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現代人が納得できる日蓮教学
399
:
犀角独歩
:2005/11/12(土) 19:23:23
398 小池さん
> 経題が象徴になっている
ええ、そのとおりです。
たとえば、「小池さん」という名前はたしかにご本人を指すものでしょうが、ご本人そのものではありません。
妙法は法を示すものでしょうが、法そのものではなく、名前です。
しかし、この名前そのものが法そのものと取って代わるという象徴化が、ここにあります。
> 言語で究極の一法である南無…経は解説不能
わたし個人としては、妙法蓮華経はお経の題名であると考えています。
しかし、日蓮は、この五字の中に法はもちろんのこと、その功徳、因果の一切が納まると考えたのでしょう。その意味において、妙法蓮華経を法そのものと取られ得ていたように窺えます。そして、その法は言語音声(ごんごおんじょう)もしくは題目の文字そのものであるとも考えていたようにも思います。
日蓮はこれを妙法蓮華経の五字で完全に顕現したという立場で、では、そこに籠められた意味はとなれば、宝珠とされる一念三千ということであり、一念三千は久遠釈尊の証明であると共に、自分自身の仏種が、熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がそこにあるのだと思います。その意味において、日蓮にとっては解説不可能というのと少し違うかも知れません。
「声仏事を為す」という教学的な姿勢は、実際に表現も、認知も可能である故に、理ではなく、事であるというわけです。
しかし、わたしは妙法蓮華経は、羅什が、(松山師の説を籍りれば)雑一阿含で既に漢訳成句になっていた「妙法」を転用し、蓮華と併せて経題に充てた造語であるわけで、それが言語の究極か?ということになれば、人為による翻訳と成句が、究極の法を策定できるはずもないという思いがわたしにはあります。
> 梵本法華経をもって釈尊の出世の本懐ととらえることは難しい
もちろん、そのとおりだと思います。
法華最勝という教学的な姿勢は、もちろん、天台に見られるところでしょうが、この時点で、真言の経典も出揃っていたわけでもなく、ある面、天台の生きていた時代は、経典の制作と翻訳が“同時進行”であったわけです。仮に内容から、その粋を競うにしても、出揃っていない時点での話ですから、実際的にその裁定は不可能ということになるでしょうか。
> 呪法的…「御義口傳」の陀羅尼品での説明のような?)な力は南無…経にある…
あると思います。
より厳密に言えば、信じ、行じる側が、南無妙法蓮華経を呪にも、法にもし、効験もあらたかにもなるのでしょう。
ここまでくると、しかし、法華最勝、題目最高というより、「信」という精神作用が及ぼす効果の問題に立ち入ることになりますが、わたしは、この一切を諸宗、諸経、諸教、もしくは諸師を媒体とする各人の潜在能力から考え、それは触媒的な役割で、実現は各人に係ることではないのかのかと考えております。
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