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Web誌友会 板/2

1992復興G:2013/06/13(木) 22:36:14 ID:AB6RqYXc

<榎本恵吾先生著 『光のある内に』 より つづき>

     三、「人類」とは

 生長の家は「人類」を如何に見るのであろうか。「生長の家人類光明化運動」は「実相顕現運動」であり、既に成れる実在の世界をこの世に持ち来たすという意味では「地上天国実現運動」である。「人類」というコトバは「地上」というコトバに相当する。

 「人間神の子、三界は唯心の所現」という真理において、「人間」は、「全世界」と「一個の人間」との一致点に見出されている。自己と全外界との分裂なき一致点に、その中心に立っていると観じられている。このことは「自分が変れば世界が変る」(「智慧の言葉」)ということを言い表わしているのである。それは「世界を変えるためには自分が変るだけでよい」ということでなければならない。『叡智の断片』の中では、次のように書かれている。

 自分ひとりが浄まったなら、世界は浄まるのである。自分の心がきよまらざる故に世界はきよまらないのだ。自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。 (127頁)

 ここで言われている「浄まる」「浄める」ということは、即ち「救われる」「救う」ということである。「人類」といい、「世界」といい、「全地上」というも、つまりはこのような意味での自分との関係に於ける「人類」ということであり「地上」ということである。あくまでも自分との関係において観ずることをしなければ、遂に自己と外界とが分裂してしまうのである。そして「人類」のことも「世界」のこともよそごとに終らざるを得ないのである。

 われわれは「求道と伝道」、「自分が先か、他が先か」というような問題にぶつかったりして、光明化運動に行き悩みを感じたりするのは、先ず「生長の家」は「人類」を如何に観るか、「地上」というものを如何に観るか、ということを判然としておかなかったからなのである。神とは絶対者であり実相独在の中にのみ存在し給うのであり、そこに分裂というものはない。問題の解決とは、完全なる神がそこに顕現されることであり、その他には問題の解決ということはあり得ないのである。

 「救われる」ためには先ず第一に「生れかわること」「目覚めること」が必要であると教えられている。「生れかわる」とは自己が変ると同時に全世界も変るということを象徴的に表現しているのであり、自己と世界との一如性を知ることを意味しているのである。自己と世界とに分裂なきこと、その位置に立つことによってのみ救われるということが成立することを表現しているのである。(中略)

 光明一元、完全にしていよいよ真の創造活動は大いに進むのである。吾々の創造は実在の創造なのである。ここに立たなかったならば「いつになったら地上天国は実現するのだろう」などと弱音をはき、遂には運動からはなれてしまうのである。「生長の家人類光明化運動」は光明の世界に光明として、神と偕に生きる生活なのである。ここにおいて我々の運動は永遠に続くのである。

        *    *    *

「生長の家人類光明化運動」は菩薩行であり、迷える衆生を救わんとするものである。ここに言われる衆生とは人類のことである。

 しかし、吾々が救わなければならないような不完全な衆生を、神はその創造において存在せしめたのであろうか。そのような不完全なるものを此の世に残している神は、はたして絶対者と言えるのか。その迷える衆生を救うという我らの「人類光明化運動」も、絶対なる神の運動であると言えるのか。ここのところを吟味してみたいと思う。

 衆生を迷うと見れば、神は不完全であることになり我らの運動は絶対なる神の運動ではない。もし衆生が完全であれば、今さら人類救済の運動は必要ではない、ということになる。
<つづく>


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