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金剛般若経を読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2023/12/07(木) 20:51:29 ID:Dp/qMVVc0
金剛般若経
如是我聞。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。
與大比丘衆千二百五十人倶。
爾時世尊食時著衣持鉢入舍衞大城乞食。
於其城中次第乞已。還至本處飯食訖。
收衣鉢洗足已敷座而坐。
(一)
わたしはこのように聞きました。
ある時師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。
すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。
---
中国語の原文を日本語に機械翻訳し、他の訳文も参考にしつつ内容を整えています。
日本語で著作権を気にせずに使えるものがなかったので、鬼和尚に協力していただき、
現代の修行者にも使いやすい訳を作りたいです。
もし、間違いや補足などがありましたらご指摘ください。
鬼和尚は前世で、コーサラ国の祇園精舎にいたことはありましたか?
お釈迦様の托鉢や、修行者とのやり取りの様子がわかればと思いまして。

2避難民のマジレスさん:2023/12/08(金) 20:35:47 ID:Dp/qMVVc0
時長老須菩提在大衆中。
即從座起偏袒右肩右膝著地。
合掌恭敬而白佛言。希有世尊。如來善護念諸菩薩。
善付囑諸菩薩。世尊。善男子善女人。
發阿耨多羅三藐三菩提心。
應云何住云何降伏其心。佛言。善哉善哉。須菩提。如汝所説。
如來善護念諸菩薩。善付囑諸菩薩。
汝今諦聽。當爲汝説。善男子善女人。
發阿耨多羅三藐三菩提心。
應如是住如是降伏其心。唯然世尊。願樂欲聞
佛告須菩提。
(二)
ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。
スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。
「師よ、素晴らしいことです。仏陀は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
師は答えました、「スブーティよ、あなたの言う通りだ。仏陀は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、私が話して聞かせよう。求道者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきか。」スブーティは答えました。「そうしてくださいますように、師よ。」
---
鬼和尚は前世でスブーティやシャーリプトラと会ったことはありましたか?
お釈迦さまの十大弟子が、どのように修行していたのかを知りたいです。

3鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/08(金) 22:54:36 ID:QfirRsEI0
>>1 ご苦労さんなのじゃ。
 なかなかよい現代語訳なのじゃ。


 わしはないのじゃ。
 ずうっとそばにいた訳ではないからのう。
 お互いに名乗りあうことも無く、みんな修行に励んでいたのじゃ。

4避難民のマジレスさん:2023/12/09(土) 10:53:47 ID:Dp/qMVVc0
ご回答ありがとうございます。続きです。
諸菩薩摩訶薩應如是降伏其心。所有一切衆生之類。
若卵生若胎生若濕生若化生。若有色若無色。若有想若無想。
若非有想非無想。
我皆令入無餘涅槃而滅度之。如是滅度無量無數無邊衆生。
實無衆生得滅度者。何以故。須菩提。
若菩薩有我相人相衆生相壽者相。即非菩薩
(三)
師は、このように話しだされました。

「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。

『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』

それはなぜかと言えば、スブーティよ。
もし認識主体という観念、個体という観念、
生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、
もはや菩薩とは言えないからだ。

経を意味を確かめながら読むのが良いとのことですが、「全ての生きものを涅槃に導かなければならないが、実は誰一人涅槃に導かれてはいない」の部分が矛盾に感じられ、イメージしようとしてもイメージできなくて気持ち悪いです。これは、例えば無理やり「菩薩は衆生を導く心を持つべきだが、衆生は自分自身で涅槃に導くので、実際は菩薩によっては導かれていない(ので増長してはいけない)」などと解釈するのではなく、イメージしようとして気持ちが悪い心身の様子をただ観ていれば良いのでしょうか。それとも、意味を理解しようとして思い巡らすこと自体に効果がありますか?

またここで、鬼和尚の金剛経解説を参考に、サットヴァ、ジーヴァ、アートマン、プトガラをそれぞれ、生きているもの、個体、認識主体、輪廻の主体と訳しました。http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-78.html
他に現代人が個我と言うものに抱きがちなイメージがありましたら、お教えください。
また文章全体の訳に問題や、補足などがありましたら、お願いします。

5鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/09(土) 22:54:31 ID:hEQEirKg0
そのようにイメージできない感覚を念じるだけでよいのじゃ。
解釈も解説もいらないのじゃ。
それが智恵の完成なのじゃ。
観念を破壊するものであるからいかなる観念も持ち得ないのじゃ。
ただひたすら繰り返し念じる実践あるのみなのじゃ。

大体それでよいのじゃ。
そのまま続けるとよいのじゃ。

6避難民のマジレスさん:2023/12/10(日) 19:30:00 ID:Dp/qMVVc0
復次須菩提。
菩薩於法應無所住行於布施。所謂不住色布施。
不住聲香味觸法布施。須菩提。菩薩應如是布施不住於相。
何以故。若菩薩不住相布施。
其福徳不可思量。須菩提。於意云何。東方虚空可思量不。
不也世尊。須菩提。
南西北方四維上下虚空可思量不。不也世尊。須菩提。
菩薩無住相布施福徳。亦復如是不可思量。須菩提。
菩薩但應如所教住
(四)
「また、スブーティよ、菩薩たるもの、
何かに執着しながら、施しをすべきでない。
形に執着しながら、施しをすべきでない。
音、香り、味、触れられるもの、方法についても、同様である。
果報を求めるという、思いに囚われないように、
スブーティよ、菩薩は施しをしなければならない。」

「それは何故かと言うと、スブーティよ。
もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、
その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。
スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これと同じように、
南や、東や、北や、下や、上の方角の、
あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これらと同じことである。
もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、
その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、
果報を求めるという思いに執着せずに、施すのだ。」

>>5
>そのようにイメージできない感覚を念じるだけでよいのじゃ。
この念じるというのは、イメージできない状態で、何度も読んだり、唱えたり、聴いたたりするということでしょうか?
また、「所謂不住色布施。不住聲香味觸法布施。」の色・声・香・味・触・法に住せずの部分ですが、どう訳せば適切なのかが分かりません。一応「形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、方法についても、同様である。」と訳したのですが、もっと良い訳がありそうに思います。

7鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/10(日) 22:56:23 ID:/7DDEg/A0
そうじゃ、何度も何度も読んで文を念じるのじゃ。
意味がわからなくとも心に入っていくのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

色と文脈がつながっているから理解できるのじゃ。
何にも囚われずに布施をするという文意がわかればよいのじゃ。

8避難民のマジレスさん:2023/12/11(月) 20:21:20 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。可以身相見如來不。
不也世尊。不可以身相得見如來。
何以故。如來所説身相即非身相。佛告須菩提。
凡所有相皆是虚妄。
若見諸相非相則見如來
(五)
「スブーティよ、どう思うか。
身体の特徴をもって如来を見るべきだろうか。」
「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」

ありがとうございます。経が心に入っていくのが大事なのですね。念じるというのは、心に強く思うという意味で大丈夫でしょうか? 何度も繰り返し読み、念じやすいように、元の文の意味は保ちつつも、簡潔な表現で訳していこうと思います。
また、他の訳も参考にして、「声・香・味・触・法」は、「音、香り、味、触れられるもの、心の対象」と訳すことにしました。

9避難民のマジレスさん:2023/12/12(火) 21:06:38 ID:Dp/qMVVc0
須菩提白佛言。世尊。
頗有衆生得聞如是言説章句生實信不。佛告須菩提。
莫作是説。如來滅後後五百歳。
有持戒修福者。於此章句能生信心以此爲實。
當知是人不於一佛二佛三四五佛而種善根。
已於無量千萬佛所種諸善根。
聞是章句乃至一念生淨信者。須菩提。
如來悉知悉見是諸衆生得如是無量福徳。
何以故。
是諸衆生無復我相人相衆生相壽者相。
無法相亦無非法相。何以故。是諸衆生。
若心取相則爲著我人衆生壽者。
若取法相即著我人衆生壽者。何以故。若取非法相。
即著我人衆生壽者。是故不應取法。
不應取非法。
以是義故。如來常説汝等比丘。
知我説法如筏喩者。法尚應捨何況非法

(六)
スブーティは尋ねました。
「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」
師はスブーティに答えました。
「そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。」
「これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
それはなぜかというと、その者たちは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。また、(悟りを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。なぜならば、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、(自我である観念としての、)認識主体、個体、生きているもの、倫理の主体に固執することになるからだ。もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、倫理の主体に固執することになるからだ。従って、方法も方法でないものも受け取るべきではない。それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」

(いかだの喩え:仏教の教え(法)を川を渡るための筏のように利用するが、川を渡った後はいかだ(法)を捨てるべきだという意味です。これは、仏教の教えが最終的な目的地ではなく、悟りに至るための手段として実践し、達すれば捨て去られる方法として説かれることを示しています。)

ここでは、法を「方法」と訳していますが、「教え」と訳すのとどちらが良いでしょうか。
もし今回の部分、あるいは今後、修行の妨げになるような間違いがありましたら、修正をお願いします。また、鬼和尚の解説があったほうが実践の足しになりましたら、その部分では解説をお願いします。

10鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/12(火) 22:15:57 ID:HE5z8gkY0
>>8 そうじゃ、何度も何度も読誦して思念するのじゃ。
 そうすれば効果が現れるのじゃ。

11鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/12(火) 22:26:29 ID:HE5z8gkY0
>>9 方法でよいじゃろう。
 教えを捨てるというとまた語弊が生じるからのう。
 教えは伝えていくべきものであるからのう。

12避難民のマジレスさん:2023/12/13(水) 17:31:07 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。
如來得阿耨多羅三藐三菩提耶。如來有所説法耶。須菩提言。
如我解佛所説義。
無有定法名阿耨多羅三藐三菩提。亦無有定法如來可説。何以故。
如來所説法皆不可取不可説。非法非非法。
所以者何。
一切賢聖皆以無爲法而有差別。

(七)
師は、スブーティに問われました。
「スブーティよ、どう思うか。
如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法が、あるだろうか。
如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、私が師の教えを理解したところによると、
如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法は、何もありません。
如来によって説かれた方法も、ありません。
なぜならば、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。
それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、無為の法によって差異を持っているからです。」

一切賢聖皆以無爲法而有差別。がどう訳したら良いのか分かりません。「無爲法而有差別」の訳をお願いします。また、この節でも全て「法」は方法と訳していいのでしょうか?

13鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/13(水) 23:32:17 ID:70OFuSgU0
そこも方法でよいのじゃ。

無為の法とは涅槃に導く法なのじゃ。
それこそが正しい法だというのじゃ。
その法を説く者こそ他の偽者の導師とは違う、真の聖者であるというのじゃ。
無為の法とは世間の論理とは違う、日常を離れた論理によるものじゃ。
そこまで説くことができる者こそ、真の導師なのじゃ。

14避難民のマジレスさん:2023/12/14(木) 21:15:12 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。
若人滿三千大千世界。七寶以用布施。是人所得福徳寧爲多不。
須菩提言。甚多世尊。何以故。
是福徳即非福徳性。是故如來説福徳多。
若復有人於此經中。受持乃至四句偈等爲他人説。
其福勝彼。何以故。須菩提。
一切諸佛及諸佛阿耨多羅三藐三菩提法。
皆從此經出。
須菩提。所謂佛法者即非佛法

(8)
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。
もし誰かがはてしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人が得る福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」
師は言われました。「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも受け入れ、他人のために説いたとしたら、その人の福徳は前者よりも勝るだろう。なぜならば、スブーティよ、すべて諸々の仏の得る、この上なく正しい悟りの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、
スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法では無いからだ。」

日本語に翻訳された金剛般若経をいくつか読んでみたのですが、それらでは、この後にさらに、「それゆえに覚者の方法と言われるのだ」のような文が続きます。
中国語版では、この部分ではそのような表現は見当たらないのですが、鬼和尚の金剛経の解説ではA=非A ゆえにA=Aという論理外の論理が認識を止めるために有効であると書かれていました。今回の翻訳でも、そのような表現を加えても良いでしょうか?

15鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/14(木) 23:44:32 ID:CCmJoy9.0
善いのじゃ。
読む者の利益になると思われる文は何でも取り入れてよいのじゃ。
それこそが経の目的であるからのう。

16避難民のマジレスさん:2023/12/15(金) 20:37:19 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。須陀オン能作是念。
我得須陀オン果不。須菩提言。不也世尊。何以故。
須陀オン名爲入流而無所入。
不入色聲香味觸法。是名須陀オン

須菩提。於意云何。
斯陀含能作是念。我得斯陀含果不。
須菩提言。不也世尊。何以故。斯陀含名一往來。
而實無往來。是名斯陀含。

須菩提。於意云何。
阿那含能作是念。我得阿那含果不。
須菩提言。不也世尊。何以故。
阿那含名爲不來而實無來。是故名阿那含。

(9)-a
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と言われるのです。」

師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
もう一度だけ生まれかわって覚る者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわって覚る者を意味しますが、実際には、生まれかわって覚る者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」

師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」

ありがとうございます。今後も他の日本語訳なども参考にし、適宜取り入れていきます。

17鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/15(金) 21:42:43 ID:NFUF8Ruw0
そうじゃ、衆生の利益のために実践あるのみなのじゃ。

18避難民のマジレスさん:2023/12/16(土) 21:20:29 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
於意云何。阿羅漢能作是念。我得阿羅漢道不。
須菩提言。不也世尊。何以故。
實無有法名阿羅漢。

世尊。若阿羅漢作是念。
我得阿羅漢道。即爲著我人衆生壽者。
世尊。佛説我得無諍三昧人中最爲第一。
是第一離欲阿羅漢。我不作是念。我是離欲阿羅漢。

世尊。
我若作是念我得阿羅漢道。
世尊則不説須菩提是樂阿蘭那行者。
以須菩提實無所行。而名須菩提是樂阿蘭那行

(9)-b
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
最高の覚りを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。
師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。

師よ、如来は私のことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかし私は「私は離欲の阿羅漢だ」とは考えません。

師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、
如来は『スブーティは阿蘭那の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。

「樂阿蘭那行」を「阿蘭那の行を楽しむ者」と訳しましたが、阿蘭那行とは何でしょうか?

19鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/16(土) 22:52:23 ID:Q18/xQ7I0
阿蘭那とは山林とか郊外の人のいない所じゃな。
孤独行とか隠遁の行を楽しむ者というような意味じゃな。
人のいない静かな所で修行しているのを阿蘭那の行を楽しんでいるというのじゃ。
実際は何か特別なことをしているのではないから、何もしないことが阿蘭那の行を楽しんでいるということになるのじゃ。

20避難民のマジレスさん:2023/12/17(日) 19:47:58 ID:Dp/qMVVc0
佛告須菩提。於意云何。
如來
昔在然燈佛所。於法有所得不。世尊。
如來在然燈佛所。於法實無所得。須菩提。於意云何。
菩薩莊嚴佛土不。不也世尊。何以故。
莊嚴佛土者則非莊嚴。是名莊嚴。是故須菩提。
諸菩薩摩訶薩應如是生清淨心。
不應住色生心。不應住聲香味觸法生心。
應無所住而生其心。須菩提。
譬如有人身如須彌山王。於意云何。是身爲大不。
須菩提言。
甚大世尊。何以故。佛説非身是名大身。

(10)
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、
教えにおいて何かを得ただろうか。」
「いいえ。師よ、
如来がディーパンカラ如来のもとで、
教えにおいて得たものは何もありません。」
「スブーティよ、どう思うか。
菩薩が浄土を完成することはできるだろうか。」
「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」
師は言われました。
「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。
スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」
スブーティは答えました。「非常に大きいです、師よ。なぜならば如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と呼ばれると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と呼ばれるのです。」

ありがとうございます。今回中ほどに「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。」とあります。その前の文と「それゆえに」でつながっているのですが、浄土の完成と清浄な心を生じさせることとの関係がよくわかりません。解説をお願いします。

21鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/17(日) 23:00:49 ID:tRHtAGyk0
菩薩が目指すべき浄土とは心によって創られるものであるから政なのじゃ。
心を清浄にすれば浄土も清浄になるのじゃ。
それもこれで完成したと言えるものではないのじゃ。
その浄土で修行する衆生の心が乱れれば、浄土も乱れるものであるからのう。
常に精進あるのみなのじゃ。

22避難民のマジレスさん:2023/12/18(月) 20:03:36 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。如恒河中所有沙數。如是沙等恒河。
於意云何。是諸恒河沙寧爲多不。須菩提言。
甚多世尊。但諸恒河尚多無數。何況其沙。
須菩提。我今實言告汝。
若有善男子善女人。
以七寶滿爾所恒河沙數三千大千世界。
以用布施得福多不。須菩提言。甚多世尊。
佛告須菩提。若善男子善女人。
於此經中乃至受持四句偈等。爲他人説。
而此福徳勝前福徳

(11)
師はスブーティに問われた。
「スブーティよ、もしガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとする。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」
師は言われた。「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。」
師はスブーティに言われました。「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも心に留めて実践し、他人のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」

ありがとうございます。浄土は心によって創られるのですね。現代の私たちが「浄土の完成」という言葉を読むときには、どのような意味に捉えて読めば良いでしょうか?
また、今回の文に関して質問です。以前、「受持」を「受け入れる」と訳しました。しかし、経は実践されるべきものですので、「心に留めて実践する」の方が適切かと思い、そのように訳しましたが、それは適切な訳になっていますでしょうか?それとも「繰り返し念じて実践する」のように、より具体的な方が良いでしょうか?

23鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/18(月) 23:40:45 ID:1Nlpqu4k0
浄土とは心であるから清浄な心の完成という意味でよいじゃろう。
清浄な心とは慈悲の心なのじゃ。
心が慈悲の思いによって満たされた時に清浄な心は完成されたということになるじゃろう。

それでよいのじゃ。
経とは実践するために説かれたものであるからのう。

24避難民のマジレスさん:2023/12/19(火) 20:42:20 ID:Dp/qMVVc0
復次須菩提。隨説是經乃至四句偈等。
當知此處一切世間天人阿修羅。
皆應供養如佛塔廟。何況
有人盡能受持讀誦。須菩提。
當知是人成就最上第一希有之法。
若是經典所在之處。則爲有佛若尊重弟子

(12)
「さらにまたスブーティよ、どのような地方でもこの経を、たとえ四行詩一つであっても、説いて聞かせられるとすれば、その地方は、人間と天人と神々全てにとって、まるで仏の聖地に供え物を捧げるように尊重されるということを知るべきである。
ましてや、この経を全て心に留め、繰り返し念じて実践し、読み、聞かせる人がいるとしよう。
スブーティよ、その人は最高の教えと実践を成就したということを知るべきである。
この経典が存在する場所は、まるで仏がいるかのよう、または尊い弟子がいるかのような場所である。」

ありがとうございます。「繰り返し念じて実践する」にします。

25鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/19(火) 23:20:56 ID:mWEC0js60
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
この金剛経も繰り返し唱え、念じていれば必ず効果はあるものじゃ。
実践が全てなのじゃ。

26避難民のマジレスさん:2023/12/20(水) 19:06:29 ID:Dp/qMVVc0
爾時須菩提白佛言。
世尊。當何名此經。
我等云何奉持。佛告須菩提。
是經名爲金剛般若波羅蜜。以是名字汝當奉持。所以者何。
須菩提。佛説般若波羅蜜。
則非般若波羅蜜。
須菩提。於意云何。如來有所説法不。
須菩提白佛言。世尊。如來無所説。須菩提。
於意云何。
三千大千世界所有微塵是爲多不須菩提言。甚多世尊。須菩提。
諸微塵如來説非微塵。是名微塵。如來説世界非世界。
是名世界。
須菩提。於意云何。
可以三十二相見如來不。不也世尊。
不可以三十二相得見如來。何以故。
如來説三十二相即是非相。是名三十二相。須菩提。
若有善男子善女人。以恒河沙等身命布施。
若復有人於此經中乃至受持四句偈等。
爲他人説其福甚多

(13)
その時、スブーティは師に尋ねました。
「師よ、この経は何と名付けられるのですか?
また私たちはどのよう記憶すべきですか?」
師はスブーティに告げました。
「この経は智慧の完成と名付けられる。
その名前で記憶すべきである。
なぜならば、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成では無いからだ。それだからこそ、智慧の完成と言われるのだ。」

「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、如来が説いたものは何もありません。」
「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、非常に多いです。」
「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と言われる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と言われる。」
「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」
「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。
なぜならば、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と言われるのです。」
「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂と等しいほど体を捧げたとしても、
この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留めて実践し、他人のために説く人がいるとすれば、その福徳のほうが遥かにに大きいのだ。」

「我等云何奉持」を「私たちはどのよう記憶すべきですか?」と訳したのですが、「記憶すべき」で大丈夫でしょうか?

27鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/20(水) 22:52:33 ID:Mwr23Mxs0
記憶でよいじゃろう。
保つのであるからのう。

28避難民のマジレスさん:2023/12/21(木) 21:06:00 ID:Dp/qMVVc0
爾時須菩提聞説是經深解義趣。
涕涙悲泣而白佛言。希有世尊。

佛説如是甚深經典。我從昔來所得慧眼。
未曾得聞如是之經。
世尊。若復有人得聞是經。
信心清淨則生實相。當知是人成就第一希有功徳。
世尊。是實相者則是非相。是故如來説名實相。
世尊。我今得聞如是經典。
信解受持不足爲難。

若當來世後五百歳。
其有衆生得聞是經信解受持。是人則爲第一希有。
何以故。此人
無我相人相衆生相壽者相。

所以者何。我相即是非相。
人相衆生相壽者相即是非相。何以故。離一切諸相則名諸佛。
佛告須菩提。如是如是若復有人得聞是經。
不驚不怖不畏。當知是人甚爲希有。何以故。
須菩提。
如來説第一波羅蜜非第一波羅蜜。是名第一波羅蜜。

(14-a)
そのときスブーティはこの教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
涙を拭い終わって、師に申しあげました。
「師よ、すばらしいことです。
如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、私がこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。

師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような人は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。
なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと名付けるのです。

師よ、私が今、このような教えを聞いて、信じて受け入れることは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その人はこの上なく希有でありましょう。
なぜならば、その人には認識主体という観念、個体という観念、
生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。
それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れることが、諸々の覚者であるからです。」
師はスブーティに告げました。
「その通りだ。もし他の人がこの教えを聞いて、驚かず、怖れず、恐怖に陥らないならば、その人はこの上なく希有である。
なぜならば、スブーティよ、如来が説く最上の完成は、実際には最上の完成ではない。それゆえに最上の完成と名付けられる。

ありがとうございます。記憶と訳します。
上の「我從昔來所得慧眼。未曾得聞如是之經。」がよく分かりませんのでお教えください。中国語の文の意味ですと「(スブーティが)以前から持つ智慧の目でもこれまでにこのような教えは聞いたことがない(ほど深く稀有である)」という意味になると思います。
しかし、諸々の日本語訳では、「如来が(菩薩に)教えを説かれ、それによりスブーティに智慧が生じた。このような教えは未だ聞いたことがない」というように訳されています。

29避難民のマジレスさん:2023/12/22(金) 20:57:06 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
忍辱波羅蜜如來説非忍辱波羅蜜。何以故。
須菩提。
如我昔爲歌利王割截身體。
我於爾時無我相無人相無衆生相無壽者相。何以故。
我於往昔節節支解時。
若有我相人相衆生相壽者相應生瞋恨。

須菩提。又念過去於五百世作忍辱仙人於爾所世無我相無人相無衆生相無壽者相。
是故須菩提。
菩薩應離一切相發阿耨多羅三藐三菩提心。
不應住色生心。
不應住聲香味觸法生心。應生無所住心。
若心有住則爲非住。是故佛説菩薩心不應住色布施。
須菩提。菩薩爲利益一切衆生。應如是布施。
如來説一切諸相即是非相。
又説一切衆生則非衆生。須菩提。如來是眞語者。實語者。
如語者。不誑語者。不異語者。
(14-b)
師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜかと言うと、スブーティよ、かつて私がある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切なかったからだ。
それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。
スブーティよ、また過去を振り返ってみると、私は五百の生涯のあいだ忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。
それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、「菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない」と説かれたのだ。」
「スブーティよ、菩薩はすべての生きとし行けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を説く者、正しい言葉を語る者、欺かない者、矛盾しない者であるからだ。

「如來是眞語者。實語者。如語者。不誑語者。不異語者。」をそのまま訳すると、
「如来は真実を語る者、真理を説く者、ありのままに語る者、欺かない者、矛盾しない者。」
となりましたが、多くの日本語訳では
「如来は真実を語る者、真理を説く者、ありのままに語る者、誤りなく語る者、偽りなく語る者。」
のように訳されています。どのような訳が適切でしょうか?

30鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/22(金) 22:59:52 ID:L.yFqRJQ0
上の方が正しいじゃろう。
前の文と後の文の意味が繋がっているからのう。
自分(スブーティ)の前から得ていた慧眼でも聞いたことが無い教え、という意味じゃな。

31鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/22(金) 23:18:49 ID:L.yFqRJQ0
>>29 真実と異なることを言わないのであるから正しく語る者とかじゃな。

32避難民のマジレスさん:2023/12/23(土) 19:22:02 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
如來所得法此法無實無虚。須菩提。
若菩薩心住於法而行布施。如人入闇則無所見。
若菩薩心不住法而行布施。
如人有目日光明照見種種色。須菩提。
當來之世若有善男子善女人。能於此經受持讀誦。
則爲如來以佛智慧悉知是人。悉見是人。
皆得成就無量無邊功徳。

(14-c)
スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。
スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。
スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」

ありがとうございます。
金剛経を繰り返し唱えて実践していると、修行者にはどのような変化が現れてくるのでしょうか?以前、集中の瞑想に関して習熟段階を示してくださいましたが、もし金剛経による空の法の実践に関しても、習熟段階のようなものがありましたら、お教えください。私の場合は初期の頃、非常に読み進むのに苦労があり、すぐに眠くなったり、嫌になって、読むのをやめてしまうということがありました。今も読み進めるのにまだ抵抗感があります。

33避難民のマジレスさん:2023/12/24(日) 20:32:28 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。若有善男子善女人。
初日分以恒河沙等身布施。
中日分復以恒河沙等身布施。後日分亦以恒河沙等身布施。
如是無量百千萬億劫以身布施。
若復有人聞此經典信心不逆其福勝彼。
何況書寫受持讀誦爲人解説。須菩提。以要言之。
是經有不可思議不可稱量無邊功徳。
如來爲發大乘者説。爲發最上乘者説。
若有人能受持讀誦廣爲人説。如來悉知是人。
悉見是人。
皆得成就不可量不可稱無有邊不可思議功徳。

(15-a)
「スブーティよ。もし善男子や善女人が、午前中にガンジス河の砂と等しいほど体を捧げ、昼間にも同じく、夕刻にもまた同じく布施を行い、このように無限に長い間にわたって体を捧げたとしても、もしまた誰かがこの経を聞いて信心が揺らがなければ、その人の福徳はそれよりも勝るだろう。ましてや、この経を書写して記憶し、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々に詳しく説いて聞かせるならばなおさらのことだ。
スブーティよ、実に、この経には測り知れない、無限の功徳がある。
如来は、この上ない道に向かう人々のために、また最上の道に向かう人々のためにこれを説いた。もし人がこれを記憶し、繰り返し唱え、念じて実践し、広く他の人々に説くなら、如来はその人を完全に知るだろう。
如来はそのような人をすべて見ており、彼らは計り知れない、言葉では表せない、限りなく、考えられないほどの功徳を成就するだろう。

34避難民のマジレスさん:2023/12/25(月) 21:06:08 ID:Dp/qMVVc0
如是人等則爲荷擔如來阿耨多羅三藐三菩提。何以故。須菩提。若樂小法者。
著我見人見衆生見壽者見。
則於此經不能聽受讀誦爲人解説。須菩提。
在在處處若有此經。
一切世間天人阿修羅所應供養。當知此處則爲是塔。
皆應恭敬作禮圍繞以諸華香而散其處。

(15-b)
彼らは皆、覚りに与かることになるだろう。」
「なぜならば、スブーティよ。
劣った信解に止まる者は、この法を聞くことができないからだ。
自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着する者は、この法を、受け容れられないからだ。
菩薩の願いと決意をしない者には、この法を聞き、受け入れ、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々に詳しく説いて聞かせることはできない。」
「どの地方でもこの法が説かれる地方は、人間と天人と神々全てによって尊敬され供養すべきである。その場所はまるで仏の聖地のように、皆が敬意を表して礼拝し、花や香で飾るべきである。」

35避難民のマジレスさん:2023/12/26(火) 19:11:59 ID:Dp/qMVVc0
復次須菩提。善男子善女人受持讀誦此經。
若爲人輕賤。是人先世罪業應墮惡道。
以今世人輕賤故。先世罪業則爲消滅。
當得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。
我念過去無量阿僧祇劫。於然燈佛前。
得値八百四千萬億那由他諸佛。
悉皆供養承事無空過者。若復有人

於後末世。
能受持讀誦此經所得功徳。於我所供養諸佛功徳。
百分不及一。
千萬億分乃至算數譬喩所不能及。
須菩提。若善男子善女人於後末世。
有受持讀誦此經。所得功徳我若具説者。
或有人聞心則狂亂狐疑不信。須菩提。
當知是經義不可思議果報亦不可思議。

(16)
「また、スブーティよ。善き男や善き女がこの経を記憶し、繰り返し唱え、念じて実践する場合でも、他の人々に軽んじられることがあるかも知れない。それはなぜかというと、その人々は前の生涯において、罪業によって悪道に堕ちるべきだった。しかし、現在の生存で軽んじられることによって、前の生涯の罪業は消滅し、最高の覚りを得るだろう。
スブーティよ、はるか昔、計り知れない長い無限の昔に、ディーパンカラ如来がおられ、さらに、それよりもずっと以前に、計り知れない数の諸々の如来がおられた。私はこれらの如来に仕え、供養し、虚しく過ごしたことは一切ありませんでした。一方で、もし正しい教えが滅びる時代に、この経を記憶し、読誦することによって得られる功徳に比べれば、私がこれまでに諸々の如来に対して行った供養の功徳は、百分の一にも及ばないし、百千億兆分の一にも及ばない。経を実践する功徳は、計算や例えで示すこともできないほど大きいのだ。」

「スブーティよ、もし正しい教えが滅びる時代に、善き男や善き女がこの経を記憶し、読誦するとして、彼らが得る功徳を私が全て語ったとしたら、それを聞いた人の中には、心が乱れ、疑いを持ち、信じない者もいるだろう。スブーティよ、この経の意義は計り知れず、その果報も同様に計り知れないことを知るべきである。」

36鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/26(火) 22:37:48 ID:q2GfShcg0
>>32 実践すれば拘りや、囚われがなくなってくるじゃろう。
 それは人によって違うからみんなが同じ段階を経過するものではないのじゃ。
 わしのように頓悟する者もいるからのう。

37避難民のマジレスさん:2023/12/27(水) 21:18:14 ID:Dp/qMVVc0
爾時須菩提白佛言。世尊。善男子善女人。
發阿耨多羅三藐三菩提心。
云何應住云何降伏其心佛告須菩提。
善男子善女人發阿耨多羅三藐三菩提者。當生如是心。
我應滅度一切衆生。
滅度一切衆生已而無有一衆生實滅度者。何以故。須菩提。
若菩薩有我相人相衆生相壽者相則非菩薩。
所以者何。須菩提。
實無有法發阿耨多羅三藐三菩提者。須菩提。

