[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
1957
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:07:02 ID:R1D4Jmeg
訊け様
>雅宣総裁松模様2012年11月22日より >「天孫降臨皇御国」というのは日本国のことではなく、神の御心が十分に反映した平和な世界のことだと書いてあります。「天孫降臨皇御国」とは、現象的な日本国家のことではなく、世界平和が実現したさいの地球世界ということ、さらには地球を含んだ宇宙をも意味していると考えられます。
上記が現象の日本国のことではなくと言いながら、後半部分に自分の好きな「世界平和を持ち出して」持論の「世界の平和が実現したさいの地球世界」とハッキリ地球と現象世界を示している。現象の世界平和の話をしている。
これでは、谷口雅春先生と同じ思想とは言えない。 全く異質な独自の解釈と言える。
1958
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:21:20 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま ありがとうございます。
>>1956
元気一杯悦び一杯!! その場その場を喜んで今を生かして神の子を生きていこう!!
その事が、それぞれの組織活動を生かし、信仰生活の極意なのですね! と私は思わせていただきました。
復興G様の 若々しく力にあふれた言葉に元気をいただきました、有難うございます!!^^(合掌)
これからは、復興 若 様と呼ばせていただきましょうか?? とても嬉しくなってしまいました!!
1959
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:29:34 ID:R1D4Jmeg
復興G(若)さま
質問させていただきます、組織の中心者が神の御心から外れていた場合の運動の中で、その組織の末端の者が自我を滅して神の御心を祈り神に直結する時、その所属する組織と衝突などは起こってきませんか??
いかがでしょうか? 質問がおかしいでしょうか?
1960
:
復興G
:2013/06/12(水) 23:32:19 ID:AB6RqYXc
「今、起て!!」 について。
榎本恵吾先生は、『「発進宣言」拝誦』というご文章の中で、次のように書かれています。
○
<『生長の家』 創刊号 巻頭の言葉>
≪ 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。
友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらはれて覆没しやうとしてゐる小舟の如き観はないか。
自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れてゐたのだつた。一求道者としていつまでも謙遜でゐたかつた。併し今は謙遜でありたいと云ふことが自分にとつては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分はこの誘惑に打ち克って人類を救はねばならない。自分の有つてゐる限りの火で人類を救はねばならない。
自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さずにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覚悟して起ち上つた。見よ! 自分の身体が燃え尽すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。(後略)≫
尊師は、この文章のはじまる前のページのとびらともいうべきページに次ぎのように書いておられる。すなわち、
吾れを伸ばすものは、
絶えず与へてゐると云ふ感じ、
絶えず人から喜ばれてゐると云ふ感じ、
与へる歓びは自己拡大の感じ、
自己の愛が次第に拡がる感じ、
この感じのうちに生命は伸びて行く。
と。ここに尊師が“自分は幾度も躊躇した”と言われることの意味があるのである。つまり、光を受けるものから、光りを与えるものへの位置の転換ということである。照らされる自分から、照らす自分への転換であり、幽斎から顕斎への転換である。この度の住吉本宮の顕斎は、全信徒の“照らされる者から、照らす者へ”の自覚の転換である。信徒全員が“発進宣言”のいのちにたち還り、生長の火となって万物の前に起ったことを意味しているのである。
此の火は“天上から天降った生長の火”であって、人間の修業や過去の成績を因として因縁の流れによって生み出されるものではないのである。“自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ”といわれる。その「今」は「久遠の今」である。吾れといまと此処がピタリと一つになってしまっている、実相の火である。自分と今と生長の火がピタリと一つになっているところに忽然とわが内から放射する火なのである。それ故繰り返せば“自分はいま生長の火をかざして”とは自分と今と生長がひとつになった久遠の火ということである。これは絶対の生長、自からある生長である。
それ故、この火は久遠不滅の火なのである。“自分の身体が燃え尽すまで”とは、完全に実相の火のかがやきによって、肉体的存在(全現象界)を否定しつくすことを意味しているのである。却ってここに久遠の実相の火の顕斎がある。光明一元の世界。神が“光りあれ”といいたもうた光りとしての火一元・生長一元の世界が意味されているのである。(中略)
尊師がある書物で説かれているように“肉体なし”とは肉体から逃げるにあらず十方世界は吾が肉体なりと知ることである。ろうそくが燃えつきるとは、全宇宙が火であり、ろうそくであると知ることなのである。
ここで“起つ”と言われるのは、久遠の今なるいのちが起つこと、おのずから起つことを意味しているのである。
<つづく>
1961
:
復興G
:2013/06/12(水) 23:32:54 ID:AB6RqYXc
<つづき>
“今、起て!”との宣言は尊師には“「今」なる汝よ、起て!”ということであった。その天徠のコトバが自分のうちに復活して、尊師は起たれたのであった。それ故、その「今」にかえったとき、内から無限創造のいのちが動きだして起たざるを得なくなったのである。(中略)
――“友よ助けよ”――この場合、久遠の火なる尊師に呼びかけられる「友」なるものは、やはり「久遠の火」である。久遠のいのちが久遠のいのちに呼びかけているのである。観世音菩薩が観世音菩薩に呼びかけているのである。光明が光明に呼びかけている。光明の純粋持続である。尊師と吾れとの関係は光と光りの関係である。
――“人類は今危機に頻している。”――何故人類は危機に頻しているのであるか。それは“自分”が、全人類が久遠の如来そのものであり、このまま此処が天国であることを忘却しているからである。それでは、何故、さらに光明化運動を発進するか。矛盾ではないのか。ここが一番重要な問題となって来るのである。
何故、運動が必要であるのか。何故、立たざるを得なくなるのか。また、運動は如何にして可能であるのか。何者が運動をするのであるか。これらのことが常に重大な問題となるのである。
“中心者として立つ”ということは、頂点として起つということとは異っている。中心者とは宇宙の中心として起つことを意味しているのであって、神として起つこと、光りとして起っていることを意味しているのである。
ここに、謙遜と増上慢とを超えた一つの道、中心を生きる道がある。上と下とを超えたところの中心なるものの生きる道である。中心を生きるに非ず、中心なるものが生きるのである。(中略)
実相世界はわがいのちの展開である。神はわがいのちの展開である。如来はわがいのちより生れ出づるのである。すべての実在はわがいのちの展開なるが故に、われと実在との間には如何なるすき間もないのである。
そして実在の創造は忽然なるが故に時間もないのである。これを日無堅間の小舟に乗るというのである。自分が目無堅間なのである。自分のいのちの展開として目無堅間の小舟がある故に、小舟と自分との間には如何なるすき間も存在しないのである。
釈迦の拈華微笑。一つの蓮華をひねって迦葉につたえたいのちは、実にこの中心者としてのいのちの消息であり、わがいのちの消息であり、そのいのちの展開としての実在自己の展開した姿をつたえたのである。吾らは目無堅間の小舟に乗ってこの世に鳴り出でるのである。
これは、天皇の絶対性と自己の絶対性の同時成道の道である。それは、時間空間、上下左右、謙遜と増上慢を超えて中心に帰った道である。中心帰一とは中心に帰って中心と一つになることであり、自分のいのちが中心者として起つことなのである。
それは中心に帰る途中のプロセスを意味しているのではないのである。尊師が、中心者として起たれたのは、プロセスとしての中心帰一ではなく中心帰一の完成、完成の中心帰一、として完成者として起っておられることを意味するのである。
万教帰一というのも、すべてのものが一つの中心に帰るという永遠のプロセスを意味するのではないのである。いのちはすべてすでに帰一しているのである。帰一し、その中心から発しているものをいのちというのである。(中略)
これが“今”を生きるということである。これが幽斎から顕斎への転換である。住吉大神の全身全霊を生きるということである。この住吉大神の全身全霊なるいのちの輝きを生きるのが、祝福するのが神の子の自覚に点睛することである。火を点ずることである。
釈尊がお悟りになったときには山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道と万物を拝まれたのである。尊師が大啓示をお受けになられた後、庭の木の若葉にいのちの光が輝き、枝から枝に飛びうつる雀が金色に輝いて見えたといわれる。この万物が輝いているのを拝せられたのである。
それを“天地一切のものと和解せよ”のお言葉で歌われたのが大調和の神示である。
それは、自分のいのちが天地一切のものに和解するというよりも、むしろ、自分のいのちが天地万物から拝まれ感謝され、めでられていること、生かされていることの発見であったのではなかろうか。そのことを“わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神の力”と歌われているのである。そして、その喜びの極に歌い出されたのが「大調和の神示」であったのである。
1962
:
復興G
:2013/06/12(水) 23:46:33 ID:AB6RqYXc
>>1959
:ユタカ様
>>質問させていただきます、組織の中心者が神の御心から外れていた場合の運動の中で、その組織の末端の者が自我を滅して神の御心を祈り神に直結する時、その所属する組織と衝突などは起こってきませんか??
いかがでしょうか? <<
現象的には、「組織と衝突」のようなことが起こってくることは、ありますね。私も、経験があります。
しかし、私の場合は、不思議に、いつもなぜか「決定的な衝突」にはならず、私など、とっくに除名処分にされてもおかしくないようなことを言っていても、除名にもならず、元気に生き残っています。大丈夫です、神さまが守ってくれていますから。
ありがとうございます。
1963
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:49:07 ID:R1D4Jmeg
霊的理念の事を説明しているのを、「地球が平和になった状態」と現象に結び付けて話していると思います。
追加します。
1964
:
復興G
:2013/06/13(木) 00:05:12 ID:AB6RqYXc
トキ様。
トキ様のおかげで、意義あるweb誌友会ができました。
心から感謝いたします。
過分なお褒めのコメント、ありがとうございます。
「訊け」様、力を傾注しての司会、ありがとうございました。
香様
山本富士子様
うれしいコメント、本当にありがとうございました。
皆々様、ありがとうございました。
今夜は、安らかにおやすみください。
1965
:
ユタカ
:2013/06/13(木) 00:05:26 ID:R1D4Jmeg
訊け様
天皇制の樹立の件、笑ってしまいました。なるほど、そうですね。。。
雅宣総裁の文章を読むと疲れてしまい、復興Gさまで元気がでたり、また読み直して疲れたりと
ここの掲示板は本当に忙しい。
1966
:
志恩
:2013/06/13(木) 07:24:28 ID:.QY5jUA6
復興G様 はじめ、みなさまのご投稿文を拝見させて頂きまして、
ますますこの み教えの意義深さを感じました。
誠に ありがとうございました。
1967
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 07:50:48 ID:???
>>1946
復興Gさま
ありがとうございます。長時間に渡ってのご指導を、今回も賜りました。篤く御礼申し上げます。やはり、この誌友会に参加しますと御教えの偉大さを実感致します。「さて、ところで」なんですが冒頭にて、やや余談めいた話を掲載致します。・・・昨日はお客さんを訪問後、近くの「天岩戸神社」(宮崎県高千穂町)へ行って参りました。言うまでもなく此処は、あの、天照大御神が篭られたと伝えられる、あの天岩戸を祭った神社です。・・・・・長い話を割愛しますが、ここを参拝してから「ハッ!」と気づいた(もしくは「自覚できた」)件があります。あの聖域を拝みながら思ったことは、「やはり吾々は、天照大御神の御徳に拠って生かされているのだ」と云う、事でした。これがスーッと自覚出来ました。(上手く書けませんが、自覚できたのでした。あの聖域に足を踏み入れますと、私の様なトンデモナイ男でもそんな自覚に、到ることが出来ます。w余談終了)
さて、本題に移ります。
と申しましても、簡潔なものです。
この、貴ご投稿
>>1946
に同意致します。個人的に重要だと思われるため、以下、再度掲載させて頂きます。ちなみに以下御文章は、次の疑問文への回答として、復興Gさまがご投稿されたものです。そしてその疑問文とは、「総裁が悪だとしよう。ならば我々は、いかに行動すべきや」というものです。
皆さんで以下、拝読致したく再掲載致します。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
生長の家は、和解、大調和の教えである。
しかし、和解と妥協とは違うのである。
現象の悪と妥協してはならないのである。
妥協でない「和解」は如何にすれば可能か。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現象は如何にあろうとも、実相は永遠に光り輝いている。
現象に如何なる対立の関係があるように見えようとも、そんなものは、ナイのである。
それは、教団派も、本流派も、共に本来の「一」に立てばよいのである。
「無」に立てばよいのである。
「中(みなか)」に帰ればよいのである。
そのためには、『生命の實相』に還ればよいのである。
のである。
真に、谷口雅春先生を学べばよいのである。
其処は、既に一切が大調和している世界である。
「一」なる世界である。
神こそ渾ての渾て。現象はない。実相独在である。生長の家は、唯神実相を信ずるのである。
真の中心帰一とは、「中(みなか)」より出でて「中」に帰ることである。
生長の家の信仰は、実相独在・善一元の信仰である。すべては絶対無なる「中」のいのちから咲き出でた花である。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
重ねてでは御座いますが今回も、長時間に渡ってのご指導を賜りました。篤く御礼申し上げます。
拜
追伸
榎本惠吾先生の御文章も此処に、再度掲載致します。
○ 「どこの道場がよいのか?迷った際はどうするか?」(「研修のヒント」“はしがき”)
>>1947
>>1948
○ 「今起て!」に関する、榎本先生ご解釈
>>1960
>>1961
また、教団関連問題に関する復興Gさまご見解は、
○
>>1954
○
>>1956
1968
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 07:51:29 ID:???
>>ユタカさま
>>1944
投稿文は、その様な意味ではありません。雅春先生が天皇を否定している、そんな事を述べたのでは、ないのです。
主張は以下です。
雅宣総裁の御主張が一致(雅春先生と)する以上、その考えを「日本否定・天皇否定」とするのは無理がある、という事です。
この点を了解して頂ければ、以下の意味もお解りになるかもしれません。私は、「もしも雅宣総裁が〝反天皇〟ならば、雅春先生だって反天皇論者」という趣旨の文を投稿しましたが、意味するところは「一致している以上、雅宣総裁思想を〝反天皇〟とするのはオカシイ」と言うものです。
なお、参考までに以下の御文章も掲載しておきます。以下は言うまでもなく、現総裁の御文章です。ご確認されてみてください。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
『歴史から何を学ぶのか』62頁(『信仰による平和の道』210頁)より謹写――
(註:清超先生の御文章につづいて)ここには、どうやって神の国に近づいた国家をつくるかという方法論が書かれてあるのです。つまり「天皇国・日本」というのは、天皇のご生活 ―― これは、我々はいろいろな所で教わっていますが ―― 神意を第一として物事を行っていかれるという天皇の生き方、神意が中心となる生き方が、我々個人のレベルにもどんどん弘まっていくことによって、それが民主主義の国だったら、結果として、そういう神意を重んじる政治家が多く選ばれるようになるであろうし・・・(中略)・・・こういう文脈の中で、「天皇国・日本」は説かれているのです。
ですから、生長の家でいう「天皇国・日本」とは、大変深い意味での〝理想国家〟を指しているのです・・・(中略)・・・天皇の生き方を模範とし、神意を第一とする生き方が一人一人の国民の間に弘まっていき、外国においても、キリスト教の国ならば〝神の国〟や〝神の国の義〟を第一にする人々の数が増えていけば、そこには神意が現成した素晴らしい国家が建設されるだろうという意味であります。(後略:なお全文は上記ご著書でご確認ください)
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
拜
1969
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:11:17 ID:AB6RqYXc
皆さま、おはようございます。
昨夜 謹掲させて頂きました榎本先生の『「発進宣言」拝誦』に出てきます「久遠の今」について。
これは、司会者「訊け」管理人様が
>>1869
で紹介してくださった
・‥…━…‥・‥…━…‥・
○「久遠の今」
前編
http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
後編
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes
・‥…━…‥・‥…━…‥・
をご覧いただくと、わかりやすいと思います。
「今、起て!!」 の 「今」 は、この 「久遠の今」 でなければならない、ということであります。
なお、榎本恵吾先生の『「発進宣言」拝誦』は素晴らしいので、全文をご覧になりたい方は、「榎本恵吾記念館」サイト
http://homepage2.nifty.com/hanabira/
の 「文書館 5」 にアップされています。
昨夜の続きを、もう少し転写掲示させていただきましょう。
○
尊師はなぜ“われは起たざるを得なくなったのである”と言わざるを得なかったのであるか。これは“神はなぜ「光りあれ」と言わざるを得なくなったのであるか”ということと同じことである。それは神は光であるからである。光がみずから光りを表現したくなったのである。それは神以外の外部的状況によって “光あれ” と言わされたもうたのではないのである。神以外には神のわざを規定づけるなにものも存在しないのである。
また尊師がなぜ、“天地一切のものと和解せよ”と発せざるを得なくなったのであるか。
木の葉の一つ一つがかがやき、そこに雀がとびうつる。その雀も光りである。その金色の雀が「発進宣言」で“友よ、助けよ”と言われる友なのである。輝く木の葉が尊師の発せられる「聖典」の言葉なのである。
歴史に発展が無いごとく光明化には発展、進歩は無い。完全の持続があるのみなのである。
愛するのではなくどっぷりと愛の海につかり切って生かされ、あまえ切っているということである。こらえ我慢し合ったりするのではない。なんともいえない、ゆたかなよろこび、勝利の喜びのひびきが鳴りだしたのだ。尊師は、 “私は神に愛されつづけて来た” と言われたとのことである。このいぶきが光明化の運動方針となって輝くとき悩みや病をも癒すものとなるのである。それは山も川も木もうたいだす秘密である。
“友よたすけよ”の友の中には、あらゆる神々が入っているのである。だから、誰が来ても尊師は神として拝まれるのである。友よ、光なるものよ!。友は釈迦が言った成仏裡の存在なのである。(中略)
<つづく>
1970
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:12:02 ID:AB6RqYXc
<つづき>
“わが光りにふれよ”とは、『七つの燈台の点燈者の神示』の中の“疑わずにわが光を受けよ”ということにあたるのである。
そして、尊師の立たれたのと同じ“光”として立つことが、神の子の一人一人に出来るのであるということを宣言されたのが同じ神示の中の“今、すべての病人は立つことが出来るのである”という宣言となっているのである。
すべての病人である。神想観が足りないという病人も、愛行が足りないという病人も、「聖典」を読むことが足りないという病人もすべてのすべての病人が立つことが出来るのである。そのままで人類の“光”として立っているのであるということへの尊師の祝福のコトバなのである。
尊師が光りを点ずるとは、この人類の本当の姿を礼拝し祝福することにほかならないのである。たしか『美しき生活』の中で尊師は、“人間はそのまま現象をこえて神の子である”と『生命の實相』によってすべての人々を拝んだ、すると気がついてみると自分もすべての人々から拝まれていたのであるということをお書きになっている。
“ 神の子人間”の神とは何かにおいて、尊師は光のみの世界を発見されているのである。あとは、光りへの拝みと祝福あるのみなのである。
われわれは、宗教によって罪と病と死との三暗黒を消してから、光りとなるのではないのである。我というものを消してから光となるのではないのである。そんなものははじめから無いのである。そんなものを放っておいて、そのまま“神の子です”と光の中に飛び込んだときに、そのあとで、罪と病と死との三暗黒は消えるのである。
光りが近づくとき“罪と病と死”の三暗黒が消えるというときの、この光は、これから光となるべき、可能性をもつわれわれ人間を照して罪を浄めてそれからやっと自分が光となるというような意味での不完全な自分を照している光ではないのである。先ずわれわれが光の中に飛び込んだとき、“光”は自分と神との一体性から輝くところの自分の光りとなっているのである。先ず、自ら光りであると宣言し光として立つことからすべてがはじまるのである。
「人類光明化運動発進の宣言」の輝きを受ける全ての人々のために書かれているのが『七つの燈台の点燈者の神示』の中の “疑わずにわが光を受けよ” なのである。
そして今、人類光明化運動はやっと産ぶ声をあげたばかりである。宇宙にしてからが、いまやっと産ぶ声をあげたばかりなのである。(中略)
『ああ、人生は何という喜ばしさだ! 私は諸君と共に手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。』(『生命の實相』第一巻39頁)
という言葉で『生命の實相』の中での「七つの光明宣言」の解説は結ばれている。この喜びはどこから出て来ているのか。この喜びはどこからも出で来たらず。或る日、忽然として、久遠の今、今、ここに自分のいのちの中から出で来たるのである。光明化をやってからという、ある時間の後、ある空間的条件をととのえたときにという外の条件によらず、自ずから立っている喜びである。常立ちの、自ずから立っている喜びが火の正体なのである。喜びを得るために発進するのではなく、“喜び”なる主体が発進するのが光明化運動の発進である。
何故に天国を建設し得るのか。それは天国なるものが動くからである。天国が天国するのが天国建設の運動である。中心が中心するのが中心帰一であると言うのも同じ意味である。
ここには天国建設の途上における犠牲ということのない道が開かれている。『生命の實相』第三巻には次のように宣言されている。
すべての人間がこの生長の家の説く真理を悟るとき、人生には、誰も人生の弾丸(たま)にあたる者がなくなる、すなわち少しも犠牲なしに地上天国になるのであります。……如何なる混乱の巷にあつても、地上天国建設途上の人生の敵弾に倒された犠牲者とはならないのであります。(『生命の實相』第三巻95頁)
ここには尊師が犠牲的立場に立って人類光明化運動を発進せしめられたのではないことを説いておられるのである。神には対立者がなく犠牲がないからである。尊師の発見された神の光明というものをそのままに輝やかせているのが人類光明化運動であるからである。何故、犠牲ということが起らないのか、ということを明らめることは、尊師の発見された神というもの、生長の家というもの、そしてかかげられる真理というもの、そして何者が発進するのかということを明らめることと直通しているのである。
<つづく>
1971
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:12:49 ID:AB6RqYXc
<つづき>
絶対不敗の光明の進軍である。
幽の幽なる吾れ。光明化運動は何ものがやるかの問題である。“発心(ほつしん)(発進)正しからざれば万行むなしく施す”という道元のコトバがある。
状況の上に立って運動を展開すると、光明一元論を全力的にうち揮(ふる)えなくなる。“いくら光明一元でもそれを知る人の数がこれだけという状況では”ということになって、力を抜かれ、きばを抜かれてしまうのである。情熱が出なくなる。それはまた、尊師への堅信の喪失でもある。
中心帰一とは中心が一(はじめ)に帰ることなり。神想観とは神が想い観るなり。神想観をして神になるに非ず。仏行とは仏が行くことである。行をやって仏となるのではない。仏となるために行をするのではない。愛行とは愛が行くのである。行をやって愛となるのではないのである。愛(神)となるために行をするのではない。「われいま生長の火」とは神想観の“われ今”である。神想観の最初のわれ、今、ここである。五官の世界を去ってから久遠の今になるに非ず。われなる今なる自分が五官の世界を去るのである。五官の世界を吹き去るのである。(中略)
『今、たて!』とのコトバによって、尊師は仏として、光として、たたれたのである。しかし、この光りは暗を知らない光なのである。暗と相対するところの光ではないのである。“光は暗黒(くらき)に照る。しかして、暗黒(くらき)はこれを悟らざりき”である。そして、“光りもまた暗黒を知らざりき”である。光明一元である。
『甘露の法雨』に“暗(やみ)に対しては光りをもって相対せよ”とある。この光りは決して暗を知らない光りなのである。
尊師が大啓示をお受けになったあとのおそらくはじめてのおコトバであると思われるのが例の詩である。「天使の声」である。
“わたしの魂は虚空に透きとおって真理そのものと一つになった。”
“「お前は実在そのものだ!」”
というおコトバを書かれたときが、そもそもの光明化のはじまりである。これが生長の火が立ったときであったのである。これこそが初発の「発進宣言」であった。
人間を見抜くという。本当に人間を見抜いたならば神の子が見えるのである。世界を本当に見抜いたら極楽が見える。尊師が宇宙を見抜かれたとき、天地一切は大調和であったのである。
暗はないとは、そこにそのまま光が充満していることである。現象なしとは、光明遍照光明充満ということである。
「世界に非道が充ちてゐると云ふことは、歴史と同じやうにそれよりも更に古い文學さへも同じやうに、否あらゆる文學中の最も古きものなる祭司の宗教と同じやうに古い嘆(なげき)である」とカントは言つてゐる。けれども生長の家は世界には何ら非道なことは存在しないと言ふのである。それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少くとも存在する限りはそれは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するやうに見えようとも、それは、「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらはしてゐるに過ぎないとするのである。(…中略…)
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。これ第一にして最後の真理である。
(『光明道中記』244頁)
<つづく>
1972
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 08:13:26 ID:???
