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現代人が納得できる日蓮教学
1
:
管理者
:2005/07/16(土) 10:06:55
新しいスレッドテーマの提案が有りましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。
1721 名前: 顕正居士 投稿日: 2005/07/16(土) 06:59:06
ここは「つぶやきすれっど」なので1700 1705 1706 1709 1718 1720などの内容について意見を交換するスレッド
を作ってはどうでしょうか?「現代人が納得できる日蓮教学」とか。
わが国の仏教の「現代」はいつ始まるのか?飲光慈雲が悉曇学を復興し、富永謙斎が経典成立史を解明した
18世紀だろうとおもいます。この時点では睡眠中の仏徒は未だ覚醒せず明治の廃仏に至った。ようやく各宗は
欧州へ留学生を送って、現代仏教学が誕生した。以後、わが国の仏学の発達はめざましい。だが各宗の先哲、
さまざまに改革の努力をしたけれども、ついに葬式仏教から脱化しなかった。現代仏教学の知見は薄弱にしか
普及せず、伝統宗学の学習すら衰退した。そこで人民の宗教需要はほとんどが新興宗教に吸収されていった。
結局、わが国の仏教は今は整然、3種類に分かれるに至った。学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教である。
伝統宗学も学問仏教に属する。いつの時代でも高等な学問は少数学僧のことで、在家信者の多数は基礎的な
宗学も知らなかったといえばそうであろう。問題は間を繋ぐ一般僧侶の教養である。かつて日蓮宗諸派の壇林
では能化に至るのには20年ほどかかった。天台の六大部を隅々まで学習するのにはそれくらい必要であった。
今日では僧侶と在家信者の教養には大差がないから、仏教学者、宗学者たちは直接に在家信者を対象にした
著作をよく出すようになった。葬式仏教、新興宗教に満足しない読者は増加しているようである。読書仏教の
隆盛である。わが国の仏教が結果的に当たり前のところに到着したのだといえる。現代仏教学の見識の上に
立った仏学書を手引きにして、次には自ら仏典を読む、それが在家仏教徒の基本である。中国、台湾の仏教
はまったくこういうあり方である。漢文がわれわれよりも楽に読めるからであるが、仏教学が発達した日本では
サンスクリット語、パーリ語からの現代日本語訳経典も溢れており、仏教を学ぶにはわが国が最高の環境です。
980
:
問答迷人
:2008/07/24(木) 12:48:40
仏壇の前の経机に祈る項目を書き出した紙を置いたり張ったりして、一項目について祈りながら100遍ずつお題目を唱えて行く。
こう言う事を教えられた記憶が有ります。選挙になれば、公明党候補の名前を書いた紙を置いたり張ったりして、必勝祈願のお題目を唱えたものでした。
要は、祈りは具体的でなければならない、と言われ、誰かの病気平癒を祈ったり、担当している組織の誰々が会合に出てくるように、と祈ったり、友達の誰々を折伏(入信)出来ますように、と祈ったり・・・
数限りない祈りを書き出して、具体的に祈るように教えられました。その通りにやっていると、一日一時間の唱題なんかは、ちょろい物で、あっという間に過ぎてしまったのを覚えています。
981
:
マターリ
:2008/07/24(木) 20:29:59
>犀角独歩さん、
>日蓮が在家に教えた唱題は、祈りだったんでしょうかね。
祈りとはもっぱら僧侶がなすことだったように思えます。
そうですね。「法華初心成仏抄」を見ますと、日蓮自身がいかに祈祷しても
在家の本人が不信なら、濡れた火口に火打石で火をつけるようなものだ、
と書いてあります。ですから、祈祷するのは日蓮自身であり、在家は祈祷
というより、法華経に対する信仰心そのものを強くして欲しい、と日蓮は
考えていたと思います。
「祈祷抄」に「・・・日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りの叶わ
ぬ事はあるべからず」とあります。在家の私たちも、法華経の行者に含
まれると教えられてきました。しかし厳密に言えば、行者=僧なので、
祈祷抄では、法華経の行者=日蓮だとわかってきました。
つまり、この一節は、日蓮の祈祷にかける、並々ならぬ自信に満ちた
言葉なのだと思います。在家の祈りも叶う、ということではないと考
えます。
これら全て、このごろ勉強したことばかりです。
>富士川一郎さん、
創価学会が「唱題しながら祈る」と言うのを具体的にどのように指導して
いたのでしょうか。
祈りのない題目は意味が無い、と教えられました。一遍一遍に祈りを込め
て、唱題していきます。口では題目を唱えながら、頭脳では願い事を考え
ています。
問答迷人さんと大体同じですが、他に教えられた事を書きます。
1.夢や願望を全て、表に書き出す。
2.書き出した願望に優先順位をつける。
3.いつまでに願望を達成したいのか、期限を明確にする。
4.夢や願望を、座談会など会合で話す。(発表して恥ずかしくない事を)
5.毎日、題目表をつける。
6.重大な願い事を叶えるには、一日1万ベンを唱えていき、何ヶ月かで
総数100万ベンをあげきる。
その一方で、願い事ばかりするのは「乞食信心」で、「感謝の題目をあげな
さい」とも言われています。
982
:
犀角独歩
:2008/07/25(金) 22:39:06
富士川さん
たぶん、推量当たりです(笑)
いまさら、石山方のことをわたしが、このスレッドに書くのも変ですが、要は「余念なく」というのが、在り方だというわけですね。それで
「余念は謂く唱題成仏の外念慮あるべからず、故に当家の行者は若は誦経、若は唱題一向余事余念無して南無妙法蓮華経と唱る処に妙法の即身成仏を立たる者」
などというわけですから、文字どおり、妙法蓮華経への南無の一念は即身成仏以外の念慮があってはならないというのが教えなのでしょう。こうした点を某氏は言ったわけでしょうね。
ところが日寛『六巻鈔』を見ると、実は、そうなっていないわけです。
「南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。
南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々」
下種三宝を念じて、唱題して一生涯を過ごせといいます。創価学会、顕正会はお気の毒ですが、南無が直接かからないまでも「嫡々付法歴代の諸師」も念じる対象に入っています。「除歴対象の歴代は別」という口上は成り立つかどうか、成り立ったとしても、「先生」を念じろ、祈り殺せ、種々の祈念を具体的に念じろなどとなどいうのは、まさに創価学会の考案したところであって、日蓮とも、日寛とも関係のないわけですね。
「現代人が納得する」というテーマに沿えば、即身成仏より、「願いは何でも叶う」といった欲望充足型のほうが受けるということでしょうか。こうした戦後復興の民衆のニーズに巧みに合わせて改変されたのが、創価学会の「題目を上げる」というやつだったということになりますか。
さらに昨今では憎き相手は憎悪し呪うようで、もはや、黒魔術、呪術の域に達し、ここまでくると、現代人のニーズから離れた感があります。
983
:
犀角独歩
:2008/07/25(金) 22:49:21
> 979
顕正会の5分唱題というのは面白いですね。
これが事実ならば、要するに浅井さんは唱題が苦手なんでしょうね(笑)
「像法の智者大師すら尚毎日一万遍なり。何に況や末法の我等をや」
とは、日寛の言です。こうした点を匿して、5分でいいとすれば、浅井さんは、日寛に背いていることになりますね。
984
:
いちりん
:2008/07/26(土) 08:55:13
ちょっと脇に外れて申し訳ないですけど、
天台智ギが、毎日一万遍、南無妙法蓮華経と唱えていた、と日蓮さんは言うわけでしょうが、
、日蓮さんなり、なにかその根拠となるものはあったのでしょうか。
985
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 09:11:20
いちりんさん
日蓮ではなく、日寛です。富要ばかりの話で恐縮ですが、日寛以前では、日教がこれを記しています。
穆作抄「天台は唱へ奉る一切経の惣要毎日一万遍、玄師の伝に云はく一切経の惣要とは謂ゆる妙法蓮華経と文」
類聚翰集私「陳隋の天台智者は読誦し奉る一切経の惣要毎日一万遍と、玄師の伝に云く一切経の惣要とは妙法蓮華経是れなり云云」
六巻抄依義判文抄第三「天台大師行法の日記に云わく、読誦し奉る一切経の総要毎日一万遍と、玄師の伝に云わく、一切経の総要とは所謂妙法蓮華経の五字なりと云云」
観心本尊抄文段上「像法の智者大師すら尚毎日一万遍なり。何に況や末法の我等をや」
法華題目抄文段「天台大師、毎日行法の日記に云く『読誦し奉る一切経の総要、毎日一万遍』と云云。玄師伝に云く『一切経の総要とは所謂妙法蓮華経の五字なり』云云」
986
:
いちりん
:2008/07/26(土) 09:57:17
独歩さん
なるほど。日寛さんが言っていたのですね。
しかし、天台智ギは、妙法蓮華経は一切経の惣要ということは、玄義あたりで述べているのでしょうが、
それを「唱えていた」のかどうかという根拠は、どうも「天台大師行法の日記」あたりと。
そんなものがあったんですね。
でも、ほんとうに、それって智ギが著したものかどうか、はっきりしているのでしょうか。
たとえば、「摩迦止観」や「玄義」「文句」あたりで、智ギが、「わたしゃ、毎日、お題目を唱えているよ」とか、「みなも唱えるといいよ」などということは述べてないですよね、たぶん。
987
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 10:13:40
いちりんさん
そうですね、おっしゃるとおりだと思います。
ただしかし、日寛教学の無謬を信じる人々は、日寛の一文一句も背けないのに、背いているのはどうしてなんだという議論の流れでした。
988
:
マターリ
:2008/07/26(土) 10:44:54
初歩的な質問で申し訳ないのですが、中国でも、南無妙法蓮華経の題目
を唱えていたのでしょうか?
