したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

*web誌友会についての話題は、このスレッドでお願いします。

 このスレッドは、生長の家信徒の人達のweb誌友会のために作成したスレッドです。

 上記に関連する話題なら、狭く解釈しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。明らかな他団体や特定の霊能力者の宣伝となる投稿も削除の対象になります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。


投稿に当たっての注意点

*このサイトは、「生長の家“本流宣言”掲示板」等と違い、自分の発言を自分で削除できません。
 削除御希望の場合は、管理人までご一報下さい。(削除要請は、削除希望の記事を投稿したのと同じ端末から投稿をして下さい。)
*必ず、スレッドのトップにある「掲示板の使い方」をご覧下さい。
*インターネットのサイトという性質上、不特定多数の人が閲覧します。プライバシーに触れる問題
 や名誉毀損の可能性のある表現などは、控えて下さい。
*サイトの運営方針としては、削除は原則としてしない方針です。他者の投稿が問題のある投稿だと感じた場合は、
「削除要請」ではなく、ご自分の意見を投稿するという方向での解決をお願いします。
*生長の家の共鳴者を対象にしたスレッドです。下品な表現や特定の人物を侮辱する言葉はご遠慮下さい。
 たとえ、自分と違う意見の人でも、敬称はつけましょう。相手に対する敬意と礼儀を忘れない様に
 お願い申し上げます。
*谷口雅春先生への批判は、目的外ですので、投稿をしないで下さい。
*「したらば」は長文の書き込みをした場合、一部が表現されない場合があります。その場合は、「下部左
 部分」にある「全部読む」を押して下さい。

このサイトについて

*宗教法人「生長の家」、「谷口雅春先生を学ぶ会」「ときみつる会」「生長の家社会事業団」「新教育者連盟」
 などの諸団体とは関係はありません。
*「ポスティング ジョイ」や「生長の家“本流宣言”掲示板」などのサイトとは一切関係がありません。

管理人からのお願い

*投稿者の身元の詮索は止めましょう。ただし、最初に簡単な自己紹介をして下さると、後のトラブル防止になります。
*「工作員」も歓迎します。同時に、特定の人を「工作員」などと議論をする事はしないで下さい。
*教団援護派、本流復活派、中間派、分裂肯定派など、どなたも歓迎します。また、相手の存在そのものを否定するような内容
 の反論はしないで下さい。
*議論が感情的になった場合は、管理人がストップをかけます。その時は、協力をお願いします。
*その他、ご不明の点は、管理人である「トキ」まだお尋ね下さい。

 原則として、身元がわかるような内容の自己紹介は避けたほうが無難です。

身元をかくすため、多少の作為(年齢を少しごまかす、住まいを変える)は、悪意がない限り、問題とはしません。

どの立場でも、(教団援護派、学ぶ会など)歓迎しますから、それは明らかにしても大丈夫です。

削除について

 投稿した文章を削除して欲しい場合は、削除希望の文章の番号を書いて、同じスレッドに、同じ端末
から「削除要請」と書いて、投稿して下さい。削除要請の文章も削除して欲しい場合は、其の旨も書いて
下さい。削除は、原則として、投稿者本人からの要請があるものに限ります。管理人が気がついたら、削除
しますが、深夜早朝や用事のある時は、気がつくのが遅れる場合があります。ご理解下さい。

 出会い系サイト等のリンク、明らかに目的外の投稿、他団体の宣伝、犯罪を予告する書き込み等以外は、削除はしません。
それ以外で、問題となりうる投稿は、原則として、相談の上で、削除します。

 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

141志恩:2013/02/14(木) 19:33:37 ID:.QY5jUA6
さくら様

>>率直に言いますが、
あなたは、人の真意を理解されてないですよ。
だから、ホープさんとわたしの間に入ってくるのは、迷惑です。
歪曲していますから、物事が複雑になるんです。<<

とおっしゃいますが、
それでは、初心者様とさくら様が、今回WEB誌友会板へご登場されて、

ahope様に、がんがん追求されてることを、見ていらした中で、
あなた達の真意とやらが、なんなのか、お二人以外に理解された方が、何人おられると
思いますか?

トキ様も仲裁に入り、お仲間の訊け君迄、来て、

SAKURA様まで、

>>136:【WEB誌友会…の主旨は〜〜〜?】――>【スレッドは、生長の家信徒の人達のweb誌友会…】
此処でいいます【真理…の話】にはとても“ほど遠〜〜〜い”といいますのが?強いのです。

■私は、思いますには「アピ−ル…ひらがなのさくらさん」は、ある面「いつもワイドショ−」なの
でしょうか?ハッキリいいますと【何をいいたいのかしら〜〜ン!という…会話から何の事?〜】

と……一つ分かることは「イメ−ジ売り?」でしょうか?九州の表現でいいますところの〜〜〜

私は“頭がいい!!私はきれいな素敵な女性だ!!私は〜〜〜私は!といった感じでしょうか??
本人のイメ−ジばかりが先行しまして、本人の考えの主旨が(何がいいたいのか?)理解出来ず…
本当に中に浮いた感じですかしら〜〜〜ン!!<<

と今回の感想を述べておられますよ。

では、さくら様の真意とは、なんだったのですか?
われわれにも わかるように わかりやすく おっしゃってください。

142トキ:2013/02/14(木) 20:02:34 ID:1q3wg2Ec
 まあまあ、明日からこちらで誌友会がありますから、この件はこのあたりでご容赦をお願いします。

 管理人としては、力量不足を痛感しております。本当に申し訳ありませんでした。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

143a hope:2013/02/14(木) 22:02:54 ID:TqpbsVIM

みなさま こんばんは

えーと、先ほど、掲示板を拝見して少し驚いています。
わたしの 名前 「a hope」や、「ホープ」というカタカナに変化したものが、
本人不在のこのweb誌友会板にたくさん登場しているのですから・・・ね。

初心者さまやさくらさま、goroさま、志恩さま、訊け管理人さま、トキさま、SAKURAさま、そしてうのはなさまという(見落としがあったらごめんなさい)、
この掲示板の主要投稿者がこぞって登場してくださって、 アホの a hopeの投稿を巡って、討論してくださっているみたいでなんだか申し訳なく感じています。

また、トキさまはじめわたしをご心配してくださっているみなさま、
わたしは大丈夫ですのでご心配なさらないでくださいね。


ところで、>>142でトキさまもおっしゃっていますが、
明日は 第11回 web誌友会が開催されます。
ですので、スレッドを改めまして予告させていただきますね。

144a hope:2013/02/14(木) 22:04:10 ID:TqpbsVIM

『第11回web誌友会』予告
≪日時≫
2月15日(金)21:30から
2月17日(日)23:30まで
≪テキスト≫
『生命の實相』第2巻第5章「神への道しるべ」(p.139〜166、28ページ分)

今月もまた、みなさんと一緒に生長の家の聖典「生命の實相」がお勉強出来て、 a hopeはとても幸せです。
復興Gさま、トキさま、そしてみなさま、今回もどうぞよろしくお願いいたしますね!

145トキ:2013/02/14(木) 22:14:21 ID:1q3wg2Ec
>>144

a hope 様

 ご丁寧なご掲示、深く感謝申し上げます

よろしくお願いを申しあげます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

146るん:2013/02/14(木) 22:32:25 ID:pic01rm6
初心者様
a hope様
亀レスになって申し訳ありません。(今週になって今日が初めてのアクセスですんで)

冠詞の事なのですが。
>>たとえば英語の不定冠詞である“a”ですが、これは「物質あり」とする唯物思想のあらわれであるはずなのですよ。<<
>>物質はない、あるのは心だけであるとする唯心論の考え方を反映させたのが定冠詞である“the”であるはずなのですよ<<

あなたはこう  ↑ おっしゃってますが、私には????です。この発想は一体どこから?

私は入社当時、英文に冠詞を入れ忘れるのをよく指摘されました。ので自分なりに勉強したのですが、まあややこしいし難しいのですが

『定冠詞  the  は 相手が知ってる物。たくさん有るものの中のひとつ。につける。 

『不定冠詞 a,an は それが不特定多数の場合、相手が知らない物。 につける。     ですよ。唯物論、唯心論なんて関係ないですよ。

定冠詞[the]が唯心論て、おっしゃってますが、「the」しか使わない物が有りますよね、

例えば、The Japanese Island(日本列島)、 The moon 、 The sun、←これのどこが唯心論なんですか?

147るん:2013/02/14(木) 22:47:14 ID:pic01rm6
初心者様、a hope様

>>少なくともお子様たちに、「不定冠詞である“a”は唯物論であり虚説であるのだから
>>ぜったいにつかうな、唯心論である“the”だけをつかえ」とこのように教育指導なさっていただき
>>ますことを、わたくし個人の信念として熱望いたす次第であります。

           
         ↑こうも、書かれてますが

冠詞の解釈が間違ってるだけでなく  生長の家は『唯神実相論』ですので

『「唯心論」だけ使え。』   と力説されても・・・・・

148初心者:2013/02/14(木) 23:07:02 ID:4YcI.wfQ
あなた方は、精神的に苦しんでいる人がいたときに、その人にたいして、自分の
苦しさを理解できるように言え、とおっしゃるのでしょうか。万人が共有できる
形でその苦しさを語れとおっしゃるのでしょうか。

「何が言いたいのかしら」ですって。「わかるようにわかりやすく語れ」ですって。
そうですか、そうですか。あなた方は、苦しんでいる人がいたら、いつもこのよう
に接してらっしゃるのですね。「なにが言いたいのかしら。そんなこと言われても
なんにもわかりませんわ」。「わかるようにもっと論理的に理詰めで語ってみれ
ば」。いつもこういうことをおっしゃっておられるわけですね。

何人に理解されたか。これが大事だとおもってらっしゃるわけですね。たとえ理解
されなくとも、理解しようとしてくださる方が何人かでもいてくだされば、これで
十分なのですがね。「何人に理解されたか」を問題にするような人に理解していた
だかなくてもけっこうでございます。

あなた方になにかを伝えたいわけではありません。数を問題にするような人に
理解してもらおうとも考えておりません。勘違いしないでください。理解されない
のは、はじめから承知のうえで書いているのです。

もちろん当の本人にわかっていただくためでもありません。これからもお好きなだ
け「愛しています」を連発なさればよろしいでしょう。ただ少数の、似たような苦痛
や不快感を共有している人たちがもしもいるとしたなら、そうした人たちへのメッ
セージとして書いたつもりですので、どうかお気になさらないでください。

ダーウィンの進化論にかんする記述でさえあの方は「難しくて理解できない」とし
て拒絶なさるのですよ。それでいてなにやら、「虚説」ということだけはわかった
ように語ってらっしゃいます。無知であることを隠れ蓑に、批判の矛先をただ一点
だけにしぼろうとしてらっしゃいますね。

じつにみごとな使いわけではありませんか。じつにたくみな戦略ではありません
か。こちらの虚説はよくてよ、理解できないのでぜんぜん気にいたしません。でも
こちらの虚説は、理解できなくても許せませんのよ。なぜって、あの方を愛していま
すもの。

「あなたを愛しています」といわれてそれを信じ、話しかけたところが「あなたの
言葉はすべて虚説です。理解しようという気にもなれません。でもあなたを愛して
います」との返事がかえってくる。これを異様ととらえる人もいれば、そうでない
人もいる。

「けっきょくは数が問題なのよ」。そうですか。異様ととらえる人がごくごく少数で
あれば、「何が言いたいのから〜ん」ですよね。どうぞご勝手に。

149さくら:2013/02/14(木) 23:08:49 ID:xQj6jtN.
>わたしは大丈夫ですのでご心配なさらないでくださいね。


おはなしになりませんね。
健気健気。

はい。みなさん、解散、解散。
おわりです。

お遊戯会のつづきをどうぞ。

150初心者:2013/02/14(木) 23:25:52 ID:4YcI.wfQ
るん様

ヨーロッパで普遍論争がかまびすしく議論されたのは、途中の中断をはさんで、
11世紀から14世紀の長きにわたってであったといいます。普遍論争とは、「実相が
ある」と考える人たちと、「実相はない、あるのは物質だけである」と考える人たち
によって争われた論争であったといわれているようです。

英語圏では、この論争が定冠詞と不定冠詞の成立に結びついたというのを、かつ
て読んだことがあります。「実相がある」と主張する人たちは、“the book”つまり
は実相としてのブックがあると主張し、「物質だけがある」と主張する人たちは、
存在するのは個物としての“a book”だけであると主張したと考えればわかり
やすいでしょう。

“the book”は実相、“a book”は物質と考えれば理解しやすいのではないでしょ
うか。異論はあるかもしれませんが、生長の家の方々には以上のような説明がシッ
クリくるのではないでしょうか。

定冠詞、不定冠詞にも思想的、哲学的背景があるということですね。ただしこれ
は、20年もまえに読んだ本の記憶です。真偽のほどはご自分で判断なさってく
ださい。わたしはこの説明に納得しています。

それと、唯心論といっても、ほんらいは実念論というべきものであり、プラトン主義
や新プラトン主義をそれぞれべつべつに奉ずる人々の思想をひとまとめに総合し
たものだと理解してください。

生長の家の唯神実相論は、ガチのプラトン主義と新プラトン主義がともどもに取り
入れられているとしかおもえないので、わたしには理解できない哲学思想です。
わたしの勉強不足といったところでしょう。

151a hope:2013/02/15(金) 00:28:01 ID:TqpbsVIM
初心者さま、さくらさま、みなさま

おやすみする前に、どうしてわたしが、「愛する」、「愛している」を連発するのか、
その理由をお伝えしておきますね。

それは、『実相を観ずる歌』にこうあるからです。

・・・・

神は愛にして、
吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを愛し、
すべては吾れを愛す。

・・・

わたしは、〝神の子〝 だから、皆さんを愛するのです。

ほかに、理由はありません。
それが、「生長の家の信仰の基本」なのではないかと思っているからです。


それでは、わたしの愛する「生長の家」のみなさま、おやすみなさい。

152SAKURA:2013/02/15(金) 02:20:50 ID:0l1bXleY
トキ様 へ   観覧者の皆様 へ
こんばんは…・・・ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>134>>136>>138>> 投稿の続きです…。

先程…気分転換に…“〜♫〜♫ 雨の中 ♫〜♫〜”を、愛犬と一緒に散歩……
結構〜〜雨の中もそれなりに?いとおかし〜〜〜かと。

❤〜さて「愛する…」此の言葉に関しての「a hope 様」の解説論…
そうです〜〜〜ネ!???でしょうかと〜〜〜?

此の「解釈論…」は〜〜〜?

唯!ケ−ス・バイ・ケ−ス…も多少は、考慮すべき点がありますでしょうかと思います…。
先程の「志恩様…>>135 の投稿内容…」から、
“愛する”ということに関しましては、一里ありますかと…思います。…が?

                        再合掌

PS:【WEB誌友会】のご連絡…ありがとうございました。

153志恩:2013/02/15(金) 04:15:38 ID:.QY5jUA6
初心者様、さくら様

a hope様がいわれることが、不愉快に思われるなら、ahope様の書き込みは、読まれなければ
いいのではないですか。

ここで、初心者さまとさくらさまが、異口同音にいきりたっておられても、なにが不愉快なのか
他人に理解されなければ、事態はかえられないのではないでしょうか。

私が、ばかすぎて分らないのが問題なのか、初心者様が他人が理解しにくい言葉で話されるのが
問題なのか、わかりませんけれど、なにが、不愉快で二人揃って、怒ってばかりおられるのか、
あなたがたの主張が、さっぱり理解できないでおります。

>149:さくらさん曰く

>>はい。みなさん、解散、解散。
おわりです。

お遊戯会のつづきをどうぞ。<<


ふざけんな。

154a hope:2013/02/15(金) 08:35:42 ID:TqpbsVIM
るんさま

るんさまは、英語をお勉強されているのですよね。
初心者さまの難しいお話にお答えできるのは、さすがですね。
わたしも、以前、本格的に英語のお勉強をしようかと思っていた時期がありましたが、
興味が違うほうに向いてしまい、今は、英語とはあまり関係のない仕事をしています。

でも、また、少しずつ英語を勉強していきたいなとも思っています。
今のところ、仕事の勉強と生長の家のお勉強で目いっぱいですが…。

人間無限力ですから、わたしもるんさまの向上心を見習って生長し続けたいです。

>>146 147のご投稿に、心より感謝いたします。

よろしかったら、今夜からのweb誌友会にもぜひご参加くださいね!

155a hope:2013/02/15(金) 08:37:21 ID:TqpbsVIM
初心者さま


わたしは、初心者さまがわたしの発言に怒ってしまわれるのは、無理もないと感じています。

昨日は、仕事に行く前に初心者さまからわたし宛の投稿を拝見して、時間がなかったので、
「難しくて答えようがない」、というような、発言をしてしまったからです。

それは、嘘ではないのですが、初心者さまの気持ちを思いやることができない、
ひどい発言だったと思い反省しています。

そのあとさくらさまが登場されていろいろ発言してくださったのも、
わたしのその心を見抜かれたからだと思います。

本当にわたしは、まだまだなんですね〜(溜息)
そんな不十分な人間なのに、一人前に「虚説」だとか、「真」だとか、連発していれば、
初心者さまや、さくらさま以外にも、わたしの発言を不愉快に感じる方はいらっしゃるのではないかと自分でも感じています。

ですが、そんなことを考えていては、何も発言できなくなってしまうので、みなさまのご指導を謙虚な気持ちで受けながら、
これから、 a hopeはマイペースで思うことを、率直に発言させていただくつもりでいます。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

156a hope:2013/02/15(金) 08:57:18 ID:TqpbsVIM
SAKURAさま 志恩さま

「愛する」という言葉は、やはりそう簡単に使わないほうがいい言葉なのでしょうか?