(17-a)
その時スブーティは尋ねました。
「師よ、善き男や善き女を問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
「善き男や善き女が菩薩の道に進むには、このような決意を持たなければならない。
すなわち、『私は全ての生きとし生けるものを救済し、ニルヴァーナに導くべきである。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかと言うと、スブーティよ。
もし菩薩が自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、
生きているものという観念、輪廻の主体という観念を生ずるなら、
それは菩薩ではないからだ。
それはなぜかと言うと、スブーティよ。
実際には、菩薩の道に進む人と言うようなものは何も存在しないからだ。」

ありがとうございます。鬼和尚は自我が滅した後、空観で認識を滅したと言うことでしたが、その時には既に空を感得済みだったのでしょうか?
鬼和尚は経を多く読んでいたとのことですが、どのようなプロセスで空の法を身につけ、実践していったのかがわかれば、お教えください。

38鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/27(水) 21:54:08 ID:EV1.tHyw0
>>37 ただ単に般若部の経典を多く読んでいただけなのじゃ。
 金剛般若経の他に八千頌般若経とか華厳経とかも読んでいたのじゃ。
 そうしたら自然に身についたのじゃ。

39避難民のマジレスさん:2023/12/28(木) 21:16:55 ID:Dp/qMVVc0
於意云何。
如來於然燈佛所有法得阿耨多羅三藐三菩提不。
不也世尊。如我解佛所説義。
佛於然燈佛所無有法得阿耨多羅三藐三菩提。佛言。
如是如是。須菩提。
實無有法如來得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。
若有法如來得阿耨多羅三藐三菩提者。
然燈佛則不與我受記。汝於來世當得作佛。
號釋迦牟尼。
以實無有法得阿耨多羅三藐三菩提。是故然燈佛與我受記作是言。
汝於來世當得作佛號釋迦牟尼

(17-b)
師は尋ねました。
「スブーティよ、どう思うか?
如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。私が師の教えを理解する限り、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」
師は言いました。「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。
スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、
ディーパンカラ如来は私に対して『汝は将来如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。」
実際にはこの上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に「将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう」と予言なされたのだ。

鬼和尚は般若部の経典を読みはじめた頃、読みにくさや抵抗感は感じなかったのでしょうか?
私の場合、軽く読む場合は特に何もありませんが、しっかりと念じつつ読もうとすると、頭がふらふらしたり、眠くなったり、離れたくなったりします。

40鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/28(木) 21:22:30 ID:QffGl9wA0
わしもなにやらストレスがたまるような感じになったのじゃ。
のどが詰まるような、いらいらする感じなのじゃ。
しかし死の恐れがある故に読み続けたのじゃ。
不可避である死を想えばそれらにも耐えられたのじゃ。

41避難民のマジレスさん:2023/12/29(金) 21:06:45 ID:Dp/qMVVc0
何以故?如來者,即諸法如義。
若有人言如來得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。
實無有法佛得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。
如來所得阿耨多羅三藐三菩提。於是中無實無虚。
是故如來説一切法皆是佛法。須菩提。
所言一切法者。即非一切法。是故名一切法。須菩提。

(17-c)
なぜかというと、如来とは、即諸法如義であるからだ。(これは真如の異名なのだ)
もしも誰かが、『如来がこの上ない正しい覚りを得られた』と言うならば、それは誤りである。
それはなぜかというと、スブーティよ、実際にはこの上ない正しい覚りを得る方法は存在しないからだ。
スブーティよ、如来が得たこの上ない正しい覚りは、その中に真実も虚妄も無い。
それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、
「すべての法」と言われるものは、実際には「すべての法」では無い。
それゆえに「すべての法」と言われるのだ。」

ありがとうございます。確かにのどが詰まるような感じもします。
読み続けているうちに、ストレスがたまるような感じにはならなくなってきたのでしょうか?
(17-c)で、即諸法如義をどう訳せば良いのか分かりませんでした。(中村元の訳では「これは、真如の異名なのだ」と訳されています。) また、後半の「すべての法」の「法」をどう訳したら良いでしょうか。

42避難民のマジレスさん:2023/12/30(土) 21:39:53 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
譬如人身長大。須菩提言。世尊。
如來説人身長大則爲非大身。是名大身。須菩提。
菩薩亦如是。若作是言。
我當滅度無量衆生則不名菩薩。何以故。須菩提。
實無有法名爲菩薩。
是故佛説一切法無我無人無衆生無壽者。須菩提。若菩薩作是言。
我當莊嚴佛土。是不名菩薩。何以故。
如來説莊嚴佛土者。即非莊嚴是名莊嚴。須菩提。
若菩薩通達無我法者。如來説名眞是菩薩

(17-d)
「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」
スブーティは言いました。「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」

「スブーティよ、その通りだ。
もし菩薩が『私は生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。
それはなぜか。スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」
スブーティは答えました。「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」
師は言われました。「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。
それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻主体というものはない』と言われるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が「ものには自我がない、ものには自我がない」と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩とであると称するのである。」

「若菩薩通達無我法者」の「無我法」を「ものには自我がない」と訳したのですが、これは正しい訳でしょうか?

43鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/30(土) 22:59:27 ID:70F9ngwY0
>>41 ならなくなったのじゃ。
 
 如来とは即諸法の儀の如くという意味であるから、というのじゃ。
 後段と比べれば諸法の真の意味を説くが如きものじゃな。
 悟りは説法できるものではないから、法を説くが如きものであり、如来というのじゃな。
 
 

 一切の法は、すべての法でよいのじゃ。

44鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/30(土) 23:26:55 ID:70F9ngwY0
>>42 上の段とつながっているからそれでよいじゃろう。
 そこだけ変えてもおかしいからのう。
 それでよいのじゃ。

45避難民のマジレスさん:2023/12/31(日) 20:13:03 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。如來有肉眼不。
如是世尊。如來有肉眼。須菩提。於意云何。
如來有天眼不。如是世尊。如來有天眼。
須菩提。於意云何。如來有慧眼不。如是世尊。
如來有慧眼。須菩提。於意云何。
如來有法眼不。如是世尊。如來有法眼。須菩提。
於意云何。如來有佛眼不。如是世尊。
如來有佛眼。須菩提。於意云何。
恒河中所有沙佛説是沙不。如是世尊。如來説是沙。
須菩提。於意云何。
如一恒河中所有沙有如是等恒河。是諸恒河所有沙數佛世界。
如是寧爲多不。甚多世尊。佛告須菩提。
爾所國土中所有衆生若干種心如來悉知。
何以故。如來説諸心皆爲非心是名爲心。
所以者何。須菩提。過去心不可得。
現在心不可得。未來心不可得

(18)
「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」

「スブーティよ、どう思うか。 一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いと思うか?」
「非常に多いです、師よ。」

仏はスブーティに告げました。「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。
なぜならば、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心と説いているからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」

ありがとうございます。私も実践を続けます。

46鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/12/31(日) 23:02:42 ID:Hvbyzulo0
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
読経も実践であるからのう。

47避難民のマジレスさん:2024/01/01(月) 21:33:24 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。
若有人滿三千大千世界七寶以用布施。
是人以是因縁得福多不。如是世尊。此人以是因縁得福甚多。
須菩提。若福徳有實。如來不説得福徳多。
以福徳無故。如來説得福徳多。

(19)
「スブーティよ、どう思うか?もし誰かがはてしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」
「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」
「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」

鬼和尚は悟りを得る前に般若部の経典を読んでいた時には、どのように読んでいたのでしょうか。黙読だけではなく、声に出したり、書き写したりもしましたか? あと覚えた詩句を繰り返し念じたりしましたでしょうか。

48鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/01(月) 22:46:31 ID:eDDa/u.M0
わしは黙読だけだったのじゃ。
現代文訳だったのじゃ。
何度も考えたりしたのじゃ。
唱えたりはしなかったのじゃ。

49避難民のマジレスさん:2024/01/02(火) 20:14:15 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。
佛可以具足色身見不。不也世尊。如來不應以具足色身見。
何以故。如來説具足色身。即非具足色身。
是名具足色身。須菩提。於意云何。
如來可以具足諸相見不。不也世尊。
如來不應以具足諸相見。何以故。
如來説諸相具足即非具足。是名諸相具足。

(20)
「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。なぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると言われる』と如来が説かれているからです。

「スブーティよ、どう思うか。 如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。なぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると言われる』と如来が説かれているからです。」

ありがとうございます。経を読む時に何度も考えたりしたというのが、経の意味を確かめながら読むというのに相当するということでしょうか? 囚われや拘りが減っていけば、どのやり方でも良いかとは思うのですが、私も経を考えながら訳していて、鬼和尚は例えばどのようなことを考えて読んでいたのかが気になりました。

50鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/02(火) 23:49:04 ID:fo3/TRlw0
そうじゃ、意味を把握しなければ何にもならないからのう。
言葉の意味を考えながら読んだのじゃ。
アートマンとかは何であるかとかのう。

51避難民のマジレスさん:2024/01/03(水) 21:12:55 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
汝勿謂如來作是念。我當有所説法。莫作是念。
何以故。若人言如來有所説法即爲謗佛。
不能解我所説故。須菩提。
説法者無法可説。是名説法
爾時慧命須菩提白佛言。世尊。
頗有衆生於未來世。聞説是法生信心不。佛言。
須菩提。彼非衆生非不衆生。何以故。
須菩提。衆生衆生者。如來説非衆生。是名衆生

(21)
「スブーティよ、如来が『私は法を説いた』と考えるだろうか。」
「師よ、そのように考えることはありません。」
「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、仏を謗ることになる。
それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」
このように言われた時に、スブーティは師に問いました。
「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」
師は言いました。
「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』と言われるものは、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と言われるのだ。」

読経も含めて、実践をしていると、何もかもが無意味に感じられて、もう悟りを得るしかないと思うのですが、自我の観察に向かうのにもストレスがかかり、動画を見たり音楽を聞いたりして貴重な時間を消費してしまったりします。とにかく、気づいた時には正しい観察に戻るようにしているのですが、このまま忍耐を持って続ければ良いでしょうか?

52鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/03(水) 23:10:30 ID:8TljLGdc0
そうじゃ、どこまでも実践し続けるのじゃ。
苦しい時こそ大きく進歩しているものじゃ。
早く走るほど風が強くなるようなものじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

53避難民のマジレスさん:2024/01/04(木) 20:40:33 ID:Dp/qMVVc0
須菩提白佛言。世尊。
佛得阿耨多羅三藐三菩提。爲無所得耶。如是如是。須菩提。
我於阿耨多羅三藐三菩提。
乃至無有少法可得是名阿耨多羅三藐三菩提。

(22)
スブーティは、師に尋ねました。
「師よ、如来がこの上ない正しい覚りを得た時、何も得なかったのでしょうか。」
「スブーティよ、その通り、その通りだ。私がこの上ない正しい覚りを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しい覚りと言われるのだ。」

復次須菩提。是法平等無有高下。
是名阿耨多羅三藐三菩提。
以無我無人無衆生無壽者。
修一切善法則得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。所言善法者。
如來説非善法是名善法

(23)
「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。
それだからこそ、この上ない正しい覚りと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しい覚りを得ることができる。
スブーティよ、善法と言われるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」

ありがとうございます。
悟りを得るまで決して修行をやめないことを誓います。

54鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/04(木) 22:29:44 ID:uA0GWk8Y0
そうじゃ、真の大悟徹底まで精進あるのみなのじゃ。

55避難民のマジレスさん:2024/01/05(金) 21:34:25 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
若三千大千世界中所有諸須彌山王。如是等七寶聚有人持用布施。
若人以此般若波羅蜜經乃至四句偈等。
受持讀誦爲他人説。於前福徳百分不及一。
百千萬億分乃至算數譬喩所不能及

(24)
「スブーティよ、もしこの果てしない世界にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの、七宝の富を持ち、それを布施する人がいたとしても、この智慧の完成という法の、たとえ四行詩一つでも心に留めて唱え実践し、他人のために説く人の功徳には、前の方の功徳は百分の一にも及ばないし、百千億兆分の一にも及ばないし、計算や例えで示すこともできないほどに及ばない。」

須菩提。於意云何。汝等勿謂如來作是念。
我當度衆生。須菩提。莫作是念。何以故。
實無有衆生如來度者。
若有衆生如來度者。如來則有我人衆生壽者須菩提。
如來説有我者則非有我。
而凡夫之人以爲有我。須菩提。凡夫者如來説則非凡夫。是名凡夫。

(25)
「スブーティよ、どう思うか、「私は生きものを救った」というような思いが如来におこるだろうか。
スブーティよ、しかし、このようにみなしてはならない。
それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。
もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。」
「スブーティよ、如来が「自我がある」と説いても、それは実際には「自我がある」わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には「自我がある」と考えるのだ。
スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」

金剛般若経などの般若経を読む際に、日常でも認識が遅くなったり止まったり、薄くなったりするのが正しい方向性で、鈴木大拙の述べているような即非の論理の説明を読んで、普通の論理の通じない世界があると理解したつもりになるのは間違った方向性と捉えて良いでしょうか?
金剛般若経を読んで実践する際の落とし穴みたいなのがありましたら、知りたいです。

56鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/05(金) 23:26:19 ID:1VhqoOkY0
そうじゃ、自分を追及するのが本道なのじゃ。
 それを間違えてはいかんのじゃ。
 輪廻の主体とは何か、それが本当に自分にあるのか、どこまでも追求していくのが正しいのじゃ。
 法はそのための道具に過ぎないのじゃ。
 それがわからなければ経も無意味なものになるだけなのじゃ。

57避難民のマジレスさん:2024/01/06(土) 21:30:09 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。
可以三十二相觀如來不。須菩提言。如是如是。
以三十二相觀如來。佛言。須菩提。
若以三十二相觀如來者。轉輪聖王則是如來。
須菩提白佛言。世尊。如我解佛所説義。
不應以三十二相觀如來。爾時世尊而説偈言
若以色見我 以音聲求我
是人行邪道 不能見如來

(26)
「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」
スブーティは答えました。「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」
師は言いました。「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
スブーティは言いました。「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」

その時、師は、次のような詩を歌われました。
形によって私を見、
声によって私を求める者は、
間違った努力を行っており、
私を見ることはできない。

確かに自我が観察されない限り、厭離されないので、自分を追及することから外れないようにしなければなりませんね。
自我の観察なのですが、特に手や腕はよく観察しているためか、自分のものではない、ただの物体のように感じられることが多くなってきました。ただ、特別な気づきがあった訳ではなく、だんだん自分のものという感覚が薄れてきているような感じです。思考など、心の中の対象に自我が投射されている場合も、このような経過を辿ることもあるのでしょうか?

58鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/06(土) 23:30:04 ID:WS68vGzY0
そのような経過を辿ることもあるじゃろう。
 修行の進展は人により、状況によっても違うから確かにそうだとは言えないがのう。
 自ら実践して確かめるしかないのじゃ。
 実践がすべてなのじゃ。

59避難民のマジレスさん:2024/01/07(日) 19:43:15 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。汝若作是念。如來不以具足相故。
得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。
莫作是念。如來不以具足相故。
得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。若作是念。
發阿耨多羅三藐三菩提者説諸法斷滅相。
莫作是念。何以故。發阿耨多羅三藐三菩提心者。
於法不説斷滅相。

(27)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しい覚りを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。
なぜかと言うと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しい覚りを得た』ということはないからだ。
さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。
けれども、スブーティよ、このように見てはならない。
それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」

ありがとうございます。
自我の観察は難しく、見当違いの観察をしていないかが気になってしまいます。

60鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/07(日) 23:42:24 ID:fQns3DBw0
常に自分とは何か、何が主体といえるのか、を忘れずに追求し続けるのじゃ。
見る者聞く者の対象ではなく、主体を求めるのじゃ。
そうすれば迷うことも無いのじゃ。

61避難民のマジレスさん:2024/01/08(月) 20:56:15 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
若菩薩以滿恒河沙等世界七寶布施。
若復有人知一切法無我得成於忍。
此菩薩勝前菩薩所得功徳。須菩提。以諸菩薩不受福徳故。
須菩提白佛言。世尊。云何菩薩不受福徳。
須菩提。菩薩所作福徳不應貪著。
是故説不受福徳

(28)
「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。
けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」
スブーティは師に問いました。「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」
師は答えました。「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」

できるだけ常に自分のイメージや主体の感覚に注意するようにします。
そういえば、以前思考を観察し始めたばかりの頃は、思考が自分の内側にある感じがしていたのですが、いつの間にか思考を自然に観察できるようになり、今は思考が自分の外側にある感じがしています。その思考の内側にあると感じられる自分に注意を向けるようにします。

62鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/08(月) 22:56:47 ID:fG02xWXo0
善い事じゃ。
確実に進歩しているのじゃ。
さらに精進あるのみなのじゃ。

63避難民のマジレスさん:2024/01/09(火) 21:56:24 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
若有人言如來若來若去若坐若臥。是人不解我所説義。何以故。
如來者無所從來亦無所去故名如來

(29)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その人は私が説いた言葉の意味を理解していない。
なぜならば、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」

金剛経で布施の話が何回も出てきますが、かなり極端な話に思えます。これは金剛経の実践と布教に誘うためなのでしょうか。実践者は「執着しないで布施をせよ。また金銭の布施よりも金剛経の実践の方が功徳が多い」という感じで理解すれば良いでしょうか。

64鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/09(火) 23:15:04 ID:Bm0VES4g0
そのような理解でよいのじゃ。
教えの布施はあらゆる布施に勝るというからのう。
教えの実践もまた布施に勝るのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

65避難民のマジレスさん:2024/01/10(水) 21:44:54 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。若善男子善女人。
以三千大千世界碎爲微塵。於意云何。是微塵衆寧爲多不。
甚多世尊。何以故。若是微塵衆實有者。
佛則不説是微塵衆。所以者何。
佛説微塵衆則非微塵衆。是名微塵衆。世尊。
如來所説三千大千世界則非世界。是名世界。
何以故。若世界實有者則是一合相。
如來説一合相則非一合相。是名一合相。須菩提。
一合相者則是不可説。但凡夫之人貪著其事

(30)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。
なぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。
師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」
「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはその事に執着するのだ。」

確かに教えの実践によって悟りが得られるなら、それが最高の福徳ですね。
自我の観察に励みます。

66鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/10(水) 23:11:37 ID:s26d7u1k0
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

 如来の説く微塵集は微塵集ではなく、一合相も一合相ではない。
 それが正しい説きかたなのじゃ。
 すべては言語から離れたものであるからなのじゃ。
 言語によって示されたものが実在と認識するのが謬見なのじゃ。

67避難民のマジレスさん:2024/01/11(木) 21:24:21 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
若人言佛説我見人見衆生見壽者見。須菩提。於意云何。
是人解我所説義不。世尊。是人不解如來所説義。何以故。

世尊説我見人見衆生見壽者見即非我見人見衆生見壽者見。
是名我見人見衆生見壽者見。須菩提。
發阿耨多羅三藐三菩提心者。於一切法。
應如是知如是見如是信解不生法相。須菩提。所言法相者。
如來説即非法相。是名法相。

(31)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その人は私が説いた意味を理解しているだろうか?」
スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。
なぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念ではないからです。
それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と言われるのです。」

「スブーティよ、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。
スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」

最近は金剛般若経を読んでいても、以前のようにきついストレスを感じたりはしなくなって来ました。ただ、読み飛ばしてしまうようなことが起きてきたので、しっかりと注意深く読むことを心がけます。

68鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/11(木) 22:50:16 ID:Vqw9c3F.0
善い事じゃ。
全てを法ではないと法として念じれば、観念から離脱できるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。

69避難民のマジレスさん:2024/01/12(金) 20:55:59 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
若有人以滿無量阿僧祇世界七寶持用布施。
若有善男子善女人發菩薩心者。
持於此經乃至四句偈等。受持讀誦爲人演説其福勝彼。
云何爲人演説。不取於相如如不動。何以故
一切有爲法 如夢幻泡影
如露亦如電 應作如是觀
佛説是經已。
長老須菩提及諸比丘比丘尼優婆塞優婆夷。一切世間天人阿修羅。
聞佛所説皆大歡喜。
信受奉行金剛般若波羅蜜經

(32)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の心を発して、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。」
それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。

 世界の一切のものごとは
 夢や幻、泡や影、
 露や稲妻のよう、
 そのように観るがよい。」

師がこの経を説いた後、スブーティや修行者、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。

金剛経の中にも「法」がたくさん出てきますが、文脈によって日本語の意味が変わってきます。
> 全てを法ではないと法として念じれば、観念から離脱できるのじゃ。
ここで1番目の「法」はことがらとか、ものごと、2番目の「法」は方法という意味でよいでしょうか?

金剛般若経の訳を一応終えたので、文体のゆらぎの修正や鬼和尚の助言を反映して、電子書籍にしようと思います。その前に数回に区切ってまとめて修正版をここに書き込みますので、誤りや改善点など、必要がありましたらコメントをいただけますとありがたいです。

70鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/12(金) 23:53:39 ID:pYaVtds60
全部、ことがら等でよいのじゃ。
それが般若の完成なのじゃ。
ご苦労さんだったのじゃ。

71避難民のマジレスさん:2024/01/13(土) 21:09:36 ID:Dp/qMVVc0
>>70 ありがとうございます。
まだ少しでも文脈が変わると、般若の完成は実践できてないですね。思わず自分を笑ってしまいました。
さらに精進します。
また、金剛般若経の(1)から(5)まで、まとめてみました。もし間違いや改善点などがありましたら、お願いします。

(1) わたしはこのように聞きました。
あるとき師は、千二百五十人もの修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
 ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。

(2) ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。
 「師よ、素晴らしいことです。如来は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
 師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指すことを決意した菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
 師は答えました、「スブーティよ、あなたの言う通りだ。如来は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、菩薩の道に向かう者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきかを話して聞かせよう。」
 スブーティは答えました。「そうしてくださいますように、師よ。」

(3) 師は、このように話しだされました。
 「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。

 『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』

 それはなぜかというと、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。」

(4) 「また、スブーティよ、菩薩は何かに執着しながら施しをすべきでない。形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、心の対象についても、執着しながら施しをすべきでない。
 スブーティよ、果報を求めるという思いに囚われないように、菩薩は施しをしなければならない。」
 「それはなぜかというと、スブーティよ。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なり、計り知れない程になるからだ。スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り知られるだろうか。」

 「いいえ、師よ、計り知れません。」

 「スブーティよ、これと同じように、南や、東や、北や、下や、上の方角の、あまねく十方の虚空の量を、計り知られるだろうか。」

 「いいえ、師よ、計り知れません。」

 「スブーティよ、これらと同じことである。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
 スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという思いに執着せずに、施しをしなければならない。」

(5) 「スブーティよ、どう思うか。如来を身体の特徴をもって見るべきだろうか。」

 「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
 そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」

72鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/13(土) 23:45:22 ID:QszdsJ4o0
菩薩はさまざまな観念にとらわれず、布施の完成を目指すべきだというのじゃ。
観念への囚われがあればもはや菩薩ではないというのじゃ。
真実が見えていないからなのじゃ。
妄想を観ているからなのじや。
その妄想を金剛石のように断つのがこの経の教えなのじゃ。

73避難民のマジレスさん:2024/01/14(日) 21:29:12 ID:Dp/qMVVc0
ありがとうございます。金剛般若経の(6)から(8)までを、まとめてみました。
> 菩薩はさまざまな観念にとらわれず、布施の完成を目指すべきだというのじゃ。
布施の完成→智慧の完成 でしょうか?

(6) スブーティは尋ねました。「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」
 師は答えました。「スブーティよ、そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。」
 「これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
 それはなぜかというと、その者たちは自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。
 また、(悟りを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。なぜならば、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、自我という観念としての、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。
 もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。したがって、方法も方法でないものも受け取るべきではない。
 それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」

(いかだの喩え:仏教の教え(法)を川を渡るための筏のように利用するが、川を渡った後はいかだ(法)を捨てるべきだという意味です。これは、仏教の教えが最終的な目的地ではなく、悟りに至るための手段として実践し、達すれば捨て去られる方法として説かれることを示しています。)

(7) 師は、スブーティに問われました。「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」
 スブーティは答えました。「師よ、私が師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。
なぜならば、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」

(8) 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。もし誰かが果てしなく広い世界に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その者が得る福徳は多いだろうか?」
 スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」
 師は言われました。「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも、繰り返し唱え念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その者の福徳は前者よりも勝るだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、すべて諸々の如来の得る、この上なく正しい悟りの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法ではないからだ。それゆえに覚者の方法と言われるのだ。」

74鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/14(日) 23:14:27 ID:EiqSssKw0
ここでは観念や人々に共通する概念が、それ自体ではないからそのように呼ばれると何度も説かれるのじゃ。
それによって観念を破壊することを目論んでいるのじゃ。
観念を破壊する観念こそ般若の法なのじゃ。

75避難民のマジレスさん:2024/01/15(月) 21:07:08 ID:Dp/qMVVc0
金剛般若経の(9)から(11)までを、まとめてみました。

(9) 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」
 スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と言われるのです。」
 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。もう一度だけ生まれかわって覚る者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」
 スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわって覚る者を意味しますが、実際には、生まれかわって覚る者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」
 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」
 スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」
 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。最高の覚りを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」
 スブーティは答えました。「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
 師よ、如来は私のことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかし私は「私は離欲の阿羅漢だ」とは考えません。師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、
如来は『スブーティは阿蘭那(孤独)の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。」

(10) 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて何かを得ただろうか。」

 「いいえ。師よ、如来がディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて得たものは何もありません。」

 「スブーティよ、どう思うか。菩薩が浄土を完成することはできるだろうか。」

 「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と言われるのです。」
 師は言われました。「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。
 スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」
 スブーティは答えました。「非常に大きいです、師よ。なぜならば如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と言われると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と言われるのです。」

(11) 師はスブーティに問われました。「スブーティよ、もしガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとする。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」
 スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」
 師は言われた。「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」
 スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。」
 師はスブーティに言われました。「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも、繰り返し唱え念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」

76鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/15(月) 23:14:19 ID:UUarCKjA0
如来の得たものや、修行者の到達した境地でさえ、あり得ないものであるからこそ、そのように呼ばれるというのじゃ。
観念によるなにもの得ることなく、無観念による境地が正しく如来や菩薩が得たものであるからなのじゃ。
得ることなく得た境地が真の菩薩の境地であり、大悟徹底の境地なのじゃ。

77避難民のマジレスさん:2024/01/16(火) 21:04:30 ID:Dp/qMVVc0
金剛般若経の(12)から(14)の途中までを、まとめてみました。

(12) 「さらにまたスブーティよ、どのような地方でもこの経を、たとえ四行詩一つであっても、説いて聞かせられるとすれば、その地方は、人間と天人と神々全てにとって、まるで仏の聖地に供え物を捧げるように尊重されるということを知るべきである。ましてや、この経を全て心に留め、読み、繰り返し唱え念じて実践する者がいるとしよう。スブーティよ、その者は最高の教えと実践を成就したということを知るべきである。
 この経典が存在する場所は、まるで仏がいるかのよう、または尊い弟子がいるかのような場所である。」

(13) その時、スブーティは師に尋ねました。「師よ、この経は何と名付けられるのですか? また私たちはどのように記憶すべきでしょうか?」
 師はスブーティに答えました。「この経は智慧の完成と名付けられる。その名前で記憶すべきである。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成ではないからだ。それだからこそ、智慧の完成と言われるのだ。」

 「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」
 スブーティは答えました。「師よ、如来が説いた法は何もありません。」

 「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」
 スブーティは答えました。「師よ、非常に多いです。」

 「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と言われる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と言われる。」

 「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」

 「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。それはなぜかというと、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と言われるのです。」

 「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂の数と等しいほど体を捧げたとしても、この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留め、読み、繰り返し唱え念じて実践し、他人のために説く者がいるとすれば、その福徳のほうが遥かに大きいのだ。」

(14)-a  そのときスブーティはこの教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
 涙を拭い終わって、師に言いました。「師よ、すばらしいことです。如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、私がこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。
 師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような人は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと言うのです。
 師よ、私が今このような教えを聞いて、信じて受け入れることは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その人はこの上なく希有でありましょう。なぜかと言うと、その人には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れるのが、諸々の覚者であるからです。」
 師はスブーティに言いました。「その通りだ。もし他の者がこの教えを聞いて、驚かず、怖れず、恐怖に陥らないならば、その者はこの上なく希有である。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く最上の完成は、実際には最上の完成ではない。それゆえに最上の完成と言われるのだ。」
 師はこのように話されました。「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜかというと、スブーティよ、かつて私がある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切なかったからだ。
 それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。」

78避難民のマジレスさん:2024/01/16(火) 21:12:55 ID:Dp/qMVVc0
金剛般若経の(14)の途中から(15)までを、まとめてみました。

(14)-b 「スブーティよ、また過去を振り返ってみると、私は五百の生涯のあいだ、忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。」
 「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。
 スブーティよ、菩薩はすべての生きとし行けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を説く者、正しい言葉を語る者、欺かない者、正しく語る者であるからだ。」
 「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」
 「スブーティよ、もし菩薩がものごとに執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩がものごとに執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」
 「スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」

(15) 「スブーティよ。もし善き男や善き女が、午前中にガンジス河の砂の数と等しいほどの体を捧げ、昼間にも同じく、夕刻にもまた同じく布施を行い、このように無限に長い間にわたって体を捧げたとしても、もしまた誰かがこの経を聞いて信心が揺らがなければ、その人の福徳はそれよりも勝るだろう。ましてや、この経を書写して記憶し、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々に詳しく説いて聞かせるならば、なおさらのことだ。
 スブーティよ、実に、この経には計り知れない、無限の功徳がある。如来は、この上ない道に向かう人々のために、また最上の道に向かう人々のためにこれを説いた。もし人がこれを記憶し、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、広く他の人々に説くなら、如来はその人を完全に知るだろう。如来はそのような人々をすべて見ており、そのような人々は計り知れない、言葉では表せない、限りなく、考えられないほどの功徳を成就するだろう。彼らは皆、覚りに与かることになるだろう。」
 「それはなぜかというと、スブーティよ。劣った信解にとどまる者は、この法を聞くことができないからだ。自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着する者は、この法を、受け容れられないからだ。菩薩の願いと決意をしない者には、この法を聞き、受け入れ、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々に詳しく説いて聞かせることはできない。」
 「どの地方でもこの法が説かれる地方は、人間と天人と神々全てによって尊敬され供養すべきである。その場所はまるで仏の聖地のように、皆が敬意を表して礼拝し、花や香で飾るべきである。」

79鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/16(火) 23:24:25 ID:5U/9pdaA0
この教えを広めた者には大きな功徳があるというのじゃ。
それもまた囚われのない布施になるからなのじゃ。
なにかを教えたのではないから、最高の教えなのじゃ。
それを説くのが最高の教えの布施なのじゃ。

