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Web誌友会 板/2

3519復興G:2013/12/25(水) 11:12:23 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございます。

 昨夜謹写掲示させて頂きました 『愛と光との生活』 第一章より 「ルールドの聖泉」 についてのご文章、
>>3516と<<3517の間のご文章を <中略> としていましたが、その部分も大切なところであると思いますので、追加謹写させて頂きます。

 (注。ルールド=ルルド、ベルナルドネ(<<3515)=ベルナデット)

          ○

<< ルールドの聖地にはマリアの像を岩壁に彫刻してあるのですが、『我こそは無原罪の受胎である』 とこう仰しやったところの、その無原罪の受胎が顕現するための、罪を洗うところの象徴としてそこに聖泉が噴き出しているのでありまして、その中に 『罪あると思っている人』 が浸ると、『無原罪の受胎』――『神聖受胎』――人間本来の浄らかなるもの――病なきもの――が現れて病気が忽然と消えてしまうことになるのであろうと思われます。

 これはフランス・ルールドに於ける奇蹟の私の解釈でありますが、その病の治る原理は 『本来罪なきものの受胎』 でありますから、その神聖受胎はなるほど或る程度までこちらの波長が合わなかったら形に現れて来ないのであります。だから昨年ルールドへ行ったけれども治らなかったが今年行ったら ぽかっと一度に治った というようなことも起るのであります。

 ラジオの波長でもそんなものであります。波長を合わすと徐々に聴えて来るというよりも寧ろ同波長の圏内へぴたりと合ったとき聴えて来るのでありましょう。神様の救いも矢張りそういう式に、神様の救いはラジオの波と同じように宇宙一ぱい充満しておりますけれども 『おかげは我が心に在り』 で、こちらの心の波長が合って来たらパッと聴えて来るのであります。波長が合わなかったら徐々にも聴えて来はしないのであります。

 此の波長が合うのは 此方(こちら)にも神様と同じ波長があるからであります。神様の無原罪の原理が、此方へ感じて来て、こちらが 『罪なき者』 になる、『浄められた者』 になる。それは本来 『浄められた者』 がみんなに宿って居るからであります。それを自覚しまして旧(ふる)い 『汚れたる我』 はないと悟る、本当の自分は既に 『久遠劫以前から悟りを開いていたものだ』 と悟る、これが 『我の置換』 であり、生れかわりであります。

 自分は肉体にあらず、ヒトであると悟る、自分はヒトなんだということはヒトとは霊止(ヒト)である。つまり神聖受胎であります。イエス・キリストが 『汝らの中に罪なき者が一人いる』 と言ったと聖書にありますが、罪なき者が皆さんの中に、ひとりひとりの中に 『罪なき者』 が一人いるのであります。既に悪い癖もなければ、いろいろの因縁も業もない、始めから聖浄なる者が、貴方の中にいらっしゃるのであります。罪なきものが一人ずつ宿っている、それが皆さんである。

 罪なき者であったらどうして病気が起るか。そんな病気などというものは本当は無いのです。罪なき者に悪い性癖がどうして現れて来るか。そんなものはあるように見えてもないのであります。それだのに或る人は人間には病気がある、悪癖があると思っているのであります。ですから思うとおりに現れる。

 心に描くものは形に現れる。時間空間の世界に出ているものは皆自分の心の影であります。実相の完全な相(すがた)の上に一枚賦彩(ふさい=いろづけ)した――心で色づけたものであります。その奥には真物(ほんもの)の聖(とうと)い完全な相(すがた)があるのですけれども、心で色づけして、それを別の相のように見ている、――見えているのであります。

 芝居を観に行きますと、六十の老人が十七八歳に化けてしまったり、二十(はたち)位の役者が七十位のおじいさんに化けてしまったりするのですが、そういう風に表面を自分の心の波に依って色づけして、病気を表したり、悪癖を表したりして化けているのであります。病人も、悪癖も、みんなお化けであって、それは本物の上をどうらんで塗りつぶしてお化粧しているだけのことであります。>>

<つづきます>

3520復興G:2013/12/25(水) 11:13:13 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

>>3516で、≪ルルドの聖泉について≫ と区切りをつけたところの前に、次のようなご文章がありましたが、割愛していました。それも、追加させていただきます。

          ○

<< 『我(われ)』 とは本来罪なきものだと知らなければならない。これが生長の家の高調しているところの真理でありまして、『本来罪なき神のいのち』 が自分自身でありますから、その真理が悟られますと、苦悩の解放が行われ苦悩の表現である病気なども消えることがあり、業(ごう)とか因縁とか今まで犯していた過去のいろいろの罪悪感から解放されることになるのであります。

 『本来罪なきもの』 『神聖受胎』 が自分なのであります。『贖罪(しょくざい)の原理』 は外にあるのではなく、内部の 『本来罪なき神性、仏性』 それ自身が贖罪の原理なのであります。吾々のいのちは既に 『神聖』 であり、『仏性』 でありますから、もう既に贖(あがな)われて了(しま)っているのであります。自分自身が 『罪を消すところの原理』 そのもの――光が闇を消すように――すべての罪を破砕する原理なのであります、だから生長の家では 『本来罪はない』 というのであります。

 『罪はない』 と申しますと時々間違って、罪がないからどんな悪いことでもしたとて好(よ)いか――などと考える人があるのでありますけれどもこれは法律上の問題ではなく、宗教上の自覚の問題であります。『罪がない』 ということは、『罪を犯しても好い』 ということではないのであります。

 本当に 『罪がない』 ということが判れば、『無い』 ものはマイナスの値打しかないから、吾々の嗜欲(しよく)を誘惑する魅力を失ってしまうのであります。

 罪に惹(ひ)き付けられると云う人はまだ 『罪がある』 と思っている観念がどこかに残っているからであります。本当に罪がないということが分ったときには罪の行為などというものは心に思い浮ばない、思い浮ばなかったら自然とそれが形に現れない、現れなかったら、したいと思わないのであります。

 生長の家に来られまして 『本来罪なし』 の自覚を得られますと、自然に 『酒』 や 『煙草』 が嫌いになるというのは、罪の非存在を悟ることによって、罪がその誘惑力を失ってしまうからであります。
<つづきます>

3521復興G:2013/12/25(水) 12:05:59 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 人間は物質にあらず肉体にあらず仏性、神性そのものである、神のいのちの神聖受胎である。日本的に言えば日子(ヒコ)であり、日女(ヒメ)であり、ミコトでありヒトである。ヒト(人)というのは霊止(ヒト)即ち霊のいのちが止(とどま)っている、宿っている、これが人間であるということであります。

 それが本当に分りますと、もう罪というものは消える――消えるというよりも、罪以上の世界へ脱(ぬ)け出るのであります。

 ××教などにまいりますと 『あなたは因縁が中々切れぬから因縁を切る為にお運びなさい』 などと申します。何を運ぶかというと布教師の中には家財道具までも売って本山へ運びなさいというようなことも言われることもあるそうですが、本当に 『罪』 や 『因縁』 があるものならば、そんな家財道具を一つずつ運んで見たところが、数千億年前からずっと生れ更(かわ)り死に更りして出て来た間に犯したところの、無限ともいうべき罪とか罪障とか因縁とかいうものを有限の財産の持ち運びで贖(あがな)いをするということはとても此の世で出来ることではないのであります。

 本当の贖いというものは、そういう物質に依って贖うことは出来ないのであります。どうしても 『我(われ)』 を置替えなければならないのであります。『罪ある自分』 をポンと捨てて了って、『罪なき自分』 を持ち出して来なければならないのであります。つまり内在の仏性を、『爾(なんじ)に宿るキリスト』 を、自分の中に招(よ)び出して来なければならないのであります。

 自分の中に内在の仏性を招出(よびだ)すのが生長の家式仏教であり、自分の中に内在のイエス・キリストを招出すのが生長の家式キリスト教であります。>>

          ○

 以上で、聖典の謹写を終わらせて頂きます。

 我々は、「顔を洗って出直す」 (>>3517をご参照ください) 必要があると思います。

 「人間至上主義は間違っている」 といわれるときの 「人間」 は、「神聖受胎」 した 「本物の人間」 ではなく、まだ 「罪がある」 と思っている、「物質によって生まれた人間」 すなわち 虚妄(うそ) の人間であると思います。

<<吾れらすべからく
  自分の顔に泥を塗らざるべからず
  敢て他(ひと)の顔に泥を塗るべからず!

  自己の顔に泥を塗るは
  旧(ふる)き自己の抹殺なり
  旧き自己を抹殺してのみ
  我れこそは浄められたる者と言い得ん。
   (「黄金の薔薇」 より) >>

 そして、

<< 『顔を洗って出直して来い』 と俗に申しますが、心の顔を洗い清めて、神聖受胎そのままの顔になって出て来れば、今まで狭いと思っていた世界が広くなり、今まで暗いと思っていた世界が明るくなり、病がなくなり、家庭が調和し、本当に楽しい世界が其処にあらわれて来るのであります。(『愛と光との生活』 第一章より) >>

 このお言葉通り、日々、自分の顔に泥を塗って旧我を否定し、毎朝 「顔を洗って出直し」――神想観をして心の顔を洗い清め、「神聖受胎」 そのままの顔になって愛行、伝道に精進いたしたいと思います。
<つづきます>

3522復興G:2013/12/25(水) 12:08:45 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

>>3507で曳馬野さんが

>> 生長の家を復興するなんて烏滸がましいことだと思いませんか?<<

 とおっしゃる通り、「自分が生長の家を復興する」 なんて思ったら、烏滸がましいことです。

 谷口雅春先生がご教示くださっていますように、

<< 吾々は、神の智慧と、愛とをいただいて、更に神の生命を、無限の生命を、無量寿の生命を、そのいのちを相手に与えるアンテナになることですね。

 神想観は、宇宙の神様が人類に対して真理を放送し給うところの、自分がアンテナになることですね。自分が真理を伝えるんじゃないんです。だから招神歌には 「わが業はわが為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 と示されているのであります。

 自分が神想観をして人を救うんだというのは傲慢な心であって、そうじゃないんです。自分は神様のアンテナになって、神様の真理を増幅する、増幅アンテナになり、さらに神様の無量寿のいのちを全人類に伝えるための放送アンテナであるという素晴らしい自覚をもって、神想観をする。その時に、その神想観が力を発揮して、ブラジルへもアフリカへも、その伝道が通ずるということになる訳なんであります。>>

 これを実行したいと思います。

 <つづきます>

3523復興G:2013/12/25(水) 12:40:20 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 神想観は、すばらしいです。

 >>3490で書きましたように、私は電車に乗ったとき、目をつぶって招神歌を心の中で唱え、乗り合わせているすべての乗客に神の生命をさきはえたまえと祈り、皆さまが現象の世界を去って実相の世界に坐していらっしゃる尊い神の子様たちである――と念じさせていただきますと、自分のために何も祈らないのに、満員電車の中でも必ず席を譲ってくださる方があらわれる、あるいは目の前にすっと空席があらわれるというようなことが起きます。

 あるいは、本流対策室/5 の方で >5113 に書きましたように

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/5113

 地元の誌友会に派遣されてきた講師が、体験談を織りこみながら、『生命の實相』 第39巻 <仏教篇> の、次のご文章を朗読してくださる。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<< 悟ってみれば、天地間のものことごとくが生かし合いならざるものはない、実にありがたい世界だったのであります。すべてのもの一つ一つに仏の命が現われている、仏の慈悲が現われている、神のいのちが現われている、神の愛があらわれていることが悟れるのです。

 神の生命が現われ、仏のいのちが現われているからこそすべてのものが互いに愛し合い生かし合っているのです。今まで殺し合いだと思っていた世界は神の、仏の、無限の生命、愛、智慧に満たされているところの立派な世界だったのです。

 互いに憎み合い争い合っていると見えた生命も、その敵と見えたものは、自分にとっては自分をみがく砥石であってわれわれの生命がだんだん砥石にかけられて、いっそう立派な霊性が啓(ひら)かれてゆくために仕組まれている仏の慈愛、神の愛の顕われだったのです。

 天地間、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるもの、みんなこうして愛し合っている者はもちろん、憎み合っているかのごとく見えている者同士さえも生かし合っている世界なのです。みんな愛し合いの世界なのです。みんな解け合いの世界なのです。そういうことが釈迦に解ってきたのであります。

 そうすると、形は同一であっても釈迦の前にある世界がすっかり変貌してしまったのであります。そこで釈迦は、十二月八日の明けの明星を見ながら、「有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏」と悟られたのであります。すなわち「有情」――生きとし生けるもの、「非情」――ありとしあらゆるもの、悉く今仏になっている。山も川も草も木も悉く仏の相(すがた)である。

 みんな生かし合い、拝み合いの相(すがた)である。今まで地獄の相だと思っておったのはまちがいだったとお悟りになったのであります。これが釈迦のお悟りになった縦の真理であります。
(『生命の實相』第39巻 <仏教篇> p.41〜p.42より)>>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ――「天地間、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるもの、みんなこうして愛し合っている者はもちろん、憎み合っているかのごとく見えている者同士さえも生かし合っている世界なのです。みんな愛し合いの世界なのです。みんな解け合いの世界なのです。」 と、教えて頂きました。

 ――生長の家で、教団と本流の人々が、いかに激しく争いあっているように見えても、実は拝み合い、生かし合いの相(すがた)である。

 私は、上記の実相を、ひたすら祈らせて頂きます。

 そうしていますと、実に不思議な円滑現象といいますか、シンクロナイゼーションといいますか、こちらから求めなくても、同調してくださる方、協力してくださる方とお会いできたりして、ただありがたいことが次々に展開してくる、ありがたい毎日を過ごさせて頂いています。

 これは、この掲示板、特にこのweb誌友会板で皆さまに育てていただいているおかげです。

 ここに書き込んでくださったことはないけれども、いつもご覧になって、時には涙を流して感動してくださっているという方に、最近お出会いして、お話ができたこともあります。

 「悪はない」 「悪と見えるものは、善があらわれ出ようとしている過程である」。

 既にある神の国は、必ず地上世界に現れざるを得ないのである、ということを固く信じて、喜んで、愛行にいそしんでまいりましょう。

3524ユタカ:2013/12/25(水) 13:29:58 ID:R1D4Jmeg
>>枝分かれして伸びていってるんだ。争っている様に見えるのは間違いで、それぞれが信仰を深めているんだ と観るんだっていうのは。<<

 ――ほんとに、そうですね。

 すばらしい!

 実相世界にすでにある、中心帰一大調和の無限に完全な素晴らしい神の国が、いよいよもっともっと完全に地上に顕れようとしている課程なのだ! すばらしい! ありがたい! と思います。
 「悪はない」 「悪と見えるものは、善があらわれ出ようとしている過程である」。

 既にある神の国は、必ず地上世界に現れざるを得ないのである、ということを固く信じて、喜んで、愛行にいそしんでまいりましょう。 <<

あはは!ははは!!

そういう意味だったのか! 今、分かりました!! 有難うございます。
今まで、分かったような、分からないような感じでしたが復興Gさまのご講義を読ませて頂いて、心からの喜びが出てきました。

今まで現象をそのまま見て、あーだこうだと言っていたのは曳馬野さんでなくて「自分」だった!です。
ごめんなさい、曳馬野さん。そして有難うございます、復興Gさま、トキさま、みなさま、すべてのみなさま。

今から、私は魂の肉体服を脱いで、真っ白い翼で天を舞い天使となって全世界を祝福する。
私は天使となる。 私は生まれ変わったです。

どうしましょう、こんな声が聞こえる。。。。

3525ユタカ:2013/12/25(水) 13:56:59 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

最初にお勉強した生長の家の重大な使命の「七つの燈台の点灯者」ってどんな事かの解答を復興Gさま献身的なご講義で理解できました。

今、私は、生まれ変わって心の底から笑えます! 喜べます! そして此れを伝えなくては!と元気一杯です。
心晴々、数十年ぶりに本当に心から笑えます。

復興Gさま、生長の家の御教えの偉大さを身をもって分かりました、偉業です。
この嬉しさを言葉に出来ません。 私はこれから心から喜べます。

本当に、本当に心から感謝します、復興Gさま、トキさまみなさま、生まれ変わってこれからも前進して行きましょう!!

喜び一杯です、有難うございます。

ユタカ 拝

3526復興G:2013/12/25(水) 21:06:39 ID:AB6RqYXc

>>3524>>3525 :ユタカさま

 ありがとうございます!

 ユタカさまは、神様からすごい使命を授けられた、神聖受胎のヒト(霊止)だと思います。

 明るく、うれしく、楽しく、ねばり強く、使命実現にいそしみましょう。

 バンザーイ!

