か言いたくなって筆をとりました。ちょっと場違いで気が引けますが、例の雑談として聞き流してください。
2月14日朝日新聞夕刊、チューリヒ美術館展◆オスカー・ココシュカ「恋人と猫」の記事。
「夫を亡くした女性との恋愛に悩み、第一次大戦に従軍したトラウマに苦しんだココシュカ。劇的な前半生は……」
と始まるのですが、これではココシュカについて何を言ったことになるのか、と大いに不満が生じました。
私の蔵書中に、Alfred Weidinger, Kokoschka und Alma Mahler というのがあります。その本のカバーの文章をここに借りて書き写します。
「オスカー・ココシュカがアルマ・マーラーと初めて出会ったのは1912年4月12日、彼女の夫の死後ちょうど11ヶ月後のことであった。夫は作曲家グスタフ・マーラーである。3日後、ずっと年下のココシュカは情熱的な手紙を書いて彼女にプロポーズし、こうして二人は嵐のように激しい関係におちいった。それはわずか3年しか続かなかったが、この短くて情熱的な情事は彼の仕事に多大の影響を与えた。」
つまり「夫を亡くした女性との恋愛に悩み」という、その女性はアルマ・マーラーです。本書はその二人の「嵐のように激しい関係」の顛末を綴ったもので、著者はウィーンのアルベルティーナの館長(?Curator)。そのため、デッサンその他の資料を潤沢に挿入した、興味深い読物になっています。二人の関係の「わずか3年」の、激情の嵐、その前後の両人の異性遍歴など、書きたいが紙面を食うので、略。ココシュカは1915年、アルマとの関係が破綻した後、第一次大戦の軍役に志願して、ガリシアで頭部を撃たれ、さらにウクライナで胸部貫通銃創という重傷を負います。
ウィーン分離派(ゼツェッション)のうち、クリムトとシーレは大戦末期にスペイン風邪であっけなく死んでしまいましたが、ココシュカは長生きをしました。死亡は1980年、94歳でした。
ザルツブルクのホーエンザルツブルク城に登るケーブル駅の後ろ、山肌に沿って遊歩道があって、ふらふら歩いていると Oskar Kokoschka Weg と書いた標識があります。え、何だ、なんでこんなところにココシュカの名が、と不審に思い、山を下りて町の某美術館で訊ねると、なんでも「この町でココシュカが夏のアカデミーを開いたのだ」ということでした。帰国して調べると、彼は1953年、ここに「国際夏季アカデミー」を設立して“Schule des Sehens”を開いたことがわかりました(〜62年まで)。画学生たちがこの町へ「見ることを学ぶ」ために集まって来たのです。ここでようやく、この投稿の口実が出来ました。
[付記]ココシュカに「風の花嫁」の名で知られる代表作があります。この標題は、1913年11月頃のある夜、ココシュカのアトリエにふらりとやって来たゲオルク・トラークルが、絵を見て付けたのだとのことです(ココシュカ自伝)。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001260.jpg
「チューリヒ美術館展」
おはようございます。
「チューリヒ美術館展」およびオスカー・ココシュカのご紹介ありがとうございます。
さっそく、今度の土曜日(21日)に神戸へ行ってみようと思います。
「チューリヒ美術館展」 (追)
本日午前中に、神戸市立博物館にて開催されている「チューリヒ美術館展」を観てまいりました。
同美術館が所蔵する10万点以上の 美術品の中から、今回は「印象派からシュールレアリズムまで」の67点を選んで日本人に鑑賞の機会を与えようという主旨の展覧会であったようです。
その中で、山本様にご紹介頂いたオスカー・ココシュカの作品は5点展示されており、同美術館がオスカー・ココシュカに力を入れて収集していることが表れています。(セガンティーニ2点、セザンヌ1点)
同展覧会は、5月10日まで開催されているようですので、神戸に行く機会があればまた同展を観たいと思います。
トラークル頌/オスカー・ココシュカ
「トラークル全集」付録しおりの中に次のようなオスカー・ココシュカによるトラークル頌がありましたので、ご参考になるかどうかは分かりませんが、とりあえず転載してみます。
・・・・・私たちは一緒に「嵐の花嫁」(現在バーゼル美術館蔵)を描きました。私は彼の肖像を見たこともありました。が、当時私が「嵐の花嫁」を製作していた頃、トラークルは毎日私のところにいました。私は本当に簡単なアトリエを構えていましたが、彼は私の後ろのビール樽に腰を下ろしているのでした。そして時おり、われ鐘のような声でしゃべるのでした、とめどなく。そして又、何時間も黙りこくっていました。わたしたちは二人とも当時市民生活に背を向けていました。私は両親の家を出ていました。ウィーンでの私の展覧会や芝居のまわりは荒れ狂っていました。ところで、彼は「旋風」“Die Windsbraut”という言葉を彼の詩に引用しました。
<添付の絵は、「嵐の花嫁」“Die Windsbraut”1914のポスター複製のようです。>
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001263.jpg
(無題)
諫早出身で日本を代表する抒情詩人 伊東静雄を偲ぶ「菜の花忌」及び「伊東静雄賞贈呈式」を下記の要領で開催いたします。 野の祭りとも称するにふさわしい早春 諫早の文化催事です。お気軽にご出席ください。
<第51回 菜の花忌>
日時:平成27年3月29日(日)午後1時〜
(雨天の際は諫早観光ホテル道具屋)
場所:諫早公園 中腹 伊東静雄詩碑前
内容:菜の花献花 詩の朗読
<第25回 伊東静雄賞贈呈式>
日時:平成27年3月29日(日)午後2時30分〜
場所:諫早観光ホテル道具屋
内容:贈呈式
???????????? 奨励賞 八重樫 克羅氏
奨励賞 いわた としこ氏
??????記念講演 講師 倉橋健一氏(詩人)
演題 「伊東静雄の詩と生きた時代」
???????????????????????????????????????????????????? 伊東静雄顕彰委員会
メルリーヌ
塚越敏・田口義弘編『リルケ論集』(同文社、昭和51)というものを読みました。合計11篇の論考のうち1篇を除いてすべてが外国語からのもので、そのせいというわけでもないのでしょうが、ほとんどが私には消化できませんでした。紙面をとりますが、収録論文名と筆者を記します。
リルケ ジャン・カスー
リルケと実存哲学 O・F・ボルノー
リルケとキルケゴール ヴェルナー・コールシュミット
リルケとカスナーにおける想像力 ゲルハルト・マイヤー
リルケとマラルメ ベーダ・アレマン
「人形」「踊り子」「天使」 ルートヴィッヒ・メスター
リルケにおける言葉の主題性 ヤーコプ・シュタイナー
リルケの《オルフォイス》 ヘルマン・ボングス
純粋な矛盾 ディーター・バッサーマン
メルリーヌと所有なき愛 ユードー・メイスン
今日のリルケ 上村弘雄
「リルケ問題」というもののひろがりがよくわかります。編者は、あと現象学の立場からと精神分析の立場からの論説がえられなかったのを遺憾とする、と云っていますので、裏を返せば、これで「リルケの諸問題」は網羅されている、ということになります。そうして、あらためて思うに、その各々が、なんとも一筋縄ではいかぬこと!
そんなわけで内容紹介はほんの少し、今回は<メルリーヌ>の問題をとりあげます(もう1回、次回に実存哲学。私に理解できたのはこの2本だけでした。)
前にMorgenさんから、ベンヴェヌータ(Benvenuta, Magda von Hattingberg)との交情についてのご紹介がありました。私はこのベンヴェヌータや、今回とりあげるメルリーヌも、伝記をあとでたしかめれば、たしかに出て来るのですが、読んだときにはすぐ名前を忘れてしまって、まったく記憶に残っていませんでした。
たとえば、ルー・ザロメ『リルケ』では、(註で)次のような記述をみつけることができます。
「1921年2月12日から14日にかけてベルクの館にバラディーヌ・クロソウスカ夫人(メルリーヌ)が訪ねてきた。リルケはこのとき彼女にヴァレリーの『海辺の墓地』を朗読した。リルケはその年の3月14日と15日の2日間でこの『海辺の墓地』を翻訳する。ヴァレリーとの出会いは、第一次大戦後のリルケにとってきわめて大きな体験であった」(p.158)。
「1921年6月19日、ベルクの城をでて、しばらく滞在していたエトワにメルリーヌが訪ねてきた。彼女とリルケは新しい住まいを探す目的でリルケは23日にヴァレーを訪れた。29日になってようやく理髪店のショーウィンドウのなかに写真つきで売邸または貸邸、という広告がでていた。それがミュゾットの館である」(p.160)。
またホルトゥーゼン『リルケ』にも記述があり、メルリーヌとリルケが並んだ写真も載せられています。
[1921年6月、リルケは]「エトワにほど近いコルで、かつてドゥイノでともに客として知り合った女性と再会してこれを祝うことができた。この女性は、ある種の紛糾で重苦しい気持ちになっていたリルケを奮い立たせると同時に、熱心に彼をくどいて、作品『悲歌』を断片形式で発表しようという絶望的な彼の計画を思いとどまらせようとしたのである。それは、新たなエロス的関係がその情熱的な局面に突入した時期のことであった。ほかならぬその関係とは、……ジュネーヴを定住の地としていた女流画家、バラディーヌ・クロソウスカとの関係であった。……リルケがヴァレー地方を旅行した折の6月末に、彼といっしょにミュゾットの館という小さな重厚な塔を発見したのが、またの名を「メルリーヌ」というこのバラディーヌであった」(p.206-208)
(メルリーヌ Merline は、リルケが勝手にそう呼んだのでしょうか。正式には Baladine Klossowska, 1881-1969, 夫は Erich Klossowski)
本稿の筆者、ユードー・メイスンは、リルケが求める女性関係のあり方を「所有なき愛」と呼び、それは次のようなものであったと云います。
「リルケの所有なき愛の基本概念とは次のようなものである。すべて共有するものは愛においてせいぜい本来的でない、従属的、一時的な意味しかもたぬ。そもそも愛とはそれに与えられた最高の展開をとげるためには、現実にはまったく没却されることのない孤独を回復し、したがって愛の対象を消滅させることを必要とする。それゆえ別離はすべての合一よりも重要なものとし、結婚は何の拘束力もない市民社会の偏見にすぎぬとし、それに反して別れることは真の秘跡のようなものと見なさねばならぬというのである。男特有の粗野な「所有」への意志(この意志は決して肉欲そのものと同一視してはならないが)をいだく男性側だけが、この愛のまことの本質が今日まで知られなかったことに責任がある。女性は、彼女自身このことに気づいているか、それを認めるかどうかはとにかく、自分の愛が相手によって答えられないとき、もっと正しくいうなら、恋人が彼女のもとを去り、彼女がつきることなく湧き出る泉のようなものにまで高められた心をいだいてただ一人あとに残るとき、最高の魂の充足をおぼえるものである――サッフォー、マグダラのマリア、エロイーズをはじめとしてリルケは数えきれぬ多くの場合をその実例としてあげることができるというのである。」
「最もすぐれたリルケ通の一人」、ディーター・バッサーマンが1954年に『ライナー・マリア・リルケとメルリーヌ――一九二〇年から二六年までの往復書簡』を刊行して、はじめて二人の交渉の経過が明らかになった、といいます。(この本はまだ翻訳がないと思います)
「リルケが一九〇六年の昔にパリで持った画家メルリーヌとの浅いつき合いを、彼のスイス滞在期のはじめ、一九一九年六月にふたたび始めたころ、彼女は当時十四歳と十一歳の末たのもしい息子たち、ピェールとバルトゥースとともにジュネーブに住んでいた。リルケが彼女のもつ「神によってえらばれた乙女、聖母の浄らかな顔」について語り、また彼女は「私はただあなたのためにだけ若く美しくあると信じないではおられないのです」と自分についていうことができたほどにメルリーヌをふたたび「乙女にかえした」あの運命的な愛が、この再開された交際の中から燃えあがるまでにはまる一年が経過しなければならなかった。二人の愛の出会いそのものは……一九二〇年八月の三週間のうちにおこっている。はじめは「現実世界のそれと全くちがった空間の中で……まるで新たな次元の充実を」二人が体験することとなったウィーンで、次にはわずかの別離をおいて、嵐のように狂喜させる幸福の二日間が彼らのものとなったベルンでのことである」
リルケは「かつてクラーラ・ウェストホフやマグダ・フォン・ハティングベルクその他の女性にしたように、自分が愛にたずさわるには特別の条件が守られねばならぬということをあらかじめメルリーヌに対してもいいきかせておいた」らしい。しかしメルリーヌには、それは通じない。
「彼女にとっては自分の心を所有することなどどうでもよいのである。むしろ彼女がもとめるのは……リルケの心を所有することである。……愛とは人間的条件を超越することだなどという考えは彼女の心をいささかもひきつけぬ」
「彼女はリルケの所有なき愛に、ありきたりの人間的で地上的な愛をこえる何かをもはや認めてはいない。……リルケが彼女に送ってくる所有なき愛についての多くの書物に彼女はしばらくすると怒りはじめる。――彼女はその行為に相手の意図を感じて機嫌をそこねる。『ポルトガルの尼僧の手紙』を受けとったあと、彼女はいう。「友よ、これらの処方箋は何の役に立つでしょうか。たとえそれが最もすてきな本であるとしてもです」」
くわしい経過は書簡集を読まなければわかりません。ユードー・メイスンの判決はこうでした。
「リルケの作品の中からわれわれに向けられているかのようなこの要請を前にしてわれわれが知っていなければならないのは、いったいリルケがどのような人であったか、彼が他のだれよりもずっとよく精通していると思っていた愛において、みずからはどのような成果をおさめたのかということである。だがこのきびしい問いかけに対して実に気をもたせる解答は、リルケが愛の中で、また愛にのぞんでくりかえした数えきれぬ試みが生涯挫折しつづけたということである」
書いてきて、ここでふと、立原道造のことに思いが行くのは、どうしてでしょうか。
?
リルケと立原道造の類似点
こんにちは。ただいま昼休みですが大阪は雨が降っています。
<立原道造のことに思いが行く>という山本様のご感想は、特に「ベンヴェヌータ書簡」を読んでいると同感します。立原道造『優しき歌』に描かれている水戸部アサイさんは、「立原さんは、私を透過してずっと遠くを見ていたのではないか。」というようなことを何かに書いておられたのを読んだ記憶がありますが、リルケもベンヴェヌータを透過してずっと遠くを(あるいは自分の心の中を)見ていたのではないでしょうか。(1914年)
メルリーヌの方は、パリ文化人グループ内の古い友人だった(1900年頃?)という事情もあるのでしょうが、その間に戦争がありパリの外国人は排斥されています。また、スイス田舎での不便な生活のお手伝いという実利的な面もあったのではないでしょうか。(1919、1921年)
(因みに、メルリーヌのご子息バルチュスの奥様は日本人で、1900年初頭のパリ文化人グループはジャポニズムJaponismeファンが多かったようです。)
リルケはその人柄や文学を通じて、女性が思わず傍に行ってお世話をしてあげたくなるような(女性本能をくすぐる)何かを発散していたのかもしれませんね。
訂正
「メルリーヌ」1行目の 同文社 は、国文社 のまちがいでした。
おわびして訂正します。
Morgen さんへの応答は、いつかまた。
ご報告
冷たい風の中,諫早公園の大寒桜が開花しました。青空を背景に花の色が映えます
メジロの群れとヒヨドリが蜜を求めて賑やかです。
2月28日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて第87回例会を開催しました。
出席者は7名。
3月29日に開催される第51回「菜の花忌」に向けて,多くの皆様に参加して頂くにはどのような広報活動を行えば良いのか,様々な意見が出されました。
会報は第81号。
内容は次のとおり。
1 「異郷のセレナーデ」 遠藤 昭己
??????????????????????????????????????????????????第7回 伊東静雄賞受賞詩
2 伊東静雄作品を読む????????????????????????????????????????????上村 紀元
???????????????????????? 三篇の詩の共通性について
????上村代表が,「いつて お前のその憂愁の深さのほどに」??????昭和十年六月
??「かの微笑のひとを呼ばむ」??????????????????昭和十年七月
??「漂泊」???????????????????????????????? 昭和十年八月
????の三篇を考察しました。
??詩集では独立の作品としてバラバラに編集されているため,夫々が難解な詩のように思われるが,制作
??順に 一気に読むと明解に読み解くことが出来るのではないだろうか。
3 TOPIX 犬塚潔氏からの上村紀元宛て葉書
????......昭和17年,当時学習院文芸部委員であった三島由紀夫氏は「輔仁会」雑誌第168 ??号の巻頭言に伊東静雄氏の言葉を掲載しました。
4 菜の花忌???? ?????????????????????????????????? 中嶋 英治
?????????? ????????『河』69号 昭和61年
5 諫早の春 田中元三(西宮在住)
以上
?? 3月の例会は,14日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
桜開花
諫早公園の大寒桜が咲きました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001269.jpg
「静雄詩のトポロジー」
こんにちは。
「諫早公園の桜便り」拝見しました。拙宅前の公園の河津桜も満開を過ぎ既に半ば葉桜になっています。まだ寒い日もありますが、確実に春が来ていることの証です。
『大阪春秋』という雑誌が発行されていますが、その昭和55年9月号に「現代文学的トポロジー」と題するエッセーがあり、その中に「伊東静雄詩のトポロジー」とでも云えそうな文章があります。(上村さんにその部分コピーをお送りしておきました。)
<ここらは山本様のご専門ですね。>
同エッセーでは、伊東静雄の詩を生んだトポロジー(風土)としては、阪南町、天下茶屋、松原通、三国ヶ丘などがそれに相当するのでしょうが、筆者の藤田実さんは「伊東静雄の詩に含まれたふしぎに燈明な形而上的空間の感覚は、阪南町を起点として、彼がその詩の大半を形成したこの大阪南部の風土と切りはなしては考えられない。・・・・・」と書いておられます。お手元に届きましたらご一読下さい。(希望者にはコピーをお送りします。)
三国ヶ丘の「菜の花忌」は3月1日に行われたそうですが、出席できませんでした。
諫早「菜の花忌」のご成功をお祈りします。(28~31日、私は東京・北海道方面出張予定です。)
ボルノー「リルケと実存哲学」
先月末の投稿でとりあげた、塚越敏・田口義弘編『リルケ論集』収録論考のうち、今回はO・F・ボルノー「リルケと実存哲学」を紹介します。
本論は3つの論題から成り立っています。
一 現代詩人としてのリルケ
二 リルケの概念語について
三 リルケの実存哲学
一 現代詩人としてのリルケ
イ. 人間とはそもそも何であるのか。リルケが詩人として負うた新たな使命
「過去の他の詩人たちはすべて、彼らの所属する時代によって提供された、一定の人間像を抱いていた。彼らには、せいぜい、ともにおのれを形成しながら、こうした人間像の造型に関与することができただけである。その本質において人間とはなんであるか、という問題は、少なくともその最も深いところにおいては、彼らにとって、問うに値する問題とはならなかった。しかし、リルケは現代に特有の問題のなかに立っている。……そしてこの現代においては、以前のいかなる時代とも違って、人間の本質が問われることとなったのである。人間とはそもそもなんであるのか。リルケにはもはやわからない」
「リルケは、人間そのものを歌った詩人である。……以前の人間把握がすべて疑わしいものとなってしまった後に、測り知れぬ闇のなかから新たな輪郭を探り出すこと、すなわち、人間解釈の新たな可能性を明るみへと引きだすこと、これが彼の使命なのである」
「われわれが詩作に関して知る限り、リルケほど、もっぱら人間を、飽くことなく持続的に問うた詩人はいまだかつていなかった。また、個々の人間が、彼ほどに、人間存在の新たな解明へと入り込みえたためしはなかった。そして、それゆえにこそリルケは、われらの時代の詩人なのである」
ロ. リルケの詩作の諸画期
(1) 「本来のリルケとそうでないリルケとの間に一線を画さねばならない。」本来のリルケは後期リルケ、『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』およびそれ以後のリルケである。
(2) 初期作品群は本来のリルケへの視線を遮蔽してしまう。『新詩集』さえ、それが厳しい自己抑制を知らしめたことによってのみ、意義がある。
(3) ひとつの画期としての『マルテの手記』。ここではじめて「人間一般の本質にあるもの」への肉薄が本格化した。「いまや初めて人間は完全に不確かな、疑わしいものとなった」
ハ. 後期作品の特質
(1) 「リルケの作品領域は抒情詩であって、それ以外のものではない。それにもかかわらず、厳密には、リルケは少なくとも従来的な意味あいでの抒情詩人ではない。……われわれにとってとくに決定的な意味をもつ、あの最終の最も深みのある創作段階において淘汰されて残ったものは、きわめて客観的なものであり、……それのもつほとんど冷徹な厳しさにおいては、思想詩そのものである」
(2) 「とはいえ……彼において問題となるのは、……前もって把握されたある思想の詩的表出ではない。……リルケの思索する場とは、同時に思想が詩として形成されるところである。……リルケが活動するところとは、詩作と思索とがまだ別個の可能性として分離していないところ、詩作がそのままなお思索であるところの深みである。ここにおいてリルケは、精神的業績のひとつの根源に到達している。この根源において彼に比肩しうるのは、せいぜいヘルダーリンくらいのものである」
(3) 「リルケの詩作領域は、このように驚くほど狭い。内容からみれば、結局ふたつのおおきな対象だけがあり、これらをめぐって彼のすべての思考は旋回するのである――すなわち、人間と事物であり……しかし、これらふたつのかけ離れた両極の間には、有機的なるものの包括的な領域が欠如している。――動植物にみられる生が、また最も広い意味での風景一般における生が、そして、精神的、歴史的世界における人間の生の豊かさもまた欠如しているのである。……その結果リルケには自然とのいかなる実際の関係もないのである。」
ほとんど引用ばかりになってしまってすみません。「詩作=思索」がそのまま言われているところなど、関心をそそります。(未完。以下、次回へ)
「変容の詩人」&「菜の花忌」
『リルケ論集』(塚越敏・田口義弘編 同文社、昭和51)は、「日本の古本屋」に注文しておいたのですが、少し遅れて在庫切れの返事があり、改めてアマゾンに注文しました。
リルケは、「変容の詩人」と言われるように、初期〜中期〜後期で大きく「変容」しています。リルケ自身が、「若き詩人たちに与える手紙」の中で、「・・・・・それは、あわやと思う土壇場で、王女に変身する竜の神話です。 おそらく私たちの生活のすべての竜は王女なのであって、ただ私たちが美しく勇気ある者になる瞬間を待っているのでしょう。」と、「変容」の意義について語っています。
「自分の人生を“失敗に帰した人生”、“失われた人生”として、嘆いたり、悔恨したりしている。」 そして「それまでの過去を全否定して、人生を第一歩から新しく踏み出そうとしている。」ことにおいては、リルケも萩原朔太郎も共通していると、富士川英郎さんは仰っています。(「萩原朔太郎とリルケ」昭和37年8月『無限』) 朔太郎『氷島』はまさに悔恨の詩集です。
詩人といわれる人たちは、その程度に差はあっても、詩人であることと生活者であることのハザマで、揺れ動き、漂泊する運命にあるようですね。
今年の「菜の花忌」では、上村さんが、伊東静雄の「行って、お前のその憂愁の深さのほどに」「かの微笑のひとを呼ばむ」「漂泊」(昭和10年6,7,8月発表)の三詩を取り上げて、ご講演いただくということで大いに期待しています。
伊東静雄もまた、リルケや萩原朔太郎と同じく、苦しい「悔恨」や「憂愁」「孤独」「絶望」などの心の渦に巻き込まれながら、漂泊する中で「真清水」に出会い、新しい詩魂や詩語を開拓していったのだろうという状況を、私も推測します。
PS1/山の方には既に春が来ていますよ。中山観音さんの梅林も見ごろを迎え、三つ葉つつじの蕾もふくらんでいます。
PS2/菜の花忌・・・中野章子さんがブログに「菜の花忌」のことや庄野潤三さんのことをお書きいただいています。必読!! 菜の花の写真は中野さん撮影のものです。
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ご報告
今日は生暖かい雨が降り,久しぶりの春雷がとどろいています。
菜の花があちらこちらで見られます。
来週にはソメイヨシノが開花するようです。
3月14日午後2時から,諫早図書館2階集会室に於いて第88回例会を開催した。
出席者は8名。
まず,平成26年度の決算承認を行った。
次に,4月から原点に立ち返り,現代詩文庫『伊東静雄詩集』をもう一度
最初から読みなおすことにした。
私も含め,途中から入会した者にとっては,嬉しいことです。
これを良い機会として,詩やそのほかの文学を楽しみながら学んでみたいと思われ
る方は,お気軽にのぞいてみられたら如何でしょうか。
会報は第82号。
内容は次のとおり。
1 詩集『春のいそぎ』自序 伊東静雄
2 詩 『大詔』??????????????????????????????????????????????伊東静雄
3 詩 『わがうたさへや』????????????????????????????????????伊東静雄
4 詩 『述懐』?? 大詔奉戴一周年に當りてひとの需むるまゝに?? 伊東静雄
5 詩 『那智』??????????????????????????????????????????????伊東静雄
6 昭和20年8月15日,終戦勅語を聴いて
?? <伊東静雄全集に収められた日記より>?? ???????????????????? 伊東静雄
7 伊東静雄詩集(創元選書) 解説 昭和28年6月 桑原武夫
8 伊東静雄全集(人文書院) 後記 ??桑原武夫
9 田中克己(成城大学教授) ー伊東静雄回想ー 上村会長の編集構成
以上
4月の例会は,25日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
「兼常清佐氏のこと」
“『伊東静雄詩集』をもう一度を最初から読みなおすことにした。”という「伊東静雄研究会」の兄姉方のご決意に心から敬意を表します。(私も、何度読んでもそのたびに新しい課題を出されているような気がします。)
杉本秀太郎氏は、近代日本詩人選『伊東静雄』著者および岩波書店『伊東静雄詩集』編者として、私たちには馴染みの深い方です。(桑原武夫氏などを中心とする「新京都学派」の一員ともいわれます。)
同氏は、『哀歌』の全篇を「私」「半身」というふたりの擬作者に割り振り、一種のドラマとして構成してみることによって、詩人の「意識の暗黒部との必死な格闘」の実情を解明しようとされ、静雄詩解釈に敢えて一石を投じられました。(静雄詩解釈がトマトの連作のようにマンネリ化して小粒化してしまうことへの警告として。)
同氏の『伊東静雄』(筑摩書房版)246ページから250ページに、「兼常清佐」が登場します。伊東静雄は、昭和10年10月の『哀歌』出版直後、ゆり子さんへ手紙を書いています。「兼常清佐といふ人があるでせう。あの人にも送りました。ただし返事なし。」(昭和10年11月2日付け、酒井ゆり子宛書簡)
杉本秀太郎氏は「詩集献呈の事実は、伊東静雄が兼常清佐の読者だったことを示しているばかりでなく、幾つかの点でこの人の注意と関心を呼びさましそうなところをみずからの詩集に自覚し、自負していたという推定を許容する。」(『伊東静雄』249ページ)と述べています。そこでさっそく「日本の古本屋」を見たら『平民楽人シューベルト』(昭和3年刊行)がありましたので注文しました。昭和10年6月刊『音楽と生活』も容易に入手できそうなので一読してみます。
「行って、お前のその憂愁の深さのほどに」「「かの微笑の人を呼ばむ]「漂泊」の3詩を読んで感じるのは、いずれの詩も内容が動的(動詞が多く用いられているという意味でも)であり、短い物語風(劇的)でもあるという共通性をもっていることです。3詩が偶々そうなったというよりも、詩人の何らかの「意図的」なものが私には感じられます。そこですぐに連想されるのがBallade(物語詩)やドイツリート(民謡)です。
また「魔王死に絶えし森の邊」という詩句は、やはり北欧民話(森の中には色々な妖精が住んでいて妖精たちの王様が魔王である。)からの引用ではないかという印象をもちます。
長くなりますので、これについては兼常清佐『平民楽人シューベルト』を読んでみて、またあらためて投稿させていただきます。
ご報告
3月29日は初夏を思わせる陽気でした。
ソメイヨシノは開花してから瞬く間に満開となりました。
高城城址中腹の詩碑の前で,「第51回菜の花忌」が開催されました。
イロハモミジの薄くて柔らかい若葉が逆光に映えていました。
ウグイスとヤマガラの鳴き声が賑やかでした。
足の踏み場も無いくらい,多くの方々が参加して下さいました。
文芸コンクール詩部門・中学生最優秀賞は,真城中学校三年土橋すずさんの
「夕焼け」。高校生最優秀賞は,諫早高校一年中尾祐圭子さくの「ざくろ」です。
その後,「第21回伊東静雄賞贈呈式」が道具屋ホテルで執り行われました。
長年選者を務められた伊藤桂一先生と高塚かず子さんが,今回限りで退任されました。
奨励賞を受けた八重樫克羅さんといわたとしこさんの受賞詩の朗読を興味深く聴きました。
記念講演は,倉橋健一氏の「伊東静雄の詩と生きた時代」でした。
写真をアップします。
遠く諫早に思いを馳せて頂ければ幸いです。
以上
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ご報告 続
昨日の続きです。
長崎新聞に諫早「菜の花忌」の記事が掲載されました。
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桜満開!
