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鬼和尚に聞いてみるスレ part8
1
:
避難民のマジレスさん
:2016/12/05(月) 22:15:12 ID:5WAaNl9c0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。
鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが
あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。
ルールを守って使用しましょう。
前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part7
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1463059357
952
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/05/31(水) 23:50:01 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
瞑想中に人の形をした影のようなものが見えました。
まさしく人形で、人形自体に何かをする力はありません。
これが私の自我というものでしょうか。
それとも単にイメージを投射しただけでしょうか。
自我ならば、これがもっと明らかにはっきりと見えるようになればいいのでしょうか。
953
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/01(木) 00:16:32 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
私は、自分が被害者であるとずっと思っていた、と気付きましたが、これは正しいですか。
954
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/01(木) 00:20:29 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
他人に説法することと、
他人のしたこととしなかったことを見たことに基づいて他人に何か言うことはまたは説法することは、
同じですか、違いますか。
そして、それはなぜですか。
他人のしたこととしなかったことを見たことに基づかないで説法することはできますか。
それはどうやるのですか。
955
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/01(木) 01:11:20 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
ブッダのことば(岩波文庫)で、
五の堅固なものの解説で、
事物のうちに堅固なものを見出さない、というのは、つまり〈空〉であるいうことである。〈空〉の思想は、最初期にまでたどることができるのである。
とあります。
私の理解では、空は思想ではなく、空観という悟るための技法ですが、空は思想ですか?
堅固なものを見出さない、というのは、確たるものはないのだからそれを探そうとはしない、というような意味かと思いますが、どうでしょうか。
956
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/01(木) 06:27:43 ID:czRftzgI0
>>945
はい、ありがとうございました
957
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/01(木) 20:11:07 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
昨年書き込んだことで、職場に嫌な人がいたけれどもだんだんと気にならなくなってきた人のことですが、
あれからその人は私の仕事ぶりを勝ってくれたり職場環境について様々な配慮をしてくれたりするようになり、
私にとってはとてもありがたい存在になりました。
しかし、その人が異動で私とは別の部署に変わりましたので、これまでのような関わりはなくなりました。
このような出来事は、私の試しが一つ終わったようなものでしょうか。
958
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/01(木) 21:33:29 ID:1d4drIFg0
>>948
嘘なのじゃ。
ストレスが多かったり、生活が荒れていればがんになるものじゃ。
自殺と同じではないのじゃ。
>>949
>>950
そこに苦があるならば、苦があると観察するのじゃ。
そして原因を追求するとよいのじゃ。
苦が無ければ苦がないと観察するがよいのじゃ。
今ここにあるものだけをありのままに観察するのじゃ。
>>951
それも一つの気付きなのじゃ。
それにも囚われずに進むのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>952
それはただのイメージなのじゃ。
雑念なのじゃ。
囚われずに捨ててしまうがよいのじゃ。
今ここにある心身をありのままに観察するがよいのじゃ。
>>953
それによって苦が無くなったのならば正しいのじゃ。
苦があるままならば正しくないのじゃ。
自分だけがそれを知れるのじゃ。
>>954
説法としては同じじゃろう。
説法であるから同じなのじゃ。
出来ると思えば出来るじゃろう。
出来ると思うことで出来るのじゃ。
>>955
思想ではないのじゃ。
学者には思想としか捉えようが無いのじゃ。
そのような意味でよいのじゃ。
959
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/01(木) 21:34:40 ID:1d4drIFg0
>>956
どういたしまして、またおいでなさい。
>>957
そうじゃろう。
更に善事を重ねるとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
960
:
としぼっくり
:2017/06/01(木) 21:52:56 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、原因を追求して苦の原因に気付けば苦はなくなるのでしょうか?
961
:
481
:2017/06/01(木) 22:15:24 ID:j2IV6FWs0
鬼和尚、
自我とは言葉ではないでしょうか?
そして言葉とは記憶から。
私に意識を向けると、瞬間的に私というイメージが起こります。
私を私としているのは、言葉です。
などと言ってはいますが、未だ無我にはなっておりません。
ただの理解なんでしょうね。
観察で実際に観ようと思います。
962
:
としぼっくり
:2017/06/01(木) 22:32:02 ID:DAY232aw0
>>960
追記です。
原因を追求して苦の原因が判ったら、順逆に観察したらよろしいのでしょうか?
963
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/01(木) 23:32:29 ID:Em5yagvA0
仕事の苦しみを観ていく中、その原因は想定外の色々な問題が発生し、自分のイメージの通りにいかないことが多く、落ち着けないためと観ました。
原因を観ましたが、解決は一筋縄ではいきません。ここから何を観察するといいのでしょうか?