 私も、さらに勇気百倍、うれしく ありがたく 使命に邁進させてもらいます。

 感謝 合掌。

3527ユタカ:2013/12/25(水) 21:48:44 ID:R1D4Jmeg

嬉しい! 嬉しい!!

うわぁはは! わっははは! わははは!!

うわぁはは〜〜〜〜〜〜〜〜!!

3528トキ:2013/12/25(水) 22:29:50 ID:JA1TBhRE
復興G様、素晴らしいご指導、心から感謝申し上げます。
一連の内紛もそう考えるといい兆候かもしれませんね。
感謝、感謝です。ありがとうございます。

3529山本富士子:2013/12/25(水) 22:49:42 ID:wj1ZCavg
合掌 ありがとうございます。

神想観、私のいのちもそこから来てそこにかえるのですね。
復興G様の神想観につながっていこうとおもいます。
ご指導ありがとうございました。WEB誌友会、何か目新しいことが
はじまるのかな?と思ったことがありましたが、そんなことではないのだ
とわからせていただきました。ありがとうございました。

3530a hope:2013/12/26(木) 00:16:12 ID:/9IAdiFk

みなさま こんばんは

そして、メリークリスマス!!
今晩は、ほろ酔い気分で失礼いたします。

復興Gさまがご指導を続けて下さっていてうれしく思います。
また、ユタカさまも感謝と喜びに満たされていられるようで、素晴らしいですね!

わたしは、家族が元気に幸せに暮らしていてくれること、毎日好きな仕事ができること、
まわりの人たちの笑顔が見れること、そんな当たり前のことが最高にありがたく感じられる自分が嬉しいです。

また、この掲示板でみなさまとつながっていられること、「生長の家」の教えのお勉強ができることにも感謝の気持ちでいっぱいです。


年末年始は忙しくてなかなか書き込みできませんが、a hopeは来年もこのトキ掲示板でお勉強を続けさせていただき、
今までどおり、感じたこと、思ったことを素直に発言していきたいと思っています。

みなさま、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

3531rei:2013/12/26(木) 08:18:26 ID:ZIftZ1jM
おはようございます

復興Gさま
みなさま

ありがとうございます。

ようやく私も一つの落ち着ける境地に立つ事が出来ました。
「実相の大地に立った」という雅春先生のお言葉が
理解出来る様になりました。

本当に本当に有り難うございました。

合掌

3532ユタカ:2013/12/26(木) 08:58:51 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

今朝復興Gさまの、多分神想観中の祝福の念波をキャッチしました、ありがたい事に生長の家大神さまも一緒に来てくれました。

ご祈念を有難うございます。

ではいってきまーす。

3533rei:2013/12/26(木) 09:10:09 ID:ZIftZ1jM
「身分いやしきもの」さま
「曵馬野」さま

真摯に求道されていらしゃいますことが感じられます。
教えられることが多かったです。
特にありがとうございました。

3534復興G:2013/12/26(木) 12:26:01 ID:AB6RqYXc

安部総理が靖国神社に参拝したテレビ報道を見ました。

安部総理が、輝いて見えました。

「安部さん、ガンバレ!」

と、心の中で、声援を送りました。

ありがとうございます!

3535復興G:2013/12/26(木) 13:00:37 ID:AB6RqYXc

トキ様、山本富士子さま、a hope さま、rei さま、ユタカさま

コメント、ありがとうございます。

私も忙しくなりましたが、書き込みは、もうしばらく続けさせて頂きます。

皆々さま、ありがとうございます。

3536ユタカ:2013/12/26(木) 22:15:58 ID:R1D4Jmeg
安倍総理は立派でしたね。復興Gさまの祈りは効果があるので安倍総理に向けて祝福の神想観をなさって下さい。
>安倍首相の靖国参拝に関する記者会見全文
安倍晋三首相が2013年12月26日に、東京・九段北の靖国神社参拝後に行った記者団とのやりとり(全文)は以下の通り。

首相:本日、靖国神社に参拝を致しました。日本のために尊い命を犠牲にされた御英霊に対し、尊崇の念を表し、そして御霊安らかなれと手を合わせてまいりました。そして同時に靖国神社の境内にあります鎮霊社にもお参りをしてまいりました。鎮霊社は靖国神社に祭られていないすべての戦場に倒れた人々、日本人だけではなく諸外国の人々も含めてすべての戦場に倒れた人々の慰霊のためのお社であります。その鎮霊社に対して、すべての戦争において、命を落とされた人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りし、そして、二度とふたたび戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いを致しました。

記者団:12月26日は安倍政権が発足してちょうど1年となります。なぜこの日を参拝の日として選ばれたのでしょうか。

首相:残念ながら靖国神社参拝自体が政治問題、外交問題と化しているわけでありますが、その中において、政権が発足して1年、この1年の安倍政権の歩みをご報告し、そして二度とふたたび戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるとの誓いを、この決意をお伝えするために、この日を選びました。

記者団:中国、韓国をはじめとして、海外からの安倍総理が靖国神社に参拝することへの根強い批判の声には今後はどのように説明されていくのでしょうか。

首相:靖国神社の参拝は、いわゆる戦犯を崇拝する行為であると、誤解に基づく批判がありますが、私は1年間この歩みをご英霊に対してご報告をする、そして、二度と戦争の惨禍の中で人々が苦しむことのない時代をつくっていくという決意をお伝えするために参拝をいたしました。もとより、中国、あるいは韓国の人々の気持ちを傷つける、そんな考えは毛頭ございません。それは、靖国神社に参拝をしてこられた歴代の総理大臣と全く同じ考えであります。母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福をお祈りをし、そしてリーダーとして手を合わせる、このことは、世界共通のリーダーの姿勢ではないでしょうか。これ以外のものでは全くないということを、これから理解していただくための努力を重ねていきたいと考えています。また、日本は戦後、自由と民主主義を守ってきました。そしてその下に、平和国家としての歩みをひたすら歩んできた。この基本姿勢は一貫しています。この点において一点の曇りもございません。これからも謙虚に礼儀正しく、誠意を持って説明をし、対話を求めていきたいと思います。

記者団:中国、韓国のリーダーに対し、説明したいということですか。

首相:ぜひこの気持ちを直接説明したいと思います。戦後、多くの首相は靖国神社に参拝しています。吉田茂総理もそうであります。近年でも中曽根総理、あるいはその前の大平総理もそうでした。そしてまた、橋本総理も小泉総理もそうでしたが、すべての靖国神社に参拝した総理は中国、韓国と友好関係をさらに築いていきたい、そう願っていました。日中関係、日韓関係は大切な関係であり、この関係を確固たるものにしていくことこそ日本の国益だと、そう皆さん信念として持っておられた。そのことも含めて説明させていただく機会があれば本当にありがたいと思っております。

記者団:2年後、3年後、今後も定期的に靖国神社に参拝されたいということでしょうか。

安倍:今後のことについてこの場でお話をすることは差し控えさせていただきたいと思います。私は第1次安倍政権の任期中に靖国神社に参拝できなかったことは痛恨の極みだとこのように申し上げてまいりました。それは総裁選においても、あるいは衆議院選挙のときにもそう述べてまいりました。その上で、私は総裁に選出をされ、そして総理大臣となったわけでございます。私はこれからも私の参拝の意味について理解をしていただくための努力を重ねていきたいと思います。

記者団:多くの戦犯の方が祭られていますが、戦争指導者に対しての責任に対してはどう思われますか。

安倍:それは今までも随時国会で述べてきた通りでございます。我々は過去の反省の上に立って、戦後しっかりと基本的人権を守り、民主主義、そして自由な日本をつくってまいります。そして今やその中において世界の平和に貢献しているわけでございます。今後もその歩みにはいささかの変わりもないということは重ねて申し上げておきたいと思います。

3537ユタカ:2013/12/26(木) 22:39:50 ID:R1D4Jmeg
生長の家の信仰を持つ稲田さんが総理の近くにおられるのも心強いですね。
学ぶ会の靖国見真会で講演なさったですね。
復興Gさま、お祈りをよろしくお願いします。

3538あさひ:2013/12/26(木) 22:41:45 ID:u9w/1zYY
合掌

復興G様

>安部総理が靖国神社に参拝したテレビ報道を見ました。

安部総理が、輝いて見えました。

「安部さん、ガンバレ!」

と、心の中で、声援を送りました。

ありがとうございます!<

全く同じ思いでした。

阿部総理への祈りと聖経読誦したいと思います。

3539ユタカ:2013/12/26(木) 23:04:25 ID:R1D4Jmeg
あ、そうか、自分で祈るのが大切か。人に頼っていては駄目だよね。

3540ユタカ:2013/12/27(金) 00:03:35 ID:R1D4Jmeg
トキ管理人さま

関係ないこと投稿してしまいました、ユタカのを削除してください。
安倍総理の。

3541復興G:2013/12/27(金) 10:00:33 ID:AB6RqYXc

ユタカさん、安部総理のこと、削除要請しなくていいんじゃないの? 

私は、このところ忘年会つづきでした。昨夜もそうです。

高校生時代の同期会、大学生時代の同期会、地域の合唱団等々にも積極的に出て、生長の家と直接関係の無い一般の方たちを祝福し、お世話をさせて頂くのも、愛行だと思って……で、そういう場合は、普段飲まないお酒を飲んだりもするんです。

昨夜も、地域の合唱団の忘年会で、お酒を飲みました。

夜10時半ごろ帰ってから、ユタカさんの>>3536、ありがたく拝見しました。しかし、お酒が入っているので、書き込みは遠慮しました。

安部総理の靖国参拝は、想定通り、というかアメリカなども 「失望」 という発言をしたりして、波紋はひろがっているようですね。

でも、ユタカさんが掲示してくださった、安部総理の真心の思いを、これから信念を曲げずに貫いて、ねばりづよく国際社会にも堂々と丁寧に説明して行けば、長い目で見れば、心底からの相互理解尊敬と世界平和のためにプラスになると信じます。そうなるように、祈り、声援を送ることは、これも愛行だと思います。ですから、このweb誌友会のテーマと無関係ではないと思うのです。

私はユタカ様の投稿に感謝し、「安倍総理に向けて祝福の神想観を」 ということに大賛成で、協力させて頂きます。

ユタカさま、ありがとうございます!

あさひ様、ありがとうございます!

3542復興G:2013/12/27(金) 10:07:26 ID:AB6RqYXc

「安倍総理に向けて祝福の神想観」 とともに、「世界平和の祈り」 を熱祷しましょう。

3543復興G:2013/12/27(金) 10:53:29 ID:AB6RqYXc

 私はこのところ、「大日本神国観」 の神想観もよくしています。

 その後の方で、

<< 天皇陛下、ありがとうございます。ありがとうございます。

 皇祖皇宗の御神霊ありがとうございます、ありがとうございます。

 百官もろもろの司(つかさ)様ありがとうございます。

 十方、八百万(やおよろず)の神々様、護国の英霊様、ありがとうございます、ありがとうございます。

 十方の諸仏・諸天様ありがとうございます。
    <かく念じつつ光明遍照の調和せる荘厳なる実相世界を心に描きつつ>

 既に大宇宙の救済は成就せり。金波羅華(こんぱらげ)実相の完全円満の相(すがた)、地上に隈(くま)なく反映し実現して中心帰一、万物調和の永久平和の世界今現ず。

 一切の生物ところを得て争う者なく、相食(は)むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。

 実相・現象渾然(こんぜん)一体、実相・現象渾然一体……(繰返す)

 みこころの天に成る世界、既に地に成就せり、ありがとうございます。ありがとうございます。>>

 という祈りの言葉があります。

 この最後の、

 「みこころの天に成る世界、既に地に成就せり」

 というのは、イエス・キリストが、「みこころの天に成るがごとく地にもなるらせ給え」 と祈るように教えた、その神の国が地上(現象世界)にすでに成就している ということを祈るわけですね。

 そのちょっと前の

 「金波羅華実相の完全円満の相、地上に隈なく反映し実現して」

 というのは、お釈迦様が金波羅華すなわち金色の蓮華の花を拈って、実相世界が中心帰一の大調和の世界である、それを悟ることが仏法の極意であると示された。
その金波羅華実相の完全円満のすがたが、地上に隈なく反映し実現して、中心帰一、万物調和の永久平和の世界がすでに実現している有様を祈るわけです。

 だから、「スメラミコト」 というのは、クリスチャンなら 「永遠のキリスト」 (Eternal Christ) と置き換えてもよく、仏教信者なら 「大日如来」 と置き換えて念じてもよろしいのであって、要するに中心が一つあって大調和している世界、「一切の生物が処を得て争う者なく、相食(は)むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」 という世界がすでに成就していることを祈ることなのだ。

 だから、「スメラミコト」 というのを 「永遠のキリスト」 (Eternal Christ) とか 「大日如来」 (「阿弥陀如来」 あるいは 「釈迦如来」 でもよい) とか置き換えて念ずれば、この祈りは日本人だけでなく、世界中に通用する祈りなのだ、と私は思っています。

 「スメラミコト」 は、それぞれの国の国家元首とかではなく、「永遠のキリスト」 とか、「阿弥陀如来」 とか、イスラム教ならアッラーの神ということになるのでしょうか、ともかく現象人間ではなく、実在界(現象の根源、本源なる実相世界)の絶対的中心者を意味するものだと思います。

 その、実相世界の絶対的中心者と、日本の場合は天皇陛下とが渾然一体になっていられる、と念ずる祈りが、「実相・現象 渾然一体」 という言葉になっているのだと私は思っています。

3544復興G:2013/12/27(金) 11:06:05 ID:AB6RqYXc

 以上のような、イエス・キリストが、「みこころの天に成るがごとく地にもなるらせ給え」 と祈るように教えた、その神の国、

 お釈迦様が金波羅華すなわち金色の蓮華の花を拈って、実相世界が中心帰一の大調和の世界であることを示された

そのような万物調和の永久平和の世界が実現しているのが 「日本の実相」 である。

その日本を護り日本の実相を顕現することこそ、万物調和の永久平和の世界を実現する正しい道なのである。

だから、「鎮護国家」 によってこそ、究極の世界平和が達成できるのである、と私は信じます。




が地上(現象世界)にすでに成就している ということを祈るわけですね。

 そのちょっと前の

 「金波羅華実相の完全円満の相

3545復興G:2013/12/27(金) 11:10:04 ID:AB6RqYXc

ごめんなさい。上記の後3行は、余分でした。削除してお読み下さい。

3546復興G:2013/12/27(金) 11:15:20 ID:AB6RqYXc

 上記のような意味で、私は 「鎮護国家」 は、ナショナリズムとは全然違うと思っています。むしろ、世界平和の祈りと一体のもの、世界平和の祈りそのものだと思います。

3547復興G:2013/12/27(金) 11:39:50 ID:AB6RqYXc

>>3507 :曳馬野さん

>>3461で私が質問しました
>>禅では師なり古人の示しを弟子がそうであったと証明して法の継承がされています<<
>>その指し示す先にあるものに辿り着いた人が、禅にはいるが生長の家にいますか<< (<<3455)
と言われる禅の世界での 「証明」 について、具体的に教えて下さい。 <<
の質問に、まだお答えをいただいておりません。


 『神癒への道』 は、あなたに言われるまでもなく、私も「これだ!」 と何十回も読み、深く肝に銘じて、生き方の指針にし、実践しようとしているご本です。だから、同じことをさらにくわしく具体的に説かれている 「伝道とは愛の実践」 という御講話も繰り返し拝聴して、実践しています。(>>3522>>3523

 あなたが特に読めとおっしゃった 『神癒への道』 のp.107 には、次のようにありますね。

<< 本当を言えば、思念というような特殊な技術的なものが必要な訳ではないのである。思念者は決してだれも癒すのではないのである。すでにすべての人は癒されているのである。たれも 「病気の人も不幸の人もないのである。」 すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。ただ自分が彼を病気であり不幸であると 「観た」 のに過ぎないのである。

 「観] を変えることが必要である。思念者がなすべき役割は、ただ神の造りたまうた実在の完全円満であるととを観、それを不完全であり不健康であると観た間違いを懺悔し切り、無条件に実相の完全さの前に降伏することなのである。この懺悔が完全でないと存在を不完全であると云う観の幾分が残滓として残っていることになるから、実相の完全さがあらわれない恐れがあるのである。(後略) >>

 「『神癒への道』 を何十辺何百辺と読んで真理の実践者となれ」 というお言葉は、まずあなたご自身が実践して頂きたいです。

 つまり、

<< すでにすべての人(本流の人も)は癒されているのである。たれも 「病気の人も不幸の人もないのである。」 すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。ただ自分が彼(本流の人)を病気であり不幸であると 「観た」 のに過ぎないのである。>>

 と、その状態が実現するまで何十辺何百辺も祈ってから、他に言って頂きたいです。

 ですから、「『神癒への道』 を何十辺何百辺と読んで真理の実践者となれ」 というお言葉は、有り難く頂戴します。同時に、そのお言葉を、またそのままあなたにお返したいと思います。

3548ユタカ:2013/12/27(金) 22:42:49 ID:R1D4Jmeg
トキさま、復興Gさま
復興Gさまが愛行の話と通じるとおっしゃいました。安倍総理の会見のはそのままでお願いします。

それにしても、アメリカ側から言われると思いませんでビックリしました、小泉さんのときはブッシュと仲良しだったから報道が遠慮したとか・・・
それでは大日本神国観して、安倍総理めがけて光明思念を放送しますね、総理が神愛充満し光明に包まれて必要なときに必要な知恵がでて日本に尽力下さいます様に。。。

復興Gさま 鎮護国家=世界平和のお話をありがとうございます。
逆にいうと世界平和=鎮護国家になるのですか??
そうすると、総裁も鎮護国家を言っていて請願券も言葉は世界平和となっていますが、
鎮護国家を通しての世界平和実現となると、私の中では納得できます。

いかがでしょうか??