80避難民のマジレスさん:2024/01/17(水) 20:28:39 ID:Dp/qMVVc0
(16) 「また、スブーティよ。善き男や善き女がこの経を記憶し、読み、繰り返し唱え、念じて実践する場合でも、他の人々に軽んじられることがあるかも知れない。それはなぜかというと、その人々は前の生涯において、罪業によって悪道に堕ちるべきだった。しかし、現在の生存で軽んじられることによって、前の生涯の罪業は消滅し、最高の覚りを得るだろう。
 スブーティよ、はるか昔、計り知れない長い無限の昔に、ディーパンカラ如来がおられ、さらに、それよりもずっと以前に、計り知れない数の諸々の如来がおられた。私はこれらの如来に仕え、供養し、虚しく過ごしたことは一切なかった。一方で、もし正しい教えが滅びる時代に、この経を記憶し、読み、繰り返し唱え、念じて実践することによって得られる功徳に比べれば、私がこれまでに諸々の如来に対して行った供養の功徳は、百分の一にも及ばないし、百千億兆分の一にも及ばない。経を実践する功徳は、計算や例えで示すこともできないほど大きいのだ。」
 「スブーティよ、もし正しい教えが滅びる時代に、善き男や善き女がこの経を記憶し、読み、繰り返し唱え、念じて実践するとして、彼らが得る功徳を私が全て語ったとしたら、それを聞いた人の中には、心が乱れ、疑いを持ち、信じない者もいるだろう。スブーティよ、この経の意義は計り知れず、その果報も同様に計り知れないことを知るべきである。」

(17)-a その時スブーティは尋ねました。「師よ、善き男や善き女を問わず、最高の悟りを目指すことを決意した菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」

 「善き男や善き女が菩薩の道に向かうには、このような決意を持たなければならない。すなわち、『私は全ての生きとし生けるものを救済し、不生不滅の涅槃に導かなければならない。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
 それはなぜかというと、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ。実際には、菩薩の道に進む人というようなものは何も存在しないからだ。」
 師は尋ねました。「スブーティよ、どう思うか? 如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」
 スブーティは答えました。「いいえ、師よ。私が師の教えを理解したところによると、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」
 師は言いました。「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来は私に対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。」実際にはこの上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なされたのだ。」
 それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。
 もしも誰かが、『如来がこの上ない正しい覚りを得られた』と言うならば、それは誤りである。それはなぜかというと、スブーティよ、実際にはこの上ない正しい覚りによって得られることがらは存在しないからだ。スブーティよ、如来が得たこの上ない正しい覚りは、その中に真実も虚妄も無い。それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、すべての法と言われるものは、実際にはすべての法ではない。それゆえにすべての法と言われるのだ。」

81避難民のマジレスさん:2024/01/17(水) 21:03:35 ID:Dp/qMVVc0
(17)-b 「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」
 スブーティは言いました。「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」

 「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『私は生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」
 スブーティは答えました。「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」
 師は言われました。「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩であると言うのである。」

(18) 「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
 「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」

 「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
 「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」

 「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
 「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」

 「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
 「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」

 「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
 「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」

 「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
 「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」

 「スブーティよ、どう思うか。 一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いと思うか?」
 「非常に多いです、師よ。」

 師はスブーティに言われました。「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。それはなぜかというと、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心だと説いているからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」

82鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/17(水) 23:20:37 ID:R3Qt5oYY0
菩薩も如来も法も悟りもすべて存在しないというのじゃ。
そのような正しい認識に到達した者が菩薩であり、如来であるというのじゃ。
観念が存在しないことを気づかせるのが法なのじゃ。
観念から完全に解脱することが悟りなのじゃ。
そこにはもはや存在の観念も、観念を起こすものもないのじゃ。

83避難民のマジレスさん:2024/01/18(木) 21:10:40 ID:THYKjq.U0
(19)「スブーティよ、どう思うか? もし誰かが果てしなく広い世界に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」
 「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」
 「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」

(20)「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」
 「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。なぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると言われる』と如来が説かれているからです。
 「スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」
 「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。それはなぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると言われる』と如来が説かれているからです。」

(21) 「スブーティよ、如来が『わたしは法を説いた』と考えるだろうか。」
 「師よ、如来がそのように考えることはありません。」
 「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、わたしを謗ることになる。それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」
 このように言われた時に、スブーティは師に問いました。「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」
 師は言いました。「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』と言われるものは、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と言われるのだ。」

84鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/18(木) 23:43:20 ID:ODduI/wk0
スブーティはこのように高度で難解な教えを未来において理解できるようなものが居るであろうかと、聞いたのじゃ。
そのような者たちは衆生ではないから、衆生であるというのじゃ。
衆生という観念を解脱した者たちは確かにいるというのじゃ。
そのような者たちのために説かれているのじゃ。

85避難民のマジレスさん:2024/01/19(金) 21:04:25 ID:Dp/qMVVc0
(23) 「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しい覚りと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しい覚りを得ることができる。スブーティよ、善法と言われるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」

(24) 「スブーティよ、もしこの果てしない世界にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの、七宝の富を持ち、それを布施する人がいたとしても、この智慧の完成という法の、たとえ四行詩一つでも心に留めて繰り返し唱え念じて実践し、他人のために説く人の功徳には、前の方の功徳は百分の一にも及ばないし、百千億兆分の一にも及ばないし、計算や例えで示すこともできないほどに及ばない。」

(25) 「スブーティよ、どう思うか、「わたしは生きものを救った」というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」

(26) 「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」
 スブーティは答えました。「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」師は言いました。「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
 スブーティは言いました。「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」
 その時、師は、次のような詩を歌われました。

 形によって私を見、
 声によって私を求める者は、
 間違った努力を行っており、
 私を見ることはできない。

86避難民のマジレスさん:2024/01/19(金) 21:26:32 ID:Dp/qMVVc0
(22) スブーティは、師に尋ねました。「師よ、如来がこの上ない正しい覚りを得た時、何も得なかったのでしょうか。」
 「スブーティよ、その通り、その通りだ。わたしがこの上ない正しい覚りを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しい覚りと言われるのだ。」

(22)を入れ忘れていました。
>>84 ありがとうございます。 
>衆生という観念を解脱した者たちは確かにいるというのじゃ。
>そのような者たちのために説かれているのじゃ。
衆生という観念を解脱した者というのは、衆生という言葉を聞いても、イメージが浮かばない者ということでしょうか?となると、ある程度空観や観察に慣れた人たちということになりますか?
金剛般若経の基本的な対象者を知りたいです。
文中に悟りを得る強い決意を持った者(発菩提心)に対して説いていると書いてあったのですが、私も悟りに向かう前に読んだ時には全くどのような意味で書かれているのかがわからず、長い間放置していました。

87鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/20(土) 00:02:46 ID:FkBbyhhQ0
そうじゃ、かなり修行の進んだ者たちなのじゃ。
もはや法をも捨てる段階の者たちじゃな。
法をも滅しようとしているのであるからのう。
もはや煩悩もなくなり、法という最後の壁をも乗り越えようとしている修行者が対象なのじゃ。
今はわからなくとも修行が進むにつれてわかってくるのじゃ。

88避難民のマジレスさん:2024/01/20(土) 19:35:03 ID:Dp/qMVVc0
(27) 「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しい覚りを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しい覚りを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかというと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」

(28) 「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」
 スブーティは師に問いました。「師よ、菩薩はなぜ福徳を受け取らないのですか?」
 師は答えました。「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」

(29) 「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに如来と言われるのだ。」

(30) 「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
 スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。
 師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」
 「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはその事に執着するのだ。」

かなり修行の進んだ者たちが対象なのですね。この金剛経を電子書籍にする際に、主な対象者や実践方法などの案内文を入れる予定なのですが、大体どの段階くらいからおすすめできるとかはございますか? お釈迦様は、準備のできてない者には法を説かないようにとおっしゃったということでしたが。

89鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/20(土) 22:45:25 ID:SehGnTsQ0
修行中で何かの拘りや囚われがある者から学ぶようにと、薦めるとよいのじゃ。
その観念を滅することができるからなのじゃ。

初心者には難解であるからあまり深く考えず、参考程度にするとよいとか、書いておくとよいのじゃ。

90避難民のマジレスさん:2024/01/21(日) 21:36:57 ID:Dp/qMVVc0
(31) 「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者はわたしが説いた意味を理解しているだろうか?」
 スブーティは答えました。「師よ、その者は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」
 「スブーティよ、最高の悟りを目指すことを決意した菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と呼ばれる。」

(32) 「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が、菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも、心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
 それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると呼ばれるのだ。
  世界の一切のものごとは
  夢や幻、泡や影、
  露や稲妻のよう、
  そのように観るがよい。」
 師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。

https://bccks.jp/bcck/178313/info
に電子書籍版を作成しました。パソコンの場合、左側の「本をよむ」をクリックして読むことができます。最初の「実践のための手がかり」をお読みいただき、間違いや修正点などがありましたら、お知らせください。また、時間があります時に全文を通して読み、何かありましたらご指摘くださいますとありがたいです。私も毎日確認します。
2,3日経って問題が見つかりませんでしたら、紙本も作成する予定です。

91鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/21(日) 22:21:09 ID:hQBBvqhQ0
ご苦労さんなのじゃ。
これもまた菩薩の行いじゃ。
よくがんばったのじゃ。
行ってみるのじゃ。

92避難民のマジレスさん:2024/01/22(月) 21:46:11 ID:Dp/qMVVc0
ありがとうございます。再度読んでみましたが、いくつかタイプミスがありましたので、修正します。また、悟りと覚りの表記の揺れがありましたので、ひらがなのさとりで統一することにしました。もう一度明日読んで確認し、問題がなければ、紙の本も発行します。

93鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/22(月) 21:57:06 ID:ResKxkds0
一通り読んでみたが特に誤字脱字なとはなかったのじゃ。
どんどん広めるとよいのじゃ。
それも菩薩の行いなのじゃ。

94鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/22(月) 22:09:12 ID:ResKxkds0
この金剛般若経とその他の電子本のリンクをわしのブログに貼ってもよいかのう。

95避難民のマジレスさん:2024/01/22(月) 22:39:28 ID:Dp/qMVVc0
はい。むしろありがたいです。お願いします。

96鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/23(火) 23:06:43 ID:rDMaZcqU0
善い事じゃ。
やってみるのじゃ。

97避難民のマジレスさん:2024/01/24(水) 20:50:03 ID:Dp/qMVVc0
おかげさまで、金剛経の電子書籍と音声ファイルを完成させることができました。
ありがとうございました。
今後も私のアップロードや出版したものは、すべて自由に使用してくださって結構です。
この金剛経も使って修行に励みます。

98鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/01/24(水) 22:26:22 ID:oNIg.tfY0
ご苦労さんなのじゃ。
わしのブログにもリンクを貼っておいたのじゃ。
さらに精進あるのみなのじゃ。

99避難民のマジレスさん:2024/05/08(水) 13:41:15 ID:O/mtC.Dk0
鬼和尚による金剛経解説・1

・5ch宗教板の"悟りをひらいた人のスレ"における、鬼和尚による金剛般若経の解説のまとめです。
・解説に対応する金剛経の現代語訳を『***』で挟み、入れています。
 引用元/『金剛経』https://bccks.jp/bcck/178313/info

_____

【天空時】悟りをひらいた人のスレ632【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1639472221/
より、以下抜粋


0754 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/27(月) 23:45:45.21 ID:Qsh/6my3
 
 金剛般若経は能断金剛般若経というのが正式名なのじゃ。
 金剛石、ダイアモンドのように断つことができる智慧の経なのじゃ。
 何を断つことができるのかといえば、執着とか疑惑だというのじゃ。

 つまりダイアモンドのように執着や疑惑を断つことかできる智慧の法門を説いた経なのじゃ。
 それは通常の般若経のように、空という観念を用いて断つのではないのじゃ。
 ただ観念論理の逆転を用いて断つのじゃ。

 それが般若、つまり智慧の法門なのじゃ。
 他の般若経典ではものごとがひたすら空であると観じて執着や疑惑を捨てるものじゃ。
 しかし、金剛般若経では空と言う単語は使っていないのじゃ。

 それでも般若経であるというのじゃ。
 つまり般若とは観念の執着や疑惑を断つ智慧であり、それができるならば空と言う観念もいらないということなのじゃ。
 般若経といえば空の思想であるとか、仏教とは空を悟ることであるとか、そのような一般論は無知の証でしかないのじゃ。
 
 空もまた修業のために一時的に使用する観念を破壊する観念に過ぎないのじゃ。
 執着や疑惑を捨てれば、空もまた捨て去るべきなのじゃ。
 この金剛般若経で説いている逆説による観念の破壊法もまた一時使用して、効果があれば捨て去るべきものなのじゃ。
 始めに先ずそれを知っておかなければならないのじゃ。
 法にも執着しないのが、真の般若の法であるからなのじゃ。

100避難民のマジレスさん:2024/05/08(水) 13:56:27 ID:O/mtC.Dk0
0808鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/28(火) 23:45:49.49 ID:EeuO4Ri7

 金剛般若経は大乗経典に属するものとして分類されているのじゃ。
 他の大乗経典と同じく、お釈迦様の説いたものではないのじゃ。
 後の修行者が創作したものなのじゃ。
 それも修業の役に立つようにと作られたものであるから、仏教の法を説いたものとして受け容れられてきたのじゃ。
 
 金剛般若経はまだ大乗という観念が成立していなかったと見えて、大乗とか小乗とは書いていないのじゃ。
 しかし、後の大乗経典に共通である、一切衆生を済度せしめるという布教方針は同じなのじゃ。
 この経典の創作後に大乗とか小乗という観念も作られたと観るべきなのじゃ。
 それを知っておくとよいのじゃ。


 経典に入るのじゃ。

***
(一)
 わたしはこのように聞きました。
 あるとき師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
 ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。

(二)
 ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。
 スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。

「師よ、素晴らしいことです。仏陀は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
 師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」

 師は答えました。
「スブーティよ、あなたの言う通りだ。仏陀は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、私が話して聞かせよう。求道者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきか。」

 スブーティは答えました。
「そうしてくださいますように、師よ。」

(三)
 師は、このように話しだされました。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。
『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。
 しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、実は誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
 それはなぜかと言えば、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。」

***

 経典の最初にはお釈迦様が祇樹給孤独園に1250人の比丘とともにいたというのじゃ。
 お釈迦様が托鉢から帰って飯を食べて座っていたら、須菩提長老が問いかけてきたというのじゃ。
 その問いは悟りを求める修行者はどのような心がけで生活し、自らの心を制すればよいのかというものじゃった。
 
 お釈迦様はこのように答えたのじゃ。
 悟りを得ようとする者は一切衆生を涅槃にみちびくために修行しようと願うのじゃ。
 しかし、そのようにして一切衆生を涅槃に導いたとしても、実際には一人の衆生も涅槃には入らなかったと想うべきのじゃ。

 なぜならば
 生き物、衆生(サットヴァ)があるという観念や、
 主体(アートマン)があるという観念や、
 個体(ジーナ)があるという観念や
 個我(プトガラ)があるという観念が
 あれば菩薩とはいえないからであるというのじゃ。

101避難民のマジレスさん:2024/05/09(木) 12:24:36 ID:SUofPwoU0
0874鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 00:13:46.70 ID:SymNpRIQ
 ちょっと間違えていたのう。
 三番目はジーヴァなのじゃ。
 すまんのう。

 この四つの観念は当時のインド人や仏教徒の間で考えられていた自己観念のまとめなのじゃ。
 人が自分という者を認識する時、大体このような四つの想いによって認識するであろうということなのじゃ。
 一つ一つ解説して行くのじゃ。

 最初のサットヴァとは衆生といわれるものじゃ。
 生きているもの全てなのじゃ。
 今で言えば有機質のものといえるのじゃ。
 生きている者である自分、生き物の一員である自分という観念があれば、そこに苦しみも生まれるのじゃ。

