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Web誌友会 板/2

3520復興G:2013/12/25(水) 11:13:13 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

>>3516で、≪ルルドの聖泉について≫ と区切りをつけたところの前に、次のようなご文章がありましたが、割愛していました。それも、追加させていただきます。

          ○

<< 『我(われ)』 とは本来罪なきものだと知らなければならない。これが生長の家の高調しているところの真理でありまして、『本来罪なき神のいのち』 が自分自身でありますから、その真理が悟られますと、苦悩の解放が行われ苦悩の表現である病気なども消えることがあり、業(ごう)とか因縁とか今まで犯していた過去のいろいろの罪悪感から解放されることになるのであります。

 『本来罪なきもの』 『神聖受胎』 が自分なのであります。『贖罪(しょくざい)の原理』 は外にあるのではなく、内部の 『本来罪なき神性、仏性』 それ自身が贖罪の原理なのであります。吾々のいのちは既に 『神聖』 であり、『仏性』 でありますから、もう既に贖(あがな)われて了(しま)っているのであります。自分自身が 『罪を消すところの原理』 そのもの――光が闇を消すように――すべての罪を破砕する原理なのであります、だから生長の家では 『本来罪はない』 というのであります。

 『罪はない』 と申しますと時々間違って、罪がないからどんな悪いことでもしたとて好(よ)いか――などと考える人があるのでありますけれどもこれは法律上の問題ではなく、宗教上の自覚の問題であります。『罪がない』 ということは、『罪を犯しても好い』 ということではないのであります。

 本当に 『罪がない』 ということが判れば、『無い』 ものはマイナスの値打しかないから、吾々の嗜欲(しよく)を誘惑する魅力を失ってしまうのであります。

 罪に惹(ひ)き付けられると云う人はまだ 『罪がある』 と思っている観念がどこかに残っているからであります。本当に罪がないということが分ったときには罪の行為などというものは心に思い浮ばない、思い浮ばなかったら自然とそれが形に現れない、現れなかったら、したいと思わないのであります。

 生長の家に来られまして 『本来罪なし』 の自覚を得られますと、自然に 『酒』 や 『煙草』 が嫌いになるというのは、罪の非存在を悟ることによって、罪がその誘惑力を失ってしまうからであります。
<つづきます>


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