3549復興G:2013/12/27(金) 22:50:05 ID:AB6RqYXc

>>3548 :ユタカさま

ありがとうございます。

>>鎮護国家=世界平和のお話をありがとうございます。
逆にいうと世界平和=鎮護国家になるのですか??
そうすると、総裁も鎮護国家を言っていて請願券も言葉は世界平和となっていますが、
鎮護国家を通しての世界平和実現となると、私の中では納得できます。<<

なるほど。そう考えたらいいですね。

バンザーイ!

ありがとうございます!

3550神の子さん:2013/12/28(土) 01:02:33 ID:???
請願ではなく誓願です。根本的に違いますので気を付けてください。

3551ユタカ:2013/12/28(土) 06:55:17 ID:R1D4Jmeg
>請願ではなく誓願です。根本的に違いますので気を付けてください。

青色神の子さま
字を間違えてすみませんでした。気をつけます。意味が違いますものね。
青色神の子さんの雅宣総裁の世界平和と雅春先生の鎮護国家の違いのご意見をお聞かせください。
よろしくお願いします。

そうか、誓願か。 誓ってきたのですよね。
現象的には、言う人も、いわない人もユタカの周囲のほとんどの信徒が現本部に怒っているのは、納得します。

だた、それが総裁に伝わらないのは、この間の原宿本部での秋季慰霊祭の時もそうだったけど、
総裁が退場の祭 舞台からお辞儀をすると、相変わらず形の上では、信徒側で、割れんばかりの拍手と、バンザーイ!なんて続けているからでしょうね。。。

3552曳馬野:2013/12/28(土) 06:58:41 ID:xR0RYWLc
  復興Gさん

『自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり』の後に

『仏道をならうというは自己をわすするなり』

『自己をわすするというは、万法に証せらるるなり』とあります



身分いやしきものさんと訊けさんとのやり取りの最初は、『自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり』を
引用してのものでした。其処にあなたが遣り取りを始めて、最後は「きれいごとで終わるのですね」と云われて終了です。

そして彼の問題提起は『言葉の牢獄に居るのではないか』と云うものでした、そして抜け出る方策の一つが禅の説くものだと思う、私は違うところを求めるけれども、
というものでした。

大死一番大復活した人と、実相を見つめると云う、実相と離れたまま、想念に浮かべる人とは違います。
師また古人の云われたことをその通りであった、とそのものになった人は師の言説を証明したことになります。
然し生長の家では、信じると云うことで結果が出るから正しいと云うのみで、実相はこうであったと自分が実相を直接見たと云う人にはお目にかかっていません。


● 本当を言えば、思念というような特殊な技術的なものが必要な訳ではないのである。思念者は決してだれも癒すのではないのである。
  すでにすべての人は癒されているのである。たれも 「病気の人も不幸の人もないのである。」 すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。
  ただ自分が彼を病気であり不幸であると 「観た」 のに過ぎないのである。
 「観] を変えることが必要である。思念者がなすべき役割は、ただ神の造りたまうた実在の完全円満であるととを観、
  それを不完全であり不健康であると観た間違いを懺悔し切り、無条件に実相の完全さの前に降伏することなのである。
  この懺悔が完全でないと存在を不完全であると云う観の幾分が残滓として残っていることになるから、実相の完全さがあらわれない恐れがあるのである。(後略)

 「『神癒への道』 を何十辺何百辺と読んで真理の実践者となれ」 というお言葉は、まずあなたご自身が実践して頂きたいです。

 つまり、

● すでにすべての人(本流の人も)は癒されているのである。たれも 「病気の人も不幸の人もないのである。」 すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。
 ただ自分が彼(本流の人)を病気であり不幸であると 「観た」 のに過ぎないのである。

 と、その状態が実現するまで何十辺何百辺も祈ってから、他に言って頂きたいです。

 ですから、「『神癒への道』 を何十辺何百辺と読んで真理の実践者となれ」 というお言葉は、有り難く頂戴します。同時に、そのお言葉を、またそのままあなたにお返したいと思います。


この二つの意見であなたの立ち位置は明白ですね。この掲示板では生長の家で説く真理は正しいと云う前提であり、否定の投稿は禁止と云うことですので、私は「正しいと云うのなら
何故真理に則った行動をしないのか」、と云う観点から意見を言っているのであります。私には義務はないのですよ。あなたが正しい真理を生長の家は説いているというから、
それなら真理に則て御覧なさいと云っているのです。

「雅宣先生はおかしい」と観ることそのものがおかしい、これはあなたも本流の方も同じです。この観たものが現れると云う真理そのものがどうですかね。
雅春先生が孫の一人が生長の家の真理を肯定しないと詳密講習会で云った、と云った人がいましたが、これこそ現象を観ての発言でしょう

真理の言葉は自分が実践して何ぼで、他の実践不実践が心に浮かぶことそのものが、実相は完全と云いながら完全しか存在しないところには居ないと云うことを証明しているのです。
私の実相さえ観えず現象をとやかく云う人が、何で雅宣先生の実相が見れましょうか。それより観るとか観ないとかいうことが可笑しいのです。
何十億の金を持っている人は貧乏と云う観念は持ちようがないです。実相完全と知っている人は不完全と云う観念の持ちようはないです。

ご自分自身が実相と現象の二つの世界を見ているでしょう。どういうことであれ、自分が実相だけになっていればこそ、他の人も実相だけであることが分かるものでしょう。
現象は影であると云っても影が常について来るしそれに心が捉えられる。

という事で信は強盛でも実相そのものを証明した人は生長の家にはいないのではありませんか。

3553ユタカ:2013/12/28(土) 07:43:29 ID:R1D4Jmeg
よく読んでいない曳馬野さんへ
>引用してのものでした。其処にあなたが遣り取りを始めて、最後は「きれいごとで終わるのですね」と云われて終了です。

違います。復興Gさまが勝利したのです。

いいですか、復興Gさまが勝利したのです! と言われて終了していますよ!

これだけでも見落として、「実相を証明した人はいない」なんて発言していては、当然ながら誰からもレスは来ないし
説得力 ゼ〜〜ロ〜〜。 000000

説得力 0  

顔洗って、出直せば?? おじさんも生まれ変わりが必要だね。。。

3554復興G:2013/12/28(土) 08:39:07 ID:AB6RqYXc

>>3550 :神の子さん様
>>3551:ユタカ様

 ありがとうございます。

 私も見落としていました。「請願」 は請い(乞い)願う、請願(せが)み求めること。

 「誓願」 は、谷口雅春先生が 「伝道とは愛の実践」 の御講話で、

<< 「願」 というのは、如来の本願、四十八願というのがありますがね、あれは何かというと、愛の念願です。それには、「こうしたい」 という一つの理想が含まれている。愛の理想が。

 「すべての人類が救われるまでは、私は仏にならん」

 という法蔵菩薩のすばらしい理想と愛というものが、あの四十八願の中にあってですね、それではじめて阿弥陀如来として法蔵菩薩が成仏せられた。

 われわれが伝道するのは、やっぱり、それでなければならにですね。理想がなければならない。愛がなければならない。………>>

 とおっしゃっている、そのような愛の理想、与える誓いが 「誓願」 であって、求める願いの 「請願」 とはほぼ逆の意味ですね。

 「言葉は神なり」 ですから、気をつけましょう。

 それで、ユタカ様が>>3548

>>鎮護国家=世界平和のお話をありがとうございます。
逆にいうと世界平和=鎮護国家になるのですか??
そうすると、総裁も鎮護国家を言っていて誓願券も言葉は世界平和となっていますが、鎮護国家を通しての世界平和実現となると、私の中では納得できます。<<

 と仰る意味は、簡単に言えば、

 「鎮護国家 = 世界平和」

 ならば、

 「世界平和 = 鎮護国家」

 だから、総裁が 「世界平和」 とおっしゃっているのは、「鎮護国家」 とおっしゃっているのと同じだと受けとって、喜んでいていいのだ。「鎮護国家」 を、そのような絶大な誓願と考えずに、狭いナショナリズムぐらいに誤解する人がいたら残念だから、

 ≪総本山の祭祀の重点を、「鎮護国家」 から 「世界平和」 に移す≫

 と言われたけれども、「鎮護国家」 の看板を外す、などとは言われていませんから、何も目くじら立てて怒ることはない。

 ――ということなのではないかと、私は受けとりました。

3555復興G:2013/12/28(土) 08:48:32 ID:AB6RqYXc

>>3553 :ユタカ様

そんな勝ち負けなんか、ついていないのですよ。

「負けるが勝ち」 ということもありますし、私は、「一切は自分の責任」 と引き受けた方が、真理に於いて、本当の勝ちなのだと思います。

曳馬野さんとのことも、そうです。

3556神の子さん:2013/12/28(土) 09:05:25 ID:H/1Clsdw
真理においての勝ちなんてこそ無いと思います。
捨て台詞せず静かに去られたほうが良かったのに…

3557復興G:2013/12/28(土) 09:48:58 ID:AB6RqYXc

 曳馬野さんは、総裁の忠実なポチか、馬の脚を、一所懸命 演じていらっしゃる。

まあ、それもよいでしょう。

谷口雅春先生は、『幸福を招く365章』の117頁以下に、次のようにお教えくださっていますから。

         ○

    既に天国の饗宴に招かれている

 吾々が宗教的立場に立つ限りにおいて、現象界のことは別に思い煩う必要はないのである。それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。

 地上に天国浄土が実現するには色々の役者が要るのであって、シテもワキも、二枚目も三枚目も馬の脚も要る訳である。吾々は此等の舞台上の役者と議論を戦わす必要はないのである。唯、各々がその役目を最も完全に実現してくれるように祈っていれば好いのである。

 尤(もっと)も自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだけれども。吾々は神様が主催される天国の婚筵(こんえん)に招かれる客のようなものである。すでに御料理は出来ているのである。ただ、ハイとその招待をお受けすれば好いのである。

         ○

上記
≪それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。≫

 ――「お役目ご苦労様です」 と感謝しながら、「自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだ」 と自覚して、内なる神のみ声を聴き、使命感のままに行動して行く。

 私は、そうありたいと思います。

 「馬脚を現わす」 という言葉があり、その意味は、馬の脚を演じていた役者がうっかり自分の姿(足)を見せてしまうことから、隠していた本来の姿が表にあらわれること、化けの皮がはがれることをいう、ということです。それは、悪事がばれることなどに使われることが多いようですが、「本来の姿」 はみんな神の子ですから、その本性(ほんしょう=神の子)が現われるという、良い意味で、曳馬野さんもやがて馬脚を現わされると信じます。

 そうしないと、何か仰っても、魂にひびかないから、観客からそっぽを向かれ、やがてだれもお客さんがいなくなってしまうでしょう。ということは、教勢がどんどん落ちて行くばかりになって、総裁からも相手にされなくなるのではないかと思いますよ。

 早く馬脚を現わした方が勝ちです。

3558復興G:2013/12/28(土) 10:46:53 ID:AB6RqYXc

>>3543で、私は 「大日本神国観」 の神想観について

>> 「スメラミコト」 というのを 「永遠のキリスト」 (Eternal Christ) とか 「大日如来」 (「阿弥陀如来」 あるいは 「釈迦如来」 でもよい) とか置き換えて念ずれば、この祈りは日本人だけでなく、世界中に通用する祈りなのだ、と私は思っています。

 「スメラミコト」 は、それぞれの国の国家元首とかではなく、「永遠のキリスト」 とか、「阿弥陀如来」 とか、イスラム教ならアッラーの神ということになるのでしょうか、ともかく現象人間ではなく、実在界(現象の根源、本源なる実相世界)の絶対的中心者を意味するものだと思います。

 その、実相世界の絶対的中心者と、日本の場合は天皇陛下とが渾然一体になっていられる、と念ずる祈りが、「実相・現象 渾然一体」 という言葉になっているのだと私は思っています。 <<

 と書きました。

 それからさらに考えたのですが、世界各国に人たちがそれぞれの国の国家元首を、イスラム教国ではアッラーの神と渾然一体なりと祈り、キリスト信者の多い国では永遠のキリストが国家元首として現れていらっしゃると祈り……というようになったとき、アッラーと永遠のキリストとは別ではない一体なのだとすると、あらゆる国の国家元首は一体だということになる。

 しかしそれは、必ずしも国境が無くて一つの無差別の世界国になるということではなくて、やはりそれぞれ違う個性を持った、文化的にも多様性のある国々が共存しながら、オーケストラが交響楽を演奏する如く、それぞれ違った音程や音色のひびきを奏でる。それが大ハーモニーして、感動し、楽しく喜び合う――それが神の国の実現したすがたなのではないか。そのようになるのだと思われます。

 そのとき、それぞれ違った音程や音色のひびきを奏でながら、それが大ハーモニーとなるには、一人の指揮者が必要です。その指揮者は、神――天之御中主神、永遠のキリスト、アッラー――現象を超えた絶対界の中心者と一体の、無我、無私にしてすべてを礼拝し、生かすお方でなくてはならないでしょう。それは、「自分が指揮する」 という自我がなくて、無指揮でも、ただ 「徳」 によって、おのずから皆が帰一するようなお方。

 そういう尊いお方が、日本にいらっしゃる――と、私はありがたく、ありがたく思っています。

3559復興G:2013/12/28(土) 10:48:55 ID:AB6RqYXc

 私はこれから出かける用があり、夜も出講する行事がありますので、あとはまた明日に。

3560身分いやしきもの:2013/12/28(土) 19:32:08 ID:6V6zA9Jc
「逃げ口上」といわれて、出でくる口実ができました。ありがとうございます。

あの勝負、わたしの一方的な勝利です。

>そんな勝ち負けなんか、ついていないのですよ。

復興G様。本気で言っておられるのですか。あれだけ一方的にやられて、「勝ち負けはついてない」ですか。復興Gさまは、「現象とはなにか」との問いかけに答えるために颯爽と出てこられたでのはなかったのですか。結果はみてのとおりの大失敗です。それでも「勝ち負けはついてないのですよ」ですか。そうだったのですか、しりませんでした。

最後はきれいごとで逃げ切りを図られることなど、最初からわかっておりました。ですから最初に、「きれいごとは最後にしてくれ」といったようなことを申し上げたのです。「復興Gさまの勝利です」は強烈なあてこすりのつもりでしたが、どうやらこちらの意図が伝わらずに「逃げ口上」ととられたようですね。

あれは逃げ口上ではなく予定通りの書き込みです。一方的に勝利していながら、なぜわたしが逃げなければならないのでしょう。理解に苦しみますね。

復興Gさまがきれいごとで逃げ切りを図られることなどわかりきったことではないですか。書くべきことははじめから用意しておりました。当方としてはあてこすりで書いたつもりでありましたが、復興Gさまをはじめとして、生長の家の方々は字義どおりに受け取ってしまわれたようでありますね。

>「負けるが勝ち」 ということもありますし、私は、「一切は自分の責任」 と引き受けた方が、真理に於いて、本当の勝ちなのだと思います。

「一切は自分の責任」といわれるのであれば、言葉には意味があるということをご自身の責任でもって、きれいごとではなく正々堂々と述べて見られてはいかがでしょう。

3562神の子さん:2013/12/28(土) 21:52:26 ID:AB6RqYXc

>>3560 :身分いやしきもの様

はい、私の完敗です。

そう書いたのに、

>そんな勝ち負けなんか、ついていないのですよ。

と言ったのは失言でしたね。

認めます。

泥水で顔を洗って、出直します。

ありがとうございました。

合掌 礼拝

3563復興G:2013/12/28(土) 21:57:55 ID:AB6RqYXc

上記は、復興Gです。

3564神の子さん:2013/12/28(土) 22:08:45 ID:VA75U0O.
出直さなくてもいいです。
そっと去って行きましょう。

3565ユタカ:2013/12/28(土) 22:31:26 ID:R1D4Jmeg
>3564

いちいちウルサイ! 足!