964
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/02(金) 01:05:21 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
他人のしたこととしなかったことを見たことに基づいて他人に説法することは
善いことですかそれとも悪いことですか。
他人のしたこととしなかったことを見たことに基づかないで他人に説法することは
善いことですかそれとも悪いことですか。
金剛経(中公文庫)に、
「この法門の中の、たとえ四句からなる詩頌(しじゅ)1つだけでも、(自ら学んで)把握し、他の人々にも詳しく示し、説明するとしよう。(両者のうちで)後者こそが、そのことによって、より大きな功徳の集積、はかりしれない無数の(功徳の集積)を生み出すことになろう。」
とありますが、これは他人に説法すると善い、ということですか。
965
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/02(金) 12:45:59 ID:SaY5JPM20
>>881
ありがとうございます。
自我への執着の原因を探してみました。
どうやら、これまで本心では本当だと信じている世界が、全て嘘であることを知ることが怖いようです。
これを苦滅の要領で滅しようとしたのですが、うまくいきません。
瞑想が深まり主体の感覚が薄まると、反射的に自我を取り戻そうとする働きがあることから、
自我への執着は未だあると思います。
また、自我を追求していると吐き気のような気持ち悪い感覚が生じることからも、正しい道を進んでいるだろうということも判ります。
何か助言をいただけますでしょうか。
自我を滅する障害になるものを取り除きたいです。
966
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/02(金) 18:52:07 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
私が他人に対して
「自殺すると死んだ後も苦しみ、より悪い所に生まれ変わる。これは真実だ。だから自殺はしない方がよい。」
と言った場合、私は嘘をついていることになりますか、それとも正しいことを言っていることになりますか。
967
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/02(金) 21:47:09 ID:1d4drIFg0
>>960
>>962
そうじゃ。
原因に気付いた後に原因から苦が起こる事を観察し、原因がなければ苦が起きないことを観察するのじゃ。
観察が完全に出来れば苦は消えるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>961
言葉もあるが、イメージもあるじゃろう。
言葉以前にイメージが自我を構成しているのじゃ。
それ故に言葉によっては自我は観えないのじゃ。
言葉に囚われずに進むのじゃ。
>>963
自分のイメージ通りに行かないとなぜ落ち着けず、苦が起こるのか原因を心の中に探すのじゃ。
ものごとが思い通りにいかないことはよくあることじゃ。
それが苦になるのは原因があるからなのじゃ。
原因からその苦が起こる事を観察するのじゃ。
>>964
そのことに善悪は無いのじゃ。
慈悲の心で説法するならは゛善なのじゃ。
怒りとか攻撃欲で説法するのは悪なのじゃ。
そのような違いがあるとしるがよいのじゃ。
その経を説法留守とよいというのじゃ。
>>965
更にその原因を心の中に探してみるのじゃ。
それは自分があくまでもあるという観念からかもしれん。
自我の前に自分があるとはどのような状態なのか観察して見るとよいのじゃ。
何があるとき、自分はあると感じるのか、
何がないと自分はないと感じるのか
観察にょって明らかにするのじゃ。
968
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/02(金) 21:48:51 ID:1d4drIFg0
>>966
おぬしがそれを真実と知っていれば正しいことじゃろう。
嘘でも慈悲にょって言うならば善事なのじゃ。
想いが善悪を決めるのじゃ。
969
:
龍氣
:2017/06/02(金) 21:52:01 ID:JrW3ee6Q0
すみません、鬼和尚、
もう適当なことは言いません。
名はお返しいたします。
970
:
としぼっくり
:2017/06/02(金) 22:12:47 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
実践して行きます。
971
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/02(金) 23:14:06 ID:q6NCKTlA0
963です。
その原因は家族を護らなければいけないこと、
そのためには仕事できちんとした結果を残さなければならないこと、それをさらに深堀すると自身のキャリアを傷つけたくないこと、保身がキーワードのような気がします。ここからは何を観察するとよいでしょうか?
972
:
481
:2017/06/03(土) 00:29:55 ID:bSLl/kTY0
鬼和尚、ありがとうございます。
まず、ある映像が起き、それに言葉で名を付けているということですね。
例えば「私」とか。
言葉を捨てて観察してみようと思います。
973
:
としぼっくり
:2017/06/03(土) 01:01:46 ID:DAY232aw0
お礼に続けて申し訳ないです。
質問ですが、鬼和尚さんは、自分の本心を観たからこそ、自我、自分に気付いたのでしょうか?
