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エスペラント改造論

99松戸彩苑:2007/03/05(月) 20:12:36
『エスペラント日本語辞典』の klaso の項には

  (3) 〔学校の〕クラス,学級;学年: Mi kaj sxi lernis en la sama 〜o. 私と彼女は同じ
  クラスで学んだ / lernantoj de [el] pli alta 〜o 上級生.

と書いてあるんですが、考えてみれば「学年」と「学級」というのは、まったく別のものなん
ですよね。
英語でも「学年」は grade、「学級」は class と区別しています。

そこで、NPIVの klaso の項を見てみますと

  (3) Aro de cxiuj lernantoj, kiuj sekvas la saman kurson: la unua, dua, tria 〜o
  (kalkulitaj, lau' la landoj, de supre au' de malsupre); lernejkamaradoj el pli alta 〜o;
  (analoge) fari siajn klasikajn 〜ojn.

と書いてあります(原文では、3つの用例すべてに小さなZマークがついています)。
この定義と用例を見ると、明らかに「klaso = 学年」なんですね。
(旧版のPIVでも同様)

しかし、NPIV(および旧版のPIV)にこう書いてあるからといって『エスペラント日本語辞典』
の記述が間違っていると判断するわけには行きません。

泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』の101ページを見てみますと

  > klaso には「学年」という意味と「学級」という意味とがあります。「彼は1年1組にい
  ます」は、訳せば、Li lernas en la klaso N-ro 1 de la 1-a klaso. ということになるでし
  ょう。

と書いてあります。
こういうことから判断しますと、おそらく klaso は実際に「学年」と「学級」の両方の意味で
使われているのでしょう。

しかし、これは要するに「混乱している」という事ではないでしょうか?
私には、そうとしか思えないのです。

だいたい、klaso が「学年」と「学級」の両方を表わすということになりますと、samklasano
という合成語は「同じ学年の人」と「同じ学級の人」の両方を表わすということになってしま
います。

また、『エスペラント日本語辞典』には klasanaro という合成語が載っていて「クラスの全
員」という訳語が与えられていますが、「klaso = 学年」と考えれば「ある学年の全員」を
も表わすことになるはずです。

100松戸彩苑:2007/03/05(月) 20:13:22
>>99 の続き)

おそらくは

(1) ザメンホフは klaso を「学年」という意味で使ったが、「学級」を表わす単語は提案し
    なかった。

(2) 英語の class は「学級」という意味なので、エスペラントの klaso を「学級」の意味で
    使う人間が少なくなかった。

ということで混乱してしまったのではないでしょうか?

私の考えでは、この問題を解決するには、まず最初に(英語のほかに)フランス語、ドイツ
語、スペイン語、ロシア語などといった主要な欧米語で「学年」と「学級」をどのように表現
しているのかを調べることが必要だと思います。

それらを参考にしながら、エスペラントでの表現方法を考えるということです。

残念ながら、私の語学力や、私のもっている外国語の辞書では、こういった事はよく判り
ませんので、これらの言葉を母語とするエスペランティストに訊ねてみると良いと思います。
---

klaso をふくめて、今までの議論から

(1) 現在のエスペラントは、この程度の表現でさえもアヤフヤである。
(2) 「使っているうちに発展する」という話を信じる気にはなれない。
(3) この程度の表現でさえもアヤフヤなのだから、文通や会話をするのにも支障が出る
    のは当然である。
(4) 日常生活に関する語彙・表現をなめてはいけない。

といったことは、もう言うまでもないでしょうね。
しかし、これとは反対に

(5) (1)〜(4)のような問題はあっても、すでにエスペラントはかなりのレベルに達してい
    るので、こういった問題をしらみつぶしに解決していけば、今以上に役に立つ、素晴ら
    しい言語になると考えられる。

ということも言えますので、頑張っていきましょう。

(終わり)

101松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:16:15
『エスペラント日本語辞典』の lerni の項には、mezlernejo という合成語が副見出し語とし
て載っています。

  mez/lern/ej/o 中学校、高等学校、= mez(grad)a 〜ejo 〔mez〜ejo は中等教育機関
  のことで、日本の中学校・高等学校どちらにも使える。必要があれば、中学を mal-
  supera mez〜ejo、高校を supera mez〜ejo と言えばよい〕。

と書いてあります。

また、泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』にも、日本の(というよりは、アメリカ式の教育
システムにおける)「高校」をエスペラントでどう言うかについての議論があります。
かなり長いのですが、たいへん参考になりますので、全文を引用しておきます。

  supera mezlernejo 高等学校。「より上級の中等教育機関」ということ。筆者の私が、か
  ねて提唱している、日本の「高校」のエスペラント訳語です。

  「高校生」は、lernanto de supera mezlernejo と、随分長々とした言い方になりますが、
  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単に lernanto といえばいいのですから、
  問題はないでしょう。supermezlernejano というような仰々しい造語は、いただけません。

  「高等学校」なのだから、altlernejo でよいではないか、というのは暴論です。altlernejo
  は、「高等教育機関」ということですから、「(単科)大学」および「専門学校」を指します。
  高等学校は、名前は「高等」でも、教育の分類としてはあくまで、中学校と同様に中等
  教育の場です。ちなみに中国語で"高校"といえば、エスペラントの altlernejo と同じく
  「大学・専門学校」を指します。日本語でいう「高校」のことは中国語では"高級中学"、
  略して"高中"といいます。

  日本の高校がちょうどフランスの「リセ」に相当するので、エスペラントでも「高校」のこ
  とを liceo といったらよい、という意見もあります。これだと「高校生」は liceano となり、
  随分スマートな感じです。しかし、エスペラントにおいて、liceo というのは純粋な普通
  名詞とは言いがたく、あくまでフランスの教育制度上の学校の呼び名です。いやしくも
  日本の学校をフランス流に liceo と呼ぶのは、まるで日本がフランスの植民地になっ
  てしまったみたいで、ちょっと筆者の私には耐えられないことです。
  (同書40〜41ページ)

  > 実は、「高校」を supera mezlernejo としたことについては、ドイツ人から「言わんと
  するところは、よく分かるが、同じ lernejo が meza でもあり supera でもある、というの
  はおかしいと思う」というコメントをもらいました。ではどうすればよいのか…は、残念な
  がら教えてもらえませんでしたが。

  ドイツでは、大学進学予定者は、いわば「中高一貫教育」の7年制のギムナジウム
  (gimnazio)にはいり、それ以外の生徒は中卒の段階で職業学校(profesia lernejo)に
  進学します。このドイツの制度では、日本のように「中等教育の第2段階を担当する学
  校」のことを何と呼べばよいか、と悩む必要はないわけです。

  さて、「高校」を supera mezlernejo と訳したのは、ロシア語で povysennaja srednaja
  skola (plialtigita meza lernejo)と訳しているのを参考にしました。

  あとで知ったのですが、イタリアでは実際に「高校」のことを、liceo[リチェーオ]ともい
  い、scuola media superiore (lernejo meza supera)ともいうのだそうで、後者はまさに
  supera mezlernejo ですね。supera mezlernejo が適切な言い方であることが証明され
  たような気がして、筆者の私もいささかうれしくなりました。

  とはいえ、supera mezlernejo というのは、耳慣れない表現のはずですから、Kio estas
  supera mezlernejo?と聞かれたら、Gxi estas japana liceo.「日本のリセです」と答えて
  おけばよいでしょう。ただし、スペイン語で liceo[リセーオ]は、チリでは「中学校」、メキ
  シコでは「小学校」のことなのだそうです。ご留意のほどを。

  「中学校」は、mezlernejo だけでも十分でしょうが、強いて「高校」と対照・区別する必要
  のあるときには baza mezlernejo といえばよいでしょう。イタリア語では、単に scuola
  media (meza lernejo)ともいい、scuola media inferiore (lernejo meza malsupera)とも
  いう由。
  (同書100〜101ページ)

102松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:18:53
>>101 の続き)

ずいぶん長い文章でしたが、たいへん参考になったと思います。
ところで、これらの引用文から、私(=松戸彩苑)は何を言おうとしているのか。

私の考えでは、supera mezlernejo というのは、たしかに意味的には「正確」だと思います。
しかし「高校」というのは日常的によく使われる言葉ですから、これでは「長すぎて不便だ
ろう」と思うのですね。

  「高校生」は、lernanto de supera mezlernejo と、随分長々とした言い方になりますが、
  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単に lernanto といえばいいのですから、
  問題はないでしょう。

と泉氏は書いておられますが、現実には、教育問題について書いたり語ったりすれば、
小学生・中学生・高校生・大学生といった単語が、ランダムに何回も出てくることだってあ
るわけです。
そのような場合には、とても

  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単にlernanto といえばいい

などといったやりかたで対応できるとは思えないのです。

また考えてみれば、英語では high school または high ですし、日本語では「コーコー」
と言いますし、中国語では「高級中学」を略して「高中(gao zhong)」と言うわけです。
やはり、日常的によく使われる言葉ですので、たいへんに短いわけです。

一方、先の引用文中に、ロシア語の povysennaja srednaja skola とか、イタリア語の
scuola media superiore といった表現が出てきましたが、私の予想では、これは日常的
に使われている名称ではないのだと思います。
もちろん、これらは間違いなく通じる表現なのですが、しかし、こんな長ったらしい単語を
日常的に使っているとは、とても思えないのです。

先に述べたように、「中学」「高校」というのは、アメリカ式の教育システムにもとづいた学
校であるわけです。
世界中のどのくらいの国や地域で、アメリカ式の教育システムを採用しているのか、私
はよく知りませんが、しかし決して「一部の地域の特殊な習慣」などではありません。
要するに、私の言う「現在の文明社会に住んでいる成人であれば、誰でも知っている概
念」なわけです。
そういうものを簡潔に表わすことが出来ないというのは、やはり困ったことだと思うんです
ね。
---

ということで「supera mezlernejo は長すぎて不便じゃないか」という私の意見はよく判った
と思いますが、しかしそうなると当然「では、何と言えば良いのか?」という話になってきま
す。

これだけ批判をしてきて、こんなことを言うのも何なんですが、「いろいろ考えてみたが、今
のところ、自信をもって勧められるような訳語は見つかっていない」と言わねばなりません。

しかし、私の問題意識そのものは間違っていないと思いますし、このように問題提起をし
ておけば、いつか誰かが、適切な訳語を考え出してくれるかもしれません。
逆に、問題提起をしなければ、いつまでたっても解決されることは無いでしょう。

103松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:21:55
>>102 の続き)

このような言いわけをしておいてから、私が考えたことを述べていきたいと思います。
結局は失敗だらけなんですが、それでも参考にはなると思います。

かつて私は、日本語の「高校」「高」や、英語の high (school) という表現から、alt-ejo と
してしまったら良いんじゃないかと考えたことがありました。

私は以前から痛感していたのですが、エスペラントというのは、略語がほとんど出来ない
言葉なんですよね。
エスペラントで略語ができるのは、エスペラント運動に関する語彙だけだという印象があり
ます。
エスペラント運動以外の分野の語彙について大胆な略語を提案した人というのは、(ほか
にもいるのかもしれませんが)私の知るかぎりではRüdiger Eichholz 氏と Karolo Picx 氏
くらいしかいません。

話を元にもどしますが、「高校」というのは日常的な語彙であり、なんとしてでも短くなけれ
ばならないから、altejo のような破格的な表現でも許されるんじゃないかと考えたわけです。

辞書で調べてみたところ、altejo = altajxo(高い所、高地、丘)とありましたが、altejo の
ほうは空見出し語になっており一般的ではないらしいので、altejo を「高校」の意味で使っ
ても大丈夫かな?と思ったのでした。

しかししばらくして、altejo は、発音のうえで「al TEJO」と区別がつかないということに気が
つきました。
ということで、この表現はまったくダメだと思ったわけです。
---

それから、supera mezlernejo から略して superejo ではどうかとも思いました。

「中学校」は malsupera mezlernejo ですが、これを略して malsuperejo としたのでは耳で
聞いたときに superejo と区別がつきにくいと考えたので、sub か infre を使って subejo か
infrejo とすることを考えました。

まぁ、「superejo = 高校」「subejo、infrejo = 中学校」というのは変だといえば変なんです
が、このくらい短くないと会話がスムースにいかないのではないかと思うんですよね。

なお、旧版のPIVには infre が収録されていたのですが、NPIVでは無くなって、その代わ
りに infra- という接辞として収録されています。
infre もあったほうが、今後、合成語を作っていくうえで便利なんじゃないかと思うんですけ
どね。
---

これでもダメだと言うのなら、いっそのこと hajo という新語根を導入しても良いんじゃない
かとも思っています。

「gimnazio とか liceo とかは固有の語根があるのに、どうして high school だけは supera
mezlernejo などという長ったらしい表現をしなければならないんだろう?」と考えれば、
high school を表わす語根を導入しても構わないような気がするんですけどね。

私が考えたのは、こういったことです。
ほかの人が考えれば、また違った案も出てくることでしょう。

104松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:23:30
>>103 の続き)

つぎに「塾」について考えてみたいと思いますが、泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』
の56〜57ページに

  vespera intensa kurso 塾。「夜間の集中講座」ということ。「塾」のことを簡潔に説明す
  るには、こう言うのが一番いいと思います。

  『日エス』には、privata lernejo 「私立学校」という訳が出ていますが、残念ながらこの
  テキストのような文脈では使いものになりませんね。「私立学校にいくために塾に通っ
  ています」などということもあるわけですから。

と書いてあります。

ということで、もちろん vespera intensa kurso でも良いと思うのですが、私は krom-
lernejo という言い方もできると思います。
krom- には「副次的な」という意味がありますので、krom-lernejo で「補助的な学校」とい
う意味になるわけです。
もちろん「なるべく短くしたい」という私の好みから言えば、これも kromejo としたいところ
です。

なお『日本語エスペラント辞典』の「予備」の項には

  〜校 propedeu'tika lernejo; prepar-lernejo.

と書いてありますが、この後者の prepar-lernejo という表現は、しっかり定義しておけば、
使えそうだと思います。
---

「日常よく使われる語彙は、短くなければならない」という観点から見れば、「小学校」を表
わす elementa lernejo なども長すぎるわけです。
ということで私が考えたのが elemo という略語でした。
小学校は bazlernejo と言われることもありますが、これを短くすれば bazejo となります。

また「大学」のことをドイツ語では Uni と略しますし、英語でも uni と言うことがあるようです。
そこでエスペラントの universitato を短くすることを考えるわけですが、uno では「国連」と
同じになってしまいますし、unio もすでにあります。
ということで univo ならOKだろうと思ったんですが、発音してみると unio と聞き分けにくい
ということが判りました。
ということで univeo ではどうかと思ったんですが、いかがでしょうか?

また instruisto というのも長すぎると思ったので、inso という形を考えてみました。

なんでもかんでも無闇やたらと短くしてるみたいですが、このくらい短くしないと会話がは
ずまないのではないかと思うのです。
たとえば「あなたは高校の先生ですか?」「いいえ、私は、高校生を教える塾の講師をして
るんですよ」というような会話は、私が提案した短い単語を使えば

Cxu vi estas inso de superejo?
Ne, mi estas inso de kromejo por superejanoj.

となりますが、正統的なエスペラントで言いますと

Cxu vi estas instruisto de supera mezlernejo?
Ne, mi estas instruisto de vespera intensa kurso por lernantoj de supera mezlernejo.

となります。

もちろん「こういった単語を今日から使え」などと言うつもりはありませんが、いろいろと考え
てみることが必要だと、私は思うのです。

(終わり)

105松戸彩苑:2007/03/11(日) 09:24:57
さて、今まで「学校」に関する語彙・表現について論じてきたわけですが、このほかにも
「入学」「卒業」「退学・中退・放校」…といった表現もあるわけです。

そこで今回は、『日本語エスペラント辞典』で、こういった表現にどんなエス訳が与えられ
ているのか調べてみることにします。

とくに問題なのは「退学・中退・放校」「休学」「停学」「早引け・早退」といった表現でしょう。
どれも「学業を中断する」という意味があるので、気をつけてエス訳を決めないと、区別が
つかなくなるおそれがあります。

  にゅうがく【入学】 lernantigxo. 〔大学の〕 studentigxo. 〜する esti akceptita de lern-
  ejo.

  そつぎょう【卒業】 la fino de la tuta kurso 〔studo〕; diplomigxo. 〜する fini la kursojn
  〔studon〕.

  たいがく【退学】 〔自分から〕 ekslernantigxo. 〔大学を〕 eksstudentigxo; forlaso de
  lernejo 〔universitato〕. 〔学校から〕 forpelo el lernejo 〔universitato〕. 〜処分にする
  (なる) forpeli (esti forpelita) de lernejo. 中途〜する interrompi la studon 〔lernadon〕.

  ちゅうたい【中退】 大学を〜する rompi sian studon en universitato; lasi universitaton
  sen finstudi; ne fini la kurson de universitato.

  ほうこう【放校】 forpelo 〔elpelo〕 de lernejo.

  きゅうがく【休学】 interrompo (de studo). 2年間〜する interrompi studon dum 2 jaroj.

  ていがく【停学】 3月間の〜 trimonata suspendo. 〜処分 suspendo.

  はやびけ【早引け】 〜する forlasi laboron 〔oficejon; laborejon; lernejon〕 antau' la
  regula horo.

  そうたい【早退】 ⇒ はやびけ

  ふくがく【復学】 〜する reveni al lernejo 〔klaso〕.

「退学」と「休学」の両方に interrompi が出てくるのが、ちょっとヤバイかなと思います。

  しんがく【進学】 〔大学への〕 studentigxo. 〔上級校への〕 enlasigxo en pli altan lern-
  ejon. 〜する esti akceptita 〔enlasita〕 de lernejo.

  しんきゅう【進級】 〜する avanci.

  りゅうねん【留年】 〜する resti en sama jarklaso.

  (侍の浪人などは省く)
  ろうにん【浪人】 student-aspiranto. 〜する malsukcesi en ekzameno kaj atendi la
  sekvantan. 目下〜中です Mi malsukcesis en enlasa ekzameno. 2年間〜する mal-
  sukcesi enlasajn ekzamenojn dum 2 jaroj.

「飛び級」は無し。

  とうこう【登校】 vizito al lernejo. 〜する viziti lernejon.

  げこう【下校】 〜する reiri de lernejo.

  きゅうこう【休校】 fermo (de lernejo).

  たんにん【担任】 ⇒ たんとう(担当). 〜である esti sxargxita 〔okupita〕 per io. 
  クラス〜の先生 instruist(in)o respondeca pri klaso.

106松戸彩苑:2007/03/11(日) 09:26:19
>>105 の続き)

ところで「放課後(に)」というのは、どのように言えば良いのでしょうか?
『日本語エスペラント辞典』の「放課」の項は、次のようになっています。

  ほうか【放課】 fino de lecionoj. 〜後 post la fino de kursoj 〔lecionoj〕.

