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本流対策室/5

5070復興G:2013/12/22(日) 11:23:07 ID:AB6RqYXc

 ちょっとゆっくりさせて頂いていたら、ここはにぎやかになってますね。

 私は、身分いやしきもの様とのやりとりで、
 「言葉には意味がある。意味だけではなく、力がある。しかし、それは、一定の意味・力ではなく、それを使う・聞く 人によって、千差万別がある」
 ということが確認できたような気がします。

 私にとって、
 「時間・空間は、愛行の場であり、喜びを表現し、幸福を味わうことのできる場である」
 と自分では確認することができました。

 日野原重明さんは、「自分の時間を他のために使うことによって、自分の生命が輝く」

 と言っておられます。

 人によっては、時間・空間は自分の外にあって、自分はそこから抜け出すことができない、時空間に支配されているものだと感じられているかも知れないけれども、実は、そうではない。むしろ、自分が時間・空間を創りだし、支配しているのだと考えることができる。私は、そう考えます。

>>5052 :で身分いやしきもの様は、

>>今回の復興Gさまとのやりとりでは、予想外の成果がありました。雅春先生は、現象世界の映像はただの一者によってつくられている、といっておられたようです。現象世界の映像にたいするわたしの考えは、映像はひとりひとりがつくりだしているというものです。<<

 と書かれていますが、雅春先生は、現象世界の映像はただの一者によってつくられている、とは言っておられない。実相世界の映像はただ一者=本源の神によってつくられているけれども、現象界の映像はひとりひとりがつくりだしている、影のまぼろしのようなもので、「重複創造」 がなされている、と説かれている(『神 真理を告げ給う』 p.48)と思います。

>>時間、空間が認識の形式である、というのはいいでしょう。この認識の形式がただの一者によって最初につくられた、ということを雅春先生はいっておられるわけですね。その根拠として、そうでなければ認識の一致が説明できないといっておられるわけです。<<

 私は、時間・空間というのも、人によって捉え方が違うので、固定したものではない。「ただの一者」 というと、自分とは別の一者のように聞こえるけれども、そうではない。自分というのも、「ただの一者」 と一つのものである。

>>むしろ認識の形式はひとりひとりがつくりだしていると考えたほうが、簡単にすっきりとした形でよりよく説明できる気がいたします。<<

 とおっしゃる 身分いやしきもの様のお考えに同意いたします。




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