3567ユタカ:2013/12/28(土) 22:47:42 ID:R1D4Jmeg
ここで復興Gさまにお尋ねします、

一切は自分の責任とか、 一切を自分で引き受けたものが真理において勝ち。

生長の家の本で自己一切者の自覚とか書かれていますが、イマイチよく分かりません。
一切の現象が我より出でて我に返る。??

そうだった、と思うこともありますが、一切というと、すべての現象という意味だとすると、納得がいかない。
自分がこのような悪い事したかな?と思いますが???

3568神の子さん:2013/12/28(土) 22:52:02 ID:???
復興G様は、出直しの必要はありません。

3569神の子さん:2013/12/28(土) 22:55:19 ID:???
今まで通り投稿をお願いします。

3570復興G:2013/12/28(土) 23:31:07 ID:AB6RqYXc

>>3567 :ユタカさま
>> > 一切は自分の責任とか、一切を自分で引き受けたものが真理において勝ち。<
生長の家の本で自己一切者の自覚とか書かれていますが、イマイチよく分かりません。
一切の現象が我より出でて我に返る。??
そうだった、と思うこともありますが、一切というと、すべての現象という意味だとすると、納得がいかない。
自分がこのような悪い事したかな?と思いますが??? <<

 ――昭和天皇様が、終戦後にはじめてマッカーサー連合軍最高司令官に会われた時、「この度の戦争について一切の責任は自分にあります。国民には罪がないから、飢えに苦しんでいる国民を助けてほしい」 と言われた。

 その陛下のお気持ちは、「自分が悪いことをした」 というような “反省” みたいな暗いお気持ちではなくて、すべては自分である、自分がすべてを引き受けようという、無限の愛のお心、神のお心であったと思います。

 「一切者の自覚」 とか 「一切は自分の責任」 と引き受ける覚悟は、反省して自分を責めるような暗い気持とはちがい、いさぎよい勇気に満ちた覚悟で、恐怖のない大安心の覚悟なのではないかと思います。

 他に責任を転嫁しようとするのは、逃げようとする心だから、かえって恐怖心があって、大安心にはならないのではないかと思いますが……。

 「一切者の自覚」 とは、「われ神なり」 の自覚。すべては自分なのだ、宇宙が自分の手のひらに乗っている、一切は自分の心の展開なのだから、自分次第で世界が変わるのだ、世界は自分の心で支配している、自分は宇宙の主人公、自分は大いなるもの、偉大なる者なのだ! という心でしょう。一切は自分だから、他を愛することは自分を愛することである、となるのだと思います。

3571復興G:2013/12/28(土) 23:52:57 ID:AB6RqYXc

>>3568>>3569 :神の子さん様

 ご愛念、ありがとうございます。

 「自分の顔に泥を塗る(泥水で顔を洗う)」、「顔を洗って出直す」 というのは、フランス・ルルドの聖少女ベルナデットが黄金の薔薇三輪を踏まえた聖母マリアの姿を空中にみて、女神マリアの言葉どおり足下を掘り噴き出した泥水顔を洗った。谷口雅春先生はそのことを 「黄金の薔薇」 という詩に書いて下さっています。
>>3515>>3517>>3521をご参照下さい)

 つまり、過去の自分を捨て去り、神想観をしてさらに新たな気持で、生まれかわった気持で出直す、という意味です。ご心配なさらないでください。

 ありがとうございます。

3572復興G:2013/12/29(日) 00:10:49 ID:AB6RqYXc

 智慧の言葉に、「死ね! 生きる」 というようなお言葉があったと思いますし、イエスも 「己が命を棄つる者は却って生き、己が命を救う者はこれを失わん」 というようなことを言っていますね。自我を死に切る者が、却って大いなる命を生きることになる。それが本当の人生の勝利者である、というのが真理でしょう。

 孫子の兵法でも、相手を生かすこと(敵を徹底的にやっつけるようなことはしないで、むしろ味方につける)の方が大局的には自分も生きる、つまり勝利することになる、というような意味のことを言っていたと思います。

 私もそのようにしたいと、自戒しています。

3573復興G:2013/12/29(日) 06:59:25 ID:AB6RqYXc

 おはようございます。

 >>3572で、「孫子の兵法」 について触れましたが、孫子については、前に <「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板> に書いたことがありました。読み返してみると、面白くて、なかなかいいことが書いてあるなあと、自分で感心しています。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311411528/?q=%C2%B9%BB%D2

 その一部を再掲載させていただきます。

          ○

 『孫子』は、「生きるか、死ぬか」の瀬戸際にあって、どう戦って勝つか、ということを前提とした戦略を伝える書です。まさに、命がけの戦い。負けは死を意味します。だからこそ、絶対に勝たなければいけないんですね。

 生長の家も、ある意味で今、「生きるか、死ぬか」の瀬戸際にあるとも言えるでしょう。だから、『孫子』がとても参考になると思うのです。

 孫子は、この兵法書の中で、「軽々しく戦うな」ということを言っています。たとえば

 「兵は國の大事にして、死生の地、存亡の道なり。」

 という一文があります。これについて、『孫子の至言』の著者田口佳史氏は、

<「戦争というのは国の存亡を分ける重大事である」とし、だからどう行動するかについては、「察せざる可からず」 と言っています。この 「察」 の字は、下に 「示」 とありますね。これは神棚を表し、上の部分は手で肉をお供えしていることを意味します。したがって、神棚の前で雑念のない真っ白な心で自分自身に問いかけなさい、公平無私な判断をしなさい、というのです。「戦いというのは生きるか、死ぬかの大事なのだから、軽々しくやってはいけませんよ」 ということです。

 私たちはときに、どうでもいいことで争うことがあります。命を取られるほどのことはないからいいではないかと言われればそうですが、無用の争いはやはり避けたほうがいい。負ければ、心身の消耗が激しく、命を縮めることにもなりかねませんからね。

 どうしても争わなければならないにしても、絶対に勝てるのか、勝つことの意味は何なのか、といったことを熟慮する必要があるでしょう。

 争い事を前にしたら、むやみやたらと戦いに打って出るのは一番の愚策。命を損なう危険も視野に入れて、慎重に考えなければいけないのです。

≪ 百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。(謀攻篇)

 凡そ兵を用ふるの法、國を全うするを上と爲し、國を破るは之に次ぐ。≫

 ――「国を全うする」 というのは、自国はもちろんのこと、敵国をも無傷のままに勝敗を決することを意味します。

 それが一番上等な戦いで、勝ったとしても敵国に損害をおよぼすような戦い方は褒められたものじゃあないというんです。

 どういうことかと言うと、戦争に勝つことは敵国を占領することが前提ですから、被害が大きければ大きいほど復興が大変です。その任を負うのは戦勝国のほうで、「本当に勝ったんだろうか」 と思えるくらい、戦後の復興に莫大な費用とエネルギーを要するのです。

 そればかりか、これでもかというくらいの攻撃をすれば、多くの人を殺すことになります。当然、負けた国の人々からものすごい恨みを受けるでしょう。

 だから、敵をこてんぱんにやっつけるのは、上等な勝ち方とは言えないのです。>
<後略>

 ──以上は、 『孫子の至言』(田口佳史著)からの抜粋でした。とても参考になる至言ではないでしょうか。

 イエスの言葉では、マタイ伝第10章39節に

 「生命(いのち)を得(う)る者は、これを失ひ、我がために生命(いのち)を失ふ者は、これを得(う)べし。」

 という言葉もあります。「永遠の生命」(永遠のキリスト)のために現象の生命を献げる者が、永遠の生命を得る。イエスは、我れを愛するなら羊を飼え、とも言った。「羊を飼え」 というのは、生命の兄弟である、神の子である隣人を愛せよという意味だと、谷口雅春先生は 『ヨハネ傳講義』 でお教え下さっています。

3574曳馬野:2013/12/29(日) 07:23:34 ID:xR0RYWLc
 
  復興Gさん 余りの独善的解釈ですね
 
そうすると、【形は同一であっても】【釈迦の前にある世界がすっかり変貌してしまったのであります。】そこで釈迦は、【十二月八日の明けの明星を見ながら、】
「有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏」と悟られたのであります。すなわち「有情」――生きとし生けるもの、「非情」――ありとしあらゆるもの、
悉く 【今】 仏になっている。山も川も草も木も悉く仏の相(すがた)である。

みんな生かし合い、拝み合いの相(すがた)である。【今まで地獄の相だと思っておったのはまちがいだったとお悟りになったのであります。】これが釈迦のお悟りになった縦の真理であります。
(『生命の實相』第39巻 <仏教篇> p.41〜p.42より)

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ――「天地間、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるもの、みんなこうして愛し合っている者はもちろん、憎み合っているかのごとく見えている者同士さえも生かし合っている世界なのです。
みんな愛し合いの世界なのです。みんな解け合いの世界なのです。」 と、教えて頂きました。
 ――生長の家で、教団と本流の人々が、いかに激しく争いあっているように見えても、実は拝み合い、生かし合いの相(すがた)である。

ありとしあらゆるもの、悉く今仏になっている。山も川も草も木も悉く仏の相(すがた)である。



 【曳馬野さんは、総裁の忠実なポチか、馬の脚を、一所懸命 演じていらっしゃる。】


あなたも本流派の御仁と同じ、現実を見ること能わず、想像の世界、観念の世界の住人なんですね。志恩女子が私を馬と揶揄した其の儘に私を馬と呼び、総裁のポチと呼ぶ。
佛教篇を引用して滔々と捲し立てたところで、見当違いの結論でもって、目明きメクラの誘導では皆川に落ちてしまいますよ。

上の【  】は私が附けました。

【今まで地獄の相だと思っておったのはまちがいだったとお悟りになったのであります。】と書かれています。【曳馬野さんは、総裁の忠実なポチか、馬の脚を、一所懸命 演じていらっしゃる。】と
思っていたのは間違いであったとあなたは悟られましたか?

当然悟られてはいないですよね、【形は同一であっても】【釈迦の前にある世界がすっかり変貌してしまったのであります。】とあります。

あなたは云う 【 私は、上記の実相を、ひたすら祈らせて頂きます。】と、この祈りは現象が真象そのものの影となることを期待するものでしょう?

この現象の変化を求めているのです、あなたの祈りは。私の行動の変化を求めているのです。然し釈迦の悟り、また雅春先生の解釈は違います。

【形は同一であっても】【釈迦の前にある世界がすっかり変貌してしまったのであります。】なんです。お解りになりますか?

【 私は、上記の実相を、ひたすら祈らせて頂きます。】


あなたが悟れば、今目に見えている形は同じままで、見えている世界がすっかり変貌するのです。そう書かれていませんか?
どこまでも見える世界は信念の影なんです。これは生長の家で云うことですよね。祈ってどうこうしようなんて説かれていますか?
祈らなくてもいいんです、変貌した相が見えれば。祈ったって見えやしません。神癒への道を何十辺も読み、生長の家を60年やり、雅宣先生の実相を20年祈ったところで、
変貌して見えないからうだうだ言っているのでしょう?


【 私は、上記の実相を、ひたすら祈らせて頂きます。】は未来に結果を求めているのではないですか?

【悉く 【今】 仏になっている。山も川も草も木も悉く仏の相(すがた)である。】は未来でなく今ですよね。こう先生は云っているのです。

変化を求める心そのものが不足の表れなんです。求める必要のない世界であってこそ満ち足りた世界、阿弥陀の世界でありましょう。
現象は無いんです、心に浮かぶ心象でしかないのです。あるものはそのままに実相なんです。善悪を超えて。
其の儘の心を大切にすべし、なんです。変えるべきは己の心象なんですよ、外の姿でなく。

少女からの飲み物の供養により生かし合いの世界を釈迦が悟ったと雅春先生は云われるけれど、禅の世界の「明星一見」の悟りは全く違うとされています。

3575復興G:2013/12/29(日) 07:46:45 ID:AB6RqYXc

>>3573のつづきになります。

 孫子に関連しては、<組織 板> の方にも、面白く有益な書き込みがありました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322573377/312

 一部、抜粋再掲させていただきます。

>312 :復興G:2012/01/23(月) 12:34:57
>>311 :役行者様
> いま、高度経済成長の時代に終わりを告げ、ガムシャラにガンバろうという気風はなくなり、一度止まって内面を見つめ、再構築していこう!という時代が始まろうとしています。大きくみて、転換期と思われます。……少なくとも、私は地球規模の転換期と思っています。<

まさにその通りだと思います。
自力で戦ってガンバロウ!とすると、ろくな事にはなりませんね。

 去る12日の日経夕刊「あすへの話題」に、「彼と己を知る」と題し和田昭允氏(東大名誉教授)が、いわゆる「孫子の兵法」について書かれていました。

<引用>
「彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず」は先刻ご承知、戦略論の古典「孫子」不朽の箴言だ。(中略)
 相手を“敵”と決めつけないで“彼”とするところに、その深い想いが覗える。
 百戦百勝はベストではない。戦わずに相手を屈するのがよいと説き、戦争は国を全うするのが最善、国を破るのは次善だとも言う。相手を傷つけずに言うことを聞かせるのが一番良いと教える、高い視点からの処世哲学だ。だから英訳書の表題も格調高く「戦争の芸術」だ。ナポレオン、リデル・ハート、毛沢東など、古今東西の戦略家が強い影響を受けたという伝説は十分納得できる。

 朝敵の徳川家を全うさせた明治の新国家建設や、完膚無きまでに叩かれた後、経済大国として全うした日本はその成功例だ。(中略)

 われわれの“彼”は森羅万象、つまり宇宙、地球、環境、社会、職場、家族……であり、“己”は学術、思想と価値観、そして厖大な知識集積から価値を創造する叡智だ。これらを弁えれば、冒頭の言に続く「彼を知らずして己を知れば一勝一負し、彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし」の羽目には陥らない。

 国家をはじめ物事を誤らないためには、まず彼と己をよく見極め、知る。その上で知情意を尽くして有終の真善美を飾る努力をすれば、悔いは残らない。
<引用終了>

 よく、「人を見抜くことが大事」とも言いますが、彼(相手)を本当に知るというのは、「敵ではない。味方である」と知る。「すべて真実の実在は、神と神より出でたる物のみなり。神は完全にして、神の造り給いしすべての物も完全なり」。というところまで見抜く。それが真に「彼を知る」ことである。

 また、「己を知る」というのも、己の長所と欠点を知るというような中途半端なことではなく、「己というものは本来なかった。完全円満な神のいのちだけだった。すべてと一体で調和している自分だけがあった」と知るのが、本当に己を知ることだと思います。そこまで徹底すれば、まさに「百戦して殆(あや)うからず」となるのだと思います。

    ===================
<つづく>

3576復興G:2013/12/29(日) 07:48:22 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322573377/?q=%CC%B5%C5%A8%CE%AE

<組織 板>
>318 :復興G:2012/01/24(火) 10:13:55

<312>で私は「孫子の兵法」について書かせて頂きましたが、それに関連して 「尊師の平法」 というか、谷口雅春先生が 「無敵流平法」 というのをお説きくださっているのを思い出しました。

 それは、剣道の極意も 「敵はない。敵と見える相手も実は自分自身のすがたである」 という自他平等一体の境地で、平常心で立ち向かうと、かえって相手の隙がよくわかって打ち込める。だから 「敵はない」 から 「無敵流」 で、「兵法」 と言わず 「平法」 というのを創始した達人があったそうです。

 やはり剣道をやっていたある方が、師匠は実にゆっくりと剣を動かしているようだのに、隙を突かれて打ち込まれてしまう。こちらは必死で素早く剣を打ち振っているのに、どうしても打ち込むことができない。ところが 『生命の實相』 を読み、「天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき天地一切のものは汝の味方である」というのを拝読して、相手も自分自身だという思いになった。自分自身なら自分の隙は自分だからはっきりとわかる。その境地で師匠に相対して打ち込んだら、相打ちになったけれども師匠も思わずよろけた──というようなお話であったと思います。

>326 :四季眞:2012/01/26(木) 19:06:10 ID:ib/hnTbI
>>318 :復興G閣下

「無敵流平法」
:「日常生活の中の真理・仏典編(第6章〜第7章)」を参照願う。
他に、講話録音テープにもあり申す。

同書をお持ちでない方のために、ご教示頂き申したる
〜第7章より)」を以下に謹写させていただきましょうぞ。

  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

   天下無敵の世界を造り出すには

 「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。……」

 こういうように聖経 『甘露の法雨』 には書かれている、そういうように、天地一切のものと和解して何ものにも害されることがない、隙がない、という状態になれるというわけなんであります。

