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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

1 避難民のマジレスさん :2019/06/18(火) 19:24:25 ID:y0tBAQCMC
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1530935225/n#last

>>863〜マハリシの対話録の講読会、開催中であります。

956 避難民のマジレスさん :2020/06/10(水) 22:35:12 ID:LGcECsDQ0
変化の緊要

   新しい人間 1

質問者 私は改革者で、社会事業をする者です。世界にあるとてつもない不正を見て、私の一生は改革に捧げてきました。私はかつて共産主義者であったのですが、私はもはや共産主義とはやってゆけません。それは暴政に終わってしまいました。それでもなお私はやはり、人が尊厳と美しさと自由のなか生きて、自然が人に与えたと思われ、人自身はいつも仲間の人から盗んできたと思われる潜在能力を実現することができるように、社会の改革に献身しているのです。アメリカにはある種の自由がありながらも、そこでは標準規格化と宣伝広布が、とても強いのです - マスメディアすべてが、心に対してものすごい圧力を行使するのです。テレビ、(すなわち)人が発明したこの機械的なものの力は、それ自体の性格、それ自体の意志、それ自体の勢力を発達させてきたように、思われます。そして、たぶんだれも - おそらくどんな一つの集団さえも - 社会を感化するためにそれを意図的に用いていないけれども、その動向は私たちの子どものまさに魂を形作るのです。そして、民主主義国すべてにおいて、これは程度はさまざまでも同じです。中国では、人の尊厳や自由への希望は全くないように見えますし、インドでは、政府が弱く、腐敗し、非効果的なのです。世界の社会的不正すべては絶対に変化しなければならないように、私には思われます。私は情熱的にそれを何とかかしたいのですが、それでも、どれにどこから取り組みはじめるべきなのかを知らないのです。

K 改革はさらにいっそうの改革が要るし、これは終わりなき過程です。
  そこで、それを違ったように見つめましょう。改革の思考全部をわきに置きましょう。私たちの血から拭い去りましょう。世界を改革したというこの考えを完全に忘れましょう。そのとき、世界中で何が起きているのかを、実際に見ましょう。政党はいつも、制限された計画を持っています - たとえ実現されても、間違いなく危害をもたらすし、そのときもう一度訂正されなくてはならない計画です。私たちはいつも、大変重要な行為として、政治的行為について話していますが、しかし、政治的行為は道ではないのです。それを私たちの心から出してしまいましょう。社会的、経済的改革すべては、この範疇に収まるのです。そのとき、信念、理想主義、観念論、教条主義、いわゆる神の救済法への順応に基づく、宗教的な行為の定式があるのです。これには、権威と受け入れ、服従と自由の全くの拒否とが、関与しているのです。諸宗教は地上の平和について話をするkれども、彼らは分離の要因であるから、無秩序へ貢献するのです。そしてまた教会は、危機の時にいつも何か政治的立場を取ってきました。それで、教会は本当は政治的団体ですし、私たちは政治的行為すべてが分割的であることを見てきました。教会は本当に戦争を拒絶したことがないのです。反対に、教会は戦争を行ってきたのです。それで、政治的定式をわきに置くように、宗教的救済法をわきに置くとき、何が残っているのでしょうか。何をなすべきなのでしょうか。当然に、市民的秩序は維持されなければなりません。水道の蛇口には水がなくてはなりません。市民的秩序を破壊するなら、初めからもう一度出発しなくてはなりません。それで、何をなすべきなのでしょうか。

質問者 それが、私が実際にあなたに訊ねていることなのです。
(´・(ェ)・`)つ

957 避難民のマジレスさん :2020/06/10(水) 22:36:50 ID:LGcECsDQ0
くまめも30-1
質問者 私は改革者で、社会事業をする者。世界の社会的不正すべては絶対に変化しなければならないように思われる。情熱的にそれを何とかかしたいが、どれにどこから取り組みはじめるべきなのかを知らない。

K 改革はさらにいっそうの改革が要るし、これは終わりなき過程。
そこで、それを違ったように見つめる。
改革の思考全部をわきに置く。
政治的定式、宗教的救済法をわきに置くとき、何が残っているか。何をなすべきか。
当然に、市民的秩序は維持されなければならない。市民的秩序を破壊するなら、初めからもう一度出発しなくてはならない。それで、何をなすべきなのか。
(´・(ェ)・`)

958 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/11(木) 22:21:20 ID:1d4drIFg0
社会は常に変化しているが本質は変っていないのじゃ。
常に権力闘争の中にあるだけなのじゃ。
それは人を救うことは出来ないのじゃ。
個人が自らを学ぶことで永遠の安楽も得られるのじゃ。
それだけが唯一の人の救いなのじゃ。

959 避難民のマジレスさん :2020/06/12(金) 17:44:39 ID:d/ENCUjM0
変化の緊要

   新しい人間 2

K 根本的変化、全的革命に関心を持ちなさい。ただ一つの革命は、人と人との間、人間存在の間の革命です。それが私たちのただ一つの関心です。この革命には、青写真がなく、イデオロギーがなく、概念的理想郷がないのです。私たちは人々の間の現行の関係という所作を取り、それを根本的に変化させるのでなければなりません。それが本当のことなのです。そして、この革命は即時、無媒介でなければなりません。時間が掛かってはありません。それは、進展 -- すなわち時間 - をとおして達成されないのです。

質問者 それはどういう意味なのでしょうか。歴史的変化すべては、時間のなかで起きてきました。それらのどれ一つとして即時、無媒介ではありませんでした。あなたは、何か全く不可思議なことを提起されています。

K もしあなたが、変化するのに時間を掛けるのなら、変化するのに掛かる時間の間、生は留保されているとお考えでしょうか。生は留保されません。あなたが変化させようとしているものごとすべてが、境遇により、生自体により、修正され、永続化されつつあるのです。それで、それに終わりはないのです。それは、汚れた水で常に満たされつつある貯水槽の水を浄化しようとするのに、似ています。それで、時間はだめなのです。
  ここで、何がこの変化をもたらすことになるのでしょうか。それは意志や決意、選択や願望ではありえません。なぜなら、これらすべては、変化しなくてはならない事物の一部分であるからです。それで、私たちは、いつも葛藤、抗争の行為である意志と主張癖の行為でもって、現行として何か可能なのかを、訊ねなければなりません。

質問者 意志と主張癖の行為ではない行為が、あるのでしょうか。

K この疑問を訊ねるかわりに、はるかに深く入りましょう。そもそも変化しなければならないのは、現行として、ただ意志と主張癖の行為のみであることを、見ましょう。なぜなら、関係におけるただ一つの危害は、諸個人の間や諸個人のなかの葛藤ですし、葛藤が意志と主張癖であるからです。こういう行為なく生きるとは、私たちが植物のように生きるという意味ではありません。葛藤が私たちの主な関心です。あなたが触れた社会的病弊は、各人間存在の心のこの葛藤の投影です。ただ一つ可能な変化は、いつか漠然とした未来においてではなく今の、あなたの諸関係すべてにおけるあなた自身の根本的変革です。

質問者 しかし、私はどうすれば私自身のこの葛藤、この矛盾、この抵抗、この条件づけを、完全に根絶できるのでしょうか。私は、あなたの言われる意味は知的には理解できるのですが、私はそれを情熱的に感じるときにだけ変化できるのですが、私はそれを情熱的に感じません。それは私にとって単に観念です。私は心でそれが分かりません。私はこの知的理解によって行為しようとするのなら、私自身のもう一つのもっと深い部分と、葛藤におかれているのです。

K あなたが本当にこの矛盾を情熱的に分かるのなら、そのときまさにその知覚こそが革命です。あなたがあなた自身において、頭と心の間のこの分割が分かる - それを現行として分かり、理論的に構想するのではなく、それが分かるのなら、そのとき、問題は終わりになるのです。世界と変化の必要に情熱的である人は、政治的な活動、宗教的な順応と伝統から自由でなければなりません - それは、時間の重さから自由、過去の重荷から自由、意志の行為すべてから自由、という意味です。これが新しい人間です。ただこれのみが、社会的、心理的革命で、政治的革命でさえもあるのです
(´・(ェ)・`)つ

