したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

現代人が納得できる日蓮教学

384犀角独歩:2005/11/02(水) 13:56:24

パンナコッタさん
湛寂の潭に溺死さん

そうなんですね。ですから、パンナコッタさんが仰るような視点ですね。
ここのテーマとは離れるので、この手の言い合いはやめたいのですが、ひとつの整理として記しておきましょう。

たとえば、仏教はヒンドゥー教かというとき、仏教側からすれば、「違う」という答えになるでしょうし、しかし、ヒンドゥー教徒からすれば「いや、ブッダはビシュヌの化身だからヒンドゥー教だ」と言うかもしれません。

この場合、ヒンドゥー教はバラモン教の発展したものですから、ヒンドゥー教はバラモン教であるという言い方は成り立つでしょうが、仏教は、バラモン教という思想世界で出来上がったものでせよ、独自発展していったものは、もはや、バラモン教ではないわけです。つまり、仏教は、バラモン教でも、ヒンドゥー教でもありません。仏教です。

日蓮は釈迦である、釈迦であるからビシュヌである、ビシュヌであるからヒンドゥー教だという説明は、ヒンドゥー教徒であれば、もしかしたら、言うかもしれませんが、日蓮本仏論という信念体系下の人で、自分の信仰がヒンドゥー教だと思っている人はいないわけです。

また、ヒンドゥー教徒に「あなたはヒンドゥー教か」と聞けば、「?」ということになるでしょう。彼らにとって、自分たちの信仰が「○○教」という認識はないからです。

同じように路傍のお地蔵さんを拝んでいるおばあちゃんに、「あなたの哲学は地蔵信仰ですか」、「哲学? なんのこと?」という答えが返ってくるでしょう。仏教を仏教として行じている人に、「哲学だ」と言っても、意味はなしません。

何度も記しましたが「哲学」とは西周がギリシャのフィロソフィーや達意訳した日本語であって、明治以前にこの言葉はなかったわけです。概念もなかったといってよいでしょう。比して日蓮は、鎌倉時代の人ですから、時代的にも、発生的にも、その教えを哲学ということはできないというのが、わたしの説明の骨子です。

しかしながら、明治時代に輸入された外来思想が「哲学」という新造語で定着したのち、この語彙は各種の分野で使用されるようになりました。いわゆる俗訛現象です。結果、人生哲学であるとか、スポーツ哲学であるとか、ひいては泥棒哲学、殺人哲学などという言葉も現出するにいたります。インド哲学、仏教哲学ということも、造語されたわけです。つまり、西周が意図したところからかなり広い範囲で俗訛したということです。

しかし、俗訛し、仏教の説明語の一つとなった哲学は、しかし、日蓮も意図していなかったし、釈迦も意図していなかった、ならば、ここは、厳格な証拠主義に基づいて論じ合う場所であるから、そのようなあいまいな言葉で説明すべきではないというのが、わたしの主張の趣旨です。

まあ、創価学会を中心に自分の信仰が哲学だと思っている人は、哲学だと思っている仏教なのでしょうが、以上の経緯から見るとき、日蓮の教えは仏教なのであって、哲学でないし、釈迦とソクラテスが、同時代の人であっても、はるか隔たった東西の極での話、これを一つのものとして論じるのはあまりにも乱暴なことでしょう。個人的、そう決定して論じたいのであれば、なぜ、仏教が哲学といえるのか、その定義をしっかりとした共通理解にたったうえでなければ、議論は成り立たないわけです。ですから、ケチだけつけるのではなくて、定義をしたらどうかと促したわけです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板