>>1966
志恩さま
ありがとうございます。貴女様曰く「ますますこの み教えの意義深さを感じました」とのことですが、他ご参加各位も同じ感想でありましょう。同意致します。
さて、ところで復興Gさまご投稿
>>1946
文ですが、どの様な感想をお持ちになられましたでしょうか。おそらくたぶん、復興Gさまもこの点に関し、貴女さまのご返信に期待しておられるものと察します。ですのでどうぞ、「み教えの意義深さを感じました」という現在のお気持ちから
>>1946
文、拝読されての感想を寄せられてください。宜しくお願い致します。
拜
1973
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:13:29 ID:AB6RqYXc
<つづき>
説似一物即不中ということばがある。これが神であると一物を示せば即ちそれてしまっているのである。
これが光明化運動であると一行動をとらえて示せば、即ち中っていないのである。光明の光明たるいのちは観えなくなるのである。
自分が光明一元のいのちに帰ったときに存在するものすべてが光明化運動なのである。しかも、その光明一元の世界とは形ではないのである。
尊師が、「久遠いのちの歌」において、前半の部分で、「此の身は虹の如し……」と現象のはかなさを歌っていられるようであるが、なるほど、文字はその通りであるが、ここには悲しみが表現されているのではなく、現象を超えて久遠のいのちに還った神の子が大勝利の歓喜を輝かせておどっているのである。その意味において、全面、久遠いのちの歓喜の歌なのである。
尊師が一見、現象の危機をとらえていられるかのように見えるのは、それは、現象の不完全性を、無常性を即ち非道を、即ちそこには“何も無い”“あるのは神のみ、光明のみ”の世界を指し示されているのである。(中略)
尊師の開かれ給うた世界には、光明しかないのである。すべてのものの仏なる姿を祝福されて、お拝みになり給うて、その拝みの合掌のかがやきの姿としてここに『生命の實相』は輝やいているのである。それだからこそこの『生命の實相』は、「あなたはこれを読まなければ救われませんよ。神の子になれませんよ。生長の家になれませんよ。」という姿をしていないのである。却って、
「私は、すべてのものが、はじめのはじめから、如来であることを発見したのです。この本の一行さえも、何ものをもつけくわえる必要のないいのちであることを私は発見したのです。こうして私はこの本ですべての人々を拝んでいるのです!!」
と鳴り響いているのである。ここに、“火を点ずる”ということのその“点ずる”消息があるのである。
“み心のごとくならせ給え”という祈りにおいて、“み心のごとく”とは“神の心と同じように”ということであり、神の心と自分の心とが一つであること、神と同じ光を発する主体に立つことである。神とともに天地創造のつづきを生きることである。“み心のごとくならせ給え”とは“神と同じ心とならせ給え”ということであったのである。
“信”ということは“人が言う”と書く。これは神と同じ心にかえった人が言葉を発すること。神と同じ光源に還った神の子は常に、今、此処において“光あれ”との言葉を発しているのである。“信”とは何らかの意味において自分以外のものにこちらのいのちを合わせてゆくことではない。
“信”とは却って外界の否定である。否定といえども、 それはそのまま光明が言葉によって十方世界を満たすことである。“信”は自らここに立って、自ら光りのコトバを営むことである。外なるものを全く必要としない自発のものなのである。
“われはいま生長の火をかざして立つ”というときの、生長の火とはこの“信”の誕生を意味しているのである。
<榎本恵吾先生 『「発進宣言」拝誦』 完>
1974
:
a hope
:2013/06/13(木) 08:40:34 ID:edEDolt2
みなさま おはようございます。
復興Gさま、すばらしご指導をありがとうございます。
トキさま、お忙しい中、この掲示板を管理してくださりありがとうございます。
訊け管理人さま、内容をお勉強しやすくまとめてくださりありがとうございます。
ユタカさま、いつも思いやりのある温かいお言葉をわたし達投稿者にかけて下さりありがとうございます。
そしてすべての投稿者のみなさま、「生長の家」を思う、情熱あるたくさんの投稿をありがとうございます。
今回復興Gさまがweb誌友会の教材として取り上げられた「2.26事件」など歴史の出来事に関しては、、
わたしは今まで、完全に目を背けてきた内容でした。
ですが、今回のweb誌友会で、このことを学んで本当によかったと感じています。
それは、日本人として生まれてきたことに初めて感謝ができたからです。
「天皇制」に関しても、今までは、あってもなくてもどちらでもいいようなものくらいにしか思ってませんでした。
『「生長の家の教え」は「人間は神の子である」の「唯神実相」だけでいいんじゃないの?』と思っていたのです。
ですが、その『「神の子」「唯神実相」の自覚が、そのまま顕されて国家となったのが、
「天皇国日本」であったのだ!』ということが今回勉強させていただき、はっきりと理解できました。
わたしたち日本人には、初めの初めから、「人間は神の子である」との自覚があったからこそ、
その「心」が、現象にそのまま真っ直ぐにあらわれて、「国民―天皇―天照大神(宇宙創造の神)」という
完全なる中心帰一の形ができたのだという、素晴らしい真理が今回実感としてわかった気がするのです。
でも、まだまだ、わたしは勉強不足です。
今までのweb誌友会の内容をもう一度しっかり勉強しなおしたり、
雅春先生の愛国書といわれるものも、少しずつでも拝読していきながら理解を深めていきたいです。
実は今週に入ってから、仕事が急に忙しくなったり、子ども関係のことで時間を取られたりすることが多くなりました。
ですから、思うように、web誌友会の勉強に集中できない状態が続いています。
勉強時間を増やすためと、自分自身の心をととのえるために、1週間ほど書き込みをお休みをさせていただきます。
ですが、ユタカさまの提案された、自主勉強は続けたいと思っています。
また、1週間後くらいにはこちらの勉強会に戻らせていただくつもりでいます。
みなさま、今回も素晴らしい学びをありがとうございました。
感謝 合掌。
1975
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 08:55:59 ID:???
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
病なし、迷いなし、罪なし、これが生長の家の根本真理であります。それでは神様、ただ今より眠らせていただきます。
6月13日(朝)3時30分
谷口雅春先生 最後のお言葉
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
○【動画】「永遠不滅の生命」 谷口雅春 Masaharu Taniguchi
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=CxwERhp344s
拜
1976
:
志恩
:2013/06/13(木) 09:54:04 ID:.QY5jUA6
>>1946
:より
生長の家は、和解、大調和の教えである。
しかし、和解と妥協とは違うのである。
現象の悪と妥協してはならないのである。
妥協でない「和解」は如何にすれば可能か。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現象は如何にあろうとも、実相は永遠に光り輝いている。
現象に如何なる対立の関係があるように見えようとも、そんなものは、ナイのである。
それは、教団派も、本流派も、共に本来の「一」に立てばよいのである。
「無」に立てばよいのである。
「中(みなか)」に帰ればよいのである。
そのためには、『生命の實相』に還ればよいのである。
のである。
真に、谷口雅春先生を学べばよいのである。
其処は、既に一切が大調和している世界である。
「一」なる世界である。
神こそ渾ての渾て。現象はない。実相独在である。生長の家は、唯神実相を信ずるのである。
真の中心帰一とは、「中(みなか)」より出でて「中」に帰ることである。
生長の家の信仰は、実相独在・善一元の信仰である。すべては絶対無なる「中」のいのちから咲き出でた花である。
「中(みなか)」への還元
《谷口雅春先生。昭和40年、『理想世界』誌5月号より》
----------------------------------------------------
ということで、「中に還ればいい」ということを分らせて頂きました。
雅春先生は、様々な角度から 教えを説かれておられます。
先に
>>1842
に、謹写させて頂きました雅春先生の説「妥協と和解のちがいについて」も
雅春先生のお言葉です。
実相独在、善一元の信仰とは、実相に対しての信仰であります。
復興G様、トキ様、訊け様は、和解派でいらして、
「既に一切が大調和している世界である。
「一」なる世界である。
神こそ渾ての渾て。現象はない。実相独在である。生長の家は、唯神実相を信ずるのである。」
だから…、一つになるのが、本来の姿であるというわけですが、妥協せずに、神様に和解するということは、
どう考えることか、どうなることなのか…雅宣総裁は、雅宣総裁のお考えがおありになり、そのように行動されてますし、
本流は本流で、そのように考えられて実践中ですし、
復興G様は復興G様で、ご自分の信念のもとに実践中でいらっしゃるし、私も しかりです。
ゆえに、生長の家のおしえは、意義深いと申し上げました。
1977
:
志恩
:2013/06/13(木) 09:56:41 ID:.QY5jUA6
私は,今日も,これから 出かけますので、失礼させて頂きます。
1978
:
復興G
:2013/06/13(木) 10:53:12 ID:AB6RqYXc
>>1976
:志恩様。
ご投稿、ありがとうございます。
志恩様ご謹写の
>>1842
に
>>実際の場合として、皆さんが凡ゆる場合に虫類の実相の完全さを拝んだら害虫が全部消えるか否かは皆さんの悟りの力量如何にあるのです。<<
この「悟りの力量」すなわち「実相を観る力量」が生長の家の真の「実力」でありますね。
この「実力」向上のために精進することこそ、信仰者としての第一義であり、
>>しかし、現代の日本人が果たしてそれだけの精神的力量又は高い心境に達しているかという事が問題なのです。
即ち「凡(およ)そ此の世界は神の世界であって敵は無いのである」という事を、日本人の大多数が深く信じそれを実践する事が出来るかどうかというと、まだまだ遠しと言はねばなりません。<<
だから現実には再軍備も必要であると説かれていますが、それは第二義のことだと思います。先生は最後の絶筆と思われる『實相と現象』の「はしがき」にも
>>“聖なる求め”を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を体得せられんことを、神に代り切に切に望むものである。<<
り)
とおっしゃっています。
第一義を軽んじて第二義のことばかりに力を入れているのでは、生長の家出現の意味はないのではないでしょうか。それは、雅宣総裁率いる教団の運動でも同じことですが。
だから、私は 「今こそ正念場」 「今、起て!!」 は、「久遠の今」 「中(みなか)」 なる 「一」 なる 「既に大調和している」 「神」 なる 「光」 なる 今、起て!! だと、榎本先生の 『「発進宣言」拝誦』 をかしめて、決意を新たにしています。
それが、本当に「谷口雅春先生を学ぶ」ことだと思っているのです。
ありがとうございます。
1979
:
復興G
:2013/06/13(木) 11:19:31 ID:AB6RqYXc
「久遠の今」とは何か。
それは、
・‥…━…‥・‥…━…‥・
○「久遠の今」
前編
http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
後編
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes
・‥…━…‥・‥…━…‥・
を、どうぞ繰り返しご覧になることをお勧めします。
1980
:
ユタカ
:2013/06/13(木) 13:36:13 ID:R1D4Jmeg
訊けさま
平和への道の紹介をありがとうございます。 そうなのですね、初めて知りました。雅宣総裁がそのように思っているなんてちょっと安心しました
もっといろいろ教えてください。
1981
:
ももんが(昼休み)
:2013/06/13(木) 13:38:55 ID:XXCuaQns
>>1936
合掌、拝。“誌友会の皆様”ありがとうございます。
チョト、昼休みなので、立ち寄りました。
復興G様や、志恩様の、昔のお話が、特に、今私が活動してる中でも、大変勉強に成っています。
トキ様や、『訊け』さんの、お話も、楽しく読ませ頂いております。
勿論、他の皆様のお話もです。
先日、志恩様から“神想観”で、“遠隔操作“で、送られ、『マグロの刺身』は、“脳ミソの中”に現れましたが、“現象化”しませんでした。
志恩様!悲しかったです。
(井上先生のコンセントの入るてない扇風機の話みたい)
でも、”喜びで一杯になりましたよ“ありがとう!志恩様。
それから、今回の話題の参考に為らないかも、しれませんが、
関東にも、”高天ヶ原“が、有るですね。
茨城県=常陸國(ヒタチノクニ)と呼びますが、此は、
太平洋から、日が昇るので、“日立”と言うそうですね。
それで、鹿島神宮の少しの先に、“高天ヶ原”と呼ばれる土地が、有るそうです。
私は、詳しくは調べないのですが、復興G様もし、誌友会の本題の邪魔にならないようで御存じであれば、御教授くださいませ。
すいません。チョト、皆様のお話を濁すようになりましたことは、お許しください。
では、掲示板、誌友会の神の子皆様、ありがとうございます!
合掌、拝。
1982
:
ユタカ
:2013/06/13(木) 14:35:25 ID:R1D4Jmeg
心の法則と平和への道
訊け様 有難うございます、平和への道が良いヒントとなりました。(雅宣総裁の本は読んでみようと思いませんので、購入はしません、拒絶反応がマックスでゲロゲロですから一部だけは生長の家真理ですが すぐに独自の言葉とすり変える手法はお手の物で有名ですからね)
復興Gさま>1978を読ませていただいて思ったことは、 心の法則と平和への道の神示 です。
その中の言葉で 「生長の家の生き方は乱にいて治を忘れず」 という事でした、現在教団に属している人にはこの神示をお勧め
かもしれません。 そして、裁判など心が乱れ怒っている人には神想観の実習三昧を!と言うように思いました。
教団の会員ーーー神想観実習三昧 学ぶ会も更に更に真理を奥深く学ぶ。
今、日本で一番に伝道で活躍してる人は訊け管理人だなぁ〜。いろいろな動画のアップなど、スゴイや!しかも、奥さんに内緒、内緒、バレナイようにやっている。こっそりスゴイことやっている。
材料を見つけて集めて皆に供給してくれてありがとうございます。 こころから感謝します。
復興Gさまの大量投稿 >< ・・・・ 休みの日に頑張ってよもう!っと。><
1983
:
こんにちは
:2013/06/13(木) 16:40:23 ID:nSg7g3W2
>>1968
「訊け」管理人様
雅宣総裁のご文章についてですが、私はこの総裁の言葉を素直に受け取ることが出来ません。
本当に総裁が、「生長の家でいう『天皇国・日本』とは、大変深い意味での”理想国家”を指しているのです。(中略)・・・天皇の生き方を模範とし、神意を第一とする生き方が一人一人の国民の間に弘まっていき、外国においても、キリスト教の国ならば”神の国”や”神の国の義”を第一にする人々の数が増えていけば、そこに神意が現成した素晴らしい国が建設されるだろうという意味であります」
(谷口雅宣著「信仰による平和の道」211ページ)
と、このように考えていらっしゃるならば、どうして天皇陛下の信仰生活を、積極的にお伝えしようとなさらないのか?という疑問がぬぐえません。
総裁は、国際化社会の現代では、天皇を前面に出すことは誤解を招きやすいので得策でない、と考えていらっしゃることはよく分かっています。
旧来の民族派団体と混同されやすい、と思っていらっしゃることも私は理解しています。
しかし、それならばなおのこと、天皇陛下のご生活をお伝えしなければならないはずです。
積極的に発信して、日本人や一部のアジアの国に誤解されている「天皇」の正しい姿をお伝えしなければならないはずです。
否、「お伝えしなければ!!」という思いに駆られるはずなのです。
本当に天皇陛下を愛していらっしゃるならば!!