ですが、わたしは「愛」こそ宗教の基本であると思うのです。

では、「愛している」を連発しているわたしは、どのくらいの比重でみなさまを愛せているかは、
それは、おそらく、谷口雅春先生や、キリストさまの愛に比べたら、蟻粒ほどの「愛」ということになっるのだと思います。

ですが、「ありがとうございます。」という言葉と同様に、「愛しています」も言い続けていることで、
もっともっとみなさんを愛せるようになるのではないかと勝手に思い込んで発言していました。

ですから、初心者さまにダブルバインドの例をご指摘されたときには、
ああ、自分は気付いていなかったけれども、このような不特定多数の方がご覧になっている掲示板では、
もしかしたら、そういうこともあり得るかもしれない… と感じています。


みなさま

わたしのいう「愛する」「愛しています」の「愛」は、「生長の家の愛」です。
つまりは、 〝自他一体の愛〝 です。

そしてこれは本当は、私自身が一番求めているものかもしれませんね(笑)

157a hope:2013/02/15(金) 09:08:50 ID:TqpbsVIM
『第11回web誌友会』予告

≪日時≫
2月15日(金)21:30から
2月17日(日)23:30まで

≪テキスト≫
『生命の實相』第2巻第5章「神への道しるべ」(p.139〜166、28ページ分)

158a hope:2013/02/15(金) 09:20:32 ID:TqpbsVIM
みなさま

今夜の誌友会30分前くらいになりましたら、いつものように a hope が、
(準備祈願)の祈りの言葉と、聖典「真理の吟唱」より、『天地の万物を祝福する祈り』を謹写させていただきます。

みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

159復興G:2013/02/15(金) 09:34:02 ID:AB6RqYXc

a hope 様、ありがとうございます。
安心しました。
web誌友会、よろしくお願いいたします。合掌。

皆さま、ありがとうございます。
私は昨日は夜まで趣味の会の集まりがあり、帰りは遅くなったので、疲れてここに書き込みはできませんでした。

さて、私も昨日の皆さまの活発なご投稿を拝見して、率直な感想などを述べさせていただきましょう。
少しお待ちください。

160初心者:2013/02/15(金) 11:01:49 ID:4YcI.wfQ
ダブルバインドが、その性質からして母と子のあいだで起きやすいのはいうまでも
ないにしても、宗教においても、これは非常に起きやすいものだと考えます。

長い歴史のなかで鍛え上げられてきた伝統的宗教のなかには、ダブルバインドの
危険性を熟知していて、その危険性を意図的にコントロールしているところもある
といわれているようですが、歴史に鍛えられたという経験のない新興宗教には
コントロールのためのいかなる仕組みもない、というのが現状ではないでしょうか。

「真の生長の家」にたいする嫌悪感は、こうした表現に宗教的ダブルバインドの
においをかぎとっているという一面があるということをいっておきます。これは
わたしの印象ですが、ダブルバインドをかける側の人にとってみれば、「真の生長の
家」は心地のよい言葉として感じられているはずです。

161復興G:2013/02/15(金) 12:13:27 ID:AB6RqYXc

初心者様。

a hope様は、
>>生長の家の総裁である雅宣先生が、一方で人間神の子の「唯神実相」を説かれ、もう一方で罪の子人間が犯した環境破壊という現象問題に取り組まれているというその矛盾に直面して、わたしの魂が混乱したのだと思います。その結果、精神不安に陥り、体調を壊し、2週間寝たきりの状態になりました。
ですから、あくまでも、わたし、a hopeの見解ですが、そのような二元論を信じていらっしゃる「雅宣先生の今の教え」は、すべて「虚説」だと思っています。<<

と書かれました。しかし、初心者様のお説を「虚説」と書かれたことはないと思います。それだのに、なぜ
>>総裁は関係ありません。ホープ様は、わたしの発言も、真の生長の家をはずれた虚説といっておられるのですよ。<< (>>112
とおっしゃるのでしょう。

それは、初心者様が総裁と深く同一化した思いを持っていらっしゃるということでしょうね。

>>わたし自身、あなた様によってダブルバインドをかけられ不快な思いをしているもののひとりであるような気がいたします。この不快さはそのように考えなければとても理解できないシロモノなのですよ。<< (<<94)

ということですが、「ダブルバインド」についてウィキでは

≪例えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。≫

――その結果、その状況におかれた人が統合失調症に似た症状を示すようになると指摘する説がある、と書かれています。

が、さて、そのような「ダブルバインド」的行為を、多くの生長の家信徒たちに、「人の気持ちも感情も思いやることができない」で、乱暴に執拗に繰り返しておられるのが現雅宣総裁ではないか、というのが私の感想です。たとえば、2月11日建国記念日式典での総裁のご挨拶なども、ひどいものだと、私は思います。これでは、信徒は劣等感に陥り、あるいは反撥し、ますます教団・総裁から離れて行く者が多くなると思います。

初心者様。志恩様が、感情的になってむちゃくちゃなことをおっしゃるとき、その背景の心を思いやって発言されていましたでしょうか?

さくら様も、>>113
>>ただ、ものごとは、なんでもそうですが、表面に見える形だけが全てではなく、その「背後」がありますよね?
表面的な印象だけで、ものごとを判断するのは、なにも理解ができないと、わたしは思っています。
なにか、物事が起こった時、「ここには、どんな意味があるんだろう」「なぜ、ここでこのようなことが起こるのか」と考えるのは、真理を学ぶ私たちには大切な姿勢であるんじゃないでしょうか?<<

と書かれていますが、お互いに常にそういう思いやりの気持をもって発言・行動されていれば、現在のような混乱は起こらなかったかも知れません。
<つづく>

162復興G:2013/02/15(金) 12:14:07 ID:AB6RqYXc

さて、a hope 様が、>>79 で、

>>わたしは谷口雅春先生の「生命の實相」を拝読して、魂を震わせて現教団に入信しました。
わたしの魂が求めていたのは「唯神実相哲学」で雅宣先生の「現象問題を扱った環境」のお話ではなかったのです。ですが当時わたしは何もわからない真の新入生でしたから、その矛盾に全く気付きませんでした。
生長の家の総裁である雅宣先生が、一方で人間神の子の「唯神実相」を説かれ、もう一方で罪の子人間が犯した環境破壊という現象問題に取り組まれているというその矛盾に直面して、わたしの魂が混乱したのだと思います。その結果、精神不安に陥り、体調を壊し、2週間寝たきりの状態になりました。
ですから、あくまでも、わたし、a hopeの見解ですが、そのような二元論を信じていらっしゃる「雅宣先生の今の教え」は、すべて「虚説」だと思っています。
たとえ、雅春先生の教えと同じことをわかりやすく本にして出版されていても、それを執筆された雅宣先生のお心が、一方で『神』を信じ、もう一方で『現象あり』も信じる「二元論」である限り、すべてが虚説であるというのが、a hopeの見解です。
ですから、わたし、 a hopeは「雅宣先生の今の教え」に賛同するつもりは全くありません。<<

――と書かれたことについて、私は
「プリントアウトして、しっかと受け止めています。a hope様の体験は、真実の体験であり、とても貴重なものだと思います。」
と書きました。

それは、a hope様の体験が私自身の過去の直接体験と重なり合うところもあるので、これは「真実の体験だ」と感じたからです。

私は、>>86で次のように書いていました。

≪そして、私もしずかにわが内なる神の声を聴いております。それは――前のweb誌友会板
>>1589>>1592>>1593>>1595
で書いている高校2年のとき初めて聴いた、わが魂の底なる、内なる神の声です。

一、われは聴くわが内なる声を
  “みひかりを常にもとめて
  わが御手をしかと握れよ
  安らなれすべて善ければ
  とこしえに此処極楽に
  なれは今まもられてあり。
  何者か汝を奪わん。
  大いなる我れ汝を抱けば。”

二、われは聴くわが内なる声を
  “われ常に汝をまもれば、
  われ常に汝を導けば、
  何時のとき何処にあるも、
  汝は完たく清くけがれず、
  行く道に迷うことなし。
  われは汝の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”

――という「堅信歌」を心の内で歌いながら・・・・・・≫

と。そこで、思うことを次に書かせていただきます。
<つづく>

163さくら:2013/02/15(金) 12:50:04 ID:p8juji6I
「真実の体験」?

それは、ホープ様にとってそうなのであり、復興Gさまにいくら認めれてるホープ様だといって、その他は虚説とはなりませんよね?

わたしは、混乱するから距離をおくだの、
あなたが言ってることは、理解できないだの、
わたしのことは、あなたには理解されないだのとホープ様に言われてきましたが、

わたしは、自分とちがう体験をし、
自分とちがう真実を体験した人を、混乱するといったり、サタンと言ったり、おもったこともありません。
わたしは、自分だけが生命の実相を、雅春先生を理解してる「真の生長の家」だの、おもったこともありません。

復興Gさまとホープ様には、真実でも、他を否定していい理由なんてないのではないですか。

たとえ、真の生長の家でもそれをする権利はないとわたしはおもいます。

164さくら:2013/02/15(金) 12:59:32 ID:p8juji6I
体調が悪くなったから、虚説ですか?
生理的嫌悪以外、ここに、根拠が、なんの真実があるのですか?


雅宣総裁がないをされたことが間違えであったのか、どんな発言が教えとちがうのか、
その発言は、ほんとうに、雅春先生を抹殺しようとしてるのか、
生長の家のために、どう改善し改革すべきか、
虚説という人は、すこしでも、考えたことがありますか。

理解できないものを理解しようとすることは、苦痛が伴います。

自分の無知を隠れ蓑にしてはいけないとわたしはおもいます。

165初心者:2013/02/15(金) 13:31:27 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

わたしはこちらで大勢のおそらくは敵対する勢力を相手にやりとりをしているつも
りですので、このことによって過剰なプレッシャーにさらされることがあり、そのこ
とで感情が左右されることはあるやもしれませんが、そのほかのときに感情的に
なることはほとんどないと考えています。

以前も復興Gさまが、わたしの発言を「怒り」と表現されたことがありましたが(自
然状態と文化的状態のやりとりをしていたときです)、わたしはぜんぜん怒っては
いませんでした。

ひとつの手法として怒りモードで書くことはあります。昨晩の書き込みもそうでし
た。あれを読めば「感情的」ととる人もおられるでしょうけども、わたしはまったく
冷静にあれを書きあげました。むしろ「るんちゃん」への返信に多少の感情が入り混
じったことを自覚しています。

感情の話はこれくらいにして、総裁こそがダブルバインドをかけているとされる
発言はなるほどとおもいました。実感はありませんけども、そういうことがあった
としても不思議なことではない気がいたします。

実態は存じませんが、現総裁が現実の問題に取り組まれているのはたしかなこと
なのでしょう。「ない」はずの現象に取り組むのはたしかに矛盾です。たとえば経済
活動ですが、これも「ない」はずの現象世界での活動という意味では矛盾です。

ですけども、この矛盾がなければ現代の世の中は成り立ちません。アリストテレス
は、生命体としての国家のなかに生理現象としての経済活動をみいだし、それを
「エコノミー」と名づけたといわれているように、国家という生命体にとって、経済
活動はなくてはならない生理現象ということがいえるはずなのです。

環境問題はエコノミーの結果ですね。環境破壊は、国家という生命体の生理現象
によって生みだされたものだ、ということがいえますね。環境破壊を真理の側から
みたとき、それを現象一辺倒の活動とみなすことができるのでしょうか。

環境が破壊されたのは、国家の生理現象が正常におこなわれなかったからでは
ないでしょうか。環境活動が、もしもこれを正常にもどそうとする活動であったとし
たとき、それでもこれを「虚説」のひと言で片づけてよいということになるのでしょうか。

話を変えます。

ダブルバインドということでいえば、「実相世界」と「現象世界」の関係はダブル
バインドとはならないのでしょうか。「実相がある」、「現象はない」をそれぞれの
メッセージとしても、両者の関係を説明しうるメタ・メッセージがおそらくどこにも
存在しないはずなのですね。

ダブルバインドは、ゲシュタルト心理学では「袋小路」というそうですけども、「実相
世界」と「現象世界」の関係を説明するメタ・メッセージをいくら得ようとしても、
文字どおりの「袋小路」に入り込んでいくだけなのですね。

こうした袋小路を抜け出すには、考えるのをやめる、という方法しかなさそうです。
考えるのをやめてメタ・メッセージの追求を放棄しさえすれば、「すべてがわかっ
た」という感覚になることも可能です。

20年前のわたしがそうでした。「すべてがわかった」とする感覚につつまれていま
した。もちろん今でもそうした感覚を得ようとすれば、いつでも得ることができます。

「すべてがわかった」という感覚につつまれていた当時のわたしは、自分のことを
とても偉いに人間だと思いこんでいました。世間の誰もがバカにみえていました。

「実相世界」と「現象世界」はダブルバインドです。考えることをやめないかぎり
解消することのできない袋小路です。考えることをやめた人にとって、すべての
ことは自明です。「人間知を超越した自分は世間の誰よりも偉い」。これが自明の
こととなります。

166復興G:2013/02/15(金) 13:32:23 ID:AB6RqYXc

>>162のつづきです。

私は、高校2年のときに、わが魂の底なる、内なる神の声を聴いたと申しますか、不可思議光を見たと言いますか、ある「霊的体験」とでもいうような、不思議な体験をしました。そして、地方から上京して東京の大学に入った。けれども、そこでは

≪大学で、人生の師に出会うことはありませんでした。大学は、私にとってストレス以外の何ものでもありませんでした。私は退学願いを出しました。≫

と、前のweb誌友会板>>1593に書いています。
簡単にそのように書いていますけれども、その日々は、そそらく想像を絶する(体験のない人にはわからないと思われる)苦しい日々でした。ノイローゼ(神経症)とか、統合失調症といわれるものだったかも知れません。

 大学に入ってから、あの、高校2年の時に見た輝く光、無限の希望の光――あの「光」を見失いかけたのです。

 あれは一体、どこから来た光だったのだろう……そして、あの光を再び自分の中に輝かすにはどうしたらよいのだろう――ということが、私の最大の、のっぴきならぬ関心事でした。大学の講義にはついて行けなくて、勝手にいろんな本を読みました。

 哲学者ヘーゲルが、1818年にベルリン大学で行った開講の挨拶というのに
 「人間は自己を尊敬しなければならない、自己をもって最高のものにねうちすると考えなければならない。精神の偉大さと威力とは人が如何に大きく考えても大きすぎるということはないのであります。宇宙の閉ざされた本質は認識の勇気に抵抗し得るであろう力をば有しない……この勇気の前に宇宙の本質は自己を開き、富と深さとを開示し、それを享受せしめるに相違ないのであります。」
(天野貞祐著『学生に与ふる書』より)

 とあるのを読んで、よし、自分の求めていたものは哲学だ! と哲学の講義を聴いてみても、大学での哲学の講義には魂を沸き立たすようなものはありませんでした。

 私は、大学に絶望して、退学願いを書いて一度は提出しました。それは、私の尊敬していた恩師の忠告で引っ込めましたけれども、大学は留年したり休学したりして、大いに悩みました。

 そのころ、私はトルストイの『人生読本』を読みました。
そこには、次のようなことが書いてありました。

○あらゆる宗教の本体は、何のために私は生きるか、自分をとりまく無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるかという事実に対する知識である。

○いろんな知識をかき集めている学者どもは不憫なものだ。ひとりよがりの哲学者たち、飽くことを知らぬ研究家等は不憫なものだ。これらの善くない富者たちは、ラザロの徒が絶えず飢えに悩んでいるにも拘わらず、毎日毎日自分たちの知識上の饗宴で無為徒食しているのだ。これらの人々は皆無に等しい代物でお腹がいっぱいになっているのだ。何となれば、そうして空しい知識は、道徳的完成にも、社会的完成にも力を致すところがないからである。

○無益な学問をうんとこさ学び知るよりは、人生の法則を少し知る方がましである。

○最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰なしに生き得るものだという独断に対する現代のいわゆる学者の大多数の迷信である。

 ――これを読んで私は、私の求めているものは「宗教」だ! と思いました。以前は目に見えないものを信ずるのは頭の足りない人のすることだくらいに思っていた私でしたが、本当は最も頭の良い人間は、生命の根元を探求し宗教を求めるものだとわかりました。

 そして、縁あって谷口雅春先生の『生命の實相』に触れ、ただひたすらに読み始めたのです。そして、高校2年のころ垣間みたあの光り輝く世界が何であったのか、それをとりもどすにはどうすればよいか、その答えがここにある――と思ったのです。

 大学では教えてくれない素晴らしい哲学、生活に生きる哲学が、ここにありました。
 私は、すぐ生長の家青年会に入会して、活動を始めました。ここに、自分を本当に生かし、人を生かす道があった。「この最高の真理を、永遠に学び生き続け、全世界に光を与えてまいりましょう!」と。
<つづく>

167復興G:2013/02/15(金) 13:56:16 ID:AB6RqYXc

>>166のつづきです。

私が大学で苦しい神経症的な状態にあったとき、『生命の實相』を読めば、なんとか魂がやすらぐ思いをもったことを思い出します。その頃、どうしても大学の講義をまともに聴いて勉強しようという気持になることができなかったのです。

それは、「いい」とか「悪い」とかの理屈を超えたもの、魂の渇望というようなもので、『生命の實相』を読むことしかできなかったのです。
それが、私の実体験です。

私は、a hope様の体験と、上記の自分の体験において、何か共通するものを感じてしまうのです。

それは、「いい」とか「悪い」とかの理屈を超えたものなのです。

168さくら:2013/02/15(金) 13:56:40 ID:p8juji6I
ホープ様の虚説レポートは、復興Gさまは、お認めなのでしょうが、
わたしには、違和感があり、名指しでご指名頂いたにも関わらず、一言もありませんでした。

しかも、距離をおくというわたしに、なぜ、初心者さまと並べて、ここの場へ引き出そうとされたのか。
…わたしは、自分のこころに傷ついたものがあるので、
愛してるという言葉を素直に受け取れませんでした。

なぜなら、ホープ様の「真実の体験」により、わたしは虚説の方に分類されたからです。

わたしは、復興Gさまが、なんと素晴らしいことをいうのでしょう、とお認めになる、
ホープ様のご想像の
実相など、わたしは持ち合わせてはいません。

わたしは、神から作られた、
ただ唯一の実相があるだけです。

そこには、虚説もサタンも、ありません。

169初心者:2013/02/15(金) 14:38:28 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