「第51回菜の花忌」のご報告や長崎新聞の記事を興味深く拝見させて頂きました。
私は、会計年度末の決算立会いなどで、東京大阪間を4日間で2往復し、各データセンターを回りましたので、30日、31日2日間の歩数計の合計が5万歩超となりました。
その間をぬって移動中に、ちゃっかりと東京の桜の名所(千鳥が淵、上野公園)へ回り道をして、写真を撮ってきましたので、添付してみます。
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ボルノー「リルケと実存哲学」続
2月3日投稿で一瞬触れた「ヴィーコ」の勉強会がこの5日、日曜日に終り、それまでしばらくリルケの方に手がまわりませんでした。その間掲示板にもごぶさたをしてしまいました。梅が咲き、桜が咲き、ようやく春爛漫なのに、私などまだ「寒い、寒い」と云っています。「粛々と」や「志」「大義」とかがあまり大声で云われる世の中も、私にはうそ寒く感じられます。
Morgen さんの「変容の詩人」としてのリルケ、兼常清佐のこと、続稿を期待しています。変容の到達点としての「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスによせるソネット」、昔勉強したノートなどをひっぱり出して枕元に置いたのですが、なかなかそこへ戻る気になれません(山が高すぎます)。
本稿は、3月11日投稿の「ボルノー「リルケと実存哲学」」の続きです。
一、現代詩人としてのリルケ(前回)
二、リルケの概念語について(今回)
三、リルケの実存哲学(次回)
二、リルケの概念語について
イ
「リルケの言語を考察するにあたっても、ある種の貧しさというものがどうしても目についてくる。……彼の言語には軽妙で流れるような豊かな表現が欠けている。……この欠乏は偶然的なものではなく、ある意識的な造型意識の効果なのである」
ロ
「リルケにとって顕著なことは、絶えずくりかえされるわずかな単語で済まされていること、また散文や詩のなかで常に新しい関連によって飽くことなく反復されている一定の持続的な単語が存在していることである」
ボルノーはそのような単語として
純粋な rein、親密な innig、開かれた offen、信頼しうる verläßlich、消える schwinden、乗り超える übersteigen、凌駕する übertreffen、もちこたえる bestehen、讃える rühmen、誉める preisen、従う gehorchen、果す leisten、用いる gebrauchen、などをあげています。
ハ
そうした単語は「その当の単語がたんに問題の個所の特殊な文脈から生まれでてくるというだけでなく、リルケの文学世界全体のなかでその単語が特徴づけているところのより広範な意味連関が同時に共鳴しだす、ということである。その単語は、その特定の個所において、ある表現価値を持つというだけではなく、同時にリルケの文学世界の総合的連関において、きわめて確定的な機能上の価値を持つのである」
ニ
「それゆえ、彼の慣用語についてはくりかえし付説を施すことが要求され、他の詩人の場合と異なり、――最も重要な単語の言語上の使用範囲をある程度完全に集録し、その「諸分野」を展開することで、信頼するに足る解釈の前提となる――「比較リルケ辞典」なるものがあれば、それは不可欠なものであろう」
ホ
「リルケが好んで用いた単語の系列を一見するや、いまひとつの別のことが目につくのである。その系列には、われわれをとりまく世界の感覚的な豊かさを表現するための単語はないのである。……具象的ならざる蒼白い単語……それゆえ彼には、言語理解の常識に従えば、まったく詩的ではない文が、むしろ哲学の概念語による教訓的なかたちをとった文が成立する。……リルケの晩年の作品は、言葉の厳密な意味における「教訓詩」である」
たとえば「彼は従う、踏み越えることによって」「変身を意志せよ」「純粋な関連へと戻りゆけ」などをボルノーは挙げています。
ヘ
「リルケにあっては、同一の表象が、同一の想念がなんとくりかえしくりかえし反復され、その結果、彼の文学作品が立脚している世界は、合わせてみてもかなり限定され一望しうるほどの範囲となっていることに驚かされる。……リルケにあっていく度もくりかえされ、ある象徴的な意味にまで高まった一定の対象、例えば「鏡」、「泉」、「ボール」、「秤」、「バラ」あるいはそれに類する花――……(中略)……このような象徴はこの場合も数の点ではかなり限られ、概算しうるほどではあるが、リルケの作品にくりかえし現われ、新たに観察されるごとに新しい深みをますものである。それゆえに、それらの象徴は、リルケの世界を理解するための恰好の入口をなし、詳細にして厳密な考察の対象に値するものである」
引用ばかりになってしまいました。
この章では本題の実存主義には言が及んでいませんが、このようにリルケの用語の独自性に焦点を絞った論究はさほど多くはなく、貴重であり、また、リルケの語彙の意外な乏しさや抽象性と機能性の指摘、さらに「比較リルケ辞典」(いつぞや「立原道造辞典」について何か書いたことを思い出します)「教訓詩」等の意表をつく発想など、私は興味深く読みました。そういえば前回の「詩作=思索」も、同じ発想で換言すれば「リルケの晩年の作品は、言葉の厳密な意味における「形而上詩」である」とでも云えそうです。
岩波PR誌『図書』からの見つけ物
『図書』今年の3月号に池澤夏樹さんが「「風立ちぬ」という訳を巡って」という文章を書いています。
堀辰雄の『風立ちぬ』は、まず扉にヴァレリーの詩句 "Le vent se lève, il faut tanter de vivre." が引かれ、第1章「序曲」が「それらの夏の日々……」と、回想の口調で始められる。「私達」は草原の白樺の木蔭に寝そべっている。「そのとき不意に、何處からともなく風が立った」。何かが倒れる物音がした。画架が倒れたらしかった。ふと、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が、口を衝いて出て来た。……
池澤さんは、この「生きめやも」が「誤訳」であるという、おおかたの説を、丸谷才一と大野晋との対談から、次のように引用しています。
丸谷 「生きめやも」というのは、生きようか、いや、断じて生きない、死のうということになるわけですね。ところがヴァレリーの詩だと、生きようと努めなければならない、というわけですね。つまりこれは結果的には誤訳なんです。(下略)
そして大野もこれを肯っているので、誤訳説は定着したかに思われた。
ところがこの対談の数年後に、『昭和文学全集 6』(小学館)の「室生犀星・堀辰雄・中野重治・佐多稲子」の巻の解説で清水徹がこれに反論を加えた。……
以下、池澤さんはこの反論の紹介に移ります。すでに十分に要約されたその内容をさらに要約するのは至難なので、以下の拙文の疎漏はお含みおきください。
小説『風立ちぬ』の、「序曲」「春」「風立ちぬ」の章は、回想の文体で記され、「冬」の章ははじめに日付が明記されて、現在進行形の語りになる。前半3章は、「私達」が愛し始め、やがて「お前」は胸を病んで療養所に入り、「私」はその病室につき添う生活を始めた、そこまでの、「冬」冒頭一九三五年十月二十日以前のある時点からの回想になっている。
「愛し合いはじめた自分たちの未来が暗雲に覆われることを、夏の草原に横たわる「私」は知らないが、その抒情的風景を回想する「私」のほうは知っているのである。「風立ちぬ……」の一行は、こういう文脈に置かれている。だから、この一行はこの文脈との関連で、意味作用を繰りひろげる。風が起こり、画架が倒れたとき、「私」の口を衝いて出て来た詩句は、回想的な語りによるこうした二重性を、「やも」という終助詞の意味のひろがりを利用して、いわば一行の両側に彫りこんでいるわけである」
さらに池澤さんは、清水の引用を続け、
「著者によって置かれた題辞「生きんと試みなければならぬ」は、こうした語りの治癒力にかかわる。婚約者につき添ってサナトリウムにこもり、婚約者の死の経験をした「私」がなぜその経験を語ろうとしたのか。書くことをとおして、悲しみを乗り越え、「生きんと試み」ているからである。悲しい経験のあとで、それを書くことによって、《婚約》という著者自身にとって重い意味をもつ主題を深く認識し、生への復帰を試みているからである。そうやって堀辰雄は貪婪に作家としての道を進んでゆく」
見事な読みだと思うし、結論は出たとも思う、と記すのです。
清水徹解説の全文を、一度読んでみたいと私は思っています。
池澤さんの文章を読んだのとほぼ同じ頃に、金時鐘『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ――』(岩波新書)を読了しました。これは2011.6〜2014.9の40回にわたる『図書』連載をまとめ、終章を加えたものです。
「やはり歌は情感の産物のようです。その情感を一定の波長の心的秩序に仕立てているものが抒情なのですが、だからこそ批評はこの「抒情」のなかに根づいていかねばならないと私は思いつづけています。私が抒情という、さも共感の機微のようにも人の心情をほだしてしまう感情の流露を警戒してやまないのは、私がなじんで育ったあらゆるものの基調に、日本的短詩形文学のリズム感が規範さながらにこもっているからであります。// 思えば思うほど私はその情感ゆたかな日本の歌にすっぽり包まれて、なんのてらいも抗いもなく新生日本人の皇国少年になっていった者でした」
これと並んで、
「私はその本を道頓堀通りの「天牛」という古本屋で手に入れました。古本とはいえまだ新本同様の、『詩論』という小野十三郎著の単行本でした、そのときのとまどいと衝撃は、その後の私を決定づけてしまったと言っていいくらいのものでした。……詩とはこういうものであり、美しいとはこういうことである、といった私の思い込みを、根底からひっくり返してしまったものに『詩論』と小野十三郎は存在しました」
金さんはやがて大阪文学学校にかかわることになり、多くの文学仲間と交わりを得ます。
「なかでも文学の発光体のような三人の友人、しなやかな論理性と巧まざる筆法で読者を虜にしてきた、文芸評論家の松原新一氏と、名人芸の文章力としか言いようがない作家の川崎彰彦氏、そして底知れぬ知識を蓄えている、詩人で評論家で、ドイツ思想専攻の大学人である細見和之さん。」
「詩人、倉橋健一君」との出会いのことも記されています。
その細見和之さんが、同じ『図書』3月号で、「大阪文学学校創立六十年」という文章を載せているのです。長くは引きませんが、「代表的な講師だった金時鐘さん、倉橋健一さんなどと出会えたことも大きかった」と、それらの名前が引かれています。
細見さんはご承知のように、小野十三郎・長谷川龍生についで、三代目の「大阪文学学校校長」を引き受けられたのです。
私の持っている細見さんの著書といえば、近著『フランクフルト学派』(中公新書)と、前に出た講談社の『現代思想の冒険者たち 15 アドルノ』の2冊だけですが、アドルノについてはほかにも何冊か出しておられ、この掲示板でも昨年、〈細見さんの名前は記しませんでしたが)「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という、アドルノの有名な言葉を、私が(「乏しき時代の詩人」とのからみで)引っぱり出したことがあります。細見さんは、みずから詩人であり、ドイツ思想の専攻者であって、アドルノやベンヤミンの翻訳にもかかわり、評論も書かれ、他方で大阪文学学校校長であり、作曲もし、バンドも結成して活動するなど、柔らかい精神の持ち主と、かねて思っていましたので、いつか、あと数冊この人のものを手に入れて読んでみようと思っています(でも、アドルノはむつかしいのです)。
雑誌『図書』は一冊100円のヘンペンたるPR誌ですが、この3月号は以上のような次第で、思わぬたくさんの見つけ物をした、というご報告です。
金時鐘氏.細見教授のことほか
「図書」読んでいないので山本さんの紹介ありがたいです。金、細見先生は2006年から5年間在籍した大阪文校で講義を聴いたり詩の指導もしていただきました。細見氏は何度か大阪府大でもお会いしました。
たまたま金氏の本を読んでいるところでした。氏のことは殆ど分っているつもりと思っていたが(TV番組や開高建の日本三文オペラのモデル等)四三事件らの詳細な記述を読みながら氏の根底にあるものを改めて知ったしだいです。昨年の小野賞の受賞式は欠席されていて残念でした。
細見氏は詩人金氏に関する著書も出されていますし昨年7月には堺ビックアイで開かれた講演会でアドルノの有名な言葉を引きながら反ユダヤ主義がどのように形成されたかを解説しながら、後半をパウル、ツエランの「死のフーガ」の朗読をCDで聞かせて戴きました。氏の訳で。
また日本の現代詩の歴史にも通じておられ伊東静雄のときは初版本を回覧しながら主な作品の解説をされました。戦争詩のことでは批判もしていましたが。
三好達治賞の詩人でもあります。詩集〔家族の午後)
追記、昨年のけやき通りの会の倉橋氏及び今年の井村氏の講演うっかりして聞き逃しています、諫早の倉橋氏の講演要旨知りたいところです。よろしくお願いします。
訂正
金時鐘、細見氏の記事中、パウル.ツエランの氏の細見訳は「エング.フュールング「でした。「死のフーガ」は飯吉光夫の訳でした。訂正します。
"Le vent se lève, il faut tanter de vivre."
山本様。岩波『図書』3月号のご紹介ありがとうございました。即刻紀伊国屋本町店に駆けつけたのですが一部も残っておらず、取り寄せてくれるそうです。
ヴァレリイ「海辺の墓地」の
風が吹く! ・・・・・生きねばならなぬ!
広大な大気は私の本を開いては閉ぢ、
波は飛沫となって岩に砕ける!
・・・・・
―竹内清己編「堀辰雄『風立ちぬ』作品論集」P90から抜粋
矢内原伊作による詩解釈は次のとおりです。<同書中村真一郎「風立ちぬ(鑑賞)」から>
風が吹く―吹かなければ死ななければならないであろう。・・・
生ある限り、生を願う限り、・・・
知性の本は閉ざされ、砕かれ、飛び去らねばならず、・・・
知性は海辺の墓地に葬られなければならない。
「如何なる風が知性の下に動かなかった海を波立たせ、歓喜の水で打ち破り、新しい生の中に我々を立ち上がらせるのか?・・・この絶望的な極点から我々は何処に行けばよいのか?」(同じく、中村真一郎「風立ちぬ(鑑賞)」から>
堀辰雄の立原道造宛書簡で「今日からやっと小説書き出したところ。今のところ仮に『婚約』といふ題をつけてゐる。(死を前にして)二人のものが互いに幸福にさせ合えるか―さういふ主題に正面からぶつかっていくつもりだ。」(同書P85)
「つまり『風立ちぬ』は、“死”を超えて存在し、“死”を超えて輝く永遠の“生”を、愛のいとなみの中で結実させ、同時に“死”という運命以上の“生”を結実させた愛を高揚させようとした作品である。」(谷田昌平『堀辰雄』)。「死にさらされて始めて透き通って見え始める生の意味」(神西清)などの珠玉のような言葉が紹介されています。
昼休みに、駆け足で、竹内清己編「堀辰雄『風立ちぬ』作品論集」の中村論文を書き写してみました。休憩時間がなくなりましたが下で弁当を買ってきて食べます。ではまた。
ボルノー「リルケと実存哲学」続々
斉藤さん、Morgenさん。早速の応答をいただき、ありがとうございました。細見氏の本2点(金時鐘論と小野十三郎論)をアマゾンの中古に注文しました。斉藤さんの「知己」の多彩さにあらためて感嘆させられました。
竹内清己編「堀辰雄『風立ちぬ』作品論集」はおもしろそうで、私も手に入れたいと思います。「生きめやも」は、文法上はともかく、「風立ちぬ」のどこをどう読んでも、「生きようか、いや、断じて生きない、死のう」という意味には読み取れませんね。中村真一郎は、加藤周一との関係もあり、この人のは何冊か手に入れたいのですが、目下は保留にしています。
今回の投稿のために大急ぎで「風立ちぬ」を読み返してみた際、
・作品の向こうに透けて見えるリルケ、伊東。気のせいか? 早とちりか?
・「風立ちぬ」は、これはやっぱり名作と云うべきだなあ
・堀辰雄の見かけによらぬしたたかさ
そんなことを思ったのでした。
以下、続々ボルノーです。
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一、現代詩人としてのリルケ(前々回)
二、リルケの概念語について(前回)
三、リルケと実存哲学
イ、前提
(1) 「実存哲学という概念は……ここ数年[*山本註]、あらゆる精神生活を掌握し、さまざまな分野で呼応しながら調和の効果を現わしている包括的な一大運動」であり、
(2) 「その精神的運動の基底層で作用している共通性を言い表わした名称」である。
この運動は哲学ではハイデガーとヤスパースによって実存哲学を生み出し、宗教方面ではカール・バルトの弁証法神学を生み、文学ではリルケとならんでカフカの名をあげることができよう。
(3) 「リルケと実存哲学」という問題設定は、リルケの文学を哲学の地平へとひきずり出して強引に哲学的に解釈しようとするものではない。それはより普遍的な当時の精神的な働きからリルケを理解しようとする試みである。
[*山本註] 本論文は O.F.Bollnow: Rilke の序文。刊行は1951年。
ロ、リルケとハイデガー
「アンジェロスの伝える言葉によれば、かつてハイデガー自身が、自分の哲学はリルケが詩的に表現したものを哲学的に陳述したものにほかならない、と語ったとのことである」
[ボルノー註]J.F.Angelloz:Rainer Maria Rilke (Paris 1939)
ハ、実存主義の精神運動の諸特徴とリルケ
(1) この運動の発端=世界の不気味さと人間存在の危機の発現 → 理性への信仰およびこれに代わる生感情いずれもの崩壊
ハイデガー … 人間の現存在の「被投入性」Geworfenheit
ヤスパース … 苦悩と死、闘いと負い目「限界性」
「「護られずに、ここ心の山の頂きで」とリルケが歌うとき、彼もまた人がこのように救いがたく完全に放擲されているという感情を語ったのである。人間の生がまったく護られていないということを、リルケほど衝撃的に表現した詩人は、(カフカは別として)他にいなかった」
(2) 「死」の問題性
「ハイデガーの場合には死への存在(Sein-zum-Tode)が人間の生に究極的な重みと責任とを是非を問わず投げかけるのだが、それと軌を一にしてリルケの場合にも、死の問題は、彼の多様な発展段階において常に伴い、人間の生を熟考する際の内奥の中核となったのである」
(3) 意識の志向性と純粋な関連
ブレンターノとフッサールにおける「意識の志向性」の認識と同様、「リルケもまた、うわべは自己満足して落ち着いている人間の本質を解体し、その代わりに「純粋な関連」――まさしく他のものに対する機能上の関係――を置いたのである」
(4) 超越と乗り越え
ニーチェの「移行」(Übergang)と没落(Untergang)をその特徴とする人間認識、ハイデガーの、人間の自己を越えての移行すなわち「超越」(Transzendenz)を人間の本質とする認識などと同様に、「リルケもまた人間のすべての力を「乗り越え」(Übersteigen)と「踏み越え」(Überschreiten)とに集中させた、これらふたつの語は、「超越すること」(Transzendieren)からの、具象性ゆたかな逐語訳である。/「彼は従う、踏み越えることによって」(オルフォイスのソネット第1部第5歌)」
(5) 決意性
「進歩への信仰は崩壊し、あらあゆる本質的な問題において人間は常に挫折するのだということが、そしてまたくりかえし最初からやりなおさねばならないのだということが認識された」
「ハイデガーは、人間のすべての使命を「決意性」(Entschlossenheit)なる概念で
集約しているのである。――ついでに言えば、この「決意性」なる語は、リルケも特に好んで用いた語である。リルケが、容赦なく幻想を排除して、人間の使命を堅持した方向もここにある」
ニ、実存哲学とリルケの同時代性――1920年代
1924 カフカの死とその後の諸作品刊行
1927 ハイデガー『有と時』
1932 ヤスパース『哲学』
これらはいずれも数年以上の準備期間を含み、同時にそれはリルケ「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスへのソネット」の着手と1924年の出版およびそれ以後のいわゆる後期リルケと、正確に符合する。
ホ、リルケと実存哲学との関連のもうひとつの側面――キルケゴールがリルケの精神的発展に及ぼした重要な意味
ボルノーはキルケゴールを
「かつていかなる思想家も、これほど重要な影響をリルケに及ぼしたことはなかった」「キルケゴールはリルケの生涯における決定的な転回点を意味している」
と、きわめて高く評価している。
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私はキルケゴールについて何を言うこともできませんので、ホ、の詳細は省略させていただきます。なお『リルケ論集』には、ボルノーも参照を求めている、ヴェルナー・コールシュミット「リルケとキルケゴール」という論考が収録されています。
リルケと実存哲学ということでは、ぜひ、塚越敏『リルケの文学世界』を視野に入れたかったのですが、他日を期します。本書はご承知のごとく、とくに『マルテの手記』におけるリルケに焦点をしぼり、これを実存主義としてとらえて論述した大著です。私は本書にたいへん教えられました。
「被放擲性」という語は、中断したままになっている、「乏しき時代の詩人」および立原道造「風立ちぬ」論の続稿へと私を急き立てるようです。
写真2題
日曜日に、養父市の「樽見の大ザクラ」を観てきましたので写真を添付してみます。
山の中で、骸骨のようになって残っていた樹齢1000年を経た桜の木を、村人達の数年がかりの必死の努力によって蘇生させたのだそうで、今では毎年一万人が花見に訪れるそうです。
「諫早眼鏡橋」(1940年 木版 平塚運一)という珍しい写真(『版画芸術』92号「美しき山河」)を見つけましたので、これも添付してみます。
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ご報告
18日、諫早つつじ祭りの一環として、伊東静雄詩の朗読会を開催しました。
高城城址の中腹にある詩碑の周りは、つつじの花が見頃でした。
藤棚には満開の花が溢れ、甘い香りが一帯に漂っていました。
楓の柔らかい青葉が、光輝いていました。
当日は、JR九州主催のウォーキングが実施され、県外からも多くの参加者があり、朗読会にも飛び入りがありました。
「公園」、「わがひとに与ふる哀歌」、「八月の石にすがりて」、「稲妻」、「そんなに凝視めるな」、「燕」、「蛍」、「小曲」と、順次朗読したところで雨がぽつぽつと落ちて来て、一休みとしました。
しばらく雨がやむのを待ったのですが、残念ながらそれで打ち切りとしました。
ご報告
写真を載せます。
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静雄詩評 淵上毛錢詩集
昭和22年7月刊行『淵上毛錢詩集』寄贈を受けての礼状。
御詩集ありがとう存じました。大へん特異な、個性的な御詩業と存じます。むつと土の匂いが顔をうつやうに感じました。馬車屋の親爺、柿の木の下で、短命、柱時計、春祭り、月と牛と朱欒の木、等軽い機智で支へられたやうな淡如たる発想の小品が好きでありました。力作と思はれる割に長い御作は、表現が積極的すぎ(よく云つて)、自己満足的すぎ(悪く云つて)るやうに拝見しました。近来出色の詩集と存じました。
或は小生らより先輩の方ではないかとひそかに想像しております。版画も楽しく、小さい子どもらまで喜んで見入つてゐました。 伊東静雄
〈昭和24年3月刊 淵上毛錢主宰詩誌『始終』より転載〉
淵上毛錢 1915−1950 昭和時代の詩人。大正4年1月13日生まれ。上京したが結核性股関節炎となり,郷里の熊本県にかえり終生病床にあった。昭和18年「誕生」を発表後,「山河」同人となり,22年「淵上毛銭詩集」を出版。23年「歴程」同人。昭和25年3月9日死去。35歳。没後の47年「淵上毛銭全集」が刊行された。本名は喬(たかし)。
毛錢生誕百年にあたり、熊本県八代市在住の作家、前山光則氏が西日本新聞に「生きた 臥た 書いた」〜極私的淵上毛錢論〜連載執筆中。
ご報告
3月25日午後2時から,諫早図書館2階集会室に於いて第89回例会を開催した。
出席者は7名。
ゲストとしてもう一人,植松久子様が出席されました。
今回は、現代詩文庫『伊東静雄詩集』の初めから3篇を読み解いた。
会報は第83号。
内容は次のとおり。
1 「真に獨りなるひとは自然の大いなる聯關のうちに恒に覺めゐむ事を希ふ。」
????『輔仁会雑誌』は、学習院の学生組織である学習院輔仁会が発行する。
昭和17年11月、平岡公威が、伊東静雄の詩『野分に寄す』の一部を巻頭言として借用
????し、編集後記で伊東静雄を賞賛しました。17歳のときです。
????東京在住の青木由弥子様が、学習院まで出向いて『輔仁会雑誌』のコピーを
????入手して下さいました。
?????????????????????????? ????????????????????????上村 紀元
2 詩 『野分に寄す』??????????????????????????????????????????伊東 静雄
3 『伊東静雄を聴く 鈴木亨の覚書より』???????????????? ??????青木 由弥子
????青木様は、伊東静雄賞の佳作賞を受けられた方です。
?????????????????????????????????????????????? POCULA17号
4 『菜の花忌』?? ???????? 中野 章子
????以前の菜の花忌に、庄野潤三さんが来られたときの思い出話です。
????中野様のブログは『朱雀の洛中日記』。
色々な本の紹介、グルメや旅の記録が豊富で、京都の今を知ることが出来ます。
5 伊東静雄と10人の詩人たち
6 詩 『妹の金魚』?????????????????????????????????????????? 大村 直子
????????????????????????昭和40年9月『果樹園』115号(現姓 中山 直子)
7 詩 『丘にのぼって』????????????????????????????????????????大村 直子
????????????????????????昭和41年1月『果樹園』119号
8『諫早行』 ?????? <昭和42年7月15日> ?? ??????小高根 二郎
????上村肇、木下和郎、内田清三翁、市川一郎と会った。
??????????????????????????????????????『果樹園』139号
9 第25回伊東静雄賞奨励賞
????八重樫克羅さんといわたとしこさんに決定した。
???? 以上
5月の例会は,23日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
石楠花忌
木下和郎は(昭和7年〜平成2年)、伊東静雄という大きな山脈に連なる詩人のひとりです。
小長井村生まれ。長崎県内の中学校に勤務しながら純度の高い叙情詩を作り続けました。
3月29日、諫早市小長井中学校そばの詩碑「昭和十九年秋」の前で、
木下和郎を偲び、第22回「石楠花忌」が開催されました。
葉桜に抱かれる詩碑の周りにはさわやかな潮風が吹き渡り、献げられた淡いピンクの
ツクシシャクナゲが優しげでした。
どこからか、野の花の香りが漂ってきました。
木下健枝奥様は今年もお元気な姿を見せられ、教え子の皆様は大層に
喜んでおられました。
伊東静雄研究会から、今回は3名が参加しました。
例年と同様、皆様には大変にお世話になりました。
有り難うございました。
嵯峨島 抄????????木下 和郎
"姑そはの また 母そはの
逝き逝きて あえずなりける「菜花忌」の
手にふるる野花摘みゆき
ゆかしかりける歌
耳に残しつつ
わたりゆく五島灘かな"
遣唐使船が、いよいよ五島三井楽の港を離れるとき、彼らの想いはいかばかり
複雑であったことでしょう。
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爽やかな五月の風・・・
詩人木下和郎を偲ぶ「石楠花忌」のご投稿拝読しました。ー小長井中には、有明中学3年生の時に陸上競技のリレー選手として訪れたような薄い記憶が残っています。
毎年のように登った多良岳の麓「山犬谷」の筑紫シャクナゲの群落や、すずなりの紫アケビの実のことなども思い出します。
(その記憶を引きずっているのか)数本の日本シャクナゲ、アケビ、ムベなどの盆栽樹が、我が家の狭い庭で花を咲かせたり小さい実をつけたりしています。ごみごみした大阪の下町の路地にも爽やかな五月の風が吹いています。
今日は、朝から娘夫婦が来て、家内と楽器(ハンマーダルシマー)をワゴン車に載せて万博公園に連れて行き、日本庭園で野外演奏会をしたそうです。(私は用事があって行けませんでしたが。) 演奏者は6人(すべて60歳以上)で、家内の演奏曲目は、「ロッホローモンド」、「ひこうき雲」、「花嫁」、「ロード インチクイン」、その他ポルカ3曲などだそうです。また他の演奏者はもっとムードのある曲を演奏されたそうです。
私は、毎晩、聞かされて「耳蛸」になっていますが、苦手な楽器の演奏にチャレンジすることはボケ防止に大きな効果があるそうです。観客も立ちどまって聴いてくれたそうです。私は、残された連休には、身辺整理やスポーツジム通いなどをします。
庄野潤三『夕べの雲』を再読しました。
「そういう切なさ(自分が死んでしまったあと、・・・)が作品の底を音をたてて流れているので読み終わったあとの読者の胸に(生きているということは、やっぱり懐かしいことだな!)という感動を与える。そのような小説を、私は書きたい。」(『わが文学の課題』)
猛暑/30℃の東京
10日程前には「爽やかな5月…」という投稿をしましたが、12日から14日までの東京は連日30℃の猛暑でした。(仕事で出張中)
仕事の合間を盗んで、いつもの如く写真−小石川植物園や後楽園(庭園)周辺ーを撮りに回りました。しかし、この時期は何処も緑一色で変化がありません。
東京駅で日没となり、皇居外苑の和田倉噴水に夕陽が当たって虹色をしていた景色と、東京駅の窓に夕日が映って、奇麗な色に染まっていた景色の2点を添付してみます。
当分は、仕事が忙しくあまり読書もできず、投稿するほどの情報もありません。
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早川電機工業
Morgen さん、お暑うございます。お勤めご苦労様です。
私のほうはすっかりごぶさたをしてしまいました。
準備運動のつもりで、昔話をします。
私は昭和23年に、大阪市阿倍野区の長池小学校というところを卒業しました。古風ながらちょっとハイカラな木造校舎で、運動場の端には、柵も何もなくていきなり長池という大きな池が広がっていました。
5年生、6年生の教室は2階にあって窓から見下ろすと細い道路を隔てて小さな町工場があり、それを早川電機工業といって、当時はラジオを作っていたと思います。
私たち悪ガキは、2階の教室から、工場の中庭に出て来る労働者のオッサンをつかまえて、冗談口をたたいたりからかったりしました。それで先生にこっぴどく叱られたこともありました。
小さな町工場はある時期からグングン大きくなって、あたりいっぱいに工場、倉庫、本社ビルなどが立ち並ぶようになりました。社名はシャープ工業になり、よくテレビなどに出て来る、角地の本社ビルもこのころに出来ました。私たちがアレヨアレヨと云っている間でした。
いま、シャープが潰れそうになっているのを見ると、感無量なものがあります。身につまされる、というと笑われるでしょうか。栄枯盛衰というよりは、子供のような町工場から、成長して、成熟して、衰退して、80老人のような満身創痍に。……いや、こういうのはつまらぬ感傷ですね。
伊東、立原、リルケ、ハイデガー、(細見和之、金時鐘、小野十三郎)、またぼちぼちやります。
長田弘さんが亡くなりました。朱雀さんがブログに書いておられます。
?