960 避難民のマジレスさん :2020/06/12(金) 18:17:32 ID:d/ENCUjM0
くまめも2
根本的変化、全的革命に関心を持て。ただ一つの革命は、人と人との間、人間存在の間の革命。
この革命には、青写真がなく、イデオロギーがなく、概念的理想郷がない。
私たちは人々の間の現行の関係という所作を取り、それを根本的に変化させるのでなければならない。
この革命は即時、無媒介でなければならない。それは、時間をとおして達成されない。
何がこの変化をもたらすことになるのか。
それは意志や決意、選択や願望ではありえない。なぜなら、これらすべては、変化しなくてはならない事物の一部分であるから。
そもそも変化しなければならないのは、現行として、ただ意志と主張癖の行為のみであることを見よう。なぜなら、関係におけるただ一つの危害は、諸個人の間や諸個人のなかの葛藤だし、葛藤が意志と主張癖であるから。
葛藤が私たちの主な関心。
社会的病弊は、各人間存在の心のこの葛藤の投影。
あなたが本当にこの葛藤、矛盾を情熱的に分かるのなら、そのときその知覚こそが革命。
あなたがあなた自身において、頭と心の間のこの分割が分かる、理論的に構想するのではなく、それが分かるのなら、そのとき、問題は終わりになる。
世界と変化の必要に情熱的である人は、政治的な活動、宗教的な順応と伝統から自由でなければならない。それは、時間の重さから自由、過去の重荷から自由、意志の行為すべてから自由、という意味。これが新しい人間。ただこれのみが、社会的、心理的革命で、政治的革命でさえもある。
(´・(ェ)・`)

961 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/13(土) 01:47:39 ID:1d4drIFg0
自分自身が変らなければ何も変らないのじゃ。
世界は自分の心で出来ているからなのじゃ。
自分が変れば世界は変るのじゃ。
それこそ真の革命なのじゃ。
個人の革命が世界の革命なのじゃ。

962 避難民のマジレスさん :2020/06/13(土) 18:35:59 ID:vgXnTAJE0
最初と最後の自由  第一部
第一章 導入 1
 互いに疎通しあうことは、たとえ私たちが互いにとてもよく知りあっているとしても、極めて難しいのです。私のとは違った意義をあなたにとって持つかもしれない言葉を、私は使うかもしれません。理解は、私たちが、あなたと私が、同時に同じ水準で出会うとき、訪れるのです。それ [理解]は、人々の間に、夫と妻の間に、親しい友だちの間に、ほんとうの愛情があるときだけ、起きるのです。それがほんとうの親しい交わりです。瞬時の理解は、私たちが同時に同じ水準で出会うとき、訪れるのです。
 互いにたやすく、効果的に、決定的な作用をもって親しく交わりあうことは、とても難しいのです。私は、単純であり専門的でない言葉を使っています。なぜなら、私は、どんな専門的な種類の表現も、私たちが自分たちの難しい問題を解決するのを助けてくれそうに思わないからです。それで私は、心理学のでも科学のでも、どんな専門的な用語も使おうとしていません。私は幸いにも、心理学についてのどんな書物も、またどんな宗教書も読んだことがありません。私は、私たちが日常の生活で使うとても単純な言葉によって、より深い意義を伝えられたらと思うのです。しかしあなたはどのように聴くべきかを知らないなら、それはとても難しいのです。
 聴くことの芸術があります。ほんとうに聴くことができるには、すべての先入観、前もっての定式化、日常の活動を、捨てるか、脇へ置くべきです。あなたが受け入れる精神状態にあるとき、ものごとはたやすく理解できるのです。あなたのほんとうの注意が何かに向けられているとき、あなたは聴いています。しかし不幸にも、私たちのほとんどは、抵抗の幕 [スクリ-ン] をとおして聴きます。私たちは、宗教的でも霊的・精神的でも、心理的でも科学的でも先入観の幕で-または私たちの日常の諸々の悩み、欲望、恐れの幕で覆い遮られています。そしてこれらを幕として、私たちは聴くのです。ゆえに私たちは、ほんとうは言われていることではなく、自分自身の騒音、自分自身の音を聴くのです。私たちの訓練、諸々の先入観、傾向、抵抗を脇へ置くこと、言葉上の表現を乗り越えて、私たちが瞬時に理解するように聴くことは、極めて難しいのです。それが私たちの困難の一つになろうとしています。
 この会話の間、何かあなたの考え方と信念に反することが言われるとしても、ただ聴いてください。抵抗しないでください。あなたが正しいかもしれません。私が間違っているかもしれません。しかし一緒に聴くことと考えることによって、私たちは何が真理であるのかを、見出そうとしているのです。真理は、誰かによってあなたに与えられえません。あなたがそれを発見しなければなりません。そして発見するには、直接の知覚のある精神の状態がなくてはなりません。抵抗、安全装置、保護があるとき、直接の知覚はありません。理解は、有るものに気づくことをとおして訪れます。有るもの、真実、現実を、解釈せず、非難も正当化もせずに正しく知ることが、確かに英知の始まりです。私たちが真理を見失うのは、私たちが自分たちの条件づけに応じ、自分たちの先入観に応じて解釈し、翻訳しはじめるときだけです。結局、それは研究・調査に似ています。何か或るものが何であるか、それがまさに何であるかを知るには、調査が必要です-あなたはそれを自分の気分に応じて翻訳できません。同様に、私たちが有るものを正しく見、観察し、聴き、気づけるなら、そのとき問題は解決されます。そしてそれが、私たちがこれらすべての会話で、やろうとしていることです。私は有るものをあなたに指摘しようとしています-私の夢想に応じてそれを翻訳しようとするのではありません。あなたもまた自分の背景や訓練に応じて、それを翻訳したり解釈したりすべきではありません。
(´・(ェ)・`)つ

963 避難民のマジレスさん :2020/06/13(土) 18:46:35 ID:vgXnTAJE0
くまめも1-1-1

 互いに疎通しあうことは、極めて難しい。
瞬時の理解は、私たちが同時に同じ水準で出会うとき、訪れる。
 ほんとうに聴くことができるためには、すべての先入観、前もっての定式化、日常の活動を、捨てるか、脇へ置くべき。
 あなたが受け入れる精神状態にあるとき、ものごとはたやすく理解できる。
 しかし私たちは、抵抗の幕 [スクリ-ン] をとおして聴く。私たちは、先入観の幕で-または私たちの日常の諸々の悩み、欲望、恐れの幕で覆い遮られている。そしてこれらを幕として、私たちは聴く。ゆえに私たちは、言われていることではなく、自分自身の騒音、自分自身の音を聴く。
 私たちは何が真理であるのかを、見出そうとしている。真理は、誰かによってあなたに与えられえない。あなたがそれを発見するには、直接の知覚のある精神の状態が必要。
 抵抗、安全装置、保護があるとき、直接の知覚はない。
 理解は、有るものに気づくことをとおして訪れる。有るもの、真実、現実を、解釈せず、非難も正当化もせずに正しく知ることが、確かに英知の始まり。私たちが真理を見失うのは、私たちが自分たちの条件づけに応じ、自分たちの先入観に応じて解釈し、翻訳しはじめるときだけ。
 私たちが有るものを正しく見、観察し、聴き、気づけるなら、そのとき問題は解決される。私は有るものをあなたに指摘しようとしている。私の夢想に応じてそれを翻訳しようとするのではない。あなたもまた自分の背景や訓練に応じて、それを翻訳したり解釈したりすべきではない。
(´・(ェ)・`)

964 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/13(土) 22:11:45 ID:1d4drIFg0
同じ言語を使うもの同士でも個人の経験で同じ言葉に別の意味を持ってしまっていたりするものじゃ。
そうであるから意志の疎通は難しいのじゃ。
意味の違いで誤解したまま疎通したと思ってたりもするのじゃ。
誰もが自分の創った世界から抜け出せずに声を発しているだけなのじゃ。

