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Web誌友会 板/2

3453神の子さん:2013/12/12(木) 22:10:23 ID:TUEhTkAQ

復興Gさん他拍手喝采の方へ

●「体よく逃げましたね」 という感じがします。

○やっと地が出て人間らしくていいです

● 曳馬野さんにお尋ねします。

あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか?

○疑問は有ります。禅では師なり古人の示しを弟子がそうであったと証明して法の継承がされています。それについて生長の家では【大日本神国観】で

説かれている実在について証明した弟子はいないと私は思っています。これが証明されなければ、その人にとっては単に信じていると云うだけで、

真実存在しているとは主張できない、つまり天皇信仰の正しさを主張出ないことになり、カルト的主張とみなされ生長の家存在に?マークが付きは

しませんか。

●私は、「人類最後の究極の教えである」 と谷口雅春先生がおっしゃっている生長の家の教えこそ、最高であると信じています

○ここなんですね、信じていると、説くところに至る、との違いがあるのです。

教えは神なるものが説いたものか否か、私は知らない。「絶対無」を説いている点では究極でありますが、その絶対無に至る方法に於いてはっきりしない、

あなたが60年にわたり神想観をしても、絶対無に至っていないことからも、簡単なことではないでしょう。

盤珪禅師は或る侍が「剣の達人があなたに切りかかれば避けることは出来ないでしょう」と云ったのに対して、打ってみなさいと云い、侍が一瞬躊躇

したとき、我既に打ったと云いました。坊さんが侍の剣には負けないと云ったのです。

それについて雅春先生は、昭和18年の生長の家誌5月号で、平法無敵流の極意について、「それは理論として面白いし、武道以外の日常生活では

自他一体が常勝の道であることが体得せられますが、剣を以て立会う武道では、どういう姿で現れてくるか想像が付かなかったのでありますが…」

と書かれ、その時点では武道での自他一体の行動はとれていないことを表明されています。これは「私もこの教えで修行中です。」と云われていたことを

裏付けていると思います。ですから「実相の大地に降り立ったのである」と云われた心境が如何ほどのものであるかは判りません。

青年会全国大会で神想観の実習の際に、先生の座られた時にマイクの高さの調節を青年局員がしたところ、「僕がするからいい」と声を荒げた時が

ありました。黙って自分の好みで再調整するのが普通でしょう、然るに相手の行動に声を荒げられたのです。

また雅宣先生が皆さんの云うような人であるとするならば、そのような人しか育てられなかった清超先生は師と呼ぶに値しないと云わなくてはなりません、

そしてそのような清超先生と云う弟子しか育てられなかった雅春先生は師と呼ぶに値しないと云わざるを得ません。つづく


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