「放課後(に)」は、英語では after school、フランス語では après la classe、ドイツ語で
は nach der Schule ですので、これを

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』
Jacques Le Puil、Jean-Pierre Danvy(編)『Grand Dictionnaire Français-Espéranto』
Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』

で調べてみることにしました。

ところが調べてみたところ、これらの辞書に after school、après la classe、nach der
Schule という表現が載っていないということが判りました。

そこで、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-Esperanto』で doposcuola の項を見て
みると「postleciona tempo, postlernejo」と書いてありました。

さらに調べてみたところ、postlerneja という表現が、旧版のPIV、NPIV、そして『エスペラ
ント日本語辞典』の lerni の項に載ってることが判りました。
(postleciona という見出し語は、旧版のPIV、NPIV、『エスペラント日本語辞典』のいずれ
にも無し)

ということで「放課後(に)」のエス訳は postlerneje で良いのかな?と思ったのですが、み
なさんはどのように思われるでしょうか。

いずれにしても「放課後(に)」のような、ごくごく簡単な表現でさえも、いまひとつハッキリ
しなかったり、あるいはまったく調べられなかったりという状態だということが、お判りにな
ったことと思います。

(終わり)

107松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:14:59
『エスペラント日本語辞典』の trajno の項に

  regiona[distrikta]〜o ローカル列車

と書いてあります。
一見すると、これで問題ないように思えますが、私の考えでは、これは間違ってると思うの
です。

この regiona trajno という表現は、NPIVに載っているものです。
NPIVの trajno の項の2に

  ekspres〜o, rapid〜o, regiona 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on.

と書いてあります。
しかしこれだけでは、やっぱり『エスペラント日本語辞典』の訳で正しいように思えますね。

ところがです。
旧版のPIVの当該部分を見てみますと、次のようになっているのです(3番目の表現に注
目してください)。

  ekspresa, rapida, omnibusa, ekstra 〜o; konekta 〜o.

さらに、旧版のPIVの Suplemento にも trajno の項があって

  ekspresa 〜o, rapid〜, ordinara 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on.

となっているのです。
これでは判りにくいと思いますので、時系列にそって並べ替えてみますと、次のようにな
ります。

  ekspresa, rapida, omnibusa, ekstra 〜o; konekta 〜o. (旧版のPIV)

  ekspresa 〜o, rapid〜, ordinara 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on. (旧版のPIVの補遺)

  ekspres〜o, rapid〜o, regiona 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on. (NPIV)

これを見れば判るように、3番目の表現だけが omnibusa → ordinara → regiona と、コロ
コロと変わってるんですね。
ところで、この3番目の表現は、いったい何を表わしているのでしょうか?

私の考えでは、これは「各駅停車の列車」のことだと思います。
「各駅停車の列車」のことを、フランス語では train omnibus と言い、またイギリス英語でも
omnibus train と言うんですね。
それで、旧版のPIVに omnibusa trajno という表現が載ってたわけです。

しかし、おそらくこの表現は、フランスやイギリス以外の人たちからは「判りにくい」というこ
とで評判が悪かったのでしょう。
そこで旧版のPIVの補遺では、われわれ日本人にも判りやすい ordinara trajno という表現
が収録されたのでしょう。

しかし、どういうわけだかNPIVではさらに変更されて regiona trajno という表現になりました。
これは、アメリカ英語の local train などを参考にして作られた表現だと思います。

で、『エスペラント日本語辞典』の編者は、こういった事情に気づかずに、regiona trajno に
「ローカル列車」という訳語を当ててしまったというわけです。

日本語の「ローカル列車」という表現は、人口の少ない地域を走る列車のことです。
1両とか2両だけで走ったり、あるいは、1日に数本しか走らないといった鉄道のことですね。
一方、アメリカ英語の local train というのは、各駅停車であれば、たとえ大都会のなかを
走っていても良いんですね。
私の予想では、regiona trajno というのも、そういう列車を表わしているのだと思います。

108松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:16:43
>>107 の続き)

ところで、旧版のPIVの補遺には載っていたのに、なぜかNPIVでは変更されてしまった
ordinara trajno ですが、おそらく「臨時列車」に対する「通常ダイヤの列車」と区別がつか
ないのではないかということから変更されたのではないでしょうか?
もっとも、Erich-Dieter Krause(編)『Großes Wörterbuch Esperanto-Deutsch』の trajno
の項には、regula trajno という表現が「通常ダイヤの列車(fahrplanmäßiger Zug)」を表わ
す表現として載ってるんですけどね。

この「各駅停車の列車」を表わすエスペラント訳語は、ほかにも幾つかあります。
たとえば『日本語エスペラント辞典』の「鈍行」の項には

  どんこう【鈍行】 〜列車 cxiehalta 〔malrapida〕 trajno. 〜で行く veturi cxiehalte.

とあります。

また、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-Esperanto』の trèno の項には「loka
trajno」があります。
イタリア語でも「各駅停車の列車」のことを trèno locale って言うんですね。

もちろん、「各駅停車の列車」を表わす表現が複数あっても構わないとは思うんですけれ
ども、誤解を生じるようではダメなわけですね。
---

補足になりますが、『日本語エスペラント辞典』の「普通」と「列車」の項には「普通列車 om-
nibusa trajno」が、また「停車」の項には「各駅〜の列車 ordinara trajno」が載っていました。

あと、これは日本語に関することなんですが、一般的には「各駅停車の列車」のことを「普
通列車」と言いますが、JRでは「普通列車」というのは急行券や特急券を必要としない列車
すべてを表わすので、各駅停車であるとは限らないんだそうです。

(終わり)

109松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:31:55
>>107-108 への補足)

Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』の Personenzug (各駅停車
の列車)の項には、「ordinara (あるいは cxiustacia) [pasagxer]trajno」という記述があり
ました。

110松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:32:10
>>107-108 への補足)

Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』の Personenzug (各駅停車
の列車)の項には、「ordinara (あるいは cxiustacia) [pasagxer]trajno」という記述があり
ました。

111りょほう:2007/03/11(日) 15:10:32
>>105
「飛び級」ですが、「進級する」promociiĝis を使ってこのように表現したことがあります。松戸さんならどう表現しますか?
Mihama Chiyo promociiĝis de 5-a grado de elementa lernejo al 1-a grado de altlernejo je 5 gradoj.

gradoは「学年」の意味、altlernejoは「高校」の意味で使っています。

112りょほう:2007/03/12(月) 19:04:50
しばらく留守にします。

113松戸彩苑:2007/03/13(火) 03:25:38
>>111
なるほど。
文脈から「飛び級」だということが判りますので、とりあえずはそれで良いんじゃないでしょ
うかね?

しかし、その表現方法だと、「〜年から〜年に」という部分がないと「飛び級」だということが
判らないんですよね。

ですから将来的には、日本語の「飛び級」や、英語の grade-skipping を真似て、(「学年
= grado」だとした場合ですが) grado-salto とか salti 〜 gradojn のように表現したほう
が良いと思いますね。

114松戸彩苑:2007/03/13(火) 21:25:57
今回は、『エスペラント日本語辞典』を見ていて気になったことについて、書いてみたいと
思います。
---

『エスペラント日本語辞典』の kesto の項に posxt-kesto が副見出し語として収録されて
いますが、ここには「郵便箱,ポスト; 〔門・戸口の〕 郵便受け; 郵便私書箱」という訳が
添えられています。

言うまでもなく「ポスト」「郵便受け」「私書箱」は、まったく異なるものです。

この記述は、おそらく三宅史平(編)『エスペラント小辞典』の posxt-kesto の項をそのま
ま受けついだのでしょう。

NPIVでは

  (kesto の項) posxt〜o. Granda 〜o, en kiun la publiko enmetas la ekspedotajn
  leterojn ks.

  (kesto の項) leter〜o. 〜o, cxe la pordo au' enirejo de domo, kien la posxtisto
  demetas la leterojn paketojn ks. SIN. leterskatolo.

  (fako の項) posxt〜o. Unu el la specialaj kestoj, signitaj per numero k instalitaj
  en posxtoficejo, de kiu firmoj au' privatuloj venas preni mem siajn korespondajxojn:
  posxt〜o 32.

となっています。
要するに「ポスト = posxtkesto」「郵便受け = leterkesto, leterskatolo」「私書箱 =
posxtfako」というふうに、完全に区別ができてるんですね。
---

ところがです。
旧版のPIVでは次のようになっていたのです。

  (letero の項) 〜kesto. Publika kesto diversforma, en kiun oni metas la deirantajn
  〜ojn, poste kolektotajn de posxtisto.

  (letero の項) 〜skatolo. Privata skatolo cxe dompordo au' vestiblo, en kiun 〜por-
  tisto metas la alvenantajn 〜ojn.

  (skatolo の項) leter〜o. 〜o, cxe la pordo au' enirejo de domo, kien la posxtisto
  demetas la leterojn, paketojn ks. ☞ posxtkesto.

  (kesto の項) posxt〜o. Unu el la specialaj 〜oj, signitaj per numero k instalitaj en
  posxtoficejo, de kiuj firmoj au' privatuloj venas preni mem siajn korespondajxojn:
  posxt〜o 32.

  (posxto の項) 〜kesto. Granda, diversforma kesto, kien la publiko enmetas la
  ekspedotajn leterojn ks. ☞ leterskatolo

整理しますと、PIVでは leterkesto が「ポスト」(NPIVでは leterkesto は「郵便受け」)、そ
して letero と skatolo の両方の項にある leterskatolo は「郵便受け」(NPIVでも同じ)で、
これは良いのですが、posxtkesto は kesto の項では「私書箱」、posxto の項では「ポス
ト」となっていたのです。

115松戸彩苑:2007/03/13(火) 21:27:09
>>114 の続き)

このような混乱があったため、PIVの Suplemento には

(1) posxto の項に posxtfako 「私書箱」を追加。
(2) posxto の項から posxtkesto を削除。「ポスト」は leterkesto。

という指示が載っています。

これに従えば、leterkesto が「ポスト」(NPIVでは leterkesto は「郵便受け」)、 leterskatolo
は「郵便受け」(NPIVでも同じ)、そして posxtfako が「私書箱」(NPIVでも同じ)ということに
なりました。

これで解決と言いたいところですが、kesto の項にある「posxtkesto = 私書箱」(NPIVでは
「ポスト」)という記述については、削除・変更の指示がまったくありません。
これについては、削除しわすれたのか、それとも、このままで良いと考えたのか、私には判
断できません。
このままで良いと考えたのであれば、わざわざ posxtfako 「私書箱」を追加する必要はな
かったように思うのですが、さて、どうだったのでしょうか。

ところが、この posxtkesto が、NPIVで再び「ポスト」を表わす唯一の表現として復活し、そ
の一方で、1970年以来「ポスト」を表わしていた leterkesto は leterskatolo と同じく「郵便
受け」を表わすことになったのです。

理由はよく判らないのですが、私の予想では、旧版のPIVの posxto の項に載っていた
「posxtkesto = ポスト」がすでに広まっていたので、補遺で削除しても効果がなかったの
ではないでしょうかね。
---

ということで、この頭のなかが混乱しそうな話は終わりですが、考えてみると、読んだあとの
手紙や葉書を入れておく「状差し」というのもあるんですよね。

で、『エスペラント日本語辞典』を見てみると、skatolo の項にある leter-skatolo に「書状差
し,文箱(ふばこ)」という訳がついてるんですよね。

あれっ、旧版のPIVやNPIVでは leterskatolo は「郵便受け」だったのに…。

ちなみに『日本語エスペラント辞典』の「状差し」の項には leterujo、そして「文箱」の項には
leterskatolo が挙げられています。

いつになったら、国際的に統一されるんでしょうかね。

(終わり)

116Bonsano:2007/03/16(金) 10:15:22
>いつになったら、国際的に統一されるんでしょうかね。

必要は発明の母という諺がありますが、エスペラントの日常使用者の多くが実感しないと
無理でしょう。
今のところは、用語の統一よりむしろエスペラントの表現力を駆使して説明するか、
話者たちの置かれている状況や会話の脈略で充分説明の用を足せるようです。
従って、Kia-kablo-mi-estu?さんの言うとおり多くのエスペラントの話者達にとって
緊急性を要するという認識はなさそうです。

それ以上にEsperantujoの停滞をどう打破していくかの方が緊急課題であると思います。
決して松戸さんの言うとおり日常用語の不備という不安がエスペラントの広まりにブレーキを
掛けているのではありません。
むしろEUの公用語問題を含めてエスペラントの拡大に全力を傾けるべきです。
エスペラントの使用領域の増大に伴っておのずとNeologismoや用語の統一やその定義
といった問題は解決されて行ったことは、例えば第一次大戦後の所謂社会主義の本質を
巡る論議等で語彙の深化が図られたことは既にエスペラントの歴史を通してに多くの事例を
見つけることが出来ます。

117樂々:2007/03/17(土) 07:42:39
>>116
松戸彩苑さんはエスペラント拡大の努力を否定されてませんし、日常語を整備
しさえしたらエスペラントが拡大するともおっしゃってませんが。
なぜ、"緊急課題"以外のことを語ってはいけないのですか。Bonsano さんが
興味をお持ちでないなら無視すればいいだけじゃないですか。
そもそもBonsano さんは"Esperantujoの停滞の打破""エスペラントの拡大"を
どうして実現しようとお考えなのですか。従来の運動や組織で充分だ、足らないのは
努力だけだとお考えなのですか。

118松戸彩苑:2007/03/17(土) 17:42:37
>>116
要するに「宣伝」と「学習」をどうすれば良いのかって事ですね。

そういった事については、私は「大衆迎合なエスペラント運動を考える」というスレにいろい
ろと書いておいたんですが(http://jbbs.livedoor.jp/study/7882/#5)、ここでかんたんに説
明しておきましょうか。
---

まず「宣伝」ですが、今までのような「理念や理論を説明する」というやり方では、エスペラ
ンティストの家族や知人でさえも納得しない、ということを知らなければなりません。

「言語の平等」なんてことは、いちど説明されれば、誰にでも判ることです。
それなのに、エスペランティストの家族や知人でさえもエスペラントをやろうとしないのは、
「カネにならない」「楽しそうに見えない」「世間から誉められない」からです。

人間というのは「カネになる」「楽しい」「世間から誉められる」ことくらいしかやらないものな
のですね。
もっとも、「世の中の役に立ちたい」という気持ちも無いわけではないのですが、そう思う人
は、環境問題だとか介護だとかといった、世間ですでに認められている活動のほうに行く
わけで、エスペラント運動のほうに来る人は、ほとんどいません。

それどころか、立川健二氏のように社会問題の解決のことしか考えていない人物なんか
ですと、エスペランティストの前で「もうエスペラントは絶対に広まらないんだから、そんな
ムダなことはやめて、もっと直接的に社会を良くするような活動をやるべきだ」などと言っ
たりしてるわけです。

また、エスペランティストでオーストリーの大統領になったフランツ・ヨナスという人がいまし
たが、この人は大統領になっても「エスペラントを学校で教えるようにする」といった事はし
ませんでした。
いくら大統領だとはいっても、国会議員や国民の支持を得られないようなことを強引に推し
進めることは出来ないからです。

エスペラントができる大統領でさえもこれですから、エスペラントのできない政治家にそれ
以上のことを期待するのは、現実的ではありません。
---

これでは完全に八方ふさがりのようですが、けっしてそうではありません。

たとえば和田誠一氏は、ふつうの人たちがエスペラントで会話している光景を見て、エスペ
ランティストになりました。

またサーノ葉子氏は、じつの父親からエスペラントを教えられたりしたにも関わらず、エス
ペラントに対してはむしろ反感をもっておられたようですが、さまざまな経験をへて、エスペ
ラントを「面白そう」だと感じてから、熱心に活動をされるようになったようです。

ということで、エスペラントの宣伝には

(1) 実際に、エスペラントを活き活きと使っているところを見せる。
    しかし、そういう機会はなかなか無いので、「エスペラントでこんな事をやっています」
    ということを話したり、あるいは文章にして読んでもらったりする。

(2) 「面白そう」「楽しそう」だと思ってもらえるようにする。

ということが大事だと思うのです。

はっきりいって世間では、エスペラントは、UFOや幽霊の話よりも見聞きする機会が少ない
のです。
そういう状態であるのに関わらず、理念や理論ばかりを滔々と論じても、世間の人はおろか、
自分の家族や知人でさえも、納得してはくれないと思います。
---

つぎに「学習」について考えてみますが、学習においてもっとも大事なのは「本人のやる気」
なんですね。

とくにエスペラントの場合は、勉強してもカネにはなりませんし、世間から誉められることも
少ないわけですから、「やる気を維持する」ということを最優先にしなければなりません。

もちろん、最初は初等教科書で勉強するしかないわけですが、これを終えたら、できれば
学習者のやりたいことに合わせて勉強できれば、やる気を維持しつつエスペラントの能力
をつけることが出来るのではないかと思うんですね。

今までは「本人のやる気」というものをあまり考慮せず、初等教科書を終えたら、いきなり
文学作品を読ませるなどという事をやってたわけですが、文学が好きな人であればそれ
でも良いのでしょうが、そういう人ばかりではないわけですので、このあたりを変える必要
があると思いますね。

119松戸彩苑:2007/03/17(土) 17:43:30
>>118 の続き)

このように考えてくると、どうしても「日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱」というもの
は、看過できないわけです。

日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱していたのでは、先に私が述べたような宣伝・
学習方法はうまく行かないんですよね。

それにそもそも、発表されてから120年もたつのに「文明社会に住んでいるふつうの成人
であれば誰でも知っているような語彙・表現」が大量に不足・混乱しているというのは、これ
までのエスペラント界の常識が間違っていたということであって、大問題なわけです。

はっきり言ってしまえば、ザメンホフの見通しが甘かったという事なのです。
---

さて、Bonsano さんは「たしかに日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱しているかもし
れないが、それよりも宣伝や学習を熱心にやるべきではないか」と考えておられるようです
ね。

しかし私は「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱しているから、宣伝や学習がうまく
行かないのだ」と考えているわけです。

私はエスペラントを始めてから十年以上たちますが、これまで一度もエスペラントを他人に
勧めたことがありません。
理由は「日常生活に関する語彙・表現があまりにも不足・混乱しているので、とてもじゃない
が勧められない」からです。

現在のエスペラントは、30年くらい前のパソコンみたいなものだと思っています。
当時のパソコンは、箱のなかにパーツ一式が入っているだけというものであって、自分で組
み立てなければならず、また、気軽に使えるソフトもありませんでした。
要するに、電子パーツやプログラミング言語と悪戦苦闘するのが楽しくて仕方がないと思え
るような、特殊な人でないと使いこなせなかったのです。

現在のエスペラントも、使いこなせるようになる人は限られています。
JEIには毎年、数十〜百数十人もの人が入会していますが、そのなかのかなり多くの人は
数年でやめてしまいます。
また、やめない人でも、自分で満足できるようなエスペラント能力がつかない人も少なくな
いわけです。

一部のマニアにしか使いこなせなかったパソコンは、どんどん改良されて、一般人でも使
いこなせるものになりましたが、エスペラント運動もこれと同じように、一般人の能力や嗜
好に合わせる必要があるわけです。
だいたい、パソコンを使いこなす能力は30年前でも世間で評価されていましたが、エスペ
ラントの場合は、かなりのていど普及・発展しないと、使いこなす能力は世間から評価され
ないと考えられますので、一般人の能力や嗜好に合わせることが、きわめて大事なのです。

それをやらなかったから、欧米で(また日本でも)エスペラントが見捨てられてしまったのだ
と、私は考えているのです。
---

ということで、現状を打破するには、やはり「日常生活に関する語彙・表現」を確立していく
こと(および、それらを楽に身につけられるような教材を開発すること)が必要不可欠だと思
うのです。

こういった活動によって、まず最初に、われわれのような現在すでにエスペラントを使って
いる人たちの言語活動のレベルが上がります。
エスペラントが、今まで以上に役に立つようになるという事です。

そうすれば、エスペランティストの家族や知人が、エスペラントを見直すことでしょう。
うまく行けば、そういう人たちのなかからエスペラントをやる人が出てくるかもしれません。

このように、自分の家族や知人のあいだに広まるようでないと、ぜったいに世間には広まら
ないと、私は思うのです。

自分の家族や知人が、揃いも揃ってバカだらけで「言語の平等」なんて理解できないとか、
あるいは全員英語が堪能で、英語にはまったく不自由しないとかいうのであればエスペラン
トが見向きもされないのも仕方がないのですが、そういうことはめったにないと思います。

「けっしてバカでもなく、英語が堪能なわけでもない自分の家族や知人が、エスペラントを見
直したり、あるいはエスペラントを学習したりするようにするには、どうしたら良いのか」という
ことを考えるべきなのです。

自分の家族や知人でさえも理解できないような理屈を、世間の人たちが理解してくれること
を期待すべきではないと、私は思います。

そろそろ酔いがまわってきましたので、このへんで終わりにしますが、できれば「大衆迎合
なエスペラント運動を考える」というスレもご覧になってください。

(終わり)

120松戸彩苑:2007/03/17(土) 18:55:10
>>118-119 に補足しますと、たしかに私が問題視するような語彙・表現というのは、誰でも
知ってるものですが、使用頻度のほうはそんなに高くないわけです。
ですから、文章を書いたり、会話をしたりする際には、それほど問題にならないのでしょう。

しかしそうは言っても、こういった語彙・表現があったほうが、よりレベルの高い言語活動
ができると思うんですよね。

それに、エスペラントは「英語から国際共通語の地位を奪い取る」ことを目標にしているの
ですから、こういう語彙・表現があいまいだというのは、とってもマズイわけです。

私が思うに、現在のエスペランティストというのは「人工語のわりにはスゴイ」というレベル
で感動しているみたいなのですが、英語に取って代わろうと考えているのであれば、日常
生活に関する語彙・表現の不足・混乱は、由々しき問題であるはずなのです。

私は「英語」や「世間」や「日常生活に関する語彙・表現」をナメてはいけないと思うのです
が、間違っているでしょうか?