 東海道の豊橋という処に、堀田実先生という人がいる。この先生は、いま(編者註・昭和四十四年当時)生長の家のあの方面の連合会長をしておられるんです。この人は、徳川時代に始まった平常無敵流平法の、そのズーッと孫に当られる方であって、その極意を伝授しておられる、極意の書がありましてね。まあ高さで、あれで四十センチ位、あるいは五十センチ位ありましょうか、和紙に書いて綴じた極意の本です。その極意の本を譲られて読むけれども、よくその意味が解らなかったというのであります。

 ところが或る目、『生命の實相』 を得られて、そして、それをお読みになって、
 「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。……」

 この、生長の家の神示、神様のお示しを読んだ時に、はじめてこれが無敵流平法の極意であるとわかって、釈然とした──と、言って、その極意の書を僕に 「読んでくれ」 と言って持って来られたことがあるのであります。

 天地一切のものに和解したら、どこにも隙がない。和解がないから隙ができるんです。現在の日本国の現状を見ると、全くこれは隙だらけの敵対だらけの世界である。敵対だらけの世界は、隙だらけの世界である、ということになるんです。

 もう少しこの 『維摩経』 でも読んで貰って、政治家は尚一層精進して、敵の無い、天下無敵の世界を造り出して頂きたいと思うのであります。

<以下、つづく>

3577復興G:2013/12/29(日) 07:49:14 ID:AB6RqYXc

<つづき>

  第7章 禅定とは々天地万物と融合する々こと

(中略)

   自他一体になれば天下無敵である

 この前に言いました堀田実さん、「平常無敵流平法」 という、その祖父の編み出したところの剣道の極意がその家代々伝わっている方です。ヘイ法といっても、兵の法、兵隊の法とは書いてないのであって、平らかな法と書いてある。これはどういう意味かというと、自他平等という意味だそうであります。彼と我とは本来平等の存在で、一体であると言うわけです。そして堀田先生が僕のところへその極意の本を持って来て、「読んでくれ」 と言われるので、僕は読んでみたら、こういうことが書いてある。それは──

 彼と我とは本来一体であって、それは恰度空気のように、どこも一つにつながっているのがわれわれの生命である。それを自覚するのが、それがこの無敵流の平法である。敵はないのである、自他平等である。

 ところが、相手が害念を起して自分を斬ろうと思って、太刀を振り上げる。太刀を振り上げたらその胸のあたりに自然に隙ができるのである。恰度そこに──空気が移動するとその空気が動いたあとが真空になる。そうしたら、隣りにいる空気がスーツとその真空を埋めるように這入って来る──それと同じように、自分を斬ろうと思って太刀を上げると、その上げたあとの胸のところがスーツと空く。その空いているところへ此方の剣がスーツと入る。相手の胸が斬られる、ということになるのである、というような意味が書いてあるんです。まことに素晴しい本である。

 その堀田実さんがこう言われた──

 「自分はまだこの極意をよく体得しないのであるけれども、武徳殿の範士である内藤範士(この人は素晴しい剣道の極意に達して、自分のお父さんから直接その剣道を習って、その極意に到達した)という人がいて、この内藤範士が相手の五段、六段の教士に対して試合をする、その時に、側から見ていると、内藤範士の剣は実にゆるやかにソーッと動いている。まことに静かであって、“静中動あり、動中静あり” とでも言うのですか、実に静かであって、ゆるやかに剣が動いているのに、そのゆるやかに動きながら相手の五段、六段の教士を 『お面!』 『お籠手!』 『お胴!』 とねえ、忽ち入るんです。そうすると五段、六段の教士が、『参りました』 と言って頭を下げている。まことに不思議である」 と。
<後略>

  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ――以上で再掲を終わります。

3578復興G:2013/12/29(日) 07:57:53 ID:AB6RqYXc

>>3567 :ユタカさま

上記は、

>>一切は自分の責任とか、 一切を自分で引き受けたものが真理において勝ち。
生長の家の本で自己一切者の自覚とか書かれていますが、イマイチよく分かりません。<<

――のお答えの補足にもなると思いますが、いかがでしょうか?

3579復興G:2013/12/29(日) 08:12:48 ID:AB6RqYXc

>>3574 :曳馬野さま

 私は、上記の 「孫子の兵法」・「尊師の平法」 はまことに至言であると思います。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<< 孫子は、この兵法書の中で、「軽々しく戦うな」ということを言っています。たとえば

 「兵は國の大事にして、死生の地、存亡の道なり。」

 という一文があります。これについて、『孫子の至言』 の著者田口佳史氏は、

<「戦争というのは国の存亡を分ける重大事である」とし、だからどう行動するかについては、「察せざる可からず」 と言っています。この 「察」 の字は、下に 「示」 とありますね。これは神棚を表し、上の部分は手で肉をお供えしていることを意味します。したがって、神棚の前で雑念のない真っ白な心で自分自身に問いかけなさい、公平無私な判断をしなさい、というのです。「戦いというのは生きるか、死ぬかの大事なのだから、軽々しくやってはいけませんよ」 ということです。

 私たちはときに、どうでもいいことで争うことがあります。命を取られるほどのことはないからいいではないかと言われればそうですが、無用の争いはやはり避けたほうがいい。負ければ、心身の消耗が激しく、命を縮めることにもなりかねませんからね。>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 上記の 「至言」 にしたがい、私はあなたとの論戦はもう終了とさせて頂きます。

 ありがとうございました。

3580身分いやしきもの:2013/12/29(日) 10:39:02 ID:wg729R3g
ユタカ殿

あなたなど相手にしていない。あなたに読んでもらいたくて書いているわけでもない。「読んでない」などと、そんなわかりきったこと、いちいちいってもらわなくてけっこう。勘違いしなさんな。あなたが読んでいるなどとは誰も考えていない。

「来るな」というのであれば、わたしのことをここで書きなさんな。書くだけ書いて「来るな」とはどういうことか。来てほしくなければなにも書くな。

それにしても、復興Gさまは、わたしと訊け様がやりとりしている最中に、割り込むかのように出てこられましたのに、わたしには「来るな」というのもおかしな話ですねえ。復興G様は割り込んでもよいが、わたしは割り込んではならない。掲示板にこのような新ルールでもできたのでしょうか。

復興Gさまは、「一切者の自覚」などといっておられながら、自分と意見のあわぬものは排除したいかのように、わたしとの対話を避けておられるようにも見受けられます。

「雅春先生は、現象世界はひとりひとりがつくっている」といわれていると、復興Gさまはたしか書いておられましたよね。「ひとりひとり」とはどういうことか、ほんとうにわかってお書きになられたのでしょうか。これこそが「一切者の自覚」ではないのですか。ただ漫然と引用されただけのようですね。

>「雅宣先生はおかしい」と観ることそのものがおかしい、これはあなたも本流の方も同じです。この観たものが現れると云う真理そのものがどうですかね。
雅春先生が孫の一人が生長の家の真理を肯定しないと詳密講習会で云った、と云った人がいましたが、これこそ現象を観ての発言でしょう

曳馬野さまはこのように書いておられます。復興Gさまがみておられる世界は復興Gさまがご自分でつくっておられるのですよ。このことを復興Gさまはいまだ自覚しておられないようです。

復興Gさまは、「総裁はおかしい」と本気で考えておられるのですか。これが「一切者の自覚」なのですか。「総裁がおかしい」とすれば、それはいったい誰の責任ですか。復興Gさまご自身の責任ではないのですか。「総裁はおかしい」と本気で考えておられるのなら、これはあきらかな責任転嫁でありましょう。

しかも「一切者の自覚」といわれる復興Gさまが、わたしをなぜ避けられるのでしょう。わたしは、「言葉には意味がない」とする根拠を、たとえたどだとしくではあってもこれまで述べてまいりました。これにたいして、生長の家の方々は、「言葉には意味がある」とただこのひと言を述べられるだけで、根拠はいっさい示そうとはなされません。

根拠を示せないのは、「意味はある」とする考えが間違いだからです。「物質はない」とする根拠は示せるのにたいして、「物質はある」とする根拠はいっさい示せないのとおなじ道理です。「物質はある」とするのがたんなる思い込みであるように、「意味がある」とするのもたんなる思い込みなのです。だから根拠を示せないのです。

「いずれにしましても、一切者の自覚」といわれるのであれば、ご自分でおつくりになられた世界に責任を持つべきではありませんか。割り込む、逃げる、避ける。これが復興Gさまのいわれる「一切者の自覚」であり、責任の取り方というものなのでしょうか。

復興Gさまはどうやら、自分を批判しない人々、脅威とならない人々、反証不可能な超越項が通じる人々だけを相手にしたがっておられるようですね。反証不可能な超越項をもちいずしてはなにも語れない。これが復興Gさまの限界なのです。限界をあらわにされる相手とはかかわりをもちたくない。これも道理というものです。

ここの掲示板もついに有料掲示板へと衣替えしたようですね。情報は筒抜けというわけですか。もしそうであれば、いったい誰の差し金なのでしょう。

3581復興G:2013/12/29(日) 10:49:14 ID:AB6RqYXc

 「一切者の自覚」 を持てば、現象世界が乱れて危機と見えれば、「現象はナイんだ」 と言って放(ほう)ってはおけない、そして、祈りも愛行であり広義の行動でありますけれども、祈りに基づいた、さらに積極的な行動も当然起こすことになる。自分は泥をかぶっても、現象界が正常に、清浄になるように身を捨てても何とかしたいと思い、行動するのは当然でしょう。

 菩薩は、「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に他を度す」 のが使命ですから。

 私は、

 「生長の家は、谷口雅春先生が宇宙大生命の啓示を受けられて、あらゆる宗教の神髄はみな一つの大生命の救いの放射光線であり宗派争いをする必要はなく、本来の教えの神髄は一つであるとして、すべてを生かす道を示された。これぞ究極の世界平和をもたらす、人類最後の最高の道である」

 と信じています。

 その、神が始められた生長の家の運動が、現象界では総裁が還暦を迎えられた今もまだ副総裁=次の後継者、第4代総裁になる方が決まっていない。

 生長の家は、「天地一切のものと和解せよ――まず汝の兄弟と和せよ」 という御教えであるが、総裁のお身内の文字通りの ご兄弟姉妹などが、和して協力されているお姿が見えない。

 生長の家の根本聖典、神殿であるとされる 『生命の實相』 のご本や、聖経 『甘露の法雨』 を、生長の家本部や教化部で買えないような状況があらわれている。

 これは、生長の家教団の危機であり、ひいては世界人類の危機ではないか、と思われる。

 その責任を、ただ総裁お一人に押しつけて、「総裁が間違っている。雅宣総裁を退陣に追い込め」 というような行動をしようとは思いません。

 それは、生長の家の御教えに反し、天地の真理に反することである。

 「一切者の自覚」 をもって、御教えに従い、真理に従って行動したい、というのが私の根本姿勢であります。

 真理にのっとった行動をするためには、まず己れを無にして、命がけで御教えを、真理を学ぼう、ということでこのweb誌友会は20回を重ねてまいりました。

 真理にしたがって、私は、人類を救うには、まず家庭が救われ、生長の家が救われなければならない。生長の家が、「天地一切のものと和解」 した姿があらわれるように、「既に和解し調和したすがた」 が実現していることを日々祈るとともに、それが本当に実現する日が一日も早く来るように、自分の立場で出来ることをするのが、私の使命であり、最大の愛行になるのではないかと、今思っています。

 私は今月(今年)いっぱいで、今まで20回のweb誌友会のまとめをして、いったんここから退場させて頂きたいと、今月初めに申し上げました。

 その今月(今年)が、あと残すところわずかになりました。

 今日も、午後からは約束行事がありますし、明日からは息子たちや孫たちもやってくる、で、とりいそぎ、がんばって、もう少し具体的に思うところのまとめをしたいと思っています。

3582身分いやしきもの:2013/12/29(日) 10:50:32 ID:wg729R3g
>軽々しく戦うな

わたしと訊け様とのやり取りに割り込むまえにこのことに気づいておられればよかったですね。

3583トキ:2013/12/29(日) 11:49:51 ID:maZgyHM6
>>3580

身分いやしきもの 様

ご投稿、ありがとうございます。最近、用事のため書き込みが減っており、皆様にもお詫びします。

>>ここの掲示板もついに有料掲示板へと衣替えしたようですね。情報は筒抜けというわけですか。

 の下りですが、管理人は無料で場所をお借りしております。宣伝などが入っているのがその証拠でも
あります。もちろん、有料になって宣伝、広告が入らなくなるのなら、それはそういたしますが、現在
は無料掲示板です。

 あと、投稿者様の情報は外部へは提供をしておりません。

以上、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3584曳馬野:2013/12/29(日) 17:03:20 ID:xR0RYWLc

 復興Gさん

>>3576 >>3577での無敵流平法の解説でもって禅の悟りの世界を述べたつもりでしょうか?

>>3453でこう書きました


●盤珪禅師は或る侍が「剣の達人があなたに切りかかれば避けることは出来ないでしょう」と云ったのに対して、打ってみなさいと云い、侍が一瞬躊躇

したとき、我既に打ったと云いました。坊さんが侍の剣には負けないと云ったのです。

それについて雅春先生は、昭和18年の生長の家誌5月号で、平法無敵流の極意について、「それは理論として面白いし、武道以外の日常生活では

自他一体が常勝の道であることが体得せられますが、剣を以て立会う武道では、どういう姿で現れてくるか想像が付かなかったのでありますが…」

と書かれ、その時点では武道での自他一体の行動はとれていないことを表明されています。これは「私もこの教えで修行中です。」と云われていたことを

裏付けていると思います。ですから「実相の大地に降り立ったのである」と云われた心境が如何ほどのものであるかは判りません。


reiさんは「実相の大地に降り立ったのである」との心境が分かった気がすると書かれました。

わたしは「実相の大地に降り立ったのである」と云われた心境が如何ほどのものであるかは判りません。と書きました。

禅の悟りが生長の家より上か、との問いの答えを書きましても何らの答えは有りません。
ある意味生長の家の悟りについての疑問を呈したのです。

● 私たちはときに、どうでもいいことで争うことがあります。命を取られるほどのことはないからいいではないかと言われればそうですが、
無用の争いはやはり避けたほうがいい。負ければ、心身の消耗が激しく、命を縮めることにもなりかねませんからね。

これが至言ですか?
雅春先生の悟りと禅の悟りについてのやり取りはどうでもいいことなんですね。そしてただ信ずると云うもので、これが生長の家であるとして
示していこうと云うことですか?

