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現代人が納得できる日蓮教学

1管理者:2005/07/16(土) 10:06:55

新しいスレッドテーマの提案が有りましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。

1721 名前: 顕正居士 投稿日: 2005/07/16(土) 06:59:06

ここは「つぶやきすれっど」なので1700 1705 1706 1709 1718 1720などの内容について意見を交換するスレッド
を作ってはどうでしょうか?「現代人が納得できる日蓮教学」とか。

わが国の仏教の「現代」はいつ始まるのか?飲光慈雲が悉曇学を復興し、富永謙斎が経典成立史を解明した
18世紀だろうとおもいます。この時点では睡眠中の仏徒は未だ覚醒せず明治の廃仏に至った。ようやく各宗は
欧州へ留学生を送って、現代仏教学が誕生した。以後、わが国の仏学の発達はめざましい。だが各宗の先哲、
さまざまに改革の努力をしたけれども、ついに葬式仏教から脱化しなかった。現代仏教学の知見は薄弱にしか
普及せず、伝統宗学の学習すら衰退した。そこで人民の宗教需要はほとんどが新興宗教に吸収されていった。

結局、わが国の仏教は今は整然、3種類に分かれるに至った。学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教である。
伝統宗学も学問仏教に属する。いつの時代でも高等な学問は少数学僧のことで、在家信者の多数は基礎的な
宗学も知らなかったといえばそうであろう。問題は間を繋ぐ一般僧侶の教養である。かつて日蓮宗諸派の壇林
では能化に至るのには20年ほどかかった。天台の六大部を隅々まで学習するのにはそれくらい必要であった。
今日では僧侶と在家信者の教養には大差がないから、仏教学者、宗学者たちは直接に在家信者を対象にした
著作をよく出すようになった。葬式仏教、新興宗教に満足しない読者は増加しているようである。読書仏教の
隆盛である。わが国の仏教が結果的に当たり前のところに到着したのだといえる。現代仏教学の見識の上に
立った仏学書を手引きにして、次には自ら仏典を読む、それが在家仏教徒の基本である。中国、台湾の仏教
はまったくこういうあり方である。漢文がわれわれよりも楽に読めるからであるが、仏教学が発達した日本では
サンスクリット語、パーリ語からの現代日本語訳経典も溢れており、仏教を学ぶにはわが国が最高の環境です。

369通りすがり:2005/11/01(火) 00:24:21
この掲示板は八九三のような方が多いようですので真摯な談義は難しいようですね。小池さん、ネットサーフィンの上、またお逢いできることを楽しみにしています。

370犀角独歩:2005/11/01(火) 02:32:45

> 369

不誠実、というより、語るに足りる知識もない人間が、「真摯」云々は笑止千万。
去ると言うことなので、けっこうなことです。
よろしく逃げ去りください。

372湛寂の潭に溺死:2005/11/01(火) 03:53:58
現代人には日蓮どころか、ゴータマの仏教それ自体が納得不可能ではないだろうかと思う。
少なくとも私にとってはそうだ。
阿含経などによるならば、舎利佛、目連、阿難、迦葉など主だった弟子の多くは自殺しているらしい。
ゴータマ自身も自殺したと見る者もいる。
どこまでが事実であるかは無論、不明ではあるが、全くでたらめを書いているわけでもないだろうと思う。

悟りを得た者は自殺してもいい、ということらしい。
ゴータマの教えというのは、結局そういった方向性のものであるのは否定しようがないだろう。
生きることを否定しまいかねない教えというものは、終末思想とどれほどの差があるのだろうか。
客観的に見て、このような教団が現代にあったとしたらと思うと、私は正直ゾッとする。

我々は子供に、知らない大人についていってはいけないと教えるだろう。
それと同様に、我々は2500年前や700年前の、実際にはどのようであったか、
決してわからぬ人物を簡単に信用してついていってはいけないのではないか。
同時代に生きる人間を神聖視することを我々はそう易々と許さないだろう。
にも関わらず何故、同じ視線をゴータマにも日蓮にも向けない人が後を絶たないのだろうか。

2500年前、あるいは700年前という遠い昔に既に死んでしまってすでにこの世にいない人物が、
実際にはどう考えていただとか、こだわることにどのような意味があるのか。
意味があると確信ある御先輩がいらっしゃれば是非、ご意見を求めたい。

また、教義によっても伝承によっても思想によっても信仰によっても議論によっても
涅槃を得ることは出来ない、とスッタニパータには説かれているが、
これについても合わせてご意見を頂戴できたらと願います。

373犀角独歩:2005/11/01(火) 04:12:24

> 372

ごもっともなご意見であると思います。

シャキャムニとその弟子達が自殺をしたかどうかという点は、まさにわからないことに属しますが正木晃師も、指摘していましたが、初期仏教教団は、たしかに自殺を否定していなかったと思われます。

また、ここで議論をしてきたように、日蓮は刎頭(斬首)を肯定していたし、また、国が法華経を信じないのであれば、隣国が攻めることも肯定していました。つまり、非暴力主義などでは全くなかったわけです。

> 実際にはどう考えていただとか、こだわることにどのような意味

これはここでの議論とは少し論点が違います。
ここで論じられてきたのは、従来こだわられてきた形が、斯くも違うという点を闡明にすることに主眼があります。それは、つまり、過去にこだわった自己否定、そして、いまこだわり執着する人々への警鐘を、過去にこだわりを勧めた責任として論じているのです。

> 教義…伝承…思想…信仰…議論…涅槃を得ることは出来ない

これはスッタニパータのどの章句を挙げているのかわかりませんが、概ね、それが仏教というものでしょう。

ここで仰る「涅槃」とは何かということが問題になるのでしょうが、わたし個人の考えで言えば、八正道、四諦とは、「克服の方法」ということであり、恐れ、煩悩、恐怖、煎じ詰めれば死に行く苦悩を如何に克服するのかという方法として捉えています。そして、その意味において、この‘方法’は一定の効果があったと、現時点でわたしは感じています。

374湛寂の潭に溺死:2005/11/01(火) 04:40:44
>>366-367
仏教、哲学については、中村元氏はゴータマの教えを「実践哲学」と解説しているらしいです。
そして、それは体系成立以前のものとして、哲学体系と対比された形で示しているようです。
366氏がいうところの、真理を悟るための実践というのは、おそらくそのような、
涅槃の境地を得るための実践にかかるという意味での哲学のことを言いたかったのではないですか。
スポーツの天才の哲学や武道の達人の哲学に、体系やらを求めても詮無いようなものでしょう。

もっとも、そのような実践哲学の果てにある仏やら涅槃の境地とやら、
それが本当に求めるべき価値があるものなのかどうか、
そこが大事なのではないかと思うのですがね。

375犀角独歩:2005/11/01(火) 05:36:41

中村元師その他に、そのような用法の使用があることはわかっています。
しかし、「仏教哲学」という場合、創価学会には「仏教哲学大辞典」という成句、また、辞典があります。ここは富士門流信徒の掲示板で、取り分け、創価学会を含む大石寺の信念体系に基づく議論です。

また、この場合、近年の議論では、日蓮における内外相対という教学で、仏教以外の外(ほか)の教えを簡ぶわけですから、これを混同しては論じられないという前提議論があります。

いずれにしても、安直に他思想の用語を転用して説明すれば、原意を損なうので、それはやめようという話が前提になっています。この点については、既に記したとおりです。

また、当スレッドは、現代人が納得できる日蓮教学を考えているうえで、日蓮の原形、並びにその基本とされた法華経の原形を先ず素描してきたという経緯があります。

ここにおいて、哲学ということで説明するのであれば、その言うところの哲学とは何かという定義が先行しなければなりません。

一般的に「哲学」を辞典で引けば

てつがく【哲学】
〔(ギリシヤ) philosophia は知恵への愛・希求の意。西周(にしあまね)の訳語。賢哲の希求を表すために「希哲学」と訳したが、後「哲学」とした〕
(1)世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。(2)自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。
「社長の経営術には一つの―がある」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

(2)の用法はギリシャphilosophia からの転用であるわけですから、その本来の意味はギリシャ思想を淵源とします。となれば、日蓮の説明として当てはまらないといっているわけです。

いずれにしても、当スレッドは、現代人が納得できる日蓮教学というテーマから外さない投稿者の矜持を望んでいるわけです。

湛寂の潭に溺死さんの飛び込み参加は別段、拒みませんが、礼節を重んじてきた流れを大切にしていただきたいとお願いしておきます。

また、あなたが「涅槃」に意義なしというのであれば、それをここに説明すればいいわけで、単に不用だと繰り返しても、議論の場として相応しくありません。

また、議論自体が無意味であると思えば、投稿自体が相応しくないと言うことになります。ともかく、議論の流れを尊重していただくようお願いしておきます。

376パンナコッタ:2005/11/01(火) 12:24:01
湛寂の潭に溺死さん、
>スポーツの天才の哲学や武道の達人の哲学に、体系やらを求めても詮無いようなものでしょう。

たしかに自分もその様に思うのですけれど、嘉納治五郎や千葉周作といった人たちが成した功績は、
それまで名人や達人と呼ばれる人の技を理論体系化し、一般の人たちに普及させたという事実がある以上、
そうとも言い切れないと思います。


多少筋道から外れてしまいますが、参考としてテーラワーダ仏教の考え方を、
 http://www.j-theravada.net/kogi/index.html

むろん、パーリ語訳が2500年前そのままなのか? と言った点もありますけど、
興味深く、非常に参考になろうかと思います。

377パンナコッタ:2005/11/01(火) 12:32:55
>369  通りすがりさん、
八九三みたいに、因縁つけていますか?
投稿に書かれていない事を指摘しただけですよ。更に、問いかけをしただけですよ。

378湛寂の潭に溺死:2005/11/01(火) 16:57:46
>>373 犀角独歩さん
早速のご回答ありがとうございます。

>これはここでの議論とは少し論点が違います。
>ここで論じられてきたのは、従来こだわられてきた形が、
>斯くも違うという点を闡明にすることに主眼があります。
>それは、つまり、過去にこだわった自己否定、
>そして、いまこだわり執着する人々への警鐘を、
>過去にこだわりを勧めた責任として論じているのです。

なるほど、おっしゃることはよくわかります。


>また、あなたが「涅槃」に意義なしというのであれば、
>それをここに説明すればいいわけで、単に不用だと繰り返しても、
>議論の場として相応しくありません。

ゴータマとその悟りを得た弟子達が、自殺するに至ったということは
最初に述べたとおりです。これ以上の説明は必要性を感じませんし、
繰り返そうとも、議論しようとも思いません。
日蓮は涅槃についても言及しており、ゴータマの教えを継承している、
そのことは事実でしょう。
だから私の意見はテーマに沿う形のものであっただろうと思います。
ともあれ、ご意見も頂戴しましたので私はひとまず満足しました。
ありがとうございました。

379湛寂の潭に溺死:2005/11/01(火) 16:58:11
>>376 パンナコッタさん

>嘉納治五郎や千葉周作といった人たちが成した功績は、
>それまで名人や達人と呼ばれる人の技を理論体系化し、
>一般の人たちに普及させたという事実がある以上、
>そうとも言い切れないと思います。

スポーツとその普及の意義は私も認めます。
しかしスポーツはスポーツであり、武術・武道とは別物です。
同じことは宗教にも言えるでしょう。


>むろん、パーリ語訳が2500年前そのままなのか?
>と言った点もありますけど、

そのまま保持されていると考えるのは、すでに信仰の領域ですからね。
リンク先の「頼りになるのは覚者だけ」という項には
次のように書かれてありました。

>そんなわけで、2人は大変ありがたい存在でした。
>2人はお釈迦さまより先に亡くなったのですが、お坊さまたちが、
>お釈迦さまのそばに2人がいないのを見ると、何かすごく寂しく感じたそうです。
>我々が普段言う、普通の意味での「寂しい」ではなく、何というか、
>誰もいないような感じがするのだそうです。お釈迦さまが、
>彼らほどほめた人物は他にはなかったのです。
>とにかくお釈迦さまは出家者にとっての模範は、
>サーリプッタ尊者とモクレン尊者だと、繰り返して言われました。

このように、2500年も昔に死んだ男を、わざわざ現代人が理想化して
崇拝し、頼りにするよう説得するには、それをいじくりまわし、隠蔽し、
妄想することが不可欠だということ、そのことがよくわかります。

380湛寂の潭に溺死:2005/11/01(火) 18:33:38
>>375
>しかし、「仏教哲学」という場合、創価学会には「仏教哲学大辞典」という成句、また、辞典があります。

おっしゃりたいことはわかります。


>(2)の用法はギリシャphilosophia からの転用であるわけですから、
>その本来の意味はギリシャ思想を淵源とします。となれば、
>日蓮の説明として当てはまらないといっているわけです。

語源的にはそうかもしれません。
しかし、哲学はインドにもありますし、
インド哲学と仏教は大いに関連するのは周知のこと。
であれば、日蓮の説明として「哲学」という用語が当てはまらない
ということは必ずしも適当とは言えないはずです。

381通りすがり2:2005/11/01(火) 23:16:28
(1)世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。

仏教は哲学の上にある実践であることも、知らなかったのでしょうね。

382こがね:2005/11/02(水) 10:36:41
インド哲学って何でしょうか。
インドにそんな哲学学派があるんですか。
インド哲学という言葉は、イギリスがインドを統治した以降にヨーロッパでのインド思想の研究をするのに、哲学的なアプローチでするしかなかった結果生じた言葉じゃなかったですか。それが日本でもいわれるようになったことではなかったですか。
日蓮大聖人は自分の教えが哲学だとおっしゃっているわけですか。
鎌倉時代に日本で哲学が知られていたんですか。
仏教という大きな世界の中に哲学が入るのであって、哲学の中に仏教が入るという考えは本末転倒じゃないですか。

383パンナコッタ:2005/11/02(水) 11:47:14
繁盛していた頃の玄武館はスポーツだったのか? とか、講道館四天王ノコンデ・コマが
広めたのは果たしてスポーツだったのか? とかありますけど、主題からズレるので、やめておきます。
 そうとも言い切れないと思います。 → そうとも言い切れない一面があると思われます。
の方がよいでしょうか。

さて、
この場合のインド哲学と称される物は、古ウパニシャッドの事でしょうか?