 何故ならば生きている者という観念は必然的に死によって生きていないもの、無機質なものに変るという変化を含んでいるからなのじゃ。
 生きている者である自分という観念を持っていれば死の苦しみもまた尽きないのじゃ。
 そうであるからそのような観念は捨てていかなければならないのじゃ。

 次はアートマンなのじゃ。
 アートマンとは認識できない認識主体なのじゃ。
 それは否定によってのみあらわされるものとヴェーダにも説いているのじゃ。
 よく仏教はアートマンを否定したといわれているが、実際にはお釈迦様の教えこそ正しいアートマンの法を伝えているのじゃ。
 
 アートマンは否定によってのみ表されるものであるから、誰かがアートマンはあるのかと聞けば、それは無いと答えるのが正しいのじゃ。
 そのようにして観念の全てを否定して認識できない認識主体に辿りつくのが真のアートマンの法なのじゃ。
 実際にそうしなければ間違ったアートマンを認識してしまう恐れが在るのじゃ。

 瞑想をしているといろいろな不可思議な幻想が見えたりするが、総て否定しなければそれらの幻想の一つがアートマンと誤認して修業をやめてしまう恐れがあるからなのじゃ。
 実際に誰とは言わないが、あるインド人のヨーギは脳の中心に光が見えたらそれがアートマンだと説いたりしていたのじゃ。
 当然それは認識できるものであるからアートマンではないのじゃ。
 このようにアートマンがあるという観念も真の悟りを求める者は否定しなければならない観念なのじゃ。

102避難民のマジレスさん:2024/05/10(金) 12:18:24 ID:tT1ptoHU0
0944鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 23:34:40.50 ID:SymNpRIQ

 次はジーヴァなのじゃ。
 これは命根とか翻訳されるのじゃ。
 生命の機能であり、アートマンを含むものと考えられてきたのじゃ。
 生命の機能あるものが自分と考えれば、これもまた老病死による苦を免れないのじゃ。

 そしてプドガラなのじゃ。
 これは既に滅び去った仏教の一派が提唱したものであり、詳しい定義は残っていないのであるが、他派の批判によって少しはわかっているのじゃ。
 これは過去の因縁を持ち運び、業を作り業を受け取るものであるというのじゃ。
 
 業の主体ともいえるのじゃ。
 これが輪廻するものの主体でも在るのじゃ。
 過去と同じ自分があるという連続性を仮定するものじゃ。
  この観念もまた死による過去からの断絶がある故に、死苦を免れないのじゃ。

 わしはこのプドガラの定義によって自分という観念に気付いたのじゃ。
 わしは自分とは過去の記憶を持ち、過去の因縁を受ける者という観念をもっていたのじゃ。
 それに気づいたことで自分という観念が厭離され、無くなったのじゃ。

 更に無我を見るものがあったが、それも空であると観じて大悟徹底の境地に入ったのじゃ。
 とはいえ誰もがそのようにして大悟できるわけではないのじゃ。

 わしはたまたま自分とは過去の記憶、因縁をもつものという観念をもっていたから自分に気付いたのじゃ。
 自分が他の観念であるという認識を持つ者には、気づきはないじゃろう。
 例えば自分とは思考の主体であるとか、感情の主体であると認識する者達には効果は無いのじゃ。
 それぞれの者達が自らの自己認識を追及していかなくては悟りは訪れないのじゃ。

103避難民のマジレスさん:2024/05/11(土) 11:59:06 ID:282UVm7g0
【実践】悟りをひらいた人のスレ632【鬼/和尚】
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1639928718/
より、以下抜粋

26 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:11:07.05 ID:eXza/b3P.net
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

みんな>>2からよんで実践あるのみなのじゃ。

前スレ ジーヴァは命根でもよいのじゃ。
 もともとインドの方言を無理に古代中国語に翻訳したものであるからのう。
 単語の意味などは流派によって違い、グルによっても違ったりするのじゃ。
 実践の役に立てば善いのじゃ。
 

27 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:23:35.68 ID:eXza/b3P.net

 以上の四つの自己認識の観念を菩薩はもつべきではないというのじゃ。
 とはいえ持つなと言われて直ぐにもたないようにしようと、自分の意志でできるものではないじゃろう。
 要はそれに囚われず、よく観るべきであると言うのじゃな。

 どれかに強い囚われを持っていては、我見に執着したまま悟りを遠ざけてしまうからのう。
 囚われがあればそれがなくなろうとする度に、恐れが起こり逃避してしまうからなのじゃ。

 そもそも菩薩とはボダイサッタの略なのじゃ。
 ボダイとは悟りであり、サッタとは前述の通り、衆生であり人なのじゃ。
 悟りを求める者達なのじゃ。

 しかし自分がサッタであるという囚われをもってはいかんのじゃ。
 自分がサッタではないと思う者かボダイサッタであるというのじゃ。

 後に説かれる観念を破壊する観念がもはや始まっているのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2024/05/12(日) 11:57:47 ID:sE1GUpQU0
42 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 21:45:24.54 ID:eXza/b3P.net[4/4]

***
(四)
「また、スブーティよ、菩薩たるもの、何かに執着しながら、施しをすべきでない。形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、心の対象についても、執着しながら施しをすべきでない。
 スブーティよ、果報を求めるという思いに囚われないように、菩薩は施しをしなければならない。
 それは何故かと言うと、スブーティよ。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これと同じように、南や、東や、北や、下や、上の方角の、あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これらと同じことである。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
 スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという思いに執着せずに、施しをしなければならない。」

***

 以上の四つの自己認識に囚われないことを説いた後に、お釈迦様は布施について説いたというのじゃ。
 菩薩はなにものにも囚われない布施をすべきだというのじゃ。
 色声香味触法の全てに囚われずに布施をすべきだというのじゃ。
 
 そうすれば功徳が計り知られないほどになるからというのじゃ。
 前に説いた四つの自己認識とは関係ないように見えるが、実は同じ修業であるといえるのじゃ。
 前には自己に囚われずに衆生を導き、ここではなにものにも囚われずに布施をするようにというのじゃ。

 それら二つの行は成果に囚われず行うカルマヨーガの行なのじゃ。
 衆生を導いても一人も涅槃に導いたことにならず、布施をしても何も布施をしたということにならないのであれば、何の得るところも無い行になるからなのじゃ。
 行いの成果を求めず行うカルマヨーガの行をしろというのじゃ。

 行いの成果に囚われるならば、それは未来を夢見ていることになるのじゃ。
 それも過去の記憶からこのように成果があがるであろうという憶測によるのじゃ。
 そのような行は過去の記憶と、未来への期待に囚われていることになるのじゃ。
 その結果、今ここには心がないことになるのじゃ。

 なにものにも囚われずに行を進めるならば、それが自然に今ここに心を取り戻すことになるのじゃ。
 それこそが最も大きな功徳なのじゃ。

105避難民のマジレスさん:2024/05/13(月) 12:40:04 ID:2wnEnijE0
45 :鬼和尚 :2022/01/02(日) 23:53:00.95 ID:ynJqNRp5.net

***
(五)
「スブーティよ、どう思うか。如来を身体の特徴をもって見るべきだろうか。」

「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
 
 そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」

***
 次にはお釈迦様は相をもってわしをみてはいかんというのじゃ。
 相とは相好とかいうように、身体的特徴とかなのじゃ。
 大乗仏教では仏には三十二の相があるというのじゃ。

 耳がでかいとかパンチパーマをかけているとかなのじゃ。
 それらの相は相ではないというのじゃ。
 それが相ではないと観る時、如来を見たことになるというのじゃ。

 それは如来の教える法の通りに見たからなのじゃ。
 そうでなければ如来の話を聞かず、法を実践していなかったことになるのじゃ。
 教える法こそが如来の真の相であり、眼に見える相は虚妄でしかいなのじゃ。

 実際に転輪聖王も同じ相を持つと後のほうには書いてあるのじゃ。
 相だけでは区別がつかないのじゃ。

 法を教え実践させるものが如来であるという教えなのじゃ。

106避難民のマジレスさん:2024/05/14(火) 13:17:35 ID:6/02ceAw0
48 :鬼和尚 :2022/01/04(火) 00:27:23.71 ID:rxlp6XSH.net

***
(六)
 スブーティは尋ねました。
「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」

 師はスブーティに答えました。
「スブーティよ、そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。
 これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
 それはなぜかというと、その者たちは、自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。また、(さとりを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。それはなぜかというと、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、(自我という観念としての、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。したがって、方法も方法でないものも受け取るべきではない。
 それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」

***

 お釈迦様の説法を聞いて須菩提長老はその難しい話に、
 「このような説法を聞いて信じる者が後の時代にいるのか」
 と、聞いたのじゃ。
 お釈迦様はそのような者も居るじゃろうと、答えたのじゃ。
 何世も善根を植えたものは信じるというのじゃ。

 なぜならばそのような者は先の四つの自己認識の観念を持たず、更に法というものも、法でないものという観念さえないからというのじゃ。
 既にあらゆる観念を滅した者がこの経を信じるというのじゃ。
 筏の喩えを知る者は法をも捨てるのであるから、非法も殊更に捨てるべきというのじゃ。

 筏の喩えとは、お釈迦様の説いた法とは彼岸にいくための筏のようなものというのじゃ。
 彼岸に着いたら筏を捨てるように法をも捨てるべきだというのじゃ。
 実際に最後には法も捨てて無為に座るのが、大悟徹底の道なのじゃ。

 法も非法も捨てる最後の道を説いているといえるのじゃ。

107避難民のマジレスさん:2024/05/15(水) 12:29:04 ID:3/85CrHE0
50 :鬼和尚 :2022/01/05(水) 00:29:12.56 ID:5Y5rSp9e.net[1/3]

***
(七)
 師は、スブーティに問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、私が師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。それはなぜかというと、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。
 それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」

***
 お釈迦様は更に須菩提長老に問うのじゃ。
 わしが無上正等覚というものを得たじゃろうか。
 そしてわしは法を説いたじゃろうかと。

 須菩提長老はそんなものは無いのじゃ。
 と、答えたのじゃ。
 無上正等覚というものがあるわけではないからというのじゃ。
 説いた法もないというのじゃ。

 何故ならばそれらは無上正等覚というものではないからなのじゃ。
 如来の説いた法も取る事はできず、説く事も出来ないからなのじゃ。
 それは法ではなく、非法でもないからというのじゃ。
 如来は無為の法によって、他の者達と区別されるからなのじゃ。 

 無上正等覚というのも真の名前ではなく、衆生にわかりやすいように付けた名前なのじゃ。
 実際に言葉を離れた境地を言葉であらわすことはできないのじゃ。
 そうであるから無上正等覚もないのじゃ。

 如来の説いた法も言葉では無である境地に至るものであるから、あるとはいえないのじゃ。
 それは自ら観念をそぎ落としていく観念なのじゃ。
 その法自体もいずれはそぎ落とされていく観念であるから、あると言ってはいかんのじゃ。

 それを聞き取ることは出来ず、説く事も出来ないものとして扱わなければならないのじゃ。
 それはあることもなく、ないことさえもないのじゃ。
 それを説き明かせるのが、如来なのじゃ。
 無為に至る法門をとくことができるのは、如来だけなのじゃという意味なのじゃ。

108避難民のマジレスさん:2024/05/16(木) 12:09:13 ID:8ZjJQA/c0
95 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 00:07:48.28 ID:K4frxSMY.net[1/5]


この先から否定した観念を、観念そのものとする逆説的な法門が始まるのじゃ。

***
(八)
 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もし誰かが果てしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人が得る福徳は多いだろうか?」

スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」

 師は言われました。
「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その人の福徳は前者よりも勝るだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、すべて諸々の仏の得る、この上なく正しいさとりの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法では無いからだ。それゆえに覚者の法と呼ばれるのだ。」

***

お釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
この三千大千世界を満たすほどの宝を布施したら福徳は大きいかと。

すると長老は、
とても大きいのじゃ。
なぜならばその福徳は福徳ではないからじゃ。
福徳ではないから福徳というのじゃ、
と、答えたのじゃ。

更にお釈迦様は、
その福徳よりもこの経の四つの句をよむ方が福徳は大きいのじゃ、
なぜならば全ての仏の法はこの経から出たからなのじゃ。
その仏法も仏法ではないのじゃ、
そうであるから仏法とよぶのじゃ、
と、言ったのじゃ。

 このようにして行いの報いも、仏法も否定して、そこからそれこそが福徳であり仏法であるというのじゃ。
 それこそが金剛経の肝心の法門なのじゃ。

109避難民のマジレスさん:2024/05/17(金) 11:05:31 ID:t7Zp/kRw0
151 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 21:32:55.02 ID:K4frxSMY.net[3/5]

>>98>>107 僧侶とは何じゃ?
 臨済宗天龍寺派の者は、このような簡単な問いにも答えられないということでよいのかのう。
 わっはっはっはっはっはっは。

>>103 理解できなくて善いのじゃ。
 矛盾していてよいのじゃ。
 それでも繰り返すだけで、この観念を破壊する観念が心の中でちゃんと働くことがわかるじゃろう。
 人の観念は理解や矛盾しないことで受け容れられるのではないのじゃ。
 ただ単に繰り返すことで受け容れられるのであるからのう。

 自ら囚われている観念がそのものでなく、そのものいから、そのものとよばれると繰り返し念じるとよいのじゃ。
 その囚われが消えて行くのがわかるじゃろう。
 実践で確かめるのじゃ。

110避難民のマジレスさん:2024/05/17(金) 11:06:23 ID:t7Zp/kRw0
154 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 23:46:31.52 ID:K4frxSMY.net[5/5]

***
(九)
 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と呼ばれるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう一度だけ生まれかわってさとる者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわってさとる者を意味しますが、実際には、生まれかわってさとる者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。最高のさとりを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。
 師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
 師よ、如来はわたしのことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかしわたしは「わたしは離欲の阿羅漢だ」とは考えません。
 師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、如来は『スブーティは阿蘭那(孤独)の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。」

***

 更に続いて聖者の階梯である須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢さえもまたそれらではないというのじゃ。
 そうであるから須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢とよばれるというのじゃ。
 なぜならばそれらの者には先の自己認識の観念が無いからなのじゃ。

 そして須菩提長老が自らの阿羅漢果も否定し、お釈迦様が自らの修業の成果も否定するのじゃ。
 更に菩薩は仏国土を飾るのも否定し、あらゆるものごとを否定してから、それらの名前があると告げるのじゃ。
 このようにして矛盾した言葉によって、観念は破壊されるのじゃ。

 ダイヤモンドの刃物で切断したように、この観念を繰り返し念じれば、どのような観念でも厭離できるのじゃ。
 そうであるから金剛般若経とよぶというのじゃ。

 なぜならば観念とは正しいからとか、矛盾がないから受け容れられるものではないからなのじゃ。
 習慣によって観念は植え付けられ、同じく習慣によって破壊されるからなのじゃ。
 矛盾した観念でも繰り返し念じれば、観念を破壊することが出来るのじゃ。
 各自が実践によって確かめるしかないのじゃ。

111避難民のマジレスさん:2024/05/18(土) 12:26:50 ID:yHOAdRQ.0
352 :鬼和尚 :2022/01/07(金) 23:59:50.03 ID:rpgyt4lA.net[2/2]

***
 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて何かを得ただろうか。」

「いいえ。師よ、如来がディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて得たものは何もありません。」

「スブーティよ、どう思うか。菩薩が浄土(清浄な心)を完成することはできるだろうか。」

「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」

 師は言われました。
「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。

***

 続いてお釈迦様は清浄の心を生じるようにするのじゃ、
 というのじゃ。
 清浄の心とはなにものにも囚われない心であると言うのじゃ。

 色声香味触法の全てに囚われずに心を起こすのじゃ、
 というのじゃ。
 当然ながらこの教えは、色声香味触法だけでなく、その器官である眼耳鼻舌身意も含んでいるのじゃ。
 そして五蘊にも囚われないことは当然なのじゃ。