121松戸彩苑:2007/03/18(日) 11:17:30
過去に「割り勘」を表わす表現について論じましたが、竹内義一(著)『エスペラント会話教
室 [新版]』(1999年)の81ページに、次のようなダイアローグが載っていました。

  Ha, cxu? Ni jam ekiru. Slipon mi petas.
  そうかね? もう行こうよ。伝票をちょうだい。

  Ne gxenu vin, sed lasu min pagi.
  心配するな。僕に払わせろよ。

  Ne, vi ne povas. Cxar kiu invitis, estas mi.
  それはいかんよ。さそったのは僕だから。

  Do, cxiu el ni zorgu nur sian pagon.
  じゃあ、割り勘でいこう。

これに加えて、この部分には補足がしてあって

  ここも簡単にするなら "Do, nur sian pagon." とか "(pagu) cxiu por si." でいいだろう。
  "Hodiau' cxiu trinku je sia kosto (posxo)." 「今日はそれぞれ、自前で飲もうよ」と、は
  じめに宣言する手もある。

と書いてあります。

上のダイアローグだけを見ると、ふつうの均等に支払う「割り勘」のようにも見えますが、し
かし、補足のほうに

  "Hodiau' cxiu trinku je sia kosto (posxo)." 「今日はそれぞれ、自前で飲もうよ」と、は
  じめに宣言する手もある。

と書いてあるのを見ると、「めいめいが自分の飲み食いした分を支払う」という意味のような
んですよね。

ということは、上のダイアローグでは、結局「自分の分を自分で支払った」ってことになるの
でしょうか。
それならば、たしかに「Do, cxiu el ni zorgu nur sian pagon.」という文章とも合ってきますね。
---

ところがです。
私のもっている『コンサイス和仏辞典』と『コンサイス和独辞典(第2版)』(ともに三省堂)で
「割り勘」を調べてみると

  わりかん 割勘 〜で飲む chacun paye son verre. 〜にしよう Partageons la note. 
  今夜は〜だぞ Ce soir, chacun pour soi.

  warikan 割勘 →warimae / 割勘にする getrennte Kasse führen / 割勘にしよう
  getrennte Rechnung! | Jeder bezahlt für sich.

となっているのです。

122松戸彩苑:2007/03/18(日) 11:19:25
>>121 の続き)

まずフランス語のほうから見ていきますが、「割り勘で飲む chacun paye son verre.」のフ
ランス語の部分をエスペラントに直訳しますと Cxiu pagas sian glason です。
「割り勘にしよう Partageons la note.」は Ni dividu la fakturon で、「今夜は割り勘だぞ Ce
soir, chacun pour soi.」は Cxi-vespere, cxiu por si です。

つまり、2番目の「割り勘にしよう Partageons la note.」だけは「均等に支払う割り勘」だとい
うことがハッキリしているのですが、それ以外の2つの文章は、そうなっていません。
「自分じしんの分だけを支払う」と言ってるように見えますね。

つぎにドイツ語のほうですが、「割勘にする getrennte Kasse führen」をエスペラントに直
訳すると dividitan kason konduki、「割勘にしよう」の1番目の「getrennte Rechnung!」は
dividita(n) fakturo(n)!、「割勘にしよう」の2番目の「Jeder bezahlt für sich.」は Cxiu
pagas por si です。

こちらの場合には、1番目と2番目の文章は「均等に支払う」ということが判りますが、3番
目の表現は、これまた「各自が自分の分だけ支払う」ような表現なんですよね。

これらの表現を見て、私は、フランス語やドイツ語には「割り勘」を cxiu (pagas) por si の
ように表わす習慣があって、それがエスペラントにも入ってきているのではないかと思っ
たのです。

しかしそうだとすると、実際に「各自が自分の分だけ支払う」ということを表現したい場合も
あるわけですが、それと区別がつかなくなってしまうという問題が出てくるわけですね。

考えてみれば、エスペラントというのは合理性を重視しているわけですから、いくらフラン
ス語やドイツ語などで使われている表現であろうとも、判りにくい表現は導入すべきでは
ないと思うのです。

とは言うものの、すでに定着しているのかもしれないわけですが、「各自が自分の分だけ
支払う」というのと区別はできてるんでしょうか?

dividi lau'kape とか egala pago といった表現のほうが合理的だと、私は思うのですが。
---

そもそも日本語の「割り勘」という言葉にも問題があったわけですが、昭和10〜11年に
平凡社から出版され、昭和49年に復刻された『大辭典』という国語辞典の「割り勘」の項
は、次のようになっています。

  ワリカン 割勘 二人以上の失費の總勘定を人數に應じた頭割(あたまわり)に支拂ふ
  こと。又その支拂。

やはり、われわれが使っているのと、まったく同じ意味なんですよね。
---

今までに判ったのは、こんなところです。

しかし、ほんとにややこしいですね。
まさか日本語で悩むことになるとは、思ってもみませんでしたよ。

(終わり)

123胡人:2007/03/18(日) 18:40:57
 母国を持たない言語は、結局母体となる文化を持たない言語とも言えるわけで、それは同時に2つの面を持つことになると思われます。
 松戸さまのご提案ご意見を述べられる事は、あくまでも日本文化を基として正しく翻訳する時は、という事だと思われます。例えば、国によって割り勘という習慣がない場合もあれば、また建物の階数の数え方の違いもあり、学校制度の違い、行政制度から各種法律の違いまで様々あると思います。
 これが例えば英語(米語?)の様にある一定の文化を基にすれば簡単に翻訳できますし、また簡単に、そんな表現は英語ではありえない!という事も出来ます。

 そういった意味で、エスペラントは様々な表現方法を用いて(語順も)伝えたい事柄を自分なりに翻訳する事ができるアイテムと言える様に思われます。またエスペラントで様々な地域の方々と会話する、情報交換するという事は、それ自体が様々な文化、価値観の交換という事でもあり、国際共通語としての意味するものの共通化、ひいては統一化は行き着くところ、文化の共通化統一化という事になるかもしれません。

 母国語があっての文化でもあり、エスペラントは、やはり国際共通語というよりも国際語、国際補助語(良いネーミングが無いでしょうか?)としての道を行くべきだと思います。すみませんチョッと変な方向に行ったでしょうか?

124Bonsano:2007/03/19(月) 16:40:58
国際共通補助語がエスペラントに対する「今のところ」正式な呼び名であり位置づけです。
正式なと言う表現を使ったのは「将来はいざ知らず」という意味ですが、敢えて率直に
言いますが、補助語として使われているうちに、はるか未来の地球市民がそれを母語として
選択することも充分考えられます。
それについては機会があったら述べてみたいと思いますが、言葉は悪いのですが民族語を
駆逐してしまう状況が世界的に生まれることもエスペラントの合理性を真髄まで実感する民衆の
力がその方向への大きな原動力となるかもしれません。
それに至る過程で松戸さんの指摘する問題が具体的解決へと動き出すでしょう。

松戸さんのご努力には、敬服いたしますが、胡人さんの言うとおり自然言語と比べて
語彙などの面で不確定要素がたくさんあることは確かです。これは国際補助語としての
宿命的なところであり、民族語と同じ次元では考えることには無理があると思います。

ただ私が言いたいのは、松戸さんがこの掲示板で指摘していることをその分量の大きさからみても
新来者が読んだらエスペラントについてどのような思いを抱くでしょうか。

楽々さんの言うところの「余計な口出し」もしたくなります。
この掲示板は主としてエスペラントの欠陥を論うような印象をもたれては
ならないと思いますが。。。

125Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/19(月) 18:10:08
私もBonsanoさんと同意見です。「なんでも」掲示板といってもエスペラントの言語としての
有用性に対する批判的論文がこうも最初方のスレに集中するのは、いかがなものかと。。。

そこでです。出来れば松戸さんが新たに掲示板を立ち上げ、エスペラントの日常用語に関する語彙不足や
不確定的現状について提案なさったらいかがでしょうか。

せっかくの研究ですから本を出されても大いに結構だと思います。
私どものように仕事を抱え、しかもエスペラント運動にどっぷり浸かっているものには、
考える余裕もありませんので、松戸さんがエスペラント運動に貢献する意思がお在りで
これまで御書きになったエスペラントの語彙についての欠陥提示による問題提起が自分の
エスペラント運動に対する最も効率の良い貢献であるとお考えならば、それは人それぞれの
役割分担に値すべき行為と考えるべきものでしょう。

もちろん、松戸さんの仰る問題提起が、さほど差し迫った問題として俎上に上げる緊急性を
感じない、例えば、私なんかがその都度反論できる時間的余裕がないのも問題ではありますがね。

その都度反論できる

126Kanva:2007/03/19(月) 23:28:45
私は初心者で、まだどっぷり浸かっていませんから、松戸彩苑さんの議論を
ずっと興味深く拝読しております。
いろんな議論が平行して行われることが、こうした形式の掲示板の長所で
あって、拡散されてしまうと面倒だな、と思いました。浅慮と叱られるかも
しれませんが、声をあげておきます。

127Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/20(火) 05:58:42
Kanvaさんへ
早速の反応に感謝いたします。
まさにKanvaさんのような初心者にお聞きしたいのですが、これまでの議論を読んで
エスペラントにどういう(好または悪)印象をもたれましたか。出来ればお聞かせ願いたいのですが。
もちろん初心者の段階もいろいろありますので、また、それぞれに印象もことなってくるとは
思いますが。。。

128樂々:2007/03/20(火) 12:10:39
松戸彩苑さんのお話もっと聞きたいです。邪魔をしないでください。
Kia-kabalo-mi-estu?さんには『エスペラントの思想』の続きを
お願いします。

129Kanva:2007/03/20(火) 15:15:41
>Kia-kablo-mi-estu?様

私は、エスペラント界と関わってまだ一年程の者です。
ですのである程度、概要の知識を持って読んでいますから、松戸さんの
ご投稿によって特に不安を抱かされる、ということはありません。
不安は、高齢化の進行する地域のエス会の様子、講習会を企画しても人が
集まらない様子など、経験は浅いながらも、他の所から肌に直接にやって
来ます。
松戸さんのご意見は、従来の活動のあり方の行き詰まりの原因について
考察するものですから、かえって一筋の光明に見えます。

130Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/21(水) 08:30:16
楽々さん。Kanvaさん。
わかりました。私の意見は当分控えさせていただきます。
松戸さんのお話がエスペラント運動の更なる発展の契機となることを祈ります。

131Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/21(水) 08:30:36
楽々さん。Kanvaさん。
わかりました。私の意見は当分控えさせていただきます。
松戸さんのお話がエスペラント運動の更なる発展の契機となることを祈ります。

132松戸彩苑:2007/03/29(木) 21:29:36
みなさん、お久しぶりです。
最近、忙しかったり、体調がいまいちだったりという事があって、書き込む気になれなかっ
たのです。

Kanva さんの >>129 の書き込みを見て、私はたいへん勇気づけられました。

考えてみれば、現在エスペラントをやろうと思うような人たちは、みんな「どうしてエスペラ
ントは広まってないんだろうか」という疑問をもってるはずなんですよね。

実際、私じしんもそうでした。
それで、エスペラントを勉強しながら、その原因を見つけ出そうと頑張ってきたわけです。

私の書き込みを見て、ベテランの方たちが心配するのもよく判るんですが、しかし、こうい
う話ができる場所が、どこかには必要だと思うんですよね。
「自分のサイトを作って…」という話もありましたが、私は、確実にみんなが読んでくれてい
るということが確認できないと、やる気が起きないんですよ。

133松戸彩苑:2007/04/01(日) 18:36:44
私は今まで『エスペラント日本語辞典』をさんざん批判してきましたが、たまには良い点を
指摘してみましょうか。

私は「使い捨ての〜」という表現をエスペラントではどう言えば良いのかについて調べたこ
とがあるんですが、『日本語エスペラント辞典』には載っていませんでした。
細かく言いますと、「使い捨て」の項はなく、「使う」「捨てる」の項に「使い捨て」はありませ
んでした。

そこで Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を調べたので
すが、この辞書には disposable の項がありませんでした。

また Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』を調べましたが、この
辞書には、ドイツ語で「使い捨ての」を表わす einmal-、einweg-、wegwerf- といった表現
は載っていませんでした。

そして Jacques Le Puil & Jean-Pierre Danvy(編)『Grand Dictionnnaire Français-
Espéranto』を調べたところ、jetable(使い捨ての)という項はあったのですが、eljxetota
という、あまり適当ではないと思われる訳語しか載っていませんでした。

このような惨憺たる結果を見て、エスペラントでは「使い捨て」ていどの表現さえも簡単には
見つけられないのか、と思ったのですが、しかし、ある日『エスペラント日本語辞典』を見て
いて、偶然に「使い捨ての」に相当するエスペラント訳語を見つけたのです。

それは、uzi の項にある unu-uza という副見出し語でした。

ためしにNPIVや旧版のPIVを調べてみましたが、これらには unu-uza という表現は載ってい
ませんでした。

なお、イタリア語では usa e getta というのですが、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-
Esperanto』の usa e getta の項には unu-nur-uza という表現が載っています。

134松戸彩苑:2007/05/02(水) 14:47:31
最近はほかのことに関心があって、こっちのほうがお留守になってたんですけど、久しぶ
りに書き込んでみますね。

『エスペラント日本語辞典』の grado の項を見ますと

  du/a/grad/a (1)第二級の;中級の;二流の: dua〜a brulvundo 第二度の火傷 /
  dua〜a kurso 中級講座 / Tio havas nur dua〜an gravecon. それには二次的な重要
  性しかない.類> sekundara.(2)〖数〗2次の: dua〜a ekvacio [funkcio] 2次方程
  式 [関数].

  tri/a/grad/a 第三級の;三流の.

  unu/a/gra/da (1)第一級の,最高級の,= unuaklasa: unua〜a artisto 一流の芸術
  家.(2)初等の: unua〜a lernejo 小学校〔= elementa lernejo〕.類> primara.
  (3)〖数〗1次の.

と書いてあります。

なにも問題が無いように思えるかもしれませんが、しかし、よく考えてみると「初級」「中級」
「上級」というのと「一流」「二流」「三流」というのは意味が違うわけです。

もっと具体的に言いますと、unuagrada lernejo という表現に「小学校(=初級の学校)」と
いう和訳がついていますが、unuagrada には「一流の」という意味もあることになっている
のですから、unuagrada lernejo は「一流の学校」という意味にも取れるはずなんですね。

ちなみにNPIVでは

  dua〜a. Estanta de la dua 〜o: dua〜a kurso, brulvundo. ☞ sekundara.

  tria〜a. Estanta de la tria 〜o: ☞ terciara.

  unua〜a. Estanta de la unua 〜o: unua〜a lernejo. ☞ primara.

と書いてあります(旧版のPIVでも、ほぼ同様)。

定義の部分ではよく判りませんが、用例のほうで判断しますと「初級」「中級」「上級」とか、
医学の「一級」「二級」「三級」といった意味であって、「一流」「二流」「三流」という意味では
ないようです。

また考えてみれば「一流」「二流」「三流」を表わす表現として unua-klasa とか unua-ranga
といったものが有るわけですね。
ですから unua-grada と区別したほうが良いように思われます。

とは言っても、べつに『エスペラント日本語辞典』の編者が間違ったわけではなく、おそらく
実際に unua-grada が「一流の」と「初級の」の両方の意味で使われているのでしょう。

つまり「自然に発展するがままに任せていると、統一されないことがある」という事だと思う
のです。
ですから、エスペラントの「ありのままの姿」というものを100%信頼するのではなく、問題
があると思われるものは指摘して、みんなで考えて解決すべきだと、私は考えています。
---

似たような問題は、ほかにも有ります。
『エスペラント日本語辞典』の kultivi の項には、副見出しとして

  du/kultiv/o 二毛作

  plur/kultiv/o 多毛作

という表現が載ってるんですね。

で、これだけなら良いんですが、この辞書には unu-kultivo という表現も載っています。
誰しも「一毛作かな?」と思われるでしょうが、そうではなく「単一作物栽培」と書いてあるん
ですね。
つまり、欧米の植民地だった地域などで問題になっている「モノカルチャー」の事になって
るんですね。
でも、「一毛作」はどう表現すれば良いんでしょうか?