涼風を送りたい
また5月の猛暑がやってきました。皆様お元気にお過ごしでしょうか。こういう時は逆療法で行こうと思って、今日は仕事が済んでからスポーツジムのランニングマシーンで10キロ(1時間)走って汗を流したら、お腹もすいて爽快な気分でした。
先日、東京の文京シビックセンター前の公園に、サトウハチロー「ちいさい秋みつけた」の詩と、サトウハチロー宅から移されたハゼの樹があり、とても涼しげな感じがしましたので、写真を添付してみます。
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諫早花菖蒲
諫早公園の花菖蒲が見頃となりました。
夜は,周りを蛍が飛び交っています。
野呂さんを偲ぶ「菖蒲忌」は31日に開催されます。
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杉本秀太郎氏 御逝去
著書 近代日本詩人選18「伊東静雄」(1985年筑摩書房)では、詩集『わがひとに与ふる哀歌』の独自な読解を展開され、静雄研究家に大きな影響を与えて頂きました。謹んでお悔やみ申し上げます。
謹んでお悔やみ申し上げます
お知らせを頂いて驚いています。
去年の10月には、『サライ』誌上で、お元気そうな写真を拝見し、まだまだご講演を拝聴できる機会もあるだろうと期待していました。
長い間、色々なご本を通じてお世話になり、ありがとうございました。慎んでご冥福をお祈りいたします。
??中野章子さんも5月28日「朱雀の洛中日記」に「神遊び」と題して追悼文を載せておられます。
「神遊び」
・・・・・わが「朱雀の洛中日記」は、先生の著『洛中生息』からヒントを得たもの。内容が遠く及ばないのは言うまでもない。・・・・・杉本秀太郎さんの本はわが京都暮らしの最高の手引き書だった。いま『火用心』(編集工房ノア 2008年)を開いている。昭和35年(1960)、桑原武夫から富士正晴に会うよう言われたときのことが記されている。(「富士の裾野」)。人文書院から『伊東静雄全集』を出すので、手伝うよう言われたのだ。何とも贅沢な出会いだなあと溜め息が出た。学者というより京都の文人、京文化のエンサイクロペディアのような人であった。ただただご冥福を祈る。
<<ご参考>>「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」??投稿者:Morgen??投稿日:2014年10月10日(金)17時32分20秒
9月の報告の中で龍田さんが「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」とお知らせいただいた通り、『サライ』10月号が本日発売され、杉本秀太郎先生が「生粋のみやこ人」が案内する秘めおきの京都紅葉名所」の案内人として登場しておられます。掲載されている杉本先生のお写真から推察するとまだまだお元気そうで、安心しました。
先生のお勧めは「鹿王院」「長楽寺」「蓮花寺」の3ヶ所です。紅葉の絶好シーズンになったら是非訪れてみましょう。ついでに、杉本家の「秋の特別一般公開」(10月21日〜26日13時〜17時)も是非お立ち寄り下さい。
ご報告
5月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第90回例会を開催した。
出席者は8名。
今回は、「氷れる谷間」「田舎道にて」「真昼の休息」の3篇を読み解いた。
会報は第84号。
内容は次のとおり。
1 『淵上毛銭詩集』(昭和22年7月刊行)受贈に際して礼状???? 伊東 静雄
???? "御詩集ありがとう存じました。大へん特異な、個性的な御詩業と存じます。むつと土の匂いが
顔をうつように感じました。...近来出色の詩集と存じました。..."
?????? ???????? ??(昭和24年3月淵上毛銭主宰誌『始終』に掲載)
????淵上毛銭(1919−1950 昭和時代の詩人。大正4年1月13日生まれ)
??????郷里は熊本県。
??????前山光則氏(八代市在住)の「極私的淵上毛銭論」が、西日本新聞に15回にわたり連載されました。
??????上記の礼状が掲載されている『始終』のコピーを前山氏から頂戴しました。
2 伊東静雄を哭す 保田與重?
(昭和28年7月『祖国』伊東静雄追悼号)
????圧倒的な内容と長文で、なんとも、私には評する術も能力もありません。
????ただゞため息が出るばかりです。
以上
6月の例会は,27日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
菖蒲忌
5月31日、第35回「菖蒲忌」が開催されました。
変わらずに野呂さんを愛する遠方からのお客様や市民約150名が参加しました。
前日の天候が思わしくなく、初めて会場を屋内に設けての開催となりました。
かいつまんでご報告します。
1 「諫早菖蒲日記」冒頭部分を、諫早コスモス音声訳の会・峰松純子様が奉読されました。
2 野呂文学作品朗読 鎮西学院高等学校インターアクトクラブ
「小さな町にて」から、「ルソーの木」を浦 佐季さんが、「奇蹟」を井手 京香さんが朗読しました。
3??野呂文学作品朗読 諫早高校放送部
「白桃」を、相良 ひかるさんと森 美沙希さんが朗読しました。
4 第15回諫早中学生・高校生文芸コンクール最優秀賞作品朗読
中学の部 随筆「母の愛」 入江 祐希奈さん(諫早高校附属3年時)
????高校の部 随筆「母へ伝えたいこと」 川西 真未さん(西陵高校3年時)
??????????????代読 西陵高校放送部 正林 さやかさん(西陵高校1年)
以上
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カール・レーヴィットのハイデガー論
カール・レーヴィット『ハイデッガー 乏しき時代の思索者』(未来社)という本を読みました。
ハイデガーに対する鋭い批判者としてのレーヴィットの名は早くから知っていましたし、『乏しき時代』という標題の一部から察して、“Holzwege”に寄せられたハイデガーのリルケ論についても何らかの言及がある筈だと考えて、古書で探して取り寄せたのです。
結果は、ごくわずかでしたが、リルケ論への関説はたしかにありました。この稿ではそれを紹介し、そして、それを機に、前からこの欄で一、二度書いた、「ハイデッガーのリルケ論」を、もう放り出そうと思うのです。
レーヴィットが取り上げているテキストは主として『存在と時間』から『森の道』(Holzwege)に至る諸著作と論文、講演などであり、分量的にはハイデガーのニーチェ解釈にたいする論究が圧倒的に多く、これにたいしてリルケないしリルケ論への言及がもう少し多いと思っていたのは、当てが外れました。
レーヴィットはハイデガーの「解釈の強引さ」に相当苛立っているようです。
ハイデッガーが、近代における他のいかなる解釈者も及ばないほど冴えた聴覚の持ち主で、思索的あるいは詩作的な言語組織を入念に分析し独創的に綜合するに当って、追随を許さぬ読みと解釈の術に熟達しているということは、何びとも異論のないところであろう。しかしまた何びともハイデッガーの解釈の強引さを無視することはできないであろう。実際、彼の解釈は、原典に記されていることの解説などという次元をはるかに超え出ている。それは、解釈的な仲介であって、何ごとかを介入させる。それは原典を転移させて他の言葉へ翻訳しながら、しかも「同一のもの」を思索していると自負している。……この強引さをとがめ、あの精妙さに感心する人もあろうが、これらは同じものの二つの側面なのである。
このことはリルケの詩の解釈についても同じであって、レーヴィットはこんなふうに述べます。
リルケの詩についての論文(『何のための詩人か』)は――個々の点の曲解を別にすれば――精妙な解釈の傑作である。それはリルケが語った事柄を超えて詩作し、思索しているかぎりで、リルケの思惑から外れているにすぎない。
そして私も「まことにそうだ」と思わざるを得ないのです。ハイデガーは「乏しき時代の詩人」の中で、リルケの基礎的なターム、「開かれた世界」「純粋な連関」「重力」「世界内面空間」などについて、見事な言い換えをして見せてくれます。私たちはその鮮やかさに感嘆するとともに、ふと、「これはほんとうにリルケ?」との疑念を禁じ得ないのです。
ハイデガーのリルケ論への言及は、もう1個所あります。
こうして、ハイデッガーによれば、神性への足跡である聖なるものが隠されたままになっているばかりでなく、聖なるものへの足跡たる全きものさえも、かき消されたように見える。頼みになるものがあるとすれば、いまだに幾人かの死すべきものたちが「絶好の瞬間に」居合わせて、危険を見とどけうるということであろう。なぜなら、彼らは深淵の底へととどき、リルケの言葉を借りれば、「より冒険的」であるからである。救いは、存在にかかわる人間の関係が転回するところからしか、到来しえない、とハイデッガーのリルケ解釈で述べられている。
これはハイデガーのリルケ論の勘所です。
神なき時代の人間が奈落の底に頽落を続ける。どこかで「転回」が、Wendeが、起らなければならない。上に向って跳ぶ、踏み台がなければならない。その踏み台となるのは、詩人である。なぜなら「言葉は存在の家」であるから。――
乱暴に要約してしまえば、こうなるでしょう。そして、その見地により明確に立っていたのは、リルケよりもヘルダーリンである。「ヘルデルリーンは、乏しき時代の詩人の先行者である」と、ハイデガーははっきり、リルケと対比しながら、こう述べます。
私の要約は短気に過ぎるので、ハイデガーがリルケ論の後半でかなり具体的に「ドゥイノ」「オルフォイス」を引いて述べていることなどは、もう少し詳細に耳を傾けるべく、宿題として残しておきたいと思ってはいるのですが。
けれども、これはリルケの名を出してはいないのですが、レーヴィットが本書の終りのほうで言っていることは、もう遠慮もとり払った、正直なハイデガー評なのでしょう。
ハイデッガーが同時代人に与えている影響を理解するために少なからず重要だと思われることは、おのれを隠蔽する開顕という神秘的なもののパトスが基礎をなしていることのほかに、一方では、事物を対象として客観化してこの対象を打算的に算定する「表象的」「製作的」な学問の合理性に対する彼の否定的な態度、他方では、詩作、とりわけ彼が一連の解釈と換骨奪胎をささげたヘルダーリンに対する肯定的な態度であろう.
ハイデッガーと四ツに組んで大相撲をとるというのは、おそらく身の程知らずということであろう。しかし、あるいは、もしかしてそれは、愚行であるのかもしれない。
?
『鏡のモチーフ』
まず、リルケとトラークルのふたつの詩を抜粋してご紹介します。
? ・・・・・
それみずから 静かに 美しい水盤のなかで
郷愁もなく 拡がりながら 一つまた一つと輪をなして
ただ 時折 夢みるように 一滴ずつ
垂れ下がった苔にそって したたり落ちる、―
移りゆきによって、その水盤を そっと
下から微笑ませている 最後の鏡に。
(リルケ「ローマの噴水」―『新詩集』より)
? ・・・・・
ぼくの魂の暗い鏡に
かって見たことのない海の
見捨てられた 悲しい幻の土地の映像がうつり
青のなかへ 運命のなかへ溶けていく。
・・・・・
(トラークル「三つの夢」―同全集389頁より)
リルケの「最後の鏡」と、トラークルの「魂の暗い鏡」との二つの鏡の間には、どこかに共通性があるように、私には感じられます。
リルケの場合は、水盤(時間のイメージ)をつたって絶え間なく流れおちる水(運動)、その最後の水盤(鏡)には、「未知の事物のような空」が映っています。
トラークルの詩においては、「ぼくの魂の暗い鏡に かって見たことのない海の 見捨てられた 悲しい幻の土地の映像」が映っています。
ヴィクトール・ヘル(ハイデガーの弟子)は「リルケにとって、問題は、世界内面空間、詩的空間を現前することにある。」「われわれが捉えようとするが徒労に終わる果てしないあの空が、動いている水に反映することにより形象というはっきりしたフォルムに還元されて、ここにある。」と述べています。(ヴィクトール・ヘル『リルケの詩と実存』後藤信幸訳 理想社)ここらに解明のヒントがありそうです。
ハイデガーは、自己の実存哲学を学生に講義する一つの方便としてリルケの『マルテの手記』や詩作品を利用したに過ぎないような気がします。従ってハイデガーからリルケを学ぶのは、(山本様が示唆されるように)筋違いなのかもしれないと、私も思います。やはり、リルケはリルケからしか学べないと諦めて、これからもリルケの詩そのものを読み続けることにします。
これかな? ――ローマの噴水
Morgenさんの投稿を読んで、また昔のことが蘇ってきました。
私が『新詩集』を読んで勉強していたのはもう30年以上も前のことですが、その時のノートを探し出して、見て、この「ローマの噴水」の前で「これは何?」と立ち止まってしまったことを思い出しました。
立ち止まった、その原因は2つあったようです。
ひとつは、私はボルゲーゼ公園の噴水を、実物も写真も見たことがなく、リルケの詩句のひとつひとつが、この噴水のどのような容姿と構造について言っているのか、具体的なイメージがつかめなかったことです。
その2は、この詩には主語も述語もない!ということでした。動詞はあるのですが、副文中のものを除くと、あとはすべて、neigend ..., zeigend ... というように、分詞形ばかりなのです。(それも übersteigend ... entgegenschweigend ... 長い!)
まずWEBで検索してみました(30年前にはそんなことは考えられなかった)。たとえば「ボルゲーゼ 噴水 リルケ」というふうなキーワードでやってみると、関連画像というものがどっさり出て来ます。そのひとつを添付してみましたが、これがリルケの「ローマの噴水だ」という確証がありません。どなたかご教示ください。
次に、訳にも苦労しました。今あらためて手もとにあるものを当ってみたのですが、弥生書房版全集2の高安国世さんの訳がみつかっただけでした。この訳はある意味でスゴイので、第4聯だけ書き出してみます。
雫となって鏡のような水盤に落ち、
反す光がほのかに皿の裏側を明るませる、
此岸を超えて行く者の微笑のように。
「皿の裏側を」は正解だと思います。これは2番目の皿の裏側のことで、一番下の池の波紋が光を反射して上の皿の裏側にゆらゆらと揺らぐ光紋を映しているのだと思うのです。そして最終行がスゴイ!と思いませんか? その当否は私などにはとても言えません。mit Übergängen と複数になっていることをヒントに、私は「水面[みなも]の波の次々のうつろいは/上の水盤に反射して[揺らめいて]それをひっそりと微笑ませる」と、情景を想像してみたのですが……。
噴水は「リルケ語彙」のひとつで、たしかに「時間」を感じさせますが、しかし別の感じ方では、これは「永劫回帰」なので、、むしろ「無時間」という感じ方もありうると思うのです。
伊東静雄も噴水(吹上)には何やら思い入れがあるらしく、ただ彼の噴水は、勢いよく吹き上げては崩れ落ちる、そういうタイプのものだったようです。(私はどこかで「噴き上げられる泉の水は、頂点で憧れから悔いにかわるのだ」と書いたおぼえがあります)。
Morgenさんの云われるように、やはり「リルケはリルケからしか学べない」ほんとにそのとおりだと思います。ハイデガーの「解明」は別格としても、リルケの詩句を、あまりメタファーやアレゴリーや形而上学で解するのは、とくに『新詩集』の場合は、リルケの本意ではないように思います。とはいうものの、そのリルケも晩年の作品は何やら人生訓めいて来る(と、これは以前紹介したボルノーが云っていたことでした)。
伊東静雄はリルケから何を学んだのでしょう?
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追伸――ローマの噴水
せっかくMorgenさんが、トラークルも並べて、鏡について問題を提示してくださったのに、何のお答もできなくて申し訳なく思います。私は鏡は苦手なのです。リルケには鏡がたくさん出て来ますし、マルテの衣装部屋や一角獣の手鏡など、そう思って、試みに塚越敏さんの『リルケの文学世界』を覗いてみたのですが、索引には数十件の参照個所が示されています。伊東は鏡にはとくに詩的な関心はなさそうなので、この西洋的なテーマは私もつい今までパスしてきたのでしたが……。
詩「ローマの噴水」の解釈についての私見をひとつ。
第3聯の「郷愁もなく」というのが唐突で、つながりがよくわかりませんでした。これは今思うのですが、
「郷愁もなく ohne Heimweh」と「悔恨にずつと遠く」には、親縁性がある
と、私は感じました。「悔恨にずつと遠く」は「(ふたたび私は帰つて来た)」と背中合わせになっています。
「流れ来ては流れ去る河の流れ」と「湛えては溢れ出す噴水」は、共に時の流れに結びつき、そして時の流れは悔恨や郷愁を呼び出すのですが、同時にその永劫回帰によって郷愁や悔恨は否定され、無意味化されてしまうのです。
ふと思い出して――
「明澄な鏡での様に」と、伊東は「談話のかはりに」で言っていましたね(新即物主義のところで)。この鏡自体は、まさに即物的な鏡であって、まさか何のメタファーでもアレゴリーでもないでしょうね。
伊東は「自然の反省」ということを言います。反省=reflection=反映で、この場合は、いわば「心」が鏡の位置に来るのでしょうか。私は絵を描いてみたことがあります。
『鏡のモチーフ』 (追)
山本様、こんにちは。
私の方は、株主総会を無事に終えて、滞っていた仕事を書き出してみたら10項目ほどもありましたので、順々に片付けているところです。
最近は月に3回ほど東京出張していますが、根津神社(地元の人は「権現さま」と言う)〜団子坂辺りにある「文豪の街」という看板や藤沢清造『根津権現裏』が心の底に残っていて、少し時間をかけて周辺を散策してみようと思いながら、その時間がとれず、まだ実現していません。
*藤沢清造『根津権現裏』(1922年)(新潮文庫で復刊されています)が、どこか『マルテの手記』―同書の後記に付されたリルケの「写真のネガティブ・・・」を含めて―を連想させます。
(藤沢清造は、石川県七尾の生まれ。小説家を志して上京。1932年芝公園内のベンチで凍死。年譜によると、藤沢清造が『根津権現裏』を執筆したのは大阪・大淀区中津町の兄の家でだったようで、我が家から徒歩圏内です。)
先日、天神橋の天牛書店を覗いていた折に『トラークル全集』(元は1万円ほど)が3,500円で売られていたので直ちに購入して、ペラペラめくっていたら、前回ご紹介したトラークル「三つの夢」の「鏡」の詩句が目にとまったのです。
山本様ご紹介のように、伊東静雄は[談話のかはりに]で、次のように述べています。
「・・・・・新即物主義といふのは、文字通り、なるべく事物に即し、明澄な鏡での様にこの紛雑した世界に対し、それを透徹しようといふのらしい。表現主義のアンティテーゼで、リルケやゲオルグの伜であるらしいとのことです。・・・・・」
ご存知のように、トラークルは「表現主義派」に分類されておりますが、「(心の)鏡に映る海の 見捨てられた 悲しい幻の土地の映像・・・」という表現をしているのに興味を引かれたのです。
「リルケは、まさに“紛雑した世界”の美や情緒のような感性的なものは、そのままでは捉え難くても、「鏡」に映してみるとシンプルになり、解り易くなると言っているのではないか。」というのが、私が感得した『鏡のモチーフ』に関する読み解きのヒントでした。
『鏡のモチーフ』の使用に関しては「リルケもトラークルも似たようなことをやっているな!」という感想を、そのまま書いたたのが、前稿の趣旨でした。
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映画『ターナー 光に愛を求めて』
去年は、神戸市立博物館で『ターナー展』が開催され、その圧倒的な迫力に感動ましたが、今年は映画の『ターナー 光に愛を求めて』が公開されています。本日、映画ファンの家内に誘われて、梅田ロフトB1F「テアトル梅田」で観てきました。ターナーの個性的な人格描写に加えて、イングランドの19世紀の下町風景や海岸沿いのごたごたした海浜景色が再現されているようで、約2時間半の大作映画にも拘らず、興味深く鑑賞させて頂きました。
ご存知のように、ターナーの絵画については、夏目漱石は、『坊っちゃん』のなかで「ターナーの松」[ターナー島」などとしてとりあげています。大胆な海や船の構図で、太陽の光や影を奔放な色彩を用いて描いており、イギリスの「ロマン派」画家ともいわれています。漱石は、ロンドン留学中に、国に遺贈されたターナー作品の大部分を収める「テート美術館」を訪れて、ターナーの絵画を鑑賞したそうです。小説のなかで「坊っちゃん」は、?ターナーとは何のことだか知らないが、・・・"と言っていますが、漱石はターナーの絵画をよく知っていたのですね。(言わずもがなのことではありますが…)
夏目漱石が『坊っちゃん』を書いたのは「千駄木57番地」いわゆる「猫の家」(根津の上の高台で、森鴎外「観潮楼」の近く)ですが、その後(1911年)に早稲田南町に有名な「漱石山房」を建築しています。その漱石山房跡の発掘が新宿区役所のご尽力によって進められており、やがては再建される予定であることが、昨日のの朝日新聞夕刊に出ていました。
( 弥生美術館・竹久夢二美術館の隣りにあった「立原道造記念館」は平成12年に取り壊されたそうです。5月27日の投稿「小さい秋見付けた」でご紹介した近所の「サトウ八ロー記念館」(弥生2丁目)も20年ほど前に閉館されたそうです。)
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「鏡」の絵
トラークルについて。私はトラークルはやはり「表現主義」だと思います。「ぼくの魂の暗い鏡」が「明澄な鏡」のように事物を映しているとは思えないし、トラークルにもそういうつもりはなかったと思います。Morgenさんのご教示をいただいて、私も「三つの夢」を読んでみましたが、そこから明確な事物のイメージは浮かんで来ません。トラークルは外界の事物ではなく「魂の暗い鏡」に映った自らの内面を表出したかったのであって、その意味で表現主義と呼んでよいと思います。
これにたいして、リルケの詩から出て来るのはまさしく事物のイメージであり、噴水や鏡は何のメタファや象徴でもなく、まさにそのものであって、そのままで、私はそれを抒情と感じます。少なくとも『新詩集』はそのように読みたいと思います。
鏡の話が出て、私は前稿で「絵を描いてみたことが」あると云った、その「絵」をノートから探し出しました。前後の書き込みから判断すると、これを描いたのは2013年の4月頃らしく、――
ふりかえってみると、この年は、「秧鶏は飛ばずに」やチェーホフ書簡の解明からはじまって、3月には美原の詩碑の除幕式があり、その後私が伊東の初期詩篇「海」「窗」について投稿し、話はケストナー、新即物主義、に移り、夏に入って私が腰痛で「休筆」に至った、というふうな流れでした。
「絵」の周辺には乱雑な書き込みがいっぱいあって、読むと、やはり新即物主義、それに田中俊廣先生の「私を超ゆる言葉」のこと、碓井雄一さんの「詩人の自意識」のこと、などを考え詰めていたようです。
「窗」(2013.4.4) を書いて、末筆で「ここで行き詰まっています」と私は書いています。2年間、行き詰まったままというわけです。いつかこれは必ず一度は書き切りたい。
先日来、「小野十三郎のリルケ論」というものを書いて、次に投稿しようと思っています。もうすこし整理中です。
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森鷗外と「鏡」
山本様、ありがとうございます。
昨夜10時からのNHKテレビで偶然にも『漱石先生と妻と猫―“吾輩は猫である”誕生秘話』という番組が放送されていました。(ご覧になられた方も多いのでは。)
小説“吾輩は猫である”の筋とは少し異なるところもありますが(鏡子夫人の思い出や夏目房乃助氏の話が軸になっている?)、とても面白かったです。
この舞台となっている「猫の家」は、1890年10月〜1892年1月の間、森鷗外が住んでいました。その約9年後(1903年〜1906年)に同じ家に住んだ漱石は『坊っちゃん』や『三四郎』を書いて小説家としてヒットを飛ばします。その好評に刺激されて鷗外は『青年』(1910年)や『鴈』(1911年)を書いたともいわれます。
一方で、鷗外は1909年10月にリルケの『家常茶飯』を翻訳していますが、その自評として次のような文章を遺しています。(『現代思想』)
「・・・底には幾多の幻怪なものが潜んでゐる大海の面に、可哀らしい小小波がうねつてゐるやうに思われますね。・・・」
この「大海の面」はまさにリルケの「鏡」ではないかと私は思います。
また、『鴈』の中に描かれた上野不忍池の描写において「・・・此のbitume色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面を、十羽ばかりの鴈が緩やかに往来している。・・・」と書いています。この「水面」もまた鏡だ!と私には見えてしまいます。
こんにちは
はじめまして、諫早市在住の山口といいます。
諫早の歴史に興味があり、仕事も退職したことでのんびりいろいろと諫早を歩き回っています。
今は伊藤静雄氏の史跡を調べております。
こちらのホームページはとても勉強になりました。ありがとうございます!
ところで、貴方のホームページに載っていた伊藤静雄氏の生家(現在は空き地)の写真が
気になりました。
空き地でも良いので、一度そこの道を歩いてみたいと思うのですが、現在の住所を教えていただくことはできないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
伊東静雄生家地について
伊東静雄生家は、昭和14年他の人の所有になり、数年前に取り壊されしばらく空き地になっていましたが、現在は他の方の家屋が建っています。写真をアップすることは控えております。
平成27年7月5日13.30より諫早図書館で「伊東静雄詩の世界」の講話を致します。生家地について説明を致しますのでお出かけください。ご参加が無理であれば電話ください。案内もできると思います。0957−22−0169 上村
小野十三郎のリルケ論
私は、鏡は一義的には「映す(写す)もの」とのみ考えていたのですが、今回、Morgenさんの云われるところを私なりに理解し得たように思いました。
・穏やかな(「鏡のような」)水面
・水面下に隠された幻怪
・そのような位相において存在するものとしての鏡
もし鏡がこのような属性を持つものであれば、鏡は、あり場合には
・何事か/何物かを隠すもの
・それによって隠されている存在(もの)
の喩になりうるだろう、というふうに考えてみたのです。
以下、本題です。
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『小野十三郎著作集』(全3巻、筑摩書房、1991‐92年刊)というものを古書で購入しました。その第2巻に『短歌的抒情』(原本は昭28創元社刊)が入っていて、私はこれを単行本では持っていなかったので、この著作集ではじめて読みました。その中に「風景論の意想」という文章が収められています。編註では「初出不明」とのことですが、内容は三笠書房版『リルケ全集』の第5巻『風景画論』を読んでの批評文です。
小野十三郎がリルケを論ずるとどういうことになるか? あらかじめわかっていると言ってしまえばそれまでですが、やはりリルケの風景画論の中に一種の宗教的オブスキュリティへの傾きを認めて、これが「がまん出来ないのだ」と言っています。といっても、小野さんはむしろ、ヴォルプスヴェーデという北方ドイツの冷たく乾いた風土や、そこでの画家たちの「硬質の抒情」にむしろ好感を抱いていて、けっしてリルケ嫌いでも何でもなかったと思います。
しかし、と小野さんは言って、およそ風景画というものにひそむ〈魔〉のようなものについて、ヴァレリーの「風景画の発達は、絵画における理智的要素の著しい減少と不可避的な関係をなしている」という言葉を引き、以下のように述べるのです。
ここには、「形象詩集」から「ドゥイノの悲歌」にいたるリルケの精神的発展の中に見られる一種の宗教的悲願のようなものがようやくその形を現わしはじめている。これがぼくにはがまんが出来ないのだ。詩というものは一たんそれが至上実在的なものや、宗教的な永遠の権威に憑かれて、天上の摂理の中に入ってしまうと、もう詩精神自体としての形成は終ったようなもので、その瞬間から、それがどんなに高度の純粋なものでもさっぱり魅力のないものと化してしまう。
ヴォルプスヴェデの荒漠たるハイデを見るリルケの眼の澄み方もそういう澄み方で、その眼はよく五人の画家の各々の作風と性格の隅々にまで達し、北方ドイツ的国土の陰惨な自然と社会的時代的環境の中から生まれた風景画の冷たい硬質の抒情性の内容を縷々解説しながら、やはり浪漫主義的伝統による習慣的な感性と思考でもって、結局そこに「神性」の顕示を見ることで目出度く終了しているのである。
「伊東静雄は明晰な精神である」これは亡くなられた杉本秀太郎さんの、名言であると思います。伊東の精神はけっして、オブスキュールな、神韻縹渺などに凭れかかるようなものではなかった。このことが、およそ正反対のような小野と伊東というふたつの精神を相い寄らせたのではなかったか、と思うのです。(小野十三郎の立原道造論というものはないか?)
ネットで見ると、ヴォルプスヴェーデはけっこうな観光地みたいになっているようです。五人の画家の作品もたくさん見られます。三笠版全集の『風景画論』の訳者は谷友幸先生で、これは思わぬことでした。昭和18.12.12.高安国世宛伊東静雄書簡に『風景画論』を読んだ旨のことがチラと出て来ますが、読んで「色考へて興味深かった」その点を、もう少し書いてほしかったと惜しまれます。
伊藤静雄氏の生家について
こんにちは、早い返信をいただき、ありがとうございます!