965 避難民のマジレスさん :2020/06/14(日) 01:15:25 ID:tVL255ok0
Kは、数学、科学、技術的な世界の話は別と、解してるようであります。
Kは、物事の見方、考え方に付き、言葉を尽くして、語ろうとしているようであります。
見方、考え方、しかも、記憶を排した、捉え方でありますから、超難しいであります。
記憶によらずにとは、言っても、技術的な知識、記憶は別でありますから、要は、ありのままを捉える方法を説いてるのでありましょうか?
無分別の教えとは、ちょびっと違うようで、ありながら、実は、無分別の捉え方の具体的な実践法の様な気もするであります。
アートマンが、無我に至るための、具体的な実践法であるのと同じような、気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ

966 避難民のマジレスさん :2020/06/14(日) 18:45:39 ID:6WGU8YJM0
最初と最後の自由  第一部
第一章 導入 2

 それでは、あらゆるものごとにあるがままに気づくことは、可能ではないのでしょうか。そこから始めると、確かに、理解がありえます。有るものを認めること、気づくこと、発見することが、格闘を終わりにします。私は、自分が嘘つきであることを知り、それが自分の認識する事実であるなら、そのとき、格闘は済んでいます。自らが何であるかを認めること、気づくことが、すでに英知の始まり、理解の始まりです-それが、あなたを時間から解放するのです。時間-年代的な意味ではなく、媒介として、心理的な過程、精神の過程としての時間-の性質をもたらすことは、破壊的ですし、混乱を造り出します。
 それで、私たちは有るものを、非難せず、正当化せず、同一化せずに認識するとき、それについての理解を持てるのです。人が一定の条件に、一定の状態にあることを知ることが、すでに解放の過程です。しかし、自分の条件、自分の格闘に気づいていない人は、何か自分以外のものになろうとします-それが習慣を生じさせます。ですから、そのとき、私たちは有るものを検討したい、何が現実であるのかを、どんな偏向も加えず、どんな解釈もつけずに、正しく観察し、気づきたいということを、心に留めておきましょう。有るものに気づくこと、付いていくことは、とてつもなく機敏な精神、とてつもなく柔軟な心を必要とします。なぜなら、有るものは常に動いていて、常に変化を受けているからです。そして精神は、信念に、知識に繋がれているなら、それを追求するのを止めます。有るもののすばやい動きに付いていくのを止めます。有るものは、確かに静止していません-それは、あなたがとてもきっちりと観察するならわかるように、常に動いています。それに付いていくには、あなたはとてもすばやい精神と柔軟な心を必要とします-それは、精神が静止して、信念に、先入観に、同一化に固定されているとき、否定されます。そして干からびた精神と心は、有るものにたやすく、すばやく付いていけません。
 人は、あまり多くの議論、あまり多くの言葉で表現しなくても、集団的とともに個人的な混沌、混乱、悲惨があるということに気づいていると、私は思います。それはインドにおいてだけでなく、まさに世界中至るところにあるのです。-中国、アメリカ、イギリス、ドイツ、世界中に、混乱、次第に高まっていく悲しみがあります。それは国家的・民族的なだけではありません。それは特にここというわけではありません。それは世界中なのです。とてつもなく激しい苦しみがありますし、それは個人的なだけではなく集団的です。ですから、それは世界の大惨事です。それをたんに地理的な地域に、地図の色づけされた区域にだけ制限することは、不合理です。なぜなら、そのとき私たちは、個人的とともに世界的規模のこの苦しみの充分な意義を、理解しないであろうからです。この混乱に気づくと、今日、私たちの応答は何でしょうか。私たちはどのように反応するのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

967 避難民のマジレスさん :2020/06/14(日) 19:00:34 ID:6WGU8YJM0
くまめも1-1-2

 あらゆるものごとにあるがままに気づくことは、可能か。有るものを認めること、気づくこと、発見することが、格闘を終わりにする。
自らが何であるかを認めること、気づくことが、すでに英知の始まり、理解の始まり。それが、あなたを時間から解放する。時間-年代的な意味ではなく、媒介として、心理的な過程、精神の過程としての時間-の性質をもたらすことは、破壊的だし、混乱を造り出す。
 それで、私たちは有るものを、非難せず、正当化せず、同一化せずに認識するとき、それについての理解を持てる。人が一定の条件に、一定の状態にあることを知ることが、すでに解放の過程。しかし、自分の条件、自分の格闘に気づいていない人は、何か自分以外のものになろうとする。それが習慣を生じさせる。だから、そのとき、私たちは有るものを検討したい、何が現実であるのかを、どんな偏向も加えず、どんな解釈もつけずに、正しく観察し、気づきたいということを、心に留めておく。有るものに気づくこと、付いていくことは、機敏な精神、柔軟な心を必要とする。なぜなら、有るものは常に動いていて、常に変化を受けているから。そして精神は、信念に、知識に繋がれているなら、それを追求するのを止める。有るもののすばやい動きに付いていくのを止める。それは、精神が静止して、信念に、先入観に、同一化に固定されているとき、否定される。そして干からびた精神と心は、有るものにたやすく、すばやく付いていけない。
 人は、集団的とともに個人的な混沌、混乱、悲惨があるということに気づいている。それは世界中至るところにある。この混乱に気づくと、今日、私たちの応答は何か。私たちはどのように反応するのか。
(´・(ェ)・`)

968 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/14(日) 22:50:52 ID:1d4drIFg0
>>965 そうじゃ、真理を発見するには直接の知覚のある精神状態でなければならなんというのじゃ。
 それこそ記憶や言葉から離れたありのままを捉える観察なのじゃ。
 瞑想をしていない者には難しいことではあるがのう。

969 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/14(日) 22:57:32 ID:1d4drIFg0
正しく観察し、気付くためにはとてつもなく機敏な精神、とてつもなく柔軟な心が必要だとクリシュナムルティも説いているのじゃ。
それは瞑想に拠って培われるものじゃ。
しかし、習慣的な瞑想では逆に心は鈍重になり、硬直してしまうというのじゃ。
それが難しいのじゃ。
瞑想にすら囚われずに観察しなければならないのじゃ。

970 避難民のマジレスさん :2020/06/15(月) 20:00:55 ID:YNKg7Ogo0
最初と最後の自由  第一部
第一章 導入 3

 政治的、社会的、宗教的な苦しみがあります。私たちの心理的存在全体が混乱しています。そして政治的、宗教的な指導者たちすべては、私たちを失望させてきました。書物すべてはそれらの意義を失ってしまいました。あなたは、バガバッド・ギ-タ-や聖書や、政治や心理学についての最近の論文に向かうかもしれません。そしてあなたは、それらが真理のあの響きを、あの性質を失ってしまっていることを、見つけるでしょう。それらはたんなる言葉にすぎなくなってしまいました。あなた自身は、それらの言葉の反復者ですが、混乱し、不確実ですし、言葉のたんなる反復は、何も伝えません。ゆえに、言葉と書物はそれらの価値を失ってしまいました。すなわち、あなたが聖書とかマルクスとかバガバッド・ギ-タ-を引用するなら、それを引用するあなたは、自分自身が不確実で混乱しているので、あなたの反復は嘘になるのです。なぜなら、そこに書かれていることは、たんなる宣伝にすぎなくなるし、宣伝は真理ではないからです。それで、あなたは反復するとき、自分自身の存在の状態を理解するのを止めたのです。あなたはたんに自分自身の混乱を、権威の言葉でもって覆い隠しているだけです。しかし私たちがやろうとしていることは、この混乱を引用でもって覆い隠してしまうのではなく、それを理解することです。それで、それに対するあなたの応答は何でしょうか。あなたは、このとてつもない混沌、この混乱、この存在の不確実性に対して、どのように応答するのでしょうか。私がそれを議論するにつれて、それに気づいてください。私の言葉にではなく、あなたにおいて活動している思考に、付いていってください。私たちのほとんどは、ゲ-ムに参加することにではなく、観客であることに慣れています。私たちは書物を読みますが、決して書物を書きません。観客であること、フットボ-ルゲ-ムを見物すること、著名な政治家と演説家を見つめることは、私たちの伝統、私たちの国民的、普遍的な習慣になってしまいました。私たちは、たんに見物している部外者にすぎません。そして創造的能力を失ってしまいました。ゆえに私たちは吸収し、参加したいのです。
 しかし、あなたはたんに観察しているだけなら、たんに観客にすぎないなら、この会話の意義を全く失うでしょう。なぜなら、これは、あなたが習慣の力から聴くべきである講義ではないからです。私はあなたに、百科事典で拾い上げられる情報を与えようとしていません。私たちがやろうとしていることは、互いの思考に付いていくこと、できるかぎり遠く、できるかぎり深く、私たち自身の感情の暗示、応答を追求すること、です。それでどうか、この原因に対する、この苦しみに対するあなたの応答が何であるかを、見出してください-他の誰かの言葉が何であるのかではなく、あなた自身がどのように応答するのかを。あなたは苦しみにより、混沌により利益を得るなら、経済的、社会的、政治的、心理的、いずれかの利益を、それから引き出すなら、あなたの応答は無関心のものです。ゆえにあなたは、この混沌が継続するとしても、気にしません。確かに、世界に困難があればあるほど、混沌があるほど、人は安全を求めます。あなたはそれに気づいたことはないでしょうか。心理的に、そしてあらゆる点で、世界に混乱があるとき、あなたは、何らかの種類の安全-銀行預金のかイデオロギ-のか、いずれかの安全に、自分自身を囲い込みます。そうでないと、あなたは祈りに向かいます。寺院に行きます-それはほんとうは、世界で起きていることから逃避することです。世界中で、ますます多くの党派が作られています。ますます多くの「主義」が発生しています。なぜなら、混乱があればあるほど、あなたは、指導者を、誰かこの混乱からあなたを導き出してくれる者を、欲しいと思うからです。それであなたは宗教書に、または最近の教師たちの一人に向かうのです。そうでないと、あなたは、問題を解決するように見える体系、左翼や右翼いずれかの体系に応じて行為し、応答します。それが、まさに起きていることです。
(´・(ェ)・`)つ

