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金剛般若経を読んで実践する
130
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/06(木) 10:51:58 ID:U5n9iQq20
423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw
***
(三十)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。
師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」
「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」
***
続いてお釈迦様は須菩提長老に、
もし善男子善女子がこの三千大千世界を砕いて微塵衆にしてら、それは多いか。
と、聞いたのじゃ。
須菩提長老はそれは多いと、答えたのじゃ。
なぜならばその微塵衆が本当にあるならば、如来は微塵衆と説かなかったから
と、いうのじゃ。
なぜならば如来の説いた微塵衆は微塵衆ではない
それを微塵衆と名づけたからというのじゃ。
そして三千大千世界も三千大千世界ではないというのじゃ。
そうであるから三千大千世界というのじゃ。
なぜならば三千大千世界が本当にあるならば、全てである観念があるからなのじゃ。
全てであることは、全てであることではないと如来は説いたのじゃ。
それが全てであることなのじゃ。
しかし凡夫はそれに執着するものであるというのじゃ。
つまり全ては観念としてあると認識されるが、実体はないということなのじゃ。
実体はないとこに執着するのが凡夫であるというのじゃ。
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