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Web誌友会 板/2

3547復興G:2013/12/27(金) 11:39:50 ID:AB6RqYXc

>>3507 :曳馬野さん

>>3461で私が質問しました
>>禅では師なり古人の示しを弟子がそうであったと証明して法の継承がされています<<
>>その指し示す先にあるものに辿り着いた人が、禅にはいるが生長の家にいますか<< (<<3455)
と言われる禅の世界での 「証明」 について、具体的に教えて下さい。 <<
の質問に、まだお答えをいただいておりません。


 『神癒への道』 は、あなたに言われるまでもなく、私も「これだ!」 と何十回も読み、深く肝に銘じて、生き方の指針にし、実践しようとしているご本です。だから、同じことをさらにくわしく具体的に説かれている 「伝道とは愛の実践」 という御講話も繰り返し拝聴して、実践しています。(>>3522>>3523

 あなたが特に読めとおっしゃった 『神癒への道』 のp.107 には、次のようにありますね。

<< 本当を言えば、思念というような特殊な技術的なものが必要な訳ではないのである。思念者は決してだれも癒すのではないのである。すでにすべての人は癒されているのである。たれも 「病気の人も不幸の人もないのである。」 すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。ただ自分が彼を病気であり不幸であると 「観た」 のに過ぎないのである。

 「観] を変えることが必要である。思念者がなすべき役割は、ただ神の造りたまうた実在の完全円満であるととを観、それを不完全であり不健康であると観た間違いを懺悔し切り、無条件に実相の完全さの前に降伏することなのである。この懺悔が完全でないと存在を不完全であると云う観の幾分が残滓として残っていることになるから、実相の完全さがあらわれない恐れがあるのである。(後略) >>

 「『神癒への道』 を何十辺何百辺と読んで真理の実践者となれ」 というお言葉は、まずあなたご自身が実践して頂きたいです。

 つまり、

<< すでにすべての人(本流の人も)は癒されているのである。たれも 「病気の人も不幸の人もないのである。」 すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。ただ自分が彼(本流の人)を病気であり不幸であると 「観た」 のに過ぎないのである。>>

 と、その状態が実現するまで何十辺何百辺も祈ってから、他に言って頂きたいです。

 ですから、「『神癒への道』 を何十辺何百辺と読んで真理の実践者となれ」 というお言葉は、有り難く頂戴します。同時に、そのお言葉を、またそのままあなたにお返したいと思います。


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