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鬼和尚に聞いてみるスレ part9

1偽和尚★:2017/06/05(月) 00:55:15 ID:???0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが

あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。

ルールを守って使用しましょう。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part8
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1480943712

954避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 15:39:56 ID:U6SatYxg0
>>950
確かに集中すればその部位が暖かくなるわ、なるほど!
…と思いってやってみたのですが、よけいに気になるようになってしまいました。
まるでインド小話のグルに「薬を飲むとき猿のことを考えるな」と言われた男のよう…お恥ずかしい限りです。
修練が足りないのですね。当分はあきらめて薬で凌ぐことにします。
お教えありがとうございました。足先だけに集中できるようになるまで集中の訓練頑張ってみます。

955鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/09(木) 20:19:24 ID:1d4drIFg0
>>949 縄は咬まないのじゃ。
 縄と思ったものが蛇であったならば死んだりするじゃろう。
 縄であるから死なないはずと思っていても死んだりするのじゃ。
 そのように事実を誤認していれば大きな災いにあったりするのじゃ。

 本当は違うものを記憶によって創っていたのかもしれん。
 ただひたすらに観察してみるのじゃ。

>>951 それがどのような原因でいると感じるのか観察してみるのじゃ。
 寝ている時はそのように感じないじゃろう。
 それでは何があるときに自分は感じられるのか、何が無ければ自分は感じられないのか観察して気付くのじゃ。
 更にそのように自分と感じるものは何なのか見極めるのじゃ。
 
>>952 本心に従う以外に人の道はないのじゃ。
 偽りの心に従えば迷うばかりであるからのう。
 先ずは本心がどのようなことを欲しているのか観察してみるとよいのじゃ。

>>953 どういたしまして、またおいでなさい。

>>954 そうじゃ、足に集中するのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

956避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 22:44:04 ID:FCZrbmx.0
>>955
ご回答ありがとうございます。

私はまだ認識のない実相を見たことがないので何とも言えないのですが、認識なくとも毒があって噛みつく細長い「何か」は存在しているということでしょうか?


私が「何か」を「毒があって噛みつくもの」と認識するから、それはそのような特性を帯びるのではないか?それがこの世界なのではないか?と考えています。
もちろん、縄かと思って触ったら蛇だった…ということもあります。
それも、縄と蛇の情報を阿頼耶識が貯蔵しており、様々な認識が相まって予想も付かないことが意識で起こっているのではないかと。
まったく夢と同じ意識の世界がこの現実なのではないかと考えていますが、実際はどうなんでしょうか?

957避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 10:08:37 ID:DAY232aw0
>>955ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心を観察するだけで、自我を観れるのでしょうか?

958避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 17:39:39 ID:DAY232aw0
連投すいません。
鬼和尚さんに沢山質問させて頂きましたが、未だに自我を厭離させる方法がいまいちわかりません。
自分とは何か追求して観察したら良いと仰られますが、追求して観察する事自体が中々出来ないと思います。
心身の全てを観察すれば良いと仰られますが、自分は自分を追求して行こうと思ったので、中々心身の全て観察して行こうと思いません。
具体的に確実に自我を厭離させる方法はどの様にしたら良いのでしょうか?
自分を追求するとか、心身の全てを観察するとかだけでは無く、自分の本心を観察して行うのか、具体的に全体的にお教え頂けるとありがたいです。
自我を観る、厭離させる方法がわからないので普通の人が出来る方法で具体的に出来る方法をお教え願えないでしょうか。
宜しくお願い致します。

959避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 21:53:23 ID:ydE4b1w.0
>>754で質問した者です。
それに対する>>763の鬼和尚の私に対する答えの内容がいまいちわかりませんでした。

>>738のレスの中に書いてある

> 9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
>
> 身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
> のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
> トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
> ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
> う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
> いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
> 称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
> 一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

という上記の文ではハートが心の起源となる場所である、というようなことが書いてあるので
一般的に「私」という感覚はハートの中に強く感じられる、というようなことを言ってる、ということなのかなと
おもうんですが、また別のことを指しているんでしょうか?

960鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/10(金) 22:49:37 ID:1d4drIFg0
>>956 おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。
 誰かがおぬしの知らぬ間に後ろから殴ればやはり死んだりするのじゃ。
 全てが認識ではないのじゃ。
 唯識も本当は認識優勢論なのじゃ。
 思考や論理に囚われてもいかんのじゃ。
 常に現実を観察して進むのじゃ。

>>957 どこまでも追求すればいずれ観られるじゃろう。
 全てはおぬしとおぬしのものとおぬしのものではないものとして観られているからのう。
 本心を観るならばどこにいっても自分に突き当たるのじゃ。

>>958 おぬしが自我をどうしても観られないというならば、それは自我を観ようとしてはいないからなのじゃ。
 心身の全てを観察すればいずれは観られるのになぜそれだけは実践しようとしないのじゃろうか?
 それでも具体的に自我を観る方法が知りたいとはおかしなことじゃ。
 心身を観察する方法が普通の人でも出来る方法なのじゃ。
 お釈迦様もそれを説いているのじゃ。

 誰でも自我を観られる方法でも自我を観られない者は自分が消える恐れや不安などから観ようとしていないのじゃ。
 そこに逃避があればどんな方法も無意味なのじゃ。
 これからどのような方法を教えてもそれを実践していこうとは思わないと書くじゃろう。
 そして又普通の人でも自我が観られる方法をきくじゃろう。
 本当に自我を観察し、厭離しようと本心から思う者は、どのような困難な方法でもやり抜くじゃろう。
 それが本心からの欲求であるならば当然なのじゃ。

 先ずは自分の本心を観察して、何を本当に求めているのか、何から逃避しているのか気付くのじゃ。
 それが出発点になるのじゃ。

>>959 ただ集中している所に常に自分が感じられるだけなのじゃ。
 実践して見るとよいのじゃ。
 胸に集中していると胸に自分と言う感覚がわくじゃろう。
 眉間に集中していると眉間に自分がいる感覚があるじゃろう。
 マハリシはハートに集中している者であったからそう感じたのじゃ。
 実践によって確めてみるのじゃ。

961避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 23:08:07 ID:DAY232aw0
>>960お答え頂き本当にありがとうございます。鬼和尚さんの仰る通りです。反省しています。
心身の全てを観察したいのですが、自分の本心を観察して心身の全てを観察したら良いのでしょうか?

962避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 09:48:10 ID:czRftzgI0
一旦乖離したものが元に戻ることはありますか?
例えば、観察して乖離した手が、しばらくほっておくとまた自分のものという感覚に戻る事はありますか?

963避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 10:16:20 ID:ozubKx8M0
>>960
鬼和尚、ありがとうございます。
唯識も本当は認識優勢論であるとはどういうことでしょうか?

964541:2017/11/11(土) 11:12:19 ID:o7TfOr0I0
この「蛇縄問題」は興味深いですよね。

>おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。

この場合の「おぬし」が何を意味しているかですよね。
おぬし=真我だとすると、蛇に噛まれたところで、自分には何もおきていないわけです。死んでも居ないし噛まれても居ない。
おぬし=肉体だとすると、「蛇に噛まれて死ぬ」こともありえる。

肉体は老病死を免れないが、それを見ている何かは、老病死を超越している。

真我の立場に立てば、「生命」すら超越しているので、もはや、蛇と縄の区別すら、絶対的ではない。
だからこそ、落ち着いて、蛇と縄を区別できるとも言えるでしょうが

鬼和尚はどう思われますか?