384犀角独歩:2005/11/02(水) 13:56:24

パンナコッタさん
湛寂の潭に溺死さん

そうなんですね。ですから、パンナコッタさんが仰るような視点ですね。
ここのテーマとは離れるので、この手の言い合いはやめたいのですが、ひとつの整理として記しておきましょう。

たとえば、仏教はヒンドゥー教かというとき、仏教側からすれば、「違う」という答えになるでしょうし、しかし、ヒンドゥー教徒からすれば「いや、ブッダはビシュヌの化身だからヒンドゥー教だ」と言うかもしれません。

この場合、ヒンドゥー教はバラモン教の発展したものですから、ヒンドゥー教はバラモン教であるという言い方は成り立つでしょうが、仏教は、バラモン教という思想世界で出来上がったものでせよ、独自発展していったものは、もはや、バラモン教ではないわけです。つまり、仏教は、バラモン教でも、ヒンドゥー教でもありません。仏教です。

日蓮は釈迦である、釈迦であるからビシュヌである、ビシュヌであるからヒンドゥー教だという説明は、ヒンドゥー教徒であれば、もしかしたら、言うかもしれませんが、日蓮本仏論という信念体系下の人で、自分の信仰がヒンドゥー教だと思っている人はいないわけです。

また、ヒンドゥー教徒に「あなたはヒンドゥー教か」と聞けば、「?」ということになるでしょう。彼らにとって、自分たちの信仰が「○○教」という認識はないからです。

同じように路傍のお地蔵さんを拝んでいるおばあちゃんに、「あなたの哲学は地蔵信仰ですか」、「哲学? なんのこと?」という答えが返ってくるでしょう。仏教を仏教として行じている人に、「哲学だ」と言っても、意味はなしません。

何度も記しましたが「哲学」とは西周がギリシャのフィロソフィーや達意訳した日本語であって、明治以前にこの言葉はなかったわけです。概念もなかったといってよいでしょう。比して日蓮は、鎌倉時代の人ですから、時代的にも、発生的にも、その教えを哲学ということはできないというのが、わたしの説明の骨子です。

しかしながら、明治時代に輸入された外来思想が「哲学」という新造語で定着したのち、この語彙は各種の分野で使用されるようになりました。いわゆる俗訛現象です。結果、人生哲学であるとか、スポーツ哲学であるとか、ひいては泥棒哲学、殺人哲学などという言葉も現出するにいたります。インド哲学、仏教哲学ということも、造語されたわけです。つまり、西周が意図したところからかなり広い範囲で俗訛したということです。

しかし、俗訛し、仏教の説明語の一つとなった哲学は、しかし、日蓮も意図していなかったし、釈迦も意図していなかった、ならば、ここは、厳格な証拠主義に基づいて論じ合う場所であるから、そのようなあいまいな言葉で説明すべきではないというのが、わたしの主張の趣旨です。

まあ、創価学会を中心に自分の信仰が哲学だと思っている人は、哲学だと思っている仏教なのでしょうが、以上の経緯から見るとき、日蓮の教えは仏教なのであって、哲学でないし、釈迦とソクラテスが、同時代の人であっても、はるか隔たった東西の極での話、これを一つのものとして論じるのはあまりにも乱暴なことでしょう。個人的、そう決定して論じたいのであれば、なぜ、仏教が哲学といえるのか、その定義をしっかりとした共通理解にたったうえでなければ、議論は成り立たないわけです。ですから、ケチだけつけるのではなくて、定義をしたらどうかと促したわけです。

385パンナコッタ:2005/11/02(水) 14:14:17
講道館四天王のコンデ・コマです。 失礼しました。

個人が古いベーダ教典を哲学と位置づけるのは別に構わないと思うのですが、
皆で議論し合う場で、前提となる定義を整理して認識しなければ議論は成り立たない
でしょう。 この場合、ちと噛み合っていないですね。ですから何かキーワードを
出して、個々のそれを掘り下げていくようなやり方のほうがいいかもしれませんね。

386通りすがり2:2005/11/03(木) 01:02:51
>382

「仏教は哲学の上にある実践」と言うのは、当然ながら「哲学>仏教」ではなく「仏教>哲学」ですよ。

387犀角独歩:2005/11/03(木) 01:48:41

1829年に生まれ、1897年に西周は没しました。それ以前に「哲学」という言葉はありませんでした。

西周が哲学と新造語したあと、種々のことを哲学という言葉で説明されることになりました。そして、その説明が定着もしたのでしょう。
しかし、その説明が定着したからと言って、仏教が哲学だということになりません。
それは生命という言葉が流行ったあとに、仏教を生命で説明したところで、仏教は生命論ではないのと同じです。

時系列から見て、物事を考えないと、以上のような稚拙な過ちを犯すことになるでしょう。また、このような程度の低い議論はせっかくの議論を妨げることも残念です。

388湛寂の潭に溺死:2005/11/03(木) 03:48:41
>>383 パンナコッタさん
>繁盛していた頃の玄武館はスポーツだったのか?
私個人の感覚から言わせていただければ、やはりどちらかと言えばスポーツ性が強かっただろうと私は思います。
玄武館と言えば千葉周作ですが、そこに籍を置いた山岡鉄舟を例に見ましてもそう思います。
彼は後に小野派一刀流、伊藤一刀斎十世を正式に継承した人物ですが、
しかしそれほどの人物であっても、生涯一度も真剣で人を傷つけたことがなかったと言います。
本物の伊藤一刀斎などと比較すると大変な違いがあると思います。


>講道館四天王ノコンデ・コマが広めたのは果たしてスポーツだったのか?
いえ、講道館四天王と呼ばれるのは、西郷四郎・横山作次郎・山田常次郎・山下義韶の四名であり、
前田光世はそれには含まれておりません。
講道館では他流試合を禁じていたため、それを破った前田光世は破門の身でした。
彼の弟子が後にグレイシー柔術を創始したことから見てもわかるように、
結果的に彼が縁となって広まったのは柔術であって、柔道ではなかったのだろうと思います。


ちなみに、私が374で言った「求めても詮無い」とは「体系化」ではなく「体系そのもの」です。
ネタ的に私の好むものであったため、誤解が生じていたことに気づくのが後になってしまいました。
議論をわき道に逸らしてしまったことについて、お詫び申し上げます。

389湛寂の潭に溺死:2005/11/03(木) 07:13:32
382 こがねさん
>インド哲学って何でしょうか。

インド哲学とは「ダルシャナ」のことです。
「見解」「ものの見方」「宗教」「学派」「哲学」などと訳されます。


>インドにそんな哲学学派があるんですか。

・ヴェーダーンタ
・サーンキヤ
・ヨーガ
・ヴァイシェーシカ
・ニヤーヤ
・ミーマーンサー
以上、六派あります。


>インド哲学という言葉は、イギリスがインドを統治した以降に
>ヨーロッパでのインド思想の研究をするのに、
>哲学的なアプローチでするしかなかった結果生じた言葉じゃなかったですか。

インド哲学という言葉自体は、無論インド人が言ったわけではないだろう、
元々インド固有の「ダルシャナ」という、宗教も包含した広義の概念があり、
それを西洋人は知り、インド哲学という名前をつけた、というだけではないか。


>日蓮大聖人は自分の教えが哲学だとおっしゃっているわけですか。
>鎌倉時代に日本で哲学が知られていたんですか。
>仏教という大きな世界の中に哲学が入るのであって、
>哲学の中に仏教が入るという考えは本末転倒じゃないですか。

私が言ってないことなので省略。


>>384 犀角独歩さん

>「哲学」とは西周がギリシャのフィロソフィーや達意訳した日本語であって、
>明治以前にこの言葉はなかったわけです。概念もなかったといってよいでしょう。

仏教の歴史を見れば、六派哲学との対決が数多く見られます。開目抄には、
「或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり。」
と記されていますが、この因中有果はサーンキヤ哲学・ヴェーダーンタ哲学であり、
因中無果はヴェイシェーシカ哲学、因中亦有果因中亦無果論についてはジャイナ教のことです。
日蓮にとって宗教と哲学は固く結びついた分けることのできないものだったことでしょう。
しかし反面、スッタニパータには「(哲学的)見解を捨てよ」と記されていたりもします。
仏教と哲学の因縁は実に深いと私は見ています。
【撫斬り】日蓮正宗系の教義を徹底検証!その2
ttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1054740898/
こちらの2chのスレでは阿呆氏が本覚思想とサーンキヤ哲学の相似について疑義を
指摘したりしていますが、私はこのように、仏教を語る上で哲学というものはやはり
避けたりしないほうがやり易いのではないかと思っています。

それはそうと今回の書き込みで私は書き込みを止めようと思います。
お相手、ありがとうございました。

390犀角独歩:2005/11/03(木) 11:23:02

湛寂の潭に溺死さん

今回で書き込みは止めるそうですが、それでも一言記しておきます。

あなたがインド哲学と言ったもの、また日蓮の開目抄で引く例は哲学ではなく、本来の語彙で言えば「外道」でしょう。

しかし、この外道という言葉は俗訛して人を侮蔑するために用いる言葉になってしまったので、学術的説明、また、仏教においても、この語彙の使用はためらわざるを得ないと言う常識感覚が働いてきた経緯があります。そこで、代わりに使用されたのが「哲学」という言葉だったのに過ぎません。つまり、それは哲学でも何でもなく、現代語で言えば、自由思想家と言われた、仏教外の教団・学派の教えに過ぎません。

391犀角独歩:2005/11/03(木) 11:27:19

なお、「外道」とされた仏教外思想、また、仏教が実際に習合してきた外来思想との習合を考えるうえで、それら教義・思想を考えることを、わたしは何も否定していません。
ただ、何でもかんでも「哲学」だとしてしまうような記述は感心しないと言っているのに過ぎません。

392パンナコッタ:2005/11/03(木) 11:53:30
湛寂の潭に溺死さん、
自分の釣りの部分は、ご容赦願います。でも、どういう一面のある人かわかりましたので 
好むネタに関しては別のスレで続けたいものです。 その時はよろしくお願いします。

哲学の投稿に関しては以前、”時系列に注意せよ”との投稿があり、その点を踏まえての一連の流れですので、
読む際の、押さえておきたいポイントだと自分は思っております。

393とんび:2005/11/06(日) 22:09:48
どこのスレッドに書いたらいいのか..と思いましたが、ここが一番近いと
感じました。
 
 すでに、御書から離れて数年が経ち、遺文なども忘れてしまったものが多く
あります。顕正会を辞めて、自ら日蓮さんの本意は、どこにあるのかと..御書
を買って読みました。当然ながら、現代語ではないわけで、また仏語などわから
ない言葉が多いので、意味をくみ取ることは難しいわけです。

 ひとつ聞きたいのですが、日蓮さんが、残された御書について、対告衆の違い
による差があるのか..ということです。
 立正安国論や開目抄、観心本尊抄、報恩抄、法華取要抄など、対告衆が四条殿
や富木殿であっても、公にされるべき類の御書と、上野殿・四条殿・富木殿御返
事のように、手紙の返事として個人的に書いたと思われる御書では、その意味合
いが違ってくるでしょうか。

394パンナコッタ:2005/11/07(月) 00:15:01
とんびさん、
参考にですけど、検索目的ならやはり御書システムの導入がよいと思います。
導入に関しては、お勧めスレに紹介されていましたのでそちらを参考に。

語彙の検索を初め、御書を年代別・対合衆別・クラス別に並べられて、
それぞれに解説文もあり非常に便利です。

395犀角独歩:2005/11/07(月) 09:43:11

とんびさん

パンナコッタさんも勧められていますが、これはやはり、御自身の判読で掴むことが肝心だと思います。

>対告衆…意味合いが違ってくる

当然のことだと思います。
日蓮自身が、個人に宛てた手紙類をあとから集めて‘御書’と評し、万人の教学の糧にされるようになると考えていたのかというと、そんなことはないだろうと思います。消息文は、あくまで対機説法でしょうから、すべてを矛盾して見えるところもあるでしょうし、また、相手の立場、了解(りょうげ)の浅深の違いで書き分けもあったろうと思います。
一方、立正安国論は奏進勘文で公に提出したわけですから、広く読まれることを意識していたでしょう。

撰時抄などは対告衆のない説法の草案だといいます。

注法華経は身延の墓所寺に置き、輪番の弟子が、その期間、研鑽することを最終的には意図されたものであったのでしょう。

しかし、以上のそれぞれの相違があるにせよ、それを受け継いだ人々は、また、日蓮とは違った思惑でそれを受け止めてきたのだと思います。

396小池:2005/11/12(土) 15:12:17
独歩さん

ご無沙汰しています。
岩本師の「仏教入門」「布施と救済」「岩本裕著作集1」「同2」を読み、大変勉強になりました。誠に有難うございます。

一点、教えて頂ければありがたいのですが、観心本尊抄で「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」とありますが、南無妙法蓮華経には、釈尊の因行果徳がすべて含まれているという理解でよいのでしょうか。それとも妙法蓮華経はあくまで経題なので、このような解釈にはならないとみればいいのでしょうか。

397犀角独歩:2005/11/12(土) 15:41:15

396 小池さん

少しくお久しぶりです。
黙々と読書されていらっしゃったのですね。敬服します。

> 南無妙法蓮華経には、釈尊の因行果徳がすべて含まれているという理解でよいのでしょうか。それとも妙法蓮華経はあくまで経題なので、このような解釈にはならない

悩ましい問題です。
日蓮聖人の教学的立場は当然、含まれると考えたのでしょうし、それを信仰する人々もそうなのであろうと思います。

また、このような結論は、法華会通・一仏統一からの結論でしょうから、法華経を無謬とする教学的姿勢に基づくわけでしょう。

当掲示板でも、皆さんが語られているように、唱題の行は、実体験と確信をもたらしています。(わたし自身も個人的にそんな体験は勿論あるわけですが)それを肯定すれば、以上のような結論は是といえるのだろうと思います。

ただし、わたしは、この点について、やや慎重です。
ここでは、妙法蓮華経が象徴(シンボル)となってしまっているので、台釈からすれば「言語道・断、心行処・滅」(言語という方法論から断絶、精神活動の滅した処)という境地、また、空、無我と、これでは齟齬を来たすのではないのかという疑問です。

また、社会心理学的な分析に係れば、これは「個人的リアリティ」とされるところで、一般を納得させる内容にはなっていません。

もっとも、宗教的な境地が、科学的分析で説明されるかどうか、一考を要する点はあるのでしょうね。しかし、わたしは対他的に、この「個人的リアリティ」という万人共通・再現性を証明できない‘真実’を確信をもって語る蛮勇は俄かに生じません。しかし、それを全面的に否定するということでもありません。
まさに悩ましい問題であろうかと存じます。

398小池:2005/11/12(土) 16:36:11
独歩さん

大変ありがとうございます。

>ここでは、妙法蓮華経が象徴(シンボル)となってしまっているので、台釈からすれば「言語道・断、心行処・滅」(言語という方法論から断絶、精神活動の滅した処)という境地、また、空、無我と、これでは齟齬を来たすのではないのかという疑問です。

「妙法蓮華経が象徴(シンボル)となってしまっている」についてですが、これはどのような意味合いでしょうか。経題が象徴になっているというこどてしょうか。お教え頂ければありがたいです。
また、「言語道・断、心行処・滅」とは、南無…経が言語で表出できない神秘的なもの、不可思議なものということから、言語で究極の一法である南無…経は解説不能ということでしょうか。

天台は漢訳法華経その他の経々を見、そこに一代五時八経、妙法華を釈尊の究極の経ととらえたと推測しますが、このような経典理解の仕方からすれば、そのようにも考えられると存じますが、世界的な現代仏教学では、経典は個別的に成立したのではないかというふうに把握されているように推測されます。そうしますと、梵本法華経をもって釈尊の出世の本懐ととらえることは難しいのかなと思われますがいかがでしょうか。

>社会心理学的な分析に係れば、これは「個人的リアリティ」とされるところで、一般を納得させる内容にはなっていません。

仰せのとおりだと私も思います。「個人的リアリティ」の世界はなんら否定しません。岩本師は、日蓮は晩年に至るまで密教的色彩から脱却できなかったと述べられていましたが、伊豆流罪の折の伊東氏の病気平癒を祈念したことにみられるように呪法的(大変言葉が悪くお詫びしますが。あるいは聖人の口傳か否か執行師の指摘されるところではありますが、「御義口傳」の陀羅尼品での説明のような?)な力は南無…経にあるのではないかとも思われますがいかがでしょうか。