NPIVを見ますと、unu-kultivo は「単一作物栽培、モノカルチャー」、plur-kultivo は多毛作
ではなく「複数の作物を栽培すること」となっていて、du-kultivo の項はありません。
「一毛作」「二毛作」…を表わす表現は、NPIVにも有るのかもしれませんが、どこに有るの
か判りませんし、まったく無いのかもしれません。

ひょっとすると専門用語の辞書などでは、これらをちゃんと区別できる表現が載ってるのか
もしれませんが、NPIVや『エスペラント日本語辞典』ではこの程度なんですね。

『日本語エスペラント辞典』の「一毛作」の項には unufoja kultivo (dum jaro)、「二毛作」の
項には dufoja rikolto en jaro とあります。
たしかに間違ってはいないのですが、しかし日本語の「一毛作」「二毛作」や、英語の
single cropping、double cropping などと比べると、ずいぶん長い感じがしますね。

135松戸彩苑:2007/05/02(水) 14:49:04
>>134 の続き)

『エスペラント日本語辞典』の tuko の項には

  lav/tuk/o ぞうきん;食器洗いの布.

  visx/tuk/o ふきん,ぞうきん.

という副見出しがあります。
もうお判りだと思いますが、たいていの人は「ふきん」と「ぞうきん」を区別してると思います
ので、これではダメなわけです。

NPIVを見ますと、visx-tuko は家具や黒板をふく布となっていますので、これは「ぞうきん」
でしょうね。
lav-tuko という表現は、NPIVには載っていません。
で、「ふきん」を表わす語として teler-tuko という表現が載っています(これは『エスペラント
日本語辞典』にも収められています)。

それからNPIVには teler-tuketo 「食事のときに使う、小さな布」ってのが載ってるんですね。
黒い星印がついていますので、Fundamento de Esperanto にある表現だということになり
ます。
で、調べてみたところ、Ekzercaro の第34章の9番目の文章のなかにちゃんと出てくるん
ですね。

  Oni metis antau' mi mangxilaron, kiu konsistis el telero, kulero, trancxilo, forko,
  glaseto por brando, glaso por vino kaj telertuketo.

それは良いんですが、これはテーブルで使うナプキンですかね?
欧米の食事作法に詳しくないので、かんじんの意味がよく判らないですね。
---

『エスペラント日本語辞典』の lombardi の項を見ますと「(1)質に入れる」と「(2)〔質を取っ
て〕金を貸す」と書いてあります。

しかしこれでは、質入れしてカネを借りた側も、カネを貸した側も「私は lombardi した」と言
うことになってしまい、おかしいと思いますね。

NPIVでも、旧版のPIVでも、「質に入れる」の意味しか載っていません。

もっとも、確かに lombardisto が行なうことは「〔質を取って〕金を貸す」ことです。
それで『エスペラント日本語辞典』に「lombardi = 〔質を取って〕金を貸す」という記述があ
るのでしょう。

しかし、エスペラントには akusxisto (助産師) という表現があります。
akusxi は「分娩する」という意味ですが、べつに akusxisto (助産師) じしんが分娩するわ
けではありません。
そうではなく、他人の akusxo を手助けする専門家なので、自分じしんは akusxi しないの
ですが akusxisto と表現しているわけですね。
ということで、lombardi が「質に入れる」という意味であっても「質屋 = lombardisto」で構わ
ないわけです。

しかし「lombardi = 質に入れる」なのは良いんですが、それでは「〔質を取って〕金を貸す」
ことはどうやって表わすのかが問題になってきます。
これについては、私も今は思いつきません。
---

と言うことで、ひじょうに些細な話だと思われたかもしれませんが、こういうものをしっかりと
決めておかないと、いつまでたっても日常生活に関しては大ざっぱなことしか表現できない
と思いますので、あえて苦言を呈した次第です。

(終わり)

136松戸彩苑:2007/05/05(土) 16:17:53
エスペラントには digo という単語がありますが、『エスペラント日本語辞典』を見ると「堤
防,土手;ダム,堰(せき)」と書いてあります。

しかし考えてみれば「堤防,土手」と「ダム,堰」というのは別のものではないでしょうか。
「堤防,土手」というのは川の両脇にあるものであり、一方の「ダム,堰」は川を横切るかた
ちで作るものです。

NPIVを見てみますと(1)と(2)に分かれていて

  (1)Remparo, starigita por sxirmi lokon kontrau' inundo de rivero au' maro: la neder-
  landa interna maro estas limigita per fortikaj 〜oj; (f) la 〜o estus for, k la torento
  de liaj deziroj povos pli lebere fluegi!【Z】; ilia sango estas tro bolanta, rompanta
  ofte 〜on de prudento【Z】.

  (2)Transversa muro, konstruita en riveroj, por provizore haltigi, au' malakceli, la
  fluon, au' reguligi la nivelon.

と書いてあります。
読めば判るように、(1)が「堤防」、(2)が「ダム」の説明になっています。

どうしてこんな事になってしまったのかを考えるために、Universala Vortaro の digo の項
を見てみることにしましょう。
ここには

  digue / embank / Damm / плотина(plotina) / tama

と書いてあります。
ただし英語の部分は、1920年代に発表された Akademiaj Korektoj de Universala Vort-
aro においては embankment, dike に改められています。

ということで、ますフランス語の部分から見ていきましょう。
フランス語の項にある digue は、エスペラントの digo の元になった単語ですが、digue に
は「堤防、防波堤」という意味しかありません。
フランス語では「ダム」のことは barrage と言うようです。

また英語の embankment や dike には「堤防」の意味しかありません。

ところが辞書によると、ドイツ語の Damm という単語には「堤防」と「ダム」の両方の意味が
あるらしいのです!
それだけでなく、ロシア語の плотина やポーランド語の tama も「堤防」と「ダム」
の両方を表わすらしいのです。

ということで、どうやらこれが原因だろうと思われるわけです。
つまり、民族語の良くない部分が、エスペラントに持ち込まれてしまったのでしょう。

ところで、ザメンホフは digo をどういう意味で使っていたのでしょうか?
先に見たようにNPIVにおいては、(1)のほうにザメンホフの用例が2つ挙げられているの
ですが、これらが本当に「堤防」の意味で使われているのか、疑問に思われます。

いずれにしても、「堤防」と「ダム」の両方を digo という一つの単語で表わすことになってし
まったために、これらを区別するのがかなり面倒くさくなってしまいました。

たとえば、Duden のエスペラント版である『Esperanta Bildvortaro』においては、「ダム」を
表わすのに val-digo という表現を用いています(同書 212/57-64)。

また『エスペラント日本語辞典』の bari の項には

  val/bar/ajx/o 〔渓谷に設けられた水利〕ダム.

という表現が収められています。
しかし、そのすぐ上に

  akv/o/bar/ajx/o 〖建〗堰(せき);堤防,ダム

というのが載ってるんですが、ここでも「堤防」と「ダム」の両方を表わすことになってしまっ
ています。
NPIVの bari の項を見てみますと akvo-barajxo が副見出し語として載ってるんですが、
ここには

  〜ajxo en rivero, por reteni la akvon cxe certa nivelo.

と書いてあります。
「川のなかにあって、水量を一定にたもつ」と書いてあるのですから、これはどう見ても「ダ
ム」のことであって「堤防」ではありませんね。

ちなみに言っておきますと、NPI Vには val-digo と val-barajxo は載っておりません。

ということで、「堤防」と「ダム」の区別がちゃんと出来るように、みんなで議論していく必要が
あるだろうと思います。

(終わり)

137松戸彩苑:2007/05/05(土) 17:16:23
『エスペラント日本語辞典』の incendio の項を見ると「火災,火事」と書いてあります。
それは良いんですが、この項にある incendii という副見出し語には「放火する」という訳が
与えられているんですね。

考えてみれば「火事」と「放火」というのも厳密に区別しなければならないわけです。
というのも、すべての「火事」が「放火」によるもの、というわけではないからです。
日本語でも区別してますし、英語でも fire と arson とを区別しています。

ということで「incendio = 火事」「incendii = 放火する」というのは紛らわしすぎると思うん
ですが、しかしこれはNPIVや旧版のPIVにも載ってるものなんですね。

また『日本語エスペラント辞典』を調べてみても

  かじ 【火事】 brul(eg)o; fajr(eg)o; incendio. (後略)

  ほうか 【放火】 bruligo; fajrigo; incendiado. 〜する bruligi; meti fajron; incendii. 
  (後略)

となっています。
いちおう区別はしてあるんですが、しかし、やっぱり判りにくいですね。

だいたい「放火」の項にある bruligo、fajrigo、bruligi、meti fajron という表現は、犯罪性の
ない、ふつうの「燃やすこと」や「火をつけること」を表わすものだと思います。

そこで Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の arson の項
を見てみますと krimbruligo という表現が載っていました。

また Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』で Brandstiftung(放火)
を調べますと brulofaro、krimbruligo と書いてあります。

そして Jacques Le Puil & Jean-Pierre Danvy(編)『Grand Dictionnnaire Français-
Espéranto』の incendier(放火する)の項には incendii、brulatenci とありました。

こういった表現を参考にして、「火事」と「放火」とを明確に区別できるようになれば良いなと
思いますね。

(終わり)

138松戸彩苑:2007/05/06(日) 13:04:30
「日本語学校」と「日本人学校」、それに「英会話学校」と「アメリカンスクール」を、簡潔な
表現で、ちゃんと区別できるでしょうか?

「日本語学校」を直訳しますと japan-lingva lernejo となって、これで良いように思えるん
ですが、しかし「日本人学校」も日本語で教える学校だというので japan-lingva lernejo
と訳してしまって誤解を招くということも、十二分にありうるでしょう(angla-lingva lernejo
も同様)。

ですので、あらかじめよく考えておく必要があると思うのです。
---

まず最初に「日本語学校」と「日本人学校」について考えてみますが

  「日本語学校」 lernejo de la japana (kiel fremda lingvo)
  「日本人学校」 lernejo por japanoj (ekster Japanio)

とでもすれば良いでしょう。
カッコ内はあったほうが明確になりますが、「日本語学校 = lernejo de la japana」「日本
人学校 = lernejo por japanoj」というのが広く定着すれば、必要なさそうです。

それから japana lernejo という表現も考えられます。
これは基本的には「日本にある、日本語話者の子供たちのための学校」ってことになりそ
うですが、しかし japana lernejo en Nov-Jorko となっていれば「NYの日本人学校」という
感じになりますよね(そして「NYの日本語学校」には見えませんね)。

また japana lernejo en eksterlando とか eksterlanda japana lernejo といった表現も通じ
そうです。
---

つぎに「英会話学校」「アメリカンスクール」について考えてみますが、「英会話学校」は
lernejo de la angla で良さそうですが、「アメリカンスクール」に通うのは、アメリカ人やイ
ギリス人の子供だけではないみたいです(私は詳しくは知らないんですが)。

ですから lernejo por angla-lingvanoj (en ne-angla-lingva lando)とでもしないといけな
いと思います(しかし、ちょっと長すぎますね)。

ところで世間には「インターナショナルスクール」というのもありますが、ネットで調べてみ
たところ「アメリカンスクール」とは違うもののようですね。

これは直訳して internacia lernejo とすれば良いでしょう。
---

それから「〜語で教える学校」というのは、〜e instrua lernejo という形で表現することも
出来るかもしれません。
ということで

  「日本人学校」 japane instrua lernejo
  「アメリカンスクール」 angle instrua lernejo

と表現することも考えられます。
もっとも、教えるのは「人」であって「学校」ではない、だから

  lernejo, en kiu oni instruas japane

とは言えるが

  japane instrua lernejo

とは言えないなんて可能性もありますので、結局は、先にあげた表現のほうが無難かもし
れませんね。
---

ということで、いろいろ考えてみましたが、これらは一つの試みに過ぎません。
いずれにしても、これらを簡潔な表現でしっかりと区別できるように、前もって決めておく必
要があると思うわけです。

(終わり)

139松戸彩苑:2007/05/12(土) 12:54:54
今回は、犯罪に関する表現について考えてみようと思います。
---

まずは「痴漢」です。

『日本語エスペラント辞典』には

  ちかん 【痴漢】 〔ばか者〕malsagxulo; idioto; stultulo. 〔変態性欲者〕perversulo. 
  〔好色漢〕erotikulo; erotomaniulo; obscenulo; satiruso.

と書いてあります。
我々が検討すべきなのは perversulo 以下の5つの表現ですが、どうもイマイチという感
じがしますね。
と言うのも、いずれも「変態」という意味であって、「痴漢」行為そのものを表わしてはいな
いように思われるからです。

私は palpi に acx をつけて palpacxi とすれば、「痴漢」は palpacxulo とか palpacxinto
と表現できると考えたのですが、いかがでしょうか。
---

「つきまとい、ストーキング」は sekvacxi で通じると思います。

Benson の英エス辞典の stalk の項には sxtel-sekvi、sxtel-cxasi、gvat-sekvi といった
表現が載っていて、もちろんこれでも良いのですが、sekvacxi のほうが簡潔で良いよう
に思います。
---

「露出狂」については ekshibicii という語があります。
たしかに国際的で学術的な表現ではあるんですが、ちょっと長すぎますし、また難しすぎ
るようにも思います。

ということで montracxi とすれば良いと思います。

もっとも、acx はたいへん便利なんですが、「音声的に ajx に似ている」という欠点があり
ます。
ですので、そこのところを気をつけないといけないと思います。
---

「のぞき」を表わす語として skopofilii というのがあるんですが、これも長くて難しいと思い
ます。

acx を使って rigardacxi としたいところですが、これはすでに「じろじろ見る」という意味で
辞書に載っています。

そこで vuajerismo という語から vuajeri という動詞を作れば良いのではないでしょうか。

まったく個人的な印象なんですが、kasx-rigardi とか sxtel-rigardi ですと、あんまり犯罪
的な感じがしないような気がします。
---

「いたずら電話」は、友達どうしの害の無いものなら petolajxo per telefono などとすれば
良いでしょうが、悪質なものは gxenado per telefono などと言うべきでしょう。
(動詞は telefone gxeni)

なんだかとっても簡単なように見えますが、「いたずら電話」という表現も、辞書にはまった
く載ってないんですよね。

私は「いたずら電話」を『日本語エスペラント辞典』で、prank call を Benson の英エス辞典
で、canular téléphonique を Le Puil & Danvy の仏エス辞典で、そして Telefonstreich を
Krause の独エス辞典で調べてみたんですが、収録されていませんでした。

余談ですが、「留守番電話」はどう言えば良いのでしょうか。

『エスペラント日本語辞典』の respondi の項に respondilo という副見出しがあり、ここに
au'tomata respondilo というのが載っています。
ちなみにNPIVでは未収録です。

au'tomata respondilo ではちょっと長すぎるので respondilo で良いんじゃないかと思った
んですが、respondilo には「回答用紙」の意味もあるんですね。
もっと短い言い回しは無いだろうかと思うのですが、今のところは思いつきません。

140松戸彩苑:2007/05/12(土) 12:57:59
>>139 の続き)

「ひき逃げ」ですが、『エスペラント日本語辞典』の fugxi の項に「akcident/o/fugx/o =
ひき逃げ」「kolizi/fugx/int/o = ひき逃げ犯」というのが載っています。
NPIVには kolizi-fugxinto だけが収録されています。

これらは問題なさそうですね。
---

あとは、すでに定着しているものを、いくつか上げておきましょうか。

「恐喝」は cxantagxo、「強姦」は seks-atenco、「横領」は malversacio ですね。

「盗撮」は、静止画のカメラの場合は kasx-foti か sxtel-foti、ビデオカメラの場合は
kasx-kamerai か sxtel-kamerai あたりになるんでしょうね。

「万引き」は butik-sxteli か magazen-sxteli と言うようですが、var-sxteli とは言えない
でしょうかね?
---

今までは、適当なエス訳が見つかったもののみを上げてきましたが、ここで、適訳の見つ
からないものを紹介してみましょうか。
それは「置き引き」と「ひったくり」です。

『日本語エスペラント辞典』では

  おきびき 【置引】 sxtelo per kamuflajxo

  ひったくる 【引っ手繰る】 forrabi; elrabi; derabi; perforte rabi.

となっているんですが、どうして「置き引き」が sxtelo per kamuflajxo となるのか、よく判り
ません。
それから「引ったくる」の項には rabi から派生させた合成語がいくつか並んでいますが、
いずれの表現もハッキリと「引ったくり」だと判るものではなく、単に rabi (強盗をする) の
派生形にしか見えないように思いますね。

なお英語では「置き引き」のことを baggage thief とか luggage lifting、そして「引ったくり」
のことを bag-snatching と言うそうです。

エスペラントの造語力の素晴らしさを信じて疑わない方がたくさんいらっしゃるようですが、
これらの概念について、ぜひとも適切で簡潔なエス訳語を考えていただきたいものだと思
います。
---

最後に余談を一つ。

『エスペラント日本語辞典』の enketo の項の(3)に「予審,予審尋問;捜査,= antau'-
esploro」と書いてあるんですが、「予審,予審尋問」と「捜査」は別のものであり、しっかり区
別しないと誤解を招くのではないでしょうか。

日本語でも区別してますし、英語でも「予審」は preliminary trial とか preliminary hearing
とする一方で、「捜査」は investigation とか search(ing) などと言って区別しているようで
す。

なお antau'esploro は『エスペラント日本語辞典』では「予審,予審手続き」となっています。

(終わり)

141松戸彩苑:2007/05/19(土) 17:12:09
今回は、いつもと違って lumpio という単語について書いてみますね。

NPIVや『エスペラント日本語辞典』を見ますと lumpio って単語が収録されてるんですね。
どちらにも意味は「春巻き」だって書いてあるんですが、だいたい、こんな単語は見たこと
ないですよね。
中国の標準語では、春巻きは「春巻 chunjuan」で、ぜんぜん違うんですよね。

ということで、そもそも何語かさえも判らなかったんですが、最近「Wiki とかネットを使えば
判るかもしれない」と思って調べてみましたら、ちゃんと判ったんですね。
それで、それをお教えしたくて、ここに書くことにしたわけです。

インドネシアやフィリピンでは、春巻きのことを lumpia って言うんだそうです。
これは、もともとは客家語の「潤餅 lun-pia」から来ているそうです。
つまり、インドネシアやフィリピンに移住した客家人が伝えたもののようですね。

それを、インドネシアを植民地支配していたオランダ人が母国に伝えたんだそうです。
オランダ語でも loempia (発音は「ルンピア」) と言うんだそうです。
で、それがエスペラントの辞書にも入ったわけですね。

しかし、こういう新しい単語は、語源を書いておいてほしいですよね。

142樂々:2007/05/19(土) 21:02:05
age

143松戸彩苑:2007/05/20(日) 03:36:13
>>141 で「客家語」と書きましたが、原文では Hokkien dialect と書いてありましたから、
客家語ではなく「福建語」ですね。

「客家語」「客家人」を「福建語」「福建人」に訂正させていただきます。

144Kanva:2007/06/16(土) 20:40:56
改造の思いつきの話を。

接尾辞-ejsx- :自動詞・他動詞から使役動詞を作る。
       〔kauxzi〜((他の何かが)〜する原因となる)の意。〕
接尾辞-ert- :自動詞!・他動詞から受動動詞を作る。
       〔(他の何かが)〜することの影響を被る、の意。
        アスペクト(継続・完了・未然)に中立な、アオリスト
        受動態。〕

主格語尾-r (-or,-ojr,/-ar,-ajr):主語にだけ付加して、SCVやSCOVの
       構文を明確にする。
       La ordemajr knabojr iliaj lernantoj estos.