971 避難民のマジレスさん :2020/06/15(月) 20:02:06 ID:YNKg7Ogo0
くまめも1-1-3

政治的、社会的、宗教的な苦しみがある。
私たちの心理的存在全体が混乱している。
私たちがやろうとしていることは、この混乱を理解すること。
あなたは、この混沌、この混乱、この存在の不確実性に対して、どのように応答するのか。
あなたの応答が何であるかを、見出してください-他の誰かの言葉が何であるのかではなく、あなた自身がどのように応答するのかを。あなたは苦しみにより、混沌により経済的、社会的、政治的、心理的、いずれかの利益を、それから引き出すなら、あなたの応答は無関心のもの。ゆえにあなたは、この混沌が継続するとしても、気にしない。
確かに、世界に困難、混沌があるほど、人は安全を求める。あなたは、何らかの種類の安全-銀行預金、イデオロギ-、いずれかの安全に、自分自身を囲い込む。そうでないと、あなたは祈りに向かう。それはほんとうは、世界で起きていることから逃避すること。
(´・(ェ)・`)

972 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/15(月) 22:42:11 ID:1d4drIFg0
伝統の教えも言葉になり、長く伝わると意味も失われ、ただの同じ言葉の繰り返しになったりするものじゃ。
聖典の言葉を記憶して何年も唱えればよいとか思ってしまうのじゃ。
更には死人に向かって唱えたりするのは言語道断なのじゃ。
全ての聖典は生きている者のためにあるのであるからのう。
聖典は生きている者に自らの心を追求することを実践せよと教えているのじゃ。

973 避難民のマジレスさん :2020/06/16(火) 19:48:43 ID:2WdNfqJs0
最初と最後の自由  第一部
第一章 導入 4

 あなたは、混乱に、まさに有るものに気づいた瞬間、それから逃避しようとします。経済的、社会的、宗教的な苦しみの解決のための体系をあなたに提供するそれらの党派は、最悪です。なぜなら、そのとき、人ではなく体系が重要になるからです-それが宗教的体系でも、左翼や右翼の体系でも。人ではなく体系が重要になります。哲学、観念が重要になります。そして観念、イデオロギ-のために、あなたは進んで全人類を犠牲にしようとします-それがまさに世界で起きていることです。これはたんに私の解釈だけではありません。あなたは観察するなら、それがまさに起きていることであることを見つけるでしょう。体系が重要になってしまったのです。ゆえに、体系が重要になったので、人は、あなたと私は、意義を失うのです。そして宗教的でも社会的でも、左翼のでも右翼のでも-体系の制御者が権威を身につけ、力を身につけて、ゆえにあなたを、個人を犠牲にするのです。それがまさに起きていることです。
 では、この混乱、この悲惨の原因は何でしょうか。内側にだけでな外側にも、この悲惨、この苦しみ、戦争の-勃発しようとしている第三次世界大戦の-この恐れと予感は、どうして生じたのでしょうか。その原因は何でしょうか。確かにそれは、すべての道徳的、霊的・精神的価値の崩壊と、すべての感覚的価値、手や精神により作られたものごとの価値の讃美を表示しています。私たちが感覚のものごとの価値、精神や手や機械の産物の価値以外の他の価値を持たないとき、何が起きるでしょうか。私たちがものごとの感覚的価値に意義を与えれば与えるほど、混乱が大きくなるのではないでしょうか。またもや、これは私の理論ではありません。あなたは、あなたの価値、あなたの富、あなたの経済的、社会的存在が、手により、または精神により作られたものごとに基づいているということを見出すのに、書物を引用しなくてもいいのです。それで私たちは、感覚的価値において生き、作用し、自分たちの存在をどっぷり浸しているのです-それは、ものごとが、精神のものごと、手と機械のものごとが重要になった、という意味です。そしてものごとが重要になるとき、信念が優越的に意義深くなるのです-それがまさに世界で起きていること、ではないでしょうか。
 こうして、感覚の価値にますます多くの意義を与えることが、混乱をもたらすのです。そして混乱 [の状態] にあると、私たちは、宗教的、経済的でも社会的でも様々な形をとおし、また野心をとおし、力をとおし、真実への探求をとおして、それから逃避しようとします。しかし真実は近いのです。あなたはそれを求めなくてもいいのです。そして真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。真理は有るものにあります-そしてそれが、その美しさです。しかしあなたは、それを考え出した瞬間、それを求めた瞬間、格闘しはじめます。そして格闘する人は、理解できません。そういうわけで、私たちは静止して、観察して、受動的に気づいていなければならないのです。私たちは、自分たちの生活、自分たちの行動が、いつも破壊の領域の中に、悲しみの領域の中にあるということが、わかります。波のように、混乱と混沌がいつも私たちに襲いかかります。生存の混乱には、間隔がないのです。
 現在、私たちが何をしても、混沌につながるように見えます。悲しみと不幸せにつながるように見えます。あなた自身の生を見つめてください。するとあなたは、自分たちの生活がいつも悲しみのきわにあるということが、わかるでしょう。私たちの仕事、私たちの社会的活動、私たちの政治、戦争を阻止するための国々の様々な集まり、すべてがさらなる戦争を生み出します。破壊が、生活のすぐあとに付いてきます。私たちが何をしても、死につながります。それが、現実に起きていることです。
(´・(ェ)・`)つ

974 避難民のマジレスさん :2020/06/16(火) 20:05:56 ID:2WdNfqJs0
くまめも1-1-4

あなたが、混乱から逃避しようとするとき、苦しみの解決のための体系をあなたに提供する党派は、最悪。なぜなら、そのとき、人ではなく体系が重要になるから。
体系の制御者が権威、力を身につけて、ゆえにあなたを、個人を犠牲にする。
この混乱、悲惨の原因は何か。それは、すべての道徳的、霊的・精神的価値の崩壊と、すべての感覚的価値、手や精神により作られたものごとの価値の讃美を表示している。私たちがものごとの感覚的価値に意義を与えるほど、混乱が大きくなる。
私たちは、感覚的価値において生き、作用し、自分たちの存在をどっぷり浸している。-それは、精神のものごと、手と機械のものごとが重要になった、という意味。
そしてものごとが重要になるとき、信念が優越的に意義深くなる。
混乱 の状態にあると、私たちは、宗教的、経済的でも社会的でも様々な形をとおし、また野心をとおし、力をとおし、真実への探求をとおして、それから逃避しようとする。
しかし真実は近い。真理を求める人は、決してそれを見つけない。真理は有るものにある。それが、その美しさ。しかしあなたは、それを考え出した瞬間、それを求めた瞬間、格闘しはじめる。そして格闘する人は、理解できない。私たちは静止して、観察して、受動的に気づいていなければならない。自分たちの生活、行動が、いつも破壊、悲しみの領域の中にあるということが、わかる。
現在、私たちが何をしても、混沌に、悲しみと不幸せにつながるように見える。私たちが何をしても、死につながる。それが世界中で起きていること。
(´・(ェ)・`)