 それら全てが省略して説いていることを理解しなければならんのじゃ。
 自分の心身の全てに囚われず、心を起こすと言う事は、ヨーガでは無種子三昧に当たるのじゃ。
 心に何の対象もなく、ただ集中している状態なのじゃ。

 ありのままの無為であり、座る自分の観念さえも失くして座り続けるのじゃ。
 それが出来れば悟りはもはや目の前にあると言えるのじゃ。
 無種子三昧は初めは対象のあるサマーディから始めて長い年月がかかるのじゃ。

 しかし、この金剛般若経の教えに従って全ての観念を断って座れば、速やかに達成することも可能なのじゃ。
 この教えが向いている者には実に有り難い法なのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。

112避難民のマジレスさん:2024/05/19(日) 12:00:22 ID:ty2e.GiU0
568 :鬼和尚 :2022/01/08(土) 23:39:55.85 ID:J7QLfMfx.net[2/2]

***
 スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」

 スブーティは答えました。
「非常に大きいです、師よ。それはなぜかというと、如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と呼ばれると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と呼ばれるのです。」

***

 その後、更にチョモランマのようにでかい体の人が居たら、それはでかいか、
 と、お釈迦様はきいたのじゃ。
 須菩提長老は、それはでかい
 なぜならばそれは体ではないからなのじゃ。
 体が無いからでかい体と言うのじゃ、
 と、答えたのじゃ。

 このようにあらゆる観念についてそれを否定して、後にそれを肯定するのじゃ。
 それを繰り返すことで身につき、観念の切断ができるようになるのじゃ。

***
(十一)
 師はスブーティに問われました。
「スブーティよ、もしガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとしよう。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」

 師は言われました。
「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。」

 師はスブーティに言われました。
「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」

(十三)
 その時、スブーティは師に尋ねました。
「師よ、この経は何と名付けられるのですか?また、私たちはどのよう記憶すべきでしょうか?」

 師はスブーティに告げました。
「この経は智慧の完成と名付けられる。その名前で記憶すべきである。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成では無いからだ。それだからこそ、智慧の完成と言われるのだ。」

***

 それからお釈迦様はガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、それと同じ三千世界を満たした宝を布施するよりも、
 、この経典の四句でも他人に説いたほうが功徳が大きいことを教えたのじゃ。
 そしてこの経文を金剛般若経とすることを告げたのじゃ。

113避難民のマジレスさん:2024/05/20(月) 13:27:33 ID:kxIO6upE0
851 :鬼和尚 :2022/01/10(月) 00:07:58.64 ID:SlhBSZiK.net

 何故、金剛般若波羅蜜経と名づけるのか、
 お釈迦様は般若波羅蜜、即ち智恵の完成とは、智恵の完成ではないからというのじゃ。
 そうであるから智恵の完成とよぶのじゃ、というのじゃ。

 この般若波羅蜜経でさえ、実は般若波羅蜜ではないというのじゃ。
 それでこそ完全な般若波羅蜜、智恵の完成となるのじゃ。
 なぜならば法もまた捨て去るべき観念であるからなのじゃ。

 修業が完成したならば法は捨て去ることというのは、前に既に説かれたのじゃ。
 そのためにはこの経さえも又そのものではないという教えが必要なのじゃ。
 それでこそ完全に完成した、智恵の完成の教えといえるのじゃ。

 現代の技術で例えれば、パソコンなどの終了コマンドのようなものじゃ。
 全てのアプリやシステムの働きを終わらせた後、自分自身をも終わらせるのがその役割なのじゃ。
 そのために他の他のコマンドと同じように自らを終了させる命令をも含んでいなければならないのじゃ。

 それが金剛般若波羅蜜経さえも実は般若波羅蜜ではなく、それでこそ般若波羅蜜であるといえるのじゃ。

114避難民のマジレスさん:2024/05/21(火) 13:00:44 ID:a2wtmNrw0
【天空時】悟りをひらいた人のスレ633【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1640390211/
より以下抜粋


0059鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/11(火) 00:13:03.21 ID:1oEqxfGV

***
(十三)
「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、如来が説いたものは何もありません。」

「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、非常に多いです。」

「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と言われる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と言われる。」

***

 それからお釈迦様は自分が何か説いた法があるかと、須菩提長老にきくのじゃ。
 須菩提長老は何も無いと答えるのじゃ。

 更にお釈迦様は三千大千世界の塵は多いかと聞いたのじゃ。
 須菩提長老は多いと答えたのじゃ。
 何故ならば如来は世界は世界ではなく、地理は塵ではないと説いたからというのじゃ。

 そうであるから世界の塵は多いというのじゃ。
 先には如来は何も説いていないといいながら、世界は世界ではないと説いたというのじゃ。
 それが世界の説き方であるからなのじゃ。

 世界は世界ではないとお釈迦様は説いたのじゃ。
 そうであるから世界とよばれると、説いたのじゃ。
 それは説いたことではないというのじゃ。

 説いてはいないから、説いたことになるというのじゃ。
 このように幾重にも重なって、観念を破壊する般若の法は説かれるのじゃ。
 それは論理や知識で理解することではないのじゃ。
 理解しなくて善いのじゃ。

 むしろ理解してはいかんのじゃ。
 理解とは観念を記憶による既存の知識と照らし合わせて、それもまた知識として記憶の中にしまいこむことであるからなのじゃ。
 それでは観念は定着するばかりで、破壊されないのじゃ。

 矛盾のある理解できない観念であれば、決して知識としてしまいこまれることはなく、他の観念を破壊して自らも破壊されるのじゃ。
 それがこのような構造をとる意味なのじゃ。
 どこまでも矛盾した理解し難い法門を、繰り返し念じることで身につき、観念は破壊されるのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2024/05/22(水) 12:14:41 ID:SzztSgn20
0075鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 00:05:20.69 ID:6AXOW6C6

***
「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」

「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。それはなぜかというと、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と言われるのです。」

「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂と等しいほど体を捧げたとしても、この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説く人がいるとすれば、その福徳のほうが遥かにに大きいのだ。」

(十四)
 そのときスブーティはこの教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
 涙を拭い終わって、師に言いました。
「師よ、すばらしいことです。如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、私がこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。

 師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような人は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと言うのです。

***

 そしてお釈迦様は須菩提長老に、
 三十二相をもって如来を見るべきかと問うたのじゃ。
 長老はそうではないというのじゃ。

 三十二相は相ではないのであるから、三十二相と言われる。
 と、答えたのじゃ。
 
 この後、お釈迦様はこの経を広めたら功徳が一杯あるとか宣伝するのじゃ。
 それは大乗経典によくある宣伝であるからみんな飛ばしよみで善いのじゃ。
 解説ではみんな飛ばしてよんでいくのじゃ。
 
 長老は感激してなきながら、こんな素晴らしい経を説かれたのを聞いたことがないと、賞賛するのじゃ。
 後の世にこの経を聞いて清い心で信じることができる者は、これが真実と思うというのじゃ。
 なぜならば真実であるという観念は、真実ではないから、というのじゃ。
 そうであるから真実であると説かれたというのじゃ。

 真実という観念は真実そのものではないのじゃ。
 それに気付けば真実なのじゃ。
 真実は観念の届かないところにあるものじゃ。
 そのように観念を離れた境地に入れば真実がありのままにわかるのじゃ。

116避難民のマジレスさん:2024/05/23(木) 12:45:58 ID:8sj00EyA0
0081鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 23:56:04.87 ID:6AXOW6C6

***
 師よ、わたしが今、このような教えを聞いて、信じて受け入れることは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その者はこの上なく希有でありましょう。なぜならば、その者には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れることが、諸々の覚者であるからです。」

***

 更に須菩提長老は続けて、
 自分がこの経を受け容れて理解するのは難事ではないというのじゃ。
 後の五百年になってこの経を受け容れて記憶して理解する者こそわしよりえらい、とかいうのじゃ。
 
 何故ならばそのような人は前述の自己認識の四つの観念がないからなのじゃ。
 それらの観念すらもないというのじゃ。
 一切の観念を離れたものが仏陀であるからなのじゃ。

 つまりこの経を受け容れて、理解できるようなものはもはや悟っているというのじゃ。
 悟っていなければ理解できないというのじゃ。
 一切の観念がない仏陀であればこの経を受け容れて理解できるというのじゃ。
 そうであるから自分よりも偉いと須菩提長老はいうのじゃ。

 本来、経とはまだ悟っていない修行者のためものじゃ。
 悟っていない者たちが経典を学び、実践して悟りを目指すのじゃ。
 悟ってしまえばもはや経典はいらないのじゃ。

 しかし、この経は悟っていなくては理解できないというのじゃ。
 それでは修行者はどうすればよいのか。
 理解できなくとも悟っていない者達はただひたすら信仰によって、実践するしかないのじゃ。
 実践することで観念の切断を学び、身につけ、全ての謬見と煩悩を断じて進むのじゃ。

117避難民のマジレスさん:2024/05/24(金) 12:40:32 ID:7.d4g2Iw0
0094鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/13(木) 23:53:17.99 ID:zH9ccZo+

***
師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜかというと、スブーティよ、かつてわたしがある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切無かったからだ。
 それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。」

「スブーティよ、また過去を振り返ってみると、わたしは五百の生涯のあいだ、忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。」

***

お釈迦様は須菩提長老に六波羅蜜の最初の忍辱波羅蜜は、忍辱波羅蜜ではないと、説いたのじゃ。
 なぜならば前世に忍辱仙人だったときに、悪王に体をばらばらにきられたが、何も思わなかったというのじゃ。
 それは自己認識の四つの観念がなかったからだというのじゃ。

 もしそれがあれば怒っていたが、無いから怒りも何も無かったというのじゃ。
 それが忍辱波羅蜜、即ち忍耐の完成の行だったというのじゃ。

 それ故に六波羅蜜の中の忍辱波羅蜜とは、忍辱波羅蜜ではないというのじゃ。
 そうであるから忍辱波羅蜜であるというのじゃ。
 自己認識の四つの観念がないとき、忍辱、忍耐は最高の完成をみるのじゃ。
 
 しかし、それはもはや自分という観念が無いから、もはや自分の忍耐の完成ではないのじゃ。
 そこには忍耐する何者もいないからなのじゃ。
 忍耐する者が居らず、忍耐がない時、忍耐の行は完成するのじゃ。
 
 それが金剛般若経による忍耐の完成なのじゃ。
 大乗経典の般若経典ではこのように、般若波羅蜜によって他の波羅蜜は真の完成を遂げるというのじゃ。

118避難民のマジレスさん:2024/05/25(土) 12:38:21 ID:eZ5Zbv0I0
0099鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/14(金) 23:34:59.21 ID:/GDqYd9y

***
「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。」

 スブーティよ、菩薩はすべての生きとし生けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を語る者、正しい言葉を語る者、いつわりなく語る者、正しく語る者であるからだ。」

「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」

「スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」

「スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」

***
 お釈迦様は更に一切の観念に囚われずに、悟りを求める心を起こすのじゃ、というのじゃ。
 色にも囚われず、声香味触法の全てに囚われず発菩提心を起こすべきだというのじゃ。
 なにものにも囚われずに心を起こすべきだといのじゃ。

 なぜならば心に囚われがあるならば、それは囚われではないからというのじゃ。
 そうであるから囚われというのじゃ。

 一切の観念は夢幻である故に、囚われているという観念もまた無であるからなのじゃ。
 それが真実であるから、そのように心を起こすべきなのじゃ。

 そうであるから如来は、菩薩はなにものにも囚われずに布施をするべきというのじゃ。
 それが真実の布施であり、布施の完成の行であるからなのじゃ。
 
 心が何かに囚われて布施をするのは、闇の中に居るようなものというのじゃ。
 なにものにも囚われない布施をするのは、日光で照らされた所でいろいろなものを見るようなものというのじゃ。
 それが観念を廃絶した布施の完成なのじゃ。

119避難民のマジレスさん:2024/05/26(日) 13:04:28 ID:RYNZKubs0
0155鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/16(日) 00:29:21.43 ID:0O1J1evH

 それからお釈迦様は長い宣伝に入るのじや。
 この経を受持して他人にも説けば大きな功徳があるというのじゃ。
 そのためにこの経は広く流布しているのじゃ。

 なかなか侮れないのじゃ。
 法華経も同じように受持して他人にも説けば大きな功徳があるというから、広まったのじゃ。
 現世利益なのじゃ。

 誰でもやはり来世よりも現世で利益が欲しいから広まるのじゃ。
 それから今までのまとめに入るのじゃ。


0557鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 00:06:00.63 ID:Id/CH6q0

***
(十七)
 その時スブーティは尋ねました。
「師よ、善き男や善き女を問わず、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」

「善き男や善き女が菩薩の道に向かうには、このような決意を持たなければならない。すなわち、『私は全ての生きとし生けるものを救済し、ニルヴァーナに導くべきである。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
 それはなぜかと言うと、スブーティよ。もし菩薩が自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を生ずるなら、それは菩薩とは言えないからだ。
 それはなぜかと言うと、スブーティよ。実際には、菩薩の道に進む人というようなものは何も存在しないからだ。」

***

 須菩提長老は改めてお釈迦様にきいたのじゃ。
 善男子善女子が悟りを求めようとするときどのようにすればよいのかと
 これは最初の問いと同じなのじゃ。

 ここからは今までの問答をまとめる要旨なのじゃ。
 お釈迦様は改めて、答えるのじゃ。
 
 無上正等正覚を求める者は、一切衆生を掬って悟りを得させようと意志を起こすのじゃ。
 しかしそのようにしても一人の衆生も悟りをえるものではない」
 と、念じるのじゃ。
 
 なぜならばその時、自分という四つの観念があれば、菩薩ではないからというのじゃ。
 四つの観念がない時には菩薩であるからというのじゃ。

120避難民のマジレスさん:2024/05/27(月) 12:45:09 ID:3Fqci5HI0
0577鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 23:15:21.58 ID:Id/CH6q0

***
 師は尋ねました。
「スブーティよ、どう思うか。如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。わたしが師の教えを理解する限り、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」

 師は言いました。
「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来はわたしに対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。実際には、この上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に「将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう」と予言なされたのだ。

 それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。
 もしも誰かが、『如来がこの上ない正しいさとりを得られた』と言うならば、それは誤りである。それはなぜかというと、スブーティよ、実際にはこの上ない正しいさとりによって得られることがらは存在しないからだ。スブーティよ、如来が得たこの上ない正しい覚りは、その中に真実も虚妄も無い。それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、すべての法と言われるものは、実際にはすべての法では無い。それゆえにすべての法と言われるのだ。」

***

 そして更に法として無上正等正覚というものはないというのじゃ。
 過去の仏にそのような無上正等正覚を授かったことはないというのじゃ。
 そうであるから、過去仏に無上正等正覚を得ると受記されたというのじゃ。

 なぜならば無上正等正覚を得た如来とは真如の異名であるからというのじゃ。

 悟りを得るとはいうが、無上正等正覚とは何かを得ることではなく、むしろ謬見を無くすことであるといえるのじゃ。
 自分があるという謬見、認識したものが実在するという謬見を失い、本来の認識に回帰することなのじゃ。
 それは実に何かを得るのではなく、謬見を無くすことであるからろ、法として得るものはないのじゃ。

 そして悟りを得た如来とは、既に自己の概念も、観念も無いから語るべきことも無いのじゃ。
 語るべきこともないが、衆生のためにあえて真理を語るのであるから真理を語るものの如しなのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2024/05/28(火) 12:24:06 ID:JJhFpxAo0
0637鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/19(水) 23:23:53.63 ID:AEMpn1Ia