145松戸彩苑:2007/06/17(日) 11:07:00
最近エスペラント界では「digxita と cifereca のどちらにすべきか」なんてことが問題にな
ってるらしいですが、私に言わせれば、こんなものは問題でも何でもありません。
両方使えば良いじゃないですか。

考えてみれば、エスペラントには「大学の講師」を表わす表現が3つあります。
docento と lektoro と lekciisto です。
docento と lektoro はザメンホフが使ったものらしいんですが、今では docento のほうが
rekomendi されていて、NPIVの lektoro の項には (ark.) と書いてあります。

で、lekciisto ですが、これはおそらく英語の lecturer の直訳だと思われます。
NPIVなどでは lekcio が主見出しになっていて、副見出し語として 〜i が収録されている
だけで、lekciisto という語は載っておりません。
しかし現実には、たまに見かけるんですよね。

また「ブドウ」はふつう vinbero と言いますが、uvo とか vito などという語根もあります。
もっとも厳密に言いますと、uvo は vinbero(ブドウの実)で、vito は vinberujo(ブドウの木)
のことらしいです。
まぁ現実には uvo や vito という語根はほとんど使われていないんですけど、それにして
も、ブドウを表わす表現がどうしてこうたくさんあるのか、不思議に思います。

このように「ひとつの物事に対して複数の言い方がある」などということは、エスペラントで
は珍しくもなんとも無いんですね。
で、digxita と cifereca ですが、digxita は「西欧でほぼ共通の言い方」である digital に由
来しているわけです。

Wiki などで調べましたところ、英・独・西・葡・伊・蘭・スウェーデン・フィンランド・ハンガリー・
チェコ・セルビア語などで digital に由来する単語を使っているらしいですね。
ただしフランス語では、digital がもともと「指に関する」という意味で使われていた(たとえば
「指紋」のことを empreinte digitale)せいか、デジタルのことは numérique というらしいで
す。

また欧米語だけではなく、日本語・韓国語・インドネシア語・トルコ語などでも digital に由来
する語をそのまま使っています。

そして、もう一方の cifereca は「エスペラントの既存の語根を利用して作られた合成語」な
わけです。
フランス語の例はすでに見ましたが、ロシア語ではдигитальный(digital'nyj)という語と
цифровой(cifrovoj)という語の両方が使われてるみたいですから、エスペラントでも2種
類あって構わないように思います。

かつて「コンピューター」をどう表わすかということが問題になったときは、よく使われるもの
だけで3種類あり、そのほかの言い方もあったという状態でしたので、これはたしかに問題
だったと言えるでしょうけど、「デジタル」に関しては、西欧的な言い方が1つと、固有語の合
成による言い方が1つあるだけなのですから、べつに問題では無いと思いますね。

むしろ問題なのは、「デジタル」を表わす表現が複数あることには過剰に反応するのに、「大
学の講師」とか「ブドウ」といった表現が複数あることは問題視しない、という点だと私は思う
んですね。

要するにこれは、学術や文学に関するものには興味を示すが、日常生活に関するものには
興味を示さないという、エスペラント界にありがちな(あるいは、インテリにありがちな)選り好
みのようにしか見えないのです。

このように、日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱にはまったく気づかす(あるいは、た
とえ気づいても、まったく関心を示さず)、デジタルのような、どうでもいい事だけが問題に思
えてしまうようでは、エスペラントの将来は暗いと言わざるを得ません。

146松戸彩苑:2007/06/17(日) 11:48:10
>>144
-ejsx- と -ert- を使った例文をあげていただけると、判りやすくなって有難いと思います。

それから主格語尾 -r ですが、たしかにエスペラントは語順が自由なので、どっちが主語
で、どっちが補語なのか判らなくなることも有りえるんですよね。

Ido では、そういう場合には、補語のほうに前置詞 ye をつけるか、あるいは補語のほうを
対格にするんだったと思います。

機械翻訳をする際などには、こういった点を区別したほうが好都合かもしれませんね。

147Kanva:2007/06/18(月) 05:13:36
「数量副詞+da分格」の形が名詞句として働くのは、その句が何格なのかも
分からないし、文法的に見てもおかしい。
この数量副詞は実は<数量代名詞>になっている、ということにするべき。

ということで、数量副詞を転用した代名詞が主格であることを明示するのに
-(i)rを、対格であることを明示するのに-(i)nを、付加することを許す。

"Kiomir da homoj vidis lin tiam ?"
"La armeo batis kelken da senrezistaj popolanoj cxi tie."

>>144への補足はまた後で行います。

148松戸彩苑:2007/06/18(月) 21:08:06
>>145 で「ブドウ」を表わす語根について書きましたが、この他にも trau'bo(=vinbero)っ
てのもあるんですよね。

それから rebo という語根もあって、『エスペラント日本語辞典』には「(ぶどうの)苗株;(ぶ
どうの)茎,幹」、NPIVには「trunko de vinberujo」という説明があります。

たしかに欧米人にとって、ブドウは身近で重要なものだとは思うんですけど、どうしてこん
なにたくさんあるのでしょうか?

また、どうして誰も問題視しないんでしょうか?
---

>>147

たしかに、kelke da とか multe da といった表現は、主格なのか対格なのか判らなくて、な
んとも頼りない感じがしますよね。

でも、そういう場合には kelko(n) da とか multo(n) da という形に変えるということが、現実
に行なわれているんですよね。

149Kanva:2007/06/19(火) 00:15:12
>>149
なるほど。名詞的に-o語尾にするのは自然だと思いますが、数量副詞全てに
ついて-o語尾化が可能でしょうか。可能ならそれでいいですね。
ならばまず、kiomo(n)/tiomo(n)/iomo(n)...という系列が使われます、と。

それで、kiomaが「何番目の」の意味になるのが気にかかって、序数詞もそう
ですけれど、数量系列から順序を作る接尾辞が、本来は形容詞化の-a語尾で
は不自然だと思います。
順序を問題にする系列、例えばkiota/tiota/iotaみたいなのが別にあって
いいし、序数詞も、unuta/duta/trita/kvarta...の、今は音程に使っている
系列を使えたらよかったのにな、と。音程(度)は、unuima/duima/triima/
kvarima/でも何でも、別の系列に逃げていれば。

150Kanva:2007/06/19(火) 12:18:02
序数詞系列の別形の思いつき

相関詞語尾 -iosxa
序数詞接尾辞 -sxa (unusxa,dusxa,trisxa,kvarsxa,kvinsxa,sessxa,
          sepsxa,oksxa,nauxsxa,deksxa,centsxa,milsxa)

151Kanva:2007/06/20(水) 21:44:34
七つの字母の追加と、字母順の変更案

原則として各字一音を維持し、例えば/X/の字は、無声有気軟口蓋破裂音で、
"Kh"に相当する。
その他、/Q/の字は無声口蓋垂破裂音、/Ž/の字は有声歯茎破擦音など。
また、追加された字母は、文法的要素乃至派生力の高い接辞に使うことを
禁じ、固有名詞や各国固有の産物を表わす語根に限って用いられる。

Aa Ee Ii Yy Uu Oo Ŭŭ Qq Kk Xx Gg Ĉĉ Ĝĝ Tt Θθ Dd Cc Žž Nn Pp Фф Bb
Mm Jj Rr Ll Ww Ĥĥ Ŝŝ Ĵĵ Ss Zz Ff Vv Hh

152Kanva:2007/06/20(水) 23:22:55
>>151

その他、
/Y/は円唇前舌狭母音。
/Θ/は無声有気歯茎破裂音。
/Ф/は無声有気両唇破裂音。
/W/は有声硬口蓋摩擦音(アラビア語のガイン)。

全体として、ギリシア語やセム系言語の音をより書き分けやすく。

字母名の改変
A E I Yŝ U O Eŭ Qaf Ko Xi Go Ĉe Ĝe To Θi Do Cu Žu No Po Фi Bo
Mo Jo Re Lo Waj Ĥa Ŝu Ĵu So Zo Fo Vo Ho
子音字に母音の違いをつけ、聞き違いの起こりにくいようにする。

153Kanva:2007/06/21(木) 00:09:21
>>152

歌う場合は、最後に",estas ĉiuj leteroj."などとつけて締めくくる。

>>144,>>146

要はまず、現状、能動態には、単純時制と、分詞を使ったアスペクトを含む
時制とがあるわけです。しかし、受動態には、分詞を使う言い方しかでき
ないのではないでしょうか。言わば、能動態には四つのアスペクトが可能
なのに、受動態には三つしかなく、非対称的になっています。
態によってアスペクトの種類が変わるのは、あまり美しくないことです。
そこで、より対称的にしたいというのが、提案理由の一つです。

fermi(閉じること)→fermerti(閉じられること)
↓→fermiĝi(閉まること)→fermiĝerti(閉まられること)
↓→fermejŝi(閉まらしめること)→fermejŝerti(閉まらしめられること)
↓→fermigi(閉めさせること)→fermigerti(閉めさせられること)
で、時制やアスペクトを絡めずに、どこまでも態の関係を回していきます。

私は、他動・自動を含む能動や、再帰、受動の他に、使役や使役受動も
「態」の一種と位置づけています(主語と動詞語根の示す動作との関係)。
言語によっては、使役や使役受動も、助動詞との複合形を使わずに、動詞の
活用・派生で表わしますが、それに倣うものです。

154Kanva:2007/06/21(木) 00:27:59
>>145,>>148

民族言語(自然言語)を学ぶのに難しいことの一つが、使い分けの境界の
判然としない類義語群が層を成していることですね。サンスクリット等でも、
日常的な語彙の多くが幾つもの類義語を抱えていて、それを全部覚えていか
ないといけません。
日本語でも、「太陽」「お日様」「お天道様」といったところでもそうです
し、「母」「お母さん」「おふくろ」「ママ」「かあちゃん」なんかでも
そうですが、理詰めで分けられないのが厄介なわけですよね。
それに対して、人工(計画)言語としてのエスペラントでは、文法の規則性や
造語法の明示性の他に、語彙自体の整然としていることが売りであるはずです。
ブドウの種類によって明晰に使い分けられるなら別ですが、樹と房と実と、
そんなことで別語根を覚えさせられるのであれば、民族言語と選ぶところが
ないわけです。

かといって、一度重要な作品に使われでもすれば、簡単に辞書から外すこと
もためらわれるのでしょうね。

155松戸彩苑:2007/06/22(金) 22:21:59
>>153
どうなんでしょうね、そこまで細かく区別する必要があるのか?って思ってしまいますね。

たしかに私も、初めてエスペラントの表現法を見たときは「ずいぶん頼りないな」「この程
度でちゃんと区別できるのかな」と思ったものですが、しかし、現状でもけっこう平気なん
ですよね。
---

私が気になっているのは、合成時ですね。
あるいは言い換えれば「エスペラントでは esti と組み合わせた表現が多すぎる」というこ
とです。

つまり estas(-is, -os) 〜ata(-ita,-ota) で受動を表わすわけですが、ぜんぶで9通りあ
るわけです。

それに加えて、能動を表わす estas(-is, -os) 〜anta(-inta,-onta) というのもあるわけ
です。

これらの18通りの表現で、能動-受動、進行形、完了形といったものをすべて表わすわ
けです。
一見するときわめて合理的なように思えますが、しかし、どれもこれも似たり寄ったりなの
で、なんとも区別がつきにくいんですよね。

エスペラントの教科書を見ますと「estas(-is, -os) 〜anta(-inta,-onta) のような表現は、
あまり使わないこと」などと書いてあります。
たしかに、乱用しますときわめて判りにくくなるので、これはこれで賢明な忠告だとは思い
ますが、しかしこれは要するに「エスペラントの現在のシステムは、あまりうまく出来てい
ない」ってことなんですよね。
この点をちゃんと指摘しておかないといけないと思いますね。

欧米語においては、進行形は英語だけですけれども、完了形はきわめてふつうの表現で
あって、これがすんなりと表現できないなんて言葉は、すくなくとも欧米のメジャーな言語
には無いはずです。

ですから、完了形をあまり使ってはいけないことになっているエスペラントは、やはり、うま
く出来ていないって事になるんですね。

イド語には、完了を表わす接辞 -ab- というのがあります。

La kato manjabas muso. (=La kato estas mangxinta muson.)

これを流用するというのも手ですし、あるいは接辞ではなく、完了を表わす「副詞」を作ると
いうやり方もあるでしょう。
---

さらにエスペラントでは、どういうわけだか仮定法に時制が無いんですよね。
ですから時制が必要なときには、またもや esti のお世話になって estus 〜inta とするか、
あるいは 〜intus などとするって事になってるわけですね。

ロシア語ですと、動詞に бы という単語を添えると仮定法になるわけですから、エスペラント
にもそんな単語があったら便利だろうなぁと思うわけです。

もちろん、接辞でも良いわけなんですが。

156Kanva:2007/06/23(土) 00:13:46
>>155

動詞estiですが、語源の印欧語が強語幹es-/弱語幹s-なのに、わざわざ
更に強化した語形est-が全時制・法にわたって使われているわけですよね。
ラテン語で"est"と言えば直説法現在三人称単数とまで分かるところを、
エスペラントでは「ある」という語根部分を伝えているのに過ぎません。
頻用語として冗長で、実用的に見て複合時制の助動詞に適していないのは
明白だと、私も思っています。
イド語でesarでしたっけ、語根を短くしたことには、それはそうだろうと
共感しています。

英語のbeにせよ、ラテン語のesseにせよ、起源の違う語根が一つの動詞に
合流して「不規則」を呈していますが、それによって、短くとも、時制が
一目瞭然に分かるわけです。最初は覚えにくいけれども、覚えてみれば
使い勝手がいい、というのが、自然言語の特徴ですね。

基本的な時制や法や態について、「重苦しい上に分かりづらいから、文法上
可能だけれどもできるだけ使うな」なんて、言って欲しくありません。
文法書の記述を見なかったことにしたい気分でいっぱいです。

157Kanva:2007/06/23(土) 08:56:59
別の思いつき。

副詞を修飾する副詞の語尾を新設し、その品詞語尾を-auxとする。

不定詞主語に対する補語が副詞だったりするので、形容詞や主動詞にかかる
副詞と、その副詞をさらに修飾する副詞を語尾で区別して明確にする。

158松戸彩苑:2007/06/23(土) 10:24:23
estas、estis というのは使用頻度がきわめて高いのに長すぎると思いましたので、もっと
短くしたら良いんじゃないかと思って、あれこれ考えてたんですね。

そして数年前に、estas を ja:s、estis を i:s のように発音したら良いんじゃないかと思った
わけです。

(短くするのは、使用頻度の高い現在形と過去形だけで充分だと思いました)

それ以来、本を音読する際には、そのように発音してるんですけど、やはり、かなり発音
しやすいんですね。

とは言うものの、言葉というのは「発音しやすさ」だけではなく「聴きとりやすさ」も大事なわ
けです。
これについては、話し相手がいない私には、ちょっと判らないんですね。

で、私は「ほかの動詞も短くしたら良いんじゃないか」と考えて

havas → ha:s  havis → hajs
povas → poas  povis → pojs
devas → deas  devis → dejs

というのも考えて、これらも試しに使ってたんですが、そのうちに ha:s(havas) と ja:s
(estas) を聴き分けるのは難しいかもしれない、ということに気づいたんですね。

それに、フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語などを母語としている人たちは
h を発音するのが苦手だということもあるんですよね。

こういったことを考えますと、ja:s と ha:s という語を共存させるのはダメかな?という感じ
がしてくるわけです。

ということで、現在は「どうしようかな」と思ってるわけなんですが、こういうことは何年も
考えないと、なかなか良いアイディアは出てこないですね。
---

それから >>157 の案ですが、私は

〜i estas 〜e.

という表現は、他の民族語と同じように

〜i estas 〜a.

とすべきだと考えてるんですね。
どう考えても、そのほうが表現が明確になるからです。

そして副詞のほうは、現状のままで良いと思います。

もっとも「〜i estas 〜e.」だけならば今のままでも良いんですが、現実には、動詞のほう
にも副詞のほうにもさらに副詞がつくということが、ごくごく普通にあるわけです。
そうすると

〜e 〜i estas 〜e 〜e.

となるわけです。
でも、これだけならばまだまだ明確なんですが、エスペラントの場合、語順が変わって
〜e 〜i が後ろに来て

Estas 〜e 〜e 〜e 〜i.

みたいになる事がよくあるわけですね。
こうなると、かなり判りにくくなるわけです。

これでは判りにくいというので

Estas 〜e 〜e, 〜e 〜i.

としたり、あるいは文章をちょっと変えて

Estas 〜e 〜a afero 〜e 〜i.

のようにしたりするというのが慣例になってるわけですが、こんなものは

Estas 〜e 〜a 〜e 〜i.

とすれば簡単に解決すると思います。

あと bele! や bone! のように、形容詞を感嘆詞として使う場合には、これも副詞にしな
いといけないという事になっていますが、これについても私は、形容詞のままで良いと思っ
ています。

159Kanva:2007/06/23(土) 20:08:23
>>158

逆に、不定詞が主語の場合だけでなく、estiを受ける補語を軒並み-e語尾に
してしまう発想もできます。estiの直前に来るときには、同音連続のため、
その-eを落としていいことにします。

Tiuj floroj tiam specialaux bele(/bel') estis.
Mi kaj miaj frato laboriste(/laborist') estas.

印欧語の発想からすると奇妙奇天烈ですが、「補語は動詞estiを修飾して
いる副詞的要素なのであって、主語と同格なのではない」という発想です。

日本語の「なり活用」「たり活用」及び形容詞の語尾「かり・かる」等の
起源を考えると、動詞「あり」に掛かる部分は連用形乃至は副詞的な形を
しています。
「静かに」+「あり」→「静かなり」
「堂々と」+「あり」→「堂々たり」
「高く」+「あり」+「き」→「高かりき」

こちらの方向で筋を通すと大混乱でしょうけれど、でも、面白そう^^。

160Kanva:2007/06/23(土) 20:10:23
訂正:
×Mi kaj miaj frato laboriste(/laborist') estas.
○Mi kaj miaj fratoj...