それは、日本人に向かって神意を生きることを布教することでもありますし、一部の外国の誤解を解くことでもあります。
天皇陛下の本当の姿を理解した日本人は自国に誇りを持つでしょうし、理解した外国人は日本を尊敬するでしょう。
それなのに、天皇について積極的に発信しようとなさらない。
ですから、私は雅宣総裁が「冷淡」で「愛が欠如している」というのです。
総裁は、本当の愛国者ではない、と思っているのです。
雅宣総裁は、言葉の上では一見、天皇陛下を尊んでいるかのような発言をされます。
しかし、総裁の判断と行動を見てみれば、総裁の本当の気持ちというものが透けて見えてしまうのです。
総裁は合理主義者です。
現在の日本の情勢や世界情勢を計算して、得策である道を歩もうとされます。
しかし、谷口雅春先生はそうではありませんでした。
生長の家がたとえ、時代の主流からはずれて糾弾されることがあろうとも、「本当の道」を進んでいかれたのです。
これが、信仰を生きる者の姿です。
損得勘定抜きに、純粋な己れの信仰を貫いていらっしゃったのです。
ですから、多くの信徒が心から感動し、谷口雅春先生についていったのです。
これは、たとえばイエス・キリストの生き方も同じです。
神の義に忠実たらんとしたイエスは、世間はおろか弟子にすら見放されて、はりつけになりました。
しかし、この純粋な信仰姿勢が、のちのキリスト教の発展を生んだのです。
信仰とは、そういうものです。
合理主義者には、信仰は理解できないのです。
雅宣総裁が合理主義者である限り、彼は信仰者ではないのです。
天皇を敬愛する者でも愛国者でもないのです。
「本当のことをお伝えする」
それが信仰者であり愛国者です。
私自身も反省しなければならないお話ではありますが・・・。
1984
:
復興G
:2013/06/13(木) 17:18:35 ID:AB6RqYXc
>>1983
: こんにちは様のおっしゃることは、当たっていると思います。残念ながら。
そういう率直な感想を、素直に申し上げることは大切なこと、よいことだと思います。
おそらく総裁は、この掲示板をごらんになって、何かを感じていらっしゃることと信じます。
愛をもって直諌申し上げれば、聞いてくださるでしょう。
ただ攻撃的に非難するような言葉は受け入れられず、逆効果になることのほうが多いと思いますが。
ありがとうございます。
1985
:
復興G
:2013/06/13(木) 18:12:53 ID:AB6RqYXc
皆さま、ありがとうございます。
今回の誌友会テーマは、
「組織運動と信仰生活」ということでした。
このテーマの結びとして用意されていたように思われる榎本恵吾先生の論文があり、アップさせていただきたいと準備中ですが、私はこれから予定行事があり、出かけなければなりません。
戻りは10時(22時)になります。
それまでPCから離れますが、よろしくお願い申し上げます。
1986
:
こんにちは
:2013/06/13(木) 20:18:50 ID:nSg7g3W2
>>1984
復興G様
ちょっと言いすぎたかもしれません。
でも、私はもう、雅宣総裁は見限っているのです。
彼は変わらないと思います。
よほどの人物と出会うか、よほどの衝撃的な出来事に遭遇しない限り、人は根っこから変わることは出来ないものです。
雅宣総裁には、今世における彼なりの運命があり修行があるのでしょう。
私は私なりの道を歩むばかりです。
教団信徒が気の毒ですが、冷たい言い方をすれば、困難の中で魂が生長するということもまた、現象世界における真実でしょう。
ただ、私はこの掲示板で、不必要に多くを語りすぎたのかもしれません。
1987
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:31:03 ID:AB6RqYXc
1986 :こんにちは様
――そうですか。
しかし、おっしゃるように
≪神の愛は近視眼的愛ではなくて遙かに前途を見越して、有終の美を飾る如き結果をわれらに与えたまうのであるから、現在の状態がたとい如何なる状態であっても私たちは神に対する信頼を失うということは絶対にないのである。≫(『真理の吟唱』より「人生の苦難を克服して伸びる祈り」)
≪宇宙の一切のものは、神の無限の内容が、時間空間の枠を通して逐次に展開し行く姿であるのである。それゆえに今日は昨日よりも一層よく、明日は今日よりも一層よくなることは間違いないのである。たとい一時、暗黒の状態があらわれようとも私は決してそれについて悲観することをしないのである。暗黒と見える時にも生命の生長の営みは行われているのであって、植物は、夜のうちに一層伸びるということである。われわれの魂も、境遇が苛辣であり、周囲の一切のものがただ暗黒に閉ざされていると見える時には、かえっていろいろの反省や努力が行われて、明るい幸運にめぐまれている時には、ないがしろにせられていた魂の部分が一層伸び且つ向上し進化するのである。肉眼には明暗の二相があるかのように見えているけれども、魂にとっては、明暗ともに、生長と進歩との機会なのである。悪しきものは宇宙のどこにも存在しないのである。(『真理の吟唱』より「困難を克服して伸びる祈り」)≫
と教えられていますので、「今が魂の生長のチャンス」ととらえ、明るく最善を尽くしてまいりましょう。
1988
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:32:13 ID:AB6RqYXc
さて、
>>1979
「久遠の今」のご講義(後編)の後の方で、谷口雅春先生は、徳久克己先生の体験をとりあげられ、「今」を未来の目的のための「手段」にしてはならない。心眼を開いて見れば、今、此処が極楽浄土であるとわかるのである、ということを説かれています。
この誌友会のテーマは、
「組織運動と信仰生活」 ということでしたね。
その「運動」とは何か。目標を決めて、その目標達成のために「今」を手段にするようなのが運動であるとしていたら、鼻先ににんじんをぶら下げられて走る馬のようなもので、それは「今を生きる」信仰生活、幸福生活と両立しないでしょう。
「未来世代の幸福のために」今を手段として犠牲にする運動というのも、生長の家とは違うと思います。
「組織運動と信仰生活」というテーマによる研鑽の結びとして、このために用意されていたとすら思われる、榎本恵吾先生のすばらしい論文があり増したので、アップさせていただきたいと思います。
榎本恵吾先生のご著書 『光のある内に』の中の
<<天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて
――人類光明化運動の楽的展開論――>>
という論文です。
その「序曲」という章に、次のように書かれています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて
――人類光明化運動の楽的展開論――
序 曲
もう二十年も前のことだが、私は大学の哲学科に通っていた時、どうしても心が明るくなれず、『生命の實相』ばかりに読みふけり、二十日も授業を受けに出ず四畳半の間借部屋で懊悩していた。
ある人は花の散るすがたにこの世の無常を観て出家した。私はそのころ、青年会の運動がどうしてこのように無常なのか――会員が集っては散って行く、その度に一喜一憂する――と、はじめてこの世に「常恒なるもの」を求めはじめたのであった。
この一喜一憂を越えて常恒なる平安に達するには、現象的な運動を“無”と否定して、それへの執着を断たなければならなかった。――そこにこそ霊の選士同士の嫉妬も消えるのである。“ある”と思うからこそ執着するのであるから、“無し”と否定すれば執着が消えるのである――という声が自分の中でした。
しかし、実際、それは出来得ることであろうか。青年会を否定することは人類光明化運動を否定することである。――ここで私は難問にぶつかった。その否定しようとする内なる声に対して「しかし、今自分がこのように“無常”と否定すること、現象の無いことを生長の家で教えられた――具体的には『生長の家』誌から、『生命の實相』から、尊師の講話から教えられたのである。もしもこのことがなかったならば、今の私はないであろう。それが現実であり、事実ではないか。これはまさに人類光明化運動のお蔭である。どうしてこれを否定することが出来ようか。それに、否定することは大なる忘恩である。信徒たるべきものの道に反することではないか」という声がしたのである。(中略)
どうにもならない心のままに、ある日私は便所を掃除していた。その時、自分の心の中に「アブラハムの生れぬさきよりわれは在るなり」というキリストの言葉がポッカリと出て来た。つづいて私は釈迦の「吾れは成仏してよりこのかた、百千万億那由他阿僧祇劫なり」というあの『生命の實相』の中で読んだ言葉を思い出し、そしてそこに書かれていた尊師の「吾れはキリスト以前よりあり、釈迦以前よりある、天照大御神と一体の生命である」というお言葉を思い出した。
キリストは自分を生んでくれた先祖のアブラハムを否定して自分自身に真理を体現し、釈迦は現象的時間と自己の修行を否定して真理なる自己を体証した。そして尊師はさらにその真理なるキリスト・釈迦をも越えて絶対の自己を現成されたのである。ここにはもはや相対的に救うものもなければ救われるものもない。唯、あるのは無原因にして自ら立つ自己があるのみ。(中略)
――私はようやくにして、立つべきところと向うべき道を得ようとしていた――。
<つづく>
1989
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:33:32 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>
宇宙は何故発展と秩序を感じさせるか。それは宇宙の出発において神が間違わなかったからである。
また、宇宙は何故、永遠の持続を感じさせるか。それは神が喜びであるからである。
太陽は常にわれわれの上に輝く。それを見ている人間に、無理をしている感じを与えないのは、太陽は喜んで照っていることをわれわれの魂は知っているからなのである。太陽にはどこにも無理がないことを知っているからである。
この世の中で何が一番長つづきするか。それは喜びである。喜びだけはどんなに長くつづいてもつづきすぎるということはない。人間が長つづきしてほしいと一番のぞんでいるのが、喜びということであるからだ。この内部要求の永遠の軌道に乗った生活であれば、どこまでいっても退屈したり、やめてしまうということはないのである。
私はここに永遠につづく「生長の家人類光明化運動の楽的展開論」を試みようと思う。人類光明化運動に真剣にとり組み、一生をこの運動に捧げようとする者は、常にその運動の根本を、本源をつかもうとする。そこから運動への真に永続的な情熱と力と未来への展望が生れるからである。
<つづく>
1990
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:34:34 ID:AB6RqYXc
<つづき>
かつて東京第一教区で白鳩会教区連合会長を3期つとめて大活躍され、平成4年「布教抜群功労者総裁賞」を受賞された二葉美代さん(故人)は、この『光のある内に』の論文を読んでの感想・体験を、榎本先生の追悼文集に、次のように書いておられます。
○
「『光のある内に』三冊ボロボロに…」
東京都葛飾区 二葉 美代
榎本恵吾先生とのご縁は、昭和54年、『光のある内に』のご本を戴いたころからと思います。
「天地の初発(あめつちのはじめ)に立ちて―人類光明化運動の楽的展開論」
この表題を見た時、私は飛び上がらんばかりに喜びました。
当時、白鳩会教区連合会長を拝命していた私は、本部目標を達成することが出来ず、悩んでおりました。
「これだ、これだ! これさえ学べばよくなる!! 」と。
しかし、読んでみると、「楽的展開」どころか、とてもむづかしいのです。
「久遠の今」「未発の中」「真空妙有」「久遠天上理想国実現の神示」等々……その当時の私には、むつかしいことばかり。
「自分の中に『生長の家』を発見し、話す相手さえも自分の生命の中に発見するのでなければ、ついに『生長の家』もよそごととなり、単なる遠くのものを指し示す説明に終ってしまう。」
「絶対の自由を得ていなければ、真の光明化運動は不可能である。」
「『教えは教え、運動は運動。そこには多少の矛盾不一致があってもいい』などということは許されない。」
「実相の展開そのものとしての運動に参加しなければならない。」
等々、むづかしいことばかり……。
ひたすら夢中で『光のある内に』のご本を、読んで、読んで、読み続けました。
ついにこの『光のある内に』のご本が3冊ボロボロになりました。
今、拝読してみると、とてもよくわかるのですが、当時の私は、若くて現象観のかたまりでした。今、思いますと、どうしてあんなに解らなかったのだろうと、不思議な気がいたします。
私は今、しみじみと、この『光のある内に』のご本に育てられたのだと、まことに有り難く思いまして、心より感謝申し上げております。
今や世界が 唯物論の極に来て、その終焉を迎えようとしており、新時代の生命の胎動が、粛々として起こりつつあることを感じます。今や世界は、谷口雅春大聖師のお示しいただいた「實相独在」の真理、神意に一大方向転換すべき機を迎えているのではないでしょうか。
私も、尊師の教えを受けた者として、『光のある内に』のご本でまいて頂いた種子を大切に育て、花咲かせ、実を結ばせて、「みこころの天に成る世界」を地に成らせる創造の光明化運動に、いのちをかけたいと念願いたしております。
○
こうしてこの『光のある内に』のご本から大きな力を得て、昼夜を分かたぬ大活躍をされ、白鳩会の大躍進に貢献されたた二葉美代さんは、平成4年に「布教抜群功労者総裁賞」を受賞されました。
その報道記事が載った『聖使命』紙が出てきたのですが、インタビュー記事にこう書いてあります。
<……身を縮めながら謙虚に語る。が、行動力は抜群。モットーは「何事にも全力を尽くす」。
教区連合会長時代は、休みもとらず運動に励み、終電で帰宅することも珍しくなかった。
「楽しいばかりで、辛いと思ったことはありません。伸びるほかないのが光明化運動ですから」と、サラリ。>
二葉さんはこう言っていらっしゃいます。その原動力になった榎本先生のご文章です。
長文の投稿が続き、お忙しい皆さまには読む時間もないかも知れませんが、斜め読みでもして頂いて、目にとまるところがありましたらプリントアウトしてご熟読も・・・・きっと大きな収穫のある、価値あるご文章だと思います。
<つづく>
1991
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:35:27 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>
一、『生長の家』とは何か
『生長の家』とは何か。それは自分のいのちのことである。「久遠の今」(Eternal Now)において、万物はこの一点におさまっているのである。そして、自分のいのちが「今」「此処」にあれば、『生長の家』も「今」「此処」にあるのである。
「久遠の今」に立ったとき、すべてのことは自分のいのちの中に発見され、常に自分のこととして問題とすることが出来る。
この「久遠の今」の中に自分を発見し、『生長の家』を発見しなかったら、『生長の家』は自分からはなれたよそごととして、ついに終る。
二、「尊師」とは
尊師谷口雅春先生は明治26年11月22日にお生れになった。厳しい求道の末に遂に神を発見され、生長の家人類光明化運動を起されて50年。そして今年(昭和54年)満86歳になられる。
しかし、尊師は時間空間中の現象を超えた真の自己、実相の、実在の谷口雅春先生を発見された時に、肉体としての谷口雅春は本来なかったのであると自ら否定してしまわれたのである。それ故、私達が「尊師」とおよびする時、その尊師は実在としての尊師、いま私達の目前に手をふれられる姿でありながら、そのまま永遠の、久遠を流るるいのちとしての尊師なのである。(中略)
尊師が神の啓示を受けられた時、神の声は最後に次の如く語った。
「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きてくるのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」 (『生命の實相』頭注版第20巻136頁)
さて、この「久遠の今」というのは時間、空間を超越した、万物発生の枢機を握る一点なのであるから、尊師が「久遠の今」をお悟りになったということは尊師が「久遠の今」そのものであるということである。この一切万物発生の枢機を握る一点に立たれた時、キリストも釈迦も古事記も一つの同じ真理を説いていることが解って来たのであった。
万物は「久遠の今」という中心から発したのであるから当然、真の宗教である限りに於いてすべて宗教は一つに帰るという真の相を発見されたのであった。ここに万教帰一の教えが生れる根拠がある。
帰一とは「久遠の今」「万物発生の枢機を握る中心」従って「絶対」に帰るということであり、宗教だけではなく一切万有が「絶対」に帰ることを意味する。尊師は「久遠の今」に立たれた故に肉体を超え、現象を超えたいのちとしてのキリストや釈迦を発見されたのであった。
こうして真理に到達された尊師は、この真理を述べ伝えようとされた。これが地上に「生長の家人類光明化運動」が開かれた誕生の時であったのである。尊師はその時、「今、起て」という神のコトバを聴かれたのであった。地上の「生長の家人類光明化運動」はここから始まったのであった。
この「今、起て」の「今」とは「久遠の今」のことである。実相に於て、「吾れ」と「今」と「此処」とが一つであるから、「今、起て」とは「久遠の今なる汝よ、起て」ということなのであった。そして「久遠の今」なる尊師が起たれることによって「生長の家人類光明化運動」は始ったのである。「久遠の今」とは光明一元、実相独在のことである。げに「生長の家人類光明化運動」のいのちは「実相独在・光明一元」ということである。
これが「生長の家人類光明化運動」の始ったお姿であった。現象を完全に否定し、光明一元、実相独在にたちかえられて「光明一元」の生命そのものであられるのが、吾らの拝する尊師なのである。
<つづく>
1992
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:36:14 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>
三、「人類」とは
生長の家は「人類」を如何に見るのであろうか。「生長の家人類光明化運動」は「実相顕現運動」であり、既に成れる実在の世界をこの世に持ち来たすという意味では「地上天国実現運動」である。「人類」というコトバは「地上」というコトバに相当する。
「人間神の子、三界は唯心の所現」という真理において、「人間」は、「全世界」と「一個の人間」との一致点に見出されている。自己と全外界との分裂なき一致点に、その中心に立っていると観じられている。このことは「自分が変れば世界が変る」(「智慧の言葉」)ということを言い表わしているのである。それは「世界を変えるためには自分が変るだけでよい」ということでなければならない。『叡智の断片』の中では、次のように書かれている。
自分ひとりが浄まったなら、世界は浄まるのである。自分の心がきよまらざる故に世界はきよまらないのだ。自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。 (127頁)
ここで言われている「浄まる」「浄める」ということは、即ち「救われる」「救う」ということである。「人類」といい、「世界」といい、「全地上」というも、つまりはこのような意味での自分との関係に於ける「人類」ということであり「地上」ということである。あくまでも自分との関係において観ずることをしなければ、遂に自己と外界とが分裂してしまうのである。そして「人類」のことも「世界」のこともよそごとに終らざるを得ないのである。
われわれは「求道と伝道」、「自分が先か、他が先か」というような問題にぶつかったりして、光明化運動に行き悩みを感じたりするのは、先ず「生長の家」は「人類」を如何に観るか、「地上」というものを如何に観るか、ということを判然としておかなかったからなのである。神とは絶対者であり実相独在の中にのみ存在し給うのであり、そこに分裂というものはない。問題の解決とは、完全なる神がそこに顕現されることであり、その他には問題の解決ということはあり得ないのである。
