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現代人が納得できる日蓮教学
400
:
小池
:2005/11/12(土) 22:43:31
独歩さん
大変ありがとうございます。
>たとえば、「小池」という名前はたしかに本人を指すものだが、本人そのものではない。
妙法は「法」を示すものだが、「法」そのものではなく、名前である。
しかし、この名前そのものが「法」そのものと取って代わるという象徴化がここにある。
再確認ですが、妙法(経典名である妙法蓮華経)は、「法」そのものではなく、「法」を指し示している名前(経題)にすぎない(少なくとも梵本法華経では)のに、名前(経題)が「法」そのものに取り代っている、だから経題が、経題名だけという意味から「法」に取り代っている時点で一種の象徴化がなされているという意味合いでよろしいでしょうか。
>わたし個人は、妙法蓮華経は経題名であると考えている。
しかし日蓮は五字の中に「法」はもちろんのこと、釈尊の功徳、因果の一切が納まると考えた。その意味において、妙法蓮華経を「法」そのものと取られ得ていたように窺える。その「法」は言語音声もしくは題目の文字そのものであるとも考えていたようにも思う。
おわかりであれば教えて頂きたいのですが、日蓮は、なぜ経題名である「妙法蓮華経」を「法」そのものととらえたのでしょうか。何か経題名を「法」ととらえるだけの根拠なりがあったのでしょうか。
>日蓮はこれを妙法蓮華経の五字で完全に顕現したという立場で、では、そこに籠められた意味はとなれば、宝珠とされる一念三千ということであり、一念三千は久遠釈尊の証明であると共に、自分自身の仏種が、熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がそこにあるのだと思います。その意味において、日蓮にとっては解説不可能というのと少し違うかも知れません。
一念三千論は難しすぎて私にはわからないものですから、もしよろしければ、「これ(法か?)を妙法蓮華経の五字で完全に顕現した…そこに籠められた意味は宝珠とされる一念三千であり…一念三千は久遠釈尊の証明であると共に…自分自身の仏種が熟・脱して成仏の本懐を遂げることの証であるという道筋がある…」について、更に解説頂けますでしょうか。
>「声仏事を為す」という教学的な姿勢は、実際に表現も、認知も可能である故に、理ではなく、事であるというわけです。
これは、唱題成仏ということでしょうか。
>しかし、わたしは妙法蓮華経は、羅什が、(松山師の説を籍りれば)雑一阿含で既に漢訳成句になっていた「妙法」を転用し、蓮華と併せて経題に充てた造語であるわけで、それが言語の究極か?ということになれば、人為による翻訳と成句が、究極の法を策定できるはずもないという思いがわたしにはあります。
梵語のサッダルマ・プンダリーカ・スートラではなく、正法蓮華経でもなく、妙法蓮華経という表現だけが究極の法(言語の究極か?)ということが「(羅什等の)人為による翻訳と成句が究極の法を策定できるはずもない」のではないかということなのですね。
>より厳密に言えば、信じ、行じる側が、南無妙法蓮華経を呪にも、法にもし、効験もあらたかにもなるのでしょう。ここまでくると、しかし、法華最勝、題目最高というより、「信」という精神作用が及ぼす効果の問題に立ち入ることになりますが、わたしは、この一切を諸宗、諸経、諸教、もしくは諸師を媒体とする各人の潜在能力から考え、それは触媒的な役割で、実現は各人に係ることではないのかと考えております。
南無経の力は、「法華最勝、題目最高というより「信」という精神作用が及ぼす効果の問題…になり、…(その)実現は各人に係ることではないのか…」につきまして、非常に重要なことがらを述べられているように思いますので、もう少しご説明頂けないでしょうか。
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