161松戸彩苑:2007/06/29(金) 22:18:25
>>155 で言及した仮定法のことですけど、フランス語なんかでは、現在形・過去形・現在
完了形・過去完了形があるんですよね。

エスペラントでも、その程度は必要だと思いますね。

162松戸彩苑:2007/07/07(土) 23:54:35
エスペラントで「釣り銭」「お釣り」のことを何というのかと思って、いろいろと調べてみます
と、rest(o)mono という表現があることが判ります。

この表現は

(1) 『エスペラント日本語辞典』の mono の項の副見出し。

(2) 『エスペラント小辞典』の和エスの部の「つり」の項。(ただし、この辞書のエス和の
    部には restmono の項はありません)

(3) 1921年に出版された Fulcher & Long の英エス辞典の change の項。

(4) Wells の辞書の英エスの部の change の項。

(5) 竹内義一(著)『エスペラント会話教室[新版]』(1999年)の42ページにも

   12) Ne forgesu doni restomonon.
    12) つり銭を忘れないでね。

   とあります。

ということで、この表現はそれなりに広まってるようです。

しかしよく考えてみると、世間には「残金」という概念もあるんですよね。
念のために『広辞苑』(第4版)で「残金」を調べてみますと

  ざんきん【残金】(1)手元に残っている金銭。残高。(2)未払いの金。「―はなくなった」

と書いてあります。
これは明らかに「お釣り」とは違いますね。
で、エスペラントにおいて「お釣り」と「残金」とがちゃんと区別できてるのかが気になります。

それから、NPIVにも旧版のPIVにも rest(o)mono が収録されていないという事もあります。
---

そこで今度は『日本語エスペラント辞典』を調べてみますと、「つり(釣)」の項の2に apunto
と supersumo という表現が出ています。

ここには rest(o)mono はまったく出てきません。
先行の辞書の多くに収録されている rest(o)mono が載ってないのは、意図的に避けたと
考えたほうが自然だと思います。

(なお、この辞書の「残金」の項には restsumo、resto という語があげてあります)

で、この apunto という見慣れない単語ですが、『エスペラント日本語辞典』の apunto の
項にも「小銭,釣り銭」と書いてあるので、これで良いのかな?と思ってしまいそうですが、
しかしこれが、なかなかの難物なのです。

まず最初にNPIVの apunto の項を見てみますと

  apunt/o Kelko da malgrandaj moneroj, necesaj por fari ronda nerondan sumon: la
  pasagxeroj devas mem havigi la 〜on, acxetante sian bileton.

と書いてあります(旧版のPIVの記述もまったく同じ)。
定義の部分を見ますと「端数のある額の端数を無くすために必要な、いくつかの小額の
コイン」といったことが書いてあって、やっぱりお釣りのことのように思えるわけです。

ところがです、例文のほうを見てみると「乗客は、切符を買うさいに自分じしんで apunto
を払わないといけない」と書いてあるんですね。
「apunto = お釣り」と考えると、どうもヘンなんですね。

これは語源にさかのぼって調べないといけないと思い、ヤマサキセイコー氏編纂の『エス
ペラント語原小辞典 (非縮約版)』(私が参照したのは1991年に出版されたもの)を見て
みますと、語源はフランス語・ドイツ語の appoint だと書いてあります。

で、図書館で、いくつかの仏和辞典・独和辞典を調べてみたのですが、『小学館ロベール
仏和大辞典』の appoint の項には、このように書いてあったんですね。

  appoint (総額中の)端数の金額,小銭. Pour r■gler cette somme, il faut un billet
  de 100F et un 〜 de 8F. この支払いをするには100フラン札1枚と8フランの小銭が
  いる.
  (中略)
  faire l'〜 端数を小銭で払う,釣銭の要らないように払う. Le public est tenu de faire
  l'〜. 釣銭の要らないようにお支払いください.

ということで、appoint は「お釣り」ではないみたいなんですね。
これならば、先ほどのNPIVの例文の意味も、つじつまが合うわけです。

163松戸彩苑:2007/07/07(土) 23:57:45
>>162
r■gler → régler

164松戸彩苑:2007/07/07(土) 23:59:34
>>162 の続き)

しかし、さらに Benson の英エス辞典の change の項を見てみますと、ここにも apunto が
出てくるんですね(そして「お釣り」を表わす表現としては restmono も、それ以外の表現も
載ってません)。
ここには次のように書いてあります。

  change, (中略) (coins and/or bills to round a sum), apunto (e.g.: give $5 for a $ 3.74
  purchase and receive $1.26 in change: doni $5 por acxeto de $3.74 kaj ricevi apunton
  de $1.26; please have exact change: bonvolu havi precizan apunton) [cp "cash"];
  (後略)

ネット上では太字やイタリックが使えないので、ひじょうに見にくいとは思いますが、ここに
は2つの例文があげられているわけです。

で、1つ目は、完全に「お釣り」の意味で使われています。
2番目の文章のほうは、英語を母語としているわけでない私には、こういう表現をどういう
場面で使うのかがよく判らないのですが、予想では、先にあげた『小学館ロベール仏和大
辞典』の「釣銭の要らないようにお支払いください」というのと同様の意味であるように思わ
れます。
とすると、ここで考え直さなければならないわけです。

端数のある金額(たとえば1200円)の商品を購入する場合を考えてみると、

(1) 客が2000円出したときに店員が返す800円のこと。
(2) 客が1000円札1枚と100円玉2枚を出したときの、100円玉2枚のこと。

のうち、1を日本語では「お釣り」と言うわけです。
で、『小学館ロベール仏和大辞典』の説明では、appoint は2のことだと書いてあったわけ
です。
しかし、Benson の辞書の change の項にある apunto の2つの例文は、1と2の両方の意
味を表わすと書いてるように見えるわけです。
つまり端数であれば、客が出そうと、店員が出そうと、どっちも apunto なんだということを
意味している可能性があるわけですね。

ここで思い出さないといけないことが一つあります。
日本では、お釣りを出す場合には「客の出した金額(2000円)」−「商品の値段(1200
円)」=「お釣り(800円)」と考えますが、欧米の場合は「商品の値段(1200円)」に小銭
を足していって「客の出した金額(2000円)」にするわけですね。

つまり欧米では、端数は、1の場合でも、2の場合でも「足して出す」ものなんですね。
このような習慣が、影響をおよぼしてるかもしれませんね。

これ以上のことは、私の能力では判りません。
しかし少なくとも、辞書によってマチマチだということはお判りいただけたと思います。
皆さまのご教示をお待ちしております。
---

さて、今度は『日本語エスペラント辞典』の「つり」の項の2に apunto とともに載っていた
supersumo について考えてみましょう。

supersumo のほうにはアステリスク(*)が付されていますが、これは、この辞書のⅣペ
ージに

  なお,既存の語で先例のない(と思われる)使い方をした場合,*印をつけて提案的に
  示したものもある.またP.V.あるいはP.I.V.の解釈が,少くとも日本の現状から余
  りにもかけ離れていて,しかもそれを適当とした場合にも*印をつけて採用した.

と書いてあります。
私が調べたかぎりでは、PVにもPIVにも supersumo という表現はありませんので、他の
意味で使われたことがある表現を、それまでとは異なった意味で使ったもののようですね。

たしかにこの表現は論理的であるとは思いますが、少なくとも私の場合、この辞書のこの
記述以外では見たことがありません。
---

かつて私は、とある人から、お釣りというのは「差額」のことだから diferenco と言うのだと
言われたことがあるんですが、NPIVにも『エスペラント日本語辞典』にも、この用法は載っ
てません。
それ以外の辞書や文章のなかでも、見た記憶が無いんですね。

それに「差額」と「お釣り」も区別できたほうが良いんじゃないかとも思います。
これらが区別できないと、これまた問題があるのではないかと思うのですが、心配しすぎ
でしょうか?

165松戸彩苑:2007/07/08(日) 00:00:13
>>164 の続き)

ということで、「お釣り」という誰でも知ってる表現にしても、エスペラントでは何となく不安が
あるんじゃないかって思うんですね。

で、私も「お釣り」を表わす新表現をいろいろと考えてみたのですが、revenajxo とか retro-
sumo などといった表現では長すぎるだろうと思っていたところ、ふと思いついたのが reajxo
という表現でした。
re と ajx を直接つなげたものですが、このくらい大ざっぱに表現しないと、むやみやたらと
長ったらしい言い方ばかりになってしまうと思います。

こういった事についても、エスペラント界全体で考えていけば、もっと使い勝手のよい言語
になるのではないかと私は考えるのです。

また、エスペラントの世界では「エスペラントでは、ある表現が必要になったら、ただちに合
成して表わすことが出来るんだ」などと言われていますが、そううまく行くとは限らないとい
うこともお判りいただけたと思います。

(終わり)

166松戸彩苑:2007/09/20(木) 02:02:13
私はこれまで、このスレにおいて「エスペラントは、日常生活に関する語彙・表現が不足・
混乱している」と主張し、実例もあげてきました。

しかし、こういうものを見せられても「今まで何十年かエスペラントをやってきたが、必要に
なったことは無い。そんなに心配する必要はないのではないか」などと思う人もいるのか
もしれません。

こう考えたくなるのはよく判るのですが、しかし世間の人たちも、これとまったく同じように
「今まで何十年か生きてきたが、エスペラントが必要になったことは無い。だから、エスペ
ラントみたいなものは必要ないのではないか」と考えてるに違いないんですね。

つまり、エスペランティストも、世間の人たちも、考えてることのレベルが似たり寄ったりな
のではないかと思われるのです。
そして、考えてることのレベルが同じならば、人数の多いほうが勝つに決まっています。

「自分にとって必要ないものは、社会全体にとっても必要ない」という短絡的な考えが、エ
スペランティストのあいだでも、世間の人たちのあいだでも、はびこっていて、これがエス
ペラントの普及・発展を妨げているように私には思われますね。

167だにょ:2007/09/23(日) 17:37:28
▼こういうFAQを沢山つくるといいにょ。ひとつひとつ実戦的にやろうにょ。実戦的に!
>>164

問:私はスーパーを経営しています。エスペランティストのお客さんが店に来ることはないと思いますが、念のため基本的な接客用語を教えてください。
答:次の通りです。
▽8大接客用語
・いらっしゃいませ
・はい、かしこまりました
・少々お待ちくださいませ
・お待たせいたしました
・ありがとございます
・申し訳ございません
・恐れ入ります
・失礼いたします

▽金額の読み方:
1円、5円、10円、50円、100円、500円、1000円、2000円、5000円、10000円

▽例文
「いらっしゃいませ。合計で1980円になります」
「2000円お預かりします」
「20円のお釣りになります。ありがとうございました」

168松戸彩苑:2007/10/07(日) 12:11:50
>>167
ずいぶん遅くなりましたが、だにょさん、こんにちわ。

だにょさんは、ひょっとすると、この(↓)掲示板の80と82の書き込みをされた方ですか?
http://www.vastalto.com/bbs/

さて、8大接客用語ですが、欧米語では、店員だといっても特殊なかしこまった言葉を使う
わけではないようですね。
ふつうの丁寧な表現で良いみたいですので

・いらっしゃいませ → Bonan tagon!など
・はい、かしこまりました → Konsentite. Volonte. Mi komprenis.
・少々お待ちくださいませ → Bonvolu atendi.
・お待たせいたしました → Mi pardonpetas al vi ke mi atendigis vin.
・ありがとうございます → Koran dankon.
・申し訳ございません → Mi pardonpetas al vi.
・失礼いたします → Pardonu min.

「恐れ入ります」は、日本語ではいろんな意味で使われているということがあって、訳し分け
る必要があるみたいですね。

『日本語エスペラント辞典』によりますと

おそれいります〔感謝〕 Mi dankas. Mi restas tre danka.
おほめに預かりましておそれいります Mi ne meritas vian laŭdon.
おそれいりますが、大会会場はどちらでしょうか
  Pardonu〔Permesu〕 min demandi, kie okazos la kongreso?

などとなっています。

で、「金額の読み方」はまったく問題が無いので省略します。

それから「例文」ですが、欧米語では「〜お預かりします」なんてことを言うんでしょうかね?
私は何回か海外旅行をしたことがあるんですけど、そういうことを言われた記憶が無いんで
すよね。
「お釣り」については >>162-165 で述べたとおりですね。

169松戸彩苑:2007/10/08(月) 12:31:27
私はこれまで

  現在のエスペラント(辞典)には、一般人は母語でも一生使うことの無いような、特殊な
  専門用語が多すぎる。
  そして、その一方で、現代の文明社会のふつうの成人ならば誰でも知っているような
  日常的な物・事を表わす語彙・表現が不足・混乱していたり、あるいは長すぎたりする。

と論じてきました。
これだけを見ると、私はすべての専門用語に反対しているように見えますが、しかし決して
そうではないんですね。

というのも、一般的には「専門用語」だと考えられているものであっても、分野によっては、
現代の文明社会の一般人のあいだでも広く知られているものもあるからです。

今回は、そういったことについて考えてみたいと思います。
---

まず「医学用語」についてですが、私の考えでは、医学用語はけっこう必要なものだと思
いますね。

というのも、人は必ず何らかの原因で死ぬわけですし、また、一生のあいだにさまざまな
病気にかかるのが普通だからです。

新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・書籍・ネットなどを見ても、病気に関する話がふつうに出てき
ますし、われわれの私的な生活のなかでも病気に関する話というのは珍しくないものでし
ょう。

とすれば、エスペラント界においても、民族語を使う社会と同じ程度には、医学用語が必
要だということになると私は考えるのです。

花粉症(polenozo)、外反母趾(valga halukso)、口内炎(stomatito)、骨粗鬆症(osteopor-
ozo)などといった単語は、たしかに難しいですが、しかし文明社会の人間であれば誰でも
知ってるでしょうし、またエスペラントで会話しているときに必要となる可能性もあるわけで
すね。
---

それでは次に「数学用語」はどうでしょうか?

考えてみれば、現代の文明社会においては、大多数の人たちが高校までの教育を受けて
いるわけですから、その程度の数学用語が必須だということになりそうです。

しかし、さらに考えてみますと、学生時代にはずいぶん難しい数学を勉強していても、社会
に出てからは、まず使わないんですよね。

平行四辺形(paralelogramo)なんてものは小学校で習うわけですから、成人は全員知って
ることになるんですが、社会に出てからは、まず使わないですね。
菱形(rombo)は言いますけど、台形(trapezo)もまず使わないですね。

denominatoro(分母)、numeratoro(分子)、la plej granda komuna devizoro(最大公約数)、
la plej malgranda komuna oblo(最小公倍数)、ortanto(垂線)、tanĝanto(接線)などとい
う概念も、義務教育のなかで教えられているものですが、社会人になってからはほとんど
使いませんね。

先にあげた医学用語と比べてみれば、こういった数学用語よりも医学用語のほうが役に立
ちそうだというのが理解できると思います。

ということで数学用語は、知ってる人が多いにも関わらず、社会生活においてはほとんど
必要とはならないので、数学が好きな人や、数学が必要な人をのぞけば、あまり憶える必
要は無いんじゃないかということになります。

ただし、数学用語のなかにも、社会においてもよく使われるものもあります。
たとえば「四捨五入」「切り上げ」「切り捨て」といったものです。
で、これに相当するエスペラント訳語を調べてみたのですが、どうやら「四捨五入」を簡潔
に表わすことが出来ないみたいなんですよね。

『エスペラント日本語辞典』の rondo の項のなかにある rondigi のところに

  〜igi la ciferon supren 〔malsupren〕 端数を切り上げる〔切り捨てる〕

というのがありますから、supren-rondigo、malsupren-rondigo とすれば名詞化することも
出来るわけです。

しかし、問題なのは「四捨五入」です。

『日本語エスペラント辞典』の「四捨五入」の項には

  〜する rondigi; kalkuli frakcion 0.5 aŭ pli kiel unuon kaj forlasi la ceterajn.

と書いてありますが、rondigi だけでは「端数を丸める」ということしか判りませんし、また後
者の表現は、四捨五入を「説明」したものであって、四捨五入という表現のエスペラント訳
語ではありませんね。

こういうのが私の言う「日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱」なわけですね。

170松戸彩苑:2007/10/08(月) 12:33:05
>>169 の続き)

次に「動植物名」について考えてみますが、これがなかなかの難物なんですよね。
というのも

(1) 国や地域によって、分布している種がまったく違う。

(2) 一部のものはよく知られているが、それ以外のものは専門家でないと知らないといっ
    たことがある。

(3) 民族によって、関心の度合いがまったく違う。
    たとえば、日本人は魚介類を食べますので、これらをキッチリと表わすことが出来た
    ほうが都合が良いわけですが、世界には、海に面していても魚介類をほとんど食べ
    ないような民族もいる。

といったことがあるからなんですね。

また、動植物には「学名」というのが付いていて、エスペラント名もこれを参考にしているわ
けですが、長くて判りにくいということがあります。
もともと学名というのは、動植物を「学術的に分類する」ためのものであって、日常生活の
なかで使うことを目的とはしていないので仕方が無いのですが、エスペラントにとっては、
ちょっと都合が悪い。

ということがありますので、これは世界各国のエスペランティストが協力しないといけない
んじゃないかと思いますね。

つまり、世界各国のエスペランティストが、自分の国においてよく知られている動植物の学
名・エスペラント名(さらには現地での呼び名)と、その動植物がその国で知られている理
由(たとえば「食用」「観賞用」「身近に分布している」といったこと)を報告して、それをまと
めて「憶えておくべき動植物名」を定めておくと良いのではないかと思います。
---

エスペラントの辞書をザッと見ていきますと「化学物質」の名称がずいぶんたくさん載って
いますが、一般人には必要ないものが多いような気がします。

とは言っても、なかには一般人でも知ってるようなものもあるでしょうから、そういうものは
必要だということになりますね。

20世紀前半においては英語・ドイツ語・フランス語の力が拮抗していたので、学術論文も
この3つの言語で書かれることが多く、その結果、エスペラントが学術世界の共通語とし
て使われることを夢見る人も少なくなかったわけです。
また、もともと学術用語というのは論理的に作られていますし、欧米語においてはかなり
のていど共通していたので、エスペラント化するのも困難ではなかったようです。

そういったことがあって、エスペラントの辞書には学術用語が氾濫することになったわけで
すが、それから何十年かたった現在では、フランスのパスツール研究所も、ドイツのマッ
クス・プランク研究所も、英語で書かれた論文以外はいっさい受け付けなくなっています。

ということで、もう完全に「英語で書かれていなければ学術論文とは言えない」という感じに
なってるんですね。
つまり皮肉なことに、言語差別がいちばんひどいのは、学術の世界(理数系の分野)だと
いうことになってるんですね。
---

不愉快なことではありますが、しかし、現在のエスペラントの実力を考えると、これに真っ
向から対決することは出来ないんですね。

ということで我々は、現在エスペラントを学ぼうと思っているごく少数の人たちを対象にし
て、日常生活のなかで使えるようなエスペラントを身につけてもらって、エスペラントが出
来る人間を増やし、さらなる質・量の向上を図るしかないんですね。

そのために「娯楽」を利用すべきだし、また「日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱・
冗長さ」といったものを改善していかないといけないわけです。

(終わり)

171松戸彩苑:2007/10/21(日) 20:34:03
あと「スポーツ用語」なんかも必要だと思いますね。

世界各国のエスペランティストたちが、ネットを介して、サッカーの話で盛り上がったりでき
れば、とても良いと思います。

とは言うものの、私はあんまりスポーツに詳しくないんですよね。
で、これはどうやらエスペラント界全体でも同様らしくて、スポーツに詳しい人ってあんまり
いないらしいですね。
やはり、現時点でエスペラントをやるような人間というのは、本を読むのが好きで、体を動
かすのはあんまり好きじゃないみたいです。

でも、世間では知ってる人が多いわけですから、こういった分野の用語も徐々に作ってお
かないといけないと思いますね。

172松戸彩苑:2007/10/28(日) 14:16:58
>>169 で「四捨五入」に相当する表現がないと書きましたが、それからいろいろと考えて
みたんですけど、最初に思いついたのが ambaŭ-direkta rondigo というものでした。
5以上であれば supren rondigi し、5未満であれば malsupren rondigi するということで
ambaŭ-direkta rondigo ということなんですが、どうも長すぎますよね。

で、次に考えたのが ordinara (あるいは komuna) rondigo というものでした。

それからさらに kvin-rondigo というのも考えたんですね。
これは、四捨五入においては、5以上であれば切り上げ、5未満であれば切り捨てるとい
うことで「5」というのが基準になってるわけです。
ですから、そこに着目して kvin-rondigo としてみたわけですが、いかがでしょうか?