「救われる」ためには先ず第一に「生れかわること」「目覚めること」が必要であると教えられている。「生れかわる」とは自己が変ると同時に全世界も変るということを象徴的に表現しているのであり、自己と世界との一如性を知ることを意味しているのである。自己と世界とに分裂なきこと、その位置に立つことによってのみ救われるということが成立することを表現しているのである。(中略)
光明一元、完全にしていよいよ真の創造活動は大いに進むのである。吾々の創造は実在の創造なのである。ここに立たなかったならば「いつになったら地上天国は実現するのだろう」などと弱音をはき、遂には運動からはなれてしまうのである。「生長の家人類光明化運動」は光明の世界に光明として、神と偕に生きる生活なのである。ここにおいて我々の運動は永遠に続くのである。
* * *
「生長の家人類光明化運動」は菩薩行であり、迷える衆生を救わんとするものである。ここに言われる衆生とは人類のことである。
しかし、吾々が救わなければならないような不完全な衆生を、神はその創造において存在せしめたのであろうか。そのような不完全なるものを此の世に残している神は、はたして絶対者と言えるのか。その迷える衆生を救うという我らの「人類光明化運動」も、絶対なる神の運動であると言えるのか。ここのところを吟味してみたいと思う。
衆生を迷うと見れば、神は不完全であることになり我らの運動は絶対なる神の運動ではない。もし衆生が完全であれば、今さら人類救済の運動は必要ではない、ということになる。
<つづく>
1993
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:37:50 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>
『生命の實相』常楽篇「久遠を流るるいのち」において尊師は次の如く述べられている。
「衆生本来仏にして、仏は未だかつて迷わず」と断定してしまったのである。かくて「いっさいの人間は仏にして未だかつて迷いしことなし! 迷えると見える五官の我は本来無いのだ!」まことにも、釈迦が悟りを開いたとき「有情非情同時成仏、草木山川国土一切成道」と知ったのもそういう心境ではなかったかと、類推できるのである。
(『生命の實相』頭注版第27巻175〜176頁)
尊師の観られる衆生とは斯くの如きものである。このことをはずせば、最早や我々の運動は神より始った光明化の運動ということは出来なくなるのである。
さて、「もし衆生が完全であれば、衆生を救済するための運動の必要はなくなる」と書いたが、しかし、完全であることは静止を意味するであろうか。静止ということは我々に一種の不満を感じさせずにはいない。不満を感じさせるものは、本来完全であることは出来ない。真の完全とは静にして動、一であって多であり、これらが同時に満足されるものでなければならない。
ここに尊師のお説き下さった「生命の純粋持続」ということを想起しなければならない。これは生命(完全、実相)が自性を失わず、永遠に創造をつづけて行くことである。これは完全が完全し、光明が光明し、生命が生命するという世界である。ここに神は絶対者、完全者でありながら、今に至るもはたらき給うといわれる所以がある。この生命の消息がわれわれの光明化運動の意義であり、根拠である。論文『聖道へ』の中で、
「完全なるもの」は完全であるがゆえに何も欠乏しない。何も欠乏しないから何も意欲しない。何も意欲しないから何もつくらない、つくらないからつくり主ではない。何か意欲するということは、完全でないしるしである。不完全で足りないから意欲するのである。意欲は欠乏の感じである。完全なるものは意欲しない。したがって「完全なるもの」(真如、神)は何も造らない。『大乗起信論』に「心性は常に無念なり」とは、この宇宙の本質であるところの精神(宇宙精神)の「完全」さを言い現わしたものであろう。
(『聖道へ』271頁。『生命の實相』頭注版第20巻44〜45頁)
こう言って「神は創造者でない」と否定して了われた尊師が、再び神を宇宙の創造者として認めるに至られたのは、実に「生命の純粋持続」としての神の創造を発見されたからではないか。我等も又、人類を斯くの如く観じ、運動の意義を斯く観ずることによって「生長の家人類光明化運動」を神の動く姿とし、神の永遠の創造の延長とすることが出来るのである。
戦前版『生命の實相』信の巻(神道篇)に曰く――
金剛不壊でありながら無限創造の働をする。無限創造と言ひますと、いくらでも造つて行くから今はまだ完成してゐないのだ、不完全な世界だとかういふ風に考へられる方もあるのであります。ところが決してさうではないのでありまして、無限創造といふことを音楽に喩へて考へて見ますとよくわかるのであります。音楽でも無論、下手な音楽と上手な音楽とがありますけれども、仮りに上手なピアノの曲の一小節だけを聴いて見るとしますと、そこに美しい響きといふものがあり、その暫くの継続だけでもそれが完全である、完全であるから美しく感ずるのでありますが、完全であるから次がないかといひますと、決してさうではないのであつて、完全であっても亦その次がある。無限に完全が常に続いて行つてをる、これが無限創造の世界なのであります。
○
ですから實相の生活と言ふものは、『今』の瞬間が一瞬々々完成してゐるのであります。従って吾々が此の世に生きてゐる生活も今の一瞬々々に完成してゐない所の、例へば準備教育を受けて上の學校へ入学する為に『今』の生活を送ってゐると言ふやうな、手段としての生活をしてゐるやうなことでは妄(うそ)なのであります。今この瞬間無限を生きてゐる、完全な生活を生きてゐる、その完全の連続が常に自分の生活でなくてはならないのであります。斯う言ふ生活であつてこそ『朝(あした)に道を聴かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり』の生活だと言ふことが出来るのである。
<つづく>
1994
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:38:40 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>
○
一瞬々々それ自身で完全な生活と申しますと、その生活は自主の生活であり、因縁所生の生活でありませんから、従つて金剛不壊の生活に一致するのであります。因縁所生の生活は金剛不壊ではない、それは相互依存の生活であつて、直に壊れて了ふのであります。この世に因縁所生でない、相互依存の生活でないそんな生活があるかと申しますと、現象世界の生活は凡て因縁所生、相互依存の生活でありますけれども、その因縁所生の生活を送りながらも、その一瞬々々の生活が『久遠の我』を自覚した生活ならば金剛不壊の生活であります。何故ならば『久遠の我』は金剛不壊で壊けやうがないからであります。
(『生命の實相』信の巻・神道篇510頁〜518頁より)
四、「光明」とは(略)
五、「光明化運動」とは
「生長の家人類光明化運動」の「化」という言葉は「実相顕現」の「顕現」という言葉に相当する。「化」という言葉は、対象物をこちらの思うようにだんだんに変化せしめ、働きかける主体の活動を意味する言葉として使われているようである。その意味では、「光明化」とは光明でないものを光明にして行くことになるであろう。しかし、本来光明でないものを光明にして行くということは、「光明一元論」「唯神実相論」に反するものであると言わなければならない。
ここでいう「光明化されるもの」は当然衆生であるが、衆生は本来仏であり、決して迷ったことのないものであり、この世には迷える衆生もなければ悪しき世界も本来神はつくらないのであるから、衆生を光明化することは成り立たないのである。「唯神実相論」では神のみが唯一の実在であり、人間も神によって創造せられたものであるから、本来光明そのものである他はないからである。
したがって、「光明化」という言葉は、「本来光明でないものを光明にして行く」という意味ではなく、もっと異った意味に受けとらなければならないことになる。
尊師は『生命の實相』の中で次の如く書かれている。
仏のなすべきことは何であるかというと、説法ということであります。そう言うとおかしく聞こえますけれども、「すべてのもの言によってつくらる、言葉は神なり」というキリスト教的立場からしましてもそうなのであります。仏教でも釈迦は『大無量寿経』の説法を終わると、「如来の応に作すべき所の者は皆已に之を作せり」と言われました。成仏するという場合の、「成る」という字は「化る」ではありません。「仏に化る」のでしたら仏でないものが仏に化るということになるのでありますけれども、成仏するというと仏が鳴り出すことなのです。始めからわれわれは仏なのですけれども黙っている。黙っているのは成仏ではないのであります。成仏とは仏が鳴り出すことなのでありまして、天之御中主神が鳴り出してきたらこの蓮華蔵世界が現われたのであります。われわれは始めから仏である。しかし黙っているとまだ成仏していない、仏が鳴り出していないのであります。
(『生命の實相』佛教篇――頭注版第39巻148〜149頁)
このことは「光明化」という場合に、「化」を「だんだんに変って行く」という意味に解してはならないことを意味している。
さて、『字源』には、「化」の意味として、「これからだんだんにかわって行く」という意味のほかに、「既にかわりきりたること」と出ている。「生長の家人類光明化運動」に関する限りはこの後者の意味をとらなければならない。即ち、『生長の家』(光明)に光明化され切りたる意味、光明になり切りたる人類という意味である。『生長の家』に光明化されたのならば、それ以前は人間は光明(神の子)ではなかったのであるかという疑問が生ずるかもしれないが、最初に述べたように『生長の家』とは「久遠の今」の別名であり、「久遠の今」は現象の時間空間を超越せるものであるから、光明になり切ったといえども、時間的な経過や空間的へだたりは、人類と『生長の家』との間にはあり得ないのである。
<つづく>
1995
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:39:47 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>
「久遠の今」は宇宙万物発生の枢機を握る一点なのであり、すべてはここから発し、ここに帰り、一点に巻きおさまっているのであるから、『生長の家』と「人類」とは同時同所、一時一切時、一所一切所、一仏一切仏の消息裡に、ここに今存在するのである。
それ故、「光明化運動」とは『生長の家』に於いて、久遠の昔から光明になり切っている人類の行うところの運動ということになるのである。「生長の家人類光明化運動」とはまさに「成仏」(仏が鳴り出す)ということに相当するものであったのである。あくまでも光明一元論、唯神実相論上に、光明になり切った絶対自由の絶対主体たる神の子の生命の純粋持続として行われる運動であるのである。このことが神の永遠の構図に於ける創造の延長そのものであるということである。
ここに於いてすべての人間は光明化運動に於ける絶対の主体者にかえったのである。この主体に還らず、「人類光明化運動」を迷える人間を光明化するのであると思っている以上、それは明暗混淆の二元論であり、迷いである。このような状態ではいよいよ運動熱心にしていよいよ迷いが深くなるようなことになるのである。
終 曲
この広大無辺なる宇宙の一点に立って、真の一足を投じてあやまたざる、真の自信ある生活をおくることの出来る者は誰か。それは神の子である。神の子とは「個即全」「今即久遠」をいのちとして生きているものに他ならない。
創造とは何か。創造とは「久遠の今」の一点が進むことである。これが、尊師の教え給う「生命の純粋持続」ということである。この生命を「光」という。このほかに「光」はなく、創造はない。創造とはそこに価値を産むことである。価値があるとは実在があるということである。実在があるということは神があるということである。
神は絶対であり、絶対には分裂がない。分裂がないのが「久遠の今」なのである。今と久遠が分裂せず、自己と世界が分裂せず、目的と手段とが分裂せず、今此処に自己と世界が一点に生きて完全であり、しかも無限に創造がなされてゆく。ここに真の「光」の創造的進軍がある。
「生長の家人類光明化運動にいのちをかける」とは如何なることか。この「今」にいのちを懸けることである。「今」の一点には全宇宙即「生長の家」があるのである。ここにいのちを懸ける道が開かれているのである。それは全宇宙にいのちを懸けることである。
「御教えの本に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。
尊師がこの世に、『生長の家』誌を出される決心をされたときに聴かれた声は、「今、起て!」という大いなる天徠の声であった。尊師は万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とは一つであるとお説きになられる。即ち、「今」とは「尊師」のことなのである。
「今、起て!」のことばは万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とが実相全機の現成として響いたのである。そして、実相の世界に於いては永遠に常に「今、起て!」というコトバが全機の働きとして鳴り響いているのである。
常に、実相の大地に降り立ち、尊師のいのちに参ずるものはこの声を聴くことが出来るであろう。そこにこそ運動の中において一人一人の一挙手一投足に本当の尊師のいのちへの回帰があり、帰命がある。此処においてはじめて本当の意味における尊師のいのち――生長の家人類光明化運動への情熱が吾々各個の中に生まれるのである。
<つづく>
1996
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:41:07 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>
我々は「唯神実相論」をそのまま信じることを忘れ、現象への妥協や曇った迷いの上に立つとき、『生長の家』に生命を捧げる情熱は湧くものではないのである。それはついに気合か、掛け声に終るのである。あくまでも純一に「実相独在論」への帰命がなければならない。それはあくまでも犯されざる処女が純潔をまもるためにいのちを捨てるがごとくであらねばならぬ。少しでも曇ればたちまちに情熱は失われてしまうのである。
ここのところを徹底しておかなかったなら、ひとたび縁あって御教えにふれこの組織に参じたものも、尊師のいのちのいのちにまでは、つながらなくなってしまうのである。したがって「実相独在」の「光」を失えば、真の光明化運動はついに終ったことになる。運動が進めば進むほど、「実相独在」の哲理を忘却してはならないのである。
我々の運動の根拠となるもの、それは生命、実在だけであり、一瞬一瞬に久遠と無限を生きることである。今此処の一点に、宇宙と天皇と日本と世界と久遠とを生きることである。それはどの点においても、そこに完全が、天国がもちつづけられる道である。
ここにおいてはじめて我々の運動は、地上天国という未来の目的のための手段の生活ではなく、一人一人が今此処に感謝と満足と幸福とを得ながら、更にその幸福を増していく生活がある。増していくといえども、次の瞬間よりも今の瞬間の方が不完全であるということではない。完全がもち続けられているのが「生命の純粋持続」であり、それが神の子の生活である。
人が生きるとは、絶対が生きることであり、絶対が生きるとは実相独在を生きるということであり、実相独在をもち続けることが生命の純粋持続ということである。この他には、光明というものはなく、光明化運動というものはなく、創造というものはない。けだし、実在以外は「無」であるからである。
生長の家のみ教えは最高最大でありながら、そのみ教えをいただく我々の人類光明化運動に真そこからの情熱がわいて来ないことがあるというのは、我らの運動が、み教えの骨髄、尊師のいのちのいのちである「実相独在」「唯神実相」そのままの展開として、尊師のいのちのさきはえとして自覚されていず、尊師と我々との間にいのちの断層があったからではないか。この意味でいのちの一元化された組織体系、運動体系が出来ていなかったからなのではないか。今こそ、「実相独在」の尊師のいのちをそのままに運動の骨髄としたいのちの組織、いのちの運動を展開するのだ。
一切万物発生の枢機を握るこの一点、「久遠の今」から一切は発したのである。それ故全宇宙が此処にあり、一切の学問も運動も文化も、歴史も、個人一個の呼吸もここから生れ出て来たのである。ここに創造の本源があり、永遠なる光明化運動の基点がある。ここに生命体系、実在体系としての文化体系の発する根拠がある。ここに立って動くとき、それがそのまま体系者としての道を歩んでいるのである。
私達一人一人が実在そのものであり、神そのものである。このことを教えられている私達にはもはや後退ということはあり得ない。金剛不壊の実在の巨歩があるのみである。私達が実相であり、金剛不壊であり、巨歩そのものであるから。そして、祈りそのもの、神想観そのものの生きて歩む姿としての人類光明化運動が今、此処に立っているのである。それが、今ここに「住吉大神の全身全霊として生きる」ということなのである。
<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より 完>
1997
:
復興G
:2013/06/13(木) 22:53:15 ID:AB6RqYXc
たいへん長文の投稿になってしまいました。
最後までお読みくださいました皆さま、本当にありがとうございました。
谷口雅春先生の「久遠の今」ご講義のYouTubeと、この『光のある内に』を合わせて繰り返しご覧・お読み頂くと、きっと新境地が開けてくることを信じ、皆さまの魂の飛躍と、限りない喜びの生活、ご多幸をお祈りいたします。
ありがとうございます。
1998
:
「訊け」管理人
:2013/06/14(金) 08:21:42 ID:???
復興Gさまご投稿文を、拝読しております。素晴しい御文章でありますので、皆さんにも精読をお勧め致します。いや、この箇所を拝読くださる方が増えれば、無用な争いなどもなくなりましょう。さらには、この榎本先生の御文章こそが、「雅春先生のご遺志を継ぐこと」とも、なりましょう。さて、もうすぐ6月17日が参りますが、この資料をここで以下の様に、まとめてみたいと思います。
★
>>1970
より
○ すべての病人である。神想観が足りないという病人も、愛行が足りないという病人も、「聖典」を読むことが足りないという病人もすべてのすべての病人が立つことが出来るのである。
○ われわれは、宗教によって罪と病と死との三暗黒を消してから、光りとなるのではないのである。我というものを消してから光となるのではないのである。そんなものははじめから無いのである。
○ そんなものを放っておいて、そのまま“神の子です”と光の中に飛び込んだときに、そのあとで、罪と病と死との三暗黒は消えるのである。
○ この喜びはどこから出て来ているのか。この喜びはどこからも出で来たらず。或る日、忽然として、久遠の今、今、ここに自分のいのちの中から出で来たるのである。
○ 光明化をやってからという、ある時間の後、ある空間的条件をととのえたときにという外の条件によらず、自ずから立っている喜びである。常立ちの、自ずから立っている喜びが火の正体なのである。
★
>>1971
より
○ 状況の上に立って運動を展開すると、光明一元論を全力的にうち揮(ふる)えなくなる。
○ “いくら光明一元でもそれを知る人の数がこれだけという状況では”ということになって、力を抜かれ、きばを抜かれてしまうのである。情熱が出なくなる。
○ それはまた、尊師への堅信の喪失でもある。
○ 人間を見抜くという。本当に人間を見抜いたならば神の子が見えるのである。世界を本当に見抜いたら極楽が見える。
○ 尊師が宇宙を見抜かれたとき、天地一切は大調和であったのである。
★
>>1973
より
○ 尊師が一見、現象の危機をとらえていられるかのように見えるのは、それは、現象の不完全性を、無常性を即ち非道を、即ちそこには“何も無い”“あるのは神のみ、光明のみ”の世界を指し示されているのである。
○ 尊師の開かれ給うた世界には、光明しかないのである。すべてのものの仏なる姿を祝福されて、お拝みになり給うて、その拝みの合掌のかがやきの姿としてここに『生命の實相』は輝やいているのである。
○ それだからこそこの『生命の實相』は、「あなたはこれを読まなければ救われませんよ。神の子になれませんよ。」という姿をしていないのである。
(つづく)
1999
:
「訊け」管理人
:2013/06/14(金) 08:22:27 ID:???