さくらちゃんが書いておられますように、ホープ様はなぜ、さくらちゃんとわたしを
虚説レポート発表の場に呼び出されたのでしょう。

ホープ様は、「真説以外は虚説」と明確に述べておられるような気がいたします。
ホープ様の真説と虚説の二分法によれば、わたしの発言はどちらに属するのか、
それはホープ様にちょくせつ尋ねてみられればわかることなのではないでしょうか。

170さくら:2013/02/15(金) 14:53:58 ID:p8juji6I
汚れなき、誌友会が始まるまでは、書いていてもよいですか。

真の生長の家ではない、わたしにも、真実の体験があり、
本流派のみなさまにも、生長の家のなかで、真実の体験があり、
…生長の家にふれた方、…まだふれてはいない方にも、真実の体験があり、
真摯に生きようとしている人は、誰であれ、真実の体験のなかに、神を見て、生かされていますよね。
復興Gさまが、プリントアウトするほどのホープ様の体験だけではありません。

わたしにも、否定してもしきれない、誰にも分類されたくない、
真実の体験があります。

誰にでも、真摯に生きていれば、真実の体験がありますよね。

そこには、真だと偽だと、誰かに判断され、分類されることもありません。

否定されれば、怒りも感じことがあります。

……そういえば、もしかしたら、雅宣総裁がされてるのは、多くの方の、生長の家での真実の体験を否定するような言動にも感じれることがあるのかもしれません、

171さくら:2013/02/15(金) 15:48:50 ID:p8juji6I

ホープ様が誌友会の最中に、「多様性」アレルギーがあると書いたことがありました。

わたしの発言からです。

いくらなんでも社会生活も知っているであろう、子どもも育てたであろう方から、「多様性」にアレルギーがあるなどという言葉を聞くとはおもってもいず、
ここの雰囲気を壊してしまったけれど、ショックだったのは、
他を排除して多様性を認めない、カルトの経験を思い出してしまったからです。

多様性とは何かを知らない、というだけではなく、いくら雅宣総裁を思い出すといっても、「アレルギー」という言葉にも、違和感を感じました。

そのときわたしは、キリスト教的宗教観が世界に普及される過程において、多様性のある多神教的な宗教(アニミズム信仰など)が、
ある場合においては、
生理的嫌悪によって排除されてきたという論説の本を読んでいました。
宗教的独善は、正義の名の下に、確実な根拠もなく異質なものを排除する歴史もありました。
魔女狩りもそうです。アニミズム信仰の排除や、生理的嫌悪に基づいた理由が多くありました。
ヒトラーには、民族多様性に対するアレルギーがあったといえます。

正義とは、他を排除する、武器になってはいけないし、
多様性を認めるとは、真実を虚説で穢すことでもない、とわたしは、切実に感じていました。

カルトの経験は、それを経験したことのない方にはおそらく、わからない感覚があるとおもいます。

信じるものがちがうというだけで、他を殺し、他に殺されることもあるという、現実もあります。

ですから、わたしには、虚説レポートも、真の生長の家以外自分に入れないけど、愛してる…という発想も、同じ生長の家を学ぶものとして、
どうしてもこころに抑えきれないものが湧いてしまいました。

172SAKURA:2013/02/15(金) 16:41:18 ID:cjjCC9AE
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>134>>136>>138>>152 投稿の続きです…。

尚「ひらがなのさくら様」が“投稿続き”されていますが…
此処にて、私【ロ−マ字(大文字)SAKURA】の投稿しますと、誤解が生じますと困りますので、
一言断わりましての“投稿内容”を、させて頂きます。   ―― その① ――

■只今!“休み時間…”で?時間的に余裕がないのですが?
本日の【>>156の「a hope様」の投稿内容も含めて…】感想を述べさせていただきます…。
今回の「復興G様」の“解説”には何処か正直申しますと“矛盾点…”を感じるモノがあります。
昨日「a hope様」の言葉の中で“愛している…”此の言葉の“使用感〜〜〜”ですが?
更に「真の生長の家」とは表現的には理解できます。…が??個人的には、余りにも「復興G様」の
「a hope様」への後押しと申しますか?感じられますモノがあり、そうなりますと……

【 此の“真の生長の家…”という言葉? 何処からの“原点”と捉えるべきでしょうか?疑問点 】

あくまでも、私達は此の現実世界に於きまして、お一人お一人の皆様が「神の子…」です。
それは【生長の家…お家騒動】の現在でも、例え【分派…派閥?】になりましょうとも、一人一人が
「神の子…」です。つまり、皆様誰もが『神との一体』をどこまで出来ますのでしょうか?これが
今日の【課題…】でしょうかと。この様に私は考えております…。

彼女の入門は、まず!最初に入っていく過程では殆どの方は“経験・体験”があると思います。
【真理…】を掴んでいく過程での言動なら、理解出来ます。…が?ある“特別優遇された表現”は
如何かと思います。それとも〜〜?それは「個人の感情問題」に入っていく部分がありますのでは
ないでしょうか??確かに!一人一人“個性”がありますから「表現力は豊富…」です。
しかしながら、これを共有する閲覧者の皆様に対してもと…考慮するとなりますと…「言葉=言霊」の
意味は、非常に重要なる位置づけになるモノと判断致します。…が?
            
昨日「ひらがなのさくら様」の言葉から、いつも彼女はウィンドウ・タイプでしたから、何を?
言ってるのかが理解しがたく、本日の投稿内容(又!七変化のさくら様)にて意味が理解しました。
これに関しましては、私も【具体的…】に記載投稿したいです。…が?現在…仕事の関係で時間調整
が出来かねますので【WEB誌友会…】が、終わりました頃に記したいと思います。…が?

                               つづく

173SAKURA:2013/02/15(金) 16:43:11 ID:cjjCC9AE
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>134>>136>>138>>152>>172 投稿の続きです…。

 ―― その② ――
>>172 投稿の続きです…
■一つ思いますが「a hope様」の場合は、『特定な人間対称…』に、この“愛しています”が、や
やもしますと使用されているような捉え方を受けますので…此の事が「ケ−ス・バイ・ケ−ス」と
言う事になりますでしょうか?そう〜〜〜ですョネ!【現総裁雅宣先生…擁護派】としての私に、
そのような言葉な使い方を「a hope様」から、かけられた事?がないのですから、そこが〜〜〜
【神地一体…?疑問点?】となっていきますのです。

まず【真の生長の家…の真理】を把握されますと「誰とも“声…”をかけれる心境」ではないでしょ
うかと…世間一般の第三者は見ますモノと判断しますかと。ましてや〜〜〜捉え方によりましては、
「自身の感情論(仲間意識=好みの人)だけを対称にした“使用感…”が見えます。…が?今回は、
ことのほか、通常よりも“仲間意識的”での使用が感じるモノがありますかしら〜〜〜ン!と思い
ました。更に、余りにも「a hope様」に誇示しすぎる“傾向…”があり、新しい信仰の門をたたか
れました方が【分派…の皆様の会】に入ってこられますと、まずは、目に付きますでしょうから、
どうかしますと、時間の経過によりましては、入信されても離れていく感じにも思えます。…が?

■更に「言葉の使用感?」この現実社会に於けます「言葉…」が余りにも軽すぎる感が致します。
❤【ありがとうございます…】と【愛してる…】とは、随分意味が?ニュ−アンス感?が、
変って来るのではないでしょうかと……??更に!「神の子」としての【みな兄弟の感覚ならば、
本当の意味で“心…”からの思念をしますと、それだけで随分と表情(対面の場合)も、文体表現
も変わりますのではと思う次第です。…が?無理した“表現遣い”をされたような感じでしょうか
と。時には“愛してる…此のニュアンス”とみえます時もありますし、どうかしますと〜〜〜?
「商売用語に…客引き言葉」に見えてしまうこともありますが?これは、私・知人関係の捉え方です。

最終的には、「愛しています」と言います表現は〜〜クリスチャン関係〜〜〜関連してきますので
しょうか?モット飛躍しますと「お国柄??の慣習」にもなりますのでしょうかと?…「感情的表現」
“ハッピ−!”という感覚なのでしょうか〜〜〜?もっと詳しく【具体論…】で書きたいのです。
合間にての投稿で……後日にて“投稿”します。
                                   再合掌

174復興G:2013/02/15(金) 16:50:54 ID:AB6RqYXc

>>169 :初心者様

>>さくらちゃんが書いておられますように、ホープ様はなぜ、さくらちゃんとわたしを虚説レポート発表の場に呼び出されたのでしょう。<<

正直いえば、私も「なぜ?」わざわざ波風立てるようなことを……という感じを持ちました。

おそらく、a hope様は、
>>それは、『実相を観ずる歌』にこうあるからです。
・・・・
神は愛にして、
吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを愛し、
すべては吾れを愛す。
・・・
わたしは、〝神の子〝 だから、皆さんを愛するのです。
ほかに、理由はありません。<<

――だから、初心者様にも、さくら様にも呼びかけたくなった、というような単純な動機かなあと想像していますが……。
 これも、神のお計らいなのでしょうか。私も今一度自分をふりかえり、勉強させていただいていますから。


なお、>>165で初心者様は
>>ダブルバインドということでいえば、「実相世界」と「現象世界」の関係はダブルバインドとはならないのでしょうか。「実相がある」、「現象はない」をそれぞれのメッセージとしても、両者の関係を説明しうるメタ・メッセージがおそらくどこにも存在しないはずなのですね。<<

と書かれていますが、それについて私は<<58、<<59で書きましたように

>>「実相」は時間・空間の中にあらず、時空を生み出した本源世界 すなわち「久遠の今」にある。
また、現象世界は4次元時空間というスクリーン上に投影された映画であって、「実相」はフィルムに当たる、とも説かれています。
フィルムはすでに完成している、そこにすべてがあって完成している。けれども現象世界へのに投影は一コマ一コマ順番に映し出されるのであって、一度にすべてが投影されるわけではないから、現象は無常であって、不完全である。
私たちの五官は、投影された影である現象世界を認識する道具でありますから、その五官によって<フィルム>の世界、「実相」を知ることはできない。現象の言葉をもって実相を説明することはできない。というので「不立文字」とか「教外別伝」と言われてきた。……(後略)……<<

という説明で私は納得し、「ダブルバインド」とは全然感じておりませんが――。なぜ、初心者様がそのようにおっしゃるのか、よく理解できません。考えています。

175さくら:2013/02/15(金) 17:15:10 ID:p8juji6I
ここは、先日で、のべ30万人の方が見た、とのことです。

ホープ様は、ここを見ている真の生長の家が判断します、と自信をもたれていますが、
わたしは、誰にも判断されなくても、構いません。

意見がちがっても、
まあ4.5人、話せる人がいれば、
ここに出会えてよかったな、と思います。

なので、わたしが書いたことも、
3.4人、まあ、真の生長の家じゃなくても、そんな見方もあるよね、
そう思うこともあるよね。

とおもってくれる人がいただけで、
有難いです。

ほんとうに、そんな出会いは、有難いです。

ありがとうございました。



176復興G:2013/02/15(金) 17:53:38 ID:AB6RqYXc

さくら様

精力的な書き込み、ありがとうございます。

生長の家は「一つ」であって、「真の生長の家」 「偽の生長の家」などというものはなく、「排除する」などということもあり得ません。

a hope様も、「真の生長の家」と言ったつもりはないと言われてましたよね。真の「生長の家の教え」と言ったことはあるけれど――と。

私も、真の「生長の家の教え」とは何か、それを究め、それを生ききって行きたいと思っています。

そのためのweb誌友会が、まもなく始まります。

心を空しくして、神の御導きを受けたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

合掌

177復興G:2013/02/15(金) 18:03:07 ID:AB6RqYXc

 予告文をもう一度貼らせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

『第11回web誌友会』予告
≪日時≫
2月15日(金)21:30から
2月17日(日)23:30まで
≪テキスト≫
『生命の實相』第2巻第5章「神への道しるべ」(p.139〜166、28ページ分)

  合掌

178復興G:2013/02/15(金) 18:24:47 ID:AB6RqYXc

web誌友会テキスト 『生命の實相』第2巻より<1>

   第五章 神への道しるべ

 霊眼で多数の人が同時に「生長の家の神さま」を拝したという話がでましたので、いよいよ神さまとはどんなものだということを説明すべき段どりになりました。

 哲学的には神とは「大生命」だ生命の大本源だ、といってしまえばなんでもないようなものの、神とは必ずしもそんな抽象的なものではなく、活ける愛の神、生命の神、知恵の神、美の神であって、それを見る目さえあれば、人と人とが相対するように、人格的にさえもあらわれたまうのであります。キリストの神がそうであった。旧約の預言者にあらわれた神がそうであった。そのほかいろいろの宗教の開祖たちには神さまのみ声を直接にお聞きになった方が多いのであります。
 「われ神を見、神より聞きしところをなんじらに伝う」そこにこそ真の宗教の教祖たる権威があるのであります。

 ところがふつうの人には神は眼では見ることができないのですから、それを見た人が説明してあげてもなかなか納得できるものではないのであります。たとえばここに生まれつきの色盲の人があって、その人には青い色がぜんぜん見えないとしますと、この色盲の人にあなたの見た色のほかに青い色というものが存在するぞと教えてあげても、その人は本来、青い色を見たことがないので、かえって色盲でない方の人のいうことを疑ってかかることになります。神の見えない人は色盲でなくていわば心盲です。色盲が青色の存在を信じないと同じように心盲が神の存在を信じないのも無理はないのであります。

 そこで理論的にでも神の存在の説明をせねばならぬことになるのですが、この、神さまがあるという事実を知らして人間を導こうという宗教なるものがいろいろの宗派にわかれていまして、互いに他の宗派の悪口をいっているような状態ですから、はじめて信仰の道に入ろうとする人にはどちらの宗派のいうことが正しいのだか見当がとれないのであります。
 真宗の人は阿弥陀仏だけを信じて、南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと、日蓮上人などは、『無量義経』においてお釈迦様は今まで四十余年間にわたって説教したことは方便にいったことで真実をいったのではない、今こそ本当の真理を説くといって『妙法蓮華経』をお説きになったのであるから、この『妙法蓮華経』に説かれてあることだけが本当で、それまでの説法は嘘である、むろん念仏をとなえて救われるなどということは真っ赤な嘘であって念仏をとなえれば無間地獄(むけんじごく)におちるといって日蓮上人は親鸞聖人の教えを非常にわるくいっています。
 同じ仏教のうちですらも、こういうふうにいろいろな説があって、互いに争っている始末でありますから、ましてキリスト教と仏教とにいたっては犬猿もただならない間柄で、時々大道でもキリスト教の路傍伝道者と仏教の布教師とが争っている有様を目撃するのであります。
 先日ひとかどの人格者であられると思っていた、キリスト教信者の発行していられる雑誌を読んで見ますと、「日本のどんな片田舎へいっても天理教や金光教の教会はあるのに、キリスト教の教会はめったにない、もって日本のいかに迷信国であるかがわかる」というようなことをいっておられるのを見て、わたしはあきれてしまったのであります。

 もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。天理教でも金光教でも神様から示された教えは実にかがやいている。文学者として有名な倉田百三氏なども、天理教祖の「みかぐら歌」を実に深い立派なものだといって賞めていられますし、金光教でも高橋正雄さんなどの信仰になるとずいぶん深いところにはいっていられて、必ずしもキリスト教信者よりもその信仰の正しさが劣っているとはいわれないのであります。

 こうなるといよいよもって、どの宗教を信じてよいかわからなくなるのであります。一つの宗教を信ずれば、ほかの宗教の神さまからは外道だとか邪道だとかいって叱られそうでありますから、まあまあ触らぬ神に崇りなしで、どの神さまをも信じないでおこうという人もできれば、宗教相互の間にそんなに矛盾衝突があるのはどの宗教も真理でないからだと思う人もできてきますので、これは実に残念なことであります。
<つづく>

179復興G:2013/02/15(金) 18:25:33 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<2>

 聖書にはこう書いてある、日本の古典にはこう書いてある、などといいましても、あらゆる権威に対して新しい科学的批判を加え、その批判をパスしたものでないと信じないのが現代人でありますから、科学的には今よりもズッと野蛮な時代に書かれた古書経典に何らの権威をも認めないのは当然であります。

 それでは現代人は何によって神の実在(おられること)を知ることができるのでしょうか。わたしの考えではわれわれが神を知ることができるのは、われわれおのおのの内に神と同じものがあるからであります。

 たとえばわれわれがバラの色を観てこれを美しいと感じる。この美しいというのは、たいていの人はバラの花だけの美しいのをわれわれが感ずるのだと思っていますが、実は自分の心に美しさがあるから、バラの花の美を感じうるのであってバラの花そのものだけが美しいのではありません。
 バラの花そのものだけが美しいのでありましたら、猫がバラの花を見ても美しいと感じなければならない、鼠がバラの花を見ても美しいと感じなければならない。ところが猫が花を植えて楽しんでいるのをわたしたちは見たことがありませんし、鼠がバラの花を見て、その美に感心しているのも見たことはありません。
 これによってみても、美しさは観る人の心が対象たるバラの花に映って、その反射が自分の心に返ってきて、そこで始めて美しいと感じることがわかるのであります。

 すなわちバラの花を見て美しいということがわれわれにわかるのは、われわれ自身の心のうちに「美しさ」があってバラの花という鏡に映し出してみて、はじめてこれを美しいと感じるのであります。美学、すなわちわれわれがなぜ美感を感ずるかということを研究する学問ではこれを「感情の移入説」といって、学界で一般に肯定されている学説であります。

 そこでわれわれはバラの花の美を感ずる。しかし同じバラの花の美を感ずるにしましても、それを感ずるわれわれの心のうちに宿っているところの「美」がどの程度まで開発されているかによって、美の感じかたにも、深さがいろいろあるのであります。

 たとえば皆さんが花をお活けになるにしましても、自分の心のうちの「美」が磨かれている人ほど、美に対する感覚が鋭敏であります。それでこの枝をこういうふうにしたほうがいっそう美があらわれるということがわかるのであります。
 この美があらわれるという美は本来どこにあるかといいますと、花をお活けになる御本人の心のうちにあるのであります。心のなかに活ける前から、ちゃんと色の美しい配列の仕方が描かれている、その心のうちにえがかれているとおりの姿に花を配列すると、はじめて美しい活け花や盛り花ができあがるのであります。