5日は予定があり夕方まで外出しておりまして、講話へお伺いすることができませんでした。
せっかく案内してくださったのに、すみません。
実は、用事が済んだ今日の夕方諫早図書館へ寄りまた伊藤氏のことを調べていると、とある食堂の近くということがなんとなくわかり、そこへ行くと偶然その食堂の方に伊藤氏の生家についてお聞きすることができました。さらに、脚本家の市川森一氏の生家も近くにあるということで、二人に親交があったという話も聞けました。
その通りは戦前からある雲仙街道ということで、他にもいろいろと諫早の昔のことをご存知のようでしたので、今度はそこの食堂へ食事がてら話を聞いてみようと思います。
貴サイトを拝見したことで、新たな出会いに嬉しく感じるとと共に、郷土のことを再度勉強したいと思いました。
まことにありがとうございます。
また何かありましたら質問させてください。
ご報告
6月27日午後2時から,諫早図書館に於いて第91回例会を開催した。
出席者は8名。
今回は、「帰郷者 同 反歌」「冷たい場所で」「海水浴」の3篇を読み解いた。
会報は第85号。
内容は次のとおり。
1『言霊の国』 ?? 以倉 紘平
?? 以倉先生の新作詩です。
2「詩と思想新人賞入選作品」 ????????????????????????????????青木 由弥子
??詩を書き始めて、比喩ということの意味を、初めて真剣に考えました。...。
比喩、その大切さ。考えてみれば、聖書も仏典も、たとえや比喩によって
??真実を語っているのでした。...。
????詩 『星を産んだ日』
3 詩 『輪廻(イメージ)』 松尾 静子
4 散文『大阪』????????????????????????????????????????????伊東 静雄
??もし私が大阪に住まなかったら、恐らく私は詩を書かなかったことだろうと、
??近頃はよく考える。...。
?????????????????????????????????????????????? 昭和11年1月号『椎の木』
5 散文『伊東静雄の世界』??????????????????????????????????大井 康暢
??????????????????????????????????『戦後詩の歴史的運命についてより』
6 漢詩『社頭歌』??????????????????????????????????????????野口 寧斎
7月の例会は,18日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
図書館祭り
諫早図書館の前身である諫早文庫は、111年前に設立されました。
諫早出身の漢詩人、野口寧斎が広く呼びかけて実現したものです。
7月5日,諫早図書館に於いて「第14回諫早としょかんフェスティバル」が実行されました。
諫早図書館を足場にして活動している24の団体が参加し、多彩な催しで一日中賑わいました。
図書館のスタッフの皆様のご尽力、本当に有り難うございました。
伊東静雄研究会は、上村会長が「伊東静雄の詩の世界」の演題で講演をしました。
詩3編を鑑賞しながらの講話でした。
大変にわかりやすい内容でした。
一人でも多くの皆さんが、伊東静雄の詩に関心を持って、読んで貰えたら良いですね。
会長が『秋の夜』を、会員の津田緋紗子さんは『稲妻 肥前の思ひ出』を、私は『螢』を朗読しました。
諫早公園のホタルのシーズンは終わりましたが、多良岳金泉寺の境内に現れるヒメボタルは、これからが見頃となります。
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「図書館祭り」に寄せて
龍田様。「図書館祭り」のレポート、ありがとうございました。
<諫早図書館を足場にして活動している24の団体>・・・こんなにも多くの市民の活動拠点として図書館が活用されていることに感銘を受けました。
数日前に、『鷗外の坂』(森まゆみ著 新潮社)を読んでいたら、「鷗外記念本郷図書館が自宅から歩いて3分のところになければ、私はとうてい本書を書き得なかった。」という森まゆみさんの記述が記憶に残っていたからです。「地域図書館がなければ地域文化は生まれない」のだと。
森まゆみさん(ノンフィクション作家、エッセイスト。ただし、森鷗外とは他人。)は、1980年代以降文京区立「本郷図書館」を根城に活躍されて、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』や地域に根ざす60冊を超える沢山の著書を書いておられます。
同図書館は、戦災で観潮楼が焼けた跡地に、文京区立「鷗外記念本郷図書館」が昭和37年に復興され,その中に鷗外記念室が設けられ関連資料が展示されてされているそうです。(現在は「文京区立鷗外記念館」となっています。)
私は、『谷中スケッチブック 心やさしい都市空間』『不思議の町・根津 ひっそりした都市空間』切り絵集『谷根千』など、数冊しか読んでいませんが、東京出張(21〜22日)予定がありますので、都合がつけば一日早く20日(海の日)に上京して「谷根千」を歩いてみようかなとひそかに思っています。
今後とも、諫早の皆様がお元気でご活躍下さいますよう、衷心よりエールをおくります。
「図書館祭り」に寄せて(追)
森まゆみ『鷗外の坂』の中に、「謫天野口寧斎」が登場しますので、前稿追加としてご紹介します。
以下同書第4章「千朶山房−太田の原の家」(157〜185頁)から
明治23年(1890年)10月4日、鷗外森林太郎は、上野花園町から千駄木町57番地の借家に引っ越しました。(“此の家後に夏目金之助宅「猫の家」となる”)
鷗外は、この家を「千朶山房」と称しました。山房には当時の若く元気な論客が集い、月刊『志がらみ草紙』を発行し、その中の『山房放話』には、「石橋忍月は内田不知庵、謫天野口寧斎とともに鷗外が認める新しい文学界の批評家で、『舞姫』『文づかひ』などをめぐる論戦を行った。」旨が書いてあるようですが、手元にその資料がありません。
今年の春、不忍池で撮影した鴨の写真がありましたので添付してみます。
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帰郷者 細事
伊東静雄「帰郷者」に〜古来の詩〜と表現された、諫早出身の漢詩人野口寧斉(1867〜1905)作品の一つ。
社頭花 野口 寧斎
?????????????????? 諫早高城神社を詠む
城山山下裊晴絲 城山(しろやま)の山下(さんか) 晴絲(せいし) 裊(たお)やかなり
樹底樹頭風自吹 樹底(じゅてい) 樹頭(じゅとう) 風(かぜ) 自(おのずか)ら吹(ふ)く
石磬無聲春日永 石磬(せきけい) 声(こえ)無(な)くして 春日(しゅんじつ)永(なが)し
萬櫻花擁一神祠 万桜(ばんおう)の花(はな)は擁(よう)す 一(いち)神祠(しんし)
道與侯門咫尺分 道(みち)は侯門(こうもん)と 咫尺(しせき)に分(わか)つ
中空花氣霽氤氳 中空(ちゅうくう)の花気(かき) 霽(は)れて氤氳(いんうん)たり
若從靉靆橋頭望 若(も)し靉靆橋(あいたいきょう)の頭(ほとり)より望(のぞ)めば
兩處蒸成一處雲 両処(りょうしょ)は蒸(じょう)し成(な)す 一処(いっしょ)の雲(くも)
藤蘿蒙密白雲多 藤蘿(とうら) 蒙密(もうみつ)として 白雲(はくうん)多(おお)し
紅上神燈隔晩坡 ??紅(くれない)を神灯(しんとう)に上(とも)し 晩坡(ばんは) 隔(へだ)つ
水色花光不知夜 ??水色(すいしょく) 花光(かこう) 夜(よる)なるを知(し)らず
石厓直下是明河 ??石厓(せきがい)の直下(ちょっか)は 是(こ)れ 明河(めいが)
??城山(諫早城址)晴絲(空を流れる蜘蛛の糸)石磬(吊り下げた石版)侯門(領主への門)
氤氳(氣が盛ん)靉靆橋(眼鏡橋)晩坡(土手・堤)明河(本明川)
「階段教室」レジェンド(1)――小野・伊東対談のこと
このところ小野十三郎の、前に読んだものをまた読み返したり、持っていなかったものを注文して取り寄せて読んだりしています。
そうするうちに、以前この掲示板に、住中の階段教室での小野・伊東対談のことを書いたのを思い出しました。
「階段教室の小野と伊東」2008.10.29
「住中新聞」の部分写真と、より精細な写真へのリンクをつけています。
ところがこのリンクはもう切れていて、見ることができないことがわかりました。住中新聞の記事全体はかなりのスペースを取り、その上昔は活字が小さかったので、記事の全体画像を見られるようにするのはなかなか苦しいのです。でもこの機会に、もう一度アップしてみようと思いました。
添付の画像は、一度保存し、何かの画像閲覧ソフトで開いて、適宜拡大していただけば、なんとか文字は読めると思います。ただしもとの新聞では、記事は流し込みになっていて、アッチ行きコッチ行きしているのを、なるべくひとつのかたまりにまとめたので、体裁はもとどおりではありません。印刷もやってみましたが、Wordで、A4縦、余白を最も狭く設定して、図の「挿入」、またはウエブページの画像をコピーペーストすれば、用紙の版面いっぱいにおさまって、文字も辛うじて読めると思います。
記事本文のテキストファイルを用意しました。これは別見出しで投稿します。
実は、住中新聞だけではなくて、今回はもう少し風呂敷を広げるつもりをしているのです。
その一は、小野十三郎がのちにこの対談を回想した文章があるので、その部分を抜き出して紹介したい。
その二は、対談が行われた昭和22年10月21日現在、住中に在籍していた同僚教師や生徒(卒業生)の中に、この対談の現場にいて、後年それについて何か書いたものがないか、それをできるだけ探し出して紹介すること。
たくさんみつかると良いのですが。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001316.jpg
「階段教室」 レジェンド (2)――住中新聞記事アップのテスト
住中新聞小野伊東対談記事をテキストファイルにしたものをアップしました。
小野伊東対談.pdf
ごちゃごちゃしますが、とにかく開くように持って行くと、開いてくれるようです。
どなたかテストしてみてください。
「階段教室」 レジェンド (3)――同僚教師の回想
住中新聞の記事のうち「中西先生」は、中西靖忠先生で、経歴はご自分で書かれたところによると、昭和21年9月住中赴任、23年学制改革で伊東とともに阿部野高校に移り、24年10月まで同校に在職された。担当は国語。「同僚としての伊東静雄」を『果樹園』に書かれた(『伊東静雄研究』所収)。司会の任に当たったことを自ら記しておられる。
中西靖忠「同僚としての伊東静雄」(『果樹園』第109号、昭和40.3)(抜萃)
私が感心したことに、住中が二十五周年を迎えるというので住中新聞が主催して、小野十三郎さんを呼んで公開対談会を開いたことがある。昭和二十二年十月二十一日のことで、同新聞十一月一日号に記載されているのだが、この時、初めに立って生徒らに小野さんを紹介されたのだが、簡にして要を得たというが、生徒の身に引きよせ、関心と興味を持たせてつぎの小野氏の発言に耳を傾けさせた発言は司会をしていた私に、中学での文学の指導はこうでなくてはならぬと感心させたものである。その言葉をつぎに記録しておこう。
小野さんは日本の有名な詩人で大阪に住む偉い詩人だ。最近詩論、大海辺という本をお書きになった。みんな詩といえば西条八十や島崎藤村の書く詩のようなものとぱかり思っているが小野さんのはまるっきり違っている。小野さんは大阪をどう見ておられるか説明しよう、これは私個人の考えだけれど(と黒板に上のような大阪の地図を書かれる)、小野さんは海の方から大阪を見られたのでそこには葦が広く生えていて最も原始的である。そこには最も近代的な大工場が建ちいろいろな文化が絶えず行われる。また人間も機械により変る。そんなものを見ている、そして次の商業地帯もどんどん変る。このように自然と人間が密接に変化している。これを太平洋上から見て詩情を感ずる、そんな詩だと私は思うのですがどうですか。
なお、その対談の中には次のような言葉も記録されている。
映画の話がいいだろう、目下のところ映画は一番将来のある芸術だから。今の四年の国文の教科書に『記録映画の幻想佳』という文もあるが。
フランス映画は隅から隅まで意識がゆきわたっていてかえってそんな幻想性の少い憾を覚えることが多い。[引用終]
もう一人、「西口先生」の発言が一度だけ見える。西口俊三先生で、同窓会名簿によると、昭和22.4.赴任、23.3.離任。担当は社会。わずか1年の在職で、もちろん私も知らないし、どういう方であったのか、他の知見も全くない。
発言は記録されていないが、出席して小野・伊東両人の「似顔絵」を描かれたのが、黒田猛先生である。黒田先生はずいぶん長く住中・住高におられて(昭和16.3 〜 45.3)、伊東とも長年の親交があった。京都の「南日吉町の酒井家」にまつわるエピソードについては、拙著『伊東静雄と大阪/京都』に記した。
むろん、担当は美術で、私は選択で美術をとったので、私の「恩師」でもある。退職後も同窓会にかかわって、私が『住高同窓会室所蔵伊東静雄関係資料目録』を編むために同窓会室通いをしていた頃、しょっちゅうお会いしていた。
下記の文章は今のところどの本にも再録されていないはずである。
黒田猛「同僚伊東静雄先生」(『RAVINE』第56号、昭和52.9)(抜萃)
昭和二十二年八月。名門といわれた住中生に戦後の混乱から非行グループが産まれ、新聞紙上を賑わした。それ迄の指導陣が責任をとり、職員会議で伊東先生は最高点で生徒係長に選出された。「私達は愛護の心で、諸君は信頼の念で一緒にやっていこう」とその第一声が学校新聞にのっている。そして文化住中再建の第一歩として創立二十五周年記念号のため、伊東静雄、小野十三郎「新生日本の芸術を語る」座談会が催された。私は挿絵にと二人の顔をスケッチしたが、その新聞を今見ると伊東先生はどうみても雲助顔である。輝く瞳だけでも表現したいと苦心したのだが……。この座談会で先生は、小野氏は大阪湾の葦原の中から工業、商業、農村地帯を望み、そこの生活と人間に詩情を感じるような詩人だと紹介されたが、私はその活々とした口調に今迄とは違った感じを受けた。「淀の河辺」の叙情から「反響」へ、そしてその次はと楽しみにしていたのだが先生はやがて病に倒れてしまったのである。[引用終]
「谷根千」散歩
仕事で東京へ行ったついでに、気温35℃の炎天下、谷根千散歩(谷中・根津・千駄木・本郷・上野)をしてきました。(Am10〜Pm2)
「森鷗外記念館」に野口寧斎の『舞姫』評論が保存されていないかを確認しようと思っていたのですが、あいにく定休日のため次の機会に再訪します。
谷中墓地は、広大であるばかりでなく幾多の歴史上著名な方々の墳墓があり、まさに「墳墓博」の様相を呈しています。谷中銀座も、根津神社周辺も、森まゆみさんが書かれているように独特の情緒を漂わせる街で、「ラジオ体操」の会場が方々にあるのが眼に残りました。昔のような地域コミュニティが今も維持されているのでしょうか。
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ホームページの件
下記に引っ越しましたので宜しくお願い致します。
http://www.itosizuo.sakura.ne.jp/
http://www.
映画『チャップリンからの贈り物』
先日は、谷中霊園(約10万平方メーター、約7000基)散歩(7月21日)についてほんの少し触れましたが、その前日は大阪のシネ・リーブルで『チャップリンからの贈り物』という映画を観ました。原題は不確かですが『有名であることのコスト』(?)というようなものだったように記憶しています)。“暑気払い”のネタに、というわけでもありませんが、墓のお話です。
1977年12月25日、世界の“喜劇王チャップリン死去”という衝撃のニュースがTVから流れてきます。 それを観た主人公ふたりは、埋葬されたチャップリンの棺桶を盗み、その身代金で妻の入院費(500万円)を支払い、苦しい生活を立て直そうと企て、スイス・レマン湖畔の墓地に埋葬されたチャプリンの棺桶を夜間に掘り出して、別の場所に隠します。
詰めの甘い計画が次々にボロを出すスリルとコメディタッチのドラマが進行し、最後は涙と笑いの中で、ほんわかとしたチャップリン喜劇風なFINを迎えます。
チャップリンオマージュもふんだんに挿入されており、バックには往年のチャップリン映画のテーマ曲が次々に流れます。俳優もチャップリン好みの人が選ばれており、ファンの方は必見ですよ。(詳細は公式ページでご覧ください。)
余談ですが、チャプリンは1932年5月には来日中で、同14日に犬養毅首相を官邸に訪問し、そこの歓迎会に出席する予定だったそうです。海軍将校たちは、世界的に著名なチャップリンも一緒に殺害すれば日米開戦へと持ち込めるという浅慮もあって、その翌日に五・一五事件を起こし、犬養毅首相を暗殺しました。しかし、チャプリンは官邸の歓迎会には行かずに、相撲見物に切り替えたことで命拾いしたそうです。“そんなバカな!?”の一言では済ますことのできない実話だそうです。
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「階段教室」 レジェンド (4)――卒業生徒の回想 (1)
幸いに階段教室の「文化座談会」のことを書き残してくれた卒業生に、田辺明雄さんと大村得郎さんがいる。お二人はともに昭和18年住中入学、田辺さんは昭和23年3月に住吉中学第22期として卒業、大村さんはもう一年残って昭和24年3月に住吉高校第1期として卒業された。お二人は同期生なのである。
そして、この期が、階段教室レジェンドに出逢うことのできた、上限であった。その前の中21期や中20期には錚々たるメンバーが揃っていたのだが、中21期は昭和22年春の卒業で、もう在籍していない。そして高2期、高3期あたりには、伊東について書かれたものが残っていない。無理もない。当時はまだ子供のにおいの残る年頃だった。そして昭和23年春には、伊東が阿倍高へ去ってしまった。
田辺明雄さんが『関西文学』に寄せた「伊東静雄先生」については、2010.8.7.にMorgenさんからこの掲示板に投稿をいただきました。私は『関西文学』の原本を持っておらず、また田辺さんその人や、『関西文学』とのかかわり等、そのあたりの事情を何も知りません。どなたか詳しい方がおられましたら、ご教示ください。なお、この文章はのちに『永遠の妻』(関西書院、1996.11)に収められた由、どなたかからご教示をいただいた、メモ書きがあるのですが、どなたであったかも失念しています。
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住中22期 田辺明雄「伊東静雄先生」(『関西文学』昭和46年12月)(抜萃)
同じ文芸部で、先生が企画され、詩人の小野十三郎氏を招いて、皆で話し合った事があった。先生をはじめ数人の国語関係の教師と、生徒が五十人程集ったかと思う。先生は最初小野氏の詩の紹介、解説を試み、「君等は詩と言えば西条八十の詩なんかを思い出すでしょう。所が小野さんの詩はそういうものとは丸きり違うんですね。小野さんは大阪の詩人です。その大阪は時代と共にどんどんどんどん変って行くんです。小野さんはその変って行く大阪をある角度からじっとみつめて、新しい、立派な詩を書かれたんです」というような事をもっとうまい文句で言って、小野氏がその後で、「今、伊東さんが非常にうまい批評をしてくれまして……」と嬉しそうに言われたのを覚えている。
小野氏は当時ジャーナリズムの寵児で、方々に引っ張り出され、講演疲れしていたのか、話にあまり生彩がなかった。メモをみながら話されるのだが、そのメモもどこかで一度使ったものらしかった。氏自身も何度も同じ事を話すのが気がさすらしくみえた。これに反して先生は、たまりにたまったものを吐き出すといった風で、生気溌溂としていた。会が終ってから、私達は「小野さんよりうちのコーちゃんの方が立派やったね」と囁きあった。
小野氏は革命的思想(?)を心中に抱いていたそうである。それで、氏の詩には苦節にたえた思想的苦悶がにじみ出ているそうである。そういう事は今に到るまで私にはよく分らないのだが、ただその時、氏が戦時中戦争詩を書かれた事について、一言二言辯明らしい事を言われ、その時の氏のてれ臭そうな、気弱そうな表情が、人生の何か意味深い事実として幼い心に映じたのを、今も覚えている。
話の終りに、「これからの日本人の在り方として、何か一つお言葉を」という若い教師の注文に応えて、小野氏は言った。「今まで日本人は、狭くともよいから一つの事を深くやれと教えられて来て、そういう態度が立派なように言われていましたが、私はこれからの日本人は浅くてもいいから広くやらねばいかんと思う。私なども学生時代から数学などは逃げて来たんですが、これからは数学でも何でも、広くやらねばいかんと思う。浅くてもいいから広く何でもやる、そこから今後の新しい日本が生れてくるように思います」
これは昭和二十一年頃の事である。私は中学(旧制)四年か、五年であった。この小野氏の言葉は、新時代を背景に持った優秀な人間の意味深い発言として、今も私の記憶に残っているのである。今日まで私は、折にふれてこれを思い出すのであるが、だからといって自分の生き方に確固たる信念が湧くわけではないのである。ただ、こういう平凡ともみえる言葉に代表された一時代の光景が、ある感慨と共に私の眼前に浮かぶのである。小野氏にしても、過去を省み、日本の将来を思うて、深く考えられた結果に相違ない。心中無限の思いも、言葉に出してみると平凡無味に終るのが常なのだ。[引用終]
ご報告
7月18日午後2時から,諫早図書館に於いて第92回例会を開催した。
出席者は7名。
今回は、「わがひとに与ふる哀歌」「咏唱」「四月の風」の3篇を読み解いた。
伊東静雄が語句のひとつひとつに込めた意味を、みんなで、ああでもないこうでもないと推理しながら読み進めるのですが、どうしても私は理解できませんでした。
会報は第86号。
内容は次のとおり。
????????????????????????????被爆七十周年を迎えて
昭和20年8月6日広島、
同年8月9日長崎。
原爆投下という人類史上未曾有の体験のなか
極限を生きた人々の思いを記した文学があります。
時空を超え、鮮明に映し出される被爆の実相。
ここに、あらためて。
1 詩『雲に寄す』 上村 肇
??????????????????????????????????????昭和31年 詩誌「果樹園」2号
2 詩『二十の夏』 ????????????????????????????????風木 雲太郎
??????????????????????????????????????昭和41年 詩集「ビードロの歌」
3 詩『樹 ?』????????????????????????????????????????????山田 かん
??????????????????????????????????????昭和44年 詩集「記憶の固執」
4 短歌??島内 八郎
??????????小山 誉美
??????????秦 美穂
??????????浜野 基斉
??????????山口 彊
俳句??松尾 あつゆき
??????????下村 ひろし
??????????隈 治人
??????????中尾 杏子
??????????朝倉 和江
川柳 前山 五竜
?? <被爆70周年を迎えて 長崎国際文化協会発行 「長崎文化」72号より転載>
5 伊東静雄評伝的解説???????????????????????????????????????? 清岡 卓行
????詩『オーボエを吹く男』???????????????????????????????????? 清岡 卓行
????????????????????ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を聞きながら
??????????????????????????????????????????????????詩集『日常』所収
????????????????????????????????????????????????????????????????以上
8月の例会は,22日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
「階段教室」 レジェンド (5)――卒業生徒の回想 (2)
大村得郎さんにも私は面識がない。田辺さんと同じ、昭和五年生まれで、昭和18年住中入学、昭和24年住吉高校第1期生として卒業。大阪大学卒業後、毎日新聞記者として活躍された。
昭和23年6月住高自治会が発足した、その初代会長であった。このときの役員連中はみな「古武士的な風格」をそなえ、「フォークダンスなんか住中がほろびる」と反対して、教師たちを手こずらせたと、『すみよし外史』に見える。
大村さんの文章は『河』第97〜98号に再録されたはずであるが、その後確認していない。
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住高1期 大村得郎「伊東静雄回想」(『獅子族』創刊号、昭和62年3月)(抜萃)
静雄が展開した行動の中でも特筆されるイベントは昭和二十二年十月二十一日に催された。住吉中学の階段教室に小野十三郎氏を迎え、静雄との対談があったのだ。聴衆は文芸同好会の上級生徒を中心に、教師の有志も含めて数十人。あふれんばかりであった。
この年の十一月一日は住中の創立二十五周年記念日で一目から三日間は式典や音楽会、弁論大会、演劇会などの記念行事が盛りだくさんにあった。詩人対談もこれらの関連行事のひとつとして、文芸同好会の部長だった静雄が企画した大イベントであった。恐らくは生涯でも稀有ともいえる……。
大阪の夕刊紙の「働く人の詩」という欄を担当するなど、有名だった小野氏。この詩人と私たちが「住中の宝」とひそかに誇っていた静雄が対談する。あまり深く詩のわからなかった少年たちにも、二人の作風がかなり違うこと、むしろ相反しているのではないか程度の感じは持っていた。それだけにどんな展開になるのか。しかも静雄が小野氏を紹介するという。私たちは大きな期待を抱いて臨んだのである。
何時間かかったのかは記憶にない。二人の話はとにかく高度で、少年たちには理解しがたい内容が多かった。それでも収穫は大いにあった。とくに開会にあたって静雄が小野氏について語ったのは明快そのもので、およそ次のようだった。「みんな、詩といえば西条八十や島崎藤村の書く詩のようなものを思い出すでしょう。ところが小野さんのはまるっきり違うんですね。小野さんは大阪に住む詩人ですが、その小野さんが大阪をどうみておられるか、それを説明しよう」
小野さんは海の方から、つまり太平洋の方から大阪を見られたので、そこには葦が広く生えていて最も原始的なんです。そしてそこには近代的な大工場が建ち、いろいろな変化が絶えず起こっている。また人間も機械により変わる。それを小野さんはみている。工業地帯、そして次の商業地帯も工業により変わる。そのうしろの農業地帯もどんどん変わる。このように自然と人間が密接に変化している。これを太平洋上から見て詩情を感じる――そんな詩だとぼくは思うのですが、どうでしょうか」。
静雄は教室でもよくみせる、いかにも我が意を得たりというか、あるいは生徒が自分の期待に沿った答えをしたときなどに浮かべた笑いを小野氏に投げかけた。
ていねいな解説で私も異存ありません。太平洋の方から入って葦原に目をつけるという解説には感心します」と小野氏は嬉しそうに答えた。
このあと国語関係の教師(わかっていない奴ら―と私たちがさげすんでいた連中)が、やれ第二芸術といわれている俳句や短歌の将来、現代詩の見通しについて、などと“一人前”の質問を出したりした。
小野氏はすでにジァーナリズムでも広く知られていただけに講演や座談会に出る機会も多かったと思われる。どこでも同じような質問に出会うのだろうか、メモを用意していた。これは、自分の基本的な考えを、話す場所によって、ちょっとした言葉のニュアンスで違った受けとめ方をされるのは本意でない、という気持があったのではないか。
また階段教室というのは、ふつうの教室とは逆に生徒らが教卓を見下ろすかたちなので、小野氏は少なからずとまどったように見受けた。心理的にも圧迫感があったのか、時間が経つにつれて生彩をなくしていくように思えた。
これに対して静雄は、平素の授業よりさらに生気がみなぎって、胸の中にうずまいていた思いを吐き出した、と思えるほどだった。これは決して私の独断ではなく、会が終わってから友人らと「やっぱり、うちのコーちゃんは立派やったなあ」とうなずき合ったのである。多分にわが教師に対する思い入れの傾きはあっただろうが……。
この日、昭和二十二年十月二十一日は、伊東静雄の生涯でも特筆されねばならぬだろう。静雄がこれほど端的に、自分以外の詩人の解説をやってのけたことがあっただろうか。書いたものや、同人ら仲間うちはいざ知らず、未熟な中学生がほとんどの場で展開した小野十三郎氏についてのコメントは、あえて空前絶後といいたい。
小野氏も場違いなところでのとまどいはあったにせよ、さすがに深い意味をもった発言をしている。つまり――「日本人のものの考え方は、ひとつのことを狭く限って、それを深く掘り下げるという風だが、浅くても広く知るよう心掛けなくてはいけない。自分の仕事と直接関係のないことにも関心を持たねばならない。詩人も詩だけではだめで、とくに科学知識をとり入れることが必要だ」
この対談は十五年戦争の日本敗戦後二年とわずかの時点で行われた。向かい合ったのは日本近代詩に大きく記録されるべき二人。私はこのときほどインパクトを受けた対談を、その後あまり知らない。
残念なことに、静雄に関する書物や年譜では、この対談の記述について、私の目を通した限りですべて誤りがある。
すなわち、対談の開催日を昭和二十二年十一月一日としていることだ。この日付けは、対談の内容を簡単に載せた『住中新聞』第十五号、すなわち住中創立二十五周年記念号のものである。もっと重要なことは、紹介記事とともに登場している静雄と小野氏の似顔絵写真で、二人とも期せずして自分の似顔絵の横に「昭和二十二年十月二十一日」とそれぞれ自筆で明記しているのだ。
二人の似顔絵を書いたのは、当時の住中美術担当教師だった黒田猛氏。色紙に墨で書いたあと、新聞部の関係者に貸した。ところが原画はついに彼の手元に戻らずじまいだったのである。「伊東先生は、無精ひげをよくのばしておられたけれど、紙面では印刷も悪かったのか、ひどい状態になっている。私は忠実にスケッチしたのだけれど……。なにせ、当時は私のに限らず、写真や原稿の管理が悪くてねえ」。温厚で知られた黒田氏も還らぬ似顔絵の話をするときはさすがに顔を曇らせた。『住中新聞』は戦後創刊の一時期を除き、顧問の教師主導で、生徒のものとはいえなかった。これについては後日書く機会があろう。[引用終]
暑中お見舞いにかえて/野口寧斎と森鷗外
森鷗外『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫)108〜110頁に、原口安斎*という詩人が出てきます。<注解> *原口安斎/モデルは野口寧斎(1867〜1905)。漢詩人。長崎生れ。
僕(鷗外)は、自由新聞の社主(代理)が先日書いて貰った御礼に馳走をしたいから、一緒に来てくれというので神田明神の側の料理屋に這入った。
原口安斎は先に来て待っていた。ところが、僕も安斎も酒が飲めない。三人の客は、壮士と書生の間の子という風で、最も普通の書生らしいのが安斎である。・・・・・11時半頃になって人力車3台が迎えに来て、上野の方向へ飛ぶように駆ける。・・・・・広小路を過ぎて、仲町へ曲がる角の辺に来たとき、寧斎が車の上から後ろに振り向いて「逃げましょう」と言った。寧斎の車は仲町へ曲がった。・・・・・