(つづき)
★
>>1988
より
○ (榎本惠吾先生は)どうしても心が明るくなれず、『生命の實相』ばかりに読みふけり、二十日も授業を受けに出ず四畳半の間借部屋で懊悩していた。
○ 私はそのころ、青年会の運動がどうしてこのように無常なのか――会員が集っては散って行く、その度に一喜一憂する――と、はじめてこの世に「常恒なるもの」を求めはじめたのであった。
○ この一喜一憂を越えて常恒なる平安に達するには、現象的な運動を“無”と否定して、それへの執着を断たなければならなかった。――そこにこそ霊の選士同士の嫉妬も消えるのである。“ある”と思うからこそ執着するのであるから、“無し”と否定すれば執着が消えるのである――という声が自分の中でした。
★
>>1989
、
>>1990
より
○ 私はここに永遠につづく「生長の家人類光明化運動の楽的展開論」を試みようと思う。人類光明化運動に真剣にとり組み、一生をこの運動に捧げようとする者は、常にその運動の根本を、本源をつかもうとする。そこから運動への真に永続的な情熱と力と未来への展望が生れるからである。(
>>1990
につづく)
○ (白鳩会教区連合会長談)「天地の初発(あめつちのはじめ)に立ちて―人類光明化運動の楽的展開論」この表題を見た時、私は飛び上がらんばかりに喜びました。
★
>>1991
、
>>1992
より
○ 『生長の家』とは何か。それは自分のいのちのことである。「久遠の今」(Eternal Now)において、万物はこの一点におさまっているのである。そして、自分のいのちが「今」「此処」にあれば、『生長の家』も「今」「此処」にあるのである。
○ 「尊師」とは何か。久遠を流るるいのちとしての尊師なのである。
○ 「人類」とは何か。(長文のため
>>1992
ご参照)
○ しかし、吾々が救わなければならないような不完全な衆生を、神はその創造において存在せしめたのであろうか。そのような不完全なるものを此の世に残している神は、はたして絶対者と言えるのか。その迷える衆生を救うという我らの「人類光明化運動」も、絶対なる神の運動であると言えるのか。ここのところを吟味してみたいと思う。(
>>1993
へつづく)
★
>>1993
より
○ 尊師の観られる衆生とは斯くの如きものである。このことをはずせば、最早や我々の運動は神より始った光明化の運動ということは出来なくなるのである。
○ 「もし衆生が完全であれば、衆生を救済するための運動の必要はなくなる」と書いたが、しかし、完全であることは静止を意味するであろうか。静止ということは我々に一種の不満を感じさせずにはいない。不満を感じさせるものは、本来完全であることは出来ない。真の完全とは静にして動、一であって多であり、これらが同時に満足されるものでなければならない。
★
>>1994
より
○ 「光明化運動」とは
○ 「生長の家人類光明化運動」の「化」という言葉は「実相顕現」の「顕現」という言葉に相当する。「化」という言葉は、対象物をこちらの思うようにだんだんに変化せしめ、働きかける主体の活動を意味する言葉として使われているようである。その意味では、「光明化」とは光明でないものを光明にして行くことになるであろう。しかし、本来光明でないものを光明にして行くということは、「光明一元論」「唯神実相論」に反するものであると言わなければならない。
★
>>1995
、
>>1996
より
○ 「人類光明化運動」を迷える人間を光明化するのであると思っている以上、それは明暗混淆の二元論であり、迷いである。このような状態ではいよいよ運動熱心にしていよいよ迷いが深くなるようなことになるのである。
○ この広大無辺なる宇宙の一点に立って、真の一足を投じてあやまたざる、真の自信ある生活をおくることの出来る者は誰か。それは神の子である。神の子とは「個即全」「今即久遠」をいのちとして生きているものに他ならない。
○ 「御教えの本に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。
○ 我々は「唯神実相論」をそのまま信じることを忘れ、現象への妥協や曇った迷いの上に立つとき、『生長の家』に生命を捧げる情熱は湧くものではないのである。それはついに気合か、掛け声に終るのである。
○ 人が生きるとは、絶対が生きることであり、絶対が生きるとは実相独在を生きるということであり、実相独在をもち続けることが生命の純粋持続ということである。この他には、光明というものはなく、光明化運動というものはなく、創造というものはない。
<了>
2000
:
「訊け」管理人
:2013/06/14(金) 08:31:34 ID:???
・・・・今回の誌友会ですが、大胆にまとめますとこんな感じです。皆さんの意見をお願い致します。
――――――――――――――
<司会者まとめ>
○ 起つとは、「久遠の今に起つこと」である。
○ 第一義(「久遠の今」)を軽んじて第二義(現象面の争い)のことばかりに力を入れているのでは、生長の家出現の意味はない
――――――――――――――
そして、「聖典を拝読すること」が最も大切なことだと、思いました。
拜
2001
:
復興G
:2013/06/14(金) 09:45:30 ID:AB6RqYXc
「訊け」管理人様。
榎本恵吾先生のご文章を箇条書きにして読みやすく掲示してくださり、感謝します。
榎本先生がこの文章を書かれたのは、『理想世界』百万運動などで、「生長の家」の運動にいのちを懸けよう!と激しい運動が行われていたときでしたが、そのときに
「生長の家人類光明化運動にいのちをかける」とは如何なることか。この「今」にいのちを懸けることである。「今」の一点には全宇宙即「生長の家」があるのである。ここにいのちを懸ける道が開かれているのである。それは全宇宙にいのちを懸けることである。
と、叫び、歌っておられたのでした。
合掌
2002
:
「靖国見真会」参加者
:2013/06/14(金) 13:23:27 ID:0PL7dBUs
「復興G」様へ
》1927 :復興G:2013/06/11(火)に対して
こちらこそ、返事が遅くなりました。
「復興G」様の投稿を読みましたが、それでも私は「ドンキホーテ」との引き方に違和感を覚えるものであります。
だって、「ドンキホーテ」とは、風車に突進するのでしょ?
突進する、これは行動ですよね。
「復興G」様は、どんな行動をとったというのでしょうか?
》私にとっての「ドンキホーテ」について、ちょっとだけ書かせて頂きます。
私は、教団派からも、本流派からもひどく攻撃されたり、嘲笑されたりしながら、相変わらず「大調和」の「和解」だけを信じて、突っ走っているドンキホーテなのであります。《
いつも不思議でならないのは、「和解」派は、教団からどんな仕打ち、憂き目にあっているのか、それがさっぱりわからない、ということであります。
「谷口雅春先生を学ぶ会」に入ったら、「八ヶ岳教団」の対応は全然、違いますよ。
地方講師は辞めさせられるは、永代供養の資格すら剥奪されます!
最近は、皆さん、それを重々、承知の上で、覚悟の上で入会されています。
「復興G」様は、どんな犠牲を払っていると言うのですか?
》教団派からも、本流派からもひどく攻撃されたり、嘲笑されたりしながら、
そう書いていますが、具体的に、「復興G」様が教団派からどんな攻撃を受けているのか、まず、それをぜひ、教えてください。
出講ができなくなっていますか?
教化部から呼び出されて、口頭試問でも受けたことがあるのですか?
それがあってのことであれば、「ドンキホーテ」という言い方にも、私なりの了解はいたします。
しかし、「復興G」様はこうも言っていますよね。
》「訊け」さんのように、「和解せよ」「和解せよ」「和解以外に何があるか」と口では言いませんが、「すでに和解している」実相だけを信じて、それ以外に生きる道はないと、馬鹿の一つ覚えのように思い続けて、やってきました。《
口で言わず、思い続けている…?
それのどこに「ドンキホーテ」を名乗るだけの〝行動〟があるというのですか?!
何を申し上げたいか。
「復興G」様の生き方と「ドンキホーテ」のそれとは違う、そう言いたいということです。
2003
:
復興G
:2013/06/14(金) 14:05:50 ID:AB6RqYXc
>>2002
:「靖国見真会」参加者様。
そうかも知れませんね。
私はドンキホーテというよりは、古代ギリシャの哲学者ターレスかも知れませんね。
ターレスは、いつも天を仰いで星の秘密を探ろうとしていたが、足下の穴に気づかず、穴に落ち込んでしまった。これを見ていたトラキアの娘が大いに嘲笑したという伝説があるということですが、こういう大馬鹿なターレスみたいなものかも知れません。
それはともかく、「靖国見真会」参加者さんは、私の
>>1988
〜
>>1996
の投稿文を読んで頂いて、どう思われるか、そういうことを伺いたいです。
合掌
2004
:
「訊け」管理人
:2013/06/14(金) 14:24:37 ID:???
>>2002
靖国殿
ご投稿大歓迎です。
さて、復興Gさまご登場をお待ちする間に、〝普段は温厚な〟貴殿に質問をさせて頂きます。質問と申しましても之は、以降の復興Gさまとのやり取りに、関連するものであります。で、その質問とは他でもない、「行動」なる用語に関してです。
これは一度、定義された方が良いと思われます。
いや、一見すると貴殿のそれ(「行動」の用語)は、〝生長の家で申されるトコロの〟行動とは、別概念のような気がするのです。ですので、議論錯綜の予感を覚えます。そこで以下、問いかけます。当方に誤読箇所あらばご指摘賜りたく思いますが、貴殿の〝行動〟とは(要するに)「リスクを取れよ」と云う、そんな話なんでしょうか。そして、「辞めた人間はリスクを取っている」など、そんな話が御主張なのでしょうか。
・・・・・・ところで以下、雅春先生の御文章を引用致します。以下は光明思想社という会社から出版された、『古事記と日本国の世界的使命』という本からの御文章です。そこには、こうあります。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
『古事記と日本国の世界的使命』159頁より謹写――
吾等は新日本の前途に就いて毫(ごう)も不安を感じることは要らないのであります。若し憂慮すべしとするならば、三界は唯心所現でありますから、この新日本の実相を信じないで、我国の前途に就て、不安憂慮の声を洩らし、国民の意気を沮喪(そそう)せしめ、国論の団結を破壊してしまう種類の人であって、かかる人は『憂国の人』のように見えましょうとも国民の一致団結を破り、日本の実相の顕現の日を遅らせる働(はたらき)をする人ですから注意せねばなりません。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
さて貴殿に問いますが、この箇所 ―― くどいが、光明思想社という会社から出版された、『古事記と日本国の世界的使命』という本からの御文章 ―― ですけれども、この点はご同意されますか。この、雅春先生の御主張ですけれども、この点にはどの様な感想をお持ちでございますか。(むろん上記御文章の「日本」を「教団」と置き換えられてもよいと思いますので)・・・たぶん、ここの点などに触れられてその、貴殿ご使用の「行動」なる用語ですが、明確にして下さると助かります。議論錯綜の幅を、「最小限にするでしょう」と云う、まあ、そんな意味になります。
拜
追伸
また、生長の家で云うところの「行動」とは、一例を挙げれば
>>1840
になると思います。雅春先生は行動に関して、既に『古事記と現代の預言』の中で、かくおまとめになられておられます。今後の復興Gさまとのやり取りの際のご参考に、掲載致しました。
またさらに、もう一点。貴殿から復興Gさまに発せられた「Gさまはどんな行動をされた?」ですが、これに関して。・・・・・トキさんもそうですが、教団に残られた方って「それはそれは個人救済に特化され」て、おられますよ。(私が知る限りの方は)で、「どんな行動したの?」と問われれば、その、救済した例を提示すれば話しは、終了すると思います。ですが、そんなことはWEB上では「できない」ですよね。(身バレ防止のため)ですんでこの、「どんな行動をされた?」という質問は、やや返答が難しくなるものかも、しれませんね。
2005
:
復興G
:2013/06/14(金) 15:29:49 ID:AB6RqYXc
>>2004
:「訊け」殿。
私は、「ドンキホーテ」でないことは、認めました。
「大馬鹿なターレス」で行きますので、穴に落ちた時は、助けてください。
合掌
2006
:
「靖国見真会」参加者
:2013/06/14(金) 15:40:42 ID:0PL7dBUs
「復興G」様、「訊け」さんへ/その1
私は、『解放への二つの道』にある「信仰の行動化による人類・国家の救済」(『信仰の活人剣』73〜77頁所収)が、とても大事だと感じている一人です。
その締め括りの言葉はこれです。
》人類救済は論議の時代ではなく運動の時代に入っているのであります。
何で、ここを引用したのか、分かる人には分かるでしょう。
「論議」したい人は、いくらでもしたらいい。
しかし、私は「運動」をしたいのです。
そのための場として私が選んだのが「谷口雅春先生を学ぶ会」であったということです。
私は、教団を離れて、日本国実相顕現運動・人類光明化運動を「谷口雅春先生を学ぶ会」という場で展開することこそが、最も谷口雅春先生のご遺志に叶うものだと判断して、ここに身を投ずる覚悟をいたしました。
その判断と行動とが、本当に尊師のご遺志に添うものであるかどうかは、すべて、今後の自らの生き方で決まると思っております。
それこそ自己責任の世界だと思っております。
誰かが、その道で一点突破をはかれば、きっとその道を継いでくれる人もあるでしょう。
「あとに続く者あるを信ず」
三島由紀夫の言葉が大好きです。
そういう私から見れば、「復興G」様とは生き方が全然、違う。
それを言いたかっただけです。
何もリスクを伴う行動しか行動とは認めない、そう言っているのではありません。
谷口雅春先生の教えをどう護るか、その状況認識から、危機感、運動の方法論まで、全然、違うということを申し上げたかったわけです。
2007
:
「靖国見真会」参加者
:2013/06/14(金) 15:43:19 ID:0PL7dBUs
○「復興G」様、「訊け」さんへ/その2
因みに、『古事記と現代の預言』第十一章については、以前、「解説者」さんとのやりとりで書いたことがありますので、それを再録することにいたします。
》1010 :「靖国見真会」参加者:2013/04/18(木)
〈「解説者」さんへ①〉
回答、ありがとうございました。
折角、書いていただきましたが、残念ながら、私に言わせれば、貴兄の述べたことは“空論”でしかありませんね。
よろしいですか。
貴兄が安東先生の名前を出したから、それで言いますが、安東先生が「真理を生きる」4月号の《編集後記》でこう書いておられます。
》谷口雅春先生が天皇国日本の護持の爲、ご建立になったのが龍宮住吉本宮。
その大祭の時、信徒が誓う『誓願券』は最初、次の言葉でした。
『私は鎮護国家・日本国実相顕現を誓願し人類光明化運動に邁進致します』
それが尊師昇天後、変えられました。
『私は宇宙浄化・鎮護国家を誓願し世界平和実現のために邁進致します』
そして4月より又変えられました。
『私は神・自然・人間の大調和による宇宙浄化・世界平和を誓願致します』
ここには「鎮護国家」も「日本国実相顕現」も「人類光明化運動」もありません。
単なる環境・平和の誓願券です。
ああ!!尊師の御教えはどこに行ったのでしょう。《
この教団の現実に対して、どうするのですか…?
それが最も重要なポイントなのです。
少なくとも、私の言動のすべての原点は、ここにあります。
谷口雅春先生の教えをここまで変えてしまった谷口雅宣総裁に、唯々諾々と従うことは、私の「信仰」が赦さないのです。
はっきり言って、貴兄の論は、甚だ失礼ながら、外野席でヤジっているのと何の変わりもありはしません。
実際に、グラウンドでプレーすべきだし、やってみるべきなのです。
2008
:
「靖国見真会」参加者
:2013/06/14(金) 15:46:12 ID:0PL7dBUs
「復興G」様、「訊け」さんへ/その3
》〈「解説者」さんへ②〉
具体的にいいましょう。
折角、貴兄が引用してくれたから、それにもとずいて、書くことにしますね。
〉一、常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)を啼かす。
(常住不変の實相世界の真理を宣布する)
…谷口雅宣総裁が、古事記をはじめとして、「天皇信仰」を学ぶ機会を奪い去ったので、『古事記と日本の世界的使命』を発刊し、また『新編生命の實相』、「聖経」を出版し、真理宣布に務めています。具体的に教団に対峙して戦っています!
〉二、鏡を作りて中枝(なかつえ)に繋(か)ける。
(現象的あらわれを心の鏡として、自己反省して心を改める)
…「谷口雅春先生を学ぶ会」への様々なご意見、ご要望等を謙虚に反省し、それを随時、「谷口雅春先生を学ぶ」誌に反映させてきました。タイトルも、教団批判書というこれまでのイメージを刷新し、コンセプトを「神癒と悦びあふれる月刊誌」として編集しています。日々、精進。日々、成長。無限向上の道を歩もうとしています!
〉三、弥栄(やさか)の眞輝珠(まがたま)を作りて、それを上枝(ほつえ)に繋ける。
(實相世界はすべての魂が真に輝いていて美しく、各々の魂は孤立分離していないで、一つの玉の緒によって統一された大調和の世界であることを観ずる)
…谷口雅春先生は、一代であれほどの組織をつくられました。尊師に学んで「谷口雅春先生を学ぶ会」も、大きな組織力をつけていきたいと思っています。そのために、今、支部拡大、拠点拡大に尽力しています。点を線に、線を面にして、谷口雅春先生の教えでつながるネットワークをつくろうとしています。おかげさまで、ブラジルにまでその火が燃え広がっています!
〉四、實相世界の眞栄木(まさかき)を根こじにこじて現象界に移植する。
(現象が如何に暗黒に見えていても其の暗黒を見ないで、實相の根元世界の光明遍照の有様をジッと観ずる)
…「日本橋道場」では、毎朝、6時30分から、「早朝行事」を実修しています。信仰団体が、朝の行をしなくなったら終わりです。今の教団がダメなのは、早朝行事をしなくなったからだとすら思っています。実相を常に観ずる、宗教行の実践なくしては、“神意”など聞こえよう筈がありませんから!
〉五、白和幣(しろにぎて)、青和幣(あおにぎて)を作って下枝(しずえ)につける。
(人に接するに、必ず和顔愛語の布をもって柔らかく包んで接する)
…「谷口雅春先生を学ぶ会」では、神癒祝福祈願に個人指導を行っています。教団が「救う」ことを放棄している今、それを批判するだけではいけない、それだったら自らそれをやらなくてはならない、そう思っているからです。口先だけの批判では、人はついてはきませんから!
2009
:
「靖国見真会」参加者
:2013/06/14(金) 15:47:00 ID:0PL7dBUs
「復興G」様、「訊け」さんへ/その4
〉六、太御幣(ふとみてぐら)を奉祀して祝詞をあげる。
(〝大生命〟及び祖先の生命をお祀りして聖経又は祝福の祭文を読誦する)
…「谷口雅春先生を学ぶ会」では、「聖使命菩薩会」という制度を設け、毎月一日、感謝祝福祈願祭を執り行っています。また、先祖供養も実修するようになりました。変な「経本」なんかで供養されたらたまらないということで、教団にいる信徒の皆さまもどんどんこちらに霊牌を送って下さっています。有り難いことです!
〉七、天手力男神(あめのたぢらおのかみ)をして待ちもうけさせる。
(機会をはずさず断行の決意をする)
…谷口雅春先生は、宗教が政治に関わることのデメリットを承知しつつ、敢えて、政治に関わる道を選ばれました。生長の家は、生活の全面を光明化する教えです。「全面」というわけですから、政治の世界だって光明化されなければならないのです。そして、政治を通して、人のいのち、国のいのちを救うべく起ち上がっていかれました。その尊師の御心を思うならば、当然、政治に関わらなくてはならない筈です。だって、正統憲法実現、優生保護法改正は谷口雅春先生のご悲願だったのですから!
〉八、天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)にかけ、天之眞拆(あめのまさき)を鬘(かずら)として……云々。
(心を空しく、雑念妄想を無くして、心が裸になって、神のお導きを待つ)
…「谷口雅春先生を学ぶ会」が組織力をつけて、政治をも変えていくだけの力をもつには、常に、神様の御心を聞く姿勢が何より、求められます。「政治」の怖さを知らない、政治に手を染めるな、そういう声があるのも充分に承知の上です。しかし、それでもやらなくてはならないのです。谷口雅春先生のお志しを実現する、そのために私どもは「谷口雅春先生を学ぶ会」に集まっているのですから!
