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Web誌友会 板/2

2054復興G:2013/06/18(火) 01:42:16 ID:AB6RqYXc

<つづき>
榎本恵吾氏自身、『波状光明化への道─内なる神に捧ぐるレポート─』という著書(未公開)のはしがきに、

 ≪何か時の萌(きざ)しというものを感ずることがある。何か偉大なる時の近づこうとしつつあることを感ずる。それは何であり、どのようなことかは知らない。この“時”と云うものは自我を死に切っている生命には聴くことが出来るのであろう。

 この書はその“時”のために必ず必要とされるべきものである。そのときのために自然と準備したくなったのも、既に、その“時”と云うものに導かれていると云うことが出来るかも知れない。このような時のためには色々なものが動き出しており、それは天界、霊界、現界においてそれは起っているであろう。その意味で、もっともっと善きものが現われて、この書が必要でないと云うことが興れば、それは幸いなことである。しかし、必ず時は来たる。≫

と書いておられます。

 榎本恵吾氏は、未公開の膨大な文書を遺しておられますが、その一つに 『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―』 というのがあります。これは、53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な論文ですが、その一部をご披露させていただきます。

          ○

 「神癒」とは如何なるものであるか。「生命の實相の自性円満」を自覚したときに起こるところの「よろこばしき何か」であることを再びここで確認しておきたいのである。

 「生長の家人類光明化運動」は、神がおはじめになり、神が為し給うている運動である。完全なる癒しのみがあり、絶対の癒し、すべてのすべてなる癒しなるものそのもの即ち神が運動をおはじめになりて、癒しそのものが運動をしているのである。それ故、この運動は永遠久遠の運動なのである。永遠久遠なるものがおはじめになり、永遠久遠なるものが為し給うているのである。

 「生長の家人類光明化運動」のどこにも人間力は要らないのである。

 しかも「生長の家人類光明化運動」自体が「私は無いのです」との消え切りの澄み切りなのである。「魚行きて水濁らず」なのである。

 「便所に宿る神」ではなく「便所が神なのである」と大聖師のお言葉があった。

 「生長の家人類光明化運動」は神が導き給うのではないのである。「生長の家人類光明化運動」が神なのである。

 自分というものはどこにも存在しないのである。自分はどこにも要らないのである。自分の要らない運動を聖なる運動といい、神なる運動というのである。

 『般苦心経』において、先ずはじめに、観自在菩薩が光明燦然たるお相(すがた)で登場され「五蘊皆空(ごうんかいくう)」と照見され給うのである。照見とは照らし見るということであるから、「五蘊皆空」「現象無し」というこの文字は、観自在菩薩の光りのひろがり、展開としてあるのであって、何もない空々漠々たることではなく、光りなる内実のひろがりなのである。また「現象は無かったのだ!!」というよろこびの輝きのひろがりであると見ることも出来るのである。

 「生長の家人類光明化運動」も「私は無いのです」とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神の輝きそのものである、聖の聖なる照り渡りそのものであることを感謝したのである。

 それは世界的状況という、現象の必要性、肉の状況にさそわれて出発した運動ではなかったのである。

          ○

<つづく>


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