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Web誌友会 板/2

166復興G:2013/02/15(金) 13:32:23 ID:AB6RqYXc

>>162のつづきです。

私は、高校2年のときに、わが魂の底なる、内なる神の声を聴いたと申しますか、不可思議光を見たと言いますか、ある「霊的体験」とでもいうような、不思議な体験をしました。そして、地方から上京して東京の大学に入った。けれども、そこでは

≪大学で、人生の師に出会うことはありませんでした。大学は、私にとってストレス以外の何ものでもありませんでした。私は退学願いを出しました。≫

と、前のweb誌友会板>>1593に書いています。
簡単にそのように書いていますけれども、その日々は、そそらく想像を絶する(体験のない人にはわからないと思われる)苦しい日々でした。ノイローゼ(神経症)とか、統合失調症といわれるものだったかも知れません。

 大学に入ってから、あの、高校2年の時に見た輝く光、無限の希望の光――あの「光」を見失いかけたのです。

 あれは一体、どこから来た光だったのだろう……そして、あの光を再び自分の中に輝かすにはどうしたらよいのだろう――ということが、私の最大の、のっぴきならぬ関心事でした。大学の講義にはついて行けなくて、勝手にいろんな本を読みました。

 哲学者ヘーゲルが、1818年にベルリン大学で行った開講の挨拶というのに
 「人間は自己を尊敬しなければならない、自己をもって最高のものにねうちすると考えなければならない。精神の偉大さと威力とは人が如何に大きく考えても大きすぎるということはないのであります。宇宙の閉ざされた本質は認識の勇気に抵抗し得るであろう力をば有しない……この勇気の前に宇宙の本質は自己を開き、富と深さとを開示し、それを享受せしめるに相違ないのであります。」
(天野貞祐著『学生に与ふる書』より)

 とあるのを読んで、よし、自分の求めていたものは哲学だ! と哲学の講義を聴いてみても、大学での哲学の講義には魂を沸き立たすようなものはありませんでした。

 私は、大学に絶望して、退学願いを書いて一度は提出しました。それは、私の尊敬していた恩師の忠告で引っ込めましたけれども、大学は留年したり休学したりして、大いに悩みました。

 そのころ、私はトルストイの『人生読本』を読みました。
そこには、次のようなことが書いてありました。

○あらゆる宗教の本体は、何のために私は生きるか、自分をとりまく無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるかという事実に対する知識である。

○いろんな知識をかき集めている学者どもは不憫なものだ。ひとりよがりの哲学者たち、飽くことを知らぬ研究家等は不憫なものだ。これらの善くない富者たちは、ラザロの徒が絶えず飢えに悩んでいるにも拘わらず、毎日毎日自分たちの知識上の饗宴で無為徒食しているのだ。これらの人々は皆無に等しい代物でお腹がいっぱいになっているのだ。何となれば、そうして空しい知識は、道徳的完成にも、社会的完成にも力を致すところがないからである。

○無益な学問をうんとこさ学び知るよりは、人生の法則を少し知る方がましである。

○最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰なしに生き得るものだという独断に対する現代のいわゆる学者の大多数の迷信である。

 ――これを読んで私は、私の求めているものは「宗教」だ! と思いました。以前は目に見えないものを信ずるのは頭の足りない人のすることだくらいに思っていた私でしたが、本当は最も頭の良い人間は、生命の根元を探求し宗教を求めるものだとわかりました。

 そして、縁あって谷口雅春先生の『生命の實相』に触れ、ただひたすらに読み始めたのです。そして、高校2年のころ垣間みたあの光り輝く世界が何であったのか、それをとりもどすにはどうすればよいか、その答えがここにある――と思ったのです。

 大学では教えてくれない素晴らしい哲学、生活に生きる哲学が、ここにありました。
 私は、すぐ生長の家青年会に入会して、活動を始めました。ここに、自分を本当に生かし、人を生かす道があった。「この最高の真理を、永遠に学び生き続け、全世界に光を与えてまいりましょう!」と。
<つづく>


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