 だからわれわれは活け花の美を見ることは活けた人の心の美を見ることであります。活ける人の心に美がなければ活け花の美はありません。しかし猫や鼠が活け花を見ましてもそれを美とは感ずることはできません。活け花の美を最も深く感じうる人は、花心のある人――すなわち活け花の美しさをはじめから心の内に育てている人であります。
 すなわち「活け花を見る」と簡単にわれわれはいいますけれども、実は活けた人の心の美がそれを見る人の心の美とぴったりあって、隠れていた美が表面にでてハッキリするのであります。

 そのようにわれわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい触れてもそれを感ずることができません。
 もしわれわれが神を見ることができ、あるいは神を感ずることができますならば、その人のうちに神がやどっているからであります。
 すると神を見ることも感ずることもできない人には、神が宿っていないのであるかと申しますと必ずしもそうではありません。あまり現在の境遇に満足し切っている人は神をもとめる必要がないから、神を見ることも感ずることもしないのであります。
 それは神を見ることができないのではなく、しないのであります。
<つづく>

180復興G:2013/02/15(金) 18:27:02 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<3>

 たとえばあまり美しい景色のなかにいて、そのままで満足しきっている人には活け花も盛り花も不要なのであります。人間が活け花や盛り花を工夫して住居を飾るのは、自分の住む現在の周囲に不満足なところがある。すなわちまだ美に不足したところがある。そこにもっと円満な美をあらわしたい――こう思うから活け花や盛り花でお座敷を飾るというようなことをするのであります。

 そのようにわれわれが神をもとめるのは、何か自分自身の生活または自分の周囲の生活に不満足な不完全な状態があるからであります。
 キリストが「富める者が神の国に入る事のむずかしいのは、らくだが針の孔を通るよりもむずかしい」と嘆じられましたのは、富める者の驕慢な心が神のみ心にかなわないという意味もありますが、現状に満足しているものは、みずから進んで神の国に入ろうとしないことをいわれたのでもありましょう。
 またあるときには「貧しき者は幸いなるかな、神の国はなんじらのものなればなり」といわれたのも、貧しくして現状に不満足なものほど神の国に入りたいという欲求が盛んになることをいわれたのでありましょう。

 こう申しますと神の国はただ貧しき人のみに与えられる福音のように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではないのであります。現在の人間生活というものをまともにみて、そこになんらかの不満足を感ずる人ならば、それはたとい王様であっても「貧しき者」であって神の国に入ることができるのであります。
 釈迦牟尼はマカダ国の王様の皇太子でありながら、周囲の人間生活の不完全――すなわち生老病死の四苦を見て、もっと完全円満な世界をもとめてそこにはじめて神の国(さとりの道)に入ることができられたのであります。

 われわれがこのように現実世界の状態や、現実世界の人間の不完全不円満にあきたらないで、円満な世界や人格をもとめようとするのは、不完全な現実世界とはピッタリ調和することのできない完全円満なあるものをわれわれの内にもっているからであります。
 われわれが完全円満なあるものを内部にもっていなければ完全円満な人格や状態を予想することができないのであります。このわれわれの内にある完全円満なあるもの、これがすなわち神であります。

 このようにわれわれが現状に不満足であって、いっそう完全円満なものを予想する性質をもっている限りわれわれの内には神が宿っているのであります。
 このようにわれわれ人間にはみな神がやどっているのでありますが、その神性の開発されている程度はいろいろでありまして、そのために世界の宗教には、いろいろの宗派がわかれ、礼拝する本尊となるべき神仏にも、いろいろのあらわれ方があるのであります。
 それはちょうど、われわれが活け花をするときに、花を生ける人おのおのの心のうちに開発されている「美」が活け花になって、そこに内在の美が外に客観的に現われる時に、いろいろのあらわれ方をして、いろいろの流派となるのと同じであります。

 このように人間の心の内部にある「美」が外界に投射し出され客観化(かたちにか)して「活け花の美」となりますと同じように、人間の心の内部にある完全円満さ、すなわち神性が外界に投射せられて、それが客観化されたのが神であります。
 無神論者のなかには神とは人間のつくったものであって、神が人間を造ったのではないという方がありますが、それも一理はあるのでありまして、人間に本来神性がなければ神をつくることも想像することもできないのであります。人間の内部精神に美がなければ活け花を美しく活けることもできないのと同じであります。

 ところが活け花は流儀流儀でいろいろの型がありますけれども、そこに「美」があらわれているということは否定することができないのであります。各流の活け花がいずれも「美」であるということにおいては一つでありますが、そこに人間個人個人の性格や、大きく見ては民族的に見ても、その美のあらわれ方が違うのであります。
 外国には活け花などはまったくないけれども草花を愛する性質は非常にすぐれているとか、日本画と西洋画とは味がちがうけれども「美」であることは一つであるとか、日本舞踊と西洋のダンスとはそれぞれ形はちがうけれども「美」ということにおいては一つであるとかいうふうにであります。
<つづく>

181復興G:2013/02/15(金) 18:28:48 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<4>

 わたしは今「美」であることにおいては一つであると申しました。「美」のあらわれ方はいろいろあっても、それが「美」として感じられる限りは、そこに共通のもの――すなわち一つのものがどれにもあるのであります。
 美しいものを観たときにわれわれが感ずる感じを振り返ってみますと、それはなつかしきものにめぐり会っ忙ような感じがするのであります。今までおさえつけておいた生命の障硬が除かれていきいきと生命が躍動するような感じがするのであります。こういう共通の感じを受けますのは主観的に心のうちだけに潜められていた「美」が客観的に外部に投射し出きれて、はじめて表現の自由を得るからであります。

 「美」の世界を深く掘って行きますと、どこまで掘っていっても行き詰りがないのであります。ここまで美しければ、もうそれ以上の美は求める必要がないというような終点が「美」にはないのであります。大芸術家ほどこのことをよく知っていまして「芸術は生涯の修行」であるとは芸道の各人たちからたびたび聞く言葉であります。
 このようにわれわれの感ずる「美」は無限の美を予想し、それを理想としていて、その無限の美に到達することを念願としているのであります。このように無限の美をわれわれが予想し、心に描くことができるのは、すでにわれわれの心のうちに「無限」の美がひそかに宿っているからであります。

 外形は五尺ばかりの有限な肉体でありながら、われわれがこのように「無限」の美を追求しなければどうしても完全に安心ができないというのは、われわれの内部には「無限性」が宿っていて、その「無限性」の開顕を内部から要求してやまないからであります。

 われわれのうちに宿っている円満完全性――これをさっきは神であるといいましたが、今はわれわれに宿っている「無限性」を神であると申すのであります。つまり、「円満完全性」と「無限性」とは同じものであります。無限であってこそ完全円満なのでありまして有限なものはそれだけに限られていてけっして円満完全でありえないのであります。

 われわれの生涯の課題はこの「無限性」をいかに完全に開顕するかということであります。すなわち有限の形を通して無限を生きる――ここに有限は無限の「真」に対してただ一個のシンボルとして存在するにすぎないのであります。われわれのあらゆる努力は、誰の努力でも有限の形を通してできるだけ無限に生きようとしているのであります。
 お金をふやそうとする努力でも、名前を残そうとする努力でも、芸術家の美に対する追求でも、道徳家の善に対する追求でも、「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」というような瞬間に焦点をあつめたような生活でも、有限の形を通して無限をどうかして完全に生きたいという、本能のあらわれにすぎないのであります。

 こういうふうに人間の内部には誰の内部にでも「無限」がやどっているのであります。ところが「無限」というものは必ず絶対ということをともなうのでありまして二つも三つも同時に「無限」があちこちにいくつもあるというわけには行かないのであります。
 たとえば自分が無限の金持ならば、他の人は無一文に相違ないのであります、自分も無限の金持であり、同時に他の人も無限の金持であるとしますと、それは一つの無限の富を共有しているからであります。
 一つの無限の富を共有しておれば、何人(なんぴと)でも同時に無限の金持であります。

 これと同じようにわれわれすべての人間が「無限」を自己の内にやどしている場合にはそれは一つの「無限」が共通にわれわれに宿っているからであります。一つの「無限」がいくつにも分化してわれわれおのおのの内部に宿ってわれわれの真我、無限性、仏性または神性になっているのであります。
 それでわれわれに宿っている「無限性」からいえば、その本源たる「無限者」はわれわれの親であり、われわれはみんな「無限者」すなわち「神の子」であることがわかるのであります。

 <一応ここまでとさせていただきます。>

182トキ:2013/02/15(金) 20:45:49 ID:MkJelLVU
復興G 様

 ご多忙の中、すばらしいご文章をご紹介下さり、ありがとございます。
本当に、感謝申し上げます。

 今回も誌友会、楽しみにしております。よろしくご指導のほど、お願いを致します。

合掌 ありがとうございます

183a hope:2013/02/15(金) 21:24:26 ID:TqpbsVIM
第11回WEB誌友会開会の時刻 が近づいてまいりましたので、「準備祈願」としての祈りの言葉を掲載させていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

(準備祈願) 住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
  住吉大神様、本日の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
  今夜の生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
  住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
  今夜の参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
  有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

184a hope:2013/02/15(金) 21:30:45 ID:TqpbsVIM

聖典「真理の吟唱」より『天地の万物を祝福する祈り』

神は常に働きたまう。
神の働きは常に調和した働きとなって顕れてくるのである。
なぜなら、神は一切のものの根元であり給い、一切のものは、
神の一つの智慧によって統一せられているから相克摩擦ということはないからである。
神の働きは常に一切のものが調和した働きとなってあらわれてくるのである。
もし不調和なことがあらわれてくるならば、それは、自分の〝我の心〝が、
〝神の心〝に一致しないところがあるために、神そのままの調和した智慧があらわれて来ないからである。

われは今、一切、心を虚しくして、〝我の心〝を去ったのである。
それゆえに必ず〝神の智慧〝があらわれるのである。
今まで〝我の心〝が去るとともに滔々(とうとう)として〝神の叡智〝は流れ入ってくるのである。

われは今、神の御前に坐して、われ心を空しくして神に向かう。
それゆえに、〝神の叡智〝われに流れ入りて、人に応じ、時に応じ、
場所に応じ、事に応じて、すべてを生かす働きがおのずからできてくるのである。

われは今、神の御前に坐して、わが心空しくして神に向かう。
それゆえに〝神の愛〝われに流れ入りて、一切万物を祝福したまうのである。
神は我れを通して一切万物を祝福したまうがゆえに、我はまた一切万物を祝福するのである。
一切万物を我れは祝福するがゆえに、一切万物は我れの味方であり、我れは万物の味方であり、
互いに制し合うことなく、互いに生かし合いばかりになるのである。

ああ、互いに生かし合いの世界の清く美しく楽しきかな。
今ここに、地上に天国は建設せられたのである。
ここがこのまま天国の実現であり、完全にすべての人は自由であり、
すべての出来事は処を得、時にふさわしく、あるべき処に、
あるべきものが実現して、まことに調和したすがたであるのである。

今、ここに我が家に天国が実現しているのである。
されば、すべての家族ことごとく健康に、愉しく、不平をいうものも一人もなく、
その計画するところの事は必ず成就し、欲する事物はことごとく集まり来り、
欲せざる事物はことごとく消滅するのである。

まことにも我が家は、神に祝福された天国の家である。
我れ神に感謝し奉る。

 合掌。

185トキ:2013/02/15(金) 21:42:35 ID:MkJelLVU
 ありがとうございます。本日もよろしくお願い申し上げます。

186復興G:2013/02/15(金) 21:43:00 ID:AB6RqYXc

a hopeさま

ありがとうございました。

すばらしい 『天地の万物を祝福する祈り』、拝読・心読いたしました。

すでに祈りは叶えられました。
ありがとうございます。

合掌

187トキ:2013/02/15(金) 21:48:10 ID:MkJelLVU
復興G様、ご指導を感謝申し上げます。a hope様、お祈り、ありがとうございました。

188復興G:2013/02/15(金) 21:51:12 ID:AB6RqYXc

時間はたっぷりとありますから、皆さま、お気楽に、そしてご遠慮なく、疑問点でもなんでもお書き込みください。

ありがとうございます。

189復興G:2013/02/15(金) 21:54:50 ID:AB6RqYXc

トキ様、たいへんお世話になります。

よろしくお願いいたします。

合掌

190トキ:2013/02/15(金) 22:08:51 ID:MkJelLVU
>>178

 いつも素晴らしいご指導、感謝申し上げます。


 無神論者の事が書いてありますが、若い頃は神様なんかいるものか、という人が多いみたいです。
ところが、ある程度、年齢が行くと、そういう考え方から脱皮する人が多いように思えます。

 実は、私の大学時代の恩師がガンになったので、教え子が集まって病院にお見舞いに参上したの
です。すると、その恩師がしみじみ話していたのは、自分が現在の地位に就けたのは、自分が才能
があり、頭がよく、努力したからだと思っていた。しかし、自分がガンになって感じたのは、実に
自分は無力である、という事実だ。ようやく、自分は神様について考えるようになった、という内容
でした。

 ただ、宗教家と言われる人にも、いろいろとあります。先日、法要があり、私も出席したのです
が、若い僧侶がたいへん偉そうに怒鳴るので、実に不愉快になりました。修行の出来ていない私は
怒鳴りかえそうかと思いましたが、場所柄を考えて、我慢しました。

 が、翌日、怒鳴った僧侶のお寺の和尚様がわざわざ私の家に来て、先日は、私の寺の僧侶が失礼をして
たいへん申し訳ありませんでした、と最敬礼をしてお詫びをされました。それを見て、自分はまだまだ
修行が足りないと痛烈に反省をしたのです。

 それ以来、いろいろと思案をしているところです。

 とりとめもない感想を申しあげて、すみませんでした。

合掌 ありがとうございます

191a hope:2013/02/15(金) 22:17:47 ID:TqpbsVIM
復興Gさま トキさま、ありがとうございます。

今回は、ちょっと忙しかったので、まだ、テキストの範囲を全部拝読し終わっていないのですが、
途中までのところで、少し気になったところがあるので、質問させていただきます。

p141 五行目〜  (復興Gさま謹写箇所 >>178 後半部分)

『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、
人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』

とありますが、この文章からすると「生長の家の教え」にも、
人の造った部分と神の造った部分があるように思えます。

わたしは、谷口雅春先生は、「自分は(神の声を伝える?)ラッパである。」とおっしゃっていたそうですが、
現象人間の雅春先生は「一求道者である。」と謙虚であらあれたと聞いています。

わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 
どうなのでしょうか?


わたしのような、新人がこのような生意気なことをいうと、気分を害される方も多いのではないかと感じています。

ですがわたしは、どうしても真実が知りたいのです。
みなさま、a hope の礼儀知らずどうぞお許しください。

そして、遠慮なくご教示、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

192復興G:2013/02/15(金) 22:39:25 ID:AB6RqYXc

>>190 :トキ様。

私も、おっしゃるとおりだと思います。

「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」というのを実感しますね。合掌の指揮者でも、若造は威張って指揮する、80歳を超えた超ベテランの指揮者が実に謙虚で、「皆さん、ありがとう」と感謝讃嘆しながら指揮される、というのも、私はいま体験しています。

>>191:a hopeさま。

>>『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』
とありますが、この文章からすると「生長の家の教え」にも、人の造った部分と神の造った部分があるように思えます。……<<

するどいご質問ですね。
私からお答えする前に、皆さまからのご意見を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

193トキ:2013/02/15(金) 22:53:12 ID:MkJelLVU
>>192

 などほど、「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」ですね。私は確実に若造ですから、耳が痛いです。

>>『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』

 その話って、総裁がよくされる「卵の気味と白身の話」ですね(笑)。

 もちろん、人の作った部分は面白くないというのは事実だと思います。しかし、これは、それを安易に濫用するのはたいへん危険だと
感じます。やはりひととおり、修行をしてから、その上でないと判断はできないと思います。

194復興G:2013/02/15(金) 23:08:04 ID:AB6RqYXc

a hope様のご質問について。『生命の實相』第1巻「總説篇」p.14〜15に、次のようにありましたね。ご参考に提示させていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

   「生長の家」とわたし

 「わたしはこの『生長の家』の生き方がどんなに善い生活だかということについては、確信をもっている。諸方の読者から集まって来る多くの讃辞は、わたしのこの確信がただのウヌぼれでないことを第三者として証拠だてている。

 なかにはわたしを教祖あつかいにしてくださる誌友もあるが、わたしは『生長の家』の教祖ではない。わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者にすぎない。わたしがまだこの世的な悩みをいく分でも持っているのはわたしの生活がまだ『生長の家』の生き方には完全になり切っていないからである。

 むろんこの雑誌の原稿はわたしの手にもったペンにより書かれる。しかし、ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。霊きたりてわたしを導く。弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。第二号の『生長の家の歌』のごときは自分ながら驚くほど強いことが書けている。

 わたしが亀岡にいたとき、わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわらで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。それは信じてよいかどうかは知らない。しかしもし『生長の家』に教祖というものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。

 「およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であるとを問わず、その源(みなもと)は霊界にあるのである。古来から神品(しんぴん)といい神徠(しんらい)といったのはこれである。

 われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合わさなければならぬであろう。それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。

 ここにわれらは不断に心を清め、こころをいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。この訓練がたりないとき雑音が混じる。受けるインスピレーションが不純なものとなる。もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」
   (『生命の實相』第1巻p.14〜15より)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

――上記を拝読して、考えてみましょう。
ご意見をお待ちします。

195a hope:2013/02/15(金) 23:13:02 ID:TqpbsVIM
>>193 トキさま

えっ?