題目は、法華経が日本に伝わって、しばらくしてから唱えられるように
なった、と聞いていました。ですから、題目は日本独自の物だとばかり
思っていたのですが。
989
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 11:14:04
マターリさん
中国で唱えられていたという根拠は『当体義鈔』の以下の文などに拠るのではないでしょうか。
「南岳大師法華懺法云南無妙法蓮華経文 天台大師云南無平等大慧一乗妙法蓮華経文 又云稽首妙法蓮華経云云 又帰命妙法蓮華経云云。伝教大師最後臨終十生願記云南無妙法蓮華経云云」(
天台初期文献で検索すると以下のとおりです。
法華三昧「一心奉請南無妙法蓮華經中一切諸佛」「南無釋迦牟尼佛 南無多寶佛 南無釋迦牟尼分身佛 南無妙法蓮華經…」
禮法華儀「南無佛 南無法 南無僧 南無釋迦牟尼佛 南無妙法蓮華經 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 旋竟三歸依如常」
しかし、これは日蓮が言う唱題とは違うでしょうね。七文字「南無妙法蓮華経」の成句は遡れるといったところでしょうか。
さて、日本ですが、その真偽は置き、『修禪寺決』に以下の文があります。
「臨終之時 唱南無妙法蓮華經 由妙法三力之功成菩提」
「和尚深祕行法傳云 圖繪十界形像 十處安之 毎向一像 各一百反可行禮拜 口可唱南無妙法蓮華經心可念」
まさに先に挙げた日教、日寛の引用の如く、余念なき即身成仏の唱題の文証がここにあります。
わたしは不勉強で『修禪寺決』が日蓮が見聞していたかどうか失念しました。パンナコッタさんをはじめ、皆さんの批正をお願いします。
990
:
マターリ
:2008/07/26(土) 12:01:52
>犀角独歩さん、詳しく教えていただき、ありがとうございます。
天台の文中に「南無妙法蓮華經」が、明確に入っていて驚きました。
日蓮のいう唱題とは違うようですが、題目の起源のようなものは、
中国が発祥だと、初めて理解できました。
991
:
パンナコッタ
:2008/07/26(土) 12:25:35
お呼ばれしたので、おじゃまします。
偽撰といわれる本理大綱集は確実に読んでいたでしょうけど、
修善寺決は偽書の臨終一身三観に引用があるくらいで薄い線ではないでしょうか。
後代のネタ本としては、動かないでしょうけど。
「故智者大師。毎日行法日記云。奉讀誦一切經惣要毎日一萬反。玄
師傳云。一切經惣要者。謂妙法蓮華經五字也」
http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/dengyodaisi/
05/069.txt
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/tyu_syu.htm
992
:
犀角独歩
:2008/07/26(土) 14:38:47
パンナコッタさん
ご批正、有り難うございます。
いちばん、肝心なことを書き忘れました。ご引用のとおりですね。
伝全で、この文を見ると「僞撰書」としっかりと書いてあるのですね。
993
:
パンナコッタ
:2008/07/26(土) 15:39:09
あ、リンクが変になっていましたね。大変失礼しました。
修禪寺決
http://www.chohoji.or.jp/TENDAI2/dengyodaisi/05/069.txt
十八円満抄にも引用されていますが、これも仮託された偽書ですね。
百六箇抄の牛頭決引用も含め、恰も根拠になるような書き方をしていますが
はじめからボロが出ている と、いった所でしょうか。
994
:
犀角独歩
:2008/07/28(月) 14:18:12
問答名人さん
もう少し愚問を続けさせていただきます。
わたしはひとり暮らしをはじめたのは中学3年で一間のアパートに仏壇を置き、所謂「分世帯」で御本尊を貸し下げてもらい安置しました。15歳の時ですから、この本尊を20年間拝み続けました。実家は最初、日寛の小幅のもので、正本堂の時に日達さんの特別御形木に取り替えました。例の創価学会が水増し制作したという騒ぎになったものです。
2年前に母が亡くなるとき、特にほかの本尊があったわけではないので、付き添い時間が過ぎて家に戻るとこの本尊に、母のことを祈念していました。
しかし、過去5年、問答さんをはじめ、皆さんと、彫刻の真偽について論じてきたわけです。母の最期の切羽詰まっていたときでしたが、「奉書写之」の四文字は気になりました。
彫刻は日禅授与本尊を臨模作為した捏造品、それを写した本尊は、捏造の写し。さらに言えば、石山は御筆真筆とされる3舗は『御本尊集』に載りますが、この日禅授与本尊はついに未発表にしたままです。発表すれば、原本が特定される恐れからこれを秘匿するといえば、それまでですが、こうして影本すら公開しないものは、たいがい、偽物です。他にもいくつか所存はありますが、わたしは日禅授与本尊は偽筆であると考えます。この立証は議論とは別なので置くこととします。日禅授与本尊が偽筆であれば、あの彫刻は偽筆を原本にした偽物。つまり、二重に偽物であることになります。偽物を原本にした偽物を、さらにその内容とは違って書いて、写したといって憚らない石山の本尊、それも写真にとって大量生産した印刷物です。(印刷がいけないというのは伝日興の説を支持してのことです)
つまり、我が家に安置されていた本尊を冷静に記述すると以上のようになります。はたして、このようなものを「本尊」と恃めるのかというのが、今回のわたしの質問です。
過去数十年、拝んできたものにケチをつけるようで、恐縮ですが、問答さんは、この点を、どのようにお考えになり、また、もし、現代人に納得させるとしたら、どのようにご説明になるのか、これは、まさに信仰の根幹に関わる問題として、お尋ねしたいのです。お応えいただけますでしょうか。
995
:
問答迷人
:2008/07/28(月) 19:15:26
犀角独歩さん
>日禅授与本尊は偽筆・・・あの彫刻は偽筆を原本にした偽物・・・二重に偽物・・・さらにその内容とは違って書いて、写したといって憚らない石山の本尊・・・大量生産した印刷物・・・このようなものを「本尊」
僕は現在も日顕師制作による印刷曼陀羅を拝しています。元法華講講頭であった僕の親友は、「良くもお前、そんな物を拝んでいるな」と言います。彼の言いたい事は、概ね、犀角独歩さんの説に準じています。
僕も、過去、思い悩みましたが、もう思い悩む事は卒業しました。
果たして、日蓮聖人が、僕が顕師曼陀羅を拝んでいるのを見て、どういうだろうか、と考えました。結論は是認されるだろうという事です。
なぜなら、体裁は日蓮曼陀羅を踏襲して書かれており、しかも、日興師の末流の僧侶の手によるものだからです。
非常に乱暴な議論のようですが、元々、日蓮聖人は曼陀羅書写の法規を示していない事は、六老それぞれに曼陀羅書写を行っていることから逆算すれば明らかだと思います。
印刷がダメだというのも、日蓮聖人の文献が残っていない以上、絶対的な規範とは思えません。
曼陀羅の重要性は、「南無妙法蓮華経」の七文字をしたためて、それを拝む事に尽きていると思います。であれば、顕師曼陀羅も、身延山久遠寺の仏具店で買う事の出来る曼陀羅も、基本的には大差ないと思うわけです。
このような理由から、現在のところ、敢えて曼陀羅を変えるべき理由も見つからないので、そのままにしているわけです。
皆様のご叱正賜りたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。
996
:
犀角独歩
:2008/07/28(月) 19:32:44
問答名人さん