975 避難民のマジレスさん :2020/06/16(火) 20:06:53 ID:2WdNfqJs0

うむ。 
真理は、こねくりまわされた観念な中には無い。
ありのままの中から、直接受け取るしかない。と、言うようなことでありますかね。
(´・(ェ)・`)b

976 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/16(火) 22:31:35 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
混乱から逃避するために観念の体系が作られ、それがますます混乱を招くのじゃ。
その積み重ねが観念からの離脱を困難にしているのじゃ。
心を静止して、観察して受動的に気付いているとそれに気づくというのじゃ。
そして観念からの厭離も起こるのじゃ。

977 避難民のマジレスさん :2020/06/17(水) 00:33:40 ID:2l4.MmVk0
最初と最後の自由  第一部
第一章 導入 5

 私たちは、混乱と悲しみの波にいつも捕らわれつづけるのではなく、この悲惨をすぐに止められるでしょうか。すなわち、ブッダでもキリストでも、偉大な教師たちがやって来ました。彼らは信仰を受け入れて、彼ら自身を、おそらくは混乱と悲しみから自由にしてきました。しかし彼らは決して悲しみを防ぎませんでした。彼らは決して混乱を止めませんでした。混乱は続きます。悲しみは続きます。あなたは、この社会的、経済的混乱、この混沌、この悲惨を見て、宗教生活と呼ばれるものに引きこもって、世間を捨てるなら、これら偉大な教師たちに加わっていると、感じるかもしれません。しかし世間は、その混沌、その悲惨と破壊、その富める者と貧しい者の永遠の苦しみを続けるのです。それで私たちの問題、あなたのと私の [問題] は、私たちがこの悲惨から瞬時に踏み出せるかどうか、です。世間で生きながら、あなたはその一部であることを拒絶するなら、他の人たちをこの混沌から助け出すでしょう-未来にではなく、明日ではなく、今です。確かにそれが私たちの問題です。戦争が、たぶんもっと破壊的で、もっとおぞましい姿で近づいています。確かに、私たちはそれを防げません。なぜなら、問題点があまりに強すぎ、近迫しすぎているからです。しかし、あなたと私は、即時に混乱と悲惨を知覚できるのではないでしょうか。私たちはそれらを知覚しなければなりません。そのとき他の一人に、真理についての同じ理解を目覚めさせる位置にいるでしょう。言い換えれば、あなたは瞬時に自由になれるでしょうか-なぜなら、それが、この悲惨から抜け出す唯一の道であるからです。知覚は、現在においてだけ、起こりうるのです。しかし、あなたは「私は明日それをやろう」と言うなら、混乱の波があなたに襲いかかるし、そのときいつも混乱に巻き込まれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

978 避難民のマジレスさん :2020/06/17(水) 00:36:17 ID:2l4.MmVk0
くまめも1-1-5

 私たちは、混乱と悲しみの波にいつも捕らわれつづけるのではなく、この悲惨をすぐに止められるか。
ブッダやキリストは信仰を受け入れて、彼ら自身を、おそらくは混乱と悲しみから自由にした。
しかし彼らは決して悲しみを防がず、混乱を止めなかった。
私たちの問題は、私たちがこの悲惨から瞬時に踏み出せるかどうか。
世間で生きながら、あなたはその一部であることを拒絶するなら、他の人たちをこの混沌から助け出す。未来にではなく、今。
あなたと私は、即時に混乱と悲惨を知覚できる。そのとき他の一人に、真理についての同じ理解を目覚めさせる位置にいる。言い換えれば、あなたは瞬時に自由になれるか-なぜなら、それが、この悲惨から抜け出す唯一の道であるから。
知覚は、現在においてだけ、起こりうる。しかし、あなたは「私は明日それをやろう」と言うなら、混乱の波があなたに襲いかかるし、そのときいつも混乱に巻き込まれる。
(´・(ェ)・`)

979 避難民のマジレスさん :2020/06/17(水) 00:38:45 ID:2l4.MmVk0
Kは、釈迦の信仰とは、梵我一如のことと、理解していたのでありますかね。
その上で、その実践法を説こうとチャレンジしてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)

980 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/17(水) 22:55:23 ID:1d4drIFg0
↑知っていたじゃろう。
真の実践法を教えたいと思っていたのじゃ。
理解することも困難であるがのう。
瞬時に自由になれるというのじゃ。
自己に気付くことが出来ればそれは瞬時に起こるのじゃ。
明日に引き伸ばすことはできないのじゃ。
今ここでのみ知覚は働くのであるからのう。

981 避難民のマジレスさん :2020/06/17(水) 23:31:18 ID:4uL.bxCk0
最初と最後の自由  第一部
第一章 導入 6

 そこで、あなた自身が真理を瞬時に知覚し、ゆえに混乱を終わりにするときのその状態に至ることは、可能でしょうか。それは可能ですし、それが唯一の可能な道であると、私は言います。それは仮定や信念に基づいてではなく、できるし、やらなければならないと、私は言います。このとてつもない革命をもたらすこと-それは、資本家を取り除いて、もう一つの集団を据えるという革命ではありません-このすばらしい変容、すなわち唯一の真の革命をもたらすことが、問題なのです。一般に革命と呼ばれるものは、たんに左翼の観念に応じた右翼の修正か継続です。左翼は結局、修正された形での右翼の継続です。右翼が感覚的価値に基づいているなら、左翼は、程度や表現においてだけ異なった同じ感覚的価値の継続でしかありません。ゆえに真の革命は、あなたが、個人が、他の一人との関係において気づくときだけ、起こりうるのです。確かに、他の一人と [の関係] 、あなたの妻と、子どもと、上司と、隣人との関係において、あなたが何であるかが、社会です。社会は、それ自体では存在しません。社会は、あなたと私が、私たちの関係において造り出したものです。それは、私たち自身の内側の心理的状態すべての外側の投影です。それで、あなたと私が自分たち自身を理解せずに、たんに外部、すなわち内部の投影であるものを変化させるだけなら、何の意義も持たないのです。すなわち私があなたとの関係において私自身を理解しないかぎり、社会における意義ある変更や修正はありえないのです。自分の関係において混乱していると、私は、あるがままの自分の複製、外側の表現である社会を造り出します。これは明白な事実です。それを私たちは議論できます。社会、外側の表現が私を生み出したのか、それとも私が社会を生みだしたのかどうかを、私たちは議論できます。
 ゆえに、他の一人との関係におけるあるがままの私が社会を造り出すということ、そして私自身を根本的に変容させることなしに、社会の本質的作用の変化はありえないということは、明白な事実ではないでしょうか。私たちは、社会の変容のために体制・体系に頼るとき、たんに問題を回避しているだけです。なぜなら、体制・体系は、人を変容させられないからです。人がいつも体制・体系を変容させるのです。それは歴史が示しています。私があなたとの関係において、私自身を理解するまでは、私が混沌、悲惨、破壊、恐れ、残忍性の原因です。私自身を理解することは、時間の事柄ではありません。私は私自身を、まさにこの瞬間に理解できるのです。私は、「私は私自身を明日、理解するだろう」と言うなら、混沌と悲惨をもたらしています。私の行動は破壊的です。私は理解する「だろう」と言った瞬間、時間の要素をもたらし、そのためすでに混乱と破壊の波に捕らわれているのです。理解は、明日ではなく、今です。明日は、怠けた精神、ものぐさな精神、興味のない精神のためにあるのです。あなたは何かに興味があるとき、それを瞬時にやります。即時の理解、即時の変容があります。あなたは今変わらないなら、決して変わらないでしょう。なぜなら、明日起きる変化は、たんに修正にすぎないからです。それは変容ではありません。変容は即時に起こりうるだけです。革命は明日ではなく、今です。
 それが起きるとき、あなたは完全に問題なしです。というのは、そのとき自己はそれ自身について悩んでいないからです。そのとき、あなたは破壊の波を越えています。
(´・(ェ)・`)つ

