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金剛般若経を読んで実践する
126
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/02(日) 13:00:32 ID:yjDfwsxg0
274鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/26(水) 23:30:14.42ID:FZ5ktjQi
>>275
***
(二十五)
「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は須菩提長老に、
如来が衆生を滅度させたというようなことを思ってはいかん、
というのじゃ。
なぜならば如来が滅度させた衆生はないから、というのじゃ。
もし如来が滅度させた衆生があるとするならば、自己の四つの観念を如来がもっていたといことになるからなのじゃ。
そのようなものがないから、如来が滅度させた衆生はいないのじゃ。
更に自己の四つの観念もまたない、というのじゃ。
それらはもともと幻想である故にないものなのじゃ。
しかし、凡夫はあると思っているのじゃ。
その凡夫さえも無いものというのじゃ。
もはやなにものも観念としてないのじゃ。
観念そのものさえもないというのじゃ。
このようにして段々と全てはないことが深化していくのじゃ。
始めは観念としての自己が無いということであったのじゃ。
ここではもはや観念そのものもないというのじゃ。
それがそのまま修業の段階を示していると言えるのじゃ。
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