わたしが投げかける疑問は、単に批判をしようとか、攻撃しようとかを目的としたものではありません。この点は、8年間一貫しています。ただ、信仰の根幹に冠する質問になると、途端に反撃に出て人身攻撃になってしまうのが、残念ながら、創価学会を含む大石寺圏の有様です。そのために、常連同士でさえ、率直な質疑応答が成り立たないできました。こうした愚は、発展的な議論の妨げにしかなりません。もちろん、問答さんがそのようなことをなさる型ではないことは十分に承知のうえです。しかし、横やりも多々ありましたので、念のため、おことわりしました。
わたし自身は、漫荼羅は允可証の用途であり、あとは護本尊で、正式な本尊は仏像であるというのが日蓮の教説本尊観という立場です。この点では、問答さんとは違うと思いますが、そのどちらが正しいという議論をしたいわけではありません。
以上のような考えですから、仮本尊としての漫荼羅が印刷であろうが何であろうが、あと信仰者の心根次第でさした問題ではないとは思います。
ただし、創価学会を含む大石寺圏では、「自分たちの本尊以外は駄目だ」と言い切ってきた歴史があります。こう言ってしまえば、では、「そんな偽物を写した、書いた内容も違うもの、何がすごいのだ」という反論となりましょう。これは、まず、創価学会、顕正会、なにより大石寺に向けた批判として置いておくことといたします。
広く日蓮信仰者を含む現代人からすれば、漫荼羅は身延の売店のみならず、町中の仏壇屋でも、仏壇のおまけのような感じで売っているもので、それを一般に「御本尊」として認可されています。その経緯からすれば、それが日県産の者で荒れ何で、同じようなものですから、拝む人が本尊であると思えば本尊でしょう。
今回のお応えからすると、要は書かれた内容が日蓮の漫荼羅を同じであれば、それはそれで是とするという意味と承りました。
では、この前提で、再度、お伺いしますが、そうなると、漫荼羅は、それが身延の売店のものであれ、いつであったか、顕正居士さんがご紹介いただいたダウンロード本尊、つまり、ネットで流通している日蓮漫荼羅画像を自家のプリンターで印刷して本尊とするといったものも、本尊であるとして、何ら痛痒はお感じにならないということでしょうか。これが一つ。
あと、たとえば、日蓮が書いた内容を同じであればよいのならば、わたしども少し習字の心得があれば、下手な横好きで漫荼羅など、いくらでも書くことはできます。こうして自分で書いたものも、本尊とすることも是とお考えになりますか。
繰り返しますが、批判攻撃を目的にしているわけではなく、当スレッドテーマに沿って「現代人が納得する」線を探る手だてとしての質問であることをご留意のうえ、お気軽にお応えください。
997
:
犀角独歩
:2008/07/28(月) 19:36:21
【396の訂正】
誤)問答さんがそのようなことをなさる型
正)問答さんがそのようなことをなさる方
誤)それが日県産の者で荒れ何で
正)それが日顕さんのものであれ何であっても
998
:
問答迷人
:2008/07/28(月) 20:31:17
犀角独歩さん
>漫荼羅は、それが身延の売店のものであれ、ネットで流通している日蓮漫荼羅画像を自家のプリンターで印刷して本尊とするといったものも、本尊であるとして、何ら痛痒は感じない
曼陀羅が本尊なのかどうか、日蓮聖人は余り明確にはされていませんので、この議論は、取りあえず、差し控えさせていただきます。その前提で、それらを曼陀羅として拝する事には、現在の幽霊法華講員の身としては、痛痒は何等感じません。将来において、日蓮宗信徒となった場合には、その所属寺院に従うのが筋だとは思っています。
>あと、たとえば、日蓮が書いた内容を同じであればよいのならば、わたしども少し習字の心得があれば、下手な横好きで漫荼羅など、いくらでも書くことはできます。こうして自分で書いたものも、本尊とすることも是とお考えになりますか。
これは、既に宮沢賢治がその様な試みをしていたようですね。末寺に所属したくない事情があれば、それも又、可であると思います。要は、日蓮聖人の教えに連なる意思があれば、これも又、日蓮聖人は是認なさるであろうと思います。
勿論、何でも有りではないと思います。「日蓮聖人に直結」などと言って、僧侶を排除し、却ってその組織の中心者を日蓮聖人の生まれ変わりの如く敬わせる様は、日蓮聖人に連なっているとは言いがたいので、日蓮聖人が果たして是認されるだろうか、という疑問は残ります。
999
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 08:00:58
問答名人さん
> …日蓮宗信徒となった場合…所属寺院に従う
議論とは直接、関係ありませんが、「日蓮宗信徒になる」という点について富士門流はかなり特殊であると感じます。
一種の囲い込みみたいなことをして、僧俗でも、恰も師弟子のような関係で、石山では特に「指導教師」などといって、その人以外からは指導を受けても駄目みたいな極端なことを言いますね。こうした関係は、所謂「日蓮宗」一般ではほとんど有り得ませんよね。もっとも加持祈祷をしてくれる坊さんを生き神様のように崇拝してその人自体の信者、つまり個人崇拝になるというケースは見受けます。
これらの点は、また、別に議論をしたいと思いますが、信者、信徒というのは、そもそも、何の信者なのかという点は、意外に曖昧だと感じます。
いずれにしても宗派の信徒ではなく、宗派が信奉する神仏の信者であり、その宗派に集う徒ということなのでしょうね。
日蓮宗の坊さんの話を聞くと、御経周りに行くと、仏壇に鶴丸があるところもあり、場合によっては石山の本尊があったなどという話も聞きました。仏壇を買ってきたときについてきた曼陀羅を掛けてあったりで、住職が裏書きをして開眼をするのが正式と言った程度です。
つまり、「所属寺院に従う」などという堅苦しいところは何もないのが、日蓮宗一般という印象を持っています。たぶん、現在の問答さんの寺院観、信徒観は、かなり富士門下的なのだろうと思いました。(批判ではありませんよ。日蓮宗一般信者と比較した感想です)もっとも、今後、所属される寺院が富士門下であれば、仰るようなことにはなるだろうとは思えます。石山研究で名高いある人の寺院は、富士門下で言う「身延派」ですが、万年救護の複製を奉懸しています。宗定とされる所謂「臨滅度時」の複製は、わたしの近辺では池上本門寺近くの日蓮宗新聞社書店で販売しており、これはなかなか立派なものです。坊さん経由ならば買えるということでした。
先だって久方にお会いした静岡・海長寺の菅野師は、檀家さん全員に手書きの曼陀羅を与えたと話されていました。身延の売店で曼陀羅を売ったり、印刷物には原則反対の立場を採っておられる方です。保田あたりは、万年救護の複製を「ちゃんとした信者には出す」なんていっていると聞きました。ちゃんとした信心をしているのであれば、手書きの本尊を与えるのが在り方だと思うわけで、わたしは首を傾げざるを得ません。だいたい、複製ならば、自分でも作れます。それを坊さん寺院が作ったものでなければ駄目だというのは、どんな根拠なのか、不思議に思います。もちろんこれは保田に限らず、石山でも、学会でも同様です。
こちらの常連のある方は、ネットからダウンロード、プリントアウトして、それを石山からも請け負っている表具屋さんに出して、軸にしてもらって本尊にしていました。
以上、揚げ足取りと誤解しないでください。門下全般をみると、曼陀羅そのものは古美術的な扱い、しかし、信者であれば、仏壇に懸ければ本尊、坊さんにすれば開眼をすれば本尊たりえるといった程度の感覚で、厳格さを感じないというだけの話です。
やや整理になりますが、石山や、時には富士門下では、寺院から信者として出されたものを本尊とする、顕正会もそうですね。創価学会では、旧来、石山の信徒団体であったときに受け取った本尊も本尊と認めたうえで、自分たちで複製頒布する日寛の印刷を本尊とし、日蓮宗などのものは、たとえば、それが日蓮真筆の複製でも本尊とはしない、この点は、石山、顕正会も同様ということになります。学会を含む石山圏、富士門下の有様はかなり特殊ということになりますか。