399犀角独歩:2005/11/12(土) 19:23:23

398 小池さん

> 経題が象徴になっている

ええ、そのとおりです。
たとえば、「小池さん」という名前はたしかにご本人を指すものでしょうが、ご本人そのものではありません。
妙法は法を示すものでしょうが、法そのものではなく、名前です。
しかし、この名前そのものが法そのものと取って代わるという象徴化が、ここにあります。

> 言語で究極の一法である南無…経は解説不能

わたし個人としては、妙法蓮華経はお経の題名であると考えています。
しかし、日蓮は、この五字の中に法はもちろんのこと、その功徳、因果の一切が納まると考えたのでしょう。その意味において、妙法蓮華経を法そのものと取られ得ていたように窺えます。そして、その法は言語音声(ごんごおんじょう)もしくは題目の文字そのものであるとも考えていたようにも思います。

日蓮はこれを妙法蓮華経の五字で完全に顕現したという立場で、では、そこに籠められた意味はとなれば、宝珠とされる一念三千ということであり、一念三千は久遠釈尊の証明であると共に、自分自身の仏種が、熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がそこにあるのだと思います。その意味において、日蓮にとっては解説不可能というのと少し違うかも知れません。

「声仏事を為す」という教学的な姿勢は、実際に表現も、認知も可能である故に、理ではなく、事であるというわけです。

しかし、わたしは妙法蓮華経は、羅什が、(松山師の説を籍りれば)雑一阿含で既に漢訳成句になっていた「妙法」を転用し、蓮華と併せて経題に充てた造語であるわけで、それが言語の究極か?ということになれば、人為による翻訳と成句が、究極の法を策定できるはずもないという思いがわたしにはあります。

> 梵本法華経をもって釈尊の出世の本懐ととらえることは難しい

もちろん、そのとおりだと思います。
法華最勝という教学的な姿勢は、もちろん、天台に見られるところでしょうが、この時点で、真言の経典も出揃っていたわけでもなく、ある面、天台の生きていた時代は、経典の制作と翻訳が“同時進行”であったわけです。仮に内容から、その粋を競うにしても、出揃っていない時点での話ですから、実際的にその裁定は不可能ということになるでしょうか。

> 呪法的…「御義口傳」の陀羅尼品での説明のような?)な力は南無…経にある…

あると思います。
より厳密に言えば、信じ、行じる側が、南無妙法蓮華経を呪にも、法にもし、効験もあらたかにもなるのでしょう。

ここまでくると、しかし、法華最勝、題目最高というより、「信」という精神作用が及ぼす効果の問題に立ち入ることになりますが、わたしは、この一切を諸宗、諸経、諸教、もしくは諸師を媒体とする各人の潜在能力から考え、それは触媒的な役割で、実現は各人に係ることではないのかのかと考えております。

400小池:2005/11/12(土) 22:43:31
独歩さん

大変ありがとうございます。

>たとえば、「小池」という名前はたしかに本人を指すものだが、本人そのものではない。
妙法は「法」を示すものだが、「法」そのものではなく、名前である。
しかし、この名前そのものが「法」そのものと取って代わるという象徴化がここにある。

再確認ですが、妙法(経典名である妙法蓮華経)は、「法」そのものではなく、「法」を指し示している名前(経題)にすぎない(少なくとも梵本法華経では)のに、名前(経題)が「法」そのものに取り代っている、だから経題が、経題名だけという意味から「法」に取り代っている時点で一種の象徴化がなされているという意味合いでよろしいでしょうか。

>わたし個人は、妙法蓮華経は経題名であると考えている。
しかし日蓮は五字の中に「法」はもちろんのこと、釈尊の功徳、因果の一切が納まると考えた。その意味において、妙法蓮華経を「法」そのものと取られ得ていたように窺える。その「法」は言語音声もしくは題目の文字そのものであるとも考えていたようにも思う。

おわかりであれば教えて頂きたいのですが、日蓮は、なぜ経題名である「妙法蓮華経」を「法」そのものととらえたのでしょうか。何か経題名を「法」ととらえるだけの根拠なりがあったのでしょうか。

>日蓮はこれを妙法蓮華経の五字で完全に顕現したという立場で、では、そこに籠められた意味はとなれば、宝珠とされる一念三千ということであり、一念三千は久遠釈尊の証明であると共に、自分自身の仏種が、熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がそこにあるのだと思います。その意味において、日蓮にとっては解説不可能というのと少し違うかも知れません。

一念三千論は難しすぎて私にはわからないものですから、もしよろしければ、「これ(法か?)を妙法蓮華経の五字で完全に顕現した…そこに籠められた意味は宝珠とされる一念三千であり…一念三千は久遠釈尊の証明であると共に…自分自身の仏種が熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がある…」について、更に解説頂けますでしょうか。

>「声仏事を為す」という教学的な姿勢は、実際に表現も、認知も可能である故に、理ではなく、事であるというわけです。

これは、唱題成仏ということでしょうか。

>しかし、わたしは妙法蓮華経は、羅什が、(松山師の説を籍りれば)雑一阿含で既に漢訳成句になっていた「妙法」を転用し、蓮華と併せて経題に充てた造語であるわけで、それが言語の究極か?ということになれば、人為による翻訳と成句が、究極の法を策定できるはずもないという思いがわたしにはあります。

梵語のサッダルマ・プンダリーカ・スートラではなく、正法蓮華経でもなく、妙法蓮華経という表現だけが究極の法(言語の究極か?)ということが「(羅什等の)人為による翻訳と成句が究極の法を策定できるはずもない」のではないかということなのですね。

>より厳密に言えば、信じ、行じる側が、南無妙法蓮華経を呪にも、法にもし、効験もあらたかにもなるのでしょう。ここまでくると、しかし、法華最勝、題目最高というより、「信」という精神作用が及ぼす効果の問題に立ち入ることになりますが、わたしは、この一切を諸宗、諸経、諸教、もしくは諸師を媒体とする各人の潜在能力から考え、それは触媒的な役割で、実現は各人に係ることではないのかと考えております。

南無経の力は、「法華最勝、題目最高というより「信」という精神作用が及ぼす効果の問題…になり、…(その)実現は各人に係ることではないのか…」につきまして、非常に重要なことがらを述べられているように思いますので、もう少しご説明頂けないでしょうか。

401ラスカル:2005/11/13(日) 12:01:42
浅くて説明にならないかもしれませんが、一念三千の法は色心不二・依正不二を表す学識であって悟りの基礎になる前提でしょう。私は単純に蓮から始まり妙に終わる事が法華経の極意と思います。現世利益に例えると「一念三千の法を蘇生復活させる蓮華=妙法蓮華=若くてキレイになる事」誰もいつでも健康にありたいと考えるでしょう。どこの団体も総合仏教化で解り辛いと思うのは私だけでしょうか。文字曼陀羅は時空の移り変りを書いた本尊。

402犀角独歩:2005/11/13(日) 13:07:32

小池さん

> 「法」に取り代っている時点で一種の象徴化がなされているという意味合いでよろしいでしょうか。

そのような趣旨で記しました。

> 日蓮は、なぜ経題名である「妙法蓮華経」を「法」そのものととらえたのでしょうか。何か経題名を「法」ととらえるだけの根拠なりがあったのでしょうか。

日蓮が題目を法ととらえたか?という点についてですが、やや、わたしの記し方も悪かったかも知れませんが、真跡遺文の範囲では、そのような断定には必ずしもなっていないと思えます。むしろ、一念三千(三千諸法)法門を裏んだ五字・上行所伝付属の正体という意味であろうかと存じます。法本尊という成句がありますが、これが日蓮に由来するのかは微妙な問題であろうかと存じます。なお、一念三千は衆生の心法ですから、万有引力の法則などといった自然科学がいう法則、また、国家政治で言う法律とは、意味を異にします。しかし、日蓮解釈の時代に入ると、妙法五字は直ちに法理の如く認識されるにいたり、現在ではまさに「宇宙に遍満する妙法」とまで言われる如くで、宇宙生命を律する法理の様相を呈しています。

ただ、わたしは確実に言えることは、日蓮の時点で既に妙法五字がシンボル(象徴)になっていたということです。しかし、これは一般的な見地からの表現ですから、その信仰圏で言えば、「法」といえなくもないかも知れません。

> …一念三千論…成仏の本懐を遂げることの証

何度か繰り返し記していますが、一念三千は妙楽の成句で、天台(章安)の段階では見られません。いわば、この時点でもまず一念三千という成句のシンボル化があったとわたしは批判的に見ています。
それはともかく、では、日蓮が妙法蓮華經を信仰したのは、そこに一念三千という宝珠が裏まれる所以ですが、この一念三千を通じて、日蓮が確信したことは己心仏界所具ということで、より簡潔に言えば、自身成仏の証と見たからでしょう。また、一切衆生成仏の証と見たという意味で記しました。

> 唱題成仏ということでしょうか。

この唱題成仏は、当掲示板でも引用されますが、実は、わたしはあまり意識してきませんでした。富士宗学要集で見ると、この用例は日因の言として一度あるばかりです。
ただ、これは他門下でも使用される成句なので、門下一般の認識としてこのような考え方は古くからあったようです。唱題が遊楽である、また、唱題が九識であると言った類の用例は、写本遺文の範疇と思えます。しかし、日蓮が言う成仏とは、真跡遺文に限れば、文字どおり、成仏であるように思えます。

> …「(羅什等の)人為による翻訳と成句が究極の法を策定できるはずもない」のではないかということなのですね。

そのように考えます。

> 「法華最勝、題目最高というより「信」という精神作用が及ぼす効果の問題…になり、…(その)実現は各人に係ることではないのか…」につきまして、非常に重要なことがら…

ここを記しはじめると、さらに富士門流信徒という枠からはみ出していきますが、過去10年、種々の宗教と信者を見聞するに就き、その各人が感じる法悦、効験、体験、経験…、まあ、言葉はどのようなものでもよいのですが、その類の心身への影響は、何も唱題に限ったことではなく、ありとあらゆる信仰下で見られることであると率直に認めざるを得ないというのがわたしの結論です。これはまた、功徳・罰と言われるところでも同じです。
殊に学会を含む石山門下では、「実証は正しい信仰にしかない」というテーゼがあるのですが、実はこれは実際に複数の信仰体験者を観察するとき、疑問視せざるを得ないわけです。

以上のような精神作用、ひいては心身作用を何と呼べばよいのか決し得ませんが、ともかく、そのような効果は、教えの邪正によるというより、その個人の信じ込む力によって引き出されるものであって、実は、その要因は人側にあるというのが、わたしなりの結論だということです。

しかし、では、教えは何でもよいのかということになりますが、ここで、わたしはまったく違う点から選択肢を現在は有さなければならないと考えます。これは、先の本化ネットの学習会で仏教タイムス編集長・工藤師も語ったことですが、今日的な課題として、宗教は人権意識から、解釈整理されなければならないとわたしは強く考えます。差別の原因、暴力の原因、戦争の翼賛等、人権を侵害する原因となる宗教はまさに邪教として排斥されていかなければならないと考えると言うことです。

403小池:2005/11/13(日) 18:20:18
402 独歩さん

大変有難うございます。何回も読んでいるのですが、やはり難しいです。
以前の内容も合わせて、考えて見ます。
有難うございます。

404とんび:2005/11/29(火) 22:27:53
パンナコッタさん、こんばんは。

御書システムのご紹介ありがとうございます。
桐がなかったので、購入し、御書システムを導入しました。
まだ使い方がよくわかりませんが、これは凄いですね。

それから、無料で提供しているところが、また凄いし頭が下がります。
日蓮宗関係のところで提供しているのかと思いましたが、興風談所とありま
すので日興上人の門流・富士門流信徒の方々がかかわっているのでしょうか。

405とんび:2005/11/30(水) 00:56:04
適当なスレッドがないので、ここに書きます。

縁があって、松本修明さんとお話をし、この書を勧められました。
この方は、元創価学会の幹部だったらしいですが、今は、どわすれしましたが、
西山本門寺か、いやたしか北山本門寺の住職であったと思います。
「南無妙法蓮華経要義」という本です。
しばらくは、この本を土台にしていきたいと思います。また、三枝充悳著の仏教
入門、中村元訳のブッタの言葉なども、あわせて読もうと思っています。

 この方は、大石寺の日寛上人の教学的な解釈を批判しています。
 ある意味、創価学会・顕正会・妙観講などの団体が出てきたのは、日寛さんの
責任であるということを言われていたように思います。
 日寛さんは、正宗では、日興・日目上人に次ぐぐらいの聖僧であり、伝記・
神話たぐいのことがいい伝えられていると思います。六巻抄があるから大石寺は
正しいのだ..ということなのでしょうか。

 それは、さておき、この書の中で、
南無妙法蓮華経の解説書が法華経
法華経の解説書が御書
御書の解説書が、天台・妙楽の論釈
とあります。

 たしかに、道理や筋は通っていると思いますが、天台・妙楽..などにまで
及ぶと、途方もないことだと感じてしまいます。
 興門流を名乗るなら、日興遺誡置文に「当門流に於ては...間有らば台家を
聞くべき事」ということで、しかるべきなのでしょうが。

 ただ、この本の法門については、言葉が難しいので、すぐにはわかりませんが、
法門以外のことについては、示唆の富む有用な言葉がありました。気持ちがリフ
レッシュしたようなところがあります。

南無妙法蓮華経の解説書が法華経
法華経の解説書が御書
御書の解説書が、天台・妙楽の論釈

 このことについて意見がありましたら、よろしくお願いします。

406犀角独歩:2005/11/30(水) 01:13:51

とんびさん

松本修明さん…西山本門寺か、いやたしか北山本門寺の住職

違います。

南無妙法蓮華経の解説書が法華経
法華経の解説書が御書
御書の解説書が、天台・妙楽の論釈

逆でしょう、まったく。
法華経を解釈したのが天台、妙楽。
その天台妙楽の釈を説明したのが御書です。
法華経が南無妙法蓮華経の解説書に至っては、申し訳ありませんが、もはや、お話になりません。

ご存じなのかどうかわかりませんが、妙法蓮華經とは羅什が訳した法華経(Saddharmapundarikasutra)の漢訳名、つまり、お経の名前です。
もし、松本さんの言い方からすると、経典の題名に南無をつければ、経典の本文が解説しているということになります。
これでは日本の法律は、六法全書という題名を説明していると言っているようなものです。

まあ、しかし、松本さんがいっているようなことは、さして真新しいものでも、オリジナルなものではありません。よく聞くずっこけた解説では目にします。

407パンナコッタ:2005/11/30(水) 10:55:42
とんびさん、
導入されましたか。 では、OPの冒頭タイトルを見て、立正安国論の国の字が”国構えに民”などと
いっている人たちを笑ってあげましょう。(^o^) 以下は「本文」を見ていって書き分かれている事を
チェックしていってください。  色々使えるので是非、ご活用していって下さい。

興風談所は正信覚醒運動の際、石山から分かれた正信会系の研究機関で、富士門流系ですね。

408とんび:2005/11/30(水) 22:53:50
書き込むスレッドが、ここが一番適当と思いました。
松本さんのことについては、のちほど発言します。

法華経について。
私は、創価学会版の法華経開結の文庫本を持っていましたが、ひさしぶりに
読もうと思ったら、見つからなくなってしまった。あらたに買おうかとも思
っています。ですので今、原文がなく引用はできません。