結局、鷗外は逃げきれなくて吉原遊郭へ行き、午前3時半頃「大千住の先の小菅」の両親の家へ帰ったのですが、ここに野口寧斎を登場させたのが面白いですね。(その頃は「自由新聞」も存在せず、恐らく実話ではなさそうですが、野口寧斎と森鷗外の間柄がどのようなものであったかを想像させます。)
『舞姫』は、明治23年1月3日『国民の友』第69号付録『藻塩草』に掲載されたのですが、『しがらみ草紙』第4号(明治23年1月25日発行)には早くも「舞姫を読みて」(謫天情仙*)と言う評論が掲載されています。*野口寧斎のこと
評論「舞姫を読みて」については、長くなってしまいますので別稿とします。
「十数行の詩で時代描ききる」
昨夜、上村さんから「産経新聞に伊東静雄のことが書いてある」という電話がありました。(新聞は未入手ですが、)WEB上にその記事が紹介されていましたので、また引きですが取り敢えず参照URLと、簡単な概略をお知らせしますので、皆様は是非WEB上のサイトを開いてお読み下さい。
産経新聞“「近代日本」を診る思想家の言葉”という連載物の中で、東日本国際大学教授・先崎彰容先生が「伊東静雄 十数行の詩で時代描ききる」というすばらしいエッセイをお書きになっています。
まず「八月の石にすがりて」の詩を全文紹介されたのち、先崎先生は以下のようなコメントをして頂いております。
この詩には明確に死の匂いがする。言葉が緊張と倫理観に震えている。
強すぎる日差しに、思わず目まいを感じることがある。明るすぎる夏空が、生の過剰に繁殖する季節だからこそ、終わりと不安を予感させる。詩は、言葉のレールを突端まで滑走した揚げ句、夏空に私たちを放りあげる。言葉の届かない場所まで読者を連れてゆける人、それが詩人なのだ。
1945年8月15日の「日記」についても先崎先生のコメントが書かれています。
「あの終戦から70年をむかえる日、この国にはおびただしい数の戦争という言葉が投げつけられるのだろう。しかしたった十数行の詩だけが、時代の人間模様をまるごと映しだし、描ききり、後世に残る場合もあるのだ。戦争とは何だったのかを何よりも明確に伝えてしまうのだ。
強いられて刻まれた言葉だけが、時間の風雪に耐える。ただこれだけが真実であるように思われる。」
まさに先崎先生のコメントの通り、「たった十数行の詩だけが、時代の人間模様をまるごと映しだし、描ききり、後世に残る場合もあるのだ。」そして「強いられて刻まれた言葉だけが、時間の風雪に耐える。ただこれだけが真実であるように思われる。」深い共感を呼び覚ますコメントです。ありがとうございました。
http://www.sankei.com/life/news/150730/lif1507300020-n1.html
「階段教室」 レジェンド (6)――小野十三郎の回想 (1)
階段教室での対談について、小野十三郎自身の書いた文章を探していて、今のところ2篇をみつけることができました。
・「笠置対談」(『奇妙な本棚』所収)
・「海から見えるもの」(「日本経済新聞」昭和57.12.26 →『日は過ぎ去らず』1983.5. 編集工房ノア)
第一の「笠置対談」について、まずその笠置対談とは何であったのかを記しておかなければなりません。『小野十三郎著作集』年譜に次のように記載があります。
昭和23年 8月 散文「憑かれない心」(『詩文化』創刊号)
24年 1月15日 安西冬衛ほか『詩文化』一行と笠置行、安西と対談
24年 3月 安西との「笠置対談」(「詩文化」)を発表
同じことを小野の口で語ると、以下のようになります。
昭和22年の秋、小野は銭湯帰りに古い友人の詩人・大西鶴之介とばったり会った。大西との懐旧談のうちに、藤村兄弟の話が出、今は近くで「フタバカップ」という紙コップの会社をやっているという。さっそく出向いて兄弟にも会い、話のついでに藤村から詩の雑誌を出そうという話が出た。これが実現したのが『詩文化』である。昭和22年の暮に第1号を出して、24年までに約20冊継続した。[昭和24年]1月15日、安西・小野・藤村弟・大西・太井の5名が、昼すぎまず難波の「創元」に集まり、湊町から関西線約2時間の旅で、笠置の藤村兄の隠宅“鈍光庵”に到着。その夜の小野と安西の対談を記事にしたものが『詩文化』第10号に掲載された。
笠置の隠宅でのこの夜の5人の文士の談話はとりとめないものであったし、それを紹介するのはこの投稿の目的ではないので、省略します。
さて、小野の「階段教室」にまつわる回想ですが、これは、ほかの話題からちょっと連想して思い出した、という書き方で、ほとんど簡単な事実のみであまり重要な述懐は認められません。しかし小野の伊東にたいする心情をうかがわせる部分を、読み取ろうと思えば取れなくもありません。それは、ほかのことはおおかた忘れているのに安西や伊東との対談というとふしぎにおぼえているのはなぜだろう、と書いている所です。
次に、大西鶴之介という人物の特徴を、小野が直接に紹介している所です。
大西は、昔から好ききらいのはげしい男で、同じ大阪に在っても、わたしなど関心をもっていた伊東静雄を絶対に認めようとはしなかった。わたしの『大海辺』と伊東の『反響』の合同出版記念会を大阪の有志の人たちがやってくれたときも、伊東と一しょかと云って、来てくれなかった。
前置きが長すぎました。小野の「笠置対談」中、階段教室の回想にかかわる部分を抜萃して引用します。
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小野十三郎「笠置対談」(『奇妙な本棚』所収)
これとかんれんして想い出すのは、同じころに、伊東静雄と、彼が国語の教師をしていた住吉中学の階段教室で、生徒たちの前で詩の話をしたときのことである。これも対談だったが、わたしの長男の恩師でもあった伊東は、わたしの詩集「大阪」の内容について生徒たちに説明するにあたって白墨をとって黒板に大阪湾の略図を描き、大阪市を二重三重の半円でかこんで、そこに線を引いて、工業地帯、商業地帯、農村地帯とそれぞれ書きこむと、教材の絵図などをつるすときに用いる先が金具のカギになってる棒で黒板を指して、わたしの「大阪」は、海の方から見た大阪であると、生徒たちに云った。そのときも、わたしはなるほどと思ったものである。雑誌などに発表されたそのころのわたしの詩に対する諸家の論の内容など大方忘れているのに、安西の場合といい、伊東静雄の場合といい、こんなことはいつまでもよくおぼえているのはなぜだろう。(抜萃終)
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『奇妙な本棚』に収めたほうの「笠置対談」という文章は、その発表事情――初出誌、年月――がわかりません。『奇妙な本棚』にも『著作集』年譜にも記載がありません。
『詩文化』の創刊を『著作集』年譜では昭和23年8月といい、小野は昭和22年暮と云います。また安西との対談記事「笠置対談」掲載は、小野は『詩文化』第10号と記しますが、『著作集』年譜では年月のみ昭和年3月と記し、号数を記しません。
「老いのくりごと」という連載記事について
和泉書院のホームページに、国文学者の島津忠夫氏が長く「老いのくりごと」と題して連載記事を載せられておりますが、その中の、3、4、5回の記事に、新出「伊藤静雄日記」を読むと題して、読後の感想を書かれております。「日記に、住中時代教わった先生方の名前が散見しておりなつかしい」とも書かれておりますが、私の知る中尾先生の名が出ているか、興味があります。日記を読まれた方がありましたら、その該当部分の内容についてご紹介頂ければと思っております。
追記:山本先生がお尋ねの田辺明雄氏ですが、真山青果、正宗白鳥の研究者として、有名な方です。私は青果関連の著書、また「永遠の妻」は読みました。氏は確か詩人という肩書もお持ちであったと記憶しております。お尋ねの内容には不十分でしょうが、付記致します。
伊東静雄日記
昭和4年住中の先生方で日記にでてくるのは、橋本寛、新野正義、武田三夫、東野亮、翌昭和5年の日記には、新地保、米澤總太郎、岡憲一、牛島元茂、浜畑栄三、元田龍佐の皆さんです。中尾先生のお名前は見当たりません。生徒では秋山某、村田某(2ノ1)川幡太郎、中田末治、の氏名がみえますが、編注によるものです。
住中に就職した昭和4年、日次もとびとびで内容も簡潔、国語教師の生活が始まり「伊東静雄日記」は、昭和5年も6月10日で終わっています。
大垣様に、お礼
大垣様、田辺明雄氏のことについて、御教示ありがとうございました。
伊東静雄日記に出る先生方について、上村さんがお調べ下さった中に、お名前だけは聞いたことがあるという方は二、三おられるのですが、私の在学中に教えを受けた先生は、この中にはおられませんでした。調べてみると、10人ともすべて、昭和20年までに住中を去っておおられました。
中尾治郎吉先生は大正14年3月〜昭和38年3月まで在職。おそらく大学を卒業後すぐ住中に赴任して、定年まで40年間、住中一筋に過ごされたのであろうと思います。
元田龍佐先生は有名な方で、住中初代校長、宮崎県都城中学校長から転任して来られたとか、有名な元田肇の甥に当たられるとか、いうことです。住中は大阪府立第15中で、当時(私たちの在学中でも)府立高校の校長には「官舎」が宛がわれて、私たちのころは志賀校長でしたが、北畠のすぐ近くの官舎へお伺いしたことがあります。
島津忠夫先生は、住中18期で、のち昭和29年から33年まで母校でも教鞭をとられたようです。私が29年卒業ですから、ちょうど入れ替わりになります。『果樹園』第189号に「『鵬雛』と『學藝』――伊東静雄ノート」という文を寄せておられます。
何をお知らせすればよいのか、雑談になってしまいました。お礼のつもりでした。
(無題)
上村様、山本様、早速に、ご返事頂きまして恐縮に存じます。ありがとうございます。
また、とりとめもないことを書かせていただきますが、伊藤静雄氏の奥様の実家が大阪の木津市場近くに在ったということを読んだことがあります。このようなことでも、私は伊藤静雄に、詩以外に、非常に親しみを感じるのです。木津市場に近い土地に私も生まれ育ち、子供のころ、朝早くに、母に連れられて市場に行った思い出があるからです。年の瀬の頃が多かった思いますが、朝の暗いうちに起こされ食料品等の買い出し連れられました。どうして、こんなに早く、市場にでかけるのか、子供心に不思議に思い母に理由を尋ねたことを思い出します。木津は卸やから、朝早く行かないと、店が昼前には閉まってしまうので、というのがその回答でしたが、市場の活気が好きで、弟と一緒に喜んでついて行っておりました。もう、60年以上も前の思い出です。先日、久しぶりに、周辺を巡りましたが、大変な様変わりで、市場は健在ですが、それ以外、当然でしょうが、幼いころの微かな記憶の風景は残念ながら何も残っておりませんでした。
以前、この掲示板に奥様の教え子だったという方が、その思い出をお書きなっているのを読ませていただき、その時から、奥様のことについて、個人的に、気になっていたことですので、とりとめもないものですが、投稿させていただきました。
「階段教室」 レジェンド (7)――小野十三郎の回想 (2)
前の「笠置対談」からずいぶん後になりますが、もうひとつ、小野が「階段教室」対談にふれた、「海から見えるもの」という文章があります。
『日経新聞』への執筆・寄稿の経緯等、詳細はわかりませんが、「葦の地方」への小野の心情の変化が率直に述べられていること、また、伊東にたいする小野の気持の在り様が、これも「気後れ」や「韜晦」が一切なしにすらすらと語られていること、さらに、ここではじめて、「北西の葦原」をあの対談のときに伊東が読んで解説したという事実が述べられたこと、などの点で、注目すべき文章だと思います。かなり長いので抜粋をと思ったのですが、読むほどに、その全篇が伊東への回想に満ちているように思えましたので、思い切って全文を載せました。
なお、詩「北西の葦原」は、詩集『風景詩抄』(昭和18年2月)に収録されたもの。
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小野十三郎「海から見えるもの」
(『日本経済新聞』昭和57.12.26 → 『日は過ぎ去らず』1983.5. 編集工房ノア)
私には『大阪』という詩集が二冊ある。最初の本は昭和十四年に出ているが、それから四年後の『風景詩抄』という詩集と、戦後まもないころに出した『大海辺』『抒情詩集』という詩集の中にある若干の作品を加えて、二十八年にやはり『大阪』という題であらためて一本にまとめた。そのころ故伊東静雄君がまだ健在で、私の家のすぐ近くの住吉高校の教師をしていた。想い出すが、ある秋の文化祭の催しに私は招かれて、生徒たちの前で伊東君と対談したことがある。そのとき、彼は黒板に大阪市の略図を白墨で描いて、小野さんの詩は海から見た大阪だと、いくつかの詩を紹介しながら、親切な解説を生徒たちのためにしてくれた。海から見た大阪とはどういう意味だったのか、雲ゆきがまた怪しくなってきたこのごろ、私はまた考えさせられている。
そのとき伊東君が黒板に描いてくれた大阪市の地図の写真がのっている学生新聞がいま探しても見つからないのが残念だが、この詩集に収められている作品の大阪は、主に海ぞいの重工業地帯にそのころひろがっていた荒漠たる葦原の風景であって、人影はまったくない。そんなところを私は大阪だと云っているのである。取材はそこにかぎられていて、都心の所謂大阪らしい場所は天王寺公園ぐらいしか出てこないので、伊東君の説明にもかかわらず、生徒たちの多くは腑に落ちぬ面持をしていた。たとえば次のような詩である。
遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでいる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとおる晩秋の陽の中を
ユーフアウシヤのようなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。
* ユーフアウシヤ――南氷洋に棲息するプランクトンの一種
*
この「葦の地方」という詩は、いまは中学の国語の教科書にもよく採用されて、あたかも私の代表作の一つみたいに扱われているが、これを書いたのは、日本が長期の大戦争に突入した前夜であった。いまでこそこの詩で云おうとしていることは若い人にもわかってもらえるかとおもうが、戦争のさ中であったから、少数の人をおいて、この詩の意味するところはよく通じなかったらしい。
私はこの詩で当時における状況と人間の関係をとらえて、私の内奥にある反戦の意志表示をしたつもりでいたが、しかし多くの人の眼には、ただ大阪の工場地帯の実景を描写した毒にも薬にもならない風景と映じていたらしい。したがって検閲の網にもひっかからなかった。伊東君はそういう事情を察して、そのとき対談していた私には深くなっとくできる批評もしてくれたのであった。
伊東君にも大阪を歌った詩がいくつかある。「淀の川辺」という作品など有名だ。だが大阪の重工業地帯の風景に着目した詩は一つもない。にもかかわらず詩というものの理解にあたって私と一脈通じるところがあるのはなぜだろう。いまそのことを考えると、私にとって海とは、実景に即した海であるよりも、底辺にいる庶民の視角を意味したのと同じように、伊東君にとっても、海とは人間を意味したんじゃないかと思われる。人影が見えない私のただ風景だけの詩にもこの人間がいることで、伊東君は私の詩を海から見た大阪だと言ってくれたんじゃないかとおもう。
伊東君の詩にときに見る非情さもそこにかかわってくる。庶民の心への真の連帯はそういう非情さを通さなければ力にならないという自覚がこの詩人にあったから、庶民の暮しや願望に直結して想いを述べる抒情詩を書いても、どこかドライなところがあった。そういう意味で、私が海から見た工場地帯の煙突や石油タンクや高圧線の陰影も彼の心のどこかに存在していたかもしれない。「葦の地方」にたたずんでいたのは私一人ではなかったのである。
*
きのう、私は思いたって、久しぶりに新淀川の向うの姫島に行った。地盤沈下しているこのあたりから杭瀬の方にかけての地域は大阪でも私が一ばん好きなところで、詩集『大阪』にはここに取材して書いた詩が多い。「葦の地方」という前掲の詩もその一つである。行ってみると、そのあたりにはもう葦原はひろがっていなかったが、道に迷っていると、昔のように私は大葦原のまん中にいるような気がした。どんなに街の様子が変っても大阪の都心ではめったに道に迷うことがないのに、ここにくると方角もなにもわからなくなってしまうのである。
そんなにぽんぽをだして
風ひかない?
兄ちゃんはどこへいったの?
あ、あんなところだ。
たくさん蜻蛉捕れたね。
もう指に挾みきれないね。
兄ちゃんまだ追っかけてるよ。
おじさんはこのみちをまっすぐにいってみよう。
まっすぐにいったらどこへ出るだろうな。
おじさんいってみるんだ。
おじさんはじめてきて
こことても好きになった。
きみは毎日兄ちゃんと蜻蛉を捕りにくるの?
いいね。毎日こられていいね。
きみのお家はきっとあの辺だと思う。
近いんだもの
裸だってかまわないや。
おじさんは遠いから
洋服を着て 靴をはいて
ちゃんとして来なければならない。
とっても遠いんだよ。
きみの知らない遠い遠いところからおじさんやって来たんだ。
さあ、どこへ出られっかな。
海かな。
おじさんいってみる。
いいところだといいな。
「北西の葦原」というこの詩も高校の文化祭のとき伊東君が読んで解説してくれた詩であるが、きのう行ったときも、またどこからかこの兄弟の子どもが私の前に現われてきそうだった。あたりは葦原ではなく人家や団地群が建てつまっていたが、姫島の海よりのあたりは、私にはやはりそんなところであった。大阪でも道に迷わなければ見えてこないものがあるのではないだろうか。冬陽が落ちかかるころ、ようやくもと来た阪神の姫島の駅にたどりつくことができた。そこから梅田に着くと、大阪は夜で、駅前の高層ビル群の灯がまぶしかった。そのときの大阪は、私にはまったく異郷で、ここに自分が住んでいるのだとはおもえなかった。もちろん海は見えない。迷わずに家に帰りつけただけだ。
伊東静雄が亡くなってからもう三十年になる。彼が夢見たようには、大阪の海の展望はまだひらけていない。
「田端文士村記念館」駆け足見学
昨日、仕事の合間をぬって、東京都北区の「田端文士村記念館」を見学してまいりました。(約1時間の駆け足見学)
同地区は、明治22年に上野に東京美術学校(現・東京芸大)が開校されると、芸術家やその卵たちが住みつき、大正3年には芥川龍之介、同5年室生犀星が転入し、菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、小林秀雄、中野重治など約130人の芸術家や文士が住む「田端文士芸術家村」となったのだそうです。詳細は、下記URLを開いてホームページをご覧ください。(コピー&ペースト)
芥川龍之介は昭和2年にここで自殺しますが、芥川関係の収蔵資料が多そうです。(ただしそれらを観る時間がなくて、受付の女性と再来を約束しました。)蛇足ながら、受付の女性(研究員か?)は、長崎出身の若い美人です。皆様も是非ご訪問ください。
そのあと会社に戻り、夜8時まで会議に参加し、9時頃の新幹線(自由席)に飛び乗り帰宅しましたが、乗車効率150%位で、大阪まで立ちん坊を覚悟しましたが、途中でやっと座席を確保しました。
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「中つ空に はや風のすずしき流れをなしてありしかば、」
・・・・・
夕暮よさあれ中つ空に
はや風のすずしき流れをなしてありしかば、
・・・・・
????????(伊東静雄「夏の嘆き」−昭和10年11月号『四季』−より)
飛行機の窓から眺めると、「天つ空」(大空)には虚空をバックに一群の層雲が「はや風のすずしき流れをなしてあり」、はるか下方に雲海が一面に広がっている。その間の広大な空間が「中つ空」のようにも見えます。毎年、8月だけ、伊丹〜隠岐間にジェット便が運航しているのを利用して、3日間の家族旅行に隠岐へ行って参りました。
知夫島の高原を歩いていると、子狸が2匹藪の中から出てきました。こおろぎか何かを捕まえるのに夢中で、すぐ近くのカメラや人間の方を振り向きもしません。(子狸達にとっては私ごときは自然の一部にすぎないのでしょうか。)
海士町には後鳥羽院(隠岐法皇)の火葬所遺跡はありましたが、明治維新の天皇制復帰に伴う「神霊幸還」によって山稜は破却されて水無瀬神宮に移して合祀されました。、現在の「隠岐神社」は昭和14年に造営されたものです。しかし、後鳥羽院も後醍醐天皇も、観光面では集客力があり、大活躍されています。「私も、政争に敗れて島に流されてきたやんごとなき人の末裔かもしれない。」と、島人のジョークのネタにもなっています。(因みに、膨大な流刑者名簿は今も地元の村上家に保存されているそうです。)
同島は「世界ジオパーク」に認定されており、地球の成り立ちを知るうえで貴重な海岸や奇岩などが隠岐4島の各地に在って、独特の魅力的な風景が見られます。
「隠岐島コミューン伝説」の著者 松本健一氏(昨年11月にご逝去されましたが)は、伊東静雄研究においても数々の貴重なご見解を発表頂きました。松本氏のご説は、とても説得力があり、文献等で伝えられている伊東静雄の実像に最も近いと思いますので、その一部を紹介します。(『現代詩読本』昭和54年8月号から)
芥川という近代主義(日本近代の知性が演じた悲劇)は、保田與重郎にとっても伊東静雄にとっても「克服・卒業」すべきものであったが、保田は、古典の言挙げのほうに赴き、伊東は古典それ自体を体現するほうに赴いた。伊東の「水中花」や「春の雪」の完璧性、完成度は、古典そのものといった風情を示している。これこそまさに「新しき古典」の世界ですね。
『夏花』以降においては、「日本浪曼派」による時代に対するロマン的反抗が(時流便乗者でしかなくなり)意味を失い、伊東はまさに(「日本浪曼派」の)「夢からさめて」、生活者として戦争に対峙した。
伊東静雄は言っています「私は(青春のロマンティズムを)うたわない。むしろ彼らが私のけふの日を歌ふ。」―(“伊東静雄は「日本浪曼派」を代表する詩人だ”と彼らが勝手にもてはやすのだ!) このようにして、伊東静雄は最も悲劇的な詩人にされてしまったのです。(神林恒道『美学事始め』)今日でも、“伊東静雄は「日本浪曼派」を代表する詩人でして・・・”と平気で言う新聞記者などがいますが、見識が疑われます。
隠岐神社で買った『隠岐の後鳥羽院』という本に載っている「遠島御百首」の中から、夏の歌一首を掲載させていただきます。
見るからにかたへすゞしきなつ衣日もゆふ暮のやまとなでしこ(後鳥羽院)
<田邑二枝氏の解説>
(夏の日も夕暮れがたの露を帯びた大和撫子の風情は、見るにつれてその傍において、涼しさを感じる。そして秋も近くなって、着ている夏衣にもどこか涼しさを感じることだ。)
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ご報告
8月22日午後2時から,諫早図書館に於いて第93回例会を開催した。
出席者は6名。
今回は、「即興」「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」「詠唱」の3篇を読み解いた。
会報は第87号。
内容は次のとおり。
1 『伊東静雄の自然』
エリス俊子
??「わがひとに与ふる哀歌」には、静雄の思い描く自然のあるべき姿が提示されている。
2「わがひとに与ふる哀歌」を読む
????????????????????????????????????????????????????????????????渡部 満彦
3 わがひとに与ふる哀歌
????????????????????????????????????????????????????????????????加藤 宏文
4 私の「わがひとに与ふる哀歌」考
????????????????????????????????????????????????????????????????上村 紀元
5 伊東静雄掃苔
????????????????????????????????????????????????????????????????大塚 英良
6??詩『苦い水』
????????????????????????????????????????????????????????????????高塚 かず子
7 はがき随筆『炎の先で何が』
????軍隊は国民を守らない。国民の弾よけになる気も無い輩が戦争を企む
????????????????????????????????????????????????????????????????龍田 豊秋
???????????????????? 平成27年8月10日毎日新聞長崎県版掲載
8 「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」参考
??????????????????????????<『チェホフ書簡集』内山賢次訳>
???????????????????????? 『詩人 伊東静雄』小高根二郎
????????????????????????????????????????????????????????????????以上
9月の例会は,26日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
阿倍野区共立通 阿倍野区阪南町
早くも長月、秋の気配が漂い始めました。
すっかりご無沙汰をしております。
みなさまがたには、ご健勝にご活躍のご様子、何よりです。
阿倍野区共立通1丁目・2丁目 阿倍野区阪南町3丁目・・
この住所は、私がこの春から非常勤のスタッフをしている、特定非営利活動法人『コーナス』http://www.corners-net.com/ の、施設のある場所です。
伊東静雄にご縁の深い土地・・そう直感して、山本皓造先生のご著書『伊東静雄と大阪/京都』を紐解きましたら、やはりそうでした!!
驚いたり、嬉しくなったりです。
共立通1丁目にある『ギャラリー コーナス』は、静雄の住んでいたかつての住居表示共立通1−43のすぐそばでした。
共立通2丁目にある『アトリエ コーナス』は、築80年の町屋を改装してあります。
かつて静雄もこのあたりを歩いて、見たことのある家かもしれません。
そんなことを思うと、静雄がとても身近に覚えて、ドキドキします。静雄の足跡がたどれたらなぁと、これからは山本先生の『伊東静雄と大阪/京都』持参で、通勤しようと思っています。
この『コーナス』の、大好きで大切な仲間達とそのご家族が、9月1日発売の週刊誌『女性自身』の“シリーズ人間”のコーナーで、7ページ(P60〜P66)にわたり紹介されています。
「障がい者アートの分野で、世界最先端にある大阪・阿倍野アトリエコーナス」と紹介して下さっている記事を、ご高覧頂けましたら幸いです。
多くの方々がこの特集を、温かいまなざしで読んで下さいますように。そして、障がいを持った方々やその方々を取り巻く環境や状況を、ご理解し寄り添って頂けましたら嬉しいです。
(男性の方にとって、女性週刊誌を立ち読みするのは、抵抗がおありだとは思いますが・・笑)
『女性自身』買ってきました。
「あるかんば隊の、ココペリ〜」さん。お久しぶりです。
ランチに出かけたついでに、近所のローソンで『女性自身』買ってきました。(カウンターの女性が少し笑っていたように見えました。)
「アール・ブリュット」と呼ばれる芸術の分野があることも初めて知りました。
それにしても、30年間営々と「コーナス共生作業所」の運営を続けてこられた阿倍野の「母親たち」の明るさ、底力というのは凄いですね!!
ココペリ〜さんお元気で、ご活躍を!!!
<P/S>
昨夜、出張帰路の新幹線で『リルケ 現代の遊吟詩人』(神品芳夫著 青土社 2015.9.14発行)という新刊書を読みました。その中に、リルケ最晩年の(未見の)詩がありましたので一部抜粋掲載します。(1926.8 エーリカ・ミッテラーという無名の少女との交換詩の一部・神品訳)
・・・・・・・・
非在の上方に 偏在の天が張られる!
ああ 投げたボール ああ 敢然と上がるボール、
それは帰還によって 変わりなく両手に収まるが、
帰還の重力の分だけ純粋に、ボールは元のボール以上になる。
ー神品教授の解説は以下の通りです。ー
危険を冒す生き方をしてきた人は、他人に対して思いやりが深く、愛の機微も会得している。反対に、過保護の境遇で生きてきた人は、他人への配慮が薄い。・・・戻ってきたボールはやはりその体験の分だけそれまでのボールとは違う。
??
共立通
ココペリーさん、お久しぶりです。
大阪も、そんなに近いところでお勤めだったとは驚きました。といっても、私は共立通のあのあたりは、あまり土地勘がないのです。妹が中学は東大谷でしたので、その辺は行ったことがあります。
共立通から、広い電車道へ出ずにそのまままっすぐ南へ、家並のあいだをくねくねと曲がって、北畠の住高まで行く道がありますから、一度探検してみられてはいかがでしょう。(伊東も住中と共立通のあいだを歩いていたのは間違いありませんから。)
私の本も、それですから、あまりお役にも立たないと思いますが、持って歩いていただけるのは嬉しいです。
Morgen さん。いつもご投稿、感心して読ませていただいています。お忙しそうで、お達者そうで、なによりです。神品氏の新刊は私も買いました。先日 Amazonn から届きましたが、まだ読んでいません。最初の章だけザッと読みましたが、目を洗われたようでした。私どものように、ときどき「リルケ狂」になるのとは違って、専門家というのはさすがですね。
伊東―小野にはまだ少しネタがありますので、もう一回、稿を改めます。
『リルケ 現代の吟遊詩人』
山本様が、神品芳夫『リルケ 現代の吟遊詩人』(青土社 2015.9.14発行)をご購入になり、お読み頂いていることをご投稿によって知りました。
私は、10数年前に単身赴任から帰り仕事も少し暇になったので、それまでに買って自宅においていた伊東静雄関係の本を読みはじめようとしました。ところが、「イロニー」「事物の詩」「即物的」等々の言葉の意味がよく分からなかったので、萩原朔太郎やリルケの詩集、それらの解説書等を次々に読んでみたのでした。今でも、分かり易そうな解説書が出るとつい買ってしまいます。
『リルケ 現代の吟遊詩人』は、リルケ詩の変遷を以下の?期に分け、その期の代表的な詩を挙げて解説がなされていますが、初心者の私にはそれが非常に分かり易い説明であるように感じられましたので、サブノート風にまとめてみました。
? 「秋」「秋の日」(1902年)・・・“生命感”
妻子と別れ、吟遊詩人として旅立ち、一生を過ごそうというリルケの決意。
・・・・・
いま独りでいる者は、これからも独りのままで、
夜ふかしをして、本を読み、長い手紙を書き、
落ち葉の散り舞うときには並木の道を
不安にかられてさまよい歩くだろう。
? 「メリーゴーランド」(1906年)・・・“事物詩”“彫塑的な詩”
メリーゴーランドの馬や、ライオンや、白い像や、鹿が回転する様子を淡々と即物的に表現しているように見せて、実は「子供たちの微笑」を表現している。
・・・・・
そしてときおり微笑がこちらへ向けられる。
清らかな微笑はまばゆいほどで、
息をつかせぬこのむやみな戯れに惜しげもなく注がれて・・・・・
? 「ゴング」Gong(1925年)・・・“空間性”<全an Alles・開かれた空間>に対してわれわれをさらけ出す(Verrat)。
< Wanderers として危険な道の中にころがり出たが、振返ってみるとそれが最も安全に通じる道だった>というリルケの感慨なのでしょうか?