この本尊については、各人の信仰という側面から具ですから、「現代人が納得する」という議論には馴染まないのでしょう。
たぶん、議論の余地があれば、その本尊についての説明部分で学問が指示する現代の常識と食い違う点について、では、どうすれば納得が得られるのかという点に焦点があるように思えます。
たとえば「仏滅後二千二百三十余年」といった記載は、現在、考えられる仏滅年代と500年のズレがありますが、こうした点で、少し仏教学の知識を持ち合わせた人であれば、「遅れている」「間違っている」などと感じるかも知れません。そう感じた人に「各人の信仰は勝手なんだから、そんな議論はただちに打ち切るべきだ」などといえば、排他的と思われるだけで、納得を得ることはないことになりますね。
追って、教学と学問の齟齬については、議論の俎上に乗せたいと考えていますが、いま、これまでとします。
1000
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 08:01:36
―999からつづく―
>> 自分で書いたもの…本尊…是
>宮沢賢治…日蓮聖人の教えに連なる意思…日蓮聖人は是認
なるほど。
このあとにも、「日蓮聖人の是認」ということをお書きになっていますね。
つまり、問答さんは、この点が本尊裁定の基準になっているとお見受けします。
これも、議論と言うより、以下2問につき、お考えをお聞かせ願うかぎりでお訊きします。
(1)日蓮は、自らが書した本尊を複製することを是認したか
(2)日蓮は、弟子が書写した本尊を複製し大量生産することを是認したか
> 「日蓮聖人に直結」などと言って、僧侶を排除
わたしの感覚からすれば、坊さんの話は宗派の都合が多く、どうも信用できない面が多々あります。ですから、直接、資料に当たると、坊さんから聞いてイメージした日蓮とその教説とは天地雲泥の相違があります。そうなると、もはや、坊さんを通じて信仰するより、日蓮に直接向かい合うほうが、より純粋な信仰と感じます。世間一般でも、日蓮の遺文などを読んで日蓮の贔屓になる人々が、いきおい、寺院や遺跡を探訪しようとなっても、誰か坊さんについて学ぶことが正しいとはなりません。「それでは、信仰にならない」といえば、それまでですが、嘘と都合ばかりで固まった日蓮解釈より、直接、日蓮の真蹟遺文や本尊、なにより日蓮その人と向かい合うことは否定されることでしょうか。
富士門下において、この手の根拠は『佐渡国法華講衆等御返事』に求められるのでしょうが、ここでいわれるのは、「勝手に日蓮の直弟子を名乗ることの規制」と思えます。
「大聖人直結」は石山の学会批判の一つでした。学会がいう直結はしかし、学会、池田氏を通じての直結ですから、実は直結ではないのですね。
日蓮宗寺院などに行くと、日蓮御影像があり、まあ、顔が似ているかどうかはわかりませんが直接、日蓮に向き合っているような気分になります。こうした舞台装置は、ある面、寺院そのものが日蓮と直接向かい合う場を用意してくれているようなものと感じます。
日蓮宗に「日蓮聖人直結」を言下に否定する面はないように思えます。
長い前置きになりましたが、これまた、揚げ足取りではなく、率直な疑問として、ご意見をお聞かせ願いたいのですが、「日蓮聖人に直結」は、なぜ、いけないのでしょうか。また、日蓮が日蓮を直接信奉有することを禁じた文証にはどのようなものがあるでしょうか。
> 組織の中心者を日蓮聖人の生まれ変わりの如く敬わせる様…日蓮聖人に連なっているとは言いがたい…日蓮聖人が果たして是認されるだろうか…疑問は残ります。
こうした「今日蓮」といった有様は、日教などの文献に見られる当住中心主義で鮮明になったものですね。いつの時代の文献かわかりませんが、本尊相伝「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」を在家の「会長先生」に当てはめた、換骨奪胎といえば、そうなのでしょうが、坊さんなら善いが、在家なら駄目というのは坊さんの都合に過ぎない気もします。日蓮の是認ということになると、さて、どうでしょうか。
思いつくままに書いたところ、自分の管見の披瀝のようになってしまいました。お詫びします。文が冗長でわかりづらいかもしれませんが、以上、お応えいただければ有り難く存じます。
1001
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 09:53:05
犀角独歩さん
(1)日蓮は、自らが書した本尊を複製することを是認したか
(2)日蓮は、弟子が書写した本尊を複製し大量生産することを是認したか
当時、印刷技術は未発達であり、経典書写に倣って、曼陀羅書写を考えておられたと思います。
曼陀羅と言っても、日蓮聖人本人がしたためた本物でなければ、価値がない、と考えられた節は伺えませんから、現代の複製技術、印刷技術を知られたら、是認されるであろうと考えます。
又、弟子が書写した曼陀羅を印刷授与することについても、是認されるであろうと考えます。なぜなら、曼陀羅の記載内容に価値があるのであって、それ以外では無いと思うからです。
勿論、曼陀羅を授与を以って允可の意義を含める、というのは判らないでは有りませんが、曼陀羅を受持することにこそ、本当の允可の意義は存するものと思います。
>直接、日蓮の真蹟遺文や本尊、なにより日蓮その人と向かい合うことは否定されることでしょうか。
むしろ、そうあるべきだと思います。僧侶は信徒が日蓮聖人と直接向かい合う手助けをするのが本来の任務であると思うからです。
ただ、六老の選定は、僧侶を中心にして、日蓮の教えを信仰し、ひろめて行くべきだ、とのお考えが伺えると思いますので、強ちに僧侶を否定するのは日蓮聖人の本意ではないと思います。
>日蓮が日蓮を直接信奉有することを禁じた文証にはどのようなものがあるでしょうか。
六老の選定が間接的に該当すると思います。御遷化記録がその文証という事になるかと思います。
1002
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 09:57:00
舌足らずなので付け加えます。
御遷化記録は所謂、「大聖人直結」という僧侶を排除する論理を否定した文証という意味です。
1003
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 10:29:12
問答名人さん
重ね重ねのご回答有り難うございます。
同じ宗派に属し、そして、その嘘を暴いてきたという点で、問答さんとは共通するところが多いと思いますが、そのなかでも取り分け、相違していると思われる点を選びながら質問をさせていただいております。
漫荼羅の複製に関しては、日蓮は是認しないだろうと、わたしは考えています。
日蓮が所持していた法華経は版本であり、また、日興から程近い時代に「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由」という記述から、鎌倉時代には版木技術は既にあったと思われます。そうしたなかで、あえて日蓮がこの複製を採用しなかった歴史認識が、わたしにあるからです。
また、允可という点で申し上げれば、授与書がもっとも重要な点になるわけで、この点を複製は省かれますので、允可とは言い難いように思えます。
もっとも、日蓮には允可の意味をもって書き渡していたように思えますが、六老以下、そうした意識が継承されたようにも思えません。
以上は、わ僧侶を否定するのはたしの考えです。たぶん、こうした考えの相違から、問答さんは印刷可、わたしは不可という見解の相違が生じていることがわかりました。この点は、現時点で日蓮の真意を斟酌できかねますので、見解の相違の確認に留めたいと存じます。