私の、うすら覚えの範囲でいうと、法華経が最勝・第一であるというのは、
二乗作仏と久遠実成をあかしていること。そして竜女の成仏とダイバダッタ
が成仏の記別を受けること。
簡単にいうと、法華経を信ずる人は(すべての衆生は)必ず成仏できるから、
最も尊い。また法華経を信ずることでしか成仏できない..ということでしょ
うか。
 どうなんでしょう。

 真偽の問題がある三大秘法抄では、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて
候は、此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし。

 と書いてあります。三大秘法を含んでいるから尊いのでしょうか。

 正宗では、南無妙法蓮華経が下種ですから、南無妙法蓮華経に縁すると、
いつか必ず成仏するということだったと思います。法華経を説いて過去の
下種を悟らせる...。

 ということならば、法華経と縁をしても必ず成仏できるわけがないという
ことでしょうか。
 正宗崩れ、なのでなんですが、時代背景があり、釈尊の時代は、そもそも
法華経に縁をするということは、過去に南無妙法蓮華経が下種されているから
だということになりますか。
 そして、今の世では、余経も法華経も詮無し、ただ南無妙法蓮華経云々、と
いうことで、法華経の意味をくみ取って信じたとしても成仏できない..と
いうことでしょうか。

409犀角独歩:2005/12/01(木) 15:01:12

> 法華経…原文がなく引用はできません。

原文であれば、現宗研のサイトにあります。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

ただし、これが春日版であるかどうかは確認しておりません。

> …二乗作仏と久遠実成…竜女の成仏とダイバダッタ
が成仏の記別を受ける

この記述はある程度、門下教学に筋に則っていますが、二乗作仏は二乗記別です。実際に変成男子で成仏をしたのは竜女です。提婆達多も未来成仏の記別です。

> 法華経を信ずる人は(すべての衆生は)必ず成仏できる

法華原文から読むと、実はこのような筋にはなっていません。
過去の罪業の罪を法難に遭うことによって消滅することによって、長命を得るということです。成仏は、釈尊による記別よるという脈絡です。

> 法華経を信ずることでしか成仏できない

法華経における「信」とは以信得入、以信代慧ということであり、ここで、諸仏以外は決して了し得ない智慧を信をもって入り、代えるというのが本来の意味です。

> 三大秘法を含んでいるから尊いのでしょうか。

三大秘法は日蓮の造語とは言い切れないでしょう。


> 正宗では、南無妙法蓮華経が下種ですから、南無妙法蓮華経に縁すると、
いつか必ず成仏する

細かい修正となりますが、「妙法蓮華経の五字‘を’下種」です。

> 法華経を説いて過去の下種を悟らせる

これは石山で言う脱益仏法における法華経解釈です。
末法は本巳有善の下種をされていない衆生だけであるから下種をするというのが石山教学です。

> 法華経と縁をしても必ず成仏できるわけがない

いえ、教学的な姿勢としては、法華経と縁をしなければ成仏しないと言う立場です。

> 正宗崩れ

こんなふうに自身を表現する必要はありません。
わたしも「学会くずれ」と顕正会から名指しで批判を受けていますが、‘くずれた’という自覚はありません。学会に納得がいかないから辞し、また、石山にも納得がいかないから辞したということです。むしろ、一段広い見地に進んだという自覚です。

> 釈尊の時代は、そもそも法華経に縁をするということは、過去に南無妙法蓮華経が下種されているからだということになりますか。

繰り返しますが、「南無妙法蓮華経を下種」ではなく、「妙法蓮華経の五字の下種」です。
久遠下種を題目下種ととらえるという点では、慎重にならざるを得ません。通常は仏種でしょう。

> 余経も法華経も詮無し、ただ南無妙法蓮華経云々…法華経の意味をくみ取って信じたとしても成仏できない

禄内写本「今末法に入ぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし」の一節ですね。まあ、日蓮の遺文と目されるのでしょうか。
法華経の意が汲み取れるのは、唯仏与仏ですから、そこで以信得入という教学的な態度が生じるのでしょう。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(本尊抄)ということですから、こうなれば、法華経典によらずとも五字受持で事足りるという教学的態度が日蓮には見られます。

410とんび:2005/12/01(木) 21:38:16
犀角独歩さん、ていねいなレスありがとうございます。

>原文であれば、現宗研のサイトにあります。
言葉が、適当でありませんでした。
法華経開結と書きましたが、記憶によると、真訓両読妙法蓮華経並開結だったと
思います。漢文は意味が良く汲み取れないので、訓読文となりますでしょうか。

 記憶違いなら申し訳ないですが、竜女(畜生界の象徴か)は、権経では、男子に
なってから成仏が許されましたが、法華経では、竜女(女人のまま)のまま成仏の
記別を受けたのではないかと、思います。

>法華経における「信」とは以信得入、以信代慧ということであり、ここで、諸仏以外は決して了し得ない智慧を信をもって入り、代えるというのが本来の意味です。
どちらも聞いたことは、ありますが、正宗時代はあまり縁のない言葉でした。

 智慧第一の舎利弗すら智慧では成仏できなかった。法華経を信ずることによって何かを悟り
成仏できたのか、ただ何もわからなくても信ずるだけで成仏できたのか。
 日蓮さんは、御書で「ただ信ずることだけ」で成仏できると言っていたような。
 四信五品抄あたりだったでしょうか。

>三大秘法は日蓮の造語とは言い切れないでしょう。
言葉として最初に述べたのは、日蓮さんだと思いますが、御書の中で、経文のおもてに
現前なり...とかの意味のことをいっているのでしょうか。

>細かい修正となりますが、「妙法蓮華経の五字‘を’下種」です。

話が、展開してしまいますが、南無妙法蓮華経と妙法蓮華経との違いがあろう
かと思います。日蓮さんは、御書の中で、五字・七字と併記している遺文もあり
ますが、厳密にいうと御書の中で、日蓮さんは、南無妙法蓮華経と妙法蓮華経と
の区別をしていたのでは..とも推測されます。曼荼羅と本尊のように。

 御本尊の主題が、南無妙法蓮華経です。なぜ妙法蓮華経の主題でなかったので
しょうか。これは、松本さんから言われたことですが、「南無妙法蓮華経に南無
しているのだ」ということで、私たちの信心は「南無南無妙法蓮華経」である..
ということです。

 ここのところ、南無妙法蓮華経と書いてある違文と妙法蓮華経と書いてある違文
が、全くの同じか、深く読めば違うのか..。わかる人がいましたら、ご教示下さい。

>末法は本巳有善の下種をされていない衆生だけであるから下種をするというのが石山教学です。
正宗に縁をしたので、そのような解釈になりがちですが、正式には、浅井顕正会教ということに
なるでしょうか。
 今年の、冬に法華講の方から折伏を受けました。顕正会では、下種を受けて信じないと、すぐに
無間地獄に堕ちる..と言っていましたが、法華講の方は、そうは言っていませんでした。
勤行の作法も顕正会のそれは、アレンジしてあり、すでに当時日蓮正宗顕正会と名乗っていながら、
既に、教義は、別のものだったのかと思います。
 国立戒壇の意義については、顕正会の方が、本来の正宗の意義に近いのでしょう。

>教学的な姿勢としては、法華経と縁をしなければ成仏しないと言う立場です。
このあたり、過去に参考にするべきログ・発言があるでしょうか。

>繰り返しますが、「南無妙法蓮華経を下種」ではなく、「妙法蓮華経の五字の下種」です。
久遠下種を題目下種ととらえるという点では、慎重にならざるを得ません。通常は仏種でしょう。

私は、今まで、南無妙法蓮華経の七字と妙法蓮華経の五字を同一視していましたが、どうも
考えた方がいいかもしれませんね。
 ただ、私は、法門は苦手なのです。

 羅什の訳した、法華経が妙法蓮華経という題名ですから、法華経=妙法蓮華経と解する人も
いるのでしょうね。

411犀角独歩:2005/12/01(木) 22:15:51

とんびさん

> 竜女(女人のまま)のまま成仏の記別を受けた

違います。
提婆達多品に「龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって」とあるとおりです。

>智慧第一の舎利弗すら智慧では成仏できなかった。法華経を信ずることによって何かを悟り
成仏

期別を受けたのです。

> 日蓮さんは、御書で「ただ信ずることだけ」で成仏できる

まあ、そういうように解釈することもできるかもしれませんね。

> 三大秘法…最初に述べたのは、日蓮さん

とんびさんはあまり御書に詳しくないようですね。真蹟が遺っているものと遺っていないものがあります。その確実に遺っている御書にはないので確実に日蓮が言ったとはいえないということです。

>>細かい修正となりますが、「妙法蓮華経の五字‘を’下種」です。

これに日蓮の遺文にあります。
「題目之五字を以て下種」(曾谷入道殿許御書)です。

> 南無妙法蓮華経と妙法蓮華経との区別をしてい

していたでしょうね。

> 曼荼羅と本尊

この意味は解しかねます。

> 主題が、南無妙法蓮華経です。なぜ妙法蓮華経の主題でなかったので
しょうか。

そんなことは当然でしょう。日蓮が妙法蓮華教に南無をしていたからです。

> 松本さん…私たちの信心は「南無南無妙法蓮華経」

これは松本さんの考えであって、日蓮とは関係ありません。松本教といったところでしょう。

> 国立戒壇の意義については、顕正会の方が、本来の正宗の意義に近い

‘近代の’ということでは、そういえるでしょうね。正確に言えば、戸田城聖氏のということです。

> 法華経が妙法蓮華経という題名ですから、法華経=妙法蓮華経と解する人も
いるのでしょうね。

日蓮は「法華経の題目」「題目の五字」と書き残していますから当然のことです。
題目とは現代語で言えば題名ということです。

とんびさん、経・釈・御書が事実認識の基本です。もっともらしく聞こえる言葉、説得力のある発言に騙されてはいけませんよ。
わたしの半世紀の経験則、「確信ある発言は大概、嘘である」ということです。

412犀角独歩:2005/12/01(木) 22:27:40

【411の訂正】

>期別
>記別

「舎利弗、汝未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし。号を華光如来」(譬喩品)

未来成仏ですから、記別です。

413とんび:2005/12/01(木) 23:55:56
犀角独歩さん、こんばんは。

 まさに、そのことをレスしようと思っていました。
法華経では、舎利弗は、遠い将来に於いて仏となるであろうと書いてあったと
思います。
 
 日蓮さんは、即身成仏を説いたのではなかろうか..と思っています。
 話がややこしくなりますが、印度応誕の釈尊は、聖人であっても、姿形は普通の
人と同じであったと思います。
 ただ、経典では、三十二相八十種ごう?の人間離れした仏として顕れていると思い
ます。

 考えがまとまりませんが、舎利弗は、法華経を聞いて悟り、即身成仏をした。
 そして、その後菩薩として生まれ変わるが、将来、仏として(印度応誕の釈尊のように)
大衆に崇め奉られることがあるであろう..ということでしょうか。

 犀角独歩さんのおっしゃる通り、御書や経典には詳しくありません。
 天台や妙楽の釈にいたっては、読んだことすらありません。
 いずれは、日蓮宗の方の話を聞きたいと思っています。
 
 妙法蓮華経並開結の文庫本を探すのが、手間取りそうなので、ネットから
注文してしまいました。
 
 今、持病の腰痛がでてきてしまいました。

414パンナコッタ:2005/12/02(金) 00:48:22
とんびさん、
蛇足ですが、妙法蓮華経なら御書システムに収録されていますよ。
法華をクリックしてみてください。

415犀角独歩:2005/12/02(金) 01:13:52

とんび 投稿日: 2005/12/01(木) 23:55:56

犀角独歩さん、こんばんは。

> 日蓮さんは、即身成仏を説いたのではなかろうか

随所に説いています。

> 印度応誕の釈尊は、聖人であっても、姿形は普通の人
> …経典では、三十二相八十種ごう?の人間離れした仏

そうでしょうね。歴史上の釈尊は人間ですし、経典の釈尊は創作ですから、そうなるでしょう。

> 舎利弗は、法華経を聞いて悟り、即身成仏をした

ですから、繰り返しますが、まだ成仏はしていません。未来成仏の記別(約束・予言)をされたということです。

> 日蓮宗の方の話を聞きたいと思っています。

聞かれるとよいでしょう。ただし、わたしは日蓮宗ではありません。
 
> 持病の腰痛がでてきてしまいました。

御大事になさってください。

416犀角独歩:2005/12/02(金) 10:45:35

真跡遺文に見られる‘即身成仏’に記述を挙げておきます。

薬王品得意抄,文永2年(1265)44歳
「華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より、法華経の即身成仏勝れたるなり」

法華題目抄,文永3年(1266)1月6日45歳
「伝教大師となのらせ給ひて、秀句と申す書を造り給ひしに「能化所化倶に歴劫(りゃっこう)無し妙法の経力にて即身成仏す」と竜女が成仏を定め置き給へり。而るに当世の女人は即身成仏こそかた(難)からめ、往生極楽は法華を憑(たの)まば疑ひなし」

開目抄下,文永9年(1272)2月51歳
「華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は、経は権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱」

日妙聖人御書,文永9年(1272)5月25日51歳
「竜女が即身成仏も、摩訶波闍波提比丘尼の記別にあずかりしも…」

祈祷抄,文永9年(1272)51歳
「霊山会上にして即身成仏せし竜女」「子を念ふ志深かりしかば、大海第一の宝如意宝珠をもむすめにとらせて、即身成仏の御布施にせさせつれ」

木絵二像開眼の事,文永9年(1272)51歳
「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり。故に法華経に云はく「所謂諸法如是相 死人の身 如是性 同じく心 如是体 同じく色心等」云云。又云はく「深く罪福の相を達して遍(あまね)く十方を照らしたまふ。微妙の浄き法身、相を具せること三十二」等云云。上の二句は生身得忍、下の二句は即身成仏。即身成仏の手本は竜女是なり。生身得忍の手本は純陀是なり」

曽谷入道殿許御書,文永12年(1275)3月10日54歳
「真言師等が所談の即身成仏は、譬へば窮人の妄りに帝王と号して自ら誅滅を取るが如し」

撰時抄,建治元年(1275)6月10日54歳
「世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかく(秘)し、即身成仏・一念三千の肝心其の義を宣べ給はず」
「真言法中の肝心の文あやまりなり。其の故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして、文証も現証もあとかたもなき真言の経に即身成仏を立て候」

四条金吾釈迦仏供養事,建治2年(1275)7月15日55歳
「画木に魂魄と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」

報恩抄,建治2年(1275)7月21日55歳
「経の音義に云はく「弘法大師帰朝の後、真言宗を立てんと欲
し、諸宗を朝廷に群集す。即身成仏の義を疑ふ」

417犀角独歩:2005/12/02(金) 10:46:10

―416からつづく―

始聞仏乗義,建治4年(1278)2月28日57歳
「天台云はく「妙は不可思議に名づく」等云云。又云はく「夫一心乃至不可思議境の意此に在り」等云云。即身成仏と申すは此是なり」
「末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん」

千日尼御前御返事,弘安元年(1278)7月28日57歳
「第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり」「伝教大師の此の事を釈し給ふには「能化所化倶に歴劫無し。妙法経力即身成仏す」等」