人生の終盤を予感しつつ、ゴングGongのさまざまな響きになぞらえて、さまざまに矛盾した形象を発想し、その一つ一つが詩のあり方についての意味あるメタファーとなるように試みた(詩論の復習)。
もはや耳のためではない・・・・・ひびき、
それはいっそう深い耳のようになって
聞いているつもりのわれわれを逆に聞く。
空間のうらがえし、
内部の世界をおもてにくりひろげる、
誕生する前の寺院、
溶けにくい神々をいっぱいに
ふくんでいる溶液・・・・・ゴング!
・・・・・・・・・・
伯父から聞いた静雄さんのお話
初めまして。諫早生まれの吉田と申します。私自身は詩や文学とはあまり縁のない生活をしています。
さて、「伯父から聞いた静雄さんのお話」というホームページを作成しました。http://shizuo-ito.jimdo.com/?logout=1
実は15年ほど前に伯父から聞き取ってホームページにしていたもののリニューアルです。上村様から、こちらに投稿するように勧められました。何らかの参考にでもなればと思っています。
注:この掲示板はフレーム構造のため上記のアドレスをクリックしても表示できないかもしれません。その時は上記アドレスをコピーしてブラウザで直接開くか、もしくは上記アドレスを右クリックして新規ウインドウで開くを選択してみてください。ご面倒をおかけしますが宜しく御願い致します。
http://shizuo-ito.jimdo.com/?logout=1
内田健一氏を偲ぶ
「伯父から聞いた静雄さんのお話」吉田伸太郎さんにリンクして頂きました。伯父とは伊東静雄といとこ同士の内田健一氏のこと。氏は昭和43年3月『果樹園』145号に「思い出」を執筆、身近な人にしかわからぬ静雄のエピソードを正確に記しておられます。
内田氏が、諫早高校で教鞭をとられた時期、教え子に芥川賞作家の野呂邦暢がいて、実直な先生の思い出をエッセイに綴っています。
健一氏が亡くなられ、静雄のご親戚が少なくなり淋しい思いが致します。謹んでご冥福をお祈りいたします。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
??内田健一先生には、高2の時に教わりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
萩原朔太郎も、リルケも。お母さんが偉くて、母親には生涯頭が上がらなかったという共通点があると言われているのですが、伊東静雄もお母さんが立派だったのですね。
風木雲太郎先生は高1の担任でしたが、あまり個人的な触れ合いや特別な思い出などはありません。同級生の中でも特に田舎者であったために、教室の掃除を熱心にやって「掃除大臣に任命する。」と褒めて頂いたことくらいです。
その頃から数えると57〜8年が経っているのですが、若い人たちに助けて頂ながらまだ会社に籍を置いています。身体が辛いと思ったことはありませんが、脳の力は確実に衰退しているのを実感します。
昨日は「伊東静雄研究会」で発表された皆様方の作品や論文を上村様からお送り頂き、拝読させて頂ました。各方面から、色々な刺激を受けて、好奇心を旺盛に働かせることが、老後を健康に生きていく秘訣なのかもしれません。
これからも、何でもない処に敢えて問題を見つけて、自問自答しながら生き長らえて、諸先生方のような長寿に恵まれればいいなと思います。
ご報告
9月26日午後2時から,諫早図書館に於いて第94回例会を開催した。
今回は、「有明海の思ひ出」「かの微笑のひとを呼ばむ」「病院の患者の歌」
の3篇を読み解いた。
会報は第88号。
内容は次のとおり。
1 暁天の星──伊東静雄「野分に寄す」を読む
????????????????????????????????????????????????????????青木 由弥子
2??詩 「野分に寄す」
????????????????????????????????????????????????????????伊東 静雄
3??詩の読み方── 小川和佑近現代詩史
????????????????????????????????????????????????????????小川 和佑
????*意志と憧憬の恋歌
????*「哀歌」の構造
4 詩 「月光」??????????????????????????????????????????永山 絹枝
?????????????????????????????????????????? 平成24年「詩人会議」3月号
5??「水晶観音」
????????????????????????????????????????????????????????伊福 重一
6??「わがひとに与ふる哀歌」に思う???????? 2015.9.15
????????????????????????????????????????????????????????松尾 静子
7 はがき随筆 「水澄むの候」
????????????????????????????????????????????????????????龍田 豊秋
???????? ??????????????????平成27年9月18日毎日新聞長崎県版掲載
????????????????????????????????????????????????????????????????以上
10月の例会は,24日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
伊東静雄のこと
三度目(?)の投稿になります。
マイHPをテーマを絞り込みリフォームし「大山定一全書」と改名いたしました。
以降随時更新していく予定です。
リフォーム記念(?)として「資料室」にて、現在では入手が困難と思われます大山定一が1954年に「塔」に発表した「伊東静雄のこと」を再録しております。類似文献として「伊東静雄全集」(1961年)の付録資料「伊東静雄とドイツ抒情詩」がよく知られるところですが比較参照いただければとの思いです。
よろしくお願いします。
「大山定一全書」
http://www.tcn.zaq.ne.jp/palette/
http://www.tcn.zaq.ne.jp/palette/
ジョーさん 有難うございます。
「大山定一全書」リンク有難うございます。「伊東静雄のこと」は、その後の「伊東静雄とドイツ抒情詩」「良心のうずき歌う」三部作の序章で、適切に静雄の詩を語っている数少ない評論の一つだと思います。大山定一によるリルケをはじめとするドイツ詩抄の翻訳詩が、静雄の創作意欲をかきたてたか容易に想像できます。
昭和49年年大山没後「大山定一 人と学問」が刊行されました。桑原武夫、吉川幸次郎、富士正晴等による追悼文が寄せられ、翻訳に精魂を注がれた大山定一の人となりが描かれています。
「日本語の上手な詩人」(庄野潤三『クロッカスの花』から)
随分秋めいてまいりましたが、皆様は如何でしょうか。私は早速風邪を引いてしまいました。(明日から東京出張というのに・・・)
投稿の流れからいって次は「萩原朔太郎かな?」と大それたことを考えていたのですが、どうも短く、すっきりと論旨がまとまらず、難しそうなので先に延ばします。
中継ぎというわけではありませんが、良く知られている本・庄野潤三『クロッカスの花』にある、「日本語の上手な詩人」というエッセーの中から、これも良く知られた話一題。
昭和16年の春、庄野潤三ははじめて堺市三国ヶ丘にある伊東先生の家を訪ねて行ったら、富山房文庫の佐藤春夫『陣中の竪琴』を貰った。
(以下『クロッカスの花』173〜5頁から抜粋)
伊東静雄は、私に森鴎外と佐藤春夫を読むことを勧めてくれた。この二人が自分は好きだ。日本の文学の中に鷗外と佐藤春夫を結ぶ流れというものがあって、それに自分は心を惹かれるという風にいった。
・・・・・何に対する情熱か。戦場という異常な環境に置かれた鷗外が、事物にふれてどのように詩興を高められたか、それをどう表現したか、一行一行を追ってその制作の機微を明らかにしようという情熱である。すぐれた詩人の手にかかると、日本語がどんなに短い言葉で、どんなに微妙な働きを示すか、その生きた手本に対する讃美の念が著者の佐藤春夫にあった。それが、この情熱を生んだのであろう。・・・・・
どうかして生涯にうたひたい
空気のような唄を一つ。
自由で目立たずに
人のあるかぎりあり
いきなり肺腑にながれ込んで
無駄だけはすぐ吐き出せる
さういふ唄をどうかしてひとつ・・・・・
(佐藤春夫「或詩人の願ひ」)
*富山房文庫の佐藤春夫『陣中の竪琴』は、森鴎外『うた日記』の鑑賞の手引きとして、昭和9年に出版(昭和14年再版)されたものです。
秋の気配
庭のキンモクセイが、かぐわしい香りを漂わせるのもまもなくです。
今日の雲仙は、すっかり秋でした。紅葉は未だの様です
草むらに、ワレモコウとリンドウを見つけました。
吾亦紅すすきかるかや秋草の寂しききはみ君に送らん 牧水
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『陣中の竪琴』を贈った意図
??今年の秋は、何となく「足が速い」ような感じがしますね。
我が家の狭い庭でも、すすきや藤袴が9月早々から花を開き、盆栽の山柿やアケビが早くも色づいています。
先日は、東京の会議が予定より早く終わったので、「森鷗外記念館」に寄って『志がらみ草紙』の総目次から、幾つかを選びコピーをしてきました。(記念館の2人のお嬢さまには大変お世話になりました。感謝!)
前回の投稿では、「昭和16年の春、庄野潤三は伊東先生から富山房文庫の佐藤春夫『陣中の竪琴』を貰った。」話を書きましたが、昭和16年の春というのはまさに太平洋戦争が始まる前夜ですね。
“伊東静雄が、庄野潤三に森鷗外『うた日記』へ目を向けさせた本当の意図がもうひとつあったのではないか”ということを私は感じました。
“刻々と迫りくる日米開戦、学生や文学者さえも徴兵の運命からは逃れられない。そうであれば、日露戦争の渦中という過酷な情況のなかで、少しでも「精神的な自由」を保とうとした森鷗外を見習うべきではないのか。”というのが伊東静雄の言葉にならない教訓としての森鷗外『うた日記』への注目であり―その解説書・佐藤春夫『陣中の竪琴』を贈ったもうひとつの意図ではないのでしょうか。
「・・・・・木がらしに波立つ天幕の焚火のほとりに、鉛筆して手帳の端にかいつけられし長短種種の国詩を月日をもてついで、一まきとはしつるなり。・・・・・」(明治40年『うた日記』の森鷗外による広告文)
伊東静雄に日露戦争中の森鷗外を見習えと言われても、森鷗外の強烈な自制心や意志力、多彩な才能、猛烈な努力―どれをとっても超人的であります。その一部分でも見習えないものかと憧れるのが我々凡人としては精一杯のところですね。
(写真は、森鷗外記念館の庭にある「三人冗語の石」です。)
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再び、秋模様
上山公園にある野呂邦暢文学碑の周りには、キンモクセイの香りが漂っています。
そばの銀杏の木の葉は、ほんのりと色づいてきました。
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野口寧齋と森鷗外
絵に描いたような秋晴れの一日、朝から町内会の公園掃除(約2時間)で汗を流し、午後からは「淀の川辺」サイクリングに出かけ、約75キロを走りました。(スピードメーター付のロードバイクで)
先日、森鷗外記念館でコピーしてきた資料の一部をご紹介します。
1、野口寧齋「舞姫を讀みて」
2、漢詩による野口寧齋と森鷗外の交信
森鷗外は、明治21年9月8日、ドイツ留学から帰朝しました。ところが、別の船でエリス(エリーゼ・ヴィーゲルト)という若いドイツ女性が鷗外の後を追うように来日したのです。森家一族はエリスを説得してドイツへ帰らせました。
この件はそれで無事落着したのですが、色々な噂話が拡がり、それらを打ち消すために翌22年の暮れに、鷗外は『舞姫』という人情本的な小説の原稿をドイツ留学記念3部作のひとつとして書きました。まず家族や友人に『舞姫』を読み聞かせ、その理解を得たうえで、『国民之友』(明治23年1月3日)の新年付録として『舞姫』が発表されました。
これは各方面で評判となり、森鷗外は小説家として華々しくデビューする結果となりしました。ところが、評論家石橋忍月のように森鷗外を薄情者として非難するものも多く、野口寧齋にも評論文を書いてくれという依頼が鷗外からあったそうです。そこで、寧齋は添付しているような「舞姫を讀みて」という批評を『志からみ草紙』四号に載せたのです。(少し汚くなって済みません)
鷗外は、寧齋が「真正の恋情悟入せぬ豊太郎」と言うとおりで、「太田は真の愛を知らぬものなりと。」その幕引きを図ります。
寧斎の評論文をめぐっては賛否両論があり、また『舞姫』論争は今日まで続くテーマとなっています。それはそれで大変面白いのですが、必要があれば「寧斎の評論文をめぐる賛否両論」について再投稿します。
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「うたと詩」
近畿、関東では「木枯らし一番」が吹きました。皆様如何お過ごしでしょうか。
弁当箱の形をした森鴎外『うた日記』の頁をめくりつつ、そこに載せられている「うた」(短歌もあれば詩も俳句もある)をぼんやり眺めていると、20年ほど前に刊行された檪原聰(*)『夢想の歌学』という本のことを思い出しましたので、抜粋してさわりの部分を紹介します。 (*いちはら さとし 歌人 1953年6月1日〜 東大寺学園中学校・高等学校前教頭 奈良市在住 前登志夫門下) 興味のある方は是非ご一読下さい。(日本の古本屋に在るようです。)
歌人・前登志夫(*)は、「伊東静雄の詩『曠野の歌』のリズムは“よくぼくを脅かしたなとおもう”」と言いました。その言葉について、『夢想の歌学』の中で檪原さんは次のように解説しています。(*1926〜2008 吉野の歌人 前川佐美雄門下)
前登志夫をして、この詩のリズムは“よくぼくを脅かしたなとおもう”」と言わしめたものは何か? それは、そのモティーフが「短歌的」であるばかりでなく、そのリズムも短歌になりうるような音楽的要素をもち、しかも、短歌とは明らかに異質な音楽を発しているからではないか。
また、檪原さんは『夏花』所収の「そんなに凝視めるな」を静雄詩中最高の到達点であると評価されたうえで、『哀歌』〜『夏花』の変遷について、興味深い見解を示されました。
『哀歌』はきわめて「発出的な詩集である。」
「発出的とは何か?」について、
(a) 自己(われ)が求心的に存在し、その求心的自己から外界にむけて歌がとび出していること。
(b) つねに内界から外界にむけられた視線であること。
それが『夏花』においては、(静雄詩「そんなに凝視めるな」をご参照下さい。)
(a) 多様化した自己(われ、われら)に変化。
(b) 視線は相対的なまなざしへと転回。
このように「そんなに凝視めるな」においては、凝視し続けてきた過去のあり方を変えて、観るまなざしは深まるが、そこに自然の多様と変化を認め、それを「讃歌」として歓ぼうと言っている。この詩は、ヘルダーリンでもリルケでもニーチェでもない伊東静雄独自の最高の到達点ではないだろうか。というのが、『夢想の歌学』において檪原聰氏が示唆された興味深いご教示でした。
帝塚山派文学学会
帝塚山文学学会設立記念講演会のお知らせ
1.平成27年11月1日(日)13時20分〜
2.帝塚山学院住吉校舎南館地下1階AVホール
3.記念公演 「帝塚山派文学」木津川計氏
4.記念シンポジウム
「住吉の歴史と文化」「徳島と庄野英二・潤三兄弟」「坂田寛夫の文学」など
昭和の時代、住吉の地には「帝塚山文化圏」とも呼ぶべき誇り高い文化の世界が存在しました。文学の世界では、藤澤恒夫・長沖一・伊東静雄らの戦前からの文学活動に、戦後、石濱恒夫・庄野英二・庄野潤三・坂田寛夫たちの新進作家が加わり、大阪文学の大きな流れを形成しました。帝塚山学院では、その文学者たちの作品を研究と再評価のために「帝塚山派文学学会」を設立します。ご参加ください。入場料無料
菜の花フォーラム のお知らせ
伊東静雄生誕109年 第10回菜の花フォーラムのご案内
日時 平成27年12月5日(土曜日)午後1時30分〜
場所 諫早図書館 視聴覚ホール
1.CD わがひとに与ふる哀歌 中田直宏作曲・諫早混声合唱団・諫早交響楽団
2.講演「伊東静雄からの手紙」 大塚 梓氏
3.講演「誤読こそ正読」 平野 宏氏
4.フリートーク 参加者の皆さん
5.閉会 伊東静雄研究会
入場無料・予約不要 お気軽にご参加ください。問合せ 0957−22−0169
ご報告
10月24日午後2時から,諫早図書館に於いて第95回例会を開催した。
出席者は9名。
今回は、「河辺の歌」「漂泊」の2篇を読み解いた。
会報は第89号。
内容は次のとおり。
1 伊東静雄論
????????????????????????????????????????????????????????山崎 脩
2??伊東静雄のこと
????????????????????????????????????????????????????????大山 定一
3??存在と時間?
????????????????????????????????????????????????????????小滝 英史
?????????????? ???? 平成27年10月 「水鶏」2号
4 詩 「りんご」
???????????????????????????????????? 久坂 葉子
5??今月の鑑賞詩 「河辺の歌」アラカルト
????????????????????????????????????????????????????????上村 紀元
????????????????????????????????????????????????????????????????以上
??12月5日開催予定の「第10回菜の花フォーラム」について、打ち合わせを行った。
11月の例会は,28日午後2時から,諫早図書館にて開催します。
淀の河邉(サイクリング)
・・・・・
こことかの ふたつの岸の
高草に 風は立てれど
川波の しろきもあらず
かがよへる 雲のすがたを
水深く ひたす流は
ただ黙し 疾く逝きにしか
・・・・・
(『淀の河邉』から)
最近、私は年甲斐もなくサイクリングに凝って、「年寄りの冷や水」だと笑われています。
先月から、『淀の河邉』サイクリングと自称して、十三〜大山崎間を4往復しました。
河川敷の風景は、今ちょうど「百千の草葉もみぢし 野の靭き琴は鳴り出づ」という快適な状態で、秋の色が深まっています。
大山崎町歴史資料館では企画展「河陽離宮と水無瀬離宮」を拝見してきました。こんな狭い場所に、9世紀以来数々の遺跡が密集して存在することに驚きました。
昨夜は、東京出張の帰路、新幹線で10分弱で帰ったコースを、今日は2時間もかけて走るとは、我ながら物好きだと笑えます。
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読書近況
またごぶさたをしてしまいました。掲示板はずっと見ていて、楽しく、力づけられるのですが、身体がついて行けませんでした。ぼつぼつ馴らし運転をしようと思います。
朱雀さんがブログで「もうろく帖」と題して、鶴見俊輔をとりあげておられます。現代思想「鶴見俊輔」特集、それから津野海太郎『百歳までの読書』。あゝ、同じ本を読んでハルなあ、と思わず頬が緩みました。先ごろ、河出文庫の『鶴見俊輔コレクション』全4冊を読んだばかりでした。サークル運動、思想の科学、ベ平連……これらは昔の話ではなく、私などには「並走してきた」感のほうが強いのです。
櫟原聰さんの名前は、東大寺学園にかかわりのある知人から「伊東静雄を書いてはる」と教えられて、読んでみたいと思ったのはもうずいぶん前のことですが、そのままになっていました。Morgenさんの投稿に触発されて、日本の古本屋に注文した『夢想の歌学』が届いたので、昨日から読み始めたばかりです。読みごたえがあります。思うこともいいろいろあります。ゆっくり読み進めようと思います。
神品芳夫『リルケ 現代の遊吟詩人』をようやく読み終わりました。後半の描き下ろし部分の評伝は最新の稿だけに、斬新で刺激的でした。また、ドイツ語の詩を読むという営みの現場を近々と見せてもらって、これも有益でした。「豹」が時期的には早く成立していながら『新詩集』のためにとっておかれた、ということに関連して、私は伊東の『夏花』の巻頭詩「燕」について思うことがあるのですが、機会を改めます。
第26回伊東静雄賞 決定
第26回伊東静雄賞は、国内外から1,175篇の作品が寄せられ、第一次選考(選者 平野宏、田中俊廣両氏)を経て、最終選考(選者 井川博年、以倉紘平両氏)の結果、下記の作品が伊東静雄賞に決定いたしました。贈呈式は平成28年3月27日(日)伊東静雄を偲ぶ「菜の花忌」のあと、諫早市内ホテルで行います。
伊東静雄賞 四月の雨 藤山増昭氏(67歳)長崎県諫早市在住
作品の募集にあたり、お寄せいただいた方々、ご協力賜りました報道団体、その他関係先の皆様に衷心よりお礼申し上げます。受賞詩と選評及び佳作49編のご氏名は、「諫早文化」11号に発表致します。購読ご希望の方は郵便振替01820−4−24915、諫早市芸術文化連盟までお申し込み下さい。誌代1部1,300円(送料含む)平成28年5月発行予定。
驚きと喜び
このたびの受賞者の藤山増昭さんは、高校の卒業生の名簿で確認したら、何と何と私と同じ19回卒でありました。
藤山さんは理系、私は文系なので、クラスが異なり、記憶にはありませんでした。
諫早市からは、初めての受賞者ということで、素晴らしいことです。
お喜びを申し上げます。
藤山さんのお名前は、長崎新聞の郷土文芸投稿欄で、いつもお見掛けしています。
田中光子さんのお写真
ご担当の方へ、
お世話になります。
私はもぐら通信といふ安部公房の読者のためのネット上の月刊誌を発行してをります岩田英哉と申します。
(安部公房の広場:http://abekobosplace.blogspot.jp )
安部公房が三島由紀夫と親しく、また三島由紀夫は伊東静雄に一時詩文の師事をしてをりましたことからお尋ねするものです。
伊東静雄といふ此の優れた詩人のお弟子さんに田中光子さんといふ方がゐらしやいます。
三島由紀夫は、1970年7月にこの方のために、この女流詩人が伊東静雄の元につて生前出すことの叶わなかつた第二詩集『我が手に消えし霰』を出版し、みづから序文を書いてをります。
また、当時田中光子さん宛の封筒も残つてをります。
さて、お願ひの趣旨は、実は、三島由紀夫の読者のためこの田中光子さんとおつしやる詩人のお写真を拝見致したく、そのやうな写真を、貴会にては収蔵なさつてゐらつしやらないでせうか。
(詩文楽:http://shibunraku.blogspot.jp )
もしおありになれば、スキャンなりともして、ご送付戴ければありがたく存じますが、如何なものでありませうか。この場合、料金と支払先の銀行口座なりゆうちょ口座なりをお知らせ下さるとありがたく思ひます。
また、もしお写真がお手元になければ、どちらにお尋ねしましたならば、その可能性があるのか、お教え戴きたく存じます。
よろしくお願ひ致します。
ご返信をお待ち申し上げます。
岩田英哉
もぐら通信
http://shibunraku.blogspot.jp
岩田様
お尋ねの件、当方は持ち合わせておりません。またご紹介出来る先もありません。悪しからずご了承ください。
「燕」と「そんなに凝視めるな」
神品芳夫『リルケ 現代の吟遊詩人』のノートを取り終りました。
前回の投稿で言いさして言い切っていなかったことがらを、少し敷衍します。
詩「豹」によって、次の時期のリルケの詩作の指標となるものが定まった。ヴォルプスヴェーデの時期の感覚で作成された作品を中心にして計画された『形象詩集』がまだ編集中だったにもかかわらず、「豹」はそれに収めず、次の詩集のために温存したことは、彼が自分の詩作の進展を自覚していたことを示す。(神品 p.217)
リルケが次の詩集のために「豹」を「温存した」のとは方向が逆になりますが、私は、伊東静雄の詩「燕」は、すでに次の詩集『春のいそぎ』の圏内に入っているにもかかわらず、伊東はそれを現在編集中の『詩集 夏花』の巻頭に据えて、「自分の詩作の進展」を示したのではないか、と考えたのです。
その「進展」がどういうものであったかを言うのはむつかしいのですが、発表年代の上で「燕」に接近していて、しかし『詩集 夏花』には収めなかった「そんなに凝視めるな」が、「燕」とは対になるものと思います。しかも「そんなに」は、発表は昭和14年12月(全集注記)ですが、もっと早く、日記の昭和14年9月の条にすでにその原型が記されていますので、執筆時期としてはなおいっそう接近して、ほぼ同時期と見てもよいと思えるのです。
櫟原聰さんの『夢想の詩学 伊東静雄と前登志夫』も読み終わりました。櫟原さんは「そんなに凝視めるな」を非常に高く評価して、次のように位置づけています。
ここに凝視してやまない伊東静雄のまなざしの到達が表出している。そしてこれがこの詩人の最高の到達点ではないかとも目される。(同書 p.187)
〈飛ぶ鳥〉や〈野の花〉に〈無常〉のかなしみを見た
〈みつめる深い瞳〉はそこで〈自然の多様と変化〉を認め、その〈多様と変化〉とをむしろ〈歓び〉としてとらえようとする。無常のただ中において自然の豊かさを再認識し、そこに生きてゆこうとする人間的な〈歓びと意志〉を見出すというこの詩は、ヘルダーリンでもリルケでもニーチェでもない、伊東静雄独自の、そして最高の到達点ではないだろうか。(同書 p.188)
桑原さんの評言を承けて櫟原さんは、『哀歌』期の伊東の詩を〈発出的〉と見ます。世界の中心としての自己、その自己への凝視、意識の暗黒部との必死な格闘とみずから言う苦闘を経てそこから生成する詰屈な思惟と情念の詩的言語を、外部世界に向って、強く、烈しく発出する、それが『哀歌』の世界でした。
『夏花』は、伊東の転位というよりは、発出的体位の追究とそこからの脱出という二面、葛藤が見られるように思います。
そうして、時間的経過のうちに、あるときふと、伊東の中で何かが「ほどけた」のではないでしょうか。「いいのだ」「そんなに凝視めなくてもいいのだ」「そのまま受け止めればいいのだ」と。その詩法の解説が「そんなに凝視めるな」であり、これはいわば楽屋裏であるので詩集には収めず、かわりにこの姿勢からの実作として「燕」を巻頭に据えたのではないかと、思うのです。
伊東の中で何かが「ほどけた」、その徴表として私は、2つのことを挙げたいと思います。その一は、『春のいそぎ』において、そしてこの詩集でのみ、突如多出する固有名(地名)*、もう一つは、同じく『春』においてのみ出現する、七五音数律の採用です(「小曲」および「螢」)。
* 先日書店で目にして買った、菅野覚明『吉本隆明―詩人の叡智』(講談社学術文庫)という本を読んでいて、壺井繁治の、大東亜戦争緒戦当時の詩にぶつかりました。
地図は私に指の旅をさせる/こころ躍らせつつ/南をさしておもむろに動く私の指/キールン/ホンコン/サイゴン/国民学校一年生のごとく呟きつつ/私の指は南支那海を圧して進む/私の呟きはいつしか一つの歌となり/私の指は早やシンガポールに近づく[菅野はこれを『吉本隆明著作集8 高村光太郎』p.130より引用]
唐突ですが、私はこの詩を読んで、とっさに
汝 遠く、モルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる
を思い出してしまったのです。
田中光子さんのお写真
伊東静雄研究会御中
ご返信、誠にありがたうござゐました。
http://shibunraku.blogspot.jp
今年の紅葉は・・・
「今年の紅葉は奇麗じゃない」と、隣の人がぼやいています。先日、「美濃もみじめぐり」ツアーに参加しました。絵の具を「練り込み」模様に塗ったような西美濃の山々でした。
写真は、「揖斐川上流」「西国三十三番満願霊場 谷汲山華厳寺」などです。
「満願」とまではいきませんが、仕事も一段落しそうです。(暇になるわけではありませんが)
「余計な力を抜いて、必要なポイントの筋肉を動かす」脱力の構えが、武道やサイクリングのコツだと言われます。これからも「脱力の構え」でボツボツいこかと考えています。
いよいよ冬将軍がやってきそうです。みなさまくれぐれもご自愛ください。
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今年の紅葉は・・・(2)
11月27日、新宿御苑の風景です。
日本庭園内茶屋のおかみさんも「これからまだ紅くなってくれるんですかね。例年は池の辺が真赤になるんですがね〜」と、うかない顔でした。
今年も残すところあと一か月。皆様、風邪をひかないようにご自愛ください。
私は、昨日も「淀の河邉サイクリング」で水無瀬離宮を越えて往復約70キロのペダルこぎをしてきました。淀川べりは、いつも強い風が吹いています。「雨にも負けず風にも負けず…」とまではいきませんが、「脱力の構え」で新年を迎えたいと思います。
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ご報告
11月28日午後2時から,諫早図書館に於いて第96回例会を開催した。
出席者は7名。
今回は、「漂泊」「寧ろその日が私のけふの日を歌ふ」「螢」の3篇を読み解いた。
会報は第90号。
内容は次のとおり。
1 井川博年 詩抄
????「石切場の石」???????????? 1975年 詩集『花屋の花 鳥屋の鳥』収録
????「ひとは哀しき」?????????? 1975年 詩集『花屋の花 鳥屋の鳥』収録
????「東京に雪が降る」???????? 2013年4月17日 朝日新聞
????「買物」 「歴程」2015年8月 590号
2??井川博年 詩集について??????????????????????????????白石 明彦
?????????????????????????? ??????朝日新聞2011年1月
3「諫早の春」
????????????????????????????????????????????????????????田中 元三
??????????????????????????????2011年4月 『夙川の岸辺から』
4 詩 「りんどう」?????????????????????? 松尾 静子
?????????????????????????????? * 花言葉・悲しんでいるあなたを愛する
?????????????????????????????????? 2015年10月 深江にて
5??詩は溢れている、泥海に!