> 僧侶を否定する
やや、わたしの投稿が悪文であるため、誤解を生じたかも知れませんが、わたしは僧侶を否定するというのではなく、僧侶が日蓮の本意を伝えないのであれば、日蓮に直接遡源するほか手だてがないという苦肉の選択を述べました。
この件は以上とします。
> 曼陀羅を受持…本当の允可の意義は存する
允可であるというわたしの見解に同意してくださったと理解してよろしいでしょうか。違っていれば訂正いただければと存じます。
曼陀羅受持が允可であったとして、ご質問いたします。
(1) 売店、仏壇屋、また、ダウンロードといった方法で得た本尊は自主購入ですから、これを允可とは呼べません。こうした印刷物は本尊としては不可ということになりますか。
(2) 允可された僧、もしくは組織が嘘偽りをもって信者を誑かすものである場合、この允可は、どのような意義を有するとお考えですか。
前後しますが、以下の点についてもお伺いいたします。
> 曼陀羅の記載内容に価値がある
ここで仰る記載内容とは具体的に何を指すのでしょうか。中央首題ですか、十界諸尊を含めてですか、日蓮在御判、授与書、讃文、釈文(若悩乱者など)はどうでしょうか。
一遍首題に二仏の本尊、また、四天王を配さない本尊、また、諸尊勧請は区々ですが、こうした記載内容の相違は価値の相違を意味するとお考えでしょうか。
以上、お願い申し上げます。
1004
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 10:31:30
ひどい打ち間違えがありました。訂正し、お詫びいたします。
誤)以上は、わ僧侶を否定するのはたしの考えです。たぶん、こうした考えの相違から、問答さんは印刷可、わたしは不可という見解の相違が生じていることがわかりました。この点は、現時点で日蓮の真意を斟酌できかねますので、見解の相違の確認に留めたいと存じます。
正)以上は、わたしの考えです。たぶん、こうした考えの相違から、問答さんは印刷可、わたしは不可という見解の相違が生じていることがわかりました。この点は、現時点で日蓮の真意を斟酌できかねますので、見解の相違の確認に留めたいと存じます。
1005
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 11:43:18
犀角独歩さん
(1) 売店、仏壇屋、また、ダウンロードといった方法で得た本尊は自主購入ですから、これを允可とは呼べません。こうした印刷物は本尊としては不可ということになりますか。
日蓮聖人は妙法蓮華経の五字を法華経の会座において、確かに釈尊から譲り受けたと述べています。言ってみれば、これも自主購入だと思います。であるならば、日蓮聖人から譲り受ける、という信仰心を以って、その人がその曼陀羅を拝む事には、何ら問題が無く、広義で、允可に相当すると思います。
(2) 允可された僧、もしくは組織が嘘偽りをもって信者を誑かすものである場合、この允可は、どのような意義を有するとお考えですか。
残念ながら、これ場合は、允可が無効になる可能性が高いのではないかと思います。日蓮聖人と信徒との間に僧、或いは教団が入って教えを捻じ曲げた場合は、形としては允可とは言えても、内実は失われている可能性が有りますから。
> 曼陀羅の記載内容・・・具体的に何を指すのでしょうか。
中央首題を指します。
>一遍首題に二仏の本尊、また、四天王を配さない本尊、また、諸尊勧請は区々ですが、こうした記載内容の相違は価値の相違を意味するとお考えでしょうか。
価値の相違は無いと考えています。中央主題に全てが含まれていると考えています。それらは、無くて良し、有って良し、だろうと思います。
1006
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 16:18:26
問答名人さん
> 日蓮聖人は妙法蓮華経の五字を法華経の会座において、確かに釈尊から譲り受けたと述べています。言ってみれば、これも自主購入
そうですか。師が弟子に託したのではないでしょうか。わたしの管見はともかくとして、、いまはそのようなお考えと承ります。
> 日蓮聖人から譲り受ける、という信仰心を以って、その人がその曼陀羅を拝む事には、何ら問題が無く、広義で、允可に相当する
允可とは上位が下位に「許すこと」だと思いますが、こちらも、こうしたお考えと承っておきます。
では、その前提でお尋ねします。
「自主」性はよいというお考えですね。ならば、どうして、直弟子を「自主」的に語ることは駄目なのでしょうか。日蓮が「自主購入」であれば、自主的に「弟子」を自認するのもこれまた可としないと論理に一貫性がないように思えますが、この点は如何でしょうか。
>> 允可された僧…組織が嘘偽りをもって信者を誑かす…允可
> 残念ながら、これ場合は、允可が無効になる可能性が高い
> 内実は失われている可能性が有りますから。
わたしもこのお考えに賛同します。
となると、具体的に当て嵌めた場合、日顕さんは、どうでしょうか。こうした僧に当て嵌まりませんか。当て嵌まったとする場合、その本尊はどうなるでしょうか。
> 価値の相違は無い
この点は、わたしの管見とは異なりますが、お考えを承って、いまはこれまでといたします。
上記、やや突っ込んだ質問になり、恐縮ですが、お考えをお聞かせください。
1007
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 18:56:36
犀角独歩さん
>自主的に「弟子」を自認するのもこれまた可としないと論理に一貫性がないように思えますが、
ところが、実際のところ、日蓮聖人は妙法蓮華経を釈尊から受けるのは、直弟子として、直接受けていますね。しかし、その一方で、六老を選定したのも事実です。確かに論理の一貫を欠くようです。この点については、深く考えていませんでした。
>日顕さんは、どうでしょうか
当然、捻じ曲げているとしか言えませんね。ですから、日顕さんの允可は有名無実でしようね。
日顕さんを師として信仰すれば、それは、日蓮聖人に従うことにはならないと思います。
日顕さん制作の曼陀羅は、そういう意味において、不備だと思いますが、その点を無視して、日蓮聖人から譲り受けるねという信仰心を以って拝すれば、その問題は一応クリアーできると考えています。
1008
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 18:58:44
訂正です
× 日蓮聖人から譲り受けるねという信仰心を以って拝すれば、
○ 日蓮聖人から譲り受ける、という信仰心を以って拝すれば、
1009
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 19:20:14
問答名人さん
いま議論になっている点は、一般の「現代人」の皆さんにとっては、さして重要な話ではないですが、所謂「本門戒壇の大御本尊」は後世の捏造とわかった、日顕さんはそれを知っていたと理解した、しかし、その人が書写した印刷本尊を拝んできたという歴史を背負っている信仰者である「現代人」にとっては、けっこう看過できない問題です。ですから、もう少しお付き合いください。
998に問答さんは、「『日蓮聖人に直結』などと言って、僧侶を排除」するのは、駄目であると書かれました。この趣旨は、その後に続く「却ってその組織の中心者を日蓮聖人の生まれ変わりの如く敬わせる様」に係るわけですが、ともかく、創価学会がいうような「大聖人直結」といった信仰は駄目であるというお考えと承りました。
これに対して、わたしは1003に「僧侶が日蓮の本意を伝えないのであれば、日蓮に直接遡源するほか手だてがないという苦肉の選択」と記しました。
