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Web誌友会 板/2
1999
:
「訊け」管理人
:2013/06/14(金) 08:22:27 ID:???
(つづき)
★
>>1988
より
○ (榎本惠吾先生は)どうしても心が明るくなれず、『生命の實相』ばかりに読みふけり、二十日も授業を受けに出ず四畳半の間借部屋で懊悩していた。
○ 私はそのころ、青年会の運動がどうしてこのように無常なのか――会員が集っては散って行く、その度に一喜一憂する――と、はじめてこの世に「常恒なるもの」を求めはじめたのであった。
○ この一喜一憂を越えて常恒なる平安に達するには、現象的な運動を“無”と否定して、それへの執着を断たなければならなかった。――そこにこそ霊の選士同士の嫉妬も消えるのである。“ある”と思うからこそ執着するのであるから、“無し”と否定すれば執着が消えるのである――という声が自分の中でした。
★
>>1989
、
>>1990
より
○ 私はここに永遠につづく「生長の家人類光明化運動の楽的展開論」を試みようと思う。人類光明化運動に真剣にとり組み、一生をこの運動に捧げようとする者は、常にその運動の根本を、本源をつかもうとする。そこから運動への真に永続的な情熱と力と未来への展望が生れるからである。(
>>1990
につづく)
○ (白鳩会教区連合会長談)「天地の初発(あめつちのはじめ)に立ちて―人類光明化運動の楽的展開論」この表題を見た時、私は飛び上がらんばかりに喜びました。
★
>>1991
、
>>1992
より
○ 『生長の家』とは何か。それは自分のいのちのことである。「久遠の今」(Eternal Now)において、万物はこの一点におさまっているのである。そして、自分のいのちが「今」「此処」にあれば、『生長の家』も「今」「此処」にあるのである。
○ 「尊師」とは何か。久遠を流るるいのちとしての尊師なのである。
○ 「人類」とは何か。(長文のため
>>1992
ご参照)
○ しかし、吾々が救わなければならないような不完全な衆生を、神はその創造において存在せしめたのであろうか。そのような不完全なるものを此の世に残している神は、はたして絶対者と言えるのか。その迷える衆生を救うという我らの「人類光明化運動」も、絶対なる神の運動であると言えるのか。ここのところを吟味してみたいと思う。(
>>1993
へつづく)
★
>>1993
より
○ 尊師の観られる衆生とは斯くの如きものである。このことをはずせば、最早や我々の運動は神より始った光明化の運動ということは出来なくなるのである。
○ 「もし衆生が完全であれば、衆生を救済するための運動の必要はなくなる」と書いたが、しかし、完全であることは静止を意味するであろうか。静止ということは我々に一種の不満を感じさせずにはいない。不満を感じさせるものは、本来完全であることは出来ない。真の完全とは静にして動、一であって多であり、これらが同時に満足されるものでなければならない。
★
>>1994
より
○ 「光明化運動」とは
○ 「生長の家人類光明化運動」の「化」という言葉は「実相顕現」の「顕現」という言葉に相当する。「化」という言葉は、対象物をこちらの思うようにだんだんに変化せしめ、働きかける主体の活動を意味する言葉として使われているようである。その意味では、「光明化」とは光明でないものを光明にして行くことになるであろう。しかし、本来光明でないものを光明にして行くということは、「光明一元論」「唯神実相論」に反するものであると言わなければならない。
★
>>1995
、
>>1996
より
○ 「人類光明化運動」を迷える人間を光明化するのであると思っている以上、それは明暗混淆の二元論であり、迷いである。このような状態ではいよいよ運動熱心にしていよいよ迷いが深くなるようなことになるのである。
○ この広大無辺なる宇宙の一点に立って、真の一足を投じてあやまたざる、真の自信ある生活をおくることの出来る者は誰か。それは神の子である。神の子とは「個即全」「今即久遠」をいのちとして生きているものに他ならない。
○ 「御教えの本に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。
○ 我々は「唯神実相論」をそのまま信じることを忘れ、現象への妥協や曇った迷いの上に立つとき、『生長の家』に生命を捧げる情熱は湧くものではないのである。それはついに気合か、掛け声に終るのである。
○ 人が生きるとは、絶対が生きることであり、絶対が生きるとは実相独在を生きるということであり、実相独在をもち続けることが生命の純粋持続ということである。この他には、光明というものはなく、光明化運動というものはなく、創造というものはない。
<了>
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