  つづく

3585曳馬野:2013/12/29(日) 17:04:51 ID:xR0RYWLc
>>http://www.geocities.jp/ikiiki49/page006.html 子供たちに教えたい維新の偉人『山岡 鉄舟』 より

こんなエピソードがあります。明治天皇がお若い頃のある日、鉄舟たち侍従とのお酒の席で
鉄舟に相撲を挑まれ、鉄舟を押し倒そうとされました。天皇と臣下(じんか)、普通なら天皇に勝ち
をゆずるでしょう。しかし鉄舟は、飛び掛られた際に横にかわし、天皇は鉄舟の後ろに倒れて
しまわれました。周囲は鉄舟に謝罪を勧めましたが、鉄舟はこれに応じず、「陛下と相撲を取
ることなど、この上ない不倫(ふりん)であること。また、わざと倒れるのは迎合することであるこ
と。またもし、私が怪我をすれば陛下はどれほど後悔遊ばされるか。もし陛下が私を悪いと仰
せられるなら、謹んでこの場で自刃してお詫(わ)び申し上げる覚悟であること。」を決然と言いま
す。

 明治天皇は鉄舟の言葉をお聞きになり、「私が悪かった。」と仰せになったとのことです。
決死の覚悟でお諌(いさ)めする鉄舟、非を素直に認められるお若き日の明治天皇。このよう
な、君臣(くんじん)互いに信頼の絆(きずな)で結ばれているのが、日本の伝統なのでしょう。このよ
うな情景は、昭和20年、終戦後にも、昭和天皇と国民との間でGHQ相手に遺憾(いかん)なく発
揮されました。

>> http://rakudo.jp/category/05 楽道庵ホームページ 山岡鉄舟Ⅰより

「私は年齢が八、九歳の頃、母が文字の書法を教えてくれた。たまたまその中に忠孝という文字があるのを見た。私はどういう意味かを不審に思い、
母にそのいわれを尋ねた。母が言うには、忠と申す文字は、その使う場所によってさまざまな解釈もあるが、この場合は主君に仕える心の正しさをいう。
孝と申す文字は、父母に仕えるという意味である。しかし忠と孝とはもともと根本を同じくするもので、人がこの世で生きる上で、
必ずこの道理をわきまえなければ、人として生まれた甲斐がないばかりか、申し訳が立たぬものであると、大層情感を込めて話された。
けれども、私は幼年のこととて、それがさほど効能のあるものとは思えなかったが、母の膝によりながら、じっとその顔を眺めてみれば、
母は何となく深い心を含んで言われたように見受けられたので、私は幼な心に、母様よ、母様は常にその道を守られているのですか、
また私はどうしたらその道を行ない尽くすことが出来るのでしょうかと、何気なく質問したところ、母は何やら心に感じたところがあったようで、
はらはらと涙を流しながら言われるには、オー鉄よ鉄よ、母も常にそのように心がけてはいるものの、至らない女であるがために、未だこれといった成果もなく、
誠に残念に思っている。そなたは幸いに丈夫な身体に生まれついたのだから、必ず必ずこの母の教えを忘れないでおくれ。
忠孝の道は、その意味はなかなか奥深いものがあり、今日そなたに申し聞かせても容易に心に合点するというわけにはいかないでしょう。
これからはこの心を持って修行に専念すれば、将来において自然に了解することもあるでしょう。必ず必ず、うち捨ててはなりませぬと、
心を尽くして述べられた母の至情の教訓は、この出来事において私の精神にしみ渡ったのである。」


このように鉄舟は述懐しているが、我が子の目前で真情を吐露する母に感応道交して、鉄舟の幼い心にも生涯忘れ得ぬ至誠心が刻印されたのであろう。
母たる人の家庭教育がいかに大切かが知られるのであり、鉄舟の母のように、真心や至誠心をもって教育すれば、
子供はきっと立派な皆から尊敬される大人に成長するであろう。
すでに十五歳の折りには、「修身二十則」を作って自らの日常の言動を戒め錬磨している。


  つづく

3586曳馬野:2013/12/29(日) 17:18:59 ID:xR0RYWLc
「道の師」との出会い

特筆すべきは、「道の師」と鉄舟が呼んだ山岡静山との出会いである。静山について鉄舟がどのように感じて師事していたかを、静山が二十七歳で急逝した後に
鉄舟がしたためた一文から窺うことが出来る。

「そもそも静山の槍法に絶妙なることは海内無双にして、何人も称する所なり。而してまた内深く忠孝仁義の道に入念せらるる事、天下この人を凌ぐもの
また何人かある。けだし静山の技は、無我の真の発動なるべし。これ我の最も敬服する所なり。鉄太郎は剣法を修し、静山は槍法の達人なり。故に我静山の技に
対して師事するにはあらず、服する所はその心事の明鏡止水の如く、厚徳山の如きにあり。故に我その技の異なるにもかかわらず、しばしばその門に接して
教えを受く。」
(そもそも静山先生がやりの術に絶妙であるのは、日本随一であり、何人も称賛するところである。そして更に内面的には深く忠孝仁義という人の道に心血を
注いでおられることは、天下にこの人を凌ぐ者が何人あろうか。まさしく静山先生の技は、無我の真の発動であるに相違ない。これこそ私が最も敬服するところ
である。私鉄太郎は剣法を修行し、先生はやりの達人である。従って、私は先生の技に対して師事したのではない。敬服したのは、先生の心境が明鏡止水の如く
に一点の曇りも無く、徳の厚きこと山の如くであるからである。それ故、私は技が異なるにもかかわらず、しばしばその門に出入りして先生の教えを受けた
のである。)
(『鉄舟随感録』52頁)


また、師の静山の方も、常に人に語ってこう言っていた、「世間には青年が数多くいるものの、技芸に長ずれば真の勇気がなく、気概があれば技芸が拙く、
とかく困り者が多い中で、ただ小野鉄太郎だけはまことに鬼鉄のあだ名に恥じず、心根の寛厚な(度量が大きく手厚い)ことは、まるで菩薩の再来かと思われる
ほどの者であるから、彼の行く末は必ずや天下に名声をとどろかすものとなるであろう。頼もしいものだ」と。

「この弟子にしてこの師あり。この師にしてこの弟子あり」と言うべきか、何という高潔な素晴らしい師弟関係であろう。結局、静山の弟で同じく槍の達人で
あった高橋泥舟の懇請により、鉄舟は尊敬する師静山の跡を継いで、禄高がはるかに高い小野家の跡取りの身でありながら、静山の妹と結婚して小禄の山岡家を
相続することになるのである。この逸話もまた、一点の私心や打算を持たぬ鉄舟の無我至誠の人柄を如実に示している。

静山の妹のお英(ふさ)も、そうした鉄舟の風格にぞっこん惚れ込んで、「鉄太郎さんと結婚できなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。
鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それはお英にとって問題ではなかった。鉄舟の方も、「おれのようなものをそれほどまでに思って
くれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因である。

鉄舟は急逝した静山の死を悼んで景慕の情に堪えず、毎晩人知れず墓参したという。寺の和尚は大柄の鉄舟を怪物だと勘違いし、泥舟に伝えた。そこである日、
泥舟が窺っていると、雲行きがあやしくなり、ついにはものすごい雷雨となった。その時一人の大男が風雨をついて走ってきて、静山の墓前でうやうやしく
礼拝して羽織を脱いで墓にかけ、墓に向かってあたかも生きている人にものを言うかのように、「先生、鉄太郎がおそばにおりますから、どうぞご安心遊ばせ!」
と言いつつ、雷雨が過ぎるまでそのまま守護していた。これは静山が雷が苦手だったからである。物陰からこの様子を見ていた泥舟は、亡兄に対する鉄舟の
至誠心を目の当たりにして、感涙にむせんだという。

  つづく

3587曳馬野:2013/12/29(日) 17:37:32 ID:xR0RYWLc
無我・至誠の実践

鉄舟は二十三歳の折りに「心胆錬磨の事」という一文(『鉄舟随感録』125頁)を書いているが、そこで彼は心胆を錬磨することの奥義を自ら
体得するために、「古今の聖人傑士」がいかにしてその道を修得し、また発揮したかを、その事蹟を学ぶことによって、考究したという。
そして、「我れ幼年の時より、心胆錬磨の術を講ずる事、今日に及ぶといえども、未だその蘊奥(極意)を極むる事あたわざる所以のものは、
一つに我が誠の足らざるが故なり」と述懐している。

また、鉄舟が明治天皇の侍従をした功績を認められて叙勲されようとした時に、「まだまだお尽くし足らぬと思っているのに、叙勲などもってのほか
だ」と断言し、「喰うて寝て何も致さぬご褒美に、蚊族(「華族」と同音語)となってまたも血を吸う」と自嘲した。これこそ実に鉄舟全幅の赤誠の
表現である。

鉄舟は天皇の教育係役を西郷隆盛からのたっての依頼で引き受け、天皇から最も信頼された側近であった。しかも彼の前の主君は、
最後の将軍・徳川慶喜であった。将軍にとって代わって最高権力の座についた天皇に新たに仕えることになった鉄舟は、殊に将軍の部下であった
旧武士達から口さがない批難を浴びた様であるが、それでも彼は一向に弁明などせずに天皇にお仕えした。鉄舟にとっては、徳川将軍に仕えるにせよ
明治天皇に仕えるにせよ、いずれも至誠の一直心(じきしん)を行ずることに他ならず、自らに顧みて何ら天に恥じることがなかったからである。

孔子は大聖人であるが、その孔子にしてなおかつ、「勤勉では私も人並みだが、君子としての実践では、私はまだ十分には行かない」
(『論語』述而第七、103頁)とか、「君子の道は四つ有るが、私は未だその一つをも行なうことが出来ない」(『中庸』第十三章)などという
恐るべき述懐がある。私見に依れば、これこそ「意・必・固・我」の四つを断たれた孔子の無我・至誠のおのずからなる発露に他ならない。

孔子が「自分は君子の実践すらまだ不十分だ」と述懐され、鉄舟が我が身の誠の足りないことを痛感することこそ、無我と誠の実践そのものである。
自分は何でも出来る、足らぬところがないなどと自負する人は、傲慢で鼻持ちならなくなってしまう。それは結局、我が身可愛さ故の「身のひいき」
であり、我見である。これに対して、誠を実践躬行する人は、その限りのないことを知れば知るほど、ますます謙虚になって行く。
世語に「実るほどこうべ(頭)を垂れる稲穂かな」というのも、ここのところを指すのであろう。

以上楽道庵ホームページより


●生長の家の混乱は須らく本流派の頭領方の無我至誠の足らざるによるものと私は思うものであります。

生長の家無き古より無我至誠の道は有り、鉄舟居士が禅により大悟することによってそれを獲得したものであります。

生長の家により斯くの如き至誠の人如何ほど排出されたのであろうか。

 復興Gさんが斯かる至誠の人となられることを祈念し、誌友会最後の投稿とします

3588ユタカ:2013/12/29(日) 20:14:38 ID:R1D4Jmeg
トキさま
>3566 >3561を削除してください。よろしくお願いいたします。

身分いやしき者さまへ

ユタカの先の投稿は本当に大変失礼いたしました、身分いやしき者様に大変申し訳ございませんでした。反省をし、お詫びをして只今削除をお願いいたしました。
どうぞ、ごゆっくりお話をなさってくださいませ。どうぞ、どうぞ。
朝から仕事で今、帰宅いたしまして大変失礼をいたしておりました、今となりました事も合わせてお詫びいたします。
では、ごゆっくりお気の済むまでお話くださいませ。

3589神の子さん:2013/12/29(日) 21:21:40 ID:GRAXV.Tc
>>3565
身分さんのように、理路整然と上品に述べてください。

3590志恩:2013/12/30(月) 07:19:05 ID:.QY5jUA6
皆様へ

楽天ブログに「山岡鉄舟の臨終の見事さ」という文章が載っていました。

鉄舟は、涅槃の時を悟り、身を清めてから正座して、家族や、彼のもとを訪れた勝海舟に
穏やかに 別れの言葉を告げ、その後、「坐亡」されたのでした。

鉄舟は、胃癌だったそうです。
東郷平八郎は、喉頭癌だったとあります。

昔は、鎮痛剤も今のようには 進歩していなかった時代でしょうから、
武士道は、我が身を襲う 末期癌の痛みにも 強かったのでしょうか。

すごいことですね。

この鉄舟の武士道は、仏教から得た、とありました。
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/8001/


生長の家にも、
使命を果たされた後、穏やかに「坐亡」された本部講師がおられますことは、
生長の家のお方ならどなたでも、ご周知のとおりです。

榎本恵吾がそうでしたよね。「坐亡」されたお方でした。

榎本恵吾先生は、
平成17年7月12日、

3時まで神想観の先導をされ、部長会議にも出席され、その日の仕事を終えられた榎本先生は、ご帰宅。
不調を訴えられて、市内にお住まいの三女・四女 を呼び寄せられ、すぐに一子奥様もご帰宅。ご家族と居合わせた藤原職員とで、聖経を読まれました。
          
その後、駆けつけた祈願部の畑本職員に翌日の神想観先導に関する指示をし、「聖経を読んでくれるかね」と自宅に招き入れた。
そこに、なんと服部仁郎先生自筆の人型が届いた。

実は、榎本先生はお若い時に服部先生に学ばれ、先日の教修会で 服部仁郎先生自筆の人型を持っているという古くからの信徒さんに、
コピーさせてもらう為に送ってもらう事を お願いしておいたのそうです。

しかし送られてきた日、時間はまさに、その日の その時間であった。
榎本先生は、「祈願に携わる者にとって こんなに喜ばしいことはないねぇ」と、心から喜ばれたそうです。

そして引き続き聖経「甘露の法雨 」を家族とともに読誦。最後に「實相を観ずる歌」を皆で音読。
その直後、姿勢を正されたまま、『坐亡』されたのでした。

ちなみに、
徳久克己本部講師は、現場を離れて、1時間後くらいに亡くなられておられるそうですし、
藤原敏之先生も、ご自宅で眠るように大往生されてますし、
平岡初枝先生も、そうですし、

私の存じ上げている人類光明化運動に生涯挺身された大先輩の生長の家の先生方は、ご臨終の折りも、皆様 見事でいらっしゃいました。

やはり、生長の家でも、仏教でも、キリスト教でも、
道を極めた方々は、ご臨終の時でも、共通している見事さが、ございますね。

3591復興G:2013/12/30(月) 12:16:06 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございます。

 私はいま、生かされていることがありがたく、ありがたく、しみじみと幸せを感じています。

 身分いやしき者様が、「言葉には意味がない」 とおっしゃるのは、言いかえれば 「言葉の意味は無量である」 ということだろうと、私は思っています。

 「無量」 は、「量が無い」 とも読めますが、「量(はか)り知れない」 ということです。

 限定された言葉では表現できないほどの、すごい意味があるということです。

 たとえば、「物質はない」 というのは、「物質は物質ではなく仏のいのちである」 ということだとも言われる。

 原子番号1の、最も簡単な構造の水素にだって、無限の可能性がある。酸素と結合して水H2Oになり、水はいのちだとも言われる。もし海水から水素を安価に分離する技術でも開発され、その水素を燃料電池に使えば排気ガスは皆無で排出されるのは水だけだから、最高のクリーンエネルギー源となる。水素はすばらしい宝である。

 いわんや、「肉体はない」 と言っても、以前 「驚異の小宇宙 人体」 という番組がNHKで放映されたことがあったが、その精妙な構造やはたらきには驚くほかはなく、肉体は大宇宙の叡智の結晶ともいうべき傑作芸術作品でもあって、肉体を粗末にしてもよいということでは決してない。

 「言葉」 というのも、単なる記号ではない。その背後には、はかり知れない意味がある。言葉にはいのちがある。

 「時間」 とは何か。時間は本来ない、それは架空的観念であるとも言われる(『神 真理を告げ給う』)。が、また、「『時は金なり』 という諺もあるが、時は金銭のような安っぽいものではなく、時はいのちである」 とも言われる(生活篇)。

 「時間を生かして使え」 とも言われるが、榎本恵吾先生は 「自分が時間を生かすというより、自分は時間に生かされていたんだ」 と言われた。

 時間がなければ、空間もない。時間・空間がなければ、生命の表現は出来ない。時間がなければ音楽の演奏は出来ないし、画を描くことだってできない。時間とは何かと問われても、すぐには答えられないほどのものである。

 で、私は 身分いやしき者さまと 「実相哲学を論じる部屋」・「本流対策室/5」 でやりとりさせていただいた結果、

<私にとって、
 「時間・空間は、愛行の場であり、喜びを表現し、幸福を味わうことのできる場である」
 と自分では確認することができました。>

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/5070

 と、確認できたことは、まことにありがたいことでした。

3592復興G:2013/12/30(月) 12:16:46 ID:AB6RqYXc

 さて、私は、今月初め(12月2日)に、次のように書いています。

≪ いま私は、この12月を区切りとして、この掲示板から退場させて頂きたいと思っています。

来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、私の生命表現、使命実現をして行きたい。

a hope さまが聖典引用板に謹写して下さった
<< 「知」 が 「信」 によって生命を吹き込まれ、更にそれを愛行によって実践するとき真理が生動するものとなるのです。>>
とご教示いただいている愛行を、新たな場で、全生命をかけて実践して行きます。≫

 と。

 その12月が、残りすところあと一日の三十日(みそか) となりました。晦日(みそか)は月末の意味として使われ、12月は31日を 「大みそか」 と言いますが、もとは三十日を 「みそか」 と読んだのだということです。

 太陰暦(「太陰」は天体の月の意味で、月の満ち欠けの周期を一ヵ月とする暦法)では、一ヵ月は三十日と決まっていたから、月末が三十日(みそか)だったんですね。

 「みそか」(三十日)は、「つごもり」 とも言う。それは、「月ごもり」(月がこもる、見えなくなる)ということから来ています。月が地球の影に入って、見えなくなるのが三十日。一日にもまだほとんど見えなく、三日ごろには利鎌のような細い月が見えてくる、それが三日月(みかづき)。月なかばの十五日ごろ、月はまん丸の満月となる、それが十五夜。

 それは、余談でした。

 さて、今月初めに私が

 「12月を区切りとして、この掲示板から退場させて頂き、来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、私の生命表現、使命実現をして行きたい」

 と申し上げたときに、私が考えていたのは、1月から私の実名を前面に出したホームページ(ウェブサイト)を作ろうと考えていたんです。

 しかし、今月は忙しくてウェブサイト作成の準備は進んでいなくて、1月1日から公開したいと考えていたのは、延期せざるを得ない状況です。

 また、実名を前面に出して――ということも考え直して、まずは 「復興Gのウェブサイト」 としてスタートする、というように、計画変更します。

 私は、このweb誌友会板で20回にわたり、研鑽させていただき、とてもとても大きな収穫を得ることができたと申しましょうか、自分の信仰を確実なものとし、魂の生長をとげることもできたと、本当に感謝しています。

