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Web誌友会 板/2

1988復興G:2013/06/13(木) 22:32:13 ID:AB6RqYXc

 さて、>>1979「久遠の今」のご講義(後編)の後の方で、谷口雅春先生は、徳久克己先生の体験をとりあげられ、「今」を未来の目的のための「手段」にしてはならない。心眼を開いて見れば、今、此処が極楽浄土であるとわかるのである、ということを説かれています。

 この誌友会のテーマは、

 「組織運動と信仰生活」 ということでしたね。

 その「運動」とは何か。目標を決めて、その目標達成のために「今」を手段にするようなのが運動であるとしていたら、鼻先ににんじんをぶら下げられて走る馬のようなもので、それは「今を生きる」信仰生活、幸福生活と両立しないでしょう。

 「未来世代の幸福のために」今を手段として犠牲にする運動というのも、生長の家とは違うと思います。

 「組織運動と信仰生活」というテーマによる研鑽の結びとして、このために用意されていたとすら思われる、榎本恵吾先生のすばらしい論文があり増したので、アップさせていただきたいと思います。

 榎本恵吾先生のご著書 『光のある内に』の中の

  <<天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて
    ――人類光明化運動の楽的展開論――>>

 という論文です。

 その「序曲」という章に、次のように書かれています。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

   天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて
    ――人類光明化運動の楽的展開論――

      序  曲

 もう二十年も前のことだが、私は大学の哲学科に通っていた時、どうしても心が明るくなれず、『生命の實相』ばかりに読みふけり、二十日も授業を受けに出ず四畳半の間借部屋で懊悩していた。

 ある人は花の散るすがたにこの世の無常を観て出家した。私はそのころ、青年会の運動がどうしてこのように無常なのか――会員が集っては散って行く、その度に一喜一憂する――と、はじめてこの世に「常恒なるもの」を求めはじめたのであった。

 この一喜一憂を越えて常恒なる平安に達するには、現象的な運動を“無”と否定して、それへの執着を断たなければならなかった。――そこにこそ霊の選士同士の嫉妬も消えるのである。“ある”と思うからこそ執着するのであるから、“無し”と否定すれば執着が消えるのである――という声が自分の中でした。

 しかし、実際、それは出来得ることであろうか。青年会を否定することは人類光明化運動を否定することである。――ここで私は難問にぶつかった。その否定しようとする内なる声に対して「しかし、今自分がこのように“無常”と否定すること、現象の無いことを生長の家で教えられた――具体的には『生長の家』誌から、『生命の實相』から、尊師の講話から教えられたのである。もしもこのことがなかったならば、今の私はないであろう。それが現実であり、事実ではないか。これはまさに人類光明化運動のお蔭である。どうしてこれを否定することが出来ようか。それに、否定することは大なる忘恩である。信徒たるべきものの道に反することではないか」という声がしたのである。(中略)

 どうにもならない心のままに、ある日私は便所を掃除していた。その時、自分の心の中に「アブラハムの生れぬさきよりわれは在るなり」というキリストの言葉がポッカリと出て来た。つづいて私は釈迦の「吾れは成仏してよりこのかた、百千万億那由他阿僧祇劫なり」というあの『生命の實相』の中で読んだ言葉を思い出し、そしてそこに書かれていた尊師の「吾れはキリスト以前よりあり、釈迦以前よりある、天照大御神と一体の生命である」というお言葉を思い出した。

 キリストは自分を生んでくれた先祖のアブラハムを否定して自分自身に真理を体現し、釈迦は現象的時間と自己の修行を否定して真理なる自己を体証した。そして尊師はさらにその真理なるキリスト・釈迦をも越えて絶対の自己を現成されたのである。ここにはもはや相対的に救うものもなければ救われるものもない。唯、あるのは無原因にして自ら立つ自己があるのみ。(中略)

 ――私はようやくにして、立つべきところと向うべき道を得ようとしていた――。
<つづく>


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