>>『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』
その話って、総裁がよくされる「卵の気味と白身の話」ですね(笑)。

そうなのですか?そういえば、そんなようなお話もどこかで聞いたようなきがします。

それでは雅宜先生は、そういう理由で「雅春先生の教え」を、
ガラリと「今の教え」に変えられてしまわれたのでしょうか…

196復興G:2013/02/15(金) 23:45:07 ID:AB6RqYXc

>>191 :a hope様、>>193 :トキ様

>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが…どうなのでしょうか?<<

>>194に謹写させていただいた『生命の實相』第1巻の御文章からすると、
>>「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないか<<

というように、「神の造った部分」・「人の造った部分」と、はっきり分けることはできないのではないでしょうか。

「もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」と谷口雅春先生はお書きになっているのです。

「この部分は神から書かしめられたが、ここからは現象人間の谷口雅春が書く」などと書き分けられてはいないのですから。
そうして「不断に心を清め、こころをいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練し」ておられた谷口雅春先生のお書きになったものに、「純粋でない雑音が混じっている」ところがあったかどうか、などということは、私たちに判断できることではありません。それは「なかった」と信ずるのが信仰ではないかと、私は思います。

したがって、「神の造った部分」と「人の造った部分」を切り分けることができない以上、「人の造った部分」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない、と切り分けてしまうのも不適切ではないでしょうか。

ですから当然、「神の造った部分」がいわゆる「卵の黄身」(教えの中核部分)で「人の造った部分」がいわゆる「卵の白身」(周辺<周縁>部分)と切り分けるわけにも行かないと、私は思います。

「卵の黄身・白身」という判断は誰が、どのようにしてするか。それは、別問題として考えるべきことでしょう。

私はそのように考えますが、いかがでしょうか。

197復興G:2013/02/15(金) 23:50:25 ID:AB6RqYXc

では、私は今夜はこれにておやすみさせていただきます。

おやすみなさい。

198復興G:2013/02/15(金) 23:56:43 ID:AB6RqYXc

あ、ちょっと気になった誤字について。

a hopeさま、「雅宜先生」ではなく「雅宣先生」です。
「宜」と「宣」は別字です。

では、今度は本当に、おやすみなさい。

199SAKURA:2013/02/15(金) 23:58:39 ID:y8fsR43M
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

遅くなりましたが…【WEB誌友会】の資料を閲覧させて頂いております…。
いつもながらの【復興G様…資料の転載】感謝申し上げます…。

何卒、「遅番組…にての参加」失礼ながら、何卒!宜しくお願い申し上げます。
                               再合掌

200SAKURA:2013/02/16(土) 00:03:54 ID:y8fsR43M
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(1) 】からなのですが……

>>178の「復興G様」の投稿から……
>南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと<…云々…
と〜〜〜思いますに「念仏…」だけでは、救われないのです〜〜〜ョネ!
これも【霊の世界…】では、以前に於きまして“投稿記載”していますが?やはり
【 意識=心 】ではと、思う次第なのです。…が〜〜〜??

先程「管理人…トキ様」が法要で?お坊様が、“威張るとの事”だそうで、これも【上下関係…】
なのですョネ!!個人的ですが、私の菩提寺のお寺は、確かに“腰の低い方”なんだと思ってい
ましたら、どうも他の処では、やはり「大住職様の顔」を伺かがっているような方がいらっしゃい
まして、これには“ビックリ”…やはり「人間関係 = コミュニケ−ション」の知識から来る
のではと思います。…が?今回、私も話す内容が、いつも宗教に付いて質問しますから、
「大住職様」も、前以上に勉強されているようにお見受けいたしますが、いつも、大それた
質問内容ばかりを「大住職様」に持ち込みます。…が?この頃では、「大住職様」サイドでは
前以上に、私が質問しても“返答…”が早くなって参りまして、こちらも次の質問に勉強でしょうか?

この様に「南無阿弥陀仏と六字の名号」だけを唱えると…救われる事は、やはり“無い!”との事
で、やはり“行じる事…”でしょうかと。
ですから、やはり日本史上でも【宗教同士の争い…】は、実に醜いものではないでしょうか??
それに、西洋の「十字軍…のような戦い(国家間)にも、発展しかねないとしますと……複雑です。
そう云えば日本でも「平安時代…」に、「鳥羽上皇?」でしたか?「延暦寺の僧侶での乱」でしたか?
この時代の出来事も、これと付随するのかも?やはり「日本…」でもあった事なのです〜〜ョネ!

さて「お寺のお坊さんも威張る人?」ほど、果たして“気位の高さ(中身の勉強)は〜〜〜?”
【 ゼロ 】に等しく思える部分もありましょうかと。

そして【信仰の正しさが劣っている?いない?】は別問題でありまして…如何に現代人が
“無神論者”が多い存在にても…「神の存在」を知ることが大切なのでしょうかと…考えさせられ
ます文章かと…思いました次第です。

                                    つづく
PS:
次に「復興G様」から“転載…頂きました資料(2)”からの感想を、順次投稿させて頂きます。

201a hope:2013/02/16(土) 00:29:54 ID:TqpbsVIM
 >>196 復興Gさま

信仰とは、100パーセント信じることなのですよね。
わたしは、そう生きたいと思っているのです。

でも、わたしは、まだまだ周りの人たちからの影響を受けやすいです。

今回のわたしの質問内容は、雅宣先生の「黄身と白身」のお考えと、
とても近いものになっていたようで自分でもとてもお驚いています。

わたしは、知らないうちに「今の教」えの影響を受けてしまっていて、
雅春先生を100パーセント信じられなくなっていたのでしょうか・・・?
とても、怖いことだと感じています。

>>196の復興Gさまの投稿を拝見して、目が覚めた思いです。

ありがとうございます。

雅宣先生の誤字のご指摘もありがとうございました。
雅宣先生にたいへん失礼なことをしてしまっていました。

わたしも、これで今夜はおやすみさせていただきます。

それでは、みなさまおやすみなさい。

202SAKURA:2013/02/16(土) 02:44:55 ID:vHmGGzRQ
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>> SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―1) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

===【抜 粋 投 稿】==================================
■>たとえばわれわれがバラの色を観てこれを美しいと感じる。この美しいというのは、たいていの人はバラの花だけの美しいのをわれわれが感ずるのだと思っていますが、実は自分の心に美しさがあるから、バラの花の美を感じうるのであってバラの花そのものだけが美しいのではありません。
 バラの花そのものだけが美しいのでありましたら、猫がバラの花を見ても美しいと感じなければならない、鼠がバラの花を見ても美しいと感じなければならない。ところが猫が花を植えて楽しんでいるのをわたしたちは見たことがありませんし、鼠がバラの花を見て、その美に感心しているのも見たことはありません。
 これによってみても、美しさは観る人の心が対象たるバラの花に映って、その反射が自分の心に返ってきて、そこで始めて美しいと感じることがわかるのであります。(一部抜粋)
==============================================

■バラの例えは、分かりやすい見かたでしょうかと、思います。…が?
同様に“視角…視点…”はそれは【その人の“心の中”の開発??】ということでしょうか?…
“オ−バ−”な話ですが【類 の 法 則 の 仲 間】でいきますと、同様な“心…”は、
“テレパシ−”の如く、“心…”に響くモノなんです〜〜〜ョネ!!その様に“類似性”もしくは
“異なる見方”とは、最終的なる原因は「環境から来る!」のではと思います。…が??
もうすぐ、此処九州はいち早く“春…”が訪れますが…此の地上に咲ききます各種の花は、神様の
世界の“多様性”を表していますでしょうか〜〜〜?

つづく

203SAKURA:2013/02/16(土) 02:46:32 ID:vHmGGzRQ
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202  SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―2) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

此処で「亡き清超先生…の言葉」からの抜粋文を…論外かもしれませんが〜〜♫〜〜

===【抜 粋 投 稿】==================================
ためしに奥深い山に分け入るならば、私達はそこにも人知れずひっそりと、美しい花が咲き誇って
いるのを発見するでしょう。その花は幸いにして今人に知られたかも知れませんが、不幸にして
人間に一度も知られる事なく、むなしく咲いては枯れる草花がどれだけ多くあったかわからないの
です。しかしこれらの草花は、人に知られるからといって美しく咲くのでもなく、人に知られない
からといってイイカゲンに咲くのでもなく、その場所に与えられた条件での最善を尽くし、せい一杯
に咲き誇っていたのであります。それはどの草花においても例外なくそうなのであります。
このような“平素の努力”があるからこそ、たまたま人に見つけられると、「ああ美しい」と感嘆され
……云々……もし彼らが「人に見られる時だけ美しく咲こう」と、平素山奥で咲いている時には怠
けてウスギタナク咲いているのであれば、それは怪物であります。そんなものはもはや「美」では
なく「醜」であり、吾々はそのような花を、とても珍重する気にはなれないのです。(一部抜粋)
==============================================

例えば…ある人は「バラの花が好き」それは、人に知られている“花…バラ”であり、ある人は
「人知れず…野に咲く花…が好き」…十人十色…ですモノ〜♫〜 今回の「WEB誌友会」にて?
お邪魔虫【SAKURA…】ですが〜〜〜【現総裁先生…擁護派…】ここでは【類の法則…】程遠い
かと〜〜〜これも「バラの花」と似ていますのでしょうかと〜〜〜?

■同じ花を見ましても「綺麗いネ〜〜」と捉えるその“心…”は、そのような似た環境かと。
つまり【環境はこころの影…】だと理解が出来まして、前以上に【類 の 法 則】にのっかり
ますには、やはり〜〜〜【自分の心を向上 = 魂の向上】更に、“奥の〜奥の〜深層部の心”を
引き出すという事かと。
【本当の自分との出会い】==>【実相の姿】に戻ることでしょうか??ミセカケの“心…”では
なく、本当の“心…”私の“心…”に宿った本来の姿が【心の現れ=実相の私=神の子の私】と、
改めて感じいりました次第です。
それは一人一人の【実相…本当の自分の姿】は異なりますから「恨みの心?憎む心?」は当然なが
ら捨て去り…このような心を捨てさえすれば「幸福…切符論」を頂けましょうかと。
かといって…そんなことぐらい〜〜〜わけないこと〜〜〜?でしょうか  (微笑)

                          つづく
PS: 今日は〜〜〜私の“独り言…”舞台〜〜の投稿に〜〜  おやすみなさいませ。
明日が…「閲覧者の皆様」に取りまして、ますますとハッピ−な一日であります事を「お祈り…」…

204るん:2013/02/16(土) 03:19:46 ID:pic01rm6
復興G様
>>したがって、「神の造った部分」と「人の造った部分」を切り分けることができない以上、「人の造った部分」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない、
>と切り分けてしまうのも不適切ではないでしょうか。


a hope様
>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
>>場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 
>>どうなのでしょうか?

少しだけ、参加させて下さいね。実は、私はずっと前から思ってた事があるのです。
すっごく生意気な書き方になりますので、申し訳ないです。初めに断っておきます。

雅春先生の男尊女卑的なところが、いやでした。そういう内容が書いてある部分は読まないようにしてました。

「実相独在」や「物質無し」は、神からきた いわゆる「真理」の部分だけど、

「男尊女卑」的な部分は、明治生まれの男性の考えで、(肉体の雅春先生の考え)「普遍の真理」とは思えないです。

実は半年くらい前に・・・拝雅春先生の書かれた(男尊女卑の)すごい内容の文が紹介されていたのを見つけました。その内容は、かなりショックな内容でした。

(内容は、下品で 書けないのですが・・・ヒントはハイ、ニコ、ポンです。ちょっと下ネタ)←↑これはやっぱり「神からきた真理」だとは思えませんのです。

205るん:2013/02/16(土) 03:39:37 ID:pic01rm6
初心者様

冠詞の件ですが、

初心者様だから、やはり哲学的な見地からおっしゃっていたのですね。

しかし、哲学的見地からの冠詞のとらえた内容のものは、今も昨日も(昨日も投稿する前に、ちょっと検索してみましたのです)

見つける事ができませんでした。

初心者さまは頭がよすぎて、特に話される哲学とかが・・私には到底、太刀打ちできませんので(全然、解らない)

昨日「あっ、これ(冠詞)なら私にも初心者様に突っ込める!!」と思ったので つい調子に乗って失礼な言い方になってしまいました。

申し訳ありませんでした。許して下さい。

206るん:2013/02/16(土) 04:14:22 ID:pic01rm6
a hopeさま

お声かけて下さり、いつも気ぃ、使って頂きまして有難うございます。

英語ですが、おそらく私はあなたの足元にも及びません。

訊け様の 英語ブログですが 2回目3回目と訪問させて頂いて問題を解いたのですが

(まあ30問位あるとして、)正解は1個でした。点数、1点ですね。(*・ω・*)ポッ>こんな点数、恥ずかしくて訊け様にも言えませんワ。



ところで、>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
>>場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 


   
こう書かれてますが、雅春先生の文章の「どんな内容」が、そう思われますか?

207復興G:2013/02/16(土) 06:52:54 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

テキストに添って、感想を書いてくださり、ありがとうございました。

>>200
>南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと<…云々…と〜〜〜思いますに「念仏…」だけでは、救われないのです〜〜〜ョネ!これも【霊の世界…】では、以前に於きまして“投稿記載”していますが?やはり【 意識=心 】ではと、思う次第なのです。…が〜〜〜??<

親鸞聖人は、「小慈小悲もなき悪人」と(肉体の)自我を否定し、「南無阿弥陀仏」を唱えて他力にすがるしかない、ということを強調されたと思います。

生長の家では、『人生は心で支配せよ』という本もありますが、それは結局「神の心で支配せよ」ということになるのであって、谷口雅春先生も、肉体の心で人生を支配しようと努力したけれどもできなかった、ということを自伝篇にお書きになっていると思います。

榎本恵吾先生が、宇治で研修生の指導を担当しておられたときに書かれた「研修のヒント」というプリントの最初に、次のように書かれています。

     ―「研修のヒント」“はしがき”にかえて―

 これから諸君の前に、あの練成道場がよいのか、この練成道場がよいのか。あるいはまた、あの修行がよいのか、この修行がよいのか。厳しいのが良いのか、易しいのがよいのか。いろいろな人達に逢って、色々な意見を聴かされて、その判断に迫られる時があるかも知れない。これらのことは、今昔を問わず、常に偉大で真剣な先人たち、宗教家と言われる人々が直面して来た、重大で、最もいのちがけで当らなければならなかった問題であったのであり、今でもそれは少しも変ることはありません。
 老婆心ながら私の信とするところをしたためますから、参考にして下さい。

 どちらの道を選ぶかは全くのその人その人の自由でありますが、次のことだけは判然としています。
 すなわち、
 人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが神の子の生活であります。

 修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行をすること等……は、すべて現象であって無であること。

 それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのように修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあるということであります。

 しかし、「このことを自覚しなかったら無いのと同じで、その自覚することに当るのが、いわゆる修行である。」と従来までの宗教では説かれていたのであります。ところが尊師谷口雅春先生は、それは方便としては一応は認めておられますが、本当は人間は神の子であって、そのままで自性円満であることを発見されたのであります。それは“自覚する”という人間の修行、努力の助けを借りずとも人間をそのまま完全に生み給うた神の発見だったのであります。
<つづく>

208復興G:2013/02/16(土) 06:53:48 ID:AB6RqYXc

<榎本恵吾先生「研修のヒント」つづき>

 自覚する、自覚しないは現象のことであって、本来“無”であります。

 自覚するというのは、おのずから覚めているということであって、「……の教えによって」とか「……の修行によって」となるとそれは自覚ではないのであって、他によって覚めさせられた他覚であります。自覚とは自ずから覚めていること。私たちは自ずから覚めている生命であるからこそ、この生長の家の真理にふれることが出来たのです。

 自覚しなければ無いのと同じであるというのは、それはお金などのような物質の場合の話であって、生命は自覚しない方が、伸び伸びと活動するのであります。心臓などは全くあることが解らないときが一番よく働いているときなのであります。これを「吾が生くるはわが力ならず」とも「吾がわざはわが為すにあらず」とも教えられているのであります。

 もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神を軽蔑することになります。

 そして、最も重大な問題は、
「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得ないのであります。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」ということになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになるということであります。

 そして、「あの道場は……」「この道場は……」と道場同志が審き合うということが始るのであります。これが多くの宗派が派閥に別れた原因の一つとなっているとも考えられるのであります。

 無条件にある光り。世界に比類のないみ教えにふれている私たちが、世界に比類のない調和と、拝みと、感謝の、崇高な、安らかさに満ちた毎日毎日を与えられていることに感謝を捧げる、ただ一筋の道がここにあります。

 この心に満ちて生きているとき、私たちは神への全托の道を生きているのです。神への全托の輝きに満ちている研修生をひたすら礼拝させていただくのみであります。われらの道は“審かない道”“拝む道”であり、自分を拝みひとを拝む道であります。

 私は“修行をするな”というのではないのです。“修行をしなければ救われない”というのはもうすでに生長の家のみ教えではないということであります。むしろ、無条件に生かされていること、この身このまま光りであることを知れば研修が楽しくなるのであります。「研修のヒント」とは「楽しさへのヒント」ということであります。

 とにもかくにも、私達は先ず光りであり、すべては完全である神なる光りがするのであつて、「光りになるために」ではないということであります。

 どの師を選び、どの練成道場を選ぶかは全くの自由でありますが、どこに行くにしても、それは“光り”がそこを輝かせに行くのであること。“救われているもの”が行くのであって、“救われるため”に行くのではないということであります。

 ますます自己祝福と自己礼拝を歩まれんことを。研修生に栄えあれ!

 <以上、榎本恵吾先生「研修のヒント」より>

――私はここに、自力の修行でない称名念仏を説かれた親鸞聖人の境地に通ずるものがあるのではないかと思っています。ご参考までに。

209a hope:2013/02/16(土) 09:36:49 ID:TqpbsVIM
みなさま おはようございます。

SAKURAさま、るんさま、ご参加うれしいです。

実は、最近ちょっと子供のことで心配なことがあって、心に不安があったのです。
いつもは、そういう時は神想観をすると大体すぐに解決するのですが、今回はなかなか難しかったのです。

ですが、今朝の神想観のあと、現象にも明るい兆しが見えてきました。
本当に、神想観って、素晴らしいですね!!