 この場を設けて、日夜、心の安まるいとまもないほど大変なご心労もあったのではないかと思われるような運営管理をしていただき、無料開放してくださったトキ様、本当にありがとうございます。

 この場に出て、真心を尽くして発言し、共に研鑽に励んで下さった皆々様、ありがとうございます。

<つづきます>

3593復興G:2013/12/30(月) 12:17:27 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 思えば、このweb誌友会の指導者は神様でなくてはならない、私は無になって、神様から、またご参加の皆々さまからご指導を受けるのだ、という気持で臨んでまいりました。

 その結果、この場で私が書き込ませて頂いた言葉は、自分の言葉とは思えない、何者かに導かれて、すばらしい言葉がたくさん出てきたような気がします。それは、皆さまのご発言、問題提起ご質問などがきっかけになってのことでもありますが。

 たとえば、最近では、「愛行について」 ということで谷口雅春先生の特別御講話 「伝道とは愛の実践」 のお言葉が浮かんできたり、24日朝に 「顔を洗って出直して来い」 という声なき声が聞こえてきたような気がして、「黄金の薔薇」 の聖詩や 『愛と光との生活』 第1章の御講義が浮かんできたり、「孫子の兵法」―「尊師の平法」 が浮かんできたり――

 みな、何者かに導かれて自然に浮かんでくるといった感じで、自分でも感心しながら、それを深く学ばせて頂いているんです。

 そのようにして、直接には私の手を通して神様からいただいた、尊いお言葉が大分たまったように思います。

 その中には、まだ消化し切れていないと言いますか、自分の身についていないものがいっぱいあるような気がします。

 それで、来年に入ったら、しばらく、私は今までに戴いたそれらの神のみことばを、もう一度振り返って整理し、咀嚼し直したいと思います。

 それで、月初めに申し上げましたように、しばらくこの場から退場させて頂きたく、お願いを申し上げます。

 このweb誌友会でお出会いした皆さまは、ただならぬご縁があって、魂の響きが共鳴し合えた方たちであると思います。

 身分いやしき者様、曳馬野様も、もちろんそうです。

 ありがたく、限りない感謝と祝福の祈りを捧げます。

 さて、私はこれから、一応退場させていただいても、二度と出て来ないということではなくて、ときどき来させて頂きたく思います。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。

 午後からは、離れたところに住んでいる息子や孫たちもやってきますので、言葉足らずですが、皆さま、ご健康に、ますますお幸せ一杯の、良い新年をお迎えくださいますように、祈念申し上げます。

3594トキ:2013/12/30(月) 19:37:58 ID:rKKJiETs
復興G様

 web誌友会での素晴らしいご指導、ありがとうございました。また、たまにこちらにも
お越し下さるとの事で、とても安心しています。また、サイトやブログ等を作られた時には
こちらでお知らせ下されば幸いです。

 現在、教団内部では、なかなか復興G様のような碩学の講師の指導を受ける機会が減って
います。そのため、真面目に信仰を勉強をしたい人には残念な状況になっていると感じます。
この掲示板を見る人が、復興G様のご指導をご覧になられ、生長の家の信仰を深める契機に
なれば、管理人としても嬉しく思います。

 本年、復興G様から賜りましたご恩に深く感謝申し上げると共に、来年のご活躍を心から
お祈り申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3595ユタカ:2013/12/31(火) 09:34:12 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

ありがとうございました。 落ち着いたら?たまに顔を出してくださる事を心から嬉しく感謝申し上げます。

そして孫子の兵法など、正月明けたらプリントしてじっくり読みたいです。

有難うございます。 宇宙一杯ありがとうございます。 復興Gさま、大好きだよ!!

また、ここで会える日を楽しみにしています!!

復興Gさま、トキさま、みなさま、良いお年をお迎えください。
来年は午年です、皆さんの全てがウマくいきますように・・・

感謝、合掌 ありがとうございます。

3596復興G:2013/12/31(火) 21:24:10 ID:AB6RqYXc

>>3594 :トキさま

>>3595 :ユタカさま

ありがとうございます。

ユタカさまが、

>>来年は午年です、皆さんの全てがウマくいきますように・・・<<

 と書いて下さったので、干支(かんし、えと)について私が 『干支の活学』 という安岡正篤(まさひろ)先生の著書から学んだこと――それはとても示唆に富んだ興味深いものだと思いましたので、少しご披露して、新年を迎えるにあたっての最後のご挨拶を申し上げたいと思います。

 安岡正篤著 『干支の活学』 を読み返そうと開いて、まず最初に目に飛び込んできたのは、次の言葉です。

          ○

  いついかなる場合にも喜びの心を(『干支の活学』 p.31)

 先哲の教えに、「人間はいかなる場合にも喜神を含まなければならない」 ということがございます。「喜神」 とは 「喜ぶ心」 であります。言うまでもなく我々の心の働きにはいろいろあって、その最も奥深い本質的な心、これは神に通ずるが故に 「神」 と申すのであります。

 人間はいかなる境地にあっても、心の奥底に喜びの心を持たなければならぬ。これを展開しますと、感謝、あるいは報恩という気持になるでありましょう。新しい年を迎えて世界の国々を見渡した時、しみじみとこの日本の平和な新年に喜びを感ぜざるを得ないのであります。

          ○

 新年を迎えるにあたり、まず、この 「いついかなる場合にも喜びの心を」 ということを忘れずに、明るく前進いたしましょう。

 さて、来年は午(うま)年ということはよく言われますが、干支(干支――十干・十二支)と言うのは本来、生命あるいはエネルギーの生長変化の過程を系統的に分類したもので、干(かん)が幹(かん、みき)、支(し)は枝(し、えだ)であると言われます。

 来年は、「甲午(こうご、きのえ・うま)の年です。

 『干支の活学』 には、いろいろな干支の年について、その干支の意味を説いてありますが、「甲午」 の年については出ていません。それで、この本に出ている甲寅(こうえん、きのえ・とら)昭和四十九年の意味解説と、丙午(へいご、ひのえ・うま)昭和四十一年の意味解説の文章から、学んでみましょう。

 まず、干の 「甲」 の意味を知るために、甲寅(こういん、きのえ・とら)昭和四十九年の意味解説から――。

<つづく>

3597復興G:2013/12/31(火) 21:24:57 ID:AB6RqYXc

<つづき>

≪安岡正篤著 『干支の活学』 より抜粋引用≫

   甲寅(こういん、きのえ・とら) 昭和四十九年

 惰性を排し協力して創造・建設すべき年

 甲寅の教訓

 新年は甲寅(こういん)である。「甲」 は 「かいわれ」、草木の鱗芽が外に発現する形象で、「はじめ」 を意味し、したがって 「はじまる」 とも訓む。

 人間のわがまま勝手な理屈にうんざりしている人たちは、当然古来の勝れた賢哲の教えに改めて心を傾けるか、それも実は肩が凝るという面々は民間伝承の優れた智恵の言葉というようなものに強い魅力を感じている。

 近年送歳迎春ごとに、私が干支というものの新しい意義と教訓とを解説したのも、そういう心理の動きを察してのことであったが、この頃特にその要請が顕著になってきたようである。

 新年甲寅の 「甲」 はかいわれで、要するに旧来の殻を破って、新しい創成を始めることであり、革新政治にもなると同時に、甲(こう)は狎(こう)に通じて、狎れあってしまう。「寅」 も本義は人が手を合わせて確約する象形で、進む意と共に、敬(つつし)む意を大切とする。その誼を共にするのが同寅(どういん)で、同寅は同僚のことである。同僚は互いに寅(つつ)しみ亮(たす)けあうべきものである。

 そこで甲寅の干支は、「旧来の惰性を排除し、協力一致して、大いに新しい創造・建設の活動を始めてゆかなけれぽならぬが、それだけに誤ると、その反作用.弊害もまた大きいから、十分考えて慎重にやってゆかなければならぬ」 ということを教えてくれておるわけであります。

          ○

   丙午(へいご、ひのえ・うま) 昭和四十一年

 丙午の真義

 去年の干 「乙」 は草木の芽が新しい陽気に逢うて古い殻を破って頭を出した甲(きのえ)が、外の寒気の抵抗のために真っ直ぐに伸びられなくて曲折している姿であり、支の 「巳」 は冬眠していた蛇が地上に出ようとしている象(かたち)である。そこで乙巳は旧体制を打破して新しい創造発展に努むべきことを意味する。

 丙は乙より進んで陽気の発展した象(かたち)。丙は炳(あきらか・つよし)を意味するが、文字の成り立ち=一・かこい・入(人)が示すように、一は陽気、次はかこい、物盛んなれば衰うる理で、陽気がすでに隠れ始めることを意味する。

 午の上の二画は古代文字では∧と書き、地表をあらわしている。その下の十の横一は陽気で、縦|は陰気が下から突き上げて地表に出ようとする象形文字。だから午(ご)は杵(ご)なりで、〈そむく〉〈さからう〉という意味になる。即ち、反対勢力の高まりを示す。

 そこで丙午は、旧来の代表勢力がすでに極に達して反面にこれに対する反対勢力の突き上げに遭う象(かたち)である。これをどう処理するかによって、運命が一変してくる。

 和を以て相欺く

 人間何か真剣な問題に逢うと、古人が体験より発した言葉に改めて感を深うする。漢の高祖を教えた陸賈(りくか)の書といわれる「新語」を先日耽読しているうち、

 「君子は義を以て相褒め、小人は和を以て相欺く」

 という語にいたく打たれた。特に 「和を以て相欺く」 とはまさに今日の世界情勢にぴったりではないか。外国でも日本国内でも、平和と友好は合言葉のようになっている。しかしどこにまことの平和や友好があるのか。特に共産陣営では、平和は敵を攻撃する楯、自己陣営を誇示する旗幟(きし、はたじるし)に用いられ、友好親善は相手国を安心させるための謀略奸計の偽装にほかならない。まさに和を以て相欺くものである。

<つづく>

3598復興G:2013/12/31(火) 21:25:48 ID:AB6RqYXc

<つづき>

≪安岡正篤著 『干支の活学』 より抜粋引用≫

 そもそもなぜ馬をこの午に当てはめたかと申しますと、これもなかなか考えたものでありまして、ご承知のように馬というものは実によく相手を知っておる。騎手がよいときわめておとなしい馬も、一度人間を馬鹿にしたり、反感を持ったりすると、たちまち蹴ったり、振り落としたりして、いっこう言うことを聞かない。そういうところから馬を当てはめたのでありましょうが、日本もこれらの荒馬を乗り損ねたら本当にたいへんです。

 国家・国民という立場から言って、かりに彼ら共産勢力が政治を支配して、従来の保守勢力がすっかり衰退するということになると、日本は従来の歴史とは違った大きな社会変化を生ずる。最悪の場合には歴史的・伝統的な日本に終止符をうつことになる。だから、どちらでもよいと腕組みをしているわけにはまいらぬ丙午であります。

 しかしもっとよく観察すると、国家・国民にとって希望を持つことのできる、賀すべき反対勢力も目に映る。例えぽ自民党の中にも、「従来のような自民党ではもうだめだ、ここまでくれば思い切って改革しなければならん、場合によっては分裂も可なり、我々の手で新保守党をつくろう」 というような突き上げもあるわけであります。

 また、もっと歴史や伝統をたずねよう、立派な人に学ぼうというような、在来のジャーナリズムから言うならば反対の現象が勃然として興ってきた。こういうものをうんと持ち上げて、これに時を得させて、なんとかして代表勢力・支配勢力に育ててゆけば、日本は望ましい変革ができるのであります。

 そういう複雑な現象が丙午の中に含まれておる。これをどう処理するか、またどうしてこの機運を来年に発展させるか。こういうことが今年の干支より見た日本の重大な意義であり、また使命でもあります。

 したがって今年は本当に重大な時機であります。しかし今日の世の中はもはや一政府、一内閣・一政党の力ではどうすることもできるものではない。国民のあらゆる指導層の人々が真剣になって、新しい機運を盛り上げてゆくほかにはないのであります。みなさんもそこに活眼を開かれて、この丙午の年の真実の意義をよく認識して、遺憾なく達成していただくように深刻に望まれるゆえんであります。

          ○

 以上で、安岡正篤著 『干支の活学』 からの抜粋引用文を終わります。

 来年は、「甲午(こうご、きのえ・うま)の年です。

 「甲」 はかいわれで、旧来の殻を破って、新しい創成を始める意。

 午の上の二画は地表をあらわし、その下の十の横一は陽気で、縦|は陰気が下から突き上げて地表に出ようとする象形文字。だから午(ご)は杵(ご)なりで、〈そむく〉〈さからう〉という意味になる。即ち、反対勢力の高まりを示す。

 「旧来の代表勢力がすでに極に達して反面にこれに対する反対勢力の突き上げに遭う象(かたち)である。これをどう処理するかによって、運命が一変してくる」 と言われているのです。

 重大な年になるかも知れません。

 でも、それはより一層すばらしい神の国のすがたが顕現する過程であって、必ず神の御心にしたがい、万物調和の地上天国があらわれてくると信じます。


 まもなく、平成25年が過ぎ去って、新しい平成26年、2014年を迎えます。

 このweb誌友会、またこの掲示板に書き込まれたことのあるすべての皆さま、また、書き込みはしなくても、ご覧くださっていたすべての方々に、特に神様の限りない祝福が天降り、新しい年が、喜びに満ちあふれた、素晴らしい良い年になりますことを、お祈りさせていただきます。

 皆々さま、ありがとうございます!

3599復興G:2013/12/31(火) 23:36:28 ID:AB6RqYXc

上記の、安岡正篤先生の時局についてのコメントは、国家問題についておっしゃっているのですが、

私が 「重大な年になるかも知れません」 と書いたのは、生長の家教団に関しての事です。

何があっても、必ずもっと善くなる過程であると信じて、喜ぶことを忘れずに、愛行に邁進しましょう。

3600rei:2013/12/31(火) 23:47:50 ID:ZIftZ1jM
合掌

本当にありがとうございました。

3601a hope:2014/01/06(月) 20:09:45 ID:/9IAdiFk

みなさま 新年 あけましておめでとうございます!

暮れから家族で旅行をしたり、親戚が次々に訪ねてきたりでなかなか掲示板を拝見できませんでした。

復興Gさまは、今年も時々書き込みを続けてくださるようでとてもうれしいです。

ところで、今月のテキストの範囲は、「生命の實相」第8巻 観行篇 ですね。

わたしは、以前、ニューバージョンの「四無量心を行ずる神想観」が自分の波長に合わず、
神想観していても集中できす精神不安に陥りました。
以後、怖くて神想観ができない状態でしたが、本流宣言の掲示板で山科さまにご指導いただき、
この第8巻を拝読しなおすことで、また、素晴らしい神想観ができるようになったのでした。

ですから、この 第8巻はわたしにとってとても重要な意味がある聖典なのです。

この機会に、また、しっかりと拝読しなおしてお勉強したいです。

みなさまも、是非 このweb誌友会板で第8巻に関することや、生長の家の勧行(神想観・静的工夫)
についての体験談などありましたら書き込みしてくださいね。

トキさま、復興Gさま、みなさま、a hope はこれからもこちらでお勉強を続けさせていただきますので、
ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

今年も、素晴らしい「生長の家」のみなさまと、素晴らしい「生長の家の教え」を、
このトキ掲示板でお勉強できて a hope は最高に幸せです!