神国王御書,弘安元年(1278)歳
「善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は一切の真言師の申すは大日如来より五代六代の人々、即身成仏の根本なり等云云。日蓮勘へて云はく、法偸みの元師なり、盗人の根本なり」

大学殿事,弘安元年(1278)五七歳
「日蓮疑って云はく、法華の天台・妙楽・伝教の心は大日経等の即身成仏を許すや」「不空の造と云ふに云はく「唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是に三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠いて書せず」と」

大田殿女房御返事,弘安3年(1280)7月2日59歳
「即身成仏と申す法門は、諸大乗経並びに大日経等の経文に分明に候ぞ。爾らばとて彼の経々の人々の即身成仏と申すは、二つの増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり」「大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくをぞたかきやうなれども、此はあえて即身成仏の法門にはあらず」
「今法華経にして、有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出だして即身成仏と説き給ふ時、二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり」「華厳・真言等の人々の即身成仏と申し候は、依経に文は候へども、其の義はあへてなき事なり」「釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ。我が弟子等は此の事ををも(思)ひ出にせさせ給へ」「此の論は竜樹の論となづけて候。此の論に云はく「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠(か)きて書せず」と申す文あり」「但し不審なる事は、大論の心ならば即身成仏は法華経に限るべし」「大論にそむいて真言の即身成仏を立つる上、唯の一字は強しと見へて候」「譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。此の釈こそ即身成仏の道理はかゝれて候へ「即身成仏の手本たる法華経をば指しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字をを(置)かるゝ条、天下第一の僻見なり」「天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云はく「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝へず」とかゝれて候。此こそ即身成仏の明文にては候へ。不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是の三摩地の法を説く。諸経の中に於て欠きて書せず」とかゝれて候なり。されば此の論の次ぎ下に、即身成仏をかゝれて候が、あへて即身成仏にはあらず。生身得忍に似て候。此の人は即身成仏はめづらしき法門とはき(聞)かれて候へども、即身成仏の義はあへてうかゞ(窺)わぬ人々なり。いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給ふ経にあるべき事なり。天台大師の「於諸経中秘之不伝」の釈は千旦千旦。恐々」

418犀角独歩:2005/12/02(金) 11:25:24

日蓮の用法に拠れば、即身成仏は、竜女(変成男子)の成仏を先ず指しています。そして、華厳・真言等の即身成仏は信の即身成仏ではなく、ただ、法華経に限るということです。

では、具体的に即身成仏とは何かという疑問が生じるわけですが、この点をもっとも明確に示しているのは『木絵二像開眼の事』の「死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり」という一節ではないのかと、わたしには思えます。要は死人に向かって行う一種の祈祷法を日蓮は言っている如くです。

このような、いわば呪法とも思える秘法なんだろうと思った次第です。

やや、横道ですが、真言に「変成男子」という祈祷もあるとのこと。
要は懐妊した段階で、お腹の子を男子にするというものです。
跡継ぎは男という時代だからこそ、成立した祈祷なんでしょう。

419とんび:2005/12/02(金) 21:17:58
こんばんは。

松本さん本人に確認しましたが、出家されて現在西山本門寺の住職ということです。
日興上人 →日代上人の流れ・・・西山本門寺ということらしいです。
ちなみに →日妙上人の流れが、北山本門寺しいうことです。みなさんは知っていることでしょうが。

南無妙法蓮華経の解説書が法華経
法華経の解説書が御書
御書の解説書が、天台・妙楽の論釈

については、南無妙法蓮華経は法華経を読まなければわからない
      法華経は御書を読まなければわからない
      御書は、天台・ことに妙楽の釈を理解しないとわからない

 と、簡単にいうとこういうことらしいです。三番目は、痛いですが、天台教学
が理解できれば、同じ言葉でも、日蓮さんと天台との解釈の違いがわかるから、
より御書が理解できる。ということで、これはこれで良いと思います。

 そして、仏教語などを正しく理解するために、多くの本を薦められました。
 いくつかあげると
 本化聖典大辞林・望月仏教大辞典・宇井仏教辞典(漢字が正確でないかもし
れません)それにできれば天台宗教聖典二巻も。
 あとは、法華経は良く読みなさい..と。
 それと、いろいろな宗派のことを学んで見ると良いと。日蓮宗系だけに限らず
たとえば、真言宗とかの他の宗派も学んでみると良いと。

 いろいろいわれても、なかなか理解できないのですが。

420犀角独歩:2005/12/02(金) 21:56:03

とんびさん

> 松本さん本人に確認…出家されて現在西山本門寺の住職

もし、これが本人が言ったとしたら大問題でしょう。
いまの西山の住職は大村師です。北山は本間師です。

> 南無妙法蓮華経は法華経を読まなければわからない
> 法華経は御書を読まなければわからない
> 御書は、天台・ことに妙楽の釈を理解しないとわからない

これは別段、法華宗ということではそうでしょう。
しかし、まだ先があります。

いずれにしても、人の言葉解釈によっていこうという、そのやり方ではだめですよ。

421とんび:2005/12/02(金) 22:28:24
こんばんは。

 訂正。

 本人が言っていたわけではないのですが、住職という言葉が悪かったので
しょうか。出家して今西山本門寺にいる..ということでしょうか。
修行者または、小僧・ただのお坊さん・僧侶なのでしょうか。
詳しいことは聞きませんでした。

 私は、住職=僧侶=お坊さん、と思っていました。
 広辞苑で調べましたら、住職とは寺の主長である僧。と書いてありました。
 その寺で一番偉い僧侶・代表者ということでしょうか。

 私は、そうは思っていないし、そのような立場の人が安易に電話にでられる
とは思っていません。
 西山に、何人の僧侶がいるのかわかりませんが、中間ぐらいの立場の僧侶
なのでしょうか。あまり立ち入ったことを本人に尋ねるのも失礼かと思います
ので、紹介者の人に聞いてみたいと思います。

 でも、正宗の教義とは違う法門を学んでみるのも良いと思っています。
 西山本門寺が、何々流・何派ということもわかっていません。

422犀角独歩:2005/12/02(金) 22:42:24

住職というのは、寺院の代表役員です。

西山本門寺は、七百遠忌のころ、大石寺に一時、合同しており、主に近隣の石山本山の一つ妙蓮寺が面倒を見ていました。

しかし、この石山合同は実にひどい話で、書くのも不愉快。これに怒った塔中坊は本堂に従わず、檀家も全員塔中坊につき、孤立。その後、石山から離れて、いまは単立でしたか。

そんな経緯ですから、石山(本山ではありません。既に分離しているわけですから)とは、違う立場です。詳しい教義は知る由もありません。以上のような経緯ですから。

別に何を学んでもよいのですが、わたしに言わせると、とんびさんは、人が好すぎます。

423とんび:2005/12/03(土) 18:26:40
どうもありがとうございます。

まだ、御書システムの使い方は、良くわかりませんが、便利なものですね。

424とんび:2005/12/03(土) 19:06:47
犀角独歩さん、こんばんは。

竜女が変成男子で成仏の記別をうけた..ということは、女人のままでは成仏で
きない..ということに繋がりかねず、経文をよく読んでみたいと思います。
日蓮さんは、権経・諸宗は、女人を捨てたり(趣意)、法華経だけが女人を救っている(趣意)
という、遺文を遺されていたと思います。

 私は、今まで疑問に思っていたことを、そのまま置いていた事がいくつかあります。
 そもそも成仏とは、なんぞや..と。即身成仏という言葉もあれば、法華経の記別を受ける
所の、あなたは何々如来として生まれるだとか。
 また、日蓮さんは、百六箇条かおんぎ口伝あたりに、題目を唱えるものは、南無妙法蓮華経如来
だとか、言っていたような。(御書を見て引用できずすみません)

 経典を信ずれば、印度応誕の釈尊はも久遠の昔に既に仏であったと。しかし、その後釈尊は、雪山
童子とか、有徳王とか、歓喜増○如来だとか、いろいろと生まれているのだと思います。
 すなわち、仏になったといっても、凡夫だったり、時には聖人だったり..と。
 これは、観音菩薩などの三十三身変化?みたいなものです。

 経典によれば、天上界があるという。
 人生、楽や楽しむこと・平安が、人生の目的であったなら、凡夫の時に修行をして
天界に生まれ、楽をして、又、人間界に生まれ、そしてまた天上界に生まれ永い間楽しむ
ことが、できれば、それが一番いいと..。

 天上界から堕獄ということもあろうかと思いますが、日蓮さんの違文を借りれば、
人間として生まれるのは、非常にまれな事だと、書いてあったと思います。
 また、成仏するのは、爪の上の土ぐらいに難しい..だったでしょうか。

 顕正会では、広宣流布が当然のことでありましたから、日本の国で広布が達成され
たら、今度は韓国とか中国に生まれて、今度はその国でも広宣流布のご奉公をするのだ
..と会長は、言っていました。その次は、印度でしょうか。その後は、想像ですが、
アメリカ・アフリカ・・・・と。
 しかし、時が経つと会長の話が変わってきました、日本の広布が達成されたら、世界
の広宣流布はあっという間だと...。

 すなわち、生まれ変わって、韓国などで、ご奉公することはできないというのでした。
 いつの間にか、講義かかわりました。
 でも、一度御本尊に縁をすると、来世にも、また、御本尊のあるところに生まれ、そこ
で仏道修行ができるのだと。それが永遠に..ということですね。
 結局、下種を受けて成仏しても、また人間として生まれ変わってしまう。それも凡夫と
してでしょう。

 仮に、印度応誕の釈尊が、迹仏・仏だったとしても、楽しい・楽な人生ではなかったはず
です。後に、仏として崇められますが、当時のシッダルタは、弟子がいても、そんなに大衆に
崇められる、存在ではなかったと思います。
 それに、国を捨てて出家して、おそらく妻や子供を捨てて。そして故郷は滅亡してしまうの
ではなかったでしょうか。
 悟りを得ていても、それは、苦しみも含んでいてのことだと思います。

 あまり歴史認識は、詳しくないので、このあたりで辞めておきます。
 日蓮さんにおいても、大変な人生だったと思います。

425犀角独歩:2005/12/03(土) 19:21:15

とんびさん

一所懸命にご自分なりに考えてみることは大切なことです。
自分が懐く疑問に禁忌はありません。

わたしもかつて歩んだ道ですから、少し議論にはお付き合いします。
これからも、お気軽にお声を掛けてください。

> 女人のままでは成仏できない

そのとおりです。重要な視点です。

> 成仏とは、なんぞや

そうです。これまた、重要な点です。

> 日蓮さんは、百六箇条かおんぎ口伝

先は要法寺、あとは日流門流で生じたものではないかと考えられています。
共に日蓮のものではありません。

> 南無妙法蓮華経如来

うーん、この起源をわたしはまだ探れていないのです。
日寛でしょうか。

> 経典を信ずれば、印度応誕の釈尊はも久遠の昔に既に仏…その後釈尊は、雪山童子とか、有徳王とか、歓喜増○如来だとか、いろいろと生まれている…仏…凡夫…時には聖人…観音菩薩などの三十三身変化?みたいなもの

過去世の物語と、寿量品にいう「或説己身…」ということです。もしくは方便説と考えるのが教学的態度でしょう。

> 経典によれば、天上界

これはバラモン教以来のもので、仏教以前から考えと、異域の神を摂取した習合に基づく天上界思想の系譜です。

> 人間として生まれるのは、非常にまれ…成仏するのは、爪の上の土

そうですね。そういう記述になっています。

> 下種を受けて成仏しても、また人間として生まれ変わってしまう。それも凡夫としてでしょう。

そう。重大な視点です。

> 釈尊…国を捨てて出家…妻や子供を捨てて…故郷は滅亡…悟りを得ていても、それは、苦しみも含んでいてのこと

苦しみを含んでいたかどうか。さて、どうでしょうか。

> 日蓮さんにおいても、大変な人生

そうですね。

426とんび:2005/12/03(土) 22:42:32
こんばんは。

南無妙法蓮華経如来については、百六箇抄、御義口伝をざっと目を通しましたが、
見つかりませんでした。南無妙法蓮華経如来寿量品という言葉はありましたが。
でも、たしかにお題目を唱えるものは(南無妙法蓮華経と唱えるものは)南無妙法
蓮華経如来となる..という意義の言葉を読んだ記憶があります。

 話はかわりますが、十界論です。一念三千に通じますが、倶舎論に十界が論じ
られているということですが(眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触)
 天台のそれは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏
の十界に、それぞれ十界を具し、それに十如是と三世間で、一念三千だったでしょ
うか。

 顕正会の本では、十界については、経文に詳しく説かれている..と書いてあり
ました。ただどうしてもわからないことは、この世界に於いてどう十界論を展開する
のか..ということです。
 己心の心法においての十界の区別は、よくわかります。ただこの世界に於いては

仏  ・・・?
菩薩 ・・・?
縁覚 ・・・?
声聞 ・・・?
天上 ・・・眼に見えない存在・霊魂・魂・霊・など
人間 ・・・すなわち、私たち人間です。
修羅 ・・・?
畜生 ・・・動物など
餓鬼 ・・・ウィルスなど
地獄 ・・・?

と、なってしまいます。釈尊や日蓮さんが。仏だといっても、あくまで人間界です。

ここのところが、よくわかりません。

十界について詳しい方がいましたら、ご教示下さい。

427とんび:2005/12/03(土) 22:58:54
自己レスです。

南無妙法蓮華経如来、云々については、昔、創価学会版・聖教新聞社発行の
六巻抄講義を買って、読んだことがあるので、日寛さんの言葉かもしれません。

 今は、六巻抄講義の本は、持っていないので、確かめるすべがありません。

428烏賊太郎:2005/12/03(土) 23:41:58
>426
観心本尊抄に「ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平に、ある時は貪
現じ、ある時は痴現じ、ある時は諂曲なり。
瞋は地獄、貪は餓鬼、痴は畜生、諂曲は修羅、喜は天、平は人なり。
他面の色法においては、六道共にこれあり。四聖は冥伏して現れざれども、
委細にこれを尋ぬればこれあるべし。」
とありますから、己心、凡夫の心の状態を説かれてますよね。
その輪廻転生に登場するような十界は、日蓮聖人は説かれてないと思います。
真言とか華厳の考えではないのかな?と思います。

429とんび:2005/12/04(日) 06:33:12
十界について。

地球を一つの衆生としてとらえると、六道では。

非想非非想処・・・・・大気の最上層

天界・・・・・・・・・大気・雲・成層圏など
人間界・・・・・・・・人間もしくは、植物などか
修羅界・・・・・・・・なんでしょう。
畜生界・・・・・・・・動物などか
餓鬼界・・・・・・・・ウィルスなどか
地獄界・・・・・・・・マントル

無間地獄・・・・・・・地球の中心核・最も高熱で圧力最大

それに四聖を加えるとよくわからなくなりますが、
仏界・・・・・・土や海やそういう存在か
菩薩界・・・・・食料として食べられる存在、魚や植物も?
縁覚界・・・・・植物か
声聞界・・・・・植物などの存在か..