ところで、昨晩のわたしは完全に現象に捉われていました。

>>191の質問内容も、不適切であったと反省しています。
>>196の復興Gさまからのお返事を、もう一度じっくり拝読して、考えてみたいです。

ですから、>>206のるんさまのご質問

>>ところで、>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
>>場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 

こう書かれてますが、雅春先生の文章の「どんな内容」が、そう思われますか?<<

も、もう少し考えさせてくださいね。

後夜祭になってしまうかもしれませんが、自分なりのお返事をさせていただくつもりでいます。


今は、みなさまの書き込みをじっくり拝見してお勉強させていただきたいです。

感謝 合掌。

210復興G:2013/02/16(土) 09:52:57 ID:AB6RqYXc

>>204 :るん様。

率直なご感想・ご意見、ありがとうございます。

>>雅春先生の男尊女卑的なところが、いやでした。そういう内容が書いてある部分は読まないようにしてました。
「実相独在」や「物質無し」は、神からきた いわゆる「真理」の部分だけど、「男尊女卑」的な部分は、明治生まれの男性の考えで、(肉体の雅春先生の考え)「普遍の真理」とは思えないです。
実は半年くらい前に・・・拝雅春先生の書かれた(男尊女卑の)すごい内容の文が紹介されていたのを見つけました。その内容は、かなりショックな内容でした。
(内容は、下品で 書けないのですが・・・ヒントはハイ、ニコ、ポンです。ちょっと下ネタ)←↑これはやっぱり「神からきた真理」だとは思えませんのです。<<

さて、谷口雅春先生が、一見「男尊女卑」的なことを強調して説かれていることは、私も承知しています。
しかし、その真意は「男尊女卑」ではなく、たいへんな女性尊重のフェミニスト、女性解放論者だったのではないか、というのが私の感想です。

というのは、思いつくだけでも『女は愛の太陽だ』『をんな生ける意義あり』『女性の幸福365章』『女の生き甲斐』『女の教養』『女の浄土』『新しい結婚』……と、「女性の幸福」に関する本は随分たくさん書かれていますが、「男性の幸福」だけについて書かれている本は一冊もありません。(だから、白鳩会の勢いが相愛会をはるかにしのぐものになっているのではないでしょうか。)

谷口雅春先生は、男性・女性を問わず、人間は肉体ではなく時空を超えた霊的存在である、本体は神そのものであると観ておられる。だから、一見「下品」と思われるような肉体の話も、突き放して何のためらいもなしに書かれているように思われます。たとえば、「久遠天上理想国実現の神示」に

 ≪『生長の家』の因縁を書き置く。『生長の家』とは人間が付けた名ではない。神がつけさせたのである。『生長の家』とはタカアマハラのことである。―に無限に生びることを『生』と言い、|に無限に長びることを『長』と言い、―と|とが十字に交叉した中心を息叉(家)と言う、―の生命と|の生命とが交叉した中心が『家』である。イヘ(エ)のヘ(エ)は交叉の形を象徴ったものである。家のことを巣と言い、住むと言う。住むと言うのは中心に集ることである。一切のものは中心に集り、中心に統一せられることによって澄む即ち浄められるのである。

 ……生長の家を、高天原と仮名付けさせたり、生長の家と仮名付けさせたが、高天原――瑞穂の国――生長の家――この三つは三位にして一体である。『生長の家』とは『長生の家』、『無量寿の家』、即ち『不滅の家』であって、実相生命の不滅の相が家系となって連綿と続く家である、日本に於ては国と家とは一体である。全世界もまた家と国とが一体であることを教えたのがイエス・キリストであって、そのために彼は人間同士を兄弟と呼ばせたのである。併し兄弟があるばかりで兄弟相争っては家は治まらぬのである。兄弟があり、家長があり、其処に統一があって始めて此の世界が浄まって生長の家となり、不滅の家となるのである。≫

とあって、そのご講義に(『秘められたる神示』より)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 この神示にあらわれているところの『 』で包んでいない生長の家と書かれているのは、教団の名称でもなければ、雑誌の名前でもないのであります。それは「生」と「長」と「時間」と「空間」とが縦横交叉した一点の、その一点もない「中(みなか)」の世界「未発の中(みはつのちゅう)」の世界をあらわす抽象名詞なのであります。それは現象世界以前の世界――住吉世界であり極楽浄土であり、時間以前の世界なのでありますから年齢(とし)をとらない長生(ながいき)の家、無量寿の家――浦島太郎がそこに住(い)っていた間はいつまでも若かった世界――すなわち"実相の世界"であります。

 雑誌の名前や教団の名称に『生長の家』とつけられているのは、その"実相の世界"なる生長の家を説くところの雑誌であり、団体であるからで、現象界の雑誌や団体そのものが無量寿の家そのものではないのであります。『日本』という雑誌が日本のことを記事にする雑誌であっても、雑誌や発行所は日本国[そのものではなく、世界の色々の問題を取扱う雑誌が『世界』と名づけられていても、『世界』誌そのものが世界ではないようなものです。
<つづく>

211復興G:2013/02/16(土) 09:53:43 ID:AB6RqYXc

<『秘められたる神示』より、つづき>

 そのことがわかりまして、「高天原――瑞穂国――生長の家――この三つは三位にして一体である」という聖句を解釈すると本当の意味がわかるのであります。右の図解を御覧下さい。

 縦の線は「時間」をあらわします。横の線は「空間」を象徴します。時間を祖先・祖先・祖先と遡って行きますと、生命の本源たる至上者(いとたかきもの・最高者)に到達いたします。それが図解では「高」となっているのであります。生命の種子は至上者より縦に天降って来て地上に降誕し、そこで現象界に形として発芽し、それが更に縦に生(の)びるのであります。図解の縦の線に、「生」とあるのは、生命が縦に天降り、更にそれが、本源の至上者に達せんとして縦にのびることの象徴であります。

 「生」という象形文字は生命が天降って、更に縦にのびることを象どったのであります。その縦に生びるものを穗と謂います。麦の穂、稲の穂、薄の穗などすべて縦に生(の)び「萌え出でる」のであります。炎は縦に伸びて「燃え上る」のであります。だから縦の線は「火」を象徴します。火は活機さかんにして、暖かく陽性であります。だから図解には「陽」とあります。

 この世界は陽陰の結合で出来ています。縦の線は「陽」であり、男性性器も勢い旺(さか)んなれば縦に勃起します。男性の縦に対して女性は水平に横たわる。其処に陽陰の交叉が行われます。男女の肉体は、無形の陽陰の原理が象徴的にあらわれたに過ぎません。

 現象界の一切のものは、この無形の陽陰の原理が表現されているのでありまして、原子ひとつを執って考えてみましても、それは陽電気を帯電する原子核と陰電気を帯電する電子との結合から出来ており、それが更に陰陽イオンの吸引力によって複合して、複雑な分子構造にまで発展して、色々の現象界の事物を形成するに至るのであります。一個の「原子」もそれは「陰陽」の結合せる国即ち「水火(みずほ)の国」であり、「生」と「長」との原理の結合せる家、即ち「生長の家」だと謂うことができるのであります。この図解にも陽陰交叉の一点が中心になっていることを注目しておいて下さい。

 ところで、日本国は、実相世界の神なる一つの中心に統一せられている其の中心帰一秩序が最も完全にあらわれている国なのであります。神は「善人にも悪人にも平等に太陽の光熱や雨の霑(うるお)いを与え給う」筈であるのに何故、日本国を特に御守護せられるかと申しますと、それは決して依怙贔屓(えこひいき)ではなく、神の宇宙創造の根本構図であるところの、一切のものには、極微の原子から極大の太陽系統に至るまで、変ることなき中心があるということであります。

 人体を構成する細胞にも、その一つ一つに変ることなき中心なる"細胞核"があるのであります。細胞核が崩壊したらその細胞は死滅しますし、原子の中心なる原子核が崩壊したら原子そのものが崩壊してしまい、太陽なる中心が途中で消滅するか破壊するかしてしまえば太陽系統そのものが崩壊してしまうのと同じであります。樹木にも変らざる中心なる幹があります。中心なる幹が枯れればその樹木全体が枯れてしまうのであります。人体にも脳・脊髄なる「変らざる中心」があり、脳・脊髄を取換えることは出来ないし、若し今後外科医術が発達して脳髄や脊髄を取換える手術が出来るようになったとしてもそれを取換えたら恐らく、以前の人間とは別の人間になってしまうでしょう。……(後略。『秘められたる神示』より)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 とあります。
 このご講義の中にも、「男性性器も……」というような表現もありますが、それが下品だなどと思う人はいないでしょう。

 古事記神話のイザナギ・イザナミの結びの物語にも、セックスのような表現がありますが、それは卑猥だなどとは思われず、日本人はそれを「神典」として来ました。そこに宇宙の真理があらわれているからでしょう。

 ……ということで、納得されませんか?

212SAKURA:2013/02/16(土) 12:55:44 ID:1qAvVM.I
復興G様 へ  観覧者の皆様 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203 SAKURA投稿の続きです…。

■「復興G様」からの“お返事”を頂きました事に…感謝申し上げます。 
尚、下記は、頂きました“お返事…>>207の投稿”中からの一部抜粋投稿せて頂きましたモノです。

===【抜 粋 投 稿 文】================================
>それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのよ
うに修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、す
なわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完
全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるもの
だけがあるということであります。<   (一部抜粋)
==============================================

「修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるモノ…云々…」此処の解釈は
如何なモノでしょうか〜〜〜と一人で考えておりますと
私の捉え方としましては【自我…我】を棄て去る…つまり【無我…】にして初めて、
「全脳なる親さまなる神が、わたくしのすべてのことを見守り下さいますモノと…そして私は
神様にすべてをまかせることとなり、当然ながら心も平和になるモノかと。それは必ずや……
成就するのである」という事なのでしょうかと〜〜〜♫
しかしながら…今の私は「我…無我」という心の修行が、まだまだ〜〜〜><でしょうかと。

それに「修行…」という“言葉からのイメ−ジ”は、どうしても個人的な解釈になりますが……
よく言いますところの修験道的(山伏)なるイメ−ジが個人的にはもたげてしまいますでしょうか?
…山に立てこもり…云々…このような感が致しますかと。
それよりも「雅春先生…神想観=瞑想」によりまして…『神様…とは〜〜〜?』
活ける愛の神・生命の神・智慧の神・美の神…云々…このように「甘露の法雨」の中にも…
そして「神との一体」を深めてまいりまして…これは「神の子なる自覚意識」に入ることとなり…
【実相世界…】への“鍵”を頂いていますモノと、個人的な捉え方に到りましたのですが…。

今回「雅春先生…」の色々なる視点での“解釈…”を改めて知ることが出来ました事に…
感謝いたします。それと共に「テキスト…教材」として取り上げて頂きました「復興G様」へ
感謝申し上げます…。

引き続き…「頂きましたテキスト…」からの閲覧にての感想を順次投稿させて頂きます。
                                   
                               再合掌

213トキ:2013/02/16(土) 15:15:28 ID:9wlISb0c
 組織にいる人間から見ると、今の生長の家は、白鳩会のほうが断然、大きな態度ですから、男性は小さくなっています(笑)
という冗談はさておき、本題に入ります。

 生命の実相の女性教育編などを拝読すると、谷口雅春先生は実に女性をほめておられます。普通の宗教が男尊女卑だった時代に
女性も同じく神の子である、と言い切られたのは実に素晴らし事です。例えば、女性解放運動の指導者だった平塚らいてふさんも
生長の家を褒めておられます。実際、青踏社の人には、平塚さんに勧められて信徒になった人もいるみたいです。

 逆に市川房枝さんなどは、生長の家には冷たかったと聞きます。

 調べてみると、平塚さんは禅を若い頃からされておられ、宗教心があったみたいです。本当に女性の幸せを祈る人は、生長の家の
素晴らしさが分かるのではないか、と思っています。

214SAKURA:2013/02/16(土) 15:44:47 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―3) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

===【投稿文】======================================
>そこでわれわれはバラの花の美を感ずる。しかし同じバラの花の美を感ずるにしましても、
それを感ずるわれわれの心のうちに宿っているところの「美」がどの程度まで開発されている
かによって、美の感じかたにも、深さがいろいろあるのであります。<  (一部抜粋)
==============================================

■そのように“心の深さ=魂の高さ”によるものと思うのです。…が?では“魂の高さ”を、
より高く〜高く〜高度にするには〜〜〜もちろんです〜〜ョネ!【真理の勉強…】
つまり、一つは【WEB誌友会…】での意見・捉え方の相違点はありましょうとも…お互いに
意見交換にての“真理を掴む”ということでしょうか〜〜〜

そういえば【別板…】で見ますと『肉体年齢??』と投稿された方がいました。…が?
「雅春先生」も【肉体もすべて、心で!決まる。つまり“精神統一に繋がる”事で……】なのでは
と、思います。「亡き母」を思い出しますと“91歳…”で他界しましたが、思い出しますと、
“89歳”までは、顔の変化もなく、その後「老人ホ−ム」に入ってからでしょうか……??
次第に“老化現象”が第三者的に見ましても、少し出始めた感が致します。…が?
それでも私たちが「老人ホ−ム」を訪ねますと、次第にお互いの会話から「亡き母」の表情が“89歳”
以前のもとの顔を、のぞかせるようになりました。…が?

                         つづく

215SAKURA:2013/02/16(土) 15:48:23 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―3) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

>>214投稿の続きです…。
■やはり「心…が顔に現れる」という事を、その当時、自覚しました。…が?このように
「肉体は、仮モノ」です〜〜〜ョネ!「現象=現実…」で、その人の姿・形としての年齢を見ますと、
老化なのでしょうか?年齢制限で見てるのでしょうか?その人自身が「老化現象…」が、かなり肉体
的に顕れているので、相手に対して「にくじ事…」を言われているのではと〜〜〜?感じた次第です。

■ 別板の中の【掲示板・運営/方針 板】==========================

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1346745644/874 志恩様の投稿
↓     ↓     ↓     ↓
874 :神の子様:2013/02/16(土) 12:40:49
>>861 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1346745644/861 
還暦もすぎた70歳(女性)の書き込みだって。
キモチワル 。。。
↓     ↓     ↓     ↓     
875 名前:神の子様 投稿日: 2013/02/16(土) 13:18:18
>>862
それは肉体の年でしょうが                  (一部抜粋)
=============================================

■■≪・・・???≫このよな“会話投稿”を閲覧しまして「精神年齢の幼稚さ」で“ビックリ”
です。この様に【外ばかり求める〜〜〜肉体ばかり求める方達は〜〜〜しかも本人達の年齢も?】

思いますに「投稿の会話…」では“70歳…”と聞いただけで「もう老化と断定!」して……
「気持ち悪いとか?」此の言葉は、ここに登場する事が気持ちが悪い〜〜〜?とも受け止められ、
此の人の“偏見なる見方”は、余りにも幼稚な見方で、全てが『現象的=現実的』にみて、本当に
『心貧しきモノ』という感が致した次第です。…が?このように“投稿された人物こそ”が、
今!時代の流れのピ−クでしょうか【整形のしすぎ…】であるのでしょうかと。本人自身が尚の事
“老化現象”が激しいのでしょう〜〜〜ネ!!

同じ老化でも……“綺麗〜ネと見える方”…更に同じ“70代…でも老けているネと見られる方”…
ここが「ポイント…」ではないでしょうか??「亡き母」は“89歳”までは肉体的には(顔)の
年齢が見受けられませんでした。肉体的に“老けて見られる方”は【現象論】ばかり見つめすぎて、
綺麗に見せる心の“美の開発”されていないのですかと。
先ず【実 相 を 見 る】には、それは何度も言います様に“種をまく”やがて“芽が出て来ます”

この様に『バラの花が綺麗ね〜〜〜』と云われるように〜〜〜
“心に種をまく”・・・それは【祈り…祈り…】で潜在意識の奥底の心を、引き出す事ではないでし
ょうか???最近は、確かに、現象的に「身近な…整形にての変身術」があります。…が?
『パット花…』になる事は『散るのも早い整形…かと』それよりも
『心を見つめて知識・智慧を磨く…さらに“神地一体!”…これは“祈り…”』にてと思いました。
                        つづく

216SAKURA:2013/02/16(土) 15:59:04 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (2―4) 】からなのですが……

では次に私の「亡き母」と同じ年齢の方ですが『犬養道子さんの画像』を見られたら、如何に…・
『宗教は精神と意識に繋がること……』だと思いましたので、この場にて張り付けさせて頂きます。

■犬養道子さんの写真画像ですが(2007年)の頃ですが???
http://www.inukai-kikin.jp/2007report.htm  ≪ 素敵な画像〜♫ ≫

■キリスト教特別講演会開催 (2004)年ころですが???
http://www.rakuno.ac.jp/news/200412/news28.html 

尚!現在は「老人ホ−ム」に在中との事ですが??