 そして更にお釈迦様は、誰かが如来は無上正等正覚を得たというならば、誤りであるというのじゃ。
 法として無上正等正覚を得るということはないからというのじゃ。
 無上正等正覚には真実はなく、偽りも無いからというのじゃ。

 真実も、偽りもまた観念であるからなのじゃ。
 一切の観念を離れれば、真実もなく、偽りも無いのじゃ。
 もともとそれはないものじゃ。

 ただ人が世間で日常の観念として使うだけのものなのじゃ。
 世間から離脱すれば、それもなくなるのじゃ。
 それが出世間の法なのじゃ。

 それ故に一切の法は、仏法であると言うのじゃ。
 全ての法則であれ、方法であっても全ては真実とか、偽りを離れているのじゃ。
 ただありのままにあるだけなのじゃ。
 
 それに気付いたならば、それが目覚めるための法になるのじゃ。
 全てが目覚めた者の証になるのじゃ。
 それが一切の法が仏法であるということなのじゃ。

122避難民のマジレスさん:2024/05/29(水) 13:17:51 ID:ywIpiMIg0
0896鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/20(木) 23:35:29.86 ID:36+od2gP

***

「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」

 スブーティは言いました。
「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」

「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『わたしは生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」

 師は言われました。
「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩とであると言うのである。」

***

更にお釈迦様は一切の法とは一切の法ではないというのじゃ。
それ故に一切の法とよぶというのじゃ。
それは例えば体のでかい人のようなものじゃというのじゃ。

すると須菩提長老がそれをうけて、
如来の説いたところのでかいからだの人は、でかいからだの人ではないというのじゃ。
そうであるからでかいからだの人とよぶというのじゃ。

お釈迦様は続けて菩薩もまた同じであると言うのじゃ。
一切の衆生を滅度せしめるというのは菩薩ではないというのじゃ。
なぜならば法として菩薩という者はないからというのじゃ。

自我の四つの観念が無い者が菩薩であるからなのじゃ。
自分が無いのに他人を滅度せしめることができるはずもないのじゃ。

123避難民のマジレスさん:2024/05/30(木) 12:12:16 ID:q42kP/Lk0
【天空時】悟りをひらいた人のスレ634【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1642740724/
より以下抜粋

0476鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/22(土) 23:30:26.83 ID:i36ZTocU

***
(十八)
「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」

「スブーティよ、どう思うか。 一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いと思うか?」
「非常に多いです、師よ。」

 師はスブーティに告げました。
「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。それはなぜかというと、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心と説いているからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」

***

 そしてお釈迦様は須菩提長老に、如来は肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼があるかと問うのじゃ。
 須菩提長老はあると答えるのじゃ。
 
 肉眼はそのまま肉体の眼じゃな。
 天眼は千里眼の通力の眼なのじゃ。
 慧眼は智慧の眼なのじゃ。
 法眼は法を見る眼なのじゃ。
 仏眼は仏陀としての眼なのじゃ。

 それらの眼によって衆生の心を悉く知るというのじゃ。
 ガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、その河の砂の数と同じ三千大千世界があるとして、それらの世界に住む衆生の心を全てしるというのじゃ。
 
 どのようにして知るのかといえば、それは心ではないものとして知るというのじゃ。
 現在の心も、過去の心も、未来の心も得られるものではないからというのじゃ。

 心というものも又観念であるから、それはあるものではないのじゃ。
 心は心では無いものとして知れば、全ての衆生の心を知ったことになるのじゃ。

124避難民のマジレスさん:2024/05/31(金) 12:29:20 ID:5N.S5Vww0
0638鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/24(月) 00:18:54.70 ID:NY6g/8Y8

***
(十九)
「スブーティよ、どう思うか?もし誰かがはてしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」

「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」

「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」

(二十)
「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」

「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。なぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると言われる』と如来が説かれているからです。

「スブーティよ、どう思うか。 如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」

「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。なぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると言われる』と如来が説かれているからです。」

(二十一)
「スブーティよ、如来が『わたしは法を説いた』と考えるだろうか。」

「師よ、そのように考えることはありません。」

「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、わたしを謗ることになる。それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」

 このように言われた時に、スブーティは師に問いました。
「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」

 師は言いました。
「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』と言われるものは、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と言われるのだ。」

***
 更に又お釈迦様は福徳とか、色身とか、特徴とか、法を説く事とかについて否定してからそのように名づけると説いたのじゃ。
 それぞれがあるものではなく、そうであるからそのように名づけられたというのじゃ。
 そのようにして固定観念を滅して行くのじゃ。
 
 それに対して須菩提長老が、それを聞いて信じる衆生が後の世にいるとかきくのじゃ。
 するとお釈迦様はその衆生さえも衆生ではないと説いたのじゃ。
 そうであるから衆生とよばれるのであるというのじゃ。

 そのようにあらゆるものについて否定されるべき観念があると示したのじゃ。
 そのようにして否定された観念が、正しい観念の滅といえるのじゃ。

125避難民のマジレスさん:2024/06/01(土) 12:47:05 ID:GMPZ6gtE0
【天空時】悟りをひらいた人のスレ635【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1643032241/
より以下抜粋

195鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/25(火) 23:44:51.04ID:1qbD/h3V

***
(二十二)
スブーティは、師に尋ねました。
「師よ、如来がこの上ない正しいさとりを得た時、何も得なかったのでしょうか。」

「スブーティよ、その通り、その通りだ。私がこの上ない正しいさとりを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しいさとりと言われるのだ。」

「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しいさとりと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しいさとりを得ることができる。スブーティよ、善法と呼ばれるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」

***
>>197
 お釈迦様は須菩提長老に、
 わしが無上正等正覚を得たということがあるじゃろうか
 と、聞いたのじゃ。

 須菩提長老は、
 無上正等正覚を得たのは、何も得ていない
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は 
 そうじゃ、わしは無上正等正覚においてほんの少しの法も得ていないのじゃ、
 それをこそ無上正等正覚というのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 続いて
 この法は平等でなんの差別も無いのじゃ。
 そうであるから無上正等正覚というのじゃ。
 というのじゃ。

 自己の四つの観念がなく、全ての善法を修めれば、無上正等正覚を得るというのじゃ。
 その善法も善法ではないから、善法というのじゃ。
 と、説いたのじゃ。

 全ての観念がなくなれば、そこに何の差別もなく、一切が平等なのじゃ。
 何かの観念を足して平等なのではなく、観念が無いことで平等なのじゃ。
 そうであるから何も得ないことが無上正等正覚そのものなのじゃ。

 更に善法とはこの金剛般若経による観念の破壊に他ならないのじゃ。
 一切の観念を破壊するこの善法は、自らも破壊される観念であるから、善法ではないのじゃ。
 それがこの善法とよばれるものなのじゃ。

126避難民のマジレスさん:2024/06/02(日) 13:00:32 ID:yjDfwsxg0
274鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/26(水) 23:30:14.42ID:FZ5ktjQi>>275

***
(二十五)
「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」

***

 更にお釈迦様は須菩提長老に、
 如来が衆生を滅度させたというようなことを思ってはいかん、
 というのじゃ。

 なぜならば如来が滅度させた衆生はないから、というのじゃ。
 もし如来が滅度させた衆生があるとするならば、自己の四つの観念を如来がもっていたといことになるからなのじゃ。
 そのようなものがないから、如来が滅度させた衆生はいないのじゃ。

 更に自己の四つの観念もまたない、というのじゃ。
 それらはもともと幻想である故にないものなのじゃ。
 しかし、凡夫はあると思っているのじゃ。

 その凡夫さえも無いものというのじゃ。
 もはやなにものも観念としてないのじゃ。

 観念そのものさえもないというのじゃ。
 このようにして段々と全てはないことが深化していくのじゃ。

 始めは観念としての自己が無いということであったのじゃ。
 ここではもはや観念そのものもないというのじゃ。
 それがそのまま修業の段階を示していると言えるのじゃ。

127避難民のマジレスさん:2024/06/03(月) 12:56:16 ID:j8lz7Juk0
295鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/27(木) 23:35:36.19ID:d1GOtp5D

***
(二十六)
「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」

 スブーティは答えました。
「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」

 師は言いました。
「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
 スブーティは言いました。
「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」

 その時、師は、次のような詩を歌われました。

形によってわたしを見、
声によって私を求める者は、
間違った努力を行っており、
わたしを見ることはできない。

***

 次にはお釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
 三十二相をもって如来を見るべきかと、

 須菩提長老は
 そうではなく、如来の説いたところによれは、三十二相をもって如来を見るべきではないと、
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は
 そのとおりじゃ、三十二相をもって如来を見てはいかんのじゃ。
 三十二相があるから如来と思うならば、転輪聖王も如来となってしまうからなのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 前にも書いたが、三十二相とはインド人が考えた高貴な人の相なのじゃ。
 同じ相が転輪聖王にもあるというのじゃ。
 そうであるから如来を三十二相によってみてはいかんというのじゃ。

 お釈迦様はそれを詩にして吟詠したのじゃ。
 肉体の特徴や、音声によって如来を見てはいかんのじゃ。
 もしそのように見る者が在れば如来を見ていないのじゃ。
 外道なのじゃ。
 というのじゃ。

 如来とは法を説いて衆生を導くものであるから、肉体の相や音声で見分けてはいかんの邪。
 人を悟りに導き、福楽への道を示すのが如来なのであるからのう。
 法によって如来を見るのが正しいのじゃ。

128避難民のマジレスさん:2024/06/04(火) 12:28:15 ID:tzB6bB2U0
305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS

***
(二十七)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」

***

 それからお釈迦様は
 如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。
 そのようなことはないからというのじゃ。

 なぜならば相は相ではないからなのじゃ。
 そうであめから相とよばれるのじゃ。

 無上正等正覚も無上正等正覚ではないからなのじゃ。
 そうであるから無上正等正覚とよばれるのじゃ。
 このようにして相とか無上正等正覚という観念をも滅して行くのじゃ。
 
 更に悟りに向かう者達は、何かの法が断滅することもないというのじゃ。
 煩悩とか、囚われが断滅することもないというのじゃ。
 なぜならばそれらは煩悩ではなく、囚われでもないからなのじゃ。
 そうであるから煩悩とか囚われといわれるのじゃ。

 更に断滅も断滅ではないのじゃ。
 そうであるから断滅とよばれるのじゃ。
 そこには煩悩とか囚われがあり、それが断滅するという事実もないからなのじゃ。

 ただ煩悩や囚われを原因から観察して、気付くことで自然に消えて行くのじゃ。
 それを断滅という観念にしてはいかんのじゃ。
 観念になればまたそれに執着することもあるからのう。
 なにものにも囚われずに進むのじゃ。

129避難民のマジレスさん:2024/06/05(水) 11:59:21 ID:sCrl/u8g0
324鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/30(日) 00:02:30.07ID:56BL9zOh

***
(二十八)
「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」

 スブーティは師に問いました。
「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」

 師は答えました。
「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」

***

 更にお釈迦様は
 ガンジス川の砂の数の世界を宝で満たして供養するより、
 無性法忍を得たほうが優れた功徳をえるというのじゃ。
 それは功徳を受けないからであるというのじゃ。

 なぜならば功徳とは功徳ではないからなのじゃ。
 功徳では無いものを功徳というのじゃ。
 観念の功徳を受けたとすれば、それは幻想なのじゃ。

 幻想から離れたほうが大きな功徳であることは言うまでも無いのじゃ。
 無性法忍を得れば幻想から離れている故に、功徳を受けず、大きな功徳を得たことになるのじゃ。

 それをお釈迦様は次に、
 菩薩は功徳に貪着しないから受けないというのじゃ。
 貪欲も執着も無い境地なのじゃ。

130避難民のマジレスさん:2024/06/06(木) 10:51:58 ID:U5n9iQq20
423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw

***
(三十)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。

 師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
 如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」

「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」

***

 続いてお釈迦様は須菩提長老に、
 もし善男子善女子がこの三千大千世界を砕いて微塵衆にしてら、それは多いか。
 と、聞いたのじゃ。

 須菩提長老はそれは多いと、答えたのじゃ。
 なぜならばその微塵衆が本当にあるならば、如来は微塵衆と説かなかったから
 と、いうのじゃ。

 なぜならば如来の説いた微塵衆は微塵衆ではない
 それを微塵衆と名づけたからというのじゃ。

 そして三千大千世界も三千大千世界ではないというのじゃ。
 そうであるから三千大千世界というのじゃ。

 なぜならば三千大千世界が本当にあるならば、全てである観念があるからなのじゃ。
 全てであることは、全てであることではないと如来は説いたのじゃ。
 それが全てであることなのじゃ。

 しかし凡夫はそれに執着するものであるというのじゃ。

 つまり全ては観念としてあると認識されるが、実体はないということなのじゃ。
 実体はないとこに執着するのが凡夫であるというのじゃ。

131避難民のマジレスさん:2024/06/07(金) 10:39:01 ID:VG/pkc6M0
460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0

***
(三十一)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」

  スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」

「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」

***

 お釈迦様は更に須菩提長老に、
 もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、
 と、聞いたのじゃ。
 
 長老は、
 それは正しくない 
 なぜならば、それらの見解は見解ではない。
 それを見解とよぶのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は、
 その通りじゃ。
 無上正等正覚を得ようとする者は、そのように一切の法を知り、見て、信じ、理解して、
 法という観念を持つべきではない、
 と、答えたのじゃ。

 なぜならば、法という観念は、法という観念ではない
 そうであるから法という観念なのじゃ。
 と、説いたのじゃ。

 そもそもお釈迦様の教える法とは、全ての観念を離脱し、破壊する方法なのじゃ。
 それなのに法そのものに何かの見解や観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
 そうであるから、法をも否定して、否定された法を認めるべきなのじゃ。

132避難民のマジレスさん:2024/06/08(土) 11:16:16 ID:ABGgMtuA0
488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU

***
(三十二)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
 それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。

 世界の一切のものごとは
 夢や幻、泡や影、
 露や稲妻のよう、
 そのように観るがよい。」

 師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。

***

>>489
長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
 最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
 もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
 人のために説いた方がより大きな福を得る
 といったのじゃ。

 どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
 それが人のために説くということなのじゃ。
 というのじゃ。

 つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
 自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
 
 そして詩句を示すのじゃ。

 一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
 と、説いたのじゃ。
 つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
 
 今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
 直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
 それもまた金剛般若経の法なのじゃ。

 この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
 次は総評なのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2024/06/09(日) 11:03:48 ID:2FR8Sx8o0
500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU

 金剛般若経も終わったのじゃ。
 全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。
 仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。
 それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。

 もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。
 そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。
 阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。

 全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。
 そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。
 その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。

 それが金剛石のように能く断つことができる叡智の教えという経の意味なのじゃ。

 観念に囚われているものには、役に立つ教えなのじゃ。
 しかし、他の教えと同じように、全ての人に効果がある訳ではないのじゃ。
 それが向いている者には効果がある法なのじゃ。

 自分に向いている法なのか、よく吟味して実践すると善いのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2024/09/27(金) 11:26:14 ID:3mnA./cI0
※抜けがありました。追加いたします。
___

0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41
***
(二十九)

「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」

***

 それからお釈迦様は、
 もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする
 と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。

 なぜならば来たり去ったりしないのが、如来であるからというのじゃ。
 如来とは来るが如しという意味なのじゃ。
 来ることも去ることもないものなのじゃ。

 既に死を超越したからなのじゃ。
 死の世界へ去ることはなく、生まれてきたものでもないのじゃ。
 一切の観念から離れた故に、生死も滅したのじゃ。

 死を超える事は生をも超えることなのじゃ。
 生きるということの停止が死ぬことなのであるからのう。
 生死の観念を超えたものが如来なのじゃ。
 そうであるから来ることも去ることもなく、来るが如しなのじゃ。


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