965541:2017/11/11(土) 11:21:28 ID:o7TfOr0I0
西洋の存在論哲学を援用して考えて見ましょう。

蛇も人間も毒も縄も「存在」な訳です。

あらゆるの出来事は「存在の内部交流」のようなもので、その出来事が忠臣蔵だろうと、蛇に襲われるだろうと、車に轢かれるだろうと
それらの出来事はあくまで「人間的解釈」或いは「言語現象」であって、存在論的に観ると、エネルギーがグルグルめぐっているようなもの「存在の戯れ」のようなものといえましょう。

蛇と縄を区別できるのは人間だけです。蛇も縄も、人間の世界にしか存在しません。
蛇も縄も「仮象」に過ぎませんが、そのような区別は生きていくのに便利なので人は採用しています。
つまり、蛇や縄は、「生きよう」と言う人間の「気がかり」「配慮」が生じさせたとも言えます。
だから実体ではない。自殺志願者にとっては、毒蛇は「恋人」ですらあるかもしれない。

966541:2017/11/11(土) 11:45:29 ID:o7TfOr0I0
「全てが認識じゃない」

例えば、マムシの中にも「毒の無いマムシ」も居るかもしれませんね。
しかし「マムシ=毒をもって危険な蛇」と言う知識や認識があれば、その存在者は「毒蛇」に見える訳だ。
また、現代では、精巧に作られた蛇のロボットもあるかもしれません。
そう思えば、蛇と縄を区別するのは、そう簡単ではない。
いや、区別不可能なこともあるかもしれません。
かつては、白人と黒人(有色人種)は明確に「区別」されていた訳ですからね。
白人と黒人で生物学的に何かが変ったわけではなく、これは単に「認識」が変ったのです。
白人と有色人種は別人種と思われ、殺しても罪にならず、人権は存在しなかったのです。
これは、縄と蛇が「実は同じものだった」と言う事例です。
しかし、黒人と白人とが「同じである」と言う根拠も特に無く、結局は「その時代の人間がそう思うからそうする」と言うもの以上のものではない。
時代が変り、新しい分類学が生まれれば、「何で、これらを一緒のものと考えていたのだろう」と言う話になりえる。

つまりですよ。蛇と縄の区別にしても、現在の分類学が生物と非生物で分類しているので区別されるが(学問的区別)
「ほそ長いもの」の集合を一つの種類とするという新たな分類学が生まれれば、蛇と縄は学術的に同じ種族であるなどと言う話にもなりえる。
いやいやいやと、学術が生まれる前から人々は蛇と縄を区別しているよと言う主張もあるだろう。これを情動的区別としよう。
つまり、生命に危険があるか、無いかの区別である。すると、毒の無い蛇は、太いミミズとか別の名称が与えられているかもしれない。
という訳で、蛇と縄の区別は意外と「一筋縄ではいかない」のではなかろうか。
結局は、背後にある、文化的秩序を見ているのであって、本来自然に区別は無い。

そもそも、何故、我々は、これを蛇と呼び、これを縄とするのか
何故これが「蛇」に見えるのか。
それは「私とは何か」の追求とリンクするものが在ると思う。

悟りを得ようとする人が自我が生まれる瞬間を観察するように、蛇と縄が分別される瞬間も「観る」必要があるのではないでしょうか?

967541:2017/11/11(土) 11:53:17 ID:o7TfOr0I0
やはり、結論とすると

存在と言うレベルでは、蛇も縄も同じである。しかし、人間の「認識」がそれらを区別すると言わざるを得ない。

蛇を蛇たらしめて、縄を縄たらしめるのは、人間の認識である。

「人間」が居なければ、蛇も縄も無いのである。

それは「全ては人間の認識が作り出すならば縄を蛇にしてみろ!」と言う話ではない。

そうではなく、「人間」が生まれた瞬間、縄と蛇が生まれるのである。

現代の哲学では、存在論と存在の違いとする。存在的には縄と蛇は区別されるが、存在論的には「無」であると言うように。

968541:2017/11/11(土) 11:57:15 ID:o7TfOr0I0
>存在論と存在の違いとする

↑誤解が生まれそうなので、「存在論的な見方と存在的な見方の違い」と修正

存在論的な見方とは、言わば、「悟った人の視点」と言い換えても良いと思う。あらゆる観念性が落とされた視点のことである。
存在的な見方とは、我々の日常の物事の見方で、実際は対象それ自体ではなく、観念を見ているあり方のことである。

969541:2017/11/11(土) 12:07:55 ID:o7TfOr0I0
この喩えを好んで用いたマハリシは、存在論的な意味で「蛇と縄の喩え」を言っているのだが、