===【素敵なブログ… 転載記事 】============================
母はとある老人ホームに入っている。そこには、聖書の研究家として有名な犬養道子さんが
住んでおられる。ひょんなきっかけから、犬養さんを母が教会へ行くとき、母の運転する車に
おのせすることとなった。父のお別れ会のときも、ご高齢で歩くのがやっとなのに、犬養さんは
来てくださった。私は、子どものころから、聖書を読む習慣がある。洗礼は受けていない。ここ
数年、うつがひどかったせいもあり、しばらく聖書を読んでいなかった。父が亡くなって、また
読みたいと思ったが、愛用の聖書がみつからない。そこで、どうせ買うなら、英語版、しかも口
語体でなるべく易しいものを探したいと思った。どう探してよいかわからなかったので、母から
犬養さんに聞いてもらった。すると、突然、母のところに犬養さんから、さしあげます、と一冊の
聖書が届いた。それは以下のものである。私がいただき、読ませていただくことにした。

http://plaza.rakuten.co.jp/olive3518/diary/?ctgy=5 

                       つづく

217るん:2013/02/16(土) 16:03:41 ID:pic01rm6
復興Gさま

お返事を頂きまして、(それも長文)本当に本当に有難うございます。

本当にそうですね、「男性の幸福365章」なんて本はないですね。

復興G様の書いてくださいました文を何回も読みました。そしてその返信を今書いてますが

何回も書いては消し、の繰り返しで もう何十分もたってしまってます。うまく書けないのですが・・

私はそれでもやっぱり雅春先生は、男尊女卑的なところが無い。とは思えないのです。

『夫にぜったいハイ。』とか・・・・私は結婚したとしてもそんな事、出来そうにありません。

我を通すのは良いことだとは思えませんが、それは男女ともに言えることで、女性だけにそれを強いるのは違うと思いますのです。

ストレスがたまって、病気になってしまいそうです。

ちょっと、今思い出したのですが、生命の実相の何巻かに宮さんて方(女性の方)のエピソードが載ってありました。

「宮さんの夫様の入れ歯をお手伝いさんが謝って割ってしまった」事に関する宮さんの心の反省?(どんな心の影か?)みたいな事が書いてあるのですが、

(割れたのは)お手伝いさんと宮さんの心の影のように書いてらっしゃるのですが、それを初めて読んだ時、私は中学生でしたが「入れ歯みたいな自分の口の中に入れてる物を、

お手伝いさんや奥さんに洗わせて自分で洗わないことこそがおかしい。割れた原因は、むしろそんな夫さんの心の影だ。そんな気持ちでいる限りまた、割れる!」と思いました。

しかしそのことを本人さんだけでなく宮さんもお手伝いさんも誰も疑問に思わず「当たり前」としているところが、そして普通にエピソードとして載っていることが、私的には「びっくり」でした。

あっ、私の先のコメントで「内容がびっくりした。」と書きましたがその内容が載ってるブログを見つけました。私が見たのは「ここ」ではないのですが

同じ事が書いてありますのでここでもいいと思いますので、(もう知ってらっしゃる所かもしれませんが)よかったら見てください。

私が先に書いた宮さんのエピソード内容もここの内容もかなり時代錯誤だと思います。という事は「不変の、普遍の真理では無い」という事ではないですか?

明治生まれの雅春先生の人間の部分が、書かれたんではないでしょうか?

http://seichou5.seesaa.net/article/5278901.html  ←ここです。

http://seichou5.seesaa.net/article/4672695.html  ←ここも同じところですが・・

ちょっとこれから出かけます。

218SAKURA:2013/02/16(土) 16:08:24 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (2―4) 】からなのですが……

>>216投稿の続きです…。
■おなじ老人ホームの在中の方の娘さんのプログですが、そこで犬養さんから頂いた本の抜粋です。
つくづく聖典をよんで行くことでしょうか??心にス〜〜ト入りましたが??如何でしょうか??
「下ネタでかわす言葉」より「後でいい余韻を残す言葉」は、永遠性です〜〜〜ョネ〜〜〜

The New Jerusalem Bible Reader's Editin
DOUBLEDAY ISBN:0-385-24833-4

今、この中で、愛するものが亡くなった時に読む言葉を読んでいる。
それは以下のものである。

THE NEW TESTMENT より
Blessed are those who moun:
they shall be comforted.
(MATTEW CHAPTER 5 - 4)
P.1152

悲しむ者は幸いです。
その人は慰められるからです。
(マタイの福音書 5章 第4節)

Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ,the mercifull Father and the God
who gives evry possible encouragement;
he supports us in every hardship,so that we are able to come to the support of others,in every
hardship of theirs because of the encouragement that we ourselves receive from God.
(2 ORINTHIANS THE SECOND LETTER OF PAUL TO THE CHURCH AT CORINTH
INTRODUCTION
Address and greetings.Thanksgiving 3,4)
P.1339

私達の主イエス・キリストの父なる神、慈悲の神、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私達も、自分自身が神か
ら受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
(コリント人への手紙第2 第1章 第3節、4節)

=====================================================
■上記は抜粋投稿させて頂きました…。
やはり「魂を磨く…向上」する事は、改めて素晴らし〜〜イ!此の「WEB誌友会」でのテキストに
より、各個人の方々の捉え方を閲覧・自分自身なりに考え直す機会を頂きます事は…感謝!です…。
そして
「復興G様」「トキ様」「a hope様」「るん様」と共に参加させて頂く機会を得ました事に
“感謝の念”を〜
                                つづく

219復興G:2013/02/16(土) 16:17:24 ID:AB6RqYXc

>>210>>211に、
『秘められたる神示』より「久遠天上理想国実現の神示」のご講義の一部を謹写させていただきましたが、その続きにも大切なすばらしいご教示がありますので、ぜひ皆様とともに拝読し噛みしめて、生長の家出現の世界的使命・神意を確認し合いたいと思い、ここに慎んで掲示させていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

<『秘められたる神示』より「久遠天上理想国実現の神示」ご講義(>>210のつづき)>

 ……即ち以前の人間は、脳髄なる不変の中心が変ることによって、もう存在しなくなるのであります。物体にしても、すべての物には、それがバランスを得るための力学的中心があるのであります。力学的中心の存在しないものは此の世に無いのであります。若し一時的に有ってもそれは安定しないで、倒れるのであります。

 このように一切の存在には変らざる中心がありますのに、"国家"なるものだけは、日本国のみがその帰一の中心として皇統連綿不変なる天皇を持続しているのであって、他の諸国の中心は常に弱肉強食禅定放伐、纂奪交替をほしいままにしており、変化常なき状態であります。
 このような諸外国の、常に"帰一の中心"の交替する状態は、実相世界の久遠常住の秩序があらわれているとは言えないのであります。このように世界に中心が沢山あり、その主権を互いに利己主義的に主張する限りに於ては、世界に戦争は絶えないのは当然のことであります。

 だから、現象世界に実相世界の調和ある秩序が影を映して、永久平和の全世界が実現するためには、

「生滅常なき現実世界が変じて久遠実相世界の常住性を顕現するには、常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて、十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬ。」

 と、神示は教えているのであります。「常住性ある国」とは、神武建国以来一度も天皇なる中心が廃れたことのない国のことであると私は考えます。

 さて、日本の皇室の御紋章の十六菊の説明がその次に書かれているのであります。即ち「十六菊と云うのは光が十六方位にひろがりて、十六方位の国ことごとくを中心に統一せることを象徴(かたちど)ったものである」と説明されております。

 これは菊花の御紋章が何故、その花弁が十六枚にしてあるのか、何故その図形に○が中心になっているのか、何故その○に十六方向の線が中心帰一しているのかの説明であります。「常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて」とありますから、何だか「常住性ある日本国が、世界各国を併合したり征服したりする」かの如く誤解を受けるおそれがありますが、そのように誤解してはならないと私は考えます。

 それは「武力で包む」のでも征服するのでもなく、「光が十六方位にひろがりて」とありますから、「武力がひろがる」のではなく、自然と天皇の御徳の光がひろがりて、全世界の国々が自由意志で会議の上、永久平和の世界をつくるには世界連邦をつくるより仕方がないと考えるとき、そうすれば、世界連邦も唯、連邦になったままで、各国、自分の好き候を主張しているのでは世界連邦以前と同じだから、連邦をつくる以上連邦政府の中央主権を象徴する神聖な何かがなければならない。

 しかし世界各国を見渡してもどこの国にもそのような神聖なる連邦政府の主権を象徴するような方はいない。どうしても、そのような「神聖な中心」を求むれば、日本天皇にそれを求めなければならないのであります。

 「光が十六方位にひろがりて」は天皇の御徳の光があらゆる方角にひろがり聞えることであって、「十六菊」とは「十六聞く」にほかならないのであり、「世界連邦の中心主権の象徴としては、どうしても日本天皇になって戴くより外は仕方がございません」と世界各国から推戴して来る時期が来ることが此処に暗示されているのでありますまいか。
<つづく>

220復興G:2013/02/16(土) 16:18:04 ID:AB6RqYXc

<『秘められたる神示』より「久遠天上理想国実現の神示」ご講義(>>210のつづき)>

 もっとも神示に内在する深い意味は、私たちが勝手に推し測るとトンでもない間違をすることがあるので、唯これは私だけの私解釈であります。しかし世界最高の知性だと称(い)われている相対性原理の発見者たる最高の科学者にして哲学者なるアインシュタイン博士も、私の解釈に似たような意見を次のように述べているのであります。

 「世界の未来は進むだけ進み、その間幾度びも争いは繰り返され、最後に戦さに疲れる時がくる。その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主をあげねばならぬ時が来る。この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。吾々は神に感謝する。天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。」

 このように世界最高の知性も十六菊の家が世界連邦の中央に輝かなければならないことを説いているのであります。

 その十六の数は一六でありその数字を合すると七つと成り、『創世記』にあらわれたる世界完成の数なのであります。だからその十六菊によって世界はその調和ある結合を完成しなければならぬと私は考えます。
 ここにある"七つの燈台"とは世界完成の"世を照らす光"であると考えます。
 アインシュタインをして言わしむればその「完成(ななつ)の光」が中央にあって、世界盟主として立つところの現象世界があらわれれば、それは久遠実相の世界の高天原――瑞穗の国――陽陰和合して中心ある家――生長の家が地上に涌出したということになるのであります。

 この理想世界は地上に創造されたり、人為によって創作されたりするのではなく、涌出するのであります。「涌出」というのは、既に埋藏され秘されてあるものが、見える世界に湧き出ることであります。『黙示録』にある

 「われ新しき天と地とを見たり……新しきイエルサレムの新郎(はなむこ)のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく準備(そなえ)して、神の許(もと)をいで、天より降るを見たり」

とあるように、実相世界に既にあるものが現象世界に影を映すのであります。しかしまだ現象界にクッキリと影をうつすほどに太陽は高く昇っていない。日本の国威も信用もそんなに高く昇っていない。「太陽はまだ昇り始めたばかりである」と神は仰せられているのであります。……(後略)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

――今月のテキストは「神への道しるべ」という章でありますが、生長の家の大神は何のために谷口雅春先生を通してこの人類光明化運動を始められたのかを再確認いたしたく、上記神示ご講義を謹写掲載させていただきました。
 なお、つづいて関連する『光明道中記』の御文章を謹写掲示させて頂きます。

221復興G:2013/02/16(土) 16:18:42 ID:AB6RqYXc

<『光明道中記』より>

   一月二十三日 寒菊競い開く日

  十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。(『秘められたる神示――神示講義〈秘の巻〉』「久遠天上理想国実現の神示」)

 全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇(はっこういう)の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。

 理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇(スメラミコト)の御天職である。

 此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇(ひとつのいえ)である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。

 病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用に過ぎない。天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、真理の中には病気不幸は存在しないが故に、病気不幸が消えるのは当然のことである。病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。省みて真理に載るものは幸である。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ありがとうございます。合掌

222復興G:2013/02/16(土) 18:55:04 ID:AB6RqYXc

>>217 :るん様

>>その内容が載ってるブログを見つけました<<

その<「21世紀生長の家研究会」のブログ>、初めて見ました。

これは本当に“下品な”、女性蔑視の俗語で書かれてますね。でも、下品な表現は、谷口雅春先生が書かれた御文章でないことはおわかりですよね。
(←は当研究会のコメントです)
と注釈してある“当研究会のコメント”部分に下品な俗語が書かれているだけですからね。

「21世紀生長の家研究会」というのは、生命の実相哲学なんかわからない、下品な野次馬さんのブログのようですから、そんなものに惑わされることなく、私たちは本物の真理を求め学んでまいりましょう。

この地上に、神は人間を男と女とにつくられた。

せっかく男と生まれ、あるいは女と生まれたのに、男だか女だかわからないような、どっちでもいいような生き方より、男は男らしく男の天分を生かし、女は女らしく女の天分を生かした生き方をする方が、生き甲斐があるような気がしますが、そうではないでしょうか。

これは、谷口雅春先生が言われるから――とかではなく、私自身の思いなのですが……。

223復興G:2013/02/16(土) 19:12:28 ID:AB6RqYXc

あ、それから、私も>>220で謹写させていただいた、谷口雅春先生の引用されているアインシュタインの言葉について、

<「アインシュタインの予言」として知られている言葉は元来、アインシュタインのものでもシュタインのものでもなかった。国体思想家・田中智学のものであった」>

という説があることを、上のブログで初めて知りました。
(谷口雅宣先生のブログで取り上げられていたそうですが、見逃していました)

まあ、しかし
「吾々は神に感謝する。天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。」
というアインシュタインの言葉はなかったとしても、「久遠天上理想国実現の神示」は神示ですから、これを深く受け止めて、神意実現の使命に邁進すべきことに変わりはあり得ませんね。

224a hope:2013/02/16(土) 19:36:06 ID:TqpbsVIM
みなさま

この掲示板でわたしが一言、発言するたびに、初心者さまとさくらさまがすごい勢いでわたしの批判をされます。

また、復興Gさまがわたしの投稿文を再掲載しても、お二人は同じことをされます。
これ以上、復興Gさまやトキさまにご迷惑をおかけすることはできません。

わたしごときの発言に、お二人がどうしてそのような反応をされるのか、今は理解できませんが、
すべての現象はわたしの心の影ですので、反省のためしばらく自粛させていただきたいと思います。

初心者さまとさくらさまをそんなにも怒らせてしまったことを、心からお詫びいたします。


復興Gさま トキさま 

しばらく、発言は控えますが、 a hopeは今回もしっかりお勉強させていただきます。
引き続き、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

225トキ:2013/02/16(土) 19:57:56 ID:9wlISb0c
>>224

a hope様

 ご投稿、ありがとうございます。

その点は気にされずに、ご投稿をお願いします。全然、迷惑になっていません。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

226SAKURA:2013/02/16(土) 21:08:47 ID:1meWUCC2
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「a hope様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218 SAKURA投稿の続きです…。

>>224「a hope様」の投稿に関しまして…(横スレにて……失礼とは思いましたが…… )

>この掲示板でわたしが一言、発言するたびに、初心者さまとさくらさまがすごい勢いでわたしの
批判をされます。<   (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■せっかく「真理…勉強」にて【魂の向上…】をなさっていらっしゃいます「a hope様」ですから、
第三者の言葉に惑わされずに…(如何なる中傷・非難の言葉)…etcであろうとも、
【神様と一体】…神様にすがる〜〜「自己意識を強く!」持たれた方が宜しいかと…思いますが?

個人的には、随分と私【SAKURAもタタカレ】ました。そして、これは「魂の成長する過程」と!
痛切に【魂の向上…】をとの思いが…今振り返りますと致します。…が?

❤Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ,the mercifull Father and the God
who gives evry possible encouragement;
he supports us in every hardship,so that we are able to come to the support of others,in
every hardship of theirs because of the encouragement that we ourselves receive from God.
(2 ORINTHIANS THE SECOND LETTER OF PAUL TO THE CHURCH AT CORINTH
INTRODUCTION
Address and greetings.Thanksgiving 3,4)
P.1339

❤私達の主イエス・キリストの父なる神、慈悲の神、すべての慰めの神がほめたたえられますよう
に。神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私達も、自分
自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
(コリント人への手紙第2 第1章 第3節、4節)
                               再合掌

PS:
「a hope様」の投稿を楽しみに閲覧されていらっしゃいる方が、いらっしゃいますモノと…
思います。…が?

227復興G:2013/02/16(土) 21:19:30 ID:AB6RqYXc

>>217 :るん様
>>我を通すのは良いことだとは思えませんが、それは男女ともに言えることで、女性だけにそれを強いるのは違うと思いますのです。
ストレスがたまって、病気になってしまいそうです。<<

生長の家は、人間解放の宗教であって、女性に何かを強いるなんてことはありませんよ。
妻は夫に「ハイ」と従わなくてはならない、ということに縛りを感じている人には、榎本恵吾先生はよく「ご主人を蹴っ飛ばしたっていいんですよ。ご主人は自分だ、と思えばわがままも言えるし、神様なら甘えてもいいんですよ」というようなことを言っておられましたね。

228復興G:2013/02/16(土) 21:33:06 ID:AB6RqYXc

a hope様
皆々さま

困ったときには、神様を呼びましょう。
神は遠くにいらっしゃるのではなくて、私たちの内にいらっしゃるのですから。

何があっても、大丈夫です。

「堅信歌」を歌いましょう。

一、われは聴くわが内なる声を
  “みひかりを常にもとめて
  わが御手をしかと握れよ
  安らなれすべて善ければ
  とこしえに此処極楽に
  なれは今まもられてあり。
  何者か汝を奪わん。
  大いなる我れ汝を抱けば。”

二、われは聴くわが内なる声を
  “われ常に汝をまもれば、
  われ常に汝を導けば、
  何時のとき何処にあるも、
  汝は完たく清くけがれず、
  行く道に迷うことなし。
  われは汝の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”

ありがとうございます。

229rei:2013/02/16(土) 21:33:29 ID:bo95azFI

a hope様

私はあなたの投稿楽しみに見ておりますよ。
真理を生きようとされて「愛してます」と、一生懸命書き込まれてるのがわかります。
私のココロと通ずる部分もあります。
私は読むのと書き込むのに時間がかかりすぎるので、あなた様が書き込んでくださると大変助かります。

合掌

232復興G:2013/02/16(土) 21:49:33 ID:AB6RqYXc

さて、少し私の勉強しながら考えていることを書き込ませて頂きましょう。

 (テキストp.142から)
 ≪それでは現代人は何によって神の実在(おられること)を知ることができるのでしょうか。わたしの考えではわれわれが神を知ることができるのは、われわれおのおのの内に神と同じものがあるからであります。≫

――創造の神、本源の神は、時空(次元)をも創造し給うた無限絶対者である。その絶対者なる神の具現が、わが生命なのである。だから、わが内に無限が宿っている。だから、われわれは無限絶対なる神の実在を知ることができるのである。

 (テキストp.148から)
 ≪外形は五尺ばかりの有限な肉体でありながら、われわれがこのように「無限」の美を追求しなければどうしても完全に安心ができないというのは、われわれの内部には「無限性」が宿っていて、その「無限性」の開顕を内部から要求してやまないからであります。≫

――肉体には誕生日があり、「ご臨終です」という時が来る。
しかし、本体は不生不滅――いや、「本来生・不滅」――というのは、生命の本体は時空の中に生まれてきたのではなく、時空を生み出したものだということ。だから、人間の本体は生まれたこともなく死ぬこともないのである。