 と、よくわかりません。

430犀角独歩:2005/12/04(日) 09:19:50

とんびさん

あなたは十界三千観(≒一念三千)というものを根本的に誤解しています。
日蓮が言う十界というのは天台が法華経を依拠として説いた『摩訶止観』の諸説に従っています。では、この止観とは何かと言えば、これは止観、すなわち参禅のための指南書です。達磨禅の無念無想と違い、止観禅は観念観法です。ではここでいう観法の法とは何かと言えば十法界のことです。十法界とはなにかといえば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・独覚・菩薩・仏をいうわけです。参その法(十界)を次々と自分の念の中に観じていく参禅法です。そして、ついに仏を観念できれば、我が己心に仏ありがわかるわけですから、成仏の可能性も確信できるわけです。

つまり、十界とは世間一般の実在を言ったものではなく、坐禅の最中の自分の心を観察するイメージを言ったものです。故にこの十界を説明する『摩訶止観』を称して、「説己心中所行法門」(己の心の中に行じる所の法門)というのです。

431とんび:2005/12/04(日) 17:47:48
レスありがとうございます。

そもそも基本的なことが、わかっていないのですね。
顕正会の折伏理論書(平成3年8月発行)には、こう書かれています。

第三章 十界論
十界とは、この宇宙に存在するすべての有情を、その境界にしたがって十種
に分類したものである。(略)餓鬼は正法念経に三十六種が空かされ、畜生は
魚・鳥・獣などの動物、そして人間界は我々人類、天上界は大梵天王・帝釈天
王等である。経文にはくわしく十界のそれぞれが明かされているが、これら大
宇宙における十界はここには省略する。
十界論で大切なことは、我々人間界にまた十界が具わり、御本尊を信仰すること
により、所具の仏界が湧現するということである。

 ここがスタートでしたので、一念三千を誤解したのでしょうか。
 十界互具とは・・・己心が縁にふれて、様々な感情がでてきます。その心の感情
・状態を主に十界にわけ、それぞれの境界にあっても、また縁にふれて他の境界に
かわり、変化していくさまを、十界が十界を具足している..ということで、十界
互具というのでしょうか。

 十界三千観という言葉は、初めて聞きました。
 体験談をいうと、昔、寝ているときだったか何かで、心・意識が、下方にスーと
吸い込まれ・まさに墜ちる..という感覚で、凄い恐怖・戦慄感を感じたことがあり
ました。

 また、日蓮さんの御書に、日蓮を恋しく想えば日(太陽)を拝みなさい(趣意)と書
いてあったので、日蓮さんは、太陽という衆生の化身なのではないかと想ったことが
あります。

432犀角独歩:2005/12/05(月) 02:00:28

とんびさん

ずいぶんと滑稽な解説から入ってしまったんですね。お気の毒です。

> 十界互具

いや、これは書いて字の如くで、十法界のそれぞれがまた、他の十法界を互いに具しているという意味です。地獄といえども、そこにはまた十界を具し、他の九界も同様である故にそれを観念すれば、それは百界であるということです。そして、その百界それぞれに十如、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟を観念観法するということです。
ちなみ、十如とは、その中心は体(本体)です。その外から見える様が相、内的性質が性、その体の力、作用、因縁・果報、そして九如を束ねて百界それぞれ観念観法すれば千如となります。さらにそこに五陰(色受想行識)とは体の宿るまあ今風に言えば身、そこに受け入れ、思い、行(心の働き)識するという千如それぞれ観念観法すること。この五陰を束ねて為せば衆生とみるわけです。ここで、重要な点は国土世間というのは、実際の国土を言うわけではありません。宇宙でもありません。そのそれぞれの境界から感じる外界の見え方を言うのです。地獄の衆生は何を見ても地獄の世界、仏は何を見ても仏の世界、このようにそれぞれの衆生から見れば、世の中は斯くも違って見えることを観念観法すると言うことです。

> 己心が縁にふれて、様々な感情

このような状態を初心は縁に紛動されるといいます。
縁で左右されない金剛不動心を目指すところに止観禅の目的があります。
これは唱題でも同様でしょう。

>> 十界三千観

これは十界百界千如三千不可思議境の観法を略していったことです。

> 日蓮を恋しく…

「某を恋しくおはせん時は日々に日を拝ませ給へ、某は日に一度天の日に影をうつす者にて候」

『新池御書』ですが、真偽未決です。


> 日蓮さんは、太陽という衆生の化身

太陽が衆生ですか。うーん、まあ、大日天子ということになりますが、三光天子信仰というものがバックにありますが、こうは言えないでしょう。

433とんび:2005/12/05(月) 21:25:09
十界互具については、いわばネコや犬にも仏性・十界があるのだ..と思っていたのです。
また折伏理論解説書には、有情と非情とにわかれていますが、根本的には、非情・有情の区別は
ないと、私は思っています。ですから、国土や石ころ、また植物にも、仏性や地獄界かあるもの
と思っているのです。

 日蓮さんも、そんなようなことをいっていたと思います。
 でも通説の、十界互具論とは、どうも違うみたいですね。

434とんび:2005/12/05(月) 22:03:54
法華経について気になったところ。

もうすぐ、本が届く予定です。
授記品で、かしょうやしゅぼだい(変換できず、入力大変です)が、成仏の記別を
受けますが、「最後身に於いて」とでてきます。
 これは、衆生として生まれるのが、最後だよ..という意味なのでしょうか..。
だとしたら、成仏という言葉より、解脱という意味合いの方が濃くなってしまいます。

 解脱という思想をもってくると、アートマンとかブラフマンとかいう外道系の思想や
原始仏教?の色合いを感じてしまいます。

 たとえば、久遠に於いて、日蓮さんが仏、釈尊が弟子。釈尊が成仏の記別を受ける。
「汝、未来世に於いて、むしょこうをすぎて、まさに最後身に於いて作仏すべし、名を
釈迦如来といわん」といわれたとすると。

 印度応誕の釈尊は、その生涯をとじて、解脱した。もうどこにも存在しない。
 輪廻から解脱したのだ...と。

 新興宗教など、たとえば幸福の科学などは、「霊界の釈尊から、霊界通信を受けた(趣意)」
とかいいます。釈尊は完全に解脱した..と信ずる人は否定するわけです。

 大乗仏教や日蓮さんは..この汚れていると思われる凡夫の身が、実は釈尊と同じよう
な仏なのだよ..と。しあわせになるのは、解脱することでも、あの世に行くことでもない、
浄土や他の理想郷に生まれることでもない、今あなたの、物の見方一つ変えるだけで、今いる
ところが、寂光土・仏国なんだよ..ということなんでしょうか、即身成仏ということで。
 思いのままの言葉ですが。

 成仏といっても、正宗系では、何度も人間として生まれるわけですが、成仏=解脱(この場合六道
の苦しみから解脱するということではなく)ならば、衆生として、完全な「無」の状態になること。

 原始仏教については、まったく詳しくないのでわかりません。
 このあたりも、よくわからないままでいます。


 
よくいいますが、

435とんび:2005/12/05(月) 22:36:00
訂正です。

よくいいますが、は消し忘れた文字です。

436烏賊太郎:2005/12/05(月) 22:43:38
授記品の「於最後身。得成為仏(以下省略)」というのは、そういう意味ではなくて
長い修業の結果(得果)仏になりますよ。という意味であって全然違うと
思いますよ。いやはや、全てにおいてものすごい誤解のような気がします。
一度、知識をフォーマットして導入しなおした方が良いと思います。

437烏賊太郎:2005/12/05(月) 23:14:25
とんびさん、ごめんなさい。余計な事を書きました。
今、いろいろご自分で勉強なさっている最中なのですね。
解説なしでお読みになれば勘違いもありますね。また、私が正しいかどうか
も不明ですね。頑張ってください!(^^)v

438犀角独歩:2005/12/06(火) 11:55:13

> 十界互具については、いわばネコや犬にも仏性・十界がある

畜生界所具といことです。

> 有情と非情とにわかれていますが、根本的には、非情・有情の区別はない

この点を日蓮は『本尊抄』に以下のように言います。

「百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亙る」

ここでいう情とは心のことです。

> 最後身…最後…成仏という…より、解脱という意味合い

これはいい視点ですね。阿羅漢というのは梵語では、輪廻の束縛を終え、次に生まれ変わらない、つまり、いまの肉体が最後の肉体である=最後身という意味です。阿羅漢果は、小乗の目的であり、解脱です。
一つ阿羅漢といっても正確には4分類され、その第4段が「阿那含」と音写されるアナーガーミンで訳語的漢語成句では「不還」ということです。
この訳語からすると、ここでいう阿羅漢は、小乗の灰身滅已とは違い、無色界への移行を言う如くです。

> 解脱…アートマンとかブラフマン…原始仏教?の色合いを感じ

ああ、こんなふうに考えられますか。
アートマンとは漢語では「我」、ブラフマンは「梵」です。大乗では常楽‘我’浄をいい、梵とは日蓮漫荼羅に勧請される大梵天玉のことです。バラモン教は、このような形で日蓮に至るまで採用されてきました。

> 久遠に於いて、日蓮さんが仏、釈尊が弟子

これはいったい何の話でしょうか。
日蓮本仏論でしょうか。
日寛の教学では日蓮は釈迦です。
日寛は明確に「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」と記しています。これをまた同体異名の相伝とも言うのでしょう。

> 印度応誕の釈尊は、その生涯をとじて、解脱した。もうどこにも存在しない
これはまったく寿量品の意味を解していないから、こんな考えになるのでしょう。釈尊は入滅していない、常に娑婆霊鷲山にあって説法教化しているというのが法華経です。それが衆生に見えないのは方便として涅槃したように見せかけたからだということです。それを信じるかどうかが法華信仰と言うことでしょう。「お経本」をお持ちなら、自我偈を読んでみれば、そう書いてあります。

439犀角独歩:2005/12/06(火) 11:55:40

―438からつづく―

> 大乗仏教や日蓮さん…汚れていると思われる凡夫の身…釈尊と同じ…仏

身ではなく「心」でしょう。

> 物の見方一つ変えるだけ…寂光土・仏国…即身成仏…思いのままの言葉ですが。

まあ、言い方は雑駁ですが、だいたい、そんな考え方は写本遺文から言えるでしょう。

「浄土と云ひ穢土と云ふも土に二の隔なし。只我等が心の善悪によると
見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此の如し。迷ふ時は衆生と名け、悟る時をば仏と名けたり浄土と云ひ穢土と云ふも土に二の隔なし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此の如し。迷ふ時は衆生と名け、悟る時をば仏と名けたり」(一生成仏鈔)

> 成仏といっても、正宗系では、何度も人間として生まれる

人界所具の仏界ということがあります。
また、

「引導師は智者に非らずんば叶ふべからず、其の故は死人は無心にして草木の如し、而も無心の者に心を入るゝ事は且らく導師の心地に有る」

といい、死者は草木に同じ、そこに仏心を入れるのが成仏であるというのが石山の考えです。では、どうやって入れるのか、

「仏事追善引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず・経を読みて此の経の功用に依り・当亡者の戒名を以つて無始の罪障を滅して・成仏得道疑ひ無し乃至法界平等利益」

創価学会も顕正会も捨てた化儀、日寛も従った法義です。
では、日蓮はどうか。

「穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なるのみ」
「極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」

> 苦しみから解脱するということではなく

いや、そうではありません。有余涅槃とは苦からの解脱です。
苦集滅道をいう四聖諦も還滅門の十二因縁も、その基本は苦からの解脱を言うものです。

440とんび:2005/12/06(火) 18:48:59
犀角独歩さん、こんばんは。

 引導師・・・からの引用は、大石寺法主の言葉でなく、真跡違文からの引用
でしょうか。私は、真跡在・偽書の区別は詳しく存じていません。現在持って
いるのは、大石寺版平成新編御書です。ですから、ここが元になっています。

 似たような、言葉が
 草木成仏口決にあると思います。
「有情非情の成仏の事なり。其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼供養するは
死の成仏にして草木成仏なり」と。
 これはどういうことでしょう。生きていた人が成仏出来ずに、亡くなったが、死後に
お題目・法華経を供養すると、亡くなった人が成仏する。
 そういう事ではなく、ただ単に死後の肉体が・草木と同じ存在が、お題目・法華経の供養
によって、仏性が顕れ成仏すると。

 たとえば、石ころや草木も、法華経を保つ人が、お題目・法華経を草木に供養して
あげないと仏性があっても成仏できない..ということでしょうか。

 余談ですが、有情・非情について、日蓮さんは、草木成仏口決に
 「我等一身の上には有情・非情具足せり。爪と髪とは非情なり、きるにもいたまず。
其の外は有情なれば切るにもいたみ、くるしむなり。一身所具の有情・非情なり」
 とありますが、これに加えれば、歯や排泄物がありましょうか。
 肉体に於いても、ミクロの世界に入れば、痛みを感じる神経細胞のないところを、
ミクロ単位の針でつつけば、痛くないので非情になると思います。

 また、手術で、体内の臓器を取り出せば、その時に有情から非情になってしまうと
いうことで、有情・非情の区別は、細かく論ずるとなくなってしまう..ように思い
ます。

441とんび:2005/12/06(火) 19:46:53
こんばんは。

本尊抄に
「不審して云く、非情に十如是亘らば、草木に心有りて有情の如く成仏を為すべきや 如何。答へて曰く、此の事難信難解なり。天台の難信難解に二有り。一には教門の難信難解、二には観問うて曰く、
百界千如と一念三千と差別 如何。答へて曰く、百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亘る。門の難信難解なり。・・・百界千如・一念三千にして非情の上の色心の二法十如是是れなり」
と、ありますが、まず、百界千如という意味がわかりません。いくつかの仏教辞典を調べましたが、
載っていませんでした。

 上記の違文は、百界千如と一念三千とは、違うが、けれど同じだよ..と言っているので
しょうか。とにかく語句の意味がわからないと理解することができません。

 ブラフマン・・・すべて、全体、外道でいうなら神か
 アートマン・・・個人、我、個性、外道で喩えるなら神の子か

 神の子である衆生から、解脱して、元のところに還る。全体に同一するわけだから
、その人の個性は、完全になくなる。個性は無だけど、有ではある。

 こんなように、インドあたりの外道教は、説いているのでは..と思っています。

 ちなみに、釈尊は完全に解脱した、と信じる人の本を読んだことがありますが、
その人の目的は、完全なる解脱・絶対無で、ブラフマンとか神に帰するのではなく
完全に存在しなくなるというのが解脱で、たかん打座?(とにかく座禅です)を修行
していました。でも別の人が読むと、その人のいう絶対無というのは、非想天みたいな
感じだなあ..といっている人もいました。

 ただ、こういう考えもあるのだな..と思いました。

久遠に於いて、日蓮さんが仏、釈尊が弟子..は、法華経に出てくる、釈尊の
弟子の、成仏の記別に於いて、述べている「内容のことを」、わかりやすく、
釈尊と日蓮さんにあてはめて、例えとして用いました。
 ですから日蓮本仏論にあてはめたわけではありません。

釈尊は入滅していない、常に娑婆霊鷲山にあって説法教化しているという

 そうですね、そう書いてあります。このところを正宗系では、日蓮さんは、
現在、板本尊となっていて、常に「戒壇の大御本尊」は、そこにあって法を
説いている。すなわち信ずる者には福。謗ずる者には罰を説いている..と。
 