普通の人々は「ん? 生物的な区別の話か?」と思ってしまう。

勿論、鬼和尚も、本質的には、存在論的な意味で、この喩えを用いているのだが、説明が雑なので、やはり、存在的な区別の話に聞こえてしまうのだw

970541:2017/11/11(土) 12:22:08 ID:o7TfOr0I0
まじで、現象学と止観の方法論的差異について考察して見たい

それは全く同じものなのか、違うのか

現象学を一言で言うと、「経験とは何か」と言うことを考察していく学問である。
それにあたって、あらゆる実在性を括弧でくくる(エポケー) 何故、それがそのように見えたり感じたりするのかと言うことを考察する
外界に対しても、観念に対しても同じような態度を取る。

止観は外界にはさほど関心は無いが、心の考察と言う点では一致するものがあると思う。

971541:2017/11/11(土) 12:24:16 ID:o7TfOr0I0
根本的な違いとしては、現象学は特に「悟り」と言う状態を志向しないということである。

恐らく、止観もその過程で、悟りへの執着を取り除くだろうが、そうはいっても「悟り」と言うことをどこかに意識はしていると思う。

一方で、現象学者には「悟り」と言う概念がそもそも無いのである。

972541:2017/11/11(土) 12:38:37 ID:o7TfOr0I0
>説明が雑なので

失礼、説明がシンプルなので、に修正w

973避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 17:25:02 ID:8qFvIk/s0
鬼和尚、質問があります。
和尚のブログなどを参考にして、ヴィッパーサナーをしています。
自分の心を観察しようとして、ブログにある、

> 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
> 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
> と、自分自身に強く誓うのじゃ。

> そして坐るがいい。
> もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
> そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
> 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。

の通りにしてみたのですが、不安、嫌悪感、劣等感などは普段の生活でありありと感じる事があるのですが、瞑想中だと
こういった感覚が湧き上がってきません。そういった感覚が湧き上がるまで待って観察すればいいのでしょうか?
それとも、そういった感覚が起こるようにわざと記憶を思い出すようにしたり、念じるなどのことをしたほうがいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

974避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 19:44:21 ID:ydE4b1w.0
>>960

ありがとうございました。

975鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/11(土) 20:28:18 ID:1d4drIFg0
>>961 わしもおぬしも、もはやそうではないとわかっているのじゃ。
 ただ自分の偽りの無い心だけを自分に明かすのじゃ。
 本当は何をしたいのか。
 何のために悟りを求めようとしているのか。
 それを自分に確めるのじゃ。
 それは実は金や名声や権力のためなのかもしれん。
 そうであるからそれらを楽しむ自我が必要なのかもしれん。
 それが本心ならばそれでよいのじゃ。

 悟りの道に求めるものはないと知れるのじゃ。
 いずれそれらが死には対抗できないものと知り、虚しくなれば真に悟りを求めることもできるのじゃ。
 善事を積んで福楽を得ればそれらも楽しめるのじゃ。
 それもまたお釈迦様の教えなのじゃ。
 自らの本心を知って求める道を行くのじゃ。

>>962 それが習慣になればそう感じることも出来るのじゃ。
 しかし完全に厭離されればそれが自分ではないと知っている故に、完全に元には戻らないのじゃ。
 大人が子供の遊びに付き合っているようなものじゃ。
 鬼ごっこの鬼は本当の鬼ではないと知りながら逃げ回るようなものじゃ。
 
>>963 認識が心身全ての活動の源であるというようなものじゃ。
 何かを認識しないとそれを考えることも行動することも出来ないからのう。
 認識が心身の全てに先立って働くものと言う程度の意味なのじゃ。

>>973 それは深い瞑想に入っているからじゃろう。
 普段感じるならば普段の心境で観察して見るとよいのじゃ。
 恐れや不安から観察できなくなれば瞑想に入ってそれらを観察してみるのじゃ。
 そして原因を追究していくとよいのじゃ。

976鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/11(土) 20:29:07 ID:1d4drIFg0
>>974 どういたしまして、またおいでなさい。