私としては、長さという点から kvin-rondigo というのが気に入っているのですが。
---

話は変わりますが、『エスペラント日本語辞典』の kalkuli の項に retrokalkuli というのが
副見出しとして載っているんですが、これには「逆計算する」という訳語がついてるんです
ね。

しかし、PIVやNPIVの kalkuli の項にある retrokalkuli という副見出しには

  〜i en la inversa ordo: la retro〜ado de raketekbruligo.

と書いてあります。
つまり「カウントダウン」のことのようなんですね。

どうしてこんな事になるかと言うと、kalkuli という単語に「数をかぞえる」と「計算する」の2
つの意味があるからなんですね。
ですから「逆方向にかぞえる」と「逆方向に計算する」の2つの意味が出てきてしまうわけ
です。

しかし、これでは困ってしまうので、「数をかぞえる」のほうはすべて nombri で表わすよう
にして、kalkuli は「計算する」のみを表わすということにすべきだと思うんですね。

実際、Wells の辞書の count の項にある count-down には

  ĝis-, retro-nombrado

と書いてあります。

それから『エスペラント日本語辞典』の kalkuli の項には

  ĝiskalkulo 〔ボクシング審判などの〕カウント:ĝis〜o ĝis nulo 〔ゼロへの〕カウントダウン.

などと書いてあります。
おそらくこれも実例があるんでしょうけれども、どうなんでしょうね。
少なくとも、PIVやNPIVには収録されておりません。

私見では ĝis-(または retro-)nombrado のほうが良いと思うのですが。
---

こういったことも、「自然の発展」なんかに任せていたのでは、いつまでたっても決まらないと
いうことが、よく判ると思います。

(終わり)

173松戸彩苑:2007/11/10(土) 16:15:23
エスペラントで「引き分け」を何と言うのかが知りたくて『日本語エスペラント辞典』を見たと
ころ

  ひきわけ【引き分け】 〔試合〕 matĉo sen rezulto. 試合は3対3の〜に終った La matĉo
  finiĝis senrezulte, 3 kontraŭ 3.

と書いてありました。

次に Benson の英エスで draw を見てみると

  (tie in game, contest, etc.), egalvenko;

tie を見てみると

  (in game, contest, etc.), egalgajno, egalvenko;

となってるんですね。
ということで、まったく違ったことが書いてあったんですね。
---

で、日・英以外の言語で「引き分け」を何というのかが知りたかったので、日本語版 Wiki-
pedia の「引き分け」の記事を見たんですが、エスペラントの記事にもリンクが貼ってあっ
たので、当然押してみたわけです。

すると、remiso という(私にとっては)見慣れない語が見出し語になってたんですね。
この記事によりますと、フランス語の remis というチェス用語が語源なんだそうです。

そこで私は、NPIVと旧版のPIV(& Suplemento)を調べてみたのですが、remiso などと
いう語根は収録されていませんでした。
『エスペラント日本語辞典』も調べてみたのですが、remiso は載っていません。

『Neologisma glosaro』を見ますと remisa が載っており、また『Nepivaj vortoj』を見ますと
remia = remisa というのが載っています。
---

「引き分け」のことをドイツ語では Unentschieden、Gleichstand、Remis と言うそうなので
Krause の独エスを見てみますと、unentschieden の項には sendecida という訳語があり、
das Spiel endete 〜 1:1(試合は1対1の引き分けに終わった)という例文に対しては

  La maĉo finiĝis [kun la] sendecida [rezulto] unu per unu

というエス文が付けられています。

また Remis の項には remio と書いてあって、Gleichstand は見出し語がありませんでした。
---

フランス語では「引き分け」のことを match nul、partie nulle、résultat nul などと言うそうで
すので、これらを Le Puil と Danvy の仏エスで調べてみましたが、nul の項に partie nulle
が載っており vana partio という訳語が与えられていました。

エスペラントの partio には「試合」「勝負」という意味もあるんだそうですが、またまた新しい
表現法が出てきたわけですね。

なお、match nul と résultat nul は載っていませんでした。
---

イタリア語では pareggio と言うそうですが、Carlo Minnaja の伊エスを見てみますと egal-
stato, vana partio という訳語があげてあり、le due squadre hanno fatto un pareggio(そ
の2つのチームは引き分けた)という例文に

  la du teamoj konkludis la partion egalstate

という訳が与えられています。
また pareggio の動詞形である pareggiare の項には egali en matĉo、fari vanan partion
という表現があります。

174松戸彩苑:2007/11/10(土) 16:16:34
>>173 の続き)

スウェーデン語では oavgjort と言うそうですが、Vilborg のスウェーデン・エス辞典を見て
みますと oavgjord というのが載っており nedecidita という訳語がついています。
そして、この項のなかに

  spela oavgjort(おそらく「引き分ける」の意味) ludi nedecide [egale]

  oavgjort parti(引き分け) vana partio

という用例が載っています。

また、チェスの「引き分け」のことは remi と言うらしいんですが、この辞書で調べてみます
と vana partio となっています。
---

ということで、さまざまな言語のさまざまな辞書を使って「引き分け」の表現方法を調べて
みたわけですが、ずいぶんいろいろな表現が載ってることが判ります。
要するに「てんでバラバラ」なわけですね。

Wikipedia には remiso というNPIVにも載ってないような表現が見出し語にされています
が、これも、これまでの表現がマチマチで、しかもどれもイマイチだと判断されたので、
やむなく採用されたのではないでしょうか。

「引き分け」などというごくごく基本的な表現が、このようにマチマチだというのは問題だと
思いますし、また「使っているうちに自然に発展する」などという話にしても、とても信じら
れないわけです。
また、このような状態なのに「エスペラントはどんな分野の表現でも可能なほどに発展し
ている」などと考えているのは、エスペラント運動にとってマズイと思うのですね。

たしかにエスペラントというのは、かなり多くの語彙・表現をもっており、そのおかげで(人
工語としては)大量の文献をもっているわけですが、しかし「引き分け」のように基本的な
表現なのにハッキリ決まっていないという問題もあるわけです。
そのせいでエスペラントは、本来発揮するはずの能力を十二分に発揮できないように、私
には見えるのです。

つまり「基本的なコンセプトは正しいのに、残念ながらバグの多いソフト」みたいなものな
んですね。

ですから、こういった問題をしらみつぶしに解決していく必要があると、私は考えているわ
けです。

また逆に言えば、こういった問題を解決していけば、今以上の成果が得られるのだと、私
は言いたいのです。
---

最後に「引き分け」という表現に対する私の考えを述べますと、egal-finiĝo と表現すれば、
誰にでも判るのではないかと思いますね。

また(おそらくフランス語の partie nulle に由来すると思われる)vana partio という表現が
よく載っているということが判りましたが、これを利用して

  la matĉo finiĝis vana-partie.

とか

  la matĉo vana-partiiĝis.

などと表現することも出来るかなと思いました。

とは言っても、私には remiso に反対する気はまったくありません。
これまでにも述べてきたように、私は「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれ
ば誰でも知っているような語彙・表現」の確立が大事なのであって、それの達成のためな
らば、合成によるものであっても、新語根であっても、どちらでも構わないという立場だか
らです。

(終わり)

175松戸彩苑:2007/11/14(水) 03:03:31
>>173-174 に補足します。

vana partio という表現は、旧版のPIVの partio の項の4に、すでに載ってたんですね。
NPIVでは partio の項の5に載っています。

また Middelkoop のエス蘭&蘭エス辞典の蘭エスの部の remise の項には (bij spel)
nedecidita partio とあり、de partij eindigde in ― (その試合は引き分けに終わった)とい
う例文に la partio finiĝis nedecidite. というエス文が添えられていました。

それから、『エスペラント日本語辞典』の matĉo の項には

  La matĉo finiĝis senrezulte. 試合は引き分けに終わった。

という用例が載っています。
この表現法は(私の知るかぎりでは)『日本語エスペラント辞典』にしか載っていないもの
です。
---

それから remiso ですけれども、この語根を使えば「その試合は引き分けに終わった」を
La matĉo remisis と簡潔に表わすことが出来て、とても良いなと思ったんですね。

しかし、しばらくしてから remisis は re-misis (再びミスした)と同じだなってことに気づい
たんですね。

それに気づいたので、remis' よりも remi' のほうが良いのかなと思ったんですが、しかし
remiis にしても、耳で聞いた場合には re-misis と似ていてまぎらわしいかもしれないと
思いました。

176松戸彩苑:2007/11/14(水) 03:23:36
私の考えでは「ひとつの概念に対して、複数の言い方がある」ことは、それほど問題では
ないのです。

問題なのは「エスペラント界全体で通じるような表現が無いかもしれない」って点にあるん
ですね。
「辞書に載ってるのに、外国のエスペランティストには通じなかった」というのでは困ると思
うのです。

177松戸彩苑:2007/11/17(土) 15:45:33
エスペラントには「作曲家(komponisto)」を表わす表現はあるんですが、「作詞家」を表わ
す表現がしっかりと決まってないみたいなんですね。

『日本語エスペラント辞典』の「作詞」の項をみると

  〜者 versisto ; poeto ; aŭtoro.

と書いてあります。
厳密に言えば「作詞家」と「作詞者」は違うんですけど(前者は必ずプロであるが、後者は
シロウトの場合もありうる)、まぁこうなってるわけです。
---

英語では (song)lyricist とか metrist、metricist、metrician などと言うみたいなんですが、
Benson の英エスを調べてみますと lyricist の項だけあって lirikisto となっています。

ただし英語の lyricist には「抒情詩人」という意味もあるんですね。
また、エスペラントの lirikisto ですと「抒情詩人」の意味しかありません(NPIVを参照)。
ですから、これが「作詞家」の意味である可能性は低いですね。
---

フランス語で「作詞家」のことを parolier と言うらしいんですが、Le Puil & Danvy の仏エス
を見てみますと kanzonaŭtoro, tekstisto と書いてあります。

歌詞のことを teksto と言うということは、旧版のPIVやNPIVの teksto の項の3や、『エス
ペラント日本語辞典』の teksto の項の4などに載っています。

ですから「作詞家 = tekstisto」となるわけですが、これまであんまり見たことがなかった
ように思います。
(これまであんまり使われなかったので『日本語エスペラント辞典』の「作詞」の項にも載っ
ていなかったのでしょう)
---

ドイツ語では Liedtexter とか Textdichter などと言うみたいですが、Krause の(1993年
に Langenscheidt から出た)独エスを見てみますと、Liedtexter が載っていない代わりに
Liederdichter というのが載っており kantofaristo ; lirika poeto と書いてあります。

後者は明らかに「叙情詩人」ですので関係ないんですが、前者が「作詞家」なんでしょうか
ね?
いまいちよく判りません。

この辞書には Textdichter も載っており、こちらには tekst[far]isto というのが載っていま
す。
これはたぶん「作詞家」のことでしょう。
---

イタリア語で「作詞家」のことを paroliere と言うそうですが、Minnaja の伊エスを見てみま
すと vort(overk)isto となっています。

ということで、これまた新しい表現が登場したわけです。

この辞書の編纂者の Minnaja 氏は denaska Esperantisto なんですが、その人でさえ、こ
んな新しい表現を提案してるのですから、やはり「作詞家」に相当する決まった表現がエス
ペラントには無いんだなぁと判断せざるを得ません。
---

これ以外の民族語における「作詞家」に相当する語が私には判りませんので、これで終わ
りなんですが、エスペラントには、いまだにこういう問題があるのです。

178松戸彩苑:2007/11/18(日) 12:02:38
これまで私は「こんな表現が無い」ということを書いてきましたが、今回は「こんな表現を
作りましたよ」というのを書いてみようと思います。
---

「ダダをこねる」は plend-aĉi とすれば良いのではないでしょうか。

『日本語エスペラント辞典』の「だだ」の項には

  〜をこねる dorlotiĝi.

と書いてありますが、これは「甘える」といった意味だと思います。

また plor-plendi でも良さそうな感じがするかもしれませんが、これだと「泣いて訴える」み
たいですし、また「ダダをこねる」というのは必ずしも泣くとは限らないわけですから、これ
はあまり良くないかもしれませんね。
---

「やじうま」は spekt-aĉ-ulo とすれば良いと思います。

『日本語エスペラント辞典』の「やじうま」の項には

  kraĉemulo ; bruemulo. 〔好奇心の強い人〕 scivolemulo.

などとありますが、どれもイマイチだと思いますね。
---

「ナンパする」は in-ĉasi で良いと思います。

余談ですが、日本では「ガールハント」という言葉が使われたことがありましたが、これは
和製英語なんですね。
でも、英語でも job hunt (就職活動をする)などとは言いますから、「ガールハント」という
のは和製英語にしては、けっこう出来が良かったような気がしますね。
---

PV、旧版のPIV、NPIV、そして『エスペラント日本語辞典』の afranko の項には

  ne sufiĉe afrankita letero 料金不足の手紙

という表現が載ってるんですが、これは単純に afranko-manka letero としたほうがスッキ
リしていると思います。
---

「ブロイラー」と「地鶏」は、説明的に表わせば

  koko bredita en kaĝo
  koko bredita en korto

ですが、これを短くして kaĝo-koko、korto-koko、さらに短くして kaĝulo と kortulo として
も良いように思います。
---

「さばを読む(年齢をごまかす)」はふつうに表現すれば mensogi pri sia aĝo となるでしょ
うが、rabati sian aĝon (あるいは rabati al si la aĝon)とか、さらにはこれを名詞化して
aĝo-rabato などと表現すると面白さが出るかもしれません。

『日本語エスペラント辞典』の「サバ」の項には false deklari sin pli juna と書いてあります。
もちろん間違ってはいないのですが、説明的な表現だと思いますね。
---

『エスペラント日本語辞典』の marŝo の項に protest-marŝo(〔反対運動の〕デモ行進)とい
う表現が載ってるんですが、私はこれを見て

  protest-sido 坐り込み
  protest-fasto ハンスト
  protest-kuŝo ダイ・イン

という表現を作ることが出来るな、と思いました。

なお、「ダイ・イン」という表現のなかには die(死ぬ)という単語が入っていますが、だからと
いって protest-morto などとしてしまうと「死んで抗議すること」になってしまうので、意味が
変わってしまうと思いますね。
ですから、kuŝo くらいにしておくのが良いのではないでしょうか。

179松戸彩苑:2007/11/25(日) 10:10:41
エスペラントには ekspliki (説明する) という語根がありますが、この語根が提案される
以前には klar-igi (直訳すれば「明らかにする」)という合成語で「説明する」を表わしてい
ました。

一見するとこれで問題ないみたいですが、しかし「説明をしたが(相手にとっては)明らか
にはならなかった」という事もあるので、klarigi を「説明する」の意味で使うのは不適当だ、
という議論があったんですね。

つまり「説明」して「理解される = (相手にとって)明らかになる」というところまで行かない
と klarigi とは言えないだろう、だから「理解される = (相手にとって)明らかになる」かど
うか判らない時点での動作でしかない「説明する」を klarigi と表現するわけには行かない
んじゃないかって事なんですね。

だから「説明する」は ekspliki で表わそう、と提案した人がいたわけです。

で、こういうことに敏感で、新語根に抵抗のない人たちは ekspliki を使い、新語根に抵抗
がある人たちは klarigi を使うという事になってるわけです。
---

「ふーん」って感じですけど、じつは、同じような問題をかかえた表現は、ほかにもたくさん
あるんですね。

たとえば「(洗濯物などを)干す」というのをエスペラントでどう表わすのかを調べてみます
と sek-igi が出てきます。
しかし「干したけれども乾かなかった」という事もありますので、これではマズイんですね。

これも klarigi とまったく同じタイプの問題だということがお判りになると思います。

それから「釣りをする」を調べてみますと fiŝkapti とか fiŝhoki などという表現が出てきま
すが、これも実際に釣れたときのことを表わす表現であって「釣りをしたが、一匹も釣れな
かった」という場合には不適当なわけですね。

さらに「ダイエットする(痩せるための努力をする)」を svelt-igo としてしまうと「ダイエットを
したが痩せなかった」というのを表現できなくなるわけです。
---

これらはみんな、まったく同じ問題であるということが判っていただけたと思います。
で、これを解決する方法として、いくつかのやりかたが考えられます。

(1) ekspliki のように、新しい語根を導入して解決するというもの。
    すでに「釣りをする」に当たる新語として peski というのを使う人がいます。
    (もっともこの語根はNPIVにも『neologisma glosaro』にも『Nepivaj vortoj』にも収録さ
    れていませんが)

    とは言うものの、同じタイプの問題がこれだけあるのですから、一つ一つに新語根を
    与えるというのは、かなり不経済な感じがします。

(2) ということで「接辞」を使って表わすということを考えるわけですね。
    いちばん簡単なのは -um をつけて表わすというやりかたです。
    すでに -um を使った別の表現がある場合にはダメなんですが、そうでなければ問題
    ないわけですね。

    -um 以外の接辞で表わすことも考えましたが、これはなかなか良いものが思い浮か
    びません。

(3) もうこうなったら、こういう問題を一律に解決するために「新しい接辞」を導入しても良い
    んじゃないか、などと考えたりもしてみました。

    とは言っても、具体的な案(語形)があるというわけではないんですが。

みなさんにも、この問題について、ぜひとも考えていただきたいと思います。

180なつ:2007/12/03(月) 00:15:02
語彙は増やすべきではないと思います。
上級者やヨーロッパ人はそれを忘れがちになると思います。

181Kamelio Japana:2007/12/03(月) 06:54:20
松戸様。
これまでの様々な提案を拝見し、そのご努力には感謝いたしております。

ただ、松戸さんの見解は私どもが以前にこのForumoに参加していたときよりも後退しているように
思われます。

即ち、松戸様が「執拗に」に仰り続けている「日常用語の未整備」等の問題は確かに存在しますが、
私は、実践の場面で他の外国語を話すことに比べると、E を話す方が遥かに自分の有している語彙で
表現可能なことを実感しております。