?????????????? ─ 唐十郎戯曲『泥人形』を読む 新井 高子
??????????????????????????(ミて 詩と批評126号 2014年春 季刊)
?????????????????????????????????????????????????????????????? 以上
「不時の鶯」
一昨日(水曜日)に淀川べりをロードバイクで走っておりますと鶯の囀りが聞こえました。空耳かと思って立ち止まって耳を澄ましますと、すぐ近くで「ホーホケキョ ケキョ ホーホケキョ ケキョ ホーホケキョ ケキョ・・・・・」としきりに囀っています。「チャッ チャッ・・・」という地鳴きも聞こえますので、おそらく藪の中に群れがいるのでしょう。一羽だけ姿が見えました。
このように季節の到来を間違って花が咲いたり小鳥が鳴いたりするのを「不時」と言うらしく、昔から「鵜殿」は、伊勢物語や谷崎『芦刈』にも登場する「歌枕」の地(?と言ってもよいようなとても由緒の深い場所らしくて、独りで聴くのはもったいないような一種優雅な気分になりました。(ここら辺の葦を“ヨシ”と発音します。例ーよしず)
写真は、近くのサイクリングロードですが、河川敷とは思えないほど森が茂っています。
『わが人に與ふる哀歌』の末尾は、「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」「鶯」と続いておりますが、こちらは「不時の鶯」ではありません。
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水無瀬神宮の紅葉
昨日は、十三〜大山崎町(京都府)〜西国街道〜水無瀬神宮(大阪府)〜十三間の淀の河辺をロードバイクで走りました。(約4時間余)
水無瀬神宮は、大阪府島本町広瀬地区にあります。伊東静雄と庄野潤三は、かつて京阪電車橋本駅の方から「橋本の渡し舟」で広瀬の渡船場に着き、この水無瀬神宮を訪れました。(境内の石に座ってで少量の酒を飲みしばし昼寝をした。?)
最近は、「名水百選」に指定されている「離宮の水」を自動車で汲みに来る人が多く、昨日も10人以上の水汲み客がポリタンクを持って行列を作っていました。
境内の紅葉は、樹の数は多くはありませんが、何れの樹も鮮やかな発色を呈していました。
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ご報告
12月5日午後1時30分から,諫早図書館に於いて「第10回菜の花フォーラム」を開催しました。お客さんは、約100名でした。
本日,長崎新聞に高比良由紀記者執筆の記事と写真が掲載されました。
タイトルは、「詩人 伊東静雄に触れる」。
フォーラムの内容は次のとおりです。
1 音楽鑑賞 合唱曲『わがひとに與ふる哀歌』
??????中田 直宏作曲・諫早混声合唱団・諫早交響楽団
2??講演「伊東静雄からの手紙」 大塚 梓氏
伊東静雄と親交のあった、父・大塚 格氏に届いた静雄からの手紙について。
3 講演「誤読こそ正読」 伊東静雄賞・第一次選考委員 平野 宏氏
4 フリートーク
第22回伊東静雄賞受賞者の西村泰則さんは、教職を経験された立場から、誤読ではなく正読をこそすべきと発言され、会場が沸きました。
最期に、第26回伊東静雄賞を受賞された藤山 増昭さんが挨拶をされました。
藤山さんの父上が軍医として従軍した「菊兵団」、詩人丸山 豊が軍医として従軍した「龍兵団」は、日本軍の史上最強最精鋭を謳われた師団でした。
激戦地北ビルマで両師団は共に参戦し、お二人は辛くも生き延びられました。
受賞詩の中にある、「戦後に生まれた私等は、草木の葉先に煌めく朝露ではなかったか」という詩句は、日本人の伝統的な生命観として、私も全く同感です。
?????????????????????????????????????????????????????????????? 以上
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「語りえないものについては……」
「河邉の歌」における「時間」論について投稿しようと準備している途中、おもしろいものに出会いました。寄り道になりますが、先にこれを投稿します。
インターネットで「クロノス」とか「カイロス」とかを検索していて、次のサイトに出会いました。筆者はオーストラリアの McKingley Valentine という人、標題は "Chronos & Kairos" で、標題のすぐ下に、エピグラフ風の引用文があります。
"Whereof we cannot speak, thereof we must remain silent."
なんか、どこかで見た文句だなと思って、本文に入ると、冒頭に、Oh Wittgenstein. You know just how to put things. そうです、これはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後のフレーズ、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」の英訳でした。
私はずっと前から(中学生のときから)must という英語について、疑問を持っていました。辞書では、英語の must には「〜しなければならない」と「〜にちがいない」という、2つの訳語が割り当てられています。しかし英語では must 1語なのだから、英語の人々はどんなふうに2つの意味を聞き分けるのだろうか。「ねばならぬ」と「ちがいない」において、意味的に何が共通しているのだろうか。――つい最近になって、私はひとつの結論に到達しました。すなわち、どちらも「選択肢はただ1つしかない」ということを言っているのだ、と。(それでいいのかな?)
いま、スベトラーナ・アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)を読んでいます。
チェルノブイリの人々は長い間、自分たちの見たこと、聞いたこと、考えたこと、体験したこと、希望、絶望、悲しみ、怒り、そういうことがらを「語ることができない」で来ました。語る言葉がなかったのです。そのため、彼らは、語らず、ただ、沈黙しているほかありませんでした。ここは「沈黙せねばならなかった」よりは「沈黙するほかなかった」と云いたい。そうして、そのチェルノブイリの人々が、アレクシェービッチさんの問いかけ、語りかけに接し、長い時間が経ち、やがて言葉が生まれ、言葉が交わされて、この本が書かれたのです。その内容は、感動的とか、衝撃的とか、云ってみても、はじまりません。こんどは私が「語りえない」ようになってしまいます。
ウィトゲンシュタインの言葉の解釈としては、ふつうは、「世界(論理空間)の外側の事柄について語られた命題は、それが真とも偽とも云うことができないので、その命題は端的に無意味である」というふうに解されているようです。たとえば信仰や道徳や形而上学上の命題はすべて、「語りえない」事柄に属します。でもウィトゲンシュタインはそれらについてずいぶんたくさんのことを語っています。
菅野覚明『吉本隆明』によると、吉本は「発語は沈黙の自己発展である」と考えていた、と云います。
ところで Velentine 氏がこの引用をしたのは、「もしあなたが 'kairos' という語を知らなければ、"you're missing out" だから」だというのです。でも、ふだん何げなく過ごしている生活の中にも、kairos 的瞬間はきっと存在するはずだ、ただあなたはそれに気づかず、見逃しているだけなのだ、と。
「ときじくのかぐのこのみ 非時香果」
??今日の昼休み、古本屋で、伊東静雄詩を英訳してご紹介頂いた宮城 賢(1929年熊本県生まれ〜詩人、翻訳家)の評論集『生と詩』(昭和51年発行)と、『竹林の隠者 富士正晴の生涯』を買いました。(仕事の合間にチラチラと中身を覗いています。)
宮城 賢『生と詩』には、「伊東静雄と私 負の方向から原点へ」(昭和44年『試行』掲載)が載っています(9〜36頁)。同書「あとがき」に、「・・・は7年前に、やみがたく書きあげたもので、いま読めばスキだらけであるが、私の詩的道程における大きな結節点としての意義を持つ。」と書いておられます。
宮城さんは、「曠野の歌」をめぐる大岡 信の分析(『昭和10年代の抒情詩』)に反論を加えつつ、「屈折の精神にふれた時その精神の現場を歌った」と言う保田與重郎(*)の評論に軍配を上げています。
(*)「付記」で萩原朔太郎から保田與重郎に訂正されています。その出所は、「伊東静雄の詩のこと」(昭和11年1月『コギト』)
(詳細を述べるスペースはありませんが・・・)以下少しだけ紹介します。
・・・・・
詩人の言う「息苦しい希薄のこれの曠野」とは、彼がその直前の詩という「誰もがその願ふところに住むことが許されるのではない」の二行に示される辛い現実認識そのものであり、そしてこの曠野的現実の認識が「痛き夢」を彼にしいずにおかなかったのである。「息ぐるしい希薄」の「曠野」はげに彼が「願ふところ」ではなかったのである。しかし、まさにそこにしか住むほかなかったのである。そして、そこに生きるとは、「花のしるし」をまく意志そのものである。・・・「永遠の帰郷」とは、「誰もが願ふところ」への永遠の帰郷である。このそれ自体のアイロニイ。この回帰をあらしめんがために、彼はわが手で、曠野の道のべに、おそらくは咲くことはないであろう「花のしるし」をなおみずからの意志によりまかねばならぬのである。
なお、同書の中で宮城さんは、「非時(ときじく)の木の実」とは、「ときじくのかぐのこのみ 非時香果」(橘の実)であり、「百千の」の“酸き木の実”もまた非時香果(ときじくのかぐのこのみ)であるとも仰っています。
数日もすれば、平成28年(申年 閏年)と暦が改まります。皆様、清々しく、新年をお迎え下さい。
宮城賢さん
Morgen さんの投稿で、『果樹園』でおなじみの宮城賢さんのお名前をなつかしく拝見しました。私は今月にはいって『現代詩手帖臨時増刊吉本隆明1972』を読んでいて、宮城賢さんの「『固有時との対話』研究」という文章を読んだところでした。偶然と言いましょうか。私の読んだ文章にも伊東静雄への言及がありましたので、とりあえずその部分を紹介します。
宮城さんは、吉本の『固有時との対話』の次の一節を引いて、こう言います。
何といふ記憶! 固定されてしまつた記憶はまがふかたなく現在
の苦悩の形態の象徴に外ならないことを知ったときわたしは別に
いまある場所を逃れようとは思はなくなつたのである
……私はこの一節を読むたびに、伊東静雄の詩の数行をどうしようもなく想起するのである。
私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ
誰もが願ふところに
住むことが許されるのでない
私自身が青年期においてこの数行に電撃的に打たれたことはすでに「試行」二十七号の「伊東静雄と私」なる一文でのべたので、ここではくりかえさないが、もしその同じ時期に私が『固有時との対話』に出会い、さきに引いた一節に表わされている詩人の姿勢に接していたとすれば、たぶん伊東静雄でなくて吉本隆明が私の青春の数年間を烈しくもろに包み込んだであろうと思われるのである。
宮城さんの文章は非常に綿密な論で、多くの考えるヒントをもらいました。次の投稿までにもう一度、ていねいに読み返すつもりです。
諸家の中には、吉本の初期詩篇と、立原道造の詩に、一種の親近性を見出す人が一、二にとどまらないようです。一方で。伊東の立原に対する(たぶん一方的な)好意のようなものがあって、これは私の宿題になっています。何やかやで、当分、寝たりコケたりしている暇はなさそうです。
山本様 こんにちは
山本様 こんにちは。
私の拙い投稿をお読みいただきましてありがとうございます。
宮城賢さんは、1929年生まれで終戦時に16歳ですが、当時の青年たちは腹を空かせながらも、伊東静雄詩集を買い求めて、心の糧にしたのだということを思うと、ずっしりとした重みを感じます。(小川和祐さんは1930年生まれでした。)
昨日(12/23)は午後から雨の天気予報でしたので、大阪港一体を自転車でポタリングしました。小野十三郎さんの詩集『大阪』に歌われた「大葦原」など、もはやその片鱗すらも残っていません。2キロ近い此花大橋の上では、誰とも遭遇しませんでした。足下にはどんよりと曇った海が広がり、今日は仕事を休んでいる新日鉄住金などの工場群が見えるだけでした。
先日」(12/19)は、枚方大橋から木津川の方へ少しだけ入り、桂川サイクリングロードから橋を渡って淀川右岸を走って帰りました。水無瀬辺りの河淵からオオワシ(大きくて重々しい「ビワコオオワシ」に似ていた・・・)が飛び立つのを観ました。土手の上では、野鳥撮影家達が、50人以上も陣取って望遠レンズを構えていました。当日の走行距離は約110キロでした。
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納所(のうそ)/「淀君の淀城址」?
諫早の芥川賞作家・野呂邦暢の本名が「納所邦暢」であることは皆様ご存知の通りです。
「納所」というのは、諫早では珍しい苗字ですが、実は平安時代からある朝廷への税・上納品等の「収納場所」のことだそうです。
桂川サイクリングロードを走っていると「伏見区納所町」(nouso)という地名が在ります。
そこは淀川水系三川合流点の上流(桂川と宇治川の間)にあり、室町時代から「納所」として重要な場所でした。
時代は移って、浅井茶々が秀吉の側室となり、天正17年(1589年)、捨(鶴松)を懐妊したときに当地に山城国淀城(「古淀城」という)を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになったという由緒のある場所となりました。― 鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、その後この館は破却され、その一部が近くの伏見城に移築されたと記されています。(「淀君」と言えば「江口の君」を連想しますが、「淀君」「淀殿」は後世の人が付けた名前で、生存時にそう呼ばれたわけではないそうです。)
さらに、江戸初期に伏見城が廃城とされたために、「新淀城」が「古淀城」の南500メーター程の場所に築造され、その周辺に城下町が形成され、古い街並や神社が残されています。
一方の「古淀城」跡地には、現在は小学校やお寺が建てられ、地域は現在の伏見区納所町となっています。
大正時代に淀競馬場開場に伴って地域振興が図られ、現在は「淀競馬場」の町として知られています。昼飯に立ち寄った京阪淀駅前の駅前商店街にある古い喫茶店で、聞こえてくる隣のお客様方の話題は専ら競馬レースのことでした。
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納所の唐人雁木
納所という地名を見て、思わず懐旧の念にかられ、筆をとりました。
納所には「唐人雁木」の石碑というものがあります。朝鮮通信使の上陸地と云われます。さっきウエブで見たのでは、「この石碑は1990年(平成2年)に立て替えられたもので、1928年(昭和3年)に三宅安兵衛遺志によって建立された原碑は現在、淀城跡公園内に移設されています」とのことです。
実は私はその原碑、古いほうの碑を見に行ったことがあるのです。
朝鮮通信使のことを熱心に調べていたころで、20数年前になりますが、たしか写真もとって、それを見ていただこうと思ったのですが、当時はまだ銀塩カメラの時代で、その古い写真を、とても探し出すことができませんでした。京阪電車の淀駅で降りて、淀城址を横目に見ながら、かなり歩いて行ったのをおぼえています。(写真は、Googleで「唐人雁木」で検索して「画像」を見ると、無数に出て来ます。)
年末の行事はだんだん手抜きになって、さしてあわただしくもなく、年を越すことになりそうです。皆様、よい年をお迎えください。
新年明けましておめでとうございます
皆々様。新年明けましておめでとうございます。
私は、今日から仕事始めですが、我が脳内はまだ新年に更新されていません。
年末〜新年は、奥道後温泉で過ごしましたが、ホテルも比較的に空いており、ゆっくりできました。しまなみ海道では、サイクリングをする人たちの小集団と度々遭遇しましたが、清々しい良い眺めですね。(機会があれば挑戦してみたいものです。)
当地では、暖冬のため、蝋梅の大木が満開になっており、早咲きの梅も、椿までも既に開花しています。この調子で行くと3月には桜が満開になるかもしれませんね。
今年も「健康をキープして、清々しく」をモットーにして参りたいと思いますので、宜しくお願いします。
明けましておめでとうございます
皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願いいたします。
大晦日の夜、紅白を観ても歌手の名前が全然わからないので、しばらくチャンネルをいじっていたら、BS7で、「空から日本を見てみよう」というのをやっていて、空から、大村湾を一周、諫早の町が出て来ました。眼鏡橋。諫早高校。池にかかった橋の上に女子高生が並んで腰を下ろして、足をブラブラさせながら、お昼の弁当を食べていました。校内にある「御書院庭園」という庭だそうです。高校の中に「名苑」がある! 検索すると、Wikipedia の「諫早高校」に、庭園の写真が載っていました。皆さんはすでにご承知で、私ひとり感激した、という次第です。
年がかわってから、加藤周一・中村真一郎・福永武彦『1946・文学的考察』(講談社文芸文庫)と、中村真一郎『芥川龍之介の世界』(岩波現代文庫)を読みました。中村真一郎はこれまで、偶々出会ったときに小さな文章を断片的に読んだ経験しかなく、しかし、おもしろい、と思っていましたので、立原・堀に焦点を合わせて、もう少し蒐めて読んでみようと思っています。
『歌と逆に歌に わがバリエテ』(小野十三郎)
昼休みに近くの古本屋で『歌と逆に歌に わがバリエテ』(小野十三郎著 創樹社 1973年刊)を買ってきました。(この本は昔買って読んだ記憶がありますが取り敢えず買っとこうということで…) 目次にある次の項目が目についたからです。(興味のある方は古本も多数あるようですのでご一読下さい。)
<座談会 伊東静雄―人と文学―富士正晴・斎田昭吉・中石孝と―>
<言語と文明の回帰線―前登志夫との対談―>
・<座談会 ・・・>の方は、全体が思わず笑わずにはおれない程に面白いのですが、次のような話はいかがでしょうか。
小野「伊東のことで面白い話があるねん。いつかうちの嫁はんとスバル座で会いよってん。ところが伊東と秋田実、よう似とるねん、顔がな。それでうちの嫁はん、初めからしまいまで秋田のつもりで話しておったんや。伊東もそれにちゃんと、ああとかそうとか言うて受けてな、相づち打っとったらしいわ。それで別れぎわに“ぼく伊東です”言うてな。」
・<―前登志夫との対談―>の方は、かつて小野さんが「短歌的な抒情の否定」というようなことを言い「奴隷の旋律」というような激しいことばを使った真意はどこにあったのか等々について、歌人前登志夫さんと対談しているのが興味深く、「なるほどそうだったのか。」と納得させられるところがありました。
ご報告
12月26日午後2時から,諫早図書館に於いて第97回例会を開催した。
会報は第91号。
内容は次のとおり。
1『夏花』に寄せて?????????????????????????????????? 一柳 喜久子
????????????????????????( 昭和45年8月冬至書房復刊・付録より転載)
2??詩 「日暮れの町で」 ???????????????????????????? 井川 博年
3 詩「出発は5分でできる」??????????????????????????井川 博年
4 井川氏の作品に思う????????????????????????????????山本 皓造
5??詩「てのひら」????????????????????????????????????青木 由弥子
6 詩「中心に燃える」????????????????????????????????伊東 静雄
7 詩人伊東静雄に触れる <諫早で作品解説 ~菜の花フォーラム~>
長崎新聞 2015.12.9 記事
???????????????????????????? 以上
次回は、1月23日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
中村真一郎から「河邉の歌」へ
私がこの欄に「松浦寿輝氏の「エセー」」と題して、「アクチュエル」な時間と「レエル」な時間ということを書いて投稿したのは、ついこの間と思っていましたのに、調べてみるとそれは一昨年、2014年2月26日のことで、もう2年も前のことになります。その2年間という時間の過ぎ行くのが早かったことに驚きます。
松浦氏はプルースト巻末解説の「プルーストから吉田健一へ」というエセーで、まず吉田健一の時間観を「その流動を奪はれてこれが時間だと自分の前に置ける類の」時間として取り出して、これを「アクチュエル」な時間と呼び、次いでプルーストの無意識的想起によって喚起される時間態様を「レエル」な時間と呼んで、これと対比しました。私はこれにヒントを得て「河邉の歌」を次のように読んでみたのでした。長くなって申し訳ありませんが、以下にその要点を抜き出します。
私は河邉に横たはる
作者は、故郷ならざるある河辺に来て横たわります。ここはまだ「アクチュエル」な時間です。
(ふたたび私は歸つて來た)
ここで、一つの時間断片ともう一つの時間断片とが不意に接合します。( )は、事態が「レエル」であることの、あるいは時間態様が異なることの、徴表です。
この「超越的な時間」「純粋状態の時間」においては、アクチュエルな時間は無化され、傷ついたり豊富にされたりした時間は飛びこされます。
「私」をふたたび「アクチュエル」な時間に引き戻すのは、ザハザハという川の音です。作者は自分が依然としてアクチュエルな時間のうちに在ることを気づかされます。万物の上を等しく流れ、正確に数をきざみ、往って戻らぬ時間というものの本性。この気づきを作者は
私に殘つた時間の本性!
と云います。
この時間には、生けるものの「死すべき宿命」mortalité が含まれます。作者はそれを、「はやも自身をほろぼし始める/野朝顔の一輪」において目のあたりに見ます。この宿命の、例外を許さぬ普遍性(正確さ)と、にもかかわらずその死の固有性(孤独)。
旧稿「「河邉の歌」を読む」では私は、第三聯については適確な解釈を得られないままに、書き流してしまいました。
最近になって、中村真一郎『芥川龍之介の世界』(岩波現代文庫)、同『芥川・堀・立原の文学と生』(新潮選書)、小久保実『中村真一郎論』(審美社)などを読みました。小久保の『論』が、
周知のようにプルーストは記憶に二種類あることに注目した。意志的な記憶と無意志的な記憶。人は後者の中で、現在と過去を同時に生きる。それは超時間の世界への飛躍である。
という、中村真一郎の著書からの引用を行っていて、私はこれに触発されて、さまざまな想念がワッと湧き上がってきました。以下、手抜きをして、箇条書きにします。
●「時間の本性」は、
アクチュエルな時間、ギリシア語でいうクロノス的時間、吉本『固有時』に云う自然的時間と、
レエルな時間、カイロス的時間、固有時的時間
どちらに解してもよい。後続の論理にはかかわらない。
●水中花は無意志的記憶の想起=開花である。プルースト。乾いて、ひからびて、花の色を失い、形を失い、紙屑のようなものになった水中花が、水の中で、鮮やかな花の色と形を取り戻してゆく。内田百?「水中花」(本掲示板2006.6.4)がなぜ「水中花」なのか、やっとわかる。
●「飛行の夢」は「夢想による飛行」と言い換えられる。飛行は、夢想/レエル時間に入り込むこと/による、
A 大阪の陋屋から本明川の河原への――。
B 少年時への特権的時間への――。
拙論「『河邉の歌』を読む」で引いた、杉本秀太郎氏、菅野昭正氏の、「どこからどこへの飛行か」に関する立論はいずれも妥当であると考える。
レエル時間=「純粋時間」=「詩作時間」という米倉巌氏の所説は、もし「河邉の歌」というこの詩それ自体に適用されるとすれば、その立言はメタ・レベルにあり、この詩は自己言及的な詩であるということになる。
●第一聯は「アクチュエル」時間から「レエル」時間へと入り込む。第二聯はアクチュエルな時間に戻る。
さて、第三聯はどの時間相に属するか?
読み方としては第二聯の続きであって、なおアクチュエルな時間に居る、と読むのが自然である。であれば、雲の去来や取り囲む山々の存在はいずれもアクチュエルな時間におけるアクチュエルな事象である。それは、ザハザハという川の音や、萎れかかる野朝顔と同じレベルのアクチュアリテである。最後の「飛行の夢……見捨てられはしなかった」も、アクチュエルな時間に居て行う、直前のレエルな時間経験の確認である。
そうだとすると、山々が天体の名を持つてはいけない。それがたとえば北斗七星であって、妙見岳を指す、とすれば、それは故郷の山々であり、アクチュエルな時間のアクチュエルな出来事として現れることはありえない。ここには(不注意からかどうかは措くとしても)レエルな時間の時間相が混入してきている。意図的に混入させても詩としては成り立つが、それは伊東の本意ではなかった。伊東はこの混入に気づいて、『反響』でこの行を削除したのではなかったか。
?