977避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 21:31:20 ID:DAY232aw0
>>975
鬼和尚さん今まで沢山の質問に答えてくださり本当にありがとうございました。
今まで鬼和尚さんと質問を通した会話は本当に楽しかったです。
いつの日か本当に悟りを求める日がきたらその時はよろしくお願いします。
自分の本心を知って求める道を行こうと思います。
本当にありがとうございました。

978避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 21:40:54 ID:czRftzgI0
>962
自分の手という感覚が視覚だけではなく触覚の記憶からも生じている場合、視覚による観察では乖離に不十分で、さらに触覚の観察による乖離も必要なことはありますか?
今の自分の手がそんな感じがしているので質問しました。

979避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 23:05:07 ID:soI.jltg0
>>975
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
そのような意味でしたか。
となると、やはり認識が世界を作っていると考えてしまいます。
いわゆる実相などあるのでしょうか?
実相を実相と観た時点でそれは実相ではないのでは?と思ってしまいます。
それを確かめたいがため、悟りを目指しているところもあります。


541さん、哲学的な考察ありがとうございます。
私は哲学はさっぱりですが、探求していたらいつの間にか現象学的な解釈で世界を見るようになっていました。
それが本当にそうなのか、観察を通じて知れればなと思っています。

980541:2017/11/12(日) 07:28:35 ID:o7TfOr0I0
>>979さん

お返事ありがとう御座います。是非とも、意見交換をして、お互いに悟りを深めていきましょう。

981541:2017/11/12(日) 07:32:40 ID:o7TfOr0I0
>>いわゆる実相などあるのでしょうか?

979さんは哲学にもお詳しそうなので
実相に関しては、「我々に知る事はできない」と言うのが、カント哲学の結論ですよね。
いわゆる「物自体」です。
ただ、あらゆる観念を剥奪して言った先の「存在」のようなものは感じられるような気がします。
「厭離された手」などがその片鱗を見せている気がしますね。

982避難民のマジレスさん:2017/11/12(日) 12:52:28 ID:gH6Q6Ryw0
鬼和尚は、老子と、その著作の老子道徳経をどのように評価されますか?
もし悟りに有用なら、信心銘の時のように鬼和尚の訳解をお願いしたいです。

983避難民のマジレスさん:2017/11/12(日) 15:34:33 ID:8qFvIk/s0
>>975
ありがとうございます。
普段注意して、沸きあがってきたら見るようにしてみます。

984鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/12(日) 21:37:55 ID:1d4drIFg0
>>977 よかったのじゃ。
 本心を受け入れ、認める事はどのような道に行こうとも無駄にはならないじゃろう。
 またおいでなさい。

>>978 それも必要じゃろう。
 完全に観察できなければ厭離は起こらないのじゃ。
 全てをありのままに認識するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>979 あるのじゃ。
 阿頼耶識をも滅することは認識の全てがなくなるのではないのじゃ。
 本来の認識に回帰することなのじゃ。
 それが悟りなのじゃ。
 それによって真実の世界も見えるのじゃ。
 
>>982 断片しか残っていないのじゃ。
 それも意味不明なのじゃ。
 ほとんどが後世の創作のようじゃ。
 あまり役にはたたないのじゃ。

>>983 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

985避難民のマジレスさん:2017/11/13(月) 18:41:42 ID:czRftzgI0
>978
そうですか、そのように修行します

986鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/13(月) 20:29:21 ID:1d4drIFg0
>>985 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

987避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:49:06 ID:gH6Q6Ryw0
>>984
そうだったんですね。
では、鬼和尚も悟っていたと言われていた盤珪禅師の「臼ひき歌」はどうでしょうか?
一応貼っておきますね。

988避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:49:44 ID:gH6Q6Ryw0
生れ来りしいにしへ問へば、何にも思はぬ此心。
来る如くに心を持てば、すぐに此身がみな仏。
不生不滅の此心なれば、地水火風はかりの宿。
かりの火宅に心をとめて、我ともやして身をこがす。
過去も未来も只今ばかり、心とめよより只歌うたへ。
心とめずはうき世もあらじ、何もないこそ活如来。
恋しゆかしも只今ばかり、あはぬ昔しがある故に。
昔おもへば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじや。
夢と思へば浮世の中に、うきもつらきもなきものを。
因果歴然我なす事を知りて迷ふは身のひいき。
有為の転変身にならはして、それに迷はば己が損よ。