974
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/03(土) 13:03:36 ID:BVPIT6kM0
>>967
ありがとうございます。
自分があくまでもあるという観念ですが、確かに心の中にありました。
自分を実在として前提し、物事を見ていることがわかりました。
さらに詳しく観察してみます。
> 自我の前に自分があるとはどのような状態なのか観察して見るとよいのじゃ。
> 何があるとき、自分はあると感じるのか、
> 何がないと自分はないと感じるのか
とありますが、少し詳しく教えてください。
ここでの自我は、例えば座っている自分のイメージとかで、自分があるというのが、「自分」が座っている
という主体の感覚ということでしょうか。
そして、主体の感覚の有無や強弱を縁起によって詳しく観察するということでしょうか?
自分のイメージはイメージとして見られるのですが、主体は今の所イメージとしては見られず、実在する感覚として知覚されています。
975
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/03(土) 20:00:22 ID:kV7xIwD.0
鬼和尚さん
先ほど自分の行動を観察していたら、自分を守ろうとしているつもりで、自分だと思っていたイメージ?のようなものを守ろうとしていたことに気づきました。
これは、自分の一部が観念だったと気づいたことになりますか?
もし似たようなことを続けたら、自分というものは、減っていくと思うのですがどうなのでしょうか?
それから、自我を観察してそれが観念に過ぎないことに気づくのも、これと似たようなものですか?
それとも、もう少し違う感じのことですか?
976
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/03(土) 21:16:51 ID:1d4drIFg0
>>969
返さないでよいのじゃ。
ただひたすらに己の本心を観るのじゃ。
それはこれから死ぬまで続ける作業なのじゃ。
一時の感情でやめたりするべきものではないのじゃ。
絶望を超えて進むのじゃ。
>>970
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>971
更に本心を観察するのじゃ。
本当はもっと楽にしても家族は守れるじゃろう。
欲に取り付かれた心が更なる執着を生み、苦を起こすのじゃ。
そのような働きが無いか観察して観るのじゃ。
>>972
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>973
そう言えるじゃろう。
本心を観なければ変容は起こらないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
977
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/03(土) 21:34:05 ID:1d4drIFg0
>>974
それは言わば自分の定義なのじゃ。
例えば肉体が自分と定義する者は肉体があればもう自分はあると認識するじゃろう。
感覚や感情や思考が無くとも肉体があれば自分はあると認識するのじゃ。
肉体が無ければ自分はないと想うのじゃ。
そのような定義から自分というものを追求していけば自我も見やすくなるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>975
気付いたことになるじゃろう。
減らないのじゃ。
観念が観念と気付いただけであるからのう。
そのような恐れが生じることで自我も見えてきているとわかるのじゃ。
似たような気づきが増えていけば自我も滅するじゃろう。
恐れずに進むのじゃ。
978
:
蓮恵
:2017/06/03(土) 21:50:09 ID:F4cyaZX20
和尚さま
人としてどのように生きるかという問題があります。いわゆる善悪、幸福、道徳、功利の問題です。全ての人間が求めてやまないものです。
しかしながら、それらよりも根本的な問題が存在するものと存じます。
うまく説明できませんが、己という存在そのものに対する向き合い方といいますか、受け止め方といいますか。
ここが足らないと、全ての行動が逃避で終わってしまうようなそんな気がするのです。
979
:
としぼっくり
:2017/06/04(日) 01:03:15 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
実践して行きます。
980
:
としぼっくり
:2017/06/04(日) 02:02:40 ID:DAY232aw0
またお礼続けてすいません。
質問ですが、自分の本心を観察する事によって、自分とは何か観察出来たり、心身を観察出来たり、苦を滅っしたり出来るのでしょうか?
981
:
としぼっくり
:2017/06/04(日) 07:26:44 ID:DAY232aw0
>>980
スルーしてください。すいません。
ありがとうございます。
982
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/04(日) 12:56:31 ID:QoQZrmNc0
>>977
鬼和尚さん、ありがとうございます。
苦を滅する時に、その原因が無意味な観念だったと気づくことは多いのですが、
今回は、それがまさに自分という観念の一部だったので、これが自我なら自我の仕組みが少し実感できた気がします。
でも、自分が減らないのは意外でした。
じつはこの気づきは、自分が無意識のうちに死を避けようとして何かを守っていることに気づき、さらにそれを守っても死は避けられないから、それは自分ではないと気づきました。
こういう観察ができるから、死を思うことは修行には良いということなのでしょうか?
