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Web誌友会 板/2

2034復興G:2013/06/16(日) 20:32:23 ID:AB6RqYXc

ユタカ様

投稿、ありがとうございました。

今日はリアルの誌友会がありました。
午後からだったんですが、午前中はその準備作業に没頭していて、ここを見る余裕はありませんでした。
帰ってきて食事をして、今、見ています。

さて、ユタカさんは、「久遠の今」というのがまったくわかっておられないようですね。

>>2028に、
>>「久遠の今を生きる」修行を究極まで行った場合はそれは、動的信仰へと移行していくのでは?と思います。<<

と書かれていますが、<「久遠の今を生きる」修行を究極まで行ってから動的信仰へと移行していく>なんて、とんでもない、全然違います。

「久遠の今を生きる」のは「上求菩提」の修行ではなく、「下化衆生」の菩提心を行ずるときの出発点と言えましょうか。

>>静的工夫ができたら、次は動的工夫に移ると第8巻の観行編に書かれてあります。<<

――違うでしょう、逆ではありませんか。第8巻の「はしがき」には、次のように書かれています。

≪すなわち「生活篇」においては、人間の円満完全なる実相を生活上の実践において、動的工夫の内にそれを実現する道を説いたのであった。しかし単に動的工夫だけでは、ともすれば浮き世の現象的同様に左右されて、深く“実相”の内部に沈潜することができないうらみがある。こにさらに静的工夫によって、あたかも潜水夫が海の底ふかく沈んで貴い真珠を採取して帰るように、深く人間の“実相”に沈潜して、人間の貴い内部にある“実相”――すなわち本来円満完全にして無限知・無限愛・無限力量なるものを現実にまで獲得してこなければならない理由があるのである。≫

と。

「生活篇」の動的工夫は誰にもわかりやすく、やさしいのです。しかし、その基礎に実相の自覚がない「動的工夫」では、まちがうおそれがあるのです。

神――実相を出発点にしないで、現象から出発した動的信仰では、

≪各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引きで、多数の盲人を河中へ突き落とすようにエッサエッサと改造の掛け声を掛けながら、現在の人類をまた別の地上地獄へ突き落とすに違いないのであります。≫

と、このたびのテキスト『生命の實相』第3巻にも(p.94)あったではありませんか。

>>2030
>>谷口雅春先生が昭和38年にすでに 「もう間に合わなくなる」 とおっしゃって・・・
今、昭和が終わって何年たったの?<<

――昭和38年当時は、天皇崇拝の愛国者などというのは極めて少数で、暴力革命を志向する左翼勢力が圧倒的だった。だから今立たなければ「もう間に合わなくなる」とという状況だったのです。しかし今は、状況は全く一変しています。

>>今、昭和が終わって何年たったの?<<
というのは、こちらがユタカさんに申し上げたい言葉です。


>>2032
>>復興Gさま、私は現況の教団に榎本先生のお話は合わないと思いますし、今頃「聖体長養」を持ち出す時期と違うと思いますが、いかがでしょうか? <<

――私は、今こそ現況の教団に榎本先生のお話は、この時のために用意されていたのかと思われるほど、ぴったりのお話だと感じています。

「聖体長養」ではありません、「聖“胎”長養」です。
ユタカさんは、「聖胎(しょうたい)長養」がどういう意味を持っているのか、わかっていますか?

わかっていれば、今こそ「聖胎長養の時」だということがわかると思いますが。

私は、「聖胎長養」を本気でやらなかったから、

>>(生長の家教団の)巨体がひっくり返って起き上がれないように思います。また、生長の家に「学校」が立たない、光明化運動が「進まない」訳がこういうような所に見えてきた気がします。<<

と、申し上げたいです。


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