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金剛般若経を読んで実践する
128
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/04(火) 12:28:15 ID:tzB6bB2U0
305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS
***
(二十七)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」
***
それからお釈迦様は
如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。
そのようなことはないからというのじゃ。
なぜならば相は相ではないからなのじゃ。
そうであめから相とよばれるのじゃ。
無上正等正覚も無上正等正覚ではないからなのじゃ。
そうであるから無上正等正覚とよばれるのじゃ。
このようにして相とか無上正等正覚という観念をも滅して行くのじゃ。
更に悟りに向かう者達は、何かの法が断滅することもないというのじゃ。
煩悩とか、囚われが断滅することもないというのじゃ。
なぜならばそれらは煩悩ではなく、囚われでもないからなのじゃ。
そうであるから煩悩とか囚われといわれるのじゃ。
更に断滅も断滅ではないのじゃ。
そうであるから断滅とよばれるのじゃ。
そこには煩悩とか囚われがあり、それが断滅するという事実もないからなのじゃ。
ただ煩悩や囚われを原因から観察して、気付くことで自然に消えて行くのじゃ。
それを断滅という観念にしてはいかんのじゃ。
観念になればまたそれに執着することもあるからのう。
なにものにも囚われずに進むのじゃ。
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