 すくなくても、顕正会では、そう説明していました。

442とんび:2005/12/06(火) 20:07:55
烏賊太郎 さん、こんばんは。

私は、特定の宗教を信じていなく、また、個人的にも迷いの中にあると思います。
これという、絶対的な個人の主張はありません。たとえば、生命の永遠についても、

人生一度だけ2:8生命は永遠..という感じて、永遠であると感じるが、もしかし
たら、そうでないのかも..といった思いもあります。

 ですから、何かいわれても、あまり気にはなりません。

 ただ、臨終の時に、正念があって、すがるものというと、お題目・南無妙法蓮華経
しかない..ということです。アーメンとか南無阿弥陀仏とかは、いわないでしょう。

 それと、教学や仏語をあまり理解していない、特定の信仰がないから、トンチンカン
な、または、気狂いみたいなことをいうかもしれません。
 でも、それでいいのかな..と思っています。

 たとえばです、昔、ある本を読みました。今でいうとニューエイジとか外道の部類に
入る本です。
 その中で、宇宙は、実は、太陽系しか存在していないのだ...という説がありました。
詳しく覚えていないのですが、これは、今の天文学でいうと、トンチンカンな
トンデモな説です。

 そして、夜空に、見える数多くの星は、実は過去の地球の姿なのだと..。
 他の星系に、人類の住んでいる星があったとする。
 地球人が、光速船を開発して、その星に行くと、実は、そこは、過去の地球、
または、未来の地球なんだそうです。そんなような説というか話なんですね。

 ですから、そのことを経典にあてはめると..どうだろう..なんて考えるの
です。経典には、阿弥陀浄土をはじめとして、十方世界の国土が説かれていると
思います。そこには、阿弥陀如来、あしゅく仏とかいろいろな仏が説かれています。

 そして、トンデモ本と経典を合わせると、阿弥陀浄土も、実は地球のこと。
 阿弥陀仏も、実は、釈尊のこと(正宗系では日蓮さん)と、なってくるのか
な..と考えたりするのです。

 でもこういうトンチンカンな発想も、何かを示唆するようなことが、ありは
しないか..と思ったりします。

 これからも、よろしくお願いします。

443とんび:2005/12/06(火) 23:59:09
訂正します。

本尊抄に引用した、遺文の順番が、間違っています。すぐに訂正
できないので、後ほど訂正したいと思います。すみませんでした。

444犀角独歩:2005/12/07(水) 00:44:00

とんびさん

> …大石寺版平成新編御書

であれば、冒頭の目次に、真蹟のあるものは所在が書かれています。ないものは写本のみと言うことでしょう。また、写本者が載っているものはまだいいですが、まるで載っていないものもあるでしょう。捲りながら対照できます。そうやって、皆こつこつ勉強してきたのです。

> 草木成仏口決

偽書濃厚ですね。

> …生きていた人が成仏出来ずに、亡くなったが、死後にお題目・法華経を供養すると、亡くなった人が成仏する。

いえ、そうではなく、亡くなった人に坊さんが戒名をつけて供養すると成仏するという説です。

先の文が日繼(妙本寺)の『当家引導雑々記』、あとは日有の『化儀抄』です。

> 百界千如という意味がわかりません

十界×十界=百界
百界×十如=千如

> 上記の違文

千如までは情・非情にわたるが一念三千は

千如×三世間(五陰・衆生・国土)=三千

で、衆生と国土の関係なので非情にはわたらないということです。

> ブラフマン・・・すべて、全体、外道でいうなら神か

梵天です。天と神は同じ梵語の訳語で同じ意味です
外道ばかりではなく、内道でも神です。
漫荼羅に書かれてあるでしょう。

> アートマン・・・個人、我、個性、外道で喩えるなら神の子か

違います。バラモン階級の僧です。天上のバラモン(梵)、地上のバラモン(我)は共に親子の関係ではなく、地上のバラモンは天のバラモンになることを目指しているということです。

> その人の個性は、完全になくなる。個性は無だけど、有ではある。

これも違います。バラモン教は、いわば有論です。有我ということです。これに対して、仏教が無我を主張したわけです。

> たかん打座?

只管打坐です。

主に曹洞宗です。止観禅とは違います。

> 釈尊と日蓮さんにあてはめて、例えとして用いました。
> ですから日蓮本仏論にあてはめたわけではありません。

しかし、結果的に間違った本仏論になっています。

> 現在、板本尊となっていて、常に「戒壇の大御本尊」は、そこにあって法を説いている。すなわち信ずる者には福。謗ずる者には罰を説いている..と。
板漫荼羅は法は説きません。人即法の本尊(日寛)といい生身の日蓮であるということです。
なお、板漫荼羅には「信ずる者には福。謗ずる者には罰」という讃文はないでしょう。

445顕正居士:2005/12/07(水) 05:22:22
>>434 >>438 大乗仏教における涅槃

初期の仏教にも、如来は死後に存在するともしないともいえないという話があります。
ですから涅槃は普通の意味の無とはちがうと考えていたようです。しかし菩薩として
また生まれて来るということはありません。だから観世音などの大悲の菩薩はあえて
仏果を取らない、一抹の煩悩を残しておくというのが普通の大乗仏教の思想です。

対して法華経は霊鷲山そのほかの住所で釈尊は今も常に説法しているし、最初の
成道の以後にも、常に菩薩として生まれて来たと説きます。それが法華経の独自の
思想であって、いわゆる本門の教義です。釈尊蓮祖一体の説は法華経の中心教義
に由来しています。釈尊はすでに涅槃に入っており、末法に上行菩薩を派遣したと
いうのはこの法華経の中心思想に合いません。蓮祖の本地は上行菩薩と限らない、
不可思議であるなどの表現は他の師にもありますが、日寛師の一体の説はたいへん
明晰です。

上行菩薩はあえて仏果を取らない、一抹の煩悩を残した大悲の菩薩です。仏とほぼ
変わらない等覚の菩薩ですが、蓮祖は名字初心の菩薩です。したがって本地上行
の説だと、蓮祖はあくまで上行菩薩の和光同塵した垂迹の姿です。つまり、これは
普通の大乗仏教の解釈です。法華経の中心教義である永遠の菩薩道に合致するの
は釈尊蓮祖一体の説です。寛師説の一体は蓮祖そのままに釈尊という意味です。
ただし蓮祖は名字初心の菩薩ですから、一番成道の本果の釈尊ではなく、久遠本因、
菩提心を起こされた時の釈尊と一体の意味です。

446犀角独歩:2005/12/07(水) 08:53:23

顕正居士さん

お久しぶりです。

「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり」とは『法華本門宗血脈相承事』の一節です。

わたしは、この相伝を「本地自受用報身如来の最誕日蓮」と共にする石山義において、『秘密荘厳論』の「一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏」は、ここでは如来と言われながら、名字即、凡夫に配し、‘如来’とする点で齟齬を来していないのかと訝しく思っていたのです。しかし、それは『寿量品』に「我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」という成仏を言いながら、菩薩道の寿命は今なお尽きず、先までの倍するという、顕正居士さんのお言葉を籍りれば、「永遠の菩薩道」をここに明示するわけです。
久遠の釈迦如来(久遠ではシャカ族の王子ではないので、この言い方はおかしいのですが、取り敢えず、いまは仮にそう呼称します)はまた、菩薩道をするという仏の菩薩道という形で宣言するのが法華経でした。

先に挙げた『寛師雑々』の「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」とするとき、これを同体異名の相伝という時、日蓮を上行と配立すると、釈尊・日蓮と、上行・日蓮という二解釈が並び立つことになります。ここを埋めるのが釈尊上行一体の異名ということで、すなわち、法華経における釈尊と上行は一体と見るという教学的な姿勢でした。つまり、父子一体の相伝でした。(父=釈迦如来・子=上行)

また、このような展開では、顕正居士さんが「一抹の煩悩を残した大悲の菩薩」という特色分析は、たとえば日有が『化儀抄』に「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」といい、「未断惑の導師を本尊とする」という点と一致します。日有が両巻相承を知っていたかどうか、しかし、久遠名字を末法に移すという教学的な姿勢は、凡夫本仏論ならぬ、凡夫本尊論という形に至る別の経路を辿って、ほぼ同様の結論に達している点に興味が惹かれます。
このような論理構造の整合性はたしかによくできていると思います。

447顕正居士:2005/12/07(水) 10:51:33
犀角独歩さん。ひさしぶりです。

寛師説が優れているのは本地上行説は外用浅近と断定したことです。それまでは上行本仏
のような考えがあった(菩薩本・仏迹)。しかし上行は等覚の菩薩。蓮祖は名字初心の菩薩。
そういう偉い菩薩の垂迹とかではなくて、久遠本因の釈尊そのままの再誕なんだというのは
素晴らしい宗教的解釈です(寛師の独創ではなく、要法寺の両巻血脈に根拠があります)。

天台学の通途は初住を仏としますが、日蓮聖人自身もその説を取らず、六即皆仏の説のほう
を取ります。但し日本天台で主流であった理即仏ではなく、名字即仏のほうをいいます。初住
ではなく、名字初心、つまり発菩提心の位を本因成仏とするのは、初住成仏は不退転の意味
ですから、本因成仏は途中退転することはあると考えれば不整合ではありません。おっしゃる
ように、本因妙の思想は日有などに顕著です。日寛の学説は前代の諸説を折衷し、四明天台
とも整合させることに成功しているかわりに本因妙の思想の発揮がありません。六大体大説
をいい、東寺密教と同じ理即成仏を取る辺があります。師の板曼荼羅重視は寺運興隆の方便
であっても、思想上、許容されたのかも知れません。時に祖書に文脈を無視した訓点を施すの
も師の特色です。この辺が日寛以後の大石寺教学に影響を残していても、その反動から稀有
の宗学者である日寛の優れた諸説までを低く評価するべきではないでしょう。なお六大体大、
理即成仏の説は祖書(総勘文抄)にあります。偽書ではないかも知れませんが、述作の年代
や目的*に疑問が生じます。*単に六大体大、理即成仏の説のサマリーであるかも知れない。

448とんび:2005/12/07(水) 22:41:15
犀角独歩さん、こんばんは。

なるべく、語句については、正確さを求めていきたいと思います。
ここは、わりと格式が高く、法門とか、そういう学を求める..場であるように
思うので、間違った記述・誤解を得るような言葉は避けた方がいいですね。
 ですから、間違いを指摘されることは、有り難いことです。
 その反面、知識を持たない人は、発言がしずらい面もあるかな..とも感じます。

 日蓮さんの、御書を拝するに、真跡在に求めるのは、それが一番間違うことの
ことだと思います。
 すでに、日興遺誡置文(真跡なし)が記しているように、日興さんの存命中に
偽書がつくられている..と書いてあります。

 ただ、真跡がないと、その後の大石寺法主が、自宗の都合の良いように、日興
さんの言葉をかりて偽書を作成したといわれる可能性もありますね。

 でも真跡のない・古写本もない御書で、慣れ親しんだ御書や重要と思われる御書
が、かなりあると思います。諸法実相抄や当体義抄、総勘文抄、教機時国抄、法華
初心成仏抄などなど。
 
 先の草木成仏口決は、後の僧侶が、みずからの立場を良くするために、偽書を作成
したのでしょうか。いわば金や身分を大切にするあまり。

 後ほど、時間ができたらあらためて発言したいと思います。

449とんび:2005/12/07(水) 23:02:02
訂正。

真跡在に求めるのは、それが一番間違うことの
ことだと思います。

ではなく、間違うことがないことだと思います、でした。

450犀角独歩:2005/12/08(木) 11:46:01

顕正居士さん

いつもながら、実に示唆に富み、且つ重厚なご教示まことに有り難うございます。
今回、ご教示をいただいた点も実に参考になりました。今後の研鑽の糧とさせていただきます。また、わたし自身、日寛の奔放(放逸とも思っていたのですが)な訓点、祖書の言い直しなど、眉を顰めていたところはありました。しかし、今回の日寛に関するご所論を拝読し、このご教示を、大切に記憶に留めさせていただきます。

深く御礼申し上げます。

451犀角独歩:2005/12/08(木) 11:48:05

とんびさん

> 知識を持たない人は、発言がしずらい

そのようにとらえるのではなく、知識がなければ素直に尋ねればよいのです。また、尋ね答をもらったら、ちゃんと礼を述べて、さらに前に進めばいいのです。

452犀角独歩:2005/12/08(木) 19:26:30

顕正居士さん

・日寛の、四明天台と整合性というのは、たとえば、草木成仏からの板漫荼羅正当論としての展開も含めてということでしょうか。

・六大体大は空海の説であったと記憶しますが、『三世諸仏総勘文教相廃立』の記述は、これはたとえば「我身は地水火風空なりと知て即座に悟を門き給ひき」と言った側面を要約するのみで、本意は名字即仏を採るということで、理即成仏は要約に過ぎないと言う意味でしょうか。

・わたしは日寛説は等覚一転名字妙覚を至極とし、その点から名字即位をいうのではないのかと思うのですが、この理解は正しいでしょうか。

・また、一転し、名字即・妙覚位となれば、理即但妄という当初はまったく問題にされず、偏に「心外無別法と云う。此を一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、生と死と二の理は生死の夢の理なり、妄想なり転倒なり。本覚の寤を以て我心性を糾せば、生ず可き始めも無きが故に死すべき終りも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや」という文脈につき、「本覚の寤を以て我心性を糾」すとき、理即に既に通達解了を孕む如きと映じます。となれば、いきおい、理即仏をいうこととその隔壁がなくなってしまうような錯覚が生じます。しかし、これは理即から等覚への階梯を経たのちに、一転して、名字即・妙覚位となる仏が名字仏という理解でよろしいのでしょうか。

わたしは、今回のご教示で着目したのは

> 上行は等覚の菩薩。蓮祖は名字初心の菩薩

という点でした。父子一体の相伝からすれば、この等覚・上行は、一転して名字・日蓮、妙覚の釈尊という点で整合性が生じるからです。ただ、この点について、気分は落着しません。

お時間のあるときけっこうですから、以上の点、重ねてご教示いただければ幸甚です。

453顕正居士:2005/12/09(金) 12:12:10
>>452

趙宋天台(四明天台)の学が普及するのは江戸時代に入ってからです。したがってそれまでは一念三千に
ついて総在一念の思想が主流であった。四明天台の教義、理具事造両重能所というのはつまり一念三千
と同等に一色三千も成りたつという意味です。六巻抄のどこかに両重能所を述べているところがあるはず
です。色心等分の思想は唯心論からの脱却として評価できます。これと別に東寺密教の六大体大というの
も心本色末とは異なる思想です。密教は仏教に当時のインドの科学や技術を折衷して出来た体系という面
があります。総在一念思想の流行の裏側に一種の唯物論も発達し、檀那流の玄旨帰命の相承にも色濃く
あらわれています。ただしこれらの唯物論はまったく素朴な段階のもので、科学を発達させるようなアイデア
を有せず、かえって迷信を助長したに過ぎないでしょう。しかし思想的には唯心論を脱却し、儒学や蘭学に
学問の主流は移ります。

等覚一転名字妙覚という日本天台の口伝は、法華本門の十界常住の教義なしでは等覚にしか至らない、
本門を聞いて本種を自覚し、つまりいったん名字即位に戻り、そこから妙覚に至るという意味です。
大乗仏教の修道の体系は永久に輪廻転生し、すこしずつ経験値を積み、終に52レベルの菩薩=仏に至る
というものです。輪廻転生を信じない中国人や日本人はこの大乗仏教を何とか頓悟の仏教に改造しようと
した。ただし天台大師すら五品弟子位に止まり、六根清浄位には上がれなかった(遺言にそうあります)。
六根清浄位はあらゆる超能力が身に付く位です。そういう位は経典上の架空の事柄であろうということも
次第に見破り、名字即成の思想が完成したのであろうと考えます。