ただ、どうも私は常に死を避けようとしているので、観察方法としては曖昧でキリがないかもしれません。
というか、自我が漠然としていて曖昧な感じです。
自我を滅するには、自我が限定されたはっきりとしたものになっている必要があると思うのですが、どうでしょうか?
そのために気づきを増やして自我の幻想を減らしていく必要があるということですか?
983
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/04(日) 13:43:40 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
下記の動画の中の【超能力を使い過ぎてしまったせいで】という話しで、
(話しの長さは動画の初めから約2分間です)
「知っているのは理解しながら、それが誰だか分からなくなっている。」
「音としては聞こえているのに、言語として意味を理解できない。」
とあるのですが、これは、記憶による認識が止まり、観念が浮かばなくなった、ということでしょうか。
このような状態なら苦は起こり得ないでしょうか。
悟る時はこのような状態を経るのでしょうか。
不思議な話 忍び寄る不思議な力
https://www.youtube.com/watch?v=8wzwipT3wV4&lc=z134f3y4wkezxnofm235epmgqp2kgrj1j
984
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/04(日) 14:51:41 ID:ohctFj6.0
>>983
すみません。念のため。
オカルト注意
です。
985
:
蓮恵
:2017/06/04(日) 16:13:32 ID:AlNqYyjs0
和尚さま
根本的な問題と向き合わずに、仏道に精進しても天地の開きが生じると思います。
仏道は何かを得るとか、身に付けるプロセスではないでしょう。
滅することで本来の生が得られるといいましょうか。
986
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/04(日) 16:29:41 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
毎朝起きるたびに、私とはこういうものだ、というのを作り上げていて、
それをいつのころからか、毎日毎日その都度続けている、という気がします。
987
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/04(日) 18:00:09 ID:czRftzgI0
大乗仏教は間違いが多いという持論の和尚さんは、法然を悟ってないとお考えでしょうか?
988
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/04(日) 20:01:10 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
下記のまとめサイトで(オカルト注意)
妖怪退治の仕事してるけど、何か質問ある?
http://world-fusigi.net/archives/6972808.html?p=9
――――――――――――――――――――――――――――――
265: 1 ◆cvtbcmEgcY 2013/07/17(水) 21:54:06.00 ID:vVAg8PUK0
最初のほうにいったけど、式神とかを今実際に使える人はいないと思う。
表現しずらい点が多くて、俺も理解できてない部分も多いけど
とりあえず先生に聞かされたこと
なぜ使えないかというと、現代日本に住む人間なら無理な可能性が高いからだ。
入道とか道行うんぬんって話覚えているよね。
道行ってのはそのまま道を行くって感じで理解していいと思う。
つまり、実際に道を行って、その体感とか、世界に対する理解とか
そういう口では説明できないものを実感して、そして入道に至るみたいな感じかな?
しかし、その入道を一番邪魔をするもの。それは何かというと文字なんだ。
266: 1 ◆cvtbcmEgcY 2013/07/17(水) 21:54:07.00 ID:vVAg8PUK0
まぁ、あと言葉もそうかな?
すごい抽象的で申し訳ないんだけど
例えば「一」って漢字があるじゃん。
これは一を表現していて、これをみると「あ、一だ。」
みたいな感じになるんだけど。実際の「いち」って概念はこんな「一」という
文字では表せない。一個とか、一枚とかいろいろあるんだけど
でも、俺たちがその一という字を知ってしって。
そうすると、俺たちは一という言葉というかそういうもので自分の見解を縛ってしまって
本当の意味で「いち」を理解することを阻害してしまう。
昔の力持ちたい人とかは、小さいころから決して文字の勉強はしなかったとか。
――――――――――――――――――――――――――――――
とあるのですが、これは、言葉とイメージによる観念に囚われてしまうことを防ごうとしているのでしょうか。
文字、言葉によらず、実践あるのみ、ということでしょうか。
989
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/04(日) 20:37:27 ID:fuOAkotI0
>>977
定義から自分というものを追求するのですね。
実践してみます。
ありがとうございました。
990
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/04(日) 21:09:31 ID:1d4drIFg0
>>978
>>985
それが何なのか観察によって明らかにするのじゃ。
自ら気付かなければ他人に話すことも出来ないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>979
>>981
どういたしまして、またおいでなさい。
>>982
それもあるのじゃ。
老病死は常に人の壁となり、修行を推進する追い風ともなるものじゃ。
そうじゃ、既に少しは幻想が減っているじゃろう。
たまねぎの皮をむくように芯に何もないと気付くまで観察し続けるのじゃ。
悟りも自ずから起こるじゃろう。
>>983
それは脳が疲れて外部からの刺激を認識しなくなったのじゃ。
苦はまだあるのじゃ。
自我もあるからのう。
991
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/04(日) 21:13:47 ID:1d4drIFg0
>>986
そうじゃ、自我は毎朝毎刹那起こるものじゃ。
朝は自我を思い出すのじゃ。
一日の中でも何度か自我を忘れたりしているものじゃ。
>>987
悟っていないのじゃ。
悟りを目指してもいなかったじゃろう。
浄土を目指していたのじゃ。
>>988
そうじゃろう。
実践によってのみ心は変るのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>989
そうじゃ、常日頃意識していないが自分の定義は誰にでもあるものじゃ。
参考にして実践するとよいのじゃ。
またおいでなさい。
992
:
としぼっくり
:2017/06/04(日) 22:43:32 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
自分の本心を観察する事を元にして、自分とは何か観察したり、心身観察したり、苦を滅して行けば良いのでしょうか?
