[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
2046
:
「靖国見真会」参加者
:2013/06/17(月) 15:44:41 ID:0PL7dBUs
「復興G」様へ
》私の出発点は実相地であり、靖国様の出発点(原点)は現象地なのであります。
立ち位置の違いを明らかにしていただき、感謝申し上げます。
しかし、その違いは違いとして、私が危惧するのは、次の一点であります。
》私の出発点は実相地であり
という人が、往々にして、「八ヶ岳教団」の現実に、頬被りしてしまうことであります。
現に、私どもが「八ヶ岳教団」の実態について何かを言うと、「現象なし、実相を直視していればいい」という答えが返ってきます。
「現象なし」という教えが、現実を見ないでいいということに悪用されてはいないか、それを恐れるのです。
「現象なし」でやり過ごしているうちに、谷口雅春先生の『聖典』は絶版になり、新しい「経本」の読誦は強要され、「ご神像」は踏みにじられ、本部会館は破壊されてしまいます。
「復興G」様も、かかる「八ヶ岳教団」の実態には心を痛めていられると伺っていますが、ただ心を痛めるだけでいいのですか?
「実相地」に立つということは、心を痛めるというだけでいいということなのでしょうか?
心痛む「現象」について、何も働きかけないでいいということなのでしょうか?
「実相地」に立つということと、「八ヶ岳教団」の実態に対してどうするのか、ということとはどういう関係になるのでしょうか?
そこが今一つ判然としません。
「実相地」に立つということは、「八ヶ岳教団」のこの実態の中で、どう生きることなのか、それを具体的にご教示願えれば幸いに存じます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板