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3586曳馬野:2013/12/29(日) 17:18:59 ID:xR0RYWLc
「道の師」との出会い

特筆すべきは、「道の師」と鉄舟が呼んだ山岡静山との出会いである。静山について鉄舟がどのように感じて師事していたかを、静山が二十七歳で急逝した後に
鉄舟がしたためた一文から窺うことが出来る。

「そもそも静山の槍法に絶妙なることは海内無双にして、何人も称する所なり。而してまた内深く忠孝仁義の道に入念せらるる事、天下この人を凌ぐもの
また何人かある。けだし静山の技は、無我の真の発動なるべし。これ我の最も敬服する所なり。鉄太郎は剣法を修し、静山は槍法の達人なり。故に我静山の技に
対して師事するにはあらず、服する所はその心事の明鏡止水の如く、厚徳山の如きにあり。故に我その技の異なるにもかかわらず、しばしばその門に接して
教えを受く。」
(そもそも静山先生がやりの術に絶妙であるのは、日本随一であり、何人も称賛するところである。そして更に内面的には深く忠孝仁義という人の道に心血を
注いでおられることは、天下にこの人を凌ぐ者が何人あろうか。まさしく静山先生の技は、無我の真の発動であるに相違ない。これこそ私が最も敬服するところ
である。私鉄太郎は剣法を修行し、先生はやりの達人である。従って、私は先生の技に対して師事したのではない。敬服したのは、先生の心境が明鏡止水の如く
に一点の曇りも無く、徳の厚きこと山の如くであるからである。それ故、私は技が異なるにもかかわらず、しばしばその門に出入りして先生の教えを受けた
のである。)
(『鉄舟随感録』52頁)


また、師の静山の方も、常に人に語ってこう言っていた、「世間には青年が数多くいるものの、技芸に長ずれば真の勇気がなく、気概があれば技芸が拙く、
とかく困り者が多い中で、ただ小野鉄太郎だけはまことに鬼鉄のあだ名に恥じず、心根の寛厚な(度量が大きく手厚い)ことは、まるで菩薩の再来かと思われる
ほどの者であるから、彼の行く末は必ずや天下に名声をとどろかすものとなるであろう。頼もしいものだ」と。

「この弟子にしてこの師あり。この師にしてこの弟子あり」と言うべきか、何という高潔な素晴らしい師弟関係であろう。結局、静山の弟で同じく槍の達人で
あった高橋泥舟の懇請により、鉄舟は尊敬する師静山の跡を継いで、禄高がはるかに高い小野家の跡取りの身でありながら、静山の妹と結婚して小禄の山岡家を
相続することになるのである。この逸話もまた、一点の私心や打算を持たぬ鉄舟の無我至誠の人柄を如実に示している。

静山の妹のお英(ふさ)も、そうした鉄舟の風格にぞっこん惚れ込んで、「鉄太郎さんと結婚できなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。
鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それはお英にとって問題ではなかった。鉄舟の方も、「おれのようなものをそれほどまでに思って
くれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因である。

鉄舟は急逝した静山の死を悼んで景慕の情に堪えず、毎晩人知れず墓参したという。寺の和尚は大柄の鉄舟を怪物だと勘違いし、泥舟に伝えた。そこである日、
泥舟が窺っていると、雲行きがあやしくなり、ついにはものすごい雷雨となった。その時一人の大男が風雨をついて走ってきて、静山の墓前でうやうやしく
礼拝して羽織を脱いで墓にかけ、墓に向かってあたかも生きている人にものを言うかのように、「先生、鉄太郎がおそばにおりますから、どうぞご安心遊ばせ!」
と言いつつ、雷雨が過ぎるまでそのまま守護していた。これは静山が雷が苦手だったからである。物陰からこの様子を見ていた泥舟は、亡兄に対する鉄舟の
至誠心を目の当たりにして、感涙にむせんだという。

  つづく


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