この点ですが、問答さんが1008に「日顕さん制作の曼陀羅…不備、…日蓮聖人から譲り受ける、信仰心を以って拝すれば、その問題は一応クリアーできる」と仰る意と、あまり差がないように感じるのですが、この点は如何でしょうか。
ただ、問答さんの場合、この日顕さんの本尊に替わる、本尊の供給元が現段階では確保されていないとお察しできるのです。これは例えばの話ですが、そうした替え納得がいく本尊を入手できることになったとしたら、日顕さんの本尊は、お役御免となりますか。どうなのでしょうか。
1010
:
問答迷人
:2008/07/29(火) 19:46:48
犀角独歩さん
>そうした替え納得がいく本尊を入手できることになったとしたら、日顕さんの本尊は、お役御免となりますか。どうなのでしょうか。
勿論です。身延派の寺院が地元にも有りますので、そこに所属するのが一番よいのではなかろうか、と考えています。実行はそんなに遠くないと思っています。その場合、当然のことながら、日顕師制作曼陀羅はお役御免となります。
>あまり差がないように感じるのですが、この点は如何でしょうか。
はい。差はほとんど無いと思います。
1011
:
犀角独歩
:2008/07/29(火) 21:16:50
問答名人さん
取り敢えず、今件は、これまでとします。
お付き合い有り難うございました。
引き続き、一般現代人?に係る点もお付き合いいただければと存じます。
もし、日蓮宗で御曼陀羅をいただくことがあれば、ぜひとも手書きのものをご所望ください。なかなか味わいのあるものですよ。
わたしは宮沢賢治を見習うでもいなく、自分で思うところを書いてみたいと思ってみたり。坊さん方は、一生涯の間に護本尊を造るのだそうです。これは木彫りの仏像であるそうですが、わたしの場合、これが手書きの漫荼羅でも良いと考えてみたりしています。まあ、実行するかどうかわかりませんが、こうなすと、魑魅魍魎から、何に昇進させてくれるのでしょうか(笑)
1012
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 09:50:14
問答名人さん
引き続き、よろしくお願いいたします。
さて、議論をはじめようとすると妨害に遭って、なかなか、始められなかった内容に進みたいと思います。
まず、はじめに『法華経』について。
最近の仏教学等の解説書に拠れば、『法華経』は、およそ紀元前100年ごろから後150年頃まで制作されたということでした。つまり、こうした考えが現在の常識となっていることを意味します。
富士門下に限らず、『法華経』が釈尊最期8年の最高の教えであり、仏陀の金言であることは近年まで不動の仏教常識であったわけです。ところが、経典の文字化は釈尊滅から、およそ100年以後のことであり、さらにそこから数百年を経て制作編纂されたとなると、それまでの教学は覆ることになります。日蓮自身、『法華経』を釈尊の金言であるとし、已今当に最為第一の教えであるとします。
「しかし、『法華経』には釈尊の金言も含まれているはずだ」といった希望的な観測は、いまはさておくことにします。
問答さんは、こうした学的成果を常識とする「現代人」に、どのように「日蓮教学」を納得させることができるとお考えですか。
1013
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 10:53:59
犀角独歩さん
>それまでの教学は覆ることになります。
そうですね。説明不能に陥りますね。だからこそ、明治以降も、『法華経』を釈尊の金言であるとし、已今当に最為第一の教えとする教義を踏襲してきたのだと思います。
日蓮聖人が、今日の学問の成果を知ったなら、どのようにされたか、非常に興味の湧くところです。
一体、どこに釈尊の真意が説かれているのか、と追求して行った結果、法華経に辿り着いたのだ、と日蓮聖人は繰り返し説いています。その同じ姿勢で、今日の学問成果を踏まえて、釈尊の真意を追求した時に、果たして、同じように法華経に辿り着くのか、或いは、別の結論に至るのか。
もし、同じく、法華経に釈尊の真意が説かれている、という結論に達したとしても、説き方は、学問成果を踏まえて、しかも、日蓮聖人の独自の見解を披瀝する形で、現在の日蓮宗の教義とは組み立てが全く異なった物となっていると思います。
僕の感触としては、日蓮聖人の悟りがまず有って、それを説くための手段として、当時の仏教の常識を利用されたのではなかろうか、と考えています。
例の、虚空蔵菩薩から明星の如き大宝珠を授かった、という日蓮聖人の体験談が全ての始まりであり、日蓮聖人の教えの骨髄ではなかろうかと考えています。
後ほど、続きを書きます。
1014
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 12:16:37
続きです。
このように僕が考えるのは、開目抄下に、妙楽の弘決を次のように引用しているからです。
『弘の七に云はく「文字法師とは、内に観解無くして唯法相を構ふ。事相の禅師とは、境智を閑はず鼻膈に心を止む。乃至根本有漏定等なり。』
これは、要は、文字の法師も暗禅の法師も共に不可。そして、教義も大事、悟りも大事、という意味であり、この主旨から考えると、日蓮聖人が法華経を選び取ったのも、教相と自身の悟りの両方からの総合判断で有ったろうと僕は考えるからです。
1015
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 12:31:24
ご質問の回答からは、かなりずれているかも知れませんが、『日蓮聖人には独自の悟りが有り、それを法華経等の諸経典を利用して具体化したのが、日蓮聖人の教えである。』と言う意味合いで捉えれば、日本における独自の仏教展開として受け入れることが出来るのではないかと思います。
それが、「釈尊の真意を伝えるもの」として、納得に繋がるのか、或いは、「釈尊の教えとは似て非なるもの」との判断され、結果的に排除されるのか、これが、これからの課題なのだと思っています。
1016
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 13:06:15
問答名人さん
先にわたしは「おヘソ教」のmixi日記を転載させていただいたのですが、しかし、考えてみれば、たとえば、『聖書』の天地創造なんかも似たようなものだと思えます。天地から人間までが1週間ででき、さらにイブはアダムの肋骨から創られたとか、また、中世ヨーロッパの教会が天動説を指示、魔女狩りを行ったといった歴史…一部、反キリスト教からの批判があるかどうか精査していません…は、おヘソ教と大差はないと思えます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/951
そんな非科学的な『聖書』の一面が、批判の俎上に載ることもないわけです。
俎上に載らない第一の理由は、仮に『聖書』のこうした非科学的な側面を批判したところで、悪口雑言をしたり、人格批判に転じるような攻撃をしないという「大人の対応」を心得ているからかもしれません。
そういった意味で創価学会を含む大石寺圏は、現役・脱会を問わず、いまだに中世ヨーロッパの魔女狩りレベルといったところなのでしょうか。しかし、近代社会が、およそ非科学的としかいいようのない天地創造説を前提にするキリスト教を依然と指示し続ける前例は仏教が生き残る可能性を示しているのかも知れません。ただ、愚かな反論をすれば、さらに反論に遭い、自滅を余儀なくされるでしょうが。
> 日蓮聖人が法華経を選び取ったのも、教相と自身の悟り
また、前置きが長くなってしまいましたが、この問答さんのご見解は、仏陀中心ではなく、日蓮中心の考えと判断してよろしいでしょうか。また、であれば、仏教というより、日蓮教であるという印象を受けるのです。