「詩作的思索」
山本様。貴重なご思索の成果を教示頂きましてありがとうございます。
「河邊の歌」の各詩句の意味が解きほぐされ、(専門家だけでなく)我々素人も詩人のメッセージを「あゝ、そういうことか!」と了解できるようになると素晴らしいですね。
人間の思索―(客観的)哲学的思索と、(主観的・始源的・根源的な)詩作的思索とは、本来的には未分化でありますが、人間にとってはどちらも不可欠であり、本質的な思索であることは言うまでもありません。
伊東静雄は、「飛行の夢」という「洒落た詩句」をつかって、「カイロス的時間」〜「クロノス的時間」の間を飛び回るトランスポート的思索を披露しながら、「望郷」テーマの詩作をしているのだと、「河邊の歌」を私は位置づけました。いわゆる「詩作的思索」または「詩人的思索」(ハイデガー、ヘルダーリン“思索家的詩作”)といわれるものへの伊東静雄的チャレンジなのかも知れないなどと、その時の状況を空想したりしています。
一言でいえば「河辺に寝転んで目を閉じると、故郷の山や川が脳裏に浮かび、そのプリミティブな思索はストレートに詩の言葉(うた)となって出てくる。」というような状況でしょうか。
私は、健康維持のために相変わらず週1〜2回の「淀の河辺サイクリング」を続けていますが、秋の彩りは淀の河辺から消え失せ、鵜殿の葦も半分位はすでに刈り取られ、大阪港の「大海辺」も冬景色に変わっています。
淀川河川敷の到る所で、名前も知らないような色々な小鳥や大型の渡り鳥たちによる、賑やかな鳴声の交感が壮んであり、まさに鳥たちの「カイロス的春」であります。太陽入射角が高くなり、日没時間が遅くなっていることから見ても「カイロス的春」がすでに始まっています。自宅前公園の河津桜も紅い蕾が膨らみ、「いつでも咲いたるぞ」と言いたいような気配を感じます。明日もまた桂川辺りまで「ペダリング」をしようかと思っています。
*添付の写真は、先日(1/16)大阪北港の淀川河口から、湾岸線方向をスマートフォンで写したものです)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001380.jpg
水無瀬のコミミズク
昨日は天気が好かったのでいつもの通り「淀の河辺サイクリング」に出かけました。
大山崎町の観光案内によると、最近シベリヤからコミミズクが渡って来て、水無瀬の河川敷(広瀬地区)で越冬しているそうで、フィールドカメラマンの注目を集めています。。
(添付の写真は、WEB上に公開されている写真を使わせて頂いていますが)昨日も約200人のカメラマンが、長い望遠レンズを構えて撮影していました。腹の白いオオタカも枯れ木のてっぺんに止まっていました。(生憎私はカメラを持参していませんでした。)
写真の場所は、伊東静雄が、庄野潤三の出征を労う為に、橋本から渡し舟に乗って山崎の渡し場を通って水無瀬宮へ行った道筋に当たります。(その模様は庄野さんの日記を基にした『前途』に詳しく描写されています。)
伊東静雄〜庄野潤三の文学的継承関係の考察については、饗庭孝男さんが「庄野潤三論」(『批評と表現 近代日本文学の私』において詳しく論じられています。上手くまとまりましたら再投稿してご紹介します。
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http://oyamazaki.info/
近況雑記
Morgen さんの「健脚」は、うらやましい限りです。水無瀬には知人が住んでいて、訪問がてらに一度行きたいと、前々から思っていたのですが、この分では夢に終わりそうです(「飛行の夢」でなら行けそうなのですが。)
小野十三郎『歌と逆に歌に わがバリエテ』所載の座談会は、初出の雑誌『日本浪曼派研究』創刊号のほうで読みました。私も腹を抱えて笑いました。
伊東先生のエピソードの一つとして、"ズボンのベルトのかわりに奥様の赤い腰紐を締めて出勤した" というのがありますが、以前、花子夫人に直接うかがったところによると、それはなかった、と、否定されました。誰が言い出したのでしょうか。
『庄野潤三全集』全10冊が古書で1万円で出ているのをみつけました。ずいぶん前に一度、天牛で3万円で出ているのを見たことがあるのですが、古書も安くなりました。
1月は、読書があまりはかどりませんでした。月末までに読んだ主なものをあげると、
・加藤周一・中村真一郎・福永武彦、1946 文学的考察、講談社学術文庫
・中村真一郎、芥川龍之介の世界、岩波現代文庫
・熊野純彦、埴谷雄高―夢みるカント、講談社学術文庫
・中村真一郎、芥川・堀・立原の文学と生、新潮選書
・小久保実、中村真一郎論、審美社
・山本七平、小林秀雄の流儀、文春文庫ライブラリー
・堀田善衛、時間、岩波現代文庫
・村上春樹、雑文集、新潮文庫
そして、大冊
・中村真一郎編、立原道造研究、思潮社
を、ようやく読み上げました。
結局、巻頭の室生犀星がいちばんよかった。中村真一郎の回想もよかった。芳賀檀の文章は何を言っているのか意味不明。
ノートをとるという、大仕事が残っています。
途中で止まっていた『立原道造全集第3巻』(散文)を、また始めから、読みはじめました。
考えることはいろいろあり、自分で問題を設定しておいて少しも解答に近づいていないものもあり、ノートやメモは溜まって行きますが「生産性」がガタ落ちで、投稿するまでに至りません。まあ、ぼちぼちやろうと思います。
ご報告
1月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第98回例会を開催した。
出席者は、8名。
今回は、『燕』『砂の花』『夢からさめて』の3篇を読み解いた。
会報は第92号。
内容は次のとおり。
1 「伊東静雄ノート1」????????????????????????????????青木 由弥子
????????????????????????(詩誌 千年樹第64号より転載)
2??詩とエッセイ『千年樹』第64号????~伊東静雄の作品を振り返る~
????????????????????????????????????????(長崎新聞 2016.1.9)
3 伊東静雄と近代西欧の詩人たち????????伊東静雄研究会 森田 英之
項目 はじめに
啓蒙主義
??????ロマン主義
??????ドイツの場合
??????古典主義・ロマン主義の背後にあったカント哲学
??????ヘルダーリンの復活
??????古代ギリシア文化とヘルダーリン
??????伊東静雄と西欧
???????????????????????????? 以上
次回は、2月27日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
「右岸から左岸への手紙」
淀川祭りで唄われた「淀の流れは十三里」という歌があるそうです。(古関裕而作曲 貴志邦之作詞)
港みなとで
山ほど積んで
上り下りの
通い船
淀の流れは
十三里
伊東静雄も詩のなかで淀川を詠っており、現実の厳しさに直面し「強いられて」、自らの青春の終わりを痛感し、さらには戦争、敗戦と言う濁流に流されていった詩人の人生が表現されています。
・「わがひとに與ふる哀歌」(琵琶湖面。淀川は琵琶湖河畔〜大阪湾河口)
・「淀の河邉」(三川合流点。橋本〜水無瀬)
・「路上」(…そして向こうに大川と堂島川がゆったりと流れる/私もゆっくり歩いて行かうと思ふ…)
淀川区役所の近く十三東町に詩人・清水正一さん(故人)のご自宅が記念館として遺された「蒼馬亭」があります。周りにはマンション建設が進められているなかで頑張っている古い三軒長屋の端の家です。
清水正一さんは、昭和3年に伊賀上野から大阪に出て来て、蒲鉾の製造に従事しながら詩を作り続けてこられ、昭和60年に亡くなられました。『大阪春秋』第6号(昭和50年4月15日発行)に、「左岸への手紙―わが新淀川と右岸の町」と題する次のようなエッセイが載せられています。要約してご紹介します。
<友への手紙>「…ナゼ淀川ヲ、唄ワナイカ? 貴方ノ手キビシイ質問。…川岸ニ50年近クモ生活シテイルト、口ヲ噤ンデシマイマスネ。…(創ルナラ)組曲ミタイニ詩ヲカイテ行キタイデスネ。川ニ、水ニ、橋ニ。…>
清水さんは、伊東静雄に関するエッセイも書いておられ、御堂筋に静雄詩碑を造れと提唱もされました。
「蒼馬亭」の前を通りながら、十三の詩人の心に秘めた“『淀川組曲』が聞こえてこないかなー”と、時々立ち止まってみます。
明日は、9時から鵜殿の葦原焼きが行われる予定です。いつもの様にロードバイクで走る予定ですが、時間が問題ですね。(通行止めになるので左岸からまわる予定)
輸送路としての役目を終えた淀川は、今や現代人にとって巨大な、天然のスタジアムのような存在です。土日には沢山の人が色々なスポーツを楽しんでいます。そのうち、右岸〜左岸を結ぶダブルマラソンの世界大会が実現するかもしれませんネ。(根拠無し)
*2/21「鵜殿の葦原焼き」は実施されませんでした。写真は昭和60年頃の三川合流点です。京滋バイパスがありません。)
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三国ヶ丘 菜の花忌
堺・三国ヶ丘ゆかりの詩人 伊東静雄菜の花忌のお知らせ
日時 平成28年3月6日 14時〜
場所 堺市立三国丘幼稚園
参加費 500円
講演 冨上芳秀氏 安西冬衛の世界
主催 けやき通りまちづくりの会
ご報告
2月27日午後2時から,諫早図書館に於いて第99回例会を開催した。
出席者は、8名。
今回は、『蜻蛉』『夕べの海』『いかなれば』の3篇を読み解いた。
会報は第93号。
内容は次のとおり。
1 見送る者の「さようなら」
??????????????~蓮田善明の自裁と伊東静雄の戦後~
???????????????????????????????? 花田 俊典
????????????????????清新な光景の奇跡~西日本戦後文学史~
?????????? ??????????????(西日本新聞社)
2??第二十六回 伊東静雄賞 受賞作品
??????????????四月の雨 藤山 増昭
????????????????????????????????????????????広報諫早3月号
3 「世界文化遺産」???? 伊東静雄研究会 龍田 豊秋
??????????????????????????????2016.2.1 毎日新聞「はがき随筆」
???????????????????????????? 以上
次回は、3月19日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
諫早公園のヒカンザクラが、去年よりは時期が遅れて開花しました。
カワセミが一羽、陽を受けながら羽を煌めかせて、眼鏡橋から倉屋敷川に向けて、公園広場の上を横切りました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001386.jpg
藤山増昭「四月の雨」に寄せて
一雨ごとに木々の新芽が膨らんでいくのが目立ちます。
第26回伊東静雄賞を受賞された藤山増昭様の「四月の雨」を読ませて頂きました。
藤山様、このたびの御受賞おめでとうございます。(遅ればせながら・・・)
―「田舎医師」の老父は、「四月の雨」の朝、自らの病気を省みず、“菊部隊”の慰霊祭へ出かけ、帰宅の後、亡くなられた。
(1年前、詩人もまた病に倒れ、死の淵から生還された。そのときの夢の中に、若い軍医姿の父が現れ、「ゲンキカ」と僅かに笑って聞いて、影のように去って行った。・・・詩人は、故郷の道に父の影を踏みつつ、その背の傷痕をなぞっていく。)
・・・・・
四月の雨が降っている。幽かに光りながら
父に降り、家族に、私に降り
話されなかった荒れ地も濡らし始める。
・・・・・
藤山増昭さんが「田舎医師」の老父といわれる方は、我が村(旧北高来郡小江村)唯一の医療機関であった藤山医院の「藤山先生」です。我が家の祖父も父も私ら兄弟もすべてがお世話になりました。小江小学校や有明中学校の校医をしておられたので毎年健診もして頂きました。注射をして頂いた記憶や、お母様の面影も幽かですが脳裏に残っております。
藤山増昭さんは、おそらく私の弟(優)と同じ位の年代だと思いますが、小さい頃のお姿はほとんど覚えていません。
戦争から生還した父や、叔・伯父達も、すべてが亡くなってしまった今、「話されなかった荒れ地」のことを聞くすべはありませんが、静かな春の雨の音を吸込んで、シベリア、満州、ビルマ、フィリピン・・・どの荒れ地でも植物の新芽が膨らんでいることでしょう。「四月の雨」が静かに降るのは、「樹々の小枝で光ってゐる新芽」がすべての物音を吸い込んでしまうからだそうです。(リルケ)
<「四月の雨」に触発されて、リルケ“AUS EINEM APRIL”「四月の印象」「ある四月から」・・・について投稿しようと思っていたのですが後日にします。>
・・・・・・
あたりが急にしずかになる黒ずんだ小石をぬらす雨脚が
何の音もせずに消えてしまふ
物音といふすべての物音は
樹々の小枝で光ってゐるあの新芽のなかへすつかり吸はれてゆくらしい
(リルケ“AUS EINEM APRIL”「四月の印象」大山定一訳から)
http://www.city.isahaya.nagasaki.jp/
枕上読書断片(1)
Morgen さん、みなさん、お久しぶりです。
淀川遡行サイクリング。私にはまず「しんどそう……」という思いが先に来ます。
昔、友人が大学2回生になって下宿することになったとき、彼は自転車のうしろに布団をくくりつけて、大阪西成から京都までチャリンコで行きました。私の孫は小学生か中学生のころ、オトウサンと(即、娘婿)木津川べりを自転車で下り、3川合流点からさらに嵐山まで桂川をさかのぼって帰ってきたことがありました。Morgen さんも嵐山まで行けば、帰りは漕がずに帰れるかもしれません。
枕元に積み上げた雑多な文庫本もほとんど読み尽して、仕方がないからまた『薔薇の名前』でも読みなおすか、と、ぼんやり思っていたときに、新聞でウンベルト・エーコの訃を知りました。その偶然にすがって、上下2冊、ぼちぼちと、10日ほどで読み終りました。
ここではエーコ論をやろうとか「薔薇の名前」とはなにかを解明しようとかいうのではなくて、ほんの冗談みたいな思いつきを一言、述べるだけです。
『薔薇の名前』の最後はこんな詩句の引用で終わっています。
《過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキ名ガ今ニ残レリ》
この原文はWikipediaからの孫引きによると、
stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus
直訳すると、「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」ということだそうです。事は西洋中世哲学史の「普遍論争」にかかあり、むつかしいのですが、私の云いたいつまらぬ一言というのは、「裸の名 nomina nuda」が、中島栄次郎の「哀歌」評の件の部分に対応するのではなかろうか、ということでした。――「ちやうど王朝時代の歌のやうに、たゞキラキラとする抽象的な美しさとなり、自然ははや輪郭だけとなり、己れの名だけとなり……」
なづな花さける道たどりつつ・・・
山本さま。お元気そうなご投稿拝読しました。
私のサイクリングは専ら運動目的で、そのほかに別段の意図はありませんので、ポタリングはやりません。当面は、同じコースばかり只管ペダリングをしております。
取りあえずは、70キロコース(京滋バイパス側橋)、80キロコース(納所・宮前橋)、90キロコース(名神下・鳥羽離宮跡)、100キロコース(西京極・阪急線路)、110キロ(嵐山)と大まかな目途をつけて輪行コースを分けています。スタート時点で、当日の天候や、出発時間などに応じてその何れかのコースを選び、まず菅原城北橋で淀川左岸へ渡り、折り返し点で、桂川左岸から同右岸へと橋を渡って帰るのが通常です。天候急変や疲労度、日没までの残り時間を判断してUターンすることもあります。速度は時速35キロ〜15キロ(平均時速約20キロ)の緩いペースで、只管輪行しています。使用しているロードバイクには荷台がなく、水と財布以外は殆んど何も携行していません。ヘルメット・サングラスを装着し、レーシングパンツとジャージーを着ていますので、道で知人と出会っても見過ごしてしまうと思います。
淀川・桂川べりのサイクリングロードを駆け抜ける匿名ライダー縦列(魚群?)の一部となり、具象性は否定(抽象化)され、河原を吹き抜ける風のカケラとなって流動し、色即是空と化す。―(少し洒落て言えば)こんな情景描写すらできそうにも思います。
また、輪行中は、観ること・聞くこと・体を動かすことに集中し、無念無想とまではいきませんがあまりものを考えないように努めています。(良い考えなど浮かぶはずはないと初めから諦めています・・・)脳科学的には、朝日の照る屋外で運動をすると、セロトニン等の神経伝達物質の分泌が促され、一時的にせよポジティブシンキング体質へと変わるようです。胴回りのサイズがビフォー90Cm〜アフター80Cmと減少し、体重も10Kg減量しました。「風のカケラ」化に一歩近づいています。
・・・・・
風がつたへる白い稜石の反射を 若い友
そんなに永く凝視めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ(「そんなに凝視めるな」から)
年度末を迎えて、明朝からは東京出張です。新幹線の往復時間はほとんど眠っています。背割り堤の桜並木も、近寄ってみると夫々が大樹(老木)になっており、壮大な開花が始まっています。皆様もどうぞお越し下さい。(画像追加:WEB上の画像を借用しました。)
木津川に架かった木造の「流れ橋」も渡ってみたいですね。ではまた。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001389.jpg
枕上読書断片(2)
木津川にかかる「流れ橋」は、流れるたびに新聞に載るので、いまや南山城の名所の一つですが、わたしはまだ行ったことがありません。たまたま Morgen さんの投稿のあった直後に、朝日新聞に「もう流れない? 流れ橋」という記事が出ました。地方版なので貼りつけておきます。
『立原道造全集3』はときどき休みながら読むのでなかなか読了しません。
その中で立原が伊東静雄に関説した個所をみつけましたので、ご紹介します。
・p.237(「風信子[三]」)
……何年かの間に僕もまたいろいろな人と会っては別れた。帰郷者はいつも、そんなことを言ふ――「時間の本性」と。……
これが伊東静雄を指しているのは明らかです。この文ではほかに、芳賀檀、亀井勝一郎、神保光太郎、山岸外史らの名前や著書があがっています。立原が「時間の本性」というとき念頭にあるのは、文脈からすれば mortalite や「会者定離」のコトワリであることも明らかです。
・p.269(「詩集西康省」)
伊東静雄にあって思索と呼ばれた場と、この詩人において輪郭と呼ばれた場とを注意して比べたまへ。……
立原が田中克己について、また田中と伊東との比較について、何を言いたいのか、その核心を全然つかめぬままに、とりあえず引用しました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001390.jpg
ご報告
3月19日午後2時から,諫早図書館に於いて第100回例会を開催した。
出席者は、全員の9名。
ゲストが2名。1名は、第22回伊東静雄賞受賞者の西村泰則さん、もう1名は、元会員の富永健司さん。
今回は、『決心』『八月』『八月の石にすがりて』の3篇を読み解いた。
会報は第94号。
内容は次のとおり。
1 伊東静雄ノート (2)????????????????????????????青木 由弥子
?????????????? 詩とエッセイ「千年樹」65号より転載
2??伊東静雄詩論 夏の詩人 13 <花鳥と燈>
???????????? ??????????????????????????????????????萩原 健次郎
???????????????????????????????????? (2013年5月「海鳴り25号」より転載)
3 「マドンナの競艶」???? 伊東静雄研究会 龍田 豊秋
??????????????????????????????2016.2.23 毎日新聞「はがき随筆」掲載
4 八月の石にすがりて 鑑賞の手引き
???????????????????????? ???? 以上
??高校の国語教師であった西村泰則さんが、文法面からの詩の読み解き方法を講義しました。
富永健司さんは、諫早振興のための着想を提言しました。
次回は、5月28日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
「四月の風」
今日の日本列島は、前線通過による大荒れの天候となりました。爽やかな「四月の風」ではなく、大雨や雷をともなう春の嵐でした。
晴天の昨日は、嵐山まで(4月になって2度目の)往復110キロ超のロングドライブ輪行を行いました。淀川べりには各所に桜並木が多く、沢山の客が花見に訪れています。
嵐山の何処かの店で美味しい昼食を摂ろうと予定していたのですが、それは甘すぎる考えでした。どこも観光客で満員のためどの店も入ることができず、家から持参したおにぎり2個とチョコレートを河原で食べただけで、帰路ではさすがに少しバテました。
伊東静雄詩「四月の風」(昭和9年春)から抜粋。
私は窓のところに坐って
外に四月の風の吹いてゐるのを見る。
・・・・・・・・・・・・・
(地方の昔の中学生の振る舞う様を思い出す・・・)
四月の風は吹いてゐる。ちょうどそれ等の
昔の中學生の調子で。
・・・・・・・・・・・・・
(道の上で悪戯をしたり、冬の風を吹かせたりして・・・)
曾て私を締め付けた
多くの家族の絆はどこに行ったか。
・・・・・・・・・・・・・
(生徒たちは、“センセー!” “センセー!”と親しげに寄ってくるが、それ
は見せかけなのだと私はひがんでいる。―私は28歳なのに既に壮年になったよう
な気分である。)
それで、も一つの絆を
その内私に探し出させてくれるのならば。
この詩には窓の外に吹いている四月の風の情景がうたわれているのかと思っていたら、実は「家族の絆」〜「も一つの絆」への展開の予感が「四月の風」に寄せてうたわれているのですね。
今日吹き荒れた4月の嵐で、背割堤の桜も、嵐山川べりの桜も大分散ってしまったでしょうが、「淀の河邉」では燃えるような緑がボリュームを増しています。鶯や雲雀もすぐ近くまで寄ってきて、大きな鳴き声を立ててくれます。年寄りの私を「頑張れ! 頑張れ!」と励ましてくれているようにも聞こえます。
目まぐるしく変化していく経済情勢のなかで、会社の定時株主総会を控えて、今日からは監査等の準備にかかっています。(業界の急激な変化に雄々しく立ち向かっている青年達に、内心ではせめて老人扱いをされないようにと秘かに思いながら。)
「わが去らしめしひとは去り」
四月七日、大雨と大風の「四月の風」の日、大阪に出ました。古い教師仲間の懇親会のようなもので、場所は「中之島プラザ」という所、京阪中之島駅から西へ少し行ったところです。京阪電車がここまで延長されたことなど、私の知見にはなく、天満から淀屋橋まで延伸して地下鉄からすぐ乗り換えできるのに感激したのはついこの間のような気がする、と古い話になりました。昔は「城東線」京橋から京阪電車京橋に乗り換えるのに、何百メートルか土堤下の道をよく歩いたものです。こんなことも、もう知っている人はだんだん少なくなるのではないでしょうか。久しぶりの大阪の街は新鮮でした。
閑話休題。
立原道造が伊東静雄に関説している個所について、もうひとつ資料を付け加えます。このことは宇佐美斉『立原道造』(筑摩書房)で知りました。
昭和11年7月下旬に信濃追分から友人の柴岡亥佐雄に宛てた手紙[角川版6冊全集第五巻書簡番号264]につぎのような文言があります。
君のおそれるやうな物語はなんにもないんだ。だから、追分村風信がやつとこんなにして書けるやうになつたのだよ。ざらざらと、それは毎日してゐる。高原バスなどに似た人の面影見るときには、しかしやつと心が一つのイマージュに向けられ、しづかに燃えてゐるんだ。「わが去らしめし人は去り」といふ伊東静雄の一句を考へてみたまへ。そんな風だ。けれどそんな他人の詩より僕の詩の方が君にはきつとよくわかるだらう。……
そうしてこのあとで、「ゆふすげびと」FRAU R. KITA GEWIDMET と題する自作のソネットを引用しています。ソネットの全体は長くなるので省きますが、岩波文庫の詩集では、のちに『文芸汎論』に発表した形で、「拾遺詩篇」の部に採録されています。
その末尾の2行、
しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔ゐなく去らせたほどに!
が、伊東の「行つてお前の憂愁の深さのほどに」の第4行「わが去らしめしひとは去り」を意識しているのは明らかです。
(これより前、同年5月7日杉浦明平宛[前掲書、書簡番号229]に「……ひとりの少女は去らしめたままに僕から去つて行きました」との文言のあることが、全集の編註から知られます。)
宇佐美氏はこのあと、昭和10年11月23日『哀歌』出版記念会への立原の出席、伊東の側からの立原への「親近感」、立原/伊東両者のふたつの詩篇の優劣と相違などについて述べているのですが、すべて紹介する余裕がありません。私としてはその「親近感」の拠って来る所以についての宇佐美氏の見解を聴きたかったのですが、適確な理解に至りませんでした。
こんな地震は初めて〜
震度4の揺れに驚きました。翌朝、諫早公園の詩碑が心配で〜6トンもの碑が転がり落ちてはいないかと出かけてきましたが異常なくホッとしました。52回の「菜の花忌」が済んだばかり、今年は例年以上の参加者でした。継続していくためには思わぬ自然災害に遭わぬことも大切な要件、平穏無事であることねがいたい。熊本では被害も甚大、亡くなった方々のご冥福を祈ります。
お見舞い申し上げます/熊本地震
このたびは、熊本県を襲った地震により被害を蒙られた方々にお見舞いを申し上げます。
直接の物理的・身体的被害はなくても、震度6の激震で足元から揺すられるあの感覚は、堪えられない恐怖です。(阪神・淡路で経験済み。)また、揺れが去っても、あらゆる建物や構築物がが傾いているように見えたり、上から物が崩れ落ちてきそうな不安感は去りません。(心理的後遺症)一日も早く震災復旧・生活再建がなされ、平穏な暮らしが回復されるることを祈るばかりです。
私は、5月には熊本〜大分旅行を予約申し込みしています。(道路網寸断により中止の連絡が来るかもしれませんが)「地元がこんなに大変なときにのんびり旅行など」とも思いますが、今後の風評被害も含めて観光産業に与える震災被害は甚大となることも予想しなければなりません。(九州経済の地盤沈下のトリガーとならなければよいが・・・)少々の困難があっても熊本〜大分旅行を実行したいものです。(ただし会社は出張制限あり。)
私の所属会社としても、東日本大震災同様お客様への支援をすることを発表しています。「私にできることは何だろうか?」と思案しているところです。
?? 「くまモンもん」(うた 森高千里)
・・・・・・・・・・
くまモン くまモン 日本のために くまモン
できないことは なかもん
心の中に くまモン もんもん
http://
菜の花忌
3月27日午後1時、肌寒い陽気の中、諫早公園中腹の詩碑の前で第52回「菜の花忌」が開催されました。
献 詩 森山中学校2年 山口 実殊さん 「春の顔」
?????? 鎮西学院高校3年 寺田 智恵さん 「なつのおと」
詩郎読??諫早コスモス音声訳の会
田中 順子さん 「春浅き」
????????詩人??????????????田中 俊廣さん??「夢からさめて」
??時間をおいて午後2時30分、観光ホテル「道具屋」にて、第26回「伊東静雄賞贈呈式」が開催されました。
記念講演 「詩人と生活」 最終選考委員 井川 博年 氏
受賞者藤山 増昭さんが挨拶と受賞詩の朗読をされました。
そのご、可愛いお孫さん3人が壇上に上がり、花束贈呈がありました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001396.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001396_2.jpg
熊本地震
熊本の皆様に心からのお見舞いを申し上げます。
毎日の新聞報道やTVの画面を息を詰めて見ています。八代、不知火海、三角、熊本、益城、南阿蘇、熊本空港、阿蘇山、大分に入って、日田、豊後竹田、由布、大分、(川内→伊方)、それらを含む太い線を、九州の地図の上に描いてみると、私がかつて足を踏み入れた場所、土地、人びとの光景が、にわかに鮮やかに蘇えってきます。
子供のころ、1946年の南海地震を経験しました。家がまるごと揺れたと思いました。
日本は地震国です。昔、在日のオバアサンが、「日本はチヂンがあるから、こわい」と云っていたのを思い出します。調べてみると、M7.0以上の大地震が、決して稀ではなく、ほとんど毎年、2度3度以上、起っています。
こういうときに最も働かなければならないのは、国家です。阪神淡路、東日本、国は全力を尽くしたとは云えません。弁明はいろいろあるでしょうが、「お金がないから」とだけは云ってほしくありません(保育所だって同じことです)。
熊本の方々に十分な支援の届くことを祈ります。
地震は自然災害です。その上に、人の不作為や権謀や誤謬や無責任によって災いが加重されることのないことを祈ります。
皆様の生命と健康をお祈りします。
上村さん。さぞ驚かれたでしょう。詩碑へのお心遣い、感謝します。
Morgen さん。旅行は大変ですね。どうか気をつけて行って来てください。
滝田さん。「菜の花忌」の記事、ありがとうございました。可愛いお孫さんたちが「華」を添えてくれましたね。
はじめまして
青木由弥子と申します。東京の大田区に住んでおります。
熊本大分地震では、東京も微弱なゆれの後に、ガツンと突き上げるような揺れを感じました。
まだまだ余震が続いているよし、どうぞお大事になさってください。
山本 皓造さま他、皆さまがいろいろな情報をアップされているのを拝読しました。
ときどき覗いて、勉強させていただきます。
追伸 八木書店のホームページで、伊東静雄の生原稿がかなりの高額でアップされているのを発見しました。「談話のかはりに」原稿一枚目の写真も確認できます。ご存知かもしれませんが、きれいな字でちょっと感動したので、URLを張り付けておきます。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/search?
ついしん
先ほどのURL、商品検索欄に「伊東静雄」と打ち込むとヒットします。
枕上閑話
青木由弥子様。ご投稿ありがとうございました。リンクをたどって、貴重な「談話のかはりに」の生原稿の写真も見ることができました。価格を見て仰天しました。
以下は老人の閑話です。
古書店の目録などで、ごく偶に伊東の原稿や書簡、はがきなどの出物を見ることがあるのですが、総じて伊東のものは高い気がします。どういういきさつでそういうものがひょっこり古書市場に出て来るのか、私にとって不思議のひとつです。
全集に収められた書簡などは、おそらくもとの宛先の方に返却されて、それらを今あらためて見るということはもうほとんど不可能になっているのではないかと思います。公にされた大塚宛のものや酒井姉妹宛のものなどはきわめて貴重かつ幸運なものであったのだと思います。私は、宮本新治さん宛で、宮本さん自身がたまたま保存されていたものを、福地那樹さんが借り出されて、それをコピーしたものを、福地さんから戴きました。全集とはずいぶん相違があるので、その一部を拙著に使わせてもらいました。
私は、酒井百合子さんからいただいたお手紙を3通、大切に保存しています。百合子さんはとても筆まめで、私の質問にたいして、縷々、延々と、便箋に何枚も何枚も書いてくださり、ただ1通の伊東書簡の文言の確認のために千葉の銀行の貸金庫まで、調べに行ってくださるのです。
生原稿どころか、書物でさえ、以前はなかなか、乏しい小遣いでは思うように買えませんでした。身体をこわして、以後、調べ物に走り回ったり終日パソコンに向ったりということはできなくなって、もうヤタラに本を買うことを、打ち止めにしようと決心し、最後にひとつだけ大盤振舞いを自分に許そうと思って、『春のいそぎ』を古書で買いました。しばらくして、田中俊廣先生から、たしか退職記念かなにかのつもりで、思い切って、やはり『春のいそぎ』を買われた、とお便りをいただいて、「いっしょや!」と、失礼ながら思わず笑ってしまいました。
ヤタラに本を買うまいと決心し、しかし、それでも買った、最近の大物は、角川版6冊本の『立原道造全集』です。でも、6冊で¥8000で、これは良い買い物だったと満足しています。とはいえ、それは筑摩版全集の最終巻をあきらめた、その代替であったことが、ちょっと口惜しいのです。
年寄りの長話、失礼しました。また書きたいテーマが溜まって来ていますので、書けるときに書いて、「枕上読書断片」の続きを投稿します。
ありがとうございました
山本 皓造様
貴重なお話をありがとうございました。百合子さんのお人柄がうかがわれるようなエピソードですね。また色々、お話を聞かせてください。
枕上読書断片(3)――思索・輪郭・拒絶
立原道造が伊東静雄に関説している部分、というテーマの続きです。
3/19投稿の「断片(2)」で、立原の「詩集西康省」の部分を紹介しました。今回はこの件に付随する資料です。
昭和13年10月4日付、田中克己宛立原書簡に、次のように書かれています。
詩集西康省とお心づくしのコギトたしかにいただきました。あの本は非常におどろきました。しばらくは反発と不安とだけで本をひらくことが出来ずにゐました。あなたの仕事が、拒絶のふかさで先ずはかられねばならなかったことから僕の西康省論ははじまるでせう。……しばらくして僕は一気に最初からよんでしまひました。……よみをへてまへの感じは一層ふかまりました。伊東さんの場合よりもなほこの精神は拒絶してゐないだらうかと。比較級の問題ではなく。
「詩集西康省」は田中克己の第一詩集、昭和13年10月1日付でコギト発行所から刊行。田中はすぐに自著を立原に送ったのでしょう。このとき立原は盛岡にいて、20日に帰京。10月26日付神保光太郎宛書簡に、「また東京にかへつて来ました。……僕は風立ちぬ十五枚と、西康省のこと、5枚ばかり書きました」とあるので、書評「詩集西康省」は4日以後、盛岡滞在中に書かれたものと、全集の編註は推定しています。発表は「四季」第41号(11月号)。また「風立ちぬ」十五枚というのはおそらく、筑摩版全集では未発表の原稿として[「風立ちぬ」(別稿)]の仮題で収録された(角川版では「補遺」)、定稿の?、?に相当する部分であろうとされます。この「別稿」の中で、立原は同じ主題を次のように記します。
「風立ちぬ」にあつては、この詩人[山本註:堀辰雄]の場合、拒絶はつひに問題とならなかつた。……「わがひとに与ふる哀歌」や「詩集西康省」を見たまへ。ここには一切の風景が色もなく形もなく思索と詩の輪郭とを残して消え去ってゐる。ここには拒絶がつめたくあるばかりだ。
なお定稿「風立ちぬ」は「四季」第42号(12月号)に発表されましたが、「別稿」の当該部分は定稿では生かされず削除されています。思うに、思索と輪郭というその趣旨はすでに「詩集西康省」で記したので、重複を避けたのでしょう。
私は田中の『「詩集西康省』そのものをまだ読んでいないので何も云えないのですが、立原のいう「拒絶」は、たとえば伊東が第二詩集の標題にしようかと一時考えたといわれる、一般的な精神の disposition としての <拒絶> 精神のようなものではなく、立原も続けて云っているように、「風景の拒絶」を意味するようです。前引の中略部分で立原は、「風景が誘ふままに、詩人は風景を誘ひ、詩人が風景を誘ふままに、風景は詩人を誘ふ」と云い、小説『風立ちぬ』は「至る所にその絵を氾濫させ」ている、「あれはつひに美しい風景の氾濫にすぎない」と云います。そもそも立原はその堀辰雄批判「風立ちぬ」を、堀辰雄は美しい風景画家であった、と規定することからその第一章を始めたのでした。「別稿」の最後では、「この風景の牧歌的な不毛の美しさのあちらに、果して堀辰雄は、いかなる姿勢で、今日の詩人として、僕らのまへにゐるのか」と、まるでハイデガーみたいに問い詰めるのです。
立原は伊東をその「拒絶」の姿勢によって自らの <圏> 内に入れたわけですが、その立原の、あの朦朧とした、薄暮の中の、風や雲やユフスゲや火の山の詩を、伊東はどのように読んでいたのでしょうか。
自然/世界との拒絶/和解
山本 皓造さま
ご投稿拝読しました。勉強になりました、ありがとうございます。
拒絶、の問題・・・世界との在り方、和解するのか否か、という問題とも関わって来るような気もしますし・・・和解し得ないからこそ、自らの作り出したもうひとつの「夢のかへってゆく村」を描き出したのかもしれませんし・・・
立原への追悼詩「沫雪」の中で、静雄は雪解けの滴の響きに耳を止めて、その調べは立原の讃歌をうたっているのだ・・・という思想/詩想を贈っているように感じます。リルケのオルフォイスのソネットを思いおこします。それは、立原がいつの日にか 自然/世界 と和解することを祈る、ということなのかもしれません。
静雄初期の「空の浴槽」の、世界から拒絶されたような極度の孤独と、「ののはな」のような世界と和解し溶け合い一体となっているような融合感と・・・徹底した拒絶と和解、その両方が同時に存在しているアンビバレントな静雄の心的世界に強く惹かれているのですが、立原の堀辰雄的世界への、心酔と拒否のないまぜになったような烈しい感情世界と、生まれて来る詩の静けさとの間の落差にも惹かれます。
なにやらよくわからない、独り言のような文章になってしまいました。そうした「うやむや」したものを少しでもはっきりさせたくて(無理かもしれませんが)読んでいるのかもしれません。
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