989避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:50:24 ID:gH6Q6Ryw0
有為の転変わが為す事を知らで迷うて身のひいき。
うその世界をまことのやうに化しばかさる化物ぢや。
いつか五欲を身にならはして、それに習うて日をくらす。
人にをしへはもとないものぢや、是非を争ふ我身なり。
仏道修行つとめし後は、何もかはりは得ぬものぞ。
迷い悟りはもとないものぢや、親もをしへぬならいもの。
後世のつとめも此頃いやと出入の息のあり次第。
無為の心はもとより不生、無為がなき故迷ひなし。
をしやほしやと思はぬ故に、いはば世界が皆我ものじや。
きめう不思議は一つもないぞ、しらにや世界が皆ふしぎ。
かねを持たりや貧者がいやし、もたぬむかしを忘れたか。
後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。
悪を嫌ふを善じやとおもふ、嫌ふ心が悪じやもの。
としはよれども心はよらじ、いつも変らぬ此心。
嬉し芽出度や老せぬ君に尋あふたりや我ひとり。
我と造れる心の鬼が責めて苦しむ身のとがを。
やすく養う浄土は爰よ五萬五萬の奥もなし。
さとる心を我ぢやと思へ、念と念とで相撲とる。
さとるさとると此頃せねば、朝のねざめも気が軽い。
よきもあしきも一つにまるめ、紙につつんで捨ておけ。
死んで、世界によるひるくらせ、それで世界が手に入るぞ。
とかく浮世はもとないものぢや、心とみよより唯うたへ。

990避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:51:09 ID:gH6Q6Ryw0
仏さまこそおいとしうござる、そとの飾りにまばゆかろ。
内の仏にや、そりやまだはやい、門の仁王にまづなりやれ。
われと浄土をたづねて見たら、けつく仏にきらはれた。
鬼の心であつめた金をがきにとられて、目がまうた。
地獄嫌の、極楽好きで、らくな世界に苦をうけた。
金がほしさに命をすてて、すてて見たれば、金いらず。
冬の頃しも悦ぶたき火、夏のくるほどあらいやや。
夏の頃しも乏しき風も秋の果てぬに早やにくむ。
人にかたきもと無きものぢや、是非を争う我が成る。

991避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 20:20:46 ID:gH6Q6Ryw0
>>989 訂正です。

後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。

後世を願ふとひいきを願ふ、いとど我まんにそつかけて。

992避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 22:07:31 ID:Nw8VwStU0
>>988>>991
現代代語訳もアップせんと、ほとんどの人は読めんじゃろう
宝の持ちぐされになってしまうのう

993鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:08:27 ID:1d4drIFg0
>>988 産まれて来た根源を聞けば何も思わない心なのじゃ。
種子と言うものじゃな。
来るが如く去るが如くに心を持てば皆如来なのじゃ。
心は本来あるものではなく不生不滅の意識であるからには、物質的な肉体は仮の宿なのじゃ。

そのような物質的な肉体に囚われれば、身を焦がす苦があるばかりなのじゃ。
過去も未来も無く在るのは今ここだけなのじゃ。
そのような過去や未来に囚われずに今ここにあるのじゃ。
心が囚われなければ浮世も無いも同然なのじゃ。
そのような無の境地こそ生き仏なのじゃ。
執着も過去の想いがあるからなのじゃ。
本来は今ここにあるのみなのじゃ。

過去を思うのは夕べの夢を思うようなものであり、皆虚妄なのじゃ。
修業の因果は歴然としてあり、修業をなすべきことと知りながら迷うのは身びいきがあるからなのじゃ。
自分だけは死なないとか、特別とか思っているのじゃ。
この世の無常は誰の身にも訪れるものじゃ。
それに迷っていては損なのじゃ。

994鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:09:01 ID:1d4drIFg0
実践することをも知らなければ迷い傲慢になるのじゃ。
虚妄の世界を本当のものと思って騙したり騙されたりして世を終わるのじゃ。
五欲に慣れ親しみ日を送るのじゃ。