例えば、英語で話す場面では、英語を母国語とする話者がどういう表現をするかと言う思惑が常に
付きまとい、たちまち失語症Afazioに陥ってしまいます。

民族語には論理的、非論理的表現かどうかにかかわらず常に固定または慣用的表現が定まっていて、
母国語の話者が使うのと同じ表現で話すことが常に圧力となっていますし、その度合いで言語能力の
評価が常に問われます。それが結局個人の社会的ステータスの問題にもなっていく場合も多いのです。
そして残念なことに母国語のレベルの達することは、現地で長年生活していても殆ど不可能なこと
なのですね。ましてや日本の準義務教育を含めて6年間の学習だけでは何をかいわんやです。

対して、Eの場合には、ある程度の語彙と接辞Afiksojを容易に駆使できるまでの学習をつめば、
容易にとまでは云いませんが、Afaziuloになることは殆どありません。それはEでは論理的表現で
あれば、説明的必要性からそれが長短になるかは別としてどんな言い方でもお互いにその使用が
了解されているからです。
そして、この事は初心者、上級者の区別無く当然のことながら認められています。

従って、問題はむしろ、E-isto個々人のEの運用能力を如何に高めるか、そのためには、
どのような効果的学習が考えられるのかと言った問題のほうが肝心なのです。

そして、Kia-kablo-mi-estu?やBonsanoがかねてから主張しているようにこのような会話を
必要とする日常的場面を増やすこと、換言すればEspetantujoの拡大の方がむしろ遥かに
優先課題なのだと思います。

また日常表現的用語を一方的方向で確定するすることは、むしろ「なつ」様も云われるように
E学習者にとっては負担を増すことになりかねない、と言う意見もうなずけます。

Eがあくまで国際共通補助語であることをお忘れなく。もとより民族語とは当然異なる使用方式
があるのです。

従って、緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や政治・経済・法律
社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味を帯びた優先課題であると思います。

それから、松戸さんの指摘される問題は、それはそれで重要なことですから、辞書編纂の
タタキ台として松戸さんがお住まいの近くのE組織に参加して機関紙等に発表されては、
いかかでしょうか。
そうすれば、また、JEIやKLEGの機関紙等での発表の機会も得られると思いますが。

E-istoであるならばE使用の実践経験による裏づけが何よりも説得力のあるものとなるわけ
ですから。人工言語の作成を楽しむ人たちとはこの点で大きな違いがあるのですね。

最後に、これはどの民族語の辞書でもそうですが、Eの場合は特に云える事ですが、
あくまで辞書は参考事例なのです。最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の
正確な定義に従ってEによる表現を臨機応変に創造し使いこなすことです。

182りょほう:2007/12/04(火) 00:01:35
>>179
難しすぎです・・・。
そこまで単語の意味を厳密にすると、難しくて使えません。

私はそういう問題があっても、klarigi を使う方でいいです。
「説明をしたが(相手にとっては)明らかにはならなかった」
なら、Mi provis klarigi tion, sed li(sxi) ne komprenis mian klarigon.
で済ませます。

183松戸彩苑:2007/12/04(火) 04:48:34
>>180
なつさん、はじめまして。

> 語彙は増やすべきではないと思います。

具体的には、どれのことなんでしょう?

私は最初「新語根を採用すべきでない」って意味なのかなって思ったんですが、しかし考
えてみると、このスレにおける私の提案の8割くらいは、既存の語根を組み合わせて作っ
た合成語なんですよね。

増やすべきでない「語彙」というのは、合成語も含まれるんでしょうか?
---

>>181
> Espetantujo の拡大の方がむしろ遥かに優先課題なのだと思います。

もちろん、エスペランティストを増やすのは大事なことなんですが、しかし具体的にはどう
いう方法で増やそうと考えておられるのでしょうか?

なにか新しい手があるのか、それとも今までと同じことをこれからも続けようと言うのか。


> 緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や政治・経
> 済・法律社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味を帯びた
> 優先課題であると思います。

そもそも「学術用語や政治・経済・法律社会学的用語」はあるけれども「日常生活に関す
る語彙」は不足している、なんて言葉が、EUの公用語として採用されるでしょうか?
ふつうの人なら「そんな中途半端な言葉を使うくらいなら、英語やフランス語を使ったほう
が安心だ」って考えると思うんですが。

また、日常生活において必要となるような語彙・表現が不足・混乱しているから、エスペラ
ントはいつまでたっても一般人のあいだに定着しないのだと私は考えているのですね。

だいたい我々も、英語を勉強したり、あるいは英語を使ったりする必要にせまられたりしま
すけれども、「学術用語や政治・経済・法律社会学的用語」なんてものが必要になるなん
てことは、あんまり無いと思うんですよね。
知らなくて困るのは、やはり日常生活に関するものが多いと思うんですよね。


> 最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の正確な定義に従ってEによる表現を
> 臨機応変に創造し使いこなすことです。

私が批判してきたのは、まさにこの「必要な表現が無いときには、その場で臨機応変に作
りだせるんだ」という神話なんですね。

これはザメンホフが言い出したことですが、こんな泥縄式のやりかたで必ずうまく行くとい
う根拠なんかは、まったくありません。

だいたい、必ずうまく行くのであれば、私がこのスレで論じてきたような問題が発生するわ
けが無いんですね。

それでも「いや、臨機応変に作り出すことが出来るんだ」とおっしゃるのであれば、このスレ
>>140 で「適当なエス訳が無い」と論じておいた「置き引き」と「ひったくり」に相当する表
現を臨機応変に作り出していただきたいものだと思います。


> それから、松戸さんの指摘される問題は、それはそれで重要なことですから、辞書編纂
> のタタキ台として松戸さんがお住まいの近くのE組織に参加して機関紙等に発表されて
> は、いかかでしょうか。

この掲示板に書いてきた文章を、ブログか何かにまとめようとは思っています。

エスペラント団体の機関紙というのは「初心者」や「これからエスペラントを始めるかもしれ
ない」という人向けのものだと思いますので、こういったものに掲載すべきではないと思い
ます。
また、そもそも分量がものすごく多いので、掲載しきれないと思います。

184松戸彩苑:2007/12/04(火) 04:53:38
>>182
もちろん klarigi でちゃんと通じるんですが、しかし ekspliki もけっこう使われてますね。

185松戸彩苑:2007/12/04(火) 05:50:04
>>181
よく考えてみれば

> Kia-kablo-mi-estu? や Bonsano がかねてから主張しているようにこのような会話を必
> 要とする日常的場面を増やすこと、換言すれば Espetantujo の拡大の方がむしろ遥か
> に優先課題なのだと思います。

というのと

> また日常表現的用語を一方的方向で確定するすることは、むしろ「なつ」様も云われる
> ようにE学習者にとっては負担を増すことになりかねない、と言う意見もうなずけます。
>
> Eがあくまで国際共通補助語であることをお忘れなく。もとより民族語とは当然異なる使
> 用方式があるのです。
>
> 従って、緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や
> 政治・経済・法律社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味
> を帯びた優先課題であると思います。

というのは矛盾してませんか?

前者では「エスペラントで会話できる機会を増やそう」と言ってるのに対して、後者では「エ
スペラントは民族語と違う。日常生活に必要な語彙・表現よりも専門用語を作ることのほう
が優先されるべきだ」と言ってるわけですね。

ひょっとするとこれは「エスペラントで会話できる機会は増やすべきだが、その会話の内容
は日常生活のような下世話なものでなく、高度に専門的なものであるべきだ」ってことなん
ですかね?


それから

> 最後に、これはどの民族語の辞書でもそうですが、Eの場合は特に云える事ですが、あ
> くまで辞書は参考事例なのです。最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の正
> 確な定義に従ってEによる表現を臨機応変に創造し使いこなすことです。

と書いてありますが、これは「PIVやNPIVのようなエスエス辞典は信頼できるが、民族語と
の対訳になったエスペラント辞典は、あくまでも参考事例にすぎない」って事ですよね。

しかし考えてみれば、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人だって、そう
とう実力のあるエスペランティストなんですよね。
そういう人たちの作った表現にさえもダメなものがあるというのでは、要するに「臨機応変に
作り出すことが出来る」というやりかたで、いつでもうまく行くわけではないって事じゃないで
すか。

それに、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人でさえも「Eによる表現を臨
機応変に創造する」なんて事がうまく出来てないのに、それを並レベルのエスペランティスト
に要求するというのも、あまりにも無茶だと思うんですけどね。

結局 >>183 にも書きましたが、この点でも「ザメンホフの見通しが甘かった」ということだと
思うんですよね。

186松戸彩苑:2007/12/04(火) 06:58:37
>>185 の上半分ですが、これは撤回させていただきます。

Kamelio Japana さんの考えでは「たしかに日常生活に関する用語には問題もあるが、し
かし実際に会話をしていても不都合なことはほとんど無い。だから今は、専門用語の確立
のほうが優先されるべきなんだ」ってことですね。

言わんとしていることは判ったんですが、しかし、それでも反論したいことがありますね。

まず最初に、たしかに今の状態でも、楽しく会話をすることは可能だと思います。
しかし、私があげたような問題を解決したほうが、より楽しめると思うんですね。

この「会話を今以上に楽しめる」ということが大事だと思うんですよね。
それは、エスペラントの学習者にとっても学習の励みになると思いますし、また、エスペラ
ントをやっていない人たちに対しても、良い宣伝になると思うんですね。

それから私も、専門用語の確立じたいは必要だと思っていますが、しかし私にはそういう
分野の知識があんまり無いので、残念ながら協力できないって事もあるんですね。
誰に頼めば良いんでしょうかね?

187KamelioJapana:2007/12/05(水) 05:33:54
>「PIVやNPIVのようなエスエス辞典は信頼できるが、民族語と
の対訳になったエスペラント辞典は、あくまでも参考事例にすぎない」って事ですよね。

PIVはエスエス辞書であり「こんにち」では民族語に翻訳されたものとは比較対照するには本質的に
無理があります。
「こんにち」と書いたのは、Zamenhofが当初出したUnua Libroはロシア語やポーランド語等それに
続く数編の民族語版からなるため、E単語の意味の定義は各民族語のそれによる比較で行うしかなく
そのデノテーションには多少のずれがあるのは、否めないことでした。

E単語のデノテーションの範囲が粗正確になるためには、Zamenhofの手から異なる民族語を母語とする
多くのE-istojの質量ともに十分な用例の積み上げ(まさにEの実践的使用)が要求されました。
こう言った歴史経過の上に立ってPIVが出来たのですね。

PIVが最も権威ある辞書と言うのはこういった意味です(勿論、編纂者のE-istojはその時代
における第一線の人たちとは言え、人間のすること故、過ちからは完全には逃れ得ないことは
云うまでもありません)。

しかしこの後は殆どの「E-民族語辞書」は先ずPIVを参考に作られるようになります。

188KamelioJapana:2007/12/05(水) 05:58:07
>それに、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人でさえも「Eによる表現を臨
機応変に創造する」なんて事がうまく出来てないのに、それを並レベルのエスペランティスト
に要求するというのも、あまりにも無茶だと思うんですけどね。

松戸様はE-istojと実際にどれだけ交流された、または、されているのでしょうか。
また、Radio Polonja等でEを長年使用している人たちのEでの流暢なやり取りをお聞きになった
ことが無いのでしょうか。

それから、松戸様はEに対する思い入れが相当強いのか、Eに何か完全性、と言うか完成性を
求めすぎているのではないでしょうか。
自然言語はもとより計画言語であっても人間の思考や心を完全に映し出し、且つ「人間が使用できる」言語を
生み出すことは殆ど不可能に近いのです。

仮令、完成度が高いコンピューター言語のようなものであっても、現段階ではそのことを追求すればするほど
人間性の「何か」を置き去りにしなければならないのです。もとより、そうなれば人間の使用に耐えるもの
からは益々、ほど遠くなります。

189KamelioJapana:2007/12/05(水) 06:15:01
>「たしかに日常生活に関する用語には問題もあるが、し
かし実際に会話をしていても不都合なことはほとんど無い。だから今は、専門用語の確立
のほうが優先されるべきなんだ」ってことですね。

少し、違う様な気がします。

国際共通補助語としてのEを取り囲む現代の世界情勢から考えての優先度のことを言っているのです。

例えば、近年Inter-retoによるE-isto同士の国境を越えた交流が大変盛んになってきています。
そうなれば、そのために要求される語彙の正確な定義と用語に関しても足らざるところは、当然、
補う必要が出てきます。Eはこのことに於いても十分に実用に耐える創造性と柔軟性を証明して
きていますね。

専門用語云々というのは主にEUにおける橋渡し言語として期待されるEの役割を念頭においているからです。

190papageno:2007/12/05(水) 20:44:42
ブログでも取り上げましたが、
http://ameblo.jp/esperanto2/entry-10047949998.html
エスペラントで「音叉」を表す言葉は「日本語エスペラント辞典」では tonforko; sonforketo; agordilo; agordoforko; diapazono の5つもあるんですね。普通一つの言語に一つです。英語なら tuningu fork フランス語なら diapson というように。音叉ごときに5つもあるなんて、それだけでエスペラントが欠陥言語であると言われても仕方ないんじゃないですか? 

また、それをどれか一つに決める手段がありません。英語圏の人は tonforko か agordoforko を使い続けるだろうし、フランス人やスペイン人なら多分 diapazono でしょう。自然に任せたって、多分決まらないでしょう。
また、それをどれか一つに決める手段がありません。英語圏の人は tonforko か agordoforko を使い続けるだろうし、フランス人やスペイン人なら多分 diapazono でしょう。自然に任せたって、多分決まらないでしょう。

191papageno:2007/12/05(水) 20:51:25
>>190訂正
tuningu fork → tuning fork

また下2行重複してしまいました。

192KamelioJapana:2007/12/05(水) 21:55:37
>papageno様

お待ちしておりました。
あなたのブログは総て読ませていただいております。
そして、それらの多くはあなたの認識不測から知識の偏りが感じられます。

>欠陥言語であると言われても仕方ないんじゃないですか? 

先ず、云っておきたいことは、欠陥と言う用語の使い方です。
これは、ある意味では欠陥とも言えるのですが、松戸様が指摘されている様に
語彙の未整理の問題であり、「欠陥」と言う語は、聞く人によってはEに対し大変
否定的なニュアンスを与えることになるでしょう。

勿論、あなたが、意図的にその言い回しを用いているなら別ですが。。。

この問題に関してはEの自然語的発展の歴史を考えれば当然のことです。
Kandidatojが適度に存在することは民主的でさえあります。
「音叉」という語が大衆の中でなくても多くの専門家や音声学者によって
多く使われるように成れば、これまでの歴史の通りおのずと候補者は絞られて
いくものと思われます。

また、専門家でなくても合成語の場合、博識ある話者がその話題のコンテクストの中で
どういった語を用いようとも、多くの場合、複数の語を使えば説明に事足りることです。

>自然に任せたって、多分決まらないでしょう。

Eの場合は逆に殆どの「E-istojが実験的に用いる語は民族のエゴ」とは無縁ですので、
一つに絞れない場合もありますが、極少数の候補に落ち着くことはEの歴史が証明しています。

勿論、Eに限らず民族語においても当初は用語の選定が一つに定まらないことは、多くあること
ですね。

193KamelioJapana:2007/12/05(水) 22:05:57
日本語を例に採ると、
その中には、多くの場合「大和ことば」と漢語の併用が存在します。
これは、欠陥なのでしょうかね。

また、「音叉」という語はそもそも母語で話をする人同士で専門家以外の
人で即座に理解できる人はどれだけいるのでしょうかね。

私の場合は、あなたの挙げたEの幾つかの単語のお蔭でどういうものか、「音叉」
と言う日本語よりもイメージがより鮮明に脳の中に現れましたが。

194KamelioJapana:2007/12/06(木) 06:49:02
当然のことですが、Esperantujoに占める専門分野別のDemografioがKandidatoの絞込みと粗
相関関係にあるように見えます。

例えば、「碁」をあらわすE単語として、中国産のVejcxioと日本産のGooとでは、Gooが市民権を
得たようです。

まだ、定まらないと言うかむしろ住み分けて共存している語の例としては、国名に使われる-i-と
本来は入れものをあらわす-uj-があります。

Japanujo - Japanio  Koreujo - Koreio Cxinujo - Cxinio 等々。

これらを意識して使い分ける場合もありますね。
例えば、私はLa Japana Konstitucio とは云わず常にLa Japania Konstitucioを
使っています。

ずっと以前の話ですが、日本の左派勢力の一部には当時の認識を反映して、北朝鮮を示す用語には
Koreioを韓国を示すのにはKoreujoを使うことを提唱した人もおりました。

今では、それぞれNorda Koreio、Suda Koreioが一般的です。

尤も、Cxina Radio Internmaciaでは政府の思い入れかどうかは分かりませんが、
それぞれ、Koreio、Korea Respublikoを用いています。

そういえば、HxinoやHxinujoの用語は殆どArkaismoになりましたね。

195papageno:2007/12/06(木) 11:45:50
>>192-194
待たれていたとは知りませんでした(笑)。それにブログを読んでいただきありがとうございます。

さて、私は絵ー仏英辞典というのを持っていまして、これはカナダで発行されたものなのですが、人間生活に関するありとあらゆるものがイラストで描かれていて、それぞれの絵に相当するフランス語と英語が横に書かれてあるのですが、ほとんどが一つの語しかありません。音叉ももちろんあるのですが、diapason(仏)とtuning fork(英)だけです。たまに2つある場合もあるのですが、5つも書かれてあるなんてことはありません。

KamelioJapanaさんが絵ーエス辞典を作るとして、その時音叉の絵の横に何と書かれますか? まさか5つもずらずらと並べるなんてことはしませんよね?

196papageno:2007/12/06(木) 11:48:51
あ、ところでこの辞典のエスペラント版作ってみたらどうでしょう? 私の持っているのは1992年版の古いものですが、今調べたら最新のはなんと仏・英・西・独・伊の5カ国語(日本語版では6カ国語)に増えているんですね。
http://www.amazon.ca/Nouveau-Dictionnaire-Visuel-multilingue-Collectif/dp/2764408137
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4095050810%3ftag=i16jp-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=D2E5ETG5CGB5DD/ref=nosim

197papageno:2007/12/06(木) 11:49:25
CD版もあります。日本語版のCDはまだのようですが。
http://www.ledictionnairevisuel.com/Index.htm
CD版は基本は仏・英語なのですが、それにオプションで西・伊・独のどれかまたは全部を付けられるようになっているそうです。
http://www.ledictionnairevisuel.com/langues/index.htm
これにエスペランティストの方でエスペラント版を用意してオプションで選べるようにしたらいいのではないでしょうか?

この辞典を作っているうちに、音叉の言い方に5つもあるようなアホウなことも解決して行くかもしれません。解決できずに頓挫するかもしれませんが。

198papageno:2007/12/06(木) 12:18:25
>>195-197
上の書き込み、3つに分けたのはエラーメッセージが出たからです。どうやらリンクを4つも貼ったのがスパムと判断されたようで。

ところで松戸彩苑さん、スレタイの「エスペラント改造論」から離れているようなので、別に「エスペラントの日常語の不足・混乱に付いて(仮称)」などというスレを作られたらどうでしょうか?


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