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Web誌友会 板/2

3519復興G:2013/12/25(水) 11:12:23 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございます。

 昨夜謹写掲示させて頂きました 『愛と光との生活』 第一章より 「ルールドの聖泉」 についてのご文章、
>>3516と<<3517の間のご文章を <中略> としていましたが、その部分も大切なところであると思いますので、追加謹写させて頂きます。

 (注。ルールド=ルルド、ベルナルドネ(<<3515)=ベルナデット)

          ○

<< ルールドの聖地にはマリアの像を岩壁に彫刻してあるのですが、『我こそは無原罪の受胎である』 とこう仰しやったところの、その無原罪の受胎が顕現するための、罪を洗うところの象徴としてそこに聖泉が噴き出しているのでありまして、その中に 『罪あると思っている人』 が浸ると、『無原罪の受胎』――『神聖受胎』――人間本来の浄らかなるもの――病なきもの――が現れて病気が忽然と消えてしまうことになるのであろうと思われます。

 これはフランス・ルールドに於ける奇蹟の私の解釈でありますが、その病の治る原理は 『本来罪なきものの受胎』 でありますから、その神聖受胎はなるほど或る程度までこちらの波長が合わなかったら形に現れて来ないのであります。だから昨年ルールドへ行ったけれども治らなかったが今年行ったら ぽかっと一度に治った というようなことも起るのであります。

 ラジオの波長でもそんなものであります。波長を合わすと徐々に聴えて来るというよりも寧ろ同波長の圏内へぴたりと合ったとき聴えて来るのでありましょう。神様の救いも矢張りそういう式に、神様の救いはラジオの波と同じように宇宙一ぱい充満しておりますけれども 『おかげは我が心に在り』 で、こちらの心の波長が合って来たらパッと聴えて来るのであります。波長が合わなかったら徐々にも聴えて来はしないのであります。

 此の波長が合うのは 此方(こちら)にも神様と同じ波長があるからであります。神様の無原罪の原理が、此方へ感じて来て、こちらが 『罪なき者』 になる、『浄められた者』 になる。それは本来 『浄められた者』 がみんなに宿って居るからであります。それを自覚しまして旧(ふる)い 『汚れたる我』 はないと悟る、本当の自分は既に 『久遠劫以前から悟りを開いていたものだ』 と悟る、これが 『我の置換』 であり、生れかわりであります。

 自分は肉体にあらず、ヒトであると悟る、自分はヒトなんだということはヒトとは霊止(ヒト)である。つまり神聖受胎であります。イエス・キリストが 『汝らの中に罪なき者が一人いる』 と言ったと聖書にありますが、罪なき者が皆さんの中に、ひとりひとりの中に 『罪なき者』 が一人いるのであります。既に悪い癖もなければ、いろいろの因縁も業もない、始めから聖浄なる者が、貴方の中にいらっしゃるのであります。罪なきものが一人ずつ宿っている、それが皆さんである。

 罪なき者であったらどうして病気が起るか。そんな病気などというものは本当は無いのです。罪なき者に悪い性癖がどうして現れて来るか。そんなものはあるように見えてもないのであります。それだのに或る人は人間には病気がある、悪癖があると思っているのであります。ですから思うとおりに現れる。

 心に描くものは形に現れる。時間空間の世界に出ているものは皆自分の心の影であります。実相の完全な相(すがた)の上に一枚賦彩(ふさい=いろづけ)した――心で色づけたものであります。その奥には真物(ほんもの)の聖(とうと)い完全な相(すがた)があるのですけれども、心で色づけして、それを別の相のように見ている、――見えているのであります。

 芝居を観に行きますと、六十の老人が十七八歳に化けてしまったり、二十(はたち)位の役者が七十位のおじいさんに化けてしまったりするのですが、そういう風に表面を自分の心の波に依って色づけして、病気を表したり、悪癖を表したりして化けているのであります。病人も、悪癖も、みんなお化けであって、それは本物の上をどうらんで塗りつぶしてお化粧しているだけのことであります。>>

<つづきます>


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