 (テキストp.139から)
 ≪哲学的には神とは「大生命」だ生命の大本源だ、といってしまえばなんでもないようなものの、神とは必ずしもそんな抽象的なものではなく、活ける愛の神、生命の神、知恵の神、美の神であって、それを見る目さえあれば、人と人とが相対するように、人格的にさえもあらわれたまうのであります。キリストの神がそうであった。旧約の預言者にあらわれた神がそうであった。そのほかいろいろの宗教の開祖たちには神さまのみ声を直接にお聞きになった方が多いのであります。
 「われ神を見、神より聞きしところをなんじらに伝う」そこにこそ真の宗教の教祖たる権威があるのであります。≫

――谷口清超先生作詞の聖歌「ああ わが神よ」を歌いたくなります。

233復興G:2013/02/16(土) 21:55:36 ID:AB6RqYXc

なお、もう少しテキストの続きを謹写させて頂きましょう。

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<5>

 以上の説明によってわれわれがみんな神の子であり、われわれのうちには無限者を宿していることがおわかりになったことだと思います。

 「無限者」なる神は絶対であって一つであります。この点はキリスト教で説くところが真実であります。

 ところが日本には「八百万の神々」といいまして無数の神々がある、仏教でも護法の神として、持国天(じこくてん)だの、毘沙門天(びしゃもんてん)だの、帝釈天(たいしゃくてん)だのといって多数の神々があります。一つの「無限者(かみさま)」のみを説くキリスト教徒にはいろいろの神々を説く教えが迷信だと思えるのも無理がないのであります。誰でもこの一神か多神かの問題にはつまずきがちであります。そこで神を知るには一神か多神かの問題をまず解決してかからなければならないのであります。

 この一神か多神かの問題を解決するには「神」という言葉の意味をはっきりさせておかなければ混同するのであります。

 日本語でカミと申しますのは、第一に創造神のことをカミと申すのであります。この語源は「醸(か)む」といって「上」と「下」とが和合すること、天と地とが結び合うこと、陰と陽とが触れ合うことによって事物を生み出す愛の働きをいうのであります。歯で噛むということも上下相会するという同じ語源からきたのであります。
 ありとあらゆるものを陰と陽との和合、すなわち愛のはたらきによって造り出し給う霊妙なる「創造の原理神」が第一義のカミであります。

 第二に、われわれがカミと申しますのは「輝く身」すなわち一つの発光身をいうのであります。
 一燈園などでは「お光り」といっています。
 仏教では「不可思議光」といったり「無礙光如来(むげこうにょらい)」といったりしています。
 キリスト教では『創世記』に「神、光あれといい給いければすなわち光ありき」と書いてあるのがそれであります。
 この神は本来それは真如法身(しんにょほっしん=観自在原理)そのものであって相(かたち)がないのであります。ただ救うてくださいと呼ぶ者があるので、真如界から救いの求めに応じて発光身となって観世音菩薩のごとく機に応じていろいろの姿に顕現せられる如来であります。
 キリスト教でいうエンゼル(天使)の多くはこれで、唯一根元神から投げかけられた「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。
 みなさまが霊眼に同時に御覧になった「生長の家の神さま」もこの「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。

 いずれも元は一つ、そのお働きによって名前が違う。
 たとえば観自在菩薩というのは観察自在のお働きをして衆生を教化(きょうげ)になるので、そうお名前を申し上げ、阿弥陀如来というのはアミダすなわち無量寿無量光の働きとあらわれ、死後までも衆生を摂取し給うからそう申し上げ、天照大御神と申し上げるのは「渾珠(あま)」すなわち「宇宙」を、限りなく遍照し給い一切のものをはぐくみ育てたまう働きとなって顕われていたまうからそう申し上げ、「生長の家の神」というのは、狭義においては家々、家庭家庭を生長さす一つのおはたらきであり、広義においては「宇宙(いえ)」全体に満ちみちている普遍的真理を世界に宣布し給う救済力として顕現になっているから、そう申し上げる。

 神そのものの本質本体からいえば一つでありますが、その救いの働き(すなわち霊波の種類)からいえば異なるわけでありまして、霊波が異(ちが)うから霊眼で見てもお姿が異なるわけであります。

 ちょうどそれはもとは一つの太陽光線でも、プリズムで光を分散させて見れば七色にも八色にもなり、そのおのおのの光波は別々の作用を人体に及ぼすようなものであります。

 第三にわれわれがカミと申しますのは幽(かく)り身の略称であります。すなわち肉眼で見える体(たい)を備えてはいないけれど、体(たい)がないのではなく幽微(かすか〉な身を備えているのであります。
 この階級の神の種類は千差万別であって、低きものにはまだ悟りを開かない人間の亡霊や動物霊などがあり、高きものにはズッと高い神界に住む神格を得た人霊があるのであります。
 仏説ではこの世で善因を積んだものは「天」に生まれると申しますが、この諸天にいます神々はすべてこの幽り身に属する神々であります。
<つづく>

234復興G:2013/02/16(土) 21:56:30 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<6>

 まだ詳しくいえば日本語の神という言葉を語源的に解釈しますと、いろいろの意義を包含しているのでありますが、まあだいたいふつうはこの三種のカミをいうのであります。
 そして神が一つだと主張する人は、神という言葉で宇宙の創造者としての唯一つの神を指していわれるのでありますから唯一つということに決してまちがいがないのであります。
 そして神は多神だと主張する人は救いの化身たる第二類以下の神々を含めていわれるのでありますから、これもまちがいがないのであります。同じ言葉で別々のものを指して、互いに「一神」だ「多神」だと論争していても結局解決のはてしがないのであります。

 さてこのように神は一神であるとともに、時と所と人とに応じて、場所しだい、時代しだい、救われる相手しだいで、そのあらわれ方が千差万別してくるのでありまして、時代により、そこに住んでいる人間の発達程度に応じて、いろいろに変化して現われ給うて人をお救いになるのであります。「一神教」のキリスト教にあらわれた神でも、旧約にあらわれた神エホバのある部分は怒りの神、復讐の神、嫉みの神、国粋論者の神であって、ほかの神を拝んではならぬ、イスラエルの国はぜひともユダヤ人に回復させねばならぬなどと非常に執着の強い狭いことをいっているのでありますが、新約の神になってくると、ズッと大きな地方色のない広い神になってきています。「心の清きものは、神を見ることを得ん」とか、「神の国はここに見よかしこに見よというべき性質のものではない。なんじらの心のうちにあるのだ」とか非常に普遍的な大きなものになっているのであります。ある新興宗教の神論というのを読んでみても「神は叱ったり、すかしたりして人間を改心させねばならぬからなかなか骨が折れるのであるぞよ」などとあって、一つの神でも救いのために、いろいろの相(すがた)であらわれる必要のあることを説いてあるのであります。そこであらわれから見れば多神、もとから見れば一神ということになるのであります。

 そこでこの神と通ずるすなわち神と感応霊交するにはどうしたらよいかといいますと、それには精神統一ということが第一であります。
 祈りも読経も静坐も坐禅も、生長の家で行なう「神想観」の修行も、すべてこれ精神を統一して、神と自分とを感応しやすくし、神の啓示に導かれて日常生活上に、できるだけ強く深く完全に神をあらわすためなのであります。
 霊媒による心霊現象研究も有料で実験に応ずる霊媒では、料金をとる手前、本当にその霊魂がこないときには霊魂がでてきてしゃべるかのごとくつじつまを合わせねばならぬので、虚偽や詐術がまじりがちで、ことごとくは信じられませんが、次に掲げるのは古河鉱業大連支店の青年社員、浅野新樹君が死んでから、その母多慶子(たけこ)氏を霊媒としてその父和三郎氏に通信せられて来た霊界の状態であって、職業霊媒でないから、大部分は信じえられます。そのうちに、こんな一節があります。

  問い「前にもいく度も聞いたが、幽界における身体の感じをモ一度きかせてくれないか? 呼吸や脈搏はあるかね?」

  答え「そんなものはてんで気がつきませんネ。内臓などもあるのか無いのかわかりません……。」

  問い「地面を踏む感じは?」

  答え「自分の室にいる時は歩くという感じがしないでもありませんが、地上の歩行とはだいぶ異(ちが)います。歩くといっても何やら軽い柔らかい気持です。また足音というものもしません。遠距離に行く時には一気呵成に行ってしまうのでなおさら歩くという観念が起こりませんね……。」
<つづく>

235復興G:2013/02/16(土) 21:57:18 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<7>

  問い「幼少で死んだものが幽界でどんな生活をしているか、一つその実況を見てきてくれないか?」

  答え「承知しました。一つ守護神さんにたのんでみましょう。――(五、六分の後)
 ただ今見せてもらいました。赤ん坊でも、小さいながらわれわれと同様修行させられて心も姿も発達するのですネ。地上の子供のようには迅速ではないが、やはりあんなぐあいに大きくなるのですね。僕の行った所では五十歳ぐらいの婦人たちが二、三人おって、それが子供たちの世話をしていました。子供の人数ですか――人数は五、六人で、三歳から四、五歳ぐらいの男と女の児が一緒にいました。抱かれたり何かしている具合は現世とちっともかわりません。場所はあっさりした家の内部ですが、ドウも幽界(こちら)の家屋はどうも皆軽そうに見えます。ずっしりと重そうな趣がなく、なんやら芝居の道具立てのような感じがしますネ。僕は守護神さんに向かい、これらの子供が学校へ行く年齢になればどうなるのかと尋ねてみましたら、守護神きんはさっそく僕を学校のような場所へ連れて行って見学させてくれました。一学級の生徒は二十人ぐらいで、やはりここでも男女合併教育をしていました……。」

  問い「他にも組がいくつもあるのだね?」

  答え「いろいろの組に分れています。何を標準として学級を分けるのかというと、それは受持の教師のする事で、主として子供が死ぬ時に因縁によりて導いてくれた神とか仏とかに相談して十分調査の上で実行するらしいのです。もっとも宗教的区別などはある程度までの話で、上の方に進めばそんな区別はぜんぜん消滅するそうです。」

  問い「科目はどんなふうに分れているか?」

  答え「現世とは大分異いますね。算術などはぜんぜん不必要で、そのほか地理も歴史もありません。幽界で一ばん重きを置くのはやはり精神統一で、これをやるとなんでもわかるのです。音楽だの文芸だのも、子供の天分しだいでワケなく進歩するようです。学問というよりもむしろ趣味に属しましょう。趣味があればいくらでも進歩するが、趣味がなければまるきり駄目です。ですから子供たちは一室に集まっておりながら、その学修する科目はめいめい異います。」(下略)

 この霊界通信は他の信ずべき霊界通信と一致するところも多く、真実性を認めることができるのであります。この霊界通信にもあるとおり宗教的区別というものは上層の霊界へ行けば無くなるので、「この宗教でなければ救われない」と偏頗(へんぱ)に片寄った執着をもっている間はそんなに高い霊界に行くことができないということをすべての霊界通信は一致していっているのであります。

 それから、霊界へ行っての修行が何よりも精神統一が第一だというのはおもしろいではありませんか。「霊界では精神統一をやるとなんでもわかる。音楽だの文芸だのも子供の天分しだいでワケなく進歩する」と新樹青年は霊界の事情を見てきて話しているのですが、われわれの住んでいる地上の生活もやはり原則は同じことで、精神統一によってあらゆるものが上達し、われわれの境遇運命も徐々に精神力によって支配できるようになっているのであります。
 「心が一つの目的物に統一して注意がそこに集中すると、自分と周囲の一切とがその目的物を実現すべき方向に自然に動き出す」というのが最近発見された精神科学の原理であります。
<つづく>

236復興G:2013/02/16(土) 22:00:16 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<8>

 かりにわれわれが絵を描こうと思って、絵に精神統一をしていますと、その精神集中力が磁石的な引力となって絵を完成するに必要な霊界の波動が、「類をもって集まる」または「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則に従って集まってくるのであります。
 絵でも文学でも発明でも皆同じことであります。
 インスピレーションというのが、霊界の波動を感受することをいうのであります。われわれのいう精神統一とはポカンとして無念無想になってしまうことではなく、一心不乱に一つのことに精神を純粋に集中することであります。

 われわれは何も思わなくなるということは決してできないものでありまして、たとい表面の心がポカンとして何も考えていなくとも、奥底にあって「隠れている表面に浮かばない心」は一つの習慣的なリズム(調子)をもって常に活動しているのであります。
 だからわたしはこの「隠れている心」を「習慣の心」といっているのであります。
 ラジオの受信機が波長の合った放送だけを感受するように、われわれの心の習慣的なリズムは、そのリズム相応の精神波動を霊界から感受し、それを現実世界の形あるものとするのであります。

 だから心の習慣的リズムの清まり方しだいでわれわれは最高(いとたか)き神界から発するリズムにも感ずることもできるのであります。
 「心の清き者は神を見ることができる」というのはこのことをいったのであります。
 心の習慣的リズムの清きものは神を見ることができますが、心の習慣的リズムが芸術家であるものは、霊界の大芸術家から放散するリズムを感受して、それを現実世界の芸術としてあらわすのであります。

 ダッフェ女史の自動書記にあらわれた霊界旅行記には、霊界の大芸術家を感受していかにこの地上の芸術家が芸術を完成するかの手続きがかなり明瞭に示されてあります。

 ある日小児に誘われて近隣の人々のありさまを見に出かけたことがあります。最初に訪ずれたのはある画室で、そこでは一人の画家が心血を注いで力作中であった。
 彼の刷毛(はけ)の先から出てくる巧妙な色彩、眼の前の画布に現われてくる物象は実在のごとく思われるほど生命の満ちたものでありました。
 私は画に親しむ時間を持たなかったため自分で描く事はできないのですが、心中に潜む趣味は鑑賞家としての資格だけはわたしに与えてくれました。
 けれども生前数多く見た名画のうちにもこれほどの感銘を見出しえなかったのです。恍惚とその画の前に立ちつくしたわたしを遮らずに、しばらくわたしを審美の世界に楽しませてくれたこの画家は最後に口を開きました。
 「あなたはまだ半分だけしか見ていられません。他の半分も御覧になりませんか。」

 彼の画は完成しておったので、わたしには彼の意味が受け取れず、なんのことかと迷っていると見る見る彼の姿もその作画も画室もろとも消滅して、とって代った光景は、現界のある画室の内部、なかに一人の若者が熱心に絵筆を動かしつつあるところでありました。
 わたしにはその画家の心中が読めるのでしたが、彼はわたしが今賞讃した偉大な画を幻に見たのです。そして比べようもなくつよい衝動にかられてその美しい印象をありのまま描こうと懸命の努力をしているのでした。

 この不思議な光景をわたしに示した画家がこの時傍(そば)におったので、わたしは尋ねました。

 「これはいったいどうした事なのでしょう?」

 「現界の名画というもののすべては、霊の世界にその本体があるということをおめにかけたのです。
 あの画家はああして筆を動かす前にすでにわたしの描いた絵の幻影を心中に捉えておるのです。
 そしてもしあなたが御質問なされば彼は必ず自分の筆が心中の画想を完全に表現しえぬことを嘆くに相違ありません。
 こうした人々を地上では天才と呼んでいるのです。」彼は会心の微笑を口辺に浮かべておりました。
<つづく>

237復興G:2013/02/16(土) 22:02:54 ID:AB6RqYXc

あらゆる芸術の根源は霊界にある、とも言われていますね。

高級霊界に波長が合うよう、心をきれいにしておきましょう。

238SAKURA:2013/02/16(土) 22:09:45 ID:1meWUCC2
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「a hope様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218>>226>> SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (2―5) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

===【抜粋文】======================================
>>そのようにわれわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい
触れてもそれを感ずることができません〜〜略〜〜
>>あまり現在の境遇に満足し切っている人は
神をもとめる必要がないから、神を見ることも感ずることもしないのであります。 
それは神を見ることができないのではなく、しないのであります。<<  (一部抜粋)
==============================================

■神をもとめ…神を見るは……♫
【背 水 の 陣】をひいた方なのでしょうか……??それも含まれますかと思います。常日頃から
それよりもひたすら【 神にすがる心 = 祈り 】ではと思います。
人は、神様から各自への“テレパシ−”を頂いておりまして、それぞれのアンテナにて受信する
ことが出来るのですから、但し、そのチャンネルはキチンとしていませんと…正確なる
“テレパシ−”は受信することが出来ないかと。それに答えるためにも……
やはり【 祈り・神想観 更に“イメ−ジ” 】だと思えます。…が?

まだ!まだ!私も【祈り…】が足りないのでは…?と思いながら、本格的に『神地一体に融合』で
しょうか??私も〜〜♫〜〜ジャン・ジャン・ジャン・ジャンと【祈る事…】…

それが“宇宙…への遭遇……邁進”で〜〜〜す。…が??
                                再合掌

                          つづく

PS:引き続き…「頂きましたテキスト…」からの閲覧にての感想を順次投稿させて頂きます。

239復興G:2013/02/16(土) 22:59:26 ID:AB6RqYXc

皆さま、ありがとうございます。

私は今夜はこれにておやすみさせていただき、明日日中はリアルの世界で予定行事がありますので、次は明晩お目にかかります。
では心の友なる、生命の兄弟なる皆さま、神様の祝福を受けてハッピーな日夜をお過ごしください。
おやすみなさい。

240るん:2013/02/17(日) 00:02:12 ID:pic01rm6
復興G様

有難うございます

>>榎本恵吾先生はよく「ご主人を蹴っ飛ばしたっていいんですよ。ご主人は自分だ、と思えばわがままも言えるし、神様なら甘えてもいいんですよ」
>>というようなことを言っておられましたね。

 そうなんですか?よかったです。自分には「絶対、ハイ」なんてできそうにないですんで。

とはいえ、いつもこういう事を考えてるわけではないです。

実相独在、人間神の子、物質無しの真理を感激しながら、噛みしめて読ませて頂いてます。

この真理を教えてくださった雅春先生には、もう感謝しても感謝してもしきれません。この縦の真理がなかったら

これから先、生きていけないです。この世界が終わっても霊界もありますし。

ご教示、いろいろ有難うございました。明日のご予定、お気をつけて行ってらっしゃいませ。

a hope様
 んな事いわないで、明日から、また書き込み、よろしくお願いいたしますね。

SAKURAさま
 神我一体の境地を目標にされていらっしゃいますか?
 凄い!すてき!がんばってくださいね。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板