982 避難民のマジレスさん :2020/06/17(水) 23:41:01 ID:4uL.bxCk0
くまめも1-1-6
あなた自身が真理を瞬時に知覚し、ゆえに混乱を終わりにすることは、可能だし、それが唯一の可能な道。
真の革命は、個人が、他の一人との関係において気づくときだけ、起こりうる。
社会は、それ自体では存在しない。社会は、あなたと私が、私たちの関係において造り出したもの。それは、私たち自身の内側の心理的状態すべての外側の投影。それで、あなたと私が自分たち自身を理解せずに、たんに外部、すなわち内部の投影であるものを変化させるだけなら、何の意義も持たない。すなわち私があなたとの関係において私自身を理解しないかぎり、社会における意義ある変更や修正はありえない。自分の関係において混乱していると、私は、あるがままの自分の複製、外側の表現である社会を造りだす。
私たちは、社会の変容のために体制・体系に頼るとき、たんに問題を回避しているだけ。なぜなら、体制・体系は、人を変容させられないから。私があなたとの関係において、私自身を理解するまでは、私が混沌、悲惨、破壊、恐れ、残忍性の原因。
私自身を理解することは、時間の事柄ではない。私は私自身を、まさにこの瞬間に理解できる。私は、「私は私自身を明日、理解するだろう」と言うなら、混沌と悲惨、混乱と破壊をもたらしている。理解は、明日ではなく、今。あなたは何かに興味があるとき、それを瞬時にやる。即時の理解、即時の変容がある。あなたは今変わらないなら、決して変わらない。なぜなら、明日起きる変化は、たんに修正にすぎないから。それは変容ではない。変容は即時に起こりうるだけ。
それが起きるとき、あなたは完全に問題なし。というのは、そのとき自己はそれ自身について悩んでいないから。そのとき、あなたは破壊の波を越えている。
(´・(ェ)・`)

983 避難民のマジレスさん :2020/06/17(水) 23:45:36 ID:4uL.bxCk0
うむ。社会は、実際には無い。
即時に他との関係に於いて自分を理解すれば、一切の苦は、消え去る。
明日から、どのように理解すれば良いかの、お話しが、始まるのでありましょう。楽しみであります。
(´・(ェ)・`)b
(´・(ェ)・`)

984 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/18(木) 22:16:19 ID:1d4drIFg0
左翼や右翼の革命とやらも所詮は同じ権力争いのためのイデオロギーなのじゃ。
それは何も変えることは出来ないのじゃ。
人を真に変えることができるのは、今ここでしかないのじゃ。
今ここで自分自身を理解することで全ての問題も消えるのじゃ。

985 避難民のマジレスさん :2020/06/18(木) 23:28:45 ID:KCqMKKeM0
最初と最後の自由  第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 1

 私たちのほとんどが求めているのは何でしょうか。私たち各自が欲しいのは何でしょうか。特に、この落ち着きのない世界では、あらゆる人が、何らかの種類の平和、何らかの種類の幸せ、避難所を見つけようとしていますが、確かに、見出すことが重要ではないでしょうか-私たちが求めようとしているのは何なのか、私たちが発見しようとしているのは何なのかを。たぶん、私たちのほとんどは、何らかの種類の幸せ、何らかの種類の平和を求めているのです。騒乱、戦争、競争、闘争で苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しいのです。それが、私たちのほとんどが欲しいものであると、私は思います。それで私たちは追求し、一人の指導者からもう一人へ、一つの宗教組織からもう一つへ、一人の教師からもう一人へと向かうのです。
 そこで、私たちが求めているのは幸せでしょうか、それとも私たちが求めているのは、そこから私たちが幸せを引き出したいと願うところの何らかの種類の満足なのでしょうか。幸せと満足との間には違いがあります。あなたは幸せを求められるでしょうか。おそらく、満足は見つけられますが、確かに幸せは見つけられません。幸せは派生的です。それは、何か他のものの副産物です。それで、私たちは、何か多大のまじめさ、注意、思考、気づかいを要求するものに、私たちの精神と心を注ぐ前に、見出さなければならないのではないでしょうか-私たちが求めているのは何なのか、それは幸せなのか、満足なのかどうかを。残念ながら、私たちのほとんどは満足を求めていると、私は思います。私たちは満足したいのです。私たちは探求の終わりに充足感を見つけたいのです。
 結局、平和を求めているなら、それはとてもたやすく見つけられます。何らかの種類の大義に、 [一つの] 観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難できます。確かにそれは問題を解決しません。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではありません。それで、私たちは見出さなければならないのではないでしょうか-外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、どんな教師にも、どんな教会にも、どんな組織にも行かなくていいのです。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること、ではないでしょうか。私たちは明確になれるでしょうか。そしてその明確さは、探求をとおし、他の人たち-最高の教師から街角を曲がった教会のふつうの説教師に至るまで-の言うことを見出そうとすることをとおして訪れるでしょうか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないでしょうか。けれどもそれが、私たちのしていることではないでしょうか。私たちは無数の書物を読みます。私たちは多くの会合に出席して議論します。私たちは様々な組織に加わります-それにより、私たちの生の葛藤・抗争の、悲惨さの治療を見つけようとしています。または、私たちはそのすべてをしないとしても、見つけたと思うのです-すなわち私たちは、特定の組織、特定の教師、特定の書物が、私たちを満足させてくれると言うのです。私たちはそのなかに、あらゆる欲しいものを見つけたのです。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられるのです。
私たちは、このすべての混乱をとおして、何か永久的なもの、何か永続するもの、何か真実、神、真理と呼ばれるものを、求めていないでしょうか-何でも好きなものです。名前は大事ではありません。言葉は実体ではありません。確かです。それで、言葉に捕らわれないようにしましょう。それは専門の講師に任せておきましょう。私たちのほとんどには、何か永久的なものへの探求があるのではないでしょうか-何か私たちがすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるからです。私たちは自分たち自身を知らないのです。私たちは、事実について、書物が言ってきたことについて、たくさん知っています。しかし私たちは自分たち自身では知らないのです。私たちは直接の経験を持っていないのです。
(´・(ェ)・`)つ

986 避難民のマジレスさん :2020/06/18(木) 23:58:49 ID:KCqMKKeM0
くまめも1-2-1

苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しい。
私たちは探求の終わりに充足感を見つけたい。
結局、平和を求めて、何らかの種類の大義に、 一つの観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難することは、問題を解決しない。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではない。
それで、私たちは外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを見出さなければならない。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、行かなくていい。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること。その明確さは、探求をとおし、他の人たちの言うことを見出そうとすることをとおして訪れるか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないのか。
私たちは、特定の組織、教師、書物が、私たちを満足させてくれると言う。そのなかに、あらゆる欲しいものを見つけた。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられる。
このすべての混乱をとおして、何か永久的なものへの、何かすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの探求がある。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるから。私たちは自分たち自身を知らない。私たちは直接の経験を持っていない。
(´・(ェ)・`)

987 避難民のマジレスさん :2020/06/19(金) 00:01:54 ID:KCqMKKeM0
苦からの避難所はない。 
自分の外側にはない。 
自分を知るしかない。
(´・(ェ)・`)b

988 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/19(金) 23:01:44 ID:1d4drIFg0
社会的な組織や団体は闘争と混乱しかもたらさないのじゃ。
孤独と不安から人々はそれらにしがみつき、ますます混乱して行くのじゃ。
そのような組織や団体には真の自己を知る道は無いのじゃ。
組織よりも書物にある言葉よりも今ここにある自分を知ることだけが真の幸福への道なのじゃ。

989 避難民のマジレスさん :2020/06/20(土) 10:48:15 ID:a5QLuWbE0
最初と最後の自由  第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 2