〉九、踏みとどろかし、神懸(かんがか)りする。
(いよいよ、神霊来臨したまい、何を為すべきかを指示し給う。その指示のまにまに、自然に行動する)
…民主党政権によって、日本は隣国から本当に舐められてしまいました。国家主権がこれほど冒瀆されたことはありませんでした。その根っこにあるのが占領憲法なのです。そもそも占領憲法そのものが国家主権が著しく縛られた占領期間中に「押しつけられた」ものなのですから、当然といえば当然のことなのです。その「占領憲法」に一矢報いる、またとないチャンスが安倍政権でやってきたわけです。安倍政権に対して、とやかく言う人に逆に問いたい。安倍政権以外で、真っ向に憲法を問う人がどこにいるのか、と。つまり、安倍政権に難癖つけたがる人は、谷口雅春先生がどれほど占領憲法を批判なさったか、その尊師の悲しみがわからない人なのだと私は思っております!
〉十、八百萬(やおよろず)の神共に咲(わら)いき。
(暗い表情を棄てて、既にあたかも光明が輝き出たのを悦ぶ如く、明るい笑顔をもって行動する)
…それだからと言って、決して悲愴感にくれていてはいけません。生長の家は徹底した、光明思想であります。「谷口雅春先生を学ぶ会」の行事は、いつも笑いが溢れています。希望に輝いています。それが何よりの特長であるとすら自負しています。だから、どんどん会員が増えていっているのだろうと思ってもおります。明るくなければ「谷口雅春先生を学ぶ会」ではありません。そんな思いでやっております!
以上、具体的にプレーしている側から申し述べさせていただきました。
2010
:
復興G
:2013/06/14(金) 23:05:49 ID:AB6RqYXc
>>2006
:「靖国見真会」参加者 様
>>私は「運動」をしたいのです。
そのための場として私が選んだのが「谷口雅春先生を学ぶ会」であったということです。
私は、教団を離れて、日本国実相顕現運動・人類光明化運動を「谷口雅春先生を学ぶ会」という場で展開することこそが、最も谷口雅春先生のご遺志に叶うものだと判断して、ここに身を投ずる覚悟をいたしました。
その判断と行動とが、本当に尊師のご遺志に添うものであるかどうかは、すべて、今後の自らの生き方で決まると思っております。
それこそ自己責任の世界だと思っております。<<
――お気持ちは、わかりました。
ところで、私の立ち位置、私の思いをもう少しわかっていただきたく、書かせて頂きます。
>>1990
で書かせて頂いた東京の二葉美代さんは、教区連合会長退任後も「みすまる道場」というのをつくって、平成20年9月に90歳で倒れられるまで毎朝の早朝神想観、毎月1回熱気に満ちた「古事記」講義の勉強会、母親教室、生命学園などを続けられ、20年12月に天寿を全うして昇天されましたが、同年10月に次のような(古事記講義)終講のことばというのを勉強会参加者の人たちに送られました。
○
終講のことば 二葉 美代
合掌 ありがとうございます。
皆様には毎月近くから遠くから愛深くご参集下さいまして 勉強会を盛り上げて頂き 誠にありがとうございました。お蔭様で長いことうれしい たのしい会が続けられましたことを心から感謝申し上げます。
ご存知の通り 九月二十六日のみすまる勉強会の日 どうしたことかピタリと声が出なくなり 勉強会を続けることができなくなりました。まことに申し訳御座いませんでした。
どうぞお許し下さいませ。本当に長い間 ありがとうございました。
さてこの勉強会は、戦後の乱れた日本を何とかして昔の愛国一本に澄み切った心の国にもどしたいと 谷口雅春先生の燃える様な愛国の書 『古事記と現代の預言』・『限りなく日本を愛す』・『国のいのち人のいのち』・『美しき日本の再建』等々をテキストに致しまして 世界の光明化 日本国実相顕現を標榜して始めたものでございます。
世界に比類なき真理国家日本を本当に知ること これが大切と 天地初発の真理より しっかりと学んで参りました。
しかし、このたび『限りなく日本を愛す』のご本のなかに
新しい人生を作り出す基礎は 過去を捨てる諸君の能力にある。
敗戦の日本なし、実相の日本のみ独在す、真の愛国心は、この実相日本を礼拝する心にほかならないのである。実相のみを愛し 実相のみを観てゆけばよいのである。人類光明化運動も 愛国運動も 暗黒を認めた上でそれを消すための運動ではないのである。
暗は、本来ない 現象は本来ない、唯光明があるだけ
現象の日本なし 実相の日本のみ実在す 真の愛国心とは、この実相日本を礼拝する心にほかならないのである。
……とございました。
ダメになった日本を良くしようと始まった私たちは間違っていました。それをしっかり観じられる私たちでなければなりません。
でも 私一人が観じても どうなるものでもないと仰いますますか?
谷口雅春先生は、一人が悟れば世界が悟ると仰せになっていらっしやいます。
世界は、一つ生命の展開です。自分が宇宙の中心であり そして全てなのですね。
まだまだ学ばねばならぬことが山ほどありますが 残念です。
どうぞ皆様 今後ともしっかりと実相独在の日本を観じ続けて下さいませ。 合掌
日の本の天壌無窮の弥栄を
いのちをかけて護れ継ぐ人
<つづく>
2011
:
復興G
:2013/06/14(金) 23:06:24 ID:AB6RqYXc
<つづき>
平成23年12月、「故 二葉美代先生 三年祭」というのが有志発起人の呼びかけで金町の大きな会場で行われ、教区白鳩会の現あるいは元連合会長をはじめ錚々たる役員の方たちはもちろん、近隣教区の方も含め、二葉先生を慕うたくさんの人たちが集う熱気溢れる三年祭になりました。「二葉先生、大好きです!」と御霊前で叫ぶ人もいて、いかに二葉さんがたくさんの人たちから慕われていたかがわかりました。
このときに、前記の「終講のことば」というのも、プリントして参加者に配られたのでした。
≪ダメになった日本を良くしようと始まった私たちは間違っていました。それをしっかり観じられる私たちでなければなりません。
でも 私一人が観じても どうなるものでもないと仰いますますか?
谷口雅春先生は、一人が悟れば世界が悟ると仰せになっていらっしやいます。
世界は、一つ生命の展開です。自分が宇宙の中心であり そして全てなのですね。≫
これは、とても思い言葉であると、私は思います。
谷口雅春先生は、昭和43年の参議院選挙のあと、生政連活動の凍結を決断され、
「聖胎長養のため宗教に専念せん」と『明窓浄机』にお書きになりました。
この「聖胎(しょうたい)長養」とは何か。
「聖胎」は仏の種子、仏となり得る種を宿すことをいう。
禅宗においては、見性(けんしょう=悟り)を得た心身をさらに長く養い、悟りを育てる悟後の修行を「聖胎長養」という。
白隠はその法語で、永遠の「悟後の修行「を」勧め、たとえ悟りを得ても菩提心がなければ魔道に堕(お)つと説く。菩提心とは上求菩提(座禅・公案の修行)と下化衆生(人を助ける法施)の実践、それが菩提心であると説いた。
谷口雅春先生は、
◆『選挙戦を終りて 更に聖胎長養のため
宗教に専念せん』◆
と題して
≪ 政治の一面は権力争闘であるから、そして権力は数の獲得によって得られる。従って政治に重点をおくとき、そうなるのは無理もないことなのである。鳩山一郎氏が生長の家に熱心で、総理大臣であった頃、私は立候補を思い立ったことがあったが、鳩山薫夫人が「先生のような宗教家はいつまでも清らかでおってほしい。政界へ出てはいけない。政界ほど複雑できたない処はないから」といって止めて下さった。それで私は政界へ出ることをそのとき思い止まったのであった。
今、私は今度の参院戦で勝利を得て、勝に乗じて尚進んで政治戦に盡くすべきか、暫く退いて宗教の純粋圏に止まるべきかについて考えをめぐらすとき、“今暫く退いて宗教の純粋圏のサークルをもっと大きくすることに力を盡くすべきだ”と思わずにはいられないのである。≫
と、昭和43年10月号の『明窓浄机』にお書きになっているのであります。
私は、今、この「聖胎長養」に専念する時であると考えます。
<つづく>
2012
:
復興G
:2013/06/14(金) 23:07:30 ID:AB6RqYXc
<つづき>
それは、榎本恵吾先生が、
天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて
――人類光明化運動の楽的展開論――
として、
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
○ 神は絶対であり、絶対には分裂がない。分裂がないのが「久遠の今」なのである。今と久遠が分裂せず、自己と世界が分裂せず、目的と手段とが分裂せず、今此処に自己と世界が一点に生きて完全であり、しかも無限に創造がなされてゆく。ここに真の「光」の創造的進軍がある。
○ 「生長の家人類光明化運動にいのちをかける」とは如何なることか。この「今」にいのちを懸けることである。「今」の一点には全宇宙即「生長の家」があるのである。ここにいのちを懸ける道が開かれているのである。それは全宇宙にいのちを懸けることである。
○ 「御教えの本に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。
○ 我々は「唯神実相論」をそのまま信じることを忘れ、現象への妥協や曇った迷いの上に立つとき、『生長の家』に生命を捧げる情熱は湧くものではないのである。それはついに気合か、掛け声に終るのである。
○ 人が生きるとは、絶対が生きることであり、絶対が生きるとは実相独在を生きるということであり、実相独在をもち続けることが生命の純粋持続ということである。この他には、光明というものはなく、光明化運動というものはなく、創造というものはない。
○ 尊師がこの世に、『生長の家』誌を出される決心をされたときに聴かれた声は、「今、起て!」という大いなる天徠の声であった。尊師は万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とは一つであるとお説きになられる。即ち、「今」とは「尊師」のことなのである。
○ 「今、起て!」のことばは万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とが実相全機の現成として響いたのである。そして、実相の世界に於いては永遠に常に「今、起て!」というコトバが全機の働きとして鳴り響いているのである。
○ 常に、実相の大地に降り立ち、尊師のいのちに参ずるものはこの声を聴くことが出来るであろう。そこにこそ運動の中において一人一人の一挙手一投足に本当の尊師のいのちへの回帰があり、帰命がある。此処においてはじめて本当の意味における尊師のいのち――生長の家人類光明化運動への情熱が吾々各個の中に生まれるのである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――と書かれている、その道一筋に突き進むことであると信じているのであります。
2013
:
復興G
:2013/06/15(土) 07:10:09 ID:AB6RqYXc
「靖国見真会」参加者 様
靖国様も、私も、めざすとことろはおそらく同じなのだと思います。
ただ、現在の行動・運動の出発点を 「實相独在」 なる 「久遠の今」 とするか、それとも現状の 「危機感」 からの出発とするか、その違いがあるだけで、
めざすところは谷口雅春先生のお説きくださった中心帰一の神の国の実現、日本の実相顕現ということでしょう。
今いるところはどこであっても、私たちは神においてもともと一つであること、その意味では分かちがたく一体であることは間違いありません。
「靖国見真会」参加者様と、「谷口雅春先生を学ぶ会」の上に、大いなる神様の祝福と御導きが天降り、光の進軍をされますことを祈ります。
合掌
2014
:
復興G
:2013/06/15(土) 07:17:05 ID:AB6RqYXc
>>2011
誤記訂正です。
× 白隠はその法語で、永遠の「悟後の修行「を」勧め、……
○ 白隠はその法語で、永遠の「悟後の修行」を勧め、……
でした。失礼しました。
2015
:
「訊け」管理人
:2013/06/15(土) 08:09:10 ID:???
>>復興Gさま
>>靖国さま
ありがとうございます。なお
>>2013
ご投稿の件は、私も靖国殿に伺ってみたい点でありました。同氏からの回答が楽しみです。
さて、やや余談の様なお話です。テーマは「学ぶ会の長期展望」というものに、なりましょうか。いやその、二葉さんのお話を拝読しながらフッと思った件です。以下その「フッ」と思った点を靖国殿へ、問いかけてみようと思います。
問いかけの点は、「愛国書の著作権」です。
日本国の實相顕現(?)を目指される方々、それが「学ぶ会」だと伺っております。ですが、肝心の著作権は愛国書に関しては、「有しておられない」わけです。(この点重要)
さて、この現実を踏まえられて今後の長期的展望ですが、いったいどの様なものになるのでしょう。ここが、一部外者から観ておりますと、興味深い点です。さらには、(『生命の實相』等は得たとは申せ)愛国書の著作権ですが、使用しようと思われれば教団との良好な関係なども、必須案件とはならないのでしょうか。この点が、疑問です。
・・・・・今回裁判では、愛国書の著作権までは「得ることは出来なかった」分派側です。でも、目指される場所は、〝日本国の實相顕現〟との事です。長期的に見た場合、「ずいぶんムリが出てくるのでは」という懸念は、当然浮上すると思いますがいかがでしょうか・・・・・(やや、誌友会テーマからハズレますが)
拜
2016
:
復興G
:2013/06/15(土) 08:25:07 ID:AB6RqYXc
>>2015
:「訊け」さん
それはちょっと誌友会テーマから外れすぎではありませんか? 元に戻しましょう。
2017
:
復興G
:2013/06/15(土) 08:57:06 ID:AB6RqYXc
私は、この誌友会の目的は、『生命の實相』をテキストとして真理――宗教的真理にうがち入ろうということだと思っています。
ここで「組織運動と信仰生活」というのは、外面的な手段・方法論ではなく、内面的な魂の問題として捉え、考えるべきテーマだと思っています。
『生命の實相』第6巻の冒頭に、
≪「生長の家」が人類に告げんとするところは、人間の実相のなかにすでにすべてのものが備わっている、外に求むるよりも内に求めよということであります。≫
今朝の新聞に、幻冬舎の本の広告で
「神様にほめられる行き方」―上へ上へと伸びるより、奥へ奥へと歩みなさい―
というのが目にとまりました。
外なるものは内なるものの展開ですから、まず「外」より「内」に向かうのが信仰姿勢でしょう。特に、このweb誌友会板では。
日本の実相顕現は、外なる愛国書の著作権など、あまり関係ないと思います。
その気になれば、いくらでも谷口雅春先生の愛国書を読むことは可能です。
著作権問題などについては、別の板でやってほしいと思います。
2018
:
復興G
:2013/06/15(土) 09:31:46 ID:AB6RqYXc
私が「聖胎長養」という言葉に注目したのは、ある日の日経新聞「交遊抄」欄を読んで、でした。
東京高裁長官の吉戒修一氏が、「交遊抄」で、四天王寺大学客員教授の中島尚志から聞いた言葉として、
≪「聖胎(しょうたい)長養」。こんな言葉を、会合の席で中島さんから教わった。悟りを得た後も修行に努め、さらに悟りを育てるという意味だそうだ。人は誰でも自分の中に良い物を持っている。軸をぶらさず、それを大切に育てることが大事なのだと、自分なりに納得している≫
と書いておられました。
その「良い物」とは、深く宗教的に言えば、「久遠の今」なる神であり仏である。――そう思います。
それをぶらさず、大切に育てることが大事だと、あらためて不退転の決意を固めました。
ありがとうございます。
2019
:
復興G
:2013/06/15(土) 09:44:55 ID:AB6RqYXc
司会者「訊け」管理人殿。
このweb誌友会、いつまでも際限なくだらだらと続けるのではなく、期限を切って一旦終了することにしたらいかがでしょうか。
2020
:
復興G
:2013/06/15(土) 12:52:03 ID:AB6RqYXc
>>2013
で私は何も靖国殿からの回答をもとめてはいません。
ただ<「靖国見真会」参加者様と、「谷口雅春先生を学ぶ会」の上に、大いなる神様の祝福と御導きが天降り、光の進軍をされますことを祈ります。>
と言っているだけであります。ありがとうございます。
2021
:
「訊け」管理人
:2013/06/15(土) 15:08:48 ID:???
>>復興Gさま
>>誌友会ご参加各位
了解致しました。それでは、
>>2000
につづきまして再度、誌友会の「終了」をここに宣言致します。誠にありがとうございました。
なお真摯な求道者の方は、ぜひ、いろいろなご投稿をお寄せくださいませ。会は終了致しましたが、今回のテーマは相当に重いもので、ありました。後日いろいろな意見が登場することは、有り得ましょう。その際は、会終了に関わりなくご投稿の方を、宜しくお願い致します。
それでは、特に長時間のご指導を賜りました復興Gさまに対しまして、感謝の意を再度表明致します。次回もぜひ、宜しくお願い致します。ありがとうございました。
拜
2022
:
「訊け」管理人
:2013/06/15(土) 16:05:17 ID:???
※
>>2000
にて会の終了ですが、宣言しておりませんでした。ご参加各位には大変ご迷惑をおかけ致しました。
ワードで作成した際、後半部分を転写忘れを起して仕舞ったと思われます。申し訳ありませんでした。
拜
2023
:
トキ
:2013/06/15(土) 16:43:51 ID:s/IUt0Nk
復興G様、ご多忙の中、貴重な御時間を誌友会のために提供して下さり、後進の指導に当たられた事に
深く感謝申し上げます。多くの信徒にとって、励みと指針になったと確信します。
司会を努めて下さった「訊け」管理人 様、お忙しい中、司会をして下さり、深く感謝申し上げます。
たいへん盛り上がった会になりました。
投稿して下さった参加者の皆様、心から感謝申し上げます。皆様のおかげで、実りのある内容になりました。
厚く御礼を申しあげます。
閲覧者様、ご覧下さり、ありがとうございました。心から御礼を申しあげます。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
2024
:
復興G
:2013/06/15(土) 16:50:21 ID:AB6RqYXc
>>2021
・
>>2022
:「訊け」管理人様
いやあ、本当に長時間にわたり、司会ごくろうさまでした。
>>2000
で、簡潔にして完璧なまとめをしていただき、ありがとうございました。
そこで回の終了宣言をされてなかったのは、転写忘れのミスだったのですね。了解しました。
ありがとうございました。
なお、「後夜祭」は自由に、ということになりますね。
しかし、長文の重い文章がたくさん掲示されたので、皆さま、消化に時間をかけて頂いた方がよろしいでしょう。
一休さんじゃないけれど、「一休み一休み」ですね。
ありがとうございました。
>>2015
訊けさんの投稿は、後夜祭での投稿なら、別に問題はないと思います。失礼しました。
2025
:
復興G
:2013/06/15(土) 16:59:26 ID:AB6RqYXc
トキ様
ユタカ様
ご参加下さいました皆々様
閲覧下さいました皆々様
本当に、本当にありがとうございました。
私が一番勉強させて頂いたと、心から感謝申し上げます。
さあ、これからが新しい出発です。
「光明一元」の実相地に立って、永遠の喜びの前進をいたしましょう!
