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Web誌友会 板/2

1998「訊け」管理人:2013/06/14(金) 08:21:42 ID:???


 復興Gさまご投稿文を、拝読しております。素晴しい御文章でありますので、皆さんにも精読をお勧め致します。いや、この箇所を拝読くださる方が増えれば、無用な争いなどもなくなりましょう。さらには、この榎本先生の御文章こそが、「雅春先生のご遺志を継ぐこと」とも、なりましょう。さて、もうすぐ6月17日が参りますが、この資料をここで以下の様に、まとめてみたいと思います。




>>1970より

○ すべての病人である。神想観が足りないという病人も、愛行が足りないという病人も、「聖典」を読むことが足りないという病人もすべてのすべての病人が立つことが出来るのである。
○ われわれは、宗教によって罪と病と死との三暗黒を消してから、光りとなるのではないのである。我というものを消してから光となるのではないのである。そんなものははじめから無いのである。
○ そんなものを放っておいて、そのまま“神の子です”と光の中に飛び込んだときに、そのあとで、罪と病と死との三暗黒は消えるのである。
○ この喜びはどこから出て来ているのか。この喜びはどこからも出で来たらず。或る日、忽然として、久遠の今、今、ここに自分のいのちの中から出で来たるのである。
○ 光明化をやってからという、ある時間の後、ある空間的条件をととのえたときにという外の条件によらず、自ずから立っている喜びである。常立ちの、自ずから立っている喜びが火の正体なのである。


>>1971より

○ 状況の上に立って運動を展開すると、光明一元論を全力的にうち揮(ふる)えなくなる。
○ “いくら光明一元でもそれを知る人の数がこれだけという状況では”ということになって、力を抜かれ、きばを抜かれてしまうのである。情熱が出なくなる。
○ それはまた、尊師への堅信の喪失でもある。
○ 人間を見抜くという。本当に人間を見抜いたならば神の子が見えるのである。世界を本当に見抜いたら極楽が見える。
○ 尊師が宇宙を見抜かれたとき、天地一切は大調和であったのである。

>>1973より

○ 尊師が一見、現象の危機をとらえていられるかのように見えるのは、それは、現象の不完全性を、無常性を即ち非道を、即ちそこには“何も無い”“あるのは神のみ、光明のみ”の世界を指し示されているのである。
○ 尊師の開かれ給うた世界には、光明しかないのである。すべてのものの仏なる姿を祝福されて、お拝みになり給うて、その拝みの合掌のかがやきの姿としてここに『生命の實相』は輝やいているのである。
○ それだからこそこの『生命の實相』は、「あなたはこれを読まなければ救われませんよ。神の子になれませんよ。」という姿をしていないのである。

(つづく)


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