 そして永久的と呼ばれるのは何でしょうか。私たちが求めているもの、すなわち私たちに永久性を与えてくれるだろう、または与えてくれるだろうと願うものは、何でしょうか。私たちは、永続する幸せ、永続する満足、永続する確実性を求めていないでしょうか。私たちは、何か永遠に続くであろうもの、私たちを満足させてくれそうなものが、欲しいのです。私たちは、言葉と文句すべてを剥ぎ取って、現実にそれを見つめるなら、これが、私たちの欲しいものなのです。私たちは永久の楽しみ、永久の満足が欲しいのです-すなわち神、真理と呼ばれるもの、何であれ、です。
 たいへん結構です。私たちは楽しみが欲しいのです。おそらく、それ [その言い方] は、それ [私たちの実状] をとても粗雑に述べているかもしれません。しかしそれが、現実に私たちの欲しいものです-私たちに楽しみを与えてくれそうな経験、明日によって萎んでしまわない満足、です。そして私たちは色々な満足を実験してきました。そしてそれらはすべて消えてしまいました。そして私たちは今や、真実に、神に、永久の満足を見つけたいと願うのです。確かにそれが、私たちが皆求めているものです-利口な者と愚かな者も、理論家と何かを求めて奮闘している実際家も、です。そして永久の満足はあるのでしょうか。何か永続するようなものがあるのでしょうか。
 そこで、あなたは、永久の満足を求めて、それを神または真理または何であれ、 [そう] 呼ぶなら-名前は大事ではありません-確かに、あなたは理解しなければならないのではないでしょうか-あなたが求めているものを、です。あなたは、「私は永久の幸せ-神または真理または何でも好きなもの-を求めている」と言うなら、また探求している者、探求者、求める者をも理解しなければならないのではないでしょうか。なぜなら、永久の安全、永久の幸せといったものは、ないかもしれないからです。真理は、何か全く違ったものであるかもしれません。それは、あなたが見、考え、定式化できるものとは全く違っていると、私は思います。ゆえに、私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、明白に必要ではないでしょうか。求める者は、彼が求めるものとは違っているのでしょうか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのでしょうか。思考者は、彼の思考とは違っているのでしょうか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないでしょうか。ゆえに、それが本質的 [・不可欠] ではないでしょうか-彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、あなたが見出そうとする前に、求める者を理解することが、です。
 それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、ほんとうにまじめに奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければなりません。この絶えざる探求、この憧れが、あのとてつもない真実の感覚、あの創造的存在を-すなわち私たちがほんとうに自分たち自身を理解するとき訪れるものを、私たちに与えられるでしょうか。自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくことをとおし、何か特定の組織に属することをとおし、書物を読むことなどをとおして、訪れるでしょうか。結局、それが主要な論点ではないでしょうか-私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、です。私は幻影の中に逃避できます。私は競争、闘争、格闘から逃げ出せます。私は他の一人を崇拝できます。私は他の誰かをとおして、自分の救いを捜せます。しかし、私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たないのです。
(´・(ェ)・`)つ

990 避難民のマジレスさん :2020/06/20(土) 10:49:36 ID:a5QLuWbE0
くまめも1-2-2

私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、必要。求める者は、彼が求めるものとは違っているのか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのか。思考者は、彼の思考とは違っているのか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないか。ゆえに、彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、見出そうとする前に、求める者を理解することが、本質的 [・不可欠] ではないか。
 それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければならない。
 自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくこと、何か特定の組織に属すること、書物を読むことなどをとおして、訪れるのか。結局、私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、主要な論点ではないか。
私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たない。
(´・(ェ)・`)

991 避難民のマジレスさん :2020/06/20(土) 11:11:25 ID:saJEBlPE0
思考者は、彼の思考と分離した過程ではなく、共同の現象。ゆえに、求めているのは何なのかを、見出そうとする前に、求める者を理解することが不可欠。自己認識は、外からは訪れない。
私が自分自身について無知であるかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たない。
(´・(ェ)・`)

992 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/20(土) 23:47:28 ID:1d4drIFg0
自分自身を理解しない限り全ての探求は無駄になるというのじゃ。
真に理解すべきは自分自身なのじゃ。
何かを求める者そのものが自分自身なのじゃ。
それを理解するべきなのじゃ。

993 避難民のマジレスさん :2020/06/21(日) 00:36:32 ID:Vph/N6Jw0
最初と最後の自由  第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 3

 しかし、それは、私たちが最も欲しがりそうにないものです-私たち自身を知ることが、です。確かに、それが、私たちがその上に築ける唯一の基礎です。しかし、私たちは築ける前に、変化させうる前に、非難したり破壊したりできる前に、私たちのあるがままを知らなければなりません。出かけて行って、教師たち、導師(グル)たちを求め、取り替え、ヨ-ガを実習し、呼吸 [法] をし、儀式を執り行い、大師たちに付いていくこと、その他すべては、全く役立たないのではないでしょうか。それは意味がありません-たとえ私たちの付いていく人たちそのものが「あなた自身を研究しなさい」と言うとしても、です。なぜなら、私たちのあるがままが、世界であるからです。私たちが卑小で、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であるなら-それが、私たちが自分たちのまわりに造り出すものです。それが、私たちの生きている社会です。
 私たちは、真実を見つけ、神を見つける旅に出かける前に、行為できる前に、他の一人とどんな関係でも-すなわち社会を持てる前に、初めに自分たち自身を理解しはじめることが、本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。まじめな人は、特定の目標にどのように達するかにではなく、初めに、これに完全に関心のある人であると、私は考えます。なぜなら、あなたと私が、私たち自身を理解しなければ、どうして私たちは行動において、社会に、関係に、私たちがするどんなことにも、変容をもたらせるでしょうか。そして、それは明白に、自己認識は関係と対立するとか、関係から孤立するとかいう意味ではありません。それは明白に、大衆とは対照的に、他の一人と対照的に、私、個人の強調という意味ではありません。
 そこで、あなた自身を知ることなく、あなた自身の考え方と、なぜあなたが一定の事を考えるのかを知ることなく、あなたの条件づけの背景と、なぜあなたが芸術と宗教について、あなたの国とあなたの隣人について、あなた自身について一定の信念を持つのかを知ることなく、どうして何かについて真に考えられるでしょうか。あなたの背景を知ることなしに、あなたの思考の実体と、それがどこから来るのかを知ることなしには、確かに、あなたの探求は全く無効であり、あなたの行動は意味を持たないのではないでしょうか。あなたがアメリカ人であってもインド人であっても、またあなたの宗教が何であっても、何の意味もありません。
(´・(ェ)・`)つ

994 避難民のマジレスさん :2020/06/21(日) 00:49:14 ID:Vph/N6Jw0
くまめも1-2-3

私たちのあるがままが世界である。
真実を見つける旅に出かける前に、自身を理解しはじめることが、不可欠。
自己認識は関係と対立するとか、関係から孤立するとかいう意味ではない。個人の強調という意味ではない。
(´・(ェ)・`)

995 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/21(日) 22:56:53 ID:1d4drIFg0
自分を知ることは多くの者が嫌がるものじゃ。
今まで逃避してきた苦を見る事になるからのう。
しかし、自分を知らなければ全ての世界を知らないことになるのじゃ。
世界とは自分の心が作り出すものであるからのう。
自分も世界も知らなくては、闇から闇に移り住むだけの人生になるのじゃ。

996 避難民のマジレスさん :2020/06/21(日) 23:23:58 ID:0a9GWmog0
最初と最後の自由  第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 4