皆々様の上に、神の無限の祝福――無限の智慧、愛、生命のさきはえを受けて、
限りない光の前進がなされますように、神様の大いなるお導きをお祈りいたします。
ありがとうございました。
合掌
2026
:
復興G
:2013/06/16(日) 00:38:02 ID:AB6RqYXc
皆さま、ありがとうございます。
第14回web誌友会は、6月7日(金)に、a hope様が開会の祈りの言葉として、聖経「続真理の吟唱」より
〈住吉大神を顕斎殿に迎え奉るための祈り〉
と、それから
聖経「続真理の吟唱」より 〈如意宝珠を神より授かる祈り〉
を謹写掲示してくださって始まったのでした。
先ほど、司会者「訊け」管理人様から「終了宣言」はしていただきましたが、「閉会の祈り」をしていませんでした。
誌友会は必ず祈りに始まって祈りに終わることになっていますので、これから閉会の祈りの言葉を掲示させて頂きます。
○
生きとし生けるものを生かし給える御祖神 元津霊ゆ幸へ給え。
吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の機能。
天地の祖神の道を伝えんと顕れましし 生長の家の大神守りませ。
生長の家の大神様 ありがとうございます。ありがとうございます。
第14回web誌友会を、大神様の御導きにより、最高の真理の奥殿に導かれ終了することができましたことを感謝申し上げます。ありがとうございます。ありがとうございます。
私たちは、大神様のお導きにより、次のことをはっきりと自覚させていただきました。
≪我々の運動の根拠となるもの、それは生命、実在だけであり、一瞬一瞬に久遠と無限を生きることである。
今此処の一点に、宇宙と天皇と日本と世界と久遠とを生きることである。
人が生きるとは、絶対が生きることであり、絶対が生きるとは実相独在を生きるということであり、実相独在をもち続けることが生命の純粋持続ということである。この他には、光明というものはなく、光明化運動というものはなく、創造というものはない。けだし、実在以外は「無」であるからである。
私達一人一人が実在そのものであり、神そのものである。このことを教えられている私達にはもはや後退ということはあり得ない。金剛不壊の実在の巨歩があるのみである。私達が実相であり、金剛不壊であり、巨歩そのものであるから。そして、祈りそのもの、神想観そのものの生きて歩む姿としての人類光明化運動が今、此処に立っているのである。それが、今ここに「住吉大神の全身全霊として生きる」ということなのである。≫
○
新たに生まれるための祈り
われ今、合掌、天地四方を礼拝して、天地一切のものに感謝し奉る。古き天と地と四方一切のものは過ぎ去り、役目を果たし終りぬ。
ここにわれ住吉大神に導かれて龍官海に入り、龍宮城の“神癒の社(やしろ)”に入り、大神の御前に坐して大神を礼拝し奉る。大神、右の手をあげてその掌もてわが全身を撫下(ぶか)し給いて霊をもって我を浄め給う。
古き現象界の人類意識の妄想ことごとく浄められて、わが実相完全のすがたここに顕われたり。
今より後、一切の悩みあることなく、苦しみあることなく、病いあることなく、老衰あることなく、貧しさあることなく、悲しみあることなく、憂いあることなし。
久遠不滅の生命われに宿れり、常住健康、歓喜無限の生命なり。
われ住吉大神の御禊(みそぎ)を受けて霊によって潔められ、霊によって復活のいのちを受けしことを、大神に感謝し奉る。
今後、われ現象界に帰還したる後も、永遠にこの自覚をもちて生活せんことを大神に誓い奉る。ありがとうございます。
(『如意自在の生活365章』21〜22頁より)
住吉大神様 web誌友会を正しく導き給い、参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給いしことを感謝申し上げます。ありがとうございます。ありがとうございます。
2027
:
復興G
:2013/06/16(日) 00:39:23 ID:AB6RqYXc
世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。
光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
ありがとうございます。ありがとうございます。
2028
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 01:15:44 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま
心配しておりました、お祈りを有難うございました。
まだ、全部は読んでいませんが、「久遠の今を生きる」修行を究極まで行った場合はそれは、動的信仰へと移行していくのでは?と思います。
その動的運動が諸団体の動きに繋がっていくと思うのですが・・・ 教団で「久遠の今」を自覚して自分を喜べたら次にどういう行動をしますか? 総裁の独演講習会以外は30人以上の会合がもてなくて憂国の戦いが出来ますか・?
静的工夫ができたら、次は動的工夫に移ると第8巻の観行編に書かれてあります。
あと、次に童子さんのブログから転載したものを貼り付けます。 現状の日本を憂いて心ある政治家を応援しているのは、学ぶ会などの諸団体です。
雅宣総裁は民主党を育てたいとブログに書かれていましたが、訊け氏はなぜか創始者谷口雅春先生と思想は一致するとおしゃるので分かりません。
2029
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 01:18:29 ID:R1D4Jmeg
>>童子さんのブログから
>>肉体民主主義
谷口雅春先生に率いられる 『人類光明化』 運動は、発祥の当初から、この岩波文化人的類型とは決定的な質と次元の相異があり、民族の伝統をふまえて全人類的普遍性・世界性を目指したのである。
それは昭和6年の 『大調和の神示』 にある 『皇恩に感謝せよ』 の一語に端的に示されている。 谷口先生において、皇室への忠誠は人為の所産でなく、じつに神の道であり、建国以来の国民の中心たる精神であった。 国民はこの独自性を奉じてのみ全人類的な永遠と普遍につながり得るとされるのである。
政治結社 生政連の成立に先立つ一年近く前、すなわち昭和38年頃だった。 東京飛田給練成道場で研修会があり、私は一時間ほど前座を勤めることになっていた。 いつもの総裁の御部屋でお茶をいただきながら、時間のくるまで御話を伺った。
そのとき、私は初めて先生の直接の御話の中に 『肉体民主主義』 という言葉を聞いた。 いままで誰も言ったことのない、誰も聞いたことのない言葉なので、私は異常な緊張を覚えた。
『民主』 というときの 『民』 が、煎じ詰めると肉体人間にすぎない。肉体的要求を言い張ることが個人の自由であり権利だという思想をそのままにして民主主義を金科玉条にする今の日本の病根の最深部にメスを入れての御発想であった。
欲望の塊りは、断じて個性であることはできない。 『個性というものは、いわばシンフォニーにおける演奏者のようなものだ。 バイオリンはバイオリン独自の音色、ピアノはピアノ独自の音色、クラリネットはクラリネット独自の音色を十全に発揮して、それらの個性が一大調和を成すのであって、全てがひとしく同じ欲望の対立的騒音を出すのでは、オーケストラの調和は成立しない』 『各自が勝手次第な要求を言い張って、ただ不協和な騒音を立てているだけで。 こんな情況をつづけていたら、日本はやがて共産化する。 コンダクターという中心がどこにもないからだ』
こう言って先生は、しばらく憮然として沈黙された。 私はそのときの先生の沈黙を忘れることができない。
ややあって、 『田中君、やはり政治結社を作ろう。 作って運動を開始しないと、間に合わなくなる』
政治結社のことは、それより二年も前から出ていたが、まだ踏み切れない状態だった。 現憲法が憲法の名に価しないこと、優生保護法の不条理なことについての烈々たる先生の御批判もつづいているときであった。
ただ、私においては、あの飛田給での先生の憂国の御言葉を聞いたとき、自分は先生の悲願である日本の政治姿勢を正すためには、やりかけた自分の学問的な仕事などは中断しても、粉骨砕身して悔ゆることなし、と腹をきめたのであった。
田中忠雄 著 『雄峯一膳飯』 より
2030
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 01:26:11 ID:R1D4Jmeg
谷口雅春先生が昭和38年にすでに 「もう間に合わなくなる」 とおっしゃって・・・
今、昭和が終わって何年たったの? それで、裁判だなんだのとスッタモンダして・・・
そんなことやってる場合か??? 日本人性根の腐れ具合を見よ! 私も骨抜きにされているワイ!!
2031
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 01:28:51 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま・・・
あくまでも、私はまだ、全文読んでいないまま発言しています・・・
2032
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 07:21:10 ID:R1D4Jmeg
>>◆『選挙戦を終りて 更に聖胎長養のため
宗教に専念せん』◆
と題して
≪ 政治の一面は権力争闘であるから、そして権力は数の獲得によって得られる。従って政治に重点をおくとき、そうなるのは無理もないことなのである。鳩山一郎氏が生長の家に熱心で、総理大臣であった頃、私は立候補を思い立ったことがあったが、鳩山薫夫人が「先生のような宗教家はいつまでも清らかでおってほしい。政界へ出てはいけない。政界ほど複雑できたない処はないから」といって止めて下さった。それで私は政界へ出ることをそのとき思い止まったのであった。
今、私は今度の参院戦で勝利を得て、勝に乗じて尚進んで政治戦に盡くすべきか、暫く退いて宗教の純粋圏に止まるべきかについて考えをめぐらすとき、“今暫く退いて宗教の純粋圏のサークルをもっと大きくすることに力を盡くすべきだ”と思わずにはいられないのである。≫
と、昭和43年10月号の『明窓浄机』にお書きになっているのであります。
私は、今、この「聖胎長養」に専念する時であると考えます。
<つづく>
この場合は【 参議院 で 勝利した 】後の、< 目的を持った > さらに次に 躍進、進軍するための聖体長養でしょう・・・・どう考えても・・・・
現在、生政連もなく、勝利した参議院議員もない今に、「聖体長養」の言葉に甘えて巨体がひっくり返って起き上がれないように思います。
また、尊師の言葉を都合のいいように利用して、
生長の家に「学校」が立たない、光明化運動が「進まない」訳がこういうような所に見えてきた気がします。
尊師の晩年には尊師は親しい人にはこうもらしていたそうです。
生長の家の運動が消極的になってしまったことを憂い、尊師に当時の運動が生長の家をダメにすると危機感を抱いた大者信徒が公邸に参上して訴えましたところ、
「今は組織が大きくなって色々な決定は理事会で決定しているから、もう、僕の意思は通らないんだよう。。」
と嘆いていたと、その方の娘さんから、直接聞きました。復興Gさま、私は現況の教団に榎本先生の
お話は合わないと思いますし、今頃「聖体長養」を持ち出す時期と違うと思いますが、いかがでしょうか?
また、二葉美代様の辞世の手紙はありとあらゆる運動、特に、、、平成何年だったか、当時の白鳩誌12月号の純子総裁のご皇室に対する発言に対しては、烈火のごとくにお怒りになり、その月の「普及誌は配布しないでよい」と、ご指導なさり、純子総裁には、「もっと、勉強なさってください!」と内容の濃い手紙を送られました。 返事は全く来なかったようです。
二葉先生は実相世界に常に波長を合わせ、ご愛行も沢山して、現象界をしっかり見すえて、地に足をつけたしっかりとした運動をされつくしましたように思いました。
そのような現象の運動をやりきった後の、亡くなる寸前にベッドの上で書かれた、運動をある意味で成し遂げた先生のお手紙でしょう。
最後の 【 天壌無窮の弥栄を 生命をかけて 護れ継ぐ人 】 と言う二葉美代先生の辞世の句に先生の気持ちが溢れていると懐かしく思います。
本部の秋の功労者慰霊祭の際、息子さんが遺族代表で壇上でご挨拶をなさった際に、この美代先生の 辞世の句 を同じ壇上にいた雅宣総裁の方へ、クルっと向いて読み上げたそうです。
ちなみに、功労者の遺族を大勢本部が招待してわざわざ来てもらっているにもかかわらず、 終了してのお帰り頂く際に、玄関の門は閉められ、通用口から出されて帰らされた事もあわせて言わせて頂きます。
光明で完全円満なはずの、本部のこのような不行届き はどこから 来るのでしょうか??? 実相がそこにあることを本当に自覚して喜ぶということは容易な事ではないような気がします。
2033
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 07:32:54 ID:R1D4Jmeg
自己主張のための再投稿
>この場合は【 参議院 で 勝利した 】後の、< 目的を持った > さらに次に 躍進、進軍するための聖体長養でしょう・・・・どう考えても・・・・
現在、生政連もなく、勝利した参議院議員もない今に、「聖体長養」の言葉に甘えて巨体がひっくり返って起き上がれないように思います。
また、尊師の言葉を都合のいいように利用して、
生長の家に「学校」が立たない、光明化運動が「進まない」訳がこういうような所に見えてきた気がします。
尊師の晩年には尊師は親しい人にはこうもらしていたそうです。
生長の家の運動が消極的になってしまったことを憂い、尊師に当時の運動が生長の家をダメにすると危機感を抱いた大者信徒が公邸に参上して訴えましたところ、
「今は組織が大きくなって色々な決定は理事会で決定しているから、もう、僕の意思は通らないんだよう。。」
と嘆いていたと、その方の娘さんから、直接聞きました。復興Gさま、私は現況の教団に榎本先生の
お話は合わないと思いますし、今頃「聖体長養」を持ち出す時期と違うと思いますが、いかがでしょうか?
また、二葉美代様の辞世の手紙はありとあらゆる運動、特に、、、平成何年だったか、当時の白鳩誌12月号の純子総裁のご皇室に対する発言に対しては、烈火のごとくにお怒りになり、その月の「普及誌は配布しないでよい」と、ご指導なさり、純子総裁には、「もっと、勉強なさってください!」と内容の濃い手紙を送られました。 返事は全く来なかったようです。
二葉先生は実相世界に常に波長を合わせ、ご愛行も沢山して、現象界をしっかり見すえて、地に足をつけたしっかりとした運動をされつくしましたように思いました。
そのような現象の運動をやりきった後の、亡くなる寸前にベッドの上で書かれた、運動をある意味で成し遂げた先生のお手紙でしょう。
最後の 【 天壌無窮の弥栄を 生命をかけて 護れ継ぐ人 】 と言う二葉美代先生の辞世の句に先生の気持ちが溢れていると懐かしく思います。
本部の秋の功労者慰霊祭の際、息子さんが遺族代表で壇上でご挨拶をなさった際に、この美代先生の 辞世の句 を同じ壇上にいた雅宣総裁の方へ、クルっと向いて読み上げたそうです。
ちなみに、功労者の遺族を大勢本部が招待してわざわざ来てもらっているにもかかわらず、 終了してのお帰り頂く際に、玄関の門は閉められ、通用口から出されて帰らされた事もあわせて言わせて頂きます。
光明で完全円満なはずの、本部のこのような不行届き はどこから 来るのでしょうか??? 実相がそこにあることを本当に自覚して喜ぶということは容易な事ではないような気がします。
2034
:
復興G
:2013/06/16(日) 20:32:23 ID:AB6RqYXc
ユタカ様
投稿、ありがとうございました。
今日はリアルの誌友会がありました。
午後からだったんですが、午前中はその準備作業に没頭していて、ここを見る余裕はありませんでした。
帰ってきて食事をして、今、見ています。
さて、ユタカさんは、「久遠の今」というのがまったくわかっておられないようですね。
>>2028
に、
>>「久遠の今を生きる」修行を究極まで行った場合はそれは、動的信仰へと移行していくのでは?と思います。<<
と書かれていますが、<「久遠の今を生きる」修行を究極まで行ってから動的信仰へと移行していく>なんて、とんでもない、全然違います。
「久遠の今を生きる」のは「上求菩提」の修行ではなく、「下化衆生」の菩提心を行ずるときの出発点と言えましょうか。
>>静的工夫ができたら、次は動的工夫に移ると第8巻の観行編に書かれてあります。<<
――違うでしょう、逆ではありませんか。第8巻の「はしがき」には、次のように書かれています。
≪すなわち「生活篇」においては、人間の円満完全なる実相を生活上の実践において、動的工夫の内にそれを実現する道を説いたのであった。しかし単に動的工夫だけでは、ともすれば浮き世の現象的同様に左右されて、深く“実相”の内部に沈潜することができないうらみがある。こにさらに静的工夫によって、あたかも潜水夫が海の底ふかく沈んで貴い真珠を採取して帰るように、深く人間の“実相”に沈潜して、人間の貴い内部にある“実相”――すなわち本来円満完全にして無限知・無限愛・無限力量なるものを現実にまで獲得してこなければならない理由があるのである。≫
と。
「生活篇」の動的工夫は誰にもわかりやすく、やさしいのです。しかし、その基礎に実相の自覚がない「動的工夫」では、まちがうおそれがあるのです。
神――実相を出発点にしないで、現象から出発した動的信仰では、
≪各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引きで、多数の盲人を河中へ突き落とすようにエッサエッサと改造の掛け声を掛けながら、現在の人類をまた別の地上地獄へ突き落とすに違いないのであります。≫
と、このたびのテキスト『生命の實相』第3巻にも(p.94)あったではありませんか。
>>2030
>>谷口雅春先生が昭和38年にすでに 「もう間に合わなくなる」 とおっしゃって・・・
今、昭和が終わって何年たったの?<<
――昭和38年当時は、天皇崇拝の愛国者などというのは極めて少数で、暴力革命を志向する左翼勢力が圧倒的だった。だから今立たなければ「もう間に合わなくなる」とという状況だったのです。しかし今は、状況は全く一変しています。
>>今、昭和が終わって何年たったの?<<
というのは、こちらがユタカさんに申し上げたい言葉です。
>>2032
>>復興Gさま、私は現況の教団に榎本先生のお話は合わないと思いますし、今頃「聖体長養」を持ち出す時期と違うと思いますが、いかがでしょうか? <<
――私は、今こそ現況の教団に榎本先生のお話は、この時のために用意されていたのかと思われるほど、ぴったりのお話だと感じています。
「聖体長養」ではありません、「聖“胎”長養」です。
ユタカさんは、「聖胎(しょうたい)長養」がどういう意味を持っているのか、わかっていますか?