仏教といっても、どこまで仏教というかは議論の分かれるところですから、こうしたお考えは言下に比定されるものではないと思えます。
重ねてお尋ねしますが、ここで仰る日蓮の悟りとは、具体的にはどのようなものでしょうか。
1017
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 13:58:53
犀角独歩さん
>仏教というより、日蓮教であるという印象を受けるのです。
日蓮聖人も、何しろ、歴史上の釈尊ではなく、久遠釈尊から、付属を受けたというのですから、これは日蓮教としか言い様が有りませんね。
その教えの根幹は妙法蓮華経という五文字に釈尊の因行・果徳が悉く具わると言うのですから、これは法華経にも他の経典にも何処にも書かれていない、日蓮聖人独自の見解であると思います。
如何なる悟りを根拠に、その様に断言されるのか、大変興味の湧く所です。何しろ、文字至上主義は余りにも極端ですから。
>ここで仰る日蓮の悟りとは、具体的にはどのようなものでしょうか。
恐らくは、その悟りの世界を具体的に図示したのが、日蓮聖人の妙法曼陀羅なのだと思います。
1018
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 15:26:26
問答名人さん
こうした日蓮の解釈は、法華経が釈尊の金言、最期8箇年の真説であるという前提で、700年間指示されてきました。
しかし、この前提が崩れたとすると、当スレッドのテーマである「現代人が納得する」ことがあるでしょうか。
1019
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 15:54:53
犀角独歩さん
妙法蓮華経の五字の出どころは、言うまでも無く、羅什訳の法華経の経題ですね。日蓮聖人は、この経題を構成している五文字が全てだというわけです。別の言い方をすれば、この五文字が仏の教えの全てを尽くしていると。
戸田さんが「日蓮大聖人がその教えの究極を弟子・檀那に語るとすると『南無妙法蓮華経。お仕舞い。』」という意味のことを語っていたのを思い出しますが、そういう結論になると思います。
これを果たして、現代人が納得するのかと言えば、納得はほとんど絶望的だと思いますね。
恐らく、仏教考古学の研究が進めば進むほど、日蓮聖人のこの教えは、釈尊の教えからは懸け離れたもの、と看做されるのではないでしょうか。
それにもかかわらず、又、前に書いたことの蒸し返しになりますが、日蓮聖人が見た世界を追体験したい、という僕の強い心の欲求は、一体これは何なのでしょう。やはり、僕にとって、日蓮聖人という人は、それ程魅力的な存在なのだとしか言い様が有りませんね。
1020
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 17:04:02
問答名人さん
たびたびのご回答、有り難うございます。
わたしは先に、法華経は後世の創作、天台のでたらめ、日蓮の間違いといったいわば、現代、形成されつつある仏教へ向けられる「常識」からの批判を、殊に極端に沸騰させ、表現してみました。
こうした批判を排他すれば、逆に排他されておしまいになるでしょう。
ところが、法華経が後世の創作であったとしても、天台がでたらめであったとしても、日蓮も間違っていたとしても、それでも、依然として残る、人々を惹き付けて止まない何かがある。問答さんの元をお借りすれば「魅力的な存在」としての日蓮を、より言語化することができれば、わたしは日蓮は、それまで着飾ってきた五色の錦(法華経、天台、就中、仏法の無謬性)が襤褸(ぼろ)に替わってしまっても、日蓮は必ず21世紀に残っていくのだろうと思います。
そうした意味で、わたしの不躾な質問に対して、けして怒らず、逃げず、批判と正面から向かい合ったうえで、それでも、日蓮に魅力があると言い切った問答さんの言葉に「待っていました」という気分になりました。
御礼申し上げます。
1021
:
問答迷人
:2008/07/31(木) 17:42:22
犀角独歩さん
>「魅力的な存在」としての日蓮を、より言語化することができれば、
そうなんですね、是非とも、日蓮聖人の実像に迫りたいものだと思います。
>「待っていました」という気分になりました。
独歩さんの、巧みな誘導の結果ですね(笑)。
1022
:
犀角独歩
:2008/07/31(木) 17:47:31
問答名人さん
> 巧みな誘導の結果
いや、このお言葉はそのままお返しします。
わたしが、敢えてHNを替える無礼まで犯して、問答名人さんとお呼びする所以です。有り難うございます。
1024
:
蓮華
:2008/08/02(土) 12:57:24
はじめまして
私はさほど知識があるわけではありませんが、ブッダが悟りの境地に達したのは、インドの菩提樹が初めてでなく久遠(遥かかなた気の遠くなる遠いの昔)に悟った。その様な事が、記載されているのが寿量品との事。
寿量品に速成就佛身、つまり即身成仏できると解いてます。
ブッダの教えが何人かに漢訳され、どの訳が一番優れているか、それを感じる個々により違います。
日蓮聖人と釈尊の説いた、妙法蓮華経は同一です。
不自惜身命と寿量品に記載されている如く、日蓮聖人のご生涯は不惜身命を貫き通し、布教されたと思います。
「法華経方便品・寿量品講義」に触れてみてはいかがでしょうか。
1025
:
マターリ
:2008/08/02(土) 13:11:04
>蓮華さん、初めまして。日蓮聖人と書かれていますので、日蓮宗の方
かな、とも思いますが、決まりですので、いちおう自己紹介スレッドへ
の書き込みをしていただければ、と思います。
1026
:
パンナコッタ
:2008/09/12(金) 20:53:46
竜口法難の日ですね。(暦の違いはありますけど)
以前、12日or13日かとか、光物の議論があったのですが、久しぶりに遺文を通して整理してみたいと思います。
種種御振舞御書の内容が一般通説のようになっていますけど、腑に落ちない点が多々あることですし
多少スレタイと趣を異にしますが、改めて確認出来ることがあるかもしれませんので、そこはご了承をねがいます。
まずは文永八年九月十二日付近の記述を、真蹟遺文でみてみます。 ()内はおおよその時間。
土木殿御返事 文永8年 9/15 依智
・此の十二日酉の時(18:00)御勘気。武蔵守殿御あづかりにて、十三日丑の時(2:00)にかまくらをいでて、佐土の国へながされ候が
法華経の御ゆへに過去に頸をうしなひたらば、かかる少身のみ(身)にて候べきか
五人土籠御書 文永8年 10/3
・今月七日さどの国へまかるなり【実際は十日】
寺泊御書 文永8年 10/22
・今月〈十月なり〉十日相州愛京郡依智の郷を起ちて、武蔵の国久目河の宿に付き、
十二日を経て、越後の国寺泊の津に付きぬ
富木殿御返事 文永9年 4/10
・日蓮臨終一分も疑ひ無し。刎頭の時は殊に喜悦有るべく候
諸宗違目事 文永9年 5/5
・去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか
撰時抄 建治元年
・二には、去にし文永八年九月十二日申の時(16:00)に平左衛門尉に向かひて云く、日蓮は日本国の棟梁なり。
・第二の文永八年九月十二日の御勘気の時は、
聖人御難事 弘安二年
・同じき文永八年〈辛未〉九月十二日佐渡の国へ配流、又頭の座に望む
1027
:
パンナコッタ
:2008/09/12(金) 20:54:40
続いて真蹟未断簡・曾存。
法蓮抄 建治元年
・去ぬる文永八年九月十二日の御勘気の時、重ねて申して云く、予は日本国の棟梁なり
一谷入道百姓女房御返事 建治2年 5/8