454犀角独歩:2005/12/09(金) 20:56:28

顕正居士さん

重ねてご教示、まことに有り難うございました。
文は少なく、しかして重厚なご教示でありますので、軽々に言を吐いては折角のご教示を黷しかねませんので、ゆっくりと熟考させていただく所存です。
殊に四明天台、玄旨帰命について、考えてみます。

等覚一転名字妙覚について、日寛は「当流の口伝(本因妙抄)に云わく、等覚一転名字妙覚云云」と言いますが、どうもこの根拠を見ないと考えておりました。
また、明治の本門講答弁では「諸氏不軽を菩薩地即妙覚…不軽は是観行初品の位…何ぞ即妙覚ならんや、不軽修行の上・転じて妙覚の釈尊と顕るゝなり、等覚一転名字妙覚」などと記します。前者、本因妙抄とする点は、首を傾げざるを得ませんが、ご教示をいただき、その原形が、さらに口伝され、種々拡大解釈がされてきたのだろうと思えました。

また、天台遺言については、天台を小釈迦、像法の迹仏と見なす教学態度に泥みやすい富士門にあって、目が覚めるようなご指摘であると存じます。やや、検索した見たところ、
「41段までいった人は古往今来、龍樹と無著の二人だけである。中国の南嶽慧思禅師が10段目、天台大師は臨終に弟子の智朗が「師はいずれの位に居るや」と尋ねたのに対して「我れ衆を領せずば必ず六根清浄の位に至らん。されど、利他の為に己を損して只、五品弟子位あるのみ」といって、9段目までしかさとれなかったと自ら告白して死んでいるのであるから、いかに仏のさとりが高遠であるか分かる」
http://www.shinran.ne.jp/nihongo/page1.html
(ただし、このHPについて、よく読んだわけではありません)

以上のような記述は、天台を見る視点として重要であると思った次第です。

> 六根清浄位…架空の事柄…見破り、名字即成の思想が完成

このご卓見には唸りました。

456犀角独歩:2005/12/11(日) 11:55:06
聖誕750年記念特輯・第125/126に日比宣正師『趙宋天台における両重能所観の形成』(P313/1971.7.25)が掲載されています。

http://www.inbuds.net/jpn/media/0-00069/0-00069-000125.html

知礼の理解のためには、華厳の知識も必要で、島地大等師の研究も参考になると思います。このような点から考証される顕正居士さんには敬意を表するほかありません。


本尊抄に載る程度が摩訶止観の規模と思っていらっしゃる方には、やや難読かも知れません。もっともこれはわたしのかつての感想です。

また、天台の止観についても、妙楽の時代に既に異本3本があったといわれ、さらに伝教の師でもある道邃は、妙楽についての批正独自の説を持つといい、これらの考証は、わたし自身はまだ畢っていません。また、このような点では、もはや、文献資料のみでは手に負えず、止観禅 ―― それは唱題でも可かも知れませんが ―― による鍛錬と天台口伝法門に関する潤沢な知識を要しようかと思えます。

ただ、口伝法門の世界は、まさに幽古深遠にして、自身の達観した禅体験との摺り合わせなくしては一歩も進むことはできません。

試みにガイダンスを得たいと思われれば、『大崎学報』第22号掲載の岡教邃師『日本天台口伝法門の由来及其発達』は参考にはなります。

http://www.inbuds.net/jpn/media/0-00069/0-00069-000022.html

457とんび:2005/12/14(水) 23:17:17
私が、西山本門寺の住職さんと誤記したことに始まりますが(西山本門寺の坊さんと紹介されたことによる)、
松本酸化に、案内状が届き、
宗教法人「冨士山蓮華寺」住所は、滋賀県でした。
そして、冨士山蓮華寺東京別院・冨士山西山本門寺東京布教所..とありました。

 詳しいことは、わかりませんが、北山本門寺も西山本門寺も、大石寺の近くの
静岡県にあるものと思います。
 西山本門寺は、宗教法人の資格を取り、本籍が静岡県なのでしょうか。

458犀角独歩:2005/12/14(水) 23:28:17

とんびさん

西山本門寺というのは、北山本門寺(当時はそうは言いませんでしたが)から退出した北山本門寺2代住職・日代が開創する寺院です。

そんな事情で、石山とも、北山とも不和でした。
二箇相承(日蓮一期弘法書ともう一つ)は、本来、北山にあったとされますが、西山の僧侶が、武田の勢にけしかけて、北山に乱入し、宝物を奪い取ります。そして、北山から二箇相承はなくなります。この返却のために、北山住職は嘆願断食をして、ついに死んでしまいます。
七百遠忌のころ、西山本門寺は実にみっともない理由で石山に帰伏します。そして、その後、単立となります。

あなたは詳しいことはわからないと記していますが、たぶん、ここの掲示板の常連で、詳しいことがわからないような者知らずはいません。

その意味で、あなたは、ものすごく、的外れなことを記していることを、ご本人のみ気付いていません。皆さん、いささか呆れてご覧になっているのでしょう。

憎まれ役は、わたしが買って出るしかありません。そんなわけでの、以上、記述です。

459犀角独歩:2005/12/14(水) 23:31:12

蓮華寺のことまで、わたしは記す気分になりませんので、やめておきます。

460彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/15(木) 12:46:59

>457
ま、知らないとおっしゃるのですからしかたないですね。
でもこの掲示板で
>詳しいことは、わかりませんが、北山本門寺も西山本門寺も、大石寺の近くの
静岡県にあるものと思います

とおっしゃる方がいらっしゃるのは新鮮な驚きでした。

<西山本門寺>
http://www.wbs.ne.jp/bt/shibakawa/map/7.htm

<北山本門寺>
http://park16.wakwak.com/~honmonji/

<富士五山>
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/16/566.html

とんびさん
今は昔と違って、インターネットで探索するだけで、上記のように色々な情報が無料ですぐ手に入るのですよ。ご自分自身でもう少し周辺を勉強されてはいかがですか。

461犀角独歩:2005/12/15(木) 15:04:30

話の流れとはまるで別に、彰往考来さんご紹介の『地涌』の記述を読んで大笑いしました。

「日蓮正宗が他派と訣別し独立したのは明治三十三年だった
大石寺に清流はなく謗法と交わり自らも邪宗と化していた」

これは言葉をかえせば

「創価学会が日蓮正宗と訣別し独立したのは平成3年だった
創価学会に清流はなく謗法と交わり自らも邪宗と化していた」

ということになってしまいます。

最近、石山頒布の印刷本尊は開眼されていたとかいないとか、『地涌』と同じような学会アンダーグランドジャーナリズムが書いていましたが、それなら、創価学会の印刷本尊は、誰が開眼しているのか、池田「先生」かな?、振り上げた刀を下げれば自刃することになります。

松岡さん辺りの非難論調もそうですが、端から見ると、石山を批判する主語を変えればそのまま学会批判になる論調が多いわけです。この手の連中は、いわゆるブラックユーモアの持ち主か、実は石山に名を借りて学会批判をしているのかと思わざるを得ない側面を持っていますね。

『新・人間革命』で訂正しても、『人間革命』の石山肯定は文書として明らかに残っているわけです。戸田さんの講演録でも明確です。となれば、戸田批判にも一脈なっていることになるわけです。まあ、漫画を読んでいるような滑稽さがあるばかりですね。

462彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/15(木) 18:22:16
誤解のないように、念のため申し上げますが、インターネットの検索で得た情報はそれこそ玉石混合です。ひとつづつ取捨選択する努力が必要です。
もちろん書籍情報も同じです。ただインターネットよりは書籍情報のほうが引用文献資料になりやすいですね。裏を返せば、ネット情報はあやふやなのが多いことと、再び接続した際に無くなっていることがあるということです。

463犀角独歩:2005/12/15(木) 18:49:24

461はけっして彰往考来さんを揶揄したものではなく、この手の批判文の構造のこっけいさを記したばかりのものです。

464とんび:2005/12/15(木) 22:18:47
こんばんは。

どうもすみません。
西山本門寺は、宗教法人の資格を取り、本籍が静岡県なのでしょうか。
というのは、どうも何かがおかしい..という意味を込めて
西山本門寺は、宗教法人の資格を取り、本籍が静岡県なのでしょうか??。

という意味の発言でした。
 昨夜、ネットでいろいろ調べましたが、わからず、本日、ご本人より聞きま
した。西山本門寺で出家をされ、現在は滋賀県の蓮華寺の僧侶らしいです。
そこで、蓮華寺の東京別院であり、また西山本門寺の東京布教所も兼ねている
..ということです。(教義はほとんど同じということなのですが..)
 聞いたことを、すべて覚えていないので、この説明でも、若干違っているところ
もあるかもしれません。

 西山本門寺は、単立ということですが、ネットでは12ケ寺あるという記述
もありました。聞いた所によると、その12ケ寺は、全部単立の宗教法人となって
いるようです。

 また、蓮華寺は、蓮華寺事件というものが過去にあって、最高裁まで争ったらし
いです。詳しいいきさつはわかりませんが、蓮華寺は、反創価学会系の寺であった
..ということと、大石寺と法門の違い?(信義上の問題でかな)で、僧侶の解雇に
端を発して、裁判沙汰になったとかいう話です。(このことはネットからの情報による)

 だから蓮華寺さんを好ましく思わない方もいるのだろう..と思います。

 また、なんで犀角独歩さんが、憎まれ役になってしまうのか..がわかりません。
 日興門流の歴史については、聞いたり読んだりした部分もあると思いますが、
覚えているのは、ほんのわずかだと思います。そのことについては、少しずつ情報を
得ていきたいと思います。

 まだ、的はずれな発言に気づいていないのかも、しれませんが...。
 ただひとつ、的はずれだと気づいていないのは、私一人(ご本人のみ)ということで
すが、そのことがわからないのは、他のロムの方もいるのでは..とも思います。
 
 今、法華経を少しずつ読んでいますが、そのことは法華経のスレッドにて、投稿し
たいと思います。

465とんび:2005/12/15(木) 22:53:14
彰往考来さん、こんばんは。

 そうですね、ネットで調べれば、いろいろな情報が手に入ります。
 北山本門寺は、地図で確か大石寺の近くにあったな..たぶん西山本門寺も大石出寺の近く
にあるのではないか..というぐらいの、うすら覚えでの発言です。

 私は、元顕正会員でした。そもそも顕正会員は、教義的なことはあまり教えられません。
私の入信したころは、教学誌も発行されていましたが、いまはありません。
 また正宗の歴史についても、日興・日目・日道上人、日有・日でんさんなどなどは立派な
管首であった。ことに日興・日目・日寛上人を聖人化していました。
 また、日精上人は、異流儀だった(要法寺から何代も大石寺に管首がきた)
 日でんさんの直訴。日恭上人のホウボウによる懺悔の姿。日達・日顕上人の御遺命違背..

 主に、それぐらいの歴史しか教えてくれませんでした。
 また、過去に、仏教系のフォーラムで、北山本門寺の成り立ちあたりのことは、
何度が読んだように記憶していますが、ほとんど覚えていません。また西山本門寺のことは、あまり
聞いたことがありません。

 聞いたり、読んだりしても、自分の関心のあることなら、ある程度記憶に留まりますが、そうでな
いと、忘れてしまうことがほとんどです。
 
 ここには、多くの才覚のある人や、知識のある人、学識豊かな人がいらっしゃるような
ので、気が引けてしまいますが、できればよろしくお願いします。
 日興門流の歴史についても、主に日興門流の関係のホームページを閲覧すれば、わかる
ものと思います。このことは、できれば今後少しずつ..訪れていきたいと思います。

 余談ですが、浅井会長曰く。
 日蓮さんは、流罪の地の、塚原三まい堂であの「開目抄」を書いた。
 ましてや、文献や資料を持たずに、何々経・何々経に曰くと経文を引用されている。

 これが、事実なら、日蓮さんは、やはりたいした人だと思います。
 私など、遠く及びません。

466独学徒:2005/12/16(金) 01:20:47

とんびさん、はじめまして。
突然の横レスにて失礼します。

貴方の仰るとおり、松本修明師が「僧侶の解雇に端を発して、裁判沙汰になった」蓮華寺の住職ならば、そこには所謂「本門戒壇之大御本尊」の正模写があるはずです。
正式な宗教法人ではないにしても、「日蓮実宗」と名乗っていたはずですが、現在は西山系と通行があるとの事でしょうか。

松本師は俗名が「勝弥」といい、民音職員時代に「本門戒壇之大御本尊」を偽物として裁判を起こしています。
有名な「板曼荼羅事件」です。

その松本師が、「本門戒壇之大御本尊」の正模写を所蔵するといわれる、蓮華寺にいらっしゃるとすると、なにか意味あってのことでしょうか。

467とんび:2005/12/16(金) 21:33:19
独学徒さん、こんばんは。

私が、松本さんに電話しても、主に法門とか教学のことを話されるので、聞いたことを全て
覚えられることができません。
 少なくとも、蓮華寺の住職(代表役員)ではないと思います。滋賀の蓮華寺には、よく行かれ
るらしいですが、あくまでも東京の蓮華寺別院と西山本門寺の東京布教所の僧侶という立場
ではないかと思います。滋賀と東京を行ったり来たりということではないでしょうか..。

 蓮華寺事件は初めて知りましたが、松本さんは、その解雇された住職でも裁判を起こした
人でもないと思います。これも事件の繊細を知らないので確認しなければ、なりませんが。

>蓮華寺・・・そこには所謂「本門戒壇之大御本尊」の正模写があるはずです。

 このことは、初めて聞きました。

>その松本師が、「本門戒壇之大御本尊」の正模写を所蔵するといわれる、蓮華寺にいらっしゃ
るとすると、なにか意味あってのことでしょうか。

 たぶん、意味はないと思います。
 松本さんに聞くと、なんで西山本門寺を選んだのか..と訪ねると、教義的・法門に納得した
からだ...というような返事が返ってきます。
 ただそれだけのことのように思います。ただ、なんで滋賀の蓮華寺さんと縁があったのか..
は知りません。
 もしかしたら、戒壇の御本尊のつながりがあったのかもしれません。

 いまは、そのぐらいのことしか知りません。ただ、今後、松本さんの個人的なことを知り得たと
しても、こういう掲示板でそのことを、どこまで話していいのか..わかりません。

 ただ、現在は、東京の場所で、「興門流(とおっしゃています)」の活動をなさっているようです。
本人に聞いても、西山本門寺系の宗派は、興門流である..勝劣派である、ことしか聞きません。

 日蓮宗とか法華宗とか、何々門流とかの、区別については知りません。
 ただ、日蓮さんは、生まれたときから死ぬときまで、上行菩薩だった..ということを主張して
います。(法門的には)

468通りすがりα:2005/12/16(金) 21:56:56
とんびさんが、ここの投稿者といちばん違っているのは、松本さんという人の意見で動いている点でしょう。
依法不依人だから、松本という人は、ここの参加者はどうでもいいのです。チャンチャン


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