 私たちは、生の最終目的が何であるか、戦争、国家的・民族的敵対、葛藤・抗争、全体的紛糾状態-そのすべてがどういう意味なのかを見出せる前に、自分たち自身をもって始めなければならないのではないでしょうか。それはとても単純に聞こえます。しかし、それは極めて難しいのです。自分自身に付いて行くには、自分の思考がどのように作動するのかを見るには、とてつもなく鋭敏でなければなりません。そのため自分自身の考えることと応答と感情の複雑さに対してますます鋭敏になりはじめるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、より大きな気づきを持ちはじめるのです。自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究することです。困難は、私たちがあまりに性急であることです。私たちは成功したいのです。私たちは目的に到達したいのです。そのため、学び、観察するための機会を、自分自身に与える時間もまたきっかけもないのです。あるいはまた私たちは色々な活動-生計を立てること、子供たちを育てること-に関与してきたり、また色々な組織の一定の責任を引き受けてきました。私たちは異なった仕方でこんなにも関与してきたので、そのため、観察し、学ぶべき自己反省のための時間がほとんど何もないのです。それでほんとうは、反動の責任は、他の人にではなく、自分自身にかかっているのです。世界中での「グル(導師)」と彼らの体系の追求、あれこれについての最新の書物を読むことなどは、私には全く空しく、全く無効に見えます。というのは、あなたは地球中をさすらうとしても、自分自身に帰って来なければならないからです。そして、私たちのほとんどは、総合的に自分自身に気づいていないので、自分たちの考えること、感じること、行うことの過程を、明確に見はじめることは、極めて難しいのです。
 あなたは自分自身を知れば知るほど、明確になるのです。自己認識には終わりがありません-あなたは達成に至りません。あなたは結論に至りません。それは終わりのない川です。それを学ぶにつれ、それにますます入って行くにつれて、平和を見つけるのです。精神が平静であるときだけ-課された自己修練をとおしてではなく、自己認識をとおして-そのときだけ、その平静さに、その静けさに、真実が生じうるのです。至福がありうるのは、創造的行動がありうるのは、そのときだけです。そして、この理解なしに、この経験なしに、たんに書物を読むこと、講話に出席すること、宣伝をすることは、あまりに幼稚である-あまり意味のないただの活動であるように、私には見えます。ところが、自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

997 避難民のマジレスさん :2020/06/21(日) 23:27:30 ID:0a9GWmog0
くまめも1-2-4
自分の思考がどのように作動するのかを見るには、鋭敏でなければならない。
鋭敏になるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、大きな気づきを持ちはじめる。
自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究すること。
自己認識には終わりがない。それを学ぶにつれ、平和を見つける。精神が平静であるときだけ、真実が生じうる。至福がありうる。
自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうる。
(´・(ェ)・`)

998 避難民のマジレスさん :2020/06/21(日) 23:39:55 ID:0a9GWmog0
>>995
そうなのであります。
集中の瞑想に慣れて、記憶のおもちゃ箱が整理されて、心が鎮まることの安らぎを知ってしまうと、自分の本心をほじくり返して、苦しむことを避けたくなってしまうのでありますが、
実は、そうではないのであります。
本心を知ろうとする、覚悟さえできて、負の思いをしっかりと気づき、見据えることさえできれば、苦は消えてしまうのであります。簡単なことなので、カエルくんにも教えてあげたいのでありますが、難しいようであります。
(´・(ェ)・`)っ

999 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/22(月) 23:26:07 ID:1d4drIFg0
↑そのようなこともあるじゃろう。
 しかし、その境地も永遠のものではないのじゃ。
 死と共に失われてしまうものじゃ。
 永遠の幸福を手に入れるには更なる境地を求めなければならないのじゃ。

 階段を昇るには下の段から離れて上にいかなければならないようなものじゃ。
 永遠に至るまで更に昇り続けるのじゃ。

1000 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/22(月) 23:28:51 ID:1d4drIFg0
世界の全ての意味を知るためには自分自身から始めなければならないのじゃ。
どのような聖者の教えを聞こうと、正しい教えは必ず自分自身を知ること教えられるのじゃ。
それならば今ここで自分自身を知ることに勤めたほうが善いのじゃ。
世界中をさまよって正しい教えを探す必要は無いのじゃ。

1001 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 00:08:50 ID:a0VRmIUo0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 1

 私たちのほとんどが直面する問題は、個人はたんに社会の道具にすぎないのか、それとも社会の目的なのか、ということです。個人としてのあなたと私は、社会と政府によって使われ、指令され、教育され、制御され、一定の様式に会わせて形作られるべきものなのでしょうか。それとも社会、国家は個人のために存在しているのでしょうか。個人は社会の目的なのでしょうか。それとも彼はたんに教えられ、搾取 [・利用] され、戦争の道具として屠殺されるべき操り人形にすぎないのでしょうか。それが、私たちのほとんどが直面している問題です。それが世界の問題です-個人は、たんなる社会の道具、 [諸々の]影響力に型どられるべきおもちゃにすぎないのか、それとも社会は個人のために存在しているのか、ということが、です。
 あなたはこれをどのように見出そうとしているでしょうか。それは深刻な問題なのではないでしょうか。個人がたんに社会の道具にすぎないなら、そのとき社会のほうが個人よりはるかに重要です。それが真実であるなら、そのとき私たちは個性をあきらめて、社会のために働かなければなりません。私たちの教育体系全体が全く革命化され、個人は、使われ、破壊されるべき道具に変えられ、粛清され、取り除かれなければなりません。しかし社会が個人のために存在しているなら、そのとき社会の機能 [・役割] は、彼をどんな様式にも順応させることではなくて、彼に自由の感じ、衝動を与えることです。それで私たちは、どちらが偽りなのかを見出さなくてはなりません。
あなたはこの問題をどのように探究するのでしょうか。それは命がけの問題なのではないでしょうか。それは、右翼のでも左翼のでもどんなイデオロギ-にも依存していません。それが一つのイデオロギ-に依存しているなら、そのときそれはたんに意見の事柄にすぎません。観念はいつも憎しみ、混乱、葛藤・抗争を産み出します。あなたは、右翼や左翼の書物や、聖典に依存するなら、そのとき、ブッダのでもキリストのでも資本主義、共産主義のでも何でも、たんなる意見に依存するのです。それらは観念です、真理ではありません。事実は決して否定できません。事実についての意見は否定できます。私たちはその事柄の真理が何であるかを発見できるなら、意見に依存せずに行動することができるでしょう。ゆえに、他の人たちが言ったことを切り捨てることが必要なのではないでしょうか。左翼の人や他の指導者たちの意見は、彼らの条件づけから出てきたものです。それであなたは、自分の発見のために書物で見つけられることに依存するなら、たんに意見に縛られているにすぎません。それは知識の事柄ではありません。
 どのようにしてこれについての真理を発見すべきでしょうか。それに従って、私たちは行動するでしょう。これの真理を見つけるには、宣伝すべてからの自由がなければなりません。それは、あなたが意見に依存しないで問題を見つめる能力がある、という意味です。教育の仕事全体は個人を目覚めさせることです。これの真理がわかるには、あなたはとても明晰でなくてはならないでしょう。それは、あなたが指導者に依存できないという意味です。あなたは指導者を選択するとき、混乱 [の中] からそうするのです。それであなたの指導者もまた混乱しているのです。それが世界で起きていることです。ゆえにあなたはあなたの指導者に導きや助けを頼れないのです。
(´・(ェ)・`)つ

1002 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 00:10:24 ID:a0VRmIUo0
くまめも1-3-1
問題をイデオロギ-に依存して、探求するなら、それはたんに意見の事柄。観念はいつも憎しみ、混乱、葛藤・抗争を産み出す。
事実は決して否定できない。事実についての意見は否定できる。
私たちはその事柄の真理を発見できるなら、意見に依存せずに行動することができる。
どのようにしてこれについての真理を発見すべきか。それに従って、私たちは行動する。これの真理を見つけるには、宣伝すべてからの自由がなければならない。それは、意見に依存しないで問題を見つめる能力がある、という意味。教育の仕事全体は個人を目覚めさせること。これの真理がわかるには、とても明晰でなくてはならない。それは、あなたが指導者に依存できないという意味。
(´・(ェ)・`)

1003 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 00:15:09 ID:a0VRmIUo0
>>999
くまのは、境地などと、言えるものでは全然無いであります。
瞑想の、超入り口のところであります。
それでも、くまでも、楽になれたのだから、誰でも、くま程度には楽になれると思うのであります。
(´・(ェ)・`)つ

1004 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 08:22:45 ID:wCRrWiVM0
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/
(´・(ェ)・`)b 次スレ

1005 鬼和尚 ◆qx3.49AOzA :2020/06/23(火) 22:56:08 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんなのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。


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50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。


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