・又文永八年〈太歳辛未〉九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽ちに頸を刎ねらるべきにてありけるが、
子細ありけるかの故にしばらくのびて、
報恩抄 建治2年 7/21
・去ぬる文永八年九月の十二日には頚を切らんとす
・去ぬる文永八年九月十二日に平左衛門並びに数百人に向かいて云く、日蓮は日本国のはしらなり
・去ぬる文永八年〈辛未〉九月十二日の夜は相模国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ。
・又十三日の夜はゆりたりととどめきしが、又いかにやありけん、さどの国までゆく。今日切る、あす切る、といゐしほどに四箇年というに
下山御消息 建治3年 6月
・去ぬる文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。
開目抄 文永九年 2月
・日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、
続いて写本分。
四条金吾殿御返事 文永9年 5/5
・去ぬる九月十二日御勘気をかふりて、其の夜のうちに頸をはねらるべきにて候ひしが、いかなる事にやよりけん、彼の夜は延びて此の国に来たりていま(今)まで候に
頼基陳状 建治3年 7月
・三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉の一人にて有りしかば
三沢抄 建治4年 2/23
・而るに去ぬる文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頚をはねられんとせし時よりのち、ふびんなり
次に未決文・及び確定偽書。
佐渡御勘気抄 文永9年 3/20
・九月十二日に御勘気を蒙りて今年十月十日佐渡の国へまかり候なり
佐渡御書 文永9年 3/20
・去年九月十二日御勘気を蒙りし時
顕立正意抄 文永11年 12/15
・去ぬる文永八年九月十二日御勘気を蒙りし時吐く所の強言
妙法比丘尼御返事 弘安元年 9/6
・又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる
・第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて鎌倉竜口と申す処に、九月十二日の丑の時に頸の座に引きすへられて候ひき。
・いかがして候ひけん、月の如くにをはせし物江の島より飛び出でて使ひの頭へかかり候ひしかば、使ひおそれてきらず。とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頸はのがれぬ
四条金吾殿御返事 弘安元年
・去ぬる文永八年九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気をかほりし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出でて、さがみのえちに御ともありしが
中興入道御消息 弘安2 11/30
・去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて、北国佐渡の島にうつされて候ひしなり
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波木井殿御書 弘安5年 10/7
・同じき十月に訴状を書きて重ねて法光寺殿の見参に入れ奉りしに、
・文永八年〈辛未〉九月十二日には頚の座に登り、相模の竜口へ遣はさる
・既に頚切られんとせしが、その夜は延び候ひて相模の依智へわたされ、本間の六郎左衛門が預かりおきぬ。明十三日の夜ふけ方に不思議現ず。大星下りて庭の梅の枝に懸かりき
法華本門宗要抄 弘安5年
・日本国人王八十九代恒仁の御宇、法光寺殿の御代、文永八年〈辛未〉九月十二日、相州竜口に於て既に頭を刎ねられんとす
・法光寺殿の御所中に大星下り給ひて、石坪光を放ち之れを睨み、巍(いかめ)しき地震を以て四方を鳴動して之れを告ぐ
・合掌して之れを観念せしむる時、江の島より大いなる光物日蓮が頸の座の上に出現し、鷹隼の飛ぶが如くして後山の大木に移るかと之れを見れば、忽ちに雲霧を出だして即ち昏闇となり
・天明くる十三日の夜、方々に不思議の大彗星出現し、或は庭上の梅の枝に下りて夙夜に光を放ち、見る人目を驚かし聞く人之れを恐る
1028
:
パンナコッタ
:2008/09/12(金) 20:55:13
そして種種御振舞の記述部分。
・去ぬる文永八年〈太歳辛未〉九月十二日御勘気をかほる
・さては十二日の夜、武蔵守殿のあづかり(預)にて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに
江のしま(島)のかたより月のごとくひかりたる物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。
・十二日の夜のあけぐれ(昧爽)、人の面もみえざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて、人々の面もみなみゆ
・午の時計りにえち(依智)と申すところへゆきつきたりしかば、本間の六郎左衛門がいへに入りぬ
・其の日の戌の時計りにかまくら(鎌倉)より上の御使ひとて、たてぶみ(立文)をもって来ぬ。頸切れというかさねたる御使ひかともののふどもはをもひてありし程に
其の夜は十三日、兵士ども数十人坊の辺り並びに大庭になみゐて候ひき。九月十三日の夜なれば月大いにはれてありしに、夜中に大庭に立ち出でて月に向かひ奉りて、
自我偈少々よみ奉り 〜 いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや、天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかりてありしかば
・夜明くれば十四日、卯の時に十郎入道と申すもの来たりて云く、昨日の夜の戌の時計りにかうどの(守殿)に大なるさわぎあり
長くなって大変恐縮ですが、蓮祖の記述で時系列的にみてみれば
12日夕方捕縛→大仏宣時邸で預かり→明けた13日深夜佐渡へ出発→途中、竜口で頚を切ると脅迫される→そして依智へ連行される
この辺が、記述から読みとれるほぼ実像に近い姿でしょう。
すると種種の「十二日の夜のあけぐれ」は、やはり変ですね。13日のあけぐれでなければならない。
また過去に、種種と佐渡御勘気抄の分離していた所でもあり、混入も十分あり得るかと思います。
此処が原因かどうかは解りませんが、この場合の12日が(通しの)譬喩表現だったとしても一日ずれて後世の人々が
解釈・認識、偽書の作成が行われたようですね。
仮に光物があったとしたら、それは日付が変わった13日の深夜から夜明け前でしょう。日が完全に登ってからでは依智まで30〜40kmありますので
午の時(12:00)ぐらいに到着するのは護送されていることを考えれば、ちと無理でしょうね。
又、この日の日没後に星降りがあったことになります。つまり同日の出来事となります。
しかしながら学会等では、光物が発迹顕本とムリに位置づけして本仏論を唱えている割には星降りをスルーするのはどうなんでしょうかねぇ。
頚を切る という脅迫の事実は、佐渡に行く間も行った後も続けられていましたし、
伝説は伝説、後代の変な意味合いを無理強いする姿勢は改めた方がよいでしょうね。
1029
:
犀角独歩
:2008/09/13(土) 09:44:31
パンナコッタさん
興味深く拝読しました。
> この場合の12日が(通しの)譬喩表現だったとしても一日ずれて後世の人々が解釈・認識、偽書の作成が行われた
なるほどと思いました。
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