わかっていれば、今こそ「聖胎長養の時」だということがわかると思いますが。
私は、「聖胎長養」を本気でやらなかったから、
>>(生長の家教団の)巨体がひっくり返って起き上がれないように思います。また、生長の家に「学校」が立たない、光明化運動が「進まない」訳がこういうような所に見えてきた気がします。<<
と、申し上げたいです。
2035
:
復興G
:2013/06/16(日) 20:37:21 ID:AB6RqYXc
>>2034
誤字訂正です。
× 浮き世の現象的[同様]に左右されて
↓
○ 浮き世の現象的[動揺]に左右されて
2036
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 21:01:50 ID:R1D4Jmeg
復興G様
聖胎長養 とは、胎とはお腹の胎児の胎だから、内にこもって、長い時間聖なるものを修行すると思います。
間違えていたら、教えてください。
復興Gさまの返信がどうしてそうなるかわかりません。 学校が建たない理由を特に知りたいです。
2037
:
復興G
:2013/06/16(日) 21:17:05 ID:AB6RqYXc
>>2036
:ユタカ様
>>2011
の中ほどの所と、
>>2018
を、まずごらんください。
私は、「久遠の今」に立って、ぶれることなく、無限力を発揮して「下化衆生」の菩提心を行ずることだと思っています。
ありがとうございます。合掌
2038
:
トキ
:2013/06/16(日) 22:24:05 ID:5sD5Sd62
ユタカ 様
谷口雅春先生がある不動産業者から別荘地用の土地を寄付され、学校の建設を企画されたが、
いろいろな事情で断念し、土地も元の所有者に返還されたことがあったようです。昔の神誌に、
その経過を書かれたご文章があったと記憶しています。探してみて、見つかったら掲載します。
2039
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 22:26:02 ID:R1D4Jmeg
聖胎長養とは、
禅宗においては、見性を得た身心をさらに長く養い、悟りを育てる悟後の修行を「聖胎長養」という。修行が済み、ある境地を得たといっても、それを真に無碍自在に活用できるようになるがために、容易に世に出ずに、さらに心境を錬ること。人は一度悟ったとしても、慢心しているとすぐ迷妄に陥るからとする。
2040
:
復興G
:2013/06/16(日) 22:35:32 ID:AB6RqYXc
なお言えば、『實相と現象』の「はしがき」(谷口雅春先生最後の絶筆と思われる)に
≪諸賢が本著に親しまれることにより、“聖なる求め”を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を体得せられんことを、神に代り切に切に望むものである。
昭和六十年五月二十八日≫
これにお応えするのが「聖胎長養」であると思います。
その「聖胎長養」を、本気で実行していなかったから、現状のような分裂さわぎを引き起こすようなことになった。
それを、教団側は別派が悪いと言い、「本流」は雅宣総裁とその取り巻きが悪いと、お互いに責任をなすりつけ攻撃し合っているような状況だから、
>>(生長の家教団の)巨体がひっくり返って起き上がれないように思います。また、生長の家に「学校」が立たない、光明化運動が「進まない」<<
ということになっているのではないでしょうか。
それは、だれの責任ということではなく、おそらく
「迷いと迷いと相搏(う)って自壊する」 過程で、これから神の国運動の新しい夜明けが始まるのだ、新天新地が開けるのだと私は信じています。
≪まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。(声字即実相の神示)≫
と。だから、≪生命の実相をしっかり握って神に委せ≫ることが、今最も大切なことなのではないでしょうか。
だから、今こそ「中(みなか)」に還って浄まる時であり、「久遠の今」に起つ時であり、「聖胎を長養する」時だ、と思います。
「新天新地の神示」を謹写掲示させて頂きましょう。
○
新天新地の神示
見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の蔽いをとれ、われは新しき智慧である。新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。
われ臨(きた)って此の世界は既に変貌したのである。既に信ずる者の暗黒は消え、醜悪(しゅうお)は滅し、病いは癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。
神秘を見て人々よ、目覚めよ、覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。われは存在の実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈(ひ)を点ずるものである。
悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。汝の悲しみは喜びに変るであろう。病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。われ汝等に『神想観』と言う観行を教えたればそれを為せ。われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。なんじ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思え。なじら二人ならば、吾れを念じて吾れと倶(とも)に三人なりと思え。悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出ずるに驚くであろう。信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けようがないのである。汝の心の疑いがわが心の波長に合わないからである。
遠くにいて救われている者もあるが、近くにいても救われぬ人もある。仕方のないことであるが不憫である。もっと兄弟たちに、『生長の家』を伝えよ。神の愛は貰い切りではならぬ。頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。『生長の家の神』と仮に呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教えとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教えで新しき生命を得るのだ。わが教えはどんな教えをも排斥するような狭い宗教ではない。教えの太宗であるから宗教と言うのである。
(昭和六年五月六日神示)
ありがとうございます。
2041
:
ありがとう
:2013/06/16(日) 23:06:56 ID:???
『聖胎長養』を発表されて すぐに
『憲法の正しい理解』『占領憲法下の日本』及び『生長の家』誌臨時増刊号を出され
《一大頒布運動せよ》の大号令を発せられております。
そのあたりが無視されているのが反本流です
2042
:
ユタカ
:2013/06/16(日) 23:57:38 ID:R1D4Jmeg
復興G様、トキ様、みなさま、
父が木曜日に入院して金曜日に手術したのに、明日退院ということなので、母と迎えに行きますので、しばらく失礼しますが、落ち着いたらまた出てきます。
有難うございます。
2043
:
「訊け」管理人
:2013/06/17(月) 06:11:13 ID:???
>>2042
たいへんな時期のご投稿だったのですね。ありがとうございました。
また、御尊父の快癒を祈念致します。ご安心ください。
拜
2044
:
復興G
:2013/06/17(月) 07:04:50 ID:AB6RqYXc
>>2042
:ユタカ様
合掌。楽しみに待っています。神様の祝福が天降り、ご一家皆さまの完全ご健康とよろこびに満ちたご繁栄を祈念しています。
祈りながらも、私の気持はもう少し書かせて頂くつもりです。ありがとうございます。
2045
:
復興G
:2013/06/17(月) 07:16:33 ID:AB6RqYXc
“発心(ほっしん)正しからざれば万行むなしく施す”という道元のコトバがあります。
私は、出発点を 「久遠の今」 とし、対立がない 「絶対無」 から出発して、「聖胎(しょうたい)長養」 に励みます。
「聖胎」 の意味は――すべての人の内なる神、 「久遠の今」 なる実相地にある 神の構図であると考えています。
その「実相」が「独在」であることを信じて、軸をぶらすことなく、自分を拝み人を拝むみ、永遠なる「上求菩提・下化衆生」の菩提心を行じます。
それが私の、永遠に続く「運動」であります。
谷口雅春先生は、『国のいのち 人のいのち』というご著書の中で、「3 唯物論か唯神実相論か――真理国家建設の原点」と題して、次のようにお書きになっています。
○
≪ “言葉の原点” について
大学生の夏期練成会に、講義ぜんたいの編成の順序の上からわたしに「唯物論か唯神実相論か」という題と、「真理国家建設の原点」という題を与えられた。(中略)
「原点」という語の“点”とは何であろうか、点は長さも広さも厚みもないただ位置を示す語である。しかし、そこに「何か」がなければ、その“位置”に据わる何ものもないから、“位置”そのものもないし、従って“点”もない訳である。“点”というからには、其処に何かがなければならない。点は長さも広さも厚みもないから、其処に位置する何かがあるとすれば、それは長さも広さも厚みもないいわゆる“三次元的存在”ではない。“超次元的な存在”があるということを、“原点”と書いた人も、それを読む人も共に、潜在意識が知っていて、互いの諒解の上に“原点”という文字が書かれ、また読まれているのである。≫
○
――先生は、「真理国家建設の原点」は、超次元的なところにある、とご教示くださっているのであります。それは、時空を超えた 「久遠の今」 にあると、そう申し上げる根拠は、他にもあります。いずれ、それを提示させていただくつもりです。ありがとうございます。
靖国様は、
>>2007
で
>> ああ!!尊師の御教えはどこに行ったのでしょう。《
この教団の現実に対して、どうするのですか…?
それが最も重要なポイントなのです。少なくとも、私の言動のすべての原点は、ここにあります。<<
とおっしゃっていて、運動の原点、出発点とするところが全くちがうのであります。私の出発点は実相地であり、靖国様の出発点(原点)は現象地なのであります。
2046
:
「靖国見真会」参加者
:2013/06/17(月) 15:44:41 ID:0PL7dBUs
「復興G」様へ
》私の出発点は実相地であり、靖国様の出発点(原点)は現象地なのであります。
立ち位置の違いを明らかにしていただき、感謝申し上げます。
しかし、その違いは違いとして、私が危惧するのは、次の一点であります。
》私の出発点は実相地であり
という人が、往々にして、「八ヶ岳教団」の現実に、頬被りしてしまうことであります。
現に、私どもが「八ヶ岳教団」の実態について何かを言うと、「現象なし、実相を直視していればいい」という答えが返ってきます。
「現象なし」という教えが、現実を見ないでいいということに悪用されてはいないか、それを恐れるのです。
「現象なし」でやり過ごしているうちに、谷口雅春先生の『聖典』は絶版になり、新しい「経本」の読誦は強要され、「ご神像」は踏みにじられ、本部会館は破壊されてしまいます。
「復興G」様も、かかる「八ヶ岳教団」の実態には心を痛めていられると伺っていますが、ただ心を痛めるだけでいいのですか?
「実相地」に立つということは、心を痛めるというだけでいいということなのでしょうか?
心痛む「現象」について、何も働きかけないでいいということなのでしょうか?
「実相地」に立つということと、「八ヶ岳教団」の実態に対してどうするのか、ということとはどういう関係になるのでしょうか?
そこが今一つ判然としません。
「実相地」に立つということは、「八ヶ岳教団」のこの実態の中で、どう生きることなのか、それを具体的にご教示願えれば幸いに存じます。
2047
:
こんにちは
:2013/06/17(月) 21:59:35 ID:ePHqkVHw
復興G様は、その問いにはすでに答えていらっしゃいますよね。何度も何度も。
2048
:
こんにちは
:2013/06/17(月) 22:08:54 ID:ePHqkVHw
この論争は、単純な相違が原因でしょう。
実相独在を絶対的に信頼するのか?
それとも、その立場にこだわらず現実的に対処しようとするのか?
この信念、信条の対立ですから、永遠に分かり合えないと思います。
自分の立場に執着する限りは。
2049
:
ユタカ
:2013/06/17(月) 23:30:02 ID:R1D4Jmeg
こんばんは
退院が延びましたあと、2,3日でするでしょう。(だいたい、早すぎると思った!!) ゆっくり読めていませんが、ざっくりとは読ませていただいています。
復興Gさま、お祈りを有難うございます。 復興Gさまは愛の信仰を生活されていらっしゃいます! 感謝、感激です。ありがとうございます。
復興Gさま、ドンドン書いてください、勉強になりますから。。。 そして、ユタカがまじめに、間違った事を大いばりで返信しますよ。
よろしくお願いします。
2050
:
ユタカ
:2013/06/17(月) 23:31:12 ID:R1D4Jmeg
訊けさんもお祈りを有難うございます。 心より有難うございます。感謝いたします。
2051
:
ユタカ
:2013/06/17(月) 23:33:39 ID:R1D4Jmeg
>「上求菩提・下化衆生」
復興Gさま、上記内容はどこで勉強したらいいですか?
2052
:
ユタカ
:2013/06/18(火) 00:01:27 ID:R1D4Jmeg
あ、っと。。。。
復興Gさま、、、美代先生は常々、『私達は「現象なし」の教えを頂いているのですから、現在の教団でも大丈夫ですね。』
とおっしゃっていました。このことを書き込むのを忘れていました。 今も少ししかかけなくてごめんなさい。 書き方が悪くて意味が通じないかも知れません、また、今度書きます。
2053
:
復興G
:2013/06/18(火) 01:41:34 ID:AB6RqYXc
>>2046
:「靖国見真会」参加者様。
ご投稿、ありがとうございました。
>>「実相地」に立つということは、「八ヶ岳教団」のこの実態の中で、どう生きることなのか、それを具体的にご教示願えれば幸いに存じます。 <<
――このご質問に「具体的に」お答えしたいと思いますが、これは難問なので、すこし周辺のことからアプローチしたいと思います。
私のところに今し方、amazonに今朝「お急ぎ便」で注文した一冊の本が、夜9時ちかくになって届きました。
『国家の命運 安倍政権奇跡のドキュメント』(小川榮太觔著)という本です。
この本のオビに、次のように書いてあります。
≪悪化するデフレ、中国・韓国による領土侵犯、迫り来る国難の数々。
安部政権はぎりぎりで間に合った 奇跡の政権である。
もし民主党政権が続いていたらどうなっていたことか。デフレの膠着と消費増税のダブルパンチによる失業と自殺の急増、国富の海外流出と産業空洞化の更なる進行、国民の完全な自信喪失、そして、尖閣諸島の実効支配を中国に奪われ、アジア太平洋地域の安全保障環境は激変し、日本は、完全に中国の属国となっていたであろう。
安倍政権が大車輪で行ったのは、まず、経済と外交・安全保障という日本の外壁の補修だった。だが、これは「日本及び日本人」の大きな物語を取り戻すための、序章に過ぎない。明日にも始まろうという「国家の命運」を賭けた本当の戦いに備えるための、緊急の現場報告として読んでいただければ幸いだ。(本文より)≫
と。
この本の中身はこれから読むので、まだ読んでいませんが、この「オビ」の文章を読んで、思ったことがあります。
それは、「生長の家の命運」についても、似たようなことがあるのではないか、ということです。
日本は神の国である。もちろん、世界のすべての国は神の国に違いありませんが、特に日本は天之御中主神から始まり「豊葦原の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たるべき地なり」という天壌無窮の御神勅から始まっている国であり、神の構図、中心帰一のすがたを最もよく体現し、皇祖皇宗・護国の神霊、住吉大神が護り導き給う国でありますから、どんな国難に出遭っても奇蹟的にも乗りこえて、八紘一宇の真の世界平和、神の国を地上に実現する核となるべき使命を果たすようになっているのだと、私は信じます。それは、無我無私の天皇陛下が中心にましますからでもあります。
それと同じく、生長の家は神が始められた神の国運動でありますから、現象的にはどのように危機的な状況があらわれようとも、神の護り、高級霊の護りと御導きがあって、必ずその使命は果たされると信じています。
で、今は現象的には教団が分裂状態で、危機的状況にあると見えます。「靖国見真会」参加者様は、
>>「復興G」様も、かかる「八ヶ岳教団」の実態には心を痛めていられると伺っていますが、ただ心を痛めるだけでいいのですか?
「実相地」に立つということは、心を痛めるというだけでいいということなのでしょうか?<<
とおっしゃっていますが、私は決して「ただ心を痛めるだけ」などということはありません。
私は、この日のために、ちゃんと神は榎本恵吾という人に使命を与え、「實相独在」に徹しながら生長の家を混乱から救い、本来の大調和のすがたに還らせる道を用意しておかれたような気がします。
<つづく>
2054
:
復興G
:2013/06/18(火) 01:42:16 ID:AB6RqYXc
<つづき>
榎本恵吾氏自身、『波状光明化への道─内なる神に捧ぐるレポート─』という著書(未公開)のはしがきに、
≪何か時の萌(きざ)しというものを感ずることがある。何か偉大なる時の近づこうとしつつあることを感ずる。それは何であり、どのようなことかは知らない。この“時”と云うものは自我を死に切っている生命には聴くことが出来るのであろう。
この書はその“時”のために必ず必要とされるべきものである。そのときのために自然と準備したくなったのも、既に、その“時”と云うものに導かれていると云うことが出来るかも知れない。このような時のためには色々なものが動き出しており、それは天界、霊界、現界においてそれは起っているであろう。その意味で、もっともっと善きものが現われて、この書が必要でないと云うことが興れば、それは幸いなことである。しかし、必ず時は来たる。≫
と書いておられます。
榎本恵吾氏は、未公開の膨大な文書を遺しておられますが、その一つに 『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―』 というのがあります。これは、53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な論文ですが、その一部をご披露させていただきます。
○
「神癒」とは如何なるものであるか。「生命の實相の自性円満」を自覚したときに起こるところの「よろこばしき何か」であることを再びここで確認しておきたいのである。
「生長の家人類光明化運動」は、神がおはじめになり、神が為し給うている運動である。完全なる癒しのみがあり、絶対の癒し、すべてのすべてなる癒しなるものそのもの即ち神が運動をおはじめになりて、癒しそのものが運動をしているのである。それ故、この運動は永遠久遠の運動なのである。永遠久遠なるものがおはじめになり、永遠久遠なるものが為し給うているのである。
「生長の家人類光明化運動」のどこにも人間力は要らないのである。
しかも「生長の家人類光明化運動」自体が「私は無いのです」との消え切りの澄み切りなのである。「魚行きて水濁らず」なのである。
「便所に宿る神」ではなく「便所が神なのである」と大聖師のお言葉があった。
「生長の家人類光明化運動」は神が導き給うのではないのである。「生長の家人類光明化運動」が神なのである。
自分というものはどこにも存在しないのである。自分はどこにも要らないのである。自分の要らない運動を聖なる運動といい、神なる運動というのである。
『般苦心経』において、先ずはじめに、観自在菩薩が光明燦然たるお相(すがた)で登場され「五蘊皆空(ごうんかいくう)」と照見され給うのである。照見とは照らし見るということであるから、「五蘊皆空」「現象無し」というこの文字は、観自在菩薩の光りのひろがり、展開としてあるのであって、何もない空々漠々たることではなく、光りなる内実のひろがりなのである。また「現象は無かったのだ!!」というよろこびの輝きのひろがりであると見ることも出来るのである。
「生長の家人類光明化運動」も「私は無いのです」とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神の輝きそのものである、聖の聖なる照り渡りそのものであることを感謝したのである。
それは世界的状況という、現象の必要性、肉の状況にさそわれて出発した運動ではなかったのである。
○
<つづく>
2055
:
復興G
:2013/06/18(火) 01:43:15 ID:AB6RqYXc
<つづき>
――私は、このように榎本恵吾氏のおっしゃるような運動が本当の人類光明化運動であると思っています。私たちが「自分というものはなかったのだ」と悟り、「現象なし。ただ神のみあり、実相独在、神の運動のみあり」として無我の歓喜の運動を自由自在に展開して行けば良いのである。それ以外に真に生きる道はない、と信ずるのです。
私は、そう信じて、リアルの誌友会でも、web誌友会と同様の発言をしています。テキストは『生命の實相』が中心です。『古事記と現代の預言』などを使うこともあります。
相愛会東京第一教区連合会の運動方針書には、
・ 「神様の天降る誌友会」の開催。
・ 『生命の實相』の全巻読破をめざす。
ということが明記されています。
私は、『大自然讃歌』・『観世音菩薩讃歌』などは読みません、と言って、まだ読誦したことがありません。
「鎮護国家」=「真の世界平和への道「である。「鎮護国家」なくして究極の世界平和はあり得ない、と叫んでいます。当然、「クビ」を覚悟です。
しかし、不思議なことに、まだクビになっていません。
「靖国見真会」参加者様は、
>>「現象なし」でやり過ごしているうちに、谷口雅春先生の『聖典』は絶版になり、新しい「経本」の読誦は強要され、「ご神像」は踏みにじられ、本部会館は破壊されてしまいます。<<
と書かれましたが、かなり事実誤認があると思いますね。
「谷口雅春先生の『聖典』は絶版になり」は誇張宣伝です。一部の聖典が重版保留になっていまして、解除を願っていますが、それは「絶版」ではないと言われているから解除を願っているのです。
「ご神像」は、何も踏みにじられてはいません。山梨へ移転はされましたけど。
新しい「経本」の読誦は、強要されているとは思いません。私は誦まなくてもすんでいます。
「靖国見真会」参加者様。
谷口雅春先生は、「現象なし。ただ神のみ実在する」とのご自覚のもとに、たとえば日教組を遠慮なく口撃されることもありました。現象は影に過ぎず、「ナイ」から無いものを攻撃されることもあったけれども、常に「絶対無」の境地に立っていらっしゃったと思います。
「現象は、ない。」 「自分は、ない。」 に徹したとき、「神しかない」 のだ から、「自分は神だ」 となる。
「“自分”というものはどこにも存在しないのである。“自分”はどこにも要らないのである。“自分”の要らない運動を、聖なる運動といい、神なる運動というのである。」
「妖雲羃々(よううんべきべき)と空を覆うことがあっても、その上には常に蒼空(あおぞら)があるのと同じように、如何に暗澹たる状態が現象的にあらわれてこようとも、その状態に対して心を動ずることはないのである。心を動ずることがないから、何らの対策をも講じないのかというと、決してそうではないのである。心を動ずることがないから、最も適切なる智慧が泉の如く湧き出でて暗を消してしまう処置ができるのである。」(天地一切と和解する祈り)
――この道一筋に進んでいきます。
2056
:
復興G
:2013/06/18(火) 02:39:35 ID:AB6RqYXc
>>2047
・
>>2048
:こんにちは様。
応援、ありがとうございます。
こんにちは様のご投稿を見ないで、靖国様にお返事を書いていました。
>>この論争は、単純な相違が原因でしょう。
実相独在を絶対的に信頼するのか?
それとも、その立場にこだわらず現実的に対処しようとするのか?
この信念、信条の対立ですから、永遠に分かり合えないと思います。自分の立場に執着する限りは。 <<
――簡単にはわかり合えないでしょうが、「永遠に」ではないと思っています。
ありがとうございます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板