993
:
としぼっくり
:2017/06/05(月) 00:36:28 ID:DAY232aw0
>>992
苦を滅したり、して行けばです。
994
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/05(月) 00:48:46 ID:ohctFj6.0
鬼和尚
>>987
に関連して
浄土宗は、南無阿弥陀仏を口に出して唱えれば、浄土に生まれることができる、ということであり、
それは悟りを目指したわけではなく、南無阿弥陀仏を口に出して唱えても悟れない、ということですね。
浄土はあると思えばあり、ないと思えばないのでしょうか。
995
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/05(月) 00:49:44 ID:ohctFj6.0
偽和尚
すみませんが、そろそろ次スレを用意していただけませんでしょうか。
996
:
偽和尚★
:2017/06/05(月) 00:58:46 ID:???0
次スレ作っておきました。
鬼和尚に聞いてみるスレ part9
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1496591715/
しかしこの板のスレは設定で2000まで大丈夫なようになっているのでまだストップさせません。
切りのいいところまで書かれてからストップさせます。
997
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/05(月) 01:07:06 ID:ohctFj6.0
>>996
ありがとうございました。
998
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/05(月) 15:41:39 ID:t8PlW.qA0
>>990
鬼和尚さん、ありがとうございます。
とにかく観察して、自我の幻想を減らしていこうと思います。
できるだけ自我の幻想を減らしていけば、それが起こる瞬間を捕らえられる気がしてきました。
またわからなくなったら教えてください。
それから、以前はよくわかっていなかったのですが、最近は鬼和尚さんに出会えたことの幸運の大きさがわかってきました。
こんなにいつも質問に答えてくださって、感謝しています。
いつもありがとうございます。
999
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/05(月) 18:08:22 ID:rIFRVnQI0
先日このスレの存在を知りました。
鬼和尚様、ここの皆様、管理人様、心より感謝申し上げます。
「私の主体」を探していたのですが、「主体」とは、複合的な感覚から生じた観念(感覚?)でしょうか?
物心ついてから漠然とあると感じていた「主体」とか「自分」という感じ、この「感じそのもの」でしょうか?
「感じ」があるだけで、実際に主体があるわけではないと言いますか…
少しそれがわかった気がしたのですが、この観察(理解?)は正しいでしょうか?
普段、ことある事に生じる「私」という感じ、その感覚がどのようなものか、どのように生じているか、詳細に観察していくことが、
自己の観察となりますでしょうか?
1000
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/05(月) 21:16:40 ID:1d4drIFg0
>>992
>>993
そうじゃ、本心を観察することが基本なのじゃ。
偽りの心を観察しても何も起きないのじゃ。
本心を観察してこそ変容も自ずから起こるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>994
そうじゃ、それは悟りを求める法ではないのじゃ。
サマーディにまではいけるがのう。
浄土もあると思う者の心の中にのみあるものじゃ。
>>996
いつもご苦労さんなのじゃ。
>>998
何度でも聞くとよいのじゃ。
どういたしまして、またおいでなさい。
>>999
それはおぬしがそう気付いたならばそうなのじゃ。
おぬしの気付きによるものなのじゃ。
肉体が主体と認識していた者には肉体であり、感覚が主体と認識していた者には感覚になるのじゃ。
自分という観念の素となるものじゃ。
完全に気付いたならば変容が起こり、それとわかるものじゃ。
自ら判断するべきものなのじゃ。
それも観察になるじゃろう。
普段から行えばやがて観察も神妙の域に達するものじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
1001
:
偽和尚★
:2017/06/05(月) 22:01:37 ID:???0
それではこちらのスレはストップします。
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