3602a hope:2014/01/06(月) 20:10:40 ID:/9IAdiFk

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第21回 web誌友会

期間  1月1日〜1月31日まで
テキスト 「生命の實相」第8巻 観行篇

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3603復興G:2014/01/07(火) 10:52:47 ID:AB6RqYXc

あけましておめでとうございます。

生きとし生けるものを生かし給える御祖神
元津霊ゆ幸え給え。

吾が生くるは吾が力ならず
天地を貫きて生くる祖神の生命。

吾が業は吾が為すにあらず
天地を貫きて生くる祖神の権能。

天地の祖神の道を伝えんと顕れましし
生長の家大神守りませ。


天地一切のもの、自分の力で生きているものは一つもないのだ。

すべては大生命のお力で生かされていらっしゃるのだ。

ああ、神の創り給いし実相世界の妙なるかな。

神の無限の智慧に満たされてあるかな。

神の無限の愛に満たされてあるかな。

神の無限の生命に満たされてあるかな。

神の無限の供給に満たされてあるかな。

神の無限の喜び智慧に満たされてあるかな。

神の無限の調和に満たされてあるかな。

ありがとうございます。ありがとうございます。

今年がまた神の生命の歓喜の爆発として、いっそうよろこびに満ちた佳き年でありますことを感謝し奉ります。

ありがとうございます。ありがとうございます。

3604志恩:2014/01/07(火) 11:02:40 ID:.QY5jUA6
復興G様、ahope様

あけましておめでとうございます。

復興G様、まだ、引っ込まないで下さいませよ。
まだまだ、ここの掲示板での重要なお役目がございますから、
引っ込まれたら、困ります。

私では、ろくなことがいえないし、七十路婆って、ばかにされて、踏みにじられて終わりそうなんです。

3605志恩:2014/01/07(火) 11:08:16 ID:.QY5jUA6
身分いやしきもの様が、復興G様宛に語りかけているスレを再掲します。

本流対策室板
5402 :身分いやしきもの:2014/01/06(月) 12:48:34 ID:iei0MD3c
あんふらまんすに触れるもの様

すでに去られたようでありますが、つづきを書きます。

復興Gさまが、「時間、空間は愛を行ずる場だ」といわれましたが、これは当然のことです。箱のなかの世界は「〜をなすため」の世界なのですから。

箱の外の世界は、竜が飛びまわる奇怪な世界です。なにかをなせるような場所ではありません。なにかをなすには、箱をつくってひきこもるしかなかったのです。

箱が言葉でできていることからもわかるように、言葉のカベは竜から身を守るための防護壁のようなものです。カベで身を守ることで、
わたしたちは安心してなにかをなせる空間を形づくっているのです。

それでも安心は禁物です。無意識が外の世界とつながっているからです。そのために、わたしたちは侵入してくる竜にたえずおびやかされつづけています。しかしここでも言葉が竜の侵入をふせいでくれています。

ラカンのいう「無意識は言語のように構造化されている」とは、無意識の世界でも言葉が竜の侵入をふせいでくれているということをいっているのです。

それでも竜は、無意識をとおして侵入してきます。ジジェクのいう「無意識は外傷的な真理が声を発する場所なのである」とは、竜の侵入を「外傷的な真理の声」と言い換えたものです。

竜ははたして真理なのでしょうか。もしそうであれば、ジジェクのいう「そこで私を待っているものは、私が同一化しなければならない深い真理ではなく、私が共生することを学ばなければならない堪えがたい真理なのだ」の意味がわかる気がいたします。

そんなジジェクがこんなことをいっています。

○ラカンにとって、精神分析のいちばんの基本は、心の病を治療する理論と技法ではなく、個人を人間存在の最も根源的な次元と対決させる理論と実践である。

箱のなかの世界はなにかをなすためにつくられた世界です。そのために、心を病んだ人の社会適応とは、人並みになにかができる状態に戻してやることだと考えられがちですが、ジジェクによると、ラカンの考え方はそれとはちがっているようです。

「人間存在の最も根源的な次元」とはなんなのでしょう。それはたぶん「堪えがたい真理」の次元なのです。その次元にふれた人が心を病むのです。宗教的救済とは、心を病んだ人からその病いをとりのぞくことなのでしょう。しかしそれは、その人がふれている「人間存在の最も根源的な次元」からその人を引き離すことでもあるのです。

ラカンは、臨床の経験から「神経症、精神病、倒錯といった病理的な形成物は、現実に対する根本的に哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている」と考えていたようです。

竜はなにを告げたくて侵入をくり返すのでしょう。竜に侵入された人は、なぜ哲学的な威厳をそなえた病理を形成するのでしょう。愛を行ずるとはどういうことなのでしょう。幸福な人生を約束する同一化すべき深い真理を伝授することなのでしょうか。人々とともに、哲学的な威厳をそなえた堪えがたい真理を生きることなのでしょうか。

同一化すべき深い真理が言葉によって執拗に語られつづけるのは、それがたぶん竜の侵入をふせぐためになくてはならぬ防御壁であるからなのです。

3606a hope:2014/01/08(水) 08:33:57 ID:/9IAdiFk
>>3603 復興Gさま 

すばらしいお祈りの言葉をありがとうございます。
「生長の家の教え」に出会えたことに、聖典「生命の實相」がお勉強できることに、
わたしは今、感謝の気持ちでいっぱいです。

>>3604 志恩さま

あけましておめでとうございます。

わたしは、ずっと前から、志恩さまのことを心から尊敬させていただいています。
エネルギッシュで、ユーモアがあって、優しくて、人をそらさず、そして、ご自分にとても正直に飾らず生きていらっしゃる。
わたしは志恩さまのことは掲示板上でしか知りませんが、実際にお会いしても人間的にとても魅力のある女性なのではないかと拝察しています。

この掲示板の書き込みの全てを拝見してはいませんが、志恩さまのご活躍は素晴らしいと感じています。

志恩さま、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

3607a hope:2014/01/08(水) 08:35:26 ID:/9IAdiFk
みなさま

わたしは、子どものころから「何か」を求めて生きていました。
その「何か」はいくら考えてもわからないので、かなり滅茶苦茶にいろんなことを経験して生きてきました。
一般的にみれば、いい経験も、悪い経験もたくさんあります(笑)

ですが、今、そのすべての経験が生かされているような気がしています。

わたしがこの人生をかけてすべきことは「学びつづけること、真理を求めつづけること、自分の魂を限りなく向上させること」です。

そしてわたしにとって、その完全な「手引き」になってくれるのが「生長の家の教え」であり、聖典「生命の實相」なのです。

その「手引き」さえあれば、どんな困難な状況になっても、神さまに護られているという実感を持てそうな気がしています。
そして、周りの人たちもみな、すべての人たちが、神さまに護られているのだと思えるようにもなってきています。

お金でも名誉でもない、この「絶対的な心の平安」こそ、わたしが子どものころから求めていたものなのかもしれません。

みなさんの人生の目的は何ですか?

3608志恩:2014/01/08(水) 11:19:47 ID:.QY5jUA6
a hope様

お優しいお言葉をかけて下さって、ありがとうございます。
私も、a hope様のこと尊敬しています。

復興G様は、ここから完全に消えられたのではなく、また、時折、いらして下さるそうですし、
今年から、何か新しいことをお始めになられるということで、期待したいですね。

頼もしき ユタカ様もいらっしゃるので、今度は、ユタカ様とahope様に、教わりたいです。

a hope様が言われた
「お金でも名誉でもない、この「絶対的な心の平安」こそ、わたしが求めていたものなんです。」

これが真理を学ぶ、根本的な事であり、目的であるように、私も思っています。

頭で知っていたり、頭で理解したようにみえましても、つぎからつぎへと、問題は、どなたにも
発生するもので、日常生活そのものが、練成道場ですから、周囲の人たちは、皆、先生であり….、

そのような気持ちで、吾々は、日々、新たに生まれながらの、気付きの連続で、感謝し直す
連続で生きているのだと 私の場合は、思っています。

自分のことは計算にいれずに、相手の気持ちになっていきていれば、例え喧嘩しても、
心は通じ合えるものと信じています。

家族や友人、知人との関係はそれで通じ合えてきましたが、
掲示板は、顔が見えない世界ですから、言葉だけですので、誤解されることも多く、難しい世界ですね。

お互いが、研鑽し合いながらの人生ですよね。

ことしもよろしくお願いします。

3609あさひ:2014/01/08(水) 15:34:05 ID:u9w/1zYY
皆様 あけましておめでとうございます。

よろしくお願いします。

3610トキ:2014/01/08(水) 17:50:23 ID:kBX.JSV.
復興G様、a hope様、あさひ様

 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3611a hope:2014/01/13(月) 19:34:30 ID:/9IAdiFk
>>3608 志恩さま

もったいないお言葉をありがとうございます。合掌。

そして、志恩さまのご発言

<<頭で知っていたり、頭で理解したようにみえましても、つぎからつぎへと、問題は、どなたにも
発生するもので、日常生活そのものが、練成道場ですから、周囲の人たちは、皆、先生であり….、

そのような気持ちで、吾々は、日々、新たに生まれながらの、気付きの連続で、感謝し直す
連続で生きているのだと 私の場合は、思っています。>>

に同意させていただきます。

第8巻のP15にこのような文章が紹介されていました(わたしは赤線が引いてありました!)


>>○どんな苦労があっても、因縁によって世話させて頂いていると思えばありがたいばかりの一筋である。
人間は他(ひと)のために苦労させられているのではなく、自分の魂を高めあげ、
浄め上げるための修行として苦労を恵まれているのである。
学校は先生のために勉強するのではなく、生徒自身の向上のために勉強するのである。
人生は魂の勉強をする学校である。
苦労は教科書であり、苦労させて下さる人は皆自分の先生である。
われわれは苦労させて下さる人に感謝して拝まなければならない。
これが解ったら世の中にありがたくないものは一つもないのである。
これが解ったら人生は幸福なばかりである。
豚なら幸福とは快楽のことだと思っているかも知れぬが、
本当の人間は苦労の中に喜べるものである。(月刊『生長の家』の巻頭言より)<<



一見、この「人生は学校、周りの人はみな先生」という真理は、因縁について書かれているので、
これは生長の家の横の真理、つまりは「心の法則(三界所現)」の真理であって、
唯神実相とは関係ないようにも感じてしまいますが、
最後の一文
『豚なら幸福とは快楽のことだと思っているかも知れぬが、本当の人間は苦労の中に喜べるものである。』
という文章まで拝読すると、やはり、「唯神実相の真理」なのではないかとわたしは感じています。

「本当の人間は神である」つまりは、「唯神実相の真理」を大悟するために、
すべての苦労(と思える事柄)がわたしたちの目の前につぎつぎに現れてくるのですね。

そして、大嫌いな、どうしても許せない人こそ本当は大先生であり、大観世音菩薩さまということになりますね。

その人に心から感謝できた時、因縁を超越して魂が向上し、すべてがうまくいくようになるのだと思います。

それを悟ることができるのが、人間が神の子である証拠で、他の動物と決定的に違うところなのだと思いました。

3612志恩:2014/01/14(火) 04:37:47 ID:.QY5jUA6
a hope様

a hope様ー
>>一見、この「人生は学校、周りの人はみな先生」という真理は、因縁について書かれているので、
これは生長の家の横の真理、つまりは「心の法則(三界所現)」の真理であって、
唯神実相とは関係ないようにも感じてしまいますが、
最後の一文
『豚なら幸福とは快楽のことだと思っているかも知れぬが、本当の人間は苦労の中に喜べるものである。』
という文章まで拝読すると、やはり、「唯神実相の真理」なのではないかとわたしは感じています。

「本当の人間は神である」つまりは、「唯神実相の真理」を大悟するために、
すべての苦労(と思える事柄)がわたしたちの目の前につぎつぎに現れてくるのですね。

そして、大嫌いな、どうしても許せない人こそ本当は大先生であり、大観世音菩薩さまということになりますね。

その人に心から感謝できた時、因縁を超越して魂が向上し、すべてがうまくいくようになるのだと思います。
それを悟ることができるのが、人間が神の子である証拠で、他の動物と決定的に違うところなのだと思いました。 <<

志恩ー
>>大嫌いな、どうしても許せない人こそ本当は大先生であり、大観世音菩薩さまということになりますね。<<

もしも、雅宣総裁のことを指して、大観世音菩薩だと思いなさいと、おっしゃっておられるのでしたら、
私の場合は、個人・雅宣さんのことは、嫌いじゃないので、(数々のとんでもない「行為」については、激怒していますが)
なんとも言えません。

これは、個人的問題に対して、とか、ご自分に向かってなら、差し障りありませんけれど、


掲示板で書き込まれますと、本流の皆様に対して、
雅宣総裁は、大観世音菩薩だから、感謝しなさい、と言ってるみたいに聞こえますから。

相手が教団とか公人に対して、本流の方々は、自分のために戦っているわけではないのですから、
今の未解決の時点で、使わないほうが、無難だと思います。

3613a hope:2014/01/14(火) 08:47:37 ID:/9IAdiFk
>>3612志恩さま 

たしかにわたしは志恩さまのおっしゃるとおり、
雅宣先生は生長の家の信徒にとって大観世音菩薩様だと思っています。
それは、このweb誌友会板で何度も発言してきました。

そして、志恩さまが雅宣先生のことを愛していらっしゃるのも充分わかっています。

わたしは、真理の勉強をしている上で、虚説(間違った教えや、間違った態度)を赦してしまうことは致命傷だと思っています。

それが、臨済宗の開祖・臨済のことば

「道で、仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。
父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」

の本当の意味なのではないかと感じています。

「殺せ」とはずいぶん物騒な言い方ですが、意味は『「虚説」に和解するな』と同じなのだと思います。


だから、全てが自分の内面の問題で、志恩さまが、

<<掲示板で書き込まれますと、本流の皆様に対して、
雅宣総裁は、大観世音菩薩だから、感謝しなさい、と言ってるみたいに聞こえますから。
相手が教団とか公人に対して、本流の方々は、自分のために戦っているわけではないのですから、
今の未解決の時点で、使わないほうが、無難だと思います。 >>

とおっしゃるような、おこがましい気持ちは少しもありません。
本流の先輩方も、志恩さまも、トキさまも復興Gさまも、皆さま、「今の教団の教え」の「虚説」に和解しないために、
戦われているのだと拝察しています。

3614ユタカ:2014/01/14(火) 08:52:13 ID:2W0UDPHA
おはようございます。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

私は、今月は2日、と12日がお休みで後全部仕事に出ていたので、本が読めていません。次に3日連続休みをとったのですが、練成会の当番月なので、なかなか纏まった時間がとれなくてごめんなさい。

a hopeさまはここで、本流の話や、神様以外の話には参加されないと宣言されていっしゃいますし、一貫してそのようにされていらっしゃいますから、
a hopeさまの観世音菩薩さまのお話は、教団や本流などとは全く関係の無いものと思われます。

ここは、本当に純粋に真理をお勉強する人のためのWEB誌友会板とお考え下さい。

a hopeさま、ユタカも本を読まないと!! 読んで投稿しに参りますね!!

a hopeさま、今年もコーラスをがんばってくださいね。歌が上手な人って劇を見ているみたいに歌われるのですね!

3615ユタカ:2014/01/14(火) 08:58:52 ID:2W0UDPHA
あれ?ユタカのIDがまた変わっているな・・・

3616a hope:2014/01/14(火) 09:10:28 ID:/9IAdiFk
ユタカさま!

おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ユタカさまの書き込みを拝見してホッとしました。

仕事を始めてからコーラスの練習も休みがちになってしまいましたが、
今年は時間をつけて参加していきたいと思っています。

今年は、生長の家の聖歌も歌いたいな〜

それでは、仕事に行ってきます。

3617志恩:2014/01/15(水) 06:41:28 ID:.QY5jUA6
a hope様

昨朝は、せっかく、お声をかけて下さいましたのに、反論するようなコメントしてしまいまして、ごめんなさい。
a hope様のお気持ちは、よくわからせて頂いておりますのに、きつい事、言って。

実は、昨日の、1/14という日は、
朝から、原宿本部会館が、解体される予定日で…。

私も、「さあ、今朝から、いよいよ、本部は解体されるのか(泣)と、すごく悲しい気持ちでおりました。

そのタイミングのとき、私におっしゃったので。

>>大嫌いな、どうしても許せない人こそ、本当は大先生であり、大観世音菩薩さまということになりますよね。<<

と、a hope様が、おっしゃったので、

そのことは、私も、復興G様からも、度々、教えていただいております事ですから、その通りだと思っている事ですし、
他の方々だって、私だって、言ったことがある言葉なのですが、

この朝の、このタイミングのときに、私に、言うなよ,,,…(泣)と、思ったのです。

同じ事を、
昨朝、私にではなく、a hope様が ユタカ様あてに、おっしゃったのでしたら、
内容としては、正しいことをおっしゃっているので、私は、ノーコメントであったと思います。

掲示板は、言葉だけを 書き込む世界ですので、お互いのニュアンスは、伝わりにくいところがありますが…
私は、a hope様もユタカ様も尊敬しているお仲間です。

今後とも、教えて頂きたいと思っております。よろしくお願いします。

3618 a hope:2014/01/21(火) 09:28:38 ID:/9IAdiFk

>>3617志恩さま

最近、色々忙しい上に、事情があってパソコンが思うように使えず、
なかなか書き込めずお返事が遅れすみません。
わたしの発言が、志恩さまを傷つけてしまったことを心からお詫びいたします。

ですが、わたしは真理のお勉強をしたいだけで、志恩さまはじめ本流の先輩方に対して
どうこうして欲しいという気持ちは少しもありません。

「すべての現象は自分の心の展開で、自分が変ればすべてが変わる。」わけですから、
自分にとって今大切なのは自分の魂を磨くことだと思っています

これからも、こちらでお勉強させていただきますので、よろしくお願いいたします。


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