元より仏教もないものであるが、これが正しいとかあれが間違いとか争うもののためにあるのじゃ。
修業の代わりになるものはないのじゃ。
迷いも悟りも無いものとは親でも教えてくれないのじゃ。
後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。
無為の心は不生であり、無為もなければ迷いも無いのじゃ。

何かが欲しいとか惜しいとかの心は無い故に世界は皆我が物なのじゃ。
それが奇妙不思議と言うこともないのじゃ。
悟らなければ皆不思議なだけなのじゃ。

金を持った者が持っていない昔を忘れて貧乏をいやしむ様に後世を願う心や身びいきも悪なのじゃ。
悪を嫌い善を願う心も悪なのじゃ。

年はとっても心は不変なのじゃ。
不変の心に我はたどり着いたのじゃ。
自ら作った心の鬼も、この浄土にはない安楽の地なのじゃ。

悟ろうとする心があればそれが邪魔になるのじゃ。
 それがなくなれば心も軽いのじゃ。
良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。
ありもしない浮世に迷うより、心をとどめずにただ今ここにあるのじゃ。

995鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:09:33 ID:1d4drIFg0
いとしい仏も外の飾りには眩いものじゃ。
心の内に仏を求めるのじゃ。
それが早ければ門の仁王になるのじゃ。
己の欲で浄土を求めれば仏にも嫌われるのじゃ。
鬼となって集めた金も餓鬼にとられておしまいじゃ。
苦しいのが嫌で快楽がすきでも苦の世界にいるのじゃ。
金が欲しくて命もイランとしても命が無くなれば金も役には立たないのじゃ。
冬には喜ばしい焚き火も夏には暑苦しいものじゃ。
夏には少ない風も秋が終わる頃には激しく吹くものじゃ。
人には元々敵も無いのに是非を争う心が敵を作るのじゃ。

996避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 23:30:50 ID:Y5LPInQE0
>>994
>良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。

鬼和尚さん、良い悪いの分別を捨てて良いのでしょうか?

良い悪いの分別を捨てたら、悪事も平気で行えてしまいますよね?

997避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 23:33:14 ID:Y5LPInQE0
>>955
ご回答ありがとうございました

998偽和尚★:2017/11/15(水) 00:37:36 ID:???0
次スレ

鬼和尚に聞いてみるスレ part10
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/

立ててくれた人>乙

ということでこちらのスレは切りのいいところでストップします。(まだしません。多分明日します)

999避難民のマジレスさん:2017/11/15(水) 05:54:57 ID:1wPDzgc60
>>849 ご教授ありがとうございました。
真の原因を観察して、観念を遠離しようとする場合、観念による反応が生じた時、
体に起こる感覚を感じていれば、あるとき突然、
観念を抱くにいたった原因に気づく、ということなのでしょうか?
思考による過去への思索はいりませんか?

1000避難民のマジレスさん:2017/11/15(水) 20:13:48 ID:gH6Q6Ryw0
ありがとうございます!まさに鬼ですm(_ _)m

>>後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。

これはどういったことを言っているのでしょうか?

1001鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/15(水) 21:56:51 ID:1d4drIFg0
>>996 それは己にとっての好悪の判断なのじゃ。
 りんごは好きであるがみかんは嫌いと言うようなものじゃ。
 それがあれば執着も生まれ、苦と迷いのもとになるものじゃ。

>>999 そのようなこともあるじゃろう。
 思索によることも出来るじゃろう。
 記憶を観察して思い出して原因に気付くこともあるじゃろう。
 原因に気付く事はさまざまな道があるものじゃ。
 注意深く追求していくのが大事なのじゃ。

>>1000 今の息をしている間、日々の生活の中で善事をしたり修業したりすることじゃな。
 生きるとは息をしていることなのじゃ。
 生きているときの行いが大事ということじゃな。

1002鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/15(水) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
>>998 ご苦労さんなのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。

1003偽和尚★:2017/11/15(水) 23:11:11 ID:???0
それではこちらのスレはストップします。

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